木靴をはいて書評

2010年05月 25日 (火) 14:49
講談社のPR雑誌『本』6月号に、池内紀さんが書いた『木靴をはいて』の書評が掲載されています。『望郷記』と題されたとても美しい書評です。この本が出て1年になりますが、こうして池内さんのような読みの達人に取り上げられ、そして美しい感想を書き留めていただいたことをとても喜んでいます。
長谷川濬という男の歩んだ道と最後に彼が見た函館の幻想を書き留めた詩を紹介しながら、池内さんは、「七十数篇の風景は沁みるような透明感につらぬかれ、二つとない心象の小宇宙をつくっている。空席のまま隠れんぼうをしていた三男坊が、そっと帰ってきたぐあいなのだ」と最後を締める。なんという美しい文なのだろう。いま読み返しても涙が出てくる。ほんとうに胸に沁みる書評でした。

井上ひさしさんの思い出

2010年04月 13日 (火) 12:13
今日の朝日新聞天声人語の井上さんを追悼する記事は良かった。井上さんは、まさに身を削りながら書き続け、それは決して自分が満足するためだけでなく、人びとに楽しんでもらいたい、そして喜んでもらいたい、勇気をもってもらいたいという思いを込めていた。だからこそ書きたいことがあるということは、それは私たちへのメッセージだったはずである。それが書けない、そして読めないということがとても寂しいのである。サンデーモーニングで関口宏が、井上さんの訃報を伝えたあと、いずれ人間は死ぬんですからみたいなコメントを言っていたが、そういうことではない。井上さんが頭のなかに心のなかに抱えていたものを、すべて書いてもらいたかった。
ずいぶん前にシアターΧでデュオアリンガというイタリアの音楽コメディーの公演をやっていたとき、髭ぼうぼう、頭ばさばさの井上さんがフラッと現れ、当日券を買って見に来られたことがあった。おそらく身を削りながら書いていて、つまっていたときだったのだろう。終わって帰られるとき、来るときの思い詰めたような顔ではなく、笑顔で、面白かったねと声をかけられた。そして翌日もまた途中からフラッと現れ、見に来られた。当日券を買いながら、面白いよねとニコニコ笑っておられた。あの時の笑顔が忘れられない。ご本人も悔しいかったろうと思うし、私もとても悲しいし、寂しいのだが、ご冥福を祈りたい。お疲れさまでした。

ボリショイサーカス初来日記念マッチ

2009年09月 03日 (木) 20:59
現在来日中、ルスツでの公演を終えて、12日から姫路セントラルパークで公演することになっている『グレートモスクワサーカス』のメンバー、イリュージョンで大活躍をしているワレンチン・フィラートワのお祖父さんは、クマのサーカスというアトラクションをつくった有名な調教師。ボリショイサーカスが初めて来日したときに、日本中を騒然とさせたクマのアトラクションの映像を、昨年見ることができた。演じているのはクマではなくぬいぐるみを着た人間だと信じさせたのは無理もないと思ったものだ。この映像をワーリャ(ワレンチン)に見せたら、大喜びしてくれたのだが、このお礼ということで、もらったのがこのボリショイサーカス初来日公演のときにつくったらしいマッチ。千歳空港でスーツケースの中に入れてあったのを忘れて、検査でひっかかってしまったのだが、検査していた人が思わず見入って、珍しいマッチですねと言ったほどのものである。こういうのを見ていると、神彰とアートフレンドの人たちの洒落っけを感じてしまう。いいものをもらったものである。

追悼平岡正明

2009年07月 16日 (木) 22:43
 平岡さんとの付き合いは、野毛ではじまり野毛で終わったことになる。『海を渡ったサーカス芸人』を出す前、野毛が澤田豊の次男でドイツに住んでいたマンフレッド澤田を呼ぼうとした時に、野毛の大将こと福田さんに紹介されたのだと思う。そうすると15年以上の付き合いになる。と言ってもお会いするのは、福田さんが主催するアホな会、一千代ふぐ食い放題会、うな丼ライブ、大道芝居の打ち上げの場で、たわいもない馬鹿話をする程度であった。会う前は、書いている文章からみて、強面の気難しい人という印象があったが、実際の平岡さんは、いつも笑顔を絶やさない、温厚な人だった。
平岡正明といえば『山口百恵は菩薩である』に行き着いてしまうようだが、やはり自分には「野毛の平岡さん」であったし、平岡さんも野毛にたどり着いて、ずいぶんと創作にも広がりができたのではないかと思う。『大道芸および場末の自由』、『野毛的』、『横浜的』などは、野毛を拠点にすることで初めて生まれることができた本である。野毛に集まるちょっと変わった怪しげな人々との交流は、平岡さんに大きな創造エネルギーを与えたはずだ。歩くライブリアンの故大内順、横浜ジャズの中心人物柴田浩一、大道芝居の座長俳優高橋長英などなどがいつも集まるところに、平岡さんが好きそうなB級の話題がころがっていた。こんな中にいる平岡さんはいつもうれしそうだった。そんな意味で平岡さんは晩年(早過ぎた晩年になってしまったが)を野毛で過ごせて良かったと思う。同時にそれは野毛の集まりの中に、平岡人脈の流入をもたらすことになり、福田豊主宰の野毛サロンに新しい血を導入することになったし、そのシャッフル具合が、気取らず、自然だった。大将の福田さんは、平岡さんはオープンマインド、そしてイーブン、どんどん新しい友を連れてきてくれるとよく言っていたが、その通りだと思う。
そしてB級カストリ文化の最高のカクテルが、平岡さん編集の『ハマの毛』だった。平岡流シャッフルで、三波春夫も、井筒家小石丸も、荻野アンナも、飲み屋の親父も、大道芸人もみんな集まってわいわいやる雑誌をつくってしまった。自分も一度だけ書かしてもらったが、この雑誌だけには書きたいと思っていたので、話があったときは本当にうれしかった。いまでも全巻揃った『ハマの毛』は、私の大事な宝物である。
平岡さんは大学の先輩にもあたっているが、ただ平岡さんは花の早大露文中退組。「君は卒業しているから、ダメだね」とよく言われたものである。第一回目の「歌声食堂」の時、平岡さんにロシア語でインターを歌おうと言われて、そんなロシア語でなんて歌えないとひるんだ自分が情けなかった。
平岡さんとなにかやり残したことがあるとずっと気になっていた。今年の春ぐらいに、田中清玄がよく通っていた喫茶店が野毛にあり、そこで話し相手をしていた人と、対談しないかという話が福田さんから舞い込んだ。これは平岡さんがぜひ大島君にやってもらおうと強く言っていたということをあとから聞いた。田中清玄は、いま自分が追いかけている長谷川濬の函館時代の同級生でもあるので、とても興味ぶかい話だった。一度は自分のスケジュールの都合、そしてそのうちに取材すべき人の体調がすぐれず、そのままになってしまった。もうひとつ、「アートタイムス」の6号の特集は、「幻の『血と薔薇』4号」、責任編集は平岡さんと決めていた。『血と薔薇』はいうまでもなく、渋澤龍彦が責任編集をしていた60年代を代表する雑誌、そしてそのスポンサーは神彰であった。『血と薔薇』は当時おおいに話題になったものの、スポンサーである神彰の資金難のため、渋澤は責任編集をおりる。そこで新たに編集長に任命されたのが平岡さんだった。なんとか4号をつくったものの、神彰の会社が倒産、雑誌は印刷されたものの、すべて債権者によって回収されてしまう。平岡さん自身出来上がった4号は見ていないという。そこで、「アートタイムス」で、平岡さんに責任編集をしてもらい、その続きをやってもらおうかと秘かに考えていたのだ。この構想自体平岡さんには告げていない。ただ悔しいから、第6号は「野毛の平岡正明」という特集にしようかと思っている。そうしないとなにかやり残したようで気持ち悪くてしかたがない。

クマのイチオシ
石巻若宮丸漂流民の会 東京例会
深川散策―江戸における仙台発見

5月27日(日) 清澄白河
中野日出夫さんの解説で深川富岡八幡宮で発見された石巻の海上安全祈願奉納碑を見学します。


第13回桑野塾

6月9日(土) @早稲田
インド大魔術と現代ロシア音楽の最先端!

第13回桑野塾チラシ
2010年05月
1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31
プロフィール
  • ニックネーム:クマ
読者になる
しばらくコメントとトラックバックはお休みします。
メールフォーム
タイトル

内容
最新コメント
kokuda
ゲネ (2012年05月02日)
kkos
下山事件 (2012年02月18日)
めぐ
希望はつくりだすもの (2011年05月13日)
おみゆ
ダレンシャン (2011年01月06日)
Yapme!一覧
読者になる
P R
デラシネ通信
デラシネ通信 最新記事

石巻若宮丸漂流民の会
桑野塾
雑誌「アートタイムズ」

月別アーカイブ