文学の文学性について 

2008年01月12日(土) 8時14分
文学の文学性とは何か?それは文学が文学である限り、人が生きるということの隠しえない中身を、その生の中身、内容物を開陳することなんやな。生きることの中身、生の内容物というんは、結局、つまるところ、おれに言わせれば、倫理なんやな、これは。生きることの法だ。文学が表現するのは、あれこれの形式や方程式やない。それはなまのままの生の、具体的な、新鮮な、真新しい話である。だからこそ、それを読むもんはそこから普遍性や絶対性というような確からしいようなものは何も得ることはできん。そんなものは確からしいように見えるだけで何も確かなものやないし、そうであればこそ、文学によって表現されるに足る題材ではない。結局、確かなもの、堅固なものいうんは、生きられた何か、そこに確かにあった何かしかないんや。人の世というんは、いたるところ微分不可能な関数みたいなもんで、人の世の、あるいは人の人生のどの点を取ってきても、そこから先、どこへ向こうとるんか、上がるのか、下がるのか、何もわからへんのや。それが人生やいうのに、そこから一般化された方程式が導出されるなどという、手品にも見た技ができるわけないんであって、あれこれの具体的情報をその方程式の変数に代入すれば、そこから確かで普遍性を持った解が得られる、なんてわけはない。だからこそ、倫理というものはわからへん。倫理と言うからには、何かすべての人に法を課すんである。しかし、そんな倫理というものは、物理学の世界にこそあったとしても、この不定、不可解な人の世にはあるべくもない。
だから文学がある。ただ文学だけが、人の世に倫理を示そうとしている。少なくとも倫理を示そうと試みる権利を有しとる。生きたことないもんが、倫理を語ることはできん。要すれば、倫理はただ語ることだけでは示されるもんやない。そう、倫理は生きることによってのみ語られうるのであり、示されうるんやろう。
だから文学がある。文学は生きられたものの何かであり、生きられたことによって、はじめて何がしか明らかにされた何かなんだ。それに書かれとんは、ウソかほんまか、虚構か事実か、それはわからん。というか問う必要もない。ウソでもほんまでもええ。どのように描かれてあったとしても、直接にか、あるいは間接にか、何がしかの本音があるはずなんだ。人間の心が必死に感じたもの、心が言おうとした言霊があるはずや。それがわかる人にはわかる、聞こえるもんには聞こえる、そういうものなんだ、文学を読むという行為というもんは。
だから文学がある。人が生きとるということを伝えたいから文学がある。人はただ自分独りにしかない生を、ただ独り生きぬいとるはずなんだが、その生の体験を共有したいと思うもんなんかも知れない。人は人を裁けへんし、誰も人によって裁きを受けることはないけれども、それにもかかわらず文学という場は人生の法廷や。なんで、人間は自分をそのような生の法廷に引きずり出さずにはおれへんのやろうか。心に罪悪感があるんやろうか。とにもかくにも、文学は法廷のような場所であって、誰にも裁かれるはずのない人の生は、ただそこで、そこでだけ全面的な観察にさらされているんだ。

生きることについて 

2008年01月10日(木) 19時32分
寒さのせいか、人間の生について考える。
人間の心に宿る執着というものは、人に苦悩を教えてくれる。人間が生きるということはいろんなものへの執着を生きるということであって、その執着が生み落す苦を味わうということやな。ただし、執着する心は同時に喜びの母でもあって、執着心がなければ喜びも幸福も一切ない。となれば、人間が生を生きることの意味は、執着する心を中心に渦巻いている何かなんやろう。もちろん、いつまでも執着することはできない場合もある。人の世に生きている限り、おのれ自身を金縛る執着の糸を断ち切らなあかんことだってあるんや。そうやって自分の心からほつれ出てくる執着の糸を、自分の手で断ち切り断ち切り、すり減らすのや。生きることの哀しみも喜びも、人生の荒び(すさび)はここにあるんやないかと。それで人は気づくんやな。ああそうかと。生きるということはそういうことかと。人がこの世に一たび生を受け、三千世界に生まれ落ちたことの味わいというもんは、こうして自分の心が絶えず繰り返し突き付けてくる鋭く浮き出た刃のような命法「哀しめ、喜べ!」という血しぶきにも似た唸りに、文字通り身を苛まされるように哀しみ、喜ぶ姿なんやろう。人の世の哀れと言うも、をかしと言うも、またこの影射す姿なり、というところか。
そして文学と言うもんは、この自覚に立った精神が、人間の裸身(はだかみ)の生にそっと近く寄り添って描き出すもんなんや。だから真正の文学は、読むもんの心にぐっと迫ってくる、読むもんの心を汗ばんだ手でさすってくる、生身の人間に触れさせてくる、そういう生々しい凄い迫力をもっとる。もっとらなあかん。それは、われわれ読むもんを救ってくれるようなそんな殊勝なもんや全然ない。むしろこれでもかと生きることを迫ってくる、脅迫にも似たもんなんや。「それでも生きるのか?」と。お前の生きとる人の世、人の生とは、こんなところやと。こういう哀しみ、喜びの静かに満ち満ちた場所なんやと。「わかっとんのか?」と。そしてそれが我々に残していくもんは、全くわからへん。人生が我々に置き残していくもんは、あるのんかないのんかもわからへん。そういうもんや。そういう不思議さ、生きることの不思議さ。結局のところ、終わりまで行って見ても、何があったのか、何が残ったのかわからない、あるいは実際に何もなく、何も残らなかった、いや残さなかったのかもしれん。もしそうならば、なんちゅう酷さ(むごさ)か、爽やかさか。生きるということは、なんという酷さか、爽やかさか!

世界の不思議 

2007年12月21日(金) 16時42分

この世界は、案外はっきりしている。解を与えることができる問とそうでない問がある。たとえば、明確な対象(目の前のパソコン、本、机など)を支持して、その明確な特徴を論理的に描写することができる。これは、世界の状態についての明確かつ明白な解である。それに対して、時間とは何か、私たちが忘れ去ったような過去はどんなものか、正義とは何か、真実とは何か、神は存在するのか、といった問題には、明確かつ明白な解が存在しないということに、近代哲学は気付いている。解が存在しないということは、一意的な解が存在しないということである。つまり明確かつ明白にこれが答えだ、として単一の解を与えることができないというのである。多義的な問いであると言い換えることもできる。
思うに、動物たちの認識というのは、一意的な解を与えることができる問によって構成されているのであろう。たとえば、あそこにウサギがいる。ここにドングリが落ちている、という風に。しかしながら、我々人間というのは、そういった問いの他に、多義的な問い、答えのない問について考えを巡らすものであり、その認識の構造は半分以上そういった問いによって構成されているのである。人間というのは、愚かで美しい。答えのない問に支配された認識に縛られて生きているのだ。
たとえば、神は存在するか、という問いに対しては、答えることができない。するともしないとも言えない。つまりその答えは明確かつ明白に認知できるものではない。神の存在の問題とはそういう問題だ。それはただ、認識の問題を超えた問いなのだということだけが明白な事実であろう。したがって問いの形式は、信じるか否か?に置換される。
それは単純な認識レベルを超えて、意思の領域に入り込んでいる。
それにしても、神の存在とは不思議なものだ。その不在性(いるともいないとも決定できないこと)こそが神の存在の特徴であり、存在の形式なのだ。不在の効果が最大限に引き出されている。
どこにもいなくて、どこにでもいる。どこにもいないから、どこにでもいる。それは何か?神と死者だ。
まるで仏像か地蔵か何かのように、神の存在に一義的な解があったならば、神の力の効果は半減してしまうだろう。神の不在は神の業をほとんど無限大に増大する。つまり、神の存在の問題は感覚の問題でもある。神の存在は明確かつ明白ではないけれども、その存在はいたるところで間接的に与えられている。世界のすべての不思議、美、感動、悲哀、わびさびに神の存在は隠れている。神の存在を“信じ”たとき、神の存在を認知することが可能となるように思えるのは、そのためなのだ。
神はわざと隠れているのだ。そして時々その姿の一端を現象の背後から垣間見せては、ほくそ笑んでいるのだ。

静けさについて 

2007年11月23日(金) 4時02分
ここ2,3日、久しぶりに空が晴れ渡っている。夕焼けがとても綺麗だった。夜は満ちていく月が明々と浮かんでいる。暗い空に明るい月が浮かんでいる。それは静けさだ。静けさというやつなのだ。
そもそも、一年のうちで少なくとも2回、空が静まりかえる季節がある。ひとつは冬の月夜であり、もう一つは夏の入道雲の空である。それぞれ違うが、静けさをたたえていることにおいては、共通している。もちろん、静けさの質は異なっている。
冬の月夜の静けさは遠い。夏の入道雲の空の静けさは広い。
冬の月夜の静けさは遠い静けさ、私と月夜が向かい合って、一直線に結ばれている。だから遠いと言う。月を見ている私がいてい、月があって、月を見ている私を月が照らしている、そういう関係性だ。
夏の入道雲の静けさは広い静けさ、その広さの中に私がいて、あまりの広さに埋もれてしまう。そして私はなくなり、空がすべてを覆いつくしてしまう。それは神々しさだ。崇高なのだ。
静けさというやつは、無言なのではない。静けさはその沈黙を通して、私に向って何かを投げかけている。語りかけている。神の言葉というものはそういうものだ。それは沈黙ってやつなのだ。沈黙っていう言葉なのだ。だから静けさに向かって耳を傾けるのは勇気のいることには違いない。
今夜もまた静けさが聞こえる。

タトゥー 

2007年11月21日(水) 5時57分
ロシアでも例にもれずタトゥーが流行っている。そういえば、そういう名前の歌手もおったっけ。それで今日、日本語を勉強しているロシア人に会っていたんだが、そいつがあるロシア人のおじさんから、タトゥーに入れるのにいい漢字を教えてほしいと頼まれたらしい。ということで、僕に相談が来たわけだが、何がええかと考えてみた。
結局、「毘」か「風林火山」にしとけ、と忠告し置いた。どちらも日本の偉大な武将が自らのトレードマークというか、思想を体現した言葉としたものである、とはうまく伝えられなかったが、いずれにせよ、ロシア人のおっさんが、「愛」とか「魅力」とか入れるよりも、だんぜん格好いいだろうよ。
特に「毘」と入れたロシア人に会った日には、感動すら覚えるに違いない。上杉謙信もあの世から眺めて、愉快を感じることだろう。
写真はモスクワ大学だ。

ヴォルガ川の景色 

2007年11月20日(火) 4時33分
これは夏に行ったヴォルガ川の島で。

露西亜の冬 

2007年11月20日(火) 4時13分
ロシアの気温は、マイナス5〜7度。一日に何回も雪が降る。降ったりやんだりしている。雪っていうのは雪の結晶であって、雪の結晶というのは六角形の雪印なのだ。だから、雪が降り始めると僕は自分のジャンパーを見る。そこに模様のように張り付いているのはすべてが雪印なのだ。なんだか嬉しいのだ。
とにかく、冬将軍がやってきた。僕は市場に行って冬支度を整えてきた。分厚いジャンパー、ニット帽、中に綿がついている長いブーツ、股引、靴下、靴の中敷き。これだけあれば大丈夫、だと信じている。

さて、今日はこのブログを見ている数少ない読者のために、簡単ロシア語講座を開くとしよう。
「ロシア語〜愛の言葉」
・ヤ リュブリュー ティビャー カーク ヴォトカ(僕は君をウォッカぐらい愛してる)
・トゥィ タカーヤ クラシーヴァヤ、リヴニーヴァヤ(君はなんて美しくて、嫉妬深いんだ)
・エイ、クラサーヴィッツァ!(よう、そこのかわいこちゃん)
・トゥィ ヴァアプシェー ハローシャヤ(君はだいたいにおいて素晴らしい)
・トゥィ スメシノー(君はおかしいね(笑えるね))

ロシアに秋はあるか? 

2007年09月15日(土) 20時43分
昨日は雨降って寒かったが、今日は雨がやんで曇り空。
いつも秋を楽しみにしとったのに、こっちに来たら秋がない。
いや、あるにはあるが、ほとんどない。
日本の秋は空が澄んで高く、爽やかな風が涼しく、肌寒く通り過ぎるのがいい。でもこっちは天気が悪いから、秋は秋でも良さがない。
時々晴れたらやっぱり秋は秋。綺麗で気持ちいいのだ。

西瓜 

2007年08月25日(土) 3時56分
既にロシアに来て、2か月以上が過ぎている。
こちらも暑い。
夕方にマンションの下のキオスクで7,6kgの西瓜を買った。
独りで四分の一を食べた。
悲しい味がした。
1kgあたり、100円ぐらいで、高いのか、それとも安いのか
もうわからなかった。
そういうものだ。

キオスクにはなんでもある。
私は7階に住んでいる。
部屋は台所の他に、2部屋。
インターネットまである素晴らしい部屋。

でも、誰もいない。
それでもいい。
そういうものだ。

ロシア人?
奇麗な人もいる。日本人のように。
そういうものだ。

ロシアの生活についても、話そう。
おいおいと。

赤兎馬 

2007年04月05日(木) 16時42分
つい先日、私の赤兎馬(単車)を手放した。
まだ、ぴかぴかのさらピンで、新車のように光っていた。
彼は、よく走った。
エンジンは強く、たくましく震えていた。
秋の日も春の日も、
清涼な大気の中をドドッと駆けた。
私は彼の走りを好んだ。
一緒に走れば、実に心地よいものだった。
だから、今、私は、悲しい。
無論、悲しみを感じている。
だがしかし、
だがしかし、彼はとにもかくにも、私のものだった。
彼は、やはり走っているのだ。
春も、秋も、彼の思うがままに。
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