はじめまして わたし「えぬ」のブログにようこそいらっしゃいました。どうぞよろしくお願いします。 

2004年11月16日(火) 19時31分
宗教についての私の一人言です。
宗教関係の本を読んだ感想とか、回想、日記的なものです。あくまでも私の個人的な考えなので、お気を悪くしないでね。
それにしても、ヤプログって ラブリー。私、場違い!?

プロフィール(ブログの動機) 

2004年11月17日(水) 16時42分
私は「エホバの証人」2世として育つ。中学のころ、伝道者となる。そして、そのままバプテスマを受けることなく月日が流れ、20代前半、集会・伝道にでなくなり不活発になる。その後、就職し、非信者と結婚。でも、エホバの証人として輸血拒否をお願いして出産(出血量は少なく、問題なし)。

つまり「不活発」ではあったが、「心はエホバの証人」であった・・・のかな??

さて、身近でJW2世で自殺未遂した人の話しとか耳にして、「何かできることはないだろうか」と思った。(って、それより自分のことはどうなのよって感じだが・・・)

・・・・で。「もしかして自分と同じ考えの人がいるかも」となにげに検索エンジンに「エホバの証人」と打ち込んでみた。・・・驚いたよ。
ヒットした件数が多かったから。
内容ではなくって、純粋に、「量」に驚いた。

一般の家で何の疑問も持たずに親が拝んでいた仏壇を同じように拝んでいる・・・のと同じように、ただ、自分の宗教に満足していた。自分で多角的に調べて選んだのではなかった。それが小さなトゲのように、かすかな「うしろめたい」気持ちが自分の中に住んでいた。HPの存在を知った「今」がそれを確認する時期だと感じた。それで、1つ1つ見た。「背教者のHPです」と警告のあるページもあった。でも、良心の呵責(かしゃく)なんてのは なかった。単なる好奇心でもなかった。大きな動揺や感情の動きがあったわけでもなかった。今がその時期だろうという、ただ それだけ。
・・・・・・・当初の予定と大幅に違ってしまったのだがね・・・・・

用語集1 

2004年11月17日(水) 17時01分
神権宣教学校(しんけんせんきょうがっこう)
  JWは週に3日の集会をおこなう。通常、平日の夜に1時間のものと2時間のもの。そして日曜日の2時間。そのうち平日の夜の2時間のものは「神権宣教学校」「奉仕会」の2部構成。ともに、伝道(布教)活動の訓練や準備が主。「神権宣教学校」に入校すると、伝道の実演が数ヶ月に一度割り当てられる。事前に与えられた課題に応じて、伝道の筋書きを各人がつくる。

記念式(きねんしき)
イエス・キリストの死を記念しておこなう儀式。パン(発酵させず、ふくらし粉も何も入れないので、見た目はクラッカーのような、煎餅のようなカチカチ)とぶどう酒をまわす

不活発(ふかっぱつ)
伝道や集会にいかなくなった JW。

背教者(はいきょうしゃ)
JWの教えにそむいたがゆえに排斥(破門)された人。このうち、JWを公に批判するようになった人を特にさす。

・・・・こんなとこかな。とりあえず

子供が神を捨てるとき 

2004年11月19日(金) 13時25分
私の母親に「集会を休め」と言われたことはあっても、「集会に行け」と言われた記憶がない。(体弱かったので、出席すると、次の日体調を崩して学校を休むことがあったため。)
でも、集会を休んだ、とか、いわゆる「模範的なJW」として振る舞わない我が子にショックを受ける親がいるのが、不思議だった。
大事なのは、そういう表面的なことより、精神的なものだと思うし。(校則と同じで、髪を黒くしてりゃあ問題なしってのでもないだろう。ましてや天然パーマの子もいたりして)
子は別の人格だから親と同じ種類の信仰を持つというのでもないだろうしね
それに、信仰のあるものとしては、どんな時も神を崇拝し続けるのが理想かもしれないが、私個人の考え方では、もしも、例えばそれで精神を病むほどのショックを受けるなら、神を捨ててしまったほうがマシのような気がするのだが・・・。うーん・・・・私は信仰がないものなのか??しかし、宗教って、精神の救いのためにあるような気がするんだけどねえ・・・・。っつーか、親のような愛の神だよ、聖書の神は。私なら、自分の子が苦しむくらいなら、親のこと捨ててもらってもかまわない。それは許せる範囲の行動だろう。親は子のためにあるのであって、子は親のためにあるのではないのだから。よそ様の子を連続殺害するようだとちょっと考えるけど、親を捨てて本人が幸せな自立ができるのなら、親として本望ってとこじゃないかと思うのだけど。だから、神を信じられなくなったとしても、それだけの理由で神が断罪するとは思えないんだよなあ。
まあ、親としてあえて嘆くなら、崇拝させることができなかった、という意味でなくて、子供に苦痛を感じさせるような育て方をしたかどうかについて、子供と神に謝る・・・というのが筋のような気がする。子をいらだたせる育て方かどうか。

排斥(破門)について 

2004年11月19日(金) 13時42分
私は 排斥(破門)=滅び とか、そういう発想は もともとしていない。人間のすることだから、その処置には間違いがあるはずだからだ。一般社会における死刑の是非に関する意見が別れるのと同様に、排斥の是非やその基準については、色んな考え方があるだろう(特に外部の視点でみると)。しかし、自分は大きな罪を犯したと感じていないのに裁かれたショックはあって当然だ。そこで誰が見てなくても神が見ているのだから、自分に恥じることはなし、として孤独に耐えながら、日常生活において個人として神に祈り崇拝しつづけるというのが正論かもしれない。一方、こんなヒドイ仕打ちをうけるなんてこの宗教は間違っている、いや、神も仏もあるものか、と思ったとしても、しかたない気もする。ヨブ(聖書中の人物)も、過度の批判に対して100%の正論だけで行動できなかったのだ。でもヨブは普通の人としてでなく、忠実な人として取り上げられているので、ここまでの忠節を示すのが最低基準ってわけでもないだろう。
その後にどんな行動を取ろうとも(どんなギョッとするようなことだったとしても)、その行動の何%までが傷ついたがゆえのものか、その人がもともと信仰が少なかったがゆえのものか、なんてのは、神だけが知っていることで、人間(本人ですら)にわかるようなものではないだろうし、勝手に判断すべきでもないと思う。それは間違った排斥に限らず。

キーワード 

2004年11月19日(金) 13時57分
「エホバの証人(JW)」に関するwebサーフィンをしていたら、「大量排斥」とフレーズがしばしば出てきた。JWで「排斥(破門)」そのものは、まあ、そう頻繁にはないけれど、そう極端に驚くようなことではない。喫煙や結婚関係外の性行為(浮気や不倫だけでなく婚前交渉)なども排斥の理由になりうるからだ(反省し、悔い改めたと見なされたら別)。しかし、大量排斥というと、何だろう。WEB上では「北海道での大量排斥のように・・・」という文章がいくつか見られた。文脈上、何を意味しているのか?
「金沢文庫」という名前で、公開されている内容を読んだ(金沢というのは、金沢さんという人が書いた文章だから。地名の金沢ではない)。2人の信者による中傷をきっかけに排斥された兄弟(信者男性)と、その弁護をした姉妹達(信者女性)が一斉に排斥されたとのこと。どっちの言い分も理解できる範囲。(まあ、北海道の事件では、一方の主張しか公表されてないから、想像するしかないのだが)。複数の証言があり、それを先に聞いてしまえば、そちらを真に受けてしまうことや性急に結論を出してしまうことはありうる。
で。その事件そのものよりも、その中のワンフレーズ「組織バアル」という表現が、キーワードあった。「なるほどー、そういう見方もあるのかー」という感じ。さらに、WEB上で、あるキリスト教の牧師がものみの塔聖書冊子協会(JW組織 と略す)を「大いなるバビロンだ」と表現したのも同じく。(JW組織は、JW組織のみを真の宗教とし、それ以外を「大いなるバビロン」と表現し、真の宗教ではないとしている)
問題のない集団というのはいないだろうが、個としてでなくそれが組織として問題があるかもという視点では見たことがなかったので、これはキチンと調べないと、と思った。だって聖書のいう信仰とは、ただやみくもに言われたことを信じる、というのでなく、「明確な論証」なんだから。これは、一度きちんと調べてみないとなあ、と思ったのだった。

カテゴリ名 の 説明 

2004年11月25日(木) 17時38分
あゆみ:エホバの証人(JW)現役時代に考えてたことなど。不活発になってからも、「心はエホバの証人」だったため、「現役時代」としています。
経過:「エホバの証人」で検索し、そのwebを見たあとの考えの流れ
読書感想文:宗教関係の本を読んだ感想など。最初のうちはJW関係がつづくかも

「カルトの子」を読んで1 

2004年11月25日(木) 17時49分
これ、実は現役時代から興味があった本。新聞に紹介されていて、いつか読もうと思って、その切り抜きを置いてあった。そのまま忘れてたんだけど、部屋を片付けてたら出てきたので、図書館に行って借りて読んだ。だって 信者の「2世」に焦点をあわせてるって、めずらしいよ。常々、信仰とはごく個人的な内奥のものなので、家族といえども同質ではないはずである、と思ってたから、そういう意味でも興味があった。内容は、JW・ヤマギシ・オウム真理教・統一協会について。「カルト=変な宗教」って意味??とか思ってたんだったけど、ヤマギシは、宗教ではないんだよね。でも、一番悲惨というか、過激というか。子供本人からのSOSの手紙が問題の表面化のキッカケだし。統一協会については、かなりアッサリしてる。オウムについては、サリン事件の後、子供が保護されたときの話しなので、間接的な感じ。JWについてはね・・・・マインドコントロールと鞭(ムチ)の話しなんだよねえ・・・。つまり、ムチなどの体罰を含む方法で、子供を脅し、信仰を強要した・・・という話しなのだ。これさあ、ネットサーフィンした後でなかったら、読んでも「なんじゃこりゃ?へんなの」って思っただろう。私はムチに限らず、親にたたかれた記憶もないんだもの。
親が信者になったのが私が10歳のころだし、そのころには、私も基本的なしつけは済んでいたし、私自身、もともとの特質がわりと素直でイイコ(自分でいうか?)というか、育てやすい子供だったらしいし、時代的な背景もあっただろうし。ただ、古くからの信者が、昔「文字どおりのムチを躾として使う時代もあったのよ」としゃべってたことをかすかに思い出したので、事実無根ではないのだろう。どのくらいの期間、どの程度の地域の幅で、どの程度のムチが許容(もしくは奨励)されてきたのか、そのニュアンスはわからない。ただ、それがごく一部で行われてきたことだったか、広く行われてきたことだったかは、大きな問題ではない、と思う。実際にそれを経験し、宗教の名において正当化された体罰(もしくは虐待)だと、感じた人が「いた」ということ。それこそが問題であり、それをどうとらえたらいいのだろう・・・と考えた。

「カルトの子」を読んで2 

2004年11月25日(木) 17時53分
「だから、エホバの証人は邪教だ」と言ってしまうのは簡単だが、問題はそういう簡単なものではないだろう。なぜなら、この本の中では、その後、エホバの証人を信じていたのが間違いだった、と「反省」し、違う教会に無理矢理娘を連れていこうとする母について書かれてあったから。結局、その娘の意思を無視されているという悲しさは解消されないままなのだ。すなわち、どんな宗教であっても、親の信じ方によっては(子供にとっての)カルト的になりうるのだ。
そして、私自身の育ち方としては、信仰の強制ではなく、私を個別の人間として、私自身の意思を尊重しようということに気を付けて育ててくれたと感じている。人は、近所・職場・宗教・親戚など色々なコミュニティー・人間関係を持つが、そのそれぞれの「世間体」から親は確かに「砦(とりで)」となってくれていたのだなあ、と感謝の気持ちを持つに至った。
そして、子供を育てるということの重みを感じながら育てなければならない、と思った。例えどんな宗教や教育学者が「これがよい」という育て方を指南しようが、それらのせいにすることなく、最終的に自分で判断して育てなければならないだろう。そして、子供が苦痛を訴えれば、いつでも謝ってやり直すべきだ。だれかの指針を鵜呑みにしたとしても、それらにその責任のすべてをかぶせ、自分の責任を回避することなどできないのだ。アダムがエバのせいにしても彼自身の罪から免(まぬが)れ得なかったように。・・・・それだけの重みが「子育て」にはあると思う。(もちろん、子育てに各種支援が不要と言う意味ではないし、そうした各種支援が少なすぎる社会的な問題は当然あるが)

精神疾患とキリスト教宗派 

2004年11月28日(日) 12時43分
大学時代、うつ病かノイローゼか忘れたけど カトリックとプロテスタントではプロテスタントのほうが疾患が多い、それは、信者の人間関係の濃さがゆえだろうというのが教授の論文であったが そういうんじゃない気がするんだけどなあ。わからんけど

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