斉藤道三 

May 28 [Sun], 2017, 9:11
戦国乱世の中にあって、蝮と恐れられた男がいた。
美濃の戦国大名で斎藤氏初代当主・斉藤道三である。

また道三は、織田信長の舅としても有名で、
僧侶から油商人となり、大名に駆け上った下剋上を体現した人物である。

商人時代、一文銭の中央にある穴を通して油を注ぎ、
もし穴から油がそれたら料金を貰わいなど、
客の心をつかむパフォーマンスなど、なかなかのものだった。

こうした商売の才覚が武芸にも生きるのではと
武士の道を志、長井長弘の家臣となって行く。

長井の紹介で土岐頼芸に仕える事となった道山、
才覚があり、芸達者で、人間的にも魅力的な男は
すぐに土岐頼芸に認められる。

そして土岐頼芸の反対勢力、土岐政頼を倒すと
頼芸は美濃の大名となり、道三も土岐家一番の家臣となる。

こうした道三の急進を快く思わない勢力に、
かつて土岐氏に自分を紹介してくれた長井長弘もいた。

すると道三は恩人である長井氏もろとも潰し、
長井家を乗っ取り、長井家の居城・稲葉山城に入場した。

勢いに乗る道三は1538年、クーデターを実行し
自分の主人であった土岐頼芸の城も襲い、頼芸を追放、
こうして美濃の国を奪い、一国一城の戦国大名にのし上がった。

庶民感覚があり、商才があった道三はこの後、街道の整備や、
税を掛けずに、どこでも自由に露店が開けるようにする法令
「楽市楽座」などを実行、これらにより美濃の城下町は
商業的に大きく発展して行った。

しかし美濃を追放された土岐家は黙っていなかった。
美濃奪還の為、尾張の織田家に協力を要請、斉藤家に揺さぶりを掛けた。

そこで道三は、織田家と縁組をして同盟を結ぶ事を考え、
娘・帰蝶(濃姫)を織田家に嫁がせる事にしたのだ。

嫁の父である道三も信長には会った事が無く、
「大うつけ」の噂だけが聞こえてくる。

会って確かめたいという親心がおさまらなくなった道三は、
正徳寺で会見を持つ事を決める。

これがドラマでもおなじみの、町はずれの小屋の中に身を隠し、
寺へやって来る信長の行列を覗き見するシーンとなる会見だ。

道三が目にした信長の姿は、うつけを絵に書いたような出で立ちであった。
しかし正徳寺に来ると一転、褐色の長袴を穿き、
腰には小刀、髪も正装の折り曲げに結いなおしていたのだ。

そして会見に及んだ信長の堂々たる仕草に、
家臣の猪子兵助に対して
「我が子たちはあの男の門前に馬をつなぐようになる」と述べたという。

この和睦により、織田家の後援を受けて
反逆していた勢力を滅ぼし、揖斐北方城に留まっていた
頼芸を1552年、再び尾張へ追放し美濃を完全に平定した。

道三は信長への 「美濃一国譲り状」 を織田へ届けさせると、
多勢に無勢の戦い、息子である義龍と対峙する。

この戦いで道三は、息子の見事な采配を見て、
「虎を猫と見誤るとはワシの眼も老いたわ。 
 しかし当面、斉藤家は安泰じゃ。」 と語ったと言われる。

そして戦いに破れた道三は、1556年5月28日、62年の生涯を閉じた。

小栗上野介 

May 27 [Sat], 2017, 9:07
幕末の幕臣の中に、「明治の父」とまで呼ばれた人物がいる。

長州の天才軍師・大村益次郎を恐れさせ、連合艦隊長官・東郷平八郎は
日清日露での勝利は彼のお陰だと遺族に謝辞を述べたと言う。

その人物こそ、近代日本の足掛かりとなる
横須賀造船所を創設した小栗上野介である。
 
しかし近年その名は、徳川埋蔵金で脚光を浴びる事となる。

幕府が倒れ、官軍が江戸城に入城すると、
その御金蔵の中には一文も無かったという。
官軍は勘定奉行であった小栗に疑いを持った。

小栗は幕末、幕府と考えを分かち、
領地の上野国・権田村への帰参許可を願い出る。

帰国する小栗一行には当初から、
幕府御用金を隠し持っているとの噂が付きまとっていた。 

しかしそれは、帰参する旗本の豪勢な行列を観た人達の噂話と、
城の金蔵について官軍に詰問された勝海舟が「小栗に聞かれよ」と
責任転化した事がこの話を生んだと言われる。

上州には小栗の「埋蔵金伝説」が数多い。
群馬県利根郡新治村猿ケ京、群馬県安中市金鶏山、
埼玉県大宮市普門院等々。

小栗は江戸を出て、権田村で第二の人生を迎えようとしていた。
村人に最新の教育をほどこし、未来を担う人材を育てようというものだった。

幕府の為でも徳川家の為でもない人生が始まろうとしていた矢先、
突然村に現れた官軍に捕らえられる。

そして小栗は何の詮議を受ける事もなく川原に引き出され斬首となった。
この無謀な行為に小栗の部下達が猛然と抗議をしたが、
小栗はこの者達に向かい一言「お静かに」と言ったという。
これが小栗最後の言葉となった。

1868年5月27日、幕府を支え日本の近代化を夢みた男の悲しい最期であった。
最後の幕臣・小栗上野介は雑司ヶ谷霊園に眠っている。

木戸孝允 

May 26 [Fri], 2017, 9:18
幕末に桂小五郎として知られ、薩摩の西郷隆盛、大久保利通とともに
「維新の三傑」として並び称せられた人物、木戸孝允。

長州藩士・和田昌景の子として生まれ、後に桂家の養子となり小五郎と名乗った。
木戸は吉田松陰の門下に入ると、更に江戸にて蘭学や造船術を学んだ。

早くから尊王攘夷思想に影響され奔走するも、池田屋事件で同士を失い、
禁門の変により長州が京から駆逐されるなど、その道は多難なものであった。

しかし桂は、商人に変装するなどして諜報活動を行う。
この頃、危機に遭遇しても紙一重でそれを交わして来た桂には、
「逃げの小五郎」「小五郎天狗」などの愛称が付いていた。

だが朝敵の汚名を着せられ、四面楚歌の長州藩は風前の灯であった。
そんな小五郎の前に坂本竜馬が現われ、「薩長同盟」を提案する。

8月18日の政変から禁門の変で何度も煮え湯を飲まされた薩摩藩と
手を結ぶ事は長州人の感情から、許されるものではなかった。
しかし目先よりも世の行く末を考えた小五郎は苦渋の選択をする。

そして同盟締結後、薩摩藩より大量の武器弾薬が送られ、
最新式の西洋銃を得た長州軍は、
高杉晋作、大村益次郎の天才的な戦術によって幕府軍を敗走させた。

薩長同盟軍はその後、幕府を倒し維新を向かえ新政府を樹立。
西郷隆盛と並ぶ参議として重役を担う事となる。

小五郎が池田屋事件などで志半ばで死なずに済んだのは、
ひとえに「幾松」という女性の存在が大きく関与している。

幾松は京都では名の知れた売れっ子の芸者であった。
小五郎が幾松の家を訪れている時に、新撰組の捜索が入った。
小五郎は彼女の手引きで逃げ、彼女は壬生に連行され尋問される。

しかし何があっても口を割らない幾松の気丈さに、
鬼の新撰組も彼女を釈放せざるえなかったという。

また幾松はあちこちの宴席に出ては諸藩の動静を探り
スパイ活動を展開、桂小五郎を助けた。

明治となり、桂小五郎が木戸孝允として内閣の要職につくと、
松子を妻に迎え、命をかけた恋は実を結んだ。

京都ホテルと木屋町通りをはさんで向かい側には、
桂小五郎と愛人幾松が住んでいた200年近く前の部屋が保存されていてる。

そんな木戸も45歳で病に倒れ、明治10年5月26日その生涯を閉じる。
時はまさに、佐賀の乱や西南戦争のさなか、木戸の最後の言葉は、
「西郷も大抵にせんか」だったという。

余談ではあるが歴史上の人物の名を、今回の木戸孝允のように、
「きどたかよし」を「きどこういん」と音読みする事がよくある。

これは有職読み(ゆうそくよみ)といい、敬うべき古人の実名を
本来の読み方である訓読みから、音読みにして敬意を表す事である。

例えとして、徳川慶喜「トクガワ ケイキ」(本来はヨシノブ)
伊藤博文「イトウ ハクブン」(本来はヒロブミ)
原敬「ハラ ケイ」(本来はタカシ)などもこう呼ばれる。

グレゴリウス7世 

May 25 [Thu], 2017, 15:34
25年くらい前に「カノッサの屈辱」というTV番組があった。
現代日本の文化史を、歴史上の出来事になぞらえて解釈する、
真面目に笑える、当時としては斬新な番組であった。

題名の由来となったのは、1077年に起きた事件である。
1075年、ハインリヒ4世はイタリア支配の戦略として、
ミラノ大司教や中部イタリアの司教を次々と任命した。

これら教皇の権威を無視した行為に、
時の教皇グレゴリウス7世は、皇帝に激しい叱責の書簡を書き送った。

皇帝はこれに激怒、教皇の廃位を決定する。
これに教皇もローマ公会議で皇帝の廃位と破門を宣言した。

これにより神聖ローマ帝国は混乱し、皇帝は自派の諸侯にも反旗が翻る。
あわてた皇帝は破門を解いてもらう事を決意する。

皇帝は厳冬のアルプスを超え、教皇の滞在するカノッサ城へ向かった。
しかしグレゴリウスは会おうとしなかった。

ハインリヒは3日間、雪の中にわずかな修道衣と素足で立ちつくした。
そしてようやく破門を解いてもらう事が出来た。

これが「カノッサの屈辱」と言われる事件で、
これによりローマ教皇権が強大化して行くのだ。

この事件で有名なローマ教皇・グレゴリウス7世、
本名はヒルデブランド、カトリック教会の聖人でもある。

トスカーナ地方のソバーナで生まれ、勉学のため幼くしてローマへ送られた。
歴代の教皇の側近として大きな功績を残し1073年、教皇に選出された。

カノッサ事件後も皇帝と教皇は闘争を重ね、
虎視眈々と反撃のチャンスを探っていたハインリヒは
1080年に再びグレゴリウスの廃位を決議、
別にクレメンス3世を教皇として擁立、1082年には軍隊を要して
ローマに遠征してグレゴリウスをサレルノに追放することに成功した。

ハインリヒにローマを囲まれたグレゴリウス7世は、
1085年5月25日、逃亡先で死去した。

平塚らいてう 

May 24 [Wed], 2017, 11:37
最近ではあまり使われなくなった、若い「つばめ」、
年上の女性が年下の彼氏の事を表現した言葉である。

この言い方が世に出たのは、
女性解放運動家であった平塚らいてうに由来する。

5歳年下で画家志望だった奥村博史が、
らいてうと別れることを決意した際の手紙の一節、

「静かな水鳥たちが仲良く遊んでいるところへ
 一羽のツバメが飛んできて平和を乱してしまった。
 若いツバメは池の平和のために飛び去っていく」

この手紙を、らいてう自身が発刊した日本初の
女性による女性の為の文芸誌「青鞜」で発表し、
当時の流行語となった、今から105年前の事である。

なかなか恋多き女性であった、らいてう。
文学に目覚めた頃、東京帝大出身の生田長江と森田草平が
主催する課外文学講座「閨秀文学会」に参加するようになった。

生田の勧めで書いた処女小説「愛の末日」を
森田が才能を高く評価した事で、二人は恋仲になって行く。

しかし明治41年、デートで行った塩原の山中で
救助されるという塩原事件を起こしてしまう。

この事件を新聞などで心中事件として面白おかしく書き立てられ、
らいてうはスキャンダルな女性として世に晒される。

この事件を機にらいてうは、性差別や男尊女卑の
社会で抑圧された女性の自我の解放に興味を持つようになった。

そして先に言った「青鞜」を発刊する。
この中で思いのままに記事を書くらいてうに、
男女で両極端な反響が巻き起こった。

女性からは賛同する意見が殺到するも、
男性からは冷たい評価と、嫌がらせまであったと言う。

逆にそんな事が、らいてうの反骨心に火を着けた。
そして「青踏」に次の様な言葉を乗せた。

「元始、女性は実に太陽であつた。
真正の人であつた。
今、女性は月である。」

この言葉は、女性は太陽のように自分から輝くことができるのに、
今は太陽がないと輝けない月のようであると。

らいてうは戦後、日本共産党の同伴者として活動し、
婦人運動と共に反戦・平和運動を推進した。

昭和26年に来日したアメリカのダレス特使へ、
全面講和を求めた「日本女性の平和への要望書」を連名で提出。

翌年には対日平和条約及び日米安全保障条約に反対して
「再軍備反対婦人委員会」を結成。

昭和28年には日本婦人団体連合会を結成し初代会長に就任。
ベトナム戦争が勃発すると反戦運動を展開するなどした。

らいてうは女性活動家として、ぶれる事は無かった。
恋愛と結婚の自由を説き、婦人解放への道を開き、
終生婦人運動および反戦・平和運動に献身した。

そして昭和45年5月24日、胆嚢・胆道癌の為85歳でこの世を去った。

昨年放送されたNHK元連続テレビ小説「あさが来た」では
元AKBの大島優子が、平塚らいてう役を好演していた。

旧古川庭園 

May 23 [Tue], 2017, 22:16


旧古河庭園は大正8年に古河虎之助男爵の邸宅として整えられた。
元は陸奥宗光の別宅であったが、宗光の次男・潤吉が
古河財閥創業者・古河市兵衛の養子となったため古河家に所有が移った。

見事な洋館と洋式庭園の設計監理は、旧岩崎邸、鹿鳴館、
ニコライ堂などの設計で知られるジョサイア・コンドル。



美しい日本庭園は京都無鄰菴、平安神宮神苑、円山公園などを作庭した
近代日本庭園の先駆者・京都の庭匠「植治」こと七代目小川治兵衛。



ジョサイアと植治、もう鬼に金棒の庭園である。

古河市兵衛の養子となった古河潤吉は古河鉱業会社を設立し
社長に就任するが、35歳の若さで病没する。

潤吉が死亡した事により急遽、留学先の米国コロンビア大学から
呼び戻された虎之助が古河家第三代当主となる。

その後、多角化した古河グループは急成長し、
「古河財閥」の基盤を確立した。

武蔵野台地の斜面を巧みに利用して建てられた古川邸、
斜面に洋風庭園、斜面下の低地部に日本庭園が配置され、
その美しさ、見事さからも古川財閥の力を感じ取れる。

建物外観は、ほぼ左右対称で両脇に切妻屋根を据え、
1階に3連アーチ、2階には高欄をめぐらしたベランダがある。



ちなみに建物前の美しいバラは、プリンセスミチコ。
1966年にイギリスのディクソン社から
当時の皇太子妃だった皇后美智子様に献呈されたバラだ。

建物内部に入ると玄関扉にはステンドグラスが設けられ、
古河家の家紋「鬼蔦」のデザインが見られる。

1階は食堂、ビリヤード室、喫煙室などの接客空間で、
大食堂の壁面は真紅の布張りで、大きな暖炉が設けられ、
天井にはパイナップルやリンゴなど果物の装飾が見られる。

2階は家族の居室など私的空間で、
ホールと寝室が洋室である以外はすべて畳敷きの和室である。

コンドル設計の旧岩崎邸では和館と洋館が繋がりはしても
分れていたのに対して旧古川邸では洋館の中に和室が内蔵されている。

旧古川庭園といえばバラ園だ。
斜面のテラスに幾何学的なフランス風のバラ園は古川邸とマッチして美しい。
斜面に石の手すり、石段、水盤などが配されている。
現在バラ園には、約100種199株のバラが植えられている。



しかしこのバラ園も関東大震災の時、
虎之助が被災者を収容するために全て取り壊し、
86戸のバラックを建て、避難民524人を収容したとの逸話が残る。

日本庭園は斜面の一番底部に位置し、回遊式庭園となっている。
シイ、モチノキ、ムクノキ、カエデなどが鬱蒼と茂り、
「心」の字を崩した形の心字池を中心に、比較的落差のある大滝、
枯山水を取り入れた枯滝、大きな雪見灯籠などが美しく配置されている。



心字池と大滝の間には入母屋造りの茶室が設けられ、
普段は入ることが出来ないが春と秋は抹茶を出している。



園内はそれほど広くはないが、洋館・和館の調和が素晴らしく、
歩いていて様々な表情を楽しめる見事な造りとなっている。

藤村操と華厳の滝 

May 22 [Mon], 2017, 9:16
今から114年前、風光明媚な華厳の滝を自殺の名所と変えた事件が起きた。

1903年5月22日、華厳の滝近くのナラの大木を大型ナイフで削り、
そこに「嚴頭之感(がんとうのかん)」という遺書を書き残し、
身を投げた少年の自殺である。

名は藤村操、旧一高(現、東大の前進)の秀才と呼ばれた少年だった。
彼の書き残した「嚴頭之感」は、同時代及び後世の青年の心を捉えた。

エリート学生の死は「立身出世」を美徳とした当時の社会に
大きな影響を与え、後を追う者が続出した。

藤村の死後4年間で同所で自殺を図った者は185名、
日光の華厳の滝は自殺の名所となっていった。

さて、日本初の哲学と言わせた遺書だが以下の通りだ。

「悠々なるかな天壌、遼々なるかな古今、
 五尺の小躯を以てこの大をはからんとす。
 ホレーショの哲学、ついに何等のオーソリチィーをあたいするものぞ。
 万有の真相は唯一言にしてつくす   いわく不可解。

 我この恨を懐てついに死を決するに至る。
 すでに厳頭に立つに及んで胸中何等の不安あるなし。
 始めて知る大なる悲観は大なる楽観に一致するを。」

少し読みやすく変えているが、この文面が木に掘り込まれていた。
一説には、操の自殺は失恋が原因とも言われている。

時代によって、その死生観は異なるが、
恋愛の不条理も哲学と捉えてしまう向きがあった様で、
それは明治から昭和の文壇に、大きな影響を残したのではないだろうか。

ちなみにこの「嚴頭之感」を俺なりに解釈するとこうである。

『世界は広く、天地は果てしなく、過去未来の時間も限り無いというのに、
 小さな自分がそれを計ろうとしている。

「この天地のあいだには、人智の思いも及ばぬことが幾らもあるのだ」という
 シェークスピアのホレーショの哲学は何物にも勝る哲学だが、
 どんなに思索しても、この世界は不可解の一言に終わる。

 理解することなど一生出来ぬのだから、僕は死ぬことにした。
 崖に向う心の穏かさの中で知る、最悪と最高は一緒であることを。』

こんな風に書くと、それほど凄い詩でもないかなと思える。

寺田屋騒動 

May 21 [Sun], 2017, 9:30
1862年5月21日、京都伏見の船宿・寺田屋で事件が起きた。
寺田屋は坂本龍馬の定宿としても知られ、
大阪と京都の淀川船便の乗り換え船宿として栄えていた。

文久2年4月23日(1862年5月21日)、
急進派の、有馬新七を始めとする薩摩藩士と諸国浪士など数十人の
尊攘派が寺田屋に集まり、関白と所司代を襲撃し決起を促す
過激な計画を実行しようとしていた。

通報を聞いた薩摩藩の島津久光は、計画を中止させるために
同じく攘夷派だった奈良喜八郎らを寺田屋に送った。

奈良らは最初、説得を試みるが有馬らが受け入れなかった為、
激しい剣戦を伴う乱闘になり、薩摩藩同士が斬りあい、
多くの死傷者を出す惨状となってしまった。

世に言う寺田屋騒動である。

この乱闘の際、有馬新七と道島五郎兵衛のを斬りあいは語り草だ。
道島を壁へと押し付けた有馬は、同志の橋口に対し、
「おいごと突け! おいごと刺せ!」と絶叫、
橋口は有馬ごと道島を突き刺したのだ。

結果、寺田屋に集結していた浪士達は、
有馬以下6名が死亡、2名が重傷を負った。

寺田屋に集結していたその他20数人の薩摩藩士達は、
大山らに熱心に説得され、倒幕のための挙兵を諦めた。

藩は同士討ちを恥じ、迷惑をかけた寺田屋に対し乱闘で破損した
家財一切を即日に修復をさせると共に、多額の金を渡し他言を禁じたという。

一般の志士達は久光が上京を機に、
因循な公武合体策ではなく倒幕に踏み切るものと期待していただけに、
寺田屋での倒幕派の鎮圧という行動は理解しがたかった。

だが久光には国政のイニシアチブを握るという思惑があった。
寺田屋で、藩士の同士討ちを起こしてまでもトラブルを抑え、
幕政改革を迫ることに成功したのだ。

しかしこの頃長州藩では、長井雅楽の「航海遠略策」を葬り、
過激な尊王攘夷論に藩論を転換させていた。

長州藩の急進派藩士達は、下級公家を中心に
過激な尊皇攘夷論を吹聴し、勢いを増していた。

勢いを付ける長州急進派の藩士らは、
攘夷祈願のために天皇を行幸させるなど、傲慢さも見えて来た。

そして幕政改革を推し進めた薩摩藩の思惑は、
長州藩の尊皇攘夷論の前に水泡に帰したのだ。

このような長州藩の暴走を面白く思わない京都守護職の要職にあった会津藩と
長州を苦々しく思っていた薩摩藩は互いの利害が一致、
武装した両藩は8.18の政変を起こす。

そして急進派公卿の三条実美ら7名の国事掛免職の勅許を得、
長州藩士共々京都から一掃するのだ。

この政変で苦境に立たされた長州藩は、
翌年に久坂を中心に禁門の変を起こす事になる。

寺田屋騒動は、こうした激動の幕末が動き出す起爆剤となったのだ。

横浜港駅 

May 20 [Sat], 2017, 10:11
古写真から現在の場所を探し、その時代を想う!
     横浜港駅

大正9年、横浜税関内の荷扱所に「横浜港駅」が造られ、
東京駅から初の汽船連絡列車が乗りいれた。

新港埠頭4号岸壁の脇に造られた旅客用のプラットホームからは
日本郵船および東洋汽船のサンフランシスコ航路出航日に合わせて
乗船客と見送り客を輸送するためのボート・トレインが
東京駅から2往復運転されていた。

しかしこの駅舎は関東大震災で倒壊してしまい、
昭和2年に全長170mの4号上屋として再建され
この上屋に面して横浜港駅のプラットホームが設置された。

そして横浜博後の平成8年、旧旅客ホームが復元・保存され
赤レンガパーク内で一般公開される様になった。


トマス・エドワード・ロレンス 

May 19 [Fri], 2017, 9:07
'62年に製作された歴史大作「アラビアのロレンス」。
アカデミー作品賞・監督賞など7部門を受賞した名作である。

上映時間4時間弱という大作だったが、
そのスペクタクル巨編に時間を忘れて引き込まれた事を覚えている。

大きな夕陽と砂漠、砂丘や風紋の美しさ、
画面一杯に広がるラクダに乗る兵士、
CGの無い時代にその壮大さは圧巻であった。

ピーター・オトゥール、オマー・シャリフという名優の他、
無名のアラブ人達に至るまで、
その演技は演技であることを忘れさせるほどだった。

映画は、バイクの事故シーンで始まるが、
1935年5月19日、この映画のモデルとなった
アラビアのロレンスことトマス・エドワード・ロレンスは
オートバイを運転中、自転車を避けようとして事故を起こし、
46年の波乱の生涯を閉じた。

ロレンスは1888年にウェールズのトレマドックで生まれた。
オックスフォード大学ジーザス・カレッジに学び、
在学中には自転車でフランスを旅したり、
レバノンを徒歩で1600キロも歩き、十字軍の遺跡調査をしたりしている。

1914年7月、第一次世界大戦が勃発、
ロレンスはその年の10月に召集され、
イギリス陸軍省作戦部地図課に配属となった。
12月にはカイロの陸軍情報部に転属となり、軍用地図の作成に従事する。

そして1916年、情報将校としての任務を通じてロレンスは
ハーシム家当主、フサイン・イブン・アリーの三男、
ファイサル・イブン・フセインと接触する。

ファイサル王子と面会したロレンスは、
独立闘争への協力を約束、ゲリラ戦を指揮することとなった。

そして強大なオスマン帝国軍と正面から戦うのではなく、
ヒジャーズ鉄道を破壊するというゲリラ戦略を提案した。

アラブ軍は線路に爆弾を仕掛け列車を強奪する。
略奪による戦果に喜ぶアラブ人はロレンスをほめたたえ、
アメリカの新聞記者もロレンスを英雄として書き立てた。

ロレンスには、オスマン帝国軍を鉄道沿線に釘付けにすれば、
イギリス軍のスエズ運河防衛や
パレスチナ進軍を助ける事が出来るとの目論見もあった。

続いてロレンスは戦略的に重要な、アカバに奇襲を掛け陥落させた。
アカバは紅海でトルコ側に残された唯一の港で、
スエズ運河にもヒジャーズ鉄道にも近接している要所であった。
ロレンスはこの攻略の功により昇進している。

しかし彼の役目はここまでだった。
イギリスはさまざまな策略の末、
イラクとヨルダンを委任統治領にすることに成功した。

イギリスはハシム家の太守フセインの次男アブドラにヨルダンを、
三男ファイサルにイラクを統治させた。

ファイサルは、「アラブの反乱に栄光をもたらす完全な指導者」と
ロレンスを絶賛したが、やはり心の内は違っていた。

ロレンス自身はアラブの真の独立を夢見ていたのだが、
結局は政府に利用され、帝国主義の推進に利用されてしまったのだ。

アラブ人以上にアラブを愛し、情熱と命を賭けるも
最後はイギリスにもアラブにも煙たがられる不条理となってしまった。 

ローレンスはヨルダン南部の砂漠地帯にそびえる岩山、
ワディ・ラムが好きだったという。

「この偉大な山容を前にして、われわれは粛然として立ちつくし、
 微小きわまる自身をかえりみて、恐ろしいような、
 恥ずかしいような気持ちになったものである」
 
自伝に記されたワディ・ラムの一文は、
政治に翻弄された自身の気持ちであったのかもしれない。
P R
2017年05月
« 前の月  |  次の月 »
1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31
月別アーカイブ