坂本龍馬・福井編(8)
2011.01.03 [Mon] 16:25

「坂本龍馬・福井編(1)」
「坂本龍馬・福井編(2)」
「坂本龍馬・福井編(3)」
「坂本龍馬・福井編(4)」
「坂本龍馬・福井編(5)」
「坂本龍馬・福井編(6)」
「坂本龍馬・福井編(7)」のつづき


最後はN明新館跡を探しに行きました。現在、福井放送会館がある所です。中央大通りに行き、正面出入り口から探しましたが見つかりません。館内にも入りますが見つからず、東出入り口から出るとそこにひっそりとありました。


↑放送会館の東入口付近にひっそりとあった福井市史跡・明新館跡。



↑放送会館の東側からは西武百貨店が見えます。





説明文によると、明治2年5月から12月まで福井藩・明新館があった場所で、後ち福井中学校が設けられ昭和8年まであったと書かれています。

明新館の前身は、松平春嶽が安政2年(1855年)に設けた明道館です。由利公正は明道館で横井小楠に学びました。また、明新館になってからは、C日下部太郎とウィリアム・エリオット・グリフィス像で登場した日下部太郎も学んでいます。その時、グリフィスが理科の教師となっています。



以上で、目的の場所は見終わりました。ここからは少し余談です。

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時間が少しだけあるので、気になっていた柴田神社に立ち寄ることにしました。柴田神社といえば、柴田勝家や市(お市の方)を祀っている神社です。2011年大河ドラマ「江(ごう)」に出てくる登場人物なのが気になって、気になって…。僕自身、戦国時代はほとんど知りませんが、大河ドラマ「江」で勉強しようと思っているので、その予習も兼ねて柴田神社に寄ってみました。

柴田神社から入りましたが、ここは公園に繋がっており、名前は柴田公園。M福井城で出てきた「北の庄城址」もあります。


↑柴田神社にある柴田勝家像。



↑M福井城で少し触れた「北の庄城址」  



↑柴田勝家像、拡大。こんな鬼のような顔をしてるんでしょうか;;


この場所には北の庄城址資料館がありました。残念ながら帰宅する時間がせまってきたので入館しませんでしたが、時間があれば見てみたかった場所です。お市の方の銅像もあったようですが、写真を撮っていませんでした。

そして、もう一つここには、福井編(3)で触れた九十九橋のレプリカも展示されています。戦国だけでなく、幕末好きも柴田公園はオススメです。

九十九橋は「坂本龍馬・福井編(3)」を参照してください。


↑明治初期の九十九橋。説明文より。



↑で、これが柴田公園に展示されていた九十九橋レプリカ。途中で石と木の橋に分かれているのがわかりますか?


以上で福井編は終了です。長々、だらだらとありがとうございました。坂本龍馬だけでなく、越前福井藩、そして明治政府と繋がっていく歴史を感じ取ることが出来て非常に意義あるものでした。帰りは16時半ぐらいの電車に乗りました。5時間半ぐらい滞在したのかな?道を何度も間違い、そして迷いましたが、それでも何とか目的の場所を見て回ることができました。日帰りでも十分満喫できますよ。でも、やっぱり温泉も兼ねて泊まりで行きたいものですね。



↑お土産は福井名物・元祖羽二重餅です。


 

坂本龍馬・福井編(7)
2010.12.31 [Fri] 20:49

「坂本龍馬・福井編(1)」
「坂本龍馬・福井編(2)」
「坂本龍馬・福井編(3)」
「坂本龍馬・福井編(4)」
「坂本龍馬・福井編(5)」
「坂本龍馬・福井編(6)」のつづき

次にすぐ隣り、中央公園内にあるK由利公正像を見に行きました。中央公園にはたくさんの銅像があります。岡田啓介(31代内閣総理大臣・海軍大将)や岡倉天心(美術家)等の銅像もあり、その中の一つに由利公正像もあります。


↑由利公正像。中央公園内





当日はこの中央公園でイベントが行われていたため、K由利公正像を正面から撮影することができませんでした。そのため、やや斜めからの写真になっています。


↑由利公正像、拡大。




だんだん、帰りの電車の時間が迫ってきたので急ぎます。そのまま福井城内堀沿いを東に歩いていくと、L旅立ちの像があります。旅立ちの像とは、安政5年(1858年)、横井小楠の熊本一時帰国に同行して旅立つ由利公正(三岡八郎)の様子をの銅像にしたものです。



↑旅立ちの像。由利公正と横井小楠。



↑由利公正像と横井小楠像、拡大。二人とも同じ人に見えるのは僕だけ?



↑福井城の写真。巽櫓(たつみやぐら)



↑現在は全く櫓はありません。上の写真と比較してみてください。


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そのまま福井城跡に入ることにしました。跡というだけあって現在、城があった場所に福井県警本部、県庁舎、議事堂となっています。では早速、M福井城跡に入ってみましょう。


↑残念ながらお城はありません。



↑御本城橋 。では福井城に入ってみましょう。



↑入ってすぐにある銅像は結城秀康公の銅像です。徳川家康の次男だそうですが、戦国時代の人物はあまり詳しくありません。2011年から少しずつ勉強しようと思います。



福井城は結城秀康に建てられました。もともとこの近くに北の庄城がありましたが、その上から福井城を建てたようで、北の庄城の場所は正確にはわからないそうです。(柴田神社辺りとも言われています。)。

この辺りのことを調べて欲しいものですが、上からさらに城が建てられており、調査は難しそうですね。大阪城も、豊臣秀吉の大坂城(浪華城)と、現在の大阪城とは同じ場所に建てられてはいますが、城郭が全く違う場所に建てられていたことが調査でわかりました。これも福井城と同様です。今後、福井城周辺を大阪城のように調査をして欲しいものです。新たな発見を期待しています。余談終わり。



福井城跡案内図によると、北西あたりに天守台跡があるようなので見に行って見ました。





↑天守台跡。




天守台跡を上ると芝一面に敷かれた場所に出ます。そこには天守閣跡と福の井の碑がありました。以前は北の庄城が建てられており、その上に福井城が建てられたという説明が書かれています。


↑「天守閣跡と福の井」碑



↑天守閣跡。福井震災(1948年)等により城壁の崩壊が所々で見られます。説明文もあり。




↑福の井。福井の地名の由来と伝えられている井戸。




↑城壁を見ると歴史を感じることができます。

このまま西の方の出口に行くと、先程見てきた福井神社等に出ます。その出口付近に御廊下橋があります。築城400年を記念して再現されました。福井藩主が登城する際に使用された専用橋です。2008年3月に再現されただけあって、この橋だけが周辺とあっていないぐらいピカピカでした。



↑福井城築城400年を記念して再建された御廊下橋。



↑明治初期の福井城と御廊下橋の様子。



1863年(文久3年)5月、坂本龍馬は神戸海軍操練所の資金援助を依頼するため、福井城に登城し、松平春嶽と謁見しています。龍馬もこの場所に来ているんですね。それを知った上で福井城を見ると、見方も変わってきますね。



(つづく)

 

坂本龍馬・福井編(6)
2010.12.27 [Mon] 19:48

「坂本龍馬・福井編(1)」
「坂本龍馬・福井編(2)」
「坂本龍馬・福井編(3)」
「坂本龍馬・福井編(4)」
「坂本龍馬・福井編(5)」のつづき




↑福井神社鳥居




郷土歴史博物館でH松平春嶽像を見た後、もう一つ松平春嶽像がある福井神社に向かいます。
場所は福井城跡の西隣りに福井神社はあります。福井神社内は松平春嶽を祀る神社と、境内に小さくある恒道神社があります。恒道神社は中根雪江(靱負)・鈴木主税・橋本左内が祀られています。





↑別格官幣社・福井神社とあります。ここは日本最後の別格官幣社だそうです。


今ある福井神社は戦後再建されたもので、神社には珍しくコンクリートで造られています。参拝した時に一番に感じたことは、非常にシンプルだなぁというのが第一印象です。拝殿でお参りした後、その左側にある松平春嶽像に向かいました。



↑福井神社・拝殿


 
↑松平春嶽像


↑松平春嶽像拡大。福井市立郷土歴史博物館にある松平春嶽像と比較して年季が入っています。結構以前からあったものでしょうね。




↑「摂社・恒道神社・御祭神・鈴木主税命・中根靱負命・橋本左内命」と書かれています。




↑恒道神社は鈴木主税・中根靱負・橋本左内を祀る神社です。


福井神社内には、幕末の様子を紹介する絵画があります。松平春嶽が馬に乗り城に入る様子や橋本左内が書生に講義している様子等が描かれています。



次にすぐ隣りにある「J佐佳枝廼社」に向かいました。佐佳枝廼社は、”さかえのやしろ”と呼びます。別名、越前東照宮といわれています。徳川家康を祀ったのに始まり、結城秀康、松平春嶽も祀られています。この中に中根雪江顕彰碑があるようですが…



↑佐佳枝廼社の東側入口付近



東側から入り階段を上りましたが、それらしい碑が見つかりません。そういう時は一度出て見方を改めようと反対側つまり正面側に行ってみることにしました。すると入口の階段を下りた辺りに見つかりました。普通に正面から入ればすぐ見つかったってことです。佐佳枝廼社の中というよりは、南正面にある階段付近です。



↑佐佳枝廼社(さかえのやしろ)



↑南正面入口にありました、J中根雪江顕彰碑。




↑拡大。中根雪江君碑と書かれています。説明文には中根雪江翁顕彰碑となっています。


このJ中根雪江顕彰碑ですが、中根雪江の友人である勝海舟の撰文染筆で、篆額は松平春嶽の最晩年による揮毫だそうです。この顕彰碑は福井震災で倒壊しましたがが、現在は修復されています。この形の顕彰碑はたくさんありますね。同時期に建てられたのでしょう。




↑右側:松平慶永(春嶽)公篆額。左側:海舟勝安芳併撰併書。





(つづく)


 

坂本龍馬・福井編(5)
2010.12.19 [Sun] 19:58

「坂本龍馬・福井編(1)」
「坂本龍馬・福井編(2)」
「坂本龍馬・福井編(3)」
「坂本龍馬・福井編(4)」のつづき



G橋本左内先生誕生の地に行った後、簡単なランチタイムに入りました。歩き疲れていたんで、いい休憩です。
休憩後、さくら通りを東に歩いて行くとF中根雪江像G中根雪江宅跡に着きます。




F中根雪江像は、神明神社内にあります。北から来たので丁度、神社の裏から入ったことになります。どこにあるのか探しながら行くと、北の入口から神社までの通り道、西横にある神明公園内にありました。



↑神明神社、裏付近



↑神明神社。場所は仁愛女子高校横にあります。



↑南の入口付近。南からスグ横にある仁愛女子高校を回り、南入口から入りました。


神明神社西横にある神明公園(上の写真の左側の柵辺り)にF中根雪江像はありました。銅像は遠くからでも目だっていたので、スグにわかりました。中根雪江(靱負)は”ゆきえ”とも”せっこう”とも言われています。





中根雪江は福井藩上士に生まれ、学問、儒教、国学を修めました。天保9年(1838年)松平春嶽(慶永)が藩主になると、中根雪江は側用人としての補佐と藩財政の立て直しを担当しました。安政の大獄で松平春嶽が謹慎になると、一線を退くものの、政治総裁職になると、側近として補佐。参勤交代の緩和や公武合体等を図っています。明治新政府に参与となりますが、徳川家処遇問題で、薩長と対立し免じられました。また、彼は明治維新史の貴重な史料をたくさん書き残しています。


 
↑中根雪江(慶応2年大坂で撮影)と中根雪江像


名のある人の傍には、やはり素晴らしい側近がいるものですね。中根雪江を知ってそう感じました。一見、殿様自らが指図しているようにも見えますが、実はそうじゃないということなのでしょう。あの井伊直弼も独裁のように見えて、実は長野主膳が計画を立てたのですから。銅像ですが、あまり似ていないような気が…、写真と横に並べて比較すると違いがわかりますね。


次にG中根雪江宅跡に向かいました。FF中根雪江像から結構近いんですが、大体ここだろうというぐらいの感じのメモ書きだったので、てこずりました。今回、メモがあるから、時間がかかりながらも見つけられましたが、普段、この場所を通っている人でもなかなか気づかずに通り過ぎているのでは無いでしょうか。特に普通の家にさり気無くある場合は、それに該当しますね。


↑G中根雪江宅跡ですが、わかりますか。矢印の所にあります。お隣は会計事務所でした。



↑G中根雪江宅跡(拡大)。



中根雪江関係を探した後、東の方に直進し「福井市立郷土歴史博物館」に向かいました。この博物館は松平春嶽を中心とした史料が展示されています。福井の歴史も原始時代から現代まで振り返ってはいるものの、やはり幕末の史料や江戸時代の福井藩城下町の歴史を扱っています。

郷土歴史博物館に行ってみると、早速入口にH松平春嶽公像があります。


↑福井市立郷土歴史博物館、入口付近




↑博物館入口付近にH松平春嶽公像があります。仙嶽宗紀書。



H松平春嶽公像拡大。





入口には銅像以外にも、松平春嶽の和歌もありました。
「ふるき世の その面かけを 忍ふには  ふみより外に しく物そなき 慶永」


では早速入ってみましょう。入るとすぐロビーがあり、ここまでは写真撮影が可能です。
ロビーには橋本左内像と坂本龍馬像があります。


↑橋本左内先生像


↑橋本左内先生像、拡大。



↑坂本龍馬先生之像。

橋本左内像はわかるにしても、なぜここに坂本龍馬像が?

その答えは「福井市立郷土歴史博物館」と「高知市立龍馬の生まれたまち記念館」が、姉妹友好館提携を結んでいるからだそうです。福井市と高知市の両市長の友好提携のサインがありました。



丁度、僕が福井に行ったときは「和歌の美」という特別展が開かれており、和歌に縁の無い僕にとって入館するべきか悩みましたが、結果、入ってみて正解でした。なんと和歌は松平春嶽が中心に、三条実美等の公卿衆の和歌も展示されていました。和歌を収納する入れ物や硯入れが漆で作られており、その高級感に驚かされました。この時代の和歌というものの重要性が感じ取ることができました。


最後に、出入り口付近にある図録コーナーを見てみると、過去にこの博物館で「橋本左内と安政の大獄」という特別展があったそうで、その図録を購入しました。帰りの電車でゆっくりと見るのに、丁度良いです。こういう図録は地元しか売っていないので、幕末ものがあれば購入することにしています。


↑郷土歴史博物館の図録コーナーで購入した「橋本左内と安政の大獄」。2009年度に開催されていたそうです。



「福井市立郷土歴史博物館」を出て、どんどんJR福井駅に戻っていきます。
次に、福井城周辺を散策しに行くことにしました。


(つづく)






 

坂本龍馬・福井編(4)
2010.12.10 [Fri] 21:33

「坂本龍馬・福井編(1)」
「坂本龍馬・福井編(2)」
「坂本龍馬・福井編(3)」のつづき




九十九橋を渡り、芦原街道を北に少し進むと、右斜めに直進できる道があります。(地図↑)そこを直進すると、さくら通りに出ます。そのまま北上し、途中、川がある所を右折していくとG橋本左内先生誕生の地があります。(地図参照)



いやぁ、この場所を探し出すのに、またもや時間を費やしてしまいましたよ。確かにこの周辺なのだが…、一向に見つかりません。30分ぐらいウロウロしてたでしょうか。一旦、休憩しようと、別の道から戻った時にやっと見つかりました。G橋本左内先生誕生の地は現在、一般の家になっており、その中に碑が残されていました。


↑橋本左内誕生地周辺には、このような小さな川が流れています。これはもしかしたら福井城の外堀の名残かもしれませんね。



↑アンティーク雑貨「Handle」。ここで道を聞こうと店に入りましたが、どうやら誰もいなかったようで、残念ながらすぐに退散しました。この辺りは住宅街なので、目立ってました。






↑やっとたどり着きました。G橋本左内先生誕生の地です。この通り住宅の中にあるので、なかなか気づきません。





↑橋本左内宅跡の碑




↑左内公園にもあった橋本左内の「啓発録」。内容は同じです。





↑左内先生・初湯の井



↑橋本左内の家紋・五七の桐が彫られています。




↑初めて行かれる方は必ず住所を控えていってください。橋本左内誕生の地は、「福井市春山2丁目9」です。


井伊直弼が大老になった安政、その頃「将軍継嗣問題」が起こっていました。一橋派と南紀派です。その中で、一橋慶喜を推すグループに徳川斉昭(水戸)、島津斉彬(薩摩)、そして松平春嶽(越前)がいました。松平春獄の側近として京都を中心に活動をしていたのが橋本左内。そして島津斉彬の側近として活動してたのが西郷隆盛です。

井伊直弼や長野主膳は京都に密偵を送っていたため、西郷や橋本左内、梅田雲浜らが行った朝廷・公卿への働きかけが筒抜けになっており、それが一気に安政の大獄に繋がってしまいました。橋本左内はこの幕末初期の段階で、明治時代に進んででいった道、富国強兵や開国通商といった方向性を見出していたのです。それを支持していたのが西郷達でした。

そういう意味でも彼の死が非常に悔やまれます。彼が生きていたら明治時代がもっと変わったかもしれませんね。


(つづく)



 

坂本龍馬・福井編(3)
2010.11.30 [Tue] 21:08

地図@〜Bは「坂本龍馬・福井編(1)」「坂本龍馬・福井編(2)」を見てください



左内公園を北西に行くと、桜橋に着きます。桜橋は昭和24年にできた橋で、足羽川一体に咲く桜並木からつけられたのでしょう。ここを渡って足羽川の北側に行ってみました。


↑桜橋。木製の落ち着いた橋です。





↑桜橋からみた幸橋



桜橋を渡り、北側から川沿いを東に、幸橋の方に戻ります。しばらく歩くと銅像がありました。一人は座り、一人は立っている銅像です。特に幕末とは関係ないだろうと、そのまま立ち去ろうとしましたが、そこには説明文があるので軽く読んでみました。すると、なんとこれも幕末に関係した銅像じゃないですか。

この銅像の名はC日下部太郎とウィリアム・エリオット・グリフィス像です。日下部太郎は慶応3年(1867年)、福井で初めて海外留学した福井藩士です。場所はアメリカのニュージャージー州。彼は留学中、学問に励んでいましたが、卒業前に結核で亡くなってしまいます。ラトガース大学は彼を卒業生と同等の資格を与えました。

グリフィスは先輩として日下部太郎を指導していく中で、日本人の勤勉さや節度に心を動かされ、日本に興味を持つようになりました。グリフィスは福井藩から招待され、藩校「明新館」で理化学の教師となります。その後、10ヶ月で帰国しますが、帰国後もアメリカから日本を紹介したり、執筆を多く手がけました。




↑C日下部太郎&ウィリアム・エリオット・グリフィス像





この銅像のインパクトが強いため、そのまま通過してしまいましたが、なんとその近くにもう一つ碑があったのです。何度もこの周辺を行ったり来たりし、やっと見つけましたよ、D横井小楠先生寄留宅跡に。



↑この写真を見てください。恐らく気づかないと思いますが、D横井小楠先生寄留宅跡碑があります。普通の家に一体化してあるので、全く気づかず素通りしていました。何度か回ってやっと見つけました。まさか「C日下部太郎&ウィリアム・エリオット・グリフィス像」のすぐ斜め前にあったとは。堤防上の散歩道にC日下部太郎&ウィリアム・エリオット・グリフィス像があり、その堤防を下りたすぐそばにD横井小楠先生寄留宅跡があります。



↑矢印の所にD横井小楠先生寄留宅跡があります。銅像のインパクトが強すぎて気づかないでしょう



↑D横井小楠先生寄留宅跡

碑の説明文には「横井小楠は熊本藩士であったが、優れた政治思想家として松平春獄の政治顧問として4度招かれました。文久3年(1863年)、この場所に寄留し藩政を指導した」と書かれています。



そのまま道に沿って西に行くと幸橋に着きますが、一つ手前に北に上がる細い道があるのでそこに行くと、料亭・風琴亭という店がありそこにE異人館跡があります。この異人館とはCででてきたグリフィスの家のことです。

説明文によると、「明治初年、藩校明新館に牧師として招かれたグリフィスの居館のあった場所である。付近にイギリス人牧師ルシーの居館もあった。特にグリフィスは郷土青年に大きな感化を与えた」と書かれています。通りでC銅像とE異人館跡が近いわけですね。



↑川沿いを一本北にいった細い道に料亭・風琴亭があり、そこにE異人館跡はあります。



↑E異人館跡碑



C〜Eを見つけた後、再び川沿いを戻り、さらに桜橋を越え、九十九橋に向かいました(地図参照)。ここは足羽川の中で明治まで唯一橋が架けられていました。現在の橋は1986年に架け替えられたものです。



↑現在の九十九橋。


九十九橋は歴史が長いこともあって、橋の碑が建てられています。それによると「柴田勝家領主の頃、渡し舟を廃止し、南半分を石、北半分を木にした半石半木の橋が建てられた。」と書かれています。

もう一つの碑は「里程元標」で、道路の起点や終点、経過地を表示するための標識のことで明治時代に建てられました。吉田郡森田村への距離と足羽郡麻生津村浅水への距離が書かれています。


↑右の茶色の碑が九十九橋の説明。左の灰色の碑が里程(道路)元標を表しています。



↑九十九橋沿いに当時の九十九橋の絵がありました。色が薄いのでわかりにくいですが、確かに半石半木に描かれています。[3月、九十九橋桃花の図]




九十九橋を渡り、北上すると比較的大きな道路に出ます。それを縦断し次の細い道を左折します。それから少し入ると、F莨屋(たばこや)旅館跡があります。いやぁ、この場所にたどり着くのに骨が折れましたよ。自分でメモっていた地図がどうも間違っていたようなんです。通りがけの人に聞くこと2回、やっとこの場所にたどり着くことができました。

慶応3年(1867年)11月、坂本龍馬が2度目の福井の時、まず藩主松平茂昭に会い、由利公正(三岡八郎)への面会をお願いしました。(由利はこの時謹慎中だったので)。面会を許されると、この場所、莨屋旅館で由利公正と会談。龍馬は新政府の財政担当としての出仕をお願いしました。二人は朝の5時から夜中の12時過ぎまで語り合ったそうです。


↑莨屋旅館跡は現在、「与志多(懐石料理・仕出し)」になっています。駐車場側に碑があります。



↑莨屋旅館跡の隣は「カフェ・シルキー」があります。



↑莨屋旅館跡。この辺りは山町と呼ばれていました。たばこ屋旅館は明治20年(1902年)大火焼失。





↑「諸国御定宿、 福井山町、 たばこや、和木本久右衛門」。福井県下商工便覧より。



龍馬2度目の福井入りは、後藤象二郎からの依頼でした。土佐藩士・岡本健三郎が同行しています。まず村田巳三郎(村田氏寿)と面会し、後は上記したように藩主松平茂昭に会い、由利公正(三岡八郎)と朝の5時から夜中の12時過ぎまで話し合ったそうです。龍馬の2度目の福井は大体こんな感じです。そうそう、この時に、龍馬は由利公正に自分の写真を渡したそうですが、川に落としてしまい失くしてしまったそうです。(坂本龍馬日記)

いやぁ、このときの龍馬は既に「新政府」という次のステップに移ってますね。由利公正を新政府に推薦するなんて龍馬のの人材を選ぶ眼に驚かされます。


(つづく)

 

坂本龍馬・福井編(2)
2010.11.24 [Wed] 20:43

坂本龍馬・福井編(1)のつづきです。

福井駅から西の方に行くと足羽川が見えてくるのでそれに沿って歩きました。すると橋と路面電車が見えてきます。それを左折し、橋を渡ります。この橋の名前は幸橋(さいわいばし)と言います。(下の地図参照)


↑川沿いを歩くと幸橋が見えてきます。これを左折。







↑幸橋を丁度渡りきったあたり。路面電車(福井鉄道・福武線)が見えます。大きな道路ですね。


この幸橋を渡り、右側の堤防沿いに行くと、お目当ての場所にたどり着きました。@由利公正宅跡碑はここにあります。碑の横に説明文があり、それによると明治33年〜44年の河川改修工事で、由利公正宅跡は消滅しているということです。現在の足羽川は大雨による災害を防ぐために、堤防までの距離と川の幅が変更されています。どうやら由利公正宅は現在の川から堤防にかけてにあったようです。



↑足羽川と幸橋



↑@由利公正宅跡碑

碑にはこのように書かれています。
「この付近には、明治政府初代財政担当者として、又は五箇条の御誓文起案者として知られている福井藩・由利公正の宅跡である。彼は在藩時代三岡八郎と称して居を構えていたが坂本龍馬や福井藩・横井小楠が彼を訪ねた」と。龍馬は2度福井に行っていますが[坂本龍馬・福井編(1)参照]、この場所には1度目(文久3年)に来ています。

文久2年(1862年)江戸で松平春嶽横井小楠への紹介状を書いてもらった坂本龍馬は、文久3年(1863年)この福井で、小楠と対面しています。その後、彼の案内で龍馬は、舟で足羽川を渡り、この場所、由利公正宅を訪ねたそうです。

幸橋は文久2年(1862年)にできたそうで、龍馬が来た文久3年(1863年)には幸橋は出来ていたんでしょうね。当時は木造の橋だったそうですが、龍馬もこの橋を渡ったんでしょうか。



↑足羽川周辺。右の川内が由利公正宅だったのでしょう。




次に西に道二つ入り、少し南に下ると公園があります。ここはA左内公園と呼ばれています。左内公園は現在は公園になっていますが、橋本左内の銅像やお墓もあります。公園に入ると橋本左内像が視界に入ってきます。思ったよりもかなり大きかったです。


↑「贈正四位橋本左内墓所、海軍大将岡田啓介(福井藩士・第31代内閣総理大臣)書」公園入口付近にあり。


 
↑橋本左内先生像と拡大。



↑「橋本左内先生の墓」橋本左内の説明と墓の説明が書かれていました。

説明文によると「西郷隆盛を信服させた福井藩の景岳・橋本左内の墓である。小塚原(江戸にあった刑場)の露と消えるや、長谷部弘連らによって(小塚原刑場近くの)回向院に埋葬されるが、間もなく文久3年(1863年)ここに移築された。以前ここは善慶寺の境域であった。橋本家の菩提寺だったため、橋本左内と並んで初代長徳、父長綱、母梅尾の墓が建てられた。」とあります。




↑橋本左内と家族の墓



↑景岳(橋本左内)先生の墓。家族のお墓は結構文字も読みづらいほどになっていますが、橋本左内のお墓は綺麗です。作り直されているのでしょう。お墓中央にあります。




↑景岳先生病間同志長谷部甚平に贈るの書

説明文によると、安政5年(1858年)江戸の福井藩邸で病のため静養中であった橋本左内が長谷部甚平に送ったもの。その後、長谷部家に保存されていたが、景岳会に寄託されたそうです。

内容は、「私は生きているときは忠臣となり、死しては烈星となって、永く人の世に道を示すものとなりたい」だそうです。いいことを言っていますし、ホントその通りになってますね。




↑啓発録

全ての碑に説明文がありますね。この啓発録は「嘉永元年(1848年)橋本左内が15歳の時に、自分の生活を反省。自分自身を激励し、言い聞かせる意味で述べたもの」だそうです。

・稚心(幼い心)を去る
・気を振るう
・志を立てる
・学に勉める
・交友を択ぶ

いやぁ、これを見て我がふりを直さないとって思いましたよ。それにしても15歳に啓発ですか。自分自身の幼さを感じずにはいられませね





↑当然、左内公園は「左内町」です。町名までも橋本左内の名前ですか、ビックリです。



↑道を挟んで、南に行くとお寺があります。ここが先程説明にあったB善慶寺です。左の表札には「橋本左内先生菩提寺」と書かれています。また右の表札は「妙経寺」とあります。



いやぁ、出だしから盛りだくさんです。特に左内公園、確かに子どもたちがブランコで遊んではいますが、橋本左内を満喫できます。余談ですが、この公園内に「松尾芭蕉宿泊地・洞哉(芭蕉の友人・俳人)宅跡」もありますよ。


(つづく)


 

坂本龍馬・福井編(1)
2010.11.15 [Mon] 21:09


福井には以前から行ってみたいところでしたが、大阪からは微妙に近いので、宿泊するのはちょっと…ってずっと頭の中にあったもので、いつも旅行場所候補としては後回しになっていました。じゃぁ、日帰りではどうかってことで決心がつき、夏休みに行ってきましたよ、もちろん青春18切符で。(今頃更新かい!パート2)

福井と言えば、福井越前藩でしょう。そして、福井越前藩と言えば松平春嶽(松平慶永)から、橋本左内横井小楠由利公正(三岡八郎)、鈴木主税、中根雪江(靱負)、などなど。う〜ん、なかなかの面子である。



我らが坂本龍馬は福井に行く前に一度、江戸で松平春嶽に会っています。しかも春嶽が政治総裁職の時にです。当時でいう大老みたいな役職の時にですよ。(余談ですが、後、春嶽は将軍後見職である徳川慶喜と意見が合わず、約1年ぐらいで辞職し、福井に戻っています。)


文久2年(1862年)12月5日、坂本龍馬間崎哲馬近藤長次郎が、7月に政治総裁職になった松平春嶽に拝謁し、大阪周辺の海防策について申し立てています。そして、春嶽に勝海舟(軍艦奉行並)と横井小楠(肥後熊本藩)への紹介状を書いてもらいました。後、龍馬は両者と何度も会い、影響を大いに受けています。


ここらの話は、龍馬の中でも、(時間の関係で)省かれたり、ストーリーが間違ってたりすることが多いので、事実を知ると興味の幅も広がりますよ。




その後、龍馬は2度福井越前藩に行きました。

@文久3年(1863年)5月、勝海舟の命で神戸海軍操練所の資金援助を依頼するため、福井に会いに行きました。そして春嶽から5000両(福井藩1年分の予算に相当する)を借用しました。

Aそれから4年後、慶応3年(1867年)11月、新政府の財政担当を由利公正に委ねるために福井に訪れています。(余談ですが、それから2週間後に龍馬は亡くなっています。)


というようなことを事前学習で調べました。(参考資料:完本 坂本龍馬日記)





また、福井にはたくさんの幕末の碑があることがわかりました。これも「鞆の浦編」同様、効率よくまわらないと一日で見られないと感じ、地図等を印刷し、それに経路をメモっていき、準備万端です。それでは出発〜。



朝7時台の新快速で敦賀まで行き、北陸本線普通・金沢行に乗換え、福井に向かいました。やはり福井は近く、11時までには到着します。そして鞆の浦と違うところは、駅からすぐが現地で、歩いて行けることです。駅からバスに乗ってってことではないので結構便利ですよ。


↑JR福井駅。手前は建設途中の北陸新幹線の高架橋。



下の地図を見てください。福井は範囲が広いので、一つの地図に書き込めません。なので、地図Aと地図Bに分けることにします。範囲は広いんですが、全て徒歩でまわることができますよ。



それでは福井駅を出発し、地図A方面に向かいます。(実は地図Bの方面を前半に見る予定でしたが、なぜか道を間違えて地図Aの方に行っていまい、急遽、予定を変更して地図Aの方が前半になったのである)


(つづく)