化粧水はたっぷりつけないと

November 15 [Fri], 2013, 0:54
「よろしい。」
 老紳士は一しきり濃い煙をパイプからあげながら、小さな眼でじっと本間さんの顔を見た。今まで気がつかずにいたが、これは気違いの眼ではない。そうかと云って、世間一般の平凡な眼とも違う。聡明な、それでいてやさしみのある、始終何かに微笑を送っているような、朗然(ろうぜん)とした眼である。本間さんは黙って相手と向い合いながら、この眼と向うの言動との間にある、不思議な矛盾を感ぜずにはいられなかった。が、勿論老紳士は少しもそんな事には気がつかない。青い煙草の煙が、鼻眼鏡を繞(めぐ)って消えてしまうと、その煙の行方を見送るように、静に眼を本間さんから離して、遠い空間へ漂(ただよわ)せながら、頭を稍(やや)後へ反(そ)らせてほとんど独り呟くように、こんな途方もない事を云い出した。
「細(こま)かい事実の相違を挙げていては、際限がない。だから一番大きな誤伝を話しましょう。それは西郷隆盛が、城山(しろやま)の戦(たたかい)では死ななかったと云う事です。」
 これを聞くと本間さんは、急に笑いがこみ上げて来た。そこでその笑を紛(まぎら)せるために新しいM・C・Cへ火をつけながら、強(し)いて真面目(まじめ)な声を出して、「そうですか」と調子を合せた。もうその先を尋(き)きただすまでもない。あらゆる正確な史料が認めている西郷隆盛の城山戦死を、無造作に誤伝の中へ数えようとする――それだけで、この老人の所謂(いわゆる)事実も、略(ほぼ)正体が分っている。成程これは気違いでも何でもない。ただ、義経(よしつね)と鉄木真(てむじん)とを同一人にしたり、秀吉を御落胤(ごらくいん)にしたりする、無邪気な田舎翁(でんしゃおう)の一人だったのである。こう思った本間さんは、可笑(おか)しさと腹立たしさと、それから一種の失望とを同時に心の中で感じながら、この上は出来るだけ早く、老人との問答を切り上げようと決心した。
「しかもあの時、城山で死ななかったばかりではない。西郷隆盛は今日(こんにち)までも生きています。」
 老紳士はこう云って、むしろ昂然と本間さんを一瞥(いちべつ)した。本間さんがこれにも、「ははあ」と云う気のない返事で応じた事は、勿論である。すると相手は、嘲るような微笑をちらりと唇頭(しんとう)に浮べながら、今度は静な口ぶりで、わざとらしく問いかけた。
「君は僕の云う事を信ぜられない。いや弁解しなくっても、信ぜられないと云う事はわかっている。しかし――しかしですね。何故君は西郷隆盛が、今日(こんにち)まで生きていると云う事を疑われるのですか。」
「あなたは御自分でも西南戦争に興味を御持ちになって、事実の穿鑿(せんさく)をなすったそうですが、それならこんな事は、恐らく私から申上げるまでもないでしょう。が、そう御尋ねになる以上は、私も知っているだけの事は、申上げたいと思います。」
 本間さんは先方の悪く落着いた態度が忌々(いまいま)しくなったのと、それから一刀両断に早くこの喜劇の結末をつけたいのとで、大人気(おとなげ)ないと思いながら、こう云う前置きをして置いて、口早やに城山戦死説を弁じ出した。僕はそれを今、詳しくここへ書く必要はない。ただ、本間さんの議論が、いつもの通り引証の正確な、いかにも諭理の徹底している、決定的なものだったと云う事を書きさえすれば、それでもう十分である。が、瀬戸物のパイプを銜(くわ)えたまま、煙を吹き吹き、その議論に耳を傾けていた老紳士は、一向(いっこう)辟易(へきえき)したらしい景色(けしき)を現さない。鉄縁の鼻眼鏡の後(うしろ)には、不相変(あいかわらず)小さな眼が、柔らかな光をたたえながら、アイロニカルな微笑を浮べている。その眼がまた、妙に本間さんの論鋒(ろんぽう)を鈍らせた。
「成程(なるほど)、ある仮定の上に立って云えば、君の説は正しいでしょう。」
 本間さんの議論が一段落を告げると、老人は悠然とこう云った。

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