▲男の子はジェダイ色のマグの中味をSFアクション映画のダコタ・ゴヨばりにくちゃくちゃと飲み干した。 「落葉バイオマスおよび二次植生遷移管理条例」厳重施行下の辻風吹きすさぶ日々、私たちの行く手にはおびただしい大小の落ち葉の横溢と撹乱と堆積が野放図のまま繰り広げられた。辛子色に席巻されるイチョウ並木の間で踏みつけられたギンナンの果肉の臭気が淀みたち、楓の立つ小じゃれた庭先の様相はもはやカーマインに塗りたくられて炎上する寺院庭園と化している。子どもらはそれでもなお違法に落ち葉をかき集めては首まで浸かって最後にそれらを蹴散らし、冷たい細い腕をシャツの襟から突っ込んでポリポリと痛痒の背中を掻いたりした。教材たれども環境保護法規はやはり有効なのである。
「滑り易いから外を歩く時は気をつけて!」「東京電力の撒いたセシウムがいっぱい染み込んでるんだから!」
彼らに声をかけてやっていた大人たちもそんなことには早晩慣れっことなり、きしきしと音をたてながら、降り積もっていい匂いのする落ち葉の舗道を注意深く真摯に行き交った。
「葉っぱを店の中に入れないようにしてくださいね!」
ダイナーの戸口にとりあえず掲出された張り紙にはそう書かれていたが、手入れの行き届いているはずの縞鋼板の入口ステップには既に破れて粉々になりかけたシラカシやコナラの葉々の残滓が張り付いて溜まっている。2段上がった市松模様のPタイルのフロアには舟形の黄褐色の葉が一枚。塗り重ねられたグロスの光沢と褐色に転じた松葉の散開の中へ浮かぶがごとく落ちていた。
「落ち葉掃きが禁止されたおかげで、枯れ葉のありがたみと無比の価値がよくわかったよ。」
袖まくりしたスタンドカラーのワイシャツに深襟のベスト。ニューヨーク市警鑑識課のベージュのキャップに黒の綿パンツをはいたチビ・ギャルソンが、チープなグリーンの用箋鋏を鷲掴みに携えて億劫そうにオーダーをとりにやってきた。挨拶代わりに他愛の無い閑談をふると、
「木々が葉を散らすのは、寒さの中で生き抜く自己防衛本能だと思いこんでましたよね。ご注文は?」
と、小学生らしからぬ返答が返って来た。
「BLTかPBJかクラブサンド…」
「どれですか?」
「あるのはどれ?」
「全部あります。ここはダイナーですヨ。」
少年の指差すギャレーの壁を見ると「SANDWICHES」の表示の下に、派手な「ダグウッドサンド」から「スラッピージョー」「BEC」「エルビス」といったおどろおどろしい定番商品が金額相応に並んでいた。
「チキンテンダーサンドは?…自分じゃ判らないがその程度の食欲に思える。」
「メニューには無いですが、たぶん出来ます。」
「キミが作るんじゃないだろう?」
「いいんじゃないでしょうか?ココの家の子です。」
観光バスのような窓外で粉々になった葉が波浪のごとく舞っている。
「本当に?」
「ダメですか?」
「確実なのを頼む。」
「確実なのは、ファイアーキング・スペシャルのセットとか。」
少年は表情一つ変えずオーダーを誘導しにかかった。
「今日のファイアーキング・スペシャルはライト・ルーベンサンドにお好きなデザート1品付いてビンテージのファイアーキングでホットCODお替わり自由です。」
「ホット・シー・オー・ディーは?」
「コーヒー・オブ・ザ・デーのことです。」
「いや、銘柄を聞いてるんだ。」
「『ブレンド』って白いシールの貼ってある普通のレギュラーコーヒーです。」
なるほど。ダイナーなのだ。
臨戦態勢。もはや上気して立つ目の据わった数十人の少年たちがステージ上に組まれた山台の階段にばらまかれ、光景はボーダーライトの中に直立する掘り出された岩木の群生林のようだ。BPに送り込まれた彼ら。前奏はプレストかつ「四分音符4つと半」の刹那しか無い。彼らの吸込む筋張ったブレスに客席最前へ下りたボイトレ担当から「ピアノを聞いて!自分でバッと出ろ!ボヤボヤするな!」と怒鳴り声の指示が飛ぶ。いったいどの子の意識がこの期に及んで飛んでいるというのだろう!赤い顔と、すらりとした二の腕と、アンズまだらのふとももを通団服から突き出して。発音マシーンのごとく同じ方向を睨みつけた彼らの前へ、ついにアクセント記号の振られたピアノのトリルがざらざらと降りかかった。前打音を2つも伴う八分音符を引き連れる。
♪トリッチ! トラッチ! 街の角で
トリッチ! トラッチ! ・・・・
常軌を逸した疾風のスピードに、早口言葉で歌う子どもらの子音は冒頭から熱を帯びている。「♪トリッチ! トラッチ!」…「♪ぺちゃくちゃ! ぺちゃくちゃ!」…ヨハン・シュトラウス・ジュニア発案の狂騒のポルカはウイーン訛りのドイツ語で歌えば恐ろしい勢いの早言と化すこと請け合い。観客には、子どもらのそれを聞かせるか、ちょっと洒脱の効いた日本語歌詞に振りつきで見せるか…どちらで楽しませるかを悩んだ末、指揮者は目前の団員らの体臭や息みを感じて後者を選んだ。
♪ペチャクチャ ひまにまかせ
いつまで 続くのやら
輝かしく新しい日々、人々は何故こんな内容の歌を少年たちに歌わせて祝うのだろう?アシスタントのボイストレーナーが、今度は違う内容の誡告を叫んでいる。高声と破擦音ばかりの目立つ合唱を打ち払うようにして身振りでストップさせ、教示する。
「低音、もっと何とかなりませんかねぇ?アルト全員でこんなショボい声しか出ないのか?」
トリッチ・トラッチ・ポルカの低音は耳障りで聞き難いソプラノを下支えして鳴らす、倍音のような重要パートである。一人一人の声が立っていないと高音を御しきれない。だが、「任せてください!僕らは必ずやり遂げます!」という信念に満ちた反応を最近のアルト・チームはなかなか返してくれなかった。
「出るのか出ないのかと聞いてるんだ!こんな情けない低音しか出ないのか?」
「…は、はい。」
「なにぃ?『はい』だとぉ?」
「…い、いいえ。」
「どっちなんだ?!ハッキリしろ!」
我関せずのソプラノ6年生たちが鼻で笑ってニヤリとした。どうせザマミロ!としか思っていない。いずれにせよ、この次元の低い問答は貴重なプローヴェの時間の無駄遣いだ。
「キミたちまさか、中山アンビ君が居ないせいだとは言わせませんヨ!」
ボーイアルトたちは痛い所を付かれ色を失った。
「ホンバン中ずっとベレーのかぶり具合と靴下の長さにしか気が行ってないようなヤツだぞ!1ヶ月やそこら欠席続きだからってガタガタ言うんじゃないよ!どうせ蚊の鳴くような声のアンビが来ても今のキミらの調子じゃ何の足しにもならんだろう?!」
隊列右端の10人が自問して視線をそれぞれ近い所へ投げた。
子どもたちがそれから派手なポルタメントを付けて賑やかに歌を展開していくと、ピッチベンドに合わせてアルトの諸君が頭をすくいながら歌っている様子が見られた。当初、音取りの終わった時点で「どんな曲にしたいか」の注文が一方的に伝えられる。強弱、明暗、高低、緩急の全てにおいて極端であること。声高に歌ったかと思うと突然ナイショ話のように歌い、楽しさ100%の次は悲嘆にくれた表情で歌い、愛らしい善良な少年になって歌ったかと思えば次の瞬間には邪悪な小悪魔の表情を見せつけ、金切り声の次は地をも轟かす低音を繰り出し、後はただ脱兎のごとく逃げ切るすさまじいテンポで180秒間を歌いきれ!曲中に12回繰り返される「Tritsch-Tratsch!」という上部ドイツ語を彼らは一人ずつ徹底的に復唱させられ、本当に耳障りに聞こえるよう仕込まれた。低声の子どもたちはどの子も誠意をもって真摯に臨んでいたが決定的なモラールに欠けていた。ソプラノの少年らが心から楽しそうに歌っているのに比べ、どこかよそよそしい嫌な雰囲気を彼らは醸造しはじめていた。大江少年は歌が始まれば「これも通常業務のうち」という遣っ付け仕事的な安定した歌唱である。他所のボーイスクワイアーのコンサートへ一般少年のふりで紛れ込み、ステージに合わせ「ハレルヤ・コーラス」をこっそり客席で歌っていたり、「僕たちの仲間に入りませんか?」と団員募集のチラシを渡されたりするような男の子だ。一方、加藤(弟)の口の周りは既に黒ずんで、半ズボンからにょきにょき生えた二脚はごつごつと節くれだった丸太のようである。ホコリで汚れたレンズのメタルフレームのめがねをいい加減にかけて、6年生になってまだ予科生と似たり寄ったりの集中力でちっともじっとしていてくれない。お客様がたは、どういうわけかそういう彼の仕草を好み、レターが合唱団宛に届くこともある。大江少年と加藤(弟)の間には、団員一人分の間隙が故意にあけられていた。本番直前に「そのみっともないスキ間を詰めろ!」と毎回命じなくてはならない。丸太足の6年アルトの前には品川(兄)がいて、彼の担当はちょっとカッコイイ系のメインMCと精悍な仕草のスタンバイである。彼がそのベルカントなボーイアルトで「ヨハン大公のヨーデル」なんかを歌ったりすると、お客様の呼吸回数がきちんとヨーデルの間だけ半減しているのが感じられる。彼は長欠アルトの永の戦友で、優しい心根はすべてあの出来の悪い団員のために用意されたものだということが判る。彼の左隣の5年アルトは今日も少年合唱団の映画に出て来る真っ直ぐでひたすらな少年主人公の見映えだ。だが、週末の出演のために子どもたちをターミナル駅のコンコースに集合させると、やって来るメンバーらの顔を絶えず確認し人待ち顔で遠くを見渡しているのはこの子どもだった。
「アオケン君。今日のアルトはこれで全員集合だ。そろそろ行くぞ!」
引率者の声に彼は心配げな表情をぱっと呑んで笑み「ハイっ!」と明るい声を返す。通団服に衣装ケースをぶる下げた少年たちの集合の列の中に、彼は今日こそ中山アンビの姿が見えるのではないかと念じて待っていたのだろう。しっかりとした頼もしい体格で、ジンとうねるような幼い音色の声質以外には何の取り柄も無い、「その他おおぜい」に類する5年アルトが、所属パートの子どもたちの間をニカワのように静かに固くつなぎ止めていたのは正直なところ驚きだった。
「中山アンビが合唱団に来なくなったのは、先生のせいなのか?」
「連絡帳や欠席メールには何も書いてなかったんですか?」
「書いてなかった。」
「アンビ君のお母さんから何も聞いてないんですか?」
「聞いたサ。家の都合だそうだ。」
「先生、それ…たぶん違います。」
アオケン少年は今日も悲しそうな目で微笑んだ。通団服の襟口から舶来ソフナーらしいオレンジ・フローラルの匂いがする。
「ピエ・イエズのソロを僕が横取りしちゃったせいだと思います。」
「イエズのソロ・オーディションをキミが受けたことか?」
「きっと、僕なんかに声をかけなきゃよかった…って。」
「キミは、アンビからキャスティングを掠め取ったわけじゃないぞ。あいつは壁際にペタンと体操座りしてオーディション自体、全然受けてないんだ。そもそもあいつに『キミにだけ形式的なオーディションをするから、『ピエ・イエズ』のアルトソロをやってみないか?』って持ちかけたのは先生なんだから。」
「僕は、アンビ君のイエズを聞いてみたかったです。」
「アンビも同じことを先生に言ったよ。『俺はアオケン君のイエズを聞いてみたい。合唱団で一番好きな曲だから。』ってナ。…そうして、あいつはお前の腕を引っ掴んで連れてきて、オーディションを受けさせて、それでキミがイエズのアルトソロを歌うことに決まった。」
「…欠席なんかしたら、僕の『ピエ・イエズ』も聞けないのに…」
「そう思うだろう?あいつ、何か変なんだ。」

バイオマス条例の日々、降り落ちた数千枚の葉っぱのフレディたちは大挙して路地へと堆積し、人々と裸の木々の足元を静かに温めていた。公園の野外コンサートは美麗で賑やかな枇杷の木の落葉の下。「ふれあい広場」と擬木の表示にはある。少年らの声が遠慮がちなPAスタンドの黒い箱からふわり香りたつと、乾いた風に揺すられて、夥しいカラシ色の可愛らしいボート形の葉片が演奏を聴く群衆の上へと一斉に降り掛かった。北風小僧の寒太郎が届けてくれる香ばしい冬のプレゼント。子どもたちのつやつやした髪に載ったベレーの団章の際や、小さく丸いカマボコ形の肩や、観客たちの紫色の帽子やコートのラペルの隅っこへ、それらはかさこそと舞い落ちた。
「先生っ、行きますよ?」とばかりアオケン少年が隊列2段目の山腹から指揮者に向けて一瞬の目配せを送ると、返事を待たずにカミ手側の外縁を抜けて彼は進み出てくる。手入れの行き届いた革靴のつま先を光らせて、落ち着いたばかりの地上の葉身を退けるように蹴散らしながらソプラノ側のソロ団員1名と前方位置に来て止まった。上気して引き締まった少年らしい清廉な面影に枇杷の枯葉がパチパチと降りあたり、彼は瞬くように目をしばたかせた。ロイド=ウェッバーふうの高貴で悠然とした穏やかな前奏が3小節。続いてソプラノ6年の中井宗太郎が弱起から「♪Pie Jesu, --pie Jesu…」と歌い出す。アンダンテを噛み含め極め、緩慢で丁寧な4回のリフの後に「♪Qui tollis…」と歌いながら。横隔膜を繰って♭ミ-♭ラと音があがると、実はこの声が当日彼の担当する最も高いピッチの一つなのだった。こうして永遠に思える長さの1拍だけの間奏がゆったりと鳴る間、しわがれた褐色の落下物たちは落体の法則そのものの実直さを保ちつつ一斉に自由落下を楽しんでいるようだった。口唇を軽く結んで合唱の出だしを待ちつつ上級生のソロを聴く最前列の愛らしい低学年団員たちの制服のかいなや剥き出しの白いふとももにカラカラでギザギザの葉々の外縁が容赦なく当たってはいたのだが、彼らの小さな集中力がそれをまるで意識させないように守り続けていた。
♪Pie Jesu, --pie Jesu--
ソプラノの宗太郎へ寄り添うようにしてとりかわり、バトンタッチを受けたアオケン少年がボーイアルトの第一声を繰り出したとき、降り積もるバイオマスの上には冬の白昼の安寧が訪れた。男の子の歌う4小節は冒頭のソプラノと同じメロディーだったが、こころもちメゾピアノがかかり低声特有の深みや振幅のゆるやかなビブラートを感じさせた。
「先生…これでいいですか?」
観客に気づかれないよう再び一瞬の目配せがあり、続いて主旋律を引き取るソプラノの下に付くため今度は中井宗太郎の方へ視線が振れた。落ち葉散る嵐の中に黒目の揺動は殆ど人々の気を引かなかったが、彼は耳をすまし、自分の音程が6年ソプラノの発する声に合っているかどうかだけに細心の注意を払って「♪Qui tollis…」と息を続けた。どんなに厳しい訓練で鍛えた美声のボーイアルトも、ペアを組むソプラノ・ソリストの出す声に半音の三分の一でもズレて歌ってしまえば、何の研鑽も受けていない5年生の男の子が学校の音楽の時間によそ見をしながら歌っているのとあまり変わらない出来の歌になる。ソプラノが半音落ちていればボーイアルトは半音落として合わせるし、相手方が走れば、彼も同じ速度で歌う以外選択の余地は無い。中井宗太郎が『ピエ・イエズ』の本日のステージの前に指揮者へ、「先生…、requiemのreの発音は、やっぱり巻き舌じゃないとダメでしょうか?」と尋ねたのに対し、アオケン少年は「先生…ホンバン中は宗太郎君の方を見ながらゲートタイムを揃えていいですか?」と許しを乞うている。相棒のブレスや口形を注視していれば、ソプラノが何時ソステヌートを切り上げ、何時どのタイミングで「Slowly」と書かれた楽譜最終ページの表示を思い回しはじめるか視覚的にとらえる事が出来る。少年たちは普段、至近に並立し隣の子の体温や匂いでそれらを感じる。だが、ボーイアルトはこの木陰で歌うのは初めてではなかったので、天候コンディションを考えて同調に困難を感じたのだ。
「はい、じゃ、ほかに質問のある人?」
「先生ぃっ!今日は寒いので半ズボンの下にレギンスはいてもいいですか?」
「何じゃ、そりゃ?だめ!」
これは明らかに抗いに類する質問だ。劇場の彼らの楽屋に「暖房」の入っていたためしは無い。練習場のエアコンは常にエコ自動の冷房モードを3度下げて設定してある。連中の身体を温めた後に在るものは、ノボセと鼻血とケンカと留まる所を知らぬ下級生イジメ。11月いっぱいの劇場出演は半袖半ズボンのユニフォームなのに玉の汗というていたらくだ。
「先生、黒でもダメですか?」
「だめ!だめ!タイツとかスパッツとかは禁止だぞ。6年なんだから団規知ってるだろう?…他に?」
「あのぉ、ホンバン前にすね毛剃っていいですか?」
高学年の子どもたちがどっと笑った。
「何だかキミらの今日の質問は、肉食系になってきたな。」
彼らは真剣なのかわからない。邪悪な笑みの少年もいれは、真摯な眼差を向ける子もいる。文化センター小ホール側の楽屋のゴミ箱に先週、短い毛のもじょもじょ貼り付いたガムテープが1本ベロリと捨てられていた理由がこれで判った。テープの出所はステージカミ手にあったビデオコンソールのテーブル棚に違いない。
「先生は、キミたちの体毛の長さなんか完全にどうでもイイが、すね毛を剃るのは家でやってきて欲しいな!以上!」
かくしてアオケン少年は最後、ソロ関連の質問を申しわけ無さそうに投げたのだった。
「先生…ホンバン中は宗太郎君の方を見ながらゲートタイムを揃えていいですか?」
「ダメに決まってるだろう?!プロのボーイアルトが、ソプラノ少年を見つめながら歌ったりなんかしたらせっかくの演奏が台無しだ!歌いながら耳で聞いてそれをキッチリ合わせるのがキミたち低声ソリストの存在価値ってモンだろう?!」
合唱団の少年アルトたちは日ごろ「先生…僕たちも一生懸命頑張れば、いつかきっと日本一のボーイアルトになれるんですよね?!」と唱え「日本一のボーイアルト」とやらになりあがる日を夢見て歌っている。この国で最も優秀な耳を持ち、最高の統御力で自らの歌をコントロールできる男子小学生の最高峰は、美声で自分の歌を歌えば済む高声のソプラノではなく、それを支える自分たちボーイアルトの中にしか存在し得ないというのが彼らの信念だった。
ライブを弾きこむキーボードにプログラムチェンジがかかる。フルート・シンセの音色が2小節程度のインターミッションを挟む。数瞬…
♪アニュス デーイー …アニュス デーイー
少年合唱団は暖かく包容力のあるトゥッティでソリストとともにこれを受ける。アオケン少年の歌っているメロディーは、合唱隊のソプラノの旋律と全く同じもの。ソプラノ・ソリストの中井宗太郎の歌っている部分は、アルト・チームの音程をオッターヴァ・アルタで移高させたものだ。宗太郎の歌いは外見には似ず豊満な神々しさに満ちて艶やか。クロスして鳴るアルト集団の歌とは一線を画すものだ。対するアオケン少年のソロはソプラノ・チームの歌声と同心円を描きつつ止揚される出来映えだった。あなじ風が彼の冷たい頬に触れつつ落葉を運び、彼らの革靴のウェルトにはあっという間に横転の葉々が吹き寄せられ、揺れてかしいでいた。和声的にも聴覚的にも作曲者ウェッバーの企み通り心緩むくつろぎの瞬間がアルファー波のように増大する。条例の日々、落ち葉が固く冷たい舗道を温厚に柔らかく覆い尽くし、地表がまるで懐かしい甘い良い匂いを放っているかのように。かつて樹々の命からの大切な恩返しを私たちは集塵し投棄し放逐し消却拡散を繰り広げ忘恩の徒と化していた。初心を忘れた愚かな者たちよ、魂を悪魔に売ることなかれ。だがもはや、この者たちに厳重で容赦のないあきらかな誅罰の日の来たらん事を。コーラスがそうして♪Agnus Deiを4回リフレインすると、音楽は再び2人の団員の重唱へと復帰する。
♪Qui tollis peccata mundi
Dona eis requiem
(汝、世の罪を減じ彼らに安息を与わん)
風の中に観衆は須臾のタイミングで音楽が遠退いた不足を感じた。何かが歌を離れ、少年たちのうちのどちらかがたじろいで声を引いたのを確信した。指揮者は判っていたが舞台効果上聞こえていないふりをした。アルトの上級生たちはスピーカーセンドを後方に聞いてあからさまにアオケン少年の背中を見遣って確かめた。落ち葉の降り積もった会場は表土が音を吸って響きに乏しく、闊達な少年たちの声はストレートに客席へと届いている。舞い落ちる木々の葉や乾いた風や光景が声を乗せたまま止まってしまったかのようだ。子どもたちは「ステージ上のミスやハプニングには一切反応するな」とポーカーフェイスを強制されていて殆ど後腐れを遺さない。応じて良いのは「かわいい」「いじらしい」「愉しい」と目を細める時だけと常に言われている。やがて、ほんの慰め程度の合唱がひとくされ囀ってデュオを支え、先に降りるボーイソプラノをアオケン少年が追い絡み、八分音符一つ変イの音が落ちて音楽は終わる。日本の少年合唱のライブでは大抵ソロ団員の肺活量を勘案してアゴーギグが決められるため、3分から3分半、フェルマータ等で引いても4分間以上の演奏になることはまず無いと言ってよい。

ダイナーのドアを押してから5分以上も経って、オーダーはまだチビ・ギャルソンのクリップボードの半分も埋まっていなかった。溶岩色の松葉が車窓になったガラス窓のサッシにとげとげと吹き集まり、潤いの無い北風に揺れていた。
「セットのデザートは何にしますか?今月は、トゥィンキー・レシピのキャンペーンをやってますが、モチロン、レギュラー・デザートのオーダーも承ります!」
おしゃべりの内容の割に快い声質だ。リーデルのヴィノムの縁を擦って出したような憂いのある鈍い余韻の声を持っている。彼の指差す先に今度はDESSERTとブロック体の表示のあるプレートがかかっていて、得体の知れないメニューの他にジャンキー極まりない名称のケーキ類が列挙されていた。「フライド・スニッカーズ」は判る…凍ったチョコバーの唐揚げだ。「ミント・ロールケーキ」はサロンパス味の緑色のクリームを巻いたチョコ生地のロールケーキに違いない。
「…あの『ガールスカウト』っていうのは?」
男の子は「よくありの質問」と言わんばかり、立て板に水の口調で応じる。
「焼いたマシュマロに板チョコを乗せて胚芽クラッカーでサンドしたお菓子です。ウチのはその後にクラッカー全体に焦げ目を付けてガールスカウトのオヤツふうに仕立ててあるんですヨ。」
どうも、アメリカ人がキャンプファイヤーでよくやる「ス・モア」のような食べ物らしい。
「じゃあ、その下の『2050年』っていうのは?」
「ああ!これが、当店の今月のキャンペーン・レシピの一つで、トゥィンキーズのフライなんですよ!甘いですよぉ〜!」
そんなこと、わざわざ言ってくれなくても想像がつく。トゥィンキーズというのは中にバニラ・クリームを詰めた棒状のスポンジケーキのことだ。
「何でトゥィンキーのフライが『2050年』なんだ?」
「アメリカではトゥィンキーズの賞味期間が35年間だって言われているんですよ。」
「それは、連中の好きなジョークだろう?あんなジャンキーなものばっかり喰って賞味期限の来る前に自分の寿命の方が先に尽きるから、誰もトゥィンキーの賞味期間の切れたのがわからない…っていう。」
「さあ…?」
「だいたい、トゥィンキーズをフライにしたら中のクリームが融けちゃうだろう?」
「…それがですねぇ、当店の企業秘密の揚げ方で、融けたクリームがコロモの中に閉じ込められて、すっごいゴージャスでクリーミーな味になってますから、ぜひお召し上がりください!外はサクサク、中はトローリあつあつでハマりますよ!チェリー・ソースとクランベリー・ソース、ファッジ・ソースの中からお好みのものをかけてサーブします。…ちなみに全部載せもOKですから!」
それは遠慮しておく。
「トゥィンキー・レシピのキャンペーンというのは、これだけか?」
男の子はラミネート・カードのメニューをカウンターの横へ取りに行き、目前へスパリと差し出した。
「『トゥィンキー・スシ』は、リコリスやフルーツのキャンディー・シートをトゥィンキーに巻いたものです。」
ケーキをわざわざ淡白な巻き寿司の外見に仕立てなくてもよいものを。
「ホットケーキの生地に、スライスしたトゥィンキーを浮かべて焼いた『トゥィンキー・パンケーキ』。バターをはさんでお好みのシロップでどうぞ。」
どれだけ甘く高カロリーに仕立てようというのだ?
「意外と人気なのが、『トゥィンキー・バナナ・スプリット』ですかねぇ?」
説明が無くても判る…細長いカットグラスの皿に盛りつけられたトゥィンキーに、アイスやチェリーやチョコ・シロップをかけたバナナボートだ。
「あとは『トゥィンキー・ティラミス』」
…説明不要。
「『ピーナツ・バター&ジェリー・トゥィンキー・ケーキ』もいいです!」
まるでアメリカの小学生の遠足弁当だ。
「大人たちに人気の『トゥィンキー・チェリーパイ』!」
さすがにツイン・ピークスは古い!
「わかったわかった、それじゃあ、キミの好きなデザートは何か?それを聞いて決める。」
男の子は差し出したはずのメニューカードをサッと引いて脇に挟んだ。
「僕はコーヒーが飲めないんで、大好物はドクターペッパーです。」
「それは、デザートじゃないだろう?」
ギャルソンの父親かどうか定かでないオムレツのフライパンを振っているギャレーの男に真偽を尋ねると、
「いやぁ、ダコタ・ゴヨも腹を壊しそうなくらい店のドクターペッパーをばかすか飲みますからね。アイツの血の半分はドクターペッパーで出来てんじゃなかってぐらいでして…。」
むべCMにBe a Pepperといふらむだ。あのコマーシャル・ソングの意味はこういうことだったのか!店内の壁にはディスプレイ代わりの「Drink Coke」やテキサコのティン・プレート。ミス・チキータのステッカーやシボレーのピックアップトラックのポスター類が所狭しと貼られていた。切妻側のデザート・ショーケースの奥の壁、中央の腰板のすぐ上の見えやすいところに貼られた文字だけのインフォメーションが、鏡面仕上げになったキッチン脇の棚に映りこんでいた。
ファイアーキング=ダイナー・スペシャルセット
ご注文のお客様に!
美声!天使の歌声!
当店専属ボーイソプラノ(セミプロ)が
お客様のお好きな歌、その場で1曲
無料プレゼント!
店員にお申し付けください
※ただし、歌手在店の場合に限らせていただきます
演奏曲リスト(1曲お選びください)
気球に乗ってどこまでも
帰れソレントへ
燃ゆる瞳
消臭力のうた
てんとう虫のサンバ
ラジャ・マハラジャー
にんげんっていいな
にじ
マル・マル・モリ・モリ!
トリッチ・トラッチ・ポルカ
(歌だけのご注文はご遠慮ください)
…選曲にポリシーは感じられずごた混ぜで雑多で支離滅裂だ。最近のJ-popの類は見当たらないが、明らかに所属合唱団のレパートリーの一部を典拠にしている。挙手してギャルソンを差し招くと、追加オーダーを受けるつもりなのかクリップボードを掴んで彼はやってきた。
「…それから、スペシャルセットの『歌』だが、お勧めの曲はないか?」
男の子はちらりとキッチンを見やって振り返り、あからさまに嫌な顔をした。
「一応、全部『お勧め』です。」
「キミは一人でトリッチ・トラッチ・ポルカを歌うのか?」
「一人でだって歌えます。」
「そうか…一人でも歌えるのか。」
彼は確認もせず、小学生じみたイカレた鉛筆の持ち方で『2050年』の後にじりじりと追加注文を書き付けた。
「歌は、デザートの後にしますか?」
「いや、今がいい。」
「…今、ですか?」
「今じゃ、まずいか?」
「いえ…これって、どうしても歌わなきゃダメでしょうか?」
「ダメなことはないが、聞かせたらマズいことでもあるのか?」
「…ありませんけど…」
「イヤなら別に歌わなくてもいいよ。どうせ、サービスなんだろう?」
かつてこの公園の全ての露地がは冬枯れの中、一枚の落ち葉も塵一つも無く僅かな善意とボランティアの余暇のみで強烈に管理し尽くされていたことなどにわかに回想しがたい。
野外コンサートは子どもたちの体温を伝えて今日も近しく和やかに終演していたし、合唱団も次の機会を楽しみにステージ衣装を脱ごうとしていた。北風に混じり、水呑み場の洗出しブロックの隙間にはったコケのにおいや固結びの寒椿のつぼみの気配が、少年たちの歌声と散開した観客の間に流れている。傾いた陽が乾いたベンチにオレンジ色のグラデーションをさしかけ、空気はにわかに冷えて木々の乱立の中で落ち葉たちは密かに逃避の機会を窺っているかのようにも見えた。拍手はご贔屓の縁者の子どもたちの面影を求め執拗に鳴り止まず、少年らはお辞儀を繰り返し最後にぱらぱらと手を振った。
「ハルカ君ゥーン!」「アッちゃーン!」
客席のおばあちゃんやチビちゃんたちが名を呼んで縮こまった掌をぱらぱらと左右に振ると、声のかかった団員らがはにかみながら声のした方に向き直り格別の視線で指名に応じた。アオケン少年はそうして最後のお辞儀を垂れながら、自分の前の団員の黄桃色のヒカガミよりなるべく上に視線が来るよう姿勢を修正し、「1…2…3…4…5…」と、ゆっくり小さく唱えて頭を上げた。それから彼らが落ち葉舞う園路に細長い紺ソックスの脚をかくかくと白く伸ばしながら歩きだし、蝶ネクタイで締まった首筋を縮めつつ風に煽られた肩をすぼめサービスセンターの入る休憩所へ引き上げようとすると、すすがれて春待ち顔のネジキのマレットのような枝先がそろって低い空を指す通路の一角で、子どもたちの一叢の行列がフッと一瞬ふくらんで滞留した。
「先生…今、アンビ君の声がしませんでしたか?」
「先生っ!今日、アン君が来てませんでしたか?」
「来てるんじゃないですか??」
彼らが後にした広場の方から、電源の入ったままのワイヤレスマイクをスタンドのクリップから引き抜くガポリというノイズが聞こえて来る。
「中山アンビはずっと欠席だろう?変なコトを言うな。」
「だって、今、アンビ君の歌う声が聞こえましたよ。」
「そりゃあ、キミたちお得意の空耳ってヤツだ。きっと北風小僧の寒太郎あたりが木の上からキミらをからかってるんだろう?正体は落ち葉交じりの風が木に当たる風きり音だ。」
メガホンにした掌を口々に宛てがい、中学年の子どもたちが面白半分に「寒太郎ぉぉお〜〜!!」とあたりかまわず叫んで興じた。
「先生、でも僕もピエ・イエズの終わりの近くで、アン君の声が聞こえたような気がします。」
アオケン少年が言う。
「あいつアオケンはんとぎょうさんピエ・イエズ歌いたかったんちゃいますか?」
「せんせも、ツミなお人どすえ〜。」
「アオケン、一瞬マジびびって声が小さくなってたもんねぇ。」
「だって、ホントに聞こえたんだよ。」
歌い疲れた子どもたちがそれからベギラマを受けて「全員に30のダメージ」をくらったロト勇者の一団のような面持ちで着替えの小屋に戻る道すがら、彼らは耳をすまし風に混じる落ち葉の歌を聞き逃すまいと努めた。

♪秘密なんだけど シッ シー
いい? シッ シー
きっと シッ シー
あなただけに そっと シッ シー
誰にも 言っては ダ・メ・よ…
ちびギャルソンがお喋りポルカのトリオを引き取ってアカペラで歌っている。唇に人差し指を一本充てて腰を屈め、右へ左へとせわしなく首を振りながら、
「♪シッ シー」「♪シッ シー」
…演技をかまして歌い続けた。天井がとりわけ高いというわけではないダイナーの細長いホールには数人の客がいるだけで、勿論、少年の向く左右二方向には誰も対座していない。
♪誰にも言うなと シッ シー
言った シッ シー
から シッ シー
君にだけは 言うが シッ シー
他には 誰にも 言・う・な!
ソプラノとアルトをぱちぱちと交互に行き来するステレオフォニックな楽譜を彼は上手に聞き分けてソロに読み替えて歌っている。極端なポルタメントやシュプレッヒを面白可笑しくかけながら、それでも本人はしごく真剣そのものだった。曲が後半にさしかかると「♪君にだけは 言うが」と歌いながら客を指差したり、駆け落ちしたり首をくくったり、かぶりをふったり「もうごめん」と手で払ったり、人差し指で耳を塞ぐかと思えば呼号したり、最後に両手を広げてフィナーレを叫んだりと一気呵成の演奏ぶりだ。
♪さあ さ 皆さーん
御用心…御用心…なさーい!
楽しい歌が終わり少年は愛想無くぺこりとお辞儀をして踵を返しかけた。
「ちょっと待ちなさい。追加オーダーでドクターペッパー2つ頼むよ。」
「…2つ?ですか?」
キッチンのフライヤーは他の客のハッシュ・ブラウンを揚げている。口当たりの良さそうなダイス・ポテトと香辛料の香ばしいいい匂いがする。
「ホットですか?アイスですか?」
「どっちが良い?」
「お勧めはホットです。」
「そうじゃなくて、キミの飲みたいのはどっちなんだ?」
「僕はたいていアイスなんですが。」
やがてアルミ製サイドリブを取り回したデコラのテーブルに、でかい口を開けてふんぞりかえったルーベン・サンドとつけあわせのピクルス2カケの乗った3コンパートメント・プレートがコトリと届き、ちびギャルソンは紙挟みに『2050』と書き付けたカスタードケーキの揚げ物と分厚いグリーンのコーヒーカップを持ってやってきた。ギャレーの中央から父らしいおやじがこちらへ向けて微笑み「お待たせしました。」と告げながら懐かしい銅色の保温ポットを突き出して少年に持たせる。彼はそれを右から左とテーブルの上へ無造作に送り置き立ち去ろうとした。が、今度は自分から姿勢を正し、こちらへ向き直って問うた。
「歌…どーでしょう?」
男の子がポットを傾けてナカミを碗へ落とそうとするので、手の甲で蓋をしてそれを制した。
「ハッキリ言おう、キミの歌声は話し声の割に快い声質で人の心をなごませる。それは、間違いの無いことだ。」
安んじて肩を下ろす少年の向こうにニブ色へ帰しかけた落葉の街路が見える。
「リーデルのヴィノムの縁を擦って出したような憂いのある深い余韻の美しい声。私は大好きだよ。でも、『トリッチ・トラッチ・ポルカ』はいただけない。もともとオーケストラをバックに合唱がハモる曲だ。一人で聞かせるようには作られていない。こんなもの、ご両親のやっている店で歌っていいものなんだろうか??」
電気泳動で判じたようなパターンが、少年の持つ濡れたダスターの上に認められた。
「これは俺の家でやってるダイナーで、歌を聴くのはタダだから労働基準法違反なんかにはならないですよ。それに、だいいち自分の歌の練習ってコトでやってるワケなんだから…」
CSI:NYとロゴのある帽子の縁からマルーン色の子どもの髪がはみ出している。
「合唱団で歌うのは辛かったかい?お家のダイナーでお客さん相手に練習する方が気楽でいいだろう。良い声を持っていたら、たしかにどこで歌おうと同んなじかもしれない。きみはそう思って合唱団を休んでいるんだな。」
「違います。合唱団の一番忙しいシーズンが終わって、店の手伝いもしなくちゃと思ってるから。繁盛してバイトさん雇えるようになったら、バトンタッチしますヨ。でも、今は僕でも役に立たないと。」
「本当か?言い訳じゃないのかい?お店の仕事は単なる口実じゃないのか?今のキミの『トリッチ・トラッチ・ポルカ』は、そういう歌でしかなかったぞ。」
少年は再びコーヒーポットを掴み上げ、口蓋のタブに親指をかけようとした。
お喋りポルカの演出には繁忙な身振り手振りが入っている。彼らが賛助出演した中国の児童合唱団の剽窃だ。「儿童合唱」を「少年合唱」と表記する習慣は未だ彼の地に残っていて、楽屋入りした彼らの団員構成が全員男子であるのを見て中国人儿童たちはわずかに喫驚した様子だった。
「先生っ。このメッチャ大変な振り付けって、先生が全部考えたんですか?もう、テラこんがらかって、歌に集中できないですヨ。いやマジで!」
団員らは進退窮まってついに詰問にかかった。
「まさか!?こんな複雑な振り付け、先生が考えられるワケ無いだろう?中国の児童合唱団のライブのDVDを見てソックリ真似したのさ。」
「そりゃまた、先生、何でチャイナ?」
「今から30年くらい前、VBCが、北京・上海へ演奏演奏旅行に行き、振り付け入りの『トリッチ・トラッチ・ポルカ』を歌った。文化大革命の直後だ。中国の指揮者たちがそれを見て、舞台の一部始終を目に焼き付けて覚えていたんだ。『文化』と呼べるものは全て破壊しつくされて無くなり、30年前の中国にあったのは土埃と煤けた建物と動くだけの自転車とスローガンと人民服だけ。たった36人の日本の男子小学生のステージが、当時の中国の人々にどれだけ鮮烈なインパクトを与えたか想像に難く無い。今や岡本真夜やディズニーのまがいもんを政府が推奨するような著作権無視の国だ。かくして日本の少年合唱隊のお喋りポルカは中国に残り、たくさんの子どもたちがわがものとレパートリーに据え続け、今でも歌われているらしい。」
「じゃあ、今、僕たちが歌いながらやってる振り付けって、ビクター少年合唱隊が昔やってた振り付けなんですか?」
「どうもそうらしい。目には目をの無許可の逆輸入ってヤツだ。お客さんウケがすごく良いのも頷けるだろう?」
「ええ、…まあ、それはそうなんですが、俺たちの実力ではいかんともし難いモノもあるわけでして…」
男の子の合唱をコンダクトするというのは、指揮者の力量だけではいかんともしがたいモノがあるわけであり…。哀れな男は新しい楽譜を仕入れ、家のピアノでスコアをさらって予習をする。1回だけでは心もとなく、子どもたちの普段の言動を想起しながら繰り返しそれをやると、最後にサア来い、歌わせてやる!と、思えるようになる。相手は子どもで、しかも手にしているのは5線譜がどんなに多くてもト音記号・ヘ音記号の5段しか無いシンプルな楽譜だ。今回の演奏は統御可能と勝手に想像し、思い込んでいる。だが、団員たちがどっしんばったんとくんずほぐれつビニールボールや漫画本ワンピースの飛び交う練習場に一歩足を踏み入れ、「先生ぃっ、トイレ。」「悪いが、先生はトイレじゃない。」「加藤先輩と五十嵐君がケンカしてます!」「どうせ馬鹿者たちの気晴らしだ。放っておけ。」「でも、イガちゃんが本気で鼻血ブーですぅ。」等々彼らのカオスの渦中に飛び込んだとたん、譜読みは予習通りに流れなくなる。棒は振ってみるが聞こえてくるのはサルバドール・ダリのシュルレアリスム絵画を思わせるぐんにゃりとしたシロモノだったり、ペンデレツキの「時と静寂の次元」の再演かと思うようなカンペキなトーンクラスターだったりした。明確になるのは、毎回指揮者が「わかったつもり」でいた音楽が「実は何も分かっていなかった」ということだけだった。剽窃にしろパクリにしろ、彼らが他所の児童合唱の実績を丸写しにして済まし、その恐ろしい曲練習のひとときを1秒1マイクロセコンドでも短縮して切り上げることは、指揮者にとり、歌う少年たちにとり、双方ともに有意義で麗しい時間の有効活用になることは間違いないことなのだった。
「これ、お父さんからサービスです。」
男の子はいかにもというラフな手つきで黄色い大きな水玉模様の、取手付きグラスを2つ携えてやってきた。
「ホット・ペッパー2つ。」
注文は冷えたドクターペッパーが2つ。だが中には温かそうな暗褐色の飲み物が入っている。様子を察し、カウンターの彼岸からギャレーの男が声をかけてきた。
「先生、こいつの好みにつきあってやることは無いんですよ。落ち葉散る北風の吹く日には、ドクターペッパーもホットじゃないと。いつもアンビがお世話になってますんで、これは店からのサービス。アイスも出せますから、熱いのが苦手ならおっしゃってください。すぐ、交換させます。」
カップの中味は、かすかなアーモンドフレーバーかアマレットじみた甘い湯気をたてている。
「アンビ君、歌の練習なら合唱団の練習場で先生のピアノでやってくれないか。帰ってからはお店の手伝いをしても構わないし、ヘアカラーした少年合唱団員がステージにいてくれてもちっともかまわない。ナマイキな2年メゾはひっぱたいておいても先生が責任をとる。練習の途中でトイレに行って大声で泣いてもいいんだ。」
「僕は、合唱団がイヤなんじゃなくて…お父さんお母さんの手伝いをしていたいんです。」
「君はどうしても家で歌っていたいか?」
水玉プリントが付いている方のグラス・マグ。中味のホット・ドクターペッパーをコーヒーカップに移して少年の前へ置いた。
「飲んでごらん。」
「え?」
「ペッパー中毒のキミが、たった2杯のホットペッパーを飲めないわけが無いだろう?両方飲んで感想を聞かせてくれ。」
男の子はまず放置されていた方の、取手付きグラスのドリンクを取りあげた。2回フーフーと冷ましてすする。大好物で、店の売り物だけあって、味は判っている。躊躇が無い。
「美味しいか?」
「オイシイです。」
「温かいだろう?飲み易いか?」
「別に先生からわざわざ聞かれなくても飲み易いです。」
男の子は導かれるようにグラスを置き、今度は翡翠色のぽってりとしたマグカップを手にとった。
「感想は?」
「…重いです。手が疲れる。指を入れる所が小さくて痛い。落っことしそう。」
「そうじゃない。味はどうなんだ?ナカミはさっきのと同じ。カップが変わっただけ。」
「…美味しいです。」
「なに?」
「こっちの方が、美味しいです。」
「どっちもキミのお父さんが心を込めて作ったホット・ドクターペッパーなんだぞ!!」
「先生、こっちです。」
「アンビ君、こっちのカップはすごく重いんだろう?」
「はい。」
「持ち難いのに美味しいのか?」
「こっちのカップは、ファイヤーキングのレストラン・ウエア・シリーズのラインで作られたマグカップです。ジェダイ色のエクストラ・ヘビー・マグ。」
少年は飲み物をこぼさないように、サッと左手の人差し指とナカ指をカップのボトムに這わせて触診した。ガラス底のバックスタンプを確かめたのだ。
「…アンカー無しの普通刻印ですね。これは1950年代後半にアメリカで作られたものです。」
「じゃあ、こっちは?」
「こっちの2つはファイヤーキングのパティオっていうシリーズのラインで作られたクリスタル・ドット・マグですよ。透明耐熱ガラスで背高ノッポで、持ち手が下の方に付いているでしょう?12オンス入るんでウチのダイナーでは大活躍なんですけど。…けっこうマニアのお客さんのウケはイイ方なんですけどね。」
さすがファイヤーキング・ダイナー店主の息子でちびギャルソン。
「中山アンビ君。合唱団には『ピエ・イエズ』をキミといっしょに練習したいと言っているアルトの5年生もいるんだ。そいつの夢をキミがかなえてやってくれないか?」
「はい。いいですよ。また、アオケンの『ピエ・イエズ』が聞けるでしょうか?」
男の子は立ったまま、ジェダイ色のマグの中味をSFアクション映画のダコタ・ゴヨばりにくちゃくちゃと飲み干した。
「落葉バイオマスおよび二次植生遷移管理条例」厳重施行下の辻風吹きすさぶ日々、団員たちは見た目で鳥肌も立たんばかりのワイシャツ+ベストと半ズボンのいでたちで歌い終え、30分間の野外ステージを下りてきた。胴の周りにたっぷりと汗をかき、体温で湿ったベレーを両の紅い頬の前でパタパタ振り扇ぐ者さえいる。
路肩へ吹き寄せられ、舗道に踏み固められた落ち葉の堆積に、もはや「滑り易いから外を歩く時は気をつけて!」「東京電力の撒いたセシウムが…!」と彼らを誡める大人たちはいなかった。少年らの肩やユニフォームの背中に降り注いでいた枯れ葉はいったいどこへ行ったのだろう?蹴伸しされ腐葉となったかつての木々の主役たちが更衣に急ぐ団員らのつるつるぺたんこなステージ靴のソールの下で、また美事何者かに生まれ変わり咲く日を夢見て静かに両目を閉じているに違いない。
「先生、色んなお店でよく福引きとかやるじゃないですか。ウチのダイナーじゃ、小さい子どもとかが来ると、福引きを箱ごとこっそり取り替えちゃうんすよ。その箱って当たりクジしか入ってないんです。どうしてだと思います?…小さい子の喜ぶかわいい顔が見たいから、当たりクジを引かせる。どうせ、賞品ってロリポップ1本とかM&M'sのテトラパックとかが1コぽっちなんだけど…。コレ、ヒミツだから絶対に言わないでくださいよ!!」
中山アンビは打ち明けた企業秘密の裏で、ファイヤーキングのヘビーカップが何故重厚に焼かれたのかを吹いて回ることをしなかった。アオケン少年は隊列の背後へ復員したボーイアルトの愁いある鈍い美しい余韻に満ちた声を聞きながら頬を膨らませ歌っている。夢はいつか或る日、声量も統御力もある『日本一のボーイアルト』とやらになって歌うことらしい。だが、彼らの当座の夢はここに叶い「♪トリッチ!トラッチ!嫌になるね!」と歌いながら目の回るような繁忙の振り付けを愉しげにこなしたかと思うと最後に両手を広げ、フィナーレを叫んでいた。
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