龍馬・土佐藩 京都(河原町)編4
2010.04.24 [Sat] 21:19

龍馬伝見てますか?
この前、本間精一郎が岡田以蔵に切られた話があったので、久々に「龍馬・土佐藩 京都(河原町)編」を追加します。



龍馬・土佐藩 京都(河原町)編3

龍馬・土佐藩 京都(河原町)編2
龍馬・土佐藩 京都(河原町)編1

を見てください。下の地図の@〜Gまでが過去分です。
今回は黄緑のBとHを更新します。




場所は四条木屋町を入ってすぐの所です。そこに「H本間精一郎遭難之地」があります。今でも家の前は刀傷があるんで、それもチェックしてみて下さい。




↑本間精一郎遭難之地。隣は酒屋さんだったと思います。



↑本間精一郎遭難之地碑



↑刀傷の跡。本間暗殺の跡がはっきりと残っています。



越後出身の本間精一郎は、かなり早くから京都中心に尊皇攘夷による活動を行っていました。藩に属していないため長州藩、薩摩藩、土佐藩等の急進派と共に行動していましたが、彼の勝気な性格や能弁家だったため、同士からも嫌われるようになり、文久2(1862)年本間精一郎は先斗町で酒を飲んだ帰りに襲われました。彼を斬ったのが土佐藩の岡田以蔵や薩摩藩の田中新兵衛ら6名と言われています。


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次に土佐藩邸跡です。
内容は龍馬・土佐藩 京都(河原町)編2と同じです。

今回は、古地図で土佐藩邸の大きさを紹介します。下の古地図を見てみると、やはり東は木屋町通り横、高瀬川から西は河原町通りまで土佐藩邸があったことがわかります。上の現在の地図でいうと、丁度青く囲った四角の線にあたります。大きいでしょう。
しかし、薩摩藩や長州藩等はもっと大きくて、さらに藩邸が複数ありました。


土佐藩邸の大きさを知ったことで、一つ疑問があります。それは…



坂本龍馬が暗殺された場所A「坂本龍馬・中岡慎太郎遭難之地(近江屋)」は、真向かいに土佐藩邸があったことになります。ではなんで、本屋「菊屋」の峰吉は、龍馬や中岡慎太郎が切られたことを、わざわざ陸援隊屯所(現在の京大農学部辺り)まで連絡に行ったのでしょうねぇ。目の前の土佐藩に普通は行くものですが…。

峰吉はウソをついてる???





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最後に、今日大阪のディアモールを歩いていると、現在高知で行われている「土佐・龍馬であい博」のキャンペーンが行われていました。その関係で龍馬さんも大阪に来ていました。

思わずパチリ。




 

龍馬・土佐藩 京都(河原町)編3
2009.09.12 [Sat] 11:07

「坂本龍馬・土佐藩 京都(河原町)編」と分類しているため、土佐藩を追加します。
木屋町を三条まで上がったつづきになります。



龍馬・土佐藩 京都(河原町)編(2)
龍馬・土佐藩 京都(河原町)編(1)のつづき





F「武市瑞山先生寓居之跡」&G「吉村寅太郎寓居之址」
三条木屋町を少し上がった所にあります。木屋町姉小路辺り。

「ちりめん洋服 発祥の地」の碑と三つ並んであります。


F「武市瑞山先生寓居之跡」…四国屋・丹虎があった場所をさしています。現在は「金茶寮」という料理旅館になっています。





土佐藩の武市半平太(瑞山)が、土佐勤王党を結成し、京都で活動していたときに仮り住まいとしていた場所です。彼は土佐藩の上士と下士(郷士)の間にあたる白札という身分であったため、郷士と共に土佐勤王党を結成しました。長州藩と交流があったんで、この場所に住んでいたのは頷けますね。

「竜馬が行く」を読んだら、まず始めに男気がありリーダー的存在である武市半平太のファンになることでしょう。



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G「吉村寅太郎寓居之址」…武市半平太が仮住まいとしていた丹虎の隣の家。
後に天誅組に入り、京都で活動していたときの住まいです。


↑後ろの方に碑があります。チョット暗いですけどわかりますか。



↑隣にある狸の存在感がスゴイ!;;




土佐藩・吉村寅太郎はで武市半平太が率いる土佐勤王党に入ります。その後、長州へ行って久坂玄瑞に武市半平太の手紙を渡しています。この彼の行動力が長州藩や薩摩藩等の尊皇攘夷志士達と出会い、土佐藩脱藩、寺田屋事件、そして天誅組に繋がっていったんでしょう。

現在の幕末の志士としてはあまり知られてないですが、当時では有名な志士だ言えるでしょう。
幕末を好きになると、天誅組を気になり始めるんですよね〜。
彼は短い人生でしたけど、沢山の志士達と出会い、行動範囲も広いんで、もっと小説に書かれて、有名になってもいいのにな〜と感じました。



 

龍馬・土佐藩 京都(河原町)編2
2009.09.03 [Thu] 20:03



龍馬・土佐藩 京都(河原町)編(1)のつづき


その立誠小学校周辺に土佐藩邸がありました。

↑元立誠小学校。個性的な建物である。



B「土佐藩邸跡」…元立誠小学校周辺。「此付近土佐藩邸跡」という説明文あり。この小学校がある東角から西に歩いた河原町まで土佐藩邸がありました。藩邸ってすこぶる大きかったのが分かります。
@A書林菊屋や近江屋、そして酢屋等は土佐藩邸の近くにあったことから見て、やはり志士達はその藩の近くに住んでいたのがわかります。龍馬も慎太郎も土佐藩邸近くに住んでいます。



C「土佐稲荷・岬神社」
…木屋町通の土佐藩邸を曲がり蛸薬師通を少し行った場所にあります。
土佐藩邸の近くにあるこの神社内には、小さい龍馬の銅像もあります。当時は土佐藩邸の中にあったようです。一般の人はもちろん土佐藩邸には入ることはできませんでしたが、土佐稲荷には一般の人でもお参りできたそうです。

↑ここが土佐稲荷です。現在はこの場所に移築されました。



↑龍馬像。ドロドロに崩れてました;; 以前見た時も劣化が激しいっす;;顔が・・・
(現在、新しい龍馬像になりました。)



↑龍馬の写真が土佐稲荷内にかけられています。





そのまま木屋町通を三条方面に向かって歩きながら、ふと右側を見たときに発見!!
偶然見つけたんで驚きました。

D「此付近、坂本龍馬妻お龍、独身時代寓居跡」…酒場龍馬という居酒屋があり、その前にありました。今まで見たことがなかったので、確認してみると2009年3月に作られたようです。

↑独身時代。この場所なら龍馬と出会うのは頷けますね。



E「坂本龍馬寓居之趾」…通称龍馬通にある「材木商・酢屋」を差しており、現在も酢屋はあります。
竜馬が住んでいた2階は「ギャラリー龍馬」として現在営業されています。
酢屋は享保6年〜現在までの280年間、この場所にに現存しています。すごいですね。



↑2階は龍馬関係の資料があるそうです。

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暑かったんで帰りに、祇園四条にある都路里(辻利)の抹茶ソフトクリームを食べて帰りました。
抹茶の味が口に広がりますよ〜。オススメです。
抹茶味、抹茶ドリンク、抹茶フロートもあるよ。




茶寮・都路里 祇園本店



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河原町周辺だけでこれだけ見る場所があります。もう少し建物が現存していれば良かったんですけどね。
いつの時代でも河原町周辺は繁華街なんで、常に新しいものに変わっているんでしょう。これからも。

来年の大河ドラマ「龍馬伝」に向けて、盛り上がってきているのを、街を歩いていて特に感じました。
もちろん僕自身も「龍馬伝」には期待しています。





 

龍馬・土佐藩 京都(河原町)編1
2009.08.30 [Sun] 17:02

久々に京都に来ました。ブログを始めたこともあり、再び坂本龍馬がいた京都をまわってみようと思います。今回は「龍馬・土佐藩(京都・河原町)編」です。

まず京都に行ったことがない人の為に、少し説明を。

京都の道は、碁盤の目になっており、「縦の通り名」と「横の通り名」を合わせて呼びます。
今回行った場所で言うと、縦が木屋町通と河原町通。そして横が四条通と三条通です。
例えば場所を表す時は、「河原町通り三条下る」、といったように言います。



今回は四条から三条まで、ぷらぷらと幕末散歩してみようと思います。
まず京阪電車・祇園四条駅を降りた僕は、四条の鴨川沿いを歩いて繁華街の河原町に向かいました。
やっぱり鴨川は何度見てもいいですね。



↑鴨川沿いのお店が納涼床(鴨川を見ながら食事ができるよう)になっています。



先斗町、木屋町と越えて、まず始めに河原町に出て、三条方面に向かって上がっていきます。
ここからは、上の地図の番号を参照してください。

@「中岡慎太郎寓居之地」…土佐藩出身・陸援隊隊長の中岡慎太郎が脱藩後に身を寄せていた土佐藩御用達の書林菊屋(鹿野安兵衛宅)のことを差してます。
この碑は隠れていて分かりにくいんですが、あぶらとり紙屋さんの前にあります。河原町を挟んで斜め前が、近江屋です。



A「坂本龍馬・中岡慎太郎遭難之地」…龍馬と慎太郎が刺客に暗殺された近江屋を差しています。元々は旅行会社でしたが、久々に来たら「サークルK」に変わっていてビックリ。。
そして、碑の横に説明文が追加されています。来年の大河ドラマ「龍馬伝」を意識して作られてのでしょうか。

↑以前は旅行会社でした。今はサークルK。





ここで三条方面に上がりながらも、縦の通りを河原町通から木屋町通に移ります。

↑木屋町通の隣に、高瀬川が流れています。この川は下ると伏見まで繋がっています。
当時は舟が通っており、龍馬も伏見から上がってきたのでしょう。今では川の水が少なくなっていますね。



↑高瀬川を作った角倉了以翁顕彰碑。立誠小学校前



写真をこれ以上UPできないようなんで、つづく。