オートバイメーカーの歴史 

June 06 [Wed], 2012, 13:40
ミヤタ製作所は、戦前、自転車の生産では日本第一級の会社です。


・・・しかし、オートバイの生産に熱心だった社長、宮田栄太郎氏は戦後間もなく逝去したので、立ち返りの気勢は、大いにくじかれたようです。


ただし、栄太郎氏の従弟に、宮田正彦、輝彦という人がおり、ともに東京大学機械科出身ですが、両人ともきわめて温厚な性格で、どうもオートバイなんて荒っぽいものには、気が向かないらしく・・・


自転車や消火器のような紳士的なものなどに熱心だったので、宮田一族からはオートバイ作りの跡継ぎはなかったのです。


しかし、オートバイ設計の主班として神蔵信雄氏を迎え、仕事の再開をすることはしました。


神蔵氏は名古屋工高出身で、最初、愛知航空に就職し、航空発動機の仕事に従事、間もなく「航空発動機設計」という著書を出し、若くして名を上げましたが・・・


学者的性格のためか愛知航空にいつかず、どこかに転じて敗戦を迎えたようですが、わたしなどその間の消息をまるで知りません。


いま市場で人気の高い電動スクーターの発明に至るまでには、このような歴史があったのですね。



便利な電動バイク スクーター 

May 11 [Fri], 2012, 13:39
犬山の工場には何回か行ったことがありますが、若い技術者に会ったのみで、首脳と面談する機会はとうとう持ち得ませんでした。


ここの主力製品はいずれも4サイクルで350cc単気筒、400cc単気筒SV形、500cc単気筒OHV形、500cc2気筒併立OHV形、600cc2気筒OHV形などで、名称はいずれもCabton。


あとで250cc単気筒OHV形も付け加え、これには「みずほ」という商品名を冠し、世の常識を外れたような安値で売り出したりもしました。


製品はいずれもイギリス風で、堂々としてはいますが鈍重の印象も否み難かったのです。


操縦性、乗心地などもあまりぱっとせず、故障も多く、遠出の際は修理工具を持たなければならなかったというような話も残っています。


その頃、後発メーカーのほうはいわゆる新進気鋭で、スマートなものを出すようになります。


しかもこのほうには、航空機関係の人などで、高級な仕事も量産も手掛けた人が多く参加してきたのに対し・・・


瑞穂あたりは旧套墨守の風から抜け切らず、次第に後ろへ後ろへと置き去られるのです。


電動スクーターのような便利なものがなかった頃には、このような苦労があったのですね。

バイクの歴史を学ぶ 

April 04 [Wed], 2012, 13:37
日本内燃機はやや大きいものでしたが、ここは戦中陸軍用四輪駆動車(ジープ類似)の製造、末期には無人特殊飛行機用2サイクル60PSエンジン製造などにあたっていました。


ここでは蒔田鉄司氏がずっと技術首脳。


戦後これらのうち、瑞穂、ミャタ、メグロ、陸王の4者が息を吹き返しました。


日本内燃機も多少復活のきぎしがあり、中村良夫氏を申心として、2気筒4サイクル500cc形の試作を行いました。


最も早く復活、最も強い意欲をみせたのは瑞穂製作所であり・・・


ここでは、最初ビスモーターという名のバイクモーターをひっさげ、中京地方を席けんしましたが、間もなく手を引き、大形オートバイの生産を主とします。


いずれも4サイクルで単気筒350cc、最大は2気筒650ccまでした。


末期には小形も手掛けましたが成功せず、大形車の専門メーカーとしての印象を残しました。


今で言うなら、電動スクーターと同じくらい画期的なものだったのでしょうね。


人気のある電動バイク スクーター 

March 07 [Wed], 2012, 13:36
昭和28、29年時代の大活況の際の花形たり得たものは1社もなく・・・


戦後派の大活躍をぼう然とながめているような体たらくであったのです。


オートバイメーカーの戦前派を洗いざらいあげてみると下のとおりになっています。


そのトップは島津楢蔵氏によるNMC、ミヤタ製作所(製品名アサヒ)、蒔田鉄司氏の系統の会社(日本自動車を手始めとし、日本内燃機に決着)、宍戸商会(SSD号)、陸王、目黒製作所(メグロ)、瑞穂製作所(キャブトン)、栗休商会(リツリン)・・・。


これらのうち、いわゆる町工場の程度から抜け出し、製作会社としての体をなしていたのは、ミヤタ、日本内燃機、陸王の3社だけと思いますが・・・


第一のミヤタにしても本業は自転車であり、オートバイ製造の設備は、主工場のすみっこで、町工場的規模でしかなかったのです。


戦争末期まで残ったただ一つの工場。


陸王にしても1日の組立能力は4〜5台、工場も工作機械が50〜60台程度のものでした。


このような技術の発展があって、いま市場で大変な人気のある電動スクーターの発明に至ったのです。

戦後のオートバイ界 

February 16 [Thu], 2012, 13:33
昭和28、29年(1953、1954年)というと、アメリカの占領はようやく解除、日本も独立国として歩み出し・・・


経済もやや立ち直り、国民だれしも自信を取り戻したときです。


「もはや、戦後ではない」などという言葉が使われだしたのもちょうどそのころ。


戦前派(アヴァン・ゲール)、戦中派、戦後派(アプレ・ゲール)などという言葉が使われてオートバイメーカーに関してもむろんそれが用いられました。


ところで、日本には戦前派は洗いざらいあげても7、8社、戦中派(戦争中仕事を続けたもの)ただの1社ですから・・・


乱立時代の120とか130とかの大半が戦後派であることはいうまでもありません。


戦前派が全部生き返ったとしても10%には足らないのですが、実際に生き返ったのは約半分。


しかもこれが戦前派としての実力とか権威とかを振りまわしたかというと皆無でした。


当然ですが、まだ電動スクーターはありませんでした。



日本のオートバイ界 

January 13 [Fri], 2012, 13:32
昭和30年になると、浅間高原でいわゆる浅間火山レースが、日本の最高の権威ある組織の下で施行されることになりました。


その年の11月5、6日の両日、第1回レース開催の運びとなり、重点はそちらに移って行きます。


しかし、それまでの期間は富士登山レースが、日本での最高権威のものだったので、夏の第3回レースは、相当の盛り上がりを見せた。


例えば、その年、オートバイ生産に乗り出したヤマハなどは、ここで初登場を飾るために、会社としてレースに対し大いなる努力を払い・・・


専門のレーサーの養成も行い、野口、望月などの名選手が生まれることになりました。


それまでの期間は、専属のレーサーを抱えることはほとんどなく、ギャンブルレーサーか草レースの優秀者を臨時に頼むくらいでしたから・・・


この辺からレーサー養成の面でも新時代の到来となるのです。


そうした次第で、オートバイ界はレース面でも次第に世界の水準に近づいていくのですが、コースのことだけはマン島の方式はついに日本では追随不可能でした。


当時日本には道路交通に余裕がなくて、一時的にもせよ全面閉鎖は不可能だったのです。


まだ電動スクーターのような便利なバイクがなかった頃・・・


なかなか興味深い話ですよね。

バイクレースの歴史 

December 11 [Sun], 2011, 13:30
レース前の検査は通過したことであり、電池なしでも走れる構造であり・・・


現にそれを正式とする車もあるのだからさしつかえあるまいとして、昌和側は抗議。


しかし、主催者側は失格宣告を取り消さず、昌和側に向かって、走行時間証明書というものを発行するということでけりをつけました。


レースの結果は、時間的には昌和の車が名古屋TT同様、ここでも最高位。


しかし、失格と決まったので、時間2位のモナークが優勝と決まる(乗手は長岡勝)。


所要時間は36分14秒でした。


バイクモーターではスズキのダイァモンド・フリーに乗った山下林作が58分58秒で最高位となります。


第2回のレースは翌昭和29年(1954年)に、日刊自動車新聞社の主催で行われました。


さらに昭和30年(1955年)に第3回、昭和31年(1956年)に第4回、計4回のレースが行われましたが・・・


回ごとに主催者やレース規定の変更がありました。


これはまだ電動スクーターがなかったころの話です。


電動スクーターに乗ろう 

December 06 [Tue], 2011, 13:26
わたしもここには行ってみましたが、出発点は浅間神社の横手で、そばには美しい池があり、まことに景勝の地。


・・・しかし登山路は狭く、しかも路面は溶岩か、火山れきか、灰。


所々に段差があって、車は空中に跳び上がるようなすごい悪路でした。


こう配もきつい所は150もあったといいます。


出場車の制限は名古屋TTと同様で、4サイクルでは150cc、2サイクルで90ccが上限。


しかしこの機種とあわせて、もう1階級低い4サイクル90cc、2サイクル60cc形の出場も認められました(この機種はいわゆるバイクモーターです)。


なお、出場車は実用の標準車と規定されました。


これでほとんど問題はなかったそうですが、昌和の車の電池のことで悶着が起こったのです。


これの常用のものはバッテリー付き、しかしレースに出場したものにはそれがなく、マグネトー点火のみで走ったので常用標準と違うということで、後で失格を宣告されました。


まだ電動スクーターのような乗りやすいバイクがなかった時代に、このようなレースが行われたことはなかなか興味深いですよね。



はじめまして。 

December 05 [Mon], 2011, 12:53
今日からブログを始めることにしました。


日々思ったことなどを、書ける範囲で書いていきたいと思います。


まだブログ初心者なので分からないことだらけですが、よろしくお願いします。


わたしは電動スクーターに乗っています。


ここでは、バイクについての話題が多くなるかと思います。


さて、名古屋TTに少し遅れて、恐らく昭和28年後半ごろだったと思いますが、浜松〜静岡間約85kmの路上で、似たようなレースが行われたことがあります。


しかし、これは局地的なもの、あるいは同好者の集まりの企てという性質のものだったのか、記録が全く見あたりません。


ホンダやスズキの車が参加したことは確かであり、ホンダのベンリィは出場しましたが1位にはなり得ず、誰かが悲憤していた記憶がわたしにはあるのですが、ホンダの古老に尋ねてもよくわかりません。


そして富士登山レース。


このレースは、富士宮市の浅間神社の横を起点とし、富士宮登山道を2合目まで登る約27qのコースで行われたものです。


昭和28年から31年(1956年)までの夏期に4回行われたもので、浅間レースが行われるまでの最も権威あるレースです。


これの第1回は名古屋TTの3ヵ月後の昭和28年7月12日に行われました。


主催者は第1回が毎日新聞社。


開催の目標はオートバイ技術の振興のみならず、地方の観光宣伝の意味もあったということです。