自衛権?!

May 13 [Mon], 2013, 16:25
「歴史通」(2010.3)

「薩英戦争と下関戦争「常識のウソ」ホントは薩長が勝っていた!」(作家 三野正洋氏)から.

〔馬関戦争〕

一八六四年(元治元年)八月五日,英仏蘭米「四国連合艦隊」は長州攻撃開始.長州藩は兵力の大半を京都に送っており,同じ年の七月には「蛤御門の変」(禁門戦争)を惹起していた.連合軍の迎撃に動員できたのは二千人しかなく,山縣有朋率いる「奇兵隊」が奮戦した.

「連合艦隊は,長州藩の砲台を全滅させると,海兵隊,陸戦隊を上陸させ,これらを占領する.」

「その一方で,上陸軍は物陰から飛来する狙撃手の銃弾に悩まされ,早々に撤収を決め,戦利品の青銅砲を持ち去った.」「しかし,この戦闘における人的被害は,後述のごとく連合軍側にとって決して軽いものではなかった.」「連合艦隊は,関門海峡の最狭部(わずか六百メートル)には近づかず,薩英戦争の教訓を活かして,長州藩の砲台の射程外から攻撃した.それでも数隻が命中弾を受けている」

マスカラの塗り方

長州側は四十七

連合軍は六十二

「これらは砲撃戦によるものより,上陸したあとに行われた陸上戦闘によって生じたものと思われる.とくに短艇(船載のボート)から砂浜に上陸するときに狙撃され,死傷者を出した.」

「この頃のイギリス,アメリカ,他のヨーロッパの国々は「相手が強いと知れば交渉,弱いとみれば力によって権益を奪う」政策をとっていた.実力行使もためらわない,まさにかつて言われたところの“砲艦外交”であった」(中略)「生麦事件の賠償にしても,死亡一名,負傷二名に対してイギリスはこの年」(1862)「の五月に十万ポンドをすでに受け取っている.」「そのうえ,これとは別に薩摩藩に犯人の引き渡しと二万五千ポンドを要求した.そしてこれを拒否されると,艦隊を送ってきたのである.」

「その一方で,激しい反撃にあうと先の要求を繰り返すことはなかった.これが当時の列強なのである」

「長州藩は薩摩と同様,幕府に肩代わりさせる形で三百万ドルという巨額の賠償金を払ったものの,彦島の引き渡しは拒否することができた.交渉にのぞんだのは幕末の志士の一人,高杉晋作である.」

「生麦事件とは,一八六二年(文久二年),横浜の生麦で薩摩藩士がイギリス人を殺傷した事件を指す.」「幕府はあわてて謝罪し,十万ポンド相当の賠償金を支払っているが,それでもイギリス側は満足せず,薩英戦争が勃発する事態に」略
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