奈良五條・天誅組紀行(6)
2010.08.12 [Thu] 13:24

地図@〜Iまでは過去分を見てください。

「奈良五條・天誅組紀行(1)」
「奈良五條・天誅組紀行(2)」
「奈良五條・天誅組紀行(3)」
「奈良五條・天誅組紀行(4)」
「奈良五條・天誅組紀行(5)」のつづき


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新町通り(旧紀州街道)を歩き、チョット左に寄り道してみると、吉野川があったので、そこでお弁当を食べました。川がきれいで休憩するには丁度良い場所です。

お弁当はJR五条駅で買った柿の葉寿司。これも五條の名物です。柿の葉寿司は駅前の他にも24号線沿いに2つほどあります。「柿の葉すし本舗 たなか」は、五條が本店です。


↑吉野川(紀ノ川)。アユが獲れるぐらいのキレイな川です。




柿の葉寿司と例の”みかさ”を食べた後は、川原でリフレッシュし、再スタートです。

新町通りを西に、途中で右折すると、24号線に出ます。丁度そこは「柿の葉すし本舗 たなか」本店がある場所でした。24号線を横断し、左に行けば五條市史跡公園ですが、先にすぐ右折し、八幡神社に行きました。丁度、五條小学校の西隣りにあります。八幡神社に入るとすぐに目的のものはありました。I井沢宜庵宅跡です。


↑正式には「天誅組史跡・井澤宜庵宅趾」と書かれています。


説明文によると…
1. 井澤宜庵宅は五条小学校あたりで医者をしていた。←つまりこの周辺に住んでいたということです。
2. 天誅組には軍医として参加。高取城攻め負傷した吉村寅太郎の治療をし、その丁寧な治療により大将・中村忠光から褒美として刀を贈られたという。


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だんだん地図がややこしくなってきたので、ここで少しおさらいを。

これまで森田節斎、乾十郎、井澤宜庵に関係する場所を歩きました。

・地図緑色のものは天誅組に影響を与えた森田節斎関係のもので、C森田節斎頌徳碑とI森田節斎宅址。

・地図水色のものは天誅組に参加した乾十郎と井澤宜庵に関係するもので、
乾十郎のものは、@乾十郎之墓、G乾十郎顕彰碑、H乾十郎宅址。
井澤宜庵のものは、E井沢宜庵の墓、I井沢宜庵宅跡です。
そして、天誅組が本陣にしたF桜井寺です。

・地図ピンクのものは、天誅組に襲撃されたB鈴木源内外五士之墓、D五條代官所跡を表しています。



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最後に、J史跡公園・民俗資料館に行きました。

24号線を横断した場所まで戻り、坂を上がった所にそれはあります。早速、入口に「明治維新発祥地」と書かれた碑があります。また「明治維新さきがけの地 大和五條」ともあります。

説明文によると…
「天誅組の変が起こるも、その決起を反乱とみなされました。天誅組の夢は散りましたが、実はこの反乱が明治維新の導火線となり、後、時代は大きく動きました。」



↑右から、明治維新発祥地



↑拡大



↑「明治100年事業として旧代官所跡(現史跡公園)に建立」とあります。


入口に近づくと、立派な長屋門が見えてきました。
市役所にあった五條代官所の長屋門を移築したのかと思っていたんですが、どうやら違うようです。


↑五條代官所の長屋門


市役所にあった五條代官所は、文久3年(1863年)の「天誅組の変」で焼失。翌年の元治元年(1864年)に、この史跡公園のに代官所を立て直したそうです。市役所にあった代官所は全て焼失してしまっていたんですね。

明治3年には、五條県となりここが五條県庁となりました。その後、警察大屯所や中学校として利用されたそうです。


↑長屋門。濃い茶と白とのコントラストが素晴らしい!



↑ずっしり堂々として立派です。



↑汽車があります。「8620形78675号 蒸気機関車(金剛ハロー号)」と書かれています。


長屋門の中は史料室となっているので、早速入ってみました。

↑史料室には「一心公平無私」と書かれたプレート、写真、自画像、句等が展示されています。


資料室内には天誅組の史料が展示されています。

昔の桜井寺や明治後半の長屋門といった写真が展示されています。自画像や句等もあります。明治後半の長屋門の写真は、周辺木におおわれているので要塞のような雰囲気です。桜井寺は「史蹟・天誅組本陣址」という石碑が入口にあったのがわかりますよ。

その中でも興味を持ったのが、「大和五條義挙・天誅組の主な役割」。天誅組の全員の名前と役割が列挙されています。

大将:前侍従・中山忠光、総裁:備前・藤本津之助、総裁:参州・松本謙三郎、総裁:土州・吉村寅太郎、側用人:土州・池内蔵太といったふうに続いています。

特に土佐藩からが多く、那須信吾(坂本龍馬の脱藩を手助け、吉田東洋暗殺の一人)は監察。安岡喜助(吉田東洋暗殺の一人)は武器取調方という役割になっていました。土佐藩は全員で19名の名が載っています。

土佐藩以外に気になったのが、河内出身の志士が多く参加していた点です。13名載っています。水郡善之祐(大地主、水郡神社の祠官)が小荷駄奉行。鳴川清三郎が兵糧方。伴林光平(国学者、歌人、教恩寺の住職)が記録方。

他に名前を知っている志士は、大和・平岡鳩平(北畠治房)ぐらいかな。伴林光平に師事し、天誅組や天狗党に参加したのに生き残ったんですよね。

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全て見終わりました。
ここで奈良・五條の幕末散歩は終わりです。ここからはオマケで、もし行かれる方は寄ってみてください。

一つは国鉄時代の未成線があります。和歌山線の五条駅と、和歌山県新宮市の紀勢本線新宮駅を結ぶ計画だった国鉄時代の未成線、五條の”五”と新宮の”新”を合わせて「五新線」の跡があります。


↑五新線鉄道跡。

説明によると…
明治末期から「五新鉄道」建設熱が高まります。昭和17年になりやっと着工されますが、太平洋戦争で中断。戦後、昭和34年から再開され、路盤工事は完成。後は軌道敷設等の工事を残すだけとなりましたが、経済状況の変化により五新鉄道の夢は中断されました。


↑工事が中断されています。



↑五新線跡と新町通り。一直線。



1997年にカンヌ映画祭カメラドール賞を受賞した「萌の朱雀」で五新線が出てくるそうです。





また、2008年の映画「花影」で、主人公の故郷として、この五條・新町通りがロケ地になりました。



二つの映画「萌の朱雀」と「花影」両方チェックですね。

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そして余談のもう一つが、温泉です

五新線鉄道跡から北に24号線に上がり、JR大和二見駅方面に行くと「リバーサイドホテル」という名のホテルがあります。そこに併設して「金剛の湯」という温泉があり、そこで日帰り入浴も可能です。

ここがイイ!オススメです。

脱衣所はイマイチ、温泉外観も普通ですが、温泉の湯がいい。お湯は乳白色でぬるっと(どろっと)したお湯です。天然100%温泉で、肌がツルツルになりました。もし、五條に行かれる方はついでにいかがでしょう。


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盛りだくさんの五條でしたが、いかがだったでしょうか?
少しでも興味持ってもらえたら幸いです。静かな街なんで(24号線以外)、ぷらっと出かけて、温泉に入って帰ってくるのはどうでしょう。オススメですよ。

天誅組の五條代官襲撃については、司馬遼太郎の短編集「アームストロング砲」内の「五条陣屋」という話に載っているので読んでみてください。






僕は龍馬で幕末好きとなり、土佐藩については非常に興味を持ちました。それからずっと吉村寅太郎や池内蔵太、那須信吾等の詳細を知りたくて五條に行きたかったんです。

今回やっと大和五條にやって来て、さらに彼らを知り、そしてまた新たに探究したくなりました。今後も色々な箇所を歩いてみようと思います。
 

奈良五條・天誅組紀行(5)
2010.08.07 [Sat] 17:17

地図@〜Iまでは過去分を見てください。

「奈良五條・天誅組紀行(1)」
「奈良五條・天誅組紀行(2)」
「奈良五條・天誅組紀行(3)」
「奈良五條・天誅組紀行(4)」のつづき


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前回、和菓子屋「千珠庵・きく川」を紹介しましたが、もう一つ、オススメのお店があるので合わせて紹介します。
それはI森田節斎宅跡を通り、168号線を上がった所にあります。「ナカコ将油」という醤油屋です。


↑ナカコ将油






いつも旅行をすると(と言っても今回は日帰り旅行だが)、この土地の美味しいものはないかと見て歩いるんですが、五條では、ここで見つけました。

お店の外観も良く、気軽に入った「ナカコ将油」ですが、入ってよかったです。「オススメは何ですか」って聞いてみたら…
「醤油はどこでも買えるし、味はだいたい同じ。でもこの2つは滅多に買えないんで、買って帰ったら」と薦められたのがこの2つ。「昆布しょうゆ」と「天然もろみ」でした。

この2つは滅多にできないそうです。「昆布しょうゆ」は普通の醤油より甘めで、豆腐や刺身等、普段かける醤油と同様にして食べてます。特に”たまごかけご飯”にかけるのがオススメです。「天然もろみ」は僕のイチオシです。ベースは醤油なのに辛くないんです。名前のとおり当然もろみが入ってるんですが、ご飯にかけると何杯もいけます(笑)。また、きゅうりにのせて食べると”もろきゅう”になり、きゅうり嫌いの人も食べられますよ。お酒のおつまみにもなるんで、ぜひとも通った人は買ってみて下さい。








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では、新町口の信号を西に入っていきます。この通りは新町通りと呼ばれており、旧紀州街道でもあります。入った瞬間、昔にタイムスリップした感覚になりますよ。


↑新町口の信号。ここから新町通りです。



↑新町通りは昔のまま保存されている地区です。



↑家一つ一つが江戸の雰囲気を残しており、まるで映画のセットのようです。



↑和菓子屋「餅商一ツ橋」。大正時代から続くお餅屋さん。



↑国の重要文化財・栗山邸。日本最古の民家だと言われています。残念ながら中には入れません。



↑キレイな水です。新町通りと平行して吉野川(紀ノ川)が流れており、そこから枝分かれしています。





この新町通りは、旧紀州街道だけあって江戸時代そのままの景観が残っています。こういう町は今後も維持していってほしいものです。

というわけで、今回は幕末は出てきませんでしたね
幕末も江戸時代の一部ということで、新町通り(旧紀州街道)を紹介しました。


次回は「史跡公園・民俗資料館」を紹介します。お楽しみに。


(つづく)
 

奈良五條・天誅組紀行(4)
2010.08.06 [Fri] 11:12

地図@〜Fまでは過去分を見てください。

「奈良五條・天誅組紀行(1)」
「奈良五條・天誅組紀行(2)」
「奈良五條・天誅組紀行(3)」のつづき


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今回はG〜Iまでの更新です。


F桜井寺を見た後、G乾十郎顕彰碑に向かいました。
24号線を東に進み、途中で左に曲がります。公園のような場所に着いたら、その坂の上辺りにありました。


↑正式には「贈正五位乾十郎先生顕彰碑」


説明文に乾十郎情報があります。

1. この顕彰碑は、昭和12年に建てられた
2・ 乾十郎は医者をしながら「真珠円」という目薬を売っていた。
3. 吉野川で下流に流す材木に対し紀州藩が税金をかけているのをやめさせようとする運動をした。
4. 吉野川分水の計画を立てた。

これを見ると乾十郎は、大和五條のことを本当に考え、そして行動していたのがわかりますね。



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次にH乾十郎宅址に行きました。
24号線をもう一度桜井寺の方に戻り、左側の商励会通りに入ると、一本目の筋にあります。
残念ながら、現在はその家は存在しません。一般の方の家の前に碑が建っています。
ただ、周りの家は、昔ながらの家もあるのでイメージはできます。

↑H乾十郎宅址


このH乾十郎宅址をまっすぐ行った角、168号線の前辺りに「千珠庵・きく川」という和菓子屋さんがあります。
僕が丁度通ったとき、まさに今、ミかさ(みかさ;ドラ焼きのこと)が出来あがったとこだったんで、思わず買ってしまいました。いいにおいなんですよ〜。しばらくして、川の土手で食べましたが、ホントに美味しかったです。
皆さんも出来たてをどうぞ。


↑ミかさ(贈伊勢神宮御撰菓之光栄/全国菓子博覧会金賞受賞)

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次にI森田節斎宅址に行きました。H乾十郎宅址と近く、同じ商励会通りの4本目の筋を入った所にあります。
乾十郎宅址と同じく、現存していません。碑だけがひっそりとあります。


↑I森田節斎宅





説明文によると…
江戸で昌平黌の古河洞庵に学び、諸国を遊学。独立し京都で塾を開く。門下から吉田松陰、乾十郎の他、、梅田雲浜、頼三樹三郎、春日潜庵と交流があった。その後、備中・倉敷に移し尊皇攘夷を説くも、幕府に追われ、また天誅組の変後は紀伊国に逃れた。




この場所に、あの吉田松陰が訪ねてきたと思うと、その時の情景をイメージしてしまいますね。
森田節斎宅は現存していませんが、周辺の家が現存しているので、だいたいこんな家だったんだろうなぁっていうのは想像できますよ。


↑森田節斎宅址周辺にある家



(つづく)



 

奈良五條・天誅組紀行(3)
2010.07.31 [Sat] 11:50


「奈良五條・天誅組紀行(1)」
「奈良五條・天誅組紀行(2)」のつづき




B鈴木源内の墓を見た後、今来た道と反対側を直進。310号線が見えると、そこで右折します。右折したら左側の歩道沿いを歩いて下さい。そうするとC森田節斎頌徳碑があります。


↑この写真、ひきすぎでよくわからないと思いますが、右にある横長の碑は「奈良県立五條高等女学校(1903〜1948)」跡です。ではC森田節斎頌徳碑はどこか?それは左にある大きな木の後ろにあります。木が育ちすぎて隠れてしまってますね。


 
↑森田節斎頌徳碑と森田節斎碑




森田節斎とは…
父は先ほど出てきた森田文庵、医者です。森田節斎は学問を京の猪飼敬所に学び、詩文を頼山陽に学びました。後ち昌平黌に入ります。京都で塾を開き、そこで尊攘倒幕論を唱えました。この時代に森田節斎が有名であったのは、有数の文章家であり、統幕勤王という危険思想の鼓吹者だったからです。


余談ですが…
吉田松陰は、この森田節斎に会うために五條にやってきます。

吉田松陰は 友人である江睹五郎(那珂梧楼)が尊敬していた人物・森田節斎に会ってみたかったようです。また、森田節斎は独身主義であり、放浪好きな点からも、松陰自信と同じであり、その点からも興味があったようです。しかし、森田節斎は翌年、私塾・泊園書院の藤沢東畡(とうがい)門下である無弦と結婚しています。

「世に棲む日日」1巻で森田節斎と吉田松陰とのやり取りが載っているので、読んでみてください。




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C森田節斎頌徳碑の後、そのまま310号線を戻り、D五條代官所跡に向かうことにしました。代官所跡は現在の五條市役所にあります。この場所で鈴木源内は代官をしていました。そして襲撃された場所でもあります。現在はそれを感じさせない静かな場所になっています。大通りを一つ内に入ると本当に静かです。


↑D五條代官所跡。現在は五條市役所



↑入口に五條代官所跡の碑があります。


この代官所の長屋門が現存しています。史跡公園・民俗資料館にあります。
実際歩いた順に更新しているので、後ほど出てきます。それまでお楽しみに。
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次にE井沢宜庵(ぎあん)の墓に行きました。D五條代官所跡からはそれほど遠くありません。

その前に井沢宜庵とは…
五條出身で、軍医として天誅組に参加しました。頼山陽に儒学を学び、その後長崎で医学を勉強します。梅田雲浜や乾十郎等と交流するうちに尊王攘夷思想を持ち、天誅組に参加しました。

天誅組の五條出身者は、乾十郎と井沢宜庵ぐらいしかいません。結構少ないんです。そのため二人の碑が五条市に多いのも頷けますね。



24号線に出て、少し東に戻ると常楽院があります。その中にE井沢宜庵の墓はあります。


↑常楽院内に井沢宜庵の墓があります。



↑常楽院入口



↑井沢宜庵墓、岡田禮以墓

井沢宜庵の横に岡田禮以とあるのは、妻の禮以(れい)のことです。

説明文によると、

「井沢宜庵は軍医として活躍するも、天誅組が鎮圧された後、五条で津藩に降伏して捕らえられます。五条の人の働きかけで釈放されるも、幕府の役人により捕らえられ、慶応元年(1865年)京都の六角の牢獄で毒殺されました。妻・禮以(れい)と共にここに眠っています。」


ここには墓だけでなく、石碑もあります。「井沢宜庵頒徳碑」と「贈正五位・井沢宜庵先生の墓」がそれです。

 
↑「井沢宜庵頒徳碑」と「贈正五位・井沢宜庵先生の碑」


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次にF櫻井寺に行きました。桜井寺は天誅組が本陣にした場所です。


文久3年(1863年)8月17日、「孝明天皇の大和行幸計画」の先鋒として、天誅組は幕府天領である五條代官所を襲撃。桜井寺を本陣として、天皇を待ちます。しかし、翌日の8月18日、京都御所に攘夷派追放のクーデターが起こり(8月18日の政変)、天皇の大和行幸は中止になり、公武合体派に実権を握られ、尊攘思想である長州藩や天誅組は賊軍となってしまいました。



その桜井寺は24号線を東に行くとあります。


↑F桜井寺入口



↑右から桜井寺。桜のマークがいい感じです。



↑天誅組本陣跡。


天誅組本陣跡の説明文によると…

「櫻井寺は幕末、五條で有数の寺だった。天誅組は代官所を焼き払った8月17日から『8月18日の政変』を受け、急いで天辻に本陣を移すまでの20日まで、桜井寺に『御政府』と看板を掲げ本陣とした。寺には代官の首を洗ったとされる水盤が残されている」


おぉ〜!代官の首とは鈴木源内のことです。生々しい。と、急に現実にかえり、うろたえてしまいました…
ではその水盤を見に行きましょう。



「五條代官(鈴木源内)、天誅組首洗いの石手水鉢、文久3年7月17日」とあります。



いやぁ、五條って天誅組関係の墓や石碑が多いですね。更新にも時間がかかります。

お得なきっぷ「奈良万葉きっぷ」は、引き続き販売されているようです。この機会にどうぞ。



幕末散歩・天誅組紀行はまだまだ続きます。


(つづく)





 

奈良五條・天誅組紀行(2)
2010.07.25 [Sun] 21:06

天誅組については「天誅組上陸地」を確認して下さい。


「奈良五條・天誅組紀行(1)」のつづき



JR五条駅の北側歩道橋を渡りロータリーに行きます。その一つ目の筋を左折。この辺りは細い道で、ゆったりとした空気を感じさせてくれます。直進すると整骨院に出るのでそこを左折。少し南に歩くとありました。@乾十郎之墓です。



@乾十郎之墓は井上院の前にあり、一本の木が目印になります。



↑乾十郎の墓と積善舎之跡があります。「明治7年、五條小学校(積善舎)創立の地」の碑もあります。




↑乾十郎の墓



ここで天誅組、五条陣屋襲撃の説明を少々。

天誅組はまず始めに大和で挙兵することを決めました。これからどういう戦略戦術にするか、という話し合いが出た時、乾十郎がすかさず言います。「五条陣屋を襲うべし!」と。

と言うのも、五条陣屋は七万石の陣屋で、軍資金や武器が十分に貯蔵されているはず。そして、ここは七万石にもかかわらずたった13人しか勤めていないことを五條出身の乾十郎は知っていたからです。


余談ですが、なんと乾十郎と坂本龍馬には接点があります。

文久3年(1863)6月上旬、攘夷派の水戸浪士・兜惣助が勝海舟の暗殺を計画するも、その計画が漏れてしまいます。どうやらそれは乾十郎が漏らしたものと疑い、兜惣助らは乾十郎を殺そうとします。

それを知った陸奥宗光が坂本龍馬に連絡すると、龍馬は急ぎ駆けつけます。まさに今、乾十郎が殺されるであろうその時に龍馬登場!兜惣助を説得し、乾十郎の命を助けました。

話には続きがあります。
西町奉行所に送られた乾十郎ですが、奉行所はすぐに釈放。これを恨んだ兜惣助は坂本龍馬に決闘を申し込みます。場所は大坂・天王寺境内、つまり四天王寺のこと。

これを聞きつけた沢村惣之丞が、大坂城にいる勝海舟に連絡。海舟は東町奉行と相談し、説得し仲裁することに成功しました。

その後、乾十郎は吉村寅太郎たちと天誅組に参加することになります。


まるで小説のような話ですね。しかし実話なんです。

以上、参考資料:「維新土佐勤王史」より



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@乾十郎の墓を見終わった後、南に下りJRの線路を渡ります。渡ってすぐの右辺りに、おっちゃんとおばちゃんが笑顔でこっちを見ています。おばちゃんはカメラを持っている僕に「これを撮りに来たん?」と何度も聞いてきます。

見てみると赤と白のボーダーのミニ神社なるものがあります。僕はすかさず「いいえ、知りません。でもそれは何ですか?」と聞くと、「えぇ〜知らんの〜まことちゃんや〜ん」って。

なんとそれはAまことちゃん地蔵だったのです。


↑UMEZZ HOUSEと書かれています。中にはあの”まことちゃん”がおられました。



↑このお賽銭は子ども会に使われるそうです。



↑「まことちゃんを拝むと、お寝小が治るなのら〜」の看板あり。


これは以前、ニュースで話題になった楳図かずおさんの「楳図ハウス」と同色です。どうやら楳図かずおさんは子どもの頃、五條で育ったそうです。楳図さんの原点は五條にあるのかもかもしれませんね。
おっちゃんとおばちゃん、特におばちゃんの方が色々と説明をしてくれましたよ。興味のある方は訪ねてみられてはいかがでしょう。


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次の道路を右に曲がって、小さな川渡ったところに「五條市営極楽寺霊苑」という墓地があります。ここにB鈴木源内外五士之墓があります。鈴木源内は当時の五條代官で、天誅組からの領地明け渡し要求を拒否すると、部下4名と共に殺害されてしまいました。墓の前に説明板があります。「鈴木源内は温厚な人柄で、領民からもよく慕われた代官でした」。


↑五條市営極楽寺霊苑。鈴木源内の墓があります。



↑B鈴木源内外五士之墓。


この霊苑には、他にも森田節斎の父である森田文庵の墓や、森田節斎や梅田雲梅、吉田松陰、大槻磐渓等と交流のあった小林金芝のお墓もあります。


↑森田節斎の父・森田文庵の墓



↑拡大。右から森田文庵墓とあります。


お墓がたくさんありすぎて、残念ながら小林金芝の墓は見つけられませんでした。(小林金芝という人物については全く存じ上げておりませんが…。)

霊苑はやはり長時間いるのはチョットあれですね…。チョット怖くなってきませんか?
鈴木源内の墓もそうですけど、お墓の文字が読めないほど、色が変色していました。最近、「幕末散歩と墓地(志士の墓地を巡るため)は切っても切れないものである」ということがわかりました。

皆さんも数珠持参で巡ってみて下さい。


つづく



 

奈良五條・天誅組紀行(1)
2010.07.19 [Mon] 09:23

先日(といっても少し前のことですが)、奈良の五條市に行ってきました。五條と言えば天誅組か柿の葉寿司でしょうか。その両方を求めて出かけてきました。

大阪市内から五条までは、片道千円を越えるので今までは選択肢にも入っていませんでしたが、今年は「平城遷都1300年祭」が行われている関係もあり、JRでオトクな切符が発売されています。その名も「奈良万葉きっぷ」。これがイイ!

なんと大阪市内からでも一日乗り放題で1100円。片道の料金で往復できるのです。こんな機会はそう滅多にないので、ぜひとも言っておかないと!


しかし、なんですなぁ…

みんなは奈良の平城京跡に行くのに用いられているであろうこの「奈良万葉きっぷ」を、幕末散歩、しかも限りなく和歌山に近い奈良の五条で使うとは…

JRの目論見を完全に無視した方向への使用となってます(笑)。

そうそう一つ重要なことが、この「奈良万葉きっぷ」ですが、当日購入はダメなので、前日までに購入しないといけなかったんですよ。僕もこれで失敗して、行く日を改めるハメになりました。それでは出発!





JR天王寺から大和路快速に乗ります。王寺駅を通過し(王寺駅は上が生駒山脈、そして下が金剛山脈の丁度谷間に当たります。ここを越えないと山の東側にいけません。)、高田駅で乗換え。(高田駅は和歌山線と桜井線に分かれている)。

和歌山線方面に行くと、そこに待ってた電車は薄い紫やピンクで塗られた趣きのある電車でした。「万葉の四季彩」と書かれています。


↑高田で乗換え。和歌山線。




この和歌山線は2両編成でワンマン電車です。例えば2両目に乗っていて電車を降りるときは1両目先頭から降りなければいけません。そのようなアナウンスが入ってました。駅によっては改札に駅員がいないんでしょうね。因みに五条は比較的大きな駅なので2両目からでも降りることができました。

五条までの道中、緑が一杯で田舎に来た気分になりますよ。また吉野で近鉄電車とJRが同じホームの真横に並んでいたりして、楽しめます。天王寺からは約80分ほどで五条に到着しました。



↑JR五条駅の歩道橋から。ホームの数が多いので電車待ちをしています。ゆったりした空気が流れています。



↑同じく歩道橋から。五條酒造と書かれた煙突が見えます。



↑五條市マスコットキャラクター(ゆるキャラ)のゴーちゃん。五條市の5とGOがかかっているそうです。



五條市に着きました。今から五條市内を歩いてみたいと思います。
今のところ幕末関係が出てきてませんが、次回の更新から登場しますので、お楽しみに。


(つづく)



 

天誅組上陸地3
2010.06.28 [Mon] 20:40

天誅組上陸地(1)
天誅組上陸地(2)のつづき



堺港は江戸時代、大和川の土砂が蓄積されて、船の出入りができない状態でしたが、江戸浅草の吉川右俵衛門が1790年ごろから堺商人の力を借り、20年かけて工事し、現在の堺港のような状態にしました。その功績をたたえ、この場所に「吉川右俵衛門顕彰碑」があります。


↑吉川右俵衛門顕彰碑



↑波止場らしく小型の舟がたくさんとまっています。眩しくて見えない。



↑遠くに船が見えます。



最後に、この北波止に幕末の標柱石が出土されました。B幕末の堺港を語る標柱石と言われているものです。当時の役所が運行上の注意を促すために建立したそうです。
幕末とは内容が関係ないですが、この標柱石が、慶応元年に建立されたということで幕末つながりです。ただそれだけ〜。




↑標柱石の説明文から。



↑説明文によると右側面になります。



↑これは正面からです。説明文通り上部がありません。




最後に当時の堺港の古地図です。現在とほとんどかわらないですね。この辺りは御台場と書かれています。この古地図から船の安全を祈るためでしょうか、神社が複数あるのがわかります。新住吉、水天宮、天神御旅と書かれています。灯台は遥明台と称されていたようです。現在も神社がありましたよ。


↑神社が突然あったので、疑問に思っていたらそういうことだったんですね。



↑柱の上部に天満宮、下部に御旅と書かれて、その下は埋まっていてわかりません。



↑上の古地図と比べてみてください。堺港周辺は結構同じ形で残ってると思いませんか。



今回は天誅組上陸地の碑周辺を歩いてみました。この周辺も幕末を感じることができますので、ぜひ訪れてみてください。

次回からは「天誅組・五條」を歩いてみたいと思います。お楽しみに。


 

天誅組上陸地2
2010.06.25 [Fri] 20:13


天誅組上陸地(1)のつづき


まず始めに「天誅組義士上陸遺蹟碑(天誅組上陸の地記念碑)」に行きました。




南海本線・堺駅を西口を出て、ロータリーから26号線方面にに向かいました。「リーガロイヤルホテル堺」があるので左折し、26号線をまっすぐ進みました。僕の中ではこのまま行くと、石碑に辿り着くかなって思ったんですが…

疎水がある箇所が高架になっているため(オレンジ色の箇所)、その下にある石碑の場所に行くことができません。見えてるけど行けないんですよ。そのまま26号線を行き、高架を下りグルッと左遠回りしてなんとかたどり着きました。

結果的にわかったことですが 、どうやら「ディスカウント・スーパー・ジャパン」の店に入り1階に降りると、丁度石碑の前に着くことができたんですけどね。


↑右「天誅組上陸地記念碑」と、左「堺事件の碑」


↑淀川、大坂湾を下り、堺港に入った天誅組はこの場所に上陸しました。



↑拡大写真。右に「「天誅組義士上陸遺蹟碑・文久三年八月十三日・天皇行幸…」とあります。



↑「天誅組義士上陸蹟」を書かれています。


 
↑近くに橋の一部が残っています。左が「あさひばし」、右が「旭橋」とあります。この橋周辺に上陸したのでしょう。



次に、折角来たので旧堺港も見てみようと海のほうに向かいました。堺港に行くと自由の女神ならぬA龍女神像が見えます。この龍女神近くに行くには北側からぐるっっと反時計回りにしか行けません。(地図を参照してください。確か26号線のオレンジ辺りに、左に下りる階段があったと思います。)そこを降りて、堺港沿いの道を歩いて行きます。地図で見ると簡単だろうと高をくくっていましたが、意外と遠いんですよぉ。途中ほとんど何もありません。道路工事が延々と続いているような砂煙の道をひたすら歩いて歩いて、なんとか着きました。


↑A龍女神像。疎水からも見えますが、近くに行くのには意外と遠いです。



↑龍女神像を後ろから見たところ。



↑現在は北波止緑地として整備されています。


この龍女神像は、明治36年(1903年)、「第5回内国勧業博覧会」が大阪で開かれた時、この場所を第2会場で使用され、大浜水族館前に龍女神像が設置されていました。(因みに第1会場は大阪市天王寺)。で、現在の龍女神像は、平成12年(2000年)7月、市制110周年記念に復元されたそうです。

(つづく)

 

天誅組上陸地
2010.06.20 [Sun] 14:48

堺に旧堺港と言われる当時のおもむきを残した場所があります。

その近くに現在2つの碑が建てられています。一つは@「天誅組義士上陸遺蹟碑(天誅組上陸の地記念碑)」、もう一つは「土佐十一烈士記念碑(堺事件)」です。
今回は前者の天誅組上陸の地を取り上げたいと思います。後者の堺事件の碑についてはまたいずれ紹介します。






なぜ今回の更新が天誅組かと言いますと…
この前、天誅組を訪ねて奈良の五條に行ってきたからなんです。そんな訳で、天誅組の原点である上陸の地を歩いてみることにしました。


天誅組とは何なのかですが…

簡単に言うと(簡単には言いづらいんですが…)、「公卿・中山忠光、吉村寅太郎を主とした尊皇攘夷集団」のことです。簡単すぎてわかりにくいですよね

では、詳細に説明しますと…(すでに知っている場合は、下記の青い部分をとばして下さい。)




長州藩や土佐藩郷士達は、天皇中心とした政治を行い、外国を打ち払うという尊皇攘夷思想でした。そのため、天皇周辺である公家達と親密に行動するようになります。

その公家達は幕府に攘夷の決行を迫り、幕府は文久3年(1863年)5月10日に攘夷決行をすると公布します。これを信じた長州藩は下関関海峡を通過するアメリカ船を砲撃し、攘夷決行を始めてしまいました(下関戦争)。これに招かれたのが中山忠光(後の天誅組大将)、そして彼と共に行動したのが吉村寅太郎や池内蔵太(いけ・くらた/土佐勤王党、天誅組、禁門の変参加、亀山社中)達でした。下関戦争で長州藩は敗北。7月、京都に戻った中山忠光は謹慎+侍従の職も剥奪されてしまいました。

8月13日、三条実美の活動により、孝明天皇の大和行幸が決まり公布されました。大和行幸とは、孝明天皇が攘夷祈願のため、神武天皇山稜(奈良県橿原市)、春日大社、そして伊勢神宮を参詣するというものです。因みにこの計画は、久留米藩の真木和泉によるものです。

吉村寅太郎(土佐藩脱藩)は、松本奎堂(刈谷藩脱藩)や藤本鉄石(岡山藩脱藩)らと共に大和行幸の先鋒として大和国に赴くことを決議します。8月14日、吉村寅太郎たちは謹慎中の中山忠光を訪ねます。その画策に乗った中山忠光は方広寺で天誅組を結成しました。天誅組は、中山忠光を大将とする約40人(土佐藩脱藩17人)の志士で、総裁が吉村寅太郎、藤本鉄石、松本奎堂の3名、御用人は池内蔵太からなります。


以上、説明終わり。



で、上陸の地、堺。

天誅組の進路は、方広寺(京都)→伏見(京都)→常安橋から天保山(大阪)→堺に上陸となります。つまり、ほとんど船での移動ってことになりますね。そして船を降りたのが堺。それが、この場所@「天誅組義士上陸遺蹟碑(天誅組上陸の地記念碑)」、南海本線・堺駅の西になります。



↑「天誅組上陸の地記念碑」とその横に並ぶ「堺事件の碑」



では、堺旧港を中心に歩いてみましょう!


(つづく)