25歳。複製技術時代の音楽。

April 29 [Wed], 2009, 18:46


私は若い人々に向かって云いたい。死ぬるにしても、生きるにしても、二五歳までに決定したまえと。ヨットの大洋横断であろうと、又、ヒマラヤ登攀でも、飛行機の冒険でも、革命運動でも、二十五歳を過ぎたならば世間は相手にしてくれなくなる。そのあとは各自はその方面のプロかボスかになるより他はない。何故なら、人生における最も高貴かつ純粋な内容が、その本質を喪失して、「本当に生きてはいない状態」に下落してしまうからだ。

稲垣足穂「二十五歳までに決定すべきこと」


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恩田晃さんの音楽を聴くということは、一体どういうことなのかしら。その他の音楽を聴く体験とは少し異なっているように思う。やはりどこか、"写真"ということがどこかにある。写真を見ている感覚に近いのか…?しかしもっと気持ち悪いものとして迫ってくる感じがする。本質的な意味での"複製技術時代の音楽"とは、ヒップホップとかのサンプリングよりも、恩田晃さんの方だと思う。現実の音が複製され、反復され、変形され、引き延ばされ、時にはフィードバックを起こして雄叫びをあげる。それはどこかゴダールの映画とも似ている。写真とゴダール映画の狭間にあって、そのもうあちら側まで踏み込んでいってしまってる音楽。記憶の再生。異化された現実は屍体のような闇と夢幻的な光を併せもって曖昧多義的で生と死の境界をたゆたっているかのようです。

貸借は友を失う

April 29 [Wed], 2009, 1:44


貸借は友を失う by ゲーテ


だってさ。ははは。民宿のトイレに貼ってあった!ははは。

風のふくらみ。

April 28 [Tue], 2009, 3:32

秀才に就職難はない。と書いていたのは、高山宏さん。本当に面白い人間ならば、どこかに確実に居場所があるはずだもんね。うん、当然の話。わたしはろくに就職活動もしてなかったからなぁ。「こういう人間が、ここにいますよー」って感じで、どんどん表に出ていかないといくら面白い人間でも、発見してもらえないよね。もったいない!自分の可能性を狭めている!どんどんいろんな表舞台に出ていかないとな!
そう、どうせなら、とびっきりヘンテコな勢いを持った人になるべきだ、と思った。カイロに行った時に、あの時は本当にカルチャーショックで自分自身の内部に閉じこもってゆくような感じがあった。よくないなー。よくないよー。まぁたしかに、なにもかも開けっぴろげにしてやってると、どうなっちゃうのか分からないような世界だったからねぇ、それも分かるけど。でももっともっと、世界に飛び込んでゆくような勢いが欲しいなぁ、と、自分でも思いつつ、だった。いやぁ〜、胡散臭い人か好奇心旺盛な純粋な人しか話しかけてこないんだもの。後者はとことん照れ屋でとてもお茶目で友好的でいいんだけど、前者がね…。軽くトラウマになりそうな勢いだった。それもまた、笑い飛ばすようにして生活してたけども。で、なんでこんな話をしたのかと言えば、そう、カイロでね、とある路地をぐんぐん進んでいった時の話、突然遭遇したのは、西洋人がいっぱいいる、美術館みたいな場所というのか…。あそこは、窓にガラスがなくって、もんのすごく不思議な場所だったんだ。あそこに出入りしてた西洋人たちはキャメラを抱えて半ズボンみたいな人とかもいて、不思議な感じだった。しかも交通の便もあまりよくないのにね。あれって、一体なんだったんだろう…。あそこに近づいていけばよかったって、今考えれば思うんだ。好奇心の赴くままに、ためらわずに進んでゆくということがわたしには必要。なんか、わたしなんかみたいな部外者が、行っちゃいけないような気がしたんだぁ。でも、そんなことないよね。どんどん飛び込んでいって、既成概念みたいなのを壊しにゆくくらいの勢いがなくちゃ。でなくちゃ、なにもできないよ。ねぇ。
はい、まぁ、なんだかんだ書いてるけど。とりあえず、ね。ふふふ。やってやんなくちゃ。自信と自己懐疑が錯綜しすぎて、ワケ分かんなくなってる。ばっかみたい!


えっと、この間に書いた、「わたし、という職業になればいい」というのは、テレヴィでやってた、登山家の野口さんって方が、お父さまからいわれたエピソードね。すごくよかったな。ステキなお父さまだと思った。「父親が落ちぶれてくると、なんかどんどんオレの方に近づいてくるんですよね。それで、今までしたことのないような話もいっぱいして。親父と一番腹割っていろいろ話したんじゃないかなぁ」って、いい話だった。それから、その野口さん、わたしと同じ学校に行ってたみたいで、ちょっとびっくりだった。あらー!って。懐かしかった。ふーん♪

濃紺。

April 25 [Sat], 2009, 15:58


一日雨の日は、ツァイ・ミンリャン『楽日』を思い出す。あの映画の最後の場面はほんとによかった。


***
夜、渋谷に自転車で出て、必要なものをいくつか。
・ツタヤにてDVDレンタル。プレイガイドにてチケット3枚購入。
・石橋さんにて、シールドを一本購入。
・ブックオフにて『赤めだか』『精神としての身体』『出版』『一般教養の天才』を購入。『エレンディラ』も見つけたけど、また会う日まで。
・タワレコで『intoxicate』をもらう。大友さんと小野さんとのがとてもよかった。

ヘンな日。お金がどんどんなくなってゆく。いつもカフェーへ行ってるお金とかも、節約しなきゃな。
区民図書館にて、NHKラジオ『まいにちロシア語』の昨年度のテクストをもらう。嬉しい。
学生支援機構に朝から電話しているのだが、夕方になっても一向に捕まらず。しかも電話待ちの間もお金をとられるので、結局300円ほどの出費。30分も待ったのに、電話も繋がらず、苦情を云いたくとも、電話が繋がらないのでため息しか出ない。もうひとつ、機材のことでローランドさんに電話。あぁ、こちらの対応はほんとうに素晴らしかった。よく分かった。ありがとうございました。
ヤン・ガルバレクばかり聞きたくなる。近頃、イージーリスニングばかり聞きたくなるのだ。ガルバレクはイージーリスニングじゃないけれど、でもそんなようなもの。ジャズとしては熱っぽいエントロピーとスリリングさに欠けるし、ちょっとスピリチュアルっぽいのもギゼンみたいに感じられてイヤで、家で自発的に聞く気にはならない。けど、不思議なことにラジオとかで流れてくると、その美しさにウットリする。これ、この違いはなんだろう、とね。思う。家で音楽を流す時は、エコライザーで音を極力アナログに近づけて流す。じゃないと、音楽が音楽として自立していると不自然な気がしてくる。音が生活の中で浮き上がりすぎるんだと思う。もっと日常になじむ音がいい、と思った時に、アナログのような質感で音の輪郭を少し曖昧にぼやけさせるのがとてもいいと気づいた。不思議だけどねぇ。わたしには、そんな感じなの。
「美の壷」にて、襖の特集をやっていた。おもしろかった。

さて、今週末中に終わらせなきゃならない作業が2つ。たった2つ?と思うけど。でも、大事な2つ。ひとつは、友人の舞台のための。ひとつは、今後のために今決めとかなきゃいけないものの。がんばる。

土の塊。

April 23 [Thu], 2009, 17:36



60年代初頭の映画館の雰囲気についての話を聞く。ATG映画と新宿の街、ヤクザ映画、ビートルズ映画、それからリュミエール兄弟の電車の映像の話。映画館体験というものも、かなり変化してきてるんだよなぁ、と。
小林一三、湯川秀樹、松下幸之助、丹下健三などの話が出てきて、もう、面白くて仕方なかった。なんだ、この人たちは!という感じ。京都の街の話も。
古楽器と残響2秒のホール。残響5〜10秒の教会とオルガン、装飾品としての。クラウディオ・モンテヴェルディ、ルイ14世とバロック・ダンス、リュリの話。ジャン=フィリップ・ラモー、テレマン、それからバッハの辺り…。指揮者の通奏低音からの解放とチェンバロ協奏曲。
バッハの下の世代で古典派一歩手前辺りの、対位法が崩れて分裂してるようなものが面白かったです。実はモーツアルトの個性って、そこまでずば抜けてたわけでもないんだなぁ、と。メンデルスゾーンの再発見。チェンバロは打楽器ではない。

演劇は他人の人生の一幕を見てるような感じだから、ダンスを見るよりも抵抗があるのだな、わたしは。映画も、どちらかといえば人物の人生の一幕ではあるのだけれど、眼の前の身体にムリに入り込んでゆく必要はない。


夜、眠りにつく直前の表情が翌日の顔に影響する。(宮本亜門)

樹のこぶ。

April 22 [Wed], 2009, 2:43


久しぶりに友だちとお茶。というか、その前に、夜19時から公園でセッション。わたしはドラムスティックでベンチや柵などを叩いて、足に鈴をつけたりなんかしつつリズムを、彼女はそれに合わせて踊りを。なかなか楽しかった。夜の公園は音が響くなー、と思いながら。しかも、カップルとか多かったしのだけど、迷惑かけてたらごめんね、っていう。そうそう、噴水が、アンセル・アダムスが撮ってるジュネーブのものに似てて、ちょっと感動しちゃった。それに、夜が更けたら、池の向こう側の光景が、ポール・デルヴォーの絵みたいなのね。すっごいひっそりとして、なんか迷宮に入っていってしまうような。彼女は、「こういう世界がやりたいんだよぉ」って言ってた。今年の夏のソロ作品の話。エンデとか、好きな彼女。施設でパフォーマンスをしてた時の、そのスタンスについての話をしていた。
それから喫茶へ。話はだいたい「個人的なところから始まったものでないと信用できない」ということに終始した感じ。それは社会的な活動の話についても。何かをやってあげてる、のではなく、なにかをもらいにいってるのだ。映画を観ることとダンスを観ることの体験の違いについて。"万物に対して善であるもの"って、あるのか?という話。
それから。一番理想的な生き方としては、ただ毎日の淡々とした日々の営みの反復を続けてゆくことなのだけれど…例えば、農家のおじいさんが、小学時代から90になるまで毎日毎日畑を耕して生きてきたというようなこと…或いは、陶芸家の方が、芸術なんてもの何も考えずに毎日毎日陶器を作りつづけて生きてきた、というようなこと…そういった生き方が一番の理想なのです、わたしには。それって、一本の樹があって、そのすごくヘンテコな位置から葉っぱが生えてくる、っていう、そういうような、一本の樹の一生…というものとも似てる気がする。生きることって、そういうことで。なにかを成し遂げたい、なんてこともないし、ただ静かに、植木の花が少しずつ成長してゆく姿を見るように、眼前にやってくる些細な日々の訪れと共に生きていきたいなぁ、と思う。"表現"以前の生き方。そこに明確な意味も目的もなく。でも、なにかそこに貫かれている巨大な意志のようなものはあって…。そのもとで、生きてゆくこと。ヘタに、パフォーマーとして生きてゆくよりも、そういった生き方の方が、理想的なんだ…。だから、自分が何か" 表現"したりすることに違和感を覚えたりするんだ。表現したいことなんて何もないし、何かの目的もなくやっている。「あなたが○○でやりたいことってなんですか?」と尋ねられたって、そんなの、分かるはずがない。ただ単に、そうやらなきゃいけなかった何かはあって、それを直感で感じ取りながら手探りで進んでゆくこと。そうして掴みたいものも、結局はわたしの生きていることの反復を繰り返してゆく中で幻影のように浮かび上がってくる何か…人によってはそれを"真実"と呼ぶのかもしれないけれど、もっと柔らかくて多義的な何かで。だし、そもそもそんなこと、わざわざ人前に出てやる必要があるのか、と疑問に思ったりして…。人に伝えたいことも、そんなこと、ありゃしない…。人前で"表現"することなんて、自分はちとも求めてなんかいない、と…。それでも一方で、やらざるをえないような、そんな何かがある。何もやらないのが理想の生き方ではあるけれど、でも今の自分がおかれた立場としては、何かをやらなきゃ逃げになる、というところがある。永遠に手の届かないものであるとはいえ、何かをやることを通して学ぶことがたくさんあって、今は、そこに身をおく時期なのだ、ということ。なんかねー。複雑…。
100人いたら100人がそれぞれなんらかのことを感じられるようなものでありたい…というような人がいるけれど、それって、どういうことなのか?わたしはタルコフスキーって映画監督が大好きで、わたしの最終的にたどりつきたい境地っていうのは、限りなく彼の作品の持つスタンスに近い。けれど、ある友人に「そもそもタルコフスキーの作品って、まぁ僕も好きだし分かるんだけど、でも10人いたら、2、3人くらいしか反応しえないようなものなんじゃないか?」っていわれて…。「でも逆に言えば、いくら大多数の人が感動する作品でも、それに反応できない2、3人だっているわけでしょ?それならば、その2、3人のための作品を、わたしは信じる」って、言い返したりもしたのだけれど…。100人いたら100人の心を動かす作品って…。そもそもそんな権威的なもの、芸術っていえるのかしら?って思えてきたりして…。そんなもの、ファシズムみたいなもんだ。
そういえば。昔、演奏したまんま、音を鳴らしっぱなしにして舞台の途中でステージをおりた時の話にもなった。あの時はたまたま楽屋に忘れ物したからなんだけど。でも、あの瞬間のスリリングなこと!で、彼女に言われたのは、「その時から一貫して音楽云々より"場を動かす"ことに興味があったんじゃない?」ってこと。あ、たしかに…、って、思った。演奏家の身体は、そこに留まっているしかない…というのが、とても人間らしくなくてイヤなんです。たしかに身体は動いているのだけれど、でもなんか、不自然なんだ。演奏する人と、聴く人、という構図もイヤだし。わたしが好きなのは、自分で出した音を、みんなと一緒になって聴くこと。そういう瞬間が、一番気持ちがいいし、自分にとっては、自然体でいられる、そして自分のやりたいことができている、聴いてくれている人たちと対等になってその状況を楽しめているように感じられる瞬間なんだ。自分のやりたいことをただ投げっぱなしにするようなのは嫌いだけど、だからと言って媚びるのもバカらしい。偽善者ぶって連帯を煽るのも違和感がある。武満徹さんが、作曲は聴くことだ、と言っている。キース・ジャレットは、即興演奏は聴くことだ、と言っている。うん、彼らの態度こそ、わたしは素直に受け入れることができるものだ。わたしは全面的に、彼らの側に立っていたい。演奏者の身体への違和感について書いていたのが、話が逸れたけど。自分自身の身体を解き放っているのかどうか、ということ、それが問題なんです。どれだけ好きに演奏していても、身体がうたっていないと仕方ない。というよりも、音としても、身体としても、"場が動かないと"、人間としての根源的なところと繋がっているように思えない…。ダンスをしてる身体との違い、というものが、絶対にあって。まぁ、表現方法が違うのだから当たり前と言えば当たり前だと言われるかもしれないけれど、でも、ダンスの方が、人間として、日常の動作や日常の生き方と直結しているように思えるところがあって。音楽は、ダンスに比べて、そこにワンクッションある。そのことが、わたしにとってはすごく大きな問題。また、聴く/観る側の体験としても、違ってくるんだよね。極端な話、生演奏の時に目を瞑っていても、音楽体験としては一向に差し支えのない音楽。でも、ダンスは、目を瞑っていては、見に来る意味がないからね、当たり前だけど。それは何故か。見るという問題。それから、聴くという問題。芸術を「見る」ということは、同一化すること。「聴く」ということは、受け入れること。その辺りについても、話したりした。

さて、話は変わって。今わたしはどこも所属していないわけで、そういう感じがとてもキツかったりもして、とにかくなにかやらなくちゃ…という焦りばかりがあったりもするのだけれど、でも「なんにも所属していない時期って、そんなのこれからの人生でも滅多にないことだし、そういう時期にしかできないことがある。だから今しかできないことをとにかくやること。そういう時期に何をしてたかってことが、あとあとになって意外と大きかったりすると思う。そういう時期って、大事だよ」って。彼女自身もそういう時期をへたことがある立場からいってもらって、自分の抱いてる焦りを、もうちょっと建設的な落ち着いた気持ちに変えよう、って思った。でもやっぱり最終的には、何かやんなきゃ始まらないからね。少しずつ、カタチにしてゆくための蓄えを。
でだけどなんだかんだ言って、最近はよくいろんな人に会ってる気がする。まぁ、ちょっとガックリするような出会い(?)も中にはあるけど、でも、ひとつとしてムダなことなんてないからね。それぞれの生き方があるし考え方もあるので、考えさせられることはそれなりにいろいろある。
今はとっても時間がたくさんあるので、いろいろと観に行ったりもしているのだけれど。でも、結局は、自分が何かやりたくてウズウズしてる。うん、やる。

盆栽と水。

April 22 [Wed], 2009, 2:24

灰谷健次郎さんの言葉がとてもよかったので、メモ。

植木に水をやるようにいつもいつも言い聞かせられていたこと…

優しさは厳しさだということ。
今、ここで素通りしてゆくこともできる。でも、これからのこの子の長い人生、本当に強い人間として歩いてゆくために、今ここで負けちゃいけない、ということ。

こんなに明るい人たちがいるのか?と思うほどの沖縄の人たちから学んだこと。
自分を責めて生きていて、どうして死んだ人たちが幸せに生きていけるか。
幸せに生きている人の中でこそ、死んだ人も幸せに生きている。

自分の中にどれだけたくさんの人を住まわせられるかということ。そのことによって、わたしは人の値打ちが決まってくるんじゃないかと思う。



人の仕事はこれまでいろいろ学ばせてもらったことへのお礼。いつも人の役に立っているという心棒がなければそれは仕事ではない。仕事が深ければ深いほど、いい仕事であればあるほど人の心に満足と豊かさを与える。

コンステラチオン。

April 20 [Mon], 2009, 16:16


ベンヤミン。断片のモザイク、引用、モンタージュ、状況布置。



老子関連の本を読んでいたのだけれど、どれもとても大事なことではあれど、今までわたし自身、何度も何度も心の中で反芻してきたようなことばかりだったので、あまり新鮮味もなかった。ぜんぶ、そんなこと分かってるよ、って感じで。でも、そのように生きることはいつまでも難しい。慎ましく静謐に中庸でありながらも、ラディカルに行動して、問いを真っ正面から投げかけられるような人間じゃないとな。


わたし、という職業になればいい、どうせなら。それしかもうないかもしれない。もう既に人と違う道に来てしまっているのだから。もう、自分は"人並み"には戻れないような気がする。とにかく努力して、今の自分を貫いて続けてゆくしかないんだろうなぁ、と思う。
生き方に関して、人に共感されることはよくあるのだけれど、その人に対してわたしは全く共感を持つことができない、ということが、よくある。そういう場合、なんか根本的なところで違和感を感じてるんだ。
先週は、深い共感の念を込めて「自分のこと、特別だとか思いません?」とか言われて。「は…?」って思った。わたしって、そんなに傲慢に見えるかしら?たしかに、好きなように、自分の思うままに生きさせてもらってはいるし、自分にしかできないことはあると思っているけれど。でもそれって単に、それぞれの人間は見てきたものも経験してきたものも違うわけで、すなわち一人一人の人間が異なる「歴史」を生きてきたわけで、だからそれぞれの人が辿ってきたその「歴史」からしか語れないことがあると思う、ってだけで。そこから何をするかも何を語るかも、その人次第。そもそも自分を"特別"だと思って何かをやってる人なんて、信用できない。それは使命感とは別の話。何かを、そうせざるをえないからこそやってる、やらざるをえない、という人にしか、共感を示すことはできない。
「変態ですね」と言われることが、よくある。そういう人たちが共通して言うには、"変態"とは褒め言葉である、ということみたい。バカじゃないの?って思う。そういう人に限って、"変態"に憧れているだけの中途半端な人間であることが多い。そういう人の多くは、ただ"変態"っていう表面しか見えてなくて、その人が生きてることの切実さとか、身を切るような思いとか、見えてないんじゃないかって思う。もっと、生きてることを賭けて、崖っぷちに立たされながら生きてる人たちがいるってことを、分かってるのかしら。お遊びじゃないんです。もちろん、ただの嗜好から始まっているにしても、どうしょうもなく、そうせざるをえないという消しようもない悲壮感が全体を覆っているのです。好きでマイノリティーの立場におかれたワケでもなく"人と違う"ってことにずっとコンプレックスを抱いてきたような人間の傷とか痛みが分かるのかしら?と思う。「自分は人と違う」ということの哀しみが、分かるのかしら?と思う。
くだらないね、こんなこと書くなんて。でも、そういう、人として信用できない人に共感を持たれることが多いということは、そういう人たちを呼び寄せるようなものをわたしが持っているからということでもあって、言い方を変えるなら、わたしもそうなりうる危険性があるし、そういう傲慢で底の浅いチャランポランな人間と変わらないとばかりに見られうるということでもあって。それだけは解せないので、ただ単に違和感を感じるだけでなく、やっぱり結局は、自分の信じてることをカタチにして、それで、そういった甘えた考えを抱いてるだけで何の行動もしてない人たちを斬りつけるような強度を持った生き方をしてゆかなきゃいけないなぁ、と思う。仏さまみたいに、みんなに優しくなれたらそれが一番いいけれど、でも、それは単なる癒し系みたいなものの対極にあって、身を切るような厳しさから来ているのであって、それは人に厳しくあることよりも難しい。その人が優しいというそのことによって、人がショックを受けるような、そんな生き方が、ある。
でもなぁ…。わたしのこういう考え方って、やっぱりちょっと傲慢かしら…。いつも自己嫌悪…。でもいつまでも落ち込んでいてはなにもできないし、自信はなくともとにかく進むしかないんだな、と。常に自分自身を相対化して、今自分がやってることや感じてることを問い直してゆくことも大事。その時々で最低限、"逃げ"や"ごまかし"にならないような生き方をしなきゃ。"保留"にしているものも、いつでもそれを動かすための準備を怠らないようにしておかなくちゃ。



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おとといのお昼に、バレエを見に行かなきゃいけない30分前に超特急で15分くらいで作ったパスタが、めっちゃくちゃおいしかったので、メモ!たぶん、なにも考えずに超強火で高速で作ったのが良かった。
ニンニクとタマネギをじっくり炒めつつ、途中で一度軽く揚げた若鶏も加えてじわじわとやってから、ニンジン、シイタケ、ホウレン草などを加えてトマトをラフにすりおろして、全体に油がまわったら水と白ワインでしばしばじりじりと蒸してから、ふたを開けて塩と砂糖で軽く味を整えて粉チーズでほのかにマイルドにしてから、塩茹でしたパスタを絡めてバジルとパセリとコショウをトッピングしてできあがりでしたー!「これ、お店とかよりぜんぜんおいしいじゃん…」って、お褒めの言葉を頂いたのだけど、今頃気づいたんかい(笑)!だてにキッチンさんでバイトしてませんでしたよ。ふふふ。でも、そんなにおいしかったのに超高速で食べなきゃならなかったのが残念!まぁ、じっくり味わうよりもかえって味の印象とか残ってよかったのかもね。忙しい時ほど、お皿の盛りつけとか洗い物とかテキパキできるし。頭の回転が早くなるのがいいんだなぁ、たぶん。ふむ。

バレエの方は、まあまあでした。わたしの感受性が追いつかなかったのかな…。

灰色の空と感触について。

April 14 [Tue], 2009, 14:20


春。近頃、いつもよりも早く目が覚める。不思議。


雨の午後。この感触はとても好きだ。湿度といい、匂いといい、街の色彩といい、気圧の感じといい。幼い頃からずっと、この曇りと雨の境界が好きだった。ちっちゃい頃に住んでた場所が年中そんな感じだったからかもしれない。ヘタな映画や音楽よりも、こういった天候の感触の方が、わたしの胸を締め付ける。わたしのなかの記憶装置を作動させるからかもしれない。具体的な記憶というんじゃない。いろんなものが渾然一体となった、曖昧な、混純とした、記憶ってものだ。

今依頼されてるものの締め切りが来週なのだけれど。ちょっとしたヒントとして、某DKさんの音を聞いてみよう、と思う。彼の音("音楽"と呼ぶよりも"音"と呼ぶ方が合ってる気がする。"音響"という呼び方とも、少し違う)は、それこそ、曇りと雨を彷徨う日の感触、幼い日の記憶、遊園地の光と影からデジャヴュの神秘と恐怖、狂気を繋ぐようなもののように思える。


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次にやることが決まりそうだ。けれど、迷っている。今までやってきたこととまるで関係しないことのように思えるし、だいいち、疑問を感じることだらけの社会システムを客観視するような視点が、そこではただ邪魔になってくるだろう、ということはたしかで。システムそのものを初めから疑いもしないところに成立している仕事に、学ぶことはどれくらいあるのかしら…。でもやってみないと分からないようなところもあるし、そういった"適地"に身を置いてみて初めて分かることもある、ということだってある、という話もある…。がねぇ…。でも、時間がない、ということも事実なのです。そんな、わざわざそんなことに時間を費やしている時間が、自分にはあるのか。それが、今の自分にとって必要だと思えるのなら、やってみる価値はあるのかもしれないけれど。そんなことよりも、もっと他にやらなくちゃいけないことがある、と思っている。それなら話は早いんだけどね。でも、お金がない、というのも事実なので…。結婚資金もためなきゃいけないし…。
人生、その気になれば何度でもやりなおせる、ということもあるのでしょうけれど、常に、今、自分がやらなければならないことを、"論理的に考えて"やる、ということよりも、"直感で感じて"やることの方が、大事な気がする。「計画性がない」とか言われるけれど、自分のなかで一貫して芯が通っているものはあるのであって、それは計画して見出されるもの、というよりも、手探りで見出されるものなので。ふ〜む、でも、やっぱりそういった話をしていると、抽象的に話を濁してしまうのが、わたしのよくないところだ。とにかく、もっといろんな人と会って話をした方がいいな、と思う。本を読むよりも、自分が考えてることが整理される。
(ブログって形式はただの一方通行で、中途半端に人に見られることを意識してる割にコミュニケーションが希薄で、一度書かれたものを読みかえすことなんてほとんどない、書きっぱなしのようなものだし、個人の思い込みでどんどん書いてしまうので良くない。ので、ここで思考を整理しても、あまり良いところはないような気がする)。

****


ムルナウ『最後の人』。1924年の作品で、歴史的にいろいろと言及されるべきことはあるのかもしれないけれど、映画史家でもないわたしはよく分かりません…。シナリオとキャメラが素晴らしいらしい。ムルナウはもともと演劇の人、なんだよね、たしか。結構、絶妙だと思った、細部が。ボタンとか、回転ドアとか、家のドアが開けられるタイミングとか、トイレのなかとか。細かい描写が深く印象に残って、そのひとつひとつがさりげなく登場人物の人間性とかを浮かび上がらせて、観る側の心理にこびりついて離れないようなものを投げかける…。でも、こびりついて離れないのは、その映像に映る細部なのではなくて、その細部がもたらした感覚、というのかな。面白いよね。細部の連なりによって、映画が進行するにつれて、なにか、導かれてゆくものがある。
ちょっと話が飛ぶけれど、写真と映画の違いはそこですよね。映像の細部、ということについては、バルトの写真論でいう"プンクトゥム"ってやつとも繋がるのかもしれない。けど、たぶん"プンクトゥム"ってのは、その細部から滲み出てくるようななにかが、写真の全体を覆ってしまう、こびりついてくる、のに対して、映画は、細部から滲み出てくるものが流動するので…細部がもっと、刹那的なんですよね。それは"時間とは何か"、ってこととも繋がる。いや、でも、ある意味では写真の方がもっと、刹那的とも言える。消えてしまったものが、いつまでもそこに写っているのだから。そうそう、それでこの問題において映画で重要なのは、映画を観終わった後に、ある特定の瞬間の、あの刹那的なはずだった細部が、最終的に、やっぱり強烈に印象に残っている…、というようなこともあって。
そこでは、写真でも映画でも、同じことが起こっている。いや、現実そのものが、そういった問題を孕んでいる、とも言える。つまり、「5年前に恋人と一緒にランチしたときの、あのトラットリアの黄色い壁の色の感触を今でも覚えている…」とか、そういった…ある記憶が細部の感触とともに蘇る、ということがある。細部と記憶は、強く結びついている。それと同じことが、ある一枚の写真にどうしようもなく惹きつけられてしまう、というところで起こっているのであって、わたしはその写真の向こう側に流れていた"瞬間"を知らないけれど、でも、その"瞬間"に流れていたものをすべて覆い尽くしてしまうほどに滲み出てくるのが、そこにある細部であって。細部といっても、バルトが言ってるような、特定の物質じゃなくてもいいんですよね。写真全体に流れてる感触とか、そういうものでも、良い気がしてる。映画でも同じなんだけど。ただね、その全体に流れてる感触ってのは、やっぱり、細部からの滲み出るようなものなくしては、出てこないように思いますね。

さて、こうしていつも、観た映画そのものとは関係のない話になっちゃうんだけど…。でもムルナウとかドライヤーとかルネ・クレールの映画が好きなのは、その映画の感触なんですよね。脚本とか物語は、二の次でいい。実際、物語として面白いとか、脚本に感心するとか、そういった内容に関することでいうのなら、映画作家や研究者でもないかぎりこの辺りを掘り下げて観る必要もない気がするんです。内容に関しては、あまり面白くないです。この『最後の人』って作品も、作られた当時は世界中に感動を与えて大ヒットした…というようなこともあったと言われているけれど、そういうことなら、正直言って、今の映画の方がずっと、感動させることに関しては上手いんですよね。感動させる手法とか、物語の進行のさせ方とか。このムルナウの作品は、そういった「感動を作りだすための物語の形式」みたいなものができる以前の作品だ、ということが重要なんだけど、でも、やっぱり、普通の人は、観ていてつまらないんだと思う。終わり方が、もともとは発狂して終わりだったらしいんだけど、脚本家さんが、もっとハッピーエンドに変えたんだってね。その、ハッピーエンドへの飛躍がひどすぎるし(笑)!あれは、感動しないです。(昔の映画のハッピーエンドのパターンとして、いきなり思わぬところから遺産が飛び込んでくる、というパターンがあって、あれはねぇ…笑。なんか、安直すぎるよね・笑)。
それでもわたしが惹かれるのは、やっぱりこれらの映画に映っている細部なんですよね。物語とか、そういうことじゃない。映像に写っている細部。その細部を映しとった、形式(紋切り型のものが生まれる以前の)。その細部であり形式というものが、映画の内容を覆い尽くしてしまう感じ。(これって、ソンタグが『反解釈』で言ってることとも繋がるのかしら…?よく分かんないけど。また読み直さなきゃ…)。『最後の人』は、中盤の、意識が朦朧としてるところとか、あの辺りが面白かった!感触なんですよね、やっぱり。
ドライヤーの映画のスリリングさなんかも、そういったところにある。あ。今思ったけど、オーソン・ウェルズなんかも、そういうところがあるかもしれない。

ちなみにこれ、無声映画なんだけども、あとからつけられた音楽が絶妙だった(笑)。エレクトリックギターとフルートとピアノの軽快なイージーリスニングから始まって、回転ドアの小さな音の再現。それからピアノの低音を使ったぞくぞくするような音に、リードと弦楽器とマリンバの室内楽的なずんぐりした音楽。時々、スネアやシンバルのソロ、それとピチカードでのアクセント…。音楽は、映画との出会いによってモンタージュという方法を学んだんじゃないか。ストラヴィンスキーとかメシアンにあるようなモンタージュ感覚。

映画と音楽の関係については、もっといろいろと考察されるべきなんだけど、トーキー時代の「音響的映画」とか「サウンド派映画」とか「ソニマージュ以降」とかそんなことよりも、映画の出現によって音楽はどう変わったかとか、その辺りについて。もうちょっと研究されてもいいんじゃないのかしら。「映画音楽」を抜きにして、映画が音楽とどのような関係にあるのか、といったことも。映画の存在論、音楽の存在論に関して…。


*****
喜多八さんは最高だった。

鼓舞。

April 13 [Mon], 2009, 9:54


今朝の夢。
アメリカで黒人やらユダヤ人に混じって、もんのすごい生け贄みたいに人権侵害されてる夢だった。
オリンピックみたいなので夜に国歌斉唱してて、われわれはその国旗の彼方の地上50メートルくらいのところを空中ブランコみたいなのでぐるぐる回されて、足ものは宙に浮いてて、遠くには建設中の自由の女神が見えた。「右向け右〜」とか割れんばかりの感じで聞こえてきて。マクドナルドの工場の牛さんの肉みたいに「もの」のようにとんでもなくぞんざいな身体検査を受けて。
その前のシーン。母親外国のタクシーの中で「わたしもひいおばあちゃんとかになるんだねぇ…。(死んでも)世界は続くんだねぇ」みたいなことを言ってて、なんか、涙が止まらなかった。
その更にその前のシーンでは、友人のYHと話をしていて、ジンバブエのビクトリアの滝の話になっていた。川の流れの浸食で滝の位置は少しずつ変化していて、10年で1センチくらいずつ移動してるんだっけ?たしか、そんな感じ。ねぇ。その話をしてた。2メートル離れた場所でも、滝の轟音が聞こえてるとか、水蒸気がやってくるとか、そういった話。

なんとなくこの夢は、大事な気がする。忘れちゃいけないものな気がする。シモーヌ・ヴェイユを思い出していた。


****
モンシロチョウが舞っていた。春は…救いの主の手か。

公園でベンヤミンの演劇、写真、映画関連のものを中心に。速読ができない…。
天気がよくて、カップルや、子どもたちや老夫婦がいい感じだった。


***
ベルナルド・ベルトルッチ『暗殺の森』。色彩。撮り方。面白いですね。イタリアてきエスプリって、こういうものですね。フランスとの微妙な差異。いや、まったく違う。(また後日、書きます)。


ポール・グリモー『王と鳥』。





野村萬斎。顔立ち、歩き方、佇まい、笑い方、
P R
プロフィール
  • ニックネーム:colflur。
  • 性別:女性
  • 誕生日:2月2日
  • 職業:家事手伝い
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