お節は買うもので作るものではない 

2012年01月04日(水) 13時30分
江戸の町人は、他国から働きにきて住み着いた人たちばかりです。昔からの風習や、しきたりのない町でした。
食に関しては、独り者が多く外食産業が盛んでした。または煮売り屋、納豆屋などから、お菜を買い求めるのが普通です。

大晦日は掛け取りに飛び回り、また追いかけられ、ゆっくり食事する暇などありません。除夜の鐘を聞く頃に、二八蕎麦でも啜って紛らわしていたのでしょう。
正月料理を作る習慣もなかったはずです。おせち料理は田作り、黒豆、煮しめといった日持ちのするものを求めて、箱に詰めたのではないでしょうか。煮売り屋さんなども正月には休みますから。

たとえば越後では、大晦日にごちそうをいただきます。メインは年取り魚(塩引き鮭の切り身を焼いたもの)です。他にのっぺい、身欠きニシンと数の子、大根を麹で漬け込んだ鰊漬け、商家では鯨汁も欠かせません。
正月の雑煮にも鮭の角切りが入ります。これは塩引き鮭の尻尾の方の身を用います。あと、とと(魚のこと)豆と呼ぶイクラも使われます。
鮭の頭と骨は、昆布巻きや氷頭膾にし、余す所なく食べるのです。
重箱に詰めたおせち料理はありません。他の地方のことは知りませんが、おおかた同じようなものではないかと思います。

のっぺいは、もともと加賀の治部煮に似た鳥料理だったようです。そのため多くは葛をかけてとろみを出します。地域によっては具材を細かく刻んだ、すまし汁仕立てのものがあり、これは会津のこづゆの系統に近いかもしれません。干し貝柱で出汁をとるのも共通しています。

江戸のべったら漬けは、鰊漬けから鰊を抜いた即席漬けのようなものです。江戸中期には、数の子もおせち料理に加わっていたのに、身欠きニシンを食べなかったのは、やはり調理に手間がかかるため?(江戸っ子は気が短けぇんだ)
鯨汁の由来はよくわかりません。夏の食べ物だったのですが、大晦日に掛け取りの人たちに振る舞うようになったものです。

古くは、海で獲れた鮭を塩引き(山漬け)にして、塩ごと山間部に運んでいました。上杉謙信公が甲斐の武田晴信に塩を贈ったわけではありません。武田は今川と北条に海側を封鎖されたため、越後から流通していた塩蔵の海産物欲しさに信州を侵略したのです。
なお江戸時代、刺身のことを無塩の魚(ぶえんのうお)と言っていました。海に近い所でしか食べられない珍しいものだったのです。一般庶民が常日頃、口にするようなものではありません。

喪中葉書、年賀欠礼 

2011年11月11日(金) 15時25分
以前、叔母が亡くなった時に、叔母の兄である叔父から、妹の喪中であるので年賀欠礼との、いわゆる喪中葉書が届いた。叔母の葬儀には私も行っているし、そのとき叔父とも言葉を交わしている。
あれはどういう趣意だったのだろう。本当に喪に服していたのだろうか。私は他家の出来事なので、いつものように年賀状を出していたが。

正月を祝う風習は、中国から伝わった。正月様(歳徳神)は中国籍。今でも元旦を祝うのは、中国文化圏の一部だけ。暦の神様でもあるだろうから、陰陽道とともに伝わったのか。
他の国では、冬至祭りが変化したクリスマスの祝いが主。日本の小正月も本来は冬至祭りだった。なまはげが代表的、塞の神(賽の神)が歳の神に変化した? クリスマスのサンタクロースに相当する春の神である。
クリスマスも小正月も、もともとの地神が外来の神様に駆逐された形だ。

年始の挨拶廻りは、江戸時代の武家の風習からだと思うが、昭和30年代でも行われていた。作法としては、玄関先で祝詞を述べて名刺をおいて去る。いちいち家人が玄関へ出向くことはない。そのため下駄箱の上などに名刺入れを用意した。
遠方の知人などには、名刺の代わりに年賀状を出して挨拶の代わりとしたのではないか。

ところで、神道は死を穢れと見なす。しかもその穢れは、他の人にも伝染するのだ。服喪とは、肉親の死によって穢れた身で、公の場に出ないことを意味する。故人を悼むのが主ではない。
宮中賢所の内侍(天照大神の巫女さんに当たる)が書かれた著述を拝見すると、服喪期間は半年となっている。あれほどまでに穢れを厭う職にある方でも、喪に服するのは6か月である。

仏教において死は穢れではなく、佛になることを意味する(厳密にはそうでもないが)。当家の菩提寺(浄土宗)住職が寂滅された時も、例年通り寺から年賀状が来ていた。

神道でも仏教でも、肉親が亡くなったからといって、正月の祝いを慎むという習慣や教えはないようだ。中国伝来の神様も同様だろう。かといって肉親の死にも関わらず、正月の祝いをするというのも不見識といえる。
それにしても、新盆を迎えれば一区切りとしていいのではないか。

私はその時は、何も言わずに寒中見舞いを出す。事情をご存じない方からの賀状を拒む理由もないし、こちらの内々のことを遠方の他人に知らせる必要もないだろう。

野菜の価格 

2010年11月12日(金) 23時53分
農家が農協に出荷した時点では、値段は決まっていない。最終的に小売店に渡しててから、逆算して出荷額が決まる(途中のマージンを差し引いていって)。
いってみれば、かんばん方式みたいなものか。中間は決して損をしない仕組みだ。
しかも、指定のパッケージ資材まで買わされるんだそう。

よくTVで採れ過ぎのキャベツなんかを潰している映像が放映される。なんてもったいないことをと思っていたが、農協に出したらマイナスになるからなのだろう。マイナスよりゼロの方がまだましだ。

TPPとやらで困るのは、実は農家ではなく農協と、それにぶら下がっている利権だけなのではないか。

コシヒカリ 

2009年10月31日(土) 21時53分
何か月か前なんですが、たしかNHKで、茨城県の農家がせっかく収穫したコシヒカリを盗まれた、というニュースをやっていました。
1年間苦労した米を盗るなんて、全くなんということをするのだろうと、怒りと同情をもって見ていました。

ところが、画面の片隅に写っていた米袋に、なんと「新潟米」と書いてあるじゃないですか。数秒のことなんで見逃した人が多かったと思います。

これってどういうこと? 産地偽装かよ! まさか写るとは思っていなかった? それともあまりに日常的なことなんで意識しなかったとか!

こんなこと外の県でも普通にやってるんでしょうか。

塩っぱい話 

2007年03月05日(月) 16時52分
ある考古学者の方が、朝鮮半島の製塩の痕跡を調査されたそうです。しかし一つも見つかりませんでした。

海水を蒸発させて濃縮し、そこから塩をとるという方法は、陽射しの強い南方の島国でしかできないということは、ちょっと考えれば子供でも分かることです。
日本の文化文明は、すべて中国から朝鮮半島を通じて伝わったという常識? と、塩は海水からとるもの、という思い込みから朝鮮半島で調べたわけですね。
朝鮮半島北部と中国東北部は、騎馬民族が住んでいました。モンゴルの料理を見れば、彼らがもっぱら岩塩を使用していただろうことは、容易に想像がつくはずです。

実証するのが学問の姿勢でしょうが、そもそも前提が間違っているのですから実に迂遠というか、ご苦労なことです!

塩とは関係ないのですが、以前、TVでオモニが話していたことです。もともと北のキムチは白く、南のキムチだけが赤いものだったのだそうです。
唐辛子は日本から朝鮮半島に伝わったといいます。南方の植物ですから、普及していたのは南だけだったのでしょう。
麺類の製法も朝鮮半島、北と南では異なります。
北部では、穴の開いた容器からトコロテンのように押し出す=冷麺です。南部では、小麦粉を練って平たくのばして切る、ウドンのようなものが普通でした。
冷麺は、いまでは広く食べられていますが、正確には平壌冷麺といって、北の方の食べ物でした。

塩は調味の基本であるばかりでなく、生命活動維持の上でも欠かせないものです。
詳しくは、自然力通信wiki版(男性版)■塩についてをご覧ください。

吉野ケ里遺跡について 

2005年04月12日(火) 9時36分
(棚田5)で吉野ケ里遺跡のことを書いたので 公式サイトを見てみました

そしたらなんと《墳丘墓・物見櫓跡・大規模な甕棺墓列等が発掘され、 朝鮮半島で発達した米作り文化を取り入れたムラがクニへと発展していく姿をたどることができる資料を提供してくれます。》と記述されています 何を根拠にこんなことを言うのでしょうか

米はインドが原産地と考えられ 東南アジアから中国南部へ伝わったとみて間違いないでしょう 日本へは おそらく江南から海を越えて来たと思われます 
朝鮮半島南部の人たちは 人種的に日本人の血も入っているといわれ 半農半漁の文化だったようです 朝鮮半島南部に見られる稲作(熱帯ジャポニカ米・陸稲)の痕跡は 縄文時代に日本から伝わったものでしょう 潮流の方向(海の路)から考えれば それが自然です
温帯ジャポニカ米(水稲)の倉庫として使われた高床式建物は 東南アジアから長江下流域 そして縄文後期から弥生時代の日本にしか見られません

中国大陸は大きく分けて 北部が粉食地域 南部が粒食地域です
粒食とは米を主食としているという意味です 米は軟質で湯で炊いたり 蒸しただけで食べられます
麦は硬質なため 熱を加えるだけでは食べられません 粉に挽いたり 押しつぶしてから調理します そこで粉食という言い方をします 北麺南飯ともいうそうです
南が粒食 北が粉食となったのは 米が暖かい気候を好み 麦は比較的寒いところでも栽培できるためです

中国東北部や朝鮮半島は大変寒い地帯です そして満州族や朝鮮半島北部の人たちは 人種的にはツングース系の騎馬民族です
米造りが陸伝いに中国東北部から朝鮮半島に伝わり 日本より先に稲作を確立していたなどあり得ません まして日本に米作り文化を伝えたなど 妄言というべきでしょう 
南方育ちの稲を冷たい土地で育てられるようにし 朝鮮半島まで伝えたのは 私たちの祖先の努力の結果です

棚田の意外な姿10 

2005年04月10日(日) 22時21分
江戸時代に入り 士と農が完全に分離したため 生産しない人口(役人)ばかり増えてしまいました そのため米の増産が必要になり 今まで手を着けられなかった 沼地の新田開発が盛んに行われました
田んぼは平地から始まって 山にまで拓かれていったのではなく 山から次第に平地に降りていったのです これは 治水と干拓の土木技術が発達したことによって可能となりました

棚田の意外な姿9 

2005年04月09日(土) 11時59分
一帯の田んぼが きちんとした水の流れを計算して作られているのは 水を平均して行き渡らせることと 水を温めるという二つの理由があります
稲は熱帯性の植物のため 冷水を嫌います 田んぼに広げていわば日向水にして利用するわけです 日本の稲作は陽当たりをとても大事にします 太陽神を最高位にしたのは その辺りに由来するのでしょう

棚田の意外な姿8 

2005年04月08日(金) 9時40分
ところで すべての田んぼは程度の差こそあれ 段差があることをご存じですか
田んぼへの水の供給は 用水路から一枚ずつの田へ枝分かれしていくものではありません 一枚の田から次の一枚へ段階的に水が流れていくのです
そのため 平野部といえども 緩やかな斜面上に作られていて あらゆる田んぼはみな棚田ともいえるのです

棚田の意外な姿7 

2005年04月07日(木) 17時15分
戦国時代にはすでに もっぱら軍事を担当する者たち 戦はしないで戦費や兵糧を負担する者たち どちらともいえない中間形態といった区分けもあったようです
基本的には全員が農民兵です そのため大きい合戦はほとんど農閑期に行われました 穫り入れ時に敵地の作物を奪ったり できないときは 焼き討ちしたりしましたが 農地の取り合いなのですから それも合戦のうちでした
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