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ポンサクレック ウォンジョンカムとの第3,4戦

2007年7月の第3戦では,内藤大助の絶対不利が大半を占めていたが,内藤は小松則幸を下し日本・東洋太平洋王座をも統一し両タイトルを返上してポンサクレックに挑戦で,正に引退をかけての戦いであったが,ボクシング史上に残る激戦は12Rにもつれこみ,小差の判定で大番狂わせを起こし,32歳にして悲願の世界チャンピオンとなり,この試合を境に内藤はスターダムにのし上がっていった。

2008年3月の両国国技館での第4戦では,2度目の防衛戦で前王者ポンサクレック ウォンジョンカムの挑戦を受けたが,内藤大助の防衛戦で重要な試合であるのは明白で,いざ試合が始まると,前回とは体の切れが違うポンサクレックと,さらに進化を遂げる内藤大助の技術戦となり,序盤から中盤にかけお互い手の内を知り尽くしていたので,中々とパンチが当たらない展開だったが中盤以降にお互いのパンチが当たりだしヒートアップしたが,一進一退のまま判定となって,1対1の三者三様で引き分け,内藤大助が2度目の防衛に成功し,これにより,ポンサクレック側に握られていた興行権を,宮田ジムは手に入れた。

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ポンサクレック ウォンジョンカムとの第1,2戦

内藤大助とポンサクレックとの関係は,現在でもお互いを尊敬し合える存在で,ポンサクレックは,内藤大助に対して『 兄のような存在 』と慕っていて,内藤大助も,ポンサクレックに対し『 礼儀正しく偉大な王者 』と発言をしているが,ポンサクレック ウォンジョンカムとの第1,2戦では,内藤大助が2敗している。

内藤大助は,2002年4月に,タイで5度目の防衛戦のポンサックレック シンワンチャーのWBC世界フライ級王座に挑戦した。アウェーによる王座挑戦で,第1Rに内藤は序盤から積極的に仕掛けたが,開始20秒付近で内藤が右アッパーをだしたときに,ポンサクレックが左フックを被せられ,強烈なカウンターとなり内藤はリング上で失神し,第1戦を世界フライ級タイトルマッチ史上最短の1R35秒KO負けを喫した。

2005年10月に日本王座2回防衛の内藤大助の第2戦は,12度目の防衛戦のWBC世界フライ級王者ポンサクレックに後楽園ホールで再挑戦したが,前戦の影響で,ファンの注目は第1Rに集まり,内藤が前戦と同様にポンサクレックに対して積極的に攻撃を仕掛けが,7R負傷判定負けをした。

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内藤大助と亀田家との因縁

内藤大助は,元 WBA世界ライトフライ級王者の亀田興毅との対決を熱望していたが,亀田陣営は 『 6回戦レベル 』 などと内藤大助に対し挑発をしても対戦を避けていた。

内藤大助は,3度目の WBC世界フライ級王座のポンサクレックへの挑戦の前に 『 世界王者になったら,亀田を挑戦者に指名する 』 と宣言し,ポンサクレックに勝利して王座に付いたとき,亀田陣営は 『 内藤が世界王者になったことでボクシングのレベルが下がった 』 と反撃した。

内藤大助の WBC世界フライ級王座の初防衛戦は亀田興毅との対決を予定していたが,2007年10月の初防衛戦は亀田興毅ではなく,弟のWBCフライ級14位の亀田大毅との対戦が初防衛となった。

亀田陣営は,亀田大毅が勝てば記録が5日更新するため,最年少世界王座獲得の日本記録を意識していたためであったが,WBC世界フライ級王座の初防衛戦の結果は,審判3者とも7点から10点差以上の大差で内藤優勢としたため,内藤大助が3対0で快勝して初防衛となった。

この初防衛戦では,亀田大毅が様々な反則行為を行ったことから,観客の応援は内藤大助に向けたものが圧倒的に多く,この試合で内藤大助は 『 大毅が反省しないのなら,もう亀田家とはやらない 』 と発言した。

その後の亀田陣営の謝罪会見で,大毅が坊主姿になったことについて内藤大助は, 『 大毅が相当のショックを受けている 』 ,『 気持ちが伝わった 』 と勝者の思いやりを表明し,その会見の翌日に亀田大毅から謝罪訪問を受け, 『 誠意が伝わりました。お父さんからも電話で連絡をいただき,謝罪を受けました。大毅君は素質のある選手なので,これからも頑張ってほしいと思います 』 と発言した。

その後の協栄ジム金平桂一郎会長と亀田興毅による謝罪会見に対しても 『 興毅君は立派でした 』 と讃え, 『 自分の中では大毅君とお父さんの謝罪を受けてすでに終わっている件だが,公の場で公式に謝罪したので,みなさんにも誠意は伝わったんじゃないでしょうか 』 と語った。

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チャンピオン内藤大助

チャンピオン内藤大助,東日本フライ級新人王,全日本フライ級新人王,日本フライ級王座 ( 防衛4 = 返上 ),OPBF東洋太平洋フライ級王座 ( 防衛1 = 返上,日本・東洋の現役 2冠を達成 ) ,WBC世界フライ級王座 ( 防衛1 ) で,1996年10月にプロデビューを 1RKOで飾り,1998年12月全日本フライ級新人王決定戦で福山登を1RKOで下し新人王を獲得,2001年7月坂田健史の持つ日本フライ級王座に挑戦したが引き分けた。

2002年4月にタイで,WBC世界フライ級王座のポンサックレック シンワンチャーに挑戦し,世界フライ級タイトルマッチ史上最短KO記録の1R34秒KO負けを喫するが,復帰戦をKOで飾り,菊井徹平を下し,順調に勝ち進みランキングを上昇させ,2004年6月,中野博の日本フライ級王座に挑戦し,同日本王座を獲得。

2004年10月には,日本王座の初防衛戦を小嶋武幸と行い,日本タイトルマッチ史上最短の1R24秒KO勝ちを収め,2005年10月にWBC世界フライ級王者ポンサクレック ウォンジョンカムに再挑戦し敗れ,2006年6月,史上初の日本・東洋太平洋統一タイトルマッチを東洋太平洋フライ級王者の小松則幸に勝利し,王座の2冠を達成,同年12月には東洋太平洋王座単独の防衛戦を行い,判定で初防衛。

チャンピオン内藤大助は,2007年2月に負傷と日本・東洋王座の防衛戦の兼用の厳しさを理由に東洋王座を返上したが,後には日本王座を防衛しながら3度目の世界挑戦を表明。2007年7月,WBC世界フライ級王座 3度目の挑戦で,王者ポンサクレック ウォンジョンカムに判定勝ちし,雪辱を果たし,世界初挑戦から約 5年,悲願のチャンピオンベルト奪還に成功した。

2007年10月 初防衛戦で,WBC世界フライ級14位の亀田大毅に大差の判定で圧勝し,初防衛を果たした。

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内藤大助 - ないとう だいすけ -

1974年8月30日生まれの内藤大助は,宮田ジム所属の日本のプロボクサー。北海道虻田郡豊浦町出身,豊浦高校卒,血液型A型,既婚,愛称『北の剛拳』のWBC世界フライ級王者,元日本 & OPBF東洋太平洋フライ級王者で,KO率70%のハードパンチャーである。

2007年10月の亀田大毅戦での健闘で注目を集めた内藤大助の試合のときの入場曲は,C-C-Bの『 Romantic が止まらない』で,これは内藤大助がいじめにあっていたころ C-C-B のラジオ番組にいじめのことを相談する葉書を出し,それが採用されたことからである。

貧しい母子家庭に育ち,中学校時代はいじめが原因で胃潰瘍になるほどであったという内藤大助は,高校生の時はハンドボール部に所属し,高校卒業後就職のために上京して実父の経営する会社に就職し,アパートの近くのボクシングジムに入門した。

内藤大助は,2007年6月まではレンタカー店で働き,全日本新人王,東洋太平洋チャンピオン,日本チャンピオン,WBC世界チャンピオンと主要タイトルを総なめにして上り詰めた正統派の選手にもかかわらず,喫茶店勤めの妻と合わせて月収12万円ほどで,世間で認知を得られたのは亀田大毅との試合からである。

内藤大助の敗戦は,初世界戦でのKO負けと負傷判定負けの2人のポンサクレックとの2敗だけで,ガードが低く見られがちだがパーリングやウィービングやスリッピングなどのパンチをかわす技術に冴え,クリーンヒットをかわし,ダウンは1度もない。

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