比叡山3
2016.10.01 [Sat] 00:14



法然上人修行の場所を訪ねたくって、奥比叡ドライブウェイ途中に車を置き、
約一時間山道を歩きました。
「熊をみかけたら連絡してください」の看板にちょっとビビりながら・・・

ここは「鐘もご自由について下さい」のメモがあり、 訪ねる観光客はまったく
いませんでしたので本当に幸せを感じる時間でした。



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比叡山・2
2016.09.30 [Fri] 21:29


比叡山・東堂から西塔へ



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見た聞いた処・比叡山
2016.09.30 [Fri] 08:10


後さきになりますが、比叡山見た・聞いた・27日の行程です。


田の谷ゲートから有料道路(比叡山ドライブウェイ)に入り 〜 夢見が丘 

〜 比叡山山頂 〜 比叡山延暦時東堂 〜 比叡山延暦寺西塔 〜

黒谷青龍寺(法然が18歳からの25年間) 〜 比叡山延暦寺横川(よかわ)

〜 仰木ゲートで有料道路を出て 〜 日吉大社 〜 園城寺(三井寺)
 

比叡山ドライブウェイ、山頂付近からの眺め、最後はプリンスホテル18階より。
ドライブウェイを走っていると京都に入ったり、滋賀に入ったり、頻繁に入れ替わりますが、
比叡山と言うと京都のイメージが・・・ 滋賀県民はどのように感じているのかなぁ〜 


東堂、西堂、横川、それぞれにいっぱいの見どころがあり各駐車場に
停めて歩くのもちょっとしたハイキングになります。

法然が25年間ひたすら学んだ黒谷の青龍寺は駐車場から山を下ること30分、
往復徒歩のみで1時間かかりました。 「熊をみかけたら連絡して!」の看板を
見ながら、恐々歩いてきました。

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比叡山・1
2016.09.29 [Thu] 18:10

比叡山・1、 まずは東堂から


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比叡山・法然
2016.09.27 [Tue] 18:18



  

以下は
左大臣プロジェクト運営委員会企画・製作のCDより頂いた内容、かなり端折っています。


「法然の生涯」
貴族時代から武士の時代に生き武力でも政治力でもなく、
ひたすら念仏を唱えることにより極楽往生を願い、 人々の
魂を救済しようとした法然上人。

法然は長承二年(1133年)現岡山県久米郡の武士の家に誕生。
父は漆間時国(うるまときくに)美作国の押領使、今でいう警察署長の
ようなもの。
父は息子に勢至菩薩のような知恵が備わるように勢至丸と名付けました。
父は勢至丸9歳の時に所領地問題で対立していた
明石定明(漆間時国の上司にあたる)に攻められ亡くなりました。

今わの際に父は「聞け、勢至丸、今日のようなことになったのは私が明石を
軽んじたことが原因。 
お前が仇討ちをすれば争いが続く。そんなことは避けねばならぬ。
お前は御仏から授かった大切な子じゃ、仏門に入り自他ともに救われる道を
目指しない」 と息をひきとりました。

勢至丸は母の弟が住職をつとめる山深い菩提寺に預けられます。
叔父の観覚は勢至丸のたぐいまれな向学心と器量にひきつけられ、
13歳の勢至丸を比叡山北谷の寺宝房源光のもとへ送ります。

勢至丸は源光が紹介した天台宗の文献をことごとく読破し、天台宗で
議論の争点となっている重要な問題を源光に尋ねます。
源光は天台の奥義を極めたいと欲するなら、比叡山一の名僧といわれた
東塔西谷の皇円阿闍梨のもとで学ぶよう勧めました。
源光のもとで学んで2年目のことです。

第三の師、皇円阿闍梨のもとでいよいよ勉学に励み、
ついに大乗戒を受戒しました。
一人前の僧と認められ髪もおろします。
受戒・出家する際は師から僧名を授けられます。
勢至丸は「源空」の僧名を授けられます。
心の源は空寂なりと言う意味です。

後に、四番目の師・慈眼房叡空のもとで「法然」という「房号」を
授けられます。これは「道理のまま、自然のまま、あるがまま」の意味です。
トントン拍子に認められた勢至丸、心の内には疑問が渦巻いていました。

当時の比叡山は権力闘争と出世競争が渦巻く世界。
下級の僧侶は武器を持ち、僧兵となり園城寺(三井寺)と武力抗争を
繰り返したり、
ちなみにかの武蔵坊弁慶もこの戦いに加わったと言われています。
僧兵は日枝社の神輿をかつぎ都へ繰り出し強引な要求をつきつけたり(強訴)
していました。

出家した勢至丸は師の皇円阿闍梨に「隠遁」を願いでます。
隠遁とは俗世間との関わりを断ち切って仏門に入ることです。
仏門にはすでに? ですが、 当時の比叡山の状況を知ると
この意味は分かります。

比叡山には「別所」という七つの集落があります。
出世コースからは完全に外れますが法然は別所への隠遁を望みました。
勢至丸は天台三大部「法華玄義、法華文句、摩訶止観」それぞれ十巻から
成る「法華経」の大切なところを述べたものを学んだ後、
久安6年(1150年9月)5年を過ごした東塔西谷皇円阿闍梨の
もとを後にします。 勢至丸18歳。
目指すは「黒谷の聖」慈眼房叡空の黒谷別所、ここで四番目の師、生涯の師と
出逢います。


以後、法然は18歳〜43歳までの25年間を、途中一時下山しますが
この黒谷で過ごし、学問に没頭します。
数千巻もある一切経を五度読破し、天台宗のみならず、華厳宗、法相宗、三論宗など
他の宗派の研究にも及びました。
師の叡空とも議論になると主張を一歩も譲らなかったと言われています。
当時の比叡山では師の言葉を弟子が盲目的に従うだけ、偉い学者とされる人々も
ただ権威ある個人の言葉を注釈するだけでした。
法然は真理を発見するのが大事、師の説を習うだけなら簡単、先輩必ずしも優れて
いるわけではない。と。

また法然は天台宗のキビシイ修行にも疑問を感じていました。
そんなことを何十年もやって、やっと救われるなら庶民はどうなる? 日々の生活に
追われ、修行などする暇はない、また殺生そのものを生業とする者さえいる。
ひま人と金持ちしか救えないのか?

このころ、法然は恵心僧都の「往生要集」に傾倒していました。そこに説かれた
ある教えに注目しました。 極楽往生するための業としては念仏が根本だ。
「念仏を唱えるだけなら庶民にも出来る、自分のような弱い人間にもできる。」
しかし当時の比叡山は念仏はあくまで補助的業であった。 

「よし、決めた、 比叡山を下りよう」
保元元年(1156年)24歳の法然は6年ぶりに比叡山をおります。
南都(奈良)では興福寺、東大寺をはじめとする寺院を訪れ大歓迎を受けます。
しかし、救いにいたる道を見出すには至りませんでした。
法然はむなしく比叡山黒谷に立ち返り、再び学問研究に没頭します。
摂関家の藤原忠通(保元の乱の勝利者)が法然を高く評価した、
このころから法然に対し「智慧第一」の評判が高くなります。
しかし、出家したものの、いっこうに解脱に至る道はみつからず体も
心も弱り果てていました。

承安5年(1175年)春のある夜、43歳の法然は善導大師の「観経疏」
を読みふけっていました。「観経疏」は経典「観無量寿経」の注釈書です。
その中の一節が法然の眼に留まります。
「ついに見つけた!」一心にひたすら阿弥陀仏のお名前を唱えることだ。


「観無量寿経」は古代インドのアジャセ王子についての壮大な物語です。
2600年前の古代インドのマガダ国の王子アジャセは悪友ダイバダッタに
そそのかされ、父である国王ビンビサーラを殺害し、母である王妃イダイケを
牢屋に閉じ込めました。
「観経疏」にはアジャセ王子の出生にまつわる物語が語られています。

国王ビンビサーラと王妃イダイケは熱心な釈迦の信者でした。二人には悩みが
ありました。 子どもが生まれなかったのです。
そこで占い師に占わせたところ、近くの山に仙人が住んでいる、その者は三年
のうちに死にます。そうしたらあなた様の子になって生れ変わるでしょう。
王は、私はもう歳だ、三年のうちに寿命が尽きるかもしれない、使者に仙人を
殺させてしまいました。

その夜、 王宮では王妃が身ごもりましたが、王は、この子は呪われた子では
ないかと心配になり出産の時に高楼から産み落とすように王妃に言います。
赤ん坊は助かりました。

法然はこの「王舎城の悲劇」を繰り返し読むたびに殺された父の言葉を
思い出しました。憎しみの連鎖。
父を殺した明石定明への憎しみをどうしても捨てられない自分。智慧第一と
たたえられ、慢心していた自分。師をあなどり、侮辱していた自分。
アジャセ王子の物語は心の中の問題を抉り出し、さらけ出してきました。
釈迦の前にただ身を投げ出し、懺悔するほかないアジャセ王子。

法然の眼に「観経疏」の34文字が飛びこんできました。
一心にひたすら阿弥陀仏のお名前を唱えること。
承安5年(1175年)43歳の法然は「専修念仏」の教えに行き着きました。
30年間過ごした比叡山を下り、
以後二度と比叡山にもどることはありませんでした。

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喧騒を離れて琵琶湖
2016.09.27 [Tue] 18:10


 

県境
2016.09.27 [Tue] 08:02


 

琵琶湖の朝
2016.09.27 [Tue] 07:12


 

城山発電所
2016.09.21 [Wed] 23:39


神奈川県企業庁発電総合制御所・城山発電所見学



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カナダからのメール(2003年)
2016.09.16 [Fri] 14:39

色々整理していたら娘からのメールが出てきた。
珍しく文体が踊っていたので保管していたもの。
私も見たいなぁ〜 オーロラ、死ぬまでに見られるかな。。。