『ショパンの祈り』
「乙女の祈り」という、誰でも知っている曲を、施設
の子供たちのため「ちゃんと」練習する必要に迫られ
たとき、この曲がポーランド女性によって作曲されて
いたことを初めて知ったから、幾年が経つことでしょう
か。 ポーランド生活の日常会話の中で、「イエスス
マリア」や「ボージェ(神さま)」という言葉を聞かない
日はありません。 ジョルジェ、サンドの館でのショパ
ンの姿を毎日「鍵穴から」のぞいていたポーランド人
召使いのヤンの証言では、「だんな様はいつも膝ま
ずいて、一心に祈っておいででした。」というものでし
た。
ショパンは何を祈っていたのでしょうか?
「祈り」それは私たちの泡立つ心を静かにしてくれま
す。合掌をしていると、呼吸が深くなります。これは洋
の東西を問わず、長いこと営まれてきた人間の姿でし
ょう。
今年、「生誕200年」を迎えたショパンのために、ショ
パンを賞する音楽家たちが、それぞれの方法や考え方
で、ショパンを演奏することが多くなりましょう。私も、た
くさんの方々の御支援、御助力をいただいて、「全曲演
奏」を6月からスタートさせていただくことになりました。
そこに込めたいものは、やはり「祈り」です。ショパン
が「音に込めた祈り」。その祈りの音を借りて、私自信
の祈りを音に込め、天や、かけがえのない人びとに感
謝の気持ちを込めて発信できたら、と静かに祈ってお
ります。
これは来月に4月に開かれる私のリサイタルのプログ
ラムに載せた文章です。
「祈り」は、私にとって日常のことですが、祈り方が少し、
他の人とは違うかもしれません。
ICU前の待合室で、入室許可を待つあいだ、私は、扉
を隔てた向側の母へ向けて、一心に気を送り続ける間
にも、東京の(社)整体協会のK先生と連絡を取り、私
たちにできる手音の方法を終わりました。肺がきれい
になりさえすれば、老人の死亡率が高いといわれる肺
炎を、起こさずに済むと考えたのです。
K先生は
1 頸椎6番を指の腹でトントンとたたいてから、
2 気の通らない方の鎖骨への愉気。「多分左側だ
と思いますよ」とのお言葉。
3 「咳切り」の急所である喉のくぼみ。
4 両人さし指の爪のつけ根の「気の通らない方への
愉気。」それに加えて、私たちの心を見透すように、
「遠藤さん御自身の(手の平中央にある)「鎮心」
に、よく気を通してから、ここに当たってください。」
と添えられました。
どれくらい待ったでしょう。扉が開いて介護士さんが、
「お入りください。お活ができますよ。」と、私たちを誘
いました。入口で消毒し、アスクをかけ直して、丹田
に気を満たして中へ。
母は、酸素マスクのままゼイゼイと激しい息をして
いて、さかんに痰を吐いています。担当のT先生と救
急救命達の先生、それに介護士さん達が、テキパキ
と働いています。
手を握り「郁子ですよ」という声かけが届いたかどう
か・・・。反対側の手を握っていた反人が「おかあさん
!」と大きな声で呼かけると母は大きく目を開け、
「あら、あたし死んじゃったの?」と苦しい息で尋ねる
のです。あの世で目覚めたと思っているらしいので
す・・・。 救命医の先生の説明では、合併症の原因
が血の固まりなどではなく、誤嚥(ごえん)によるもの
では?ということでした。 肺の中に飛び散ったもの
が肺炎を起こしかけているので、それを溶かす処置
をしているとのこと。
私たは母のそばに貼りつき、友人にも手伝って貰
いながら、冷たくなった左鎖骨、岩のように盛り上が
った人さし指の生え際に、必死の愉気を続けます。
頭上の電光指示板の血圧と脈拍は絶えず「乱高下」
を示しています。 母は苦しい息の下から周囲に
「すいません、御迷惑かけて」をくり返すばかり。逆
にこの「配慮の余裕」が私を安心させてくれます。
折からインフルエンザの流行時。急救を要する患
者は、母だけではなく、ICUは慌だしい。
2時間ほどの愉気で、岩のようだった爪の、生え
際も左右が揃い、鎖骨にも気が通った頃「今晩は
もう、帰ったほうが・・・。あとは私たちに任せてくだ
さい」との介護士さんの言葉を引きとり、帰宅。頭
がさえて眠れそうもないので、夜中近くなっていた
のに練習。
ああ、神さま、どうぞ母をお召しにならないでくだ
さい・・・・・・・。
翌朝、K先生に昨夜のお礼のTELを入れ、 「気
は通ったと思います。」と続けた処、「いえ、左鎖骨
にまだ充分、気が通っていません。」と言われ、先
生が遠隔から気を使っていてくださっていたことを
知り、心強くなりました。
母が倒れれてからずっと、母に代っての仏壇、神
棚、それに亡き父の彫った仏壇への3個所の祈り
は「遠藤家のために今まで頑張ってきた母をまだ、
お迎えに来ないでください・・・・・。」
翌10月13日朝、病院へ車を飛ばす。病院の秋
は早く、ナナカマドの並木が、もうすっかり紅く染ま
っていて、入院した日、病室から見えた北大のポ
プラ並木も、色づきはじめて。
救急車から最上階の病室へ向かう時、母を不安
にさせないための声かけは、「ほら、お父さんが通
っていた北大が、大きく見えるわ。よかったわね。」
そばで、介護士さんが、「北大にお勤めだったんで
すか?」と、母は一瞬、痛みを忘れたように少しお
澄ましして、「そう、物理学部だったの。」というと
「わあ、本格的だあ」と介護士さん。母の心が満た
されたように見えたのでした。
2日目のICU。母は、咳をたくさん出したせいか、
昨はありはすっきりと見えて、脈と呼吸も104対
22とおちついて。母は私を見ると、昨夜心細かっ
たのか、「今日は傍に寝てくれるのね?」
私、「どこに?」母が、床を指さすのは、手術を受
けた晩、私が母の隣にタンカで寝たときのことが
頭にあるからでしょう。
「ここは集中治療室なの。だからここには泊ま
れないの。でも、いつも気を通っているから、離
れていても、傍に居るのと同じなの。」
母は納得したようでした。
昨夜からの私の祈りは母の病魔への「祈り倒
し」に近いものになっていたのです。
- ショパン |
- URL |
- Comment [0]



