「マッドマックス2」<5点> 

June 18 [Sun], 2017, 23:59


荒廃した地球、入り乱れる暴力と狂気。
「映画」のみならず、漫画、小説、様々な表現において、その後デフォルトとなったこの「イメージ」を発明し、創り上げたこの映画の価値と衝撃は、如何なるものだったのだろう。
今作の製作年と同じ1981年生まれの映画ファンにとっては、伝え聞くその衝撃は、言葉通り“伝説”の範疇を出ず、非常に口惜しく思う。

2015年の大衝撃作「マッドマックス 怒りのデス・ロード(Mad Max: Fury Road)」が、“マッドマックス”初体験だった。その直後に第一作「マッドマックス」を観て、今回ようやく「2」の鑑賞に至った。
ある意味必然的なことなのかもしれないが、伝説的なこの2作に対して、伝説通りの衝撃を受けることは出来なかった。

“カルト”であることは理解できる。いろいろと、どうかしている映画である。
だからこそ、レジェンド化され過ぎなんじゃないかとも思う。
非常に実験的でもあり、破れかぶれの映画であり、だからこそ世界中のボンクラ映画ファンの心を掴んで離さなかったのだろう。


「マッドマックス2 Mad Max 2」
1981年【米】
鑑賞環境:VOD(Netflix・字幕)
評価:5点

予告編

「スプリット」<8点> 

June 14 [Wed], 2017, 23:15


冒頭、文字通りに“恐怖”と隣り合わせになった少女の一寸の逡巡。
あまりにも突然な危機との遭遇に対して硬直してしまっているようにも見えるが、どこか逃げ出すことをためらっているようにも見える。
孤独な少女は、逃げることが出来なかったのではなく、直感的に“恐怖”の正体に“何か”を感じ、一人抱え続けてきた地獄を切り裂いてくれる“何か”に期待したのではないか。
即ち、この映画は、主人公の少女が恐怖から逃げ切る物語ではなく、恐怖に対して向かい合うことで、自分自身が抱える恐れを曝け出す物語だったのだと思う。

ある意味予想通りではあるが、変な映画である。
M・ナイト・シャマランの最新作に対して“真っ当さ”を期待することがそもそもナンセンス。鬼才監督の思惑通りに、恐怖と奇妙なカタルシスに覆い尽くされる。

アルフレッド・ヒッチコックの「サイコ」を皮切りに、「多重人格」を描いたサスペンスは世界中の映画シーンで数多く製作されている。
今作も、そういった過去作のテイストを踏まえた類似点やオマージュは見受けられるが、本質的には、そのどの作品とも一線を画する映画に仕上がっていると思う。(好き嫌いは別にして……)

多重人格を描くにあたり、最もキーポイントになってくるのは、やはり演者の力量だろう。
今作で“多重人格者”にキャスティングされたジェームズ・マカヴォイがどうだったか、まあ圧倒的である。
いまやハリウッドきっての芸達者と言えるこのスター俳優が、流石に素晴らしいパフォーマンスを見せる。
そもそもが、人間の光と闇を同時に醸し出す雰囲気を持つ俳優なので、この映画での色々な意味で“新しい”多重人格者役は、まさにハマり役だったと言えよう。
終盤以降、複数の人格がワンカットの中で矢継ぎ早に現れては入れ替わる様は凄まじかった。


この映画は、異常な多重人格者に囚われた少女たちが、絶体絶命な危機的状況から逃げ出そうとする恐怖映画としてイントロダクションされている。
しかし、ある意味当然ながら、それはシャマラン監督によるミスリードである。
「恐怖」を描いた作品であることは間違いないが、主人公の少女が対峙する「恐怖」は、それを通じて自らが抱え続けてきた恐れと向き合うことで、強大な力に対しての崇拝のようなものも孕んだ「畏怖」へと変化していく。

その心理の変化は我々観客にも与えられる。
だんだんと、ジェームズ・マカヴォイ演じるこの“異常”な多重人格者が気になって仕方なくなる。恐怖を越えて、何か愛着めいたものすら覚えてくる。
「あれ?何かがおかしい」と心のそこでふと気づく。
主人公の少女の顛末よりも、この“超人的”な多重人格者のこの先が観たくなっている。

「え?どういうことだ」
と、思った瞬間に現れる最終カットのまさかのアイツ!
思わず吹き出し、溢れ出る笑みを抑えきれず「すげえ」と呟いてしまった。
シャマラン好きにはタマラン異常で反則的な展開力。
そして、“あのシャマラン映画”が大好きな者としては、殊更にタマラン結末だった。
いやあ、参った。


「スプリット Split」
2017年【米】
鑑賞環境:映画館(字幕)
評価:8点

予告編

「LOGAN/ローガン」<9点> 

June 08 [Thu], 2017, 23:37


軋む。
古い車体が、錆びた鉄扉が、そして満身創痍のヒーローの身体が。
不死身だったはずのヒーローが、老い、拭い去れない悔恨を抱え、死に場所を求めるかのように最後の旅に出る。
メキシコからカナダへ。アメリカを縦断する旅路の意味と、その果てに彼が得たものは何だったろうか。

17年に渡り「X-MEN」シリーズを牽引してきた主人公のラストが、まさかこれほどまでにエモーションに溢れた“ロード・ムービー”として締めくくられるとは思ってもみなかった。
シリーズ過去作のどの作品と比較しても、圧倒的に無骨で不器用な映画である。テンポも非常に鈍重だ。
いわゆる“アメコミヒーロー映画”らしい華やかで派手な趣きは皆無だと言っていい。
だがしかし、どのシリーズ過去作よりも、“ヒーロー”の姿そのものを描いた映画だと思う。

個人的に、長らく「X-MEN」シリーズがあまり好きではなかった。
初期三部作における主人公・ウルヴァリンの、鬱憤と屈折を抱え、あまりのもヒーロー然としないキャラクター性を受け入れるのに時間がかかったからだ。リブートシリーズと、ウルヴァリン単独のスピンオフシリーズを経て、ようやくこの異質なヒーローの本質的な魅力を理解するようになった。
それくらい、このヒーローが抱える憂いと心の闇は深く果てしないものだったのだろうと思う。

そんなアメコミ界においても唯一無二の「異端」であるヒーローが、ついに自らの闇に向かい合い、決着をつける。
おびただしい数の敵を切り裂いてきたアダマンチウムの爪が、これまで以上に生々しく肉をえぐり、四肢を分断し、血みどろに汚れていく。
そして、同時にそのアダマンチウム自体が体内に侵食し、無敵のヒーローの生命を徐々に確実に蝕んでいく。
それはまさしく、“ウルヴァリン”というヒーローの呪われた宿命と業苦の表れだった。

不老不死故に、他の誰よりも、相手を傷つけ、そして傷つけられてきた哀しきヒーローが、ふいに現れた小さな「希望」を必死に抱えて、最後の爪痕を刻みつける。


過去作におけるウルヴァリンというキャラクター故のカタルシスの抑制とそれに伴うフラストレーションは、今作によってそのすべてが解放され、別次元の感動へと昇華された。
それが成し得られたのは、何を置いても主演のヒュー・ジャックマンの俳優力によるところが大きい。
彼は今作で自らのギャランティーを削って、「R指定」を勝ち獲ったらしい。
そこには、“ウルヴァリン”によってスターダムをのし上がったことへの感謝と、このキャラクターのラストを締めくくる上での並々ならぬ意気込みがあったに違いない。
結果、ラストに相応しい見事な“オールドマン・ローガン”を体現してみせたと思う。


「This is what it feels like(ああ、こういう感じか)」

最期の最期、哀しきヒーローは、ついに“それ”を得ることが出来た。
墓標の「X」が涙で滲む。
さようなら、いや、ありがとう、ローガン。


「LOGAN/ローガン LOGAN」
2017年【米】
鑑賞環境:映画館(IMAX2D・字幕)
評価:9点

予告編

「美しい星」<8点> 

June 03 [Sat], 2017, 23:35


ぶっ飛んでいる。
この理解と賛否が分かれることは間違いない映画が、大都市のみならず、地方都市のシネコンにまでかかっていることが、先ず異例だろう。
「桐島、部活やめるってよ」、「紙の月」と立て続けに日本映画史に残るであろう傑作を連発した吉田大八監督の最新作というブランド力が高騰していることが如実に伺える。
そして、その高騰ぶりにまったく萎縮すること無く、この監督は過去のフィルモグラフィーを振り返っても随一にヘンテコリンな映画を作り上げている。無論褒めている。
(亀梨くんの出演のみを目的にした女性客などは大層面食らったことだろう)

三島由紀夫の原作は未読だけれど、あの稀代の小説家が健在の時代であったとしても、たぶん同じように時代を超越したエネルギーに満ち溢れた映画が作られただろうと思う。
そういう意味では、同じく三島由紀夫が江戸川乱歩の小説を戯曲化した「黒蜥蜴」の映画化作品も彷彿とさせる。
即ち、この映画の在り方はまったく正しく、吉田大八監督はまたしても原作小説を見事な“新解釈”を多分に盛り込みつつ素晴らしい映画世界を構築してみせたのだと思う。

この映画は、冒頭から最後の最後まで、SFと幻想の境界線を絶妙なバランス感覚で渡りきる。
そのバランスの中心に描かれるのは、人間の営みの中に巣食う可笑しさと、表裏一体に存在する恐ろしさと愚かさ。
その時に暴力的で破滅的ですらある「滑稽」が、ありふれた一つの「家族」に描きつけられる。

終始、可笑しくて、笑いが止まらない。
ただ、だからこそ、この世界の危うさの核心を鷲掴みにされているような痛さとおぞましさも感じ続けなければならなかった。

人間社会の滅亡を開始する“ボタン”は空洞だった。
人類は許されたのか?勿論、違う。
謎の宇宙人がその強大な力を振るうまでもなく、人類は勝手に滅亡に向けて突き進んでいる。

優しい火星人が「美しい星だ」と名残惜しんでくれているうちに、なんとかしなければ。


「美しい星」
2017年【日】
鑑賞環境:映画館
評価:8点

予告編

「ウォー・マシーン:戦争は話術だ!」<9点> 

May 28 [Sun], 2017, 2:42


主人公の米軍エリート大将は、ストイックな男。
毎朝の11kmのランニングを欠かさず、食事は一日一回、4時間しか眠らない。
劇中何度も描写される彼の絶妙に滑稽なランニングフォームが可笑しい。
そこには、この「戦争についての映画」におけるシニカルな悪意が凝縮されているように思えた。

さて、この映画は、「戦争映画」だろうか。
勿論、「9・11」に端を発した「アフガニスタン紛争」の“現場”を描いている以上、風刺とコメディがふんだんに盛り込まれてはいるが、「戦争映画」だと認識することが普通だろう。
しかし、この映画の作り手は、描かれていることが「戦争」であるということを絶妙なさじ加減で終始ぼかし続ける。

冒頭、国際空港の便所で用を足した後、意気揚々と闊歩し、「勝ちに行くぞ」と兵士たちに発破をかける主人公の陸軍大将の姿は、まるでやる気のないスポーツチームを率いる少々間の抜けたコーチのようだ。
その後駐留地を目の当たりにした大将は、「ここの連中は戦争だということを忘れている」と嘆く。
それは米軍の兵士に限ったことではない。連合諸国の兵士は勿論、大使をはじめとする米国政府の面々も、現地のアフガニスタン兵や国家元首すら、それが「戦争」であることの意識が希薄になっている……ように見える。

大将は、あらゆる場所で“熱弁”をふるう。
この「戦争」の意味と価値を、各所で、兵士、政治家、民衆、記者、様々な人に説いて回る。
どの場面でも、大将の演説はとても情熱的だ。劇中、ティルダ・スウィントン演じるドイツ人議員の指摘にも含まれていたように、「大将は善い人」だと思う。この人物が本当に信念をもって任務に臨んでいることは誰の目にも明らかだ。

しかし、悲しきかな彼の言葉に、説得力を伴う「中身」は無い。
それは、彼が己の人生を通して信念を懸ける「戦争」そのものに、中身がないからだ。
そして、逆説的に彼の存在そのものが、この「戦争」の空虚さとイコールであることが、徐々に確実に露わになってくる。

熱き大将は、嘆く。戦争であることを認識していない本国、そして世界に対しての壮絶なジレンマに苛まれる。
でも、現実はそうではないのだ。
「戦争」というものに、彼が求める「理想」が本来はあったのだとしても、そんなものはとうの昔に無くなっている。

そんな“今”の「空虚な戦争」において、古ぼけた理想を掲げる軍人がいくら熱弁を振るおうとも、何かが伝わるはずもない。何処から来て、何処へ行くのかすら伝わらない。
そこには、巨大な虚無感が横たわっているようだった。


ブラッド・ピットがあらゆる意味で素晴らしい。
製作者としてネット配信限定の映画製作を担うにあたり、その性質を最大限に活かした題材と手法と作品規模で、オリジナリティに溢れる作品を仕上げてみせたと思う。
そして同時に、スター俳優としてベストパフォーマンスを見せている。時期的にアカデミー賞ノミネートは狙えないのかもしれないが、間違いなくそのレベルであり、少なくともこのスター俳優の新たな代表作の一つとなったことは確かだろう。


空虚な戦争を続ける空虚な大国は反省などしない。
では何をするのか?クビにして後任を送るのだ。
後任として送られてきたまさかの「ボブ」の闊歩を目の当たりにして、最後の最後までブラックな笑いと虚無感の増大が止まらなかった。

それにしても、このレベルの戦争映画がネット配信限定で公開される時代か。
作品内容に対する邦題の的外れ感は罪だが、映画の在り方は今後益々多様化していくのだろうな。


「ウォー・マシーン:戦争は話術だ! WAR MACHINE」
2017年【米】
鑑賞環境:VOD(Netflix・字幕)
評価:9点

予告編

「メッセージ」<10点> 

May 20 [Sat], 2017, 23:05


人類が、“ただなんとなく”明確な「希望」を見い出せなくなって久しい。
つい昨日も、英国でまたテロ事件が起きた。不安と脅威に怯え、「対話」する勇気を持つことが出来ない愚か者たちによる蛮行が後を絶たない。

時の流れに縛り付けられ、今この瞬間にも訪れるかもしれない得体の知れない恐怖に、全人類は焦り、怯え続けている。このまま希望を見出だせない人類には、進化はなく、必然的に未来も無くなってしまうだろう。

このSF映画は、そんな今この瞬間の人類全体に対しての警鐘と救済を等しく描き出す。

「言語」とは、「思考」の具現化であり、即ち未知なる言語との邂逅と会得は、それまで想像すらもし得なかったまったく新しい思考を繰り広げられるようになるということ。
そしてそれが、人類が長らく縛り付けられていた「時間」という概念を超越する手段になる、という科学的空想。

突然現れた“前後ろ”のない来訪者が、時間の概念が存在しない「円」で表された言語を人類に提示する。
荒唐無稽ではある。
幻想的かつ錯綜的な表現も手伝って、非現実的に美しい映画世界はファンタジーのようにも見える。
だけれども、これは紛れもない“SF”の傑作であると思う。
科学的に説明尽くせることがSFではない。科学的に説明できないことの空想こそがSFであり、その追求こそが「科学」なのだ。

来訪者によって与えられた「武器」=「言語」を、全人類に先駆けて受け取った主人公は、自らの運命とその意味を即座に理解し、受け入れる。
それは、“進化をしていない”人類にとっては、あまりに過酷で、残酷で、受け入れ難い運命かもしれないけれど、彼女を通じて、その進化の意味の一端を理解した我々は、感動的な充足感に呑み込まれる。

ふと、自分自身のことを顧みてみる。
自分の子が生まれて早くも6年の月日が経とうとしている。二人の子に恵まれ、幸福な日々を過ごしている。
ただ、この6年間ずうっと心の片隅で痛感してきたことだが、幸運にもかけがえのない大切な存在を抱えるということは、同時に、それを失ってしまうかもしれないという恐怖を抱えるということでもある。
それは、悲観的だとか、不謹慎だということではなく、必然的な事実であろう。
その恐怖を否定することは、同時に存在する幸福をも否定することであり、決して逃れることはできない。

この映画の主人公が、「言語」を理解したと同時に解したことは、そういう人生における普遍的な真理だ。
大切なものを失ってしまう悲しみよりも、その大切なものに出会えなかったことを想像する方が、何倍も、いや何万倍も悲しい。
SF映画の新たな傑作を目の当たりにして、涙が止まらなかった。


「メッセージ Arrival」
2016年【米】
鑑賞環境:映画館(字幕)
評価:10点

予告編

「 ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー リミックス」<9点> 

May 16 [Tue], 2017, 23:55


絆、きずな、キズナと安直に謳う映画は多いけれど、果たしてその内のどれくらいの作品がその実態を描けているだろうか。甚だ懐疑的である。
そんな数多くの“エセ絆映画”に対して、持ち前のハイテンションとノリの良さを全面に打ち出しながらも、「絆」というものの本質をストレートにぶちかましてくる。
世間の期待値を遥かに上回る世界的大ヒットとなった前作も勿論存分に楽しんだけれど、個人的には前作を遥かに越える満足度の高さに対して、エンドロールを観ながら恍惚としてしまった。

前作では、全編通して繰り広げられる70年代ヒットチャートが世代的に今ひとつ突き刺さらなかったことと、個々のキャラクターが魅力的だからこそ生じた描き込みの物足りなさに、ノリ切れなかったことも事実だった。
しかし、今作では、オープニングクレジットと共に繰り広げられるスペクタクルシーン+ベビー・グルートのキュート過ぎるダンスシーンに、一気に心が鷲掴みにされた。
そして、続編故にガーディアンズの面々の“チーム感”と個々のキャラクター性は、序盤から細やかに描き込まれており、彼らが織りなす大エンターテイメントにすんなりと呑み込まれることができた。

ガーディアンズの面々は前作以上に魅力的に描かれている。
しかし、何と言っても今作のMVPは、前作に引き続きマイケル・ルーカーが演じた“ヨンドゥ・ウドンダ”以外にあり得ないだろう。
個人的には前作においても、ハイライトと思えたシーンは、敵の大群に囲まれ絶体絶命に見えたヨンドゥが唯一無二の武器「ヤカ」で大群を蹴散らすシーンだった。
今作でも、失意のどん底に突き落とされたヨンドゥが、見紛うことなき“リーゼント”を模した赤いフィンを頭頂部に差し込み、起死回生の美しすぎる大逆転シーンを見せつける。

またしてもハイライトをかっさらったこの青い肌の宇宙盗賊の首領は、今作の主題の核心的なキャラクターとして存在感を終始発揮し、世界中の映画ファンに永遠に愛し続けられるであろうキャラクターへと昇華する。
「クリフハンガー(1993)」以来のマイケル・ルーカーファンとしては、彼が演じたこのキャラクターの昇華は堪らない。因みに雪が降り積もる場面でのシルヴェスター・スタローンとの対峙シーンは、完全に「クリフハンガー」オマージュだろう。

これでもかと繰り広げられるスペクタクルを心ゆくまで楽しむべき大エンターテイメント映画であることは間違いないが、主軸となるストーリーラインには、人と人とが繋がること、または離れることで生じる避けがたい辛苦や残酷性も孕まれている。そのあたりには、ジェームズ・ガン監督ならではのシビアさも多分に反映されていると思えた。


これは紛れもない「家族」にまつわる映画である。
理屈ではない。心で動かすのだ。青い無頼漢が操る縦横無尽の赤い矢が心に突き刺さる。
文句なしにノックアウト!号泣メーン!


「 ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー リミックス Guardians of the Galaxy Vol. 2」
2017年【米】
鑑賞環境:映画館(字幕)
評価:9点

予告編

「ワイルド・スピード ICE BREAK」<8点> 

May 09 [Tue], 2017, 23:16


冒頭、「Fast & Furious 8」とタイトルが掲げられ、いつものようにストリートレースを挑まれた主人公がハバナの街を激走する。
シリーズ8作目にして、公開されるやいなや喜び勇んで映画館に足を運び、お決まりのレースシーンに早速高揚させられた時点で、この映画を否定する余地は微塵もなかった。勿論端からそのつもりはないのだけれど。
言わずもがなこのカーアクション映画シリーズの大ファンである。
決して自動車自体に強い興味があるわけではない僕を虜にして久しい今シリーズの稀有なエンターテイメント性はもはや奇跡的であるとすら思う。

ただし、この最新作に対して不安が無かったわけではない。
前作「SKY MISSION」は、ヴィン・ディーゼルと共に主人公を演じてきたポール・ウォーカーの急逝を乗り越え、彼と彼が存在したこの映画世界に対する多大な慈愛に満ち溢れたまさに奇跡的なアクション映画だった。
傑作の後を受け、必然的に新たなキャラクターバランスの構築を余儀なくされたこの最新作が、果たしてどんな仕上がりになっているのか、期待と不安は入り混じっていたと言える。

しかし、様々な苦難を乗り越えながら“PART8”まで作られてきた今シリーズの底力は伊達ではない。
これまで幾度も「強引」という言葉を覆い隠す「豪快」な展開により、映画世界そのもののテイストやキャラクター設定すらも変革してきた今シリーズだからこそ許される「前作までのキャラ設定ほぼ無視」の展開力により、新たな娯楽性の付加に成功している。
過去作での出来事を振り返れば、「さすがに強引過ぎる」という意見も分からなくはないけれど、もはやそんなことに目くじらを立てていては、目の前で繰り広げられる圧倒的娯楽性に対して勿体無いと思える。
そして、ジェイソン・ステイサムのファンとしては、アレほどこのアクションスターに相応しいアクションシーンを見せられては、諸手を挙げてニヤニヤするしかなかった。

おそらくは次回作以降もラスボスとして存在するのであろうシャーリーズ・セロンの“絶対悪”感も最高だった。
いよいよ筋肉バカだらけになってきた熱苦しい映画世界の中で、まさに氷の女王のような冷ややかな美しさと悪意がほとばしるこのアカデミー賞女優の存在感は、見事に新たなキャラクターバランスを構築していると思う。

キューバ・ハバナを激走するファーストシーンで明らかなように、この地球上に走っていない場所がある限り、このシリーズは新たな娯楽性を生み出し続けられるとすら思う。
アクション映画として体感スピードは10点満点。さあ、次はどこを走るのか。


「ワイルド・スピード ICE BREAK Fast & Furious 8」
2017年【アメリカ】
鑑賞環境:映画館(字幕)
評価:8点

予告編

「カジノ」<9点> 

May 06 [Sat], 2017, 2:30


時は70年代、ラスベガスがまだマフィアの支配下にあった時代。
決して臆すること無く彼らは「欲望」の波を奪い合う。ある者はビッグウェーブを乗り越え、ある者は呑み込まれ藻屑と消える。
ただし、この街は一人の者が勝ち続けることを絶対に許さない。
幾つもの大波を越えた強者であっても、一寸の揺らぎで途端に波に呑まれ、溺れて沈む。

そこからすんでのところで、“生還”した者が、本当に追い求めていたものは、ただただ純粋な愛だった。

そんな哀しくて、虚しくて、愚かで、残酷で、ギラついた夜が延々と続いた時代が、凄まじい「映画力」によって描き出される。
圧倒的な3時間。凄い。


マーティン・スコセッシ×ロバート・デ・ニーロ、かつてこの二人がハリウッドにおける「最強タッグ」として数々の大傑作を映画史に残してきたことは当然認識していたが、実際に観ていたのは「タクシードライバー」と「ケープ・フィアー」くらいだった。
1981年生まれの映画ファンにとっては、スコセッシ監督作の主演俳優といえば、デ・ニーロよりも、レオナルド・ディカプリオの方が印象強く、実際作品を漏れなく鑑賞しているもそちらである。
しかし、今更ながら往年の「最強タッグ」の最後(2017年時点)の作品を観て、偉大な監督と偉大な俳優の映画愛と野心に溢れた映画世界に圧倒された。
そして、22年前の今作を、今まで鑑賞していなかったことを激しく後悔した。

何と言ってもロバート・デ・ニーロの存在感が素晴らしい。
今作の主人公である“エース”は、他作でデ・ニーロが演じてきたキャラクターと比較すると、決して激情的なキャラクターではない。努めて冷静に物事を見据え、対処し、物語の舞台であるカジノを支配する。
キャラクター的な激しさを捉えたならば、脇を固めるジョー・ペシ演じる“ニッキー”やシャロン・ストーン演じる“ジンジャー”の方がよっぽど激しく暴れまわる。実際、この二人の演技も物凄い。
しかし、やはり映画を支配しているのは、ロバート・デ・ニーロだ。
実在した天才賭博師を演じきった彼の佇まいには、長年組んできたマーティン・スコセッシに対する絶大な信頼に裏打ちされた映画俳優としての“極み”を感じた。

兎にも角にも、マーティン・スコセッシ×ロバート・デ・ニーロの未見作があることは、映画ファンとして恥ずべきことだけれど、逆に言えば、「レイジング・ブル」も「グッドフェローズ」もこれから“初見”できるわけで。
それはそれでハッピーなことだと思う。


「カジノ Casino」
1995年【アメリカ】
鑑賞環境:VOD(Netflix・字幕)
評価:9点

予告編

「映画 はなかっぱ 花さけ!パッカ〜ん♪蝶の国の大冒険」<6点> 

May 05 [Fri], 2017, 22:58


ゴールデンウィークの最中、子どもたちの暇つぶしに、某動画配信サービス内で見つけた今作を観始めた。
「はなかっぱ」は、今現在幼児を育てている家庭であれば、圧倒的な割合で毎朝観ているアニメ番組ではなかろうか。
因みにウチでは、この番組が終わるタイミングまでに支度を終わらせ、全員で家を出るのが日課となっている。

自分の子どもが生まれるまでは、「はなかっぱ」というアニメキャラクターの認知すら殆ど無かった。
最初のうちは、完全なる幼児向けアニメだろうと流し見していたけれど、次第にナンセンスでシュールなキャラクターたちに愛着を持ち始めてきた。
頭から花を咲かせるって、なんて能天気なキャラクターなんだと思っていたが、成長を通じて自分らしい花を咲かせようというそのテーマ性を知ってからは、「なんて真っ当な子供向けアニメなんだ」と思うようになった。さすがはEテレである。

とは言え、「はなかっぱ」の映画化なんて、作品規模に似つかわしくなく大袈裟だろうと思っていたが、これが意外にも泣けた。
クライマックスで見せるはなかっぱの怒涛の攻撃シーンには、まさかの高揚感を覚え、そして横たわる母に向かって号泣するさまに涙腺が緩みそうになった。

アニメの悲しいシーンや可哀想なシーンでは必ずと言っていいほど泣き出してしまう我が愛娘は、はなかっぱの号泣シーンを我慢してじっと観ていたが、ふいに背後に自分の母親の存在を感じたらしく、途端に大号泣。
その様子を見ていた僕は、彼女が泣き出す瞬間の表情の変化を目の当たりにして、より一層胸が熱くなった。

人の親になって日々身に沁みていることだが、子の成長ほど感動的なことはない。
当たり前だが、それは自分のすべてを投げ売ってでも、守るに値するものだ。
自分の子どもたちが、頭にどんな「花」を咲かせるのか。
まんまとこのゆるーいキャラクターに感化されてしまっているが、楽しみでならない。


「映画 はなかっぱ 花さけ!パッカ〜ん♪蝶の国の大冒険」
2013年【日本】
鑑賞環境:VOD(Netflix)
評価:6点

予告編
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映画の善し悪しは、結局、「好き」か「嫌い」かだと思う。 つらつらと語ってみたところで、詰まるところ、それ以上でも以下でもない。 それで良いのだろうと思う。