「思い醒ませば夢候よ」

July 21 [Sun], 2013, 0:30
武田信玄の弟信繁の家訓に、戦場では「死にたくない」などと未練心をおこしてはならないと述べられている点についてはすでにみた。戦乱のうち続く乱世は、まさに死と隣りあわせの時代状況であったのである。では、乱世を生きた人々は、死というものをどのように考えていたのであろうか。生と死をめぐる考え方は、現代のわれわれとどこがどのようにちがっていたのであろうか。また、そうした死生観がどのように形づくられていったのかという点についても具体的史料を提示しながら検討をすることにしたい。

史料といっても、乱世の人々の死生観をそのままの形で伝えるような。日記などに記された公家とか僧侶の語録的なものは意外と少ない。むしろ日記など以外の史料から浮き彫りになってくる場合の方が多いように思われる。たとえば、室町時代の歌謡集で、永正十五年(一五一八)成立の「閑吟集」に

「憂きもひととき、うれしきも、思い醒ませば、夢候よ」

という歌が収められている。この場合、七・五・七・五の句で、和歌とも違い、俳句とも違うこの種の歌を小歌、特にこの場合室町時代の小歌ということで室町小歌とよんでいるが、これは、いわば室町時代の流行歌というもので、一般庶民のありのままの心情がよみこまれていることが多いということで注目を集めている。

この「憂きもひととき、うれしきも・・・」という歌は、「いやだなぁ、あるいは楽しいなぁと思って過ごした一生も、気がついてみれば、結局は夢みたいなものなんだなぁ」といったことを歌っているのである。ここに、「人間の一生なんて、所詮は夢みたいなもの」といった観念の存在を読みとることができるわけで、同じく「閑吟集」に入っている。

「世の中は霞よのう、笹の葉に、さらさらさっと、散るよのう」

という歌に共通する人生観が歌いこまれている。「世の中は霞よのう・・・」の歌は、笹の葉にさらさらと降っては散っていく霞のように、自分たちの人生も同じように消えていくものという、一種の虚無感が支配していたことがわかる。虚無感が諦観(たいかん)となって、「人間の一生など夢幻のようなものだ」という観念となって、この時代の人々の心をとらえていたものと思われるのである。

よく知られている歌で、「何せうぞ、くすんで、一期は夢よ、ただ狂へ」というのも、夢のようにはかない一生なのだから、せめて生きている間はやりたいことをやろうじゃないか」という刹那主義に走ることも、その根は同じところにあった。さて、室町時代の庶民が、室町小歌に歌いこんだ「人の世は夢幻」という人生観は、何も庶民たちだけのものではなかったことに注意したい。僧侶たちの開にも、このような「夢幻観、無常観」が支配的だったのである。

必死は生きる

November 17 [Sat], 2012, 1:07
武田信繁の家訓から

武田信玄の弟に武田信繁という人がいる。信玄より三つ下で、幼いころ、父信虎(のぶとら)にかわいがられ、兄信玄をさしおいて家督を相続するかもしれないとまわりからみられていた人物である。この信繁が永禄元年(1558)、さきに少し述べた、九十九ヵ条の家訓をしたためている。

文末に、以上九十九ヶ条、多言漫りに他人の耳に喧すし、寧ろ、往生之書ならずということ無し」と、「往生之書」すなわち遺訓であることをほのめかしているが、書いて二年後の永禄四年(1561)この川中島の戦いで戦死してしまったので、文字通りの遺訓となってしまったものである。

信繁家訓の正式名は「古典厩より子息長老江異見九十九箇条之事」というもので、古典厩とは信繁のことをさす。典厩は「左馬助・右馬助」の唐名、すなわち中国式の名で、信繁の官職名が左馬助であったこと、さらに、信繁の子信豊も左馬助に任じられていたので、古い方の左馬助という意味で古典厩とよばれていたのである。「子息」というのが信豊のことである。つまり、信繁が子の信豊と家臣たちに教訓をしたためたもの、それが「古典厩より子息長老江異見九十九箇条之事」ということになる。

その第二条目に、

一、戦場に於て、聊も未練を為す可がらざる事、呉子曰く、生を必ずるけ則ち死し、死を必するは則ち生くと。

というのがある。いわんとしていることは簡潔明瞭で、戦場においては「死にたくない」などという未練心をおこしてはならないというもので、そこで信繁は、「呉子(ごし)」を引いて、「呉子」にも、「生を必するは則ち死し、死を必するは則ち生く」というではないかとしているのである。

つまり、必ず生きようと考えればかえって討死し、死を党悟して戦いに臨んだ者の方がかえって生き残るという論理である。これも当時の一つの合戦哲学として考えてよいように思われる。

さて、いま信繁が「呉子)」を引用し二目分の考えを「呉子」によって補強していることをみたわけであるが、そのような方法がこの「古典厩より子息長老江異見九十九箇条之事」全篇にわたって貫かれていることも注目すべき点である。

中国の古典籍の引用箇所を貝体的に迫ってみると、「論語」・[史記」・「三略(さんりゃく)」・「孫子」・「老子」、さらには「後漢書(ごかんしょ)」・「左伝(さでん)」などにもおよび、また、古典籍だけでなく、「碧巌録(へきがんろく)」などの禅書にまでおよんでいるのである。特に引用の目だつのは「三略」で、これは、当時の武士たちが兵法書(軍学書)として「三略」をよく読んでいたことの反映であろう。

終局の勝利

September 03 [Mon], 2012, 5:08
こうした武将たちの合戦哲学をみていくと、彼らが一回ごとの戦いの勝敗だけでなく、長い目で合戦の帰趨をとらえていた、あるいは、とらえようとしていたことか明らかとなる。

まさに、終局の勝利をいかにして得るか、「最後に笑う者」になるためにはどのような手だてが必要かに、いかに思いをめぐらしていたかがわかるであろう。

このことは何も戦国武将だけが固有にもっていたわけではなく、乱世に共通した特性とでもいうべきもので、具体的には、「太平記」にみえる楠木正成の言動によって確かめることが可能である。

正成の場合、「太平記」を読んでいくと、いたる所で「負けるが勝」的な戦いを展開しており、たとえば、偽装工作によって自分が自害したように見せかけ、城の囲みが解かれたのをみて城を脱出するなど神出鬼没ともいうべきゲリラ戦術をくりひろげているが、これなどをみると、正成は、それぞれの場面において戦いに負けても名誉を失なったなどとは考えず、むしろ、敗戦も終局の勝利を得るための一つの戦略であると考えていたようなふしがみられる。