多摩市議会議員補欠選挙に立候補予定です!! 

2010年03月28日(日) 0時33分


多摩市議会議員補欠選挙に立候補予定です!!



世の中このままでいいのか・・・

子供の頃の、社会と、今の日本社会・・・

ずいぶんと、違う気が、します。

昔は、ホームレスも、ニートも、フリーターも、いなかった。

まして、年越し派遣村なんて、なかった。

電車のなかで、足を組む大人、お年寄りに、席を譲らない若者、なんていなかった。

公務員は、給料は、安いけど、人の為に、お国の為に働いていた。

先生は、日教組で、修学旅行にソ連にいこうなんて・・

どう考えても異常だけど、楽しかった。

大学にはいって、石油ショックで・・・就職も、大変だった。

なんとか、デパートにはいって、

景気は、少しずつ、良くなって行った・・・

それから、パブルになって、経済が、弾けて、

リストラの嵐・・・

やっと、景気がもちなおして、回復してきたと思ったら・・・

また、リーマンショックーー

子供も、大きくなって、なんか、世の中のことがすこしづつ解ってきて、

世の中に、もっと貢献する仕事が、したくなってきた。

政治も、経済も、ずいぶんと解るようになってきた。

自民党、政権交代した民主党、官僚、公務員には、ほんとうにがっかりした。

民主党には、あんなに、期待したのに・・あっという間に、うらぎられた・・


もっと、世の中に貢献できる道はないか・・・


地元多摩市で、2010年4月11日 多摩市長選、多摩市議会議員補欠選挙があるって。


そして、こんな話しが入ってきた。

一般市民からの陳情を・・・・


昨年秋以降急速な景気の悪化を受け、国内のあらゆる産業が落ち込み苦しんで

いる現状を見聞きしている時、新聞雑誌を賑わした日本一の公務員天国「多摩市」

の情報を見るとき、

多摩市民として憤りを感じてやみません。

多摩市職員は公僕の一員として襟を正し、日常業務に関し一層の効率化見直しを図り、

併せて市職員の給料一割削減を求めるご提案陳情致します。-陳情原文-

21陳情第17号 市職員の給料の削減を求める陳情 2009年12月22日 全市議不採択


市、市議会で、全員で不採択にした。


そして、そのことは、今月の、市の広報には、のせなかった。


やっと、先日、やっと、自体が判明した。


なんだ、23年間も住んだ、自分の町も、同じじゃないか・・・


猛然と、怒りが込み上げてきた・・・


人生一度きり、おもいきって、行動したくなった。



■自治体職員平均年収  百科事典ウィキペディア(Wikipedia)閲覧者数700万人
多摩市では、自治体職員の平均年収が2008年4月時点で約845万円であり、全国の自治体職員平均年収のトップであると報じられた。多摩市正規職員数2009年854人


多摩市年間事業予算 約760億円
多摩市職員 平均年収845万円・職員数854人
多摩市職員支払い給料総額 約100億円 (市予算に占める割合約13%)
国家公務員平均年収639万円
全国市町村職員平均年収627万円
民間サラリーマン全国平均486万円



 平均年収700万円以上は全国で187自治体“公務員天国”の実態がまた明らかになった。

全国の1割に当たる187自治体で、職員の平均年収が700万円を超えていると日経新聞が報じた。ちなみに従業員10人以上の民間企業の全国平均は486万円(厚労省調べ)だから“破格”の給与水準だ。公務員天国の最高は東京都多摩市で、職員の平均年収はナント上場企業の部課長並みの845万円だ。
自治体職員の厚遇年収をめぐっては、5月下旬に再選された鹿児島県阿久根市の竹原信一市長が、職員約270人の給与明細を市のHPで公開。自身のブログでも「年収700万円以上の職員が54%もいる」と非難したものだ。
 用務員が民間の2倍超の月給48万円、学校給食員も50万円近い月給を取る多摩市は一体、なぜこんなに高給なのか。
 市は、「50代以上の団塊の世代が多く、年齢構成が逆ピラミッドのため年収が高いと考えています」(人事課)と説明するが、
それだけが理由じゃない。「多摩市は本年度、教育や福祉などの民生事業の大幅削減を打ち出しましたが、約100億円の人件費は手付かず。批判かわしで確かに職員の本給は減らしましたが、その分、勤勉手当や期末手当などの諸手当がアップ。多摩市庁内には幹部よりも年収が高いヒラ職員がゴロゴロいるのです」(市内在住のジャーナリスト)※多摩市の人口は約15万人

■ア然ボー然の手当ラッシュ

多摩市公表の資料によると、職員一人当り年60万円を超える「地域手当」(06年実績)や、
下水道の汚泥を調べるためにマンホール内に入ると支給される「現場作業手当」(日額600円)、
旅行中に病人を扱うと支給される「行旅病人等取扱手当」(1件1000円または5000円)、
福祉事務所職員に支払われる「指導手当」(月3000円)など「手当」は盛りだくさん。
これに扶養、住居、通勤、管理、時間外の諸手当も付くのだから、しゃぶり放題だ。
「多摩市は職員採用を抑制して人件費を抑えているというが、非正規職員を『物件費』という扱いにして数字を調整しているだけです。この6月議会で人件費を見直す議案が可決されましたが、組合の反発が強くて実現はまずムリです」(前出のジャーナリスト)
中小民間企業のサラリーマンは、失業倒産に怯えながら給与・ボーナスカットやサービス残業を受け入れざるを得ない状況だ。公務員だけが恵まれすぎる国に明日はない。
(日刊ゲンダイ 2009/06/17 168万部掲載)

■自治体職員の平均年収「700万円超」1割 08年4月時点

都道府県、市区町村を合わせた全国の自治体の1割にあたる187の自治体で、職員の平均年収が700万円を超えていることがわかった。
総務省がこのほど開示した自治体別の平均給料と諸手当、ボーナスを合計して2008年4月時点の平均年収を推定した。最高は東京都多摩市の平均年収845万円    
民間の給与水準が低い地域を中心に、公務員の厚待遇への批判が強まりそうだ。
 地方公務員の給与水準はこれまで、国家公務員の給料を100とする「ラスパイレス指数」で基本給のみを対象に比較されてきた。今回、教職員と警察官、臨時職員を除く一般職員について、日本経済新聞が月額の給料や諸手当をもとに平均年収を算出した。

2009年6月14日/NIKKEI NET   


本日、多摩市、

市議会補選に立候補する予定になりました!!

思う存分、暴れてみたいと思います!!     向井 弘



多摩市長選挙及び多摩市議会議員補欠選挙

告示日    平成22年4月4日(日曜)
投票日時  平成22年4月11日(日曜)7時から20時  

ある日、わが町、多摩センター!! 400年前の、富沢家の家!!  

2010年03月04日(木) 9時04分
ある日、わが町、多摩センター!! 400年前の、富沢家の家!!


わが町、多摩センターです!!

駅南口にある、中央公園では、大きな池があって、

みんな、のんびりーーー

そして、そこに、

新撰組、近藤勇と親交のあった、地元名主、連光寺、

400年前の、富沢家の家を、連光寺から、移築、保存しています。

新撰組は、多摩の出身ですからね。




富澤家
多摩市連光寺

□ 何処の地域でも同様かと思えるが、江戸時代の村の名主層は戦国時代に敗北して土着・帰農した 者が多い。多摩川流域向いの丘の連光寺の富澤家も、駿河国今川家の浪人たちが土着したものである。
□ 駿河浪人が何故この地に居着いたのか、富澤家の文書がある。

□ 富沢家の先祖は秩父平氏畠山氏の流れであったが、戦国時代、武蔵国を制圧した小田原北条氏に 敗れ、駿河国今川氏に内通してその旗下にはいった。八王子城主北条氏照支配のとき、今川義元の 家臣富澤修理政本なる人が、北条領に進出を企て、武蔵・甲斐国の境の子仏峠から責め入って日 野・府中の分梅の線を確保し、北条方の軍事基地となっていた赤坂馬飼場を掠奪した。この東側の 小沢城や小沢河原は、北条氏照十六歳の初陣を飾った戦場である。北条氏の武蔵国進出の足がかりの 場であったから、鎌倉街道関戸の渡し付近でもあり、陣屋を置いて多摩川沿岸の守備陣地としたので あろう。近くに平安時代からの霞の関所もあり、北条氏照はここに六斎市を開いていた。富澤修理の 役目は北条氏の駿河侵攻を阻止するため、この地を略取して、その背後をおびやかす戦略ゲリラ部隊 であった。さらに対岸の分梅河原へ渡ろうとしたが、多摩川が自然の要害となって遂に攻略が ならなかった。しかもその対戦中、駿河国主の今川義元は織田信長の急襲にあい、討死したため駿河 勢は総崩れとなり、富澤ゲリラ部隊の任務も終わったのであった。

□ かくして富澤修理は戦国浪人となり、この地に土着したらしいが、この時期の文書が簡略で詳細は 分からない。しかし、北条氏が滅んで徳川家康が入国すると、膨大な富澤家文書の中に慶長検地帳 があるから、既に徳川領の名主の立場にあったらしいことが分かる。富澤家文書の全ては国立文書 館に寄贈された。

□ 明治十四年二月、明治天皇は八王子の御殿峠に出て一日兎狩り楽しんだ。現在の東京環状道路、国道 16号線を八王子から神奈川県相模原市へぬける途中で、多摩の横山の奥地にあたる。あまりに楽し かったことから急遽もう一日のばし、多摩川流域の向い丘の連光寺で再び兎狩りが催された。そのと き小休息所に使われたのが富澤家であった。その記念碑が現在も同家の前に建っている。近くの 乞田川を渡る橋は行幸橋と名付けられ、多摩川を見渡せる向い丘の頂上に聖蹟記念館が建てられた。 小休息所になった富澤家の御座所の柱や天井板などが真黒く煤染められてあることから、この家は 何年頃のものか御下問があって、当主は慶長頃と答えたという。つまり同家の母屋は慶長十五年(1610) 棟上以来、四百年近くもそのまま使われてきたことになる。社寺仏閣ならまだしも、一民家としては 希なことである。

□ ところが今回、非公開を承知で撮影に訪れたら、門前に「明治天皇御小休所」の石碑はあるものの、 茅葺屋根の姿は消えて洋館に建替えられていた。史跡に指定されているとはいえ、直接尋ねる訳にもい かず、市役所へ問合わせてみると、富澤家から寄付されて多摩センター駅前の中央公園内に解体・ 復元保存し、公開されていた。

□ 保存管理上のためか茅葺屋根は銅板葺に替えられたが、上層農民の典型的な民家が見られる。

□ 富沢家に近藤勇の使った鉄扇が保存されている。
□ 当時の当主富澤政恕と近藤勇とは天然理心流の同門であったばかりでなく、勇が調布上石原村の 宮川家から江戸牛込の試衛館道場主近藤島崎周助邦武と養子縁組した際、その仲人役が政恕であった。 調布から出て鎌倉街道を小野路の小島家へ行く途中の関戸の渡しを渡った処に富澤家がある。 近藤周助邦武は小野路の先の現在は町田市の小山村三ツ目の島崎家の出身であった。


□勇が京都で新選組局長として活動していたとき、たまたま政恕は連光寺知行主の旗本天野孫左衛門と 京都へ行って近藤を訪問した。二人を迎えた勇のもてなしは大変なもので、帰府の見送りには一隊 を添えて伏見まで出て決別を惜しみ、そのとき記念に贈られた鉄扇であるという。扇面には「勢欲 飛 宮闕衛士近藤書」とある。宮闕とは禁中・宮城のことである。「幕臣」としての近藤勇は、 幕府が最後の拠り所とした公武合体論をその思想的根拠として、討幕論者を容赦なく取り締ってい たことを、その扇面は語っている。坂東千年王国


プロフィール
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