アイト・ベンバッド村で巨大アンモナイトの化石を買う(遠藤泰男)

December 26 [Mon], 2011, 10:31
街道をさらにワルザザート方面に進むと、アシッフ.メラー川沿いに世界遺産のアイト.ベンバッドのクサルが姿を現筆ロッコで屈指の美しさを誇る伝統的なクサルだ。

遠くから見ると土の要塞といった風情だ。

現在でも、トゥアレグ族のベルベル人の八家族が住んでいるという。

クサルは、同じ部族に属する数家族が住む要塞化された村である。

一般的に、下の階には穀物の倉庫や家畜のための小屋があり、上階が住まいとなっている。

日干し煉瓦や粘土質の泥土に、ナツメヤシの葉の繊維や藁などを混ぜて造る土造の住居だ。

かつてここは、サハラ砂漠からマラケシュへ向かう隊商が、数日停泊する宿場町として賑わっていたというが、今はその面影はなく、のどかな田園風景が広がっている。

ここは、『アラビアのロレンス』や『ナイルの秘宝』などの映画のロケ地としても知られ、訪れる人もそれなりにいるのだろう。

観光客相手の陶器や化石を売る土産物屋が数軒あった。

その中の土産物屋の軒先で、大きなアンモナイトの化石を見つけた。

直径三〇センチはあるだろうか。

貝の筋がくっきりと見事に残っているのが気に入った。

まだ、サハラ砂漠まで行っていないのだ。

あきらめると自分にいい聞かせたが、値段を聞くとそう高くもない。

モロッコの買い物に値切りの交渉は基本である。

店の人との押し問答が繰り返され、いい値の半値で交渉成立。

有頂天になって、その化石をリュックに入れようと持ち上げたとき、その重さに愕然とした。

遠藤泰男(フリーライター)

スペイン市民戦争(遠藤泰男)

December 20 [Tue], 2011, 15:31
スペイン市民戦争後のフランコ時代の約四十年間、開催が禁止されていた祭りで、一九七五年、フランコの死後、社会労働党による民主主義政権が樹立されてから、再開された。

ラウハール・デ・アンダラクスからアルメリアアルプハーラ街道は、地中海沿岸の港町アルメリアへと東進する。

途中のラウハール・デ・アンダラクスは、ナスル朝グラナダ王国最後の王、ボアブディルがグラナダ陥落後スペインを後にするまで、居を構えた村だ。

グラナダからはるか遠い地だ。

ここまで来ると、地中海の港町アルメリアの方がずっと近い。

村は、今ではオレンジ畑とぶどう畑に囲まれた農村地帯で、ワインの里としても知られている。

この村からアルメリアまで約六十六キロ。

年間日照時問三千一〇〇時間という温暖な気候に恵まれたアルメリアは、内陸部には砂漠地帯を持ち、アンダルシアでもとりわけ、特異な自然の景観を生み出してきた。

「海の鏡」というアラビア語に由来するアルメリアは、ナスル朝グラナダ王国時代の絹織物の重要な輸出港の一つとして繁栄したが、レコンキスタ後、亡命や追放されたモリスコたちが、アフリカ大陸へ向かうために使う連絡船が停泊する港となった。

現在は、アフリカ大陸にあるスペイン領メリリャ行きのフェリーが運行している。

遠藤泰男(フリーライター)

サフラの家畜市(遠藤泰男)

December 02 [Fri], 2011, 14:26
アンダルシア地方とエストレマドゥーラ地方の境に近いサフラは、エストレマドゥーラ地方の町なのに、アンダルシアの村のように白い街並みが続いていた。

小セビーリャと呼ばれるのもそのためだろう。

古代ローマの都市として栄えたが、8世紀初頭からイスラム支配を受け、1241年のフェルナンド3世によってキリスト教徒の手に戻った。

町のシンボルは、現在パラドールとなっている15世紀のフェリア公爵の要塞城だ。

フェリア公爵は、サフラの領主で1380年からサフラで始まった家畜市で富を築いた。

家畜市の規模が大きくなるにつれて、サフラの町も発展していった。

サフラの名は銀の道周辺の都市で知られるようになり、家畜をよい条件で取引したいときは、サフラへ行くのが家畜を扱う商人の常識となっていく。 14世紀末以降は、6月24日のサン・ファンの祝日とともに、さらに大きな家畜市が開かれ繁栄していった。サフラはアラビア語で6月の市を意味している。現在は10月初旬に国際家畜市が開かれ、羊、豚、牛、馬など、ありとあらゆる家畜がスペイン全土から集合し、競売やセリが行われる。

今も昔も家畜市を目指して、銀の道を往来する。

遠藤泰男(フリーライター)

ヒスパリス(遠藤泰男)

November 27 [Sun], 2011, 13:40
古代ローマ属州時代、ヒスパリスと呼ばれていた頃のセビーリャの港も、古代ローマ帝国へ往来する商船で賑わっていた。

スペイン北部で採掘された金、銀などの鉱物やオリーブ、ワイン、小麦などの農産物は、主要軍用道路として造られた銀の道を横断して南のこのセビーリャの港まで運ばれてきたのだ。

カエサルとヒスパリス「ヘラクレスが私を建設し、カエサルが私を城壁と高い塔で囲み、そして聖王が私を手に入れた」。

セビーリャのヘレス門の白い大理石に刻まれていたというこの句は、セビーリャの歴史を端的に表現している。

伝説でヘラクレスによって創設されたというヒスパリスはカエサルによって都市として整備された。

最後にセビーリャを手に入れた「聖王」とはイスラム支配下のセビーリャを、キリスト教徒の手に奪還したフェルナンド3世を指している。ヒスパリスを都市として際立たせていったのは、遠ヒスパニア総督だったカエサルだった。 紀元前45年、現在セビーリャの東にあるオスナ村近くのムンダの戦いで勝利したカエサルは、ヒスパリスの集落を再建し、称号を与えた。

ヒスパリスはその後、アウグストゥス時代の紀元前27年に属州ベティカの州都になり繁栄を謳歌していったのだ。

遠藤泰男(フリーライター)

恋人たちの岩山(遠藤泰男)

November 24 [Thu], 2011, 11:40
街道はアンテケーラから東進し、アルチドーナを経て、ロバへと続いている。

アルチドーナへ向かう途中に「恋人たちの岩山」が荒涼とした風景の中にそびえ立っている。

愛し合うキリスト教信者の貴族とイスラム娘が逃避行の後、追手に追いつめられ、この岩山の高見まで上りつめ、抱き合い身を投げたという伝説がある。

アンテケーラから約43キロ東のロバは、カトリック両王がナスル朝グラナダ王国征服時に「扉と鍵」と称したほどの、イスラムの頑強な砦だった。

1486年についにキリスト教軍の手に落ち、最後の牙城アルハンブラ宮殿を目指してイスラム軍の敗北の長い行進が続いたという。 ロバから約43キロ北東のモンテフリオも、ナスル朝グラナダ王国の首都グラナダを守る頑強なイスラム軍の要塞として、最後までキリスト教軍に抵抗した村だ。

オリーブ畑の山深い隠れ里のような村で、約800メートルの断崖のような丘に、小さな白い家がへばり付いて見える。

遠藤泰男(ライター)

宮殿内部(遠藤泰男)

November 23 [Wed], 2011, 10:38
宮殿内部見学は水曜日のみだ。

宮殿の管理人兼ガイドが待機している。

というのも、現在この宮殿は個人の所有になっているのだ。

宮殿は正方形のフォルムの四方に円柱塔を配した堂々とした重厚感がある要塞城だ。

中央に吹き抜けになった中庭、武器の広場を配し、その四方をコリント式の列柱をアーチで結ぶ回廊が、調和の取れた軽快なリズムを刻んでいる。

宮殿内は、全体的に赤茶けて煤けた色に変色していた。

近郊にあるアルキフェの鉄鉱山の砂鉄が、長い歳月の問、風に運ばれて色をつけたのだ。2階部分にある侯爵の間の扉部分の装飾は、透かし彫りや彫像で装飾されている。 扉の左の側柱部分にはヘラクレス、右にはアポロの裸像が埋め込まれていた。随所にギリシア神話の神がみたちを散りばめた装飾は、ルネサンス様式の特徴をよく表している。

扉上部の透かし彫りの装飾部分には、大蛇ヒュドラと戦うヘラクレスの12の功業が描かれている。

入口の扉部分のヘラクレス像は、厄除けの役割を果たしているそうだ。

遠藤泰男(フリーライター)

太古の記憶と洞窟村(遠藤泰男)

November 21 [Mon], 2011, 10:19
グアディクスバスはグラナダ郊外のアルファカールの沃野を走り、ウエトール山脈国立公園の高地を横切っていく。

ディエスマという小さな村を通り過ぎると、なだらかな平原の風景から、濃い赤茶色に染まった断層が唐突に目の前に現れた。

さらにグアディクスへ近づくにつれて、歪曲した地層の襲が迫ってくる。

グアディクスからバサにかけての山系や盆地は、アルプス山脈が形成される際(約3700万年〜2400万年前)の地質の摺曲により形成され、さらに、第3紀の終り頃(約170万年前)の地殻変動や、氷河の浸食により準平原化されていき、その際、グアディクスやバサの盆地では、高地から川によって流されてきた細かい粘土粒が地表を覆っていった。

このあたりを貫くべディカ山系は、低地と山脈が交錯しながら、アンダルシアの東西を背骨のように横切っている。 洞窟住居この粘土層を自ら掘り、洞窟を造って終の住処とした人々がいた。モリスコたちだ。カトリック両王は、グラナダ奪還後、当初はイスラム教徒の権利を保護することを約束したが、やがて彼らを排除する強行策を取った。

1502年、旧ナスル朝グラナダ王国領土内のムスリムはキリスト教への強制的な改宗に応じるか、ムスリムとしてモロッコなどの他のイスラム圏に亡命するか、二者択一を迫られた。

改宗を選択したムスリムは、結局はモリスコと呼ばれて迫害の対象となっていった。

迫害を恐れたモリスコたちは、監視の目を逃れるため、山深い村に身を隠して暮らすようになった。

遠藤泰男(フリーライター)

ピカソ美術館(遠藤泰男)

November 20 [Sun], 2011, 0:45
ピカソ没後30年の節目となる2003年、ピカソがマラガで産声をあげた10月25日の生誕の日にピカソ美術館が、マラガの旧市街にある16世紀のベリャビスタ伯爵邸に開館する。

ピカソの生地であるマラガにとって、悲願のピカソ美術館だったに違いない。

かつて県立美術館だった建物で、中央には正方形のパティオが広がり、切石の重厚な造りに周囲をアーチが囲む、由緒ある建造物だ。

ピカソの最初の妻であるオルガとの間に生まれた息子パウロの未亡人クリスティーヌ・ルイス・ピカソとその息子のベルナルド・ルイス・ピカソ(ピカソの孫にあたる)が寄贈した幼少時から晩年までの貴重な186点の作品を展示する予定だ。

『マンティーリャをはおったオルガ』や妹ローラを描いた『少女と人形』、『座っているジャックリーン』など代表的な作品も含まれたピカソ生誕地にふさわしいピカソ美術館の誕生となる。

バルセロナにもピカソ美術館がある。

詩人ハイメ・サバルテスが3千点にも及ぶピカソの作品を寄贈して、フランコ時代の1963年開館した。

サバルテスが亡くなり、ピカソがサバルテスの名前で『ラス・メニーナス』の連作を寄贈したことでも知られる美術館だ。

ピカソの古くからの友人で写真家のブラッサイが著した『語るピカソ』(飯島耕一・大岡信訳みすず書房)によると、サバルテスは、当初マラガにピカソ美術館を建設することを計画しており、所蔵のピカソの作品を寄贈するつもりでいた。 しかし美術館をバルセロナに造ったらどうかというピカソの気まぐれな提案で、ピカソ美術館がバルセロナに開館されることになった経緯が紹介されている。

ブラッサイの記述とは矛盾するが、生地のマラガにピカソ美術館を建設することは、ピカソの生前の願いでもあったという。

遠藤泰男(ライター)

エステポナから白い村(遠藤泰男)

November 12 [Sat], 2011, 18:12
カサレスヘカサレスは、モリスコ(レコンキスタ後、キリスト教に偽装改宗したイスラム教徒)たちが隠れるようにひっそりと住んでいた村だ。

エステポナから約20キロと近いが、今も一日数本のバスが往復するだけの小さな村だ。

エステポナから、海岸沿いをしばらく走ったバスは、白い村の集落と近代的なリゾートマンションの合間を抜け、山深い内陸部へ進んでいく。

ピンサポと呼ばれる大ぶりの松のような木の色が次第に濃くなっていく。カサレスは、ベルメハ山麓に連なるクレステニーリャ山麓の谷間に、ひっそりと停んでいた。 白い家並みが山の斜面を覆うようにひしめき合って立ち並んでいる。時を封印したかのような幽境の地だ。だからこそモリスコたちは隠れ里として選んだのだろう。古くはイベリア人が住んでいたが、やがてフェニキア人が定着し、その後古代ローマ帝国の支配を受けた。

ヒスパニア(現在のアンダルシア地方とスペイン南西部とポルトガル)総督だったカエサルが、スペイン南部遠征の際、立ち寄った村と伝えられている。

近郊にある硫黄の鉱泉で一休みしたところ、カエサルの持病であった皮膚病が治ったことで有名になり、カエサルを意味するスペイン語が転じてカサレスという村の名になったといういい伝えがある。

アラビア語の城塞を意味するから転じて名付けられたという説もある。

遠藤泰男(ライター)

闘牛場(遠藤泰男)

October 18 [Tue], 2011, 10:30
スペインの歴史ある闘牛場の一つ、ロンダの闘牛場ヌエボ橋を渡って新市街のメルカディーリョ地区へ入ると、大きな白い外壁の闘牛場が目に付く。

地元の人々は、ロンダの闘牛場を「闘牛の聖地」といって賞賛する。

近代闘牛を行う闘牛場では古い闘牛場の一つで、数々の著名な闘牛士を輩出してきた。

完成が1784年。

内部は176本(126本という文献もあり)のトスカーナ様式の柱で構成されている。

観客席最前列の円形リング防壁が石造りである闘牛場は、スペインではこの闘牛場だけだろう。

直径66メートル。

収容人数は約5千人。

白く塗られた闘牛場の外壁に沿って、土産物店が二軒、床屋が一軒店を出している。

床屋は闘牛場に張り出したような形だ。

ロンダの闘牛場には闘牛博物館が併設され、近代闘牛の足跡をたどることができる。

名を馳せた闘牛士たちの闘牛服がずらりと並んでおり、作家ヘミングウェイも賞賛した名闘牛士アントニオ・オルドニェスのゴヤ風の古典的な闘牛衣裳も展示されている。 館内には闘牛によって命を落とした闘牛士の遺品もある。ロンダ闘牛場で唯一命を落とした闘牛士ギジェンが、闘牛の前に祈っていた十字架や、やはり闘牛で命を落としたコルドバ出身の名闘牛士マノレーテの像や写真も飾ってある。闘牛に殉じた彼らを称える意味もあるのだろう。闘牛士は、今でもスペインの花形の職業であるが、命を落す闘牛士も後を絶たない。

1992年、バンデリリェロだったマノロ・モントリウは鈷を突き刺した瞬間、正面から牛の角がささり、亡くなった。

遠藤泰男(ライター)
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