坂本龍馬・福井編(6)
2010.12.27 [Mon] 19:48

「坂本龍馬・福井編(1)」
「坂本龍馬・福井編(2)」
「坂本龍馬・福井編(3)」
「坂本龍馬・福井編(4)」
「坂本龍馬・福井編(5)」のつづき




↑福井神社鳥居




郷土歴史博物館でH松平春嶽像を見た後、もう一つ松平春嶽像がある福井神社に向かいます。
場所は福井城跡の西隣りに福井神社はあります。福井神社内は松平春嶽を祀る神社と、境内に小さくある恒道神社があります。恒道神社は中根雪江(靱負)・鈴木主税・橋本左内が祀られています。





↑別格官幣社・福井神社とあります。ここは日本最後の別格官幣社だそうです。


今ある福井神社は戦後再建されたもので、神社には珍しくコンクリートで造られています。参拝した時に一番に感じたことは、非常にシンプルだなぁというのが第一印象です。拝殿でお参りした後、その左側にある松平春嶽像に向かいました。



↑福井神社・拝殿


 
↑松平春嶽像


↑松平春嶽像拡大。福井市立郷土歴史博物館にある松平春嶽像と比較して年季が入っています。結構以前からあったものでしょうね。




↑「摂社・恒道神社・御祭神・鈴木主税命・中根靱負命・橋本左内命」と書かれています。




↑恒道神社は鈴木主税・中根靱負・橋本左内を祀る神社です。


福井神社内には、幕末の様子を紹介する絵画があります。松平春嶽が馬に乗り城に入る様子や橋本左内が書生に講義している様子等が描かれています。



次にすぐ隣りにある「J佐佳枝廼社」に向かいました。佐佳枝廼社は、”さかえのやしろ”と呼びます。別名、越前東照宮といわれています。徳川家康を祀ったのに始まり、結城秀康、松平春嶽も祀られています。この中に中根雪江顕彰碑があるようですが…



↑佐佳枝廼社の東側入口付近



東側から入り階段を上りましたが、それらしい碑が見つかりません。そういう時は一度出て見方を改めようと反対側つまり正面側に行ってみることにしました。すると入口の階段を下りた辺りに見つかりました。普通に正面から入ればすぐ見つかったってことです。佐佳枝廼社の中というよりは、南正面にある階段付近です。



↑佐佳枝廼社(さかえのやしろ)



↑南正面入口にありました、J中根雪江顕彰碑。




↑拡大。中根雪江君碑と書かれています。説明文には中根雪江翁顕彰碑となっています。


このJ中根雪江顕彰碑ですが、中根雪江の友人である勝海舟の撰文染筆で、篆額は松平春嶽の最晩年による揮毫だそうです。この顕彰碑は福井震災で倒壊しましたがが、現在は修復されています。この形の顕彰碑はたくさんありますね。同時期に建てられたのでしょう。




↑右側:松平慶永(春嶽)公篆額。左側:海舟勝安芳併撰併書。





(つづく)


 

坂本龍馬・福井編(5)
2010.12.19 [Sun] 19:58

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G橋本左内先生誕生の地に行った後、簡単なランチタイムに入りました。歩き疲れていたんで、いい休憩です。
休憩後、さくら通りを東に歩いて行くとF中根雪江像G中根雪江宅跡に着きます。




F中根雪江像は、神明神社内にあります。北から来たので丁度、神社の裏から入ったことになります。どこにあるのか探しながら行くと、北の入口から神社までの通り道、西横にある神明公園内にありました。



↑神明神社、裏付近



↑神明神社。場所は仁愛女子高校横にあります。



↑南の入口付近。南からスグ横にある仁愛女子高校を回り、南入口から入りました。


神明神社西横にある神明公園(上の写真の左側の柵辺り)にF中根雪江像はありました。銅像は遠くからでも目だっていたので、スグにわかりました。中根雪江(靱負)は”ゆきえ”とも”せっこう”とも言われています。





中根雪江は福井藩上士に生まれ、学問、儒教、国学を修めました。天保9年(1838年)松平春嶽(慶永)が藩主になると、中根雪江は側用人としての補佐と藩財政の立て直しを担当しました。安政の大獄で松平春嶽が謹慎になると、一線を退くものの、政治総裁職になると、側近として補佐。参勤交代の緩和や公武合体等を図っています。明治新政府に参与となりますが、徳川家処遇問題で、薩長と対立し免じられました。また、彼は明治維新史の貴重な史料をたくさん書き残しています。


 
↑中根雪江(慶応2年大坂で撮影)と中根雪江像


名のある人の傍には、やはり素晴らしい側近がいるものですね。中根雪江を知ってそう感じました。一見、殿様自らが指図しているようにも見えますが、実はそうじゃないということなのでしょう。あの井伊直弼も独裁のように見えて、実は長野主膳が計画を立てたのですから。銅像ですが、あまり似ていないような気が…、写真と横に並べて比較すると違いがわかりますね。


次にG中根雪江宅跡に向かいました。FF中根雪江像から結構近いんですが、大体ここだろうというぐらいの感じのメモ書きだったので、てこずりました。今回、メモがあるから、時間がかかりながらも見つけられましたが、普段、この場所を通っている人でもなかなか気づかずに通り過ぎているのでは無いでしょうか。特に普通の家にさり気無くある場合は、それに該当しますね。


↑G中根雪江宅跡ですが、わかりますか。矢印の所にあります。お隣は会計事務所でした。



↑G中根雪江宅跡(拡大)。



中根雪江関係を探した後、東の方に直進し「福井市立郷土歴史博物館」に向かいました。この博物館は松平春嶽を中心とした史料が展示されています。福井の歴史も原始時代から現代まで振り返ってはいるものの、やはり幕末の史料や江戸時代の福井藩城下町の歴史を扱っています。

郷土歴史博物館に行ってみると、早速入口にH松平春嶽公像があります。


↑福井市立郷土歴史博物館、入口付近




↑博物館入口付近にH松平春嶽公像があります。仙嶽宗紀書。



H松平春嶽公像拡大。





入口には銅像以外にも、松平春嶽の和歌もありました。
「ふるき世の その面かけを 忍ふには  ふみより外に しく物そなき 慶永」


では早速入ってみましょう。入るとすぐロビーがあり、ここまでは写真撮影が可能です。
ロビーには橋本左内像と坂本龍馬像があります。


↑橋本左内先生像


↑橋本左内先生像、拡大。



↑坂本龍馬先生之像。

橋本左内像はわかるにしても、なぜここに坂本龍馬像が?

その答えは「福井市立郷土歴史博物館」と「高知市立龍馬の生まれたまち記念館」が、姉妹友好館提携を結んでいるからだそうです。福井市と高知市の両市長の友好提携のサインがありました。



丁度、僕が福井に行ったときは「和歌の美」という特別展が開かれており、和歌に縁の無い僕にとって入館するべきか悩みましたが、結果、入ってみて正解でした。なんと和歌は松平春嶽が中心に、三条実美等の公卿衆の和歌も展示されていました。和歌を収納する入れ物や硯入れが漆で作られており、その高級感に驚かされました。この時代の和歌というものの重要性が感じ取ることができました。


最後に、出入り口付近にある図録コーナーを見てみると、過去にこの博物館で「橋本左内と安政の大獄」という特別展があったそうで、その図録を購入しました。帰りの電車でゆっくりと見るのに、丁度良いです。こういう図録は地元しか売っていないので、幕末ものがあれば購入することにしています。


↑郷土歴史博物館の図録コーナーで購入した「橋本左内と安政の大獄」。2009年度に開催されていたそうです。



「福井市立郷土歴史博物館」を出て、どんどんJR福井駅に戻っていきます。
次に、福井城周辺を散策しに行くことにしました。


(つづく)






 

坂本龍馬・福井編(4)
2010.12.10 [Fri] 21:33

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九十九橋を渡り、芦原街道を北に少し進むと、右斜めに直進できる道があります。(地図↑)そこを直進すると、さくら通りに出ます。そのまま北上し、途中、川がある所を右折していくとG橋本左内先生誕生の地があります。(地図参照)



いやぁ、この場所を探し出すのに、またもや時間を費やしてしまいましたよ。確かにこの周辺なのだが…、一向に見つかりません。30分ぐらいウロウロしてたでしょうか。一旦、休憩しようと、別の道から戻った時にやっと見つかりました。G橋本左内先生誕生の地は現在、一般の家になっており、その中に碑が残されていました。


↑橋本左内誕生地周辺には、このような小さな川が流れています。これはもしかしたら福井城の外堀の名残かもしれませんね。



↑アンティーク雑貨「Handle」。ここで道を聞こうと店に入りましたが、どうやら誰もいなかったようで、残念ながらすぐに退散しました。この辺りは住宅街なので、目立ってました。






↑やっとたどり着きました。G橋本左内先生誕生の地です。この通り住宅の中にあるので、なかなか気づきません。





↑橋本左内宅跡の碑




↑左内公園にもあった橋本左内の「啓発録」。内容は同じです。





↑左内先生・初湯の井



↑橋本左内の家紋・五七の桐が彫られています。




↑初めて行かれる方は必ず住所を控えていってください。橋本左内誕生の地は、「福井市春山2丁目9」です。


井伊直弼が大老になった安政、その頃「将軍継嗣問題」が起こっていました。一橋派と南紀派です。その中で、一橋慶喜を推すグループに徳川斉昭(水戸)、島津斉彬(薩摩)、そして松平春嶽(越前)がいました。松平春獄の側近として京都を中心に活動をしていたのが橋本左内。そして島津斉彬の側近として活動してたのが西郷隆盛です。

井伊直弼や長野主膳は京都に密偵を送っていたため、西郷や橋本左内、梅田雲浜らが行った朝廷・公卿への働きかけが筒抜けになっており、それが一気に安政の大獄に繋がってしまいました。橋本左内はこの幕末初期の段階で、明治時代に進んででいった道、富国強兵や開国通商といった方向性を見出していたのです。それを支持していたのが西郷達でした。

そういう意味でも彼の死が非常に悔やまれます。彼が生きていたら明治時代がもっと変わったかもしれませんね。


(つづく)