今日は23回目の結婚記念日

2007年09月08日(土) 0時24分
今日は23回目の結婚記念日の日です。

時は経つのは本当に早いです、結婚した時には現在の自分を

想像した事もなかったです。自分が病になり障害者になってるなんて

23年前の私は想像もしなかった。私は健康は当たり前にあると信じてた。

夫は私より8歳8ヶ月年上だから、歳を取ったら夫はどうなるのか?

なんて心配したものだった。ところが自分の身体の方が夫より

歳を取ってしまってガッカリしています。夫も今は大腸がんの手術を

終えたばかりで大変な目に会っています。私たち夫婦にはこの5年の間

9月はいつも色んな事が起きています。平成14年の今頃は私は

リハビリの辛い時期でした、今もリハビリは続いています。

平成16年9月には私の父の死があり、平成17年9月は父の

1周期と夫の痔ろうの手術、平成18年9月は父の3回忌

今年は夫は大腸がんの手術(8月30日)で入院中ですが快方に向ってます。

夫の手術の成功が最高の結婚記念のプレゼントになりました。

結婚したばかりの時は私の人生は自分の思い道理になると

とんでもない勘違いしていました。生きて行く事は思い道理に

ならない事が多いなんて若い私は思いもしなかった。

本当なら子育ても一段落してきた今、私は自由に楽しく

旅行にいったり、芝居を見たり、外食に行ったりと忙しく

元気一杯に動けてるはずでしたが、甘かったです。

無くした物はたくさんある気もした時期があったけど

考えたら私は何も無くしていない事に気が付きました。

夫がいて子供がいる、笑える自分がいたら欲しい物はないです。

んー、でも夫が買ってくれるならー拒否はしないです。

(やっぱり物欲は無くならないものだわ)

夫が元気になったらまた私も楽しく鬼嫁になれると思います。

夫様ー、23年も面倒見てくれて本当にありがとうね。

銀婚式(25年)には絶対に元気で記念日迎えようね。

そして私にもう一回、花嫁衣裳を着せてください!

今の本当に素敵なのたくさんあるんだもの、また着たいよー!



明日へとタイトルを付けた理由。

2007年06月22日(金) 21時56分
私がブログに明日へとタイトルを付けたのには理由がある。

私は元気で好きな事を言い、好きな時に行きたい所に行け

食べたい時に外食に行き、バーゲンに行きと自分は健康で

何でも思い通りに出来るのが当たり前だと思っていた。

自分の未来は道が真っ直ぐに伸びていて、別れ道などないと

曲がり道などないと信じきっていた。平成14年の5月までは・・・

それが突然5月半ば頃に、身体の変調をを感じた、何とも言えない

変なしゃっくり、それが前兆だった。次の日には左手の指に針で刺されたような

痛みが走った、気になったが疲れたのかな、ぐらいに思ってた。

次の日には食べ物が飲み込めなくなった。夫には

風邪を引いて喉が痛むんだろ、寝れば治るよ。

と言われ自分でも寝れば治ると思った。次の日に目が覚めると

身体に何とも言えないだるさと、左手の痛みが広がっているのを感じた。

食べ物は飲み込めないままだった。日曜日だったから当番医に行ったが

わからないと言われ脳外科に行くように言われた。月曜日に脳外科に行くと

延髄梗塞だと言われ、それも若い人がなるのは珍しいと驚かれた。

即、入院だと言われた。私は直に治ると信じてた。少し休むだけだと思ってた。

なのに、入院してから病状は悪くなるばかりだった。何が自分に起きてるか

理解出来なかった。左半身には激痛が走り、顔の筋肉がたるみ、

舌が変形していた、右半身は感覚がなく痛み、熱さが感じなくなっていた。

飲み込みは出来ないまま、水すら飲めないうえに、自分の唾さえ飲み込めなかった。

自分の唾が喉に落ちて、むせて苦しいなんて、誰にも分らないだろな。

看護婦さんも、医師も私の状態の変化に何もしてくれなかった。

言葉が上手く話せない自分がそこにいた。言語障害になっていた事も

自分では気がつかなかった。頭の中は正常に動いていた。だから

自分は言葉がみんなに伝わっていると思っていた。でも、そうじゃなかった。

身体は重く感じ、息をするのも苦しかった、眼が勝手に動いて物を見ると

何重にもビデオの早送りのように見えた、眼震の始まりだった。

左半身には激痛の他に、力が入らなくなった。物を取ろうとしても

つかめなくなった、まるで、だるまさんになった気分だった。

頭の中はしっかりしてるから、看護婦さんの態度にいらついた。

トイレに行くにも人の手がないと動けない辛さ、悔しさは忘れられない。

一ヶ月入院しても、喉は動かなかった、医師は私に

点滴だけのままでは、もう限界だよ、栄養を取る方法を

選んで欲しい、経管栄養、胃ろう、首の血管の所から点滴が入るようにするか

3つの方法のどれにするか、考えないと手からの点滴は血管が固くなって

もう、限界だからね、私は経管栄養を若いから進めるよ。


と宣告された、私はどれも拒否したが、夫、妹の励ましに答えない訳に行かなかった。

本当は死にたかった。なんのために、生きなければならないのか疑問だった。

そんな時に夫は私に向って言った。

お前は居るだけでいいんだ、何も出来なくてもいい。居るだけでいいんだよ。

繰り返し言う夫の言葉に私はすがりついた、生きていてもいいんだと思った。

医師に言われて、経管栄養を選び、自分で鼻からチューブを胃まで入れる

練習をした、苦しかった、辛かった、何度も喉にチューブが当り喉から血が出た。

それでも、みんなに励まされて、必死に練習した。生きるために。

初めて栄養剤を入れた時は不思議な感じがした。すぐに下痢になり辛かった。

でも、お腹が満たされる感覚に涙が出るほど嬉しかった。なんでもっと早くに

経管栄養にしなかったのか後悔した、怖いからと逃げていた自分に腹が立った。

一ヶ月も飢えに苦しみ、喉の焼け付くような渇きに苦しんだのはなんだったのかと

思うと自分のバカさ加減に笑うしかなかった。鼻からチューブをぶら下げた自分は

とても、見たくない姿だった。医師は自分で覚えれば使う時に入れて、後は

外せばいいんだと言った。チューブは2週間入れておくと、胃の中の部分は

真っ黒に変色すのにも驚いた。胃液のせいで黒くなるんだと分った。

それからは、身体のリハビリ、言葉のリハビリ、喉のリハビリと続いた。

なのに、いくらリハビリしても身体は元の自分に戻らなかった。

私は荒れた医師には、やぶ医師と文句を言い、リハビリは嫌いだった。

いくら頑張っても思うようにならない身体にいらだった。でも、夫は私の味方だった。

いくら我儘を言おうが、夫は変わらなかった。毎日私に

昨日より良くなったな、頑張ったな、明日はもっと良くなる。

毎日、夫に言われた言葉

明日は良くなるよ、もっと元気になれる。

5年が経ち、自分の障害も受け入れる事が出来るようになって

息子がブログを立ち上げてくれた。息子に

お母さん、タイトルは何にするの?

へっ、タイトルって何?

んーと、題名の事だよ。

私は迷わずに、明日へと決めた。

夫が言い続けた、明日にはもっと良くなるよ。の言葉から取った。

あの時に死なないで良かった。まだ、色々な障害はあるが、最初の頃に

比べたら良くなっている、飲み込みは上手く出来ないが少しずつ柔らかい物は

横になって集中してなんとか落ちるようになってきた。

身体も自分でトイレに行けるし、手すりがあればなんとか平らな場所は動ける

人の手は借りないとならないが、外にも行くことが出来るようになった。

私を振り返って見る人も多いが、気にしないようになった。







プロフィール
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  • 血液型:O型
  • 職業:専業主婦
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