死刑執行について思うこと

March 29 [Thu], 2012, 15:04
本日、1年8か月ぶりに死刑が執行された。
刑の執行をしただけで、大きな記事になっている。
以下に、アムネスティ日本のコメントを転載する。

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アムネスティ・インターナショナル日本は、本日、東京拘置所の古澤友幸氏、広島拘置所の上部康明氏そして福岡拘置所の松田康敏氏の3人の死刑確定者に対して死刑が執行されたことについて抗議する。特に、死刑執行のなかった翌年に死刑執行を行ったことは、死刑執行に固執する政府の意思表示ともいえるものであり、強く抗議する。

今回の執行に対しては、以前から間近の執行が危惧されていたため、アムネスティはUA(緊急行動)を起こし、小川法相と政府に対し、執行をしないよう求めていた。そして、世界中のアムネスティの会員から、当局に対して、執行停止などを求める要望が寄せられていた。

小川法相は、本年1月の就任直後の会見で「大変つらい職務だが、職責を果たしていくのが責任だ」と述べ、執行に積極的な考えを明言していた。さらに、小川法相は3月、死刑の在り方について議論をしてきた省内の勉強会を、意見は出尽くしたとして打ち切った。「死刑制度の見直しについては大いに議論しなければならない」としながらも、勉強会に代わる議論の場を示すことがないまま、今回の執行に踏み切ったのである。一方で人を処刑しながら、他方で死刑についての議論を行うという行為は矛盾しており、執行を続けながらの検討では、死刑の正当化を後押しするものになるとの危惧を抱かざるを得ない。

確かに、死刑は我が国の法に定められた刑罰であり、小川法相は、法にのっとった執行をなすべきことが法相の職責であると主張する。しかし、法の内容が国際人権基準に反するものである場合には、その法を改正すべく努力することもまた、政府、法相および法務省に課せられた義務である。政府および法相は政治的リーダーシップを発揮し、死刑執行の停止を維持した上で、勉強会での成果を踏まえて議論を国会等の場に移し、死刑制度について、より開かれた国民的議論を喚起するよう速やかに努力すべきである。

アムネスティは、あらゆる死刑に例外なく反対する。死刑は生きる権利の侵害であり、究極的な意味において残虐で非人道的かつ品位を傷つける刑罰である。アムネスティは日本政府に対し、死刑廃止への第一歩として、公式に死刑の執行停止措置を導入するよう要請する。

日本政府は、国際人権諸条約の締約国として、死刑に頼らない刑事司法制度を構築する国際的な義務を負っていることを再確認しなければならない。そして、日本政府は、生きる権利をはじめとする人権保障の大原則に立ち戻り、死刑の執行を停止し、死刑廃止に向けた国民的議論を速やかに開始すべきである。


2012年3月29日
公益社団法人 アムネスティ・インターナショナル日本


▽関連ニュース
・国際事務局 : 死刑2011:少数の死刑維持国で異常に高い執行

▽関連資料
・2011年の死刑に関する統計データ(PDF)

・Death sentences and executions2011(English)(PDF)
・報告書「2011年の死刑判決と死刑執行」(抄訳/日本語)(PDF)


背景情報

我が国は、国際社会の責任ある一員として、死刑廃止に向かう世界の情勢も十分に考慮しなければならない。現在、全世界の7割に当たる141ヵ国が、法律上または事実上死刑を廃止しており、アジア太平洋地域においても41ヵ国のうち28ヵ国が、法律上または事実上、死刑を廃止している。東アジアでは、韓国が2008年に事実上の死刑廃止国となり、現在まで14年間、執行を停止している。本年3月13日には、モンゴルが「市民的及び政治的権利に関する国際規約」の第2選択議定書(いわゆる死刑廃止議定書)に公式に加入した。死刑廃止に進むこれらの国の多くで、世論の多数は死刑の存置を支持していた。アメリカは死刑存置国ではあるが、全50州のうち16州と、コロンビア特別区が死刑を廃止しており、昨年11月22日にはオレゴン州知事が任期中の執行停止を表明した。

冤罪の危険性も、死刑廃止の重要な論拠である。とりわけ、現在も再審請求の審理が続く袴田事件では、代用監獄や捜査取調べ中の自白強要など、冤罪につながる日本の刑事司法の問題点が、数多く指摘されている。そして、2011年12月26日には、冤罪の決定的な証拠ともなりうるDNA鑑定の結果が提出された。国家が引き起こす冤罪による長期間の拘禁と処刑は、「究極の不正義」である。刑事司法から誤判の可能性を完全に拭い去ることができない以上、死刑という取り返しのつかない刑罰を行使すべきではない。

死刑の犯罪抑止効果についても、科学的な研究において、死刑が他の刑罰に比べて効果的に犯罪を抑止するという確実な証明はなされていない。死刑と殺人発生率の関係に関する研究が1988年に国連からの委託で実施され、1996年と2002年に再調査されているが、最新の調査では「死刑が終身刑よりも大きな抑止力を持つことを科学的に裏付ける研究はない。そのような裏付けが近々得られる可能性はない。抑止力仮説を積極的に支持する証拠は見つかっていない」との結論が出されている。また、いわゆる「みせしめ」としての死刑は、人間の生きる権利を、その他の政治的社会的な目的のための手段とする発想であり、国際人権基準に照らして許されるものではない。

アムネスティは、死刑判決を受けた者が犯した罪について、これを過小評価したり、許したりしようとするわけではない。しかし、被害者とその遺族の人権の保障は、死刑により加害者の命を奪うことによってではなく、国家が経済的、心理的な支援を通じ、苦しみを緩和するためのシステムを構築すること等によって、成し遂げられるべきである。

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私は、この「死刑廃止」論に強い疑問と違和感を感じる。
以下に、その理由を挙げようと思う。

・上からの演繹
ある仮説となる大前提を立て、それが正しい(または誤り)と決めたうえで、下へ下へと論理を展開するやり方は、間違いである。
「これこれは正しい(間違っている)。ゆえに、これこれはこうあるべきである。これこれに反する例証は、非科学的であるので、採用されない」といった具合である。
分かりやすく言えば、色眼鏡をかけて世界を見渡すようなものである。
黄色のレンズならば世界中が黄色く見え、赤色なら世界中が真っ赤に見える。
しかし、レンズを取っ払って、何色でもない状態にして世界を見たとき、今まで黒くみえていたものが、果たして同じように黒く見えるのだろうか?
これで「黒く見える」となれば、それが本当に黒いものであった場合を除き、強度の色盲か、余程の鉄面被である。
このような論理の展開をされては、白いものも黒く見えてしまう。

しかも、このやり方は下へ下へと話が進むほど、論理が高飛車になっていく。
もはや、真理を求める態度ではない。
「死刑は悪」と国際法に明文化されているわけではない。
同じように、我が国の憲法にも明文化されていない。
それどころか、刑法では死刑の存在を認めているのだし、正式な裁判を経て判決が下っているのだから、全て法や法律に則って粛々と行われたものである。
つまり、「戦争は悪」と決めつけるのと同じで、これは根拠なき前提である。
一意見が司法や行政の権力を超越するようなら、民主国家の大前提を揺るがすとんでもない事態となる。

・部分的真理の一般化
袴田事件のような、冤罪の可能性があるから、死刑は一律に廃止すべきだ、というのもアムネスティをはじめ、多くの死刑廃止論者から出てくる意見である。
私は、この論理の展開の仕方にも大きく問題があると思う。
部分的には正しいこと、つまり「部分的真理」をもって、全体がそうであるかのように規定することもまた、誤りである。
これは論理の飛躍とでも表現するべきだろうか。
「Aさんは先日約束の時間に遅れた。なんてデリカシーのない人間なんだ!あいつは人として最低だ!約束の時間に遅れる奴は全員人間失格だ!!」と憤る友人が、自分の隣にいたらどうだろう?
確かに、Aさんが友人との約束を守れなかったことは良くないことだ。
Aさんはそのことについての責めを甘んじて受けるべきだろう。
しかし、だからと言って、ただ一度の過ちをもって、「人として最低」と、何故判断できるのだろう?
感情的にそう言いたくなる気持ちは分かるが、あくまで感情論は感情論だ。
Aさんが遅れたのには何かしらの事情があったからであり、それが何であれ、「人として最低」と言い切るにはあまりに早計ではなかろうか。
もちろん、何度も何度も遅刻を繰り返すならば「この人は約束にルーズで、自分との約束を軽んじているんだな」と判断されても仕方がないが、それでも「人として最低」と言い切るには、まだ不足ではなかろうか。

また、一人の人間の行為の状況が、同じ行為であれ、全ての人間の状況と全く同じとは、およそ考えにくい。
遅刻一つをとっても、寝坊したのか、前の予定が押したのか、来る途中で何らかのトラブルがあったのか、原因は様々だろう。
その理由によって対応も当然変わる。
個々の事情を粗末にせず、きちんと汲み取ってこそ「じゃあどうしましょう」という、次のステップに進めるのではないだろうか?
冤罪を防ぎたい、というのなら、疑わしきものについては執行を見送り、限りなく明白なものは執行する、というスタンスでいいのではなかろうか。
何も一律に刑を執行せよと言っているわけではない。
だからこそ、司法によって刑が確定しても、実際に執行命令を出すのは行政に委ねられているのではなかろうか。

疑わしき事件もあれば、明白な事件もあるわけで、それら一つ一つの事情を斟酌せず、一律に「良い」だの「ダメ」だのというのは、明らかに論理の飛躍が混じっていることだろう。
部分的真理を安易に一般化すると、それこそ取り返しのつかない間違いを犯すことになる。

今挙げた2点が、私が日頃から非常に疑問に思っていることだ。
また、アムネスティをはじめ、廃止論者たちは、被害者の遺族に対してどれほどのケアを行い、悩みや苦しみを分かち合っているのだろうか。
下関駅の通り魔事件では、生き残った方もおられ、今も苦痛に耐えておられるという。
写真で出ていたが、今も生々しく傷跡が残り、後遺症もかなりあるそうである。
この方は、365日24時間、苦しみ続けているのである。
こうした方々が、何百人といることだろう?
人権屋を自称するなら、不幸にも巻き込まれてしまった方々のことを最優先に考えるべきではないか?
人権を守りたいのか、それとも「人権」を盾に自分たちの主張を通したいのか。
廃止すべきだと考えること自体は自由だが、その考えにどこまで責任を持てるのか…それは、被害者とどう向き合っているのか、この点が重要になることは言うまでもなかろう。

被害者のコメントも記事になっていたが、アムネスティや人権屋たちが手厚くケアしてくれた、などとは一言も書いていなかった。
これが答えなのか?

私は、廃止するにせよ存続するにせよ、大いに議論はすべきだと思う。
ただし、その際に上記2点に必ず気を付けてほしいと思う。
これが出来なければ、根本的な解決は永遠にない、そのことだけはハッキリとしている。
君が代を歌わぬ教師のように、とにかく反対、賛成、みたいな思考停止の行為だけは謹んでいただきたい、そして、この議論の裏側に、何百人、何千人という人の命、人生、苦しみがあることを忘れてはならぬだろう。

アーティストの陥りやすい落とし穴

November 03 [Thu], 2011, 4:01
僕は東方神起が好きだ。
と同時に、JYJはあまり好きではない(嫌いとまでは言わないが・・・)。

東方神起とJYJ、どちらが実力派かと言われれば、まぁ間違いなくJYJだと思う。
東方神起が5人の頃、メインで目立っていたのはJYJの3人だった。
才能あふれる3人であることは重々承知している。

が。
JYJの3人は、残念なことに自己の力や才能を過大評価しすぎるところがあったようだ。
5人の東方神起の華やかさを知る人なら分かるだろう、今の東方神起やJYJの物足りなさ。
5人だからこそ、それぞれのメンバーが引き立っていたのだ。
それを自分の力だと過信した(誤信した)こと、もっと言えば、そういう高飛車な考え方が全ての誤りの始まりであったように思う。

Lady Gagaのような圧倒的な才能やプロデュース能力、そして経験があれば事務所など足かせにしかならんと言い切っても良いのだが、5人とも良いものをそれぞれ持ってはいるものの、そこまでの圧倒的な才能と能力があるというわけではなく、プロデュースの経験はほとんど皆無であり、まだまだこれからという印象もあった中での分裂騒動は、時期尚早でありすごく残念という感想に終始することとなった。
しかも後から、活動内容への不満やアーティストとしての方向性の違いから分裂、という理由ではなく、色々とゴタクを並べてはいるが、結局はカネの話がメインだったという事実を知って、心底失望させられた。

こういう言い方をしては何だが、それぞれ、人には「身の程」というものがあるだろう。
身の程を知らぬことがいかに人生に過大なストレスや障害をもたらすか、学んだことはないのだろうか。
こんなことは歴史をしっかり学べば自然と分かることだ。
アーティストならばアーティストとしての身の程がある。
会社員ならば会社員としての身の程がある。
これが分からぬということは、職業の本質や仕事の本質を理解しておらず、人生において大事なものが何かを見極めることが出来ず、投機的な行動で身を崩す。
そしてもれなく、世の中や他人を斜に構えて見るようになったり、他人に思いっきり迷惑をかけながら生きる鼻つまみ者に成り下がる。

JYJの3人が自分たちの実力をどれほどに評価しているかは不明だ。
ただ、全米デビューしましただのなんだのと、響きだけはいいことをしているが、肝心のセールスは低調に終わったという事実は厳粛に受け止めねばなるまい。
米国はちょこっと行ってすぐに売れるほど甘くはない。
また、アジア人のような「よそ者」がすぐに売れるような環境でもない。
この壁を破ったのはシャリースだけだが、残念ながらJYJの3人は実力や才能で「奇跡の歌声」とさえ称されるシャリースには遠く及ばない。

ただ、面白いのは、音楽の世界は
「実力」=「セールス」
と単純にはならないことだ。
無論、音楽に限った話ではないが。

いくらアーティストに実力があろうが、才能があろうが、CDを売ってナンボという構図が変わらん限り、評価を下すのはど素人である一般人だ。
だからこそ、聞きやすいメロディーラインで曲を構成し、売れる曲調に編曲し、キャッチーな歌詞を付け、振り付けを考える。
それが高尚な文化に昇華するかどうかなど知ったことではない。
CD売ってメシを食おうというのなら、アーティストにとって曲は「商品」であって、決して「文化」ではない。
そして自分自身こそは最大の「商品」であって、「主体を持った一個人」では決してない。

自分の歌いたい曲を作って歌うというのは、言うなれば自分のオナニーを他人に見せ付けること、または泡姫を買っておいて「金を払え」と言うことである。
他人の聴きたい曲を作って歌うというのは、言うなれば他人にオナニーをさせる、または自分が泡姫になるということである。
どちらが高収入をもたらす、つまり「成功」するのか、検証するまでもなく結果は明らかだろう。

アーティストには往々にしてこの視点が欠けている場合がある。
他の職業に比べ、この意味での許容範囲が比較的広いことがそれを招くのだろうが、「主体を持った一個人」とは消費者なのに、そこに成り下がるというのは、明らかに心構えにおかしなところがある証拠だ。
なるべきは「主体を持った客体」である。

カネの話が絡むと人間は本当に変貌する。
悲しいことだが、カネに汚い人間は性根が意地汚いから、周囲の人間がそんな人たちばかりになって、結局自分の人生の破滅を招く。
JYJの3人には、このことに早く気付いて欲しいものだ。
5人だった東方神起の良さを知っているから、返す返すも残念でならない。

Lady,first.

October 09 [Sun], 2011, 9:00
Lady,first.
紳士ならば嗜むべき美学、とされていることくらいは、まぁ世の男性陣は知っている。
私もlady firstは基本だと思うし、実践もしてきたつもりだ(まぁ足らざる点はいっぱいあるのでまだまだ学ぶべき点は多いが・・・)。

ただ、これを履き違えた世の女性は数多い。
Lady first=女性優先でエスコートしてね!みたいに短絡的に考える人があまりに多い。
また、されて当然くらいに思っている人の多いこと。

よく字面を見て欲しい。
"Lady"であって"Girl"ではない。
つまり、ガキな女の子は対象外!なのである。
年齢ではなく、あくまで人として、という意味だが。
"Lady"と「男性視点で」(ここが一番重要)思ってもらえる女性が受けることの出来る待遇なのだ。
女性ならば当然してもらえるなんて意味では決してない。
自分で自分をLadyだと思っているからしてもらって当然、みたいに言っても、残念ながら冷ややかな反応があるのみだ。
申し訳ないが、ladyとgirlとどっちが多いかと言われれば、個人的な印象では圧倒的にgirlが多い。
私たちと同世代だからまだgirlで済まされるが、これが10年後となれば、もう表現する言葉がない、女を捨てた女みたいな残念な人間に成り下がるよって危機感を持っている人は少ないように感じる。

考えてみれば、女性だからしてもらって当然!みたいなものは結構多いが、してあげる女性をそれとなく男性が見定めている事はあまり考慮されてない気がする。

・食事に行けば男性がお金出して当然!→出してあげたくなる魅力のある人だったら出すけど、投資に見合わぬ女に投資する気はない

・年収○○○○万以上、職業は、○○か△△が絶対条件!→その裏にある本音の理由は何?往々にして自分がおんぶにだっこしてもらいたい、他人のふんどしで遊びまわりたいっていう、ただのエゴでしょ。地位も見識もある男性がそんな低俗な女性を選びはしません。今の自分の地位からしてそれじゃないと見合わない、という極めて稀なケースを除いて。女性に選ぶ権利があるように、男性にだって選ぶ権利があるって心に留めとかないとね。

正直、世俗的な基準で見て良いとされるものを追い求めるなら、自分自身がその世俗的な基準で測られることを覚悟しないとダメ。
ルックス、年収、地位・・・と言うのなら、自分にも同じものが求められるってどうして思えないのかな?
そして、そんな考え方だと結婚は一生出来ないでしょう。
結婚ってそんな高飛車な話で出来たものじゃない。
結婚は人生をかけた共同作業じゃないかと思う。
共同作業である以上、一番大事なのは二人の呼吸がきちんと合うこと、心が通い合うこと、思いやりをもつことであって、決していい給料を持って帰ることではないはずだ。
もちろんお金は大事だが、ならば金さえあれば幸せな家庭になるのかと言われれば、そんなことは断じてないということをこの目で目撃してきた。

低俗な女性に男性が媚びへつらう姿など、周りから見たら相当見苦しい。
Lady firstはそれに見合う男女が行う共同作業だと、一人でも多くの人に気付いて欲しいなと思う。

イタリア、「脱原発」の虚構

June 15 [Wed], 2011, 1:48
イタリアでは国民投票が行われ、原発建設には拒否、との結果が出た。
拒否の割合、何と9割以上。
正直な話、これはすごくヒステリックな反応と個人的には感じる。
まぁ、拒否されるのは当然にしても、である。

それにしても、わが国の原発をめぐる議論はあまりに一義的である。
きっと、昭和初期の二・二六事件の頃の風潮もこんな感じだったのだろう。
未曾有の国難に直面し、北だ南だと大騒ぎ、国粋主義や軍国主義の勢いはいよいよ抑えられなくなり、国民はうなされたように米英討つべしと叫び、新聞をはじめマスメディアもここぞとばかりに世論を煽った。
それが昭和史の悲劇を招いた。

そして、今はどうなのか。
津波が来て原発が崩壊、大量の放射能を撒き散らして予断を許さぬ状況ではあるが、国民ははっきりした知識を持たない。
まぁ、専門家ではないのだから、無知なのは当然であるが、問題はその後だ。
ソースも分からぬデマ情報に踊らされ、自ら原子力について学ぼうともせず、とにかく「原発反対!」とうなされたように集団で騒ぎ散らかし、それ以外の思想は罪であるとの断罪を行いながら、とにかく自分達が正しいことをしている正義だと信じて疑わない。
そして論より行動ということで、よく考えもせずに一部の人間の思想にそそのかされて騒ぐ。

フランス革命の頃と比べても、群衆心理は特に大きな変化を見せない。
結局、人間は過去の歴史に学べず、同じことを繰り返す。
何世紀も何世紀も、常に同じところで堂々巡りである。
不思議なのは、進歩的知識人が常にこの中心にいることである。
今も昔も変わらぬこの単純な事実に、恐怖さえ覚える。

原発をどうするのか、どうすべきなのか、これは確かに今からしっかりと取り組まねばならぬ論点である。
しかし、最初から結論ありきで考えるのは、明らかにおかしい。
原発は絶対ダメ!と最初から決めてかかるのは、原発は絶対大丈夫!と最初から決めてかかることと同じである。
この期に及んで、まだ人間は自らの犯した愚に気づかない。
はっきり言って、このことが分からぬ者は相当のバカだ。
どう考えても世のため、人のためにならないから、せめて黙っていてほしいものである。

反原発派は、イタリアでの結果を盾に、原発容認論の切り崩しにかかるのだろうが、そもそもイタリアとわが国では根本的に状況が異なることはあまり触れられない。
イタリアはフランスから電気を購入している。
つまり、自前で全てを賄っているわけではない。
また、資金不足や技術力不足でそもそも現時点で稼働中の原発がない。

そして、フランスはと言うと、日本など比較にならぬ原発大国で、何と約8割を原子力に依存している。
ということは、イタリアでは原発反対と言っておきながら、実は原発で作られた電力で国民投票の開票作業を行い、国民は生活をしているのである。
何と言う皮肉!!
日本が「持たず、作らず、持ち込ませず」と言いつつ、実際にはアメリカの核の傘の下で防衛されているという虚構(というか、もはやパロディ)と何等変わらない。
これほど間抜けなことはそうそうなかろう。
しかしもっと間抜けなのは、それを真に受けて「日本も同調すべきだ」とした無知極まりない意見である。
頼むから、そんな無責任な発言だけはやめてほしい。

原発を止めれば電力は確実に足りない。
電気がなければ人が死ぬ。
代替施設は最低10年以上かからないと出来ない。
理想論で批判することは容易だろうが、我々は現実を見なければならない。

原発に関する態度について

June 12 [Sun], 2011, 11:44
村上春樹氏のスピーチが話題を呼んでいる。
全ての主張に賛同はしないが、反原発派の主張の中で、唯一骨のあるものだったように思う。
正直、個人的には反原発を唱える人たちの意見には賛同しかねるものが圧倒的多数だった、今まで。
というのが、あまりに片手落ちかつ一方的な主張ばかりで、非現実的なファンタジーばかりだったから。
今までの経緯や国民の態度などを完全に捨象し、理想論でぶったぎっているだけだったから。

内閣不信任案が出されたときには「今はそんなことしてる場合じゃない」という意見が目立ったが、それを言うならば、反原発デモだってその1つではなかろうか。
原発反対と言う人間だって様々な場面で電力を使うでしょう?
家でも、外でも。
電力がなければ今の人間の生活は成り立たぬ。
人が何人死ぬことになるのか想像もつかない。

詳細に検討を重ねれば重ねるほど、「今すぐ原発を停めろ」という意見がどれほど無責任で破壊的に作用するものであるかは実感できよう。
今後のあり方については真剣に議論を重ねるべきだ。
しかし、今すぐに停めろというのはどうにも理解し難い。
反原発を掲げるのなら、まずはその者からあるべき姿を示すべきだろう。

使用電力の4割カット。
家庭内で今日から出来なければ、「今すぐ停めろ」などと唱える資格はない。
それが言葉に責任を持つということだろう。
「思想・良心の自由」、「表現の自由」に甘えて無責任な発言を繰り返す人間が大量に発生すれば、間違いなくこの国の状況が好転することはありえない。

家庭内での電力カットがどれほど大変であるか、実際にシミュレーションしてみればよい。
そこで分かることはただ1つ、「そんなこと無理!」である。
真夏に空調を使わなければ、死人が出る。
冷蔵庫を使えなければ、途端に何も食べられなくなる。
電話もつながらない。
風呂も沸かせない(ガスで沸かすにしても、操作するスイッチは電力で動くしね)。

1つ1つ挙げればその度に分かる、「電力がない」の現実。
インクリメンタリズム的にやっていかなければ、現実的な改革はまず不可能だ。

そもそも何故原発を作ってきたのか?
答えは「需要があったから」だろう。
直接的ではなく、間接的にであったとしても。

電力の安定供給であったり、環境に配慮しろだったり、もっと電気代安くしろといったものだったり、エネルギー源の安定供給であったり、代替手段の非現実性であったり、実に様々な要因があって今に至るわけで、そこを完全に捨象しておいて理想論でぶった切るというのは、「反戦平和!」に関する多くの主張と同じような論理破綻を感じずにはいられない。
「現実の理由」を考慮しないから片手落ちになるし、美名の下に隠れてはいるが、すごく押し付けがましい傲慢な態度を備えることとなる。
これでは何も解決しない。
そんな傲慢な態度を慎むことが反原発よりももっと大切なことだろう。

原発の今後のあり方については、よく議論を重ねることが必要だと思う。
なぜ代替自然エネルギーが発達しなかったのか、今回の事故の原因が何で、どうすれば防げたのか、また原発廃止となった際の大幅な電気代アップを受け入れられるのか、代替施設はどうするのか、補償はどうするのか、その財源は?など、山ほど詰めなければならぬことは多いが。
嫌でも大変でもせねばならぬことは、この議論だ。
決して反原発デモではない。

原発や核にアレルギー反応を示している段階ではマトモな議論は期待できない。
全ての先入観は排し、良いも悪いもない真っ白なところから議論をせねばならぬ。
その段階に我々はいることを全国民が認識すること、これが第一であることをゆめゆめ忘れてはならぬ。

その段階で議論を重ねた際、今よりも大幅に反原発派が減ると個人的には思う。
私は現時点で賛成でも反対でもないし、よく考察や議論を重ねるべきだと思っているが、こうした意見を言えぬ風潮はまことに残念でならない。

民主主義万能なんて誰が言った

June 03 [Fri], 2011, 2:03
菅内閣不信任決議案が否決された。
数字上は大差での否決。
しかし中身は薄氷を踏むギリギリの結果。
造反予備軍が大量に存在することが露呈し、閣内に非常に近しい者からも、採決に先んじて辞任者が出た。
正直、野党が出した不信任決議案ごときで与党内部であわや分裂かという勢いで混乱するというのは、党内の状況は察するに余りある。
与党民主党は以後、強いリーダーシップを発揮することは事実上不可能となり、与野党交代もまず時間の問題となろう。
震災の混乱に乗じて、実現不可能なマニフェストのツケをここぞとばかりに吐き出してしまおうとしているが、内容は自民党マニフェストよりもはるかにひどい。
自民党がダメだ何だと、政権交代前にあれほど騒いでおいて、このザマは一体なんなのだろう?

マスコミはいろいろと書きたい放題に記事を書く。
発する言葉に責任を一切持たぬ、ただの煽動屋たちだ。
しかし、それ以上に無責任で傲慢で、絶対に「自分が悪い」とは認めぬ者がいる。
それは誰か?

他ならぬ日本国民である。
民主主義国家の悪い側面が極度に強調されているのが今の日本であろう。
よく考えてみて欲しい、一体どこの世界に「決断はするが責任は取らない」者が正しい決断を下しているところがあるのか。
民衆による「聖断」の名の下に、一体今までにどれほどの無責任極まりない決定が下されてきたことだろう?
政権交代をさせたのは誰か。
ねじれ国会を作ったのは誰か。
現在の政治停滞を招く原因を作ったのは誰か。

他ならぬ我々日本国民である。
先の衆議院議員選挙で民主党に投票した国民1人1人である。
この事実を完全に捨象した状態で、小沢が悪いだの鳩山が悪いだの、菅は早く辞めろだの、笑止千万である。
私は知っている。
自民党はダメだダメだと罵倒し続け、民主党を持ち上げまくっておきながら、今更小沢は嫌いだの民主党はダメだなどと言っている「自称知識人」を。
自らの見識の不足や間違いを恥じることもなく、手のひらを返して自分はいかにも聖人かのような言動を繰り返す人間が大勢いることを。
マスコミに流されてコロコロと考えが変わる人間が国民の大半を占めることを。
そればかりか、政治に興味すら持たず選挙にも行かぬ人間が多数いることを。

何が国民主権だ。
何が民主主義だ。
民主主義とは結局、無責任主義ということだ。
例えば公務員のことを悪く言う人は数多いが、その諸悪の原因が一体何なのかを、きちんと自分なりに考察し、ここがこういう風に悪いからこう改善すべきだ、と堂々と意見が言える人間がその中に一体何人いることだろう?

公務員→安定→ボーナスある→自分達にはない→血税でメシ食ってるくせにふざけんな!

などという、小学生以下の思考しか出来ぬ「大人」が相当数いることも、私は知っている。
世の公務員がその職に就く為にどれほどの努力と犠牲を払ってきたのか、そこには決して目を向けない。
苦労してやっと公務員になった後、日々苦労して働いてきた事実にも、やはり器用に目を向けない。
自分が努力を怠ったから今厳しい状況にある、という事実には何故か気付かない。

今の状況が嫌だ、もっと良い状態に、と思えば、努力してその段階に到達せねばならぬことは小学生でも分かるが、現実にはそれが分からぬ人間は数多い。
その者がどう考えるかといえば、「ありもしない空想をする」か、「他人を引き下げる」ことでその欲求を満たそうとする。
つまり、努力はしたくないが、今の状況も嫌だというのだ。

そんな人間が選挙権を持った主権者だというのが、今の日本だ。
これでもまだ、民主主義万能といえるのか?
表向きには菅首相の責任問題であっても、結局それは日本人全体の見識の問題となる。
このことを国民一人ひとりが良く考えることが第一である。

民主主義国家が正しく機能するためには、まずは主権者である我々国民が努力する必要があることに、一人でも多くの国民が気付くことを願わずにはいられない。

竹原信一市長と二・二六事件

August 25 [Wed], 2010, 7:14
鹿児島県阿久根市の竹原信一市長のリコール手続きが本格化しているとのこと。
以前から、市議会無視の専決処分を連発、ということで、あちこちで取り沙汰されていたが、ここへ来て住民の不満も大きくなっているようである。

何がどう悪いのか、どうしないといけないのか、私なりに考えてみた。
まず・・・良く言われる「民主主義の無視」ということについて。
竹原市長は選挙で選ばれた首長である。
良かれ悪かれ、好きであれ嫌いであれ、正式な手続きを踏まえて選出されていることだけは事実だ。
これは全員が認めねばならぬことだろう。

ただ、同じように、市長が嫌い無視し続けてきた「市議会」の面々だって、正当な選挙で選ばれた人たちである。
これも好き嫌いや善し悪しではなく、万人が認めねばならぬことだ。
これが認められないとなれば、民主主義の根幹が揺らぐ。

民主主義が生まれてより数百年、民主主義によって民主主義を葬ったケースは一度ではない。
お分かりだろう、民主主義は完璧なシステムではないということを。
欠点だらけのシステムだということを。
「国民主権」と言うけれど、その主権者たる国民は決定に対して責任を負わぬのだから、その世論が信頼できるのかどうか、考えてみる必要があるのではなかろうか。

民主主義によって選ばれた首長が、民主主義によって選ばれた市議会を、民主主義の認めた法律の範囲内で無視している。
その混乱を生み出す「原因」を生み出した主権者は、こともあろうに民主主義の範囲内で民主主義を否定しようとしている。
部分が全体を超越した時―歴史上、この時に悲劇は生まれた。
派閥が党を、軍部や党が国家を超越した時、一体何が起きどうなったのか、それは既に歴史に記されている。
過去、このパターンに陥ったナチスドイツと日本は、破滅への道を全力で突き進み、破滅した。
田舎の地方都市の1つとは言え、同じ悲劇をまた日本は繰り返そうとしている。

民主主義に最初から含まれている欠点がこうして露見されることとなってしまったことは確かに残念なことだ。
が、これは最初からこうなるという可能性を考えて首長を選ばず、市議会議員を選ばなかった主権者の責任と言わざるを得ない。
首相といえど、国務大臣が不始末をすれば「任命責任」を問われ(今まで実際に問うてきた)、ややもすればそれが政権の命取りになってきたのだから。
このことを阿久根市民が認めず、市長が悪いだの市議会が悪いだの言っても始まらない。
市民一人ひとりが不見識を認め、この醜態を恥じることだ。
各メディアも、これに知らん顔したままでは、ただやみくもに権力への反感と不信を育てるだけになるのだから、次に市長になる人のことも考えて報道して欲しいものである。

個人的には、竹原市長のやり口や発言には彼自身の傲慢さをすごく感じるので嫌いである。
給与や賞与カットという公約(これが彼の正義)を持った首長が就任して喜ぶ職員や市議会(給与や賞与カットしないのが彼等の正義)がいるはずがない。
最初から反発があると想定しなければならぬところだろう。
そこで竹原市長のとったやり方は以下のとおりだ。

@給与や賞与のカットを公約とする。
A前項の目的を達成するため、市議会は無視する。

よく考えて欲しい。
目的と手段が倒錯したこの状態を。
部分が全体を超越したこの状態を。

「自分は正義を行っている。だからその正義を完遂するための手段は何でも良いのだ」としてしまった、日本の歴史上最も行き過ぎた「勇み足」とは、何だったのか。
二・二六事件だろう。

大日本帝國憲法下では、現在とは異なり軍人の選挙権はなく、基本的人権も制限されていた。
ここで注目すべきは軍、特に陸軍の組織性格で、その大半が田舎の貧しい農家の息子たちであった。
貧しい暮らしを何とかしたくて軍に入った者たち、血気盛んな年頃の者が大半だった。
当時の世界は世界恐慌の真っ只中、各国はブロック経済等を実施し国力の保持に努めるが、ソ連は貨幣経済が浸透していなかったおかげで恐慌の影響を受けずに済み、ここぞとばかりに覇権主義を拡大し、また「砕氷船理論」や「32年テーゼ」に基づき、世界共産革命への野心を強かに燃やしていた。
この砕氷船理論のターゲットとなったのがドイツと日本で、日本においては32年テーゼ以降、コミンテルンの方針転換による合法戦略を採用していた。
当時麻疹のように流行っていた社会主義思想は、往々にして貧しい人によって信奉されていた。
つまり、陸軍は社会主義者にとって利用価値の高い集団だった。
これを利用せずしてどうする!

(途中省略)

…かくして、北一輝のような人々の思想が瞬く間に陸軍内部にまで浸透し、コミンテルン合法戦略の結果として天皇「制」信奉の革命分子は日本に誕生した。
巧妙なトリックだが、コミンテルンはそれまで日本に存在しなかった「天皇制」というパラダイムを使い、「天皇」を葬った。
陸軍は統帥権を干犯し、天皇陛下を政治的利用価値を測って利用し、「陛下の御稜威(みいつ)」という言葉で全ての不平不満を抑え付けた。
実際に陛下が発した言葉がいくつあったことだろう?
この後日本はさらに混迷を極めた国内情勢の中で、軍部を抑え込むことが不可能となり、本来の前提であった「政治と軍部の独立」を保てなくなり、しかもこの軍部を猛烈に煽ったメディアの力もあり、大政翼賛会が誕生した。
竹山道雄氏言うところの「近代の行き詰まり」とは、このことを言っているのではなかろうか?

これらだけを見てもお分かりいただけるだろう。
「自分達は正義を行っている、だからやり方はどうであれ構わない」というのがどういうことか。
正義は非常に多面的だ。
ある方からみれば確かに正義、しかし他方から見れば不忠義である。
正義感は確かに大事であるし、政治家たるもの絶対曲げない使命感や信念が必要ではあるが、それが一方的な押し付けになってはならない。

ちなみに竹原市長、ブログを見ていると、明治天皇について「どこの馬の骨とも分からぬ者」と馬鹿にした発言をしているが、国民統合の象徴である天皇陛下の体面を傷つけておきながら、自らは力を誇示するのだから、とても私は尊敬する気にはなれない。
民主主義の性格を良く知り、欠点を認識したのならその点について有権者に切々と「何がどうダメで、今の制度ではこうだから私はこうしたい」と、現状可能なやり方ですべきではないのか。

「平和」について考える

August 21 [Sat], 2010, 0:21
終戦記念日からもうすぐ1週間になる。
マスコミはいつもそうだが、記念日間近になれば「平和、核廃絶」とがなりたて、終わったら1週間もしないうちにそんなものがあったことを微塵も感じさせない。
本当に平和や核廃絶を願っているのか、大いに疑わしい限りである(こう書いている時点で、全く私が信用していないことはお分かりいただけるだろうが)。

ここで、日本だけの話ではなく、世界情勢や世界史を踏まえて、一度平和について考えてみたいと思う。
以降お話しする内容について、私自身は戦争を望んだりはしないし、そうならないことが一番いいと思っている、という前提で聞いていただきたいのだが・・・。

中国はいよいよ飛ぶ鳥を落とす勢いで国力を増大させ、ロシアも天然資源を背景に経済的優位に立ち、プーチン王朝の建国を着々と進め、覇権主義を隠そうともせず、アメリカの影響力は相対的に低下するも、それでも強かに核を武器に世界のパワーバランスの調整役としての覇王たらんとし、その中で日本は苦境にあえいでいる・・・これが現状の姿ではなかろうか。
あと20年もすれば、これらに加え核の力を前面に押し出すインドが台頭してくることだろう。

我らが日本はどうか、というと、国力を回復するきざしどころか周りに押されっぱなしである。
アメリカから65年も前に押し付けられた憲法も未だに変えることも出来ず、いつまでもうだうだとやっている。
「もう戦争は嫌だ」という思いからなのか、「平和主義」なる怪物がのさばり、「戦争反対、核兵器反対、憲法9条死守!」と言わなければ許されない、といった態度を取る人も未だに多い。
「戦争は悲惨だからいけません」といった論調で、一切の反論を許さぬ怖さすら感じさせる。
だが、あのナチスドイツが誕生する原因がこの「平和主義」であったことに触れ、今の日本に警鐘を鳴らす人はそんなに多くはない。
過去、「独裁者」や「全体主義国家」が、国民の熱狂的な支持のもと成立したことに触れる者も少ない。
平和、平和と叫ぶ割には、過去その平和や自由は民衆の万雷の拍手の中で葬られたという事実には多くの人が無頓着である。

私にはこれらが不可解でならない。
理解しようとしても、どうしても出来ない。
「対話と協調を軸とした外交を・・・」というのは、基本的に今も昔も同じはずである。
対立と反目を目的とした外交をした者など、いない。
対立や反目は国益を損ねる場合も多い。
が、同時に避けられぬ場合もあるし、対話や強調にも国益を損ねる場合はある。
苛烈な世界情勢の中で、今まで多くの人たちがギリギリの選択を迫られてきた。
結果がよければ賞賛されるが、悪ければ国家の敵として罵倒され、その魂までも呪われる。
先の戦争だって、もし違った結果になっていれば、山本元帥や東条首相、小磯首相や鈴木首相、そして東郷外相だって国家的英雄になったかもしれない。
石原中将だって国家のスーパーブレインになっていたかもしれない。
ちなみに、この石原中将は戦後、日本は憲法9条を武器として国際社会に挑み、最終戦争なしに世界を1つにすべきだと述べているのは非常に興味深い。
関東軍作戦参謀であった石原中将は、常にソ連や中共といった全体主義国家との前線にあった。
「平和」は武力になりえると、強く感じたとて驚くことではない。

それにしても、不思議な話なのである。
勝ったら英雄、負けたら国家の敵とは、恐ろしいことこの上ないことだ。
勝ち負けで是非を判断するというのは、「勝てば官軍」と自ら言っているようなもので、いかにも感情的である。
これは厳に慎むべきことではないだろうか?

誰だって普通なら平和を望むだろう。
しかし、考えてみて欲しい。
その平和を守るのは、並大抵のことではないことを。
平和も戦争も、政治の延長に過ぎず、どちらか必要に応じて使われるという事実を。

単純な話で考えてみよう。
今の日本がどのような状態なのか。
自分の家を脅かす存在がいろいろとあるとする。
泥棒、不審者(火をつけるかも)、傍若無人な近隣の者。
それらが勝手に家の敷地の中に入ってくるからということで、大きくてよく吠える、怖い番犬を飼ったとする。
そして同時にセコムのようなセキュリティシステムを導入したとする。
結果、不審者が敷地内に侵入することはなくなり、こうした対策をとらなかった近隣の住宅に軒並み泥棒が入ったり不審者がいたずらをする中、自分の家は助かった。
この家においては、常に睨みをきかせ良く吠え噛み付かれたら大怪我をするに違いない番犬という「武力」と、セキュリティシステムという「同盟」が防衛力として機能したことになる。
このたとえ話、実は本当の話で、何を隠そう私の実家の話なのだ。
今は番犬だったクッキーは死んでしまい、車や家にいたずらされはしまいかと、気の休まらぬ毎日を過ごしている。
そして・・・我が日本はというと、「番犬」たる自衛隊は憲法で行動が大きく規制されており、国軍としてあまりに機能不全(他国から侵略を受けたら専守防衛に徹しつつ反撃、と建前上なってはいるが、何をもって「侵略」とするのかは余りに不明確、実際には何をされても「侵略」とはすることが出来ないのが日本の本音)、「セコム」たるアメリカは本当にアテになるのかすら分からない(沖縄基地にいた米国軍人の話を聞く限りでは、まずアテには出来ないと思う)。

話が国家の話となると、途端にこうした単純な道理が通用しなくなる人が多い。
外敵から国を守らねばならないのは、泥棒や不審者から家を守らないといけないのと何が違うのか。
そのために何らかの対策(例えば憲法9条を改正して自衛隊を正規の国軍とすること)を自力で構築し、必要に応じて同盟を結んで他者の力も活用する、というのは、番犬を飼ってセコムをつけることと何が違うのか。
スケールは大きく異なるが、結局やっていることが大規模か小規模かという違いだけではないのか。
とにかく憲法9条を守り、自衛隊はいらないと言い、日米同盟も見直して基地などなくせという人に聞いてみたい。
警察があるから犯罪がある、だから警察をなくせば犯罪はなくなる、というのと何が違うのか。
家にセキュリティシステムをつけるのは外部の人を疑っている証拠で非常に好ましくないから、これは廃止して家のカギも絶対かけるな、そうすれば泥棒はいなくなる、と言っていることと同じになりはしないか。
番犬は他の家の犬を噛み殺したり人間に必ず危害を加えるから絶対に飼ってはダメだ、と憲法で規定します、ということと何が違うのか。
いじめられっ子がこんな扱いを受けたくないから、空手を習うことにしたというと、「人と喧嘩するために空手など習ってはいけない。空手は人を攻撃する野蛮な行いだ」と言っているのと何が違うのか。

どれも少し考えれば(この程度のことで考えているようでは困るが)分かることで、問題の本質を見事に捉えきれず、表面の上っ面だけ見て分かったような気になっていることは笑止千万としか言えない。
果たして、日本は憲法があるから平和なのか、それとも平和だから憲法に書いてあるようなことが言えるのか、どちらが真の姿かは、もうあなたには分かるはずだ。
先入観を排し、心を砕いて論理的に考えれば、絶対に分からないことはない。
しかしここに感情や先入観、偏見が入ると、おかしなことになる。

アメリカのオバマ大統領は「核廃絶」を世界に訴えかけている。
お人よしであまり物事を深く考えない人は、これを「世界平和の求道者」などと勝手に持ち上げて好きになっている。
残念ながら、核廃絶を主導している理由は、アメリカの経済が停滞し税収が減っているため、核兵器にかけるお金を削減する必要があるからであって(核をちらつかせるためのお金がないだけ)、依然として世界で一番多くの核兵器を保有しているのはアメリカだ(抜け目なく強かである)。
オバマ大統領が本当に核は廃絶すべきと心から願っているならば、まずは自国が手本を示すべきであろうが、これはあくまで「平和戦略」なのだから、そんなことは絶対にない。
相手が持っている以上、相手国も核を捨てられない。
核兵器が現時点で究極の終末兵器、そして究極の抑止力だという事実は、簡単に捨象できるものではない。
核の効能はただ一つ、「持っていること」である。
実際に使えば国際社会からの孤立は間違いない。
だから、誰も使えない。
これによって平和が守られるのなら、理想的な形とは言いがたいが、この命題は真であるということだろう。

平和、核廃絶・・・昔ソ連が使った「平和戦略」のことを考えずにはいられない。
周恩来言うところの「第五列」に日本人が馳せ参じているとしか考えられない。
レーニン言うところの「役に立つ白痴」にはなりたくない。

平和は立派な武力だ。
何も軍隊がいることが武力ではない。
このことを良く思うことが大事であると思う。

終戦記念日を迎えての所感

August 16 [Mon], 2010, 17:27
菅首相が終戦記念日の靖国神社参拝を見送ったとのこと。
「A級戦犯が合祀されているから問題」という発言もあった。

対外的に摩擦をひき起こしかねないから、遺憾ではあるが終戦記念日の参拝は見送りました、というのなら、理解できる。
本当はした方がいいと思うが、様々な事情からそうもいかないので、どうか苦しい胸のうちを理解して欲しい、という姿勢なら、である。
現実にはそうではないようだが・・・。

私は、菅首相には後日、首相としてではなく菅直人個人としてで良いから、ぜひ参拝してほしいと願っている。
A級戦犯がどうの・・・と言うが、そもそもその戦犯を決めた裁判は、およそ裁判とは言いがたい茶番劇だったというのが国際司法の一般的な見解であり、マッカーサー元帥をはじめ多くの要人も認めている事実である。
わが国では、この「一般的」な見解を持つものは少数派だが・・・。

先の大戦についての是非はここではあまり重要ではない。
それは、少なくとも戦争を経験していない我々に下せる審判ではないと思う。
いや、経験者であっても、一朝一夕に下せる審判ではないはずだ。
大切なのは、意見ではなく事実なのではないか。
先入観は一度全て排し、事実をありのままに見つめられる度量と見識。
途中でおしゃべりをせず、ただじっと黙して考える姿勢。
先人たちの苦労や苦悩に思いを馳せ、自然と頭を垂らすことの出来る虚心坦懐な姿。
事実をありのままに見つめるために、必要だと思うものだ。

今年は日韓併合からちょうど100年になる。
大部分の韓国国民は日本が犯した罪だと思っているようだ。
そればかりか、日本国民の大勢も。

そういう人たちに、私は聞いてみたい。
「過ち」や「罪」というが、何をもって「過ち」や「罪」とするのかを。
その基準が一体何なのかを。

国際法の範疇では合法と認められている行為が「過ち」や「罪」であるとは、私にはどう考えても出来ない。
これが罪だと言うのなら、アメリカの原爆投下は一体何なのか。
「非戦闘員の大量虐殺」以外の何物だというのか。
わが国はああした終末兵器を用いた大量虐殺などしてはいないし(まぁ、それ以前に核兵器を持つ技術も金もなかったが)、国際法上で合法とされることが感情的に「罪」とされるのなら、この世のモラルは途端に崩壊する。

私は大東亜戦争を否定もしないし肯定もしない。
ただ、なぜああなったのかは、知っておかねばならぬことだと思う。
それが良いか悪いかということではなく、そこからどれだけの教訓を学ぶのか―これが、終戦記念日を迎えるにあたって、我々がしなければならないことだと思う。

チャイルドシート

July 16 [Fri], 2010, 11:54
先日、目を疑うような記事を目にした。
何と、6割以上の親がチャイルドシートを使っていないのだとか。

はっきり言って理解できない。
しようとも思わない。
わが子の命を一体何だと思っているのか。
腹が立つことこの上ない。
だが、これによく似たことは、身の回りでよく見かけるのではないか?

たとえば、外を出歩く時に親が小さな子供の手をひかないこと。
カートに子供を乗せたまま電車等の乗り物に乗り降りすること。
子供を車の中に置き去りにして所用をすること。
その他挙げれば枚挙に暇が無い。

このうち1つでも身に覚えのある行為を行っている親は、往々にして、その他のことに関しても関心が薄い。
というか、意識が稀薄でそもそもこういうことが「悪いことだ」とは思っていない。
実はチャイルドシートに関する記事はmixiに出ていたので、それに関する日記を少々見てみたら・・・驚くべき内容のものが少なからずあった。
たとえば

・チャイルドシートは高価(とは言いつつ相場は1万円程度)。
・子供が泣き喚く(だからって命が奪われればどうしようもない)。
・チャイルドシートを買わせようとする陰謀だ(ではそのために子供が死んでもよいのか)。
・罰金がないから別に平気(何のためにチャイルドシートがあるのか考えたことはあるのか)。
・こんなものを作るからドライブが楽しくなくなる(では子供など設ける資格はない)。

などなど。
どれもおよそ人の親の意見とは考えがたい。
「こんなものを〜」と書いていた人間の日記では、「シートベルトを義務化したのもドライブが楽しくなくなった一因だ」とか書いてあったのだが、私はそのように感じたことは一度もないし、プロのレーシングドライバーだって全員シートベルトをしている(レース用のすっごいきついものを)。
もし仮に邪魔だと感じたとしても、それは公道上の規則だから仕方の無い話であって(しかもその規則は人命を守るために作っているもの)、嫌なら車など乗らねば良いと思う。
自分が事故をして死ぬのは勝手だが、物心つかぬ子供を道連れにするなら、子供があまりに不憫だ。

信じられない例として、チャイルドシートはおろか、席に座らせずに何と自分のひざの上に立たせた状態で運転している女を見かけたことがある。
ここまでくると言葉も無い。
見ると気分が悪くなるので一気に抜き去ったが(第一危ない)、そんなことをしていればいつか必ず取り返しのつかない事故になる。
でも、そういう親に限って事故をしてしまえば自分が悪いとは絶対に言わない。
周りから見ればこれほど迷惑な話もあるまい。

近頃はどうも親としての意識が稀薄な親をよく見かける。
人の親でもない人間が見てそう思うのだから、まともな親から見れば、許しがたいことこの上ないことに違いないだろう。
プロフィール
  • プロフィール画像
  • アイコン画像 ニックネーム:ちゃるるん
  • アイコン画像 誕生日:1986年1月17日
  • アイコン画像 血液型:AB型
  • アイコン画像 現住所:福岡県
  • アイコン画像 職業:大学生・大学院生
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