淀殿

January 20 [Fri], 2012, 23:16
 
淀殿 / 茶々  よどどの / ちゃちゃ
永禄12年(1569年) − 慶長20年5月8日(1615年6月4日) 享年49歳
戦国時代(室町時代末期)−江戸時代初頭の女性
位階従五位下(諸説あり)

豊臣秀吉の側室で、豊臣秀頼の生母。                
父:浅井長政(近江の戦国大名)
母:お市の方(織田信長の妹)
同母妹:初(常高院、京極高次正室)、江(崇源院、徳川秀忠正室)
子供:鶴松(夭折)、豊臣秀頼
猶女:完子(妹・お江の娘)

本名:茶々
別名:二の丸殿、西の丸殿、淀の方(淀殿)、淀君、
   菊子(朝廷から従五位下の官位を賜った際に授かった名)

三人の天下人の狭間で戦国一数奇な運命をたどる浅井三姉妹の長女。
親の仇である豊臣秀吉の側室となり、天下人の子供を生む。

−茶々の生涯

永禄12年(1569年)近江国小谷に浅井長政の娘として生まれる。
乳母の大蔵卿局、饗庭局、大局らに養育され、浅井家の長女として大切に育てらる。

−一度目の落城と父の死

母の政略結婚で、父と伯父である織田信長は同盟を結んでいた。
しかし元亀元年(1570年)、浅井家の古くからの盟友である朝倉家が、信長に攻められたことで父と信長が敵対し、姉川の戦いが勃発した。
天正元年(1573年)茶々5歳、小谷城が攻められついに落城し、父と祖父の久政は自刃した。
茶々は母や妹達と共に藤掛永勝に救出され、岐阜城に落ち伸びた。
別に逃がされた兄の万福丸と祖母は捕らえられ、信長の命で羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)によって処刑された。

その後、伯父の織田信包のもとで保護され、尾張清洲城(後の伊勢上野城)でしばらく過ごした。
天正8年(1580年)茶々12歳、信包が居城を安濃津城(津城)に移すに従い、そちらに移る。
信長はお市や茶々達を大変気にかけていたようで、信包のもとでの生活は何不自由ないものだった。

−母の再婚と二度目の落城

天正10年(1582年)茶々14歳、伯父の信長が本能寺の変で家臣の明智光秀に討たれ死去。
信長亡き後の権力争いから羽柴秀吉と柴田勝家が対立すると、母の市は勝家と再婚し、反秀吉を鮮明にする。
母と共に、勝家の越前国北ノ庄城に移り住み、 勝家にも大切にされ平穏に過ごしていた。
しかし、勝家と秀吉の対立は激化し、とうとう賤ヶ岳の戦いが勃発した。
天正11年(1583年)茶々15歳、勝家が秀吉に敗れ北ノ庄城落城。
母は勝家と共に自害し、茶々達三人の娘は逃がされた。
脱出の際、お市は三姉妹に「浅井の血を絶やさぬように」と言い聞かせたといわれている。
そして、その後は秀吉の保護を受けることになった。

−秀吉の側室に

信長の姪という生まれの三姉妹は、秀吉にとって格好の政略結婚の道具となった。
最初に嫁に出されたのは、末の妹の江だった。
相手は従兄弟の佐治一成だったが、秀吉によって強制的に離縁させられ帰ってくる。
次はすぐ下の妹の初で、相手は従兄弟の京極高次だった。
妹達が先に嫁いでいくなか、いつまでたっても茶々に縁談はなかった。
お市に憧れていた秀吉は、三姉妹の中で母の面影を一番よく受け継いだ茶々を側室にしたいと思っていたからだった。

天正16年(1588年)茶々20歳の時、両親の仇である秀吉の側室となった。
ほどなくして、茶々は秀吉の子を身籠った。
この懐妊をとても喜んだ秀吉から、産所として築いた山城国淀城を賜った。
このことから茶々は「淀の方」と呼ばれるようになった。
しかし茶々のお腹の子は秀吉の子ではなく、浮気してできた子だという噂が立った。
秀吉には多くの側室がいたにも関わらず、今まで子が出来なかったことが原因で流れた噂だったが、事はそれだけに済まされなくなる。
聚楽第の南鉄門に、こんな落首が貼りだされた。

大仏の功徳もあれや槍かたな 釘かすがいは 子宝めぐむ 
  ささ絶えて茶々生い茂る内野原 今日は傾城 香をきそいける

(訳)…子種のない秀吉に子が出来たのは大仏様のお陰としか考えられない
     茶々は男を誘惑して国を滅ぼそうとしている

これに怒り狂った秀吉は、門番17人をはじめ、噂を流した疑いのある者を手当たりしだいに処刑した。
その数は113人と伝えられている。

天正17年(1589年)茶々21歳の時、淀城で男の子を産む。名前は棄。
捨て子は元気によく育つという理由で秀吉が付けた名前だった。
棄の誕生を喜んだ秀吉は、生後4ヵ月の棄を大阪城に入れて後継者に指名し、名前を棄から鶴松と改めた。
茶々は自らの母乳で鶴松を育てた。
この時代、高貴な身分の子供は乳母の乳で育てるのが慣わしだったが、農民の出の秀吉は実母の母乳が良いと考えていたからといわれている。

鶴松が生まれた同年、茶々は父の十七回忌、母の七回忌の法要を営み、両親の肖像画を高野山・持明院に奉納した。
今に残るお市の方の肖像画は、この時に納められたものである。

−鶴松の死と二度目の懐妊
             
天正19年(1590年1月)茶々23歳の時、生まれた時から病弱だった鶴松は体調を崩してしまう。
茶々は病気が治るように與杼神社にお参りし 、秀吉も曲直瀬玄朔ら天下の名医と呼ばれる医者を呼び集めた。
一旦は回復したものの、治療の甲斐なく8月5日、わずか3歳にして大阪城で病死した。

秀吉は、すでに55歳の自分にはもう子供はできないと落胆し、関白職を甥の秀次に譲った。
さらに、鶴松の死で自棄になった秀吉は朝鮮出兵を思い立つ。

文禄元年(1592年)茶々24歳、朝鮮出兵のため名古屋城に赴く秀吉に付いていき、再び懐妊し大阪に帰った。
文禄2年(1593年)、茶々はまたも男の子を産んだ。名前は拾。
名前の由来は棄と同じだが、今度は実際に家臣に地面に捨てさせすぐに拾って帰るという徹底ぶり。
拾も淀の母乳で育てられた。
母乳の出を気遣う秀吉の手紙も残されている。

拾誕生の2ヶ月後には、拾と秀次の娘(槿姫とも呼ばれるが不明)を婚約させた。
淀がこの婚約について秀次に出した手紙も残されている。

『うれしく 思いまいらせ候 めでたき御事 申しうけ候』
(訳)…うれしくありがたく思っています めでたいこの婚約についてしっかり話し合いを進めましょう

秀次の娘と結婚することで、いずれ秀頼が関白職を継げるように考えていた。
しかし、次第に秀吉は自分が生きている間に拾を後継者にしたいと考えるようになり、関白職を秀次に譲ったことを後悔するようになる。
そして、秀次に謀反の疑いをかけ切腹に追い込んだ。
さらには秀次の妻や側室、子供達34人余りを京の三条河原で処刑した。

文禄4年(1593)、江が秀吉の計らいで徳川秀忠に嫁ぐことになった。
その際に淀殿は、江の前の夫である豊臣秀勝との娘・定子を引き取って育てた。

慶長2年(1597)、秀吉はわずか4歳の拾を元服させ、秀頼と名乗らせた。

この頃、淀殿は父母ら血縁の菩提を弔うため、秀吉の援助で養源院を建立した。
養源院とは父の法名に由来している。

−秀吉の死

慶長3年(1598年3月15日)豊臣秀吉は京都の醍醐寺で、秀頼、北政所、側室ら近親の者と、諸大名からその配下の者など約1300名を招待し、盛大に醍醐の花見といわれる宴を開催した。
その日の輿の順は、一番目に正室の北政所、二番目が側室筆頭の淀殿であったと記録されています。

この花見で、淀が詠んだ和歌が三首残されています。

はなもまた 君のためにとさきいでて 世にならびなき 春にあふらし 」
(訳)…桜の花も、あなたがいらっしゃるからと、こんなにすばらしく咲き始めて、
    私も世に並ぶことのない、すばらしい春を味わうことができることでしょう
あひおひの 松も桜も八千代へ 君がみゆきのけふをはじめに 
(訳)…あなたがここにいらっしゃった今日から、松はいつまでもりっぱに経ち続け、
    桜もいつまでも美しく咲き誇ることでしょう
とてもないて 眺めにあかし深雪山 帰るさ惜しき 花の面影
(訳)…あなたとご一緒に帰るのが惜しいと思わせる程、満開の桜をこの先のことと重ね、
    思いにふけりながら眺めあかしています

酒席で秀吉から杯を受ける際に、従姉妹で同じ側室(輿の順三番目)の京極竜子が序列を無視して淀殿の前に無理やり割り込み、杯の順番で争ったという話が有名であるが、双方とも軽い冗談で言ったこととされています。

そしてこの後の5月頃から秀吉は病に伏せるようになった。
日を追うたびに病状は悪化し8月18日、秀吉は幼い秀頼の行く末を案じながら伏見城で死去。
この時、淀殿30歳、秀頼6歳。
秀吉の死後は秀頼の後見人として、茶々は豊臣家の実権を握ることになった。

−徳川家康との対立

秀吉の死後、豊臣家臣であるにも関わらず、天下人の座を狙い勝手な振る舞いが多い徳川家康に対して、石田三成が豊臣家を守るため挙兵しました。
慶長5年(1600年)こうして、関ヶ原の戦いが勃発した。
三成率いる西軍に属していたはずの京極高次(初の夫)が大津城に籠城してしまうなどの裏切りに遭い、石田三成は敗北し家康の命により六条河原で斬首された。

豊臣家は直轄領を大幅に削減されたが、まだ関白になれる豊臣家はなれない徳川家よりも格上だった。
しかし、慶長8年(1603)に徳川家康が征夷大将軍に命じられたことで豊臣家を凌ぐ立場となってしまった。
慶長10年(1605)4月には、将軍職を嫡男の秀忠に譲り、政権を豊臣家に返す意思がないことを表明した。
さらに、家康は「秀頼と対面したいので、秀頼が自分の元まで赴くように」などとまるで豊臣家が家臣であるかのような要求を出してきた。
茶々を初めとする大坂方は、当然その要求を拒否した。
P R
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