それは生まれてくるどこかと似て 

2007年09月23日(日) 0時44分
私にとって会話とは、いつも心臓をとくとくとはやうたせるものらしい。
うまくいかない会話では手のひらにしっとり汗をかいてしまうし、感覚のまま話せるときには逃すまいと気持ちがはやるし。

話すのがうまくないとずっと公言してきたけれど、たぶんそんなことを考える必要はないんだな。私に欠けているのは会話の巧みさよりもむしろ、向き合い読み取る感触であって、たぶん余計なことを考えれば考えるほどそこがぶれて余計汗をかいちゃうことになるのだから。

どこからか取り出した自らのものごとを、いつも自分のやりかたで差し出せばいいとは限らない。
だけどたいてい私は待つから、そうするとお互いにどこにも到達しないまま、表皮のところで迷うことになる。
そんな会話がいけないとも思わないけれど。

汗をかいちゃうのはそのずれであって、自分が伝えたかったことが伝わったか、という不安にすら到達していないそのこと。
チャンネルをあわせるのが遅い。チャンネル数が少ないのかもしれない。
その代わり周波数が合えば本当にどこでもないどこかで、感覚どうしが接する気がする。

会話も表現も、最後には相手に委ねるしかないのでだからこそその行方のことを考えるとたっぷり汗をかいちゃうのだけれど、導く術に長けるよりは、豊かに取り出せることや、瞳をみつめ続けることを考えよう。
今は、それでいいや。

おもいこしをあげて 

2007年09月22日(土) 1時53分
なんとなくひきこもりがちだった今週。
腰の様子はいつもと違ってすぐには全快しない。きっとずっと寝ていたからだろう。
動かなきゃ。
友達がUPした動画を見てリハーサルが着々と進んでいたことに少し、焦る。
リハーサルが進んでゆくその場所にいるということがどんなに大事か、よおく味わっている今回だからこそ余計に。
知恵熱も去ったし、ふんどし絞めて頑張るぞー。←体育会系ノリ?

幸いなことに見習いたいひとばかりがまわりにいる。
ほっとさせてくれるひと、ついて行きたいと思うような頑張りのひと、まっすぐな視線、日々なにかを生み出しているエネルギー。
強いことはやさしいことだ。
それが当たり前なことに、ときどき自分をへこませたりしながらも。

どんな場所に私が在りたいか、そのことを思い悩むまでもなく、思い悩む余計な時間もなく、ときには走っていいのだ。


感じたことや見たものをもっと、なにかにうつしたい。

夢/虫たちとちゅん、胎児 

2007年09月19日(水) 20時22分
ちゅんの夢。
ちょっと気持ちの悪い夢です。虫がきらいなかたは、薄目で読んだほうがいいかも。

***

ちゅんは小さな箱に入っている。
なぜか箱の中には虫がたくさんいて、ちゅんの喉元までぞろぞろのぼったりおりたりを繰り返している。
黄緑でひしがたの、堅い殻を持った虫。ちゅんはそのことをあまり気にしていないようで目をくりくりさせている。
以前よりその虫は大きくなっている。
以前、というのがその夢の中で作られた過去なのか、本当に過去にみた夢なのかわからない。こういうことはよくあるけれど、一瞬のうちに過去の時間が作られてしまうなんて、脳みその時間の認識なんてあてにならないものだとよく考える。

ものすごく気持ちが悪いのだけれどちゅんが可哀相だから箱に手を入れてちゅんを掬い、虫を追い払う。
虫は四方八方に逃げあっというまに部屋の隙間のそこここに入り込んだ。
また次見つけるまでにあそこで成長するのだろう、とぞっとする。

ちゅんを見るとまだ何匹かが羽根のあいまでもぞもぞもがいている。
全身とりはだをたてながらちゅんを振るうと虫は飛び散っていったが、1匹だけ私の右手の親指と人差し指のあいだにはさまったままになっている。
手を思い切り振っても虫はそこにくっついたまま動く様子がない。
よく見たら私の手が嫌悪感でか硬直していて指がまがっているため、そのしわに虫の足が挟まっているのだった。
左手で右手を無理矢理開くと虫はまたも、あっというまに消え去った。


ちゅんを見るといつのまにか胎児のようなピンクのかたまりになっている。
羽根は抜け落ち、目玉もくちばしも取れてしまって、皮膚は指で触れるとくっついてきてしまうくらい、痛々しくひりひりとしたものになっている。
こんなになっちゃって、ちゃんと元どおりになるだろうか…と心配になる。
だけどそこには、もし現実にそんなことになったら感じるであろう絶望や悲しみはない。
いつか治る、と思っているからなのか…?

皮膚が破れないように、だけど寒かろうと思ってそっとそっと手で包んであたためる。

***

また、可愛がってるものが胎児になる夢だった。
頻繁に見るこのパターンにはなにか意味があるのかな。
私が大事にしてあげないとこのこは生きてゆけない、という関係を無意識に望んでいるとか。
…わからない。
自分がたったひとつの存在でありたい気持ちは弱くはないと思うけれど、そのために相手をこんなかたちで束縛したくはないのにな。

それから虫も。
大量の虫の夢を久しく見ていなかった。
またひしがたで黄緑だった。

***

朝起きたらちゃんと元気なちゅんがいたので、ご安心ください。

モアイ像と魚たち 

2007年09月18日(火) 22時33分
連日の深夜までの残業にすこーしだけ疲れ気味。
昨日は昼に海鮮丼、夜にお寿司(残業のご褒美)と魚ざんまい。おなかのなかは水族館だなぁ、と思う。
タクシーでうちに帰るときはいつも道路を見つめて切ない気持ちになるのだけれど、昨日の運転手さんはずっとしゃべり詰めで、そんな隙を与えてくれなかった。
けれどどうやらタクシーで変な座り方をしていたため腰を傷めたらしく、ほんの少しちからを入れるだけで危ない感じがする。早く治りますように。

このあいだ、
友達といたときにふと、
修学旅行みたいなお泊り会の風景と、白目の多い鋭い感じの顔の男の人のことがあたまに浮かんだ。モアイ像のかんじとともに。
電車で横に並んでいるときに少しうとうとしかけたせいで夢を見たのだろうと思ってほおっておいたのだけれど、あとから考えるとその男の人がどう考えても存在感がありすぎて、私をじっとみつめすぎる。
それにこの感触は夢でもなければ、意識的な空想や妄想でもない、あれだ…
と思った。
なぜか私はそのことが友達に結び付いているような気がしてならなかったから心当たりがないかすごく遠回しにきいてみた。
最初は心当たりがないなぁ、という感じだったのだけれどあとから、そういえばちょうどそのとき、なくなったお父さんの夢を見ていた、という。
すごくじっと見ていたよ、だけど怒ったりしている様子ではなかった。と伝えると、こんどお参りしてお話してくる、と言っていた。

きっとここにはなにも不思議なことはおきていないのだけれど、こころにとまったから書き留める。

痩せたこうのとり、一緒に散歩 

2007年09月18日(火) 22時30分
今日ふと、灰色の大きな鳥をみかけた。
こいつのことは知っている、と考える。目黒川で目があったあいつ。

ゆったりと気配を消して景色の一部になろうとしてるところも、そしてなんとなくそのことに失敗しているのも、やつと同じ。

そういえば目黒川をこの夏に何回か歩いた。
話していてこころや感覚をふくらませられるって、なかなか得難いことだ。


ひとがここにいてくれると思わないことには、なかなか強くなれない。
けれどそこにいてくれたら、何も恐くない気がする。

なのに、
いつもあたたかい想いを届けられない甘えがはがゆい。

あきのはじまり 

2007年09月14日(金) 23時35分
厚い雲が張りついた夜空全体がゆっくりと北へむかっていた。
足並みを乱さず進むようでいて細かなうずが端にうまれ、それに気付くともう空はひとつではなかった。
毎日見上げる空は違うけれどこの雲のずっとうえのほうは変わらぬ闇なのだということがうまくふにおちない。

この夏にこころにとめた景色をなるたけたくさん思い出そうと考える。
ほんとうにみたものも、この目ではみなかったものも。
浮かんだものを味わう前に、細かに描写できぬままに、それは瞬間に通り過ぎていってしまう。長い文章を書けないのはこのためかもしれないと思う。

23時の静けさをやぶらないようにあかい電気だけをつけて長いこと話した。
どこかにいきつくことを目的としない、色をおいていくような会話。
けれど私はそれが特別なものだとは思わない。私はそんなふうにしか、うまれることたちをそこにとどめることができないという、ただそれだけのこと。

強いのではなく、強くありたいだけだ。
というそのことは私のなかでは真理だけれど、誰しもがそう思えるほどものごとを忘れられるわけじゃない。

けれど私が母のことを否定したことはない、ということだけは感じてもらえたらいいと思う。
その部分だけはあの会話のなかで唯一意識的なものだったような気がする。


小さな足音を夜のランナーだと思いふりかえると、それは乾いた葉が地面をひっかく音だった。
枯葉は秋にだけ落ちるわけではないのに、どうして夏が終わった今日、はじめてそのことに気付いたのだろう。

舞台稽古 

2007年09月12日(水) 18時19分
舞台の稽古が進んできた。
ここ何回かの舞台はヨーロッパにいってたからいつも帰ってきてから、途中からの参加になっていたけれど今回はいちからつくりあげている。そこにいるということがどんなに大事か、身に染みる。
探ってつくりあげてゆく過程に身をおくことでそれがどこから生まれたうごきなのかがわかるから、自分で納得がいく。納得がいけば追求できるから安心できる。安心できれば自信にもつながる。
自信がなければなーんにもできない私にとってこれがいちばん大きい。

今日は目の調子も悪いのでコンタクトをしないで踊った。
本当は細かいところがみえないから不安にもなるのだけれど、ぼやけた視界で踊るとからだを感じようと思える。
ちゃんとおなかのなかまで指でさぐって、たぐりよせて外に動きがあらわれる感じ。
どの動きにもそれができるわけじゃないけどときどき。見えないからこその感触がそこにある。

まだどんな感情で踊りたいのかわからない。
それはこれから。
またひとつ違うなにかがつかめるんだと思うと嬉しい。
踊るのが好きなんだなー。
レッスンはさぼるくせに。
レッスンも好きなんだけど、さぼるのも好きなんだな、たぶん。
だめなやつ。


なにからも逃げないなんてぎゅうぎゅうに考えないでもいい。
ときどき逃げて、また追い掛けなくなったら後悔して追い掛ければ。

初、お笑いライブへ行く 

2007年09月11日(火) 0時51分
今日は友達が演出してる芸人さんのライブを見にいってきました。
芸人さんは一緒に芝居をしていた仲間うちのひとりなんだけど、みんなより早く卒業した私とはすれ違っている。…のに、色々話を聞いているからなんだか勝手に思い入れがあって、身内の気分。

私は芝居をやっていたとはいえそれは遊びの範疇をでていなかった。だからそこから芸能界でやってゆくことがどれだけ大変かも全然しらない。
大変さはわからないけれど情熱だけは知っているつもり。
だから笑いながら、その演出の友達を隣にして、いま何を感じて舞台を見ているんだろうなということにこころが行き、思わずしみじみしてしまう。
お笑いを見にきてるのに、なんだかじんわり涙がうかんだりして。

これからもっといろんなひとに見てもらえるようになるといいなぁ…。

ということで大西らいおんをみなさんよろしく!



帰りに仲間とお好み焼き。
なんて居心地がいいんだろ。同時になんだこの緊張感。
おおきな喧嘩もいっぱいした、恥ずかしいとこもお互いたくさん見せたし、知ってる。集まるたびに馬鹿な会話しかしないけど。
一緒に同じ時間のなかで苦労して笑った仲間って、すごいな。
これもあって私は舞台が好きなんだろう。


どきどきして、うまく眠れないかもしれない。

Moments '07/Dance theatre LUDE 

2007年09月11日(火) 0時51分
ベルギーの友達が泊まりにきていたときにすこしだけお会いしたかたの舞台を見に行った。

以前このカンパニーの映像か、岩渕さんの作品をみていたのでなんとなくイメージを持っていたのだけれど実際見てみると、あれ、こっちか、という感触だった。

ひととひと、とか、物体とひとのからだ、といった別のものがお互いに牽制しあったり引き寄せられたり。
その関係のことをずっと感じながら見ていた。
対象は舞台の上空だったり床すれすれのところだったり、体の関節だったり、もしくは舞台上をとびだして、観客だったりもする。時間だったり。
関係、というものが生き物のようにずっとこの作品のなかでかたちやおおきさを変えてうごめいていたような、気がする。

意思とかエネルギーがぱっと鎖されたり、めまぐるしくバトンされていったりする様子をただなんとなく視界に入れていると、絶妙な軌跡が、絶妙なスピードで埋めていっているなあ…ということを頻繁に感じた。
踊りを見ているというよりはなんだか、現象をグラフィックにしたものを見ているみたい。

私はひとのからだの動きの複雑さやからだが発する温度、ひかり、リズムをどうしても求めてしまうのだけれど、こういうちりばめられた記号のような作品も面白いなあ、と思った。

友達とも話したのだけれど、舞台上にからだの軌跡が残る物体をつかう作品って、うまくいくととても美しい。
からだを動かすことで空間にひろがる軌跡は錯覚のように一瞬のものだし、空気の流れとか指し示す方向は見ているひとにも感じられるけれど、それがたとえば砂とか(今回の舞台では砂や空缶だった)絵の具とか障害物とかが線として残ったり押しのけられてかたちになったりすることがその舞台上に残っていることを効果 的に使えたら面白い。
安易に使うと多分面白みよりも「これがしたいのね」という目的の意思ばっかりが目立ってしまっていけないけれど、それを感じさせないかもしくは、それが頭にあるひとをそれ以上にはっとさせるものだと、いいのかもしれない。
難しいけどきっとさもないことでいいはず…なにかわからないけど、まだ。

軌跡をじっさいのかたちにする、というところで友達が作った映像のことを思い出した。
その動きと音を発している本体と、軌跡の質感は繋がっていなくてはならない。
あ、それか、まったく異質にしても面白いのかもしれないけど。

砂だとこまやかだし、缶はノイズもともなって荒い。


笑うところが最初よくわからなかったのだけれど、途中どうしようもなく可笑しくなって笑った部分があった。
変な種類の笑いだったなあ。どこかであの感触はかんじたことあるぞ。なんだっけ。


それにしてもレンガ倉庫はいい。
グレゴリー・コルベールの移動式美術館を思い出した。
テントっぽいからかな。
建物自体に主張がある舞台もいいな、と思う。


公演は本日8日(土)にもあります。

Dance theatre LUDENS HP
http://ludens.at.infoseek.co.jp/index.html

『ジョゼと虎と魚たち』 

2007年09月11日(火) 0時50分
私のなかで『花とアリス』となぜかセットになっている作品(もしかしたら同時に薦められたのかもしれない)。
それと同時に『運動靴と赤い金魚』とイメージが混ざってもいた。


妻夫木聡の魅力が少しわかったかもしれない。そうか、ここか、と思った。
優しい笑顔を見せてくれるとほっとする。すごく未熟なんだけど内側でいろんな革命が静かにおこっているかんじ。将来がたのしみな年下の彼をみてる感じ。

『tokyo.sora』もそうだったけど最近見た日本の話はみんなこういう半分おとぎ話みたいな作品だ。高校生が撮ったみたいな。高校生が撮ったみたいに未熟だというわけじゃなくて、瑞々しく、絵がキレイ。切ない。
ピンホールカメラで撮ったアルバムみたい。
…出だしからだけのイメージじゃなくて。

恋愛のことを思い出す。
思い出す、って別にもう恋愛から足を洗った人みたいに言っちゃったけど。今私のからだのなかに含まれて流れてもいること、なのになにかどこかしら懐かしい痛みをともなうものとして、恋愛のことを思い出した。
私のなかに流れている、切り離せないいちぶについて。
いさぎよさについて。
過ぎ去るものについて。
思い出がどんなに甘く輝くかということ。

そういう意味で池脇千鶴の役柄は悪くなかったかもしれない。


けれどもう少しそれぞれの人物が深ければなぁと思う。
初めて海を見たジョゼの反応はああかなぁ…。
私がちゃんとあの役柄を飲み込めていないからなのか。
人間はいりまじった生きものだから私の期待どおりの反応じゃなくてもちろんいいし、…だからいいのかな。

少しアニメみたいだった。いろんなキャラクターが出てくる。思惑どおりの反応をする。
もしかして私はそのなかで、あの主人公2人にはもっとそれまであの人物を生きてきた何十年間をみせてほしかったのかも。
そうしたらくっきりとおもしろかったのになあ。
なのに私は、人物設定の雰囲気からその人物たちに決まり切った行動をあてはめて期待しちゃったのかもしれない。矛盾してる。けどそういうふうに運びたかったのか、違うのか、少しあいまいだ。

監督はどうしたかったんだろう。
もう何グラムか重ければ、という気が、私はした。


だけど面白かったし、登場人物は魅力的だった。
雰囲気にひかれる映画も悪くない。
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