奄美大島の歴史 - 現代

April 25 [Thu], 2013, 14:51
○アメリカ占領時代
1945年(昭和20年)9月2日、米軍によって本土から分割され米国民政府の統治下に置かれた。同年9月22日に行われた現地守備隊と米第10軍とで交わされた降伏調印式の際、日本軍守備隊は米軍側が用意した降伏文書に奄美群島が「Northern Ryukyu(北部琉球)」と書かれていることを発見、日本から分割する意図を悟り、鹿児島県所属であることを訴えて調印しなかった。これには米第10軍司令官が譲歩し、鹿児島県奄美群島であることを確認した後に降伏した。

1946年(昭和21年)2月2日、正式に日本からの行政分離が連合軍総司令部から発表され、米国民政府の命令により本土出身者が公職から追放、本土に強制送還となった。空席となった役職には地元出身者が就任し、10月3日に臨時北部南西諸島政庁が成立した。1950年(昭和25年)11月25日に奄美群島民政府に改称。しかし民選で選出された知事は日本復帰を公約に掲げた人物であったため(他の民政府も同様)、不快を感じた米国民政府は権限の縮小を決意し、1952年(昭和27年)4月1日には首班が米国民政府任命である琉球中央政府を設立して民政府の権限を縮小、後に廃止した。

それらの米国民政府の政治的動きや、沖縄戦で疲弊した沖縄本島への資金集中、本土との分離により換金作物や物産の販売経路の途絶などにより経済が疲弊し飢餓の兆候さえ出てきていた奄美群島の住民は不満を増大させた。分離直後から始まっていた奄美群島祖国復帰運動は激しさを増し、日本復帰を願う署名が1951年(昭和26年)2月19日より始まり、署名は最終的に14歳以上の住民の99.8%に達し、マハトマ・ガンディーの非暴力運動にならい集落単位または自治体単位でハンガーストライキを行い、小中学生が血判状を提出する事態も発生した。復帰運動の指導者の一人に昇曙夢がいる。

1952年(昭和27年)4月28日、日本国との平和条約によって日本の主権が回復すると、アメリカは基地が少なく復帰運動の激しい奄美群島の統治を諦め、翌1952年(昭和27年)2月10日にトカラ列島が、残りの奄美群島も1953年(昭和28年)12月25日に返還された。クリスマスであったことから、米国政府は「日本へのプレゼント」と皮肉った。

米軍占領・軍政時代を「アメリカ世(あめりかゆ)」とも呼ぶ。

○本土復帰後
奄美群島が復帰した後、沖縄県が日本に返還される1972年(昭和47年)までの約20年間にわたり、沖縄の6万余人に及ぶ奄美群島出身者は、「在沖奄美人」と称されて様々な社会的制約や差別をうけることとなった。沖縄県がいまだアメリカの占領統治下にあったため、沖縄本島に出稼ぎに出ていた奄美群島出身者は戸籍上外国人となり、就労が難しくなるという経緯があった。公務員等の公職追放も行われ、当時の琉球銀行総裁もその一人である。また参政権剥奪、土地所有権剥奪、奄美群島出身者以外の日本国民には認められた政府税の外国人優遇制度は奄美出身者には認められなかった。これは奄美復帰運動を、日本共産党の影響を受ける奄美共産党(奄美社会民主党)が主導し、その影響が沖縄県に及ぶのを阻止するためとも言われるが、実際はこれらの政策は沖縄本島住民が、奄美群島出身者によって職を奪われるとの危機感のもと、琉球列島米国民政府に陳情したことによる。また当時の沖縄タイムスなど在琉マスコミもこれを支持した。

参照元:Wikipedia「奄美大島の歴史

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奄美大島の歴史 - 近代

April 25 [Thu], 2013, 14:51
明治維新後の1879年(明治12年)4月、太政官通達により奄美群島は大隅国に編入され大島郡が設置されたが、これに前後して行われた廃藩置県により薩摩藩が廃されて鹿児島県となり、奄美群島も含まれることとなった。1908年(明治41年)4月1日、島嶼町村制制の施行に伴い、大島郡に16村が成立する。

第二次世界大戦中、連合国軍上陸の危険が高まった1944年(昭和19年)7月以降、沖縄と並んで子供や女性、高齢者の本土疎開が進められた。同年9月には疎開船「武洲丸」が潜水艦に撃沈され、約160人の徳之島島民が犠牲となっている。このほか、近海では軍隊輸送船「富山丸」など多くの日本船舶が撃沈された。1945年(昭和20年)3月末からの沖縄戦の間、北隣の奄美群島には陸海軍合わせて2万人以上が守備に就いていた。特に奄美大島南部の瀬戸内町付近は要塞化(奄美大島要塞)が進められており、特攻兵器である震洋の基地も数箇所に置かれていた。しかし、奄美群島への連合国軍上陸は無く、全体として小規模な空襲だけに終わった。

参照元:Wikipedia「奄美大島の歴史

奄美大島の歴史 - 近世

April 25 [Thu], 2013, 14:50
1603年(慶長8年)、江戸幕府が開かれて日本が新時代に入ると、幕府は中国大陸の明と通航を考えるようになり、薩摩藩主・島津忠恒に琉球王国に進出して明と通じることを許可した。1609年4月8日(慶長14年3月4日)、島津軍3000名余りを乗せた軍船が薩摩の山川港を出帆した。4月12日(3月8日)に奄美大島へ上陸して制圧、4月26日(3月22日)に徳之島、4月28日(3月24日)に沖永良部島を次々と攻略し、4月30日(3月26日)には沖縄本島北部の運天港に上陸、今帰仁城を落として首里城へ迫った。尚寧は止む無く和睦を申し入れ開城した。島津軍は5月8日(4月5日)に首里城を接収し、4月半ばには薩摩に凱旋帰国した。

薩摩藩は奄美群島を割譲、直轄地とし、1613年(慶長18年)、代官所(赤木名、名瀬など、その他多数)や奉行所を設置した。中国や朝鮮からの難破船などに対応するため、引き続き王府の役人も派遣させていた。この頃の奄美群島は、薩摩からは道之島と呼ばれた。

薩摩は住民にサトウキビ栽培を奨励したが、薩摩藩の財政悪化と共に中・後期には搾取のようになり過酷になっていったといわれる。薩摩は幕府や商人にサトウキビから取れる黒砂糖を専売することで富を得たが、サトウキビ中心の栽培はひとたび作物の不作が起こると飢饉に結びつくような有様だった。しかし、このころに黒砂糖を使った「セエ」(黒糖焼酎)が誕生している。庶民の嗜好品として評判となり密造酒が多数作られたが、黒砂糖の収穫が減ると困る薩摩藩がこれを取り締まらなければならないほどだった。主食は主にサツマイモといわれるが、飢饉の時はソテツの実を毒抜きして食べたこともあるという。

奄美群島の民謡である島唄は、徳之島以北は本土と同じ五音音階の陽音階(律音階。ヨナ抜き音階参照)で、日本民謡の南限という側面を持つ。一方で沖永良部島以南では琉球音階が用いられ、琉歌の北限という側面も持っており、琉球民謡の一翼を担っている。16世紀に弦楽器の三線が琉球からもたらされると島唄にも取り入れられた。

また本国から離れたこの地は流刑地として適しており罪人が送られていたが、罪人の中には政治犯もおり、博学の彼等の中には住民に受け入れられた人もあった。幕末には西郷隆盛も流人生活を送り、島の女性と結婚して子供ももうけた。

薩摩藩の統治時代を「大和世(やまとんゆ)」とも呼ぶ。

参照元:Wikipedia「奄美大島の歴史
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