パールハーバー 

December 08 [Thu], 2016, 9:19
先日、安倍首相が米ハワイ・真珠湾を訪問するとの報道に驚いた。
日米両国の信頼を深めて「戦後」に終止符を打ち、
トランプ新政権や国際社会に日米同盟強化をアピールする狙いがあるのだろう。

すぐさま中国も韓国も反応し、思い切り外交の渦の中だが、
今年5月にオバマ大統領が被爆地の1つである広島を訪問し、
日米首脳が太平洋戦争の象徴的な場所を訪問し合う歴史的な年になった事は
非常に素晴らしい事であり、このシナリオが書けたブレーンの優秀さを感じる。


「ニイタカヤマノボレ一二〇八」の暗号電文が発信され、
日本時間1941年12月8日未明、ハワイオアフ島・真珠湾の
アメリカ太平洋艦隊と基地に対して、日本海軍が奇襲攻撃を行った。

そして旗艦赤城に対して「ワレ奇襲ニ成功セリ」を意味する
「トラ・トラ・トラ」が打電され、日本は地球規模の戦争
「第二次世界大戦」に突入していった。

しかし真珠湾攻撃は日本が敗戦へと向うプロローグでもあった。
当時のアメリカ国内は戦争に対して足並みが揃っていなかったが、
約3000人の将兵を失ったこの日を「屈辱の日」と名付け、
「リメンバー・パールハーバー」のスローガンのもと、
アメリカ国民は戦争の道へと結束した。

アメリカの情報機関は真珠湾攻撃に対する日本の暗号を解読していたが、
ルーズベルトは真珠湾の奇襲を現地には知らせず、
この攻撃を戦争参戦への口実に利用したのだ。
これは後の9.11のパターンに非常に酷似している。

日本側はこの奇襲の成功を「戦争に勝った」と空疎な自信を持ってしまう。
やがてこの慢心が、戦争体制確立の遅れと作戦の慎重さの欠如をもたらす。

そしてそのエピローグは広島・長崎へと最も悲惨な形で訪れるのである。

天満屋事件 

December 07 [Wed], 2016, 9:32
慶応3年12月7日、その日は底冷えのする夜であった。
降り出した雪が、あたりを静寂の中に包み込んでゆく。

ここは西本願寺の阿弥陀堂門の真東、
油小路にある料理旅館「天満屋」の二階。

男達は酒を酌み交わしていた。
新選組隊士・斎藤一、大石鍬次郎、吉村貫一郎ら七名。
隊士達は一人の男を護衛していた。

その人物とは三浦休太郎。
三浦は紀州藩士で尊皇攘夷派志士として活動していた。

慶応3年4月に起きた「いろは丸沈没事件」で
紀州藩が坂本龍馬に多額の弁償金を支払わされた事を恨み、
龍馬を暗殺した黒幕として三浦は疑われていた。

紀州藩が三浦の身を案じて、
会津藩を通し、新選組にその警護を依頼したのだ。

酒宴が盛り上がっていたその時、階段を駆け上がる音がした。
障子が勢いよく開けられ、十津川郷士の中井庄五郎が
「三浦氏は其許か」と言うなり斬りつけ、
その後を追うように十数名の男達がなだれ込む。

三浦は頬頤を負傷する、隊士それぞれが刀を構え、
三浦を後ろ側に回し自らが楯となった。

そして斉藤一の一太刀が中井の腕を切り落とす。
燈火を消し、暗闇での戦闘となった。

騒ぎを聞きつけた新選組、紀州藩が援助に向かうが、
到着した頃には戦いは終結していた。

この事件で襲撃側は中井庄五郎が死亡、三名が負傷した。
新選組側も宮川信吉と舟津釜太郎が死亡、負傷者四名を出した。

世に言う「天満屋事件」である。

ちなみに天満屋事件の土佐藩士達のリーダーは
海援隊の陸奥陽之助、後に外務大臣となる陸奥宗光。
彼は龍馬を崇拝しており、三浦黒幕説を信じ仇討を狙っていた。

命を狙われた三浦休太郎は、
明治になって貴族院議員、東京府知事となる人物だ。
結果的には龍馬暗殺事件の冤罪被害者となるのだが、
若き日は謎の多い人物であったという。

そして龍馬暗殺に三浦休太郎と紀州藩が係ったという事実は
現在ではほとんど考えられていない。

東京ディズニーランドのクリスマス 

December 06 [Tue], 2016, 23:22





TDLのクリスマス!

中村勘三郎 

December 05 [Mon], 2016, 9:46
2012年12月5日、中村勘三郎がこの世を去った。
急性呼吸窮迫症候群という難しい病名だったが、
食道癌を発症したと聞いた時から嫌な予感はしていた。

俺はこの役者が好きだった。
年齢も3年違いで親しみをもっており、
彼のバイタリティーの凄さには嫉妬を感じる程だった。

人間国宝である十七代目・中村勘三郎の長男として
3歳で五代目・中村勘九郎を名乗り、
世話物から時代物、新作まで幅広い芸域を持ち、
男気のある立役、愛敬あふれる女形のいずれをも得意とした名人であった。

また古典に新たな風を吹き込む取り組みを次々とこなし、
「コクーン歌舞伎」は斬新な舞台で若者を歌舞伎に引き込んだ。

そして江戸歌舞伎を再現する仮設の芝居小屋「平成中村座」は
2000年の浅草を皮切りに、ニューヨークまで歌舞伎の魅力を広めた。

この平成中村座の構想は勘三郎が若き日に観た、
唐十郎の状況劇場が影響している。

花園神社赤テントの民衆の息吹は、歌舞伎座の落ち着いた空気とは違い、
昔の歌舞伎はこうだったのではないかと勘三郎を興奮させたという。

ちょうど同じ時期に俺も赤テントを観たので、
不穏なエネルギーが沸騰するとでもいうか、
独特な世界感がそこにはあった事を覚えている。

当時勘三郎はその話を父である十七代目に話したところ、
「百年早い、そんな事を考えてる間に百回稽古しろ。
 古典をしっかり学んで自分の形を作れ、19や20の未熟者が
 土台もないのに新しいことをやるな。」と叱られたそうだ。

形を持つ人が形を破るのが「型破り。
形がないのに破れば「形無し」。
無着成恭のこの言葉を肝に銘じて勘三郎は精進した。

こうしてテントでの芝居をいつかやりたいという夢が、
平成中村座立ち上げの原点となった。

そしてもう叶う事はないが、俺は勘三郎の「俊寛」を観てみたかった。
それはまさに状況劇場の息吹を持っていた。

実際の海を背景に野外で行われる演目は、
2012年の大河ドラマ「平清盛」でも放送された
「鹿ヶ谷の陰謀」の首謀者であった俊寛の話である。

鹿ヶ谷で、西光法師、藤原成親、成経父子、平康頼と共に
平家討伐の密談を交わしていた事が発覚、鬼界島に流刑となる俊寛。

その後、帝に嫁いだ清盛の娘・徳子が
懐妊した事の大赦で、流されていた成経や平康頼は赦免になるが、
俊寛一人が赦されずこの地で悲劇的な最期を迎えるのである。

この流刑地だったとの伝説が残る硫黄島に、
断崖を背にした海岸に野外ステージを特設し、
約800年前の絶海の孤島を再現したのである。

最大の見せ場は、俊寛だけが島に残される場面。
浜を離れる赦免船に追いすがり、非運に絶望する俊寛を、
勘三郎が大自然を背景に迫真の演技で熱演した。

1996年に行われ絶賛された舞台を2011年、15年振りに再演した。

まさに芸の道を、命を削りながら駆け抜けた中村勘三郎、
平成の劇聖と言っても過言ではない。

フランク・ザッパ 

December 04 [Sun], 2016, 9:40
今日はミュージシャン、フランク・ザッパの命日だ。
1993年12月4日前立腺癌でこの世を去った、と言うより昇天があってるかな。

しかしこの人物だけは一言では語れない。
まずは作品の幅が広過ぎる。

俺はザッパはプログレだと思っているのだが、
ロック、フュージョン、ジャズ、シンクラビア、オペラ、レゲエ、
その音楽性は多岐に渡っており、現代音楽といったこの世に存在する音楽を、
ザッパ流に高い演奏力で排出したアーティストであったのかもしれない。

発売されているCDだけでも70枚以上になり、
どれが傑作アルバムなどと語る事が出来ないのだが、
俺は「Roxy & Elsewhere」という
'74年に発売されたライヴ・アルバムが好きだ。

1940年ボルチモアに生まれ、
'66年マザーズ・オブ・インヴェンションのリーダーとしてデビューする。

ロックの表現力を大幅に更新したのは事実だが、
ゲイを罵倒し、カトリックの寄宿舎を馬鹿にし、
田舎者を笑い、商業的なロックを揶揄、資本家をののしる。
過激な歌詞は聞く者を挑発し続けた。

'60年代、カウンター・カルチャーに反旗を翻したのを始め、
生涯、反商業主義、アンチ・ドラッグを貫き、
真のカウンターイズムを世に知らしめた人物でもあった。

自分の理想の音を探し求め、増殖し続けてきたザッパは、
20世紀の音楽シーンに多大な影響を残したのだが、
その強烈な個性と、幅広い音楽観により、
万人に浸透することは無かったアーティストだった。

ディープ・パープルのヒットナンバー、「Smoke On The Water 」は
アルバム「マシン・ヘッド」の製作で使用する予定であった湖畔のカジノが、
その直前に行われたフランク・ザッパ&マザーズのライブ中、
照明弾が撃ち込まれ現場が燃えてしまったという、
実際に起きた火事を題材に、そのまま書き綴ったものとなっている。

Nゲージ キハ58 

December 03 [Sat], 2016, 10:00
鉄道の写真を撮ることもなく、時間表を眺めることもない。
しかし電車に詳しい方々から、十分マニアだとのお墨付きを頂いた。

たしかに子供の頃から鉄道模型がほしくて、たまらなかったが、
なんせ当時は高級品だったので、とても手の出せる代物ではなかった。

数年前に子供の頃の夢をリベンジしようと購入したNゲージ、
電車もさることながら、ジオラマ作りにはまった。

ちなみにこれが購入第1号車「キハ58」だ!
キハとは気動車(ディーゼル)を表す印で「キ」は動力車、
運転室の有無は区別せず、「ハ」は普通座席者、
グリーン車は「ロ」だ。

色はやはりこの国鉄色がいいね!

平山郁夫 

December 02 [Fri], 2016, 9:45
2009年12月2日、世界の文化財保護に尽力し、
前東京芸大学長を歴任した平山郁夫氏が脳梗塞の為79年の生涯を閉じた。
俺は平山氏の義妹のかたと交流があり、画伯のお話をよく伺った。

広島県尾道に生まれた平山氏は旧制広島修道中学3年の時、
勤労動員されていた広島市内陸軍兵器補給廠で原爆の被害にあった。

被爆経験が後の文化財赤十字活動などの原点になり、
作品に仏教をテーマとしたものが多くなったといわれる。

仏教のテーマはやがて、古代インドに発生し日本にまで伝えた
シルクロードへの憧憬につながっていった。

そして2000年、薬師寺玄奘三蔵院の「大唐西域壁画」を完成させる。
10年程前に薬師寺を訪ねた時にこの作品を拝見した。

壁画は、唐の長安を起点にシルクロードを通り
インド・ナーランダに至る苦難の道のりを7つの場面、13隻に描いたものだ。

1966年から玄奘三蔵の足跡を追って取材を開始しした、
仏教伝来の道とシルクロードは、平山氏にとって生涯のテーマであった。

1980年代から提唱してきた「文化財赤十字」構想は、
消滅の危機に瀕している世界中の優れた文化遺産・文化財を、
国際協力によって地球規模で保護し、後世へ伝えようという、
日本人による国際貢献の一つのあり方であった。

いつか瀬戸内海、生口島を訪れ美術館を拝観したいものだ。

太陽のトマト麺 

December 01 [Thu], 2016, 11:09
新宿ミロード7Fにある「太陽のトマト麺」で
「太陽のチーズ麺」を食す。

最近話題になっていたので、どんなものかと寄ってみた。
予想通りスープパスタ的なラーメンだった。

鶏をベースに野菜を煮込み、鶏ガラを乳化させたスープに
トマトソースが合わされ、ツルツルした食感で喉越しの良い
豆乳入り極細麺がよく合う。

スープにチーズが溶け出しコクが出るのだが、
後半になるとしつこくなり、オーソドックスな
太陽のトマト麺にすればよかったと後悔した。

用意されているタバスコを入れるとまた味が引き立ち美味しい。

美容と健康に気を使ったラーメンという事もあり、
女性客が多く、目の前にはジャスミン茶が置いてあり、
髪留め、エプロンのサービスもある。

0系 新幹線 

November 30 [Wed], 2016, 9:02
昭和34年に始まった夢の超特急のプロジェクトは、
三木忠直という戦時中、特攻機の設計開発に携わっていた男の手に委ねられた。

三木は戦争責任の問題もあり、しばらくの間職に付く事が出来なかった。
やがて国鉄の外郭団体である国鉄鉄道技術研究所に職を得て、
この大事業に関わる事になった。

開発には、航空機開発の技術が余すところ無く注入された。
三木は常々部下に言ったと言う。

「格好のいい車体を作りなさい、格好の悪いのは駄目だ。」

この開発に当たって、三木の脳裏には自分が作った急降下爆撃機
「銀河」の流線型のボディが常にあったという。

そして世界最高水準の250Km/hを超える超高速での走行には、
0戦の制御技術を確立させた一人の技術者が
油圧式バネを考案、超高速での振動を克服させた。

また軍で信号技術を研究していた技術者が、
「自動列車制御装置(ATC)」を開発、画期的な安全システムを確立させた。

こうして0系新幹線が1964年に生まれた。
誰もが体験したことのない時速220km/hの高速鉄道の登場は
「SHINKANSEN」の言葉と共に世界の注目を集め、高速鉄道の礎となった。

「世界最速の営業運転」、「運行の定時性」、「事故による死亡者数0」は
日本の新幹線が持つ輝かしい記録であり、そしてまた誇りとなって来た。

1964年から1986年まで累計3216両が製造された0系もJR発足後、
急激にその数を減らし、2008年11月30日「こだま」としての
定期営業運転を最後にその雄姿に幕を下した。

六義園 

November 29 [Tue], 2016, 22:31
今日は紅葉狩りに六義園 に行ってみた。

六義園は犬公方と言われた徳川5代将軍・徳川綱吉の
側用人であった柳沢吉保が、下屋敷として造営した大名庭園である。

1695年(元禄8年)に加賀藩の旧下屋敷跡地を綱吉から拝領し、
約2万7千坪の平坦な駒込の地に、吉保自ら設計、指揮して造園した。

池を掘り、山を築き、7年の歳月をかけて「回遊式築山泉水庭園」は完成、
吉保の文学的造詣の深さを反映した繊細で温和な日本庭園となっている。

六義園とは、中国の古い漢詩集である「毛詩」の「詩の六義」、
すなわち風・賦・比・興・雅・頌という分類法を、
紀貫之が転用した和歌の「六体」に由来している。

庭園と下屋敷が一通り完成すると、将軍・綱吉も足を運ぶようになり、
その回数は記録されているだけでも58回と、
綱吉もかなりお気に入りの庭園であったようだ。

六義園は柳沢家の下屋敷として幕末まで使用され、
明治になると三菱財閥の創業者・岩崎弥太郎が六義園を購入、
庭園は整備が施され、さらに磨きがかかった。

周囲を囲む赤煉瓦を始め、園内にも岩崎が施した物が多く見られる。

その後、関東大震災、東京大空襲の被害を受けることもなく、
造園時の面影を残したまま今日まで残った六義園、
昭和28年に特別名勝に指定された。

枝垂桜の最盛期と紅葉の最盛期にはライトアップもされ、
その美しさは海外まで鳴り響いている。

紅葉と桜の時期だけ、駒込駅前にある染井門が開かれる。
ライトアップが始まる16:30ともなると、門の前には行列が出来ていた。

園内は迷路のように小道が入り組み、池には多くの橋が架かり風情がある。
藤波橋、山陰橋を通りツツジ茶屋へ向かう。

残念ながら今日もまだ紅葉には早く緑のモミジも多い。



吟花亭跡を過ぎると妹山の絶景が目の前に広がる。
吹上茶屋から藤代岬えと歩く、なかなか色付いている木々もある。



吹上茶屋から千鳥橋へ向かうとライトアップの時間になっていた。
まだ日の落ちない時間帯だが、滝見の茶屋が綺麗に浮かび上がる。



そして出汐の湊へ、六義園一番の絶景ポイントだ。
大勢の人達が日の沈むのをまっていた。



やはり東京屈指の庭園とあって素晴らしいの一言だ。
是非とも桜の時期にも来てみたい!
P R
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