第3回 なくなった礼儀 

2006年11月23日(木) 13時21分
日本人は「礼」を重んじる民族だ!
昔からそう思っていたし、今でも自分はそう信じている。

けど、それは自分だけなのかな〜って疑問に感じてきた今日このごろ。
今は「礼」は「たてまえ」だけで済まそうとしている人たちが多いと思う。
そして「礼儀」は「礼偽」になりつつあるのではないか、と心配だし、悲しいことである。

例えば、サイトやSNSを利用して知り合った人たちとの出会い。
メールのやりとりから始まるのが一般的で、ある程度仲良くなったら「リアル」するパターンが多いと思う。
けど、そこで知り合って本当に「長く続く付き合い」ができる人たちって、いったいどの位いるのだろう?
自分でもそんなにいない。

けど、「出会えれば」まだいいほうだと思う。

よくあるパターンが「そしたら会いましょう」で終わる返事。
んじゃいつ、どこで、となるのは当然。
そしてこちらから提案すると、
「その日は予定があります、ごめんなさい」
で終わるケース。
んじゃいつなら大丈夫なの?って思うのも当然。
その答えは、断ったほうから提案するのが「礼儀」または「スジ」だと思う。
なのにこちらから再度問いかけないと何も答えないし、その答えもまた「未定」だったりする。
未定なら未定で申し訳ない、くらいの返事は、「問われる」前に伝えるのが普通だと思うのは、自分だけかな?
予定があるのは仕方ないのだから、それを早めに「明示」することで相手も安心するんだと思うけど。

また、理解できない返答に「また誘ってね」がある。
最近では、「よくある断り文句」なのかな〜とも思う。
先に書いたように、相手も「予定」があるのだから、断られるのは仕方ないこと。そのことを攻めたりはできない。
けど、「本当に会う気」があるのなら、「この日なら空いてるけど、どうでしょうか?」と逆に断ったほうが明示するのが当たり前ではないのだろうか?
「また誘ってね」
それはつまり、「その時予定が空いてたら会いましょう」ということではないのか?
だとすれば、自分勝手もいいところだ。
相手の「予定」そして「気持ち」を完全に無視していると思う。
しかし、「傷つける表現」ではないので、使うほうも罪悪感など微塵も感じることはないんだろう。
だから平気でこうやって断れるんだと思う。恐ろしいし、悲しいことだ。

また、誘うほうも、「相手の予定に合わせる」ことが「礼儀」「スジ」だと思う。
当然、曜日は誘うほうが設定して提案する。これは当然だと思う。
けど、「時間」まで考えていないことが多いのではないのだろうか?
一日の時間の使い方は、人それぞれなのだから、誘われる側も当然「空いてる時間」「埋まってる時間」があるはずだ。できればそれも聞いたほうがいいかもしれない、「自分に埋まっている時間」があるのなら。

「○曜日空いてる?」
「○○時からなら空いてるけど。」
「そうなんだ・・・俺は○○時からは予定入っているから・・・。」

誘われた相手はどう思うだろうか?
一瞬とはいえ、凄く楽しみにしていたはずである。「○○時から会えるんだ〜!」ってね。
それを一瞬で砕く次の一言「○○時からは予定あるから・・・」
ショックを受けないだろうか?個人差はあるとして。

それなら、誘うときに先に一言添えるべきである。
そうすれば、相手もそれにあわせて返事ができるし、双方寂しい思いをすることはないだろう。

一昔前は、「会う」ことで寂しい思いをしたことがなかった。こんなケースはなかった。
どうしてか?
答えは簡単。みんなが「相手のことを考えて」行動しているから。

今は皆が「自分本位」で動いている。そして「与えてくれる」のを待っている。
どうして「与えてあげる」行動をとれないのか?
どうして「相手のこと」を考えることができないのか?

こういった「悲しい問題」を解決できたとき、人は失った「礼儀」を取り戻して、暖かい人間関係を作っていけるのだろう。
少しでも早くそんな日が来ることを願いながら、日々を一生懸命生きていこう。

第2回 薄れゆくマナー 

2006年11月08日(水) 21時40分
会社の同僚で、感心している子がいる。

先日の話。
「ちょっと聞いてくださいよ!この前いつもどおり電車に乗ってたら、いい年こいた若者が座席に堂々と座り込んでいたんですよ。目の前に妊婦さんが立っているのに!だから俺言いましたもん。妊婦さんいるよって!」

その彼もまだ20代前半。最近の20代前半でいい出会いがなかったものだから、なんだか新鮮で、聞いていてとても気持ちよかった。こんな同僚がいてよかった〜って素直に感じた!まだまだ世の若者も捨てたものじゃないな〜!

しかし・・・全体的に「マナー」は失われつつあると思う。
平気で電車内で携帯でぺちゃくちゃしゃべっている「大人」
電車に乗りたいがために無理やり乗客を押し込もうとする「大人」
ゆずってもらったり道をあけてもらったりしても「会釈」すらできない「大人」

共通していえること。それは「みんな自分のことしか考えていない」ということ。

もちろんそんな大人ばかりではないことは分かっている。
現に今の自分の職場は、初心者の自分に仕事を頼むにしても「お願いします」とか、やりおえると「ありがとうございました!」とか、一言必ず添えてくれる。嬉しいのと申し訳ない気持ち(もちろんいい意味で)で一杯だ。

一言添える・会釈をする・席を譲る・携帯を控える、どれも「難しい」ことではないはずだ。
ただ、自分が「欲」を満たしたいがために、そんなことすらも「苦痛」に感じてしまうのだろう。
そんな一時の「自己満足」よりも、お礼や感謝の気持ちをもらったほうが心地よい、と思うのは自分だけだろうか?

みんなが「同じ気持ち」になれば。
みんなが「相手を思いやる気持ち」をもてれば。
もっとすばらいい世の中になるのに!

第一回 「生きる」ということ! 

2006年10月25日(水) 21時29分
最近また多発している「いじめ問題」。
しかも昔より悪質化しているような気がするし、「人」の心も全体的に「荒んで」いるような気がする。

ここ数日の間では、なんと「教師」が率先して生徒をいじめていたというではないか!
正直いってコトバが出てこない。ある種の「怒り」を通り越してしまっている自分がいる。
・・・いかんいかん、こういうときはしっかり怒らなきゃ!
そりゃ、先生にいじめられたら、周りの生徒も「我先に」いじめ始めるようになるよな。
頼りの「先生」にいじめられてた生徒は、たまったものじゃない。
「人間不信」に陥ってしまっても、何もいえないと思う。

けど、俺は思う。「自殺したらそこで本当の負けが確定する」と。
いや、それ以上に自殺は「自分を殺す」という「犯罪」だと思っている。
「他人か自分か」「罪に問われるか問えないか」の違いなだけ。
つまり、それまでどんなに耐えて耐え抜いていたとしても、自殺したその「瞬間」に、「罪」をかぶることである。
一方でいじめていたほうは、「良心の呵責」に攻め立てられるだけで、罪には問えないし、本人の心次第ではのうのうと生きていくことができるわけだ。
そう考えたとき、「自殺」ほど愚かなことはないと思うのは、俺だけだろうか?
こんなバカな話があっていいのだろうか?
答えはもちろん「No」。絶対に認めてはいけない!

我々ゲイの世界は、普通以上に人間関係に悩んでいる人が多いと思う。「ゲイ」ということがばれたり、勇気をもってカミングアウトをした人は、そのことで今もいじめられ続けているかもしれない。そういう人が今もどこかの部屋の片隅で泣いていたり、または自殺を考えていたりするかもしれない。

もし、このエッセイ?を読んでくれている人たちの中に、そういう人たちがいるとすれば、もう一度思いなおしてほしい。
自分を産んでくれた両親のことを。今まで支えてきてくれた人たちのことを。
生まれてからすでに「一人」だったという人は、まずいないだろう。
生き抜いて、自分なりの「幸せ」を勝ち取ることが、いじめてきた者たちへの「最大の復讐」だと思う。

今はインターネットで、世界が身近に感じられるようになったわけだし、それを活用して、いじめに関する悩みを相談したり、ネットワークを築くことだってできるはずだ。

忘れないでほしい。人は決して「一人ではない」ということを。
自分と同じ悩みや苦しみを持っている人は、必ずいるということを。

そして、「生きることの大切さ」と、「命のありがたみ」を。
2006年11月
« 前の月  |  次の月 »
1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30
プロフィール
  • プロフィール画像
  • アイコン画像 ニックネーム:conyworld
読者になる
Yapme!一覧
読者になる