昭和20年(1945年)1月22日 

2008年07月20日(日) 11時46分
昭和20年のお正月はB29の襲来で始まりました。被害はありませんでしたが、空襲警報が何度も鳴って、元旦を祝う事もできませんでした。

2日は何事もなくて安心していたら、3日、4日と敵機が襲撃して来て、飛行場と港が爆撃されました。近いうちに大きな空襲があるに違いないと疎開する人たちが増えました。

1月21日の日曜日、私は友達と一緒に大里村まで黒砂糖の買出しに出かけました。お昼頃、空襲警報が鳴って、私たちは南風原にできた陸軍病院の防空壕に避難しました。その日も飛行場と港が爆撃を受けました。

そして、次の日です。朝早くから空襲警報が鳴り響いて、敵機が襲撃して来ました。私は父と一緒に城岳(ぐすくだけ)の下にある県庁の防空壕に逃げました。

その日の空襲はしつこく、日が暮れるまで一日中続いて、敵は8回もやって来ました。十・十空襲の時に無事だった家々もやられてしまい、那覇の街は再び、メチャメチャになってしまいました。





昭和20年1月の出来事

1月1日、米誌『タイム』、日本製風船爆弾が太平洋を越えてモンタナ州に落下したと報じる。
1月3日、米艦載機、台湾・奄美・宮古・八重山・沖縄本島を攻撃する。
1月5日、米艦隊、小笠原および硫黄島を砲撃する。
1月7日、第32軍、士気昂揚大会を開催する。
1月9日、米軍、ルソン島に上陸する。
1月10日、第9師団、沖縄からの移動を終え第10方面軍の戦闘序列に編入される。
1月10日、第32軍司令部、安里の蚕種試験場から首里の沖縄男子師範学校付属国民学校に移転する。
1月12日、島田叡大阪府内政部長、沖縄県知事に任命される(泉知事は香川県へ転出)。
1月13日、東海地方に大地震(三河地震。死者1961人、全半壊17000戸)。
1月16日、宮古島駐留の第28師団の新師団長として納見敏郎中将が台湾から着任する。
1月18日、最高戦争指導会議、《今後採るべき戦争指導大綱》を決定する(本土決戦即応態勢の確立など)
1月20日、閣議、《沖縄県防衛強化実施要綱》を決定する。
1月21日、米機動部隊、台湾と南西諸島を襲撃する。
1月21日、米艦載機56機、宮古島を空襲し船舶・陸上施設に損害を与える。
1月22日、米艦載機延約900機、奄美・宮古・八重山・沖縄本島を攻撃する。
1月22日、大本営、第32軍に対し第84師団の編入を電報で内報する。
1月22日、空襲で女師・一高女の図書館・寮・校舎の一部が破壊され、生徒4名が生き埋めになる。
1月23日、大本営、海上輸送の危険と本土兵力の不足を理由に第84師団の沖縄派遣を中止する。
1月23日、女師・一高女、寄宿舎足りず、離島を除き、下級生は帰郷させ、通学可能の上級生は家から通わせる。
1月25日、最高戦争指導会議、《決戦非常措置要綱》を決定する(軍需生産の増強、生産防衛体制を強化)
1月25日、首里高女は石部隊(第62師団)の野戦病院に配属される事となり、学校で軍の教育を受ける。
1月26日、第32軍司令官、沖縄本島の配置変更を配下部隊に通達する。
1月26日、軍・公務要務者以外、京浜地区通過・着の乗車券発売を禁止。
1月27日、大本営、南方軍の任務を変更する(本土決戦が第一義、南方軍の作戦は第二義となる)。
1月27日、県庁の各部課を城岳および与儀周辺に分散移転する。
1月27日、野口雨情(62)没。
1月27日、B29、70機都心を爆撃。本土空襲本格化する。
1月31日、沖縄県の新知事島田叡が着任する。
1月31日、第32軍、第2次現地防衛招集を実施する(満17歳から45歳までの男子)。


沖縄の島守  三河地震60年目の真実  ひめゆりの塔  火垂るの墓  八月の風船  あしたまた遊ぼうね  御女のさくら  大東亜の女神  青い眼の人形 雨情の世界

昭和19年(1944年)12月11日 

2008年06月25日(水) 12時43分
期末試験が終わった12月11日、また悲しい事件が起きました。

当時、沖縄には「ケービン」と呼ばれて親しまれた軽便鉄道が走っていました。那覇を基点に北は嘉手納まで、東は与那原まで、南は糸満まで通っていました。

10月10日の空襲で、汽車も駅も線路も破壊されてしまいましたが、ようやく復旧されて、軍の専用列車になりました。一般の人は乗れないのですが、兵隊さんたちの好意によって、遠くから通っている生徒たちは内緒で利用していたようです。

その日の午後5時半頃でした。糸満へ向かうケービンが稲嶺駅の近くで大爆発を起こしました。

沖縄の南部を守っていた第9師団が台湾に移動になって、沖縄から出て行ってしまい、北部を守っていた第24師団がケービンを利用して南部に移動していました。武器や弾薬を積んでいて、その弾薬に火がついて爆発してしまったのです。そのケービンに帰宅途中の女学生が10人乗っていて、その内の3人が二高女の生徒でした。2人は亡くなってしまい、1人は重傷を負ってしまいました。

次の日の昼、教頭先生からその事を知らされて、私たちは呆然となりました。昨日まで一緒にいた級友が急に亡くなってしまうなんて、とても信じられません。作業をしながらも、涙がとめどなく流れました。





昭和19年12月の出来事

12月1日、閣議、中等学校の新規卒業予定者の勤労動員の継続を決定する。
12月6日、日本空挺部隊、レイテ飛行場に強行攻撃をかける。
12月7日、東海地方に大地震、津波(死者998人、全壊26130戸)。
12月7日、生フィルム欠乏で40%の映画館、配給休止の宣告。
12月9日、第二野戦築城隊によって首里の司令部壕の築城が始まる。
12月8日、全国に《一億憤激米英撃摧期成大会》が結成され、一億憤激米英撃摧祈願祭が行われる。
12月10日、ドゴール将軍、モスクワでドイツを対象にした《仏ソ同盟条約》に調印する。
12月上旬、第9師団、沖縄から台湾に移駐する。
12月11日、大里村稲嶺駅付近で軽便列車で輸送中の第24師団の弾薬爆発。
12月15日、大本営、第10方面軍に対し第12・第82師団の派遣を内報する。
12月17日、B29、名古屋に来襲する。
12月19日、大本営、レイテ島での地上決戦方針を放棄する。
12月21日、『爆音による敵機の聴き分け方』放送。
12月23日、泉県知事、公用の名目で空路、沖縄を去る。
12月26日、第9航空軍が創設される。
12月26日、那覇市の一部の地域に電灯がつく。
12月31日、アンガウル島、ペリリュー島の日本軍が玉砕する。
12月31日、第10方面軍司令官安藤利吉大将、台湾総督を兼ねる。
12月、   石垣島海軍警備隊司令井上乙彦大佐が着任する。
12月、   米国宣伝放送(中波、サイパン島発)受信。
       第32軍と県学務課による、中等学校生徒戦場動員計画、成る。

この年、中学生には通信訓練、女学生には看護教育を施す。

・軍事費、国家財政の85%強に達する。
・食糧増産のため学童も動員して空地を徹底的に利用。
・戦況悪化で流言が激増。
・金属不足により、5銭・10銭が紙幣に。
・硫黄マッチ登場。
・陸軍報道局編『必勝国民読本』、松村秀逸『宿敵米英を撃て』
・流行歌『若鷲の歌(若い血潮の予科練の七つボタンは桜にイカリ)』『同期の桜』
『ラバウル小唄』『ラバウル海軍航空隊』
・日本映画『日常の戦ひ』『狼火は上海に揚る』他戦記、増産映画が盛ん。


沖縄軽便鉄道は死せず  軽便鉄道  一兵士の記録

灰田勝彦大全集  田端義夫大全集〜60年の軌跡〜

昭和19年(1944年)11月 

2008年05月29日(木) 11時37分
那覇の街はすっかり焼け跡になってしまいました。家を失った人たちは掘っ立て小屋を立てて、暮らし始めました。

私たちも家の跡地に小屋を立てました。父は首里の祖母の家に行けって言ったけど、首里から学校に通うのは大変だし、父と一緒に小屋で暮らす事にしました。小屋を立てる時、弟の康栄の先輩、安里さんが手伝ってくれました。

安里先輩は野球部の投手で、女学生たちの憧れの的でした。勿論、私も陰ながら憧れていました。その先輩が毎日、首里から那覇にやって来て、私たちの小屋作りを手伝ったくれたのです。家は焼け落ちてしまったけど、安里先輩と一緒にいられて、毎日がウキウキとしていて楽しかったのを覚えています。

焼け落ちた学校も、若狭町の焼け残ったお菓子工場を仮校舎として授業が始まりました。壊滅してしまった陣地の構築作業も始まりました。

県立病院も焼け落ち、患者さんたち一緒に宜野湾村に避難していた姉は陸軍病院の看護婦に志願して、南風原にできた陸軍病院に行きました。





昭和19年11月の出来事

11月1日、マリアナ基地のB29、東京を初偵察する。
11月1日、たばこが隣組配給となる(男子は1日6本づつ)。
11月2日、新聞、2ページに削減(週14ページ)。
11月4日、第32軍高級参謀八原博通大佐、沖縄守備軍から1兵団を抽出して比島方面に転用する件に関する台北会議に参加し、反対意見を具申する。
11月6日、米艦載機、ルソン島全域に来襲する。
11月7日、閣議、《老幼者や妊婦等の疎開実施要綱》を決定する。
11月7日、米大統領選でルーズベルトがデューイを破って4選される。
11月10日、厚生省、婦女子の徴用を実施、女子挺身隊の期間を1年延長する。
11月10日、女師・一高女、生徒を集め、授業を再開。
11月12日、女師は識名高射砲陣地構築作業に、一高女は上間高射砲陣地構築作業に、それぞれ動員再開される。
11月13日、大本営、沖縄から第9師団あるいは第24師団のいずれかを抽出する事を決定し、その選定は第32軍に委ねる旨を電報で指示する。
11月13日、日本野球報国会、プロ野球休止声明を出す。
11月14日、閣議、《労務調整令》《国民勤労報国協力令》を決定する(11月18日より施行)。
11月15日、太宰治『津軽』発表。
11月17日、第32軍、第9師団を台湾へ転出させることを決定し大本営に報告する。
11月24日、マリアナ基地のB29約70機、東京を初空襲する。
11月26日、第32軍、第9師団抽出にあたり《新作戦計画》に基づく軍命令を下達する。
11月27日、《戦勝食糧増産推進沖縄本部》が設置される。
11月、   石垣島で郷土防衛隊第506特設警備工兵隊(高良隊)が招集編成される。
11月、   この頃、沖縄県内の郵便業務、バス・自転車・トラック等により辛うじて営まれる。
11月、   空襲後、生徒の疎開願い相次ぐ。学校当局、これを阻止。


パパママバイバイ  戦争と子どもたち  大本営に見すてられた楽園  ルーズベルト秘録(下)  太宰治

昭和19年(1944年)10月10日 

2008年04月28日(月) 13時09分
この日は決して忘れる事はできません。突然、アメリカが沖縄に攻めて来たのです。それはあまりにも突然の事でした。

当時、私たちは勤労奉仕の陣地造りと学校の授業を交替でやっていて、私たちのクラスはその日は授業のある日でした。学校に向かう途中、飛行機が編隊を組んで北の方から飛んで来ました。その日は日本軍の演習があると噂で聞いていたので、朝早くから頑張っているなと思ったのですが、なんと、その飛行機は那覇港に爆弾を落とし始めたのです。

私たちは慌てて学校の防空壕に隠れました。空襲は7時頃から8時半頃まで続きました。敵機が消えたので、学校に集まった生徒たちは解散になりました。

うちに帰ると弟が待っていて、一緒に首里の祖母の家に避難する事になりました。首里に向かう途中で、また敵の攻撃が始まりました。大勢の人たちと一緒に首里まで逃げて、何とか無事に祖母の家に着きました。

その日のアメリカの空襲は五回もありました。1回目が7時頃から8時半頃まで、2回目が9時半頃から10時過ぎまで、3回目が11時半頃から12時半頃まで、4回目が1時頃から2時頃まで、5回目が3時頃から4時頃まででした。1回目から3回目までは那覇港と小禄飛行場に集中していましたが、4回目からは那覇の街も攻撃されて、那覇の街は灰燼と化してしまいました。勿論、私の家も焼けてしまいました。学校も焼け落ちてしまいました。

那覇の街が燃えているのを首里から見ていた私は涙が止まりませんでした。私たちが一体、何をしたというのでしょうか。どうして、那覇の街がアメリカの攻撃に遭わなければならないのでしょうか。

でも、悲しんでいる暇はありませんでした。那覇から逃げて来た大勢の人たちが城跡や学校の校庭に避難しているので炊き出しを手伝ってくけと頼まれて、私たちも行って、おにぎりを作り続けました。9時頃になって祖母の家に帰ると、姉がいました。姉の顔を見たら、急に悲しみがこみ上げて来て、大声で泣いてしまいました。姉から、父も無事だと聞いて安心しました。





昭和19年10月の出来事

10月3日、米統合参謀本部、太平洋艦隊司令長官ニミッツ提督に対し琉球に1個またはそれ以上の拠点を占領せよと命じる。
10月3日、米機B24、沖大東島を銃撃する。
10月5日、宮古島の中・西飛行場が完成する。
10月5日、ニミッツ提督、配下部隊に対し、台湾攻略作戦を変更し、太平洋方面部隊は1月20日に硫黄島、3月1日に琉球諸島に数個所の拠点を確保すべき企画を明らかにする。
10月8日、既教育兵、与那原・読谷山・伊江島に召集される。
10月9日、八重山飛行場工事のため徴用された沖縄本島住民、帰途に遭難し500人の犠牲者を出す。
10月10日、米機動部隊の艦載機延約1400機が南西諸島を空襲、那覇市は90%が灰燼に帰す(罹災戸数1万 2000余戸、死傷者785人、損害は艦船15隻、500万発分の弾薬、県民1カ月分に相当する約4万4000袋の食糧米)。
10月10日、泉知事、南部に住む婦女子の即時北部避難を示達。
10月10〜15日、南部の老幼婦女子、北部へ疎開。
10月10日、泉沖縄県知事、県庁を普天間に移す。
10月11日、第2航空艦隊の主力、九州方面から南西諸島の航空基地に移り始める。
10月12日、台湾沖航空戦が展開され、大本営は戦果がないにもかかわらず大戦果をあげたと発表する。
10月13日、那覇の通信事業、民家を利用して活動を再開する。
10月14日、B29など100機、台湾に来襲する。
10月15日、第26航空隊司令官有馬正文少将指揮の攻撃隊、台湾沖でハルゼー大将指揮下の艦隊を攻撃する。
10月15日、金の強制買い上げ実施。
10月16日、侍従武官坪島文雄中将、宮古島を視察する。
10月16日、陸軍省、《陸軍特別志願兵令》を改定公布し、17歳未満の者にも志願を許可する。
10月17日、第32軍、兵棋演習を実施する。
10月18日、大本営、《捷1号》作戦の発動を命じ、フィリピン方面に陸海軍の主力を投入して決戦を挑む。
10月18日、陸軍省、《兵役法施行規則》を改定公布し、17歳以上を兵役に編入する。
10月20日、戦況の悪化に伴い、東京の日比谷で《一億憤激米英撃摧国民大会》が開催される。
10月20日、米軍、フィリピン中部のレイテ島に上陸する。
10月21日、沖縄県庁に特別援護室が設置される。
10月21日、《10.10空襲》罹災者を優先する沖縄県内外移住事務が開始される。
10月21日、米統合参謀本部、沖縄攻略作戦計画《アイスバーグ作戦》を決定。
10月22日、宮古島の輜重兵第28連隊長横山伊一郎大佐、輜重兵学校長に転出する。
10月23日、第8飛行師団、連合艦隊司令長官の指揮下から除かれる。
10月24日、レイテ沖海戦が行われる(日本艦隊の突入作戦は失敗、連合艦隊の主力を失う)。戦艦『武蔵』沈没。
10月25日、レイテ沖で海軍神風特別攻撃隊(敷島隊)、初めて米艦を攻撃する。
10月25日、中国基地から飛来した米機B29約100機、北九州を空襲する。
10月25日、少額紙幣発行(5銭、10銭)。
10月29日、21歳〜45歳の男子を防衛隊として召集する。
10月、牛島第32軍司令官、八重山島民の飛行場建設工事への協力に対し感謝状を贈る。
10月、この頃、護郷隊編成される。


沖縄戦の絵  沖縄は戦場だった  私の沖縄戦記  沖縄〜最期の死闘  ウミガメと少年

昭和19年(1944年)9月 

2008年03月28日(金) 13時33分
那覇は兵隊さんでいっぱいになりました。学校の校舎も兵舎として使われ、二高女にも山部隊(第二十四師団)の兵隊さんが駐屯していました。

沖縄を守るために働いている兵隊さんたちを見ながら、私たちもお国のために働かなければならないと強く思いました。

そんな時、小禄飛行場(現在の那覇空港)の近くのガジャンビラ(筆架山)で高射砲の陣地造りが始まりました。私たち女学生も動員されて、汗と土にまみれて働きました。作業はきつかったけど、昼休みになると兵隊さんたちと一緒に歌を歌ったのが、楽しかった思い出として記憶に残っています。その時、面白い替え歌も教わりました。





昭和19年9月の出来事

9月1日、台湾に徴兵制が施行される。
9月4日、第32軍の長参謀長一行、宮古島の飛行場工事を視察する。
9月5日、人間魚雷『回天』の基地誕生。
9月6日、米機動部隊、パラオ島とヤップ島に来襲する。
9月9日、米機動部隊、ダバオを襲撃する。
9月9日、フランス臨時政府樹立(首班ドゴール)。
9月15日、第32軍、航空作戦準備強化のため地上作戦準備を1カ月休止し、飛行場建設に専念する。
9月15日、米軍、パラオ群島のペリリュー島とニューギニア西方モロタイ島に上陸する。
9月15日、ダイヤモンド買い上げ開始(軍需省)。
9月17日、第32軍司令官牛島中将、宮古島守備部隊を視察する。
9月21日、米機動部隊、ルソン島クラーク飛行場を空襲する。
9月22日、台湾軍、《第10方面軍》と改称される。
9月27日、東京商大を東京産業大学、神戸商大を神戸経済大学と改称。
9月28日、最高戦争指導会議、ソ連の中立維持・利用をはかる《対ソ施策に関する件》を決定する。
9月28日、美術展覧会取扱要綱発表、公募展禁止、展覧会中止多数。
9月29日、米軍、B29で初めて沖縄の空中写真を撮影する。
9月30日、政府、《新国民運動実施要綱》を決定する。
9月30日、神仏基30万の宗教家によって《大日本戦時宗教報国会》が結成される。
9月、   独立混成第59・第60旅団の主力、宮古島の配置につく。
9月、   必勝食糧態勢の確立のため、県庁に『食糧配給課』を設置。


豪胆の人 帝国陸軍参謀長・長勇伝  図説特攻  特攻  特攻回天戦  人間魚雷回天

昭和19年(1944年)8月 

2008年02月28日(木) 13時32分
8月になって、兵隊さんがいっぱい、沖縄にやって来ました。沖縄が危ないとの噂が流れていたので、兵隊さんたちが沖縄を守ってくれるとみんな、安心しましたが、その反面、こんなに大勢の兵隊さんが来るという事は、本当にアメリカが沖縄に攻めて来るに違いないと思われて恐ろしくなりました。

沖縄守備隊の司令官が渡辺中将様から牛島中将様に替わって、8月10日に牛島中将様は赴任していらっしゃいました。私たちブラスバンド部はいつものように歓迎の式典で演奏をしました。

牛島中将様は何となく親しみやすい感じで、将軍様というよりも、校長先生という感じがしたのを今でも覚えています。

国民学校の児童たちの疎開も始まりました。そして、不幸な事件が起きました。

8月22日、長崎に向かった対馬丸がアメリカの潜水艦の魚雷を受けて沈没してしまったのです。大勢の児童が亡くなってしまいました。私たちの同級生も一人、対馬丸に乗っていて亡くなってしまいました。でも、その事を知ったのはかなり経ってからでした。政府は対馬丸が撃沈された事を公表しませんでした。





昭和19年8月の出来事

8月1日、砂糖の家庭用配給停止。
8月2日、第32軍、第24師団到着に伴う配備変更を下令する。
8月3日、第69飛行場大隊(浅沼隊)、石垣島の白保に配備される。
8月3日、テニアンの日本軍守備隊玉砕する。
      (角田覚治中将(海軍)・緒方敬志大佐(陸軍)指揮下約8000人の将兵が戦死)。
8月4日、閣議、一億国民総武装を決定し、竹槍訓練などが始まる。
8月4日、米華連合軍、ビルマのミートキナを占領する(日本軍守備隊約1000人が戦死)。
8月4日、学童集団疎開第一陣、上野駅出発。9月24日までに20万3000人の疎開完了。
8月5日、第24師団、沖縄本島に到着する。
8月5日、大本営政府連絡会議、《最高戦争指導会議》と改称される。
8月10日、第32軍新司令官として牛島満中将が着任する(渡辺正夫前司令官は病気で離任)。
8月10日、グアム島の日本軍守備隊1万8000人、玉砕する。
8月11日、米機B29、南朝鮮・九州・山陰を襲撃する。
8月12日、米機B29、父島に来襲する。
8月15日、閣議、国内防衛態勢を強化するため《総動員警備要綱》を決定する。
8月18日、第32軍、第62師団到着に伴う配置変更を下令する。
8月19日、第62師団兵員、沖縄に到着する。
8月19日、最高戦争指導会議で《世界情勢判断》および《今後採るべき戦争指導大綱》を決定する。
8月22日、沖縄から本土への学童疎開船対馬丸、悪石島付近で米潜水艦ボーフィン号の魚雷攻撃を受けて沈没する(学童・一般人1661人のうち、生存者はわずか177人、そのうち学童は59人で766人が犠牲となる)。
8月22日、連合軍、パリ入城、ドゴール凱旋。
8月23日、 《学童勤労令》《女子挺身勤労令》が公布される(8月31日実施)。
       大学・高専、理科系2年以上の学徒1000人を科学研究員として勤労動員から除外。
8月23日、宮古島の独立混成第45旅団、石垣島に移り、八重山農学校に旅団司令部を開設する。
8月25日、神風特別攻撃隊の体当たり攻撃が始まる。
8月28日、全国神職寇敵撃滅祈願訓令。
8月31日、米軍機、小笠原・硫黄島に来襲する。
8月31日、米機動部隊、台湾に来襲する。
8月、   宮古島住民の島外疎開が始まる。
8月、   独立混成第59旅団主力、伊良部島に布陣する。


沖縄に死す  豪胆の人  対馬丸  戦時艦船喪失史  生きぬいた子どもたち

昭和19年(1944年)7月 

2008年02月01日(金) 14時32分
サイパン島が玉砕したと知らされたのは7月の半ば頃でした。校長先生のお話の後、みんなで、「海行かば」を合唱しました。

サイパン島の次は沖縄だという噂が流れて、不安になりました。そんな時、県庁に勤めている父から疎開の話が出ました。沖縄県民を疎開させるために、県庁職員がまず見本を見せなければならないので、職員の家族を疎開させるとの事でした。

私たち家族も、祖父母、母親、二人の妹と末っ子の弟が叔母のいる宮崎県に疎開する事になりました。

7月下旬、みんなが疎開してしまって、家に残ったのは父と姉と私の3人だけになってしまいました。家の中が急に静かになって、寂しくて、早く戦争が終わって、みんなが帰って来る事を毎日、祈っていました。





昭和19年7月の出来事

7月1日、大本営陸軍部、第32軍の作戦援助のため参謀本部付長勇少将を沖縄に派遣する。
7月2日、日本全国で国民総蹶起運動が展開される。
7月3日、石垣島の台湾疎開船2隻、尖閣列島付近で米機による爆撃を受け沈没、多数の死傷者を出す。
7月4日、大本営、インパール作戦中止を発令する(日本側の戦死者3万人、戦傷病者4万5000人)。
7月5日、大本営から派遣の長勇少将と大本営参謀木村正治中佐一行が宮古島を視察する。
7月6日、第9師団(師団長原守中将)司令部の兵員100人、空路沖縄に到着する。
7月7日、富山丸で遭難した独立混成第44旅団および第32軍兵器勤務隊の生存者約500人、那覇に到着する(うち宇土武彦大佐以下約400人が沖縄本島、その他は宮古島に配置される)。
7月7日、サイパン島の日本軍、玉砕する(守備隊戦死約3万人、捕虜1000人、住民の死者約1万人)。日本の絶対国防圏崩れる。
7月7日、緊急閣議、南西諸島の老幼婦女子・学童の県外への集団疎開を決定する。
      沖縄県でも疎開者の募集が始まる。
7月7日、軍中枢部は、この日から米軍の南西諸島への侵攻の公算大なりと予想する。
7月8日、沖縄派遣中の長勇少将が第32軍参謀長に任じられる。
      第32軍参謀長北川少将は台湾軍参謀副長に任じられる。
7月8日、米機B29が九州西北部に来襲する。
7月10日、情報局、中央公論社・改造社に対し自発的廃業を指示する(両社とも月末に解散)。
7月11日、第32軍、西部防衛軍の管下から台湾軍(司令官安藤利吉大将)に編入される。
7月11日、内地各軍に対し戦時警備令が下達される。
7月11日、閣議、国民学校高等科・中学校低学年生徒の動員、深夜業の強化を決定する。
7月12日、帝国在郷軍人会沖縄支部、管内に防衛隊を編成する。
7月14日、東条参謀総長が辞任し、後任に梅津美治郎大将が任じられる(7月18日)。
7月15日、政府、樺太を除き全都道府県に総動員警備を施行する。
7月17日、第24師団、第32軍に編入される。
7月18日、東条英機内閣、総辞職する。
7月18日、《学童疎開促進要綱》が発表される。
7月19日、歩兵第36連隊主力、南大東島に駐留する。
7月20日、櫛淵第28師団長、宮古島に着任する。
7月20日、独陸軍のヒトラー暗殺計画失敗。
7月21日、米海兵隊(5万4000人)、グアム島に上陸する。
7月22日、第8飛行師団、作戦上、連合艦隊司令長官の指揮下に入る。
7月22日、小磯国昭陸軍大将を首班とする内閣が成立する。
7月24日、大本営、フィリピン・台湾・南西諸島・本土・北方の各地域にわたる《捷号作戦》準備を下令する。
7月24日、第62師団・独立混成第59・第60・第64旅団、第32軍に編入される。
7月24日、シュミット少将指揮の米海兵隊4万2000人、テニアン島に上陸する。
7月25日、歩兵第30連隊主力、宮古島に到着する。
7月、   沖縄県民の台湾・九州へ疎開始まる(〜1945年3月までに約6万人が本土へ、2万2000人が台湾へ疎開)。


加藤隼戦闘隊  総統爆破計画  銃後の記憶  十五歳の日記

昭和19年(1944年)3月 

2008年01月09日(水) 13時54分
昭和19年の3月の下旬だったと思います。

沖縄を守るために、沖縄守備軍(第32軍)が新設されて、司令官の渡辺中将様と参謀長の北川少将様が沖縄に赴任していらっしゃいました。

私たちブラスバンド部は那覇港まで行って、歓迎の演奏をしました。もしかしたら、小禄飛行場だったかもしれませんが、よく憶えていません。兵隊さんが来る度に、歓迎の演奏をしていました。その時が最初だったように思います。

4月に新学期が始まって、私は四年生になりました。新学期から制服の胸に住所、氏名、年齢、学校名、血液型を書いた名札を付けるようになりました。スカートは特別の日だけで、普段はモンペをはかなければなりません。防空ずきんと救急袋も常に持っていなければならなくなりました。




昭和19年前半の出来事

1月1日、沖縄県農業会が発足し、農業面の統制が強化される。
1月8日、閣議、《緊急学徒勤労動員方策要綱》を決定する。
1月13日、女師・一高女、心身鍛練のため17里行軍を実施。
1月14日、ソ連軍、レニングラード戦線で大攻勢を開始する。20日、独軍から解放。
1月18日、閣議、《緊急国民勤労動員方策要綱》を決定する。
1月24日、スイカ、メロンなど不急作物の作付け禁止。
1月26日、東京・名古屋に防空法による疎開命令(指定区域の建物の強制取り壊し)。各都市も続く。
1月27日、リベリア、日本に宣戦を布告する。
1月29日、『中央公論』『改造』などの編集者検挙(横浜事件)
1月、   八重山諸島の石垣島で郷土防衛のため第227特設警備隊(三木隊)、第226隊(又吉隊)が招集、編成される。
1月、   大本営、絶対国防圏を強化するため南西諸島および台湾の防備態勢を一段と強化することを決め、陸軍部第2(作戦)課長服部卓四郎大佐が神直道少佐に南西諸島の防衛について研究を命じる。
1月、   女教員総蹶起運動展開される。
2月1日、米軍、マーシャル群島に上陸。
2月4日、文部省、大学・高等専門学校の《軍事教育強化方針》を発表する(学徒に航空訓練・機甲訓練・軍事学・兵器学・軍事医学を教習させる)。
2月4日、米機動部隊、千島列島のパラムシロ島を砲撃する。
2月6日、マーシャル群島のクエゼリンとルオット両島の日本軍守備隊約6800人が玉砕する。
2月9日、文部省、《中等学校教育内容の戦時措置》を決定する(芸能科目を廃止して工作を課すほか高等女学校の実業科目を正課とする)。
2月10日、俳優座結成(青山杉作、千田是也他)。
2月16日、大本営陸軍部、《北東及び中部太平洋方面統帥組織及び兵備に関する件》を上奉する(第31軍の新設など北東方面と中部太平洋方面の兵備増強をはかる)。
2月16日、《国民学校令等戦時特例》が公布され、就学義務が満12歳まで引き下げられる。
2月17日、ミッチャー少将指揮下の米第58機動部隊、日本連合艦隊の太平洋における最大の基地トラック島を攻撃し無力化させる(日本軍は艦船43隻と航空機270機を失う)。
2月17日、青年学校教員養成所が廃止され、青年師範学校が設立される。
      文部省は軍人・官吏等を無試験で国民学校や中等学校の教員とし、徴兵による教員の不足を補う。
2月19日、大本営の陸海軍両統帥部、作戦指導の合同研究を行い、日本本土・南西諸島および台湾方面の防衛の緊急強化を決定する。
      東条内閣が改造され、蔵相に石渡荘太郎、農商相に内田信也が就任する。
2月21日、参謀総長の杉山元大将と軍令部総長の永野修身大将が辞任し、統帥と国務の統一をはかるとし て総理兼陸相の東条英機大将が参謀総長、海相の嶋田繁太郎が軍令部総長を兼任する。
2月23日、『毎日新聞』の「竹槍では間に合わぬ、飛行機だ」の記事に東条首相が激怒し、新聞差し押さえ、執筆記者の懲罰招集をめぐり陸・海軍当局が衝突する。
2月25日、政府、《決戦非常措置要綱》を決定する(高級料亭追放、劇場閉鎖など)。
      文部省、食糧増産に500万人の学徒動員を決定する。
      米潜水艦、沖大東島を砲撃する。
2月、   沖縄県県庁職員家族の本土引き揚げが始まる。
      昭和19年度国民貯蓄目標は360億円に決定され、沖縄県の目標割当は3500万円と発表される。
3月3日、国民学校学童給食、食糧増産への空地利用、疎開促進の3要綱発表。
3月4日、宝塚歌劇団休演、ファン整理対策に警官抜刀。
3月6日、全国の新聞の夕刊が廃止される。
3月7日、閣議、学徒勤労動員の通年実施を決定する。
3月8日、日本軍、インパール作戦開始。
3月9日、陸大教官八原博通大佐が南西諸島守備軍として新設予定の第32軍の参謀要員に任じられ、創設準備作業を始める。
3月15日、大本営陸軍部は南西諸島および台湾方面の防衛強化のため杉田一次大佐を班長とする現地偵察班を派遣する(同行者は椙山一郎中佐(通信)、神直道少佐(航空)、三岡健次郎少佐(船舶)、斎藤春義少佐(編成)などのほか、第32軍参謀長予定の北川潔水少将と作戦参謀予定の八原博通大佐)。
3月20日、沖縄家政女学校を積徳女学校と改称する。
3月22日、大本営直轄の第32軍(沖縄守備軍)が新設される。
      女師・一高女の校舎の3分の1が兵舎となる。
      大本営、第32軍および台湾軍の作戦準備の準拠として《10号作戦準備要綱》の参謀総長指示を発する。
3月24日、大本営、第85兵站警備隊を第32軍に編入し大東島の防衛強化を指示する(人員は将官2人、将校准仕官46人、下士官96人、兵163人、高等文官1人、判任文官16人、工員16人の計340人)。
3月27日、第32軍司令部、福岡市立第一高等女学校で編成を完了する。
3月29日、第32軍司令官渡辺正夫中将、参謀長北川潔水少将らと沖縄に赴任する。
3月29日、中学生の勤労動員大綱決定。
3月31日、連合艦隊指令長官古賀峯一大将はパラオからフィリピンのダバオに飛行中行方不明となる(4月5日、殉職発表)。
3月31日、松竹少女歌劇団解散、松竹芸能部女子挺身隊結成。
4月1日、沖縄県警察官・県庁職員から陸海軍の司政官に転出する者が多くなる。
      制服の胸に住所、氏名、血液型を書いた名札をつけ、もんぺと防空頭巾が義務づけられ、救急カバンを常時携帯となる。『四大節』だけはスカート着用と決まる。
4月1日、国鉄の一等車・寝台車等を撤廃。100キロ以上の旅行は警察の許可制に。
4月4日、閣議、国内警備警察を強化するため、13道府県に《非常警備隊設置》を決定する。
4月8日、ソ連に独ソ和平斡旋を申し入れ(12日、ソ連拒否)。
4月9日、第32軍司令部の残余兵員150人、那覇に到着する。
4月10日、佐世保鎮守府指令長官の要請で第4海上護衛隊と沖縄方面根拠地隊が編成される(沖縄方面根拠地隊司令官は第4海上護衛隊司令官新葉亭造海軍少将月兼務)。
4月12日、渡辺第32軍司令官、第19航空地区司令官青柳時香中佐に沖縄本島と伊江島の航空基地設定を、また第205飛行場大隊長には宮古島の航空基地設定を命じる。
      警視庁、《決戦非常措置令》に基づき興行刷新要綱を発令する(少女歌劇、ショーなど不許可になる)。
4月18日、沖大東島、米潜水艦の砲撃を受ける。
4月23日、渡辺第32軍司令官、軍司令部付松原大尉に石垣島に航空基地の設定を命じる。
4月24日、第85兵站警備隊、大東島に上陸する(途中、米潜水艦の攻撃を受け、隊長横田熊次郎中佐の乗船が沈没し、隊長以下18人が戦死)。
4月28日、中里介山(60)没。
4月、    海軍軍令部、頽勢挽回の決定兵器として9種類の特攻兵器の使用を海軍艦船本部等に提案する(それにより人間魚雷《回天》と合板製滑走艇《震洋》が実現)。
4月、   雑炊食堂開設。
5月1日、海軍大将豊田副武、連合艦隊指令長官に就任する。
5月2日、陸海軍両統帥部の御前研究が行われる。陸海軍両統帥部、南西諸島・台湾・伊豆諸島方面作戦に関する陸海軍中央協定を指示する。
5月3日、独立混成第44旅団(沖縄本島)・第45旅団(宮古・八重山)などが第32軍に編入される。
      陸軍病院を編成する。
      沖縄本島で南・東・中飛行場のほか伊江島飛行場・宮古西飛行場の建設が始まる(各飛行場の労務者は連日2000〜3000人に及び老若男女の別なく小学生に至るまで徴用)。
5月5日、国民酒場開設。
5月8日、宮古島へ第205飛行場大隊が駐留し、陸軍飛行場の建設が始まる。
5月10日、第32軍、大本営直轄を離れ、皇土防衛軍(西部軍)に編入される(10号作戦準備)。5月16日、西部軍司令官下村定中将、第32軍司令部をはじめ沖縄本島・伊江島・宮古島などを巡視する。
5月18〜24日、米機動部隊、ウェーキ島・南鳥島・千島を攻撃する。
5月20日、宮古・八重山の先島守備隊長に独立混成第45旅団長宮崎武之少将が任じられる。
      渡辺第32軍司令官、独立混成21連隊長に徳之島の基地設定と防衛を命じ、宮崎少将に宮古島および石垣島の基地設定を命じる。
5月24日、防衛総司令官東久邇宮稔大将、沖縄本島第32軍司令部を視察する。
5月、   宮古島で陸軍の中・西飛行場の建設が始まる。
      西部軍司令官下村定中将、初の巡視のため宮古島を訪れる。
5月、   中学生・女学生ら陣地構築に駆り出され授業停止する。
6月4日、英米軍、ローマに入城。
6月6日、連合軍、ノルマンジーに上陸する。
6月10日、第8飛行師団、台湾軍の指揮下に編入される。
6月10日、大日本言論報国会総決起大会開催、ヒトラーへの激励電報を打つ。
6月11日、米機動部隊、マリアナ諸島に来襲し、日本軍のマリアナ地区基地航空部隊は甚大な被害を受ける。
6月15日、連合艦隊指令長官、《あ》号作戦を発動する。南西諸島全域に警戒警備報が発令される。
      独立混成第21連隊主力、徳之島に駐留する。
      渡辺第32軍司令官、第4海上護衛隊司令官及び沖縄方面根拠地隊司令官と《南西諸島作戦に関する現地協定》を結ぶ。
6月15日、米軍、サイパン島に上陸。日本軍3万人玉砕、住民1万人死亡。
6月16日、中国基地の米機B29、初めて九州に来襲する。
6月19日、日本海軍、マリアナ沖海戦で空母と航空機の大半を失い、米機動部隊が西太平洋の制海空権を握る。
6月22日、宮崎独立混成第45旅団長、宮古島に着任、旅団の駐留が始まる。
6月23日、北海道で昭和新山出現。
6月24日、第25飛行団長福沢丈夫中佐、沖縄本島北(読谷)飛行場に着任する。
6月25日、第32軍司令部、防衛軍総司令部に対し沖縄本島への軍備力結集の必要性を強調・要請するがが失敗する。
6月26日、第32軍、第9師団等を配下に編入する。
6月27日、米軍、グアム島へ艦砲射撃を行う。
6月29日、独立混成第44・第45旅団などの兵員を乗せた富山丸月沖縄へ向かう途中、徳之島東方海上で米潜水艦に撃沈され、約4600人の将兵中の3700〜4000人が行方不明となる。
6月30日、第32軍、第28師団を配下に編入し宮古島へ配置を決める。
6月30日、閣議、国民学校初等科児童の集団疎開を決定する。
6月、   八重山の各町村で非戦闘員(老若男女)の台湾疎開を開始する。
       第128野戦飛行場設定隊(山田隊)、陸軍白保飛行場設営のため八重山に駐留する。


一番美しく  五人の突撃隊  遊撃戦 第1巻  史上最大の作戦  ザ・大菩薩峠

昭和18年(1943年)8月 

2007年12月08日(土) 12時02分
昭和18年の夏休みだったと思いますが、小禄飛行場(現在の那覇空港)の排水溝掘りの作業に駆り出されました。

私たちもお国のために勤労奉仕をしなければならなくなったのです。

重くて大きなツルハシで、幅2メートル位の溝を掘って、掘った土を運び出す仕事です。汗と泥で真っ黒になって励みました。

出征兵士の留守宅の農作業の手伝いや製菓工場の手伝いもありました。慣れない仕事ばかりで大変でしたけど、みんな、一生懸命に頑張りました。





昭和18年後半の出来事

7月1日、《地方行政協議会令》が公布される。東京都制実施。
7月1日、早川知事解任され、泉守紀、第26代沖縄県知事となる。
7月6日、『みたみわれ』発表、国民音楽会(日比谷)。
7月11日、東条首相、南方よりの帰途、戦時状況の視察のため沖縄に立ち寄る。
7月21日、《国民徴用令》が改定公布される。
7月25日、ブーゲンビル島の上空で航空戦が展開される。
7月25日、ムッソリーニ失脚、逮捕される。
7月29日、日本軍、キスカ島から撤退する。
7月30日、《全国女子学徒動員》が決定される。
7月、   伊江島飛行場建設のため、田村飛行場大隊、伊江島に移駐。
8月1日、日本占領下のビルマでバー・モー政府が独立を宣言し、米英に対し宣戦を布告する。
      日本・ビルマ、同盟条約に調印する。
8月10日、長袖の和服、ダブルの背広など非必需品の製造禁止。
8月14日、チャーチルとルーズベルトがカナダのケベックで会談する(クワンドラント会議)。
8月17日、独軍、シチリア島撤退。
8月22日、島崎藤村(72)没。
8月、   沖縄県民修練所が設置される(那覇市のほか8カ所)。
8月、   宮古島で特設警備第209・第210中隊が編成される。
9月3日、イタリア、シチリア島で連合国と秘密休戦協定に調印する。
9月4日、上野動物園で空襲に備え猛獣を薬殺。
9月5日、徳川夢声の『宮本武蔵』放送開始。
9月8日、連合国、バドリア政府との休戦協定を公表する。イタリアが無条件降伏する。
9月9日、日本政府、イタリアの無条件降伏に関し声明を出す。
9月10日、鳥取県に大地震、死者1083人、全壊7485戸。
9月12日、独軍、ムッソリーニ前イタリア首相を救出する。
9月15日、ムッソリーニ、独軍占領下の北イタリアにファシスト共和制政府を樹立し首班となる。
       日独共同声明で同盟を再確認する。
9月21日、陸軍省、《兵役法施行規則》を改定公布する(昭和5年以前検査の第2国民兵も招集される)。
9月22日、理工系以外の学生の徴兵猶予停止。
9月22日、販売店員など17職種に男子の就業禁止。
       25歳未満の未婚女子を挺身隊として勤労動員する事を決定。
9月23日、閣議、昭和20年度から台湾に徴兵制を布くことを決定する。
9月28日、閣議、官庁の地方疎開方針決定。
9月30日、大本営が絶対国防圏を設定し、以後は南西諸島および台湾の防備が強化される。
       御前会議、《今後執るべき戦争指導大綱》および《右に基づく当面の緊急措置に関する件》を決定する(絶対防衛線をマリアナ・カロリン・西ニューギニアの線に後退させる)。
10月2日、《在学徴集延期臨時特例法》が公布され、学生・生徒の徴兵猶予が全面停止される。
10月5日、関釜連絡船を米潜水艦が撃沈(死者554人)。
10月12日、閣議、《教育に関する戦時非常措置方策》を決定する(理工科系統および教員養成諸学校学生のほかは徴兵猶予を停止し、義務教育8年制を無期延期する)。
10月14日、フィリピン共和国、独立を宣言する(大統領ラウレル)。
       日比両国、同盟条約に調印する。
10月15日、閣議、重要都市の疎開方針決定。
10月21日、チャンドラ・ボース、シンガポールで自由インド臨時政府を樹立する。
10月21日、第一回学徒出陣。明治神宮外苑で壮行会を盛大に挙行。
       徴兵延期停止による出陣学徒壮行大会挙行。
       東京周辺77校・数万人が雨中、分列行進。
10月21日、中野正剛(58)、倒閣運動容疑で憲兵隊に拘引される(26日割腹自殺)。
10月22日、大本営、第2方面軍と第2軍の満州から太平洋戦線への転用を命令する。
10月30日、政府、汪兆銘政権との間に《日華同盟条約》を締結する。
11月1日、《兵役法》が改定公布される(国民の兵役義務を45歳まで延長する)。
11月1日、政府、商工省・企画院を廃し、《軍需省》を創設する。
       東条首相が初代軍需大臣を兼任する。
       国民精神文化研究所と国民鍛練所が統合され《教学鍛練所》が設置される。
11月4日、県立女子工芸学校、県立首里高等女学校となる。
11月5日、東京で大東亜会議が開催される(日本、フィリピン、タイ、満州、ビルマ、中華民国汪兆銘政権の6カ国代表が参加)。
11月6日、《大東亜共同宣言》が発表される。
11月18日、徳田秋声(73)没。
11月22日、ルーズベルト・チャーチル・蒋介石が会談する(第一回カイロ会談)。
11月25日、ギルバード諸島のマキンとタラワ両島の日本軍守備隊5400人が玉砕する。
11月28日、ルーズベルト・チャーチル・スターリンがテヘランで会談する(ソ連の対日参戦など協議)。
11月30日、日本全国女子学徒動員を決定。女子中等学校生徒に看護教育始まる。
11月、   沖縄県下各地で、食糧増産完遂宣誓大会が開かれる。
12月1日、第一回学徒兵が入隊する(学徒出陣)。
12月1日、米英中『カイロ宣言』を発表。
12月8日、東条首相、世界向け放送でカイロ宣言とテヘラン宣言に反論する。
12月10日、学童縁故疎開促進発表。
12月21日、閣議、《都市疎開実施要綱》を決定する。
12月24日、《徴兵適齢臨時特例》が公布され、徴兵適齢が1年引き下げられる(満19歳に引き下げ)。
12月、   観音寺部隊、佐世保海軍航空部隊から八重山の平喜名飛行場に駐留する。
12月、   沖縄で東部軍司令部女子通信部隊第1950部隊が発足する(女子軍属)。
この年の9月頃までに、琉球8社のうち、普天間宮・末吉宮・沖宮・識名宮・天久宮・八幡宮の修復工事竣工する。
この年の半ばから、師範学校・中学校・青年学校の生徒、現地の各部隊に協力し、陣地構築・食糧増産等に動員される。

・地方銀行の合併盛ん。
・野球用語他一切英語禁止。
・タバコ2回値上げで『ひかり』18銭が45銭に。
・食糧増産のため、ゴルフ場などでも耕作。
・野草の食用を奨励(決戦料理)。
・女性のバス運転手登場。
・流行歌『加藤隼戦闘隊』『お使いは自転車にのって』『勘太郎月夜(小畑実・藤原亮子)』
・日本映画『姿三四郎』『無法松の一生』『花咲く港』

姿三四郎  無法松の一生  太平洋の翼  太平洋奇跡の作戦 キスカ  英霊たちの応援歌 最後の早慶戦

昭和18年(1943年)4月 

2007年11月13日(火) 17時14分
4月から女学校の制服がスカートからモンペに変わってしまいました。

カッコわるいけど、仕方がありません。私たちもお国のために働かなければなりません。おしゃれなんかしてはいられません。

奈津子お姉ちゃんは二高女を卒業して、県立病院の看護婦養成所に入って、白衣の天使になるんだって張り切っています。

従姉の陽子ちゃんは、学校の先生になるために師範学校の女子部に入学しました。

あたしもそろそろ、先の事を考えなければならないんだけど、まだ、わかりません。

学校の先生も看護婦さんもいいんだけど、あたしは秀子おばさんみたいに、デパートガールがいいかなって、ちょっぴり思っていました。





昭和18年前半の出来事

1月1日、中野正剛の『戦時宰相論』で朝日新聞を発禁処分。
1月7日、たばこ値上げ(ひかり18銭→30銭、金鵄10銭→15銭)。
1月9日、汪兆銘政権との間に戦争完遂についての《日華共同宣言》が行われ、祖界還付・治外法権撤廃等に関する《日華協定》が締結される。
1月13日、ジャズなどの米英音楽の演奏、レコードを禁止。一覧表(1000曲)配布。
1月14日、ルーズベルトとチャーチル、モロッコで第3次米英戦争指導会議を行う(カサブランカ会議)。
1月16日、電力消費規制強化(軍需要が70%を占める)。
1月21日、中等学校令公布。中学校、高等女学校、実業学校の修業年限1年短縮、4年制。
1月21日、大学予科・高等学校修業短縮、2年制。実業学校を専門学校に統一。
1月21日、師範教育令の改正で師範学校が国立専門学校に昇格。
1月22日、ニューギニアのブナ方面の日本軍が玉砕する。
1月31日、東部戦線の独軍、ソ連に降伏。
1月、   宮古島で海軍飛行場の建設が始まる。
1月、   石垣島で平喜名・大浜両海軍飛行場の建設が始まる。
1月、   谷崎潤一郎『細雪』発表。5月に発表中止命令が出る。
2月1日、日本軍、ガダルカナル島からの撤退を開始する。米軍の反攻強まる。
2月1日、雑誌の英語名禁止(エコノミスト→経済毎日、オール読物→文芸読物他)。
2月2日、スターリングラードの攻防戦でドイツ軍が全面降伏。
2月3日、劇場・映画館、月2回節電休館開始(東京)。
2月23日、陸軍省、《撃ちてし止まむ》の決戦標語をポスター5万枚配布する。
3月2日、《兵役法》が改定公布される(朝鮮に徴兵制を8月1日施行)。
3月5日、大本営、昭和18年度の作戦計画を決定する。
3月18日、《戦時行政特別法》が公布され、総理大臣の権限強化・地方行政の中央集権化が始まる。
3月19日、洋画家、藤島武二(77)没。
3月20日、《戦時刑事特別法》が改定施行され、政府の基本政策に対する疑問や批判などが処罰の対象となる。
3月27日、樺骰窓竝s設立(三井・第一銀行合併)。
3月、   沖縄本島の読谷と伊江島飛行場建設のため労務者の徴用が開始される。
3月、   沖縄県の昭和18年度貯蓄目標額が2500万円と内示される(前年度は2000万円)。
4月1日、女子青年学校の通学服をモンペに統一する。
4月18日、山本五十六連合艦隊指令長官、ソロモン群島上空で撃墜され戦死する。
4月20日、東条内閣が改造され、外相に重光葵、内相に安藤紀三郎が就任する。
4月28日、東京6大学野球連盟解散。
4月、   沖縄県当局、労務供出要綱を決定し、積極的な労務供出をめざす。
5月1日、全国で木炭・薪が配給制となる。
5月9日、北海道幌別を米潜水艦が砲撃。
5月12日、ワシントンでチャーチルとルーズベルトが会談する(トライデント会議)。
5月12日、キンケイド少将指揮の米第51機動部隊に援護された第7師団約1万1000人がアッツ島に上陸。
5月12日、北アフリカ戦線、独軍降伏。13日伊軍降伏。アフリカ戦闘終結。
5月18日、日本美術報国会創立(大政翼賛会文化部、情報局、文部省指導、会長横山大観)
5月21日、《戦時食糧自給対策》が決定される。
5月22日、《勤労報国隊整備要綱》が発表される。
5月29日、山崎保代大佐指揮のアッツ島守備隊2576人が玉砕する(29人が捕虜となる)。
5月31日、教育総監・航空総監が大本営陸軍部の所属になる。
5月、   御前会議、《大東亜政略指導大綱》を正式採択する。
       マレー・蘭印の日本領編入、ビルマ・フィリピンの独立を決定。
5月、   登呂遺跡発見(7月6日確認)。
5月、   エレベーターの回収開始。
6月1日、東京・昭和通り、各ゴルフ場など農園化。
6月4日、戦時衣生活簡素化実施要綱決定。
6月5日、ソロモン群島の航空戦が激化する。
6月10日、米英、独に昼夜、混合爆撃開始。
6月10日、国民徴用令関係違反者776人検挙(警視庁)。
6月16日、工場就業時間制限令廃止・公布(女子・年少者の鉱山坑内作業許可)。
6月20日、創価教育学会、弾圧(幹部検挙)。
6月25日、政府、《学徒戦時動員体制確立要綱》を決定する。軍事教練と勤労動員を強化。
6月30日、経済市況の放送禁止。

連合艦隊司令長官 山本五十六  軍神山本元帥と連合艦隊  父山本五十六新装版  海燃ゆ  図説山本五十六  細雪
P R
プロフィール
  • ニックネーム:chiiko-misato
読者になる
最新コメント
アメリカ留学
» 昭和19年(1944年)11月 (2008年06月05日)
作者の酔雲
» 昭和13年(1938年)10月27日 (2007年12月24日)
橋本 紀之
» 昭和13年(1938年)10月27日 (2007年12月24日)
http://yaplog.jp/chiiko-misato/index1_0.rdf
QRコード
Yapme!一覧
読者になる