猪木VSアリ戦 

June 26 [Mon], 2017, 9:22
プロボクシングの元世界ヘビー級王者モハメド・アリ氏が
昨年6月4日、アメリカ・アリゾナ州の病院で死去した。

倒しあいのヘビー級ボクシングにおいて、
「蝶のように舞い、蜂のように刺す」
いわばアウトボクシングの走りのスタイルで一世を風靡したボクサーだった。

そして40年前の今日、1976年6月26日、
総合格闘技の夜明けと言っても過言ではない試合が行われた。

当時の日本のプロレス界のエース、アントニオ猪木と、
そのモハメド・アリによる世紀の異種格闘技戦だ。

アリのリップサービスだった「東洋人で俺に挑戦する者はいないか?
賞金は100万ドル、相手はレスラーでも何でもいい」との発言に
アントニオ猪木が食いついたのだ。

しかしギャラやルールの問題で現実的に無理なのではと懸念されたが
1976年6月16日、ついにアリが来日した。

エキジビジョン気分のアリは大はしゃぎだったが、
猪木の公開スパーリングで、その真剣さを見たアリは危険を察知、
ルールの修正を求めるようになる。

タックル、チョップ、投げ、関節技など、ほとんどのプロレス技は禁止、
条件を飲まなければ試合は中止すると言い渡される。

そして猪木が考え出した策は、
アリの足元にスライディングをし転倒させる作戦であった。

そして幾度となくリングの上に寝転がり、アリの足を集中的に蹴ったが、
このスタイルが変わる事なく15ラウンドが過ぎた。

結果は引き分け、異種格闘技の難しさを露呈し、
「世紀の凡戦」「茶番劇」との汚名を残した。

しかし真剣勝負だったという事がファンを魅了した。
ショーの要素をもっていたら、もっと上手い試合が出来たはずだ。

ここから真剣勝負の格闘技を視聴者は求める様になって行ったのだ。

マイケル・ジャクソン 

June 25 [Sun], 2017, 11:37
2009年6月25日、キング・オブ・ポップ、
マイケル・ジャクソンがこの世を去った。

生前ロンドンで「ディス・イズ・イット」の長期公演を予定しており、
そのリハーサルがロサンジェルスで行われていた最中であった。

俺はマイケルの熱狂的なファンではないが、
そのキャリアと多数のミリオンヒット、社会的に与えた影響など、
「キング・オブ・ポップス」といっても過言ではないスーパースターだと思う。

'67年から兄弟ユニット、ジャクソン5として活躍、世界にその美声を轟かせた。
そしてクインシー・ジョーンズとの出会が、新たなマイケルワールドを構築した。

クインシーが初めて手がけた傑作アルバム「Off the Wall」は
音楽シーンに衝撃を与えた。

その後クインシー&マイケルのコンビは、Billy Jean、 Beat It、Thriller、の
モンスターヒットシングルを収録した「Thriller」で大成功を収め、
PVの概念を変え、ムーンウォークでダンスシーンも席巻した。

続く「Bad」、「Dangerous」でも爆発的なセールスを上げ、
唯一無二のスーパースターとなって行く。

また当時のヒットメイカー達とのチャリティーコラボレーション、
「We Are the World」の作詞作曲を手掛け話題となる。

しかしプライベートでのスキャンダルも付き纏うようになり、
ゴシップが先行する苦しい状況に置かれるようになる。

突然すぎる死から何年たっても、マイケルに関する話題は尽きることがない。
その死因、膨大な遺産の問題、またマイケルの息子だという
男性ミュージシャンが登場して話題にもなった。

死亡してからも彼本来の才能と音楽史への貢献などが再評価され、
マイケルは死後から現在に至るまで、商業的に大成功を収めている。

エルヴィス、ビートルズ、などと並ぶ天才アーティストの一人として
後世永遠に名を残す事は間違いない。

ロケ地を訪ねて るろうに剣心 

June 24 [Sat], 2017, 9:36
和月伸宏:原作による漫画「るろうに剣心 -明治剣客浪漫譚-」を
NHK大河ドラマ「龍馬伝」や「ハゲタカ」で知られる大友啓史監督が
佐藤健、武井咲、吉川晃司主演で映画化。

伝説の「人斬り抜刀斎」と名高い緋村剣心が
明治維新以後、殺さずの誓いをたて、決して人を斬ることのできない
「逆刃刀」を携えて町から町へ流浪の旅を続ける姿を描いている。

三井寺・一切経蔵前に掛かる橋で、
薫と刃衛、剣心と刃衛が初めて出会うシーンが撮影された。

薫を刃衛の魔の手から危機一髪で救い出す剣心の
アクションシーンと三井寺の美しい風景が印象的だった。





新宿御苑の紫陽花 

June 23 [Fri], 2017, 9:37
先日、新宿で飲む前に新宿御苑に寄った。
広大な緑の中を歩き、この時期は紫陽花も良いのではと、
だが新宿御苑には紫陽花があまりなかった。

俺は紫陽花が好きである。
幼少期の我が家のトイレからは美しい紫陽花がよく見えた。
また梅雨時期に母と歩いた時の思い出も蘇る。

「あじさい」の名は藍色が集まった「あづさい(集真藍)」が
訛ったものと言われ、「紫陽花」は平安時代の学者・源順が
別の花の漢字をあてはめてしまったことから誤って広まったと言う。

この花の学名は「オタクサ」、
この学名にはシーボルトと滝の切ない恋物語が隠されている。

長崎・出島のオランダ商館医として27歳の時に来日したシーボルト。
その時に身の回りの世話をしたのが16歳の楠本滝だった。

二人は恋に落ち結婚、長女・イネも誕生した。

しかしシーボルト一行の船から、
国外への持ち出しが禁止されている品が見付かる。

この事によりシーボルトは国外退去、
愛妻と愛娘を残しシーボルトは帰国せざるを得なかった。

後にシーボルトは日本での研究成果をまとめ、世界的な評価を受ける
「日本」「日本植物誌」「日本動物誌」を編纂。

そこにシーボルトが滝と初めて会った時、
机の上にそっと飾ってくれた紫陽花の花も紹介されている。

この大好きな花の学名を「日本植物誌」で、
シーボルトが妻を呼ぶ時の「お滝さん」から
「オタクサ」と付けており、現在も紫陽花の学名となっている。

シーボルトの死後、その部屋にあった地球儀の
日本の部分は擦り切れて見えなくなっていたという。

会いたくても会えない愛しい人の住む日本の場所を、
彼は何度も何度も触っていたのだろう。


あゝ新宿 アングラ×ストリート×ジャズ展 

June 22 [Thu], 2017, 12:23
昨年、早稲田大学演劇博物館で開催された
「あゝ新宿─スペクタクルとしての都市」展の好評を受け、
早くも第2弾が開催された。

今回は「あゝ新宿 アングラ×ストリート×ジャズ」展と銘打ち、
新宿高野ビル6階特設会場での開催となった。

'60〜'70年代の新宿は、アングラ劇場、ATG、サイケなどの
カウンターカルチャーが花開き、
10.21新宿騒乱などの政治的エネルギーにも満ち溢れていた。

新宿展第2弾は、'60〜'70年代を中心に、
演劇・映画のチラシ・ポスター、井出情児が撮影した
状況劇場や新宿の風景を捉えた写真、新宿プレイマップなど、
当時の新宿の熱気を伝える貴重な資料が多数展示されている。

俺は前日に若松孝二監督の「われに撃つ用意あり」を観直した。

1990年の新宿が舞台、原田芳雄演じる主人公が
30年営んで来たバーを閉店させるところから始まるのだが、
そこは10.21を闘った全共闘世代が集まる店なのだ。

若松監督のセミ・ドキュメンタリーとも取れるシーンも多く、
映画はハードボイルドなのだが、一つの郷愁を感じる作品だった。

今から27年前、この頃の新宿は強烈なアジアの風が吹き、
バブルの終焉が、古き魅力的な時代ごと連れ去ってしまった気がする。

本能寺の変 

June 21 [Wed], 2017, 9:01
「敵は本能寺にあり」
天正10年6月2日、1582年6月21日、織田信長の重臣明智光秀が謀反、
京都・本能寺を襲撃し、戦国の覇者織田信長を自刃させた。

この事件に関しては何故、光秀が反旗を翻したのかが定かではなく、
黒幕が仕組んだ陰謀説なるものも多数あり、
日本史上最大のミステリーとなっている。

当時の武将は一族郎党はもちろん、子孫の代に至るまで
氏族の生き残りと繁栄に重大な責任を負っている。

そうした人間が一族を滅亡に追い込む事になるかもしれない決断を、
自身の遺恨や、その場の感情で行うとは考えられない。

信長が無警戒で本能寺にいた事も解せないが、
光秀がそれを知っていたとしても、本能寺で信長を殺害し、
二条城で嫡男信忠を殺し、かつ安土城を一気に占拠するという
シナリオが成功する確率など、本来なら奇跡に近い。

また不思議な事に、これだけの大事件を成功させた後が、
三日天下に終わるというしょぼさだ。

先にも述べたように、当時の武将が生き残れる策も立たない
謀反に踏み切るはずがない。

やはり本能寺の変には、急遽、堺から伊賀越えをして三河に戻った家康、
中国大返しの離れ技をやってのけた、秀吉の関与は否めないだろう。

光秀はその後、秀吉軍と激突した山崎の合戦で総崩れとなり
勝龍寺城へ撤退、山城国伏見郊外の小栗栖で
落武者狩りの土民に襲われ命を落とす。

しかし武勇にたけ、甲冑に身を包んだ光秀が
農民の竹槍に易々とやられるとは考えにくく、
また遺体は誰のものか分からないよう工作されていたともいう。

そんな事から、黒幕は家康で光秀は生き延び
天海大僧正として生まれ変わったという都市伝説的な話も生まれた。

歴史のミステリーにはワクワクさせられる。
光秀=展開説は2013年6月13日のブログに詳しく掲載した。

ベンジャミン・シーゲル 

June 20 [Tue], 2017, 11:09
1947年6月20日夜、カリフォルニア・ビバリーヒルズの邸宅に、
M1カービンの銃声が響き渡った。

愛人ヴァージニア・ヒルの家でソファに座り新聞を読んでいた男は
頭部に9発の銃弾を打ち込まれ絶命した。
美しかったブルーの瞳は4m先まで飛んでいたという。

男の名はベンジャミン・シーゲル通称「バクジー」
不毛の土地だったラスベガスを大きく変えた男だった。

シーゲルは映画「ゴッド・ファーザー」に出てくる
モー・グリーンのモデルとなった人物で、
男前でスタイルが良くダンディーなのだが、凶暴な危険人物でもあった。 
俺はこのシーゲルと安藤組の花形敬がかぶるのだが、魅力的で好きだ。

当時何もなかった砂漠に、楽園を築く事を夢見たシーゲルは、
巨額の金をつぎ込みホテルを建設、それが有名な「フラミンゴ」である。

しかしホテル建設の資金繰りなどで組織とトラブルを抱え、
ランスキーの擁護などもあったのだが、42歳の若さで暗殺されてしまう。

一方フラミンゴには、ハリウッドのゴシップ専門誌、
「ザ・ハリウッド・レポーター」の
ビリー・ウィルカーソンが構想者との説もある。

「フラミンゴ」の名前もシーゲルの愛人
ヴァージニア・ヒルのニックネームだとされているが、
もとはこのウィルカーソンが考えていた名だとも言われる。

ウィルカーソンはホテル建設に資金不足だった為、マフィアの大ボス、
マイヤー・ランスキーの部下、モー・セドウェイに融資を頼んだ。

しかし第二次大戦のあおりをくらい資材が高騰、
建設費が2倍に膨らんでしまい資金難から撤退を考えた。

この時、マイヤー・ランスキーが
フラミンゴ・ホテルの将来性に目をつけ介入したのだ。

こうして1946年2月26日、調印が行なわれ
ランスキーがフラミンゴを実質的に手に入れた。

表に出ないランスキーに代わりシーゲルが、
ホテルの筆頭株主になったといわれる。

いずれにしても男達の夢の塊であったラスベガス、
シーゲル亡きあとフラミンゴを経営したのは、
マフィア仲間のガス・グリーンバウムだった。

その後、フラミンゴは多くの人手に渡り1971年にヒルトンの傘下になり、
93年には開業当初の建物を全て壊して新築された。

シーゲルはラスベガスの繁栄と共に
裏社会の資金源と言う側面も作り上げたのだ。

日米安保条約 

June 19 [Mon], 2017, 9:14
第2次大戦後、アメリカは日本を非武装化し軍事的な力の無い国にした。

しかし米ソ冷戦構造の中、占領した日本の共産化は避けたく、
また、激化する朝鮮戦争もあり、共産化された中国、ソ連の国土などに、
極めて近い日本を軍事的にも重要な拠点と考えるようになる。

そこでアメリカは占領後も引き続き軍隊を日本に駐留させることが出来るよう、
日米安全保障条約を締結して日本への軍事的影響力を残すことにした。

この時日本はこの要求を、自ら軍事費を掛けない軽武装で、
経済大国になるチャンスと捉えた。

こうして1951年、サンフランシスコ平和条約締結の直後、
日米安全保障条約が日米両国の間で締結されることになった。

この旧安保体制は日本を独立国扱いしておらず、
日本には不平等なものであった。

そこで、新しい安保条約が必要との声があがり、
1960年、日本は新安保条約の締結に動く。

アメリカにとっても、日本を自分達サイドに引き留めておくには、
対等な立場のパートナーシップが必要と考えるようになった。

このようなことから、日米安保条約の改定交渉が行われ、
1960年6月19日、新日米安保条約が締結された。

これにより安保条約は、アメリカ軍に基地を貸すだけの条約から、
いざというときの日米共同防衛を義務づけた条約へと変化した。

また在日アメリカ軍は、配備や装備に大きな変更をする際は、
事前に日本と協議しなくてはならない約束となった。
まあ守られてるとは思わないが。

ところが、この安保改定が日本をアメリカの戦争に巻き込むのではと、
国民の間から不安が巻き起こり、60年安保闘争が勃発した。
そして改定交渉を進めてきた岸首相を退陣に追い込んだ。
現首相・安倍晋三の祖父である。

'70年代に入ると、経済成長を遂げた日本に対しアメリカは、
防衛費や防衛分担の拡大を要求してきた。

そしてこれが後に在日米軍の駐留費用の肩代わり、
いわゆる「思いやり予算」なるものを払わされる事になって行く。

こうして、日米共同防衛を軸とする日米安保条約は定着するのだが、
安保の大前提であった冷戦構造のソ連が'91年に解体してしまう。

たが安保は北朝鮮の問題、中国と台湾の問題、南シナ海の覇権をめぐる問題など、
日本周辺の地域紛争問題など他国的な安保体制へ移行していった。

そして1996年、東京での橋本、クリントン日米首脳会談で
日本の防衛と「アジア・大平洋地域の安定維持」のため日米の防衛協力は
欠かせないと、21世紀の安保の役割が語られた。

これをきっかけに、「新ガイドライン」が1999年制定され、
「極東」における深刻な事態発生の際、
日本がアメリカ軍の後方支援を果たす事が明文化された。

さらに、9・11同時多発テロの後、米軍後方支援を可能にした
テロ対策特別措置法の制定、イラクでの自衛隊活動を可能にした
イラク特別措置法の制定など、安保の枠を超えた禁断の場へと足を踏み入れた。

そして従来の日本国憲法第9条解釈と日米安全保障条約では、
米国に日本防衛で米兵を出してもらう代わりに、
米軍基地の土地を日本が貸し出す事で対等な関係とされた。

だが米軍が日本を守るのに、日本の自衛隊は米軍を守れないから
集団的自衛権を行使するとの憲法新解釈は、もはや対等な関係では無くなる。

アメリカが日本を守ってくれるなど、もはや信じてる者などいないだろう。
アメリカの思惑で憲法の解釈を変える事にはもう限界がきている。

そろそろ国際社会で自立した国となる為の話し合いが、
国民を交えて行われてもよい頃なのだが。

我々世代は安保、憲法=政権政党、保守政治に反発という
「昭和的な発想」がありがちだが、
若い世代はもっとクールにみている様で、期待したいものだ。

ロケ地を訪ねて 柘榴坂の仇討 

June 18 [Sun], 2017, 9:35
先日の京都旅行で訪ねた「三井寺」は映画ロケ地の宝庫だ。
たっぷりと定点観測を楽しんで来た。

まずは「柘榴坂の仇討」で使用された三井寺唐院前の石段。
石段の脇には歴代の探題によって奉納された石造灯篭が配され、
美しい画が撮れる場所となっている。

「柘榴坂の仇討」は浅田次郎の短編小説を、
2014年に若松節朗監督によって映画化された。

井伊直弼の近習に取り立てられ、
直弼を慕う中井貴一演じる彦根藩の下級武士・志村金吾。

しかし「桜田門の変」で直弼を守り切れなかった金吾は、
水戸浪士を討ち、直弼の墓前に首を供える事だけに生きる。

映画ではこの唐院が井伊直弼の墓、豪徳寺となっている。

直弼の墓参りをした金吾が去った後に、
桜田門で水戸浪士に加わっていたものの、
既に刀を捨て車夫になり、名を直吉と変え生きて来た、
阿部寛演じる十兵衛が直弼の墓に手を合わすシーンで使われた。



醍醐寺 

June 17 [Sat], 2017, 10:18
醍醐寺は京都市伏見区にある真言宗醍醐派の総本山。
874年、空海の法孫聖宝 (しょうぼう) が山上の上醍醐の地に
堂舎を創建したのが始りで、907年勅願寺、913年に定額寺となった。

山下の下醍醐は延喜末年から伽藍の造営が始り、
931年に金堂、952年に国宝の五重塔が完成した。

文明期に五重塔を除く下醍醐の諸伽藍が灰燼に帰したが、
後に豊臣秀吉の援助で再興された。

秀吉が1598年に催した「醍醐の花見」でも知られ、
古都・京都の文化財として、1994年に醍醐寺を含む
計17ヶ所が世界遺産に登録された。

醍醐寺は、五重塔や金堂がある伽藍エリア、
秀吉によって整備された三宝院エリア、
仏像や絵画が展示されている霊宝館エリアの3つに分かれている。

拝観券は3エリア共通券、雨月茶屋で食事をすると、
三宝院のチケットだけは付いてくるので、三宝院と霊宝館のチケットは
無期限ので、また次回京都に来た時に使おうと思う。

まずは三宝院エリアから廻る。
「三宝院」は国宝の表書院をはじめ重要文化財の宝庫である。

桜馬場の中心には唐門が圧倒的なインパクトで建つ。
黄金に輝く菊花紋と桐紋が美しい唐門(国宝)は、
2010年に1年半という時間をかけて修復され、当時の輝きを取り戻した。



立派な枝垂桜がある中庭を抜けて大玄関から三宝院に入る。
まずは葵の間があり、続いて秋草の間、勅使の間(重要文化財)、
表書院(国宝)と見学して行く。

表書院は、平安時代の寝殿造りの様式を取り入れ、
下段・中段・上段から成る造りをしている。

上段の間の襖絵は四季の柳、中段の間の襖絵は山野の風景を描いており、
下段の間の襖絵は石田幽汀の作で、孔雀と蘇鉄が描かれている。

趣と歴史を感じる襖絵を観ながら庭園へ。
庭園の前に立つとため息がでるほどの美しさ。
見事の一言に尽きる広大な日本庭園は秀吉自らが基本設計をしたと言われ、
そのセンスに豊臣秀吉という人物の感性を見直してしまう。



京都にある国宝級の庭園は、金閣寺、銀閣寺と三宝院だけである。

庭園には大小の石が配置されており、
阿弥陀三尊に見立てられた「藤戸石」は、
信長から受け継がれた天下取りの石だそうだ。

表書院側を「この世」、藤戸石側を「あの世」に表現、
手前側の波模様の砂利は鴨川に見立てられ
炭化した木の石で鴨川の淀みを表現している。

2本の五葉松は樹齢600年以上といわれる天下の名木で、
亀の「静寂」を表しており、亀島と呼ばれている。

亀島の西隣にある島が鶴島で、向かって左側の石橋が鶴の首にあたり、
今にも鶴が飛び立とうとしている「躍動感」を表している。
こうしてみると庭園はまさにアート、時の経つのを忘れる。

そして伽藍エリアに向かう。
桜の時期は見事であろうが、新緑の桜馬場も美しい。

正面にみえるのが仁王門(西大門)だ。
豊臣秀頼が金堂の再建の後、慶長10年(1605)に再建したもの。
ここをくぐると、広大な下伽藍に出合える。



中心である金堂(国宝)は豊臣秀吉の命によって、
紀州(和歌山県)の湯浅から移築されたもので、
主要部は平安末期の様式を完全に残している。
本尊の薬師如来と両脇侍は鎌倉時代の作で、いずれも重要文化財だ。



金堂の前にそびえる国宝の五重塔は、
醍醐天皇のご冥福を祈るために朱雀天皇が起工、
村上天皇の天暦5年(951)に完成した。

京都府下最古の木造建造物で、内部の壁画は
日本密教絵画の源流をなすものといわれている。



五重塔の前にある清瀧宮本殿 室町時代(重文)。
醍醐寺の総鎮守清瀧権現(せいりゅうごんげん)を祀る鎮守社。

永長2年(1097)に、最初に建立された上醍醐より分身を移した。
その後、この社殿の前で清瀧会(桜会)が行われるようになったが
文明の兵火により焼失、現在の社殿は永正14年(1517)に再建されたものだ。



金堂の横にある不動堂・護摩道場。
堂内には不動明王を中心に五体の明王を奉安している。



不動堂の横にあるのが祖師堂。
慶長10年(1605)9月座主義演准后(ぎえんじゅごう)により建立された。
真言宗を開いた弘法大師・空海と、
その孫弟子で醍醐寺を開創した理源大師・聖宝とが祀られている。



醍醐寺、上醍醐、下醍醐の伽藍には、あわせて6棟の国宝、
10棟の重要文化財の建物があり、とにかく素晴らしい寺院である。
P R
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