ニューニコニコ 

March 21 [Tue], 2017, 23:18
新橋駅前にあるニュー新橋ビル。
地下1階から4階までは、飲食店や商店が入り、
高層階はオフィスと住宅になっている。

戦後、新橋駅西口にはヤミ市が広がり
関東松田組などにより「新生マーケット」が設立された。

だが昭和36年、市街地改造法に基づく
新橋駅西地区の都市計画及び都市計画事業が決定され、
昭和41年に新橋駅ビル1号館2号館が、
昭和46年にニュー新橋ビルが完成した。

そして闇市時代の飲食店が収納されていった。
今でも飲食店街は昭和風情満載の素敵な空間だ。



そのニュー新橋ビルで老舗の店がニューニコニコだ。
ビルの地下一階にあり、店内はテーブル8、小上がり2ほど
オープンが11:30と昼から飲める店だ。



ニコニコという店名は、戦後の闇市の時の屋号で、
ニュー新橋ビルに入るときに、ビル名からニューをもらった。
店内にある燗付器、米櫃などは博物館レベルだ。



ホッピー、ホタルイカ、ポテサラを注文、焼酎は錦宮だ。
お客様も昭和の先輩方々で盛り上がっている。



しかし昨年、老朽化の為、ニュー新橋ビルの再開発が発表された。
2023年頃の完成を目指すそうだが、ニューニコニコは閉めると女将は語った。
なんとも寂しい話だ。

春分の日 

March 20 [Mon], 2017, 10:17
春分の日、今日は太陽が真東から出て真西に沈み
昼の長さと夜の長さがほぼ等しくなる。

別名を「彼岸の中日」、暑さ寒さも彼岸までと言われ、
この日から後は冬の寒さが去り春が訪れる、
心も暖かくなるというわけだ。

国民の祝日となっている春分の日には、
「自然をたたえ生物をいつくしむ」という意味がある。

また、お彼岸は先祖を敬い亡くなった人をしのぶ日でもある。
彼岸とは仏教でいう向こう岸を意味する言葉で、
川向こうの悟りの世界へ渡るため、教えを守り、行いをつつしむ期間だ。
これが春分の日と秋分の日と結ばれ、墓参りなどをする行事となった。

この日ぼたもちを食べる風習がある。
ちなみに春は「牡丹」でぼたもち、秋は「萩」が咲くのでおはぎと呼ぶ。

では何故、彼岸にぼたもちを食べるようになったのか?
江戸時代、あずきの赤色には災難が降りかからないとする
効果が信じられており、邪気を払う食べ物としての信仰があった。

これに祖霊崇拝の慣習が合わさり、ぼたもちやおはぎを捧げ、
先祖を慰め、自分自身の功徳を積んでいたのだ。

また春の彼岸は農作業が始まる時期で、秋の彼岸は収穫の時期にあたり、
春には収穫をもたらす山の神などを迎えるためぼたもちを、
秋には収穫を感謝しておはぎを作ったとも言われる。

井上 

March 19 [Sun], 2017, 11:26
築地場外市場にある井上で中華そばを頂く。



築地場外市場で行列を作る有名店。
最近では海外の観光客も増え店先はごちゃごちゃだ。

狭い調理場で手早く造られる中華そばは昔ながらの志那そば。
トッピングは、チャーシュー5枚、メンマ、刻みネギ、三つ葉。

煮干しが香る、あっさり系醤油スープに縮れ細めん、
10人分を一度に作るので、最後の方は麺がのび気味となってしまうのが残念。

チャーシューは、脂身が無く程良い柔らかさで美味しく、
メンマも良い味付けだ。

この場所の雰囲気が、かなりのスパイスとなっているラーメンだ。

グリコ森永事件 

March 18 [Sat], 2017, 9:29
1984年3月18日、江崎グリコの社長が自宅から拉致された。
犯人は武装した3人の男達であった。

犯人グル−プは身代金として現金10億円と金塊100kgを要求するが、
江崎社長が3日後に監禁小屋から自力で脱出して事件は解決したかに見えた。

しかしここから事件は大手食品会社を巻き込んだ
大規模な脅迫事件と発展して行く。

世に言う「グリコ森永事件」である。

江崎社長が保護された以降も江崎グリコには相次いで脅迫状が届き、
関連会社に対する放火、また毎日、読売、サンケイ、朝日、新聞4社に
「グリコの せい品に せいさんソーダ いれた」との声明文が送られた。

またグリコだけでなく、森永製菓やハウス食品などを次々に脅迫。
青酸入りの菓子をスーパーに置き、大量流通消費社会を人質に捕った。
そして犯人は自らを「かい人21面相」と名乗った。

この劇場型犯罪の走りとなった事件には130万人もの警察官が投入され、
犯人像として「キツネ目の男」が浮かび、
犯人に一歩手前まで近づく大捕り物も展開したが
2000年2月全面時効が成立し事件は迷宮入りとなってしまった。

真犯人をめぐっては様々な説が取り沙汰されたが、
そのどれもが確証を得るものではなかった。

そんな中、興味深い話があった。
「くいもんの 会社 いびるの もお やめや…悪党人生 おもろいで」
一連の事件の終息宣言ともとれる犯人側からの手紙が1985年8月12日に届く。

この日は御巣鷹山でのJAL123便機の墜落事故が起きた日である。
この日を境に、送り続けられていた35通の脅迫状と
63通におよぶ警察関係への挑戦通告もぴたりと止む。

そして大阪府警の捜査員が
「キツネ目の男は日航機墜落事件で死亡したようだ」と漏らしたと言う。

たしかに遺体のなかに身元の確認がされない遺体があった。
誰もが不思議に思いながら遺体は合同荼毘に付され、
未だに無縁仏として納骨堂に納められている。

そしてこの機には脅迫対象であったハウス食品の社長も搭乗していた。

浜離宮恩賜庭園 

March 17 [Fri], 2017, 9:24
浜離宮恩賜庭園は江戸時代の代表的な大名庭園だ。



潮入りの池や鴨場を中心にした南庭と、
明治時代以降に造られた北庭からなる広大な敷地の庭園となっている。



ここは寛永年間まで将軍家の鷹狩場として使用されていたが
甲府宰相であった松平綱重が1654年に海を埋め立て
甲府浜屋敷と呼ばれる別邸を建てた。

その後、綱重の子である家宣が6代将軍になったのを契機に、
屋敷は将軍家の別邸となり、名称も浜御殿と改められた。

以来、歴代将軍によって幾度かの造園、改修工事が行なわれ
11代将軍・家斉のときにほぼ現在の姿の庭園が完成した。

潮入の池とは海水を導き潮の満ち干によって池の趣を変える。
旧芝離宮恩賜庭園、清澄庭園、旧安田庭園なども昔は潮入の池であった。
現在では実際に海水が出入りしているのは浜離宮のみである。




そして浜離宮には浜御殿時代に築造された「庚申堂鴨場」と
「新銭座鴨場」という二つの鴨場施設が残されている。

浜御殿の鴨場は家斉が大いに活用したと言われており、
明治時代に再整備し昭和19年まで使われていたとのことだ。

現在鴨場施設が見れるのは全国5ヶ所しかなく東京では浜離宮だけだ。
これは鴨猟をする時に使われた「小覗」と「引堀」いう施設だ。




当時の鴨猟は訓練されたアヒルと鷹を使った狩猟法であった。
それは囮のアヒルを200羽ほど池に放し、木版を叩き撒き餌を使い
「引堀」と呼ばれる細い堀割にアヒルおびき寄せる。

池に降り立った野生の鴨がアヒルの後をついて行き
「引堀」に入って来るのを小覗きから確認、
一定量の鴨が引堀に入ったら入口を閉める。

驚いて逃げ惑う鴨を鷹が空中で捕らえるといった猟だ。
時代と共に鷹は網に代わったそうだ。

浜御殿も明治維新以降は皇室の離宮となり、名前も浜離宮となった。
その後、震災や戦災によって往事の面影はなくなってしまうが
昭和20年、東京都に下賜され整備のうえ昭和21年4月有料公開されるに至った。

四季折々の花を楽しめる浜離宮だが、
現在は菜の花の黄色いじゅうたんが堪能できる。



その本数は、3千平方mの敷地に約30万本、
まさに都会の隠れたオアシスである。

そして入口の近くで堂々たる姿を見せているのが300年の松。
6代将軍・家宣が庭園を大改修した時に植えられたと伝えられている。

高さが10m、正面が17.7m、幹回り4.4mあり、
樹齢300年を誇る都内で最大級の黒松だ。

この松の手入れが春と秋に行われ、
春の新芽を摘む作業を「みどり摘み」といい、
秋に古い葉を手でしごき取る作業が「もみあげ」と呼ばれる。

みどり摘みには4人がかりで5日、
もみあげには4人がかりで10日掛かると言われる。



現在かつて園内にあった複数の建築物の復元計画が進められており、
2010年に松の御茶屋、2015年に燕の御茶屋の復元が完了した。

2016年12月から2018年まで、鷹の御茶屋を復元する工事が行われている。

築地本願寺 

March 16 [Thu], 2017, 10:11
久し振りに築地本願寺へ行って来た。

築地本願寺は浄土真宗本願寺派の寺院で京都の西本願寺の直轄寺院である。
1617年、西本願寺の別院として現在の日本橋横山町東日本橋に建立された。

「江戸海岸御坊」「浜町御坊」と呼ばれていが明暦の大火により本堂を焼失、
焦土と化した江戸の区画整理の為、幕府は同じ場所への再建を認めなかった。

そこで佃島の門徒が中心となり、本堂再建のために海を埋め立てて土地を築き、
1679年に再建「築地御坊」と呼ばれるようになった。
この自ら土地を築いたという事から地名の「築地」が生まれた。

だが1923年9月1日の関東大震災で再び伽藍を焼失、1934年に竣工するが、
そのデザインは古代インド様式をモチーフとした建物となった。



当時の宗教施設としては珍しい鉄筋コンクリート造は、
東京都慰霊堂、靖国神社遊就館、湯島聖堂などをデザインした伊藤忠太によるもの。

そのスタイルは今観ても斬新かつ荘厳で、
本堂は重要文化財に指定されている。

丸みを帯び本堂の屋根のモチーフは菩提樹の葉、
その中央に描かれているのは仏教のシンボルの花でもある蓮の花だ。
その内部は一転、本堂は浄土真宗独特の寺院様式となっている。



石造り、古代インド様式、パイプオルガン、ステンドグラス、
細部の凝った意匠、イス式の本堂、漂う香り、
個性豊かな独特の雰囲気をもつ空間は他では味わえない寺院だ。

ロールス・ロイス 

March 15 [Wed], 2017, 16:43
自動車の登場は18世紀のイギリス、
産業革命で世界の先端を行っていたイギリスは
石炭という新たな資源が登場し、
蒸気機関が工場の産業機械の動力として活用され始めた。

その蒸気機関を原動力とした乗り物として考えられたのが自動車である。

しかし当時の蒸気自動車は振動がひどく、
道路を傷め、さらには馬を驚かすと評判が悪く、
車に不利な「蒸気自動車法」という法律が出来る程だった。

この法律はイギリスの自動車に対する取り組みを遅らせ、
後発だったドイツやフランスに先を越される原因となったのである。

そして1886年、現在の自動車の原点であるガソリン車、
「ベンツ パテント・モトールバーゲン」が登場した。

イギリスでヨーロッパ車の輸入代理店C.S.ロールスを営んでいた
チャールズ・ロールスとクロード・ジョンソンも、
そんなイギリスの車事情を懸念していた。

そんな時、優れた車を製作していたF.H.ロイス社の、
フレデリック・ヘンリー・ロイスに目を付けたのだ。

そして1906年3月15日、C.S.ロールズと
ロイス自動車部門の合同でロールス・ロイス社がが設立された。

ロールス-ロイス設立後にはクロード・ジョンソンも取締役に就任、
事実上ロールス・ロイスのブランドイメージを一手に引き受けた。

当時の人気イラストレーター、チャールズ・サイクスの作品を
カタログに採用、ロールス・ロイスのボンネット上にあるマスコット、
「恍惚の精霊(Spirit of ecstasy)」のデザインも彼のデザインだ。

ちなみにあのマスコットのモデルは、
ジョンソンの秘書であり愛人のエレノア・ソーントンだそうだ。

俺は子供の頃に、初めて知った外車の名前がロールス・ロイスであり、
サンダーバードでペネロープも乗っていた、
超高価なスーパーブランドのイメージだった。

ちなみに現在の高価な市販車ベスト10は次の通りである。

ランボルギーニ・ヴェネーノ 4億3,200万円

ライカン・ハイパースポーツ 3億6,700万円

ブガッティ・ヴェイロン スーパースポーツ 3億6700万円

ケーニセグOne:1 2億1,600万円

ランボルギーニ・レヴェントン 1億7,200万円

アストンマーチン・One-77 1億4800万円

パガーニ・ゾンダ・チンクエ ロードスター 1億4800万円

バガーニ・ウライア 1億4000万円

フェラーリ・フェラーリ 1億4000万

ケーニグセグ アゲーラR  1億2800万円

築地場外市場食べ歩き 

March 14 [Tue], 2017, 22:58
只今、揺れに揺れている築地市場、
東京都内に11ヶ所ある東京都中央卸売市場のひとつだ。
その規模は日本だけではなく世界でも最大である。



江戸時代から親しまれた日本橋魚河岸をはじめとする市場群が、
関東大震災で壊滅したのを受け、隅田川や汐留駅といった、
水運・陸運に恵まれていた海軍省所有地の旧外国人居留地に
臨時の東京市設魚市場を開設したのが始まりだ。

市場の食堂棟が、グルメ番組に取り上げられた事を切っ掛けに観光化し、
減少していた市場の売り上げに貢献した。

場内市場と築地市場に隣接した場外市場があるが、
場内は業者販売を前提とした店であり、場外市場は通常の商店街と同じく
一般客や観光客を相手にした店が多い。



新大橋通りと晴海通りとの交差点から市場にかけての
場外市場で食べ歩きを楽しんだ。

まずは 「吉澤商店」の松坂牛メンチカツ 350円。

高級和牛松坂牛を使用したメンチカツはトロトロで、
逆に言うと美味しいのだけれど、メンチカツの歯ごたえは無い。



「斎藤水産」の生牡蠣 400円。

「斎藤水産の牡蠣は右に出る者はいない」と親父さんに呼び止められ、
食べた手のひらサイズの生牡蠣は新鮮でぷりっぷり、絶品だった。
他にも、えびやホタテ等も食べられる。



「幸軒」のしゅうまい 150円。

路地奥の中華屋「幸軒」、露店では自慢のシュウマイが売られている。
おにぎりサイズで肉がぎっしり詰まったシュウマイは
旨みと甘味が濃縮された肉汁がたっぷりで美味しかった。



「丸武」の卵焼き 100円。

大正末期創業の老舗卵焼き店、テリー伊藤の実家としても知られている。
こだわりのだし汁たっぷりの厚焼き卵は、俺には甘すぎる感じだ。



「うに虎喰」のウニのせほたて串 1000円。

うに専門店の「うに虎喰香」、露店で香ばしく焼かていたのが、
ホタテが2個串に刺され、その上にうにをたっぷりと塗った串物。

1000円と高かったのだが、その香りに思わず買ってしまった。
最後にうにをバーナーで炙ってから出されるのだが美味しかった。

横の路地のカウンターで食べれるのだが、
そこには馬糞ウニやタラバの足も並び1個1本で食べられる。



「佃権」の千代田 260円。

江戸時代より、かまぼこやはんぺんを作って来た老舗。
千代田は練り物に玉ねぎを入れベーコンを巻いて揚げたもの。

玉葱の甘味とベーコンの香りがマッチして、練り物の感じではない。
美味しくて大きくて食べごたえ満点、ただ紙を巻いても手が油でベタベタだ。



ビール片手に食べ歩き、お腹もいっぱいになり、
昭和たっぷり風情の路地歩きも満喫した。

築地移転にあたり、場外はどう変わって行くのだろうか。

コカコーラ 

March 13 [Mon], 2017, 9:28
薬剤師Dr.Penbertonは新薬の開発に取り組んでいた。
ペンバートンの目に止まったものは当時話題になっていた
「奇跡の植物」コカであった。
その結果生まれたのが「フレンチ・ワイン・アンド・コカ」である。

そして禁酒法時代に「禁酒用飲料」の開発を続けていたところ、
店員が水を加えるところ、間違えて炭酸水を混ぜてしまい、
1816年、禁酒用飲料、後のコカ・コーラが完成するである。

その後企業家E.G.キャンドラーがこの事業を引き継ぎ、
味に優れたコカ・コーラは、キャンドラーの手腕もあって一躍有名になる。

一人の男の熱意から生まれたこの飲料水は、その後1世紀以上も愛され
今なお王座に君臨し続けているのである。

コカコーラが日本に登場するのは大正時代からだ。
大正3年に詩人・高村光太郎が、詩集の中で紹介し、
大正14年には芥川龍之介が、修善寺温泉から
佐佐木茂策に送った手紙に、その名が登場する。

一般に広まったのは戦後になってからである。
昭和33年1958年4月にファンタが発売された。

昭和37年になるとコカ・コーラの自動販売機が登場、
昭和39年コカ・コーラホームサイズ(500ml)を発売、
「三杯飲んでもまだあまる!」がキャッチコピーだった。

昭和40年10月 コカ・コーラ250ml缶を発売、
当然リップはなく2つ穴を開けるタイプ。

昭和40年代にはいると、コカ・コーラは怒涛の
キャッチフレーズキャンペーンに打って出る。

昭和41年「スカッとさわやかコカ・コーラ」
「コークと呼ぼうコカコーラ」
「意見が合うのはコカ・コーラだけ」
「ハッピーエンドに終わらせるのはコカ・コーラだけ」

昭和43年テレビCMにフォー・リーブズ、
ワイルド・ワンズ、ピンキーとキラーズを起用。

昭和49年12月コカ・コーラ1ℓボトルを発売。
昭和51年10月「Come on in.Coke」キヤンペーン開始。                
昭和56年4月「Yes Coke Yes」キヤンペーン開始。
昭和60年3月「Coke is it」キヤンペーン開始。
昭和62年4月「I feel Coke」キヤンペーン開始。
平成5年2月新スローガン「ALWAYS COCA-COLA」

そして今日で 瓶詰コカ・コーラの販売が開始されて
131年が経つ。

このボトルは未だに俺の手元にある、
1981年に販売された東京コカコーラ25周年記念ボトルだ。

アンネ・フランク 

March 12 [Sun], 2017, 9:37
「神様が私を長生きさせてくださるなら、私は世界と人類のために働きます。
戦争が何の役に立つのでしょう、なぜ人間は仲良く暮らせないのでしょう。」

第二次世界大戦でナチスに捕らえられ、ベルゲン・ベルセン強制収容所で
15年の短い命を落とした、アンネ・フランクが綴った日記の一文である。

誰もが教科書や児童文学書で目にしたことのある「アンネの日記」。
この日記は若年者が、戦争、人種差別、ホロコーストなどについて考える
切っ掛けとなっており、今でも全世界で売れ続けている。

収容所から解放されたアンネの父オットー・フランクが、
支援者から娘が残した日記などの文書を遺品として渡され、
この文書を製本、私家版としてごく少数の者に配られたのが最初だ。

やがてこれが評判を呼び、1947年にオランダ版が出版され、
「アンネの日記」として各国語に翻訳された。

アンネ・フランクの一家はファン・ペルス夫妻と息子のペーター、
歯科医のプフェファーの8人で1942年からの約2年間、
ナチスの迫害から逃れるため窮屈な隠れ家に息を潜めて住んでいた。 

アンネがここで過ごしたのは、13歳から15歳であり、
日記は主にこの2年間に記されたものである。

そして1944年8月4日、何者かの密告によりゲシュタボが隠れ家を急襲、
一家は男女別々にされ収容所に移送された。

アンネ、姉のマルゴット、母親、ファンダ−ン夫人はアウシュビッツに、
その後母親をアウシュビッツに残し、姉妹はベルゼンへ移送された。

アンネの最期は数少ない目撃者からの断片的な証言があるのみではあるが、
不潔な収容所の中で体力の衰えた姉妹はチフスにかかり、先に姉のマルゴが、
そして1945年3月12日、遅れてアンネが息を引き取ったとされている。

また他の隠れ家メンバーも父親のオットー・フランクをのぞいて全員が
ナチスの強制収容所で死亡した。

死と絶望が日常的なアウシュヴィッツ収容所内、
また移送されたベルゲン・ベルゼン収容所でも、
最後まで生きる希望を捨てる事なく、前向きな姿勢であった事が、
アンネの日記に記されている。

そしてアンネが15年の生涯を閉じた2ヶ月後に戦争は終わった。。
P R
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