神に感謝を(囚われのアダム)

November 24 [Thu], 2011, 0:00

 つめたい、つめたい、朝の北向きの斜面の朝日を受けて、僕たちの発声練習がはじまった。寒いから、声が出ないからと、12月のしののめの大気の中、念入りに、喉を温めながら。山腹の林の切れた場所。僕らは真っ直ぐに声を響かせた。ときはクリスマス。閉鎖が間近い閑散としたテーマパーク。午前10時の小さなステージへ向けて、男の子の白い息が何十本も氷解するように辺りへとあがった。発声練習だけ。繰り返し、繰り返し。肩には水筒。半たすきがけのストラップ。たいていの子は熱いお茶か、少しだけ甘くした紅茶を入れている。タプタプとんとんいう水筒の中味を想いながら、僕たちは暖いお腹の息を咽頭に押し当てて出した。「マママママ」が終わり、水戸黄門を締めろと相変わらず注意を受ける。水戸黄門。アルトも2メゾもおおむね暖気はいつも通り。目前に並ぶ下級生の仕上がりは、肩の線の振れ方でわかる。小さなアルトの3年生は、制服をまとった後ろ姿が未だ底冷えに震えているようだった。身を一つ引くと、赤いまだらの膕が幼い。奇麗に落ちているうなじの線に沿って、くりくり丸刈りの襟足が、ざらざらしたベルベットの縦のグラデーションに見える。

 練習が一段落し、「お水タイム」になったとき、小さい声で僕は呼んだ。
「ハルカ…。お兄ちゃんにお水くれ。」
3年生はニッコリ振り向いた。返事は無い。斜めにふった肩の向こう側から出て来たのは、1年生が見ても小振りそうな密やかな水色の水筒だった。あわててモノを言おうとしたが、表情を見てそれを飲み込む。彼はもうフタをかぱりと開けて、手のひらで裏返している。飲み物はちょろちょろと愛らしい音をたてて容器のうちのりの半分ぐらいまで落ち、かすかな湯気をあげていた。
「ハルカ。ありがとうな。」
だが、ニコニコの男の子は何も言わない。お茶は2口でカップの中から無くなった。
「おまえの飲む分が、減っちゃって、悪かったな。ごめんよ。」
「僕、あんまし飲まないから、いいよ。」
と今度ははっきりと発言があった。こめかみに向けて消えゆくベルベットの黒い眉。笑った両目はふせた漆黒の三日月のよう。奥では瞳がプラチナ色にキラキラと光っている。輝く頬に、閉じて愛らしく膨らませた明るい菫色の唇。その中から突然ニッコリと白い歯が見える瞬間! ハルカ君は、間違い無く僕らの合唱団のナンバーワン美少年だ。髪の毛が長かった頃、ハルカ君はよく女の子に間違われた。「少年合唱団なのに一人だけ女の子がいるよ」とお客様に言われた。コムサのブレザーを着て、短い半ズボンだったから、女の子に見えなくもない。学校の先生や友達がコンサートを聞きに来て、そのときも呼び名は「ハルカさん」だった。
「僕の学校って、男子も女子も『さん』づけなんだー。」と男の子は4年生に話していた。それからしばらくして、彼は終戦直後の男の子みたいに髪を短く切り、それ以来「スポーツ刈りのハルカさん」になった。

 薄荷色の山の空気の中、男の子の睫毛がしずかに瞬いた。
「寒いから、ハルカも飲んだらいいよ。」
「いいよ。あんまり飲まないんだ。ホント言うとね、ホンバンのときにオシッコ行きたくなるから…。飲まないんだ、終わるまで。」
通団服の上に防寒で着た黒いポロのベスト。ステージ用のインスタントでない普通の紺ネクタイをしめているのは首筋が寒くならないように6年生団員がよくやる規則逃れの手だ。
「お兄ちゃん、後ろにいるから、寒くない。」と言う。「先輩」ではなく、僕のことだけは「お兄ちゃん」と呼ぶ。
「後ろにいると、イイ匂いがする。よくわかる。」
「イイ匂いって、どんなニオイ?」
「わからないけど、イイ匂い。お兄ちゃんて、よく『ハルカらしい、いい歌だなぁ。』って言うじゃん。…そういうイイ匂い。」
僕のよくする物言い。コツコツと少しずつでも丁寧に積んで行く、教えられた事を素直によく飲んでやってみようとする、3年生らしいキラキラやんちゃな毎日の冒険を歌の中で輝かせてみたりする。あんな歌を歌えるようになりたい。外見と中味が同じに見える男の子。ハルカ君。ネクタイの結び目が上手くやさしい曲面のノットになって朝の光を線状に反射していた。

 「お水タイム」休憩の後、ポイントのおさらいだけがあった。「荒野のはてに」と「神の御子は」は抑制の指示。「きよしこの夜」は出だし。「オールド・ワンハンドレッド」はソロの鼻濁音(…が、わざとらし過ぎ)。ブリテンの「デオ・グラツィアス」は1メゾのせいでピンポン・ラリーがグダグダの将棋倒しになり先生の質問が飛んだ。
「他のパートとテンポだけ追っかけて歌ってれば良い曲なんですか?」
誰も答えない。
「何を考える?山崎!」
「ハーモニー?」
「それだけか?」
「じゃなくてピッチ…」
「それもある。他に?ナンバーワン美少年ハルカ!」
「…クリスマス??」
上級生が皆、鼻で笑った。
だが、先生だけが笑わない。
「そうだろう!『キャロル』なんだからクリスマスなんだろ!キミたちは何故それを真っ先に言わん?!」
隊列がざわついた。「当たってるじゃん」と1メゾの後ろの方でだれかが驚きの声をあげた。
「クリスマスって何よ?ハルカ君、キリスト教の学校に通ってるんだからわかるでしょ?」
「イエス様のお誕生日です。」
「だから、何なのよ?」
「おめでたい?」
「おめでたいのはキミたちのアタマの中よ。ケーキ食べて、プレゼントもらって?ケンタッキー食べて?おいしかったって?…そういう日なんですか?」
皆が大爆笑した。
「ちがいます。感謝する日。」
「何に感謝する?」
「イエス様が生まれて来たこと?」
「ありがとうってコトなんでしょ?ありがとうの気持ちの歌なんでしょう?考えて考えて想って想って歌ってないから掛け合いが倒壊する。」
 ナンバーワン美少年ハルカ君は、ここでようやく先生の質問攻撃から解放された。3年生は顎を突き出し前を凝視してしまっている。後ろからポンと小さな肩をたたいたら、恐い顔で振り向いて、僕を見るなりほっぺたをくずして苦笑いした。秋になるかならないかのあの日、ハルカ君が「デオ・グラツィアス」を聞いて苦笑いしたのを今でも思い出す。ソプラノのイソっちの学校で「キャロルの祭典」のお披露目があるからと、僕とハルカ君はイソのお母さんに連れられて聞きに行った。講堂や礼拝堂のようなところではなくて、1階の広くなったロビーみたいなところ。校舎は新しく、磔刑の十字架がころんとかかったクリーム色ののっぺりとしたマットな壁ばかりが目についた。お客様ががやがやと合唱団を取り囲み、季節外れのキャロルがはじまる。完璧な発声。きちんと生えそろっていて、自制が効いて皆がブレスさえ統御している。日本一の少年合唱団なのだもの…とお客さんの誰かがつぶやいた。歌っているのは、たしかに男の子ばかりなのだ。
 それなのに、ハルカ君はキラキラしたプラチナの目の眉間にしわを寄せ苦笑いした。「これは、男の子じゃなくても、いいよね。」…と、イソっちのお母さんに気づかれないように小さい声で言った。「デオ・グラツィアス」の掛け合いにアタックがつくと、お客様は皆、一斉に息を飲む。でも、確かにそれは僕たちの合唱と異なっている。

♪アダムはりんごを食べてしまった。
 だから聖母はその瞬間を祝福した。
 神に感謝しよう。

…面白い。それなのに『キャロル』。それが男の子らしい『キャロルの祭典』になるように、僕は祈った。

 朝の陽光の入射角はやがて消え、均質でアサギ色のすとんと抜けた空が山の頂に向けて広がった。おさらいが終わり、僕らは通団服をセーターといっしょに無理やり脱ぐと翼襟のワイシャツを着て赤い蝶ネクタイのホックをカチリととめた。ボウが正面に来るようにチョウチョをつかんで左右に揺らす。首筋の右側でバンドがシュッシュと音をたてた。スタンバイ。開演15分前。
「…お部屋の中にあるのに、その中にも同じお部屋があるものな〜んだ?」
イッちゃんが小声でなぞなぞを出した。
「洋服だんす?」
「ブブー!」
紺色のベレーをぽんと頭に乗せ、今日のクリスマスバージョンの衣装が完成する。
「じゃ、ドア?… う〜ん、タマネギ??」
「ちゃいまんねん。」
片膝立ててしゃがみ、ハイソックスを全部下ろしてからザッと上げた。ピチッと口ゴムが音をたててとまる。もう片方もやって、体前屈しながら両脚の靴下の高さをそろえた。
「シャボン玉?」
「おしいですねぇ〜。」
「じゃ、ヒント。ヒントくれ。」
「シャボン玉、おしいです。でも四角いのもあります。」
「わかった!!カガミ??」
「ピンポーン!!当ったりぃー!」
「第2問!第2問出してよ。」
「晴れの日に遠足に行くのに、いつもお洋服の中がびしょぬれになってみんなにしょわれて帰ってくる子ってだぁれ?」
「わかんねぇ〜」
ハルカ君が後ろから飛び上がって僕のベレーをひったくりざまに言う。
「お兄ちゃん、これ、僕がかぶらしてあげていい?」
「ウルサイ。後にしろ。今はなぞなぞタイム。」
それでも僕の顔に息を吹きかけながら、紺ベレーをクチャクチャつぶして頭に乗せてくる。上半身を引いては眺め、引いては眺め、乗せ直す。色々やってみて、眺めてみて、ぶつぶつ言う。
「ソレって、オレ!遠足のとき、池に落ちた…。ダイブした。」キッくん。
「誰かに背負われて帰って来たんだ?バカだぁ〜」皆が笑う。
「はい!完成。今日は右ナナメがぶりにしてみましたぁ〜。」ハルカ君。
「むずかしすぎ。ヒントない?ヒント。」
「今日も、僕たちと一緒に来てるよ。」
「それってホラーじゃん。びしょぬれの少年の…霊ィ〜〜?? なんちて。」
耳の上の方に手を当ててみた。ベレー帽が確かに斜めに乗っている。かっこいいかな?ミッション・コンプリート。準備は整った。後はホンバン。先生にはすまないけれど、ここまで来たら勢いで突っ走るしかない。
…と、ナンバーワン美少年ハルカがあの小さい水色カップを両手で持ち、僕の前でニヤニヤしている。
「もう、お水はいいよ。オシッコ出ちゃうだろ。」
それなのに、彼は急にヒソヒソ声になって、また熱い息で僕に耳打ちしようとする。
「あの答えはネ…きっと『水筒』だよ。スイ…ト…ウ。」

 10時からと12時15分からの2回のステージが終わり、森の劇場のひな壇から下りて来た僕たちの頬にあたる12月の風がひんやりと気持ちよかった。「デオ・グラツィアス」はやっぱり少しだけ異常接近があり、「神の御子は」のソプラノはガンバリすぎだった。楽屋口の階段を下りしなにフワリとかぶったベレーを脱いで持つ。目前に並ぶ下級生の出来は、肩の線の振れ方でわかった。美少年ハルカは、「ハルカらしい歌いかた」だった。
 衣装を収め、ひと息ついてその子の方を見る。菫色の上唇をぴちゃぴちゃさせ、水色のカップで水筒の水を飲んでいる。目が再び三日月になり、プラチナの光が隙間に宿った。
「上手く歌えたかな?キンチョウした。でも、やっぱりイイ匂いがしたよ。」
小さなアルトの3年生は飲み干したカップを持ったまま腕をまわし、水筒みたいに僕の肩からぶる下がった。