「スーサイド・スクワッド」<6点> 

September 18 [Sun], 2016, 23:24


トレーラーの段階では、今年随一の期待値を生んだ映画だったけれど………。結論から言うと、“マーゴット・ロビーがサイコーなだけの映画”だった。
マーゴット・ロビーが扮する“ハーレイ・クイン”の存在が無かったとしたら、年間ワースト級の駄作とこき下ろしていたところだろう。
逆に言うと、“ハーレイ・クイン”という新たなポップアイコンを誕生させたことだけで、今作の存在価値は充分にあると思える。
“ジョーカー”を愛し、崇拝する絶対的な狂気性の中で、笑い、怒り、泣き、激情のまま縦横無尽に暴れまわる彼女の存在感そのものに「虜」になってしまうことは請け合いで、陳腐な映画の本筋に反して、彼女の存在感のみが常にエンターテイメント性に溢れていた。
トレーラーの段階で、この映画に対する最大の目的は「彼女」だったので、想定通りの満足感は得られたと言っていい。

だからこそ、この映画、もっと愛すべき映画になり得た可能性は充分にあったと思う。
まあ何と言っても、ストーリーがチープでメタメタ過ぎる。気鋭のデヴィッド・エアーが監督・脚本を務めながら、どうしてこれほどまで薄っぺらい映画に仕上がってしまったのか、正直理解に苦しむ。
悪党集団を主人公にした過去の成功作はいくらでもあろうし、デヴィッド・エアー自身の過去作においても正義と悪の境界をテーマにした秀作が幾つもあるのだから、今作においてももっと巧い描き方が出来たはずだ。

今作に登場する“悪党”たちは、基本的にはただの“いいヤツ”として描かれ、悪党集団であることの意味や面白みがまったく描かれていなかった。
そもそもアメコミ世界のヴィランズを主人公に据えた作品なのだから、もっと漫画的に、彼らに相応しい“悪ノリ”を繰り広げて然るべきだったと思う。
ハーレイ・クインはもとより、ジャレッド・レトが精力的に演じたジョーカーも、「ダークナイト」のヒース・レジャー版とはまた異なった“ピエロ像”を魅力的に醸し出すことが出来ていただけに、チープなストーリーテリングの中で“極悪カップル”が浮いているように見え、大変勿体なかった。
ウィル・スミスが演じたデッドショットは、この映画においてはまったく存在価値がなく、どう転んでも“いいヤツ”にしか見えないこのスター俳優の役づくりとキャスティングにも問題があったと思う。

と、駄作点はツッコみだすと枚挙にいとまがない作品である。
“あの大富豪”もメインキャストにクレジットされていないわりに、序盤からちょこちょこ出過ぎである。
どうしても比較の対象になるが、“トニー・スターク”ならば、もっと“狡猾”にもったいぶってエンドクレジット後のシークエンスのみにドヤ顔で登場したことだろう。
そのあたり、相変わらず“マーベル”に比べて“DC”の愚鈍さと稚拙さが目についた。“ジャスティス・リーグ”への展望はまだまだ薄暗い……。


とはいえ、何度も言うが、マーゴット・ロビーの“ハーレイ・クイン”はサイコーである。
彼女を観るためだけに、僕はこの映画をまた観るだろう。続編やスピンオフ作品があるなら期待したい。

“ノーマル生活”の描写の方がよっぽど「悪女」に見えたマーゴット・ロビーの今後の活躍にも大いに期待したい。


「スーサイド・スクワッド Suicide Squad」
2016年【米】
鑑賞環境:映画館(IMAX3D・字幕)
評価:6点

「君の名は。」<9点> 

September 14 [Wed], 2016, 0:00


「独りよがり」な映画である。
普通この言い回しには、多分に否定的な意味が含まれているものだが、新海誠というアニメーション監督が生み出す作品においては、それは必ずしも当てはまらない。
「独りよがり」だからこそ、表すことができる「美学」と「美意識」。それがこの監督の作品の唯一無二の魅力だと思う。

他に類を見ないあまりにも美しいアニメーション表現が、やはり素晴らしかった。
ただ、この監督の過去作には、その“美しさ”が際立つあまり、ただただそれに自己陶酔しているだけに見える作品があったことも否めない。

特に前作「言の葉の庭」は、むせび泣くように降り続ける雨に包まれた街並みが美しい映画ではあったけれど、そこに描き出された物語は、ひたすらに“青臭い”ばかりで、まったく感情移入することが出来なかった。
それは、独善主義的に、自らの美意識を追求する新海誠作品ならではの、孕まざるを得ない“あやうさ”だったようにも思う。
新海誠の名を知らしめた名作「秒速5センチメートル」にも、その“あやうさ”はあった。
そして、今作においてもその側面が無くなったわけではない。
主人公たちの言動はやはり青臭く、ストーリーテリングには都合のいい自己満足感が溢れている。

でも、今作においては、その青臭くて、独りよがりな描写そのものが、何にも代え難いエモーションとして、満ち満ちている。

“星降る夜”という数多の表現作品の中で、“美しきもの”として表されてきたものが孕む圧倒的な神々しさと絶対的な脅威。
それは、美しすぎるものが併せ持つ荘厳さと残酷さの象徴だったように思う。
そして、その美しさと残酷さは、そのまま主人公二人の“若さ”に直結する。
若く、未成熟な彼らは、安直で直情的であまりに危うい。でもだからこそ、何よりも美しくて、エネルギーに溢れている。

その美しいエネルギーは、“流星”のそれを遥かに凌駕し、神にも抗う。
それこそが、この映画が最も描き出したかったことなのだと思える。

「過去」は、どうやったって変えられない。
身近な交通事故から“3.11”のような天変地異に至るまで、ありとあらゆる悲劇を目の当たりにしてきている人々は、そのことをよく知っている。
ただし、その「理」を、強引だろうが、無謀だろうが、ご都合主義的だろうが、人物の“感情の力”一つだけで時に覆してしまえることも、「映画」に許されたマジックだ。と、思う。

世界が終わるその間際だろうと、ついに果たせた焦がれた人との邂逅においては、状況を忘れて、その人と話し触れ合うことだけに没頭する。
「そんなことをしている場合か」という非難は、あまりに無意味だ。
若者たちのその無垢な「感情」と「行動」こそが、世界を救う唯一の「方法」だと、この映画は伝えているのだから。


繰り返しになるが、独りよがりで、青臭い映画であることは間違いない。
この種のストーリーを繰り広げるのであれば、辻褄が合わない点もあまりに多過ぎたと思う。
これだけ素晴らしい作品なのだから、ディティール面でもう少し他者の介入があったならば、もっと絶対的な名作になっていたのでは。と、思わなくはない。
けれど、思い直す。
この肯定と否定が渦巻く不完全さこそが、この作品が表現することの価値なのだろう。
若い二人が、町よりも、世界よりも、何よりも先ず「君」のことを思って、闇雲でもなんでも全力で何かに向かって走る。
そのエモーションに勝るものなど、実際無いのかもしれない。

恐らく、いやほぼ確定的に、この作品の社会現象的な大ヒットに伴って、新海誠監督の次作には、更に潤沢な環境と引き換えに、ありとあらゆる制限としがらみが生まれることだろう。
その時、この“独りよがり”なアニメーション監督が、一体どのようにして、どのような作品を生み出すのか。
今から、不安と期待が入り交じる。


「君の名は。 YOUR NAME.」
2016年【日】
鑑賞環境:映画館
評価:9点

「ソロモンの偽証 後篇・裁判」<3点> 

September 11 [Sun], 2016, 0:28


「前編・事件」は、少年少女たちの成長譚的側面が、ミステリー要素以上に色濃く展開され、歪な仕上がりではあったけれどエモーショナルな映画として見応えがあった。
この「後編・裁判」には、そういった少年少女たちの成長の行く末と、それの根幹に関わる事件の真相が詳らかになる展開に期待したのだが、大いに肩透かしを食らってしまった。
結論としては、前編の佳作ぶりを一蹴してしまう程の「駄作」だったと思う。

何と言っても最大の問題点は、真相の核心として存在する“柏木少年”の浅はかさだ。
当然ながら、前後編通じてこの物語の最たるキーパーソンである彼の存在性自体が、あれ程までに脆く軽薄であることは、ストーリーテリング上致命的な欠陥であり、文字通り“救えない”。

柏木少年を演じた望月歩くん自体は、今作が俳優デビューであるにもかかわらず、ある種の悪魔的存在感を醸し出そうと一生懸命役づくりをしていたと思うけれど、キャラクターとして最終的にあのような描かれ方をされてしまっては、ただの愚か過ぎる馬鹿者にしか見えず、正直同情の余地が全く生まれなかった。
逆に、こんな者のために、子どもも大人も含めたすべての登場人物たちが振り回され、何の罪もない少女が巻き添え死に至ってしまったことに対して、憤りしか感じない。

そして、この「裁判」で、一方的に真実を突きつけられ、最も己の罪に苛まれながら「生き地獄」に突き落とされたのは、藤野涼子でも、神原和彦でも、大出俊次でもなく、柏木少年の両親に他ならない。
少なくともこの映画の中においては、この両親の問題性を表す描写は無かった筈なので、ただただ気の毒でならず、不快感極まりなかった。

舞台が「中学校」である以上、どんなに複雑な人間関係を用意したとしても、導き出される「事実」は限定的にならずを得ない。
それに、原作者自身も、現代社会に蔓延する後を絶たない「問題」こそを描きたかったのであろうから、この「事実」ありきだったとは思う。
ならばもっと、その「事実」に至らざるを得なかったもっと根本的な「理由」こそを「真相」として描かなければならなかったと思う。
それが、柏木少年の深層心理なのか、過去のトラウマなのか、はたまた全く別の学校環境なのかは分からないけれど、それを描き出そうとする姿勢が無ければ、この物語自体が、現実社会の「問題」を類型的に、記号的に捉えているように思え、また不快感が募る。

その他の人物の描写においても、この「裁判」を経て、すべてが“良きこと”に繋がったように見せる顛末が、どうにも気持ち悪かった。
それはやはり、結局のところ、本当の真相に誰もたどり着いていないからだと思う。


「ソロモンの偽証 後篇・裁判」
2015年【日】
鑑賞環境:Blu-ray
評価:3点

「ソロモンの偽証 前篇・事件」<7点> 

September 10 [Sat], 2016, 0:26


子どもたちの「顔」が皆良い映画だった。
こういう演技経験の浅い若い俳優たちが主要人物となる映画においてもっとも重要な事は、特別な演技の巧さでもなければ、リアルな実在感などでもなく、彼ら一人一人の顔つきだと思う。
演技がヘタクソなのは当たり前、実際にこんな子どもたちがいないことも当たり前である。顔つき一つで映画としての見応えになり得るかどうか。
この映画において、それは最も重要な要素であり、見事にクリアしていると思う。制作陣が“クラスメイト”を集めるためのオーディションをどれだけ真剣に取り組んだかも明らかだ。

その中でも特に印象的だったのは、やはり主演を務めた藤野涼子だろう。
主人公名と同名で女優デビューを果たしたこの若い女優の存在感と、溢れ出る可能性が素晴らしかったと思う。これはまた磨きがいのある新たな原石が現れたものだと思う。

この宮部みゆき原作の映画化作品がどういう作品かというと、“血塗られた中学生日記”という言い方がしっくりくる。

冒頭のクラスメイトの転落死体発見から始まり、いじめられっ子の事故死と、分岐点となるトピックスは衝撃的だが、ストーリーテリングとしてはそれらを軸として、純真で無知で激情な中学生たちが、動揺し、葛藤し、意見を述べ合うという、かつてNHKで放送されていた「中学生日記」がありありと思い出された。
残酷で不可解なサスペンスを孕んではいるが、本質的にはオーソドックスな学園ドラマであり、家族ドラマであった。
その歪さが、良い意味で独特であり、大林宣彦を髣髴とさせる成島出の極端な演出方法も手伝って、想定外の見応えがあったと思う。

クラスメイトたちの死を立て続けに目の当たりにし、打ちひしがれた主人公は、自分自身を責め、最悪の決意に歩みかける。
ギリギリのところで思いとどまり、幼くも純粋な自身の「正義」にすがるようにして、進みだそうとする様はエモーショナルで、“若さ”の価値と熱量に溢れていた。

“犯人”を探し罰したいわけではなく、真実を突き止め、自分たちが抱える混乱を自分たち自身で収拾するために「裁判」を行う。
後編に繋がるそのくだりは、少年少女たちが越えるべき通過儀礼に対して覚悟を決めたようにも見え、サスペンスの真相解明そのものよりもずっと期待感に溢れた。


「ソロモンの偽証 前篇・事件」
2015年【日】
鑑賞環境:Blu-ray
評価:7点

「インビクタス/負けざる者たち」<7点> 

September 04 [Sun], 2016, 0:12


「事実は小説よりも奇なり」とはよく言ったもの。
歴史上におけるトピックスと成り得る出来事は、往々にして、「創作」における「遠慮」を容易に飛び越えていく。
もしこの映画のストーリー展開が、完全なる創作だったとしたならば、「なんて安直で都合のいいストーリーだ」と批判は避けられないだろう。でも、事実なのだから、ストーリー展開そのものに対しては、批判のしようがないというものだ。

この映画は、二人のリーダーの話である。
一人は、ラグビー南アフリカ代表チーム“スプリングボクス”のキャプテンであったフランソワ・ピナール。そしてもう一人は、南アフリカ共和国という国そのものを率いたネルソン・マンデラ大統領その人だ。
特に際立っていたのは、モーガン・フリーマンが演じるネルソン・マンデラという「指導者」の、使命感と人生観だった。

27年間に及ぶ獄中生活を経てからの大統領就任。その初日の描写からこの映画は始まる。
当然あるはずの怒りや憎しみを抑えこみ、融和と寛容によって国家の混乱を治めようとする指導者の姿には、南アフリカ共和国にかぎらず、世界中総ての人々が教訓とすべき“在り方”が示されていたと思う。
そして、その偉大な指導者の人間性に触れ、国内において微妙な立ち位置の代表チームの主将として、「勝利」することの価値の大きさに共鳴していくフランソワ・ピナールの振る舞いが印象的だった。

偉大なリーダーの信念によって、人が、チームが、国が変わっていくということの本質を、この映画は伝えるのだと思う。
劇中、マンデラ大統領がこう言う。

「変わるべき時に私自身が変わられないなら、人々に変化を求められません」

必ずしもリーダーという立場にあろうがなかろうが、変わるべきは常に自分自身ということなのだろう。


「インビクタス/負けざる者たち Invictus」
2009年【米】
鑑賞環境:Blu-ray(字幕)
評価:7点

おヒサシネマ! 「オール・ユー・ニード・イズ・キル」 

September 02 [Fri], 2016, 23:07


理不尽な運命に流されるままに、主人公は突如として人類存亡を欠けた戦争の最前線に送られる。
必然的に訪れる「死」、繰り返される一日、繰り返される「死」。

その設定そのものと、描かれ方は、他の多くの映画で表されたもので、決して新しさはない。
一人の人間の運命と生死そのものを“ダンジョン”のごとく描き出し、軽薄に捉えた表面的な安直さはいかにも日本のゲーム世代が生み出した物語らしく見える。
ただし、ひたすらに繰り返される「生」と「死」の描写には、次第に安直さを超越して、観念めいたものが表れてくる。

映画の中でビジュアルとして映し出される“繰り返し”は、せいぜい数十回程度だが、恐らくこの物語の主人公は、何百回、何千回、もしくは何万回の「死」を経ているだろうことに気づいたとき、文字通りに深淵な戦慄と、「死」そのものの哲学性を感じた。

何万回の死の中で、主人公の精神はとうに崩壊し、人間性そのものが朽ち果て、また別の次元の人格が繰り返し誕生していたのではないだろうか。
それはまさに“生き地獄”以外の何ものでもなく、ふとそういう概念が生まれた時点で、この映画は決して口触りのいいエンターテイメントではなく、極めて辛辣で苦々しい映画にすら見えてくる。

と、そうやって穿ってみることが出来る要素を根幹に携えつつ、トム・クルーズを主演に配し分かりやすい娯楽性で仕上げたこの映画の方向性は正しいと思う。
もっと変質的なタイプの作り手が、斜め上に突っ走ったなら、もっと独特でもっと哲学的な映画になっていたかもしれない。
それはそれで観てみたいけれど、今作の娯楽性自体は間違っていない。

ここ数年の“彼”の主演作には毎回感じることだが、相も変わらずトム・クルーズが若々しい。
善し悪し以前に、トム・クルーズがトム・クルーズらしく見えることは、何よりもこのハリウッドスターの本質的なスター性と、絶え間ない努力を表していると思える。
また“ジャンヌ・ダルク”を彷彿とさせる象徴的な女性戦士として主演俳優に負けず劣らずの存在感を見せたエミリー・ブラントも良かった。
この女優の出演作はわりと観ているのだけれど、未だに風貌と名前がカッチリと定まらない。それはこの人が様々なタイプの役柄を演じ分け切っている証明だろう。
(あと、「ツイスター」を観たばかりだったので、ビル・パクストンを久しぶりに見られたことも嬉しかった)


勿論、ラストの顛末を筆頭に疑問符が消えない箇所は多々あり、よくよく考えれば突っ込みどころも多い。

けれども、ラスト、主人公が少し呆れたように、ただ何にも代え難い多幸感を携えながら笑う。
そのトム・クルーズの笑顔を観た時点で、この映画に対する僕の満足感は揺るがなかった。


「オール・ユー・ニード・イズ・キル Edge of Tomorrow」
2014年【米・英】
鑑賞環境:映画館(字幕)
評価:9点

「シン・ゴジラ」<10点> 

July 31 [Sun], 2016, 23:41


「恐怖」が東京を破壊し尽くす。
吐き出された熱焔が街を焼き、四方八方に放出された無慈悲な熱線は人類の英知を尽く無に帰していく。
暗闇の中で、「恐怖」それのみが美しく妖しく光を放っている。その光景はまさに「絶望」そのものだった。
その神々しいまでに絶対的な「恐怖」を目の当たりにして、思わず「嗚呼」と心底落胆し、絶望感に沈んだ。
純粋な恐れに只々慄き、心がへし折られそうになりつつ、それと同時に、人智を超えた「恐怖」と「絶望感」に恍惚となっていることに気づいた。
恐怖と絶望の中に、安堵と歓喜が渦巻きつつ、「これがゴジラだ」と、噛み締めるように思った。


これまでのゴジラ映画全28作品(+ハリウッド版2作)総てを鑑賞して、「シン・ゴジラ」を観た。
世界の映画史上においても大傑作である1954年の第一作「ゴジラ」を再鑑賞した時に感じたことは、60年という年月を経ても色褪せない恐怖感の見事さと共に、1954年当時リアルタイムで「ゴジラ」を体感した“日本人”が、等しく各々の胸の内に孕んだであろう「畏怖」に対しての「羨望」だった。

未知なる巨大生物に対しての畏怖、それにより生活が人生が文字通り崩壊していくことに対しての畏怖、そしてその発端は我々人類の所業そのものにあり、突如として繰り広げられているこの大惨事自体が、総てを超越した何ものかによる“戒め”であろうという畏怖。
映画を観終わった後も決して拭い去れなかったであろう「恐怖」と「高揚」が直結した幸福な映画体験を想像して、羨ましくて仕方なかった。

1954年と全く同じ映画体験をすることは、時代も世界も移ろった現在においてもはや不可能だ。
しかし、2016年、60年前と同じ類いの映画体験を出来得る“機会”を、我々日本人はついに得たのだと思う。
それが、この「シン・ゴジラ」という映画なのだと僕は思う。


この映画が、「3.11」そして「福島」を経たからこそ生み出された作品であることは疑う余地もない。
それは、1954年の「ゴジラ」が、「戦争」と「広島・長崎」を経て生まれた背景と重なる。
それは即ち、ゴジラという大怪獣が、人類自らによる“過ち”と“悔恨”の象徴として描き出されていることに他ならないと思う。
ゴジラは、人類(日本人)にとって究極の恐怖と絶望であると同時に、合わせ鏡の如く存在する己の姿そのものだ。

自らの「業」が生み出してしまった「災厄」に、どう対峙するのか。それが、ゴジラ映画にあるべきテーマ性だと思う。


“初代ゴジラ”は、一人の天才科学者が己の命と引き換えに死滅させた。
そして残された人々が、静かになった海を前に、「人類が核実験を続ける限り、第二、第三のゴジラが現れるかもしれない」と警鐘を噛み締めて終幕する。

“シン・ゴジラ”における顛末は、“初代”と似通っているようで、実際は大いに異なる。
前述した通り、60年という年月が経ち、時代と世界が移ろった現在において、同じ帰着に至らないのは当然だと思う。

“初代”に対して逆流するように“シン・ゴジラ”は、一人の天才科学者が己の命と引き換えに誕生させたと言っていい。
そして、対峙せざるを得なくなった危機と恐怖と絶望を、人類自らが乗り越えなければならない対象=現実として真正面から見据え、必ずしもすぐさまそれに完璧に打ち勝つことは出来なくとも、共存し、対峙し続けなければならないという「覚悟」を、映画世界の内外の“日本社会”に、問答無用に植え付けてくる。

外洋へ追い出すこともしない、火山に蓋をして閉じ込めることもしない、そして消し去ることもしない。
1954年「ゴジラ」を含めた全28作のどのゴジラ映画とも異なる終幕。
当然ながらそこには、怪獣映画としての王道的なカタルシスは無い。
「作戦」を成功させた劇中の日本人たちが起こしたアクションは、ただ“一息”をついただけだった。

ただし、この帰着こそが、今、この国で、新しい“ゴジラ映画”が生み出されたことの「真価」だと思える。
「恐怖」の対象が、己の分身そのものである以上、我々は、それを見据え続けるしかない。



劇場公開直後に鑑賞して、ほぼ一ヶ月間、このレビューを纏めることが出来なかった。
その間、他の映画を全く観たいと思えず、通算3度映画館に足を運んだ。こんなことは初めてだった。
それでもまだまだ書き連ねられていないことは多い。きっとこの後もこのレビューは何度も書き換えられることだろう。

「凄い映画だ」
本当はこの一言で充分だ。


「シン・ゴジラ」
2016年【日】
鑑賞環境:映画館(IMAX)
評価:10点

「ゴジラ ミニラ ガバラ オール怪獣大進撃」<3点> 

July 31 [Sun], 2016, 17:00


待望の最新作「シン・ゴジラ」の鑑賞を控えて、過去のゴジラ映画シリーズの中で唯一観れていなかった今作をついに観ることが出来た。
正直なところ、過去のゴジラ映画全28作(ハリウッド版を含めれば全30作)の鑑賞実績をコンプリートして、満を持して最新作に臨めることの“ゴジラ映画ファン的”な満足感が先行し、今作自体に対する満足度など二の次になってしまったことは否めない。

東宝映画自体の斜陽期に製作された作品だけあって、ゴジラ映画としてのルック的にも、ストーリーテリング的にも、尺的にも、極めて低予算で、つくり手(本多猪四郎大先生)が力を入れようにもどうしようもなかった作品であることは一目瞭然であった。
ストーリー上のメイン舞台は、“ゴジラが存在しない現実世界”となっており、怪獣たちの登場シーンは、あくまで主人公である鍵っ子少年の「空想世界」に過ぎない。映し出される特撮シーンもその大半が、過去作映像の使い回しだった……。

この時代のゴジラ映画が「駄作」であること自体は何も珍しくないことなので、今作もきっぱりと「駄作」と言い切ってしまうことは簡単なことである。
しかしながら、今作の場合は、ゴジラ映画として「駄作」だとは言い切れない部分がある。
そもそものコンセプト自体がゴジラ映画としては「異質」である。
今作は、ゴジラ映画の要素を借りただけの全く別物の作品だと思う。
だから、ゴジラ映画として「珍妙」ではあるが、「駄作」ではないと思うのだ。

鍵っ子少年の悲哀と健気さ、児童誘拐などの治安問題、当時の世情を反映した社会的な問題意識こそが、この子供向け映画に込められた製作者たちの思いだったに違いない。

まあ、だからと言って、ちっとも面白くはないのだけれどね……。ガバラは糞ださいし、ミニラは喋って興ざめだし……。


P.S. 今作鑑賞の数時間後に「シン・ゴジラ」を観た。イロイロな意味で“振れ幅”が半端無かった。それはそれで、ゴジラ映画ファンとして貴重な映画体験だったと思う。


「ゴジラ ミニラ ガバラ オール怪獣大進撃」
1969年【日】
鑑賞環境:BS
評価:3点

「ゴジラ対メカゴジラ」<6点> 

July 30 [Sat], 2016, 11:44


「駄作」だらけの、昭和“プロレス”時代のゴジラ映画の中では、なかなかどうして“楽しさ”だけは随一と言える作品だったのではないかと思う。(無論、この時代の他のゴジラ映画もつぶさに観てきて、ハードルを下げきった上での鑑賞だったからだろうけれど……)

まず何と言っても、シリーズ初登場となる“メカゴジラ”の娯楽性溢れる存在が良い。
ブラックホール第3惑星人という荒唐無稽な宇宙人が操るこの機械仕掛けの大怪獣の存在性は、良い意味で東宝特撮映画ならではの馬鹿馬鹿しさに溢れている。
文字通り全身から放たれる兵器によって、対するゴジラを苦しめ、一旦は瀕死の状態まで追い込んだ戦績は、長きゴジラ映画シリーズにおいても賞賛に値するのではないかと思える。

あくまで「兵器」であるメカゴジラの特性上、ストーリー的な主軸が人間たちの攻防にある点も好ましかった。
馬鹿らしくて子供だましではあるけれど、滑稽な宇宙人たちとの攻防に、インターポールまで介入し、SFとスパイものが合わさったようなアクション映画的な展開は、この時代の娯楽映画の在り方として正しかったと思う。

また今作では、沖縄がメインの舞台として描かれ、キングシーサーなる土着怪獣まで登場するわけだが、この映画の公開当時、沖縄は2年前に返還されたばかりであり、それ故の風俗描写の微妙な違和感もまた興味深い。
文化面や精神面の描写で垣間見える理解度の低さが、当時の本土と沖縄との“距離感”を表しているように思えた。
沖縄が舞台にも関わらず、自衛隊も米軍もまったく登場しない展開にも、世情に対する製作者たちの思惑が垣間見える。

というわけで、今作においては、肝心の“ゴジラ”の印象は極めて薄いが、それを補うだけの娯楽性と、様々な側面での見応えはあるゴジラ映画だったとは思う。


「ゴジラ対メカゴジラ」
1974年【日】
鑑賞環境:BS
評価:6点

「監視者たち」<6点> 

July 24 [Sun], 2016, 23:14


韓国映画の共通した“巧さ”は、オープニング(アバンタイトル)に表れることが多い。
警察の“監視犯”の面々を主人公にした今作も、冒頭のシーンが実に巧かったと思う。
映し出される人物たちが一体何者かの説明もないまま、“或る尾行”と“或る犯罪”が平行して描かれ、観客はそのスリリングな展開に引き込まれる。
そして、その冒頭シーンが収束すると、それぞれのキャラクターの位置関係が明確になっている。思わず「巧い」と呟いてしまう。

今作は香港映画「天使の眼、野獣の街」(未見)という映画のリメイクなのだが、犯罪者の“行動監視”を専門とする部署の警察官たちの活劇というのはやはり新しく、興味をそそられた。
「情報化」が極まる現代社会において、犯罪捜査における彼らの役割の重要性が高まっていることは明らかで、彼らの活躍が事件解決に直結するという様にも説得力があったと思う。
一方で、やはり“地味”な部署であることは間違いないので、映像化においては、演出、撮影、演技の各要素に手練が必要だったろう。
しかし、そこについては流石は韓国映画である。冒頭シーンでも顕著なように、魅力的なキャラクターを配置しつつ、監視する者と監視される者との関係性だけで、サスペンスフルな映像世界を構築できていた。

追う者と追われる者。緊張と緊迫を繰り広げながら、両者の形勢が二転三転していく中盤までの展開は、非常に面白かったと言える。

ただし、だ。残念ながら、クライマックスからエンディングまでの顛末がいささかお粗末だった。

中盤までは、周到な計画で犯行を繰り返す犯罪者たちを、地道な捜査活動で徐々に徐々に追い詰めていく監視班の面々のチーム力が、サスペンスと豊かな娯楽性を備えながら描き出されていたのだが、クライマックスになりその優れた緊張感が破綻してしまう。
ラスト、犯罪チームのボスを追い詰めるくだりは、結局のところ主人公の超人的才能と強引な追跡劇で着地してしまい、それまでの影に潜んでプロ意識に徹した努力の日々は何だったんだと思えてしまう。
最期まで「地味」を貫き通して、監視班としてのルールを厳守した解決に結んで欲しかったと思う。

とはいえ、娯楽映画として観る価値は充分にある作品であることは否定しないし、オリジナルの香港映画も是非観てみたいと思えた。


「監視者たち COLD EYES」
2013年【韓】
鑑賞環境:BS(字幕)
評価:6点
2016年09月
« 前の月  |  次の月 »
1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30
月別アーカイブ
プロフィール
  • プロフィール画像
  • アイコン画像 ニックネーム:TKL
  • アイコン画像 性別:男性
  • アイコン画像 誕生日:1981年
  • アイコン画像 血液型:B型
  • アイコン画像 趣味:
    ・漫画
    ・スポーツ
    ・小説
読者になる
映画の善し悪しは、結局、「好き」か「嫌い」かだと思う。 つらつらと語ってみたところで、詰まるところ、それ以上でも以下でもない。 それで良いのだろうと思う。