久能山 東照宮 

February 23 [Thu], 2017, 10:35
久能山東照宮

1616年6月1日、駿府城において大御所・徳川家康が死去した。

柩は久能山に運ばれ、遺言に従って幕府は同年12月に久能山東照社を創建した。
これに伴い朝廷は翌年3月、神社としての東照社に
「東照大権現」の神号を宣下するとともに正一位を贈位した。

幕府は日光にも東照宮の建設を進め、家康死去から1周忌にあたる
1617年5月21日に遷座祭を挙行し、2つの東照大権現が並立した。

日光山へは家康公の分霊を移して祀ったと言われ、
家康の遺骸は久能山に眠っていると言われる。
代々徳川宗家が久能山への墓参りをしているのが理由として挙げられる。

つまり家康の墓である久能山、権威の象徴である日光となるのではないだろうか。

久能山東照宮と日光東照宮を結ぶ線は富士山の真上を通っている。
その日光東照宮と久能山東照宮からいすみ市の飯縄寺に線を引くと
綺麗な三角形になる。

この三角形の中に江戸の街が収まる事から、
天界大僧正が仕掛けた徳川家安泰の為の三角形結界だとも言われる。

久能山東照宮へは日本平からロープウェイが出ているが、
やはり家康公に会いに行くには、過去の将軍達と同じ、
この階段を登らないと駄目な感じがする。



一ノ鳥居から表参道階段を17回折り返し上ると一ノ門があり、
枡形を右に折れさらに階段を上ると社務所がある。

この階段の上に「東照大権現」と書かれた楼門が堂々と建ち、
門をくぐると唐灯篭、上には透塀と唐門が美しい姿を見せる。




神楽殿側から周り、日枝神社を参りながら拝殿へと入る。



久能山東照宮は権現造の発祥と言われ、
本殿と拝殿の2棟を一体化させ、その間に「石の間」と呼ばれる
一段低い建物を設けているのが特徴である。

正面の破風は、千鳥破風・軒唐破風、
柱は左右対称で、左右方向には偶数本の柱が配される。
拝殿が最も幅が広く、石の間と本殿はどちらかが広い構造となるが、
久能山東照宮は本殿の方が広い。



1617年に落成したその本殿、石の間、拝殿は国宝、
屋根は寛永年間に檜皮葺から銅瓦葺きへと変わっている。



本殿の裏手山頂付近にある家康が埋葬された場所に立つ廟所宝塔は重要文化財。
家康はここに西側を向き、座った姿勢で埋葬されている。
それはまだ世情の安定していなかった西側に睨みを利かす為だった。



他の重文は末社日枝神社本殿、神庫、神楽殿、神饌所、鼓楼、
神厩、楼門、廟所参道(廟門以内、石鳥居及び石柵付)、
銅燈籠2基、手水鉢石1口、棟札10枚などとなる。



表参道階段はかなりキツイが、参拝した事の充実感があると共に、
ここに東照宮を建立した意味、また建設した職人たちの苦労が感じられ、
ロープウェイでは味わえないものがある。

三保の松原 

February 22 [Wed], 2017, 9:59
昨日は清水へとドライブを楽しんだ。
天気も抜群で富士山が、お腹一杯になるぐらい楽しめた。

三保の松原は羽衣天女伝説で有名だ。
三保の漁師・白龍が、松原で出会う天女との話、
松の枝で見つけた羽衣を天女に帰すお礼に見せてもらった美しい舞。

三保松原を舞台とする羽衣伝説は、
15世紀に作られた謡曲「羽衣」によって一躍有名になった。

その後、長唄、筝曲、舞踊、浮世絵、歌舞伎などを通じて庶民に広まり、
江戸時代の街道整備以降、三保松原は富士の眺望とともに、
日本の美を象徴する場所として誰もが訪れてみたい場所となった。



現在では日本新三景(大沼、三保の松原、耶馬溪)のひとつとされ、
ユネスコの世界文化遺産「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」の
構成資産に登録されている。

松林、紫紺の海、霊峰富士、見事である。



こちらは日本平パークウェイから望む、清水港と三保の松原、富士の絶景だ。

岸屋 

February 21 [Tue], 2017, 22:45
清水港にある、まぐろ館1F「漁師めし岸家」で食事をする。



清水魚市場「河岸の市」は清水港の仲卸業者達が集まり、
「新鮮で美味しい魚を食べてもらおう」との思いで開業した、
仲卸業者が直接販売する日本初の施設だ。

岸屋は「河岸の市・まぐろ館」の中にある。
目の前に港、富士山も頭だけなら見えるロケーションが良い。
そして海鮮丼・まぐろ丼・刺身定食をはじめバラエティー豊かなメニューが並ぶ。



まずは生ビールに桜エビのかき揚げ、
清水由比産桜えびを使用したサクサクのかき揚げが美味しい。



そして生シラスと生桜エビ、まぐろにアジ刺しが乗った「駿河さしみ丼」。
さすがに満足だ!

小林多喜二 

February 20 [Mon], 2017, 9:18
1933年2月20日、激しい拷問を受けて一人の作家がこの世を去った。
プロレタリア文学の旗手、小林多喜二である。

多喜二は明治36年、秋田の貧しい農家に生まれた。
伯父のパン工場で働きながら小樽商業から商大へと進み、
北海道拓殖銀行に就職した。

帳簿をつける傍らで小説を書き、文学活動にも積極的に取り組んで行った。
さらに当時の深刻な不況による社会不安などの影響で
労働運動へも深く入り込んでゆく。

そんな頃、多喜二は田口タキと知り合う。
貧乏ゆえに身を売らねばならなかった17歳のタキを彼は愛し、
借金をして彼女の身請けをした。
そして結婚ではなく家族として実家に引き取った。

しかしタキはその身分の差に耐えられなくなったのだろう、
突然、多喜二から逃げるように去っていった。

タキへの思慕の苦しみが、労働者・農民闘争、
そして文学へと没頭する事に拍車を掛けた。

そして1928年に起きた三・一五事件を題材にした
「一九二八年三月十五日」を「戦旗」に発表。

この作品中の特別高等警察による拷問の描写が、
特高警察の憤激を買い目を付けられる事となる。

大正から昭和にかけてのこの時期は、日本軍国主義が抬頭し、
治安維持法が制定されるなど不穏な時代であった。
各地で抵抗運動が組織され、若き多喜二の胸をも熱くさせた。

理論的指導者・蔵原惟人と会い思想を深めると、
社会主義思想や共産主義思想と結びついた文学を書き始める。

1929年に「蟹工船」を発表すると一躍、
戦前の日本文学の潮流であるプロレタリア文学の旗手となって行った。

だが同時に特別高等警察からも要注意人物としてマークされ、
また小説「不在地主」の中で拓銀の収奪をあばいたという理由で
銀行も解雇される。

1930年、東京へ転居すると日本プロレタリア作家同盟書記長となり
寝食を忘れて活動にのめり込み、日本共産党にも入党した。
この年は満州事変が勃発、弾圧は厳しさを増して行く。

当初は共産主義者や共産党員を取締りの対象としていたが、
日本が戦時色を強めるにつれ、挙国一致体制を維持するため、
その障害となりうる反戦運動や類似宗教など、
反政府的とみなした団体・活動に対する監視や取締りが強化された。

そんな中、多喜二も幾度か投獄される。
1932年春の「危険思想取締り」を機に、活動は地下に潜る。

だが1933年2月20日、共産青年同盟中央委員会に潜入していた
特高警察のスパイ・三船留吉の策略にはまり逮捕、築地警察署に連行された。

最初は小林多喜二であることを頑強に否認していたというが
筆舌に耐えない程の拷問を受け息絶えたという。

何故、この様な悲劇が起きたのかは、
この時代の空気に触れなければ理解できないであろう。

ただ文学や芝居が影響力を持っていた時代であった事は間違いない。

あさま山荘事件 

February 19 [Sun], 2017, 9:14
45年前の今日、アジアで初めて開催された冬季オリンピック・
札幌大会の余韻が残る中、世の中を震撼させた事件の一報が届いた。

1972年2月19日、長野県軽井沢町にある河合楽器の保養所
「浅間山荘」において、坂口弘、吉野雅邦、坂東国男、加藤倫教、加藤元久らの
連合赤軍メンバーが武装し、管理人を人質に篭城した。
世に言う「あさま山荘事件」である。

50年代、立川砂川闘争を強力に推進した反戦学生同盟は
共産主義者同盟の結成により、安保闘争を政治課題とした
全学連運動を牽引することとなる。

60年代、アメリカのベトナム戦争への介入と、
インフレにともなった授業料値上げ、大学の政財界との癒着、
佐世保の原潜寄港に反対する闘いなどが、反戦運動と連動する形で
大規模な全国学園闘争へと進み「全共闘運動」と呼ばれた。

しかし'69年、権威の象徴である東大安田講堂を封鎖するも陥落、
その衝撃は大きく、運動は次第にセクト化していった。

内ゲバや闘争の過激化が目立ち、'70年を目前に大衆の支持は失墜、
急速に学生運動が終息に向かう中で、武装し過激化したセクトが赤軍であった。

1972年1月、連合赤軍が妙義山をアジトに軍事訓練をするという情報を入手した
警視庁公安課は、大規模な山狩りを行い8日に丹沢ベースを発見、
2月17日には最高幹部の森と永田を妙義山中で逮捕した。

しかしそこから逃走した5人が「あさま山荘」に篭城、
管理人の妻を人質に取り、219時間の攻防戦に入ったのだ。

あさま山荘は斜面に達つ建物で、機動隊が突入するには不利な条件であり、
ライフルや散弾銃で武装した赤軍に、機動隊も迂闊には近寄れなかった。

しかし篭城210時間を超え、人質が限界であると判断した警察は強行突破、
玄関前に横付けしたクレーン車の鉄球で壁を破壊、機動隊が突入した。

そして激しい銃撃戦の中で、高見繁光警部が散弾銃で撃たれ即死、
内田尚孝警視はライフル銃で狙撃され死亡、同隊の大津高幸巡査は
散弾銃で撃たれ左目が失明する重傷を負った。

機動隊は犠牲者を出しながらも山荘内のバリケードを突破し、
2月28日午後6時20分、5人を逮捕、人質を無事救出した。

この事件はテレビで生中継され、人質救出の瞬間は民放、NHKを合わせ
視聴率90%弱を記録、この報道特別番組の視聴率は今でも破られていない。

犯人の逮捕後、仲間内のリンチ殺人事件
(山岳ベース事件)が発覚、世間に再度衝撃を与えた。

また、立て篭り犯の一人であった坂東國男は3年後、
日本赤軍が起こしたクアラルンプール米大使館占拠事件によって
「超法規的措置」として釈放され、日本赤軍に合流した。

2011年2月、連合赤軍事件の首謀者・永田洋子死刑囚が獄死した。
時代が違っていたら、どんな人生を歩んだ女性だったのだろう。

あの時代、真剣に世の中を変えようと奔走した若者は、
若年ゆえに志よりも闘う容や規律に囚われて行き、
極限状態の中で狂気の選択をしてしまったのかもしれない。

まかべ 

February 18 [Sat], 2017, 14:36
祖師ヶ谷大蔵のまかべ(地図)で一杯!
西通り商店街から昭和チックな路地へ入ると
懐かしい佇まいの居酒屋がある。



引き戸を開けると、コの字カウンターが広がり、
カウンターの上には大皿料理が乗り、良い感じだ。



酎ハイ、シロ、カシラ、鳥串、バラ串を注文、
いずれも大ぶりで食べごたえがある。

店は老夫婦と二人の息子さんが切り盛りする。
お父さんはほぼ動かず、客の話し相手といったところだ。

酎ハイは若干薄く、何杯でも飲めてしまう。
シロが皮の様に柔らかくて美味しかった。

春一番 

February 17 [Fri], 2017, 12:43
気象庁は今日、関東と北陸で「春一番」が吹いたと発表した。

今日は朝から暖かく、、4月中旬並みの19度まで気温は上がるそうだ。
また都心で最大瞬間風速18mを観測し、春一番となった。

春一番は、立春から春分の間に風速8m以上の強い南風が吹き、
前日より気温が上がるなどの条件を満たしたときに気象庁が認定する。

もう春だとウキウキするが、春一番が吹いた次の日は
決まって真冬に逆戻りし、春一番そのものも重大な災害を起こしうる。

前線が通過する直前にカミナリや突風、豪雨を伴うことがあり、
気温は急下降、海は暴風と高波に見舞われ、巨大な三角波が発生する事もある。

春一番は元々長崎県壱岐市の漁師の間で使われていた言葉で、
1859年、郷ノ浦町の漁民が出漁中、突然の強風に襲われ53人が死亡した。
この時から春の初めの強い南風をこう呼び恐れるようになった。

何事も、穏やかになった環境に気を緩めると痛い目にあうという事だ。

祖師谷ウルトラマン商店街 

February 16 [Thu], 2017, 12:17
祖師ヶ谷大蔵は下町の香りがほんのりとする、今や高級住宅地。

師谷の地名は鎌倉時代、釣鐘池の近くにあった
地福寺の境内に祖師堂を建立した事から付いたと言われる。

そしてなんといってもウルトラマン商店街が魅力的だ。
円谷プロダクションの旧社屋があったことから、
祖師谷近辺は「ウルトラマン発祥の地」として親しまれて来た。

2005年、祖師ヶ谷大蔵駅を囲む3商店街が一緒になり、
ウルトラマン商店街が生まれた。

駅前にウルトラマン像が立っている。
やはりこの角度で写すと良いね!



各商店街の入り口にはゲートがあり、西通り「ゾフィー」
北通り「ウルトラマン」南通り「ウルトラマンジャック」が
空を飛んでいる。



また様々な場所にウルトラファミリーが隠れており、
色々なウルトラマングッズも手に入れられる。

西通りにある「カフェ・メロディ」は
店内に入ってみると、まさにウルトラマン一色。




スクリーンではウルトラマンシリーズのビデオが流れ、
棚にはところ狭しと並ぶウルトラマングッズが並ぶ。
抹茶ハニーミルクを注文して少し温まる。

街灯はウルトラマン、タロウ、セブン、バルタンが
モチーフとなっており楽しい、セブンとバルタンは希少だ。






北商店街には憲武の実家、木梨サイクルもあり、
商店街を抜けスーパー「サミット」の手前を左に曲がると
「新明社」があり新明社を出て北へ行くと
世田谷百景に選ばれた「つりがね池公園」がある。



そして各商店街には、美味しいグルメを堪能できる店も多くあり、
中でも人気なのが昭和30年頃に創業した老舗洋食屋「キッチンマカベ」。
しかし俺が好きなのは焼き鳥「まかべ」のほうである。

羽根木公園 

February 15 [Wed], 2017, 10:41
羽根木公園 梅鑑賞。

小田急線・梅ヶ丘駅前にある羽根木公園。
公園全体が丘状の地形になっている公園で、
古くは一帯に「六郎次」という野鍛冶が住んでいたと伝えられている。

その後、根津財閥の所有地となったため「根津山」と呼ばれた。
1956年に都立公園として開園し、1965年に世田谷区に移管され区立公園となった。

俺は子供の頃、世田谷に住んでいたので、
「ねずやま」と呼んで、よく遊びに来たものだ。

現在公園内には、羽根木プレーパーク・野球グラウンド・テニスコート・
世田谷区立梅丘図書館・茶室「日月庵」などがある。

南側の斜面は約650本の梅の木が植えられており、
毎年2月頃には見頃を迎え「せたがや梅まつり」が行われている。

紅白合わせて60種類以上の梅が楽しめる羽根木公園、
薄紅大輪の「見驚(けんきょう)」、
花良し、実良し、香り良しの名で知られる「花香実(はなかみ)」、
同じ木から紅白の花弁が同居する「思いのまま」などの珍しい品種もある。

約40分、梅林をゆっくり散策した。







バレンタインデー 

February 14 [Tue], 2017, 10:36
今日はバレンタインデー、甘いチョコレートに
一喜一憂している男性達も多いのではないか?

起原を辿ると2月15日、田園と牧人の神ルペルクスをたたえる
古代ローマのルペルカリア祭が最初とされる。

そして兵士の自由結婚禁止政策に反対したバレンタイン司教が、
ローマ皇帝の迫害により、269年に殉教した2月14日の祭日、
この二つが結びつけられて出来たと言われる。

その後、聖バレンティヌスは恋人たちの守護者とされ、
この日は恋人達の愛の誓いの日となったそうだ。

日本では昭和33年頃から流行しはじめ、菓子メーカーがこれに目をつけ
女性から男性にチョコレートを贈るという、日本独自の習慣が生みだされた。

これを昭和40年代後半に、女性向けファッション誌が
取り上げた事により爆発的なブームとなった。

もし酒造メーカーが最初に目をつけていたら、
大人っぽい素敵な記念日になったのではないかと思うのは俺だけだろうか。

今年、娘がくれたバレンタインチョコ!


P R
2017年02月
« 前の月  |  次の月 »
1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28
月別アーカイブ