ルー・テーズ 

April 28 [Fri], 2017, 9:31
俺は小学生の時、クラスメートにバックドロップを掛け、
その重さに耐え切れず後頭部を痛打し大怪我をした事がある。

バックドロップとは、背後から相手の腋下に頭を入れ、
両腕で相手の胴に腕を回し、自ら後方に反り返るように倒れ込んで、
相手の首から後頭部にダメージを与える技だ。

諸説はあるがルー・テーズが元祖と言われている。
テーズはアマレス時代、バック投げを得意としたそうで、
それをプロのリングでも使ったのが起源のようだ。

1957年にテーズは初来日、力道山を始めとする日本の強豪レスラー達を
次々に沈めた技としてプロレスファンにはお馴染みとなった。

その後、日本人レスラーの中にもにもこの技の名手が現れ、
猪木が初の異種格闘技戦でウイリアム・ルスカをマットに沈めたのも
バックドロップだった。

そして鉄人と呼ばれた男ルー・テーズを俺が知ったときには、
すでに初老と言っていい時期だった。
しかしその強さは格別で、この男の全盛時期はどれほど強かったのかと思う。

そしてその男に「ゴッチさえいなかったら、私の王座はあと二年は続いた。
本当に恐ろしい男で、グレコローマンの技術と関節技の技術では、
ゴッチは完全に私を上回っていた」と言わしめたのが、
日本プロレスのコーチに就任し「ゴッチ教室」を開いた神様カール・ゴッチだ。
凄い男達がいたものだ。

鉄人ルー・テーズがこの世を去ったのが
2002年4月28日、心臓マヒだった。

テーズは70歳をすぎてもリングに立ち、バックドロップを披露した。

松下幸之助 

April 27 [Thu], 2017, 10:00
2008年に松下電器産業は白物家電に用いてきた「ナショナル」ブランドを廃止し、
デジタル家電のブランド名「パナソニック」に社名を一本化した。

創業者の松下幸之助が名付けた「ナショナル」ブランドを全面廃止し
グローバル・エクセレンスを目指し、海外売上高の増販を目指しての事だった。

1918年「二股ソケット」、1927年に自転車に付けられる「角型ランプ」の
開発に成功し一代で大企業「松下電器産業」を築き上げた松下幸之助、
この角型ランプが「ナショナルランプ」と名を付けられた。

これは、「国民に愛される、国民のための商品」という意味である。
「人々が必要なものを作る」「お客様が喜ぶものを作る」が、
幸之助の信条であった。

関西で「松下さん」といえば同社のことを指すほど知れ渡った社名であった。
今日はその松下電器の創業者松下幸之助の命日だ、
平成元年4月27日だった。

ちなみに雷門のシンボルとなっている大提灯は、
1865年、火災の為に焼失した雷門を1960年に松下幸之助が再建、
それと同時に大提灯の奉納を行った。

大提灯は10年に一度の修復が行われており、
2003年に江戸開府400年を記念して改めて新調された。
社名をパナソニックに変更しても、大提灯の銘板は松下電器のままである。

先日浅草で飲んだ夜に写した、
誰一人いない仲見世と2013年に新しくした大提灯である。

大山倍達 

April 26 [Wed], 2017, 9:04
若き頃、西池袋にあった極真空手の道場に通っていた事がある。
ここに行けば強くなれると信じていた。
館長は大山倍達、「空手バカ一代」を読んでいた俺には神様に見えた。

昭和の宮本武蔵をめざし生涯を武道家として生きた大山倍達。
猛牛をも一撃で倒す圧倒的なパワー空手は他流派から邪道カラテ、
喧嘩カラテと非難を受けるが、伝統流派(寸止め)空手に疑問を感じ、
直接打撃制(フルコンタクト)の実践空手「大山道場」を創立した。

レンガを砕き、ビール瓶を斬る、その技は「ゴッドハンド!」と呼ばれ
神の手と賞賛され世界中に極真カラテは知られる事となる。

そんな大山倍達本人が生み出した伝説を大きく膨らませ、
世間に広めたのが梶原一騎の「空手バカ一代」だった。

おそらく実像とは違い、大山倍達の伝説の部分、武勇伝が、
このストーリで一人歩きし、神格化されていったのだろう。
しかしそれが極真の大きな躍進になった事は間違いない。

大山空手の大山茂・泰彦兄弟、中村忠、佐藤塾の佐藤勝昭、
逆真会館の山崎照朝、士道館の添野義士、円心館の二宮城光などの
弟子達も多く輩出し、ある意味現在の格闘技ブームの礎を築いた。

そんな大山倍達がこの世を去ったのが1994年4月26日であった。

うなぎ高瀬 

April 25 [Tue], 2017, 22:49
久し振りに小宮にあるうなぎ高瀬(地図)でうな重を頂く。
俺は鰻好きで、東京の名店には結構足を運んでいるのだが、
No.1はやはりここである。



とにかく混んでいるので、予約は必至なのだが
今日は開店と同時に飛び込んでみた。

2階の座敷なら空いてると言われ2階へ、
すでにほぼほぼ満席である。

高瀬は、うな重は勿論だが豊富なうなぎ料理も堪能できる。
うなぎは身が厚くふっくらしており、口の中でとろける柔らかさ、
濃厚でコクのあるタレが御飯にも塗され絶品だ。



林正之助 

April 24 [Mon], 2017, 9:43
26年前に花王名人劇場で全4回に分けて放送された「にっぽん笑売人」。
沢田研二が関西弁で熱演した人物が林正之助、
あの吉本興業を作り上げた人物である。

正之助は米穀商を営んでいた林豊次郎の長男として生まれる。
姉のせいが吉本興業創業者の吉本吉兵衛の妻であった事もあり、
正之助も18歳の時に吉本興業の前身、
吉本興行部に総監督として入社した。

映画とレビューと漫才のショー劇場を看板に掲げ、
なかでも「吉本ショー」は当時流行していたレヴューやボードビルを取り入れ、
エンタメビジネスの先駆けともいえる手法で人気を集めた。

初代桂春團治、エンタツ・アチャコ等の多くの芸人を育て上げ、
なんば花月、うめだ花月等の劇場もオープンさせるなど、
吉本興業を日本最大手の芸能事務所に発展させた。

ドラマ「にっぽん笑売人」の中では姉の吉本せいを小川真由美、
その夫で吉本の創始者に山城新吾、
松竹の社長が財津一郎、桂春団治が横山やすし、
エンタツ・アチャコはオール阪神巨人、ワカナ一郎は大助花子、
あきれたボーイズの益田キートンを岸辺シローが演じ、見応えがあった。

ジュリーが演じた正之助の素顔は、なかなかの強面で、
松竹芸能とのトラブル、山口組三代目・田岡一雄と組んでの
レコード会社買収事件などで世間を賑わせた。

興行の世界には裏社会との付き合いも必至である。
正之助には、ヤクザ達も迂闊に手を出せない強さがあった。

しかしそれが欠けていれば、同業者からも好きなように荒らされ、
吉本の今日の隆盛はなかっただろう。

裏社会とのコネをつくり、上手くコントロール出来るかが
興行師としての腕の見せ所であった時代である。

「花と咲くか、月と陰るか、すべてを賭けて」
興行の世界で成功するか失敗するかを花と月になぞらえ、
傘下に収めた劇場はすべて「花月」と改名した。

そんな剛腕がこの世を去ったのは1991年4月24日、
日本の芸能プロモーターとしては最高齢の92歳であった。

高校生首切り殺人事件 

April 23 [Sun], 2017, 9:43
2006年に出版された小説が話題となった。
奥野修司:著「心にナイフをしのばせて」である。

高校1年生による実際に起きた殺人事件を、被害者の妹の目線で描き、
加害者に対しては手厚い保護がなされるにもかかわらず、
被害者遺族の人権が疎かにされている現状を告発した本であった。

「酒鬼薔薇」事件後に執筆された事もあり、
ノンフィクションとしては異例の8万部を超える売上となった。

しかし一方で加害者少年の狂気性を、
ことさらに印象付ける描写も多くみられ、
また刑期を終えて以降、罪を犯していない個人を
糾弾すべきではないとの批判も聞かれた。

この事件は昭和44年4月23日、神奈川県の高校で起きた。
高校1年の男子生徒が「同級生の友人が山中で首を切られた」と、
学校に駆け込んできた。

本人も肩など2ヶ所を刺されており、
「3・4人の不良達に襲われた」と証言した。

同校教師が駆け付けると、現場は異常な状況だった。
被害者は全身をメッタ刺しにされており、首が切断されていた。

学校側も生徒の取り調べには慎重を喫したが、
被害者と一緒のいた少年の話に矛盾が多く見つかり
追及したところ犯行を自供した。

被害者少年と加害者少年は、中学の頃から同じクラスで、
傍目には親しく見えたという。

被害者少年は加害者少年にあだ名を付けては揶揄っていたが、
それは、どの子供達でも行うようなレベルのものだった。

しかし日常的に言われる身体的な中傷に、
加害者少年の中には言いようのない憎悪が溜まっていく。

事件当日も嫌がらせを受けた加害者少年は、
被害者少年をを散歩に呼び出した。

被害者少年を脅かしてやろうと、懐にしのばせたナイフを見せた。
ところが被害者少年は恐れるどころか、
加害者少年をバカにする言葉を吐きかけた。

加害者少年の憎悪は沸点に達っし、被害者少年をメッタ刺しにした。
そして「もし生き返り、自分の事を話されたら」の
恐怖心に取り付かれ、10分程を掛けて首を切断したと言う。

その後、自らの体も傷つけてカモフラージュを計り、
学校へと駆け込んだのである。

事件後、加害者少年は初等少年院へと収監された。
そして被害者の家族には加害者の父親から、
月2万円ずつが送金される事となったが、2年後には滞てしまった。

被害者家族はその後、父親は無念を抱いて死去、
精神障害を患ってしまった母親は心に痛手を負った、
そして妹は感情が消え去ってしまったと言う。

加害者少年は少年院を出所後、進学して大学院を修了し弁護士となった。
殺した少年と、その遺族に対する思いについては、なんの思いもないと語った。

「心にナイフをしのばせて」が出版されると、
加害者だった男は個人情報がインターネット上で流出する被害を受ける。

その非難の声もあってか、遺族へ謝罪の手紙を送り、
残された和解金を支払う意思があることを伝えた。

しかしその後、男は弁護士を廃業、被害者への連絡は途絶えたと言う。

サザエさん 

April 22 [Sat], 2017, 9:24
昔の40代後半といえば、すでにお婆ちゃんの装いであった。
それは「サザエさん」を観ると理解できる。

磯野波平は52歳、フネさんは48歳であり、
現在のサザエさんのスタイルが確立した
昭和20年代の中高年はあの様な雰囲気を持っていたのだ。

さてそんな「サザエさん」が新聞連載の4コマ漫画として登場したのが、
71年前の今日、昭和21年4月22日であった。

福岡の地方新聞「夕刊フクニチ」での連載であったが、
原作者の長谷川町子が東京へ引越すために一時打ち切り、
長谷川の家族が東京の桜新町へ引っ越した後は、
サザエさんの舞台も東京へ移り再開した。

「夕刊フクニチ」「新夕刊」「夕刊朝日」を経て、
昭和26年4月16日から「朝日新聞」の朝刊に移り、
昭和49年まで続いた連載は6477回に及んだ。

テレビ放送はフジテレビで昭和44年10月5日から始まり、
現在でも根強い人気を誇り、前人未踏の放送回数を達成している。

日曜日の18時30分から放送される番組は、
見た後に、翌日からまた学校だと憂鬱な気分になったものだ。

こんな気分になるのは俺だけかと思っていたら、
以外に多くの人達が同じ症状を感じており、
なんと「サザエさん症候群」なる病名まで付いていたのだと後日に知った。

最近では日本のアニメが海外で高く評価されているが、
サザエさんは欧米人では人気がない様だ。

それは日本の生活が理解できない事にあり、
それだけ日本の文化が繁栄されているドラマなのだ。

ちなみにこんな都市伝説もある。
それは、「イソノカツオ」を巻き舌で発音すると、
イタリア語で「私は男性器です」という意味になるそうだ。

イタリアでは放映しにくいな!

浅野内匠頭 

April 21 [Fri], 2017, 10:06
「風さそう 花よりもなお われはまた
 春の名残を いかにとかせん」

この辞世の句を残し、1701年4月21日(元禄14年3月14日)
奥州一之関藩・田村右京太夫の上屋敷において
播磨赤穂藩第3代藩主・浅野内匠頭は切腹をした。

事の発端は江戸城・松の廊下での刃傷事件であった。

浅野は、江戸下向が予定される勅使の御馳走人に任じられ、
その礼法の指南を吉良上野介に委ねていた。

この日は将軍が先に下された聖旨・院旨に対して
「勅答の儀」が行われる幕府行事の中でも格式高い日であった。

儀式直前の巳の下刻、江戸城本丸大廊下・通称松の廊下にて、
吉良が留守居番・梶川頼照と打ち合わせをしていた所、
突然浅野が「この間の遺恨覚えたるか」と叫び斬りかかった。

吉良は額と背中に傷を負うが深手にはならなかった。
即座に浅野は梶川らに取り押さえられた。

これを聞いた将軍綱吉は激怒、
浅野内匠頭は田村家にお預かりとなり即日切腹、
赤穂浅野家はお家断絶と決まった。

この後、赤穂藩家老・大石内蔵助は吉良に一切の咎めが無かった事に、
喧嘩両成敗の武家の定法に反すると幕府の裁定に不満を持ち、
君主の仇を討つ事を決意する。

こうして松の廊下刃傷事件は、忠臣蔵で有名な元禄赤穂事件となる。

吉良との間に何があったかは解らないが、
多くの家臣を抱えたトップの行動としては愚かである。
殿中にての刃傷は、切腹・お家断絶と決まっていたからだ。

身柄を預かった田村家の記録には浅野の精神障害を思わせる記録がある。
「自分がした事を頭ではわかっていても、本当の意味で理解していない」
今でいう統合失調症ではないかと推定される。

元々患っていた精神疾患が、今回のお役目による極度の緊張感と
プレッシャーにより悪化、指南役の吉良に叱責された事で
心が崩壊したのではないだろうか。

いずれにしても吉良上野介は不幸である。
この翌年には赤穂浪士により命を奪われ、
現在に至るまでその名は歴史上最も有名な悪役として残る。

本来吉良は、黄金堤による治水事業や富好新田をはじめとする新田開拓、
またその人柄からも名君として慕われた人物であった。

海老原博幸 

April 20 [Thu], 2017, 9:12
俺が格闘技に興味を持ち、ボクシングファンになる切っ掛けとなった、
大好きだったボクサーが大場政夫、ファイティング原田、海老原博幸である。

日本ボクシング創成期、最も日本人向けだった階級
フライ級には優れた逸材が集中した。

中でも「フライ級三羽カラス」と呼ばれた青木、海老原、原田は、
誰が世界タイトルを取っても不思議ではなかった。

脅威のKO率を誇った天才肌の青木、
日本のボクサーで唯一、
アメリカのボクシング殿堂入りを果たした天才・ファイティング原田。
そして「カミソリ・パンチ」の異名を持った海老原博幸である。

海老原は「あしたのジョー」のモデルとなったボクサーとしても有名だ。

若き海老原は、出前のバイトを募集していたトンカツ屋に
バイトの面接に行くと、店主に運動神経を試されたという。

海老原の並外れた才能を見抜いた店主は、
なんと海老原一人の為にトンカツ屋を閉めてしまい、
馬小屋を改造したジムを作り、共にボクシングの頂点を目指したのだ。

その店主こそが、後に10人の世界チャンピオンを誕生させた
金平正紀であり、この小さなジムが協栄ジムの始まりだった。
まさに丹下段平である。

海老原は金平が目を付けただけの事はあり、デビュー後は連戦連勝を続けた。
唯一彼に黒星をつけたのが、ファイティング原田であった。

そして1963年9月18日、海老原は世界に挑んだ、
相手はタイのポーン・キングピッチ。

1ラウンドのゴングが鳴ると、
なんと海老原は開始2分7秒でキングピッチをマットに沈めた。
日本人として3人目の世界チャンピオンの誕生であった。

しかし翌年、タイのバンコクで行われた
ポーン・キングピッチとのリターン・マッチでは判定に持ち込まれ、
ホームタウン・デシジョンもありタイトルを奪い返される。

海老原には致命的な弱点があった。
それは驚異的なパンチの強さが自分の拳を傷つけてしまうのだ。

キングピッチ戦の後に2回行われたオラシオ・アカバリョとの世界戦では
2度とも試合中に指を骨折して敗れてしまう。

だが海老原は持ち前の根性で1969年3月、
5年ぶりに世界フライ級チャンピオンに返り咲くのだ。
防衛は出来なかったが海老原のボクシングにファンは熱狂した。

引退後は協栄ジムのトレーナーやテレビ東京の解説者を務める。
ジムからは海老原以後も多くの逸材を生み出し、
西城正三、具志堅用高、渡嘉敷勝男など世界チャンピオンを誕生さた。

しかし海老原は過度の飲酒により肝機能障害を患い、
1991年4月20日、51歳の若さで死去した。

ちなみに「フライ級三羽烏」の青木勝利も黄金のサウスポーと言われ、
天才的な勘でパンチを避け、豪快なメガトンパンチを打ち込み、
KO率は7割という軽量級では考えられない数字を挙げたボクサーだった。

不良少年の様なマスクで3人の中では最も女性ファンが多かった。
しかしその天才的なセンスゆえ、努力を惜しむ性格だった。

そしてエデル・ジョフレとのタイトルマッチに敗れると、
海老原や原田にも敗れ、その後は転落人生をたどってしまった。

多くの世界王者を育てた名トレーナーのエディ・タウンゼントは
「一番ガッツがあったのは海老原で、海老原は本当の男だ」と語り、
ライバルであった原田は、「俺は親の葬式でも泣かなかったが、
海老原が死んだ時は泣きまくった」と語っている。

地図の日 

April 19 [Wed], 2017, 10:00
今日は地図の日だ、これは寛政12年閏4月19日に、
伊能忠敬が蝦夷地の測量を行うため江戸を出発した日に因んでいる。

俺も地図を眺めるのが大好きで、最近では地図マニアも多く存在するらしい。
最近のお気に入り地図は、「切絵図・現代図で歩く江戸東京散歩」で
江戸の地図と現代地図が比較できる構成になっており、
これを片手に町を歩くのが楽しみとなっている。

伊能忠敬は寛政6年、50歳の時に家督を長男に譲り隠居、翌年江戸に出る。
江戸幕府の天文方・高橋至時に師事し、測量・天文観測などを修めた。

そして寛政12年、56歳の時に第1次測量を開始した。
忠敬の測量は極めて高度なものであったことから、
その後徐々に幕府からの支援が増強、国家的事業に育っていった。

以後その生涯を、日本各地の沿岸実測に従事し、
「大日本沿海実測図」を作成した。

この地図は一般に伊能図というが、当時は国防上の見地から秘図とされた。
それは現在のものと比べても、ほとんど誤差が無いといわれる。

門前仲町の富岡八幡宮には伊能の銅像がある。
八幡宮の近くに、江戸に出て来た伊能は隠宅を構えた。

そして寛政12年閏4月19日の早朝、富岡八幡宮に参拝して
蝦夷地測量の旅に出かけて行ったのだ。

そしてこの伊能が、一念発起して地図の作成に人生を掛ける以前、
酒、醤油の醸造、貸金業を営み、商人としての才覚を振るっていた場所が、
千葉県香取市にある佐原であった。

佐原は水運を利用して「江戸優り(えどまさり)」といわれるほど栄え、
人々は、江戸の文化を取り入れ、更にそれを独自の文化に昇華していた。

このブログでも'09・4・19に紹介したが、
この伊能の旧家が現存し、当時の面影を残す町並みが素晴らしく、
関東で初めて「重要伝統的建造物群保存地区」に選定されるほどだった。

しかし東日本大震災は、この地へも襲い掛かった。
古い町並みが魅力的ではあったが、屋根瓦を土で木材に接着する
土葺(どぶ)きの建物は崩れやすく、伊能家の旧宅も瓦が落下した。
また街のシンボルであった小野川などは、液状化により砂を吹いてしまった。

東日本大震災で被害を受けた国指定・登録文化財は43件、
県指定の文化財は29件が被害を受けた。

しかし千葉県や地元の人達の尽力で、
被災した大半の登録建物は24年度までに修復を終えている。
P R
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