「観念論」の立場の哲学

July 04 [Fri], 2014, 0:52
ドイツ古典主義哲学やドイツ理想主義哲学とも呼ばれる(これらのような呼称にした場合、該当する思想家が若干異なることがある)。マルクス主義を国家理念の嚆矢とした国々では、ドイツ固有で且つ労働者外的な思索だという意味づけでドイツ市民的観念論(独: der deutsch-bürgerliche Idealismus)と呼ばれたが現在この呼称は廃れている。
カント自身がドイツ観念論に属するかどうかは、研究者により見解が分かれるが、カント哲学とドイツ観念論を分けて考える学者が多い。その根拠は、あるいはドイツ観念論に含まれる思想家がカントとはその時代に哲学的に対立関係にあったという哲学史的な事情、またカントが認識理性の対象ではないとした神(物自体)が、ドイツ観念論では哲学のもっとも重要な主題であり、知の対象とされる両者の哲学上の立場の違いに求められる。
ある人が子供の頃に憧れた職業に進むため、適性を無視してその方向に邁進、結果として途中で挫折した場合には、当人にとって大変な損失であり不幸である。
このようにドイツ観念論者と総称されている思想家の中でも、その内容は思想家によって様々に異なる。しかしカント哲学を出発点として「自己意識」や「精神」、「自我」などの精神的なもの、さらに言えば、前にも触れているとおり、その根底として観念的原理の自己展開をおき、それを絶対者あるいは神と呼んで、後者との関わりによって世界や人間の本質を捉える立場から説明しようとする「観念論」の立場の哲学であるという点では一致していると言える。
よしんばその途中過程で、まだやり直しが利く段階での成功は、その瞬間には「幸福な出来事」といえるのかもしれないが、結果論から言えば「いよいよやり直しが利かなくなる状態に陥っただけ」ともいえる。
なお落語には「人の値打ちと煙草の味は、煙になって判るもの」(煙草は火を付けて吸うまで良し悪しが判らない、のと同様に、人は葬式が終わって火葬されるまでは、どれだけの価値があったのか正確には判じ難い、という意味)という件もあるという。
一方、カントにおいても物自体は実践理性の要請であって哲学体系の中におかれており哲学の主要な主題であること、さらにはドイツ観念論の主要な論者はカントから出発して自己の体系を構築したことを重視し、ドイツ観念論の初めにカント(のコペルニクス的転回以降)をおく哲学史家もいる。これに対してドイツ古典主義哲学は、カントとドイツ観念論の連続性を重視し、カントを含む呼称である。
後述するが、これらの名称は19世紀後半からの哲学史研究のなかで生じたのであり、ドイツ観念論に分類される思想家たちが、こうした名称を用いたわけではない。
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