春。近頃、いつもよりも早く目が覚める。不思議。
雨の午後。この感触はとても好きだ。湿度といい、匂いといい、街の色彩といい、気圧の感じといい。幼い頃からずっと、この曇りと雨の境界が好きだった。ちっちゃい頃に住んでた場所が年中そんな感じだったからかもしれない。ヘタな映画や音楽よりも、こういった天候の感触の方が、わたしの胸を締め付ける。わたしのなかの記憶装置を作動させるからかもしれない。具体的な記憶というんじゃない。いろんなものが渾然一体となった、曖昧な、混純とした、記憶ってものだ。
今依頼されてるものの締め切りが来週なのだけれど。ちょっとしたヒントとして、某DKさんの音を聞いてみよう、と思う。彼の音("音楽"と呼ぶよりも"音"と呼ぶ方が合ってる気がする。"音響"という呼び方とも、少し違う)は、それこそ、曇りと雨を彷徨う日の感触、幼い日の記憶、遊園地の光と影からデジャヴュの神秘と恐怖、狂気を繋ぐようなもののように思える。
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次にやることが決まりそうだ。けれど、迷っている。今までやってきたこととまるで関係しないことのように思えるし、だいいち、疑問を感じることだらけの社会システムを客観視するような視点が、そこではただ邪魔になってくるだろう、ということはたしかで。システムそのものを初めから疑いもしないところに成立している仕事に、学ぶことはどれくらいあるのかしら…。でもやってみないと分からないようなところもあるし、そういった"適地"に身を置いてみて初めて分かることもある、ということだってある、という話もある…。がねぇ…。でも、時間がない、ということも事実なのです。そんな、わざわざそんなことに時間を費やしている時間が、自分にはあるのか。それが、今の自分にとって必要だと思えるのなら、やってみる価値はあるのかもしれないけれど。そんなことよりも、もっと他にやらなくちゃいけないことがある、と思っている。それなら話は早いんだけどね。でも、お金がない、というのも事実なので…。結婚資金もためなきゃいけないし…。
人生、その気になれば何度でもやりなおせる、ということもあるのでしょうけれど、常に、今、自分がやらなければならないことを、"論理的に考えて"やる、ということよりも、"直感で感じて"やることの方が、大事な気がする。「計画性がない」とか言われるけれど、自分のなかで一貫して芯が通っているものはあるのであって、それは計画して見出されるもの、というよりも、手探りで見出されるものなので。ふ〜む、でも、やっぱりそういった話をしていると、抽象的に話を濁してしまうのが、わたしのよくないところだ。とにかく、もっといろんな人と会って話をした方がいいな、と思う。本を読むよりも、自分が考えてることが整理される。
(ブログって形式はただの一方通行で、中途半端に人に見られることを意識してる割にコミュニケーションが希薄で、一度書かれたものを読みかえすことなんてほとんどない、書きっぱなしのようなものだし、個人の思い込みでどんどん書いてしまうので良くない。ので、ここで思考を整理しても、あまり良いところはないような気がする)。
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ムルナウ『最後の人』。1924年の作品で、歴史的にいろいろと言及されるべきことはあるのかもしれないけれど、映画史家でもないわたしはよく分かりません…。シナリオとキャメラが素晴らしいらしい。ムルナウはもともと演劇の人、なんだよね、たしか。結構、絶妙だと思った、細部が。ボタンとか、回転ドアとか、家のドアが開けられるタイミングとか、トイレのなかとか。細かい描写が深く印象に残って、そのひとつひとつがさりげなく登場人物の人間性とかを浮かび上がらせて、観る側の心理にこびりついて離れないようなものを投げかける…。でも、こびりついて離れないのは、その映像に映る細部なのではなくて、その細部がもたらした感覚、というのかな。面白いよね。細部の連なりによって、映画が進行するにつれて、なにか、導かれてゆくものがある。
ちょっと話が飛ぶけれど、写真と映画の違いはそこですよね。映像の細部、ということについては、バルトの写真論でいう"プンクトゥム"ってやつとも繋がるのかもしれない。けど、たぶん"プンクトゥム"ってのは、その細部から滲み出てくるようななにかが、写真の全体を覆ってしまう、こびりついてくる、のに対して、映画は、細部から滲み出てくるものが流動するので…細部がもっと、刹那的なんですよね。それは"時間とは何か"、ってこととも繋がる。いや、でも、ある意味では写真の方がもっと、刹那的とも言える。消えてしまったものが、いつまでもそこに写っているのだから。そうそう、それでこの問題において映画で重要なのは、映画を観終わった後に、ある特定の瞬間の、あの刹那的なはずだった細部が、最終的に、やっぱり強烈に印象に残っている…、というようなこともあって。
そこでは、写真でも映画でも、同じことが起こっている。いや、現実そのものが、そういった問題を孕んでいる、とも言える。つまり、「5年前に恋人と一緒にランチしたときの、あのトラットリアの黄色い壁の色の感触を今でも覚えている…」とか、そういった…ある記憶が細部の感触とともに蘇る、ということがある。細部と記憶は、強く結びついている。それと同じことが、ある一枚の写真にどうしようもなく惹きつけられてしまう、というところで起こっているのであって、わたしはその写真の向こう側に流れていた"瞬間"を知らないけれど、でも、その"瞬間"に流れていたものをすべて覆い尽くしてしまうほどに滲み出てくるのが、そこにある細部であって。細部といっても、バルトが言ってるような、特定の物質じゃなくてもいいんですよね。写真全体に流れてる感触とか、そういうものでも、良い気がしてる。映画でも同じなんだけど。ただね、その全体に流れてる感触ってのは、やっぱり、細部からの滲み出るようなものなくしては、出てこないように思いますね。
さて、こうしていつも、観た映画そのものとは関係のない話になっちゃうんだけど…。でもムルナウとかドライヤーとかルネ・クレールの映画が好きなのは、その映画の感触なんですよね。脚本とか物語は、二の次でいい。実際、物語として面白いとか、脚本に感心するとか、そういった内容に関することでいうのなら、映画作家や研究者でもないかぎりこの辺りを掘り下げて観る必要もない気がするんです。内容に関しては、あまり面白くないです。この『最後の人』って作品も、作られた当時は世界中に感動を与えて大ヒットした…というようなこともあったと言われているけれど、そういうことなら、正直言って、今の映画の方がずっと、感動させることに関しては上手いんですよね。感動させる手法とか、物語の進行のさせ方とか。このムルナウの作品は、そういった「感動を作りだすための物語の形式」みたいなものができる以前の作品だ、ということが重要なんだけど、でも、やっぱり、普通の人は、観ていてつまらないんだと思う。終わり方が、もともとは発狂して終わりだったらしいんだけど、脚本家さんが、もっとハッピーエンドに変えたんだってね。その、ハッピーエンドへの飛躍がひどすぎるし(笑)!あれは、感動しないです。(昔の映画のハッピーエンドのパターンとして、いきなり思わぬところから遺産が飛び込んでくる、というパターンがあって、あれはねぇ…笑。なんか、安直すぎるよね・笑)。
それでもわたしが惹かれるのは、やっぱりこれらの映画に映っている細部なんですよね。物語とか、そういうことじゃない。映像に写っている細部。その細部を映しとった、形式(紋切り型のものが生まれる以前の)。その細部であり形式というものが、映画の内容を覆い尽くしてしまう感じ。(これって、ソンタグが『反解釈』で言ってることとも繋がるのかしら…?よく分かんないけど。また読み直さなきゃ…)。『最後の人』は、中盤の、意識が朦朧としてるところとか、あの辺りが面白かった!感触なんですよね、やっぱり。
ドライヤーの映画のスリリングさなんかも、そういったところにある。あ。今思ったけど、オーソン・ウェルズなんかも、そういうところがあるかもしれない。
ちなみにこれ、無声映画なんだけども、あとからつけられた音楽が絶妙だった(笑)。エレクトリックギターとフルートとピアノの軽快なイージーリスニングから始まって、回転ドアの小さな音の再現。それからピアノの低音を使ったぞくぞくするような音に、リードと弦楽器とマリンバの室内楽的なずんぐりした音楽。時々、スネアやシンバルのソロ、それとピチカードでのアクセント…。音楽は、映画との出会いによってモンタージュという方法を学んだんじゃないか。ストラヴィンスキーとかメシアンにあるようなモンタージュ感覚。
映画と音楽の関係については、もっといろいろと考察されるべきなんだけど、トーキー時代の「音響的映画」とか「サウンド派映画」とか「ソニマージュ以降」とかそんなことよりも、映画の出現によって音楽はどう変わったかとか、その辺りについて。もうちょっと研究されてもいいんじゃないのかしら。「映画音楽」を抜きにして、映画が音楽とどのような関係にあるのか、といったことも。映画の存在論、音楽の存在論に関して…。
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喜多八さんは最高だった。