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『未来をさがそう』レビュー / 2005年11月22日(火)
東倉洋一責任編集『未来をさがそう』(ダイヤモンド社)に関するレビュー。
(同じ文章をamazonの書評と、mixiのレビューにも投稿してあります)

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帯には「変化する情報化社会の『今と未来』を考える“新しい窓” みんなで語り、みんなで学ぶ情報教育のテキスト」と書かれている。小学校高学年の子どもに、情報化社会のい「いま」を伝え、未来について考えるきっかけ作りとなることを目的として書かれた本。
これからの世界でなくなるといいな、と思うもの(迷子、犯罪、病気など)、なくならないでほしいもの(友だち、死の実感、季節感など)、どっちがいいのか考えてみてほしいもの(学校、病院、お年寄りの世話など)、今後どうなるのか考えてみてほしいもの(お金、会議、自家用車、会社など)の4つのテーマで、現在のテクノロジーについて紹介し、今後の展望を語っている。
テーマによって、2005年の現状を伝える社会史のテキストのようでもあり、文明論的になっている部分もあり、色々考えさせられる。
この本が書いている「今」と「未来」について、自分なりに咀嚼し、自分なりの見解をもって、子どもと一緒に読みたい、そんな本である。
1テーマが見開き2ページで読みやすく、緑を基調とした装丁もきれいで(再生紙、植物性インク等環境に配慮した素材を使い、環境教育にもなるように考えられている)、少しずつ、それぞれのテーマについて考察しながら読み進めたい本。
おそらく、ほんの数年のうちに技術革新が進み、現状と見合わなくなる部分が出ているテーマもあるとは思うが、それでもなお、これからの時代について考察するヒントになると思う。
電話、テレビ、コンピュータ、電池の歴史について書かれたコラムも、わかりやすくまとめられている。

 
Posted at 23:28 / BOOKS / この記事のURL
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村上春樹『東京奇譚集』(新潮社) / 2005年09月26日(月)
mixiのレビューに書いたものをそのまま転載。<ちょっとネタバレあります>

こんなに本に引き込まれたのはいつ以来だろう、と思う位集中して読む。ここ数年の村上作品の中では、わたし的にはベスト。
5つの短編が収められている。4編は「新潮」に掲載され、最後の「品川猿」だけ書き下ろし。みんな最初の作品「偶然の旅人」みたいに、作家である僕が人の話を聞いてまとめた、という形式をとるのかと思ったら(『回転木馬のデッドヒート』みたいに)、一つ一つ、語り口も、人称の取り方も違った。しかし、どの作品もすごくいい。村上春樹の短編集は、最近のより昔のが好きで、ずっとマイベスト短編集は『中国行きのスロウ・ボート』だったのだが、今回はそれに匹敵する魅力があった。
親子の相克とか、生きることの辛さとかは、こちらが年を取ってきたせいか、昔より身に迫るものがあり、村上春樹の小説の登場人物として、小ぎれいでおしゃれで、現実感がなくて、という感じでなくなってきたのに、非現実的な世界にトリップしている感じがたまらない。そして、登場人物たちがみんな、何かを「引き受ける」選択をしているところが、5つの短編の共通のテーマか。奇譚、というぱっと見グロテスクな表象の世界にとらわれず、何かを受容し、そのことで自分自身が救われる部分が、かくもわたしの心に響いたのか。
3編目「どこであれそれが見つかりそうな場所で」では、主人公は依頼主の探していたものを見つけられずに終わるが、これは、何か、もっと長い物語への布石なんだろうか? ちょっと期待。
逆に、探し物に明快な回答が与えられた「品川猿」は、これで完結してしまったようなさびしさが。
「偶然の旅人」には超常現象は一応ないが、後ろの話ほどミステリアスに(あ、「日々移動する腎臓のかたちをした石」は違うか...)。謎解きをしたいような、でもしたくないようなしてはならないような物語たち。もう一度、噛み締めて読みたい。


 
Posted at 11:55 / BOOKS / この記事のURL
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物事は多面的に見なくては(その後) / 2005年07月13日(水)
講談社文芸文庫は、名作の安定した供給を目指しているため(容易に絶版にしない方針)値段が高く、330ページそこそこの文庫本が税別1300円もしたのだが(涙)、あまり迷わず買い。有名なところでは宮沢賢治「グスコーブドリの伝記」、太宰治「走れメロス」など。作家でも川端康成、坪田譲治、室生犀星など、有名どころが色々。
その巻頭に、Google君で1件もヒットしない(2005.7.13現在)「ある日の鬼ヶ島」が来るとは。「赤い鳥」昭和2年10,11月号所収。

久々に目を通してみて、細部はやっぱり忘れているな、と思った。この日、鬼ヶ島ではお祭りと運動会をやっていて、海岸で桃太郎一行を出迎えたのは、老人と赤ん坊の鬼ばかりで、大人の鬼が戻ってきたときにはもう桃太郎たちは引き揚げた後だったのだ。で、当然鬼たちは怒り狂ったが、今更どうしようもない。
「全くだ。おれたちの留守をねらって来るなんて、いわば空巣ねらいも同様じゃないか」などというせりふが可笑しい。
何年かたって、風の噂に、小さな子どもが鬼ヶ島で鬼退治をして宝物を奪い取ってきた、という話が鬼の耳にも入り、鬼はまた激怒。桃太郎は何も戦っちゃいないのに!
「全くいやになっちまうな。一ばん命がけで働いた犬が格別ほめられないで、ずるくばかり立ち廻った桃太郎が一ばんみんなに褒められるなんて、ばかばかしくってお話にも何にもなりはしない」
「まあ、そう怒るなよ。それがあさましい人間世界のならわしなんだ」
「そうかなあ。まじめに働いたやつが少しも得をしないで、ずるく立ち廻ったやつばかりが一人で甘い汁を吸うのが、それがほんとに人間世界のならわしなのかい。それじゃこうしてお互に正直一方に働いては仲よく助け合っている鬼ヶ島の方が、どれだけましだか比べものにならないね」
「そうだとも、人間の世界なんてほんとにろくな世界じゃないさ。そう思うとこうして鬼ヶ島に住んでいる方が、どれだけ有難いか知れない」(pp.25-26)

そうか、この作品は、文明風刺だったのか!

 
Posted at 16:09 / BOOKS / この記事のURL
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物事は多面的に見なくては(本論) / 2005年07月13日(水)
3冊組の「赤い鳥」傑作集の中に、「ある日の鬼ヶ島」という作品があった。作者も覚えてないのでそんなに有名な作家ではなかったのだろうと思う。
インターネットで検索しても1件もヒットしない。
でもわたしにとっては大変印象的な作品だった。
ある日、鬼が鬼ヶ島でのんびり過ごしていると、向こうから舟がやってきて、小さい男の子と動物が乗っている。勝手にやってきて、勝手に暴れて(それも男の子はかけ声をかけているだけで、手下の動物たちに乱暴狼藉を命じていた)、自分たちの財宝を取って帰っていってしまった、という物語。
鬼の世界から見れば、桃太郎の方が勝手な侵略者だった、という物語。
これを読んでとても驚いた。
勿論、それまで、桃太郎が正義で、鬼が悪、としか考えたことはなかったのだが、それは一面的なものの見方に過ぎない可能性がある、ということを知らされたからである。
その後、芥川龍之介「藪の中」等、見る人の目によって、同じ物事が全く違った価値判断をされる可能性がある、ということは徐々にわかってきたのだが、その原点として、忘れられない作品となった。

とはいえ、この「赤い鳥」傑作集、一緒にまた海を渡って帰国し、しばらくはわたしの本棚にあったと思うが、その後、どこへ行ってしまったのか。もしかしたら、今でもわたしの実家のわたしが使っていた部屋の天袋かどこかにあるのかもしれないが、もう数十年触れていないことは確か。
で、今日、昼休み本屋さんに行って、たまたま講談社文芸文庫の『日本の童話名作選 昭和篇』というのを手にとって、一体どんな作品が入っているものだろう、と目次を見て驚いた。冒頭に入っていたのが、江口渙「ある日の鬼ヶ島」だったのである。
(この項もうちょっと続く)

 
Posted at 15:08 / BOOKS / この記事のURL
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物事は多面的に見なくては(前振り) / 2005年07月13日(水)
わたしは、小学校5年生の時に、父の仕事の都合でアメリカに引っ越した。
外国とはわたしにとってどういう場所かというと、日本語の図書が容易に入手できない場所であった。
勿論日本語の本を売っている本屋はサンフランシスコまで行けばあったが(五車堂という雑誌中心の小さな店と、かなり広い紀伊國屋書店)、わたしの住んでいた場所からは車で1時間ちょっとかかった。気軽に歩いていって、自分で棚から欲しい本を選べる、という環境はなくなるということだ。
なので、渡米前に、両親はわたしに段ボール一箱分位の本を新たに買い与えてくれた。何故か、本の選択にはわたしの意見は参考にされた記憶がない。見計らいで買った本が一山。勿論わたしの読書のパターンはある程度読めていたと思うので、そんなにはずれはなく、わたしはその時買って貰った本はアメリカ滞在中に1冊残らず読んだ。複数回読んだ本の方がたぶん多いだろう。
そうして買って貰い、何回も繰り返し読んだ本の中に、鈴木三重吉が編集していた児童雑誌「赤い鳥」の傑作選3冊組があった(何故か出版社は覚えていない...あまり有名な出版社ではなかったのかな)。芥川龍之介「蜘蛛の糸」「杜子春」のような有名どころを初めとして、「赤い鳥」が初出だった小説や詩(北原白秋など)、更に児童の投稿作文なども少しおさめられていた。
(という訳でテーマに到達出来ないまま次項に続く)

 
Posted at 14:52 / BOOKS / この記事のURL
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エッセイと小説 / 2005年06月28日(火)
えーと、自分の日記に、「どうしても、エッセイは小説より読むのに時間がかかるし、文章の中に入り込みにくい」と書いたところ、zebraさんから、「そこんところじっくりききたいんだけどなあ」とリクエストをいただきました。

この日記を書いたとき、わたしが読んでいた、恩田陸『小説以外』(新潮社)は、文字通り、今まで小説しか単行本化してこなかった恩田陸が、色々なところに書いた、小説以外の文章を拾い集めて1冊の本にしたものです。雑誌などのリレーコラム、他の人の文庫本の解説、新刊を出したときにPR誌に書いた紹介文等、いずれも1〜4ページ程度で完結する、短いエッセイの集積です。
そのため、この本の中に入っているのは、数ページ単位で完結する、非連続的な文章の集まりで、わたしのふだんの読書の場である電車の中で一気読みしていると、あまりに文章の単位が切り刻まれている感じがきつい...。どうやらわたしは、ふだんの読書って速読に近い読み方をしているようで、ページ全体のイメージをとらえられたら、もうページをめくって次に行き、そうやって、物語の展開をざっと把握して最後までいっちゃっている。考えてみれば邪道だが、そうやって、色々な物語を自分の中に取り込みたい(結果として、きちんと取り込めるものと、取りこぼしていくものが出てくるんだけれど)。
短いエッセイ(それも例えば雑誌にずっと連続して掲載していたりするのではなく、色々な性格の文章を時系列に収録している)を読んでいると、1項目ずつ、きちんと向き合って、作者の話を聞いてあげなくてはいけない、そういう感じが、今のわたしにはちょっと重いのかも、というのがわたしの印象です。
しかも恩田陸は、生まれながらの物語作家という感じで、自分について語るのがそんなに得意ではないようです。小説の付随事項として、作家個人のことに興味がなくもないけれど、彼女の場合、それは必須でない、というのも、この本を読んで感じたことです。

 
Posted at 11:43 / BOOKS / この記事のURL
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「トニー滝谷」(3) / 2005年06月24日(金)
木野花の出演シーンがわからなくて探していたら見つけたblog。結構情報満載でいいかも。
ちなみにわたしは池袋の「文芸地下」という映画館で「風の歌を聴け」と「パン屋襲撃」は見た。「パン屋襲撃」「100%の女の子」のDVDはちょっとかなり欲しいかも。山川直人好きだし。
昨日のNoticesには書き忘れたが、坂本龍一の音楽もよかった! なんで村上春樹の小説にはああいうさびしげな音楽が似合うんだろう? にぎやかなのは途中、省三郎がライブハウスでジャズバンドと演奏しているシーン位だったよね...。
宮沢りえが、かわった形のサボテンの世話をしているシーンも好きだったし、彼女の死後、イッセー尾形が霧吹きでサボテンに水をかけようとしたら、霧吹きが壊れてしまってうまく水が出ない、という感じも、さびしくてよかった。
無機質にきれいに片づいた家が、主婦を失ったあとも保たれているところなんかも、この映画の現実感のなさが現れていて(うちではありえない美しさ・笑)よかった。
村上春樹の小説世界はやっぱり現実的じゃないんだよね。その辺が、再現出来ているところがこの映画の評価を高めた? 「風の歌を聴け」がファン受けしなかったのは、村上春樹世界にしては生々しくなりすぎたからかも。大森一樹の作品、と思ってみれば好意的にとらえられたんじゃないかな。

 
Posted at 10:53 / BOOKS / この記事のURL
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「トニー滝谷」(2) / 2005年06月24日(金)
さて映画。とても淡々とした映画だった。色彩もモノトーン中心で、静かな感じ。西島秀俊が出来るだけ抑揚を排除して、原作の地の文を読み上げていく(今朝原文を読んだばかりなので、自分の記憶も平行して物語を読んでいた)そして、その読み上げている文章の最後の部分を、画面の人物がくみ上げるようにナレーターから引き取って淡々と文章を言う。時間の経緯が、画面を右から左にずらし、一瞬暗い部分を通過させ、次のシーンに移るという場面転換。見晴らしのいい丘の上に仕事場兼住居を構えたトニー滝谷の光にあふれた生活。イッセー尾形が父省三郎役も演じ、また、自分自身を大学生時代から演じるのだが、髪を伸ばして一心不乱に絵を描いているイッセー尾形、勿論全然大学生には見えません。でもイッセー尾形の物まね芸の一環、みたいに見えるところがすごい? そして宮沢りえ...。小説中では名前を与えられていないトニー滝谷の妻そして、彼女の死後秘書募集に応募してくる若い女性の二役演じる宮沢りえは、ちゃんとキャラクターによって雰囲気を演じ分けていてなかなかいい。洋服を身にまとうために生まれてきたような、という感じがきちんと出ていて、どの服を着ていても宮沢りえは魅力的。買い物三昧するシーンでは、彼女の足元だけを映し、ミュールだのパンプスだのショートブーツだのロングブーツだの、カモシカのような細い細い足がとてもきれいに撮ってあって、ため息が出る。20歳頃の彼女の輝くような美しさから、怖いほどの拒食の顔を経て、まだ彼女はやせすぎだと思うが、なんて深くて美しい顔をしているんだろう、としみじみ思う。そして、秘書に応募してきて、彼女が遺していった服を見て泣く女性は、きちっと野暮ったさを出し、でもはっとする位繊細で美しい雰囲気も出ている。細かい設定はちょっと変えてあるし、また、最後の部分で、原作の末尾の文以降の物語を作ってしまっているところは評価の難しいところだが(手袋をあげようとするおばさん=木野花のシーンとか、パーティーで妻の元彼と会うシーンとか。後者はピリっと効いていたが、それは村上春樹的ではなく、これは市川準の感性か)、原作を忠実に映像にしているという意味で、大変すてきな映画だったな、と思う。
(なんとまた字数オーバー(3)に続く...)

 
Posted at 10:48 / BOOKS / この記事のURL
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「トニー滝谷」(1) / 2005年06月24日(金)
2005.6.23のNoticesより映画に関する部分を抜粋。
(最後にちょっとだけどうでもいい付け足し)
リンクを貼ったblogにトラバするのが目的ですが。(^^;)
ああー、字数オーバーしたので分割しますぅ。

映画「トニー滝谷」は、もともとCMディレクターとして有名だった(禁煙パイポとかタンスにゴンとか)市川準監督(映画監督としてぱっと思い出す作品は「TUGUMI」かな。牧瀬里穂と中島朋子)が、脚本・監督を手がけた映画で、春先に新宿と渋谷で上映していたとき、見たい見たいとずっと思っていたのに、結局映画のために都心まで出てくる時間の余裕を作れず(その分飲み会控えればいいぢゃん>自分)上映終了してしまったのだが、今週、4回だけイクスピアリのシネコンで上映されることになり、今度こそ見ようと、子どもをYYさんに頼み(一昨日と今日が18時半からの上映、昨日と明日が10時50分からの上映で、結局友達の好意に甘えてしまった...)、久々に行って来ましたイクスピアリ。
(中略)
「トニー滝谷」は、「イクスピアリ・ムービー&ファン」というイベントの一環での上映なので、なんと映画料金は800円であった。4回しか上映がないので、一体どの程度混むのか全然読めずに入ったが、まぁ、ほどほどの大きさのシアターで、スクリーンを無理なく見える場所はすかすかでない程度に埋まっている、という雰囲気(上映時間ぎりぎりでも、人にちょっと譲ってもらって列の中の方に入れる、という感じ)。映画の予告編は「フライ・ダディ・フライ」「大停電の夜に」の2本しかやらず残念。

(映画部分には全く触れられないまま(2)に続く...)


 
Posted at 10:37 / BOOKS / この記事のURL
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『家族狩り』2004年版 / 2004年08月17日(火)
こないだ感想書きかけている時にシステムダウンしちゃったので、消えちゃった原稿のこと思ってくよくよしていて、今回読んだ2004年版の感想が遅くなった。

ストーリーの基本線は1995年版とそんなに違わないのだが、ラストの犯人の動向が、かなり違ってしまったので、最後の印象はかなり変わった。
小道具的には、95年には所有者がまだ限られていた携帯電話を誰もが持つようになり、喋る・メールする、という用途をどの登場人物も駆使するようになり、それがストーリー進行に大きな影響を与えるようになっている。
紙数が増えた分、95年版では出てこなかった、巣藤や椎村の家族の事情とか、新キャラのケートク(妙に魅力的)とか、游子の祖父の話とか、物語に奥行きを与えているが、正直言って、95年版ですらかなり長かったのだ、あまりに濃く、それぞれのキャラクターの背後まで書いてしまっていることで、読者はちょっと疲れるかも...。
家族が心のよりどころとならないと、人間は不完全な精神を抱えて成長することになる、という基調が、天童荒太のどの作品にも見られるのだが、それを作者は逆に超ラディカルな形で犯人たちに語らせる。誰でも、親が自分に対しておざなりであったり、納得のいかない対応をしたりされた経験を持っていると思うが(それは愛情の不在ということではなく、自分の家族だけに集中力を100%持って生きている訳ではないゆえの対応なんだが)、犯人たちは、親は常に子どもに対して、子どもが不満を持たないような十全の愛情を与えなくてはいけない、という主張をする。それを突き詰めた末の凄惨な犯罪なんだが、その、ねじくれた論理に眩暈しつつ、じゃあ、わたしは家族についてどう思っているのか、どう振舞っているのか、考えれば考えるほどわからなくなる。
短いエピローグで、主要登場人物たちは一応かりそめの幸せを得る。でも、ここが最終目的地ではないのだ、と作者は言っていると思う。
主要登場人物の一人である馬見原のモノローグ的部分が多いのだが、決して自分の幸せを優先させるためのエゴを主張している訳ではないのに、周囲の誰もを不幸にしている状況に怒りすら覚えた。悪人じゃないのに悪人みたい...。95年版より強くなった奥さんの成長が救いか。

 
Posted at 00:00 / BOOKS / この記事のURL
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