台東区さんぽ「根岸A・円光寺周辺と御行の松」

September 14 [Fri], 2012, 9:00
台東区さんぽ根岸A円光寺周辺と御行の松化地蔵尊全得寺下谷31柳通りの信号を東方、千束方面に曲がり、ひとつ目の信号を過ぎたところに化地蔵尊全得寺があります。
何度もこの前を通っていたのに、これまで気がつかなかった小さなお堂でまさに化地蔵です。
ここは全得寺という名前がついていますが、小さなお堂があるだけです。
なんでも、かつては吉原近くにあって遊郭通いの客にいたずらされるため、あっちこっちと場所を変えたことから化地蔵の名がついたとか。
全得寺は、高山全得寛永16年1639寂が開山となり寛永11年1634創建、戦後に再建され今日に至っています。
新編武蔵風土記稿に次の記述があります。
全得寺同宗禅宗曹洞派浅草白泉寺末、金峯山と号す。
本尊釈迦、八寸、恵心の作。
開山高山全得、寛永16年正月3日寂す。
瀧野遊軒の木像を置。
其墳墓もあり、遊軒は寛政年間の人にて、武術に長せるを以て世に聞ゆ。
お化け地蔵の詳細な由来は、次のとおりです。
松原松之丞という旗本が上屋敷につかえる小菊と逢瀬を重ねた。
仲を怪しんだ松之丞の妻は小菊を全得寺へ誘い出し、境内の松に吊り下げて自殺に見せかける。
だが吊り下がっていたのは不思議にも地蔵尊であつた。
これにより、身替わり地蔵として今も言仰を集めています。
fhatenanejpchalice56E4B88BE8B0B7E38080E585A8E5BE97E5AFBA根岸の化け猫また、全得寺には根岸の化け猫という次の話が伝わっています。
文政の頃、根岸芋坂に元右衛門という強欲な百姓がいた。
隣りの金杉村伊五平に5両を貸したが、50両に偽造し財産を奪った。
伊五平は飼い猫に全て話、全得寺に猫を預けて首吊り、その後元右衛門は野良仕事中に猫にかまれた部分がうみ、更に高厳寺の狸にばかされ掘りにほおりこまれ死亡、一方元右衛門の妻お元と娘が残る。
お元が女中に出るが、かっけとなり帰宅せざる得なくなる。
更にお元に奇妙な猫がつきまとうので本人が遠くに捨てにいく。
帰ってこないので皆で心配していると猫がお元の腕を加えてくるという。
硯の資料館根岸33メゾン根岸201号室。
古今東西の珍しい硯を展示。
入場は無料ですが事前連絡必要です。
庚申塔根岸小学校根岸39鴬谷駅前にある笹の雪の前、尾竹橋通りを挟んで向かい側に根岸小学校があります。
根岸小学校の正門に近い塀に、観音様を中心として三基の庚申塔が祀られています。
ここにあるのは寛文期のもの2基、元禄期のもの1基、そして青面金剛です。
庚申は干支の組み合わせで、申さるだから、しばしば見ざる、言わざる、聞かざるが彫られています。
庚申講を3年続けた記念に建立するという約束もありました。
庚申の夜は、男女の同衾や肉食を禁じており、その禁を破ってできたのが石川五右衛門だという俗説も生まれました。
wwwtaiseicojpaboutuslibrarycolumntower20101266480222031html円光寺藤寺根岸311円光寺は、開基ともなった周足院月相一円を追福するため、東峯が開山となり元禄12年に創建しました。
東都歳時記で讃えられた藤棚があり、通称藤寺とよばれています。
また、ここには庶民信仰の面影を残す禁酒地蔵本堂左脇や六地蔵なども残っています。
本堂前の庭の観音様の下に羅漢が安置されています。
orangezerojpkkubotabirdnegishihtm千手院根岸312うぐいす通りを西に進むと、千手院があります。
千手千眼観世音菩薩俗称は千手観音を本尊とするところからこの名が付きました。
お彼岸にのみ開く五智堂や、庭園が有名です。
また、平成19年にはうぐいす通りに面してほほえみ観世音菩薩が建てられました。
千手院は、1595年中野宝仙寺末として嵩c小柳町に創建、1696年当地に移転しました。
永称寺根岸312永称寺は、浄念俗称和久勝之進、宝治2年卒が開基となり創建したと伝えられます。
歳寒三友図三つで一組という三幅対という形式で梅の図を酒井抱一、竹の図を大窪詩仏、松の図を谷文晁が描いたものです。
伝統的な画題ながら、それぞれの画家の特徴を見出せる佳品。
書画会の席上において即興的に描かれた絵画だと思われます。
文化文政期18041830の文人の交流の証拠としても欠かせない作品です。
酒井抱一筆の俳書聯れん酒井抱一17611828は、姫路藩主酒井家の次男でしたが文学芸術を好み、37才で出家して文人生活に入りました。
光琳派の画家であり、俳人としても著名な人物です。
文化6年1809から死去するまで下谷金杉大塚村現根岸5丁目に居住しました。
この住居を雨華庵といいます。
雨華庵の近所の永称寺とは交際があり、この聯れんだけでなく、抱一筆の絵画俳書が永称寺に現存しています。
聯とは書画を記して飾りとする細長い板で、柱や壁に2枚一対で掛けられます。
本聯は2枚一対ではなく、一枚の板の表裏両面に漢詩を記した珍しいものです。
時節に応じて片面ずつを利用したのでしょう。
また、大きさも寺院に掲げてあるものと比較すると小さく、縦1473cm、横210cm、厚さ30cmです。
これらのことから考えると、この聯は抱一が雨華庵で使用していたものが、後に永称寺に伝わったものと考えられます。
聯には、表面に不覚年命日夜去年命の日夜に去ることを覚えず裏面に自作自励求常住自作自励して常住を求めよと彫刻されています。
人間は忙しく過ごすうちに、一生を終えてしまう。
自ら努力して一つの地に居を求めよ、という意味です。
雨華庵で充実した時間を過ごそうとした抱一の心構えをうかがうことができます。
抱一の筆による聯は他に類例がなく、なおかつ一枚の木材の表裏に彫刻し片面ずつを利用するという珍しい形態の貴重な書跡です。
また、根岸に居住した抱一と永称寺とのつながりを示唆し、区の文化史を考える上でも欠かせない作品です。
wwwtaitocitynetculturebunkazaihaisyohtm西蔵院根岸312西蔵院は、天正19年1591の書類に記載があることから江戸幕府開府以前の創建と考えられます。
根岸の有名な御行の松は、西蔵院の境外根岸49の不動尊の境内にあります。
西念寺根岸313西念寺は、寛永7年1630に誓欄I山上人が創建したと伝えられます。
wwwtaiseicojpaboutuslibrarycolumntower20101264559987406html世尊寺根岸313世尊寺は、応安5年1372豊島左近将監輝時が開基、賢栄が開山となり創建したと伝えられます。
慶安2年には7石5斗の御朱印を拝領しています。
紙本墨書御遺告御遺告とは、平安時代初期に真言宗を開いた高僧空海の遺言書といわれているものです。
25の箇条書きとなっていて、第1条の空海略歴にはじまり、第2条より第25条までは真言宗のさまざまな規約を記しています。
空海の伝記は、平安時代中期より著されていますが、時代が下るにしたがい歴史的事実ではない伝説が加えられ、伝記史料としての価値は低いものが少なくありません。
その中で、御遺告の空海伝はもっとも古く、信憑性の高いもののひとつで、空海の実像を考える際には欠くことのできない史料です。
御遺告の原本は、残念ながら現存していませんが、東寺や高野山等に多くの写本があります。
これらの写本には、最後尾に書写した年代や人物名を記しています。
世尊寺に現存中嶋ひろ 迷惑メールする御遺告の奥書には、寛喜2年1230に東寺の弘賢という僧侶が写したと記されています。
wwwtaitocitynetculturebunkazaimonjyuhugenhtm西蔵院不動堂時雨岡不動堂、御行の松根岸49西蔵院の開山、平真法印より第7世真朝法印に至るまで過去帳や墓碑などに寂年の記載はないといわれています。
しかし、西蔵院に現存する過去帳によれば天明2年17826月、第20世中興祐永和上作成の最古の過去帳には妙永禅尼文正3年10月26日没右塔ハ右者地内ニ有江川八左ヱ門とあります。
これらから推察し諸説を交え推考するに、定かではありませんが当山の開山は1400年代前後ではないかと考えられています。
御行の松江戸期から根岸の大松と人々に親しまれ、江戸名所図会や広重の錦絵にも描かれた名松です。
現在の松はその三代目。
初代の松は、大正15年に天然記念物の指定を受けた当時高さ1363m、幹の周囲409m、樹齢350年と推定されました。
枝は大きな傘を広げたようで、遠くからもその姿が確認できたといいます。
しかし、天災や環境悪化のため昭和3年に枯死。
二代目の松は、昭和31年に上野中学校敷地内から移植しましたが、これも枯死してしまい、昭和51年8月三代目の松を植えました。
戦後、初代の松の根を土中より堀出して保存し、不動堂の中にこの根の一部で彫った不動明王像をまつり、西蔵院と地元の不動講の人々によって護持されています。
御行の松の名の由来に定説はありませんが、一説には松の下で寛永寺門主輪王寺宮が行法を修したからともいわれます。
また、この地を時雨が岡といったところから、別名時雨の松とも呼ばれました。
orangezerojpkkubotabirdnegishihtm薬王寺背面地蔵尊根岸518薬王寺の創建年代は不詳ながら、改撰江戸志には天海僧正寛永20年没の開山と伝えています。
境内には、日光街道に背を向けた背面地蔵尊が安置されています。
この辺りは昭和40年7月まで三輪町だったところで、明治の東京名所図会に、薬王寺は三之輪町十二番地に在り。
當寺には有名なる背向地蔵ありと記されています。
台座を含めると3mはあるようなッポの地蔵像は、境内奥に立っています。
造立は江戸時代初期の正保4年1647と伝えられ、延命、子育てにご利益があるそうです。
背面地蔵の由来は次のとおりです。
18世紀半ば過ぎの明和のころまで、地蔵像は寺の西側を通る当時の奥州街道に面して建っていた。
ところが現在の昭和通りに当たる新街道が寺の東側、地蔵像の後ろの方に開通した。
人々は多く新道を通るようになったので、像は後ろ姿ばかりを人目にさらすようになってしまった。
そこで寺では、像を新道東向きに置き直した。
するとその夜、地蔵尊が住職の夢枕に立って汝、いかなれば我が面を東に向かわしめたるや。
そもこの寺の西辺は古陸奥への駅道なり。
我はその道に臨み西に向かい立ちたるなりと告げた。
住職はすぐ像の向きを元に戻そうと石工を呼んだところ、石工も同じような夢を見たというのです。
参詣人は昨日東向きに立っていたお地蔵さまが、今日は西に向いていると驚いた。
これが評判となって、背面地蔵の名が江戸中に知れ渡るようになった。
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