だれにだっておたんじょうび

March 12 [Sat], 2011, 23:37



 午後2時28分。男の子は低学年用の小さな紺ベレーをちょこんと頭にのせ、吹き抜けの球体ディスプレーをバックに設えられたタラップへと導かれた。ずらりと肩を並べた隊列最前中央左寄りの定位置に収まっている。こぢんまりしたブレスを整えつつジャケットの両脇を掌で扱き下ろして、手にかいた汗を拭ったようにも見えた。そうして彼が指揮者の投げる視線をとらえて数瞬すると、何事かが突発し、少年の顔面はくしゃくしゃと崩れて笑んだ。部隊の少年たちもクスクスと鼻息を漏らして笑いをこらえ、最後に指揮の先生の頬が横にたわんで張り出したことが背中越しにも見て取れた。「いったい、この男は子どもたちに何をしたのだろう?」と不審がっているうちに彼の両手がキーボードの方を撫でて前奏が振り出され、リクたちはいつものように颯爽とオープニング・ナンバーを歌い出す。ステージを下りた息子にこの笑いの由来を聞きただすと、彼らが開演後あまりにも厳しいオッカナい表情で歌い出そうとするときに指揮者は「ヘンガオ」をして子どもらの面持ちを解くのだという。今日はどういうわけかリクの目を見据えた集中攻撃だったため、彼は目をつむって破顔し、周囲の団員たちもその様相に釣られたらしい。私たちの客席の背後で「かわいいー!」とどよもす一団がいて、小学2年生の親としてはニンマリとおもはゆい気持ちにならなくもない。プログラムが数曲すすむとソロや演出楽器の構成で隊列は解かれ、リクは背丈の小ささから組み替わるフォーメーションの位置決めのマーカーとして最後までそこに立ち通した。全国の男の子だけの児童合唱団の多くに2年生の団員が存在し、また「小学2年生のアルト」という希有の立場が決められていることも承知している。そこそこの活躍をしている2年生アルト。華々しいスポットを浴びる2年生アルト。お兄ちゃんがアルトだから弟も…というイージーな配属でまわった2年アルト。そして、本人も周囲の者も「これは先生方の厄介払いでしょう?!」と思わず判官びいきもしたくなる2年生アルト。リクの合唱団の同期の2年アルトは「先生がたからの厄介払い」の気配を感じさせつつも、赴任10ヶ月目でディジタル・アコーディオンのボタンを華奢な指で繰ってはじいていた。ロシア民謡のレパートリーでバヤン(バイヤン)を入れる都合から、彼にオファーが来たのだという。指名理由はフランス映画に出て来るアコーディオン弾きの子役に相貌が似ているからだそうだ。営利で運営されているリクの通う少年合唱団では、子役モデル家業よろしく「身と芸」でかかるご指名や挙用はざらだ。ほどほどに歌える6年生よりはバツグンに歌える1年生へと仕事が舞い込み、ジャガイモみたいな丸刈りの5年生よりは濱田龍臣クンみたいなふわふわパーマのイケメン5年生に圧倒的なご指名はやってくる。キーボードを弾くのならそこそこの上級生団員にも引けを取らないと変な自負をもって配役を待ち構えていたリクは、バヤンというロシア楽器がキーボードの無い「ボタン・アコーディオン」であり、ボタンの配列はピアノとは全く違っているということをもちろん知らなかった。プロも使うVアコーディオンのボタンにドレミが印刷されているなんていうのも無しだ。だがしかし、ちょっとした失意の中で年度後半を過ごしたはずの息子の行動は実に意外なものだった。「アコーディオンの少年」と無二の親友になってしまったのだ。もともと予科時代を同じ部屋で過ごした彼らだが、この選抜があってから二人は急接近。どこへ行くにも、楽屋のカバン置き場さえも一緒(…らしい)。26音72ベースのプラスチックでできた電子アコーディオンが小学校低学年の彼らにとって途方もない重量になることも、ボタンアコーディオンの殆どの音には鍵釦が2つずつあっていずれを弾いても同じ音が出ることも、2年生アルトがどちらかというと諦観の中で目立たぬようにこの役をつとめていることもリクは知るようになった。舞台がハネてステージを下りてもなお、
「今日は、『ストドラ・パンパ』のところで、アルトの方からずっとキミの声が聞こえていたヨ!」
などともはや互いの健闘を讃えあう仲になっているのだ。


 曲は観客にとって突然、鮮烈に行進曲調の「あおいそらにえをかこう」へと転じ、少年たちが後背に担った巨大球形ディスプレイには紺碧の地球が浮かんだ。天体をかい巻く白い雲の渦がリアルタイム転送され流動している。彼らは足拍子をとりながらひな壇代わりの階梯のステップを踏み、指揮者の投げるサインを確認して少しずつ隊伍を組み替えて行った。訓練を受けているのか足踏みらしい足踏みの靴音はしない。小さな軽い彼らがひたひたとつま先から禁欲的なロンリウムの床を躙り、互いにぶつからぬよう留意して腕を前後に振っているのみである。役らしい役も無いはずのリクがそうして先輩方に押されるように動き、カミ手隣の少年と背中合わせのポジションで歌いはじめたので、息子の情報管理官をつとめる私は彼らの蠕動を固唾をのんで見守った。

 ♪あしたは…

「エイ!ヤァー!」

 ♪あしたは

「エイ!ヤァー!」

最初は向かって左腕。2回目に右腕。2年生はその場足踏みをしながらサルスベリの支枝のような上肢を突き上げて呼号の声を発した。全員のボリュームでは過大に響くのか、最初の2回はリクたち第1メゾ系のソプラノとアルトの子どもたち。続く2回の発声を最左翼の大きなソプラノ団員と第2メゾの子どもたちが音圧を差し引いて叫んでいる。セミプロの児童合唱団らしく、演出がシンメトリーに見えるよう留意しているのだ。リクのパートの最後列に並んだ大きな団員軍団は、最前列に生暖かい頼り無さげな肩を配した2〜3年生の動きを細かく捕捉しているにちがいない。この少年たちの任務はシンマイ団員らの後部からぶっつけ本番の指示を繰り出すため、指揮者に向けて隊列の俯瞰データを送って指令を受け取ることであり、緊急の場合は様々な手段を講じて後輩たちへ危険回避の行動を仕掛けることだと聞いている。リクは入団テストの朝にソプラノ系の6年生たちから迫真の言葉をかけてもらい、数日後、内定通知をものにした。彼らは昨春卒団してしまい、今現在団員らを従え、同じ役柄を引き継いでいるのは今年の最上級生である。顔ぶれの中で我が家のボーイソプラノ現場研修生がご執心なのは小沢シオン先輩と伊藤ミツキ先輩。シオン先輩はオー!マイキー顔で、ぴしっとアイロンのかかった紺半ズボンから真っ白いプラスチック箸のような長い脚をのぞかせてスキの無い歌を歌っている。リクの「将来の夢」はこの先輩の血のつながった弟になることらしいのだが、(『義理の弟』でオケ?…まさか!?)周囲の誰も「それは無理」と言って忠告してやることもできず、6年生は数ヶ月後に確実に卒団して彼の前から居なくなってしまう。「…お兄ちゃん。」「…リク。」と優しく名を呼び交わすような甘美な日はついぞ訪れてはくれないだろう。一方のミツキ先輩は、客席から見ても常にシオン先輩よりおよそ1メートル低い位置にスタンバイしており、事あらば下級生に直接手を伸ばし指示する役を担っていた。普段楽屋口で見る彼はゲーム近眼で眼鏡をかけているのだが、ステージの姿は裸眼以外の顔を見ない。きっと、隊列もなるべく前の方が指揮棒も見えて都合が良いのだろう。RPGゲーム経験の極めて浅い小2のリクが、DSドラクエのダンジョン攻略法を小さい子にも判りやすい口伝のマップとともにそっと耳打ちして教えてくれるミッキー先輩のことが痺れるほど好きなのも得心がゆくというものだ。

 
 彼らにとってステージは常に薄明だ。偵察衛星からサーチした朝まだき北朝鮮のごとく輪郭を持った影がそこにスカイラインを持って沈み、照りつける仮設照明の明度は子どもらの心の動きを殆ど浮かび上がらせてはくれないのだった。低学年団員の過半は指揮者とのナビゲーションのやり取りや周囲・背後に感ずる仲間の気配で「オートパイロット」にたよって飛んでいる。目的地までの彼らは目だけが冴えて蒙昧で、それなのに驚くほど目立つひな壇の最前列を占めていた。心の輝度は落とされ、絞られた音量の中でオンエア中の自分たちの歌声が籠った音のスピーカーからモニターされている。
 すると、突然、リクの背後の団員たちの視線にあからさまなアラート伝達の動きがあった。その場足踏みで身体の角度を変える度に上級生の何人かがチラチラと目で警告の意を伝えはじめている。華奢な胸郭の内側で警報音がピーピーと細く鋭利に異常を伝え、飯粒大の赤ランプが明滅を繰り返した。
「横向きのまま話をする。こちら側にブレーク!」
「身体を回すなんて余剰パワーは無いよ。失速する。」
「コリジョン・コース!コリジョン・コース!お前ら、ぶつかるぞ!」
「何だよ?!下向いてコトバで言えよ。」
「お客さんの前じゃムリ!ミッキーが囮になって集中砲火を受けろや!」
「だから、無理だってば!」
「話せないだろ!何かやれって!」
「え”〜っ?」
その時、リクの2人置いて右隣のメゾの3年生が不意にくしゃみをした。客席の目立った反応は無かったが、視線は一瞬そちらに集まった。少年たちが正面を向き小声で緊急事態を伝え終わる頃には射程圏外へ出ることができる。
「11月生まれ!誰?!」
「チャンピン君とクリちゃん」
「チャンピン君、クリちゃん、休みッ!」
彼らが歌うふりをしながら素知らぬ顔で交換できた情報はそこまでだった。品川(弟)が話し声に気付き、あからさまに後ろを振り返って見てしまう。
「前向け!前向け!」
昨秋、アルトのフロントラインから1メゾの3列目に引っぱり上げられたスーパー美少年ハルカが眉間に皺を寄せつつ小声で注意の声をかけた。初めてのお客様には何と集中力に欠けた少年合唱団だと思われた事だろう。
念入りでケナゲな短いオブリガートの後、1メゾとソプラノの切れ目にあたる最前列から、前触れも無く真っ赤な唇をピカピカ光らせた小さな団員が一人飛び出してマイクスタンドの際に立った。ピンチされた黄色いシールのワイヤレス・マイクのヘッドに向け、顎をさしあげて歌い始める。

 ♪ほしの ランプに ひがともるー
  ちいさな ちいさな ゆめー

曲中の最も可憐な愛くるしい部分を優しい嗄声で歌っていく。
「ポイント通過!あと3分以内で降下エリアに到達!」
「先生!指示をください。このままではレパートリー全体が倒潰します。」
6年生団員たちの無言のコールがついに指揮者の視線をとらえはじめる。ワンツー・どんメドレーの「あおいそらにえをかこう」はそのまま休み無く「だれにだっておたんじょうび」へと流れることになっていた。「…おたんじょうび」の演出で、サンバのリズムに乗った誕生月のコールの後、自分の生まれ月に各自が「♪ハーイ!」と元気に手を挙げて立ち上がり、思い思いのポーズをとることになっている。5月生まれのリクはウルトラマンの映画で見た「ジャンファイト!」のトレース・アクションをして見せていた。ただ、11月に生まれた団員は、夥しい少年たちが群れているはずの今年の本科生の中に実際たった2人しか居なかったのである。

 ♪あしたは

「エイ!ヤァー!」

いよいよ最後の勝どきが上がり、曲は勢いを増してコーダへの追い込みが始まった。団員らは跫音をたてぬようさらに注意しながらふとももを高くあげて腕を振り、息子は今度は低声側に向き直って声を出した。わずかに撓んで弓状になった隊列のアルト側最前線の子どもらと目が合う。リクは大好きな「アコーディオン少年」君を直視するなり、口の形で必死に何かを告げようとしている相手の形相を見て驚愕した。
「なに??」
「・・・!!」
「なに??」
「・・・!!」
2年生アルトは2回、同じメッセージを繰り返した。ピアノ伴奏がついに勢い余った後奏を奏ではじめたとたん、彼は『2001年宇宙の旅』の船載コンピュータのように戦友のメッセージを一瞬で読唇した。

「キミが11月生まれをやるんだヨ!」

楽屋代わりに減圧されたカーゴデッキの様子を息子は思い出した。入時間の関係から団員スタンバイの出足は鈍く、乾ききった冬の薄曇りの昼の博物館で落ち着く間もなく彼らは荷物収納の指示を受けた。
「クリちゃん、いるかぁ?カバンが無いぞー。」
指揮者の質問にマネージャー嬢が介入する。
「先生。欠席です。」
「そうかぁ。クリちゃんが欠席とは珍しいな。…次は、チャンピン君。どこ行ったぁ?黙ってどっかへ遊びに行くなよー!」
「先生。チャンピン君はお家から欠席のメールが来ています。」
再びスタッフが口を挟んで告げた。慌ただしい集合時間に団員の誰もこの事実を質さなかった。だが、指揮者の目前にくっついて行動することの多いリクは2人の出席者の名前を拘泥無くすぽんと記憶した。

「キミが11月生まれをやるんだヨ!」

友人のメッセージを受けるなり、ミリタリーな味付けに満ちた「あおいそらにえをかこう」は終止線を超える。最後の八分音符に合わせて少年たちは前方へと向き直り、胸を張ってバチッと敬礼をしてキメた。幼・小低学年向けの歌が少年合唱団のキリリと引き締った舞台へと華麗に変容する瞬間。教えられていることを守ってリクは「1…2…3…」と頭の中で数えて0.5秒で腕を下ろす。右目尻に当てた右手指の爪を反らせた指関節の先に感じながら、彼は指揮者に

「『だれにだっておたんじょうび』の11月の『ハーイ!』は、ボクにやらせてください!」

と目で訴えかけた。役らしい役もソロの配当もMCも無く、歌って家に帰ればクラビノーバでソナチネをさらうだけの2年生の男の子。彼は本科生としての自分の度胸をここで試してみたいと思ったらしい。だだ、指揮者は「♪11月生まれ〜」の演出担当が全員欠席であることに全く気付いていないらしかった。上級生が浮ついて何やら目配せしあいつつ伝えるメッセージや、一方で目をキラキラさせヤル気まんまん視線で何事かを訴えかけてくる眼前の2年生ソプラノを彼は無視しようとした。高声の最左翼に立つキャプテンが次の曲へ移る寸前に最優先の有事信号として繰り出した「次の曲を取りやめますか?…次の曲を取りやめませんか?」の注進を意味不明のものとして却下した。
「ウナ、アボートの判断を請う…」
「アボートの指示を請う!」
敬礼のポーズを解いたひな壇の少年たちは、ぴりぴりしながら指揮者のハンドサインを待った。次曲の落下傘部隊は開いたハッチからステージ面へ飛び降りようとしている。
「プログラム中止(アボート)の指示が下りないっ!」
彼らがステージ本番中に指揮者のアボート指令を受けるのは天変地異や事故等、類い稀なる危機的状況のときだけだ。1年に1回あるか無いかという頻度でしかない。リクが前回この指令に遭遇したのはゲリラ豪雨の野外コンサート。ただし息子はそのとき未だ団員ではなく、「来春入団テストを受ける」客席の幼稚園生の立場だった。突然降り出した土砂降りの雨に観客は全員深い屋根のある場所へと命からがら脱出し、指揮者が果たして本当にアボートのオーダーを繰り出したのかは誰も見ていない。

「コンティニュー!コンティニュー!中止が出せるのは、ステージでは先生たけだ。Goだぞ!Goだ!」
ゼロ地点を示すフラッシュライトの明滅がパチパチと極限に達し、入れ替わりにグリーンのゴーサインが点灯した。彼らはエイッ!とばかりハッチを蹴り出して、ステージ範囲ぎりぎりのフロアへと散開した。
「『♪11月生まれー!』のコールを振るのはオレたちなんだゾ!」
「声が消えたところでフッと間隙のときが来るのさ。」
「そこで確実に全てが終わる…。」
視線で合図しあっているソプラノ6年生とメゾの5年生は現在、小学生デュオの『葵と楓』にハマっている。紀尾井ホールの楽屋口から吐き出されてきた彼らが、リクたち下級生の好奇の目そっちのけで「恋のフーガ」や「カナダからの手紙」をフルコーラス延々とソレっぽくノリノリでハモっていた姿が忘れられない。つたなさも残る男の子独特の低めの声でここぞとばかりこぶしをきかせ、自慢のノドを一意専心、昭和歌謡へと献じている。見てはいけないモノを見てしまったような悪夢のごとき光景だった。彼ら、自称『葵クンと楓くん』ユニットはすなわち同級生と変わらぬ年齢の少女たちが手がけたCDの歌謡ナンバーを今、血道を上げて耳コピーで歌いまくっているらしいのだ。ショタ属性ド真ん中の歌の道がロリコン趣味で昭和オタクなんて、いやはや屈折しすぎた少年時代である。
「…一応、みんなに伝えるぞ。最前列の連中には、どうやって教えよう?」
「あいつらはいい。放っておけ。どうせ2年坊主なんかに緊急事態が判るはずも無い。」
気色ばんだ上級生たちはホンバン中、絶対触れてはいけない紺ベレーの正面クラウンをぴたりと頭頂に押しつけて帽子の中の湿気を抜き、ポージングに備えた。黒目を下に寄せ、周囲の団員へさかんに何か言おうとする者もいる。短いズボンに薄っぺらなソックスの冷たそうな下半身だが、歌い通しで動き詰めの彼らは十分に上気して頬をまだら赤に染める者さえいた。汗ばんだ下着のシャツやブレザーや革靴など、リクの普段着姿から推し測るに団員の身につけるコスチュームの総重量は決して軽微なものとは言い難い。

  
 彼らが心ここにあらずの数瞬を過ごしている間にピアニストは前触れも無くパルティードアルトのサンバのリズムをにぎやかに刻みはじめ、メゾ後列に陣取った「小林翼」似の6年が慌てて口にくわえたアピート・ホイッスルを♪ピーーーペーペペッペピーッ!と大きく吹き鳴らす。呆気なく「だれにだっておたんじょうび」の前奏が始まってしまう。楽の音がステージに満ちると、リクたち少年合唱団員は反射的に臨戦態勢へと導かれ、高い歌い出しのピッチを小さな脳幹へインプットしなおしたように見えた。

 ♪だれにだって やってくる!イェイ!

わずか3分間の曲の中に9回も登場する「イェイ!」のコールは『ワンツー・どん』の主人公どん君の決まり文句だ。15年も前に使命を終え、退役した教育番組。げっ歯類の血筋らしき愛くるしいクリーチャーが「イェーイ!どん・くん・でぇーす!」と毎週のオープニングで叫び続けた。1974年から1996年までの22年間、全国の小学校に在籍した延べ4千万人にのぼる1年生が、音楽の時間のブランウン管テレビの前で、闊達な「イェーイ!」を聞いた。1989年、番組から発表された「だれにだっておたんじょうび」全体へ符丁のようにちりばめられ、今日の子どもたちに歌われる夥しい回数の「イェーイ!」は、『ワンツー・どん』のどん君が21世紀の私たちへと残したかつてのにぎやかな小学1年生たちの蒸れるような体温の遺贈を思わせる。アンゴルモアの恐怖の大王さえ避けて通った西暦2010年代の今を生きるリクたち合唱団員の誰も既にそれを知らず、客席で聞く我々の多くも事実を穏当に失念している。彼らの「イェイ!」が何故「イェイ!」で、歌の中に頻出するイメージがなぜ「誰にだって」へ拘泥しているのか。楽譜の歌詞カードのデフォルトが、なぜ「どん君」や「おねえさん」のお誕生日と記されているのか。団員らはこの瞬間に「♪ロウソクふきけしハピバスデ〜♪イェ〜」と連桁の目の詰まった十六分音符を細かい音素で発しつつ、倍音の中で韻を踏む。彼らは歌詞の来歴にまるで不案内のまま「今」の歌を一心不乱に果敢に合唱するのみだ。帰宅後に小さなミケンに皺を寄せつつ自ら「本日の出演のダメ出し」をぶつぶつ言っているリクに「いったいこの曲のどこが難しいんだ?」と尋ねると、通団服を脱いでごく普通の小学2年生の男の子の姿に戻った息子は「…そんなの当然じゃん」的な表情でカバンのナカミをごそごそ引っ掻き回し、後片付けを続けながら、
「同じ『♪おたんじょうびー』っていうフレーズなのに、『びー』で伸ばす長さが四分音符のところと付点二分音符のところとタダの二分音符のところと、全音符プラス四分音符の5拍のところがごちゃごちゃにあって、間違えちゃイケナイから大変!」
なのだという。
「そんなの、まわりの皆に合わせて歌っとけばイイんじゃないか?」
と悪い大人の処世術を教示しようとすると、
「だからー!それじゃダメなんだよ。少年合唱っていうモノは!一人一人が1曲1曲をカンペキに歌えるようじゃないと、全員で歌った時に、結局デタラメな歌の集まりにしかならないの!まったく、コレだから最近のお父さんたちってのは…!」
ものすごい慳貪な舌打ちとともに手荒な攻撃を受ける。息子らは畢竟、合唱団のレッスン場で毎週ビシビシと先生方からご指導を受け続け、ホヤホヤの1年生団員相手に全く同じ文句を吐いてカテゴリー5級ハリケーン並みの先輩風を吹かせているに違いない。歌が1番カッコから引き返して2番になると、×音符に充てられていた「イェーイ!」は「おめでとう!」という5音節もある連写モードの言葉に差し変わり、練習場でこちらも「一拍の長さの時間で5文字の言葉を叫ぶのだから、発音はハッキリ・クッキリ・首尾よく・正しく・美しく!」などと聞き及ぶように口酸っぱく指南の声がかかっているにちがいない。普段、もにゃもにゃと話すのがデフォルトになっている今日の子どもたちにとって、曲は格好の訓練材料でもあるらしいのだ。

 ♪きょうは〜、宗ちゃんの〜 おたんじょうび〜 (おめでとう!)

色のある伴奏とともに彼らが明らかなトリオ部へのブリッジへ声をつなぎ、ソプラノ中段の端からほっそりしたアトピー気味の少年が滑り降りてきた。スタンドマイクの30センチ至近に馳せて待ち設ける。彼はマイクロホンの金属グリルに口元を寄せ、間奏のタイミングぴったりに収まる長さでセリフをまくしたてた。

「会場のお友だちは、何月生まれ?お誕生日の月が来たらボクらといっしょに、大〜きな声でお返事してネ!いくよッ!」

「おかあさんといっしょ」のひなたおさむお兄さんよろしく「会場のお友だち」に声かけしている合唱団員は、5年高声の中井宗太郎先輩だ。直前に「♪今日は、宗ちゃんの お誕生日」という歌詞が出て来たのははなはだ楽屋落ちのネタだったのだ。趣向を知っているのは団員と私たち団員保護者だけ。

 ♪さあ、1月生まれー!

心ここに在らずの上級生らを後背に封じつつ数人の団員とともに彼は「♪ハーイ!」と澄んだ声をあげ、腕を耳に付けてピンと挙手をした。ただちに合唱団が♪タ・タ・タン と、合の手に手拍子を3つ入れ、1月生まれの団員らはそれぞれ思い思いのポーズをとる。ラッパーのポーズを2つも繰り出して見せている子がアルト最前に居る。

 ♪2月生まれー!

「♪ハーイ!」と返事をしたのは4人ほど。隊列は奇数月と偶数月の進行をさり気なく明確に歌い分けている。少年たちは再び拍子を3つ手打ってときを待った。観念してしまっているらしい上級生。一点を見つめて顎の上がりかけた2年生のリク。

 ♪5月生まれー!

応じる呼号の中に男の子は含まれていなかった。心の周囲の荒野にレッドフレアが次々と打ち上がりはじめ、私たちのグラスコクピットの上部にふわんと作戦決行のシグナルが灯った。体重わずか25.2キログラム、胸の薄い小さな未成熟の身体の中のいったいどこに張り裂けんばかりの膨大な勇気を隠し持っていたのだろう!5月生まれのリクは、自分の誕生月のコールを上気した目で鋭利にパスしたのだった。周囲の誰もおそらくはそれに思い至らない。団員の多くは締念の中で歌の放棄される瞬間を思い、なげやりな演唱を続けるのみだった。
「来るぞ!」
「…知らねーよ。」
「しょせん、万年最下位の弱小少年合唱団。」
「オレのせいじゃ無いし。」
「マジ、ヤバくね?」
「こんなののどこが『天使の歌声』だよ。アホらし。」
「あぁあ〜。あんなに練習したのに、ヤッちまった…」
5〜6年団員たちの顔にそれぞれの自堕落が見て取れた。だがしかし…

 ♪11月生まれー!

 ♪はぁーい!!

これは、どういうことなのだろう?瞬間、4人の人声が高らかに響いた!…2人の6年生。見習いの2年生。大人の男声。ソプラノ上段のオー!マイキー顔の少年は、叫ぶと同時にぴしっとアイロンのかかった紺半ズボンからのびた長い脚を桃色のプラスチック箸のように染めている。彼の前方1メートルの位置にひかえたゲーム近眼のヤブニラミの団員は、右腕をピンと耳に当てながら気持ちの良い返事を発した。声をあげた男は指揮台の前で客席に振り返り、ニンマリ笑みながら軽くガッツポーズを作ってみせた。…そして、男の体格に隠れるように立つ2年生の男の子は脚を大きく踏み出して腰を落とし、ジャーンファイト!と迫真の見得を切った。団員たちは一瞬ギョッとして目を剥き、3つの拍手をしながら黒目を回して声の出所を確認しようとした。あからさまに表情を崩し、何かを言いかけようとした団員たちも。こうして演出が危急の局面を跨ぎ超えると、曲はごくありふれた幼児向けのナンバーに帰参してしまう。

 ♪きょうは おねえさんの おたんじょうび

それから80年代ふうのきっぱりとしたビーデ・コーダからリフを返し、

 ♪だれにだって おたんじょうびー …イェイ!!

と、曲を閉じる。皆は最後のシャウトに乗せ、ポン!とその場で軽くジャンプすると、足を下ろした場所で再び自分のポーズをとって3秒間のホールドをかけた。このステージに遭遇した科学館の子ども連れは大変喜んで、一緒に「イェイ!」と叫んでいる小さな女の子もいる。満ち潮のような拍手が展示ホールの仮設舞台にたった。2年生のソプラノ団員は柔和な黒曜石の目でキラキラと指揮者の顔を見ている。アコーディオンの少年は隊列のアルト側で注意深く団員側を見ないよう、客席の遥かを望景しニコニコしている。臨時の「11月生まれ」を演じた2人の上級生は、顔を伏せつつ客席に判らないようホッと胸をなで下ろす仕草をした。

   
 ステージを下りて来たリクは体中からもうもうと汗ばんだ体熱を放射しつつも肩を落とし、うつむきながら一言、
「ごめんなさい…」
と、私に頭を垂れた。小さな体が、くしゃくしゃに丸めたポリ袋のようにしなだれた。
 終演後、指揮者からはスタンドプレーのお咎めが無かった代わりに、グッジョブ的な持ち上げられ方も何も無かった。解散前、手短なミーティングで少年たちがただ一つ新知識として受け知ったのは、先生が本当に11月23日生まれということだけだったようだ。うかがい知れるいじましさに負け、我知らず私の口から慰撫の声が出た。
「リク…本当に、おめでとう!」
団員はちょっと哀れな表情をして春待ちの一歩を踏み出した。
「何が、おめでとう?嘘をついたのに、おめでとう??」
「お誕生日、おめでとう!」
「忘れたの?僕の誕生日は、5月でしょ。ごめんなさい。ステージでみんなに嘘をついたの。」
世界中の誰にだってきちんとお誕生日がやってくるとは限らない。
「違うよ。今日はステージでついに少年合唱団員、松田リクが生まれた日だよ!リクにだって、お誕生日…だよ!」
周囲の何ぴともこの会話に頓着無く、団員らはそそくさと帰途に就く。膨大な息と声とを歌唱のため吐き出した代わり、かえって身重で鈍重になった身体。汗でこってり湿ったユニフォームを収め、持ち重りのする衣装ケース。リクは結局、何を言われているのか、よくわからない。入団テストが終わり、予科の内定通知の届いた2年前の春、下校するなり母の表情を見て察した息子は玄関先で「初めまして!僕は少年合唱団の松田リクです!」と大声で叫んだそうだ。
 衣装カバンをひったくる。持ってやって、肩越しにヘンガオをしてみせる。団員はしばらく私を凝視していたが、数瞬、素敵なえくぼを浮かべ茜色の顔をくしゃくしゃ崩して笑んだ。少年合唱というモノは、一人一人が1曲1曲をカンペキに歌えるようでないと、全員で歌った時に結局デタラメな歌の集まりにしかならないのだそうだ。

Passepied  パスピエ

February 24 [Thu], 2011, 21:56


 リビングにふんわり満ちた白い光を通し、愛嬌たっぷり軽いタッチの左手のオスティナートが聞こえてくる。ポコポコ、ポコポコ、ポコポコ…柔らかい小さな指がおもちゃのゴムハンマーのようにスタッカートのついた鍵盤をたたいている。2年生の終わりの男の子の3つの指先がクラビノーバのキーボードの表層を自動織機よろしく跳ねまわる様子が伺い知れた。窓の外には冬枯れの花壇。冷え切って火星人のミイラのように痩果の蝕肢を広げたキバナコスモスを立ち枯れたままにしているのは、若いピアニストの仕業だ。「あちこちにたねをちらして、新しいなかまをふやしていく」様子が見たいのだという。彼が雑草種族の子孫繁栄に興味を持っているのは、国語の教科書の上巻でタンポポの種子散布について勉強していたからだった。夏未だき日々、合唱団の本科にパスしたばかりのボーイソプラノには日曜祭日の出演呼び出しとて今だ無く、カウチで雑誌をめくりながらコーヒーと日曜午後のWOWWOW海外ドラマをごた混ぜに楽しんでいた私の対面へと割り込んで来て、
「オンドクのシュクダイを聞いて読みチガエが3つより少なかったらサインかハンコをください。」
という。依頼の文尾がなぜ「丁寧文」なのかというと、どうやら学級担任が「こう言ってお願いするんですヨ。」とあらかじめ示したヒナガタの文言通りに毎日家族誰かの前で復唱しているということらしい。
「はい。わかりました。それでは、ゆっくり、はっきり、聞いている人の気もちを考えて音読しましょう。せつ明文は、わかりやすく。もの語文は、とう場人ぶつの気もちになって読みましょう。く読点に気をつけて読めるといいですね。」
私は『音読カード』の最下段にリソグラフで印刷された「保護者向けのヒナガタ」の文を聞く息子の気持ちを考えてゆっくり、はっきり、読んだ。句読点には、とりわけよく気をつけて…。読点は、「ウ」で、句点は「ウン」と心の中で唱える。
「それでは、読みます。」
男の子はクラスの黒板の横に掲示されている「よいしせい(よむときのしせい)」の掛図の少年の写真と同じモノゴシで、ソファーとイサム・ノグチの間隙の純白のシャギーラグの間に「バーニング・ストリート」(!)とカリグラフィー体の英語でプリントされたソックスのつま先をつっこんで立った。
「『たんぽぽのちえ』うえむら としお!」
著作権者の氏名にストレスをかけ、明快に聞かせようとするクセは、合唱団のMC指導の影響なのだろうか?
 いずれにせよ、今日現在のキバナコスモスの痩果種子の全ての先端には対になったカギ状の突起がキッチンの窓からも認視できる。我が家の花壇管理担当の幼生ホモサピエンスさまがその傍を不用意に歩いてくださらない限り、彼らの子孫繁栄の道筋は、底冷えの東京の空の下、チルド保存状態のままペンディング中であるといえた。彼は今、少年合唱団で2年生なりのそこそこのポストを拝領した<「ボーイソプラノ」現場研修生>というステータスと、<なんちゃってグレードのマユツバな「ソナチネレベル」のピアニスト>という二束のわらじをはいていて、自宅の花壇に向ける熱意も視線も足も時間もこの程度ということらしい。


 リビングのクラビノーバの永久運動にいかにもドビュッシーらしい風変わりでクールな主旋律が飛び乗って、世紀末のテクノミュージックや北欧映画のサウンドトラックの趣きだ。彼が弾きたいスピードはせいぜい「アレグレット・マ・ノン・トロッポ」ぐらいであろうと予想はつくのだが、聞こえて来る演奏のテンポは未だそれに追いついていなかった。ただ、タッチには冒頭からスタッカートとテヌートとスラーとクレッシェンドの表出がハッキリと聞き取れる。左手の執拗な音形の繰り返しは終止線のこちら側…、右手に移るものから単純なアルペジオのパターンに移行するものまで(小学2年生のカウントによれば)合計252回にものぼり、そのうちスラーのかかっているものを除くと152回、…のべ608個もの八分音符のスタッカートを指先ではじくことになるらしい。
 先週末のチャリティーコンサートの出演の帰り、男の子が通団かばんの側に突っ込んで最近肌身離さず持ち歩いている『ベルガマスク組曲』の楽譜を私たちはマックのテーブルに広げてながめた。下唇をテコの支点にしてフレンチフライを折りながら、…ページの端を食用油で汚さぬよう私は留意してそれを捲った。左手には旗のつながった連桁音符のほんの冒頭16個だけにスタッカートの記号が芥子粒のごとく打たれ、ピアノの先生が記した赤鉛筆の下線の上にフランス語らしきものが小さく印刷されている。和訳=「以下同様」…。「IV. Passepied」というタイトルのついた冒頭ページに引かれた赤線はそれ一本きりだった。ハッピーセットのガンバライドカード&シールはトレイの端に恭しく立てかけられている。息子はカードのパラメータに視線を落とし、スキャニングのときを夢想しているようだった。
 この曲のどこが面白いか?と問うと、
「ホーンテッドマンションとかに出て来そうなセンリツのところ。」
小学2年生の口をついて出た「センリツ」が、「旋律」より「戦慄」のイメージに近かったので私は笑った。十字架のくっついている黒塗りの古風な棺桶のフタがギギィーと音をたてて開こうとしている。クモの巣張った幽霊屋敷のサロンで朽ちかけたアップライト・ピアノがぼろんぼろんと奏でているおどろおどろしい動機は楽譜3ページの1段目から現れている。冨田勲ならゴシック趣味なチェンバロと夜中の口笛おじさんの響宴といった類いのアレンジだ。男の子は身の毛もよだつおぞましきその場面をニヤニヤと楽しみながら弾きまくっているのだった。だが、質問を転じて「どうしてこの曲が好きなの?」と尋ねると、
「三連符が全部カッコいいから!」
と即座に応えが返る。サンレンプの下に付いている殆どのアルペジオが「属7の和音」なのだとも教えてくれる。お化け話の大好きなごく普通の小学校低学年の子どもが、見習いピアニスト兼少年合唱団員へと華麗に転成する瞬間だった。小さい彼は初代印象派コンポーザー代表クロード・アッシル・ドビュッシーがこれ見よがしに私たちへと投げた三連符の課題を殆どセンスというか感覚で弾ききっている。「曲の中でお客さんが一番聞きたい、楽しみたい部分」を練習段階から感知してたっぷり聞かせようとする独特のスタンスは、合唱団の毎週の練習と出演を通じ手堅く身に付けられているのである。彼らはそれを楽しみにステージへと上っているらしいのだ。こういうとき、わたしたちは「いったいこの子は誰に似たのだろう?」という独特の感慨をもって息子の温かい呼気を感じてしまうのだった。


 昨年の年が明けた3学期。生活科のお正月と節分の単元を終えると、1年生の学校での日々は一挙に学年末の「6年生をおくる会」と新年度4月の「1年生をむかえる会」の出し物練習へと流れはじめたようだった。1年生の「…おくる会」の担当は「思い出のアルバム」の歌のプレゼントと全員で叫ぶカンタンな「呼びかけ」だけで、ピアノ伴奏は低学年音楽専科の先生が弾くのだという。出番らしい出番も無い少年は帰宅してから、耳コピーで覚えたらしい「いつのことだか、おもいだしてごらん…」のピラピラした前奏をクラビノーバで適当に再現して何度か歌っていたという記憶がある。3月に入ってから、兄弟学級の6年生を教室に呼んで食べる「さよなら給食」の出し物に、彼は歌やピアノではなく手品を選んだようだった。練習のウェイトは「…おくる会」から早速こちらへと移ってしまい、日曜日の午後の私のWOWWOW鑑賞タイムには、「音読カード」のチェックに合わせてデパートのオモチャ売り場で買って来たらしいハンカチロープやフラワーマジック、「不思議な新聞紙」とメインの「シルクセレナーデ」の予行演習の闖入を受けるようになった。ドーナツ盤のレコードの穴に様々な色のシルクハンカチを突っ込んで袋から引くと黒いEP盤がカラーレコードに変わる。ステージ経験がわずかにあるとは言え、小さい手の小学1年生がこんな見た目に手の込んだマジックができてしまうというのは驚きだった。どうやら団員保護者(母)が丁寧に説明書を読んで仕込んだらしい。ソファーとイサム・ノグチの狭間で試技を終えたチビ・マジシャンは、どこかの少年合唱団のようにスッと右脚を折り出してボウイングし、お辞儀をかけた。
「リク坊の持っているドーナツみたいのは何だ?」
「何か、うーん…ディスク??ですかぁー?」
数年後にはおそらく歌を歌いレコーディングなどさせてもらってナンボの生活を送る事になる(…親としては少なくともそのぐらいになってもらうよう祈っている)我が家のボーイソプラノ予科生は、それが「レコード」だということを知らなかった。「さよなら給食」で持てなされる側の6年生の知識も似たり寄ったりのものだろう。正体の判らないブツのメタモルフォーズを見せて卒業生を送り出そうというのだから小学生らしいやや乱暴な企画である。それでも彼らが学校で使う視聴覚器機はEPレコードに負けず劣らずローテクなものであることが息子の話から判明していた。児童会幹部から「6年生をおくる会」の練習用に各クラスへ配布されたカセットテープ(!?)を学級の朝の会と帰りの会で「ラジカセ」に突っ込んで再生し皆で歌うという。学校公開でリクのクラスを覗いたとき、生活科の時間にプレイボタンを押して子どもたちにタンポポの歌を歌わせていたのは、「ラジカセ係」の小太りの男の子だった。フィリップス式コンパクトカセットの需要が21世紀を10年も過ぎた今、首都圏の教育現場になおも確固として存在し続けているのは仰天である。それでも、学級の音楽活動の趨勢が「1年生をむかえる会」の練習にシフトすると、カセットテープの出番は突如として終わってしまうらしい。


 「…むかえる会」というのは、体育館で入学式が終わり新入生が教室に入る前に行われるコンパクトな歓迎アトラクション。リクの入学式のときも、前年の新2年生が「小学校って、こんなに楽しいところだよ!」というコンセプトの出し物をピッカピカの1年生全員&新入生保護者の前で披露していた。今回のメインキャストもその春に2年生へと進級するリクたち当時現役の1年坊主であり、歌ったり踊ったり演奏したりするのはカセットテープの代役ではなく他ならぬ彼ら自身であるというわけだ。学校の節分集会の日の翌日の学級の時間に早速綿密なキャスト割があって、ピアノ伴奏もボーイソプラノ独唱(?)も出来るリクは、担任の先生から事前に「どっちをやりたい?…先生は、リク君にピアノを弾いて欲しいんだけどなー」と、かなり誘導的な打診を受けていたが、結局、最終的には両方をつとめることになった。学年末の午前授業の日、下校前に体育館でひな壇を組んで公開リハーサルを行いますので、保護者の皆様もぜひおいでください!というプリントが配られ、チャックの壊れかけた「れんらくちょうぶくろ」からそれを引っぱり出して私たちに手渡しながら、リクは「『1年生をむかえる会』でボクたちが新入生に見せるのは、『小学校で1年間勉強すると、こんなに歌も合奏も呼びかけも立派に上手にできるようになります』ってことなの。でも、ホントはみんな、最初からできるんだけどネ。」と、苦笑いするような表情を見せた。子役、子供モデル、キッズ・ダンサー、バレリーナ&バレリーノ、そしてバイオリニストやピアニストやドラマーやリクのような児童合唱団員などの子どもミュージシャン…と、学区の地域がら、芸能関係の様々な仕事に携わる少年少女たちを大量に抱える学年の子どもたちは、入学してから半年も経ないうちに妖しげな頭角を現し、秋の学習発表会のステージでは、音楽発表と劇発表の両方で5〜6年生のそこそこの出来のステージを完全に食ってしまった。生活科の単元関連でご招待した地域の老人会のお年寄りたちを感動のあまり号泣させてしまったり、合奏に客席の手拍子がついてしまったりと、目立ちまくること限りない。
 「1年生をむかえる会」の保護者向け公開リハーサル。冒頭のMCは、

「1年生のみなさん!ご入学、おめでとうございます!」

という文言。最初から最後までホンバン通りの進行であるらしい。マイクスタンドの前に立つMC児童の姿がいかにも手慣れていてプロっぽい。彼女はけっこう名の知れた児童劇団に所属している子役さんだと後から聞いて知った。絶妙のタイミングで1年生用の帽子をかぶり、黄色いカバーのついたランドセルを背負う新入生役の子どもが数名現れ、
「これから、学校の1年間を紹介するヨッ!」
と叫ぶのをきっかけに、バックの合奏チームが「1ねんせいになったら」を演奏開始だ。新入生に扮していたのは新2年生ダンサーたちで、ランドセルのCMばりにそれぞれが得意とするダンシングやパ・ド・ドゥをフロア上で所狭しと展開する意味不明のオープニングに私たちはいささか度肝を抜かれた。その後、ペープサートやスタンツで年間の行事を紹介するミニマムな流れがあって、ラストに「宇宙戦艦ヤマト」のテーマをガーッと波動砲のごとく合奏しておしまい。リクはスタンツで「夏休み」紹介のチームに入り、ダイソーの造花をからませたアサガオの植木鉢(担任の先生が教材屋さんからもらったサンプルの残り…だそうです)を抱え、アカペラで「♪海はひろいな、おおきいな つきはのぼるし ひがしずむ」と1番のみソロで歌うという役。当方で用意した衣装は前ボタンのタンクトップシャツにヨット柄の5分丈パンツにストロー・ハット(これじゃ、まるでONE PIECEのルフィーである!?)。構成台本の企画としては、海の日が来ると夏休みが始まるからという発想の選曲とのこと。当時、未だ合唱団の予科課程にいた彼が、それでもソレっぽいファルセットで歌うのを聞いて私たちは「ピアノだけじゃなくて、歌もやらせておいて良カッタ」と自分らの判断を疑いも無く納得させてしまう超・親バカのこんこんちきぶりなのであった。
「ソロなんだから、あすこはもうちょっと声量出さなきゃイカんでしょう??」
「…うん。何か、キンチョー。お父さんたち来てんだもん。ビビっちゃって…。」
「来月には合唱団の本科に上進するんだから、ビビってる場合じゃないっショ??」
「…うん。それは、ワカってんですけどぉ。」
ヨワイ満6歳の男の子にそんな要求をするのは、いくら何でも私の方が間違っている。ただひたすら「緊張してたの?皆には判らなかったよ。上手に良く歌えていたよ。」と褒めてやるべきだ。合奏「宇宙戦艦ヤマト」には、オリジナルでお姉さんが鳴くボカリーズの類いのフレーズなどは最初から当然付与されているわけもなく、ボーイソプラノの出番は皆無。某Y音楽教室に通っている子たちがステージア・ミニとデュアル・キーボードの担当にまわると、リクには一番指名でピアニストの役がまわってきた。学年にはピアノの弾ける子どもは何人もいるはずなのだが、新入生の親向けには「黒光りのするグランドピアノの前でカッコよく演奏するには、男の子の方がインパクトがあるにちがいない」という先生方の姑息な読みがあるらしい。かくして我が息子は「ファルセットで歌う男の子」プラス「グランドピアノを弾きこなす男の子」と、ほとんどハッタリじみた見せ駒チックな要素からキャスティング動員され、ちょっぴり危なっかしい鍵盤ハーモニカのパートの子どもたちの様子を見い見い、子ども指揮者のタクトをそれっぽく注視しながら演奏を終えた。合唱団で予科生なりに「客席の反応」というものを理解しはじめていたリクは、4月頭の「1年生をむかえる会」本番を終えて帰宅し、「何か、けっこう楽しかった。」と感想をもらしていた。


 あれから1年が過ぎようとする日々。リクたち小学2年生主体の本科1年は、善意のお客様がたやお茶目で手強い先生方や硬軟双方の様々な攻勢を仕掛けてくる先輩ボーイソプラノたちに支えられながら、ステージメンバーとしての地位を確実に築き上げて来た。七五三の記念撮影のようだった合唱団のステージ衣装は、仕事着として着たおざれ、見た目は小さいながら十分サマになってすっきりした印象を受ける。ヤングOBらは新参者のリクたちを頭の先から踵の先まで徹頭徹尾さし固め、コンサート開幕直前まで徹底的に面倒をみてくれるという。
 科学館の午後のアトラクションに出演するため、のんびりと出かけて行くリクは、朝食を食べて歯を磨き、電子ピアノの前に座って結局30分近くもパスピエの練習をした。母に言われている通り、マスターボリュームをわずかに絞り、ヘッドホンをかけていないために、リビングやキッチンに練習音が届く。中間部の後半に出て来る、彼が「兵隊さん人形の行進」と呼んでいる部分を何度もやり直ししてさらっている。スタッカートとテヌートとスフォルツァンドとマルカートが交互に錯綜して右手に配される全ての音符を飾り、フレーズの中で調が変わるらしく、夥しい数のナチュラル記号を眼力トレーニングのように注意深く見分けながら彼はその部分を繰り返しているのだった。目の詰まったあまり弾きやすいとは思えない位置に鳴る近代的な和声を矮小な指は押さえ、ナチュラルの見落としや黒鍵の混同で男の子は未だに欠缺を払拭できないでいる。やがてしばらくして彼は母の出したリンゴジュースを舐めるようにわずかにすすって飲み、用意されてあった重そうな衣装カバンをぶる提げて出かけて行った。
「お父さん、行ってまいります。」「お母さん、行ってまいります。」
いつの間に着替えた通団服のシャツの襟をもう体温で湿らせて、出がけ、私たちに頭を下げ少年は勝負への一歩を踏み出す。「音読カード」のチェック依頼同様、挨拶は合唱団の指導によるものらしい。「子どもが仕事で外出したかどうかを保護者はきちんと認識しておいてもらいたい」というところなのだとは思うのだが、「通団服を着て玄関を出た後のことは全てこちらで責任を持ちます」というこの少年合唱団の指導方針がよく感じられる頼もしさでもある。リクは私が平日休で家にいても、学校やピアノに行くときは母にだけカンタンに「行ってきまーす」と声をかけるのみで、父親には何も言っていかないのである。
 母はさすがに時代劇のごとく火打石を打って切り火で息子を送り出すことまではしなくとも、出演内容に合った言葉をかけてやっている。「先生方のおっしゃることをよく聞いて」「先輩方について歌えば大丈夫だからね」「緊張するって、素晴らしい事!」「昨日と同じプログラムだと思ってテキトーに歌ったら必ず失敗する!」「楽屋に着いたらこっそりカバンの中の蒸しパンとジュースを飲みなさい。欠食ボーイソプラノの歌を聞かされるお客様がかわいそう。」「おじいちゃんが必ず守ってくれてる。あなたのこと、大好きだったんだから。そのかわり、終わったら忘れずにきちんと天国にお礼を言うのよ。」「君子危うきに近寄らず!」「玄関の鏡よ鏡!まだまだ練習はたくさん必要かもしれないけれど、日本で一番かっこいいボーイソプラノの少年の名前を教えなさい!…はい。それは、こちらにおいでの松田リク様です!…というワケだから!車に気をつけて!行ってらっしゃーい!」
「白雪姫」の悪いママハハの自作自演まで繰り広げる団員「母」のオダテにリクは顔を赤らめて踵を返す。そうして玄関のたたきに踵から揃えられていた通団用の黒い小さなHARUTAのローファーがそこから消えてしまうと、家の中の温度が明らかに1〜2度も沈降したように感じた。


 日曜日の窓の外には冬枯れの花壇。冷え切って火星人のミイラのように痩果の蝕肢を広げたキバナコスモスが立ち枯れたまま冷たい風に吹かれ揺れている。電子ピアノのスイッチを入れ、再生ボタンを押してオートプレーをかけると、ポコポコ、ポコポコ、ポコポコ…柔らかな小さい指が鍵盤をたたく真面目な顔して愛嬌たっぷりのオスティナートが聞こえてきた。2年生の終わりの男の子の3つの指先がキーボードの表層を自動織機よろしく跳ねまわる様子がリビングの音場へと鮮やかに再現されてきた。曲目を告げる品物はもはや室内に無く、男の子は合唱団の通団バッグに今日も楽譜を押し込んで出かけていったに違いない。

「リク坊…。パスピエって、何だ?」
「パスピエ…って、何か…昔の踊りだって。」
「踊りって、どんな踊り?」
「知らない。」
「じゃあ、ベルガマスク組曲のベルガマスクって、何だ?」
「花粉症によく効くマスク。…じゃなくて、曲つくった人もよくわかってなかったみたい...って、先生が言ってたよ。」
「…ベルガ・マスク?」
「何か、読んでた詩の中に出てくるベルガマスクって言葉のフンイキがカッコ良かったんで自分の組曲の題名に付けたらしい。」
「へぇ〜。」
男の子は今日も「終演のお迎え」の母にハッピーセットをねだるのだろうか。タイトルは「思いつき」かもしれないがベルガマスク組曲もパスピエも折り詰め弁当のようにぴっちりとひなびた教会旋法や東洋の音階が箱いっぱい収まっている。くつくつと煮込んだお醤油色のおかずを息子はお箸で上手につまみあげて私たちに見せびらかし、結局最後はパクッ!と乳歯ばかりの口の中に放り込んでおいしそうに食べてしまう。ドリア旋法、ミクソリディア旋法、エオリア旋法、ガムラン、全三音、アラビアの音楽に梵鐘。演奏家の居ないリビングのピアノから流れてくるのはチャーミングな分散和音をペダルでゴーンとサスティンさせたダンパー音。リクが特に注意深く、美しく響かせようと腐心しながら弾いているのは頻出する長2度で鳴る全音符たち。曲はやがて「沈める寺」の冥海を思わせる神秘的なカデンツァから浮上して、ピアニッシモでオクターブ・ワンセットの上をまたぐ(小さい手の彼はそれを素早いアルペジオで弾いている)八分音符を3つ、吐息のようについて終える。この子はいったい私たちの誰に似たのだろう?合唱団のほこる「日本一のボーイアルト:パート2」のアオケン先輩のご両親は、こんな真面目で優秀な子が私たちから生まれるはずは無い…「お前は神様からお預かりして育てている大切な子」と家族全員本気で信じアオケン少年に言い聞かせているらしい。リクにそれを言っても「ボク、お母さんの顔にソックリじゃん。子どもだましのギャグ言わないでよ。」と遺伝生物学じみていて素っ気も無い。楽器は再びグリーンのユーザーランプを点したまま沈黙し、2年生の<なんちゃってソナチネレベル>のピアニストの気配はいよいよ我が家から遠ざかった。合唱団のステージ…「あおいそらにえをかこう」でエイ!ヤァー!と右の拳を振り上げ、「だれにだっておたんじょうび」の5月生まれのコールでハーイ!と立ち上がるなり心許ない「ジャンファイト!」ポーズをキメる少年合唱団員の嗅ぎ慣れた体臭が、碧落からシャギーラグとイサムノグチのテーブルの間に還流してたった。注視すると、ほわほわ真っ白な絨毯の毛足を押し、薄っぺらなホチキス製本のブックレットが1冊投げ出されヘタッている。エンピツ黒鉛に汚れたページの角がばらけ、拾い上げてみると「ぶんけい*くりかえし漢字ドリル 2年3学期(光)」と撫子色の表紙にある。折りぐせのついたページの末尾に、パステルカラーの筆順の上をなぞって書いた「家」という漢字が、途中まで楽しげに練習され、持ち主の帰宅を静かに待っていた。

涙の乗車券 Ticket to ride

January 04 [Tue], 2011, 22:28


 制服を着ていない少年合唱団員は、ボーイソプラノやボーイアルトが他人より少しだけキレイに出せるというだけの普通の小学生男子に過ぎない。ところが、彼らがベレーとタイをつけ、半ズボンから剥き出しの膝小僧へ向けてソックスをズリズリと引きあげた途端、前触れも無くチームへと一閃で止揚されてしまう。この記号論的大転回のからくりは本人たちにも指揮者にも、ましてや団員保護者たちにも皆目見当がつかない。そして恐ろしいことに歌っているあいだ中、一人一人は間違いなく暗いクレバスの深淵で孤独にさらされているというのに、揃いの衣装に袖を通した瞬間、彼らの「チーム」が強固に厳然と立ちあがるさまはきわめてアイロニカルな現象ともとれる。5年生アルトがこうして、ブレザーのパッチポケットにお守り代わりのMC原稿のメモを静かに差し入れ、ビスケットのまじないのように右の掌でそこをぱんぱんと叩くと襟元の隙間からワイシャツに染みたダウニー・アーモンドクリームの匂いがフンとたった。11月は「クリスマスツリー点灯式」の季節。夕刻の野外・半屋外・ショッピングセンターやデパート、ホテルのロビー…いずれにせよ彼らの立ち位置がまばゆいボーダーライトに照らされた心地良いコンサートホールのステージになることは今後も決して無いだろう。
「本日は、素晴らしいツリー・イルミネーションにぴったりな曲をお届け致します!ひとあし早いクリスマスの夕べ…。どうぞ最後まで、僕たちの歌をごゆっくりとお聞きください!」
ポケットにしのばせた彼の原稿メモには大人の字でそうしたためられている。マチネの回のアナウンスで「夕べ」という語彙を抜かすよう、青い蛍光ペンの傍線が引かれていた。仰臥した送迎デッキを乗り越えてやってくる海陸風に汐の匂いは無く、ここが貨客船の乗り場であることを示すものは大仰な表示とモニュメントを除いて何も見いだせなかった。速度制限のため、湾内に進入してもうじりじりと数時間の航行を続けるフラッグシップがデッキの下部構造や貨物トラックの隙から垣間見える。純白のAデッキの手すりに閑を持て余した船客が鈴なりになって流れ行く都市の景観を眺めていた。
「アオケン君。『チケット』の用意は出来たか?」
「いいえ。揃ってないです。」
「誰だ?」
「品川(兄)君がバチ探してます。」
「何だかんだ理由をつけて引き延ばそうとするよなぁ…ソロの連中は。そんなに難しいか?」
「難しいことは無いんですけど…」
「合唱編曲したところで、しょせんシャウトはシャウトだから。児童合唱曲や文部省唱歌とは勝手が違う。尻込みってヤツだ。」
「先生、ボクたちがカウンターカルチャーを歌うなんて、どだいムリなのかもしれません。しょせん小学生男子なんですから。」
「…な、なにぃ?!」
少年合唱団の11月。出演の半分は「クリスマスツリー点灯式」のタグイだが、12月26日以降、冬休みから翌春までの演目の練習が、バックグランドで静かに潜航している。リハーサル前後の空隙の「待ち時間」を使い、鬼さえ笑う来年のコンサートのレパートリーがコマギレにされ執拗にさらわれていた。
「そろそろ『チケット』と『スカボロー』を仕上げておかないと大変だぞ。そもそも去年に比べてメンツが足りないんだから。」
…『チケット』はレノン&マッカートニーの『涙の乗車券』のことで、『スカボロー』はサイモン&ガーファンクルの『スカボロー・フェア』。昨春の団員募集に思ったほどの応募者は集まらず、合唱団は途中入団はおろか夏休み前に比較的まとまった人数で中途退団を出した。
「先生、途中で合唱団をやめるのは団規違反じゃないんですか?」
「違反なんだよ。でも、どうする?退団処分にでもするか?」
90年代の失われた10年とそれ以後、日本中に展開する女人禁制の児童合唱団はどこも慢性的な団員不足にあえぎ続けた。辛酸を舐め、苦闘を強いられ続けてきた合唱団はザラにある。成長期の研鑽に誘惑の多い小学生の男の子を一定数以上確保し続けるということは、もはや21世紀の日本に生きる私たちにとって困難の極みと言わざるを得ない。上級生は自分の抜けてきたアルトの隊列最前で早くも集中を失い、ズボンのオシリで控室の床を拭き始めた2年生の姿をチラリと盗み見た。
「アレをトイレに連れてってやれ。必ずアルト5人以上で行けよ。場所は判るか?」
「切符売り場の奥のコインロッカーの前?…ですよね。」
「やけに記憶力がイイなぁ。どうりで英語の歌詞もよく覚えてるワケだ。」


 客船の切符売り場は21世紀の今も窓口の手売りなのだった。たくさんの人が郵便局にあるような記入台に白や黄色や橙色や空色の申請書類を広げ、ちびたエンピツを走らせて何かを書きつけていた。
「何であんなに怖い顔して歌ってるんだよ。お客さん悲しむよ。」
トイレへの道行き、歩きながら2年アルトに言った。誰が使うというのだろう。記入台の中にはローカウンターのように低い、赤いチェックのテーブルクロスのかかった机もあった。
「キミが歌うのを見にくるお客さんがいっぱいいるんだよ。」…つまらなそうな表情で歌う下級生を何故守ろうというのだろう。
「おまえはいつか歌もカオも日本一のボーイアルトになるんだ。僕たちの自慢の後輩サ。キミがお客さんに好かれて人気者になるのは、僕たちも嬉しい。」
 低学年で低声部配属というのは実力と才能の「証し」だが、本人も卑近の団員も誰もそう思っていない。生意気な口をきく態度の悪い2年生は、「集中力に欠ける」という理由からアルトに落とされたというのがおおかたの見解だ。「僕は先生から懲らしめのために意地悪でアルトにされたんだ。」と本人も思っている。もともとボーイアルトにあこがれて少年合唱を志したアオケン少年にはその気持ちが殆ど全く理解できなかった。
「ソプラノなんてアルトの上にのっかって歌ってるだけのショボいパートなんだよ。普通のシロートの子だってカンタンになれる。」
「それで僕に優しくしてくれんですか?」
2年生は、くちくちとフォーマル革靴のつま先で周囲の低声の団員の靴のかかとを突き始めた。
「あと3年経ったら、俺たち合唱団のアルトを率いるのは君なんだよ。」
「…ぼく?」
「他に誰がいるの?」
「…リク君とか?」
「リク君、1メゾでしょ?3年ぐらいたったら、キミがこの少年合唱団のアルトのキャプテンになるんだヨ。何てったって、2年生のアルトっていうのは今はキミ一人しかいないんだから。」
「何で、ほかの2年はみんなソプラノか1メゾなのに、僕だけアルトなんでしょう?」
「キミは自分の声を聞いたこと無いでしょ?」
「ありますよ。オバチャンみたく、イヤーな声ぇ。大嫌い!ハズかしいから、あんまり聞きたくない。」
「イヤな声?!そんなこと、誰が言ったの?言った奴、僕がぶん殴ってやる!耳も心もねじくれててオカしい!キミみたいな声を『生まれつきの純正ボーイアルト』って言うんだ。この先輩がもし先生でも、たぶん100%キミをアルトにする。先生は意地悪してるわけじゃないよ。」
増長を警戒したのか、彼は下級生の耳の確かさや声の統御力について褒めるのをやめておいた。
「本科に入ってから、どんどん声が小さくなって、注意散漫な歌い方になってきてる。残念。」
「だって、先生が絶対にガナるなって言うんですよ。」
「ガナるのと、声量豊かに歌うっていうのは全然違うよ?出せるんだからきちんとした発声で歌わなきゃ!水戸黄門閉めて、お相撲さんの姿勢を守って歌わないからガナりもするし、声量も出ない。声量も出ないからつまらないし気が散ってばっかり。後ろから見たらバレバレだよ。」
「バレバレだぁ?」
「バレバレさ!キミは4年後には間違いなく日本一のボーイアルトになるんだ。そんな子が、今、ツマラなそうな顔して歌う2年坊主なんてアリエナい。」
「…そんなコト、♪マイ・ベイビー、知ったこっちゃないサ!…ですよ。」

便器の前に立ちながら、アルトの少年たちは雑談を交わしている。
「お父さんが小学生の頃って、半ズボンのときはココから出してシャーってやってたんだってさ。」
カシドス・ズボンのごわりとしたスソを少しだけまくり上げて彼は下着を見せた。
「えー?どうやってココから出すのー?まじわかんねぇ。」
「うー。なんかエッチ…っぽくなぃ?」
いずれにせよ大人に比べ、少年たちの「男のリラックスタイム」は瞬時にして終わることになる。彼らの直近のタイル壁に貼られた白いアクリルのプレートには、

 便器洗浄水に
 つき止めない
 でください。

という文言がエンボスされていた。5年アルトは「トイレの水を、つき止める?」というのは、どういう行為を指すのだろうと、ズボンのチャックを上げる刹那、考えた。


 合唱団の『涙の乗車券』には演出代わりに2つの団員パーカッションが用いられている。品川兄弟の弟がタンブリンを叩き、高価で若干の演奏テクニックを要するコルグのウェーブ・ドラムを美声の兄が担当していた。実の兄弟同士を「MC」や「ソロのかけあい」「演出のチーム」のキャスティングへ動員することを指導者たちは好む。保護者の監督下で律儀に自宅練習してくる兄弟団員は予想以上に多く、観客は息の合った彼らの演技や歌声を楽しむことができた。また、兄が変声・卒団してしまうときにも簡単な引継ぎで弟が役を継承してくれたりもする。男の子の合唱団員の場合、殆どの確率でお兄ちゃんは「しっかり者」で、弟くんは「ちゃっかり者」というのが通り相場だが、ステージに上がれる年限が最長5年ぽっちという短命集団の中で、その利便性はとりわけ魅力だった。品川(兄)がごちゃごちゃした自身の通団バッグの中から無撚糸タオルに巻かれた一対のスティックを抜き出すと、ズボンの腰に天地逆さにぎゅっと突っ込んだまま、いびつな形に凹んだひかがみの膝を寄せてしゃがみ、スネアスタンドの高さを革靴のソールの分だけ少しだけあげて微調整をかけた。マネージャー嬢が台の安定を両手で押し下げて確かめ、キャリーバッグの中から直径30センチ強の白っぽい「お掃除ロボット」そっくりの機械を恭しく取り出してピンチした。シンプルで無駄の無い意匠の電子楽器だが、重量はコンビニに並んでいるミネラルウォーターの一番大きなペットボトル1本分とのことだった。血液型B型の弟がACアダプターのコードを引っぱってきて慣れた手つきでドラムの脇のへそに突っ込むと、スイッチボタンを押し込んでプログラム表示の赤いLEDを静かに点灯させる。兄が腰のスティックを大工の曲尺のように慣れた手つきで引き抜くと、フレンチグリップで握ってリムの近くを弱くロールで試し打ちした、…が、乾いた音しか出なかった。彼らは習慣から楽器をわらうときにボリュームを絞って収納するようにしていたし、だいいち機械は未だアンプに接続されていなかったのである。
「アオケン君。ムリを承知でアンコールの『未知という名の船に乗り』を『涙の乗車券』に差し替えるぞ!ここまで追い込んでやりゃぁ、さすがの君たちもエンジンかかるってもんだろう?1回だけビシっとキメてホンバンに行こう!」
半野外に開いた少年たちのスタンバイスペースから、後期ポストモダニズムふうな方形屋根の展望塔が見える。少年たちはこの齢で舞台経験から既に「むちゃ振り」というボキャブラリーを知っていて、カンネンした。品川(弟)がタンブリンのフレームを握って傾け、簡単に叩いて試し打ちを終える。白木でシングルのモンキータンブリン。律儀に母指球へと打ち付けて鳴らしているのは、児童合唱団らしい質朴さを狙ったスタイルだが、皮が張られていないないために小さなシンバルの音だけが金属的に響いていた。

 アオケン少年は2度目のトイレ休憩の指示が下りるなり意を決して通団バッグからアンブロのサイフを抜き出してズボンの左ポケットに素早く忍ばせた。
「必ず5人以上で行きなさい。トイレの場所は判っているか?」
デジャブのような指揮者の注意もそこそこに、少年たちは濃紺のイイカゲンでバラバラな列の呈も無い一団を連ねて男女マークのサインの下へと吸い込まれて行った。微かに生臭い滑り止めのフロアタイルの部屋に待合室独特の天井高のアールが広がって、窓口が明るくカウンターテーブルを繰り出して並んでいた。前を行くメゾの5年生が先ず立ち止まり、わざわざそこで言葉を切りながら、
「おみやげに、島唐辛子を買うから、先に行っちゃってて。」
と悪びれもせず振り返りざまに言った。集団行動に反する。トイレ休憩はトイレに行くための休憩で、お買い物タイムではない。だが高学年の団員たちは「他人に迷惑をかけないなら」の逸脱行動をはばかりなく頻繁に強行した。『特産コーナー』のドアに吸い込まれて行く団員の後ろ姿を見届けた少年が、先ずはじめに記入台のポケットから抜き出したのは「島嶼在住者・島嶼出身学生割引申込書」というタイトルの白いA6大の用紙だった。漢字検定3級の腕前を持つ小学生は「与」の旧字体までは知らなかったが「島嶼」という熟語の読み方も意味もきちんと理解していた。住所氏名を書き、学生証番号を記入する段になって「確認書類:在島証明書・学生証・その他」というチェック欄の存在に気付いた。公立の小学校の子どもたちに「学生証」というものが発行されているのかを彼は知らなかった。合唱団の出演時に携行しているのはパウチされた団員証の方だけだった。団員証番号の最初の二桁は入団年度の西暦で、次の三桁は「入団テストで合格したグループの五十音順」だと聞いている。近年の合格者数を見るかぎり三桁も必要なのか、疑問だと保護者OGたちもOBたちも苦笑しながら現役団員のIDをながめた。いずれにせよ男の子は諦め、用紙を横半裁に折って胸ポケットの底へと無造作に押し込みつつ、窓口の周囲にかかげられた目的地の地図と料金表を眺めた。動物的な直感から目的地を最遠の航路から2番目に位置する島に定めてアクリルパネルの写真を見る。ゆるい抹茶プリンを皿に伏せたような、建造物一つ見いだせない深緑の島影が緘黙のまま彼にゴーサインを送っていた。案内所の電光掲示板にも発券窓口のLED表示にも「条件付」のサインがひっそりと点灯してはいたのだが、東京生まれの11歳の男の子に「条件付」という字面の意味は理解できても、これが彼の航海にいかな困難をもたらすことになるのかということまでは思い至らなかった。


 客船ターミナルは瑠璃色の世界だ。コンサートの客上げで友だちになった海洋少年団員に教えてもらった手旗信号を、デッキの上で貨物船に向けて振り出すメゾソプラノの子どもたちがいる。右手には紺ベレー。左手には何も持っていない。左右の運動機能の統合がまるでとれていない貧弱なラジオ体操にしか見えなかった。
「何ていうコトバを送っているの?」
「…英語で、『助けて!』」
これでは誰も救援に来ないだろう。真剣な表情ではあったが、合唱団の通団服を来た縦寸140センチメートル前後の4人の木偶の坊だ。彼らのてんで出鱈目な細い腕に声をかけたのはマネージャー嬢だった。
「戻りなさい!先生が、1回流してさらいましょう…って。ねえ、キミたち…帽子のツバを握って振り回すのは、あんまり良く無いんじゃないかな?」

 出演のために都内各所へ一人で出かけてゆく物怖じ皆無の態度で5年アルトが乗船券の出札を受けようとすると、さすがに窓口係から宿泊場所の質問を受けた。
「従兄弟の家にお泊まりするんです。」
夏休みのシーズンでもない不自然さと遊び着には見えない身なりのまま、彼は一人旅の少年を装った。往復にかかる運賃は、所持金額のほとんどぎりぎりにあたるほど高額なものになる。料金表のボードに「こども(小学生)は半額となります」という但し書きが添えられていて、明記されている片道大人料金が今回の旅の往復運賃になることを聡明な彼は得心した。Suicaのチャージ額が底をつきそうになって持たされていた高額紙幣が一枚と、コインケースの重量を少しだけ重くしている硬貨が数枚。最下のすし詰めの2等船室…真夜中に機関室直上のEデッキ。選択の余地は無かった。

 切符の端にミシン目で繋がったオレンジ色の乗船票へ住所氏名と電話番号は正直に書き込み、乗船目的は意味ありげな「その他」「宿泊」に印を打った。船客たちが記入台で何かを書いていたのはこれだった。記入した乗船票は乗り場で改札され、残った切符も下船時に回収されることを子ども相手の窓口職員は丁寧にゆっくりと説明した。彼がそうして大切なチケットを旅立ちまでの数時間の保管のために二つ折りにしてアンブロのサイフに差し入れていると、2年アルトが一人、目前を横切った。
「一人で行動するなよ!みんなと一緒に帰って来いってば!」
注意する上級生の左掌にエナメルの黒い子ども用サイフが握られているのを一瞥して下級生が言葉を返した。
「一人で行動するなよ!先輩だって、みんなと一緒に帰えれってば!」
映画『幸せはシャンソニア劇場から』に出て来る男の子に似てない?!…と団員ママたちは出演終了後の2年アルトを前に先週のマチネの楽屋口から大盛り上がりだった。「似てない?」「出てない?(出演しているのではないか?)」「見た事あるよ!」は保護者たちの格好の話題なのである。
「アンビ君が少年野球のブログに載ってたよー!野球やってんのかね?」
「えー?アンビ君、体育会系に見えないんだけどなー。ボーイアルトひとすじの草食系ややポチャ男子というカンジなんですけどねぇ。」
「ウチのメゾ2号機が、学校のパソコンでブログ発見してきたんだー…写真だけなんだけどね」
「どんな?」
「だから、ややポチャよ。色の飛んだオレンジ色のツバのキナリの野球帽かぶってて、ツバがこう、前で上にパキって折れちゃってんだよね。いかにもって感じで。」
「オシャレなアンビちゃんらしくないなぁ。」
「でも、顔は確かにアンビちゃんなんだよ。イイ感じに日焼けしちゃってて、肩口にミズノのシールがついてる白い半袖の練習用Tシャツをちょうどいい感じに着ていて、グローブはめて、膝に両手を当てて、首に青筋立てて声出ししてる。」
「そのイメージはアンビちゃんらしいわ。他に情報源は?」
「…他に?練習パンツの膝のところがすり切れて抜けちゃってるんだわ。膝の穴からアンダーソックスが見えてたりする。」
「ストッキングはいてないんだ?」
「練習着だもの。いきなりアンダーソックスなんだよ。あれは膝にパッド付けてやんなきゃ。でもグローブもシューズもしっかり使って手入れがしてあるって感じだったなー。グラブはビューリーグ・プロフェッショナルの上野モデルってのだわ。」
「えー?何、その詳しさ?」
「ウチのメゾ2号機が同じのの色違いの黒を持ってんだ。ココのこう、ウエブってのの先に逆三角の切れ目があるんだわ。置いてあるだけでわかる。グローブって少年用でもマンサツ飛ぶからねー、買う時さんざん吟味したんだよ、いっしょに。それはめてんだもん!すてきだぁ〜」
「2号機君が?」
「まさか!アンビ君がよ!」
「ホントにアンビ君?…髪の毛、ちゃんとブラウンに染まってるの??」
「あ…そうか!髪が帽子の中に入ってて見えないってコトは、ベリーショートなんだ。」
「ホラァ、やっぱりガセじゃない。だいたい、この時期に日焼けしてるアンビ君なんて不自然だよ。」
「だって、グローブのベルトの窓から小さなずんぐりした人差し指がぴゅって出てるのめっさ可愛いかったんだよー!」
わざわざここで検証しなくても楽屋口から出て来る本人に聞いて確かめればいいのに!
 2年アルトはブログ写真の野球少年ではなく、フランス映画の子役の方だった。こうして団員ママさんたちの待ち時間の慰めに、「映画『幸せはシャンソニア劇場から』に出て来る男の子に似てない?!」と言われ、本人の存在とはおよそかけ離れた次元でナイスな話題を提供している。
「あー!似てる!似てる!アコーディオン弾いてる少年でしょ?」
「あんな、ずんぐりハゲのひげ親父と年増の娼婦みたいな母親から美少年が生まれるワケないよね。」
「あの子、『コーラス』にも出てた子?」
「だから、監督さん同じなのよ。オヤジ役の人が『コーラス』で音楽の先生だった人じゃん。」
「えー、どこに出てた子?」
「息子を少年合唱団通いさせてるんだから『コーラス』ぐらい親子で鑑賞しときなさいよ!一番小っちゃくて可愛い色々と目立つ役の子なんだから!」
「あの子って、プー太郎のオヤジと一緒に住んでるときは頬とかがコケてて、お金持ちのお母さんの家に引き取られた後のシーンでは顔とか腕とかが全体にふっくらしてるんだよー!」
「役作りしてるんだー。偉い!」
「メイクじゃないの?あと、CGとか??」
「『アバター』じゃないんだから、子役の顔にCGとかアリエナイでしょう?!」
団員の引き渡しで楽屋口に出ている指導者が新しいレパートリーの演出を勘案中。背中越しにこのやり取りを聞いていて、チェブラーシカのテーマと「青い汽車」で団員のアコーディオンを起用することを思いついた。怪婆シャパックリャクに切符を盗られ、ワニのゲーナが小さなチェブラーシカに客車の天蓋の上で歌って聞かせている。

♪人の心を傷つけつつ、なおもカレンダーはめくられ日は明日へと進む
 鉄路は伸び、地平を突き、誰もがそこに良い事があると信じてしまう
 進む 進むよ 青い汽車
 鉄路は伸び、地平を突く
 進む 進む… 青い汽車

公務員として「檻」に入ることを日々の仕事にしている動物園のワニが保養地ヤルタへの道行き、盗られた楽器を返してもらい、この曲を歌って映画は幕切れを迎える。小さな子ども向けの人形劇のラストシーンにはあり得ない、ほろ苦く、諦めと哀感をたたえた歌だった。ワニの抱えているのはバイヤンで、パリ1936年の少年が弾いているのはボタンアコーディオン。見終わって心の中に暖かいものだけが残る映画『幸せはシャンソニア劇場から』と衰退の始まったブレジネフ統治下のソビエト社会主義共和国連邦で作られたうら寂しい児童映画の間に連接するものは楽器の発鳴機構以外何も無いのだが、指揮者はチェブラーシカのアコーディオン伴奏をマクサンス・ペラン似の2年生アルトに仕込んでみようと即決した。

「そんなことより、チェブラーシカのアコーディオンは、一人で弾けるようになった?」
記入台の鉛筆立てに黒いクリップのゴルフ鉛筆を投げ込むと、彼は2年アルトに逆攻めの質問を投げた。
「…アコーディオンねー…めっさ重いんです。」
日頃、彼の持たされているのは時価15万円もするローランド最軽量26鍵電子アコーディオンで、ヤマハ学童用より数グラム軽いだけ。合奏用のソプラノしか出ないベースレスまるごしの鼓笛隊向けより、大きな牛乳パック1本分も重かった。練習を始めた頃の2年生の脊柱はこの楽器をとても支えきれなかったので、2年アルトはずっとパイプイスに腰掛けて演奏していた。
「まぁ、好き嫌いしないで何でもいっぱい食べて、筋肉ムキムキになって、がんばってアコーディオンを抱っこしないとネ。」
5年アルトが下級生を揶揄して面白がっていると、話しかけてくる者がある。
「じゃぁ、トビとムロのどっちがいい?」
…2年アルトよりは幼い感じのする、しかしどう見ても小学生の風体をした男の子が両手に何か持って差し出してくる。
「こっちがトビで、こっちがムロ!…どっち?!」
合唱団員が突き出された銀紙の「トビ」にあたる片方を指先で開いてみると、冷えかけたハンバーガーが顔を覗かせた。「トビ」の正体が判らないまま、男の子がハンバーガーのバンズをめくれば、映画『スター・ウォーズ』の惑星タトウィーンで見たような緑色のパンに、むしった魚の干物がぎっしり詰め込まれたフィッシュバーガーの類いだった。ダースベイダーが好みそうなネズミ色のソースがからんでいる。
「こっちもだいたい同んなじ?」
「同じだよ。ナカミはムロだけどね。」
「ムロっていうのは何?」
2年アルトが尋ねた。
「ムロはムロアジでしょう!?」
「じゃあ、こっちのは?」
「トビウオでしょう!」
男の子はトビウオの形態と生態に興味を惹かれ、即答した。
「じゃ、トビ!…ゼッタイにトビ!」
知らない男の子は2年アルトにトビ・バーガーの銀紙を持たせ、5年アルトの掌にムロ・バーガーの包みを押し込んだ。どちらも同じような銀紙で見分けがつかない。
「トビを選ぶたぁ、かなりのツウだね。そうこなくっちゃ!食べてみなよ。オイシイよ!」
それから彼らは少しだけ気になる臭気を無視してバンズの上に歯を立てた。
口中に魚肉独特の繊維の裁断が広がり、そのそれぞれから歯茎が痛くなるほどの旨味成分が塩味とともに染み出してバーガーのフィリングに混ざり、少年たちの脳幹を襲った。
「わぁ!すっごくおいしいね!」
銀紙からロメインレタスの切れ端をぶる下げながら2年生は言った。
「向こうに着いたら、もっと食べたらいいヨ。こっちの兄ィ兄ィはトビの方。キミは2個目。」
両手の空いた小学生はパーカーのポケットからシマヘビの幼生を引っぱり出し、頬ずりしたりキスをしたりしながら上機嫌で歩いて行きかけた。そうして、突然振り返って口をもぐもぐさせている2人に告げた。
「今日は条件付らしいよ。」
あらゆる意味で、彼らが甲板に涙をこぼさぬようにと小さな彼は念じた。それでも5年生は旅の目的を得たのか、晴れ晴れとした気分になった。



 区切られた送迎テラスの内腕のような場所に、リゾート特急の鼓吹する警笛のようなオスティナートがこだましはじめる。キーボードの繰り出す倍音を含んだラン・デ・バシェに遅れること2小節、電子打楽器のリムのノッチをこすって出したスネアドラムのロールが待ち構えていたかのように飛び乗って、シモテ側に控えた2人の少年の前膊が賑やかに振れだした。
彼らに配られた楽譜のドラムパートの前半は二拍三連の繰り返しだが、担当を任せるにあたり指揮者は最初に拘って質問を出した。
「品川君、キミの叩いているコルグのプログラムはリムがスネアでヘッドがタムとバスドラだが、いったい何の音を表していると思う?」
「バスドラムとタムタムとスネアドラムじゃないですか?」
「いや。そういう意味じゃ無いんだ。キミの叩いてるゴトンゴトンって、いったい何を真似して作曲したリズムだろう?」
「…電車ですか?」
「電車の音を口で言ってみてごらん。」
「ガタンゴトーン!ガタンゴトーン!」
「…なんか、それじゃあ昭和時代の路面電車みたいだ。山手線でやってみてくれよ。」
「先生、山手線はスーパーロングレールだから、がたがたなんて音しません。」
「だからさぁ、イメージでいいんだよ。トトッ、トト!トトッ、トト!…みたいなサ。」
「じゃあ、トトッ、トト!トトッ、トト!」
「その、”トトッ”っていうのと、次の”トト!”っていうのの間に、微妙なタメがあるだろう?」
「後の”ットト!”がほんのキモチ遅れるってコトですか?」
「それを叩く時に出してくれないかなぁ?音色はプログラムのプリセットだが、叩くのはキミだ。出来るか?品川くん?」
昨年夏までの半年間、「ノーノーボーイ」の伴奏補助で重たい大太鼓にンドンド、ンドドド…とマレットを間断なく当て続けていた品川(兄)はこの過酷なミッションを持ち前のセンスで叩きこなした。長男よりはほんの少しだけ苦みばしったハンサム顔の弟がタンブリンのリムを「ン・チッ!ン・チッ!」と規則正しくタンジーにスナップして乗せる。

 そこそこに練習の進んだ彼らが曲をスローテンポで丁寧に歌うと、メロディーが高貴で可憐なブリティッシュな美しさに満ちている事が判った。だが、実際の作品にはレノン+マッカートニー調のフラジオレットを伴う平行進行的なシャウトするコーラスが鳴っており、リンゴの叩き出すアルチザンなドラミングが楽曲全体をカチッと引き締めている。高学年の男の子たちはこの「フラジオレット」がなかなか響かないどころか、楽譜通りに歌ってもアンデス民謡かせいぜいイタリア製西部劇のテーマソング程度にしか聞こえないことに早晩気付きはじめた。子どもながらに深慮して暮らしていたのである。ドラムス担当の兄弟に周囲を見渡す余裕はついぞ無く、アンサンブルを担当するソリストの少年たちは、指揮者が完成を早めに断念してくれることを小さな胸の中で密かに願っていた。

 海側に開けたデッキの上屋を抜けて、前奏の奏でる沖縄民謡のようなヒナびた音階がアルペジオで流れていった。12弦ギターのリフレインは電子キーボードのごく当たり前の音色が奏でる。
パーカッション担当の兄弟はステージのシモ手に日焼けの抜けた少年の黒い4本の脚を直立させ、ベレーの前髪の下に光る眼差しを楽器と指揮者の指先へと交互に振り向けはじめていた。彼らの立ち位置は舞台に向かって左側だが、キーボード・アンプとのバランスなのかスピーカーが隊列の向こうの右端に置かれている。品川(兄)が実際に楽器を叩く音像定位のズレによって疑似ステレオのようなクロスフィードが客席に鳴り渡った。男の子のスティックが直径30センチのドラム(?)ヘッドの中心を打つと腹に響くバスドラが、縁の近くではスネアが、リムを叩くとタムタムの音が出力するようプリセット・プログラムが呼び出され、保存されていた。電車の運行音を模した特徴的なリズムパターンに乗って、アルトと2メゾの少年たちがドスンと低いフレーズを唸ると、2小節遅れて高声の団員が叫ぶようにワイルドなハーモニーを積んで来る。ボーイアルトがオリジナル通りの「キー」より低い歌い出しなのは、ソプラノの子どもたちのシャウトが高すぎて合唱にハリが出ないからだった。メインボーカルのパートが練習の当初、まったくもってお経のような無表情さとぶっきらぼうさだったので、指揮者は殆ど思春期にありがちなありきたりな歌詞の内容を説明してみせた。
「おい!おい!あいつ、平気な顔して行っちゃうよ。おまえ、ホントにそれでイイのかぁー?!おーい!オレを置いて行かないでくれー!…ってな歌なんだよ。歌ってる本人が勝手に自分だけ気が狂いそうになっちゃってるんだから、その気持ちをよく表すような歌を歌ってくれ!」
…この例えが団員らの歌の統御力にはたしてどの程度有効なのか、言っている本人も殆ど確信のようなものを持ちえないままの指導だった。彼がオリジナルのアゴーギクを真似て歌うと、高学年の少年たちはすぐにツボを押さえ声を揃えて来た。
「合唱だが、みんなで一緒にそろってハジケよう!」
指揮者はこれを言って、さらに自分でも戸惑った。子どもたちがそれでも何のプロテストも抗弁も試みて来ないことに猜疑心を抱きはじめ、付け加えた。
「いくら難いからって、歌の登場人物みたいに勝手に何処かへ行ったりしないでくれヨ。…退団したり、長期休団したりナ。」
通団服の半ズボンから出た太股をパチパチ叩きながら団員たちは笑ってそれを否定した。
「うんニャ。君らオモテ向きはノーって言ってくれるが、実際、裏面は『イエス・イット・イズ』だったりするんだろう?!」

 オリジナルと同じテンポで、という指揮者のタクトで歌うと、ドラム・ロールのブレイクがちょうど曲の開始から30秒後にやってくる。ロールと言っても寝かせたスティックを小学生が楽器のフチに並んだエンボスに当てて1秒間弱、横に引きずるだけの操作。だが、弟のタンブリンにははじめての微細な動きがあり、ハーモニーを積み上げて来たコーラス隊のダイナミクスは規定レベルに達する。小節線の繰り返し記号で戻るAメロを歌うため、ソロ・チームのメンバー4名が5秒間の刹那で隊列をすり抜け、バミリにも見えない仮設ステージのタイルの染みを目がけて進み出て来る。衣装ケースのコンパートメントポケットに旅立ちの切符を忍ばせたサイフをはさむ5年アルトも45年前のリバプール出身のファブ4たちの乗船に備えてチームの右端に陣取った。彼らはリフレインの後もそこに留まり、ハーモニーの輪郭が明瞭になるよう歌い続けるのである。2回目の最終のビーデ・コーダ以降の慌ただしいハンドクラップを担当するのも彼らだけであることを知っている観客はソリスト保護者以外に未だ誰もいない。低声の少年たちは自分たちの合唱を支えるコード進行の妙を良く知っているので、出だしのエキセントリックなAの和音が、Bマイナー…E…F♯マイナー…D7…F♯マイナー…Dメジャー7と心地良く遷移するたびに小脳の髄が感応して彼らの小さな身体に不思議なドライブをかけた。

 プレストなBメロは、品川(弟)のタンブリンが手首を捻って16分音符を鳴らし続け、最後にロール打ちで切り上げる賑やかなくだり。少年たちは3度並進行で連なる土俗的なハーモニーを苦労して作ろうとしていたが、ぶっつけ本番の最中に他パートの声を判じる心の余裕は殆ど無いといって良かった。耳コピで書き上げたらしい楽譜には、ソリストたちに向け、Hand Clapというカッコ入りの×音符の指示が配されていたが、規則的に鳴る訳ではなくおよそイイカゲン気まぐれな場所に記入されているために小学生の誰も正確に覚えてはいなかった。殆どの団員にはHand Clapという英語が読めないし、そもそも自分たちのパート以外の楽譜を念入りに読むような習慣を持っていない。指揮者はオリジナルの演奏を知っていたので、子どもらが一意専心に明解な手拍子を入れてしまっては困ると思い、成り行き任せにしていた。ドラムは大人し目にハイハットを叩き、フィルインをかけた。

「それではアンコールの1曲目、歌って頂きましょう。最初の曲は…皆さんよくご存知なんじゃないですか?有名なナンバーですよね!『涙の乗車券』!チケット・トゥ・ライド!少年たちー、宜しくお願いしまーす!」
演奏直前に施されたMCお姉さんの脳天気な振りに指揮者は一抹の不安を覚えた。品川兄弟の楽器スタンバイは中間MCの最中に終わってはいたが、アンプの出力が入らない。くったりしたネルシャツにインカムを付けたPAさんがステージの端を走り回って、品川(兄)の困惑した視線の先でコードをたぐっていた。
「あー、ちょっと機材のトラブルがあったみたいで。皆様、音が出るまでもう少しお待ちくださいネ。」
MCさんは場をおしゃべりでつなぐことができる。しかし、演奏のためにここに立ち並んだ小学生らには何もすることができない。2年アルトのベレーのツバは既に左右に振れて、きょろきょろしてしまっている。
「ねー。皆さん、この、少年の声の澄んだ美しさ…っていうんでしょうか、楽しんで頂いてますでしょうかぁ?男の子の声ってホント、きれいですよねー。さぁ、準備ができるまで、もう少しお待ちくださーい。」
お姉さんの、この意味も無い「場つなぎ」の口説を聞いて、上段の5年メゾが客席に判らぬようモロに嫌そうな舌打ちをした。
「少年の声よ、それは何と儚く美しく繊細なものか!」と気安く言い放つ一般人は多い。6年アルトの気晴らしのような下級生いじめや、泣こうが造反しようがきちんと歌えるまで延々と続く立ちっぱなしの練習。待っても待ってもお呼びのかからない出演前の絶望的な「待ち」時間…現実世界でボーイソプラノの辛酸をさんざん舐め尽くしてきている彼らにとって、こうしたタグイの発言は、もはや「ファンタジー映画に出て来る白馬の王子様のりりしさ」程度の陳腐な虚像を論じているとしか聞こえない。
「少年の声が美しいんじゃなくて、発声とか発音とかブレスがキレイなんですヨ。ンなのは、オレ達みたくいっぱい練習しなくちゃ。学校の男子で声がキレイなの、学年に2人ぐらいっきゃいないすよー。おチンチン付いてる小学生がみんなオレたちみたいに澄んだ声で歌えるワケじゃないんで…。ムナシーっしょ?あはは…。」
結局5年メゾは正論をふりかざしてそう諭してやりたい気持ちを押さえ、いつ来るかもしれないキューの為に指揮者の挙動を注視して待った。やがてネルシャツの目配せを読んだ指揮者が品川(兄)に「音出し」のサインを与え、色黒の少年がフレンチグリップで楽器の中央を軽く叩くと間の抜けたバスドラムの音がボインとアンプから飛び出てきた。MCお姉さんの名司会はこうして突然終わりを告げた。


 ボールマッカートニーの通常贅を尽くした低音進行は、奏者がコーラスに徹しているせいか中学音楽の教科書のような大人しさ。ピアノ伴奏に転写されたそのベースパターンは、バグパイプの鳴動にも似ているが、じきにボディーブローのごとく効いてくる。合唱がもんどりうったまま再びセーニョに戻ると、品川(兄)は、突然、鼓笛隊用の小太鼓バチをパラリと「スティック回し」し(愕!)て、ウェーブドラムにAメロのドラムを叩き込みはじめた。今度のリズムパターンはエイトビートに先祖帰りしている。起こしてみた楽譜へ八重山民謡のようなベーシックなリズムパターンが入っていなければ、指導者は決してライブパフォーマンスに子どものパーカッションを入れてみようとは思わなかったろう。ドラマーはそうして指揮者の横顔をちらりと見て、何らかのサインが出てはいないか確かめたが、実際に彼の両目が焦点を結んだのはソロ・チームの最遠で歌う5年アルトの姿だった。彼らは同期入団で同じサイズの衣装を身にまとい、練習場のピアノの脇でさんざん落涙しつつ歌わされ今日この日まで何とか「団員」であり続けることができてきた「戦友」のようなものだったが、少年の視線がソリストをとらえたのは偶然だった。合唱団は、ハーモニーでは苦しく喘ぎながら、涼しい顔で「♪That's driving me mad is going away…yeah」と歌っている。彼らは高学年になって、合唱団を取り巻く様々な大人たちから「自分の歌を歌え!」「てめえの歌を歌い出せ!」と執拗に言われていた。ソリストはソリストらしく、合唱団で教わった通りの表現でしか歌えなかった。打楽器担当の少年は「そんなこと、どうでもいい。」と思っていた。ささやいた大人たちは、そのテーゼがおよそ普遍的なものであり、子どもらが成長してもなおまた、あらゆる世代で彼の人生ににあてはまる哲学であろうと思っていた。やがて、少年が電子打楽器の鼓面を16分音符で「タタタタ」と言えるほどハッキリと4つ叩いてフィルインする。ここで曲がようやく半分以上終わるのだと、彼らは教わって知っていた。

〜 〜 〜 〜   〜 〜 〜 〜

 日暮れて彼らの興行がはねると更衣室代わりのドライエリアに並べて置かれた衣装ケースの上に、ホックを解いたモスグリーンの上品なインスタント・ボウタイがぱらぱらと投げ置かれた。冬場の少年たちはユニフォームを適当に脱ぎ着したままダッフルコートを羽織ってペグを留めてしまったり、長めのキルト・ジャケットのジッパーを上げて帰ってしまったりするので着替えの時間はさほどかからない。アバウトな設定で解散前のミーティングの時間が切られ、男の子らは十年一日のごとくフウフウと息を吐きながら帰りの支度を整えた。「こらっ!土曜日も来て歌うんだぞ!ちゃんと畳んでしまいなさい!」…指導者の言葉も日常的な決まり文句で、次回の出演衣装がレパートリーの差し替えから実はもう白ガウンに変わる事を知っている5〜6年生もいた。最後に解散の号令をかけた5年アルトが埠頭事務所側の陰になった通用口から島民休息所の前の出船ロビーに吐き出されると、2年生はすでに同級のメゾと額を寄せあいながらイナズマイレブンの爆エン!DXセット豪炎寺バージョンのキラ1本を交換しあっているところだった。
「まさか、アタック系のバトエン同士をチェンジしてるの?」と、彼らに声をかけると、
「先輩、これってパワーの×の数がビミョーに違うんです。攻守交替で相手チームのディフェンスをよく見て出さないと…。」
とのことだった。本当だろうか?
「あんましオ小遣いをムダ使いするなよ。」といさめると、
「先輩もオ金を大切にね!」
と、トンデモない返事が返って来た。本番中、ソロに立つ彼の背後で下級生は、ぶきっちょなドライブをかけながら、やたらに低い「涙の乗車券」のアルトを歌っていたようだった。ステージ直前まで実にあやふやで危なっかしかったピッチはようやく許容範囲内に入っていたが、上級生が指摘していた声量はまるで出ていなかった。
「ナマイキ言うな!今くらいの声の大きさでホンバンも歌ってみろ!」
バトエンでビッグなXを作って眉をひそめている2年アルトの頭を彼は少年のごつごつした平手ではたいたが、4年後の合唱団のアルトにイケメンで高出力、経験も舞台度胸もあるリーダーがいなくなってしまっては困るな…と怖じ気づいてきびすを返した。

 引き取りの保護者たちが指揮者を囲む。
「『涙の乗車券』の伴奏譜は、たしかに私のCD起こしですヨ。『デー・トリッパー』のイントロ?…Bメロに入れてます。こっそり入れたんですよぉ。分かっちゃいましたか?お母様がた!けっこうマニアックですねぇ。」
お母さんたちは笑っている。だが、5年アルトを引き取る大人はいない。毎週末に必ず出演のあるこの合唱団。…団員の交通費もピックアップの親の交通費も全額、団員家庭の持ち出しになる。4年以上の本科生の親が「引き取り」に来るのは終演が夜8時を超えるときと、息子のこなす大役を客席で鑑賞するときと、卒団近くなり愛息の晴れ姿を出来る限り多く心に焼き付けておきたいと念じているときと、ボーイソプラノご本人が体調不良のときぐらいだ。一人帰りが遅くなりそうな時はキッズケータイと内蔵GPSで自宅に連絡を入れれば全て事足りる。
 団員らが「…乗車券」の練習の段階で足場の悪いフレーズエンドの音長をハーモニーを保ったままではなかなかキープできなかったことを指揮者は回顧しながら母親らに贖罪していた。訓練された男の子たちは協和音程を保つことに雑作は無いのだが、ワイルドな鳴りの音程を一定長ひっぱったのち開放する技術は習慣として持っていないのだ。

♪マイ・ベイビー、知ったこっちゃないサ!
 マイ・ベイビー、知ったこっちゃないサ!

彼はエンディングで7回も執拗に繰り返され、フツリと切れるコーダのリフレインのソプラノ・パートを微かで細い頭声で歌いつつ素知らぬ顔で客船ターミナルの改札ゲートに「集合」した人々の列に紛れ込んだ。曲の終わりに連なるリピートの中、ピアノ伴奏が器用にラドミとレファラの和音をスイッチさせながらベースラインへと折り込み、品川兄弟がともに担当バーカッションを伝統的なエイトビートで打ち鳴らし、ソロ・チームの彼らは後拍でハンドクラップを叩いた。新レパートリーの初演は終わり、「ぶっつけ本番に強い児童合唱団」などと褒め言葉なのかどうかよく分からない称号を頂く彼らにふさわしいたくさんの拍手や歓声がステージに飛んだ。少年アルトは、背後から誰かに声をかけられはしないかと臆しながら列の中でサイフにしのばせておいたチケットを抜き出して乗船票を凝視した。

 ○本票は乗船時に回収いたします。
 ☆ご記入頂きましたお客様の情報は、他の目的に利用することはございません
 ◎条件付出航で下船できずお帰りになった場合も本票の返却はいたしません


男の子は乗船票にある「他の目的」以外の目的の何であるかを知らなかったが、突然、ヨドバシカメラの包装紙でキャップした段ボール箱をぶる下げた男が隣からぶつかってきて切符印面の目的地を覗き込みざま、
「うーん。ヘリの方が良かったんじゃないのかなぁー。こっちは条件付も条件付だからねぇ。多分上陸不能なんじゃない?でも…まあ、毛布は2枚借りといた方がいいよ。」
と、口を横に曲げて言った。たちまち、件のハンバーガーの少年が「条件付」という形容動詞を口にしていたことを想起する。客船スタッフらしい男たちがゲートの向こうで、
「貸し毛布は1枚100円で乗船後、案内所にて貸し出します!船内放送のご案内をお待ちください!」
と、メガホンのグリルごしに怒鳴っていた。

♪ought to think twice
 ought to do right by me

Bメロにコードネームのごとく鳴るその英語詞を彼は反芻したが、小学5年生の男の子の後ろ姿を見送る者は誰もいなかった。
疑念の眼差しも咎めの声かけも無く、チケットの半券はもがれ、港湾コンクリートのプラットフォームの端に浮揚する、4000屯級客船の左舷ポートサイドがサーチライトの中で白く浮かび上がり、可変ピッチプロペラをアイドリングさせた巨大なディーゼル機関が轟音を漏らしつつ微かにローリングを繰り返していた。未だ行った事も見た事も名前の読み方すらも知らない目的地へ向けて、彼は衣装カバンをぶる下げたまま船出のための一歩を軽やかに踏み出した。

どんぐり と たいやき

October 26 [Tue], 2010, 22:56

 第1メゾ、メタルフレーム眼鏡のパートリーダーが半分上気しかけた顔を広げて指揮者に告げた。
「先生!ユーリ君、来ました!」
ゲネプロの開始はとうに押し、ケイタイを肩の高さに掲げたまま緊急召集に応じて報告を交わしたマネージャー嬢が彼の姿を認め、がくりと緊張を解いた。
「ユーリ君!今、お母さんに電話したところだったんだぞ!」
何回目の電話だったかを指揮者は言わない。楽屋口のセキュリティーさんに連れられて、男の子は秋の地面に引きずって汚れた合皮のスーツケースを重そうに抱えている。背後の子どもたちは控え室に充てられたホールのリハーサル室で今まさに整列し、ステージに繰り込まれようとしていた。めざとい5〜6年生がモカシン靴をカパカパつっかけて出てくると、それを追って20人近くの少年たちが真っ白なソックスの足裏が汚れるのもかまわず、出迎えとばかり戸口からあふれて男の子を取り囲んだ。ユーリ少年のシンナリした泥臭いかさかさの腕に、何か重量のあるものが抱えられているのを誰もが見てとった。はじめ、それは柔和な凹凸のある塊であることから小さな子どもの頭のように思われた。楽屋通路の抑えたダウンライトが、外椀にとめられた合唱団のバッジをほんのりと光らせ、彼らは少しだけ驚かされた。膨らんだ紺色厚手の袋の正体が何であるか、ぎりぎりいっぱいまで押し込まれたナカミを見た少年たちは「わぁー!」とたちどころに嬌声をあげつつ納得した。
「先生!ドングリだぁ!ドングリ!」
暖かい鉛筆の先を取って据えたようなシイ、公園の地球儀を小さくして染めたようなクヌギ。夏の少年の美しいきらきらした指爪か、色ツヤとかすかな縦筋が、どの実にも健康そうに入っている。男の子はそれをステージ用のベレー帽の中いっぱいに詰め込んできたのだった。
「ココの前の公園で拾ったのか?」
「はい。」
「ユーリ君…。しかし、ずいぶんたくさん拾ったなぁ。」
「先生!感心してないでちゃんと叱ってくんなきゃダメですよ。リハーサル押してます!」
1メゾのパートリーダーがナマイキな口をきいた。
「あのね…なんか知らない子がいっしょに拾ってくれたの。助けてくれたよ。一人じゃこんなに拾えないもん。『みんなに分けてあげな』ってその子に言われたよ。」
中堅の高声の3〜4年生たちがわあわあ言いながら逆さになったベレーの中身をぐりぐりと触って木の実の感触と重さを確かめつつ物色している中、ほんの数名の上級生が何を感じたか一瞬真顔に戻った。子どもの人いきれを押し戻し、指示を振りかけつつ入場隊形の先頭に立つ指揮者のところにパートリーダーが舞い戻ってそっと肩を寄せ、小声でささやいた。
「守ってくれたんでしょうか?」
「うん。多分な。コンサートホールの前の公園と言っても、天パーで可愛い3年生の男の子をつけ狙う不審者が何人かうろちょろしててもおかしくないだろう。たぶん、守ってもらったな。それとも、本当にキミたちへドングリのプレゼントをくれたかの、どっちかだ。」
「…お守り…でしょうか?」
「うーん。どうだろう。いずれにせよ、もらったら大切にするんだな。」
団員らのリハーサルの声をモニターで聞きながら、ドングリは控え室のフローリングにぽしゃりと置かれたベレーからこぼれ落ちそうになって光っていた。


 ♪たいやき たいやき こわいぞ!
  こわいぞ こわいぞ ほらほらほら
  でっかい ギョロ目を カッとむいて…

少年たちがどの子も当たり前のように両腕を体側に放ち、しかめっ面のまま斉唱でそこまで歌うと、仕込みを終えてなお座りの悪い譜面台の前で指揮者がストップをかけた。
「優秀な少年合唱団の諸君、最後の警告だ!『たいやき』の前奏のピアノは何回?」
「・・・」
頭不揃いの感覚はあったが伴奏についての質問が来るとは思っていなかった子どもたちは一瞬答えに窮して口ごもった。
「5回…ぐらい?」
前方の3〜4年生の何人かが先ずもごもごと自信なさげな答えを返した。
「5回ィ?…『5回ぐらい』の『ぐらい』ってのは何だ!」
彼らは照れ隠しに小さな声で笑った。すると今度は上級生のうち、厚顔のやかましい連中が隊列の後方からぴしゃりと億劫そうに声を投げた。
「先生、4回でーす。」
変声の始まりかけたしゃがれ声の団員も混じっている。
「4回でしょう?!きちんと心の中で数えてから歌い出してくれよ。先生の指揮をそんなに頼りきりにされちゃ困るな。タクトが上がってはじめてスタートに気付くなんてのは団員失格だ!」
ステージ・ゲネプロの段階になっても未だ歌い出しに日和見を生じる。日によってスパンと始まるときもあれば「こんな事が今になって何故?」と思う問題噴出の一日もある。中学年の彼らが何故前奏のリフレインを直感で『5回』と唱えたのか、歌い出しを知る指揮者には十分理解できるのだが、不可解なこの出来映えのムラこそが小学生男子の合唱だと彼は観念した。

「インディアンのかばやき!」
「・・・」「・・・」
「だるまさんがころんだっ!…はい、ソータ君!」
「え゛ー!動いてないだろ?!」
「今、口が動いた。」
「何だよ!ズッけえ!くそアルト即ぶっ殺す!」
 かまびすしく、いつも必ず団員のうち最低誰かしら一人がソワソワいらいらメソメソつんつん尖んがっている少年合唱団にも秋が訪れた。コンサートホールのパティオの床面に貼られたにびいろの瓦のようなタイルが、確実に傾き始めた午後の光を受けて子どもたちの細長い影法師を動かしている。直線的に切られた中庭の空の外縁から、キンモクセイの匂いが舞い下りて来て、遊び時間の少年らの肩を焚き染めた。遅刻した団員の報告を聞き、指揮者は胸騒ぎを感じて隣接の市民公園に合唱団を放つことをやめた。並んでいる野外彫刻や水盤に決して触れたり近寄ったりよじ登ったりしてはいけないと念を押した上で中庭にて10分間の期限を切る。だるまさんがころんだ。ドン・ジャン。適当なSケン。おんぶ騎馬戦。ミニ泥警。ものまね歌合戦?しっぺ。ケン相撲。…多様な階層の男の子が人工的空間の中、所狭しと入り乱れて遊んでいる。
「先生、ボールしてもいいですか?」
男の子だけの合唱団だ。最低でも3名の子が常にビニールボールを通団カバンに忍ばせて持ち歩いていると考えてみたら良い。直径8センチほどの蛍光イエローのボールが、まあるく刈り込まれた植栽の上をすうーっと飛び交って、突然「手打ち野球」が始まった。10分休憩のルールではチームは組まれない。打者をやって出塁が終われば内野手兼務のライト・ピッチャー・レフト・その他大勢の順番で守備をやり、運が良ければ2回目の打席に入ることができる。捕手は無し。集まっているメンツは4年生と5年生が中心だが、所属はソプラノ・メゾ・アルト入り乱れ、ごた混ぜの様相。与えられた600秒の間に自分がロールを最低一巡できれば彼らは満足してリハーサルに戻る。
「先生。ユーリ君の拾って来たドングリ、配らないんですか?」
メタルフレームの眼鏡のレンズをリンドウ色に光らせて、第一メゾのパートリーダーが聞いた。
「ナカっち!それから、山崎!…伊藤君といっしょにユーリのドングリを今すぐ配ってくれ!」
団員歴の長い2人の少年。彼らは先ず顔をきちんとこちらに向けて何の未練も感じさせず「はい」と応じ、「3塁ベース」ということになっている床埋めライトとファウルライン代わりの花壇の縁石の上から離脱して駆け参じる。ライトアップ照明の上に出来た秋色の空地に、4年生のソプラノがふわりと滑り込んで数秒もかからず野手の欠員充填は完了した。

「予科の頃はずっとガナってた。声は大きいし、ノドはギチギチに閉めてるし、ともかくスゴいんだ。でも、イケメン予科生で、なんかお母さんたちからは『キリっと系の美少年deプチ・カッコカワイイ!』とか言われてたよ。」
「ウソ〜。本科になってからは?」
「やっぱりプチ・カッコカワイイって呼ばれてた。」

 ♪食ってみやがれ チビッコめ!

トップする頭の「食って」のピッチがどうにも揃わない。「チビッコ」という語彙は西暦2000年を過ぎた今、既に「放送するのにふさわしくない用語」の一つに成り下がっている。正確な「音程」で上がりきれない子どもたちが低声を中心に1ダースちかくもいて、ユニゾンの箇所におぞましき短三度のゆらめきが起こっていた。全くもっていただけない。指揮者の手で犯人探しがはじまる。同じフレーズを何度も歌わせながら、きちんと歌えているグループだけをしゃがませていって休ませた。ピッチを崩した子どもたちが立ち残り、あぶり出され、次第に絞り込まれてゆく。アルトの最右翼に組まれた平台の縁で、すでに体操座りになった2人の6年生の片方が通団服のソックスの膝を抱え、カタワレがズボンのポケットに手を突っ込んだまま小声で話している。
「…やっぱりプチ・カッコカワイイって呼ばれてたけど、本科でもしばらくガナってたな。」
「2年生になってもまだ?」
「アルトの先輩たちが先生がたに、『こんな大声でガーガー歌うヤツがいると、僕たちは合唱できない。しかもデカいつらしててナマイキです。団員失格だから、コイツを即刻クビにしてください!』って、トイレ休憩のときにいっつも食って掛かってたよ。」
「クビにしたの?」
「まさか!『ガナり声は、この子のせいじゃない。全部、先生の責任だ。こういう怒鳴りガナりを綺麗で艶のある声に変えるのが先生方の大切な仕事なんだ。ただ、本科に上がったばかりだから、もう少し時間をくれないか?秋までには何とかするよ。』って、本人の前で最後までかばって期限付きで約束したんだよ。」
「その子、全部聞いていたんだなぁ?」
「先生が守ってくれた…ってわかってたんだろうね。夏休みが終わったら、もう文句を言う5〜6年生は一人もいなくなっていた。代わりに僕らの前列に立って歌っていたのは、低学年のくせに声量のある、キュッと締まったいい声質のプチ・カッコカワイい2年生アルトだったけどね。」
「やっぱ、先生たちって、スゴいね!いい仕事してます。」
「だから、あんなにオニできびしくておっかない先生なんだけど、あいつは大好きだったみたいだよ。合唱団で友だちがたくさんできた後も練習時間以外はいつも先生に抱きついてハグハグしてたもん。怖くなかったのかな?」
「うわぁ。そりゃ出来ないわ。ふつう…。」
途端、低声エッジに強大な雷鳴が轟いた!
「おらッ!そこのアルト6年二人!さっきから何、くっちゃべってんだ!うるさいっ!今すぐ立って先生のところへ出て来いっ!歌が聞こえんだろう!ばかたれッ!」
新旧のボーイアルトは顔色無くビリリとその場にすくみ立ち、ペナルティーを受けるためにそそくさとひな壇を下りて行った。

 ゲネプロ後のレーションは、小さな団員たちにとってホンバン前の大切な憩いのひとときだ。以後最長2時間近くを立ち通し、歌いっぱなしの10歳前後の男の子たちのために、後援会のお母さんたちがそこそこに腹持ちの良い高カロリーのオヤツを上手に見繕って差し入れる。事前に息子たちから「今日はステージで初めて『たいやき』の歌を歌うよ」とのプレミア情報を得ているママさん連が<冷めてもおいしい>たいやき計5種類を後援会費で調達し、楽屋代わりのリハーサル室のフォールディング・テーブルの上に箱ごとぽくりと置いた。
「…何だっけ?あんこ、カスタード、チョコ、ジャム…あと、何でしたっけ?」
「先生、マロンです。」
「はい、栗…栗餡ね?…それに、マロンの栗のアンコがあるから、各班、リーダーがわけてやること。…一人、いくつでしたっけ?」
「先生、1つです。」
差し入れ担当保護者の傍で指揮者が説明を聞き聞き簡潔な指令をくだす。
「全員着席でお祈りの済んだ班からリーダーがとりに来い。各班で『いただきます』をしたら食べて良し!食べ終わったら座ったまま食休み。立ち歩き禁止。説明終わりッ!」
体操座りや正座の子どもたちがぴかぴかの膝頭を揃え、青い瞼を閉じて黙祷している。子どもの温かいかすれた鼻息だけが辺りにたっている。やがてリハーサル室一隅のあちらこちらで「お祈り、やめ!」の声が上がり、ごとごとくぐもった音をフローリング床にたてながら、年長の少年たちが出頭してきた。
「最初はグー!じゃんけんぽん!」
「やった!勝ったぁー!」
5種類のフレーバーをあえて混交して供するのは団員をとりまく大人たちの密かな楽しみのためだ。「ジャンケンで勝った順」という最終的手段で配分をする班は少ない。毎回必ず「下級生優先で好きなものを選ばせる」班。前回「下級生優先」だったから、今日は「高学年優先」という公平を重んじる班。1匹を人数分に千切り分けて一人が全種類食べられるようにしてやる班。一人一人食べたいものを言わせ、希望が重なれば半分こなどで調整という班。選抜を受けてこの仕事についた少年たちの、仲間や下級生を思いやる采配の良さと心豊かな日々を目撃できるのが、毎回、母親らと指導陣の楽しみの一つだった。最後まで黙祷の継続を怠らなかったソプラノ・リーダー兼班長が最後に馳せ参じ、差し入れ担当の自分の母から班員のたいやきをもらう。伸べた両手の中にふやけた紙袋を入れてもらい、ぺこりと無頼な表情で頭を下げたわが息子の面影は、傍に感じた体温こそよく知るものだったが、ワイシャツ、半ズボン姿で仕事に来たどこぞやの分別ある頼もしき少年に見えた。
「いただきます!」
「いただきます!」
人々と構造物とそれらの生活を絶えず灼熱に炙り続けた終末的な東京の夏は幾何級数的に私たちの側から遠ざかり、気が付くと大気は青い青い秋のきらめきで揺れていた。人工的な光に満ちた控え室代わりのその部屋に、レーションを食む少年たちのいきみ声と焼いた重曹と卵と小麦粉の静かな匂いがたった。
「では、こちらは先生方とマネージャーさんで、どうぞ。」
余剰のたいやきがテーブルトップにしゃなりと置かれ、それを見た指揮者が「お母様がたも、どうぞ。」と応酬し、毎回のルーチン通り「…いえ。わたくしたちは、お毒味で前もって頂いております。」と言葉を返す。丁重に謝礼したマネージャー嬢がナカミの個数を確かめもせず、うちの一つを素手でつまみ出し、取り置こうとして小さな紙袋の存在に気付いた。明らかにたいやきが既に一つだけ分けられ、そなえられている。小学生男子の集団行動に「予備の品」は不可欠であろう。だが、母親たちは「こちらで用意してありますから、お取りになったものは先生方にどうぞ。」と上手に誘導する。おいしそうな匂いの充満した筋入りクラフト紙の麦穂色の袋の中で、たいやきが一匹、誰かに食べてもらうのを心待ちに目を開けたまま眠っていた。
「山崎君、出て来なさい。このたいやきは、今日はキミが貰うんだ。『小さい秋みつけた』と『赤鬼と青鬼のタンゴ』のソロもあるし、アンコールMCでお客さんを煽る仕事も控えている。大役にタイヤキだ!」
口をもぐもぐさせながら小走りでやってきた6年生は、まず口中のものを飲みくだし、ニコリともせず話を聞いていた。テーブルの上、彼はボディバッグにくるまれた魚体にフッと頭を垂れて一礼し、静かに目を閉じて深く合掌した。それから子どもの人いきれのする原隊に戻って腰を下ろし、神妙な顔つきのままキツネ色の「オカシラ付き」に白い四角い歯をたてた。周囲の少年たちの誰も決して物欲しそうな目をしなかった。


 ゲネプロの時間が極度に押しはじめ、児童合唱のコンサートにはおよそ似つかわしくないバリライトがひな壇の箱馬を炙って独特の匂いを放つと、さすがの彼らも観念して器用な歌を歌い始めた。楽譜の配られた当初、曲調の転換部とコーダ近く、シュプレッヒシュティンメの抑揚で殆どニュアンスが揃わぬ皆は大変苦労していた。淵江少年少女のOGだという保護者の一人がVBCの歌う「たいやき」のレコードを持っており、それを他の親が自宅のコンパチブル電蓄でカセットテープにおとし、さらに他の後援会員がカセットから自宅のパソコンでMP3に変換してUSBメモリへ収めた。ぎりぎりソフトモヒカンでニンニク臭い息のメゾソプラノ4年生がそのデータを指導者に差し出すと、打ち込み参照のために持ち歩いているミニ・ノートへ読み込んで、練習スタジオのアンプにつないだ。21世紀の団員たちは、30年以上も前の少年らの歌声を神妙な顔つきで2回聞いた。彼らの正直な感想は、「古臭い」と「昔の子の話し方に聞こえる」だった。だが、新ウィーン学派もウィンナワルツもウィーン古典派の音楽も、必要とあらばジョスカン・デ・プレもパレストリーナも歌ってみせる…「古臭い歌」「大昔に作られた歌」のご披露をナリワイの大切な一部にしている彼らはVBCのその「昔の子の話し方」を忠実に受け入れて歌を纏めた。「おさるのかごや」にソックリなピアノ前奏。「♪カッと剥いて」「♪さぁさぁさぁ、食ってみろぃ!」「♪とがった背びれをピンッと立ててぃ」…クリアでパンチの効いた江戸弁の子音とべらんめえの母音が音圧のあるユニゾンで繰り出され叩き付けられる。男の子らしい威勢の良さと宵越しの銭は持たない潔い生活感が、前半を彩るモチーフに満ちあふれ、少年たちは祭り囃子のように歌っていた。指導者を睥睨し、ねめつけつつタクトを見抜くのだが、同時に彼らの耳はホール残響から得る自らの声のフォルマントを注意深く聞いていた。ブレスの前に唇をきつく閉じて唾を飲む者。深く長く目を閉じて瞬きを終える者。下唇を咬んでいたかと思えば、太いベロで口のまわりをべろりと舐め回す者。ズボンと太腿の境目に掌をきつくなすりつけ、手にかいた汗を今さら拭おうとする者。頷くようにして小さくリズムをとり、納得する者。

 ♪だけどサ…

 彼らが確定の逆説条件を脇へポンと押しやり語調を変えた瞬間、曲は一転飛躍してギャロップの場面に突入する。祭りはやぶれかぶれの狂乱へと流れ、神輿は激しく暴れまわり、子どもらは甘くねっとりしてアツアツのたいやきと大乱闘を繰り広げる。彼らがガラスを弾いたような不協和のハーモニーを奏でるのは、この部分の中核のごく刹那だ。齢十歳前後の身体を使った強弱と高低の鮮烈なコントラスト。無窮動で馬車馬のようなピアノ伴奏のばく進。そのとき、彼らは過去の少年たちから受け取ったニュアンスでシュプレッヒコールを唸るように叫ぶのである。

 ♪美味ぁいーぞぉー たいやき!
  甘ぁいーぞぉー たいやきッ…
  あれれれ? とうとう 食べちゃった!

 少年らが畳み込むようにそそくさと曲を終えると、ゲネプロの進行中であるにもかかわらず指揮者はステージの仕込みの位置がどうしても気になるのか、子どもたちをいったんその場にしゃがませてスタッフに声をかけた。

「どうせたいやきみたいな少年合唱人生。アンコは所詮しっぽの先まで入っちゃいないし、冷めたら皮が硬くなって美味しく無いし。」
ソプラノ6年のグループは大概にそういうことを言う。
「熱けりゃ熱いで口の中を大ヤケド!」
「ちょっと指で押しただけで破裂してナカミが飛び出しちゃう弱っちょろさ。」
「型はあるけど、焼き上がればボツボツの穴だらけ。」
「外国行ったら、もう売られてない。」
「チョコたいやき、ちびたいやき、たいやきアイス、ふなパン…と、マガイモノは世間にゴマンと増殖、蔓延中!」
「でも、逃げ出したり世間を泳いだりして歌にすりゃオリコン・シングルチャート史上類をみない日本記録にもなるね。」
「その曲を送り出した番組は、今はBSに追い出されて十年一日なBeポンキッキになり果ててんじゃん。記録の末路なんて概してそんなモンよ。」
彼らが増長しきった口調で減らずぐちをたたいている間、指揮者はリハーサルの再開のためメゾ最前列の3〜4年生を立たせようとしたが、そのうち一人の右手の握った拳骨の先っちょから、ナッツ入りチョコボールのような小さなカタマリが跳ねて落ちたのを決して見逃しはしなかった。
「おい!ハルカ、そりゃ何だ??」
「・・・」
「何だ?」
男の子はスカスカの消え入るような嗄声を発し、口をぱくぱくさせている。
「…ポケットに手をつっこんでる少年たち!全員立ちなさい!それから君らが今、ポケットの中で触っているものを正直に出して見せてごらん。ほら!見せなさいっ!」
少年らは習慣から先ず跳ね起きるようにして二脚を重力方向に伸ばし、躊躇しつつ身体をひねってパートリーダーたちの表情を伺う。ナカっち!それから、山崎。…伊藤君。パトリの顔色は、赤や青や黄色に豹変した。一群が地獄イスのように両手を前に突き出して拳固を解くと、偏光するステージのサスペンションライトを浴び、各人一対の大小のどんぐりがダイヤモンド色に濡れて輝いている。
「他にもまだ、ドングリをポケットに入れて持ってるタワケ者はいないか?いたら、すぐに立て。」
指揮者は怒声のボルテージをあげ、全てのパートからあまねく少年たちが一人、また一人、さらに連れ立って3人、4人と腰をあげはじめた。シモ手ピアノ際最前の小さいソプラノから隊列最右翼の端っこ上段の6年アルトまで…結果的に全員が立ち上がり、指導者らがあんぐりと言葉を失って腕を下ろしたとき、座敷童チックなメゾソプラノで栄五郎がぼそりと言った。
「…伊藤先輩たちが、大切な<お守り>だから全員必ずポケットに入れておけ…って言ったんです!」


 東京とその近郊に根付いたクヌギやナラ、シイ、カシたちにとって、彼らの種子が運良く生き残り、子孫繁栄につながるようなことは残念ながら殆ど起こらない。秋の爽やかな降雨と鉛色の空から吹き下りる風とが木立をゆする日々、趣向をこらしたそろいの帽子をまとうどんぐりたちが、あるときはいつの間に、またあるときは弾薬のようにぽとぽとと落ちて来る。最初に彼らを一網打尽に集めて処分するのはシルバー人材センターに結集するグリーンの作業着を着た老人たちだ。その後、彼らと先を争うかのようにして緑道沿いの小学校から生活科の授業の2年生がやってきて、「<1000までの数>の勉強に使う」というもっともらしい口実でおびただしい数のどんぐりをかすめとる。おこぼれは五色のおでかけキャップをさっくりかぶったお散歩の保育園の子どもたちがキャーキャー言いながらつまみとったり、徒党を組んで放課後校庭開放に送り込まれてきた学童保育の2〜3年生が憂さ晴らしに踏みつけて粉々にしてみたりと、結実は殆ど種子散布に貢献しない。
 中山アンビは通団カバンのジップポケットに投げ込もうとした2つの木の実を掌にのせ、しみじみと眺めた。曖昧な茶髪のアルトに配当されたのは丸々太ったアベマキのドングリが2つ。先輩カゼを吹かせるおっかない顔の5年生だからこそ、彼はこの見事な出来のキズ一つない2粒を得た。小さなみぐるみを飾るあたたかく繊細な縦の線を見て、年輪のようだと彼は思った。殻斗とは逆側の子葉のへそのように尖った部分に親指の腹を這わせればチクリと鈍い感触がある。男の子はそこで未だ何も言われてもいないのに、衣装カバンの中から紺ベレーを抜き出すと、合唱団のバッジの位置と頭頂のネームタグの傾きを瞬時に目測して一番かっこ良く見えるよう後頭部に載せた。彼らがそうして半ズボンの脇ポケットから小さな茶色い<お守り>を握り出し、カバンの中に投げ、ゲネプロ再開のため急かされてリハーサル室の前に隊列を作っていると、上階から大人たちの発する怒号や乱れた跫音、東奔西走する大混乱の気配が聞こえて来る。合唱団には突如「その場にしゃがんで待機」の緊急指令がかかり、指揮者は状況把握を待つ間、子どもらのきしきしした髪を上から眺め下ろしつつ情報収集のためにマネージャー嬢を走らせた。
「ステージのド真ん中、メゾの立ち位置の真上から不要機材の落下事故だそうだ。ブリッジの確認と落とし物の撤収に20分以上かかるが、数分押しで緞帳が上がる。リハ室でゲネプロ続行。…以降の仕込み関係の擦り合わせはほぼぶっつけということになる。今日のコンサートもキミたちお得意の『その場しのぎ』ってヤツだ。がんばろう。」

 ホールロビーに追い出され、通団服の革靴のソールをブリリアントな絨毯の毛足にコポコポ言わせながら合唱団は集合しバラしのミーティングを終えた。出迎えの保護者らは既に招待した学校のお友だちやファンから息子に贈られた花束をかさかさと抱いている。後援会のケータリング当番で「冷めてもおいしいたいやき」を差し入れた母親も、すっかりナマイキな普通の6年男子に戻ってしまった我が子の横に連れ添って今日のMCのダメ出しをしている。ゲネプロ中に低声エッジでおしゃべりを続けていた2人は合皮の衣装カバンをくにゅくにゅと8の字に振りながら、メインエンタランスの右はじのガラス扉を押してテラゾーのピロティに吐き出された。ホールの前の公園は青色防犯灯とグレアのきついランプにところどころ照らされてはいたが漆黒の林であることには違いなかった。
「どうして助けてくれるのかな?」
「…あいつ、合唱団好きだったもん。楽しそうに歌ってたし…。今だって家や学校に行くより、僕たちの歌を聞いてる方が幸せなんじゃないかな。」
「立派な少年合唱団員ってのは、そうやってきちんと自分の仲間だった子を守るものなんだなぁ。」
「僕も少年合唱団員なんだけどできそうにないな。」
「俺も少年合唱団員だけど、絶対に出来ない。」

 本科に上がりたて、ぽちゃかわウチナンチュー顔の3年生団員親子が彼らの行く手を斜め半分に塞ぐ。キャラメルケース大で白金色のオリンパスμを携えたママさんが言った。
「この4月から本科に入れて頂いた前江です。トーヤが先輩方のこと大好きなんですけど、いっしょに写真に写ってくださいませんか?」
実の子はどうやらダシに近い存在らしく、「ミーハー母ちゃんに付き合わされちゃった」とばかり表情を歪め、子ども同士目配せをしている。上級生アルトの保護者らが本人たちの頭越しに依頼へと応じ、即、交渉成立だ。先々週のステージまで息子が着ていた開衿シャツをそろそろクリーニングに出し、クローゼットに仕舞うことにしようと母は勘案した。どうせ来年の5月のステージでそれをまとうのは本人ではなく、母親が制服交換会であこがれの先輩の「おさがり」をゲットするココにいるような後輩オチビさんたちに違いない。襟の織タグにつけた息子のアイロンネームはきれいに剥がれるだろうか?
 写真には妙に撮られ慣れている今年の6年生たちは子役臭い厭味を感じさせない程度の自然なポージングで、歯を見せて笑いjpegデータに収まった。彼らは休憩時間に遭遇した「あんこのはみ出したたいやき」をめぐり、しばらくの間うんちくじみた閑談に興じていたが、じき、透き通った秋の夜気と快い一日の疲労に苛まれ、最寄り駅までのしばらくの間、感謝をこめて上下の唇をつぐんだ。

横須賀線citronomachy

October 06 [Wed], 2010, 7:00


一 午后の練習

 「先生…先生…トーヤ君が居ません。」
熱沙の叫びはもはやとどまるところを知らず、夏休みの盛りの練習場のドアの前には濃密な湿気を帯びた温柱が蒸気圧のまま居座っているようでした。炙り上げられた生き物たちのかつてのたましいの痕跡をひしゃげたガラス窓の向こう側に認めることは出来ません。スタジオの有孔壁にかかった天文時計の液晶ディスプレイが強烈なエアコンの中でひんやりと「ペルセウス座ガンマ流星群の日」と明滅を繰り返すその日の午後、休憩時間の終わりから既に10分近くも過ぎようという頃になって、4年生ソプラノがひとり自らの「楽譜ファイル」を抱きしめながら申し訳無さそうに出て来て言うのです。
「先生…トーヤ君が居ません。」
「…」
「トーヤ君が帰ってきてません。」
「おい!前江トーヤ君、居るかー?先生に黙ってどこかへ行くなー!」
小さいお尻には似つかわしくないパイプ椅子の座面が一つ空いています。
「先生。トーヤ君はトイレです。泣きに行ってます。」
少年たちは誰もその復命に応じようとしませんでした。小さな80年代ふうのつくりのトイレは団員たちの感情のシェルターになっていましたし、彼らは皆、同じ経験を通過儀礼のように共有していたのですが、このときばかりは言葉につまってしまいました。2年生のイケメン・アルトだけが本当に小声で「トーヤ君は、トイレじゃアリマセん…人間です。」と、指揮者の口調を真似てひとりごちたのですが、誰にも聞こえてはいませんでした。

「たぶん、さっき出て来た巨大クモのせいだと思います。」
真っ黒い顔のカネゴン君が言っているのはスタジオで彼らが背にしている壁面に張り付いていた1匹のアシダカ蜘蛛のことです。蛛形節足動物が内装に落とすビュイック・スカイラークほどの大きさのムラサキ色の影を見て、少年たちは飛び上がる程驚いていました。こうして指名され、男の子はトイレのドアの前でつとめて優しい声を投げたのでした。昼光色の蛍光灯を節電のために落とした薄暗い廊下にも容赦なく暑さは充満していました。
「トーヤ君、クモはもういないよ。出ておいでよ。今度またアイツがココに出て来たら、先生が追っ払ってくれるって。」
前江トーヤは、嗚咽をこらえ、聞き耳をたてていた様子でしたが、ドアごしに話が伝わると火がついたように激しく泣き出すのです。合唱団は「烏瓜って真っ赤だな…」と『まっかな秋』の練習の続きに入ってしまっていました。今まさに午餐のため絞められようとする家禽の断末魔のように下級生が酷い声を出して泣くのでカネゴン君はすっかり困窮してしまいました。少年合唱団でこの声は拙速です。ブレスが整うかどうかの問題よりも、咽をきつく閉めて声をあげるので声帯を痛めてしまいます。先生は常日頃、練習中うつむいてトイレに逃げ込もうとする団員たちに小さい声で「泣くときは声をあげるなよ。」と言い、ヒゲの生えそうな上級生にはもっと小さな声で「自分でやるときは、咽を痛めるから決して善がり声を出すなよ。」と個々に忠告します。
「♪冷やしカーレーうーどぉん!冷やしカレーうどん!」
カネゴン少年は策も無く成り行き任せの歌を歌いました。『Walking in the air』のオーディションで戦友に学んだ巻き舌をルルルレーと器用に使いながら、俄にわいた食欲で潤った舌を上唇に乗せ、自分の静かな鼻息を聞き、反応を待って声をかけました。
「トーヤ君。練習が終わったら、お星様を食べに行こうナ。帰りは僕が守ってあげるから、心配しなくってもいいよ。」
号泣は止み、4年メゾの息みは止んでいます。
「僕、練習に戻るから、気が済んだらいつでも出ておいで。キミは知らんぷりで席に戻ったらいいさ。」
「…カネゴン君。お星様のお店で、オレンジ食べてもいいの?」
「いいよ。トーヤはトーヤの好きなものを食べたらいいさ。でも、金星は丸くて身が詰まってる。質量が大きいよ。重いから、必ず切ってもらおうな。」
トイレのドアノブに記された鍵表示は最初からブルーのままでした。


二 ミルキーウエー

 トーヤ君が路傍のアド・ロボットにもらった巨大なハッカ・パイプのリップを噛み噛みミルキーウエーのガラス扉を押すと、彼の頭上ではクイックシルバーとアルゴンのネオンサインが不機嫌そうにバチバチと音をたてていました。星々の散りばめられたソーダ・ガラスにしつらえられたホールを見渡すと、先に来ていたのはカネゴン君ではなく、バレリーノのような美しい脚を交わしたアオケン君。上級生は、三日月形のテーブルの上、バイオレット・カラーの液体に満ちたキラキラ光る8オンスタンブラーをコトリと打ち置いたまま姿勢を正し、首だけを曲尺のように折って、何かを一心不乱に刻みつけているのでした。
「アオケン先輩は、何を飲んでいるの?」
先輩は顔を上げるなりトーヤ君の皮蛋色の瞳を見つめ、問い返します。
「トーヤ君は、僕に『何を書いているの?』とは聞かないの?」
聞いても仕方ないのです。ここにはお星様を食べたり飲んだりしに来たのであって、何かを書いたり読んだりしに来たわけではないのです。
「ドライポイント?」
「はずれ!」
「じゃあ、メゾチント?」
「書いているのは、文字だよ。」
「わかった!ビュラン彫り?」
「そんな難しいのじゃない。」
「うーん…クレパス・スクラッチ?!」
「そんなので字が書けるかい?」
最後にトーヤ君の背中から、柔らかい頼もしげな3人目の少年の声がしました。
「アオケンちゃんの切っているのはステンシルだよ!」
カネゴン君がいつの間にやってきていました。

 アオケン君がぱりぱりと湿った音をたてるロウ原紙の前に座りなおすと、本格的なカクテル・アワーの到来です。おろしたてのボタンダウンにエンジの蝶ネクタイ。土星のワッペンのついたブレザーにチェックの半ズボン。チョコレート色に肌の透けた黒いタイツとアーガイルのソックスをはいています。靴はもちろん1枚タッセルのローファーです。彼がこの時刻にこのスタイルなのは、ここで筆耕の仕事をしながらレプス君の遊びの誘いを待っているから…。ポケットに忍ばせた光子電池やミント・パイプ。ちょっぴりかさばる携帯用サイクロトロンや石英ガラスのビー玉やらをトビ道具に、夜中じゅうそこいらをうろつき回って遊ぼうという算段です。
「このクネッケ、少し湿気ってるね。」
そんなことを言いながら、ラベンダー・リッキーを舌先で舐めていたりします。それでも右手はきれいに鉄筆を握り、カリカリカリカリと鉱石粉の削りかすを振りまきながら何やらガリを切り続けています。 ミルキーウエーのラウンジエリアには、床一面に大マゼラン雲の構星図が埋め込まれています。マイスナー転送されてきた遥かな象限の光が少年たちの小さな硬い脚の下にちろちろとかすかにまたたいています。トーヤ君がお望みの宵の明星を柔らかな両手で挟んで持つと、ずっしりとした質量が日焼けした腕にかかってきます。焚き染めるようなネロリとベルガモットの香り。2人の上級生が抱くようにして彼と惑星を眺めています。
 カネゴン君が尋ねます。
「瑠音君の家の天文台は?」
「行ったよ。こぐま座の測光に2度も失敗して、その間に瑠音っちのおじいちゃんがお料理を焦がしちゃって火事になるところだった。」
アオケン君は、途中になった原紙の文字を原稿と見比べながらざっと校正をかけると、傍らに転がすようにしてうち置かれた修正液の小壜に左手を伸ばします。
「結局、瑠音君たちと途中まで行ったんだけどね。」
「帰って来ちゃったの?」
「だって、途中でビル人間とかが破壊されてるのに遭遇しちゃったり、鳥人間が『危ないから引き返せ』って叫びながら飛んでたりするんだもの。」
男の子はマニキュア壜のキャップをカリリと小さな音をたてて少し回して外すと、慣れた手つきでミニ刷毛をビン口でしごいて余分な薬液を落とします。周囲にパッとマーブル飴の甘い匂いがたちます。
「わあ!きれいな色だね!いい匂いもする!」
「これは修正液だよ。普通は茶色いべっ甲色のイヤな匂いのやつ。たいていはアジア修正液なんだ。でも、これは萬古が作っている特別製さ!」
言っている間に蛍光桃色で濡れた刷毛を原紙の上に持っていき、11歳の左手人差し指で「HORII」と印刷されたロウ紙をつまみあげるとツッとそこに鮮やかなピンクのマークを落とします。カネゴン君がその刷毛をつまんで受け取り、ビンの口に戻します。戻しながら、小壜のエンボスを「マンコ?」と読んでいます。
「マンコじゃなくて、バンコ。キャップが割れない程度にきつく回して締めておいてよ。原紙は前はHEIWAを使ってたんだけどね。色付きコンドームみたいなブルーで、雁皮紙が薄くって僕は書きやすかった。」
言いながら、修正したところをフゥーと一定の風量で吹いて乾かします。
「今は、堀井トーホー・ホースなんだー。切っていて、クニュって厚さがある。何だかなぁ。イイ品なんだけど。原紙のメーカーを指定して来るお客さんなんていないから。ホントはどうでもイイんだけどさ。」
「それで、瑠音君と戻って来てどうしたの?」
アオケン君は修正液が乾いているのを慎重に確かめながら原稿の上に堀井ホースを置きます。
「瑠音君と戻って来たりなんかしてないよ。帰って来たのは僕だけなんだもの。」
男の子はインクのタップリつまった新品の細書き油性フエルトペンで、ロウ紙の上に何かの図を引きはじめます。
「瑠音君たちは?」
「こぐま座の三重連星の方にアタリをつけて行ったよ。観測の失敗は、どうも巨大魚の悪さのせいらしい…。」
「瑠音君たちだけで行ったの?」
「だから、そう言ってるじゃない。」
「…帰ってこれたのかな?ねえ、アオケン君は、今度は何をしているの?」
「これは、原稿の図を原紙に写しているのさ。こうやってマッキーで書いた上からヤスリでガリ切りするってことよ。ロウが融けないように描くのがコツ。だから溶剤入りの油性ペンじゃない方がいいね。別れるとき、瑠音君から、観測に失敗したガラスの偏光板を1枚もらったよ、これ…」
アオケン君がボタンダウンの胸口から馬上のナポレオンのように彼の右手を差し入れると、胸隠しの中からガラス板を1枚、中指と人差し指ではさんで抜き出して振って見せます。多孔質ガラスの板にはたくさんの空孔が閉じこめられてキラキラと輝いていました。ガラスの裏面から施された簡易レーザーの彫り込みで「Ursa Minor」とブルーの文字が読めます。日付とともにそれがスッキリと穿たれて読めます。


三 アクエリアス

 入場の指令がくだり、最初に気をつけることは前を歩く子の靴のかかとを踏まないことです。「前へならえをしたときと同じ間隔のまま歩きなさい。」と本科に入ったとたん教え込まれます。本当に前へならえをしたまま歩き始めると、シンマイ本科生は袖幕の前で待ち構えている中高生の先輩方や先生に半袖シャツの腕をピシャリと叩かれます。スリルを冒して先生方の目を盗み、その瞬間に自分の好きな子とベレー帽を互いにサッとすげ替えてしまう上級生もいます。見つかっても小声で怒鳴られるだけで、誰にももう手が出せません。ヤッタ者勝ちのたちの悪いイタズラです。5〜6年生はどうせベレーも「頭に乗せている」程度のイイカゲンなかぶり方の子がもともと多いですから帽子が本人のものかどうかはお客様にはわかりません。トーヤ君はヒロヲ君や品川君に帽子をひったくられたことがありますが、カネゴン君や亮平君にされたことはありません。無骨な彼らは着替えの時間に最初から「ベレーを交換してかぶろう」と目を潤ませつつ申し出て好きな後輩の持ち物をかぶって歌うことはあっても、イタズラで手を出すことは無いのです。等間隔の行進がひな壇上でストップすると、班長以上のソプラノの誰か(カミ手から入場の場合はアルトの誰か)が短く「右向け右!」と小さい声で鋭く号令をかけます。ベネチアンブラインドのスラットがパシャリと開くように、皆の体が揃って客席側を向きます。メカニカルなその動作は団員たち自身が『少年合唱ってカッコイイな』と思えるものの一つです。どのタイミングで言うかは全くの当て推量か気配や空間認知力といった団員独特の「カン」に頼ることになります。誰が言うのかは決められていませんが、最上段ならH君、上から2段目ならユーリ君、前の方の列ならレオン君で、毎回同じような子だったりします。たいてい、どの子の「カン」も的中します。予科生や低学年団員ばかりの列が入場してくる場合は、場当たりやリハーサルで自分の目前に下級生の最右翼の子を抱えたアルト団員が「ストップ!」の声をかけ、いっしょに「右向け右!」の呼号を発してしまいます。
 「輝く星座」の最初の注意点は音取りです。今日のステージのようにこれがオープニング・ナンバーになっている場合、音の感覚がまだリセットされたままの状態でのスタートですから警戒しておく必要があります。ピアノ伴奏の最初の和音を聞いて前奏のボカリーズを組み立てていかなくてはなりません。オフ・ブロードウエー・ミュージカルです。サイケでヒッピーな反戦ミュージカルの開幕の曲。「♪レソドラー♪♭レ♭ソシ♭ラー」半音ずつ3階層下りてゆく神秘的でエキセントリックな進行のために、その音が合っているのかは、殆どの団員には最初自信がありません。ですからカネゴン君は卑怯だとは思いつつも小さな声で「♪ルルルルー」と歌いはじめます。楽譜なら1段歌いきる頃になって、ようやくソプラノ声部の子でも霧が晴れるように自分の音程を感じとることができるようになりはじめます。突き出した唇を収めるのはピアノがロック・ミュージカルふうのベース音を奏ではじめた刹那ということになります。ピアノはエンディングまでベース音のフィンガーピックに徹し続け、最初の歌詞が出るまでの3小節半の間にトーヤ君は唇を舐め、カネゴン君は握ったままの指で掌のくぼみの汗を拭い、アオケン君は胸ポケットに黙って忍ばせておいたガラスの測光板の形を服の上から触って確かめます。

 ♪夜のそらに咲いた 星座はささやく ただ、愛だけを…

ユニゾンで繰り出された発句をアルトの少年たちがじんわりと下で受けていきます。訓練を受けたアルトでも、小学生では低い声へ届かずなかなかピッチが安定しません。ソリストクラスのアルトの子が黒目をぐるりとまわして指揮者の評価を表情から読み伺おうとします。メタルフレームのメガネの上からシーリングライトの煌めきを盗み見る団員。乱暴な口の開き方で気持ちをぶつけようと試みる子もいます。次の注意はロングトーンです。フレーズの終わりはモデラート四分の四拍子の全音符が少なくとも一つ分から、最長で3つ半のタイで正確に伸ばしておく必要があります。カネゴン君の声部にはオクターブ上の音、トーヤ君のパートにはト音記号の楽譜に一本加線の入った下の音が配当されています。練習場でそれを合わせようとどんなにもがいてみても小学生の男の子には難しい芸当でなかなかうまくいきません。前に控えた部分が四分音符ばかり比較的目のつまった歌詞で埋まっているために、カンニングブレスのタイミングがはかれません。本当の歌の実力だけがモノを言うシビアな曲なのです。小学2年生からいる男の子らが果敢にそれと闘う姿が「輝く星座」の見どころのひとつということになります。ところが伴奏の指定がノンコードへ解放されて曲がブレイクすると子どもたちが突然攻勢へと転じます。

 ♪アクエリアース!
 ♪アクエリアース!!

メインのメロディーを力強くキープするアルト。対峙のためシモ手側へトップしたまま減衰してゆくソプラノ。カノンするメゾソプラノ。再叫のソプラノ。受けるアルト。追ってゆくメゾ。高音圧のまま3つのパートが右左中央右左中央と激しく飛び交いつつ攻防を繰り広げ、合唱団のステージはもはや空中戦の様相を呈し始めます。次に曲がインテンポのままダルセーニョに押し戻されると、ラジエーター・キャップを飛ばすほど高潮した気分を少年合唱団は一瞬で鎮めます。リセットのうえ、冷静に冒頭へと帰投し、演奏が継続してゆくのです。指揮者に向いたメゾ団員の肩が、トーヤ君の胸に当たるばかりになっています。彼はフガートの途中で半歩前へ動いてしまったのかもしれません。ストレスをかけて歌っている時に身体の重心が水平に動くという事は普段ありえないことなのですが、今日はどういうわけかそれが起こったのです。男の子は前頭葉の片鱗で事態を忘れようとしながら小脳虫部を使って立ち位置の微調整をかけます。すると、間髪入れず背後にあたるカミ手がわの位置から合唱に紛れるよう斟酌したアンビ君の声がコツンと彼の後頭に当たります。
「前!前!」
《僕に当たらないように前へ出ろ!下がるな!》…でしょうか?それとも《演奏中に動いたのは前の子だから、きみは動くな!》…でしょうか?いずれにせよ自分が制止されたと判じたトーヤ君は歌いつつ行動を慰留してしまいます。

「♪かがやく…かがやく…」と訳詞の末尾が繰り返し叫び上げられ、先生が左手で叩くきついピアノのベース音が鼓動のように時を刻みます。カネゴン君と品川(兄)君が、もう手遅れでしょう?と心急くほど「溜め」きった(もどかしいくらい遅い?)タイミングの後に隊列上段からダダダダ…と少年たちの肩口をかすめ馳せ下りて来ます。2サスのライトに照射された暑気の中、2人のソリストが走り抜けた後には微小で寒暖を感じさせない一陣の風が起きます。パートも背丈も違う2人がそれぞれのタイミングで離脱しているはずなのに、エキスポランドのジェットコースターのようにソロのバミ線の上で彼らはピタリと同時に邂逅して気を付けをかけます。誰が見ても凛々しいと感じる肩の線を見せながら、2人の上級生の声が揃って射出されます。前江トーヤ君が少年合唱団にいて再び「かっこいいなー!」と焦がれる一瞬です。4年生がもし「その他大勢」の団員だったらそうは思わなかったでしょう。けれどどの団員も厳しい練習をくぐり抜け、どの子も何らかのソロの出番を受け持たされているこの合唱団では、自分よりも実力のあるメンバーの独唱は常にときめきと思慕と憧憬を与えてくれるものなのです。

 ♪When the moon is in the seventh house...

「月が天の第七室に在り、ジュピターが戦の神に並ぶとき…」。ソリストたちが隊列の前で客席側へと拡声した音場は、団員の方には直接響いてきません。グースネックマイクが拾って客室へ還流した適度なリバーブのついた独唱の声を聞いて、少年たちは仲間の行程を感知するのです。さらに伴奏を聞いていればソロの終わるリピート指示の部分が判ります。「輝く星座」の英語歌詞は1番も2番も全く同じ。全隊の子どもたちが引き取って続きを歌って行きます。ウインチで巻き取られた重機のごとく今度はソリストたちが突然弾かれたように回れ右でもといた隊列の場所に還流して来ます。勝ち誇った表情もニッコリも無く、2人の少年は踵をかえします。

♪This is the dawning of the age of Aquarius.... the age of Aquarius

英語の歌詞の方が、言葉の間が空いていて、アルトの少年たちには音を比較的乗せやすいということがあります。楽譜を見なくとも低声のポジショニングや流れが「勘」としてたぐり寄せられるほど歌を叩き込まれ鍛錬された2メゾ以下の子どもたちにとって、ありがたいことなのです。それでもトーヤ君の前に並んだアルトの小さな本科団員たちはメゾに釣られてしまって肝心のロングトーンを正しいピッチで引きつけておくことができません。フィーネまでの楽譜にしておよそ3段にわたり、ふんわりふわふわと音にワウフラッターが生じます。先生が指揮の右手を差し向けて「ピッチ・ホールドしろ!」と緊急指令を送るときもあれば、大げさな目配せで済ますときもあり、そもそも十分想定内の事態なのか聞こえていないふりで曲をつづけることも多いようです。ミュージカルナンバーはアタッカのまま、ピアノソロの Let the sunshine in にスイッチします。男の子らは後はアフタービートでハンドクラップしながら身体を左右に振りつつロックミュージカルらしさを演出するだけです。歌うことはありません。(たとえ歌ったとしても、ただ「♪Let the sunshine in」と繰り返し唱えることしかありません)後奏として付随するその30秒間に団員の考えることは何でしょう?「輝く星座」についてはもう殆どの子が終わってしまったとの見なしで意識にありません。次の曲を考えている者は、出番のあるソロ担当の子だけです。アオケン君は出演の引けた後のナイショの夜遊びの謀略が頭をかすめます。赤いタータンのボウタイに合わせるシャツの色はパステル・パープルでいいかしら?レプス君はスクーターのガスタンクを満タンで誘いに来てくれるのでしょうか?カネゴン君の頭の中にあるのは歌い終えてしまったソロの出来ではなく、バナナフレーバーのホイップクリームがたっぷりと乗ったパンケーキの香ばしい匂い。そして今日はペルセウス座大流星群の日です。手を叩きながら、ダンスの振りの記憶をたくぐっていきます。出演が終わり楽屋口で出待ちのお姉さんやおばさんたちと写真に写った後、躍ってみせてあげたらどんなにか喜ばれるでしょう。♪ホップ!ステップ!ミロ☆ジャンプ!でVサインのキメのポーズをとりながらはにかみつつ着地する自分の姿が見えるようです。前江トーヤ君はしかし、昼に見た巨大グモの様子だけが心象の中によみがえってきます。壁を伝い何を見に来たのでしょう?そのときまた、トーヤ君自身は何をしていたのでしょう?僕の事を大切にしてくれる優しいカネゴン君は、何を思って蜘蛛を見ていたのかな?Let the sunshine inのメロディーが繰り返されてゆきます。身振りには簡単な足さばきが加わります。お客様がいっしょにハンドクラッピングをしてくださっています。ペルセウス座大流星群の日。Let the sunshine in…Let the sunshine in…。


四 夜汽車 Nachttrein

「間もなく、武蔵小杉…武蔵小杉。お出口は右側です。武蔵小杉駅は、カーブのためやや傾いて停車いたします。電車とホームが一部開いているところがございますので、お足元にご注意ください。」
夜の横須賀線。アオケン君が飛び上がるほどびっくりしているのは、車内アナウンスが女の人の声だったからだけではありません!
「え?!!」
武蔵小杉は南武線と東急東横線にしか存在しない駅です。渋谷から各駅停車に乗ったら新丸子の次、急行は多摩川園駅も止まらないので田園調布の次ということになります。アオケン君たちが乗り込んだのは海紺色のソリッド・モケットが張られたセミクロスシートの千マリ近郊電車で、これははたして横須賀線に間違いありません。窓々に灯る池雪のあかり。品川駅を出てしばらく新幹線と並走してきたのですから、新川崎までの延長12.5キロの区間に人の乗り降りできる駅のホームは一つも無いはずなのです。それをどう切り出そうか逡巡しているうちに、トーヤ君が頬を赤らめて言います。
「夜のムサシコ駅のホームの天井は冷たくって澄んでいてキレイですてきなんだよネ!」
「星がキラキラまたたいているんだ。」
カネゴン君も言います。
「横須賀線なのに、どうして南武線の駅に停まるの?」
「キミは何も知らないんだな。武蔵小杉は、横須賀線の駅の名前じゃないか!」
アオケン君はもう一度、考えてみます。でも、いくら頭をひねってみても1982年のアオケン君にとって、横須賀線にそういう駅は無いのです。東京駅の地下1番ホームから久里浜駅までを往復し、総武快速線に乗り入れるだけの15両編成の高速電車。停車する駅の名前はすべて順番にソラで言うことができます。
「ま、東急は目黒線も停まるんだけどね。」
「目黒線?…目蒲線のことをキミはわざわざ目黒線と蒲田線って言うの?」
「メカマ線って何?」
「アオケンの言っているのは、多摩川線のことじゃないの?」
「タマガワ線なんてもう無いんだよ。今は地下鉄になって新玉川線っていうんだよ。」
「なんじゃ?新タマガワ線って?そんな電車、聞いたことも無いよ。」
子どもたちの話は全く噛み合いません。
「この電車は、海老名行きです。The next station is Musashi Kosugi. The doors on the right side will open. This train for Ebina, via the Sotestu Line. 」車内放送が言います。「えいごであそぼ」のおねえさんの声が累々とそう告げて行きます。男の子は聞き耳をたて、さらに混乱していきます。
「横須賀線の終点が、海老名なの?海老名は小田急線の駅じゃぁないの?」
「そうとも!海老名は小田急小田原線の快速急行停車駅さ!だが、同時に相鉄本線の下り終点で、われらが夜の横須賀線の終着駅の一つでもある!僕たちは今晩、いったいどこで降りようか?」
アオケン君はもう一度考えてみます。ゴリーウォークのケークウォークをメリハリつけずに弾いたようなもどかしさを感じます。4年メゾソプラノがカッシーニ坂のバールで買った恒星ラムネを通団カバンの底から引っぱり出し、6年生ソプラノが壜をひったくって玉開けを飲み口に押し込んでやるとシュッと音がして忍び込んでいたレモン色の帚星が一つ逃げていきました。トーヤ君が唐辛子色の唇をカチンとそこにあて、ビー玉の音をカリカリたてながらソーダ水をジュウッと吸いはじめます。ビン口をくわえたまま、上目遣いでトーヤ君が思いついたように切り出します。
「見せてあげる!夜の武蔵小杉駅ホームの透明天蓋。さあ!荷物をまとめて電車を降りるよ!通団バッグを忘れずに!」

 上下線まとめて入線していた電車が行ってしまうと、ホームの俎上は無言の茫漠とした世界です。「透明天蓋」と子どもたちは言っても、上屋は細い樹脂サッシの格子がはりめぐらされたムーンルーフになっています。その間から、板のまま銀紙を剥くビターチョコを敷き詰めた夜空が静かに降りているのです。一見して散りばめられた星の界が、プラットフォームの照明の代わりを引き受けてあたりを照らしています。不均衡な位置にどうやら赤い絨毯の帯が伸び、華奢な手すりの付いた階段を上ってホーム上に立ち上がった高床の駅務室のドアの下に消えていました。シックなカーテンをタッセルでとめたその窓を背景にしながら、右腕に脱いだウエディング・ドレスをかけた全裸の女性が裸足のまま無言で燭台を掲げ、前を見据えて歩いています。星明かりが女の影を絨毯の上につくります。2人が平然とそれを看過しているのを見て、アオケン君は何も言いませんでした。線路の向こう側からは古びたスラブのレール上に色灯信号が懐かしい光を落としています。駅の周辺に林立する高層ビル群が、住宅棟の家々のランプの灯をぼんやり浮かべて佇んでいます。ホームの端でアンモナイトの化石をわしづかみにした考古学者が老眼に合わないメガネをおでこに外し、星明かりの下で細部を観察しているのを見つけて子どもたちはまた話しはじめます。
「涼しいのね。いつか、また、秋が来ていたんだね。」
「雑草の間に首を傾げたりんどうのかわいらしい花が、食堂の前の空き地に咲いている。」
「そうかな。僕は今日の練習もノドばっかり渇いてトイレのお水を飲んでばかりいたよ。」
ペルセウス座ガンマ流星群はプラットフォーム上のどの位置に降るのでしょう。ジョバンニ・スキアパッレッリが捻出した放出点の彗星は、アンドロメダ座の近傍を通るとカネゴン君は教えられていました。
「僕の水筒はスタジオに着いてから1秒で空ッポになった。」
「きみは汗ふきタオルを絞ったらジャーって出るぐらい汗をかいていたよ。」
「暑かったよね。」
「暑かった…。」
少年らの体温を超える気温がもう何日も駅前の掲示板に示されたきりになり、合唱団の子どもたちは通団のため本能からなるべく日陰のルートを選びつつ歩く炎夏の日々でした。でも、今、この場所だけは違います。フランドル・ベルギーの浄夜の涼やかな風がホームの端々をわたり、逞しい胸板のギリシャ彫刻の立像の兵士の肌には恒星の重力圏を抜け長の年月を通じてやってきた淡い光が薄いラベンダー色の階調を重ねているのでした。トーヤ君がそれを見るなりとうとうカネゴン君の前へ馳せてあたたかい身頃へとしゃぶりつき、首を左右に振れて顔を拭くように尋ねます。
「ボクの大好きな大好きな世界一かっこいいカネゴン先輩は、どうやって日本一のボーイソプラノになれたの?」
「日本一?何の日本一?」
「どうすれば僕もカネゴン君みたいな日本一のボーイソプラノになれるの?」
「知らないよ…僕は声も発音も変。口も、鼻も、舌も、きっと胸もお腹も変!…きれいに声が出ないし響かない。そんな僕に日本一のボーイソプラノのなり方なんか判るはず無いじゃないか。」
「でも、カネゴンはソリストになったじゃない?!」
と、アオケン君も口をはさみます。
「ボク、日本一のボーイ・メゾソプラノの作り方なら知ってるよ!。教えてあげようか?難しいんだぁー。」
前江トーヤ君が息継ぎのように身体を爆ぜて話し始めます。
「難しいんじゃムリだな。だいいち、そんなのになったって、あと1〜2年で5〜6年の団員生活は終わる。…まあ、餞別代わりに聞いてやらぁ!」
ホーム頭端、タブ受けの螺旋の傍らに黒いトルソのマネキンがヴェールをかぶって立っています。
「星明かりの晩にテラスへコンロを持ち出して、もぎ取った宵の明星を時間をたっぷりかけて煮込むのさ。金星ジャムの出来上がり!」
「そんなもの、作ってどうするんだい?食べるのかい?食べたらノドにいいのかい?」
「歌うのさ!ごろごろごろごろ、たっぷりの重くて甘い明けの明星を!好きなだけ。欲しいだけ。洗って、皮を剥いて、袋もとって、きれいなきれいなさらさらの砂嚢だけにして…」
「皮は入れないのかい?」
「これはママレードじゃないから、入れないよ。苦くなる。」
いずこでか瞬くルビー色のテールランプひとつ。ふたつ。レンガづくりの検車場の建物から、白熱灯のあかりが三角定規のように斜めに差し出ているのが見えます。
「星々の理論的下限質量の発生原理をもとにばらばらになったお星様の重さを算出する。」
「どうやって?」
「全部の星のエネルギーを光速の二乗で割ったら出て来る。光速は、毎秒<肉食うな、国稚児は(299792458)>万キロメートル。」
「金星1コの質量はざっと4.869×10の24乗kgとして計算したら?!」
「だから、皮と薄皮と小袋を丁寧に全部取り除くって言ったじゃない?」
「量ってどうするの?」
「この質量の合計がフィボナッチ数列を導くようにグリコシド結合した果糖とデキストロースを大量添加する。注意するのは、アシッドに強い鍋を使う事。当たり前だけど、かき混ぜるために木べらを用意するといいよ。」
「メゾ・ソプラノと全然関係無いじゃん?!」
「ここからが大切!鍋に入れたスクロースが恒星に触れてクスクスとウェヌスの溜息を千々に漏らすのさ。」
「かき混ぜる?」
「いいや。まだまだ。ここは儚く淡い化学反応に過ぎないの。」
「メゾ・ソプラノは出て来ないよ?!」
「うるさいなぁ。まだ、ブレスをきれいに整えておくところ。お習字で筆の先を揃えておくのと同んなじさぁ!」
「溜息をどのくらい聞くの?」
「およそ、一千一秒間…」
「約16分40秒間ってところだね。長い…。」
「違うよ、16分41秒だよ。」
「何だよ!トーヤ君は『およそ』って言ったんだぞ!黙ってろよ。」
「そしてここからが大切!ムダにコトコト煮ないんだ。中火で、お鍋のナカミを見ながらしめやかに加熱する。」
「夜のテラスなのに、お鍋の中が見えるのかい?」
「もちろん、目では見えないさ。だからクツクツと地殻が融けるお鍋の近くに立って夜目で歌うんだ。」
「…何を?」
「何でもいいけど、静かな感じの曲の方がいいかな?」
「そうだなぁ。」
「夜のしじまに紛れ、あたらしい豊穣の詩が歌われる。人知れずたっぷりと。お鍋の中から歌声が聞こえるんだ!押し殺したような声で、漏れ垂らすように。」
「きみ自身の声は闇の中でどうなる?」
「やがてエクスタシーに満ちた酸い蜜の香りや妖しい甘美な熱気の波が幾重にもやってきて、暮夜の闇ごと僕たちの身体をふんわりと包みこんでしまう。すると、待ち構えていたかのようにすばらしい絶頂のときが訪れる…星々がグズリと糊化するんだ!お鍋のナカミがもはや天体で無くなる錬金術的瞬間が閃光のきらめきのようにやってくる。身も心も痺れるようなとろりとした糖度の中で、僕らは天体とともにああぁと陶然の恍惚の刻をむかえるのさ。最後はバッカスの神のお礼に上からコアントローをひとふり垂らすのを忘れずにね。」
「それで終わり?」
「まさか?!翌朝、お鍋の中にひたひたとした黄金色に輝くエルドラドが現出している!すごいヨ!金星のエネルギーが全部煮溶けてる。星の質量かける光速の二乗!そいつが朝日の中でキラキラと光っている。夕べのあの悦楽と忘我の刻限が、もう幾星霜も前の出来事だったと思えるほどのしとやかな臥所の底で。…スプーンですくって1口。割いたベーグルやマフィンの角に盛って二口。お塩の粒がぴちぴち跳ねているクラッカーの上に落として三口。それから、チーズの間に溢れるほどはさんで四口…。強烈な甘さと麻痺しそうな爽やかな酸味と、降り注ぐ陽光をエネルギー変換させて閉じ込めたきらびやかな香りが幾重もの波動になって僕たちの口腔を制圧する!これぞ暁の星のジュレ!名前は『日本一のメゾ・ソプラノ』!パクッ!」
「え…?」
星々は一面の天蓋にはりついて気持ちが悪くなるほど鮮やかに瞬きます。
「『日本一のメゾ・ソプラノ』って、オレンジ・ジャムの名前?!」
「カンッ!としたボーイソプラノの味でもなければ、ゴツン!ボーンとしたボーイアルトのコクでもない。キリっとした頼もしい声質と骨太の旨味と甘い粘りけのある舌触りの絶妙のハーモニー!皮の渋み苦みの無い澄みわたった正真正銘ヒノモトイチのオレンジ・ジャム!コレぞ日本一のメゾソプラノたるゆえん!」
「じゃあ、きっとトーヤ君…キミの歌と同んなじだネ!」
「うん!ほっぺたが落ちるほど、おいしいヨ!」


五 横須賀線citoronomachy

 飛び乗った113系のグレーの車床は未だ光らず、ペール・オリーブのデコラがクロスシートを遮ってドア毎に広がっています。扉の脇の小さなロングシートに小学生3人分のお尻は入ります。最初、彼らはそうやって肩を寄せ、話の続きをしていました。サファイア色のモケットの背にいい匂いのする通団服のベントを押し付けながらカネゴン君が言います。
「…きっと、先生の気まぐれなんだろう?」
「気まぐれなんかでソプラノのソロにしてもらえるかい?だいたい、先生の口癖って『キミたちは、お客さんをアナドってないか?!』なんだよ。」
「ボイトレの先生だったら絶対に『カネゴン君っ!日本一のボーイソプラノかどうかは、お客さまがお決めになることでしょう?』って言うね。」
「お客さんは僕のいったいどんなところがイイのかな?トーヤ君はわかるのかい?」
4年生はそれでもカネゴン君の肩に鬢をすりつけながらクスクス笑います。
「僕なんか、ちっともイイ声じゃないよ…。カキクケコの発音もサシスセソの発音もキレイに出来ない。口笛が吹けないし、指パッチンもできない。初見で楽譜が読めない。毎週練習だけは仕方なくやって来て、高学年だから一応毎回ステージに出してもらって…。あのときだって僕は辞めるのが怖くて、今もここにいる。」
5年生の終わりの春。たくさんの団員たちが入団の誓いを反故にして、進学を目指し辞めて行きました。彼が新ソプラノのパートリーダーになったのは、多くの新6年の団員がいなくなってしまったから。スタンバイのタイミングが苛々するほど遅く、歪んだ発音の、キツい発声のボーイソプラノ…。電車は新川崎を抜けると次第にモートルの音をあげていきます。男の子らの頭上でまん丸なボーンチャイナ色のカーバイトのつり革が小刻みに揺れていくのがわかります。VVVFインバータは未だ線区に存在しません。直流の抵抗制御が強靭なトルクを絞り込みながらすさまじいうなりを伴って電車を駆り立てて行きます。トーヤ君が6年生の肩に振り返った顎をあずけ、鼻腔から静謐な精気を漏らして窓外を眺めているうちに、あまたのナトリウムライトに弱々しく照らし出された数千輛とも思われるおびただしい貨車の静止した群棲が眼下へと広がっていることに気づき、息をのみます。
「わあ!すごい!すごい!たくさんの貨車が集まっている!
彼らの眼下には、きれいに敷き詰めたビター味のチョコベビー様のものが漆黒のベルベットの中に幾十百と列をつくり、並列していました。
「…これは、貨車の墓場だ。何年も何十年も、重い荷物を積んで雨風の中で働いてきた貨車たちが、ここで終のときを静かに待ってるんだ。」
「貨車の墓場?」
「本当に役目を終えたのかどうかは知らない。…ただ、もうここにいる貨車の仕事は無いという意味なんだ。」
カネゴン君が太い唇を結んで言葉を切ると、ビッグバンド調のスローバラードにのせてアオケン君が甘酸っぱい笑みをたたえハスキーに歌い出すのでした…

♪ブルームーン
 独りの私を見ていた
 夢もはや叶わず
 強がることも無く

 ブルームーン
 私を見ていた
 祈りを聞いていた
 思い人のため

 前ぶれなく ここに懸り
 月のかいなに ひとり囚われ
 月影の囁きを聞き、仰ぎ見れば幸多かれと瞬く

 ブルームーン
 もはや独りではない 今宵
 夢うつつにあらず
 強がることも無く

ドア際のロングシートの窓は戸袋の二重サッシで開ける事ができません。自分たちの頭蓋で暗がりになった内側のテンパーガラスを通して、外ガラスを支持するねずみ色のガスケットのシーリングが見えます。リューウウウウーと電車が終末の貨物機関区の上を滑るように上って行きます。

♪Blue moon
 You saw me standing alone
 Without a dream in my heart
 Without a love of my own

 Blue moon
 You know just what I was there for
 You heard me saying a prayer for
 Someone I really could care for

 And then there suddenly appeared before me
 The only one my arms will hold
 I heard somebody whisper please adore me
 And when I looked to the moon it turned to gold

 Blue moon
 Now I'm no longer alone
 Without a dream in my heart
 Without a love of my own

 written by Lorenz Hart : public domain(著作権消滅)

 ナトリウム灯の狭い波長が眼下に広がって過ぎてゆきます。昼間の暑さにあぶられ続け蓄積されていた倦怠が、視覚信号に含まれたオレンジ色のライトを引き金に呼び覚まされていきます。アオケン君のメランコリックな声がその演色性を鼓舞し、子どもたちは速やかにまどろみの側へと誘引されていきそうになります。ところが…
「あ!球だ!びっしりの赤い球が川みたいに飛びだした!」
トーヤ君が叫んだガラス窓の眼下に、貨車の目地から打ち出されたかのように見える大量のボールのひしめく流れが見えます。夥しいモル濃度で横須賀線の下から並走するように迫ってきます。見いだされたのはそれぞれの表面に吹き出たつやつやとした微小なクレーターでした。赤色に見えたのは、灯火の周波が混濁しているからで、男の子の見下ろす先に電車と等速で群舞する球体群はどうやらもともとオレンジ色だったようでした。電車に触れないよう距離を置いて、果実は大挙して高速で流れてゆきます。土星の輪のように磁気や旅客車の重力の平衡によって平板な形に収束し、ところどころにカッシーニの間隙も認められます。113系は今、電子の励起光をまばゆくふりまきながら、量子収率いっぱいに辺りを輝かせて疾走します。向かいの戸袋窓を通して広がっているのは矢向の夜半。川の出合うところおびただしく散開した家々の明かりが清冷なままちつちつと瞬いて、視界を静かなスライドショーに見せています。かたや此方の窓には数千万の序列集合を描くオレンジが星の光と車輛の客室灯と方向幕を小さく反射して膨大な基数と濃度のままサーッと流れを偏向させようと挙動しはじめました。トラジ色の蒼白な霧氷が球体をのたくって煽るように、オレンジは南西へと流れを振って行きます。少年たちが黙として見守る中、光り輝くまま、ルミネッセンスの果実たちは星空高く打ち上がるのでした。電車の中にローズオイルの芳香を伴った透過性の無菌の風がカラカラと流れ、消毒に残ったクレゾールの匂いを駆逐していきました。
「ホラ!どぉ?すごいでしょ?」
弟分が両手を添えて差し出す手に載っていたものは、車窓を流れていたはずのオレンジ!
「1コだけだケドね。」
アオケン君とカネゴン君がビックリまなこで見つめるその先では、下級生の小さな指を折らんばかりに果汁を充たして重そうな、実のつまった橙色のボールが掌から溢れ落ちそうになっていました。
「オハツにお目にかかります!」
黒い男の子が言います。
「凛々しくて、カッコ良くて、たくましくて、セクシー!」
ボーイアルトも言いました。
「オレンジ・ジャムに煮たら、きっと日本一のメゾ・ソプラノになりそう!」
前江トーヤ君も唾っぽい声で叫びます。
「トーヤ君、電車の中からどうやって採ったの?」
アオケン君がそう尋ねると、彼の土星のブレザーは突然、濡れたような濃い紺の美しい天鵞絨に変わっていました。タータンチェックのボウタイの代わりに胸元を優しいベルベット・ムラサキのリボンタイでちょこんと飾って、肩の線だけが懐かしい男の子の体躯をしるしています。車内は近くの何人かを除いてまるでがら空きで、切妻のミストグリーンのデコラ壁には、消火器を収めたステンレスのニッチと貫通扉から剥き出しになった暗がりの幌枠が見えていました。今までずっと身体をくっつけて窓外を眺めたりおしゃべりしたりしてきたのに、アオケン君の上半身が着ているものといっしょにすぅぅと涼しくなったような気がして、何だかとても恋しい気持ちになりました。黒ボタンでたくさんとめられた天鵞絨の上着の腹の下に真っ黒な半ズボンをつけているようなのですが、男の子は股の上に黒いしっかりしたつくりの星座早見盤を落とさないようにのせて手を添えているのでよく見えません。両のズボンの裾から群青色のガーターの帯ゴムや薄いバックルが覗きます。学校の制服の黒タイツをはき、生地に透けた膝頭や向こう脛がぴかぴかとマルン色に光っています。穴飾りのたくさん開いた先の丸い真っ黒なおかめの短靴のかかとをきれいにそろえて静かに座ってる様子を見ると、普段からもう大好きで大好きでたまらないという気持ちがいっときに昂揚して子どもの体温を上げました。トーヤ君が「星座早見盤は、iPodの『Star Walk-5つ星の天体観測ガイド』の方が本当に早く見られて便利なんじゃないの?(…しかもソフトの値段は350円)(でも、iPodは星座早見盤にくらべたらちょっと…かなり重いかな?充電もしなくちゃイケナイし…)」と思ったとき、たおやかに座っていたはずのアオケン君自身が口をききました。
「ねえ、カネゴン君のところに最近、あの6年生っぽい女の子たち2人とも来てないネ。」
「来てるよ。6年生じゃなくて、中学2年だってさー。最近、デパートとかの出演が多いからステージ中に花束渡し難いらしい。」
「他の少年合唱団にも、団員の追っかけ女子っているのかな?」
「ツト君の親戚のおばちゃんって、<厨>とかJKのころ、ビクター少年合唱隊の隊員さんの追っかけやってたんだってさー。」
「うそー!どんだけ昔のハナシなんだよ?!カネゴン君みたく、プレゼントとかもらってたのかな、VBCの子?」
「何か、好きなもん聞きだしたりして誕生日プレゼント贈ってたらしいよ。カードとか付けて。あと、バレンタインのチョコとか。」
「あー、オレと同じだ。どっちも、もらってる…。」
「いいなぁ〜。」
「いいもんかよ。マジ恥ズい。トーヤの方が可愛くて、歌うまいのにネ。ワケわからん。」
「カネゴン君は、やっぱカネゴン君だからカッコイイでしょ。」
「全然知らない中学生から『ファンです』ってチョコとか差し出されて、何て言やイイんだよ?」
「『ボクは声変わりするまでがんばるので、応援してくださいね』ってのは?」
「うっ!バッカみたい!」
「カネゴンって、合唱団のお母さんたちにもファン多いよねー。」
「ボクのお母さんなんか、カネゴン君の息子の追っかけもやりたいから、先輩が大人になって結婚したら『男の子だけを確実にさずかる方法』ってのをお嫁さんにしっかりレクチャーするんだって、今から言ってるよ。男の子を産みわけるクスリってのもあるんだってさー。」
「おまえ、そんなんで産まれて少年合唱団に入れられちゃったのかよ?」
「違うよー。ボクはたまたま成功した例なんだよー。」
「僕のお母さんも毎年カネゴン君にバレンタインの本命チョコもどきあげてるよ。なんか、苦労人で合唱団の皆の幸せのために泣いてもらってる子だからだって。」
「ンな、ナニワブシみたいなこと、言われても…」
「カネゴン君がステージを欠席した日は、お母さんたち『今日のコンサートはハズレだった』とか、『カネゴン君が出演してなかったわりにはみんなけっこう頑張ってた』とか、内輪でこっそり言ってんだよ。自分たちの息子に失礼だよね。」
「うふふ。」
「そんな子、他の少年合唱団には絶対に一人もいないよネ。」

 このとき、113系はゴム敷きスラブの鉄路を疾走し、星空の中を進むようになりました。日吉の対岸もまた墨色の宅地の陰に沈んで降下していきます。団員たちの座るセミロングの座席の向かいには、週末のお休みのお父さんに連れられた丁度4年生ぐらいの男の子が本当に安楽な表情をしてこちらを見ていました。トーヤ君よりも1〜2ヶ月だけ小さいというほどの背格好で、食べ物の好き嫌いのあまり無い子なのだなということが分かります。さっぱりした短いもみ上げの切りそろえた髪型をして、胸にapと組文字ロゴが入ったアーノルドパーマーの白いポロシャツと切れ上がった流行のチノパンの半ズボンをはいています。かたちのよい柔和な下腿をチャンピオンプロダクツのワンポイントのプレーン・ハイソックスが静かに覆っていました。カネゴン君は先ほどから男の子の足の甲をキュッと絞めているベロアブラックのアシックス・タイゴンが気になって仕方ありません。21世紀初頭の男の子が校庭で履いている鬱陶しいくらいコマギレな反射材がゴテゴテと縫い付けられているゴチャゴチャした色づかいの靴とは全く違うのです。クラスの皆はスプリントや瞬足やスーパースター…。カネゴン君も普段、大人しめなダークネイビーのadidasスピードフットや黒いイノヴァのトレーニングシューズなどを選んでつっかけているのですが、その子の足元はもっとプレーンでシンプルでフォーマルな子どもの足のカタチや温もりを感じるスニーカーがスマートかつ精悍に引き締めているのでした。その気配を視線の片隅に感じつつ、トーヤ君は男の子とお父さんにニコニコと笑みを送ります。ニッコリされた知らない男の子が反射的に頬を緩めます。天井に並んだ冷酷で薄汚れた蛍光灯の白光の下、彼らがお日様の顔を山吹色にキラキラさせているのが車窓の外からも明瞭に見てとれます。
「あの子にあげていい?」
お腹の前に果実を抱いて尋ねるトーヤ君の声に、2人の上級生は顔をほころばせて頷きます。カネゴン先輩が前を向いて言います。
「お前が採ったオレンジだろ。トーヤの好きにしたらいいさ。」
アオケン先輩も気持ち良い答えを返します。
「僕たちにくれるつもりだったのかい?♪ぼッ、ぼッ、僕らは少年合唱団…おいしいメゾソプラノは全部お客様にさしあげるものサ。」

 微細動の静まった灰色ロンリウム床。進み出ていったトーヤ君が、男の子のむき出しの股の上にオレンジをそっと置きます。
「あげるよ。おいしいヨ。」
明るいはちきれんばかりのオレンジをぽつんとその子の茶色いふとももに押し付けて言います。外気の中を滑空し、十分に冷たい球になった果実が肌に触れ、ポロシャツの男の子は一瞬びっくりとします。それでも、やっぱりニコニコとしてトーヤ君を上目遣いに仰視します。
「ありがとう…いいの?」
「いいさ!キミが食べたらイイよ!それに、このオレンジを煮てジャムを作って食べたら、日本一のメゾソプラノになれるよ。少しずつだけど、きれいな声で、集中して、まわりの皆のためにカッコいい発声で歌えるようになる!よかったら、お家でやってごらん。」
お父さんも笑ってそれを見ています。精一杯低くない小さな明るい声で「どうもありがとう」と言ってくれます。ところが、トーヤ君が踵を返し上級生の情味に向き合ったとたん、彼らの肩越しの車窓の景色がすぅっと5〜6度の傾斜に傾き、誰にでもわかる滑らかな加速が器機の強烈な周波音とともに旅客車を襲ったのです!リウゥゥゥゥー!リウゥゥゥゥー!
男の子がふらつきながらモケットに尻を落とし、二人の上級生の温かい肩に挟まれて逆側の車窓に目を移したとたん、電車はすうっと浮き上がりゴロゴロいう軌条の音が下方へと落ちたのです。
「あっ!浮いた!」
「…飛んでいる。横須賀線が、すごいスピードで飛んでいる!」
トーヤ君は、加速と上昇にしたがって足元で移動し偏向する重力を感じながら、外気の吹きすぎる音や圧を聴き取って叫びました。
「見てごらん。横須賀線は、夜空を飛ぶのだよ。」
カネゴン君が言います。何と言う事でしょう!!列車は鉄路の上をモートルの音を軽く静かに響かせ、筐体を左右に振って、振り零された川崎の幾万の小さな明かりを車窓に見せて飛んでいます。リウゥゥゥゥー!リウゥゥゥゥー!
「飛んでなんかいないよ。これはスーパーロングレールがきれいで新しいバラストのPC枕木に斜め継ぎで留まっているから、そう感じるんだ。」
と、アオケン君は言うのですが、
「スーパーロングレールって?」
「1キロメートルの半分ぐらいある長いレール。」
「PC枕木は?」
「コンクリートの枕木。」
「じゃあ、斜め継ぎっていうのは?」
「膨張しても曲がらないように線路を斜めに継いであるから、ガタンゴトーンってジョイントの音がほとんどしないんだ。」
「…??」
どの電車に乗ってもそこそこに線路の音など聞かない21世紀の東京の子どもたちにとって、それは古くなり黄変した戦争中の理科の教科書を読むような内容のハナシです。彼らの時代の鉄道は、どれも何百メートルという長さのレールをコンクリートのスラブの上で斜めに継いで電車を走らせているのが当たり前で普通だからです。話題にならないのです。
「じゃあ、何でこんなに街の明かりがきれいなんだ?」
「今日はペルセウス座ガンマ流星群の日だから?」
「じゃあ、何でこんなに静かなんだ?」
「星々の風が鉄路をキンと冷やしているから?」
そう言っている間にも、窓外の夜景は静かに高速で流れて行きます。軌道の上空を抑制された高度で滑空していくのでした。


六 カネゴン君のグリーン券

 さあ、ここでお話を私たちの静かな京浜の夜の物語へと戻しましょう。
3人の少年たちは列車の5号車…増結されている先頭から数えて9輌目中央のリクライニングシートを力ずくでガッチャンと回転させると、深呼吸するようにしてそこに座りました。
「こっちのグリーン車がいいんだよ。見てごらん、鶴見川が見えてきた…。」
黒雲母の窓からは、オレンジ・フレーバーのスペース・ダストを振り撒いたと思しき外界の中、揺らめく川面のほとりに黒く沈んだ処理場の夜が孔版となってとり残っていました。
「どうしてわざわざこっちの古いグリーン車を選んだの?」
ビロードのジャケットから突き出たアオケン君のワイシャツの袖をトーヤ君が小幅に引きます。するとボーイアルトが柔らかい指でさし示した2等車の切妻の上部に、「サロ113」と古めかしい表示が読めます。
「こっちの方がシートが広くて柔らかいし、台車の空気バネがいいんだ。」
リネンの枕カバーがかかったエンジ色ビロードのリクライニング。カチャリと四角いレバーを引いて座席を滑らせると薄ネズミの肘掛けを握って彼らは脚を投げます。
「リクライニングをいっぱいにかけるのは、田舎者のやることだ。」
と、アオケン君が言いかけたとき、
「グリーン券を拝見いたします。」席の横に、帽子をかぶった背の高い客室乗務員が、いつか直立して言いました。アオケン君は、黙として半ズボンのウォッチポケットから小さなかわいい桃色の紙片をにじり出し、つまんで差し出します。マジシャンのように乗務員がどこからか改札ハサミを実体化させ縦に振ると、鈍色のハンドルでサクリと閉じた切符を返してくれます。子どもたちが覗き込むと、表面には可憐な花形のエンボスがきれいに穿たれているのがわかりました。続いて「きみたちの切符は?」という目つきで見下ろす乗務員にかざしたのは、トーヤ君が薄い銀色のプラスチックカードと、カネゴン君はプーマのストラップのついた携帯電話でした。カードにはウォームグリーンの台形とペンギンのイラスト。カードのデザインの他に、「マエエ トーヤ」と青地のカタカナで小さく名前が印字されています。
「キミたち、此れは一体何だね?」
「天井のリーダに、これをかざすんです。」
「??」
皆は揃ってメラミン板の白い天井を見上げました。ミルク色の天蓋がアールを作ってつやつやと光っています。カードのセンサーらしき造作は見当たりそうにありませんでした。だいいち、男のグリーン・アテンダントが改札にやってくるのを2人は見た事がありません。まったく変わった電車です。
「いったいキミの持っている定期券には『小』と印刷されているだけで、期間も区間も等級も何も書かれていないじゃないか?…それから、こっちのキミの持っている分厚いエチケット鏡みたいのは何だ?」
「電話です。」
「こんな、ガラス板みたいのが電話なものか?相手の声が出て来るスピーカーも無いし、それにどこに口をつけて話したら良いんだ?…本当にキミたちは四次元から引っぱり出したようなシュールレアリズムなモノを持っているんだね。」
汽車の制服の人は子どもの手から電話をすっと抜き取ると、電源をおとしたディスプレイの黒い鏡面をつつうと人差し指の腹でなでました。男の子は彼の制服の胸ポケットにいつも収めているこぐま座の測光ガラスの板を見透かされたようで少しだけばつの悪さを感じました。
「これが切符の代わりになるんだな?」
「そうです。これにグリーン券情報が記憶されていて、電車の天井が無線でそれを読むんです。」
「プッシュホンの電話予約やみどりの窓口の「マルス」端末と同じことをこの機械がやるんだな?…それから、キミの持っているのはキャッシュカードだ!そうだろう?グリーン定期つきのキャッシュカードといったところだな?」
「…よくわかんないけど、たぶんそんなところです。」
ダイアル式電話機を学校の社会科資料室でしか見た事の無いカネゴン君はそもそも「プッシュホン」という言葉をよく知りません。


七 アデノシン海岸

「昭和時代、人々がかつて鉄道の旅をすればおやつに食べるものはペストリーやフィナンシェ、煎餅ではなく、みかんだった。かさばらず、携行に便利。指で皮を剥けば手づかみで簡易に食べる事ができ、食べがらはじきに乾涸びて軽く始末が容易。車内に匂いがこもることも少なく、慣れれば指を汚す事も無い。皮のままで十分に衛生的でそこそこ新鮮なまま保存ができるという便もある。包装の手間もコストもほとんどかからず、こぼしたり気が飛んだりの心配無く水分がとれる。冷凍して供すれば暑い夏場を通じても時期を選ばす供給が可能。酸味と甘みのバランスが良く、たくさん食べる事も、一塊でそこそこの満足を得る事もできる。起き抜けの夜行列車で朝食代わりに食べて良し、駅弁のデザートにも、おやつにもなり、食べる時間を問わない。飲料として摂りたいときには小円筒形のスチール缶のトップに小さな専用の穴開け(オープナー)で縦長カマボコ形の穴を点対称の位置にきちんと2つ穿ち、ブリキ臭い果汁を飲んでいた。いずれにせよ、それは『オレンジ・ジュース』。みかんこそが鉄道旅客の友であり、旅情の担い手だった。」
 ハスノハカシパンの残骸が一面に散乱する、ここは顕生代第三紀の海岸です。トーヤ君はお望みの通りクレセントの薄いお月様を両手に掲げ持ってかぶりついています。甘みでべたべたした男の子の指の間からメタン酸、ブタン酸、プロパン酸…酢酸メチルの強烈な芳香がうち溢れています。アオケン君がお月様を見ると、薄いグリーンの弓形の内法に、トーヤ君の小さな可愛い歯形がついていました。なんて、なんて、可愛らしいのだろうと5年アルトは焦がれました。ところで先ほどから3人の前に立ち、彼らの興味の有る無しに関わらず間断無くレクチャーを続けているのは学士さんです。考えてもごらんなさい、大学を卒業した人はみんな学士さんと呼ばれるのです。アオケン君の両親も、トーヤ君のご両親とお姉様も、カネゴン君の家族も、間違いなく全員が学士さんです。アオケン君がおずおずとそれを打ち明けると、「学士というのは学位の称号のことではない。かつて、『学者』のことを『学士』と言い習わしていたのだ。」と教えてくれました。少年たちがあまりにも退屈してしまい、浜の入り口、朽ちたコンクリートのトチカの端に目をやりますと、セラミックのつや消しの門標がしっかり星空を向いて立ち、「A」「G」「C」「T」という4つのアルファベットの意匠の上にフルティガー調のミディアム・フォントで、

『アデノシン海岸』
…われら生きとし生けるもの凡て、
ここより編まれいずるものなり


と、くっきり書き抜かれているのが読めました。
「ですからキミが物質・反物質反応フィールドただ中で、柑橘体の飛翔ストリームに遭遇しただけでなく、並走までやり遂げたということは、至極蓋然性に溢れ、また精度の高い現象であったということができるだろう。」
「…お話の途中で、ごめんなさい。もしかすると、学士さんは僕たち少年合唱についてもそういう説明の仕方をなさるのですか?」
「そういう説明の仕方…というと?」
「まず、日本の少年合唱の来歴を西ヨーロッパのキリスト教会クワイアの沿革と比較考察し、最後にボーイソプラノの美学なんたらかたらというタイトルががりでハナシを近世日本の文化思想とかに無理やり摺り寄せて、結局最後は<失われるものの儚い精華である>とか決めつけて言い放ってしまうような…。」
「なるほど。その通りだ。」
「その通りじゃないでしょう?!歌っているのは、飲んだり食ったり遊んだり先生に叱られたりするココにいる僕たちで、歌うのは『気球に乗ってどこまでも』とか『手のひらを太陽に』とか『怪獣のバラード』とかなんですヨ!」
「メサイアだって歌うだろう?」
「そりゃぁ歌えるのはハレルヤコーラスがいいとこ。しかもお客さん誰も立ってくれないし!」
「そうだろうか?!King of Kings and Lord of Lords!ハレルヤ!ハレルヤ!それははまさにブリタニアの心だろう?!キミたち!」
「僕たちがアングリカンチャーチのヤンキーな聖歌隊員みたいに見えますか?」
「英国教会にアメリカ人はいないだろう?」
「それ、語法が基本的にかなり違ってますよ。そんなことより、今日は大流星群の日なんだから、大宇宙のハナシをしてくださいヨ。」
「ラジャー!マハラジャ!何の話をしてやろうか?」
「せっかくだから、銀河系なんていうのはどうでしょう?」
トーヤ君は三日月の食べがらをぽいと海に投げ捨て、べたべたした指をきつく舐めた後、ついに波打ち際にしゃがみこんでしまいました。そうして冷たい引き波の下でモザイクのように細かく敷き詰められた礫をほじくり出し、右手の母指球と対向する指できしきしともみしだいています。
「こちらのキミの言う『銀河系』の実体とは、いったい何なのだろう?知っているかね?」
「星や塵やガスの集まり…ただ、質量の占めるほとんどの割合はダークマターです。」
「よろしい。キミたちの立つ地球は、太陽系の第三惑星で、銀河系オリオン腕の内縁近くに位置している。さらに、我々の銀河系は近傍のおおいぬ座矮小銀河、さらにM33やアンドロメダ銀河などととともにローカル・グループの銀河群を形成する。そして、これらの銀河群100個ほどが集まり、おとめ座スーパークラスタをつくっている。」
「おとめ座スーパークラスタは、さらにどこのグループの中に入っていますか?」
「残念ながら、じょうぎ座銀河団付近のグレート・アトラクタやその背後に存在すると思われる超巨大な重力に吸い寄せられ、引き込まれているらしい。」
「・・・」
「・・・」
「終わりですか?」
「終わりだ。」
「じゃあ、次に銀河系そのもののハナシをしてください。」
「よろしい。それでは、はじめにまずキミたちの立つ地球は、銀河系を四分した場合、どの宇宙域に含まれているか…知っている人?」
「はい!…ガンマ宇宙域??です。」
「ちょっと違うな。正解はアルファ宇宙域だ。もしガンマ宇宙域に最短で行こうとしたら、ディープスペースのベイジョー星系からワームホールを抜けなくてはならない。」
「ガンマ宇宙域の危険情報は?」
「ガンマはドミニオンの支配領域だ。アラートのレベルは『航宙の延期をお勧めします。』の状態が続いている。」
「ガンマ宇宙域が銀河系の中で一番遠いんですか?」
「いや。一番遠いのは、デルタ宇宙域ということになる。通常巡航なら亜光速で飛んでも、一番近いセクターまで約3万年かかる。」
「デルタ宇宙域は、どんなところなのか分かっていないんですか?」
「ごく不安定なワームホールやボーグのトランスワープハブが通じている箇所がある。それに、ボイジャーが通過帰還したときの詳細な記録があって、どんなところなのか比較的よく分かっているよ。我々のアルファ領域や隣のベータ域とそんなに違いは無い。」
「危険情報は?」
「今も言ったが、ボーグが頻繁に出没する。アラートは、『航宙の是非を検討してください。』で、危険度ランクはそこそこ中位だ。」
「ボーグに出会っちゃったら、どうしますか?」
「出会っちゃったら、もうどうしようもないよ。ナノプローブを打ち込まれ、同化され、名前の代わりにアラビア数字で生命体番号振られてドローンにされ、以後、キミはボーグ共同体の一部として生きるだけだ。」
「えー?逃げたりできないんですか?」
「ボーグキューブから?…そりゃ無理だろ。もう、見つかっちゃったら、抵抗は無意味だよ。」


八 夜の横浜駅

 夜の横浜駅9・10番線ホームです。白い樹脂で覆われた上屋が高く続く新しくなったプラットホームは、アリーナのように広大無辺で遠く長く、蛍光ランプの中庸な色温度の光が慎ましげに満ちています。
電車が行ってしまうと閑散としたプラットホームの虚ろに快い平安が静かにやってきます。「静寂」ではないのです。人とモノが居ないだけなのです。南東の方角から、港の音が低くしてきます。汐の匂いが吐息のように暮れています。西口のバス、タクシーや車両の喧噪。遠くの歩道をゆく雑踏のざわめき。けれども、ここではそれが遠い昔の鼓動のように響くのです。アオケン君がアキュア自販機のボタンを後輩たちに勝手に触らせて電話のフェリカ・マークをかざすと、ゴソゴソと籠った音の後に夜目のフロムアクアが落ちて黒いポケットの中でキラキラと光っていました。気をつけながらペットボトルの胴を両掌で圧して、立てたまま水を吸い出して飲むと何だか里心がついてしまうようで、ホームの全長を使って皆で大股無しの「グリコ・チヨコレイト・パイナツプル」を1回だけやりました。プラットホームの間口は存外に長く、まずグー勝ちばかりのトーヤ君の声が先に進んだ2人のところまで届きにくいという場面があり、ゲームの終わりはなかなかに訪れてはくれませんでした。

「ボーグにされちゃうのって、どんな気持ちなんだろう?」
保土ヶ谷側のホーム突端から戻るとトーヤ君が思い出してポツンと尋ねました。
「ボーグは人間を支配してやろうとか、滅ぼしてウサを晴らそうなんて思ってないらしいよ。」
「じゃあ、なんで人間を同化するの?」
「それが大切なお仕事だからさ。同化して、ボーグをもっと良い生命体にしてゆくんだ。」
「そうかぁ…ボーグも僕たち少年合唱と似ているね。」
「少年合唱団とボーグが似ているのかい?」
「だって、僕たちだって、団員集めのために歌ってるようなものだろう?」
「そんなことないさ。たしかに僕は合唱団のクリスマスコンサートを聞いて応募したけど、先輩の胸とかから出た針で身体にナノマシンを注入されてボーイアルトに改造…なんてことは、されなかったよ。」
「ボクは憧れのトナミ先輩に、きれいで張りのある声のボーイソプラノになる注射をブッスリと刺してもらうんだったら、痛くてもその方がいいかなぁ。」
「バカ言え。針で相手にクスリを注入して、結局自分のモノにされちゃうんだぞ!巨大クモと全く同じじゃないか。」
「巨大クモが注入するのは消化液だよ。」
「クモの消化液もボーグのナノプローブも、ボーイソプラノになるクスリも、結果は全くいっしょだろ?」
クモが消化液を入れておびただしい虫を食べてくれているおかげで、虫の数が整い、私たち人間は快適な生活をおくる事が出来ます
トーヤ君はそこで少しの間黙ってお昼の練習場にいたアシダカグモのことを思い出して考えました。団員たちは常日頃、練習場に飛び込んで来るミツバチを大切にするように言われています。どうやら、近くのビルで屋上養蜂が行われているらしく、トイレ休憩や練習の前後に窓を開けておくと大小のミツバチが彼らの歌声に引きつけられるようにしてやって来るのです。
「ミツバチは大切なミツ集めの仕事をしに来ているのだから、無碍に追い払ったりしてはいけないよ。」
譜面台の前で先生が話すと、キャーキャー大騒ぎしていた予科上がりの下級生たちは少しびっくりして真偽を確かめようとします。
「日本のミツバチはもともととっても大人しいんだ。働き蜂はふだんはせっせと飛び回ってミツを集めているが、自分たちの仲間が危ないと思っただけ自分の命を投げ出して相手を刺す。君たちだって、一生懸命に練習をしているときに誰かに追い払われたりつつかれたりしたら困るだろう?」
ミツバチが益虫であること。針に返しがついていることが、何を意味するのかということ。蜂球のこと。雄蜂のこと。働き蜂の短い寿命。
「先生…なんか、ミツバチって、僕らと同んなじですね。」
ミツバチの真摯な短い一生に自分たちの境遇が重なって見える高学年の団員の中には、2年生たちが漏らす邪心の無いそのひとことに涙ぐむ少年もいます。男の子らは、こうしてミツバチを邪険に扱わなくなります。羽音をたててやってきて、楽譜の間をふわふわと旋回する訪問者にやさしい声をかけてやったり、頭の上に乗せたまましばらく羽を休ませてやったり、どうしても鬱陶しければ「ここにはお花は無いし、俺たちも、今、一生懸命歌っているんだから、外へ行きな。」と言うだけで放っておくようになったりします。トーヤ君がアシダカグモを見て思い出したのは、そのことです。
「お昼に出て来たあのクモも、やっぱり僕たちと同んなじなんだよ。困った虫をいっぱい食べてくれて、一生懸命に仕事をしている。それなのに、5年生が皆で『潰しちゃえ!』って言ったでしょう?」
「おまえは、本当に優しい子なんだなぁ。そんなことで泣いたのかい?誰も潰したり、叩いたりなんかしてないよ。」
誰も他に何も言いませんでした。クモはミツバチたち同様に、静かに壁にはりついていた後、どこかへ行ってしまったからでした。

 ホームの端に白いラムネのような粒が散乱し、蹂躙されて粉になってしぶいています。土偶の目の形は割線で、ベージュ色の半グラム程度のタブレットは、おそらく酒石酸ゾルピデムであるということが判ります。浜風にそよいで霧のように粉が男の子たちの身長に舞い上がり、彼らが一瞬の後にそれらを吸引するとオメガ1受容体が鎮静側にはたらくのです。すると10番線側のLED表示が突然明滅し、暫くを経て列車が入線してくるという表示になりました。アオケン君は「小金井行き」という明るいオレンジ色のサインを一瞥し再び驚愕して声を上げました。
「小金井だって!」
「そうさ。」
「小金井は、遠いよなぁ。」
「遠いよねぇ。」
「僕は中野に着いたらもう疲れちゃってだめだよ。」
男の子は中央線快速の車内で立ったまま眠ってしまった話をしました。中野や荻窪や三鷹だったら、地下鉄で行った方がいいのに。武蔵境に着いた頃、大学生の降りていった空席にへたりこんでしまい、あとはぐったりして動けなかったと言うのです。
「アオケン君、これはキミの言っている中央線の小金井じゃないんだ。東北本線の小金井だよ。」
「今は小金井に東北線が通っているの?」
「そうじゃなくて、小金井というのは栃木県のウツノミヤに行く途中にある駅だよ?」
「うそつけ!関東平野の北のはずれに小金井なんかあるかい?」
「あるんだよ!これは僕たちが野外イベントに歌いに行った武蔵小金井のことじゃないんだ。」
「じゃぁ、21世紀の横須賀線はとうとう宇都宮の近くまでつながっているの?」
「まあ、そんなもんだよ。これで寝過ごしたらきっと相当大変だと思うよ。気をつけなよ。」
「快速電車で寝過ごしても大変だったけどね。…ボクはあのとき八王子をちょっと過ぎて目が覚めた。」

 横須賀線ホームの東の以遠は、既に鉄路もホームも砕石の軌道も上屋も何も無くなっていました。開けたコンクリの平地が夜の光を受け、桟橋へと伸びています。途中には星降る空のもと、青い星明かりをうけて発光し、桐箱のように置かれたジャパニーズ・ゴシックの駅舎がぽつりと建っていました。小さな方形の窓から鈍い白熱灯の明かりを薄橙に漏らしつつ海を迎えて佇んでいます。遠目にでしたが、埠頭の向こうには穏やかな丸いキラキラ輝く波頭があまたに光っていました。
 3人はじっと海を見ていました。黙として、誰も口を開こうとする子どもはいませんでした。トーヤ君は、横浜駅前の突堤から覗き込む海が怖かったのです。そこには自分の上半身が写っているはずです。けれども疲れきった4年生の男の子には、ちりちりとした新しい自分の姿を見る勇気も野心も既にありませんでした。彼方にはMM21のプラネタリュームのような白い夥しい明かりがそれぞれ野方図に明滅を繰り返しています。鉄塔の形をした、内側におれた莫大な構築物がガーネット色の航空障害灯を半キロ間隔で輝かせながら970フィートの高みへと強烈に立ち上がっているのも見えました。清涼で心地のよい京浜の海端の夜。それでも、皆は明日のお昼にはまた糊のきいた開衿シャツの制服を着てどこかのステージで歌っているはずなのです。カネゴン君が「こぐま座観測」とレーザー刻印されたガラス板を胸ポケットの上からポンと軽く叩いて所在を確かめ、皺ひとつ無い瑠璃色の半ズボンの裾に中指の腹を押しあてながら、灼熱のベロマイクの前で「今日は僕たち少年合唱団のコンサートにおいでくださいまして、ありがとうございました!」と元気よく叫ぶ声も聞こえてきそうでした。
「今日はどうもありがとう。」
ついにトーヤ君も言いました。
「僕は、これからどこへ遊びに行こうかな?」
アオケン君がおどけて皆はまた静かに笑いました。
「明日、出演が終わったら、僕の家においでよ。おやつを食べたらいっしょに区民プールへ行こう!」
カネゴン君が言って、港湾の方に少しだけ視線を投げました。
 トーヤ君はそれから、アシダカグモが安心のできる暗い臥所で小さな脚を伸ばし、今日一日の労を癒す静穏な眠りにつけるようにと願い、どこかの男の子へあげてしまったみずみずしい汁気たっぷりのオレンジが、どうぞ甘く優しく熟れてくれていますようにと念じて目を閉じました。けれども天蓋の星々や桟橋の岸壁に打ち寄せる波間に写った灯火たちは、細い優しい睫毛をしばたかせつつ、様々な波長の歌をひたひたとやむことなく嘯き続けていました。

新しいハンガリー民謡 Uj magyar nepdal

August 04 [Wed], 2010, 0:22


 あと60分以内に本番開始のキューがかかろうとする常連小劇場のリハーサル室に、あられも無い姿で立たされている男の子たちが半ダースとちょっと。更衣を終えて再確認の3〜4年生が荷物を抱え移動する道行きに、野辺の七地蔵のごとく居並ぶパンツ一丁の5〜6年生のブザマな姿。わざわざ目際を通過してクスクス笑っていく子もいる。覆面代わりに顔を覆ったため、既にクタりとハチまわりの伸びた使い物にならない紺ベレーを頭に載せたままの子。「えびちゃいろ」のフエルトペンで打ったナカグロのような貧弱な乳首。剥き出しの腕や横っ腹には誰かに引っかかれたらしい赤い痣。胸元についた腕の跡は、5年アルトの繰り出したナイトメア・オン・ヘルムストリートのなせるわざだ。昨春入団のメゾソプラノの4年生が、聞こえよがしに「バッカじゃないのー?!」とピアノの端の荷物置き場でいずこへと軽蔑の眼差しを投げながら言っている。6年生にもなって本番直前の更衣時間がプロレス大会へと昇格する「ノリ」など到底理解できない…と今年の下級生らは思っている。彼らが舞台衣装の紺ハイソックスをはいたまま一試合交えたのは、レスラーのブーツの真似事。赤面している団員は、学校指定の水着の赤フンをしめたまま。ヨコミツにはさんだはずの赤巾がほつれて尻っぺたからぶる下がっているのが見える。少年合唱団の衣装は制服サイズの半ズボンのため、家であてがわれているのはどの子も丈の短い下着が基本。律儀に無難なブリーフや一昔前のスクール水着ぐらいの長さのボクサー。少し股下があるものは黒か紺にしておかないと、ズボンのはき方によっては前方のお客さんにバッチリとパンツの裾をご披露するはめになる。団員の母親は思わぬところに気を遣う。だが、誰からも同情されない。大盛り上がりの後、大落雷があってすっかり興ざめした彼らが見世物のごとく薄汚れたパンツをさらけ出し立たされている。この醜態がわたしたちの少年合唱団のありのままの姿であったりもする。

「出演を取り消すかどうか決めるまで、ここに立ってろ!ばかもん!言っとくが、先生の今日の機嫌はすこぶる悪いぞ!覚悟しろ!」
メンバーの顔ぶれを見るにつけ、彼らの登壇がキャンセルされた本日のステージはあまりにも味気なく淡白なものになるだろう。現場に醸し出される子どもっぽく闊達でヤンチャな雰囲気が、実はお客様を最も喜ばせていたりするのである。この合唱団でも、国内の他の少年合唱団でも、21世紀を10年過ぎて客席に最も人気のある団員は、美形・美声の器用な歌を歌うカモシカのようなスラリとしたボーイソプラノではなく、ちょっと不敵な面構えの、座敷童のような、ヒョーキンでキカン坊そうな歌を歌う、ポッチャリ系や色黒ボーイアルトだったりするのである。キレイで高品質な安定感のある児童合唱を聞きたいだけなのであれば、女の子の美しいヘゲモニーで統べられた普通の少年少女合唱団のコンサートに足をはこぶべきなのかもしれない。

「気をつけ!礼っ!」「おはようございます!」
統括担当の団員が不在の場合、替わりに誰が挨拶の号令を出すか不文律で決まっている。害虫にヤられた遺伝子組換でないトウモロコシのごとく、団員たちはあちこちにきちんと隙間を作りショーアップへ向けて整列した。指揮者は下級生らの神妙な気遣いに感心したが、意識の底へ押し留めようと試み、「みっともないだろ?空いてるところを詰めろ。」と冷徹を演じつつ指示した。
「MCとソロの担当入れ換えと、レパートリーの差し替えをします。これから通しのリハをしている時間的余裕は無いから、ぶっつけだ。本番中、先生からのゴ親切な指示は絶対に期待するな。各自覚えろ。いいな?」
高学年の団員たちは、指示を「本日のステージには、裸んぼうのたわけ者たちの出演は無し」の意と受け取った。
「開演のMCは代わりにレオンがやれ!」
「はいっ!」
「どのMC担当も、これから先生が言う曲順と段取りをきちんと覚えておけよ。」
「はいっ!」
覚えられなくても「はいっ!」。覚えられるかもしれないが自信が無くても「はいっ!」。何でも「はいっ!」。ブリーフィング中の少年合唱団員の返事は語彙に不明や不明瞭があって説明を求めるとき以外は全て「はいっ!」だ。国内の男子合唱団のイベント出演は、定期演奏会などの格式張ったステージや海外の合唱団の賛助でないかぎり、事前に印刷されたプログラムや演目の掲示などは基本的に存在しない。曲目予告も「七夕・夏の思い出・ほたるこい ほか(事情により変更されることがあります)」といったイージーな示され方のみで、有って無いようなもの。提示はたいていの場合、本番中の団員MCで済まされる。
「『おはなしゆびさん』と『野ばら』はソロの連中が全滅だから、差し替える。『…ゆびさん』は『とんとんともだち』にチェンジ。ソプラノは中井宗太郎!」
「はいっ!」
「星野!」
「はいっ!」
「リク!」
「はいっ!」
「アルト…アオケン!」
「はいっ!」
ソロ等演出入りの曲の担当にはたいてい複数名がつけられている。ソロの部分を含めてユニゾンの音取りで練習が始まると、仕上がりまでには内部オーディションや簡単な指名で1カ所につき2名の正・副ソリストと「スタンバイ」と呼ばれる若干名の待機団員が決まる。フォーマルを着て真剣な表情のまま涼やかな声を揃えて客席を楽しませる少年合唱団では、キリっとした物腰のソロやコケティシュなMCは欠かせない。1人のソリストが欠席したことで曲自体を演目から取下げて伴奏者や演出スタッフを混乱させてしまうような不合理が生じないように、臨戦態勢で毎週のステージに立つ「スタンバイ」は、合唱団員の大切な任務の一つでもある。だが、今回のようにメインの5〜6年生が密集してメンバーから抜けてしまった場合は、やむを得ず曲自体を差し替えながら、冒険でぶっつけ本番のソロの指名が下るときもある。
「ウィンナ・ワルツのコーナーは、今日だけ『ミクロコスモス』歌曲集に替える。《テスト》という感じで行こう。『新しいハンガリー民謡』の奥田ユーセー君、来てますね?ついにソロの出番がまわって来たゾ!」
「はーいっ!」
マネージャー嬢はバインダーの中から演出シートを引き抜いて調整室へ演目の変更を告げに走る。バトンの上に殺したスポットライトはどうするというのだろう?奥田のバーミリオンまだらの頬がさらに赤く染まった。

 奥田ユーセーの団員経歴は、「冷たい目をした、ヘチャ髪の、神経質そうな、白い透き通った頬の予科1年生」というステータスから始まった。ころりとした幼い体型で、カラヴァッジオの描いたアモール神といったイメージで顔立ちは整っているが、レッスンがひけると通団バッグをぶる下げ黙ってスッとスタジオを後にするような目立たぬ子だった。初めての出演のレーションで団員にもおにぎり2個と唐揚げの支給があり、奥田は隣でお茶の紙パックをすすっていた上級生に「おいしいね!」と言ったのだが、返事は返って来なかった。2年間とちょっと、彼は冷気のよどみのような存在のままだった。おそらく遺伝的なメラニン量の安定のおかげで、合唱団のユニフォームのどれをとってもそこそこに似合い、母親が教えた着こなしのコツを守ってこぎれいなベレーのかぶり方やソックスのはきこなしをしていたが、それだけだった。遠足やスポーツ大会、合宿のキャンプなど合唱団で当時撮影された写真を見ると、常にブルー系の私服を着ていたことがわかる。ミント色の服は肌色に映えて見た目にはクールなのだが、可愛い男の子に目がないような団員ママさんグループの誰もそうは評価しなかった。

 少年たちのブリーフィングが終わり、彼らがリハ室での最後の短い休憩のためフローリングの床に腰を下ろさせられると、奥田ユーセーは自分の楽譜ファイルから『新しいハンガリー民謡』を抜き出して指揮者に差し出すため、置き忘れた通団カバンを取りに裸ん坊の上級生たちの前を一往復した。
「良かったな。」
右から2番目に立たされているグレーのボクサーブリーフの団員と目が合って、ぼそりと声をかけられた。同じ部屋のピアノの前と鏡の前だから、出番の差し替え指示は立ちん坊の彼らにもよく聞こえている。彼は自身のソロ担当の演目が、下級生の独唱に差し変わった事態を理解していた。グレーのブリーフより頭一つミニサイズの奥田は、伏し目がちに「うん。」と答えただけだった。

♪森の樹 梢は高い
 悲しい歌 きみが歌うから
 僕は今日もきみを想うのか
 巻き毛の子を想うのか

 麦の穂かげをゆくのは
 悲しい鳥よ温かい羽よ
 涙が今日も頬を伝うから
 初恋の人を想え

 少年合唱団の出演時間が迫り、スタンバイのシークエンスが音も無く進行する。ステージ・ユニフォームへと更衣は完了。USBストレージほどの大きさの20世紀じみた小さな矩形の暗色のボーイズ用布製インスタント蝶ネクタイが彼らの首を絞める。股上と裾がきっちりつまった黒紺の半ズボンからむき出しになったふとももとポリウレタンのハイソックスの口ゴムがしぼる自分の膝下までが露出するとその二人の目はつり上がり、静かにそこから居なくなるのだった。入場編成に不都合が起きぬ程度の頃合いを見計らって、彼らは頬のかすかな充血や潤みかけた瞳を伏し目がちに隠してはからずもさり気なく隊列へ復帰していた。下級生の睫毛は鉛筆が乗るほど長く巻いている。栗色の髪。オパルセント・ガラスの透き通った二の腕。薔薇色のチーク。真っ赤な唇はご多分に漏れず濡れてむっちりと光っていた。二人はどうやら楽屋からやや距離を置いた手洗いの個室で、静かに口づけを交わして戻ってくるらしいという噂が団員たちの間でまことしやかに囁かれていた。

「山崎君って顔のこんなところにホクロがあるようなヤツなんだぜ。」
「開けっ放しのトイレの個室の中で、ユーセーが背伸びしながらそのホクロを『オイシイ!オイシい!』ってぺろぺろ舐めてたの、トイレに行ったガッちゃんが見ちゃったんだってヨー!」
「エッ!エ”〜〜!ゾゾー。それ、完璧にマズいねーっていうか、有リ得ネーでしょ??ふつう!」

 合唱団のステージが始まってしまえば山崎亮平が合唱団のソプラノ声部を率いる実質的な総大将であり、団員たちがその安定不滅のヘゲモニーに安住しつくしてしまっている以上、在籍する者の誰も本番前の彼らの逢い引きを引責できなかった。二人は集団行動の上で必要な「とき」にはきちんと待機位置に納まっていたし、それゆえ詰問の材料を見いだす事が出来なかったのである。

 リハーサル室のピアノの使用は、合唱団の興行の頻度とまずまずの集客力のおかげで劇場側からは半ば黙認のような形で認められていた。マネジメントスタッフは、殆どの指導者にそのことを伏せていて、子ども達が暇つぶしのイタズラでキーボードに触れるとき以外、開演前の僅かの時間、ダメ押しにこれを弾くことをたしなめる者は居なかった。奥田ユーセーがファイルから引き抜いてきたA3谷折の楽譜をそそくさと譜面台に置くと、指導者は符丁のように歌唱を促した。
「じゃ、ちょっと歌ってみようか?」

 『新しいハンガリー民謡』を含む4曲は《ミクロコスモス》からの歌唱入りの小品集として団員たちに示された。現代ピアノ練習曲大全集という位置づけの《ミクロコスモス》を習い事で弾いたことのある団員は5名もいた。ある者は「自分の手のひらの下にかくれた鍵盤をこちょこちょ弾いたりするんだよ!これ作曲した人は、ピアノって楽器を見たことあるんでしょうか?!」と言い、ある者は「左手と右手がこんがらがってこんな格好しながら、カーン!って鍵盤をたたくと、弾いてない音が聞こえて来たりするんだよ。まじ、ホラー入ってる。」と、どうやら倍音の恐怖についておもしろ可笑しく語り、他の子は「初見で弾いた後に、紙と鉛筆で足し算させられる。そうすると、すげえの!数字パズルみたいので作曲されてんだよね。チョー感動した。」と数理的作曲技法についてのコメントがあり、「先生!それに、ケンバンを弾き終わった後にペダルを踏めって書いてあったり、つながってない音符にいちいち鯉のぼりみたくバァ〜ってワケわかんないタイがついてたり、棒の途中からシャム双生児みたいにオタマジャクシが2匹もにょきにょき生えてる音符とか、楽譜の右手の段と左手の段で調号が違ってたりとか…でも、1小節ごとに拍子が全部変わる曲や、8分の4+2+3拍子や、2+2+2+3拍子やらがいっぱい出て来て面白くてマジやばかったです!」と何がヤバかったのか説明してくれた団員もいた。
 最初の楽譜を配った途端、マジャル語のタイトルに附記された「Dialogue」というイングランドふう綴りの英語をシリコンバレー帰りの佐藤タクミが「ダイアローグ!」と流暢に読んだ。少なくとも伴奏に関しては難易度順に4曲が並び、先ずバイエル100番レベルの最初の『対話』(65番)を少年たちは全員5分間でまるごと覚えた。

♪ねえ ねえ おじさん 熊手を持っている?
 ああ ああ おいらは いいやつ持ってるぜ
 それでは 見せて くださいな
 いいえー 見せたくありません!

「熊手」というボキャブラリーを知らない子ども達が4年生以下で特に多かった。熊手は農具であり、これらが農村のあぜ道で作られた謡であることを訓練された子どもたちはたちどころに理解した。

♪Van-e, van-e, van-e néked gereblyéd?
Van ám, van ám, szebb is, jobb is mint tiéd.
Ejnye, mutassad meg, lássuk csak!
Nem, nem, eridj innen, megfoglak!

ピアノの教室でこれを習い、歌った事もあると自慢していた嵐士郎がたちどころに指名され、
「楽譜の最後のカッコの中に印刷されてる37ってのは何だ?」
と尋ねられた。慢心の笑みは一瞬消えたが、3年生は間髪入れず、
「37秒で歌い終われってコトです。」
と、異様にキリが悪く細かすぎる秒数指定など何処吹く風で即答した。幻想的なイメージを誘発するドリア旋法の中を完全五度進行の伴奏がコッツンコッツンと最後までリズムを刻んでゆく。2人の少年の掛け合いが面白い、ソロ向けの小品である。メゾソプラノの伊藤亮が先行の少年っぽいツッコミの役でケンカ腰に問うてたたみかける。面倒くさげに彼を追い払おうと凄むアルトの中山アンビが、「いいえ、見せたくありません」の冒頭に鳴るペンタトニックな5拍の伴奏を良く聞いていて、これが深く響くよう少年低声らしい旨味の鳴りを甘い微笑みを湛えつつ醸し出した。同じような四分音符の和音を最後までスタッカートを付けて並べ置いただけの伴奏。それがささやかな諍(いさか)いの物語を少年たちの胸の前で紡ぎだす瞬間を指導者たちは驚きの思いをもって目撃した。
 2曲目の74番は、ハンガリー民謡の素材そのまま伴奏を付けただけという体裁のオスティナートの作品で、少年たちは同じ音階の同じ音形の同じ旋律を3回、歌詞を変えて歌うだけだった。目まぐるしくもゴージャスで愉快なバリエーションと調理は全て伴奏のピアノが担当してくれる。子どもたちがどんなに淡白に同じメロディーを繰り返しても、それが一旋律の反復にすぎないという事実は微塵も感じられなかった。ピアノ練習曲とは言え、現代歌曲に於ける伴奏の存在感を指導者たちは思い知らされた。だが、他の3曲に比べていささか作曲者の「息抜き感」は拭いきれない。決意じみた思い入れとは無縁のあっさりとした仕事であることがタッチの隙間からも感じ取れる。レッスンはすんなりと次へ流れた。

 転機は3曲目、第95番bの『狐の歌』練習中に訪れた。ひなびた明るいミクソリディアふうのファンファーレに担われて、ハンガリー民謡独特の逆付点のメロディーが朗々と歌われてゆく。最初に大杉ハジメが独り言のようにポツリと「これも、カンタンな同じ旋律を4回繰り返すだけなんですね。」とつぶやき、指導者は「そうだ!スゴいだろう?それなのに4回とも伴奏が全然違って、物語になっている!」と応じた。1回目の伴奏は典型的なハンガリー・リズム。2回目はユーゴスラビアのバグパイプふう。3回目を歌っていくとほんのりと調性の爛熟を感じさせる単純な四分音符が一つずつ鳴って、4回目は「モーリス・ラヴェル」調の色彩。コーダは、…チャン!チャン!と、これぞ「ハンガリー民謡終止形」の典型だ。その後、彼らは教師の持って来たノートパソコンでグーグルマップを開いてもらい、この民謡が採集されたと思しき村の現在の航空写真を眺めた。拡大しても縮小しても、村の周辺はすぐ何かの畑になっていて、四角に整地された農業区画が四方に延々と何処までも続いているだけの場所だった。前世紀の初頭のある日、作曲者が困憊しつつもこの村に重たい蓄音機を携えて辿り着き、夜露の中でむかえたしののめの暁の明るさや二脚の疝痛の重さを彼らの小さい頭は殆ど追体験できなかったろう。野良着姿で裸足の人々に、この歌を歌ってくれとせがんで突きつけた蝋(ろう)管蓄音機の送話ラッパの匂いですら少年たちは知る由も無い。だが、練習が僅かに膠着し、教師がマジャル語の「j」の読み方を踏み誤って確認している最中、騒ぎ出した少年たちの中で民謡教室出身の変わり種のボーイアルトが、たった1回、ふざけて大仰な「こぶし」をつけ、『狐の歌』のメロディーをさらりと食んだ。少年たちの手垢がべたべたとついた黒いヤマハの前に座っていた指揮者の肩が一瞬止まり、ややあって大声を出して言った。
「おい!五十嵐!今のをもう一度ココに来て歌ってみせろ!」
教師がインテンポで伴奏を奏でると、ピアノの傍らにおずおずやってきた団員は練習中の当たりさわりの無い歌い方で4小節歌った。
「違う!さっきみたいにコブシをコロッコロつけて歌うんだよ!」
少年版さくらまやといった堪能さは微塵も感じられなかったが、今度は、「歌わせておいて叱るんじゃないでんでしょうね?」という躊躇を残しつつも「ちゃっきり節」のようにハレホレと歌ってみせた。ハンガリー民謡もまた民謡なのだ。味付けをしたのは匈奴の子孫たち。彼らの音楽もまた「月ぬ美しゃ」と同じ五音音階でできている。少年はこの作品の中に「日本の民謡」と同じニオイを直感で感じ取ったに違いない。極端なメリスマをかけながら歌い終わると、指揮者はいたく感心して「おかげで開眼した」とばかり少年を褒めた。即断即決の指名で五十嵐はライブパフォーマンス時の『狐の歌』のソリストとなり、観客は彼の歌うコブシの効いたハンガリー民謡を希有な出し物として毎回堪能した。ワケアリな自分の「前歴」が合唱団で幸運をもたらすとは全く思っていなかった彼自身が、最も驚いていた。だが、この出来事があってから、「カンタンな同じ旋律を4回繰り返して歌うだけでイイんですね?」と嘯いてみるような子どもは一人もいなくなった。

 奥田ユーセーに楽譜を探させている間、指揮者は踵を引きずりながら裸ん坊の少年たちの列の前へ立った。
「おい。本番前、更衣中のプロレスごっこは楽しかったか?」
いずれ出演キャンセルの命がくだり、Uターン帰宅することになると観念したアルトが変声途上の声で答えた。
「楽しいと言えば楽しかったです。」
「お前らは…何のために合唱団に入ってるんだ?」
「聞いてくださる人の幸せのため。」
「だったら自分が幸せになるべきだろう?君たちが楽しくて幸せな気持ちで歌わなけりゃ、聞いてる人だって楽しく感じないだろう?山崎亮平、おまえはどうだ?」
「僕の合唱団での仕事は、後輩を育てることです。それだけです。」
「団員を育てるのは先生の仕事だろう?だいいち、あと1年もたたないうちに君は卒団する。卒団したら、どうなる?」
「どうにもなりません。今の3〜4年が、4〜5年生になって歌うだけです。」
ロゴの入ったパンツの腰ゴムが、まだまくれて折れたままでいる。
「お前は、そんなことを楽しみにしながら今日も歌っているのか?」
「いいえ。残念ですが、今の3〜4年が立派な団員になるまで、僕の声はきっと持ちません。」
「どういうことだ?」
「先週の土曜日の朝に、大人になりました。黙っていてすいません。」
「亮平君…男子は精通すると同時に声が変わるのか?先生はそんなこと教えた覚えは無いぞ。しかも君たちは声が変わりはじめたら合唱団を辞めても良いと思ってるのか?」
「先生。僕は団員になってからこれで6年目です。1年生の3学期から毎週毎週立ったまま何時間も歌い続けて5年間と5ヶ月皆勤賞です。神様はたくさん歌った人から声を変えると思いませんか?」
「私はもう何百人も歌う少年をみてきたんだ。神様はどうせキミが大人になってから帳尻を合わせてやればそれでイイだろうぐらいのおつもりでしかない。それに、大切な本番前に下級生そっちのけでプロレスごっこなんぞに興じるような6年生を労ってくれるほどアマいおかたじゃない。」
「先生、どっちにしても、団員としての僕はあと何ヶ月ぐらいしか生きられない。勝負はもうついてちゃってる。だから、僕の仕事は下級生を育てることなんじゃないでしょうか。」
待ちきれなくなった奥田ユーセーはリハ室のピアノの前でしばらくこちらを凝視していたが、通っているピアノ教室の発表会で「ルーマニア民族舞曲」や「ハエの日記から」をそこそこに披露できるほどの腕前を持つウメちゃん(少年合唱団の出演日は毎回、ピアノの発表会の日程と完全にかぶってしまうために、全くツマラない思いをしている)に3段譜を見せて好き勝手にイイカゲンな練習をはじめてしまった。バックビートの前奏が哀感のある東欧の響きを重ねる。
「お前、ユーセーが好きか。」
「好きです。」
「ユーセーもお前のことが好きか?」
「…知りません。」
「多分、好きだ。…お前は何であいつが好きなんだ?かわいいからか?」
「かわいいからです。」
「命をかけて守るとキミは言っていたな?」
「守ります。僕の大切な大切な弟です。」
「じゃあ、やっぱりココでしばらく立ってろ。今のお前の立場は、下級生ほっぽらかしでプロレスごっこにうつつを抜かすバカ6年で、ユーセーに逆に助けてもらってるってな程度にすぎん。」

 誰も未だ通団して来ない。程よいメンテナンスで品良くワックスのかかったフローリングの床の上。すでにエアコンのスイッチが入っている。平日のレッスン・スタジオ。亮平少年の腹の上で、ぺしゃんこになったユーセーが尋ねた。
「先輩は何で僕のことが好きになったの?」
34キログラムの体重に苛まれ、6年生の返事はなかなか出てこなかった。
「言わなきゃだめか?」
「言わなくてもいいよ。言っても怒らないけど。」
「良くないことなんだ。言いたく無いよ。恥ずかしい。卑怯だから。」
「じゃ、言わないのはもっと卑怯なんじゃないの?」
「同情したのさ。ホントはナ。ごめんよ。おまえが2年のときからメゾの先輩たちにずっといじめられてて、かわいそうだと思った。」
「知ってたの?」
「知ってるよ。本番中だってアルトの2年生とかからもモロに意地悪されてた。」
「何でそんなこと知ってるの?」
「みんな知ってるよ。誰も絶対に言わなかったし、知らんぷりしてた。」
スタジオの事務室にかかったシチズンのウォールクロックから「ウィーンの音楽時計」のメロディーが聞こえている。
「ソロから戻ってくる先輩からお客さんにわからないようにギュッて腕をつねられたり、入場の時に革靴の先やかかとできつく足を踏まれたり、『かわいい魚屋さん』の演技のときにわざと蹴られたりしたよ。とっても痛かった。」
「知ってる。みんなは全部後ろから見てたんだ。わかってる。おまえは2年生のくせに歌がとっても上手で声量もあったんだ。全員が知っていた。」
「亮平君が助けてくれたの?なぜ?なぜ?歌が上手いと思ったから?」
「…ごめんよ。おまえがかわいそうになったから。…俺はズルいんだ。イヤらしいヤツなんだ。ごめん。ごめんよ。」
『かわいい魚屋さん』は奥田ユーセーが出番を持った最初のレパートリーだった。男の子のソロは、「♪こんちわ、お魚いかがでしょ?」の一声だけだったが、隊列の前に出てソプラノやアルトの小さな団員と一緒に天秤棒を肩に担ぐ仕草でくるりと回る振り付けが施されていた。6年生は、前を見据えた冷たい真剣な目つきで、ガニマタになりながらその場で一回転してみせる小さなユーセーの姿を回想した。どさくさにまぎれて担いだ肘を故意に目元へぶつけてくる同級生たち。ぴょこぴょこと無邪気に膝を上げながら、さも偶然と言わんばかりに男の子のスネを蹴ってくる3年メゾの「僚友」たちの細い冷徹な目を思い出す。ステージが引けて、団員楽屋の隅っこの逆さに積まれた丸椅子の横で息を殺すようにひっそりと更衣するユーセーが衣装の白いハイソックスをゆっくり下ろすと、先週の出演の後からついていた茶色いアザの横にまた新しい紫斑が穿たれていた。男の子が衣装カバンのジッパーを引きずるように閉じ、そそくさと大人の目の届く至近に抜けてゆく姿は、亮平少年のときの小さな胸を静かに締めつけた。
「どうして僕がかわいそうだと思ったの?」
6年生の平かな胸板にアンズ色の頬を押し付けてユーセーは聞いた。
「だから、言えないよ…ごめんよ。…ごめんな。」
「僕の顔がきれいと思ったの?」
「…ちがうよ。」
「じゃあ、何で?」
「…お前のココがきれいと思ったんだよ。」
「ここってどこ?」
少年は腹に乗った下級生のからだを上手に押し上げて、自分の胸部をぱたぱたと柔和に2回たたいた。
「おっぱい??」
「もっと下。」
体を戻した4年生の熱い息が亮平の口唇に吹きかえった。
「お腹?」
「お腹じゃなくて、内の方。」
「肺?」
「いいえ。」
「心臓?!」
「心臓は…うーん、半分合ってるけど。」
「心臓なんか、見えないじゃん…」
「見えないけど、きれいかどうかは、分かるんだよ。」
「分かるわけないヨ。自分にだって見えないんだし。」
「ユーセーの言ってるのは違うよ。おれの言っているのは《こころ》だよ。」
「えー?僕は心のきれいな子なんかじゃないよ。わがままで、ずるい子。」
「おまえは、おれにわがままを言った事は無いし、合唱団でズルをしたことも無い。」
「きれいじゃないんだよ。しょっちゅうお母さんから、悪い子って言われる。」
「じゃあ、何でおまえはこんなにキラキラしていて、きれいなんだ?」
各節末ごとに顔をのぞかせる『かわいい魚屋さん』の同主調の明るい主和音が、最後に甘酸っぱく少年の心に広がった。

 5〜6年生にぼそぼそと説教を垂れて戻ってきた指揮者は、トムソン椅子の座面の角に尻をひっかけてハンガリーリズムの臨時伴奏をしていた少年をどかしガシャリとそこに腰掛けた。
「ユーセー、確認だ。タイミング、何秒?」
「55秒。」
この後に及んで指定時間遵守で伴奏してやろうというのではない。少年が楽譜の隅から隅までを注意深く頭に入れているかを確認しただけだ。リハーサル室の防音扉の取っ手を後ろ手に閉めながら、打ち合わせから戻ったマネージャー嬢が「あと15分で1ベルですよ。」とわさわさしはじめた団員たちを見回し、牽制した。
「発想記号は?」
「ベン・リトマート。」
「それはどんなトマトだ?」
「トマトじゃなく、リトマートです。」
「意味は?」
「声を良く上げ下げして。」
「そうだ。バルトーク先生が書き添えてくださったその言葉をこの先生からも本番前最後のアドバイスとして君に贈る。じゃ、1回歌ってお終いにしよう。」
中指を微かに取り残して打鍵されるヨナ抜きロ短調の主和音。だが、主音から7度上のラが乗っているために、響きは明るい哀感に満ちている。当初、全く同じ和音が楽譜の最初の1ページに延々と連なっているのを見て驚いていた奥田少年も、後拍ごとに全て「>」(アクセント)記号が振られ、違う和音のようにカンカンカンカンと叩き入れられているのを聞き、何を表現しているかを理解した。

 ♪森の樹 梢は高い…悲しい歌、きみが歌うから

だが、森の和音は、少年の歌いが進み

 ♪僕は今日もきみを想うのか…

とたたみかけていくと澄んだように熟れはじめる。

 ♪巻き毛の子を想うのか

少年はこのペンタトニックの究極のフレーズエンドをとりたててきびしく指導され、徹底的に歌い直しさせられてきた。先ず、子どもにとっては安定しにくいほど低いピッチに音が下りること。感情を込めてもディミヌエンドしないこと。ルバートせずにインテンポでハッキリ歌いきる事。ラスト1小節はハンガリー民謡のオリジンを表す「♪タター!ター!」のリズムであることから、凛々しい声でピシャリと歌いきることを求められた。もともと奥田は表情も感情も豊かな子だったし、ソロがついたことを知った母親と祖母が指揮者の要求を冷静に受け止め、帰宅後にスモールステップで丁寧に粘り強く上手に教えてやった甲斐があって、睥睨するような土臭い朴訥な歌い納めをすることができた。
「じゃあ、ホンバン、頼むぞ。楽譜をしまっておいで。この調子でいこう。」
指揮者が後奏半ばでイイ加減に手を止めると最後のリハーサルは45秒間ほどで呆気なく終わった。

 ソロ用に地明かりの照度が落ち、少年たちの褐色のかいなをぼんやりとカマクラ状に覆ったスポットのとば口。一人の男の子がラッパのごとく石垣島民謡のアクセントで『狐の歌』を歌っている。知らぬ間に酷暑は到来し、醤油ダレのかかったトリカワのように日焼けたぴかぴかのホオボネ。演出は、歌い終えたソロのピンスポとサスペンションライトを落とし、次曲担当の少年の立ち位置を新しいライトで抜きなおす。スイッチのタイミングとエッジの濃淡で野暮ったい田舎臭いイメージにもなれば、今日のように手慣れてあか抜けた切り替えの場合、浮かび上がった子どもたちの姿を実物の数十倍にも精悍に大きく見せることすらできた。いずれにせよ、曲間は束の間で、客席からの拍手はまばら。『ミクロコスモス』からの4曲はいずれも先ずハンガリー語で一通り歌い出され、後奏の最後の音を弾いた伴奏者は間を置かずに再びアテンポで前奏をはじきだす。今度は同じ少年が同じ声のまま合唱団オリジナルの日本語歌詞で同じ曲を歌いなおす仕掛けになっている。『狐』担当の「座敷わらし」のようなボーイアルトは、うなり声すらたてなかったが、今日も大げさな節まわしや拳まわし、くどくどとしたビブラートを満載に歌い終えた。民謡と言うよりは昭和のド演歌に近い。練習の最終段階で、楽譜のファクシミリをあらためて眺めながら休憩時間を過ごしていたソリストは、突然飛び上がって1曲目の『対話』の楽譜をバインダーから引っこ抜くと指揮者の前へ走って持って行き、
「先生っ!この曲って、最初のフレーズは5線のファのところで横に折ると線対称で、後のフレーズはソの線を対称線にして横に折ると何か、線対称になってるんです!!ホントですってば!これって、あの畑ばっかりの村で録音してきた民謡とかじゃなくて、あとから作ったもんでマチガイナいっすよ!先生、これは絶対に絶対にハンガリーの演歌です!!」
学習指導要領の改訂を知らない指導者は、先ず21世紀の座敷わらしが「線対称」という言葉を理解して使っていることに驚いた。民謡教室出身のボーイアルトが発見したのは、楽譜の偶数行が奇数行の鏡映転回形になっているという作曲のカラクリ。子どもらしい柔らかい美しい声ではあったが、男の子はいよいよ確信をもってド演歌ばりにこの作品を歌うようになった。指揮者の調べたところによると、歌詞は確かにハンガリー民謡のわらべうたからとられたものだが、メロディーは少年の言う通り、作曲者の創作によるものだということが判明した。彼がこうしてぱんぱんに張った半ズボンから締め上げたメタボ気味の腹を突き出し「♪枷をはめたら、逃がしはしない!」とグインと歌って肯首すると、後奏の残響が鳴っている間に照明が落ち、オーバーラップ気味にステージグランドの先にあたるゾーンで待ち受ける少年へとビームが落ちた。焦げたシュクル・フィレーほどの飴色の甘美な髪。モルガナイトの頬にふわりと淡い出物を浴びた男の子が藤子不二雄の漫画に出て来る男の子そっくりな唇の線で歌い出しを待っている。♪カンカンカンカン………… あの前奏が物悲しく鳴り出した。

♪Erdõ, erdõ de magos a teteje,
Jaj de régen lehullott a levele,
Jaj de régen lehullott a levele,
Árva madár párját keresi benne


♪エルドゥ エルドゥ デマゴシャ テテイエー
 イォイー デー リーゲン レフゥルッター レベーレー
 イォイー デー リーゲン レフゥルッター レベーレー
 アールバマーダ パリャツ ケレシーベンネー

 6月のステージ。ミュージカル『アニー』のテーマ「トゥモロー」のフィナーレをかちんかちんの胸郭に響かせたまま歌い終えると、少年たちは緞帳の下りた舞台の内側、低めに箱馬の段差をきられたヒナダンの随所から、一斉に抜け落ちる歯牙のごとくぼろぼろと下りて来るのだった。重い袖幕をはたはたと言わせながら、舞台袖の床面いっぱい、グリッド状にたたんで置かれた自分の衣装のシャツの位置へと彼らは一目散にやってきて、たどりつく。
「いーち!にー!さーん!しー!」
小声でゆっくりと唱えながら蝶ネクタイのホックを外しつつ走り込んでいく子がいるのは、団員たちの標準更衣時間があらかじめ「60秒以内」と設定され、宣告を受けているからだった。ズボンのベルトを緩めてシャツの裾を引き抜く男の子。真ん中から上・下と口を開けるようにしてボタンを外していくアルトの少年たち。歩きながら、自分の衣装をむしり取るがごとく脱ぎ捨てる子。わしづかみにした蝶ネクタイを脱いだシャツに投げつける団員もいる。メゾ5年生のボータイのホックがゴムにからまって、首まわりに脱衣の結ぼれができている。アルト側に向き直り、彼がひとこと何か言うか言わないうちに、背嵩のいった少年がプレッツエルのような人差し指と親指をアゴの下に差し入れてブツリとそれを解いてやった。極短時間の舞台転換と更衣のため、このシーズンの少年たちは指示によりシャツの下着をつけていない。裸ん坊の、未だ日焼けぬイエロー・オーカーの胸や肩が暗がりのステージ袖の中でぼんやりと光沢を放っていた。梅雨は未だ1年生教室テラスの朝顔のプラ鉢の上にあり、子どもたちが湿気った頭声を吐く夏のはじめの合唱団ステージ。彼らが床からひったくって首を通すのは、上から3番目まであらかじめボタンをかけ、畳み置いた色とりどりの襟付きシャツ。チェックのボタンダウン。ハイビ柄のアロハ。サッカー地のピンストライプ。エポレットのついたミリタリー調。半袖のラガー。上半身裸のまま、それらをむんずとつかんでひったくって持って行く子は、ひな壇の立ち位置に戻るまで歩きながら袖を通す。早変わりのこの時間設定のために、先生方は「絶対におしゃべりするな!足音をたてるな!」と注意を繰り返す。だが、実際は予定の「60秒後」に再び緞帳が開いたためしは無く、自分の更衣が間に合わない…と青くなる団員がいる一方で、たいていの子どもたちはゴトゴトとハデな音をたててフロアを走りまわり、何かのレパートリーを歌っている子も、楽しそうに話を交わす子どもらもいた。汗ばんだワイシャツが脱げずにもたもたしているソプラノ6年が先生からスカートめくりの要領で身ぐるみ剥がされる。彼は小声で「ありがとうございます。」と言っている。
「僕ね、きのう真っ裸にされた!裸さらして、フルチンで。ジロジロ見られて着替えさせられた!何か、恥イ…。」
奥田ユーセーがぷつりと言った。
「ばか!どいつにやられた?」
山崎亮平が気色ばんで応えた。
「誰かじゃないよ。お母さん。新しい水着。」
水着の試着。
「怖い顔でジロジロ見てんだもん。ヤダよ。」
「何で見られるんだよ。」
「あのね。今日からプールの授業が始まったんだけど、去年の水着がきちきちに小さくなっちゃってたの。」
「裸で泳いだの?!」
「きのうの学級通信に『家で一度着てみて、去年の水着のサイズが小さくなってないか確かめてください』って書いてあったわけ。」
「前日に言われても遅いよな。」
「たぶん、前の水着だったら余裕で入ったんだけど…」
彼の学校の水着は昨シーズンにミニ三角巾のような競泳水着から腿まであるスパッツに指定が変わっていた。股下までしかない少年合唱団の夏用半ズボンをはくと、プールの授業でついた日焼けの跡が膝の少し上にバッチリついていて、ステージを下りしなに団員ママさんたちから「半ズボンの下に白いハーフタイツを重ね履きしたみたいに見えてたわヨ!」と大笑いされた。そんな思い出もわずか1年の昔。男の子の体はどの方向にも成長著しく、ズボンのような形のぴっちりした立体形成の布の筒に1年後の両の太股は通りきらなかった。
「お母さんにマジでしかられました…」
「裸で泳いだの?」
「まさか!?夜、西友のスクール水着売り場でお母さんが買ってきた。」
よくありの紺色・無地の海水パンツ。ユーセーの地元のSEIYU『くらしとファッションのフロア』は午後10時まで営業しているらしい。
「今年もまた、プール行こうな!」
「あのミズギ着て?!ヤダー。お母さん達って、僕の日焼け見て笑うもん。」
「裸ん坊のおまえがいいんだ。濡れて髪の毛がペチャってなってるから…。小さいときの、コワい顔したおまえに戻るから…。」
おーいッ!ユーセー!亮平っ!緞帳上がるぞ!二人で何、くっちゃべってんだ!バカたれ。とっとと行け!
毎週、毎週末、ステージの上に立ちっぱなし歌いっぱなしの少年たちが、小さな胃もキリリと痛もうかという本番中、幕間にでさえなおこうして団員間コミュニケーションをはかろうとする。その図太さに指揮者は怒りを通り越し、哀感を覚えることすらあった。飛び上がって慌てふためき、ステージに走ってゆく少年たち。だが、二人はまた今年も新しい海水パンツをはいて流れるプールに繰り出して行くのだろう。

♪Búza közé száll a dalos pacsirta,
Mert odafönt a szemeit kisírta;
Búzavirág, búzakalász árnyában
Rágondolt a régi elsõ párjára.

♪ブーザ クュズィー サーラダーロシュ パチールター
 メルトーダーフゥン アセメリ キシールター
 ブザーヴィラーグ ブザコラサァルニャーバーン
 ラーゴンドルタ レギ エルシゥー パリャーロー

◆◆

「『ミクロコスモス』は、作曲者のバルトークが、小さな息子のバルトーク・ペーテルのレッスンのために著したピアノ練習曲集です。市販されている楽譜の66番練習曲の終止線の横に、今でもペーテルのサインが印刷されています。」
ステージ冒頭、メゾとソプラノの上段から進み出た2人の団員が、グースネックマイクの射程の範囲内で暗唱した原稿を分け持って告げている。
「これから僕たちが歌う4曲は、ペーテルが、歌の入った3段の楽譜に慣れることができるように作られたものだと言われています。だから、バルトークさんはきっと、息子のペーテルと同じ、僕たちボーイソプラノの声で歌われるのを楽しみにしながら作曲してくださったんだと思います。」
最初のMCが左足からスッと後退し、入れ替わりに目のぱっちりしたソプラノが右足から進み出て言った。
「『対話』『ハンガリーの歌』『狐の歌』そして『新しいハンガリー民謡』の4曲。最初にハンガリー語で。続けて日本語で歌います。」
「それではココで、問題です!」
突然2人が並び立って、ユニゾンで叫ぶと、年嵩のいったソプラノの方が後を受けた。
「さきほど『バルトークさんが作ってくださった』と言いましたが、そのうちの2曲は実際、ハンガリーで歌われていた民謡のメロディーにピアノ伴奏をつけたものだったのです。一つは2曲目の『ハンガリーの歌』ですが、さて、もう1曲は『対話』・『狐の歌』・『新しいハンガリー民謡』のうちのどれでしょうか?ヒントは、『引っかけ問題』です。それでは皆さん、僕たちの歌を聴きながら、考えてみてくださいネ。」

 照明シュートの先で奥田ユーセーが『新しいハンガリー民謡』を歌っている。
累々と溜めこまれた何かは、ぶちまけた嗚咽に似ている。ワンスロープの客席からは、『狐の歌』のときのようなくつろいださざめきや明るい呼吸は消え、しんしんと深いトランシルバニアの森が広がっていった。伴奏の2拍目・4拍目・2拍目・4拍目…黒い禽鳴のアクセント、内陸の国、波紋を伸してそれらが振れてゆく。男の子は「森、森、梢は高い。」とハンガリー語で歌いはじめている。客電は引き、産毛がちくちくと目立つものに変容しかけた自身の頑丈な膝を抱えながら、亮平は、暗がりの中で黙として聞いている。弟がキリリ「とうに木々の葉は落ちた。」と歌うのを。息を殺し白目を光らせつつ聞いている。伴奏のベース音は、21世紀を生きる私たちにはありきたりのラ>#ソ>Nソ>#ファのラインだが、頭上にぎっしり詰まった四分音符の積層が半音階進行で甘美に崩落してくるため、東欧的な土臭い音場の出現と相成った。第12小節。最後の4拍目に加わるたった1つの臨時記号の♯がじんわりと効いてくる。これは曲の終わり、ピカルディ終止を暗示する大切な兆に連なる。歌う弟の表情を想うのはたやすい。ごつごつとした相貌。厳しい面差し。珊瑚色の頬からぴかぴかした唇を突き出してさえずるユーセーの様子が亮平には目に見えるようだった。
「俺がお前を好きになったのは、こわい顔をしてたから…」
5年生当時の少年が、団員らの鬱憤のはけ口にすぎなかったユーセーを抱きしめていっしょに泣いてやったのは不憫に思えたからで間違いない。同情・哀れみ・憐憫は有る。だがむしろ冷たい表情の、辛い思いをこらえてがんばっている一人の下級生が、むしょうに美しく愛しく思えた。
「俺は、昔のお前が好きだから。」
亮平が睨みをきかせ、盾になってもともと団員らの気晴らし程度でしかなかったいじめから守るようになると、奥田ユーセーに華麗なる転身が訪れた。アルバン・ベルグのオペラ『ヴォツェック』の子役に選ばれたことが始まりだった。無調の陰湿な現代歌劇。ステージはローカルの市民オペラ。明るい舞台転換はついぞ無く、薬品に心を閉ざされ人格に破綻をきたした男の物語。内縁の妻の不倫を見とがめて殺害におよぶ兵卒の狂気の沙汰。ボーイソプラノの動きはト書きが殆ど。あってもなくても良いセリフ。歌は終幕に鳩時計のようなモチーフでひとくされ鳴くだけの、首を傾げたくなるような役柄だったが、彼は外見と表情の豊かさと体調等コンディションの堅実さと設定にぴったりの外見で予想外に好評だった。抜き出しのレッスンで2ヶ月ほどその仕事に関わり、ステージを下りてきた奥田は、すでに頬を薔薇色に染めた、髪から良い匂いを発する、冗談や可愛いイタズラの大好きな、ニコニコした温かい身体の3年生の男の子に変容していた。男所帯の新味に欠ける日々、それはすばらしい結節と言え、先ず団員のママさんたちが、続いて一定年齢層以上の女性客らが男の子に言葉をかけてきた。出演の度に小さな花束が届くようになり、リボンをかけた小箱入りのチョコレートやセロファンでラッピングされた手作りクッキーが紙バッグにつっこまれたまま終演後の彼の左手にぶる下がるようになった。こうして去年の夏休みをむかえ、すっかり人気者になってしまったユーセーの笑顔を見てもなお、山崎亮平はそれが自分の引き起こしたわざであるとは思っていなかった。平日の午前中、彼らはレッスンスタジオで声をそろえ、午後は肩を並べ中小のステージに立つ毎日。
「お母さーん。TBSの『森田さんのとことん天気』に出てる浦上晟周(せいしゅう)君って、何年生?」
「さあ…。プレートに10歳って書いてあるから、4年生か5年生でしょ。」
「僕よか、下級生って感じじゃないな…。」
「じゃあ、5年でしょ。」
「『とことん天気』、毎日ビデオに撮っていい?」
「何で?」
「見たいんだよ。晟周君。」
「夏休みの自由研究、とか?お天気とは、またベタなテーマ選んだね。」
「お母さーん。」
「なあに?」
「あの子も毎日夕方に出演のお仕事してて、夏休みが無いんじゃないかな。」
「誰?テレビの『とことん天気』の晟周君?」
「きっと僕と同んなじだ。」

 コンサートが夏休み明けに行われたものか否か、判別には膝から上にズームで寄ったステージ写真が1枚あれば事足りる。半ズボンの横に添えた彼らの指先はたいてい緩く握られている。だが、ほとんどの子の握られていない親指の指先の爪が白く丸く写っていれば夏休み以降の出演の姿であり、そうでなければ夏休み前か、夏休み明け2ヶ月後の10月中旬以降の隊列ということになる。日本の少年合唱団員は、おそらく誰しもがそんなところだ。「夏休みらしい夏休みも無い」と恬淡を語るこの団員たちも、クライアントの指定で出演が午後1時半や2時半に引けたり、一部の選抜隊中心のスケジュールのためレッスンが無かったり、ブッキングのミスで子どもの出番のみがキャンセルされたりといった大人の都合があるおかげで、午後からは仲の良い団員同士で連れ立ってどこぞやのテーマパークや大掛かりなイベント、子ども向けミュージカルやフードコートなどの飲食系のアミューズメント、公共施設の夏休み企画やよその少年合唱団が主題歌を歌っている映画・アイスショーといった、21世紀の首都圏の小学生がそこそこに満喫しているような夏休みを過ごすことができた。近年の夏はとりわけ暑く、少年たちは午前中を中心に立ちん坊のまま汗だくで歌わされてきた憂さを晴らすがごとく、カルキ臭いライトシアン色の大量の酸化水素を求め、大小のプールへと出かけて行くのだった。クリちゃんが「オレんちの隣が地区センターのプールなワケよ。」と中学年相当のソプラノ系団員のママさんたちを口説いてメンツをかき集めると、対する嵐士郎は「僕のところの住区センターのプールがこりゃまたリゾートしてるから、おいでよ!」と某私鉄沿線の団員たちに直接アタックをかけて一団を形成しようとした。かれらは無料で入れるそこそこに小学生向きでソフトな明るいプールに満足して帰って来ようだったが、生温い水の出る冷水機以外は焼きそばもかき氷も置いてない区民向け学校開放に嫌気がさしたのか、それ以降の話題にのぼらなかった。「お父さんの会社のプールがタダで入れるからおいでよ。」と言った子もいる。屋内の温水系で良ければ泳ぎ慣れたスポーツクラブのプールがメインだ。「としまえん」や「よみうりランド」「えどがわガーデン」など日頃電車移動の多い合唱団らしくオオモノ狙い専門の一派もいた。だが、たいていは時間が出来た時に行きつけの近隣のプールへ仲の良い友だちを呼んだり呼ばれたりという路線の子が殆ど。山崎亮平は派閥的にはそのグループに属していたが、6年生になってから、歌の出演も学業の方も多忙らしく「夏休みが欲しい。俺もプールに行きたい。」とレッスンバッグを背負いながらつぶやいて帰って行く姿が何回か目撃されていた。

 ♪麦の穂陰をゆくのは…

 伴奏の左手にあった森の動機は、ラレンタンドとともに止み、少年が第2フレーズを歌い出すとともにズン-パ!ズン-パ!とつづられた重量感のあるハンガリー・リズムに転じている。

 ♪悲しい鳥よ、温かい羽よ…

男の子はこの部分で十分に「溜め」を作ってサビに備える。だが、歌詞とは逆に「泣き」はせず、むしろメゾらしい大らかな明るい音圧のある声で朗々と歌っていた。左手は四分音符だけで、ポンポンと昇降するロマ風のランニング・ベースに変わっている。

 ♪涙が今日も頬を伝うから…

指導者はレッスンの佳境を過ぎても、この部分を奥田ユーセーに階名唱させていた。繰り返し、繰り返し、執拗にこだわって音符を押さえさせようとドレミだけで歌わせていた。だがやがて熱心にそれを繰り返すあまり、4年生メゾの心の中には逆に音符の間にある東欧風の微分な音が浮かぶようになった。男の子がついにハンガリー語と日本語だけでこの4音を詠ずるようになったとき、ボーイソプラノには薄いポルタメントがかかるようになる。また、23小節の最後の二分音符には何の演奏記号も付いていなかったが、彼は「伝うから…」と歌いながら心持ちリタルダンドを引きつつ声を抑えてしまうようにもなった。ピアノ伴奏の左手に出て来る16分音符の三連符をともなったベースの動きを注意深く響かせようと、自制して待っているのだ。指揮者はこの場面の奥田ユーセーを見る度に、楽曲の最も美しい一瞬を輝かせるため、ソロと言えども喜んでセーブをかけてしまう子どもの気高さに憧れ、心服した。『新しいハンガリー民謡』の持つ「きも」であり「いのち」こそは、曲の終止からわずか6小節目の最下段に走るこの8つの低音の動きにある。10歳の男の子には、それがよくわかって歌っているのである。


 ♪涙が今日も頬を伝うから…

そこで彼は伴奏者がこの部分をゴロゴロっと弾き終えるやいなや、クレッシェンドと書かれたバス譜の流れを受けるようにハンガリー民謡独特の最後に走りつつ端折って終わる追い込み方でコーダを歌いきった。メゾソプラノというよりは、アルト少年のコケティッシュな無頼さだ。聞いている人々は、曲が子ども向けのピアノ練習曲集のオマケ程度の歌曲ではなく、結局はハンガリー農民の情念からわいた強烈なバラードであったことに気づく。訓練を受けて注意深く安定させたピアノの真ん中の「シ」の音を男の子は電気信号のように唸って収める。ツィンバロンのバチを前後に飛ばして弾いたような後奏がぽろぽろとあり、哀歌は長三和音へ昇って終わる。ピアニストは作曲者の指定通り、55×2=110秒間のタイミングを見計らい、減衰のまま最後のコードを響かせていた4本の指を跳ねるように上げてしまう。残響は途絶えるのだが、観客がそこに聞いたものはピアノのアクションが戻る時にたてる「ゴツン」という音だった。作曲者がピアノを「打楽器」の分類の中で扱っていたのは、それがハンガリーの民族楽器の遠縁の末裔としての要素をまだ残しているからに違いない。奥田少年がそれを理解して歌っているだろうことは、彼がその「ゴツン」を聞き終わるまで、歌う体勢を維持したまま動かないことからも容易に知られた。

 山崎亮平は、奥田のソロの後に奏でられるメロディアスな3小節の後奏を注意深く聞いていて、レッスンの引けた後、指導者に尋ねた。
「先生…ユーセーの歌っている民謡の曲って、長調なんですか?短調なんですか?無調なんですか?」
「無調だと思うか?」
「いいえ。」
「どういうのが長調で、どういうのが短調なのか、先生に教えてくれ。」
「聞いていて明るいのは長調で、暗いのが短調。楽譜があれば、最後の音を読んで考えます。」
「おまえは、『新しいハンガリー民謡』の調は何だと思う?」
「…シャープが2コついてて、楽譜の伴奏の最後の音がレだから、ニ長調。」
「さっき、<聞いてて暗い感じがするのは短調>だって言ったのはキミじゃなかったか。」
「だから、わからなくなっちゃったんです。」
「山崎君。これは、どういうことを歌った歌なんだ?」
「…ハンガリーの民謡です。」
「それは答えになってないな。この歌を作った人は、何て言いたいんだ?って先生は聞いてるんだよ。それが解んなきゃ、歌に感情も込もらんだろう。それがキミらには出来て、鏡音レンには出来んことなんだから。」
「鏡音レンには鏡音レンの感情ってもんがあります。」
生来のIT世代の6年生は表情を変えずに応酬した。
「じゃあ、今の屁理屈を客席のお客さんに向かって言ってみろ!そうじゃなくて、先生は、キミがどう思ってるのかを聞いてるんだよ。」
「…悲しい…悲しくって仕方ない…ですか?」
「キミが言いたいのは、やるせないってことか?どうしてそう思った?」
「小麦畑の上の方を飛ぶと、涙がこぼれるから。…先生、これってロ短調なんですか?」
「どうして嬉し涙じゃないんだ?」
「森の樹の葉はとっくの前に落ちちゃってるから。もう、冬になりはじめているのに雲雀は巻き毛の子を探してまだ飛び続けている。」
それらは全て歌詞に書いてある。
「山崎くん。先生がこれから教えるのは、今から500年くらい前のころの音楽の決まりごとだ。短調の曲のお終いのIの和音の真ん中の音だけ半音上げると、同じ名前の長調になって終わるんだ。三度の和音が上がるから、ピカルディーの三度という。この曲は、亮平の言う通りロ短調だが、最後だけロ長調になって終わる。」
「…何で?」
「ロ短調のピカルディー終止は、イナカ臭い、のどかな感じがするだろう?『かわいい魚屋さん』が、最後だけイナセで明るいひなびた感じがするのは、ロ短調でピカルディー終止しているからだ。」
「『かわいい魚屋さん』…ですか?」
亮平少年は刹那、何かを考えて黙した。
「この曲がハンガリーの農村で歌われだしたころ、ハンガリーはまだオスマン・トルコの占領が終わって100年も経っていなかった。一帯は、依然として近隣がトルコ人やアラビア人にとり囲まれたヨーロッパで最も辺鄙な貧しい辺境の地域だった。ロ短調のピカルディー終止は、そのことをよく表している。」
「先生、それでは答えになっていません。何で、最後だけ明るくしなきゃいけないんですか?」
「じゃあ、亮平君。おまえは、自分がこの曲の雲雀だったら、初恋の巻き毛の子を探して望み通り最後に結婚できると思うか?」
「いいえ。冬が来てるんです。もう、あきらめなきゃいけない。」
「歌っていたハンガリーの農民たちには、それが判っていたと思うか?」
「たぶん、涙が出るくらいよく判っていたと思います。」
「そうだろうとも。…だからこの曲は、最後の一瞬だけ幸福な長調になって終わるんだよ。」
「先生…。」
「何だ?」
「僕、ロ短調のピカルディー終止が好きです。」

 「合唱団の皆が一生懸命勉強して覚えたハンガリー語の歌詞を交えて歌いました。バルトーク作曲、ピアノ練習曲集『ミクロコスモス』から、第2巻65番『対話』、第3巻74番のb『ハンガリーの歌』、同じく第3巻95番のb『狐の歌』そして第5巻127番『新しいハンガリー民謡』の4曲でした。」
「さて、皆さん!問題の答えは判りましたか?どれもみな、民謡のメロディーのように聞こえていましたネ。答えは、最後の『新しいハンガリー民謡』でした!」
練習段階の少年たちに指導者が同じ問題を出したところ果、高学年団員の少なくとも半数は『新しいハンガリー民謡』を正解の選択肢から除外していた。タイトルに付加された「新しい」という語彙の印象が「新しく、こんなハンガリー民謡を作ってみました。いかがでしょう?」というイメージを誘発するらしい。「『新しく』と書いてあるんですから…」と、曲が作曲者の書斎の机の上で作られたものであるとハッキリ主張する団員もいた。指揮者が種明かしで模範解答を告げると、さらに釈然としない疑念の声があがり、その傾向は容易に把握できた。作曲者がマジャル語で「新しい」とことわりをいれているのは、これが近世になって発生した比較的新しいしっかりした骨格の民謡であることを知っていたからだ。優秀なピアニストであり、数字マニアでも、また教育者でもあったバルトークだが、この曲のタイトルに現れているのは、熱心な東欧民謡収集家であり、並外れた研究家でもあった作曲者の博識な一面だ。子どもらはそれでも結局ピンと来ない様子で、曲の命名は意外性をついたネーミングのウケ狙いといった認識しかしていなかった。奥田ユーセーは、臨時の代役MCがここまで告げて、ようやく険しい表情を解いた。今日の突然の出番が、ふつつかな上級生たちの不調法のおかげでもたらされたものであるという因果関係は理解できたが、団員人生の悲喜交々には想いが至らなかった。地明かりが上がって当たり障りの無い全員用のライトに浮かび上がった6年生が自分のことを黙って見つめているのに気づいてからもなお、奥田は軽快な歩みで隊列へと帰投した。

「あと5分きっかりで2ベルを鳴らす。それまでに着替えてスタンバイできた者だけを今日のステージに上げる。知っているだろうが、トガはトガだから、罰として今日の君たちのソロとMC担当を全て剥奪する。おまえらは今日の午後、予科生と同じレベルのヒラ団員でしかない。哀れなもんだな。ほら!もうあと4分30秒しかないぞ!パンツ一丁のままステージに出るつもりか?!」
開演ぎりぎりのタイミングを見計らって、指揮者はリハーサル室に雁首並べた裸ん坊の上級生たちに言い渡した。パートリーダーでメインソリストの一人とも言える立場の山崎は、無表情のままそれを聞いた。パンツのゴムはまだまくれたままだったが、6年生の手練は反射的にステージ衣装を身に着けた。『ミクロコスモス』のステージが賑やかに打ち上がり、大切な弟はステージライトの中で虹色にきらきら光り輝きながら自分の歌を歌っていた。2年とちょっと前の、辛い思いをしながら硬いきびしい顔つきで歌っていた男の子の姿は、もうそこには無い。客席の人々は、まぶしそうに彼を見つめ、声をあげて拍手をした。
「先輩は、いつまでも、いつまでも、僕といっしょに歌ってくれますよね?」
奥田ユーセーが演出ステージの「出番待ち」の袖幕の暗がりの中、息を殺し尋ねてきたことがある。紺ベストから開いた下級生の半袖シャツの腕もとを亮平は掴んで答えた。
「それはだめだ。いつまでも6年生がいたら、新しい子の入って歌う場所が無い。僕たちがいつか居なくなるのは、とってもとっても素晴らしいことなんだ。」

クシコスの郵便馬車

June 20 [Sun], 2010, 1:09



 おろしたての夏シャツの肩口のアイロンの筋が、どの子も極細の白ポスカで引いたようにピンと艶しく立っている。
新しいあした。新生の緑。午前7時の透き通った大気…静かに冷たく気持ちよく沁みわたる。桜木の小径。小径をまたぐ僕の行脚。校門から校舎まで。はるばるの道行き。さっぱり刈り込んだ黒い髪に朝日をちりばめて、5年生の身体が、挨拶をかけしなに僕の体側を追い越してゆく。ランドセルに押し込んだ水筒はお茶の慣性で背中をたたき、胸元にはやってきたばかりの季節の風がサックス色に染まる。


ニオイエビネの森
「あおけんちゃん、おはよう!向こうで、もう、聖歌隊が練習をしているヨ。」
断層の清水の苔垣を過ぎたあたり。真っ白いシャツの下にオレンジ色の太股を覗かせた男の子が、しゃがんだまま振り返り、僕に声をかけてくる。だが、身体の向きを変えようとはしない。
「におい、する?」
僕が聞いた。
「するよ。静かにするよ…。」
目立たぬ一串の植生の前で、ガチャ目の少年の真っ赤な唇が応えた。
カラスミのような彼の腿の横に下腿を押し込んで、僕も膝を折った。ニオイエビネ。ちらちら立ち上がった花茎。僕らは対峙する。背負ったままのランドセルのリムが傍らの子の肩をたたき、はきあげたソックスのリブがはみ出た脹脛でかさりと擦れた。花は薄いアズキ色の冠。白い清楚な蝶ネクタイの上でクラウンがこびとのバンザイを次々広げている。ニオイエビネの森。暗がりの一隅。うずくまった二人の鼻腔の端を柑橘の地味をかすかに帯びた香気がそよいで行った。
「あおけんちゃん。あげるね。」
「うん。」
「手エ出して。」
「うん。」
開花のこちら側で、軽く握った左の掌を男の子が裏返して広げると、汗ばんだ子どものすえた手の匂いが微小な草いきれとともにぱっと立ちおこった。茶色に滲んだ彼の生命線と知能線のつくるくぼみに赤い果実が数粒顔を覗かせる。ぶっちりと実をむすんだ蛇イチゴたち。
一つ、二つ、三つ。つまんで分けてくれる。
「食べてもいいの?」
「いいよ。」
「オン君が摘んだの?」
「僕が摘んだよ。」
 学校の広大な山の北東はオンジイ君のもの。シャツのサイズは子ども用145Aのガチャ目の小学生でも、学校では「オンジイ」と呼ばれる。蛇イチゴの群落も、岩清水の湧き口も、全部この男の子が知っている。ニオイエビネが狭隘な一画にしか隠棲しないこと。花茎を切り取る以外には、自分の教室にすら持ち出すことができないということ。そして、この山のどの蟲たちがどこに巣食い、どの野禽がどの樹に臥所をとり、どの神様がどこに宿っていらっしゃるのかということ。(結界は何処に引かれているかということ。)彼がそうして受け継いだように、卒業式の日のお昼までの間に、適当な下級生を一人見つけ、その役を任せてしまわなくてはならない。一人の後進に四季の遷移を全て教えるのに最低限1ヶ年の月日を必要とする。メンターとしての彼にはそろそろタイムリミットが訪れ始めているのだった。そうして朝の大気にエビネランの匂いたつ頃、オンジイ君はこの場所にしゃがみ、未だ誰とは知れぬ小さな誰かを待ちながら、黙として開花を見届けている。
その子にあげるつもりだったのかもしれない小さな果実を僕は静かに前歯で咀嚼して飲み込んだ。
「聖歌隊の練習が聞こえてきてたよ。」
「いつ?」
「6年生の校旗当番が4人きっちり、花時計の前に整列してた頃。」
「礼拝堂から花時計まで歌が聞こえて来てたの?」
「お礼拝堂じゃないよ。第二音楽室から。」
「何を歌ってたんだろう?」
「覚えて無いな。知らない歌だったもの。」
尻を上げると肉付きのあるクレーンがカクリと延伸し、自分の脚の腱が頼もしい音をたてて駆動したように思えた。舌の上に蛇イチゴの残滓が気配として残り、辺りを燻蒸する涼やかな蘭の香りが立ち上がった僕の鼻腔に触れた。こうして淡く汗ばんだ少年の掌とシゴクように握手すると、僕は僅かにジャンプしてランドセルのれんじゃくを浮かせ、かけなおし、ニオイエビネの森を後にした。


第二音楽室
 次に見えて来た焼栗色の校舎の角部屋から、確かに生え揃った男の子たちの「頭声的発声」が聞こえてくる。聖歌隊は第二音楽室で練習をすることは無いし、その急調子は礼拝で聞くような厳かな歌には思われない。通学路の終点が近づき、僕がつるつるに踏みならされた小さな坂をこちこちと音をたてて注意深く上って行くと、高い出窓を開け放った室内から、確かに威勢の良いピアノの伴奏ときりりとした高学年男子の歌声が流れてきていた。メロディーだけは聞いたことがある。

♪夜道越え 遠く山河村過ぎて
 嵐吹く日にも 走るよ走るよ郵便馬車
 走れ走れ ラッパを高く吹き鳴らして
 走れ走れ 馬の蹄軽く走れ


息の上がった自らの耳に、曲の詞は明瞭に聞こえて来なかったが、それでも僕は知る限りの讃美歌の初行をシャッフルして当てはまるものが無いか考えた。早朝練習の招集を受けたのは4年生以上の聖歌隊員全員なのだろうか?ここに呼ばれなかったのは僕だけなのだろうか?いったいどういう理由で僕はこれを失念したのだろうか?…いずれにせよ、練習場に揃った者の顔ぶれを確かめなくてはいけない。角部屋の張り出した連続窓は先生方の背丈でも十分に高く、坂の途中でランドセルを背負った小学生には遥か上空の構造物にも見えた。仕方ない…自分の下駄箱から上履きにはきかえてここに戻ると、どのくらいの時間を浪費するのだろう?その間にクワイアーの朝練は終わり、僕は咎められたりはしないだろうか?結局、最短のショートカットを選択し、現在地に最も近い木戸口の渡り廊下から、靴下のまま第二音楽室の前に達し、防音扉をこじ開けて室内の様子をうかがうことにした。


木戸口
 1年生が6〜7人群れている。どの子も何やらわあわあ自分勝手なことを叫んでいて厄介ごとの核心がいずこにあるか皆目見当がつかない。木戸口の周囲に散在した小さな男の子たちが、門扉にしがみついたり生垣を蹴飛ばしたり萩の葉をちぎりとってばらまいたりしながら叫んでいた。黒い合皮のベロを頭頂でかまして、ランドセルの中を覗いている子や、早々に水筒を引っ張り出してお茶を飲んでいる子、「いっぽんばしコチョコチョ」を始めた子やニヤニヤしながらキスをしているイケメンとメタボの2人組もいる。それなのに、何か不都合な事態が発生しているということだけは間違いなかった。問題の核心にはおそらく関与していないと思しき、難解そうな『機関車トーマス』の翻訳本を抱えた子をつかまえて僕は尋ねた。
「誰が困っちゃってるの?」
「だからネ、こんな事は決定的なバグだって言ったんですよぉ。そぉしたら、今度は品川クンがね…」
バグという術語は高学年コンピュータ室の用語解説の掲示にも示されていない。
「品川君が困ってる子なの?…その品川君って、聖歌隊の品川君の弟?」
「品川クンは困ったちゃんだけど、自分では困ってないの。セーカタイなんて、知らないよー。オリンピックの開会式に出る??」
「じゃ、…キミがバグだって言ったら、品川君は何て言ったの?」
「オレのケータイ貸してやるから電話しろって言ったの。そしたらカズユキ君が『低学年が学校にケータイ持ってきちゃいけないんダー!』って言って、レージ君がGPS機能のついたので、電話やメールしないで持ってるだけだったらイインダヨー、グリーンだよーって言って…」
そうしている間に先ほどまで熱烈な接吻を交わしていたメタボの方がじゃれて僕の腰のあたりにドシんとぶつかってきた。
「それで、いったい誰に電話をかけようとしてたの?」
「お母さんとかなんじゃないですかぁ?他人の家の事情ですからー。」
「誰のお母さん?」
「そりゃ、文光君に決まってるじゃないですかぁ。」
中心人物の名前がようやく浮かび上がった。
「文光くーん!文光くーん!ここにいたら、耳にピンって腕をくっつけて手を挙げてー!」
ふた呼吸置いてランドセルの黒いカブセの脇から、1年生にしてはカッコいいきれいな腕がしゅっと挙がった。彼の腕はたしかにきちんと右耳にくっついている。よく見ると、耳たぶから首筋までの白い肌が朱色に染まっていた。彼はランドセルに頭をつっこんだまま、先ほどから泣いていたようなのだ。
「文光くーん、ランドセルから頭を出さなきゃ。そんなかっこうで泣いてたら、ランドセルの中がびしょ濡れになって、最後に不思議の国のアリスとウォーターボーイズがワンセットでシンクロできるくらい水がたまっちゃうよ。」
かまびすしい1年生が話を聞きに集まってきたのは実に意外だった。
「文光君は、何で困ってるの?」
集まってきた子らに聞いた。
「体操着わすれちゃったんだよ。あーあ!こんな日にヤバいよねー。」
悶絶に顔を歪めながら「いっぽんばしこちょこちょ」に興じていた片割れが答えた。顔つきを見ると、この子がどうも品川君の弟らしい。お兄ちゃんよりもキリっとした目鼻立ちでかっこいいが、そこそこに似ている。
「お家は遠いの?お家の人に持ってきてもらったら?お兄ちゃんの貸してあげるから、お母さんに電話する?」
矢継ぎ早に質問をするから、答えがかえってこない。電源キーを押しながら僕は無理やり電話を男の子の掌に押し込んだ。「♪イーイな、イーイな、高学年ってイイなー。…6年とかってさぁ、ケータイ持って来ていいんだもんねー。」誰かが言っている。
 木戸口の周辺には登校の子達もまだまばらで、1年生は電話機をふんわりと耳に当てていた。おや?と思うほどの長さ、彼は揚陸してきた新緑の朝日を受けてそうしていたが、やがて表情を曇らせてまた泣きそうになった。慌ててひったくった電話のレシーブから、メッセージの最後の方が聞き取れた。彼のかけた番号が違っていなければ、1年生のママは現在、携帯の電源を切ってしまっている。良い兆候だった。
「文光君!行こう。お兄ちゃんが肩車してあげる!」
低い朝の光が玄関のあがりかまちのテラゾーにきらきらと輝いて終えるころ、母親は彼の小さな体操着袋が手提げに入れたままドアノブにぶる下がっていることにようやく気づく。走って追いかけてもしょせん間に合わない。母の予定より少し早めに教室へ行けば、体操着を手渡して時間は余りあるに違いない。文光ママは今頃、すし詰めの電車の中にいるのだ。僕の方が嬉しくなって1年生の膝下を抱くと、ソックスからスナッグルの甘い匂いがする。レノボの黒いマウスよりほんの一回りほど大きいくらいの両の革靴のヒールがコンコンと胸に当たり、少し痛いけれど気持ちがいい。


4年校舎の造形園〜ビワの守り番
 出来損ないのハーメルンの笛吹き男のように1年生を従えて、僕が肩車した文光君の上半身をランドセルごと前後左右に振って歩いていると、4年校舎の造形園にさしかかったところで誰か知っている声の子どもに呼び止められた。
「どこ?!」
1年生の下半身を両腕でしめたまま体を振って周囲を見回してみたが、声の主が見当たらない。
「そこを行く者!名を名乗れ。」
「どこ?」
「汝、何する者ぞ?!」
「どこ?」
…やりとりに辟易したのか、担いだ1年生が僕の前髪のオデコの上をポンポンとたたいた。
「お兄ちゃん、上!」
「あっ、そうか!」
遥けき青嵐の空にビワの木が一本。
がさがさしたモスグリーンの葉柄。奥まった空間が下から切れ、半ズボンで裸足の男の子が一人、そこからこちらを見下ろしている。ピカピカでおろしたてのMIZUNOキッズ=トランスダッシュの赤・黒が一番下の枝の側枝に左右揃って掛けられてあった。
「三ちゃん、おはよう!ビワの実、生った?」
「まあまあってところかな?待ってりゃイイのを投げたげる。」
男の子は短い髪に白い鉢巻をして、そこにビワ茶にしたら美味そうな柔和な枝先をアメリカインディアンの羽のように差し込んでいた。枝伝いに移動を始めた少年のズボンのすそから白い下着が見える。
「おまえ、何してるの?」
「1年生を教室までー。」
「忙しいのにご苦労さまだなぁ。」
「三ちゃんは、朝早くから何してるのー?」
「オレは相変わらずよ。このビワの木の守り番。」
いわく有りげな木には必ず守り番の児童が決まっている。そういう学校なのだ。校庭の外れの夏蜜柑の木にはトナミ君。学校で一番大きなスダジイには3年生の杉浦君。正門の前の桃の木には同じクラスの幸次郎君がついて、礼拝堂の脇のヒマラヤ杉には若本君が讃美歌を聞かせながら守っている。誰かが食べかすを吐き棄てて育ったらしい造形園のビワの木には、2年生の三学期から青山三平が張り付き、木登りしながら面倒を見ていた。彼らは晴れた日の授業が無い時間にはずっと自分の木のそばにいる。
「面白いのー?」
「面白いって、わくわくしたり、お腹がよじれるぐらい笑ったり、難しいゲームを全クリしてスッキリしたり…そういうこと?それは無いな。ビワの木は地味なお花が咲いて、葉が茂って、実が生って、枯れて…。それの繰り返し。オレ様が世話してるからオイシイ実は生るけどな。」
「つまらないー?」
「あおけんちゃんの大好きな聖歌隊と同んなじだよ。毎週、礼拝のたびにみんなのために去年と同じ歌を歌って…。わくわくも、大笑いも、全クリも無いけど、キミはつまらないなんて思わないだろ?」
「三ちゃんは何でビワの木守りになったのー?」
「何でだろう?2年の頃、お正月の遊び会の準備で先生のお膝に乗ってたんだ。温かくて、ほっこりしてて、先生がとっても優しくしてくださって、スチームが効いて眠くなるくらいだった。そうしたら、名前も顔も全然知らない6年生が急に現れて、僕をここに連れてきた。『今日からこのビワは君が守ってくれ』って。それからいろいろ教えてもらって、ビワの木守りになったのサ。」
「よく覚えてるんだねー。」
「あの時、あんなに優しくしてくれていた先生は、どうして何も言わなかったんだろう?僕が連れて行かれるのを黙って見てたんだと思う。先生は、きっと前から知ってたんだなー。」
三平君は本当に静かにビワの実をもいでふんわりと掌に持った。
「あおけんちゃん、キミの頭の上にいる1年生の掌にビワを落とすから、手を広げさせて。」

 それから、信じられないくらい重たくて水風船のように果肉に潤った黄金色の雨滴形の実が空から降ってきた。一つ目は1年生の右手のくぼみに落ち、2つ目は文光君の脛の前でおわんにくっつけた僕の両手の中にどしんと収まった。
「皮を剥いて、頭の方から食べると身体が1ミリ伸びて、オシリの方から食べると1ミリずつ縮むよ。ヤッてみな。ヘッヘッヘ。」
三ちゃんは不思議の国のアリスの青虫のような体勢で聞いたようなセリフを吐いた。それでも伸縮の尺度があまりにも小さ過ぎ、僕にはその真偽が判らなかった。1年生はもちろん、長さの単位を知らない。きっと1ミリメートルも、1センチメートルも、1デシメートルも1メートルも同じ長さにしか感じないだろう。
「ねぇ、三ちゃーん。もっと朝早く、ここらへんを聖歌隊の子たちが通らなかったー?」
青山三平は、僕のために真剣に今朝を回想しようとしてくれた。
「…ごめんよ。オレ様の知ってる聖歌隊は、今日はあおけんちゃんぐらいしか覚えてない。」


大食堂入口〜選抜リレーの練習
 1年生の体重は通学の大詰めに背負うには存外重く、甘くみずみずしいビワの実の効能はたちどころに消えた。珍道中の下級生らを1年教室に押し込んで踵を返すと、腹から下にどっぷりと乳酸が吹き出たような気がした。造形園のビワをオシリの方から食べたりしなくたって、きっと僕の背丈は文光君の体重で5ミリは縮んだろう。ゼラニウム花壇の大谷石のへりにへたりこんで、木戸口の1年生がやっていたように、ランドセルから水筒を引っぱり出してお茶を飲んだ。
「おーい!ここにあおけんちゃんがいるぞー!水とか飲んでやんの。皆で『アオケンが青組を煽る件』について話し合おう…なんちゃって!」
制服のままトレビの泉に飛び込んで、金貨は盗らずに上がってきたのかもしれないと思わせるようなずぶ濡れの男の子が一人、彼方の一群に向かって叫んでいる。叫びながら、もう僕の脇に突進急停止し、二の腕をつかんで立たせようとした。
「小関君、おはよう!」
「おー!オハイオ州でオハイオございます!あおけんさま!」
「これって何?」
「何って…ガリレオがリレー選の練習をしてます!…なんちて!」
「こんな日に、選抜リレーの練習してるの?」
「つべこべ言ってないで、キテンを効かせて早く来て〜ン!」
学校最高速の男子児童の四分の一が投入された選抜リレーの赤組選手たちは、保健室の連続窓のボーウィンドーがなぎ払った建物の楕円形の外周を猛スピードで疾走しているところだった。小関君の後について「見よ、汝らが為、吾、天よりパンを降らさん」とギリシャ語で彫られた大食堂入口の手前まで来ると、近くからへし折ってきたらしい椎の大枝で地面を穿たんばかりにつけられた線が2本、10メートルほどの間隔をあけてくっきりと画かれていた。線の内側にケバケバしい色の「ばねのチカラ」の踵を木版の見当ほどぴっちりと合わせ、重心移動にかかった6年生の頬は既に上気して視線はここに無い。ズボンの上からシャツの裾が覗きはじめた隣のクラスの選手が朽木色の何かをこすりつけた腕を振ってスタンバイを促してくる。
「あおけんちゃん、次の周から入って!来ないのかと思ってた。」
音楽が鳴っている。誰かが教室から持ってきたラジカセが、トミー・ドーシー&オーケストラのOpus Oneを大音量で演奏していた。グルービーなサックスセクションのクラリネットのソロがひょろひょろとスイングすると、前の走者が真っ直ぐな弾道を描いてゾーンに進入してくる。右手に持たれた筒は、ガリ版のロウ原紙を巻くために使っていたボール紙の芯をシナバー色のポスターカラーで塗り固めたものだ。
「アルミ缶の中にあるミカンっ!」
「おっしゃー!」
紙のバトンがビッグバンドのジャズを凌駕する声量のダジャレとともにクランクの形を描いて6年生の左手に触れると、棒を受け取った少年は土ぼこりもたてず大食堂の前からスタートレックの最新型航宙艦よろしくワープ航法全開ですっ飛んで行ってしまった。
「あおけんちゃん、来るのが遅いよー。オレなんか、朝食抜きで超ショック!なんだから。」
何回目かの亜光速・校舎一周のルーチンをこなしたばかりの少年は、顔中をどろどろにしながら、それでもよろよろとこちらにやってきてダジャレをかました。
「えー!1回走ったら終わりだよ。だって、僕、聖歌隊の練習に行かなきゃいけないかもしれないんだもん。」
「えー?!うそー?」
彼は「聖歌隊とリレ選の練習と、どっちが大切なんだよ!」とは言わなかった。走るのと、ダジャレを考えるのとで精魂尽き果てかけているのだ。高学年ピロティーに通じる傍らの芝生の上にあお向けに寝転んで、4年の選手がまだお腹で息をしている。彼らが汗と泥でグズグズなっても制服を着たまま走っているのは、持ってきた真っ白な体操着と替えのソックスを汚したくないからだ。化繊ブロードの制服のシャツは石鹸をつけて水のみ場で洗って干しておいても下校までに乾くし、ズボンは泥土を乾かしてパンパンと叩けば何とか誤魔化すことが出来る。ソックスは当然、他の子も替えのまま穿いて帰ったりする。下級生の近くにランドセルと持ち物一式を転がすと、アルファベット柄のミシンキルト手提げからスニーカーを引っ張り出して履いた。小関君が声を出して僕の準備運動のストレッチをいっしょにやってくれる。
「脚、伸ばしてー!いっ、にーい、さん、しいっ、ごぉ!アンカーの一コ前に入るんだよ!」
肩の上に1年生を乗せて縮んだ僕の2脚が股の付け根から軟骨の音をたてて伸びた…。

 5分後、僕の落とした右肩の側でグレン=ミラー・オーケストラのHave Ya Got Any Gum, Chum?が大音量で鳴っている。
「あおけん!来るよ!来るよ!用意っ!」
保健室の窓の下を通過して走者がここに回り込んでくるまで数秒。木切れで引かれたテークオーバーゾーンの中、瞬時にマックススピードまで加速しなくてはいけない。声を掛けられ、グレン=ミラーのチューインガム・ソングがコーラスを引き連れた瞬間、もう背中に男の子らしい引きしまった足音が強烈に到達した。「布団が吹っ飛んだー!」…間髪入れず古典的なダジャレを叫び、小関松三郎君が僕の右掌にロウ原紙の巻芯をプチンと押し込んでくる。アルミ合金で出来た21世紀の小学校用リレーバトンとは重さも質感も温度も違う。引き抜くようにしてそれを脇の下から体側にまわすと、力を入れないよう意識しながら腕の角度を調整した。ボール紙のバトンがストローのように軽快だ。「見よ、汝らが為、吾、天よりパンを降らさん」のドアは気づかないうちに遥か後方にある。視野の下辺で僕の太腿が左右に振れながら白いストロボ動画のようにまたたいている。白組も、青組も、黄組も、走敵の居ない朝の校舎外周の犬走りを疾走しながら、僕は保健室裏のコンクリート・デッキにさしかかったところでビッグバンドとは違う、華奢な子どもの歌声を聞いたように思えた。幻のようなその音楽のひとくされを僕は記憶のデータベースから思い出そうと試みぬうちに失念した。
「スルメにゃするめぇー!」
アンカーの加速は暴力的で臨界状態だ。体のシモ手側に入り込めない。ようやく外腕を伸ばしてダジャレを叫び、カッとほどけた6年生の左掌に繋ぎの棒を押し込んだ。


礼拝堂〜エリ・エリ・レマ・サバクタニ
 ムク材の扉を押し開けると、か弱い歌声が残響だけに切り替わった。
入り口からは薄片のドミノの列にも見えるチャペルベンチの背板だけがかたかたと規則的に並んでいるのが見える。背板の最前列に、男の子のランドセルのレンジャクが一本引っかかっている。日頃きれいに背負っている彼のナスカンには、無粋な防犯ブザーもマスコット・ストラップもマイ・コップを収めた巾着も何もぶる下がっていない。ステンドグラスを透過しかけた朝の光がつややかなその金属に鈍く反射している。
「おはようユーセーくん。今日は聖歌隊の朝練はあったのかねぇ?」
何十人もの少年たちがここに集合し讃美歌を歌っていたというような気配は全く感じられない。ランドセルの一つ窓側に、荷物を肩からおろしてほっとしたアルトの男の子がちょこりと座っていた。あしたの陽光が差すのはカバンの金具だけではない。男の子の髪がフォックス・レッドに染まっている。
「おはよう、あおけんちゃん!」
「何を歌っていたの?」
4年生にしては大人っぽいかくかくした指をこの腕にまわされ、僕は引き下ろされてマホガニー色の座面に座った。
「…知らない。」
「知らない曲、歌ってたの?」
「第二音から聞こえて来た曲。」
「僕も、それ聞いた。それ聞いて、ここに来た。聖歌隊の練習があったのかなと思って。」
「違ってたみたい…。」
「違ってたね。」
足元に転がしておいた手提げカバンから重そうなボダムのミニ水筒を抜き出すと、奥田ユーセーは注ぎ口に真っ赤な唇を押し付けて、中身をぐいぐいとラッパ飲みしはじめた。
「どっかで聞いたメロディー?」
「んぐぐぐぐー?」
塩味にも似たキリリと締まった甘辛いシロップが、炭素オキソ酸の流れるような刺激とともに男の子の下咽頭に広がった。
「歌詞、判らない。」
「んぐぐー」
「題名も判らない。」
「んぐぐぐ」
「何もよくわからない?」
少年は派手に息をついてようやくトム・ウェッセルマンのポップアートのような紅唇をボダムから外した。琥珀色のカラメル色素の飛沫がわずかに彼のシャツの襟へ染みを残し、人工的なパッキリとした芳香がついにこちらにも押し寄せた。朝の礼拝堂で勢いよくルートビールをあおってみせる小学生は、日本中ここ以外のどこにも存在しない。
「いつもそんなもんなんだけどね。」
茶色い髪の男の子は少しだけ笑って天井近くを見上げた。
「ユーセーちゃん、ここで何やってたの?」
「歌、歌ってたよ。」
「ウソつけ。そこに置いてんのは、何?」
男の子は折り返した学校指定の作文ノートと「木物語」鉛筆を今さらながら広げた両手で覆い隠そうとした。制服のシャツの上にカジュアルめなL.O.G.G.のベストを羽織っている。
「ユーセーくん、復活祭のレポート、まさか、まだ書けてないの?」
「だから、今、書いてんじゃないの!」
「そりゃさすがにヤバいんじゃない?」
「ヤバくなかったら、こんな日の朝にまでわざわざ礼拝堂に来て書くかよ?」
それでも男の子の作文は途中まで仕上がっていた。4年生っぽいかくかくとした男子らしい筆跡と、黒い線画の中を水性カラーペンでびっしり着色したコーカソイドのやせぎすの男の半裸の姿、イースターエッグの挿絵が見える。途中から鉛筆の色が明らかに擦れて変わり、小学生がこの作文の途中で長いこと何かを逡巡して筆が止まっていることが知られた。
「あおけんちゃんが一番好きな讃美歌ってヒャクバンヒャクバンでしょ?」
「当たり!何で知ってるの?」
「クリスマス礼拝のとき、《児童のお祈り》で『ぼくは第100番が好きです』って言ってたじゃん。」
サロンパス臭い小さなおくびを吐くと、彼は突然2番の頭から歌い始めた。初行表示は「生けるもの凡て」。チューンネームはPICARDY。讃美歌第100番。17世紀、フランスのカロル。

♪君の君なれど マリアより生まれ…

残響を見込んでフレーズエンドが適度にテヌートされている。聖歌隊員だからだ。

♪馬槽の中に 産声をあげて…

破裂音を引き連れた濁った暗い子音が正確でかっこいい。ニ短調のソの全音符が奥田ユーセーの殺す幽かな嗄声で置き換わると、降誕の讃美歌は微傷なエロチカに変容した。

♪己が身をば与えたもう 罪人のために…

最後にニ短の主音を比較的正確なピッチでキープしておきながら、男の子はいったん飲み込んで「♪アーメン」と終止した。
「ねえ、これって、僕たちの身代わりになって自分が殺されることが判ってるのに、君の君だけどわざわざ人間のお母さんから生まれましたって歌なんじゃないのかな?」
今度はボダムの縁に残ったルートビールをちびちびと舌先で舐めた。
「だからイイんじゃないの!クリスマスって、ホントは悲しい出来事の始まりなんだっていう歌!だから、僕は好きなの。」
「んじゃ、何でイエス様はゴルゴタの丘でハリツケになったとき、ユダヤ語でエリ・エリ・レマ・サバクタニ!って叫んだんだろう?」
「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか?ってイエス様が思ったからでしょう?」
「だって、イエス様は自分が身代わりになって死ぬって生まれたときから知ってたんでしょ?!しかも、一度死んで復活して、神様の隣に行くんだよ!『神様、何で私を見捨てたんですか』なんて、絶対に言うワケ無いじゃん!」
「何か、ハリツケが痛かったからかなぁ?」
「あおけんちゃん、それってマジで考えて言ってないでしょ?」
「もしかして、ユーセー君はそれを悩んでてイースターのレポートが未だ書けてない?」
「まったく、エリ・エリ・レマ・サバクタニ!ってこっちのセリフだよ!」
それから赤毛の男の子は僕の肩口に寄りかかり、屋外に響き始めた明るい朝の学校の音を虚ろに聞いていた。鼓笛隊の子たちが『希望の虹』を練習している。ソプラノリコーダーが奏でる「♪はな、はな、はなならば」の左の親指の半開がおざなりで調子外れだ。白手袋をはめ、彼らの前に立つ太鼓隊の子たちが我関せずを決め込んでばちをふるう様子が目に見えるようだった。

 礼拝堂の前室の古びたテーブルの上には、『信徒の友』や『こどもをまねく』や『聖書の友』といっしょに、厚ぼったいファイアーキングの食器類へ投げ入れた栞や愛らしい聖書カードがまばゆいくらいきらきらと詰めこまれセンス良く並んでいた。1年生の最初に「1枚ずつお取りなさいね。」と言われて以来、皆は休み時間の気の向いたときにわざわざやってきては、おし抱くようにして新旧のカードを1枚ずつ丁寧に持ち帰った。僕が教室のお道具箱の左端に突っ込んである六花亭のミニ缶の中に、それらはひっそりと息づいて収納されている。バーガンディ色のテーブルに並んだファイアーキングたちの配色の爽快さとシックさは、全てチャプレン先生のなせるわざ。4〜5年生が不用意に机上を荒らしても、30分後にはもと通り心惹かれるチャペル・ノベルティーのディスプレイが復活している。ハタキと雑巾は礼拝委員の5年児童が毎昼徹底してかけてしまうため、先生は楽しそうにその後を整頓していた。
 やがて前室の横扉を抜けてオーガニストギルドの6年生たちが上階にのぼってきた。バルコニーの狭い埃っぽい通路にランドセルを投げ置いて、アルベニスの『アンダルーサ』をブカブカと手分けして弾きはじめる。途中から練習が低学年礼拝用の『ことりたちは』と『ダビデのこ、ホサナ』と『ペテロは』に変わり、続いて『パジャマDEサンバ』と『桜の栞』に脱線してから、結局またアルベニスへもどってくる。僕の傍らでは作文の課題に辟易して鉛筆をフラフラ振りつつ木物語を「ぐんにゃり」させていたユーセー君が、ついにランドセルの底から「弁当箱その1」を浚渫してフタをとった。シアン色のゴムバンドを引き外し、トーマス柄のフォークを握るなりシーザーサラダ(!)をむしゃむしゃパリパリ食べ始める。食べているのに、この肩に寄りかかろうとする。弁当箱を包んでいたキルトの間から何かがポロリとベンチの上に転げ落ちたので拾い上げてみると、小さく切った包装紙にくるまれた食品であることがわかった。ゆっくりつまんでみる。持ち主に見せる。柔和な人肌の感触が包装紙を通じてぼくの指を押し返した。
「巣鴨の塩大福…あおけんちゃん、半分食べる?」
半分ではなく、正確には半分の半分で、二分の一かける二分の一は、四分の一。
「じゃ、ルートビール、飲む?」
ユーセーは自分が散々ねぶってガーリック臭くしたボダムの壜口をこちらにさし向けた。ロメインレタスの水気とマヨネーズの油でギトギトになった緋色の唇が艶っぽく光っている。
オルガンのグラナドスがアンダンティーノ・クワジ・アレグレットの表示区間を終え、フォルテッシモに伸展すると、落雷のような大音量がバリバリとロマ調のサビを咆哮しはじめた。
「ねえ!ねえ!聞こえた?」
「ごめん。聞いてなかった…。何て言ったの?」
「何にも言ってないよ。そうじゃなくて、聞こえた??…あの曲?」
聞こえているのは四分の三拍子、アンダンテのトリオにさしかかったスペイン舞曲「アンダルシア風に」だけだ。楽譜にはペダル記号が頻出しているらしく、ギルドの補助の6年生たちはトレムラント・ストップのドロノブをバコバコと派手な音をたてながらせわしない動作で抜き差ししていた。
「絶対に聞こえたよ!♪走っれぇー♪走っれぇー…って」
男の子は件のメロディーに歌詞を付けて口ずさんだ。朝食の最後の仕上げはスライス・ジャンボンとチーズをダブルソフトにたっぷりつっこんで焼き上げたクロックムッシュ。飛行機プリントのアルミホイルの包みを引き剥がすなりむしゃむしゃ食べ出した。食べながらも、今度は僕の頬やアゴを空いた方の手でぺちゃぺちゃ触ってくる。聞き耳をたてて屋外の音に耳をすましてみたが、歌声らしきものは認識できなかった。気を取られているうちに、口をもぐもぐさせた男の子がふわりと抱きついてきて、この身は緊縛されてしまう。密着する彼の耳の後ろからラッシュのマイフェアリーっぽい甘い石鹸の匂いがした。


本部・放送席〜放送係品川のフリーモーニング
「ねえ、さっきの歌のメロディーだけ、歌ってよ。」
「いいよ。いやだよ。僕、あおけんちゃんみたいに上手じゃないもん。アルトだし…。」
男の子は足を組んで上側になった方のソックスを上げなおした。
「品川君は、どうして聖歌隊に入ろうと思ったの?」
「アンビ君が同じクラスで、それにあの頃はアンビ君と同じフットサルに行ってたからさ。…そんなに歌が上手ってわけじゃないし、好きってわけでも無かったんだけどね。」
『本部・放送』と《はせフリー明朝》でプリントアウトされ、パウチに入ったA3の表示が折りたたみ机にセロテープでとめてぶる下がっている。
「次はプログラム4番。3年生によるダンス…キッズ・ソーランです。今年のソーランは、構えや見得、かけ声など、学年の全員の振りと心が一つになった演技を目指しました。海の男の汗と気迫、キリリと引き締った身体の動きが校庭狭しと暴れ回ります!最後のシメが見事キマりましたら、どうか心のこもったたくさんの拍手をお贈りくださいっ!…担当は品川でした。以上でプログラム原稿のテストを終わります。本日は晴天なり。」
品川君は3年担任の先生の手書きと思しき放送原稿をつまんだまま、ディスクジョッキーのように本番の半音量で出力したアナログ・アンプのロータリ・スイッチを自分で捻って切った。
「アナウンス…上手だね。」
「練習したからね。でも、これはさっき急に原稿の訂正がかかって、今ぶっつけで読んだからキョドってたんだけどね。」
「じゃあ、練習なんか、ぜんぜん関係無いじゃん。」
「校庭にいる皆さん!おはようございます!待ちに待った運動会の朝です!選抜リレーの選手も、キッズ・ソーランの3年生も、鼓笛隊のリコーダーも鍵盤ハーモニカも、この1ヶ月間、学校の全員が毎日競技だけでなくさまざまな練習を繰り返してきました!」
スイッチの接点音を再びカチリとさせて男の子が突然、勝手にしゃべりはじめた。スピーカーが校庭の向こう正面に少年の声を投げている。
「朝、着替えて真っ白だった体操服が、お昼休みになる前にもう校庭の土と汗で黄土色に染まり、僕たち高学年の児童は例外無く全員帰る頃にはくたくたで声もカスレて出なくなります。」
放送席のテントの傍らで記録ビデオのドリーを仕込んでいた子たちが慌ててレンズを振ってこちらを凝視した。
「僕たちは下校時刻まで練習のおさらいをし、足を引きずるように帰宅して、翌朝、また洗ってもらった体操服に袖を通します。」
オンエア中に声を出してはイケナイということを徹底して仕込まれてきた放送担当の子たちは、誰も制止の声すら出さない。ビデオの6年生がカンペ用のスケッチブックと黒マッキーを探して何かを書こうとしたが、どちらも手元の係用具のバスケットに入っていなかった。
「渇水と疲労、諦観と困苦、戦いと身体と逃走…僕らの1ヶ月はそういう日々でした。」
白組の応援団席からすっ飛んで来た放送委員長が何か言おうとする僕に向けて首切りの身振りで「音を切れ」のハンドサインを繰り出したが、品川君のどす黒い人差し指と親指はボリュームスイッチをホールドしていて動かない。動転しているうちにCDケースを掴んだままテントに走りこんできた体操着姿の放送係が据えられたコンソールの前の折りたたみイスにガシャリと音をたてて収まった。エンピツの書き込みのあるパソコン焼きの白レーベルをCDデッキのトレーにかますと、再生ボタンを押すが早いか1曲目にポーズをかけ、人差し指の腹を添えて待つ。アナウンサーはタイミングを待ち受けていたように次のセリフを吐き出した。
「おはようございます!放送係の品川です。運動会の日の朝、楽しい音楽とボクのおしゃべりでお過ごしください。この番組は明るい勝利をオ約束する、白組応援団の提供でお送りします。それでは、今日最初の曲。ヘルマン・ネッケ作曲、運動会定番のナンバー『クシコスの郵便馬車』。6年生有志の皆さんの合唱でどうぞお聞きください!」
ポプシクルを咥えたウルフマンジャックのように、男の子は言い終えるが早いかマイクのスイッチをパチッとしぼり、TAPEと書かれたつまみを即座に煽ってピアノ前奏を校庭に押し流した。

♪夜道越え 寂し人無い郷過ぎて
 遠い灯を目指し 走るよ走るよ郵便馬車
 走れ走れ ラッパを高く吹き鳴らして
 走れ走れ 馬の蹄軽く走れ!


あの歌声だった!ボーイソプラノの群声が、初夏のおそいしののめの空に一斉にこだました。録音だった!曲のトリオでディスクジョッキーはボリュームをわずかにしぼると、コクのあるコケティッシュな声で再びナレーションを被せてきた。
「作曲者のヘルマン・ネッケはドイツ、ノルトライン・ウエストファーレーンの田舎町の消防音楽隊を指揮していたほとんど無名の音楽家です。日本では昭和30年代に入ってからこの曲が学校の音楽にとりあげられ、よく聞かれるようになりました。ハンガリーの郵便馬車が走る様子を描いた作品といわれています。6年生のみんなのカッコいい歌声は、勇ましい馬の姿と配達を急ぐ御者の真剣な気持ちをよく表していますネ。」
品川君が放送稿をまくしたて、ここまで言って今度はテーブルの上の埃まみれのカフを引いて黙った。
 ハンガリー語の発音については「フサールの歌」や「ミクロコスモス」の歌曲集を歌う前に聖歌隊でかなり念入りな説明を受けた。「クシ」とつづられたCSIはハンガリーでは「チ」と読み、「コス」と書かれたKOSの文字は原則「コシュ」と読まれる。「クシコス」と読まれるものはマジャル語の自然な語感のことばではないのだ。ハンガリーの歌として曲を「クシコスの郵便馬車」と呼ぶのは、「ハーリ・ヤーノシュ」を「ハリー・ジャノス」と読むのと同じぐらい非常識なことのように思えた。
「これ、全部、暗記して言ってるの?」
「殆どね。」
「たった1回、朝の放送でしゃべるだけの原稿を全部覚えて来てるの?」
「だって、覚えてないと、スラスラ言えないじゃん。この程度の構成台本をいかにも読んでますって感じで言ってカンでるようじゃ、まるで小学校の校内放送みたいでダセぇよ。」
だから小学校の校内放送なんだよ。
「品川君!キミはやっぱり本物の日本一の小学生ナレーターなんだよ!」
「オレは日本一の小学生ナレーターとかじゃなくって、日本一のボーイアルトの方が良かったんだけどなぁ。」
学校の聖歌隊に日本一のボーイアルトは2人も要らない。だが、曲が止まり放送事故にならないよう細心の注意を払って待ち構えていた男の子はCDのボーイソプラノの終わりに伸びたプレートエコーが減衰しないうちにカシャっとカフを上げて言葉を繋いだ。
「えー、皆さん。今朝ボクたち放送係は、いつもの放送室を飛び出して、本部席テント内の放送席からこの番組をお届けしています。実は、今、ボクの前に聖歌隊のあおけん君が来ています。ちょっとお話を聞いてみましょうか。あおけん君、おはようございます。」
「うーん…おはようございます(?!)」
「今日は、何をがんばりますか?」
「赤組のリレー選手なので、赤組優勝をめざしてがんばって走ります。」
「赤組ですかぁ。この番組のスポンサー、白組応援団なんですけどねぇ。」
「ごめんなさい。」
「じゃ、ちょっとココでコマーシャル入れます。みなさんお楽しみの『品川君に聞いてチョんまげ』のコーナーはその後で。」
急に振られたお皿係は慌ててCDのポーズボタンを解除し、トラックを1つ進めた。番組ジングルに引き続いて派手派手しいドラえもんのテーマソングにのせあらかじめ録音されてあった白組応援団のCMが流れた。『ブレードランナー』の近未来広告のようにそれがキッチュに校舎外壁へとこだました。カフに触れ、マイクが死んでいることを確認し、アナウンサーが言った。
「これから先はアドリブで行くから。。…それから、選抜リレーの話はしないこと。いいかい?」
もしも僕が運良くここを通りかからなかったら、品川君はいったい誰を相手にトークするつもりだったのだろう?!
「放送係品川のフリーモーニング!この番組は白組応援団の提供でお届けしています。さあ、今朝は本部テントの放送席に聖歌隊のあおけん君が来てくれています。あらためまして、おはようございます。」
「おはようございます。」
「…というワケで、続いてはみなさんお楽しみの『品川君に聞いてチョんまげ』のコーナーです。このコーナーでは、わたくし放送係の品川が、児童のみなさんのお悩みを聞いてじゃんじゃん解決していこうというあっぱれ企画です。では、さっそくですが、あおけん君、キミのお悩みをうかがいましょう。」
「えーと、僕のお悩みじゃなくて、友達のお悩みでもイイですか?」
「ああー、そういうお友達も多いんですよね。どうぞ。」
「あの…聖歌隊の友達が春からずっと悩んでることなんですが、イエス様がハリツケにされたとき、『神よ、神よ、なぜ私をお見捨てになられたのですか?』っておっしゃって亡くなったんですよね。でも、イエス様はご自分が復活することも、それから神様のそばに上がることも、生まれたときからご存知だった。…それなのに、なんで『神よ、神よ、なぜ私をお見捨てになられたのですか?』っておっしゃったんでしょう?」
アナウンサー品川は、放送事故始末書を書かずに済む程度の刹那、口をつぐんで考えた。
「…なぜでしょう?」
「うーん、だから、それを品川君に聞いてるんです。」
「えーと、僕にも分かりません。ご存知のかた、今朝の放送終了までに、本部テントの放送席、品川のところまでいらしてください!先着1名に、放送係特製ストラップをプレゼントしちゃいます!」
空きの折り畳み椅子の座面へ無造作に置かれた100均のミニバスケット。ヒビの入ったCDケースやデルマやガムテープといっしょにミサンガを改造したらしい手作りストラップがつっこまれているのを認め、彼は言い放った。質問をした途端、僕をうっちゃる無神経さにはあきれるが、さすが日本一の小学生アナウンサーだけあって、生放送の切り抜け方にそつがない。
「それでは次のナンバーまいりましょう!ポール・ウィリアムズ作詞、ロジャー・ニコルズ作曲、アメリカ、クローカー国民貯蓄銀行のCMソング、『愛のプレリュード/ウィーブ・オンリー・ジャスト・ビガン』をお届けします。演奏は、アントニオ・ロッシ・オーケストラ!僕らの運動会の日は始まったばかり!」
中指の腹でポーズボタンを押し、彼はトーク中に入れ替えてもらったCDを再生した。国民貯蓄銀行のCMソングにしてはやけに情感のこもったメロディーが校舎内にも響いているのがわかる。曲のサビが憂いのあるオーボエのソロに導かれ、「我ら新たに地平を分かち」の部分を歌い始めると、こんな運動会の日の朝に垂れ流しされている校内放送を誰が聴いているというのだろう?額に汗を浮かべた赤い顔の6年生が運動靴のかかとを半分踏みながら、慌てふためいた様子で紙切れを握ってやってきた。放送席の校庭側から、受付カウンター代わりの折りたたみ机ごしにA4大の紙片に書き付けられた手紙を差し出してくる。一見して先生からの伝令だった。
「チャプレン先生からです。」
6年生は相手の僕たちが小学生だというのに、敬体の丁寧語で話した。
再生紙のコピー用紙に鉛筆の走り書き。僅かな時間で書かれたものにしては十分な文書量。ゼムクリップで聖書カードが1枚、とめられてあった。

「おはようございます。先生から2つだけヒントをプレゼントするので、自分で考えてごらんなさい。

ヒント1…ギリシャ語で書かれていた聖書の中、なぜわざわざイエス様のあの言葉だけヘブライ語で書かれているのだろう

ヒント2…この聖書カードを見よ

あおけん君へ。きみのお友達に先生からアドバイス。
礼拝堂で朝食をとっても神様は何もおとがめにならないと思います。ただ、食べこぼしや食べがらをきちんと始末することは小さな紳士の良識として考えてみてごらんなさい。お悩みの解決と、運動会でのみなさんの健闘を念じています。 チャプレンより」

僕らが記念品のストラップを引っぱり出そうと目を上げたとき、既に伝令児童の姿は消えていた。

 聖書カードの文面は、挿絵を文字が覆うほど長いものだった。おそらく、学校にあるカードの中で一番長い。日本一の小学生アナウンサーはスピードを落とし、先生からの手紙に続けて慎重に淀み無くそれを読んだ。「愛のプレリュード」が4分間超のタイミングを流しきり、BGMが無音に帰した。

わが神、わが神、なにゆえわたしを捨てられるのですか。
なにゆえ遠く離れてわたしを助けず、わたしの嘆きの言葉を聞き入れないのですか。
しかしイスラエルのさんびの上に座しておられるあなたは聖なるおかたです。
われらの先祖たちはあなたに信頼しました。彼らが信頼したので、あなたは彼らを助けられました。
彼らはあなたに呼ばわって救われ、あなたに信頼して恥をうけなかったのです。
 詩篇第22篇: 旧約 Psalm22(抜粋)


イエス様は最期に、人々にヘブライの歌を歌って聞かせようとしたのだ。

 どこかの家のお母さんが低学年用と思しき小さな体操着袋をワシヅカミにして放送席の後ろを通り過ぎて行く。僕がヒョコリと会釈をすると、慌てた顔が急にニッコリして挨拶を返してくれた。
「それでは、エンディングに本日のゲスト、聖歌隊のあおけん君のリクエストにお応えして何か1曲、流したいと思います。あおけん君、今日は朝早くから来てくださってどうもありがとうございました。」
「おじゃまして失礼しました。リクエストは『クシコスの郵便馬車』をお願いします。」
機器担当の放送係が、エンディングナンバーの『ミスター・ロンリー』のCDを慣れた手つきでイジェクトし、手焼きのCDを再びディスクトレーに乗せて直接スタートボタンを押した。
「それでは、6年生有志の皆さんの合唱…ネッケ作曲『クシコスの郵便馬車』を聞きながら今朝はお別れします。『放送係品川のフリーモーニング』…この番組は、明るい勝利をオ約束する白組応援団の提供でお送りしました。僕らの運動会の日は始まったばかり!皆さんの今日一日の活躍を祈ります。お相手は品川、テクニカルは佐伯達也でした。それでは、みなさん。さようなら!」
品川君がそう締めくくり、校舎内に響き渡るボーイソプラノの合唱を聞きながらMICの表示のあるスイッチとカフをカチリと音をたてて切った。

 生放送の中、学校の様々な場所で朝を過ごしていたたくさんの子どもたちが、放送席のある本部テントの周囲を迂回してそれぞれの昇降口に吸い込まれて行く。青山三平君は余った小さめのビワの実をトラックの6コースの際すれすれから投げてよこし、オンジイ君は貴重なニオイエビネの花を教室に生けようと手折って握り、歩いていった。外向きに折り返した作文ノートと「弁当箱その1」を抱えた奥田ユーセー君は、相変わらず口をもぐもぐさせつつランドセルを右肩に背負って走ってくる。ドロドロに汚れた制服に鉢巻きだけ締めた小関松三郎君が僕の姿を見つけて必勝ポーズのサインを送りつつ昇降口に消え、入れ替わりに真っ白い体操着へ着替えたニコニコ顔の1年生の男の子が下駄箱の端からピョンと飛び出してきた。どの子にもある思いの中でやがて歌声がフェードし、アンプリファイアーの電源を一旦落とすノイズがしばらくしてプツリと校庭に落ちた。運動会の一日が始まった。

思い出そう Try to Remember

February 27 [Sat], 2010, 23:39


 「ブラザーズ・フォア、1960年のナンバーで『思い出そう/トライ・トゥ・リメンバー』でした。僕たちソロ4人組がリードをとってお贈りしました。…それでは次に、会場のお友だちや、お父さんお母さん、おじいちゃんおばあちゃんも、ステージに出て僕たちといっしょに歌いませんか?『少年合唱団と歌おう!』のコーナーです。今日は、楽しかった夏休みを思い出しながら、みんなで『夏の思い出』を歌いましょう。歌ってみたい方は手を挙げてください!」

 ステージのシモ手に立つアナウンスマイクのヘッドに口元を下ろし、猫背気味になった群青色のボータイのメゾソプラノがひと息にまくしたてて言葉を切った。客席側には一瞬の緊張が走るのだが、毎週末、毎ステージ、前もってどの人に声をかけようか、断られれば次に誰と誰と誰のところへ行くかスタンバイの段階から算段しつつ歌っている僕たちにとって雑作も無い計画通りの展開だった。自ら名乗り出て登壇するお客様はまず無い。2ヶ月に1グループの挙手があれば良い方だ。

「それでは、団員がそちらにお邪魔してお声をおかけしますので、誘われた方は、どうぞ速やかに舞台へお上がりください!」

 MC団員の言う「速やかに」というセリフはどうも大人たちの心をくすぐるらしい。毎回、クスクスと笑い声が漏れた。仮設ステージではキザハシのある側のパートの団員が…、フラット・フロアのイベントスペースでは高低両サイドの端の団員たちが、…いずれにせよ当日の場当たりの後のミーティングで指名されたメンバーが2人1組でチームを作り「客上げ」の手引きを担当する。低学年のチームは、たいてい自分の兄弟姉妹などこの日に招待した親類縁者を引っぱってくる。5〜6年生からコツを伝授され始めた中学年のメンバーは、赤ちゃんを抱いたお父さんや、大学生やOLの友人同士と思われる比較的若い女性グループなど、攻めやすい客層をお兄さん団員たちから譲ってもらいアタックする。上級生だけが経験と勘と冷静な観察眼だけを頼りに声をかけてゆく。参加者が少ないとステージの見映えは良くないし、逆に舞台のキャパシティーによる定員は厳然と存在し、記念品の缶バッジの個数にも限りがあることを忘れてはいけない。僕たちは他所のチームの漁況を横目で睨みつつ、必要とあれば即時撤退して人数調整するよう繰り返し言われていた。ステージでは先生が回れ右で即席『歌唱指導』をお客様に施している。残留団員たちは、サポートのため音圧を引きつつメゾピアノで「夏の思い出」を範唱し、先生の背中ごしにお客様へ振りかける。釣り上げられた遠洋マグロの房のように、小さな団員に導かれたお客様がぞろぞろとステップを鳴らして舞台へと上がってきた。




「あー!あー!いるね。いる!いる!ちゃんといる!」
さらさらした無帽の髪を夏の終わりの風にそよがせて、5年アルトの五十嵐くんが当日総動員した学校のクラスメートと担任の先生をぞろぞろ7〜8人引き連れステージに上げる。と、その後をぽくぽくくっついて来るのは、シアン色のアディダスのボーイズ・タンクにデニムのスキニー・パンツを履いた4年生ぐらいの男の子が一人。母はその姿を画面に認め、傍らのオールド・キリムに寝そべってメタルファイトベイブレード最新刊をぱらぱらめくっている僕に声をかけた。
「いったい、いつ頃から来るようになったのかね?」
「さあね。気がついたら、いっつも『客上げ』で出るようになってたね。」
母はHDDレコーダーのリモコンの一時停止ボタンを今にも押しそうになりながら、なおも尋ねた。
「だって今年は、ずっと『客上げ』の係なんでしょ?お客さんに声をかける担当のゴ本人が何で覚えて無いのよ?」
「だって、あの子、最初の頃は色んな子に引っぱってもらってたんだよ。それに僕だって毎回客上げの担当をするわけじゃないよ。」
「な〜んだ。まぁ、客席からお客さんを連れて上がる役なんて、あんまり楽しい仕事じゃないしね…キミたち小学生には。」
「ねえ、お母さぁーん、超レアパーツが当たりそうなペガシス、もう1コ買っていい?」

 この日、僕は直前の『トライ・トゥ・リメンバー』のソロに当たっていて、担当の指名を受けていなかった。五十嵐くんは連れてきたクラスメートたちをアルトの前の辺りに適当に並ばせて自身はその中に混ざり、あとは知らん顔だ。見かねた奥山君が取り残されたアディダス君の手をサッと引いて僕の左隣に押し込んだ。ずらりと揃ったワイシャツにボータイ姿の団員の中、ボーイズ・タンクの男の子が一人。彼の前にはタケちゃんの連れてきた小さな女の子がヤムヤムズのぬいぐるみを抱きかかえて所在無さげに立っている。彼女はたぶん『夏の思い出』など歌えないだろう。僕は曲が始まる直前、隣に入ってきた男の子にひとことフタこと声をかけている。だが、何と言ったのか覚えていない。「この曲、歌える?」や「歌えるところだけ歌ったらいいよ。」…は、自分なら言いそうだ。「姿勢がいいね。」「緊張しない?」…は、あり得る。「キミ、この前も来てたでしょう?」とは、さすがにまだ言わなかっただろう。返事をしようと彼はこちらを見上げ僕の目を読んだ。緊張がほんの一瞬融解する。彼が言葉を発しようとしたその刹那、フォルテがちに前奏が始まった。練習で渡された楽譜通りの短い序奏ではなく、歌の終わりの1番カッコの中を先生は弾いていく。男の子は返事を飲み、僕らは弾かれたように歌い出した。

 ♪夏が来れば思い出す…

 少年合唱団は一度だけ尾瀬に行ったことがある。水没した草っぱらに東京電力のおじさんたちの渡した観光地めいた木道があり、「日頃のオコナイ」を十分に反映して燧ケ岳どころか自分たちの進路さえハッキリ見えないガスってじめじめした陰鬱な日だった。鳩待峠から最初心者コースを通ったはずなのに、僕らは尾瀬に着く前に、もう粘土状にぬたくった山道で幾度も滑ってしこたま尻餅をついた。山ノ鼻にたどりついたとたん、こじゃれたピクニックテーブルの端へ上野くんが派手にゲボを吐く。木道は一貫して危険な状態にあり、加藤先輩と児玉大貴君が湿原のとば口とも言える場所でカンタンに足を踏み外し、遥かな尾瀬に派手な音をたてて滑落した。
「おいっ!尾瀬ケ原はダイビング・スポットじゃないっ!注意力散漫だからこんなことになるんだ!バカもの!国立公園の自然をもっと大切にしろ!」
パンツの中まで全身びしょ濡れで唇をムラサキ色にして震えている児玉君は、結局、先生から大目玉を食らった。記録写真係OBの笠原先輩は手が滑って皆の写っている大切なデジカメをニッコウキスゲやミズバショウのコヤシにしてしまい、例によって険悪状態が続くソプラノの小久保君と蔭入君は牛首のスノコの上でとっくみあいのケンカになった。山ノ鼻に戻った僕たちは上野君のゲボを慎重に避けつつべちょべちょになった色気の無いニギリメシの昼食をとって集合の上、燧ケ岳が聳えるとおぼしき方角に向かい『夏の思い出』を3回も歌わされた。どろどろで冷たく辛い、面白くもへったくれもない日。…それが僕たちの散々な「夏の思い出」だった。

「この曲、知っているの?」
アディダス君の歌う「♪みずのほとり…」と「♪遥かな尾瀬」…がきちんとテヌートとフェルマータになっていること、「♪さいている…」をトリプレットにまとめていることに気づいた僕は、結局、最後に尋ねた。
「知ってるよ。音楽朝会で歌う。『歌はともだち』に入ってるから。」
「『歌はともだち』って?」
「歌集。」
「カシュー??」
男の子は後も振り返らず、ゴトゴトと客席に戻って行った。




 ♪フレー!フレー!あーかーぐーみー、フレ、フレ、赤組ゴーゴーゴー!

 不休のトレモロの低音に担われて、途中から食い込んでくるピアノの伴奏までもが「チャ!チャ!チャチャチャ!」と応援団の手拍子だ。本日の客上げは小学生メイン。幼稚園・保育園の子やもしかすると中学生が混じっているのかもしれないが、山崎君のMCは「会場のお友だちで、いっしょに歌える子は、ぜひ、出てきて僕たちといっしょに『ゴーゴーゴー(運動会の歌)』を歌いましょう!」という原稿だった。秋晴れのイベントの野外ステージで、空は確かに遥けく高いのだが、配られたプリントに明記の「紺ブレザー・カシドス半ズボン」の服装指定では明らかに厚着で暑苦しく、先週末から着用のベレーはもはや「汗止め」の機能しか果たしていなかった。出演が終わり、帰宅して衣装ケースを開けると、自分でも判るような頭のニオイがプンとたった。
「お母さん。日本の少年合唱団って、何でベレー帽なんでしょう?」
「…嫌なんだ?ベレー。」
「嫌じゃないけど、VBCなんかベレー帽、無いじゃん。」
「あら!VBCも最初はベレー帽着用だったのよ!」
「え”〜!」
日本の少年合唱団の歴史を語らうマニアック親子。ジャパニーズボーイソプラノのウンチクはあるが、少年合唱団で超有名なオーストリアの首都名を耳にしても「ウィンナーコーヒー…生クリーム増量っ!」「ザッハトルテでしょ?!」「粉砂糖に埋もれた愛しのシュトルーデル君よグーテンターク!」…と、食いもんのコトしか頭には思い浮かばない。あげくの果てに「あんな辺境のド田舎、トルコ人が攻めて来てくれなけりゃ、今だに音楽・文化とは無縁の過疎の村!」と過激な歴史的分析にたどり着く。
「VBCの隊章を左ハートの上に美しくエンブロイドしたレンガ色のスマートな上着。その間から覗くボーをあしらった純白のブラウスは清純そのもの。ベレー帽と半ズボンは気品あるベージュ色。白の揃いのストッキングに焦茶の短靴姿の少年たちは、まさに私どもの可愛いプリンスです。…だって。」
母は時代がかったボキャブラリーの並ぶ秘蔵の「ビクター少年合唱隊・ユニホーム規定1962年」という写真入り資料を見せてくれる。ネットオークションの戦利品。落札額はハウマッチ?
「薄茶色のベレーなんて、ヤバすぎる!」
何がヤバいのか、言っている本人がよくわからない。
「着帽方法は、ふわっと被せて耳の上に流れるように左側へツブす。…かぶり方まで決まってたのかね?」
「あー!それってカヤト先輩のかぶり方と同んなじだー。」
「…どうも、LSOTの初期の制服が、紺ベレー着用だったらしいわよ。だからじゃないかな?」
「だって、僕、ベレーかぶってるLSOTなんか見たことないよ。」
「お母さんだって、見たことないわよ。1950年代〜60年代中期の頃らしい。」
「へぇ〜!」

 多分、客席にはバレバレなのだが、岡山(弟)君と奥田ユーセー君はベレー帽の下にそれぞれ紅白のハチマキをしてステージに乗っている。山崎先輩が1回目のMCで曲紹介をしているうちに、二人がパッとベレーを脱いでズボンのベルトにたくしこみ、ブレザーの裾を戻すと、こども紅白即席応援団長の出来上がりだ。

 ♪フレー!フレー!○ー○ーぐーみー、フレ、フレ、○組ゴーゴーゴー!

先生が目立たぬようキーボードの端に退き、応援団長たちは合唱団の前に出て腕を振り回し、指揮を執る。『ゴーゴーゴー(運動会の歌)』の3番が突然歌われる。客席から見て真ん中より左側のソプラノと第一メゾが赤組。右側の第二メゾとアルトが白組。イイカゲンで適当ともとれるこの分担は、曲がジョバンニ・ダ・パレストリーナばりのカッコいい対位法で書かれているからだ。練習の最初の頃、赤白の分担は逆転していた。僕たちが練習で歌っているのを聞いているうち、白組の旋律の方が僅かにぱたぱたと走り気味で、ヘテロフォニー的に遅れて動く部分のあることに気づいた先生が、この分担を強引にチェンジしてしまった。2人の応援団長も9月の末のぎりぎりに決まったが、団員側を向いて指揮する段取りが、最初のライブの後、「カガミ」チックに始めから客席側を向いて腕を振るように差し替えられた。岡山(弟)君が赤ハチマキの結び目からシッポをはらりと背に垂れば、アニキな慎太郎カットのユーセー君が宙を睨み、ばしばしと三三七拍子の振り付けで客席を煽りに煽って範唱が終わる。そこですかさず山崎先輩の例の2回目のMC。「会場のお友だちで、いっしょに歌える子は、ぜひ、出てきて僕たちといっしょに『ゴーゴーゴー(運動会の歌)』を歌いましょう!」…自ら名乗り出て登壇する客席の子どもはまず居ない。2ヶ月に1人の挙手があれば良い方。
「それでは、団員がそちらにお邪魔してお声をおかけしますので、誘われた方は、どうぞ速やかに舞台へお上がりください!」

 袖から赤に切り替えたラグランTシャツ。カンガルーポケットのついたブラックウォッチのナイロンベスト。小さなサッカーボールのワッペンが裾でゆれているヒッコリーの膝下丈パンツ。ちょっぴり上気してぽっちゃり頬を桃色にそめた男の子が、ヘの字マユ毛のメゾ団員に肘を引かれ、ステージに上がってくる。サイドを漉いた髪にモミアゲにいたるまでワックスでシャリシャリさせたカジュアル&スポーティーのボーイッシュ。黒飴のような瞳。輪郭のハッキリした小さな唇。髪は深い黒褐色。彼は迷うこと無く隊列右翼の鼻づまりのボーイアルトの前に行って立った。付近の低声団員たちは一瞬口元を緩めてニヤリとする。
 母がリモコンの「画面表示」のボタンを押すと、10月4日の日付がテレビに現れた。
母「誰か、知ってる団員でもいたってコトなのかねぇ?」
僕「まさか!知ってる子がいるんなら、こんな客上げみたいなメンドクサイことしないで、とっくに入団テスト受けさせられてるでしょ。」
歯が浮きそうになるほど甘いバクラヴァを無理矢理フォークで縦半分に切ろうと母が二の腕を突き立てた。
「じゃぁ、誰か団員の熱烈なファンとか…?」
「何かねぇ、ヨコちゃんとカネゴン君が大好きみたいだよ。」
「うわぁ!シブ!ずいぶん渋好みなのね。」
「そんなコトないよ。2人ともけっこう可愛いいじゃん。お母さんもヨコちゃん好きでしょ?」
「お母さんが言ってるのは、カネゴン君たちって、合唱団のみんながうまくいくように、一番『損な』役回りを引き受けて泣いてもらってる子たちじゃない?そういうところにホレちゃったってことにならないかなー?…。最近の小学生男子って、なかなかスルドイものがあるわー!」
「なんか、ワケ分かんない…。勝手に感心しないでよ。」
「でも、お母さんは、ルックス的に言って、やっぱりイッ君が好きだわぁ。」
シロップでコテコテになった小さなパイ菓子は、結局切れないまま、まるごと母の口の中に収まった。
 不休の低音トレモロの伴奏に煽られ、出撃指令のインプットに宇宙空母のフライトデッキから一斉射出されてゆく艦載機というタイミングで皆が歌いだす。弱起の3番冒頭。揃ってシンコペートした3拍目が来ると、左右の子どもたちはそれぞれの旋律に散開する。凱旋する赤組の少年たち。さみだれ攻撃を打ちまくる白組の少年たち。両者の声が交錯し、2つの旅団の咆哮は会場をいきなり攻め落とした。朗々とした左翼のメロディーの空隙から、ぱしぱし、ぱしぱしと軽快なステップで鼓吹する右翼側の僕たちの歌がゾエトロープのごとく人々の胸腔に投影されていった。

 ♪赤、赤、赤ぁー ゴーゴーゴー!
 ♪ゴーゴーゴー! 白、白、白ッ!

楽譜一段にわたってスイッチする勇ましい掛け声。…だが、訓練を受けている僕らは、決して叫ぶことが無いよう声を統御して揃える。最前の下級生の双眸がこのときカッと開くのは、口を大きく開け放とうとするからだ。ピカピカした下ろしたての黒い靴がエナメルのように濡れて光っている。最後の最後に「赤組」から追随の歌い倒し直前のブレス、両陣のコードがFの四分音符に揃い、刹那の間隙がやってくる。残留した伴奏ピアノの減衰の果てに聞こえてきたものは、どこか遠くで鳴っているルロイ・アンダーソンの「トランペット吹きの休日」やアラム・ハチャトリアンの「ガイーヌ」のサーベルダンスや、ドミトリ・カバレフスキーの「道化師」のギャロップのひとくされ。蒼穹を突いて校庭へと立ち上がった組体操の大小の塔と、それらの連立に伴われた冷涼な一瞬の無音!

 ♪燃ーえろよ燃えろ 赤ぁー組ぃー

『赤組の歌』の部分も、『白組の歌』の部分も、合唱団全体のユニゾンなのである。常日頃の訓練同様、ソロ入りの曲の独唱部分は、いつ自分にソロがまわってきても一人だけで1曲通して歌わされても良いくらい、全ての団員が暗譜して歌えるようになっている。3番で『赤組の歌』の声部しか歌わない第一メゾソプラノの団員も『白組の歌』を臨戦態勢でマスターして歌っていることに男の子は気付いたようだった。
「どうしてソプラノの赤組じゃなくて白組の方に来たの?」
尋ねていたのは、僕の方。
「キミ、学校の運動会でも、白組だから?」
客上げのコーナーが終わり、記念品の合唱団カンバッジを少年のナイロンベストの胸に刺してやりながら聞いた。

 ♪地球を回る稲妻だ!… … シぃーろー組ぃー

「何か、かっこイイから。白組のウタ?…だから好きなんだ。」
至近で歌っている4年生ぐらいの男の子が、クライマックスで比較的「サマ」になったブレスを湛え「白組の歌」を歌っていたことにすぐ思い当たった。缶バッジのピンをプスリと刺すと、彼はニコリとして僕の手の甲に歌い終えたばかりの暖かい息を吐いた。「歌を歌って人々を幸せな気分にさせる」ことが任務の少年合唱団員が、今は「歌ってもらった子」の方に幸せな気分にさせてもらっている。そういう表情の僕が母の撮影したビデオにきちんと写ってしまっていた。
「ありがとう。また来てね。」
言葉が口をついて出た。唐突に口をついて出た。




 全ての団員の両肩が緋色に染まっている。
イベントテントの白天蓋はバレンシアオレンジのキャンディーポット。暮れぬ秋は角度の浅いの夕陽が、天幕の下から僕らの右頬を直撃する。ソプラノ・パートの前に進み出てMCを終えた元輝君。ベレーからもれたハチまわりの髪が、紅茶色に透けてキラキラと輝いている。立ち上がったワイヤレスマイクの鎌首にその頭が当たらぬよう、彼は左45度に上半身をずらしてぺこんとお辞儀をした。すると、日常の段取りと打ち合わせの通り、舞台カミ手に四つ足を伸した先生のキーボードが「♪ドーシッドシッラソ ラーミー」とウエスタン・ブルースハープ調の哀愁を帯びた前奏をおくり始め、付点8分+16分音符のカウンターが「♪ソッソ ラッラ ミッミ」と返事を返す。リズムは荒野をとぼとぼとゆくナミアシ馬の蹄。演歌ふうにしているのは、アメリカインディアンの音楽へのオマージュである。ピアノは鳴り始めているというのに、指揮の先生は険しい表情でアルト側最前列の団員たちと何やら確認めいた言葉を小さく交わしている。彼らは、客席に入った1名の団員の様子を単語だけで後ろ向きの指揮者に報告しているのだ。僕のネイビーブレザーの背中が客席の中をがたがたと横切って、夕陽よりもなお緋色の柔らかい子どもの身体を連れているのが見える。ついに前奏の8小節目が終わろうとし、合唱団が弱起のためのブレスをスニークしようとしたときに、柿色に染まった僕の白ハイソックスの脚がカミ手舞台の仮設ステップを踏み、全身を押し上げた。4年生ぐらいの男の子の右手をしっかり握って引き上げようとしている。こうして2人がステージへと駆け込み、黄色いビニールテープのバミ線の上に立つか立たないかのタイミングで、少年合唱団は冒頭の歌詞を低く唸り出した…

 ♪北風小僧の寒太郎〜

男の子は僕の目をサッと見て姿勢を正し、よく通る甲高く甘酸っぱいイイ匂いのする声で夕陽に向い叫び上げる。

 カンタロォォォ〜〜〜ッ!

ビブラートが付いているのかと思われるほど瞳に沁みる余韻が、1番の歌詞を整然と歌い続ける合唱団のハーモニーの中へと消えるがごとく落ちて行った。すると、客席から期せずして「おぉ!」という大小の嬌声とともに盛大な拍手が沸いた…。

「この後、先生から結構キツーく叱られたでしょう?」
母が聞く。
「ぼく、ちゃんと先生に言っておいたんだよ。ヒドイよ、全然聞いてくれてないんだもん。」
僕はトルコゆべしを箱から直接つまみとって噛みながらふくれつらで応えた。
「あなたの言い方がいけなかったのよ。こんなハイリスクなこと、子どもがホンバンでやらかすなんて誰も思わないんだから。」
「えー?!先生って、自分ではホンバン中、急に僕たちへ『聞いてないよー!』ってな演出を平気でムチャ振りするくせに、僕たちがやるとスッゴク怒るんだよー。なんか、自己中くない?!」
「先生は、豊富なステージ経験から咄嗟の判断をなさってるのよ。あなたがた小学生の気まぐれな『思いつき』といっしょこたにしちゃダメよ!」
母は両腕で派手に大きなバツを作って僕に見せた。

「先生ッ!タケちゃんがまだ来てません。」
メタルフレームのメガネをかけ、庇のように睫をかざした2メゾのパートリーダーが表情をこわばらせて言った。
「来てませんって、開演まであと15分だろう?」
2メゾのパトリが真顔でモノ申すのはかなり追いつめられたときだ。かような遅刻常習の6年団員の入りが多少遅れても、ふだん気にかける者は皆無。
「おーい!少年合唱団の諸君!誰かタケちゃんの欠席連絡を聞いている者はいないか?」
低学年用ベレーを立教小学校の制帽ふうにぴたりとかぶり、嘉数一星似のソプラノ団員と上機嫌で「アルプス一万尺」に興じていた4年生が慌てて駆け出すと自分の通団バッグを壁際からひったくる。中からジャポニカのグリーンの連絡帳を抜き出して、指揮者におずおずと差し出した。
「コラ!もっと早く出さんかぃ!」
先生はノートの表紙で4年生のベレーの頭をパサリと叩き、付箋代わりのピンク色のゼムクリップがとまったページを開いて「連絡する事がら」の欄をサッと読んだ。表紙のハッサク色の花の写真の下に細長い白い紙が貼られ、14行・連絡帳という印刷に接して「合唱団用」と名前ペンでお母さんっぽい筆跡の字が記入されているのが見える。胸の内ポケットから出したボールペンをカチリと言わせて先生が「先生印」の場所へあっという間にサインらしきものを書きなぐると、落ち着かない様子で待っていた彼にポンと突き返した。
「タケちゃんは欠席だ。『寒太郎』を誰にしよう?おーい!『北風小僧』のリリーフは誰だ?」
「大杉ハジメ君でーす!」
皆が投げやりな大声をあげた。
「おーい、大杉君!大杉ハジメくーん!ついに出番がまわってきたぞー。」
「先生。ハジ君は欠席です!」
メゾソプラノ後列の団員たちが、聞こえよがしに「学校の聖歌隊の練習で、いませーん!」とイヤミっぽく言っているのを先生は完全に無視した。
「うーん。じゃあ、アオケン君。キミならカンタンに出来るだろう?どうだ?やってみないか?」
たまたま終演MCのマエセツで先生の傍らに立っていた僕が手頃なところで指名を受けた。
「できますけど…僕じゃないとダメですか?」
「ダメってことは無いが、『カンタロー!』と叫んで『♪寒うござんす』と歌うだけなんだぞ。こんな叫び声なんて、ホントは誰がやってくれてもいいくらいなんだ。」
「じゃあ、叫び声については、僕に任せてくれませんか?誰が叫んでもいいんですよね?」
「ああ。任せたぞ。急な頼みで、ビックリかもしれないが、叫ぶだけなんだから、チョチョイのチョイでできるだろう?」
「先生、ホントにやっちゃってイイんですよね?」
「ああ。一発、派手にやってくれ!少年らしいキリッとした叫び声の『寒太郎』をぜひ頼むぞ。MCの変更を元輝君と打ち合わせしておきなさい。」
「はい。」
マネージャーさんのところへ予備の1個を含めて合計2個の記念品の缶バッジをもらいに行かなくてはならない…と僕は一人で算段した。格納は2個ともブレザーの右脇ポケットへ。次に目指すのはベレーから漏れたハチまわりの髪をダージリン色に染めたスレンダーな少年。ソプラノ側のスタンバイ位置に立っている。メモを片手にMC原稿の暗唱確認をしている元輝君のところへ、僕は首をかしげつつそそくさと駆けて行った。


 ユーズドライクに色落ちしたベンガラ色のチームパーカー。ポーカーチップと竜巻のイラスト上にプリントされた胸のローマ字は僕にも読めた。「モンテカルロ・メソッド/マーセンヌ・ツイスター」と書いてある。鮮やかなトゥルー・グリーンのボアベスト。グレーのジッパーとポッケに入ったパイピングがかっこいい。ぴったりしたヘリンボーンのカットソーパンツをブーツインではいて、その子のボトムは僕たち少年合唱団員に負けず劣らずすっきりとしていた。コンサートのたびに客上げで何かを歌い、コンサートのたびに客席で僕らの歌を身を乗り出すようにして黙って聞いている。秋になり、タケちゃんがどのコンサートでも叫んで聞かせていた「カンタロー!」の叫び声を自分でやってみることなど、おそらくゾウサも無い仕業だったに違いない。だが、今の彼は、ほお骨のあたりをうっすらと珊瑚色に染めて明るく立っている。ステージライトの映り込むキラキラした瞳。血色の良い光沢のある唇。…溢れんばかりの満座の拍手の後、夕陽の鉛丹色に割り引かれ、オペラ子役のステージメイクと見まがうほど美しい肌を火照らせたその顔は屈託の無い少女のようだ。彼が「寒太郎ぉー!」と叫び、僕が「♪寒うござんす〜」と歌ってソロで応えれば、それは今日のお客様がたへの最高のプレゼントとなるに違いない。

「それでは、団員がそちらにお邪魔してお声をおかけしますので、誘われた方は、どうぞ速やかに舞台へお上がりください!」
 元輝君が打ち合わせ通り『寒太郎』の客上げ宣言をアナウンスし、僕が仮設階段を駆け下りて客席通路を走ると、当然のことながら男の子はステージの上から見たのと全く同じ場所に座っていた。僕の紺ブレザーに付いたワッペンを絶句しながら見ている。
「出る?」
「…う、うん。」
夕映えの中で僕が着座の彼のパーカーに縮こまった温かく湿った右手首を探り出し、握りとって添えながら引いた。男の子は通常この曲に客上げの無いことを知っている。数瞬の躊躇で僕の目を見ながら立ち上がり、しかる後にカタカタと靴音をベンチ椅子の座面の下奥に立てながら、手首を引かれ握られたまま僕の後にくっついてくる。
「するの?」
彼は尋ねた。
「頼む!」
僕は前を向いたまま叫んだ。
 2人がステージに駆け込み、黄色いビニールテープのバミ線の上に立つか立たないかのタイミングで、少年合唱団は冒頭の歌詞を低く唸り出した…

 ♪北風小僧の寒太郎〜

男の子は姿勢を正し寸秒「叫ぶよ。いいね?」とばかり僕に目配せした後、よく通る声で夕陽に向かって叫び上げた、

 !カンタロォォォ〜〜〜ッ!

暴発する会場の拍手の渦中でボーイソプラノ群がそれを受け、ソロの僕に返した、

 ♪寒うーござんすぅー

オレンジ色を背負ったユニフォームの肩が瞬間もとのネイビーブルーへと帰し、僕の隣で男の子が息をきつく咬みながら吐いているのを感じる。彼にはソロの立ち位置の空間感覚が無く、僕の右の靴へ当たりそうな至近に彼の脚がある。そればかりか、髪の下り方も、肌の色も、閉じた唇のカタチも、背丈も、肩の高さも、握った手のキツさも、開いた脚の角度も…客席方へ向いたまま、今の僕には隣にいる子の全てをソラで思い浮かべることができるようにさえ思えた。

 母はここで心移りし、HDDレコーダーのリモコンボタンを押して次の12月末のコンサートを呼び出そうとした。これまで二人はこの後をハードディスクが劣化しそうなほど繰り返し見ている。だが、■のボタンに指の腹を当てて画面を真っ黒にしてしまうと、反射防止のスモーク加工がしてあるテレビにもターキッシュ・デライトの薔薇の香りを口元からぷんぷんたてつつ食い入るようにビデオを見つめていた僕の上半身がぼんやりと写り込んだ。
「ごめんなさい。ここからが、一番良い場面だったわね。ごめんね。VTR、再スタート!…っと。」
母の人差し指が、再び▲のボタンを押した。
「キミは、どうしてこのとき咄嗟に彼を寒太郎に選んだの?」
「え〜?お母さんって、ムスコが少年合唱団員で、しょっちゅうコンサートに来てるくせに、『あの男の子の声が大好き』と思ったことは、無いの?」

 満場の拍手に押され、先生が僕たちに「ソロ、さっさとお辞儀をしろ!」のサインをはたはたと出している。目瞬ぎをして僕が頭を下げ、男の子が半拍遅れてふわりと挨拶をすると、客席の喝采はさらに盛大で高くなった。
「誰に来た拍手だったのか、分かってお辞儀していたの?」
毎度のように母は聞く。僕は画面のこちら側で黙って苦笑いしている。拍手は鳴り止まないどころか、アンコール拍手まで繰り出す一団もいる。数秒間待って、「ソロ、再度お辞儀をしろ!」のサインが先生の左手から振り出された。「もう一回、挨拶するよ。」と今度は傍らの子に斜め前向きの姿勢のまま素早く言葉をかける。「礼ッ!」と小声で号令すると、二人のコウベがぴしっと揃って前にたおれ、お客様は声をあげて喝采した。頭を上げる瞬間、隣のバミリの上へきれいに伸びた男の子の二脚が見えた。僕の脚には僅かに左側をずり落としたオーバーサイズのハイソックスが見える。胸を上げてブレザーの裾をキュッと引っ張って直し、立ったまま靴下を片足立ちでシュッシュッと上げる。最初は左、それから右…。
「これ、クセになっちゃってるでしょう?先生から注意されないの?靴下ぐらい、出る前に上げときなさいよ。」
「上げてるよ。客上げで走ると落ちちゃうんだもん、仕方ないじゃん。中井宗太郎君とかよりマシでしょ?」
「中井君は、全体的にカッコイイからいいのよ。」
「えー?!宗ちゃんなんか、嘉数一星に似てるってだけじゃん!」
「嘉数一星カッコイイじゃない?!!」
「えー?!なんか、お母さん、少年合唱団をイケメンかどうかで判断するのやめてよー!」

 「それでは、出てきてくれたお友だちに、記念品として合唱団の缶バッジをさし上げます!」
元輝君のMCが無難にハプニングを引き取って納め、傍らの男の子は深呼吸をふくらませハトのように大きくニコニコと胸を張っている。背後に控えた3〜4年のアルトたちはニヤニヤが止まらない。濃いミモレット色に熟成した夕陽の中で、僕は「モンテカルロとマーセンヌ竜巻」のチームパーカーに、外したバッジのピンを突き立てた。メキシコ・ダウニーの良い匂いがふわりと針の先からたって僕を攻めたが、彼の胸に小さな青い勲章がピカピカ輝くのを見ると、お客様は叙勲式のごとく盛大に拍手を返した。元輝君は通常の段取りで、
「皆さん、どうか拍手でお送りください!」とMCを締めくくった。

 ステージは予定通り午後4時半にはね、僕らは汗で湿って鬱陶しくなったベレーとブレザーを衣装カバンの中へ乱暴に脱ぎ捨てた。残照はすくいとった灰汁のように散り、合唱団は定かでない余光の天蓋の裏でくしゃくしゃに丸めてあった通団服の袖を裏返して着た。
男の子はイベント会場の空色のエア・アーチのむくんだ脚のたもとで、何もせずに誰かを待っていた。
「じゃあね。ありがとう。宝物にするね!」
「きみ、合唱団のオミヤゲのバッジ、毎回もらってるでしょう? いっぱい持ってるんじゃないの?」
「うん。…ごめんね。もう、もらわないよ。」
「そんなつもりで言ったんじゃないよ。僕の方こそ、ごめんね。必ずまた、来てね。」
「うん。きっと来るよ。…でも、もう、僕のぶんのバッジは要らないよ。僕にはくれなくていいよ…」
言って男の子は踵を返した。そしてその翌月、彼の言った通りのことが起きた。




 「あー!あー!イナイね。いない!いない!出て来なくなっちゃった!」
冷蔵庫から出した食べかけのプレーンヨーグルトにミネラルウォーター適量。天然塩を念入りにかけたらフタを押さえカップごとよく振る。僕たち親子はちびちびとそれをやりながら、テレビに映し出された客上げの場面を食い入るように見つめた。
あの男の子は、いつまで待っても、いつまで待っても、もう客席からは上がって来なかった。北風小僧の夕刻以来、全てのコンサートで、彼の姿が二度と客席に見られないのを合唱団の皆も本科生のお母さんたちもよく知っている。
「何だか、ちょっぴり寂しいなぁ。」
「お母さん、言ってるコトがかなり変じゃない?イガチャンもユーリ君も同んなじよーなコト言うけどね。」
「ごめん、ごめん、言ってるコトがかなり変だわね。」
自分の唇についた酪乳を、ぺろりと舐めた。
「僕が、カンタローの後で缶バッジの話をしちゃったからかなぁ?」
「まぁ!それは大変!最後までキッチリ責任とってもらわないと!」
母は笑う。
「…う、うん。わかってる。わかってるよ。」
だが、この5年生ボーイアルトに全て任せておけ!

 ビデオは12月の末のステージだ。ノエル用のガウンを僕たちの誰もまとっていないのでそれと知られる。クリスマスの華やかさ、楽しさを消し去ろうとでも言うように、5〜6年生は紺ベレーに前寄りの傾きをつけ、縦横のタイをキュッキュときつく絞めて年の瀬の商店街の仮設舞台に登っていた。中学受験が気になってイライラしはじめた6年生の周囲に無愛想な僕たちが入れ子のように配されて立ち位置の修正が振りなおされ、5年生の抜けた前2列にメゾ側から3〜4年生のボーイアルトが繰り入れられて立った。最前左から4人目に、目のすわったハルカ君が3年生とは思えない落ち着いたブレスで入り、その姿が見えるよう左5人目の目立たぬ位置に4年生が投じられている。ストレートパーマに失敗したミュージカルの『アニー』のような髪がベレーの横から噴出し、ステージライトに焙られて上気した頬の中で真っ赤な唇をちょこんとすぼめている。確かに大河ドラマやCMで話題の子役にイメージ的には酷似している。そして、指揮者の代わりに後頭へぴょこんと載せたベレーを傾け、一対の真っ白いひかがみをお客様の方へ晒した一人の5年生が客席に背を向け、最前で少年たちを見渡しているのである。
「ほら、やっぱり何か言ってる。言ってるわよね?みんながニヤニヤしてるもの。…何て言ったの?」
その子に神妙な面持ちで声をかけている指揮台の僕の姿を母は見逃さず、画面を指差して聞いた。

 チームの皆の仕事がうまくいくよう、一番『損な』役回りを引き受け泣いてもらっている少年たちという立場が児童合唱団にもある。母は、そういう団員が心の底から好きだ。息子の枕元に置いたのよりも僅かに豪華なバレンタイン・チョコをこっそりばらまいたり、出演後の引き取りで保護者事後承諾のうえパーラーに連れ込み、息子もろとも特大プリンアラモードを振る舞ったりしたこともある。そういうわけで母が合唱団の苦労人、ヨコちゃんとカネゴン君を熱烈応援しているのと同じように、最近は電気事業会社のCM出演の子役の活躍を心から楽しみに熱心に見ている。
 小学1年生っぽいやんちゃな質感を良く出しているにもかかわらず、非常に明瞭で禁欲的なナレーション。ユモレスクのメロディーに乗せて朝の食卓の様子が淡々と述べられる。ルノアールの名画から抜け出てきたような唇の真っ赤な冷たい目をした男の子。だが、年が明けるとちりちりパーマにめいっぱいヨゴシのメイク、コーンスターチを全身に振りかぶって、裸ん坊で登場するような子役へと大変貌を遂げている。外見は仰天の変わりようだが、ハッキリとした分かりやすいナレーションは全く変わっていなかった。毎日、数時間ごとにオンエアされる電化住宅のCMは、二本ロール焼成の薄クラスト食パンのコマーシャルのモノローグへの評価と賛辞だ。彼の絵姿を見るたびに、母はテレビの前で嘆声を漏らす。「髪にボリューム感が出たら、体温が上がって明るい感じになった。」…ヘアスタイルの突然の変更は、男の子しか居ない子どもの合唱団でも比較的よく見られる。だが、髪の成長に逆行するようなヘチャ髪から天パーへの路線変更は殆ど無いといってよい。                   

 僕たちは少し前まで『アララの呪文』を振り付け入りでステージにのせていた。だがパッとしない視聴率のせいなのかあまり話題にはならず、麻薬事件の後、こっそりプログラムから外されて、今は誰もその話題に触れることも『花屋のとくちゃん』の哀感をたたえた演技を思い起こすことも無い。また、グリシドール脂肪酸エステルの副生で騒ぎになったクッキングオイルは、母が使いかけのものとストックの2本をポリバッグに入れて、スーパーのサービスカウンターへ返しに行って終わった。家では自然素材の食用油を使うようになり、安全性の疑われたオイルの名前は既に忘れ去られ、ましてやそのCMの内容など記憶にとどめる者はいない。このように、低学年のうちに2回も業績の残らないトラブルを経験した子役が、結局、記念すべき大河ドラマの初回を冒頭30分間だけ主演するという大ブレークを遂げた。今や子どもタレント濱田龍臣が首都圏のテレビに写らない日は無い。判官びいきの母はそれが嬉しく愛おしくて仕方ないらしく、ちょっとしたローカルAM波のCMやプライベートCDのソロ・オーディションに落ちてくさくさしている僕を「くじけずにがんばったら、いつかあんなになれるよ。負けちゃだめだよ。投げやりになったらだめよ。みんなが応援してくれているのよ。」と励ましてくれたりもする。


「…何て言ってたかなんて、覚えてるわけ無いでしょ。もう去年のコンサートじゃん。」
「『去年』って言ったって、12月の終わりでしょう?しかも、あなたは指揮者をやってたのよ!自分で言ったことも覚えてないんだ…?」
お母さん。ごめんなさい。恥ずかしくて言えないのだ。本当はクリクリ天パーの男の子に向かって「かっこイイぞ!」と言ったのだ。絶対に来ないはずのソロ団員が何の前触れも無く楽屋にひょっこり顔を出し、その玉突きでアンサンブルにあぶれた僕が先生の代わりに指揮をとることになっていた。目前に肩を揃えた紺ブレザーの少年たちは僕を見据える。だが、訪れたのは緊張感ではなく、その逆の覚醒するような安堵だった。「いつも一緒に歌っている子たちが、僕を支えてくれる。良く知っている友だちが僕の合図で歌ってくれる。」…ところで、ソプラノの前列中央寄りに、一人だけまじろがず引き寄せられるまでに僕の全てを見つめる団員がいる。投げ渡したその視線のこちら側には、拍子をとろうと身構える僕の手先指先などでは無く、上半身がすっぽりとまるまる収まっているように見える。


 「たくさんの拍手、どうもありがとうございました。それでは次に、ちょっぴりお兄さんっぽく、ブラザーズ・フォア、1960年のナンバーで『思い出そう/トライ・トゥ・リメンバー』を僕たちのソロ4人組がリードをとってお贈りします。指揮は、先生に代わり、アルトの団員が担当します。どうぞお聞きください!」
会場は「お兄さんっぽく」のセリフの部分で少しだけクスリとし、また、ブラザーズ・フォアの『トライ・トゥ・リメンバー』という曲名を聞いて「おお〜!シブい!」と声を上げてくれるときもある。MC担当のカネゴン君がステージのシモ手に立つアナウンスマイクのヘッドに群青色ボータイの口元を下ろし、ひと息にまくしたてた後、言葉を切った。本人は隊列に戻りかけ、踵を返し回れ右をしてみたものの、雛壇の端からはらはらとステージ前方に吐き出されてきた僕たちの姿を見てハッとした。苦笑いしながら自己もまたソロのメンバーであったことに気づき再度身体をバレリーノのごとく転回させて立つ。僕は見なかったふりをして、2メゾの前に並んだ3年団員のグループに賢しげに整列の幅寄せを求めている。ソリストは規定通り、5秒間以内であっという間に肩を並べ、僕の目を見据えて「独唱者スタンバイOK」の視線を送っってきた。勿体つけるほどのカッコイイシチュエーションでは決して無く、ピアノの先生が僕の右手の微動とともに、アコースティックギターのアルペジオを模したシンプルな前奏をゆっくりと爪弾き始めた。慈愛に満ちた郷愁が心地よく沁みわたる。

♪思い出してごらん あの9月
 日々は穏やかに 至福の中を過ぎていた…
 思い出してごらん… 

ソロは2×2に散らず、4人が揃ってシモ手側のマイクを囲む。背中で指揮者の視線を阻害したりしないよう、アルト側ソリストはリハーサルの最中に幾度も立ち位置注意の指示を受けていた。やがて、彼らの背後から皆の声がふんわりと進み出てくる。オリジナルはフル・レンジに近い大人の男性四人組コーラス。児童合唱用に書き直された楽譜のアルトは低く、ソプラノはカナキリ声に近い。先ず、曲の三分の一を占める前半をユニゾンがたっぷりと聞かせてみせる。楽譜には書かれていないのだが、高低のパートの喉の特徴やひとりひとりの声質がストレートに届くよう、練習のかなり最初の段階から要求があった。「しばらく斉唱が続くんだから、全員同じ声じゃツマラナイだろう?」と先生は言うのだった。すると、指揮者の体の芯めがけ、野菊のように清楚で可憐な一人の男の子のメゾソプラノが降りかかってくるのが分かる。毎月のコンサートの客上げのときに聞こえてきたあの声。ちりちり髪の男の子が、4年生の冬というにはやや愛らしめの声を鈴のように振って、がんばってそれを歌っているのだ。何故なのだろう?何故お相撲さんの重心に抑えたブレスを保ち、中味の濃い発声で歌えるのだろう。僕たち団員は皆、それぞれ日々の訓練の中で留意のうえそれらと闘っているというのに…。
「そりゃ、そうよ。だって、コンサートのたんびにあなたがたの演奏を熱心に聞きにきていたんだもの。歌というものを目で覚えたのよ。門前の小僧習わぬ経を読む…よ。そこらへんの予科生や、のらりくらりとやってきた本科生なんかより、よっぽど実力もあって即戦力として使えるわ。」
少年はもう数年着たという感じの紺ブレザーの肩を凛々しくなで下ろし、絵筆とパレットを持った小さな可愛いカーリーヘアーの絵描きさんがちょこんとのせたようなベレー帽のかぶり方だ。ブレザーの胸元のV字から、純白でぴっちり糊のきいたワイシャツの襟が2枚の刃のように光っている。
「ほら、やっぱり制服も似合うのよ。」
「お母さん、これネ、借り物なんだよ。体格が似てるってレオン君にとりあえず貸してもらった予備のユニフォームなの。」
「いやー、実にぴったりなのよ。半ズボンもスッキリ穿いてて、ブレザーの丈に合ってる。」
母はテレビ画面に映った最前列の男の子のズボンとフトモモの境目に、ペールオレンジの筋が柔和にはしるのを指で撫でた。
「ネクタイもばっちり!」
「…これは、ホンバン直前にマネージャー先生がゴムの長さをなおしてくれたやつ!」
「靴だってオシャレな子はモンクなのよ。カヤト先輩もレオン君もユーリ君もH君もずっとそうなんだから!あなたも、今のタッセルがキツくなったらモンクストラップにしなさいよ。」
「えー、いいよ。こんな先っぽが丸っこい靴なんて、女の子用みたいじゃん。」
「それに、どこかの誰かさんみたいにステージの上でしょっちゅうソックスを上げるようなまねもしないし…。」
制服着用の生活環境にでも身を置かない限り、小学生男子の洋服ダンスにプレーン単色のハイソックスが入っているようなことはもはや無いのだ。ズームの倍率が上がり、フルショットに映った男の子は、見るからに買ったばかりという印象を受ける新品の紺ハイソをヒカガミに向けてぴっちりとはきあげていた。
「合唱をしてるのに、お母さんたちって歌じゃなくて僕たちのコトばっかり見てるじゃん。」
男の子が真剣な目つきで食い入るように指揮者を見ているのは、多分それが珍しいからだ。
「お客さんも、みんなそうしてるわヨ。だって、キミらの歌よりもキミら本体の方がずっとオモシロいじゃない?!」
「え”〜!そんなのヤダー!」
それでも僕は母の傍で笑った。母の匂いがするぐらいの場所で、彼の姿を見つめ、『思い出そう』の旋律に声を重ねた。
「何だかやっぱり、イッ君は、ずっと前からココにいて歌っていたみたいに感じるわね。」
何だか、彼はずっと前からそこに来て歌う「さだめ」だったようにも思われる。

 ♪思い出せば 心も躍る あの頃…

ソロを受けた合唱が、ユニゾンから次第に声部を増してゆく。最後のコーラスでキーが上がるとソプラノ・ソロの品川三兄弟の長男がさえずるがごとくメロディーを詠じた。シンマイ団員はクルクルの髪をベレーの縁辺にそよがせてうっとりと歌いつなぐ。やがて皆のカノンが楽しげに交錯し、冷涼の中で曲は終わるのだった。


「よしっ!かっこイイぞ!キミを本日より我らが少年合唱団の光栄なるソプラノ団員に任命する!」
先生のコワイロと口調を真似して僕が指揮台からシンマイ団員に声をかけると、隊列左側のメンバーたちがニッと歯を見せて笑った。ユニフォームをきらきらまとった、このかっこイイ小学4年生の歌い姿を皆はよく知っている。それは秋の客上げのたびにステージへ引き出されて歌い、毎回、僕が指を立てて胸に缶バッジを付けてやっていたあの男の子の美しい12月の姿だった。
「やっぱりいいわぁ!イッ君はこの日、このときから、きみたち少年合唱団の本当のソプラノ団員になったんだねー!」
「お母さん、大げさだなぁ。イッ君なんて、ずっとずーっと前から僕たちと歌ってたんだよ。」
キッチンのキブラの方角から、録音されたアザーンの朗誦がふわんと聞こえてくる。
母がリモコンの赤ボタンを静かに押してレコーダーとテレビの電源を落とし、夢のように幸せな永久の午後はすっと幕を下ろした。