彼は、一度使って紙に包んであった一組のトランプを、ポケットから取りだすと、公爵のほうへさしだした。相手はそれを受けとったものの、何か迷っているみたいであった。もの悲しい慰めのない感情が、あらたに彼の胸を押しつぶした。彼はふいにその瞬間、いや、ずっと前から、自分が言わなくてはならぬことは何もしゃべらず、しなくてはならぬことを何もしないでいるのを痛感した。いま自分が非常な喜びをもって手にしているこのトランプも、いまとなってはもうなんの役にもたたぬことをさとった。 ドストエフスキー「白痴」

信仰 / 2007年05月02日(水)
この記録を始めた時分から、なにか変わったとすれば、
辛抱強さ、克己心、諦念などそれらほんのすこしが増えたくらい。
しかもそれも、あってないようなものだ。

日々の意識。
振り返るつもりではいるが、その実どうなのか。
「昨日のわたし」のほうが、実は一歩進んでいたりはしないのだろうか。
なにか・・・結果、真理、そんなものに近づいていたりはしないのだろうか。
後退という事実をも視野に入れるほど、今日のわたしは柔軟だ。

なにを選ぶといわれたら、わたしはやっぱりそれを選んで、
生きる指針として、自分の都合もまじえつつ抱きしめていく。
理屈をとおしたうえでの一番として、最高義として、正しいものとして、
わたしはそれを追いかけるし、それは確かに存在する。

親鸞上人は、師である法然について、
「わたしは法然上人に騙されて、地獄におちるようなことになっても、決して悔いない」
といったそうだが、わたしが最終的に思い至るのは、そんな信仰心に近い心境だ。
 
   
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疑問 / 2006年09月13日(水)
私に関係するある事柄について、友人がその由来を知っているかと訊いてきた。
私は知らなかったので、教えてくれるよう頼んだが、友人はおどけた調子で「そんなに訊かれると言いたくなくなった、今度にする」という。
私はそういう類の焦らしは大嫌いなので、どうかして知ってやろうという気持ち半分、ならもういいさとやり取りを放棄してやりたい気持ち半分、やはり色々訊いていた。

私とその友人との繋がりを代表さえしかねない問題でもあるし、しかもそれがほぼ私の方に属するものなのだから、私がこだわったのも無理はないと思う。
特に、そこに暗に秘められた不名誉な要素を私が知らずに過ごしていたかもしれない、という考えに動かされたのが一番大きかった。私は自尊心の強い人間だ。

あまりに渋るので、しまいに私は「それは私にとって不名誉なことか」と訊いた。
友人は、それはあくまでも自分の個人的な出来事によるのだと答えた。

私はその友人が一体なにを望んでいるのか――しつこく訊きただされ本当のところを私に知らせることか、それとも諦めた私に次の機会を愉しみにさせておくことか、
とにかくその真意がわからなかった。ばかりか、少々腹も立ってきた。
私は「それなら(私に関係がないことなら)別に知らなくてもいい、私は私なりの方法で解釈しておくから」と言った。やんわり、放棄したのだ。
(いまさらだが、メールでの会話である)

私は、それでも友人が実はこういうわけで、と真相を話すか、あるいは何事もなかったようにじゃあまた今度、と切り上げるか、いずれにしても何らかの返答はあるはずと思っていたし、あるべきとも思っていた。
けれども返答はなかった。放棄したはずが、放棄されてしまった。


私はその友人のことを卑怯だと思った。でもあるいは私の方こそ卑怯なのかもしれない。
実際、私に関係しない由来なのだから、知ったところでどうかなるほどの重要さがそこに隠されているわけがないようにも思うし、これきり忘れたふりをするのも別に苦ではない。
が、どうしても私はその友人に愚弄されたような気がしてならない。そのためにその友人を疑ってしまいそうでもある。
私が素直に、知りたいから教えてくれと食い下がればよかったのか?
向うに悪意があったかどうかはわからない。性格上、そういう判断はつきにくい人物だ。

相手より上手を行くにはどうすればいいか、ということはこの際考えない。
ただ、私は起きた問題がどういう性質のものであるかが全くわからず、苦しい。
友人との会話においてこのような苦しみを感じなくてはならないことが、つらい。
渦巻く感情を持て余した結果、その友人の印象を次第に黒ばませてしまわなくてはならないことが、悲しい。
私は友人を疑い、自分をも疑っている。
卑怯なのはどっちだろう。どっちであっても、私はいやだ。
こんなことにいちいち拘泥して、神経削らせる毎日はもっといやだ。
 
   
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弱者 / 2006年06月09日(金)
ものごとは、よい方向わるい方向、行きつ戻りつしています。
そしてそれら全ての由縁は、私自身にあるのです。


明日は、映画をみにゆく。
太宰さんは、映画を「弱者の糧」だといっている。
まさしく、そうだ。
いや、そうじゃない場合のほうが多いのかもしれない。
少なくとも私は、こころに多少のゆとりがあるときでないと、映画なんてとてもみる気がおこらない。
そういうゆとりとは、つまり、元気のないときにうまれるものなのだ。
元気いっぱい、やる気に満ち溢れているとき(まあ、そんなこと、ごく稀なんだが)などは、他のやるべきことに没頭して、そのために始終こころよい疲労感に酔っ払っているもんだから、映画をみようなんていう気持ちは、いっさい起こらないのだ。
矛盾しているようだけれど、元気のないときこそ、映画を容れることのできる余裕はうまれる。それは、どうにも救いようのなさそうな、すき間。

「私が映画館へ行く時は、よっぽど疲れている時である。心の弱っている時である。敗れてしまった時である。真っ暗いところに、こっそり坐って、誰にも顔を見られない。少し、ホッとするのである。そんな時だから、どんな映画でも、骨身にしみる。」

ここ一週間ほど、太宰さんのエッセイ集みたいなものを読んでいます。
いまさらながら、やっぱり好きだなあ。

余談だけれど、ここには笑った。
「私は、映画を、ばかにしているのかも知れない。芸術だとは思っていない。おしるこだと思っている。」
太宰さん、すてき。
そして。「けれども人は、芸術よりも、おしるこに感謝したい時がある。そんな時は、ずいぶん多い。」
まさしく、その通りだとおもいます。


私は弱者か。だとしたら、私を弱らせるものとは。
―それは、私自身に相違ない。
なぜ。私、もっと真っすぐに、従順に、やさしく、生きたいのに。
抑えつけるのは、なぜ。僻ませるのは、なぜ。
卑屈になっている、と何度もおもう。おもう、それだけ。
後悔ばかり、あとから理由づけに苦心して、そうして捻り出した理由も、殆ど役に立たない。
救われない、蟻地獄のような葛藤だけ。
捨てさせてください。この我を。

「古老の曰く、『心中の敵、最も恐るべし。』」
 
   
Posted at 22:17/ この記事のURL
嫉妬 / 2006年04月29日(土)
念願であった、文学研究の足掛けともいうべきものが始まった。
あれほど愉しみにしていたにも関わらず、過度の自己欺瞞が、この期に及んでまたもや邪魔をする。
どうしていいものやら、皆目見当がつかない。

悪いのは他人ではない、私なのに。

懐っこい友人の相手をするのに時間を潰すのが惜しい、なんてよくも思えたものだとおもう。
彼女をおいて、他に誠実な人間がいるか?あんなにもあんたに誠実な友人が?
あんた自身が、誠実であろうと努められる存在は、いま彼女だけなのじゃなかった?

こんなことを書きつつ、しかし、私の心は乱れきっている。
大学という場において、友情という概念がとても浮ついたものに思え、その不誠実さに嫌気が差していた昨今。
ふと振り返った時に私を見ていてくれたのは、Cちゃんだけだった。
彼女は全てに誠実だ。そして私を頼ってくれる。
過度なものを求め合っているわけでもなく、さまざまのお喋りをし、手紙を書きあう。
彼女の手紙は、可愛らしい小さな字で、いつも23枚の便箋いっぱいにしたためられている。
互いに成人したもの同士、少し子供じみた付き合い方なのかもしれないが、いまの私にはこれが一番、まっとうな友人関係に思える。
自分に少々の責任を感じることなしに、関係などもてるものじゃない。
勝手かもしれないが、私は、周囲の軽薄に常々嘆息している。

それなのに、私は、すこしおかしい。
恋に狂っているのだろうか?
恋?大事な友人関係でさえ疎んじてしまうほどの何か。
それは、混迷した渦のような私の精神そのものなのかもしれない。
私の精神は変だ。そこらの狂気とはわけが違う。
そしてそこらの恋とも。
決して狂っているわけではない、恋をしているわけでもない、
のに、自分がわからない。理解の範疇を超えている。
 
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Posted at 18:12/ この記事のURL
白痴 / 2006年03月10日(金)
昨年11月に読み始め、つい先日終幕を迎えた「白痴」。ああこのおそろしい時間の浪費っぷりったら!
読むときは深夜でもなんでもずんずん進むくせに、読まないときは一切読まないという性質が災いして、また中途であれこれと寄り道もしたかと思われ、とにかくもう読み終えたという事実が、かなりの達成感に助長されながら感慨さえ興しかねないのだけれども。(世の中には、あれの何倍も何十倍も長いお話がいくらだってあるだろうに。なんだかもう、ひたすらおどろき。)

さて、読み終えたときには、長編小説の読後特有の、心臓を締めつける興奮やら爛々とした感動を持て余し、しばらくは解説を読んだりしてその余韻に浸っていたのだが、数日経って、その「酔い」のようなものが醒めたあとでも、やっぱりあれは、素晴らしい作品だな、という気持ちは、確固として在った。
「罪と罰」を読んだのは、まだ中学生時分で、話の筋を理解するのに精一杯、いやそれさえも危ぶむほどに頼りない読書をしたものだが、やはりあの時とは、感動(あの時も一応は、漠然とした感動は抱いたものだった)の質がまるで違っている。なにか、芯のある、「実在」を見せつけられる感覚に近い、感動。特に、ムイシュキン公爵という人物に対する憧憬は、胸を掻き毟りたいほどに切実なものだ。小説中の人物にこうした感覚を覚えることは、私にとってさして稀ではないのだが、それでも、この「完全に美しい人間」(を描こうと作者が苦心したという人物)は、私のこれまでとこれから、全ての出会いのなかで、必ず一番になる。そういう確信がある。こうした確信は、意外にもなかなかもたない私である。


肝心の内容についても、書いておこうと思う。以下は、私のほんの感覚的な感想。

ナスターシャ・フィリポブナは、公爵を愛するが故に、彼を汚さんがために、自らを死の道へと追いやった。ロゴージンもまた、そういう彼女を、公爵の為に殺した。誰もが、公爵を愛していたのである。
ロゴージンと公爵が、女の亡骸と共に夜を明かす、この最後をこそ作者は書きたかったのだということだが、これほど凄まじい結末を、私は知らない。
公爵がロゴージンの愛を知るからこそ、あの通夜はあった。また公爵が人間全ての愛を知るからこそ、彼は<白痴(ばか)>であった・・・
 
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Posted at 01:36/ この記事のURL
遣る方無し / 2006年03月01日(水)
1/23
待ち侘びたご返事は、送信から丸一日経った頃、踏切りに足どめを食っていた私の懐へ、するりと舞い込んだ。
するり、という形容がぴったりなその届き様は、気づかれることなくひっそり、というのでも、不意を突くかたちでひょこり、というのでもなかったわけで、
とにかくぶるる、ぶるると震えるポッケットに手を突き込んだ私は、何の懸念もなく携帯をひらいたのだ。
さして鼓動の高鳴りも感じず、冷静に、しかも沈着に、そして慎重に、文字を読む。一読後、その意図を読み取るべくさらにもう一度。踏切りが開く。

その内容は、おもに、というか全て、先生の「これからのご予定」の羅列で、それを知ったところで私はどうしたらよいのか、と考え抜いてしまうようなものだったわけで、実際問題、さてどうするべきか、私は半日悩んだ挙句、忙中のメール送信にたいする謝意を評して、また今度にします、といった内容の返信をした。思ったとおり、返信はなかった。なんだか、うまくいかないなあ。

2/某日
あの人は、どうやら無理矢理に居場所をつくりだした模様。
ああいう成り行きを決定づけた理由が、なんで私じゃなかったんだろう。
私には、なんの慰みもないまま。
祈られたって、ちっとも嬉しくない。
 
   
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原点 / 2006年01月23日(月)
原点に戻って。

案の定、無意識の焦らしは波のように間断なくおとずれる。
送信釦に指を掛け、外し、また掛け、を幾度となく繰り返し、
結局はそこで強行突破してしまうのが私の人間性というやつなのだけれど、
それでも今回の逡巡は、ひどくくどいものでした。
ここ、という瞬間があるようなないような、兎に角もすんなり送信完了し、
反射的に口には笑みが浮かび、母親に見られ気まずい思いをする。

何度も何度も読み返し、噛み砕き、構成し直したんだから、失礼はない筈だ。
ああでも恐ろしいな。空恐ろしい。ご気分を害してしまったらどうしよう。そうなったら生きてはおれない。

とか思いつつ、転寝。アイスクリームまで食べる余裕。


ご返事は、来るだろうか。
 
   
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不意打ち / 2005年12月02日(金)
昨日は文字通りの「不意打ち」を食らった。
何かこちらから接触を試みてもよいものだろうか、否か、
を迷いながら寝つかれない夜を過ごす。
もう少し、様子を見ようと思う。

何だろう、この策略深さは。
この状態を恋愛と呼んでも構わないとすれば、非常に妙だ。
感情のずる賢い働き、猜疑心、そして何より根拠のない自信、
全てをひっくるめて見た場合、私の「人生」そのものの方向性が露呈してしまうようでもある。

ここ数日は、何故か引っ張り出された例の封筒を目にして、得体の知れない感情を弄んでいたところだったから、
なんておあつらえむきな、そのうえなんて偶然な事件だろう!と驚き、それを隠すのに随分骨は折れたけれども、
あとになって、結局どういう道を歩いているのやら、どういう指針を見出したのやら、そうしてもとの職をどうするつもりなのやら、
私の最も知りたく思う、また私の平静を一番掻き乱すであろう内容は、微塵も知らされておらず、
それは知らされないような何か思い切った事情があるのか、それともかつての苦悩などとんと忘れてしまったのか、
どちらにせよ、本当にお騒がせな人だと思う。
しかしながら、私だってやはりすっかり忘れるわけにはいかなかったし、夢にもみることがあるし、全てにおいてどうにもできない立場だったのだから、
つまりはこういった事件でさえ、「幸せ」と見なさなくてはならない境遇にあるのだということを、そういう憐れな事実を、発見した次第であります。

今月は、サボらず書きたいと思う。
 
   
Posted at 11:03/ この記事のURL
唯一無二 / 2005年11月01日(火)
やはり忘却は不可能。他というのは考えられない。
色々に考えてみたけれど、相応しいのはあの人だ。
 
   
Posted at 21:58/ この記事のURL
突発的の奮起 / 2005年10月25日(火)
ちっとも来ないから、と軽い失望をあらわされたのでかえってこっちが面食らってしまった。
だって、あんまりしばしば行くと迷惑だろうという思いもあり、実際に好機を逸した行動をとってしまったが最後、一ヶ月程は自己嫌悪に陥るのが目に見えている。から、これほどまでに慎重にもなってしまうのだ。
でも今日は何故だか朝から奮い立つものがあり、行かねばならんという意志は昼過ぎになっても堅固なままだったから、エレベターを降りたあと少し怯んだのは事実だけれども、比較的スムーズに到達できた。
そして新たに一冊お借りする。今度は、雑誌の対談集みたいなもの。
きちんと読んでお返ししようと思う。

「それから」の原稿のことや、<宗教的感動>については言うのを忘れた。激しい悔恨の念におそわれている。今度は絶対に言う。
 
   
Posted at 18:05/ この記事のURL
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meism
筆者について
ミネコと名乗っております
大学の三回生になります
夏目漱石をはじめ、あらゆる文学を知りたく思っています
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