一 午后の練習
「先生…先生…トーヤ君が居ません。」
熱沙の叫びはもはやとどまるところを知らず、夏休みの盛りの練習場のドアの前には濃密な湿気を帯びた温柱が蒸気圧のまま居座っているようでした。炙り上げられた生き物たちのかつてのたましいの痕跡をひしゃげたガラス窓の向こう側に認めることは出来ません。スタジオの有孔壁にかかった天文時計の液晶ディスプレイが強烈なエアコンの中でひんやりと「ペルセウス座ガンマ流星群の日」と明滅を繰り返すその日の午後、休憩時間の終わりから既に10分近くも過ぎようという頃になって、4年生ソプラノがひとり自らの「楽譜ファイル」を抱きしめながら申し訳無さそうに出て来て言うのです。
「先生…トーヤ君が居ません。」
「…」
「トーヤ君が帰ってきてません。」
「おい!前江トーヤ君、居るかー?先生に黙ってどこかへ行くなー!」
小さいお尻には似つかわしくないパイプ椅子の座面が一つ空いています。
「先生。トーヤ君はトイレです。泣きに行ってます。」
少年たちは誰もその復命に応じようとしませんでした。小さな80年代ふうのつくりのトイレは団員たちの感情のシェルターになっていましたし、彼らは皆、同じ経験を通過儀礼のように共有していたのですが、このときばかりは言葉につまってしまいました。2年生のイケメン・アルトだけが本当に小声で「トーヤ君は、トイレじゃアリマセん…人間です。」と、指揮者の口調を真似てひとりごちたのですが、誰にも聞こえてはいませんでした。
「たぶん、さっき出て来た巨大クモのせいだと思います。」
真っ黒い顔のカネゴン君が言っているのはスタジオで彼らが背にしている壁面に張り付いていた1匹のアシダカ蜘蛛のことです。蛛形節足動物が内装に落とすビュイック・スカイラークほどの大きさのムラサキ色の影を見て、少年たちは飛び上がる程驚いていました。こうして指名され、男の子はトイレのドアの前でつとめて優しい声を投げたのでした。昼光色の蛍光灯を節電のために落とした薄暗い廊下にも容赦なく暑さは充満していました。
「トーヤ君、クモはもういないよ。出ておいでよ。今度またアイツがココに出て来たら、先生が追っ払ってくれるって。」
前江トーヤは、嗚咽をこらえ、聞き耳をたてていた様子でしたが、ドアごしに話が伝わると火がついたように激しく泣き出すのです。合唱団は「烏瓜って真っ赤だな…」と『まっかな秋』の練習の続きに入ってしまっていました。今まさに午餐のため絞められようとする家禽の断末魔のように下級生が酷い声を出して泣くのでカネゴン君はすっかり困窮してしまいました。少年合唱団でこの声は拙速です。ブレスが整うかどうかの問題よりも、咽をきつく閉めて声をあげるので声帯を痛めてしまいます。先生は常日頃、練習中うつむいてトイレに逃げ込もうとする団員たちに小さい声で「泣くときは声をあげるなよ。」と言い、ヒゲの生えそうな上級生にはもっと小さな声で「自分でやるときは、咽を痛めるから決して善がり声を出すなよ。」と個々に忠告します。
「♪冷やしカーレーうーどぉん!冷やしカレーうどん!」
カネゴン少年は策も無く成り行き任せの歌を歌いました。『Walking in the air』のオーディションで戦友に学んだ巻き舌をルルルレーと器用に使いながら、俄にわいた食欲で潤った舌を上唇に乗せ、自分の静かな鼻息を聞き、反応を待って声をかけました。
「トーヤ君。練習が終わったら、お星様を食べに行こうナ。帰りは僕が守ってあげるから、心配しなくってもいいよ。」
号泣は止み、4年メゾの息みは止んでいます。
「僕、練習に戻るから、気が済んだらいつでも出ておいで。キミは知らんぷりで席に戻ったらいいさ。」
「…カネゴン君。お星様のお店で、オレンジ食べてもいいの?」
「いいよ。トーヤはトーヤの好きなものを食べたらいいさ。でも、金星は丸くて身が詰まってる。質量が大きいよ。重いから、必ず切ってもらおうな。」
トイレのドアノブに記された鍵表示は最初からブルーのままでした。
二 ミルキーウエー
トーヤ君が路傍のアド・ロボットにもらった巨大なハッカ・パイプのリップを噛み噛みミルキーウエーのガラス扉を押すと、彼の頭上ではクイックシルバーとアルゴンのネオンサインが不機嫌そうにバチバチと音をたてていました。星々の散りばめられたソーダ・ガラスにしつらえられたホールを見渡すと、先に来ていたのはカネゴン君ではなく、バレリーノのような美しい脚を交わしたアオケン君。上級生は、三日月形のテーブルの上、バイオレット・カラーの液体に満ちたキラキラ光る8オンスタンブラーをコトリと打ち置いたまま姿勢を正し、首だけを曲尺のように折って、何かを一心不乱に刻みつけているのでした。
「アオケン先輩は、何を飲んでいるの?」
先輩は顔を上げるなりトーヤ君の皮蛋色の瞳を見つめ、問い返します。
「トーヤ君は、僕に『何を書いているの?』とは聞かないの?」
聞いても仕方ないのです。ここにはお星様を食べたり飲んだりしに来たのであって、何かを書いたり読んだりしに来たわけではないのです。
「ドライポイント?」
「はずれ!」
「じゃあ、メゾチント?」
「書いているのは、文字だよ。」
「わかった!ビュラン彫り?」
「そんな難しいのじゃない。」
「うーん…クレパス・スクラッチ?!」
「そんなので字が書けるかい?」
最後にトーヤ君の背中から、柔らかい頼もしげな3人目の少年の声がしました。
「アオケンちゃんの切っているのはステンシルだよ!」
カネゴン君がいつの間にやってきていました。
アオケン君がぱりぱりと湿った音をたてるロウ原紙の前に座りなおすと、本格的なカクテル・アワーの到来です。おろしたてのボタンダウンにエンジの蝶ネクタイ。土星のワッペンのついたブレザーにチェックの半ズボン。チョコレート色に肌の透けた黒いタイツとアーガイルのソックスをはいています。靴はもちろん1枚タッセルのローファーです。彼がこの時刻にこのスタイルなのは、ここで筆耕の仕事をしながらレプス君の遊びの誘いを待っているから…。ポケットに忍ばせた光子電池やミント・パイプ。ちょっぴりかさばる携帯用サイクロトロンや石英ガラスのビー玉やらをトビ道具に、夜中じゅうそこいらをうろつき回って遊ぼうという算段です。
「このクネッケ、少し湿気ってるね。」
そんなことを言いながら、ラベンダー・リッキーを舌先で舐めていたりします。それでも右手はきれいに鉄筆を握り、カリカリカリカリと鉱石粉の削りかすを振りまきながら何やらガリを切り続けています。 ミルキーウエーのラウンジエリアには、床一面に大マゼラン雲の構星図が埋め込まれています。マイスナー転送されてきた遥かな象限の光が少年たちの小さな硬い脚の下にちろちろとかすかにまたたいています。トーヤ君がお望みの宵の明星を柔らかな両手で挟んで持つと、ずっしりとした質量が日焼けした腕にかかってきます。焚き染めるようなネロリとベルガモットの香り。2人の上級生が抱くようにして彼と惑星を眺めています。
カネゴン君が尋ねます。
「瑠音君の家の天文台は?」
「行ったよ。こぐま座の測光に2度も失敗して、その間に瑠音っちのおじいちゃんがお料理を焦がしちゃって火事になるところだった。」
アオケン君は、途中になった原紙の文字を原稿と見比べながらざっと校正をかけると、傍らに転がすようにしてうち置かれた修正液の小壜に左手を伸ばします。
「結局、瑠音君たちと途中まで行ったんだけどね。」
「帰って来ちゃったの?」
「だって、途中でビル人間とかが破壊されてるのに遭遇しちゃったり、鳥人間が『危ないから引き返せ』って叫びながら飛んでたりするんだもの。」
男の子はマニキュア壜のキャップをカリリと小さな音をたてて少し回して外すと、慣れた手つきでミニ刷毛をビン口でしごいて余分な薬液を落とします。周囲にパッとマーブル飴の甘い匂いがたちます。
「わあ!きれいな色だね!いい匂いもする!」
「これは修正液だよ。普通は茶色いべっ甲色のイヤな匂いのやつ。たいていはアジア修正液なんだ。でも、これは萬古が作っている特別製さ!」
言っている間に蛍光桃色で濡れた刷毛を原紙の上に持っていき、11歳の左手人差し指で「HORII」と印刷されたロウ紙をつまみあげるとツッとそこに鮮やかなピンクのマークを落とします。カネゴン君がその刷毛をつまんで受け取り、ビンの口に戻します。戻しながら、小壜のエンボスを「マンコ?」と読んでいます。
「マンコじゃなくて、バンコ。キャップが割れない程度にきつく回して締めておいてよ。原紙は前はHEIWAを使ってたんだけどね。色付きコンドームみたいなブルーで、雁皮紙が薄くって僕は書きやすかった。」
言いながら、修正したところをフゥーと一定の風量で吹いて乾かします。
「今は、堀井トーホー・ホースなんだー。切っていて、クニュって厚さがある。何だかなぁ。イイ品なんだけど。原紙のメーカーを指定して来るお客さんなんていないから。ホントはどうでもイイんだけどさ。」
「それで、瑠音君と戻って来てどうしたの?」
アオケン君は修正液が乾いているのを慎重に確かめながら原稿の上に堀井ホースを置きます。
「瑠音君と戻って来たりなんかしてないよ。帰って来たのは僕だけなんだもの。」
男の子はインクのタップリつまった新品の細書き油性フエルトペンで、ロウ紙の上に何かの図を引きはじめます。
「瑠音君たちは?」
「こぐま座の三重連星の方にアタリをつけて行ったよ。観測の失敗は、どうも巨大魚の悪さのせいらしい…。」
「瑠音君たちだけで行ったの?」
「だから、そう言ってるじゃない。」
「…帰ってこれたのかな?ねえ、アオケン君は、今度は何をしているの?」
「これは、原稿の図を原紙に写しているのさ。こうやってマッキーで書いた上からヤスリでガリ切りするってことよ。ロウが融けないように描くのがコツ。だから溶剤入りの油性ペンじゃない方がいいね。別れるとき、瑠音君から、観測に失敗したガラスの偏光板を1枚もらったよ、これ…」
アオケン君がボタンダウンの胸口から馬上のナポレオンのように彼の右手を差し入れると、胸隠しの中からガラス板を1枚、中指と人差し指ではさんで抜き出して振って見せます。多孔質ガラスの板にはたくさんの空孔が閉じこめられてキラキラと輝いていました。ガラスの裏面から施された簡易レーザーの彫り込みで「Ursa Minor」とブルーの文字が読めます。日付とともにそれがスッキリと穿たれて読めます。
三 アクエリアス
入場の指令がくだり、最初に気をつけることは前を歩く子の靴のかかとを踏まないことです。「前へならえをしたときと同じ間隔のまま歩きなさい。」と本科に入ったとたん教え込まれます。本当に前へならえをしたまま歩き始めると、シンマイ本科生は袖幕の前で待ち構えている中高生の先輩方や先生に半袖シャツの腕をピシャリと叩かれます。スリルを冒して先生方の目を盗み、その瞬間に自分の好きな子とベレー帽を互いにサッとすげ替えてしまう上級生もいます。見つかっても小声で怒鳴られるだけで、誰にももう手が出せません。ヤッタ者勝ちのたちの悪いイタズラです。5〜6年生はどうせベレーも「頭に乗せている」程度のイイカゲンなかぶり方の子がもともと多いですから帽子が本人のものかどうかはお客様にはわかりません。トーヤ君はヒロヲ君や品川君に帽子をひったくられたことがありますが、カネゴン君や亮平君にされたことはありません。無骨な彼らは着替えの時間に最初から「ベレーを交換してかぶろう」と目を潤ませつつ申し出て好きな後輩の持ち物をかぶって歌うことはあっても、イタズラで手を出すことは無いのです。等間隔の行進がひな壇上でストップすると、班長以上のソプラノの誰か(カミ手から入場の場合はアルトの誰か)が短く「右向け右!」と小さい声で鋭く号令をかけます。ベネチアンブラインドのスラットがパシャリと開くように、皆の体が揃って客席側を向きます。メカニカルなその動作は団員たち自身が『少年合唱ってカッコイイな』と思えるものの一つです。どのタイミングで言うかは全くの当て推量か気配や空間認知力といった団員独特の「カン」に頼ることになります。誰が言うのかは決められていませんが、最上段ならH君、上から2段目ならユーリ君、前の方の列ならレオン君で、毎回同じような子だったりします。たいてい、どの子の「カン」も的中します。予科生や低学年団員ばかりの列が入場してくる場合は、場当たりやリハーサルで自分の目前に下級生の最右翼の子を抱えたアルト団員が「ストップ!」の声をかけ、いっしょに「右向け右!」の呼号を発してしまいます。
「輝く星座」の最初の注意点は音取りです。今日のステージのようにこれがオープニング・ナンバーになっている場合、音の感覚がまだリセットされたままの状態でのスタートですから警戒しておく必要があります。ピアノ伴奏の最初の和音を聞いて前奏のボカリーズを組み立てていかなくてはなりません。オフ・ブロードウエー・ミュージカルです。サイケでヒッピーな反戦ミュージカルの開幕の曲。「♪レソドラー♪♭レ♭ソシ♭ラー」半音ずつ3階層下りてゆく神秘的でエキセントリックな進行のために、その音が合っているのかは、殆どの団員には最初自信がありません。ですからカネゴン君は卑怯だとは思いつつも小さな声で「♪ルルルルー」と歌いはじめます。楽譜なら1段歌いきる頃になって、ようやくソプラノ声部の子でも霧が晴れるように自分の音程を感じとることができるようになりはじめます。突き出した唇を収めるのはピアノがロック・ミュージカルふうのベース音を奏ではじめた刹那ということになります。ピアノはエンディングまでベース音のフィンガーピックに徹し続け、最初の歌詞が出るまでの3小節半の間にトーヤ君は唇を舐め、カネゴン君は握ったままの指で掌のくぼみの汗を拭い、アオケン君は胸ポケットに黙って忍ばせておいたガラスの測光板の形を服の上から触って確かめます。
♪夜のそらに咲いた 星座はささやく ただ、愛だけを…
ユニゾンで繰り出された発句をアルトの少年たちがじんわりと下で受けていきます。訓練を受けたアルトでも、小学生では低い声へ届かずなかなかピッチが安定しません。ソリストクラスのアルトの子が黒目をぐるりとまわして指揮者の評価を表情から読み伺おうとします。メタルフレームのメガネの上からシーリングライトの煌めきを盗み見る団員。乱暴な口の開き方で気持ちをぶつけようと試みる子もいます。次の注意はロングトーンです。フレーズの終わりはモデラート四分の四拍子の全音符が少なくとも一つ分から、最長で3つ半のタイで正確に伸ばしておく必要があります。カネゴン君の声部にはオクターブ上の音、トーヤ君のパートにはト音記号の楽譜に一本加線の入った下の音が配当されています。練習場でそれを合わせようとどんなにもがいてみても小学生の男の子には難しい芸当でなかなかうまくいきません。前に控えた部分が四分音符ばかり比較的目のつまった歌詞で埋まっているために、カンニングブレスのタイミングがはかれません。本当の歌の実力だけがモノを言うシビアな曲なのです。小学2年生からいる男の子らが果敢にそれと闘う姿が「輝く星座」の見どころのひとつということになります。ところが伴奏の指定がノンコードへ解放されて曲がブレイクすると子どもたちが突然攻勢へと転じます。
♪アクエリアース!
♪アクエリアース!!
メインのメロディーを力強くキープするアルト。対峙のためシモ手側へトップしたまま減衰してゆくソプラノ。カノンするメゾソプラノ。再叫のソプラノ。受けるアルト。追ってゆくメゾ。高音圧のまま3つのパートが右左中央右左中央と激しく飛び交いつつ攻防を繰り広げ、合唱団のステージはもはや空中戦の様相を呈し始めます。次に曲がインテンポのままダルセーニョに押し戻されると、ラジエーター・キャップを飛ばすほど高潮した気分を少年合唱団は一瞬で鎮めます。リセットのうえ、冷静に冒頭へと帰投し、演奏が継続してゆくのです。指揮者に向いたメゾ団員の肩が、トーヤ君の胸に当たるばかりになっています。彼はフガートの途中で半歩前へ動いてしまったのかもしれません。ストレスをかけて歌っている時に身体の重心が水平に動くという事は普段ありえないことなのですが、今日はどういうわけかそれが起こったのです。男の子は前頭葉の片鱗で事態を忘れようとしながら小脳虫部を使って立ち位置の微調整をかけます。すると、間髪入れず背後にあたるカミ手がわの位置から合唱に紛れるよう斟酌したアンビ君の声がコツンと彼の後頭に当たります。
「前!前!」
《僕に当たらないように前へ出ろ!下がるな!》…でしょうか?それとも《演奏中に動いたのは前の子だから、きみは動くな!》…でしょうか?いずれにせよ自分が制止されたと判じたトーヤ君は歌いつつ行動を慰留してしまいます。
「♪かがやく…かがやく…」と訳詞の末尾が繰り返し叫び上げられ、先生が左手で叩くきついピアノのベース音が鼓動のように時を刻みます。カネゴン君と品川(兄)君が、もう手遅れでしょう?と心急くほど「溜め」きった(もどかしいくらい遅い?)タイミングの後に隊列上段からダダダダ…と少年たちの肩口をかすめ馳せ下りて来ます。2サスのライトに照射された暑気の中、2人のソリストが走り抜けた後には微小で寒暖を感じさせない一陣の風が起きます。パートも背丈も違う2人がそれぞれのタイミングで離脱しているはずなのに、エキスポランドのジェットコースターのようにソロのバミ線の上で彼らはピタリと同時に邂逅して気を付けをかけます。誰が見ても凛々しいと感じる肩の線を見せながら、2人の上級生の声が揃って射出されます。前江トーヤ君が少年合唱団にいて再び「かっこいいなー!」と焦がれる一瞬です。4年生がもし「その他大勢」の団員だったらそうは思わなかったでしょう。けれどどの団員も厳しい練習をくぐり抜け、どの子も何らかのソロの出番を受け持たされているこの合唱団では、自分よりも実力のあるメンバーの独唱は常にときめきと思慕と憧憬を与えてくれるものなのです。
♪When the moon is in the seventh house...
「月が天の第七室に在り、ジュピターが戦の神に並ぶとき…」。ソリストたちが隊列の前で客席側へと拡声した音場は、団員の方には直接響いてきません。グースネックマイクが拾って客室へ還流した適度なリバーブのついた独唱の声を聞いて、少年たちは仲間の行程を感知するのです。さらに伴奏を聞いていればソロの終わるリピート指示の部分が判ります。「輝く星座」の英語歌詞は1番も2番も全く同じ。全隊の子どもたちが引き取って続きを歌って行きます。ウインチで巻き取られた重機のごとく今度はソリストたちが突然弾かれたように回れ右でもといた隊列の場所に還流して来ます。勝ち誇った表情もニッコリも無く、2人の少年は踵をかえします。
♪This is the dawning of the age of Aquarius.... the age of Aquarius
英語の歌詞の方が、言葉の間が空いていて、アルトの少年たちには音を比較的乗せやすいということがあります。楽譜を見なくとも低声のポジショニングや流れが「勘」としてたぐり寄せられるほど歌を叩き込まれ鍛錬された2メゾ以下の子どもたちにとって、ありがたいことなのです。それでもトーヤ君の前に並んだアルトの小さな本科団員たちはメゾに釣られてしまって肝心のロングトーンを正しいピッチで引きつけておくことができません。フィーネまでの楽譜にしておよそ3段にわたり、ふんわりふわふわと音にワウフラッターが生じます。先生が指揮の右手を差し向けて「ピッチ・ホールドしろ!」と緊急指令を送るときもあれば、大げさな目配せで済ますときもあり、そもそも十分想定内の事態なのか聞こえていないふりで曲をつづけることも多いようです。ミュージカルナンバーはアタッカのまま、ピアノソロの Let the sunshine in にスイッチします。男の子らは後はアフタービートでハンドクラップしながら身体を左右に振りつつロックミュージカルらしさを演出するだけです。歌うことはありません。(たとえ歌ったとしても、ただ「♪Let the sunshine in」と繰り返し唱えることしかありません)後奏として付随するその30秒間に団員の考えることは何でしょう?「輝く星座」についてはもう殆どの子が終わってしまったとの見なしで意識にありません。次の曲を考えている者は、出番のあるソロ担当の子だけです。アオケン君は出演の引けた後のナイショの夜遊びの謀略が頭をかすめます。赤いタータンのボウタイに合わせるシャツの色はパステル・パープルでいいかしら?レプス君はスクーターのガスタンクを満タンで誘いに来てくれるのでしょうか?カネゴン君の頭の中にあるのは歌い終えてしまったソロの出来ではなく、バナナフレーバーのホイップクリームがたっぷりと乗ったパンケーキの香ばしい匂い。そして今日はペルセウス座大流星群の日です。手を叩きながら、ダンスの振りの記憶をたくぐっていきます。出演が終わり楽屋口で出待ちのお姉さんやおばさんたちと写真に写った後、躍ってみせてあげたらどんなにか喜ばれるでしょう。♪ホップ!ステップ!ミロ☆ジャンプ!でVサインのキメのポーズをとりながらはにかみつつ着地する自分の姿が見えるようです。前江トーヤ君はしかし、昼に見た巨大グモの様子だけが心象の中によみがえってきます。壁を伝い何を見に来たのでしょう?そのときまた、トーヤ君自身は何をしていたのでしょう?僕の事を大切にしてくれる優しいカネゴン君は、何を思って蜘蛛を見ていたのかな?Let the sunshine inのメロディーが繰り返されてゆきます。身振りには簡単な足さばきが加わります。お客様がいっしょにハンドクラッピングをしてくださっています。ペルセウス座大流星群の日。Let the sunshine in…Let the sunshine in…。
四 夜汽車 Nachttrein
「間もなく、武蔵小杉…武蔵小杉。お出口は右側です。武蔵小杉駅は、カーブのためやや傾いて停車いたします。電車とホームが一部開いているところがございますので、お足元にご注意ください。」
夜の横須賀線。アオケン君が飛び上がるほどびっくりしているのは、車内アナウンスが女の人の声だったからだけではありません!
「え?!!」
武蔵小杉は南武線と東急東横線にしか存在しない駅です。渋谷から各駅停車に乗ったら新丸子の次、急行は多摩川園駅も止まらないので田園調布の次ということになります。アオケン君たちが乗り込んだのは海紺色のソリッド・モケットが張られたセミクロスシートの千マリ近郊電車で、これははたして横須賀線に間違いありません。窓々に灯る池雪のあかり。品川駅を出てしばらく新幹線と並走してきたのですから、新川崎までの延長12.5キロの区間に人の乗り降りできる駅のホームは一つも無いはずなのです。それをどう切り出そうか逡巡しているうちに、トーヤ君が頬を赤らめて言います。
「夜のムサシコ駅のホームの天井は冷たくって澄んでいてキレイですてきなんだよネ!」
「星がキラキラまたたいているんだ。」
カネゴン君も言います。
「横須賀線なのに、どうして南武線の駅に停まるの?」
「キミは何も知らないんだな。武蔵小杉は、横須賀線の駅の名前じゃないか!」
アオケン君はもう一度、考えてみます。でも、いくら頭をひねってみても1982年のアオケン君にとって、横須賀線にそういう駅は無いのです。東京駅の地下1番ホームから久里浜駅までを往復し、総武快速線に乗り入れるだけの15両編成の高速電車。停車する駅の名前はすべて順番にソラで言うことができます。
「ま、東急は目黒線も停まるんだけどね。」
「目黒線?…目蒲線のことをキミはわざわざ目黒線と蒲田線って言うの?」
「メカマ線って何?」
「アオケンの言っているのは、多摩川線のことじゃないの?」
「タマガワ線なんてもう無いんだよ。今は地下鉄になって新玉川線っていうんだよ。」
「なんじゃ?新タマガワ線って?そんな電車、聞いたことも無いよ。」
子どもたちの話は全く噛み合いません。
「この電車は、海老名行きです。The next station is Musashi Kosugi. The doors on the right side will open. This train for Ebina, via the Sotestu Line. 」車内放送が言います。「えいごであそぼ」のおねえさんの声が累々とそう告げて行きます。男の子は聞き耳をたて、さらに混乱していきます。
「横須賀線の終点が、海老名なの?海老名は小田急線の駅じゃぁないの?」
「そうとも!海老名は小田急小田原線の快速急行停車駅さ!だが、同時に相鉄本線の下り終点で、われらが夜の横須賀線の終着駅の一つでもある!僕たちは今晩、いったいどこで降りようか?」
アオケン君はもう一度考えてみます。ゴリーウォークのケークウォークをメリハリつけずに弾いたようなもどかしさを感じます。4年メゾソプラノがカッシーニ坂のバールで買った恒星ラムネを通団カバンの底から引っぱり出し、6年生ソプラノが壜をひったくって玉開けを飲み口に押し込んでやるとシュッと音がして忍び込んでいたレモン色の帚星が一つ逃げていきました。トーヤ君が唐辛子色の唇をカチンとそこにあて、ビー玉の音をカリカリたてながらソーダ水をジュウッと吸いはじめます。ビン口をくわえたまま、上目遣いでトーヤ君が思いついたように切り出します。
「見せてあげる!夜の武蔵小杉駅ホームの透明天蓋。さあ!荷物をまとめて電車を降りるよ!通団バッグを忘れずに!」
上下線まとめて入線していた電車が行ってしまうと、ホームの俎上は無言の茫漠とした世界です。「透明天蓋」と子どもたちは言っても、上屋は細い樹脂サッシの格子がはりめぐらされたムーンルーフになっています。その間から、板のまま銀紙を剥くビターチョコを敷き詰めた夜空が静かに降りているのです。一見して散りばめられた星の界が、プラットフォームの照明の代わりを引き受けてあたりを照らしています。不均衡な位置にどうやら赤い絨毯の帯が伸び、華奢な手すりの付いた階段を上ってホーム上に立ち上がった高床の駅務室のドアの下に消えていました。シックなカーテンをタッセルでとめたその窓を背景にしながら、右腕に脱いだウエディング・ドレスをかけた全裸の女性が裸足のまま無言で燭台を掲げ、前を見据えて歩いています。星明かりが女の影を絨毯の上につくります。2人が平然とそれを看過しているのを見て、アオケン君は何も言いませんでした。線路の向こう側からは古びたスラブのレール上に色灯信号が懐かしい光を落としています。駅の周辺に林立する高層ビル群が、住宅棟の家々のランプの灯をぼんやり浮かべて佇んでいます。ホームの端でアンモナイトの化石をわしづかみにした考古学者が老眼に合わないメガネをおでこに外し、星明かりの下で細部を観察しているのを見つけて子どもたちはまた話しはじめます。
「涼しいのね。いつか、また、秋が来ていたんだね。」
「雑草の間に首を傾げたりんどうのかわいらしい花が、食堂の前の空き地に咲いている。」
「そうかな。僕は今日の練習もノドばっかり渇いてトイレのお水を飲んでばかりいたよ。」
ペルセウス座ガンマ流星群はプラットフォーム上のどの位置に降るのでしょう。ジョバンニ・スキアパッレッリが捻出した放出点の彗星は、アンドロメダ座の近傍を通るとカネゴン君は教えられていました。
「僕の水筒はスタジオに着いてから1秒で空ッポになった。」
「きみは汗ふきタオルを絞ったらジャーって出るぐらい汗をかいていたよ。」
「暑かったよね。」
「暑かった…。」
少年らの体温を超える気温がもう何日も駅前の掲示板に示されたきりになり、合唱団の子どもたちは通団のため本能からなるべく日陰のルートを選びつつ歩く炎夏の日々でした。でも、今、この場所だけは違います。フランドル・ベルギーの浄夜の涼やかな風がホームの端々をわたり、逞しい胸板のギリシャ彫刻の立像の兵士の肌には恒星の重力圏を抜け長の年月を通じてやってきた淡い光が薄いラベンダー色の階調を重ねているのでした。トーヤ君がそれを見るなりとうとうカネゴン君の前へ馳せてあたたかい身頃へとしゃぶりつき、首を左右に振れて顔を拭くように尋ねます。
「ボクの大好きな大好きな世界一かっこいいカネゴン先輩は、どうやって日本一のボーイソプラノになれたの?」
「日本一?何の日本一?」
「どうすれば僕もカネゴン君みたいな日本一のボーイソプラノになれるの?」
「知らないよ…僕は声も発音も変。口も、鼻も、舌も、きっと胸もお腹も変!…きれいに声が出ないし響かない。そんな僕に日本一のボーイソプラノのなり方なんか判るはず無いじゃないか。」
「でも、カネゴンはソリストになったじゃない?!」
と、アオケン君も口をはさみます。
「ボク、日本一のボーイ・メゾソプラノの作り方なら知ってるよ!。教えてあげようか?難しいんだぁー。」
前江トーヤ君が息継ぎのように身体を爆ぜて話し始めます。
「難しいんじゃムリだな。だいいち、そんなのになったって、あと1〜2年で5〜6年の団員生活は終わる。…まあ、餞別代わりに聞いてやらぁ!」
ホーム頭端、タブ受けの螺旋の傍らに黒いトルソのマネキンがヴェールをかぶって立っています。
「星明かりの晩にテラスへコンロを持ち出して、もぎ取った宵の明星を時間をたっぷりかけて煮込むのさ。金星ジャムの出来上がり!」
「そんなもの、作ってどうするんだい?食べるのかい?食べたらノドにいいのかい?」
「歌うのさ!ごろごろごろごろ、たっぷりの重くて甘い明けの明星を!好きなだけ。欲しいだけ。洗って、皮を剥いて、袋もとって、きれいなきれいなさらさらの砂嚢だけにして…」
「皮は入れないのかい?」
「これはママレードじゃないから、入れないよ。苦くなる。」
いずこでか瞬くルビー色のテールランプひとつ。ふたつ。レンガづくりの検車場の建物から、白熱灯のあかりが三角定規のように斜めに差し出ているのが見えます。
「星々の理論的下限質量の発生原理をもとにばらばらになったお星様の重さを算出する。」
「どうやって?」
「全部の星のエネルギーを光速の二乗で割ったら出て来る。光速は、毎秒<肉食うな、国稚児は(299792458)>万キロメートル。」
「金星1コの質量はざっと4.869×10の24乗kgとして計算したら?!」
「だから、皮と薄皮と小袋を丁寧に全部取り除くって言ったじゃない?」
「量ってどうするの?」
「この質量の合計がフィボナッチ数列を導くようにグリコシド結合した果糖とデキストロースを大量添加する。注意するのは、アシッドに強い鍋を使う事。当たり前だけど、かき混ぜるために木べらを用意するといいよ。」
「メゾ・ソプラノと全然関係無いじゃん?!」
「ここからが大切!鍋に入れたスクロースが恒星に触れてクスクスとウェヌスの溜息を千々に漏らすのさ。」
「かき混ぜる?」
「いいや。まだまだ。ここは儚く淡い化学反応に過ぎないの。」
「メゾ・ソプラノは出て来ないよ?!」
「うるさいなぁ。まだ、ブレスをきれいに整えておくところ。お習字で筆の先を揃えておくのと同んなじさぁ!」
「溜息をどのくらい聞くの?」
「およそ、一千一秒間…」
「約16分40秒間ってところだね。長い…。」
「違うよ、16分41秒だよ。」
「何だよ!トーヤ君は『およそ』って言ったんだぞ!黙ってろよ。」
「そしてここからが大切!ムダにコトコト煮ないんだ。中火で、お鍋のナカミを見ながらしめやかに加熱する。」
「夜のテラスなのに、お鍋の中が見えるのかい?」
「もちろん、目では見えないさ。だからクツクツと地殻が融けるお鍋の近くに立って夜目で歌うんだ。」
「…何を?」
「何でもいいけど、静かな感じの曲の方がいいかな?」
「そうだなぁ。」
「夜のしじまに紛れ、あたらしい豊穣の詩が歌われる。人知れずたっぷりと。お鍋の中から歌声が聞こえるんだ!押し殺したような声で、漏れ垂らすように。」
「きみ自身の声は闇の中でどうなる?」
「やがてエクスタシーに満ちた酸い蜜の香りや妖しい甘美な熱気の波が幾重にもやってきて、暮夜の闇ごと僕たちの身体をふんわりと包みこんでしまう。すると、待ち構えていたかのようにすばらしい絶頂のときが訪れる…星々がグズリと糊化するんだ!お鍋のナカミがもはや天体で無くなる錬金術的瞬間が閃光のきらめきのようにやってくる。身も心も痺れるようなとろりとした糖度の中で、僕らは天体とともにああぁと陶然の恍惚の刻をむかえるのさ。最後はバッカスの神のお礼に上からコアントローをひとふり垂らすのを忘れずにね。」
「それで終わり?」
「まさか?!翌朝、お鍋の中にひたひたとした黄金色に輝くエルドラドが現出している!すごいヨ!金星のエネルギーが全部煮溶けてる。星の質量かける光速の二乗!そいつが朝日の中でキラキラと光っている。夕べのあの悦楽と忘我の刻限が、もう幾星霜も前の出来事だったと思えるほどのしとやかな臥所の底で。…スプーンですくって1口。割いたベーグルやマフィンの角に盛って二口。お塩の粒がぴちぴち跳ねているクラッカーの上に落として三口。それから、チーズの間に溢れるほどはさんで四口…。強烈な甘さと麻痺しそうな爽やかな酸味と、降り注ぐ陽光をエネルギー変換させて閉じ込めたきらびやかな香りが幾重もの波動になって僕たちの口腔を制圧する!これぞ暁の星のジュレ!名前は『日本一のメゾ・ソプラノ』!パクッ!」
「え…?」
星々は一面の天蓋にはりついて気持ちが悪くなるほど鮮やかに瞬きます。
「『日本一のメゾ・ソプラノ』って、オレンジ・ジャムの名前?!」
「カンッ!としたボーイソプラノの味でもなければ、ゴツン!ボーンとしたボーイアルトのコクでもない。キリっとした頼もしい声質と骨太の旨味と甘い粘りけのある舌触りの絶妙のハーモニー!皮の渋み苦みの無い澄みわたった正真正銘ヒノモトイチのオレンジ・ジャム!コレぞ日本一のメゾソプラノたるゆえん!」
「じゃあ、きっとトーヤ君…キミの歌と同んなじだネ!」
「うん!ほっぺたが落ちるほど、おいしいヨ!」
五 横須賀線citoronomachy
飛び乗った113系のグレーの車床は未だ光らず、ペール・オリーブのデコラがクロスシートを遮ってドア毎に広がっています。扉の脇の小さなロングシートに小学生3人分のお尻は入ります。最初、彼らはそうやって肩を寄せ、話の続きをしていました。サファイア色のモケットの背にいい匂いのする通団服のベントを押し付けながらカネゴン君が言います。
「…きっと、先生の気まぐれなんだろう?」
「気まぐれなんかでソプラノのソロにしてもらえるかい?だいたい、先生の口癖って『キミたちは、お客さんをアナドってないか?!』なんだよ。」
「ボイトレの先生だったら絶対に『カネゴン君っ!日本一のボーイソプラノかどうかは、お客さまがお決めになることでしょう?』って言うね。」
「お客さんは僕のいったいどんなところがイイのかな?トーヤ君はわかるのかい?」
4年生はそれでもカネゴン君の肩に鬢をすりつけながらクスクス笑います。
「僕なんか、ちっともイイ声じゃないよ…。カキクケコの発音もサシスセソの発音もキレイに出来ない。口笛が吹けないし、指パッチンもできない。初見で楽譜が読めない。毎週練習だけは仕方なくやって来て、高学年だから一応毎回ステージに出してもらって…。あのときだって僕は辞めるのが怖くて、今もここにいる。」
5年生の終わりの春。たくさんの団員たちが入団の誓いを反故にして、進学を目指し辞めて行きました。彼が新ソプラノのパートリーダーになったのは、多くの新6年の団員がいなくなってしまったから。スタンバイのタイミングが苛々するほど遅く、歪んだ発音の、キツい発声のボーイソプラノ…。電車は新川崎を抜けると次第にモートルの音をあげていきます。男の子らの頭上でまん丸なボーンチャイナ色のカーバイトのつり革が小刻みに揺れていくのがわかります。VVVFインバータは未だ線区に存在しません。直流の抵抗制御が強靭なトルクを絞り込みながらすさまじいうなりを伴って電車を駆り立てて行きます。トーヤ君が6年生の肩に振り返った顎をあずけ、鼻腔から静謐な精気を漏らして窓外を眺めているうちに、あまたのナトリウムライトに弱々しく照らし出された数千輛とも思われるおびただしい貨車の静止した群棲が眼下へと広がっていることに気づき、息をのみます。
「わあ!すごい!すごい!たくさんの貨車が集まっている!
彼らの眼下には、きれいに敷き詰めたビター味のチョコベビー様のものが漆黒のベルベットの中に幾十百と列をつくり、並列していました。
「…これは、貨車の墓場だ。何年も何十年も、重い荷物を積んで雨風の中で働いてきた貨車たちが、ここで終のときを静かに待ってるんだ。」
「貨車の墓場?」
「本当に役目を終えたのかどうかは知らない。…ただ、もうここにいる貨車の仕事は無いという意味なんだ。」
カネゴン君が太い唇を結んで言葉を切ると、ビッグバンド調のスローバラードにのせてアオケン君が甘酸っぱい笑みをたたえハスキーに歌い出すのでした…
♪ブルームーン
独りの私を見ていた
夢もはや叶わず
強がることも無く
ブルームーン
私を見ていた
祈りを聞いていた
思い人のため
前ぶれなく ここに懸り
月のかいなに ひとり囚われ
月影の囁きを聞き、仰ぎ見れば幸多かれと瞬く
ブルームーン
もはや独りではない 今宵
夢うつつにあらず
強がることも無く
ドア際のロングシートの窓は戸袋の二重サッシで開ける事ができません。自分たちの頭蓋で暗がりになった内側のテンパーガラスを通して、外ガラスを支持するねずみ色のガスケットのシーリングが見えます。リューウウウウーと電車が終末の貨物機関区の上を滑るように上って行きます。
♪Blue moon
You saw me standing alone
Without a dream in my heart
Without a love of my own
Blue moon
You know just what I was there for
You heard me saying a prayer for
Someone I really could care for
And then there suddenly appeared before me
The only one my arms will hold
I heard somebody whisper please adore me
And when I looked to the moon it turned to gold
Blue moon
Now I'm no longer alone
Without a dream in my heart
Without a love of my own
written by Lorenz Hart : public domain(著作権消滅)
ナトリウム灯の狭い波長が眼下に広がって過ぎてゆきます。昼間の暑さにあぶられ続け蓄積されていた倦怠が、視覚信号に含まれたオレンジ色のライトを引き金に呼び覚まされていきます。アオケン君のメランコリックな声がその演色性を鼓舞し、子どもたちは速やかにまどろみの側へと誘引されていきそうになります。ところが…
「あ!球だ!びっしりの赤い球が川みたいに飛びだした!」
トーヤ君が叫んだガラス窓の眼下に、貨車の目地から打ち出されたかのように見える大量のボールのひしめく流れが見えます。夥しいモル濃度で横須賀線の下から並走するように迫ってきます。見いだされたのはそれぞれの表面に吹き出たつやつやとした微小なクレーターでした。赤色に見えたのは、灯火の周波が混濁しているからで、男の子の見下ろす先に電車と等速で群舞する球体群はどうやらもともとオレンジ色だったようでした。電車に触れないよう距離を置いて、果実は大挙して高速で流れてゆきます。土星の輪のように磁気や旅客車の重力の平衡によって平板な形に収束し、ところどころにカッシーニの間隙も認められます。113系は今、電子の励起光をまばゆくふりまきながら、量子収率いっぱいに辺りを輝かせて疾走します。向かいの戸袋窓を通して広がっているのは矢向の夜半。川の出合うところおびただしく散開した家々の明かりが清冷なままちつちつと瞬いて、視界を静かなスライドショーに見せています。かたや此方の窓には数千万の序列集合を描くオレンジが星の光と車輛の客室灯と方向幕を小さく反射して膨大な基数と濃度のままサーッと流れを偏向させようと挙動しはじめました。トラジ色の蒼白な霧氷が球体をのたくって煽るように、オレンジは南西へと流れを振って行きます。少年たちが黙として見守る中、光り輝くまま、ルミネッセンスの果実たちは星空高く打ち上がるのでした。電車の中にローズオイルの芳香を伴った透過性の無菌の風がカラカラと流れ、消毒に残ったクレゾールの匂いを駆逐していきました。
「ホラ!どぉ?すごいでしょ?」
弟分が両手を添えて差し出す手に載っていたものは、車窓を流れていたはずのオレンジ!
「1コだけだケドね。」
アオケン君とカネゴン君がビックリまなこで見つめるその先では、下級生の小さな指を折らんばかりに果汁を充たして重そうな、実のつまった橙色のボールが掌から溢れ落ちそうになっていました。
「オハツにお目にかかります!」
黒い男の子が言います。
「凛々しくて、カッコ良くて、たくましくて、セクシー!」
ボーイアルトも言いました。
「オレンジ・ジャムに煮たら、きっと日本一のメゾ・ソプラノになりそう!」
前江トーヤ君も唾っぽい声で叫びます。
「トーヤ君、電車の中からどうやって採ったの?」
アオケン君がそう尋ねると、彼の土星のブレザーは突然、濡れたような濃い紺の美しい天鵞絨に変わっていました。タータンチェックのボウタイの代わりに胸元を優しいベルベット・ムラサキのリボンタイでちょこんと飾って、肩の線だけが懐かしい男の子の体躯をしるしています。車内は近くの何人かを除いてまるでがら空きで、切妻のミストグリーンのデコラ壁には、消火器を収めたステンレスのニッチと貫通扉から剥き出しになった暗がりの幌枠が見えていました。今までずっと身体をくっつけて窓外を眺めたりおしゃべりしたりしてきたのに、アオケン君の上半身が着ているものといっしょにすぅぅと涼しくなったような気がして、何だかとても恋しい気持ちになりました。黒ボタンでたくさんとめられた天鵞絨の上着の腹の下に真っ黒な半ズボンをつけているようなのですが、男の子は股の上に黒いしっかりしたつくりの星座早見盤を落とさないようにのせて手を添えているのでよく見えません。両のズボンの裾から群青色のガーターの帯ゴムや薄いバックルが覗きます。学校の制服の黒タイツをはき、生地に透けた膝頭や向こう脛がぴかぴかとマルン色に光っています。穴飾りのたくさん開いた先の丸い真っ黒なおかめの短靴のかかとをきれいにそろえて静かに座ってる様子を見ると、普段からもう大好きで大好きでたまらないという気持ちがいっときに昂揚して子どもの体温を上げました。トーヤ君が「星座早見盤は、iPodの『Star Walk-5つ星の天体観測ガイド』の方が本当に早く見られて便利なんじゃないの?(…しかもソフトの値段は350円)(でも、iPodは星座早見盤にくらべたらちょっと…かなり重いかな?充電もしなくちゃイケナイし…)」と思ったとき、たおやかに座っていたはずのアオケン君自身が口をききました。
「ねえ、カネゴン君のところに最近、あの6年生っぽい女の子たち2人とも来てないネ。」
「来てるよ。6年生じゃなくて、中学2年だってさー。最近、デパートとかの出演が多いからステージ中に花束渡し難いらしい。」
「他の少年合唱団にも、団員の追っかけ女子っているのかな?」
「ツト君の親戚のおばちゃんって、<厨>とかJKのころ、ビクター少年合唱隊の隊員さんの追っかけやってたんだってさー。」
「うそー!どんだけ昔のハナシなんだよ?!カネゴン君みたく、プレゼントとかもらってたのかな、VBCの子?」
「何か、好きなもん聞きだしたりして誕生日プレゼント贈ってたらしいよ。カードとか付けて。あと、バレンタインのチョコとか。」
「あー、オレと同じだ。どっちも、もらってる…。」
「いいなぁ〜。」
「いいもんかよ。マジ恥ズい。トーヤの方が可愛くて、歌うまいのにネ。ワケわからん。」
「カネゴン君は、やっぱカネゴン君だからカッコイイでしょ。」
「全然知らない中学生から『ファンです』ってチョコとか差し出されて、何て言やイイんだよ?」
「『ボクは声変わりするまでがんばるので、応援してくださいね』ってのは?」
「うっ!バッカみたい!」
「カネゴンって、合唱団のお母さんたちにもファン多いよねー。」
「ボクのお母さんなんか、カネゴン君の息子の追っかけもやりたいから、先輩が大人になって結婚したら『男の子だけを確実にさずかる方法』ってのをお嫁さんにしっかりレクチャーするんだって、今から言ってるよ。男の子を産みわけるクスリってのもあるんだってさー。」
「おまえ、そんなんで産まれて少年合唱団に入れられちゃったのかよ?」
「違うよー。ボクはたまたま成功した例なんだよー。」
「僕のお母さんも毎年カネゴン君にバレンタインの本命チョコもどきあげてるよ。なんか、苦労人で合唱団の皆の幸せのために泣いてもらってる子だからだって。」
「ンな、ナニワブシみたいなこと、言われても…」
「カネゴン君がステージを欠席した日は、お母さんたち『今日のコンサートはハズレだった』とか、『カネゴン君が出演してなかったわりにはみんなけっこう頑張ってた』とか、内輪でこっそり言ってんだよ。自分たちの息子に失礼だよね。」
「うふふ。」
「そんな子、他の少年合唱団には絶対に一人もいないよネ。」
このとき、113系はゴム敷きスラブの鉄路を疾走し、星空の中を進むようになりました。日吉の対岸もまた墨色の宅地の陰に沈んで降下していきます。団員たちの座るセミロングの座席の向かいには、週末のお休みのお父さんに連れられた丁度4年生ぐらいの男の子が本当に安楽な表情をしてこちらを見ていました。トーヤ君よりも1〜2ヶ月だけ小さいというほどの背格好で、食べ物の好き嫌いのあまり無い子なのだなということが分かります。さっぱりした短いもみ上げの切りそろえた髪型をして、胸にapと組文字ロゴが入ったアーノルドパーマーの白いポロシャツと切れ上がった流行のチノパンの半ズボンをはいています。かたちのよい柔和な下腿をチャンピオンプロダクツのワンポイントのプレーン・ハイソックスが静かに覆っていました。カネゴン君は先ほどから男の子の足の甲をキュッと絞めているベロアブラックのアシックス・タイゴンが気になって仕方ありません。21世紀初頭の男の子が校庭で履いている鬱陶しいくらいコマギレな反射材がゴテゴテと縫い付けられているゴチャゴチャした色づかいの靴とは全く違うのです。クラスの皆はスプリントや瞬足やスーパースター…。カネゴン君も普段、大人しめなダークネイビーのadidasスピードフットや黒いイノヴァのトレーニングシューズなどを選んでつっかけているのですが、その子の足元はもっとプレーンでシンプルでフォーマルな子どもの足のカタチや温もりを感じるスニーカーがスマートかつ精悍に引き締めているのでした。その気配を視線の片隅に感じつつ、トーヤ君は男の子とお父さんにニコニコと笑みを送ります。ニッコリされた知らない男の子が反射的に頬を緩めます。天井に並んだ冷酷で薄汚れた蛍光灯の白光の下、彼らがお日様の顔を山吹色にキラキラさせているのが車窓の外からも明瞭に見てとれます。
「あの子にあげていい?」
お腹の前に果実を抱いて尋ねるトーヤ君の声に、2人の上級生は顔をほころばせて頷きます。カネゴン先輩が前を向いて言います。
「お前が採ったオレンジだろ。トーヤの好きにしたらいいさ。」
アオケン先輩も気持ち良い答えを返します。
「僕たちにくれるつもりだったのかい?♪ぼッ、ぼッ、僕らは少年合唱団…おいしいメゾソプラノは全部お客様にさしあげるものサ。」
微細動の静まった灰色ロンリウム床。進み出ていったトーヤ君が、男の子のむき出しの股の上にオレンジをそっと置きます。
「あげるよ。おいしいヨ。」
明るいはちきれんばかりのオレンジをぽつんとその子の茶色いふとももに押し付けて言います。外気の中を滑空し、十分に冷たい球になった果実が肌に触れ、ポロシャツの男の子は一瞬びっくりとします。それでも、やっぱりニコニコとしてトーヤ君を上目遣いに仰視します。
「ありがとう…いいの?」
「いいさ!キミが食べたらイイよ!それに、このオレンジを煮てジャムを作って食べたら、日本一のメゾソプラノになれるよ。少しずつだけど、きれいな声で、集中して、まわりの皆のためにカッコいい発声で歌えるようになる!よかったら、お家でやってごらん。」
お父さんも笑ってそれを見ています。精一杯低くない小さな明るい声で「どうもありがとう」と言ってくれます。ところが、トーヤ君が踵を返し上級生の情味に向き合ったとたん、彼らの肩越しの車窓の景色がすぅっと5〜6度の傾斜に傾き、誰にでもわかる滑らかな加速が器機の強烈な周波音とともに旅客車を襲ったのです!リウゥゥゥゥー!リウゥゥゥゥー!
男の子がふらつきながらモケットに尻を落とし、二人の上級生の温かい肩に挟まれて逆側の車窓に目を移したとたん、電車はすうっと浮き上がりゴロゴロいう軌条の音が下方へと落ちたのです。
「あっ!浮いた!」
「…飛んでいる。横須賀線が、すごいスピードで飛んでいる!」
トーヤ君は、加速と上昇にしたがって足元で移動し偏向する重力を感じながら、外気の吹きすぎる音や圧を聴き取って叫びました。
「見てごらん。横須賀線は、夜空を飛ぶのだよ。」
カネゴン君が言います。何と言う事でしょう!!列車は鉄路の上をモートルの音を軽く静かに響かせ、筐体を左右に振って、振り零された川崎の幾万の小さな明かりを車窓に見せて飛んでいます。リウゥゥゥゥー!リウゥゥゥゥー!
「飛んでなんかいないよ。これはスーパーロングレールがきれいで新しいバラストのPC枕木に斜め継ぎで留まっているから、そう感じるんだ。」
と、アオケン君は言うのですが、
「スーパーロングレールって?」
「1キロメートルの半分ぐらいある長いレール。」
「PC枕木は?」
「コンクリートの枕木。」
「じゃあ、斜め継ぎっていうのは?」
「膨張しても曲がらないように線路を斜めに継いであるから、ガタンゴトーンってジョイントの音がほとんどしないんだ。」
「…??」
どの電車に乗ってもそこそこに線路の音など聞かない21世紀の東京の子どもたちにとって、それは古くなり黄変した戦争中の理科の教科書を読むような内容のハナシです。彼らの時代の鉄道は、どれも何百メートルという長さのレールをコンクリートのスラブの上で斜めに継いで電車を走らせているのが当たり前で普通だからです。話題にならないのです。
「じゃあ、何でこんなに街の明かりがきれいなんだ?」
「今日はペルセウス座ガンマ流星群の日だから?」
「じゃあ、何でこんなに静かなんだ?」
「星々の風が鉄路をキンと冷やしているから?」
そう言っている間にも、窓外の夜景は静かに高速で流れて行きます。軌道の上空を抑制された高度で滑空していくのでした。
六 カネゴン君のグリーン券
さあ、ここでお話を私たちの静かな京浜の夜の物語へと戻しましょう。
3人の少年たちは列車の5号車…増結されている先頭から数えて9輌目中央のリクライニングシートを力ずくでガッチャンと回転させると、深呼吸するようにしてそこに座りました。
「こっちのグリーン車がいいんだよ。見てごらん、鶴見川が見えてきた…。」
黒雲母の窓からは、オレンジ・フレーバーのスペース・ダストを振り撒いたと思しき外界の中、揺らめく川面のほとりに黒く沈んだ処理場の夜が孔版となってとり残っていました。
「どうしてわざわざこっちの古いグリーン車を選んだの?」
ビロードのジャケットから突き出たアオケン君のワイシャツの袖をトーヤ君が小幅に引きます。するとボーイアルトが柔らかい指でさし示した2等車の切妻の上部に、「サロ113」と古めかしい表示が読めます。
「こっちの方がシートが広くて柔らかいし、台車の空気バネがいいんだ。」
リネンの枕カバーがかかったエンジ色ビロードのリクライニング。カチャリと四角いレバーを引いて座席を滑らせると薄ネズミの肘掛けを握って彼らは脚を投げます。
「リクライニングをいっぱいにかけるのは、田舎者のやることだ。」
と、アオケン君が言いかけたとき、
「グリーン券を拝見いたします。」席の横に、帽子をかぶった背の高い客室乗務員が、いつか直立して言いました。アオケン君は、黙として半ズボンのウォッチポケットから小さなかわいい桃色の紙片をにじり出し、つまんで差し出します。マジシャンのように乗務員がどこからか改札ハサミを実体化させ縦に振ると、鈍色のハンドルでサクリと閉じた切符を返してくれます。子どもたちが覗き込むと、表面には可憐な花形のエンボスがきれいに穿たれているのがわかりました。続いて「きみたちの切符は?」という目つきで見下ろす乗務員にかざしたのは、トーヤ君が薄い銀色のプラスチックカードと、カネゴン君はプーマのストラップのついた携帯電話でした。カードにはウォームグリーンの台形とペンギンのイラスト。カードのデザインの他に、「マエエ トーヤ」と青地のカタカナで小さく名前が印字されています。
「キミたち、此れは一体何だね?」
「天井のリーダに、これをかざすんです。」
「??」
皆は揃ってメラミン板の白い天井を見上げました。ミルク色の天蓋がアールを作ってつやつやと光っています。カードのセンサーらしき造作は見当たりそうにありませんでした。だいいち、男のグリーン・アテンダントが改札にやってくるのを2人は見た事がありません。まったく変わった電車です。
「いったいキミの持っている定期券には『小』と印刷されているだけで、期間も区間も等級も何も書かれていないじゃないか?…それから、こっちのキミの持っている分厚いエチケット鏡みたいのは何だ?」
「電話です。」
「こんな、ガラス板みたいのが電話なものか?相手の声が出て来るスピーカーも無いし、それにどこに口をつけて話したら良いんだ?…本当にキミたちは四次元から引っぱり出したようなシュールレアリズムなモノを持っているんだね。」
汽車の制服の人は子どもの手から電話をすっと抜き取ると、電源をおとしたディスプレイの黒い鏡面をつつうと人差し指の腹でなでました。男の子は彼の制服の胸ポケットにいつも収めているこぐま座の測光ガラスの板を見透かされたようで少しだけばつの悪さを感じました。
「これが切符の代わりになるんだな?」
「そうです。これにグリーン券情報が記憶されていて、電車の天井が無線でそれを読むんです。」
「プッシュホンの電話予約やみどりの窓口の「マルス」端末と同じことをこの機械がやるんだな?…それから、キミの持っているのはキャッシュカードだ!そうだろう?グリーン定期つきのキャッシュカードといったところだな?」
「…よくわかんないけど、たぶんそんなところです。」
ダイアル式電話機を学校の社会科資料室でしか見た事の無いカネゴン君はそもそも「プッシュホン」という言葉をよく知りません。
七 アデノシン海岸
「昭和時代、人々がかつて鉄道の旅をすればおやつに食べるものはペストリーやフィナンシェ、煎餅ではなく、みかんだった。かさばらず、携行に便利。指で皮を剥けば手づかみで簡易に食べる事ができ、食べがらはじきに乾涸びて軽く始末が容易。車内に匂いがこもることも少なく、慣れれば指を汚す事も無い。皮のままで十分に衛生的でそこそこ新鮮なまま保存ができるという便もある。包装の手間もコストもほとんどかからず、こぼしたり気が飛んだりの心配無く水分がとれる。冷凍して供すれば暑い夏場を通じても時期を選ばす供給が可能。酸味と甘みのバランスが良く、たくさん食べる事も、一塊でそこそこの満足を得る事もできる。起き抜けの夜行列車で朝食代わりに食べて良し、駅弁のデザートにも、おやつにもなり、食べる時間を問わない。飲料として摂りたいときには小円筒形のスチール缶のトップに小さな専用の穴開け(オープナー)で縦長カマボコ形の穴を点対称の位置にきちんと2つ穿ち、ブリキ臭い果汁を飲んでいた。いずれにせよ、それは『オレンジ・ジュース』。みかんこそが鉄道旅客の友であり、旅情の担い手だった。」
ハスノハカシパンの残骸が一面に散乱する、ここは顕生代第三紀の海岸です。トーヤ君はお望みの通りクレセントの薄いお月様を両手に掲げ持ってかぶりついています。甘みでべたべたした男の子の指の間からメタン酸、ブタン酸、プロパン酸…酢酸メチルの強烈な芳香がうち溢れています。アオケン君がお月様を見ると、薄いグリーンの弓形の内法に、トーヤ君の小さな可愛い歯形がついていました。なんて、なんて、可愛らしいのだろうと5年アルトは焦がれました。ところで先ほどから3人の前に立ち、彼らの興味の有る無しに関わらず間断無くレクチャーを続けているのは学士さんです。考えてもごらんなさい、大学を卒業した人はみんな学士さんと呼ばれるのです。アオケン君の両親も、トーヤ君のご両親とお姉様も、カネゴン君の家族も、間違いなく全員が学士さんです。アオケン君がおずおずとそれを打ち明けると、「学士というのは学位の称号のことではない。かつて、『学者』のことを『学士』と言い習わしていたのだ。」と教えてくれました。少年たちがあまりにも退屈してしまい、浜の入り口、朽ちたコンクリートのトチカの端に目をやりますと、セラミックのつや消しの門標がしっかり星空を向いて立ち、「A」「G」「C」「T」という4つのアルファベットの意匠の上にフルティガー調のミディアム・フォントで、
『アデノシン海岸』
…われら生きとし生けるもの凡て、
ここより編まれいずるものなり
と、くっきり書き抜かれているのが読めました。
「ですからキミが物質・反物質反応フィールドただ中で、柑橘体の飛翔ストリームに遭遇しただけでなく、並走までやり遂げたということは、至極蓋然性に溢れ、また精度の高い現象であったということができるだろう。」
「…お話の途中で、ごめんなさい。もしかすると、学士さんは僕たち少年合唱についてもそういう説明の仕方をなさるのですか?」
「そういう説明の仕方…というと?」
「まず、日本の少年合唱の来歴を西ヨーロッパのキリスト教会クワイアの沿革と比較考察し、最後にボーイソプラノの美学なんたらかたらというタイトルががりでハナシを近世日本の文化思想とかに無理やり摺り寄せて、結局最後は<失われるものの儚い精華である>とか決めつけて言い放ってしまうような…。」
「なるほど。その通りだ。」
「その通りじゃないでしょう?!歌っているのは、飲んだり食ったり遊んだり先生に叱られたりするココにいる僕たちで、歌うのは『気球に乗ってどこまでも』とか『手のひらを太陽に』とか『怪獣のバラード』とかなんですヨ!」
「メサイアだって歌うだろう?」
「そりゃぁ歌えるのはハレルヤコーラスがいいとこ。しかもお客さん誰も立ってくれないし!」
「そうだろうか?!King of Kings and Lord of Lords!ハレルヤ!ハレルヤ!それははまさにブリタニアの心だろう?!キミたち!」
「僕たちがアングリカンチャーチのヤンキーな聖歌隊員みたいに見えますか?」
「英国教会にアメリカ人はいないだろう?」
「それ、語法が基本的にかなり違ってますよ。そんなことより、今日は大流星群の日なんだから、大宇宙のハナシをしてくださいヨ。」
「ラジャー!マハラジャ!何の話をしてやろうか?」
「せっかくだから、銀河系なんていうのはどうでしょう?」
トーヤ君は三日月の食べがらをぽいと海に投げ捨て、べたべたした指をきつく舐めた後、ついに波打ち際にしゃがみこんでしまいました。そうして冷たい引き波の下でモザイクのように細かく敷き詰められた礫をほじくり出し、右手の母指球と対向する指できしきしともみしだいています。
「こちらのキミの言う『銀河系』の実体とは、いったい何なのだろう?知っているかね?」
「星や塵やガスの集まり…ただ、質量の占めるほとんどの割合はダークマターです。」
「よろしい。キミたちの立つ地球は、太陽系の第三惑星で、銀河系オリオン腕の内縁近くに位置している。さらに、我々の銀河系は近傍のおおいぬ座矮小銀河、さらにM33やアンドロメダ銀河などととともにローカル・グループの銀河群を形成する。そして、これらの銀河群100個ほどが集まり、おとめ座スーパークラスタをつくっている。」
「おとめ座スーパークラスタは、さらにどこのグループの中に入っていますか?」
「残念ながら、じょうぎ座銀河団付近のグレート・アトラクタやその背後に存在すると思われる超巨大な重力に吸い寄せられ、引き込まれているらしい。」
「・・・」
「・・・」
「終わりですか?」
「終わりだ。」
「じゃあ、次に銀河系そのもののハナシをしてください。」
「よろしい。それでは、はじめにまずキミたちの立つ地球は、銀河系を四分した場合、どの宇宙域に含まれているか…知っている人?」
「はい!…ガンマ宇宙域??です。」
「ちょっと違うな。正解はアルファ宇宙域だ。もしガンマ宇宙域に最短で行こうとしたら、ディープスペースのベイジョー星系からワームホールを抜けなくてはならない。」
「ガンマ宇宙域の危険情報は?」
「ガンマはドミニオンの支配領域だ。アラートのレベルは『航宙の延期をお勧めします。』の状態が続いている。」
「ガンマ宇宙域が銀河系の中で一番遠いんですか?」
「いや。一番遠いのは、デルタ宇宙域ということになる。通常巡航なら亜光速で飛んでも、一番近いセクターまで約3万年かかる。」
「デルタ宇宙域は、どんなところなのか分かっていないんですか?」
「ごく不安定なワームホールやボーグのトランスワープハブが通じている箇所がある。それに、ボイジャーが通過帰還したときの詳細な記録があって、どんなところなのか比較的よく分かっているよ。我々のアルファ領域や隣のベータ域とそんなに違いは無い。」
「危険情報は?」
「今も言ったが、ボーグが頻繁に出没する。アラートは、『航宙の是非を検討してください。』で、危険度ランクはそこそこ中位だ。」
「ボーグに出会っちゃったら、どうしますか?」
「出会っちゃったら、もうどうしようもないよ。ナノプローブを打ち込まれ、同化され、名前の代わりにアラビア数字で生命体番号振られてドローンにされ、以後、キミはボーグ共同体の一部として生きるだけだ。」
「えー?逃げたりできないんですか?」
「ボーグキューブから?…そりゃ無理だろ。もう、見つかっちゃったら、抵抗は無意味だよ。」
八 夜の横浜駅
夜の横浜駅9・10番線ホームです。白い樹脂で覆われた上屋が高く続く新しくなったプラットホームは、アリーナのように広大無辺で遠く長く、蛍光ランプの中庸な色温度の光が慎ましげに満ちています。
電車が行ってしまうと閑散としたプラットホームの虚ろに快い平安が静かにやってきます。「静寂」ではないのです。人とモノが居ないだけなのです。南東の方角から、港の音が低くしてきます。汐の匂いが吐息のように暮れています。西口のバス、タクシーや車両の喧噪。遠くの歩道をゆく雑踏のざわめき。けれども、ここではそれが遠い昔の鼓動のように響くのです。アオケン君がアキュア自販機のボタンを後輩たちに勝手に触らせて電話のフェリカ・マークをかざすと、ゴソゴソと籠った音の後に夜目のフロムアクアが落ちて黒いポケットの中でキラキラと光っていました。気をつけながらペットボトルの胴を両掌で圧して、立てたまま水を吸い出して飲むと何だか里心がついてしまうようで、ホームの全長を使って皆で大股無しの「グリコ・チヨコレイト・パイナツプル」を1回だけやりました。プラットホームの間口は存外に長く、まずグー勝ちばかりのトーヤ君の声が先に進んだ2人のところまで届きにくいという場面があり、ゲームの終わりはなかなかに訪れてはくれませんでした。
「ボーグにされちゃうのって、どんな気持ちなんだろう?」
保土ヶ谷側のホーム突端から戻るとトーヤ君が思い出してポツンと尋ねました。
「ボーグは人間を支配してやろうとか、滅ぼしてウサを晴らそうなんて思ってないらしいよ。」
「じゃあ、なんで人間を同化するの?」
「それが大切なお仕事だからさ。同化して、ボーグをもっと良い生命体にしてゆくんだ。」
「そうかぁ…ボーグも僕たち少年合唱と似ているね。」
「少年合唱団とボーグが似ているのかい?」
「だって、僕たちだって、団員集めのために歌ってるようなものだろう?」
「そんなことないさ。たしかに僕は合唱団のクリスマスコンサートを聞いて応募したけど、先輩の胸とかから出た針で身体にナノマシンを注入されてボーイアルトに改造…なんてことは、されなかったよ。」
「ボクは憧れのトナミ先輩に、きれいで張りのある声のボーイソプラノになる注射をブッスリと刺してもらうんだったら、痛くてもその方がいいかなぁ。」
「バカ言え。針で相手にクスリを注入して、結局自分のモノにされちゃうんだぞ!巨大クモと全く同じじゃないか。」
「巨大クモが注入するのは消化液だよ。」
「クモの消化液もボーグのナノプローブも、ボーイソプラノになるクスリも、結果は全くいっしょだろ?」
クモが消化液を入れておびただしい虫を食べてくれているおかげで、虫の数が整い、私たち人間は快適な生活をおくる事が出来ます
トーヤ君はそこで少しの間黙ってお昼の練習場にいたアシダカグモのことを思い出して考えました。団員たちは常日頃、練習場に飛び込んで来るミツバチを大切にするように言われています。どうやら、近くのビルで屋上養蜂が行われているらしく、トイレ休憩や練習の前後に窓を開けておくと大小のミツバチが彼らの歌声に引きつけられるようにしてやって来るのです。
「ミツバチは大切なミツ集めの仕事をしに来ているのだから、無碍に追い払ったりしてはいけないよ。」
譜面台の前で先生が話すと、キャーキャー大騒ぎしていた予科上がりの下級生たちは少しびっくりして真偽を確かめようとします。
「日本のミツバチはもともととっても大人しいんだ。働き蜂はふだんはせっせと飛び回ってミツを集めているが、自分たちの仲間が危ないと思っただけ自分の命を投げ出して相手を刺す。君たちだって、一生懸命に練習をしているときに誰かに追い払われたりつつかれたりしたら困るだろう?」
ミツバチが益虫であること。針に返しがついていることが、何を意味するのかということ。蜂球のこと。雄蜂のこと。働き蜂の短い寿命。
「先生…なんか、ミツバチって、僕らと同んなじですね。」
ミツバチの真摯な短い一生に自分たちの境遇が重なって見える高学年の団員の中には、2年生たちが漏らす邪心の無いそのひとことに涙ぐむ少年もいます。男の子らは、こうしてミツバチを邪険に扱わなくなります。羽音をたててやってきて、楽譜の間をふわふわと旋回する訪問者にやさしい声をかけてやったり、頭の上に乗せたまましばらく羽を休ませてやったり、どうしても鬱陶しければ「ここにはお花は無いし、俺たちも、今、一生懸命歌っているんだから、外へ行きな。」と言うだけで放っておくようになったりします。トーヤ君がアシダカグモを見て思い出したのは、そのことです。
「お昼に出て来たあのクモも、やっぱり僕たちと同んなじなんだよ。困った虫をいっぱい食べてくれて、一生懸命に仕事をしている。それなのに、5年生が皆で『潰しちゃえ!』って言ったでしょう?」
「おまえは、本当に優しい子なんだなぁ。そんなことで泣いたのかい?誰も潰したり、叩いたりなんかしてないよ。」
誰も他に何も言いませんでした。クモはミツバチたち同様に、静かに壁にはりついていた後、どこかへ行ってしまったからでした。
ホームの端に白いラムネのような粒が散乱し、蹂躙されて粉になってしぶいています。土偶の目の形は割線で、ベージュ色の半グラム程度のタブレットは、おそらく酒石酸ゾルピデムであるということが判ります。浜風にそよいで霧のように粉が男の子たちの身長に舞い上がり、彼らが一瞬の後にそれらを吸引するとオメガ1受容体が鎮静側にはたらくのです。すると10番線側のLED表示が突然明滅し、暫くを経て列車が入線してくるという表示になりました。アオケン君は「小金井行き」という明るいオレンジ色のサインを一瞥し再び驚愕して声を上げました。
「小金井だって!」
「そうさ。」
「小金井は、遠いよなぁ。」
「遠いよねぇ。」
「僕は中野に着いたらもう疲れちゃってだめだよ。」
男の子は中央線快速の車内で立ったまま眠ってしまった話をしました。中野や荻窪や三鷹だったら、地下鉄で行った方がいいのに。武蔵境に着いた頃、大学生の降りていった空席にへたりこんでしまい、あとはぐったりして動けなかったと言うのです。
「アオケン君、これはキミの言っている中央線の小金井じゃないんだ。東北本線の小金井だよ。」
「今は小金井に東北線が通っているの?」
「そうじゃなくて、小金井というのは栃木県のウツノミヤに行く途中にある駅だよ?」
「うそつけ!関東平野の北のはずれに小金井なんかあるかい?」
「あるんだよ!これは僕たちが野外イベントに歌いに行った武蔵小金井のことじゃないんだ。」
「じゃぁ、21世紀の横須賀線はとうとう宇都宮の近くまでつながっているの?」
「まあ、そんなもんだよ。これで寝過ごしたらきっと相当大変だと思うよ。気をつけなよ。」
「快速電車で寝過ごしても大変だったけどね。…ボクはあのとき八王子をちょっと過ぎて目が覚めた。」
横須賀線ホームの東の以遠は、既に鉄路もホームも砕石の軌道も上屋も何も無くなっていました。開けたコンクリの平地が夜の光を受け、桟橋へと伸びています。途中には星降る空のもと、青い星明かりをうけて発光し、桐箱のように置かれたジャパニーズ・ゴシックの駅舎がぽつりと建っていました。小さな方形の窓から鈍い白熱灯の明かりを薄橙に漏らしつつ海を迎えて佇んでいます。遠目にでしたが、埠頭の向こうには穏やかな丸いキラキラ輝く波頭があまたに光っていました。
3人はじっと海を見ていました。黙として、誰も口を開こうとする子どもはいませんでした。トーヤ君は、横浜駅前の突堤から覗き込む海が怖かったのです。そこには自分の上半身が写っているはずです。けれども疲れきった4年生の男の子には、ちりちりとした新しい自分の姿を見る勇気も野心も既にありませんでした。彼方にはMM21のプラネタリュームのような白い夥しい明かりがそれぞれ野方図に明滅を繰り返しています。鉄塔の形をした、内側におれた莫大な構築物がガーネット色の航空障害灯を半キロ間隔で輝かせながら970フィートの高みへと強烈に立ち上がっているのも見えました。清涼で心地のよい京浜の海端の夜。それでも、皆は明日のお昼にはまた糊のきいた開衿シャツの制服を着てどこかのステージで歌っているはずなのです。カネゴン君が「こぐま座観測」とレーザー刻印されたガラス板を胸ポケットの上からポンと軽く叩いて所在を確かめ、皺ひとつ無い瑠璃色の半ズボンの裾に中指の腹を押しあてながら、灼熱のベロマイクの前で「今日は僕たち少年合唱団のコンサートにおいでくださいまして、ありがとうございました!」と元気よく叫ぶ声も聞こえてきそうでした。
「今日はどうもありがとう。」
ついにトーヤ君も言いました。
「僕は、これからどこへ遊びに行こうかな?」
アオケン君がおどけて皆はまた静かに笑いました。
「明日、出演が終わったら、僕の家においでよ。おやつを食べたらいっしょに区民プールへ行こう!」
カネゴン君が言って、港湾の方に少しだけ視線を投げました。
トーヤ君はそれから、アシダカグモが安心のできる暗い臥所で小さな脚を伸ばし、今日一日の労を癒す静穏な眠りにつけるようにと願い、どこかの男の子へあげてしまったみずみずしい汁気たっぷりのオレンジが、どうぞ甘く優しく熟れてくれていますようにと念じて目を閉じました。けれども天蓋の星々や桟橋の岸壁に打ち寄せる波間に写った灯火たちは、細い優しい睫毛をしばたかせつつ、様々な波長の歌をひたひたとやむことなく嘯き続けていました。