大阪城・城中焼亡埋骨墳
2011.05.15 [Sun] 12:08

皆さん、お久しぶりです。1月以来の更新です。ずっと冬眠していました。

ぼちぼち再開していこうと思いますので、引き続きお楽しみ下さい。


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では、久々なので、まずは地元ネタから。

大阪市内に引越ししてきた時にまずしたことが周辺散歩でした。このことは以前にも書きました。
「兵部大輔大村益次郎卿殉難報國之碑」参照)
今回はその周辺散歩で、調べること無く偶然に見つけた幕末の碑を紹介します。


引越ししてから間もないある日、大阪城を散歩しようと出かけた時、その碑を見つけました。




JR・地下鉄森ノ宮駅から大阪城公園内に入り、散歩スタート。まっすぐ植木市を横切り、噴水を左折すると大阪野外音楽堂と大阪市音楽団が見えます。そこの階段を上ると、大阪国際平和センター(ピースおおさか)の横辺りに出ます。


いつもならつきあたりを右折し、大阪城の南外堀に歩いていくのですが、この時は何を思ったか左折していました。おそらくこの先はどうなっているのか確認しようとしていたのでしょう。


↑大阪城の南外堀付近




このまま直進すると、大阪城公園を出て阪神高速13号東大阪線の森ノ宮出口付近に出ます。道路まで出たので、大阪城に戻ろうとUターンしたときにその碑を見つけました。



まるでその周辺だけ歴史が止まっているかのような重々しい空気を漂わせています。木の下にあるのも関係しているのでしょう。そこだけが日が差し込まないため、独特の様相でした。


その碑には「城中焼亡埋骨墳」と書かれています。その文字を見たとき、太平洋戦争のものだろうと思いました。大阪城は太平洋戦争時代、軍事工場がありました。この碑もそれに関係したものだろうなぁと思いつつ近づいていきました。



↑大阪城公園内にひっそりと佇む石碑「城中焼亡埋骨墳」



が、その碑の裏側にある文字を見て思わず驚嘆してしまいました。その裏側にはなんと「薩州・長州」の文字が!!





近づいて見てみると「慶応四辰歳七月 薩州・長州建之」と書かれています。
薩摩藩と長州藩、そして慶応4年といえば、鳥羽伏見の戦いです。



説明文によると…

明治維新となり、幕府側が大坂城を手放すことになります。それを拒んだ一部の幕臣たちが大坂城内に火を放ち自害しました。それを見た新政府軍の薩摩藩・長州藩が、彼らの遺骨を埋葬し、武士の鑑としたそうです。

当時、この碑は「残念さん」、「残念塚」と言われていたそうで、願いをかなえる神様として信仰を集めたと伝えられています。


この文章を見て、一目散に逃げた(夜逃げ)15代将軍・徳川慶喜のことを思い出してしまいました。
何も知らされず取り残された幕臣たちのことを思うと、ホントに気の毒という言葉ではすまないですね。


隣りにひっそりとある「淀君の霊」の碑。この碑が豊臣の最後なら、「城中焼亡埋骨墳」も徳川の最後と言えるでしょうね。

そんな両者の最後を見ることができる大坂城を、訪ねてみてはいかがでしょう。





 
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