ニュータイプ読! 

March 01 [Thu], 2012, 13:35
1年ぶりの投稿!
イクニ監督の話からシュルレアリスム、ロ・テストまで。話はあっちこっち。
長文を保存する場所がなかったのでここへ。

***

買ってはいたけどなかなか読めないでいたニュータイプの幾原監督のインタビュー『そう、今「愛」の話をしよう』を読んだ。たった4ページのインタビュー記事ではあったんだけど、なんか腰を据えて読みたい気持ちがあったので。

内容は、濃かった。これだけのために750円払う価値あり。こういう凝縮されたものを読むのってとても贅沢だよね。

「愛」って青年期の課題だよね、って横目でみて納得するような、そういうんじゃなく、自分がコミットしろよって自分に言い聞かせるような、それをじぶんはどう捉えるのかとかそういうの自分で考えろよっていう警告としてもすごく刺激的な作品だった。

「愛」なんてくさくて恥ずかしい、そういう「シニカルやニヒリズムに飽きちゃって」ていう、そういう感覚がわたしにも必要だったな、と思うわけです。

「サネトシはいいことしか言わないですよ、基本的には。」「間違っていない人ほど危うい」「人って本来、矛盾とともに生きているものです。でも、一線を踏み越えてしまう人は“自分は正しい”と信じている。だからどんどんきわどいところへ近づいていってしまうんです」「(サネトシは)正しいことしか言わない。正しいことだけを言う友だち、親友。彼はいつも人を見下していて、正しいことしか言わないんだ。正しい、正しくない、その論を勝負ごとのように競い合っている。(略)そういう人、友だちにいない?ホントを言うとね、僕は彼が大嫌いなんだよ(笑)」

わたしの周りにも矛盾を抱えられない子っているなあ。そういうものを「わからない」と言って、切り捨てる。すごく具体的に思い浮かぶ。論理的には筋が通っているように思えるんだけど、なんか大事なことが抜け落ちている感じ。

そこで、シュールレアリスムの話を思い出した。

”デカルト的主義とは、ひとことでいえば、片寄った理性主義者からなる社会のことである。自分を理性的な存在だとみなし、非理性的なものの前で自分の優越を信じ、これを思うように支配していってかまわないという考えている人々からなる社会のことである。 (やねうらさんサイトより)”

これを批判したのがシュールレアリスムなんですって。

”シュルレアリスムは、こうした西欧の近代合理主義社会を、根源に立ち返って批判した。単に理性主義を退けようとしたのではない。理性と非理性の併存こそ望んでいたのである。相対立する現実、相矛盾する人間の可能性が接近し隣接して、新たな生を発出させること、この事態を肯定し、表現していく点にシュルレアリスム運動の本質があった。 (やねうらさんサイトより)”

シュールレアリスムの活動が活発になった時期があったとはいえ、やはり今の世界では現実は現実でしかなく、理性主義で成り立っているよなあ、と思う。超現実は異端みたいなふうに捉えられているというか。

”アンドレ・ブルトンによると、シュルレアリスムは、夢、驚異、想像、無意識、狂気、偶然に注目する。その方法は、直接浮かんだ言葉やイメージを、何ら修正せずに書き取ること、それこそが心の純粋なオートマティスム(自動記述)であって、思考の実際の動きを表現する。その結果、夢と現実という対立する2つが共存可能で、心が自由に活動できる「超現実(シュルレアリスム)」が獲得されることになるというのだ。ブルトンのこうした思想は、夢と無意識と現実の世界をつなぐ架け橋と見るフロイトの精神分析学に負うところが大きかった。(やねうらさんサイトより) ”

超現実を現実でにじませると途端に異常判定が出るんですよね。ロールシャッハ・テストって。

話が一気にぶっとぶかもしれないんだけど。

心を自由に活動させて、思考の実際の動きをみようとすると、いろいろな想像って勝手に膨らんでいくじゃない。目に見えているものを手掛かりに、点と点をつなごうとする。点と点の空白に何をみるか。

何も見ない人の方が「正常」。というか、他の人と同じくらいの適度ななにかを見ることが「正常」。

そこで想像を膨らませず現実どまりになる人を現実検討能力が高いと「評価」するって、なんか創造の可能性をぶったぎっているような気がしてなんか気に食わない。

想像の世界で話を展開させる人を見て、「形態の認知が歪んでる」と判断するんだよね。歪むってなんなんだろうね。みんなの中に同じ現実があるとでもいうのかね。

なんか話がどっかいっちゃった。まあ、こんなもんでしょ、思考って。

それを誰か、人の目を気にして書く際にはそれなりに体裁整えたりするんだろうけどさ。

大学卒業,一通の手紙 

March 30 [Wed], 2011, 23:13
久しぶりに人の言葉で泣いた。

「泣く」という言葉はファイナルワードだ。「泣く」という言葉を使わずにその内容を表現することにこそ文字にする意味があるし,記憶に残るだろう。

ということで,少しふりかえってみる。

ついこの間,大学を卒業した。あまり深い感慨もなく,私の中ではあっさりと過ぎていった節目だった。
わたしは結構ひとりよがりなところがある。依存を抜け出した途端,これだから困ったものである。

でも,手紙を読んで,「ごめんね,ありがとう」という言葉が口から出た。

すこし,自分のなかでは友達に距離を持っていて(というのも,わたしは自分自身をいくつかの側面に使い分けているから),相手に適した自分の側面との関係だと思っていた。

でも,相手は全人格的に接してくれていたのが手紙を読んでいて伝わってきたし,わたしのひっそり心掛けてきたこともむくわれたり,相手のために自分がなっていたことをフィードバックされたり,なによりわたしを特別扱いしてくれていることが書かれていて,「救われた」。

わたしが救われる瞬間というのはあって,それは急に訪れるんである。
そのときは涙が自然にあふれ出てくる。
そのようにして,今回も救われる瞬間が手紙を読むと同時にばっと訪れて,心の奥底から出る涙を「体験した」。

わたしは一側面的に関わっていて,不誠実な感じがして,申し訳ないな,とも思ったけれど,よくよく考えると私の幅と彼女の幅を考えるに,必然的な関わり方であったと肯定できる。

わたしは幸せ者だな。
このところ,今ハマっているある彼の画像や動画や音声にアクセスすることで簡単な「しあわせ」を手に入れて満足していたけれど,結構,比にならないな,と思った。

「幸せ」にも深さがあるのだなと感じた。
この春休みは浅い幸せに常に浸かっていた。それは簡単に手に入れられて,簡単に消化してしまうもの。
今回の幸せは,深い幸せ。4年間,いろいろなことがあった。たくさんの感情も動いて,たくさんのエネルギーを使った。でもそれを一気に救いあげるような一通の手紙があること,このこと自体がわたしの生きる糧になるんだな,と思った。

ありがとう。大好きで大切な友達。また,わたしの存在価値が一つ増えたようで嬉しかったよ。
わたしも,そんな価値を相手に伝えてあげることが,これからたくさん,できるといいな。
人は与えてもらったものしか返せない,と誰かが言っていた。
わたしはいままで,たくさんのものを与えてもらった。
わたしも返せるといいな,そういう気持ちに私は動かされているんだな,そう,そういうことを気付かされた一通の大事な大事なお手紙なのでした。

平和ボケとはこのことか 

January 24 [Mon], 2011, 12:24
長文を書いてない。考え事をしていない。刺激がやわいのですよ、時間や生活に余裕があって、嫌悪刺激ではなく快刺激に触れているので脳が平和ボケしておりますです

わすれものはお気に入りの中に 

January 24 [Mon], 2011, 12:15
自分の過去の「お気に入り」リンクを見る機会があった。
更新されずに残っているものがあったので。

その内容は、今の「お気に入り」と重複しているものばかりで数も今よりは少ないけれども、チェックしているページが全然違う。

過去のお気に入りリンクその中に、忘れてきたものがあった気がした。

逆に過去のお気に入りの作成者は今のお気に入りをみて、忘れてきたものを見出すだろう。

すぐに目の前のことだけにずぼずぼ入って行ってしまう性質がね...

過去と現在の忘れものをうまく纏める(はずの)未来のお気に入り作成者、期待してる

自分だけのゆるぎない基準を 

January 24 [Mon], 2011, 11:55
あかん、あれやあれや。

いくらはまってしまっても自分の基準は失わないようにしよう。
ラジオにはまったからといって、そのパーソナリティが出ている他の作品なんでもかんでも手に取るのではなく、選り好んでいこう。そうしよう。わすれちゃいけない、だいじなこと。

脳が退化 

January 24 [Mon], 2011, 11:51
"iPhoneを買うとき相当迷った。というかスマートフォン自体への恐れ。いつでもどこでもネットができると脳の構造が変わると思った。でも、持ってみてもいない議論や批判は薄っぺらいだろうからそれなら一回スマフォに飛びこんでみて、最初に足を洗う側になればいい、と父にいわれなるほどと思った。"

これは私が以前に書いた文。

iphoneを買って、半年が経った。

脳は退化した。

いや、これはiphoneのせいなのかありあまる時間のせいなのか。
iphoneの影響というのも少なからずある。寒さというのもある。ハンディに得られる情報で気が済んでいたり。
そしてありあまる時間の中で、思考させられるような複雑な対象に触れることなく、簡便な「すき」「かわいい」「バンバン(机をたたく音)」系の娯楽に流れてしまっていた。そのなかでも経験としてあみだされてきたある種の知恵はありはするけれども、どうも軽さを否めない。

このように長文を書こうとする意欲も起きなかった。
長文を書くということは頭の中でたくさんの考えが浮かんでそれをメモする、ということもしくは書くことで自分の考えを整理しようということである。

なぜそれが減少したか。興味の対象の軽さ浅さもあるが、ツイッターの140文字で事足りるから、というのが大きく存在しているだろう(あと冬寒い)。3つのアカウントを自在に操り、ちょこちょこ実のないつぶやきをつぶやいていた。つぶやくことで、その内容がぱっと昇華されてしまう感じがあるのだよね。だからそれ以上自分の中に貯めて反芻して考えを深めたりすることがなくなる。

思ったことをぱっと口に出すこと、このこと自体も、脳の退化、というか思考回路の軟弱化、を招いているとおもう。

自分の過去の「お気に入り」リンクをさっきたまたま見たのである。なんという...!
とってもまじめ。芸術って言葉、どっかに置き忘れてきてるいまのわたし。でもなんとなく飾り付けの芸術気取りなかんじあったからそれをとっぱらって大衆に歩み寄った。そういう軌跡があったのだな、ということを再認。大衆を取り入れることはたいせつだけれど、大衆に染まってしまうのはいかがなものかと思うね。バランスをすこしづつ取り戻したい。自戒の念も込めて言う。

一応今の状態の自分への言い訳は、「わたしは熱しやすく冷めやすい。なので時間に余裕のある今、思いっきり熱されておこう。4月には冷めているように」である。一体どこまでおちてゆくのだろうか、そして、脳の活性化へ向かうことはできるのだろうか。

あったかくなったらダイジョーブ!って腐ったやわやわ頭が言ってます。

久々の 

January 14 [Fri], 2011, 23:24
うっわあ,すっごい投稿止まってる。人って満ちたりていると文章もあまり書かなくなるのですね。
...と思ったけどあれだ,ツイッター始めたからな。ある程度短文にして書いてるから。アカウントも三つあるし使い分けてだいたいの言いたいこといってる気がする。この誰一人としてみていないブログにひとりで投稿していたのと違うのは,読み手がいること。わたしも成長したな。読み手いないアカもあるけれどもある程度よまれることを承知で書いている。

もうこのブログはわたしにとって意味のないものになっていくのだろうか?生活にかかせなかったこの場所が?
とかいいながらも今書いている,そんなことがそれを簡単に否定するんですがね。

あと最近思ったのが,「www」を連発する一部の層うぜえ ですな。読みにくいし。

どこにいっても文章にしてもろもろの感情や思考を昇華させている。その癖は変わらずあるということで,ではまた。

(無題) 

January 03 [Mon], 2011, 1:05
なんて穏やかな日々!しあわせってこんなもんだったのか

非知識人の知識ネットワークモデル 

November 25 [Thu], 2010, 17:45
わたしの知識のネットワークって、一般的に、無駄、と一蹴されそうなものばかり。そして、必要、ともてはやされているような知識については、なんだか大幅に欠けている。

わたしも社会に生きる人として知らなければならない知識については、積極的になろうと、思いはするのだが、いつも挫折する。

母親は池上さんのよくわかる解説をいつも見ている。その内容ってのは、わたしも過去に社会という科目において勉強していて、完璧に頭に入っていたものであるが、使わないゆえに別の情報に場所をとられ、忘れられていく。

母も一週間後には、同じような内容の池上さんの解説を聞いて、なるほどふむふむと分かった気になっているんであるが。

世の中にはそういう社会人として必須の知識について、興味関心をもって吸収していくことのできる人とそうでない人がいるんだと、思う。。

言うまでもなくわたしは後者であるわけだが、自己が揺らぐような何かがなければ一生このままかもしれない。それを蓄えている意味を実感できる環境にいれば自然と身につくんだろう。そしてビジネスの世界ではなければ取り残されていくんだろうけど、わたしの将来を考えると、、

それで後悔するときが来たとして、必要性を感じたときが一番、効率よく身に入ってくるんじゃないかなー、と、今日も甘い考えをする、非知識人なのでした。

(無題) 

November 16 [Tue], 2010, 13:57
あじゃり餅うまし。京都で並んで買ったけど名古屋タカシマヤの地下でも売ってるそうな。でもこれから先多分名古屋で買うことはなく、次京都に行ったときには、きっとまた買うんだ。

たくさんの情報、たくさんの物、いつでもなんでも手に入る世の中だけど、取捨選択していける力が知識の集大成な気もしないでもない。実物を見る、本物を手にすることでやっと五感は人間らしく働くことを実感した旅でありまして、それは錯覚に生きる人間の生き様でもあって、本質をつかむことの限界を示しもしていた。

これはこうのはず、これはこうすべき、のがんじがらめも立派な人ふうで素晴らしいのかもしれないけれど、そして社会に認められるのはそういうかたまりだとは思うけれど、多少無茶苦茶でもやわらかな姿勢が、‘わたしは’ 好きだなと感じた。
プロフィール
  • プロフィール画像
  • アイコン画像 ニックネーム:pan.
読者になる
昔のブログとか消してやりたいけど、これもあたし・・・
がんばります。
2012年03月
« 前の月  |  次の月 »
1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 31
Yapme!一覧
読者になる