てんとう虫のサンバ

July 02 [Sat], 2011, 23:09

▲ 観客からファンレターをもらうなどという選ばれし子どもは2種類しかいない。「こいつなら絶対にもらうだろうナ」と団員総意で認める子と、「こんなヤツには間違ってもファンレターなんか来ない」と思われる少年たち。


「報告ッ!」
白いシャツの男が右人差し指を高く掲げ、少年たちに号令を飛ばすと、隊列のあちこちから歳かさのいったリーダーらしき子どもたちが冷静な面持ちのまま男の前にやって来て告げた。
「アルト、8人。全員揃いました!」
「よしっ!」
「2メゾ、6名。揃いました!」
「よし。」
報告を終え、メタルフレームのメガネに丸刈りの背の高い少年は、もと来た隊列の前に復帰しながら、両の掌を下向きにして2回だけパッパと振り下ろし、「その場にしゃがめ」のハンドサインを振り出した。矮小な列に揃った肩口が、ばらばらと前方から重力に引き寄せられ、低くなってゆく。
「ソプラノ、12人。全員揃いました。」
「はい。」
所在無げに立ちんぼうのまま、不明者の帰還を待つ子どもたちの小さな一団があった。事態には慣れっこらしく、しゃがんだ膝頭を見せた子らも、立ったまま待ちぼうけを食ラっているはずの子らも、殆ど無言だった。地べたにしゃがませた小学生が必ず寸足らずの汚れた指で砂を捏ねはじめることは、一般によく知られている。都内の学校では既に校庭の芝生化が進んでいたし、ここはショッピングセンターのホスト・エリアに近い一角で、フロアを覆うタイルを相手に彼らがそこに何かを描いて満ち足りる状況は希薄だった。暫くあって、おそらく低学年と思われる何人かが床を覆う僅かな風埃を人差し指で除けている姿が散見された。それはサピエンス種族の幼生だけにみられる殆ど条件反射ともいえる行為のようにも見えた。
「おい!松田リク!置いてくぞ!立て!」
しゃがんだまま、床に手垢で矩形を描いていた後輩に声をかけ、先ほど「第2メゾ」と報告したリーダーが今度は掌握した彼らを立たせて引率しようとする。隣で立ち待ちにいくらか気色ばみはじめていた上級生が踵を返して指揮者に細報を返しにきたのがわかった。
「1メゾ、5人。全員揃いました。」
「了解。それじゃ出発しよう。本番っ!」

 簡易ステージのカミ手、隊列の右翼側の上段から、さきほど真っ先に報告を終えた少年が、何やらキラキラと白金に輝くものを握って躍り出てきた。ラミネートパックの羊羹のように厚みを持った小さな角柱を、彼はそっと肩口以上の高さに上げて口づけた。そして、機構の天地を確かめるため無意識のうちに弱く吸って音高を判定したようだった。ハーモニカだった。しかし、いったい誰が吹き方を教えたのだろう。
 21世紀の世の中、ハーモニカを吹ける小学生は恐らく大変貴重な存在になっている。汎用教材の「鍵盤ハーモニカ」とも、学校のブラスバンドに常備されている管楽器のどれとも違い、息を吸っても鳴らさなくてはいけない。コーラスに似ている。頻度の違いはあれど、合唱もハーモニカも吸気の美しさが要求される。合唱ではそれを「ブレス」と呼び、団員らは常日頃「ブレスがきれい」「ブレスがきたない」と細かく告げられている。
 少年がハンバーガーのように両手で口琴を担ったまま、注意深く黒目を横にずらして指揮者の符丁を確かめた。遥かに深いその一瞬があって後、伴奏ピアノが、ハイタム、スネア、フロア、バスドラのフィル・インを模した16分音符で降りて来る。間断なくそれをもう一小節リフレインすると、ハーモニカの端のほうに体重をかけて彼は3つずつ息を吸い出し始める。ヘ音記号の五線譜の下にまだ2本ぐらい加線がつきそうな低い音で、

 ♪シーシシ レーレレ ミーミミ ファーファファ

シとミの音にはフラットが付いているらしく、彼はハーモニカの首をキュッと捻って上の穴から半音を繰り出しているようだった。20世紀の終わりを四半世紀残して日本の教育現場からほぼ絶滅し、最早子どもたちの掌中に納まることを逸したクロマチックシングルの、教育用2段ハーモニカ。

 殆どの大人の観客は、団員の曲目アナウンスを受ける前にその歌のタイトルも頭の歌詞も知っている。少年らの視線を集め、白い夏シャツにボウタイの男が弱起の八分休符を「ン!」と踏む。小さな彼らの第一声は溌溂としてタイミング上は掛け値なしに揃ってはいたが、先ず倍音のようなピッチのぶれをともなって、ユニゾンとして振り出された。

 ♪あなたと わたしが ゆめのくに…

 震えるような幼い胸声の高音。ボーイソプラノ然とした鐘の音の頭声。アルト独特のビブラート。無邪気で天真爛漫な地声に近いメゾ。愛らしい2〜3年生の甘い囁き。4年生男子独特の破天荒な音色。分別ある5年生の真摯な第一声。そして6年生最後の陽気に満ちた声。少年たちの様々な身体がまちまちの体温を抱き、冒頭の数フレーズを吐き出した。この時点で合唱は自由花壇に散った色とりどりの百花繚乱を思わせる。メインステージはショッピングセンターの中央コート。シースルー・エスカレーターが巨大な強化ガラスのX字を吹き抜けの上屋へと積み上げ、買い物の客たちは流れる階梯から半身を乗り出して、歌う子らのキシキシと輝く初夏の黒髪を眺めおろしている。彼らの小さなステージの周囲には、高輝度高出力のライトやアンプリファイアはもはや縁が無い。トップライトから降るミルク色の自然光や、電池でも充電でも稼動する簡単なワイヤレスアンプシステムが彼らの舞台のささやかなお膳立てをつとめる。観客らの意識は前列の少年たちの着るユニフォームのタイの可愛さよりも、「♪わたしが」「♪あげました」と細心の注意をはらって整えた端正な鼻濁音の方に集まっていた。
 すると、一瞬のフィルインの後、「♪赤 青 黄色の…」と叫びだす彼らの胸元から、裁ち揃えられた斉唱に快いストレスがかかり、日本人の少年合唱独特の生乾きな歌い上がりがコートの空間全体に水しぶきのごとく充ちた。チームも指導も、歌詞の色名に込められた色彩の乱舞に腐心しているに違いない。
「先生…聞いているお客さんに赤や青や黄色や白が見えるくらいに歌えばイイんですヨね?」
練習場の少年たちの発言が聴こえてきそうな合唱である。
「前江君!キミはいったいどうやってお客様に赤や青や黄色や白が見えるように歌うつもりなんだ?」
「…?」
「前江君?お返事は?」
「…はい。」
「どうすれば色が見えるように歌える?」
「…心を込めて一生懸命うたいたいと思います。」
「前江君。オープニングのMCじゃないんだから、ただ『一生懸命うたえば』きれいで鮮やかな色が見えるってもんじゃないだろう?」
「…じゃあ、うーん…子音をキレイに発音するとイイと思います。」
「それは一つのアイディアではあるな。例えば?」
「アカのカ…とか、キイロのキとか…、シロのシ…とか??」
「前江君、『アオ』は??」
「アオの子音は…えーとー……」
クリクリお目々の団員はカリカリ前歯で下唇をチッと噛んだ。10歳の男の子でも合唱団にいる限り「子音」の意味を解している。
「中井君!キミは、どう思う?」
「色鮮やかと言えば、リズムでしょう?色の名前のところは、全部付点でピョコしたりして!リズムの目がヤバイくらい詰まってる?」
「サンバだから?」
「サンバ!イイっすねぇー!」
「ほう!キミはこの曲のどの部分が、サンバっぽいと思った?」
「えーと。えーと…そうですねぇ…。先生っ…サンバって、何ですか??」
曲中には、実はこれがサンバであるという前提が一切入っていない。彼らの歌うのは「てんとう虫がサンバに合わせて踊りだす」という単純な状況説明だけだ。指導者は仕方なく、練習場での「サンバ」の民族音楽史的説明や形式解説を「ブラジルの音楽」とだけ簡単に講じて割愛した。


 子どもたちがサビを歌い上げ、音符の長さ通りに声を切り収めると、キーボード・ピアニストがそれを引き取って、十六分され3・5に休符を入れてカットした「おかず」を挿入した。ステージは階段数段でせり上がる、植栽の飾られた憩いの催事広場。フェイジョアやオリーブ、レモンの木々のコーンプランターが大小温暖に立ち並んでいる。買い物客のたてる様々な音や話し声の混雑の中、明るくひたすらな音楽が大空間に放たれて揺れていた。インスタント蝶ネクタイのゴムを回して締められた少年たちのワイシャツのカラーがすでに湿ってすえている。訓練から彼らの頬は紅潮すらしてはいないが、暖気された胸郭の中は入れ替わる呼気が美しく廻っていた。白いブロードの間から覗く男の子らしい黄土色の二の腕の連立が、Aメロに戻った歌の流れとともに優しくそよいでいる。

 すると、彼らの黒い短ソックスの足元から、辺りを揺るがす不穏な轟音と金物・ガラスの触れ合う高低の響きが突然沸き起こって、人々はたじろいだ。「Sale!」を告げるスノッブなビッグ・フラッグが天井から吊られたバトンとともにふーらフラと不自然な揺れかたで人々の不安を煽る。何かの商品が什器から崩れ落ちるお定まりの音や悲鳴が聞こえてくる。 歌いながら子どもたちは僅かに集中を逸し、指揮者は区切りも無くタクトを放棄して、全隊へ向け、下へ広げた掌をパッパと落とすあの「その場にしゃがめ」のハンドサインをすばやく展開した。伴奏は一瞬で止み、指揮を見ながら歌っていた彼らはステージ上に立て膝でかがみこみ、大小の膝頭をピカピカと光らせながら組んだ両手を頭の上にかざして体を低めた。片脚を立てているのは緊急退避のための制動姿勢ということらしい。男は改まって向き直り観客へ落ち着いた大声を発した。
「その場にしゃがんでください!静かになるまで動かないで!」
約束は無かったが、彼は子どもたちと同じ「しゃがめ!」のハンドサインを観客に対しても素早く振り出した。少年たちの姿勢の真似をして頭を覆う見物客たち。それから、指揮者は合唱団が速やかに避難できるよう、右手を逆手に返しシモ手マイクスタンドのシャフトをつかみ上げ、隊列の背後へとサッと撤去してようやく状況把握に移った。あの日のように、真っ直ぐ歩けない…という程の揺れではない。マイクの立っていた場所に退路が開け、子どもらは無言のまま次の指示で「おかしも」を守りそこから退避する手筈になっている。タイミングに備える安全姿勢の少年たちは早春の練習再開以来、繰り返しステージ上の被災時訓練を受けていたのだった。度重なる余震の日々をかわして来た少年たちは誰ひとりとして動揺したそぶりを見せず、途中になった曲の色彩表現を子音のクリアさで実現すると意見していた前江トーヤだけが、傍らの新入団員に横顔を向け「シーッ!」と静粛を呼びかけている姿が指揮者の目には入った。

 お昼のステージがはねて夕方までのスタンバイ。ダメ出しと、おさらいと、最終確認と来週のステージの予習との間にアオケン少年が話題のなりゆき上、いきなり指揮者へ食って掛かることになった。
「先生っ!だから、こういうのは全然サンバって言わないんじゃないでしょうか?!」
昨年までは「家に帰りたい!」と泣き叫ぶ予科生に優しく一言ささやいて泣き止ませていたような少年だった。今年、団員らはどうしてこんなにもすぐ怒りだす不機嫌な児童へと変わってしまったのだろう。
「『サンバ』と付く名前の歌を歌ったことのある者は全員手を挙げてみろ!」
指揮者が持て余し気味にそう問うと、昨夏の合宿の歌合戦で「白い蝶のサンバ」を歌った6年ソプラノが赤面しながら小さく挙手をし、幼稚園の弟が運動会で「パジャマDEサンバ」を踊った3年メゾが腰をひょこひょこさせながら右手を挙げて平泳ぎの要領で宙を掻き、昭和歌謡大好き少年2人組は熱っぽく自分らの「お嫁サンバ」のデュオの醍醐味をまくしたてようとした。保健委員会の仕事とやらで青山三平が学校の全校朝会で歌ったのはバナナキッズ(←ライバル合唱団!?)の「ウンコでサンバ」というなまなましい曲だそうで、学校の委員会ってことだったら…と品川(兄)は、昼の校内放送のテーマ曲が「ビタースウィート・サンバ」だとサワリのフレーズをスキャットで歌って教えてくれた。
 だが、親戚の半分がブラジル人でポルトガル語の些少も解するアオケン少年は、半ズボンから剥き出しになった太ももを平手で打ってテレコテコと器用なスビーダやカヘテイロ・リズムを繰り返して聞かせ「ウーン!ドイシ!トレシ!」と合の手までを入れて言った、
「先生、だから、サンバってこういうのです!曲が何調でもどんな音階でもカンケー無い!リズムこそがサンバの命なんじゃないでしょうか!」
叩いた彼の腿は赤熱こそしなかったが、白い肌からはかすかにジーニョとボンボンを思わせる甘い香りがした。少年の子ども部屋の壁にスチール胴できちんとタハシャ(調律螺子)の付いた短胴小径のタンボリンがかかり、トランスルーセント・ブルーのプラスチックヘッドの影を壁紙に丸く落としている。彼は気晴らしにそれを手近なプラスチックの棒で叩いて遊ぶのである。
「中華料理店のCMみたいなサンバも、演歌みたいなサンバも、幼稚園児のサンバも、ライバル合唱団のサンバも、深夜ラジオのサンバもキミは全部ニセモノだと言うんだよナ?」
「だって、全然サンバのリズムと違います!」
合唱団の6月のライブに「てんとう虫のサンバ」が入っているのは、「ジューンブライド」というテーマパートがあるからだ。「花嫁は夜汽車に乗って…」やGLAYの「ずっと2人で…」といった、ちょっと古めかしい歌がプログラムに並んでいる。彼らは時として結婚披露宴といった場にもコネつきの安価な出演料で呼ばれることがあり、結婚式ソングのレパートリーは商品としても欠かせないものなのだ。大切なのはそれだけで、曲がブラジルの民族音楽であるか否かは所詮どうでも良いことだった。男の子は彼自身も1度しか経験の無いリオの3月の水の数日間に思いをはせた。大量のニッケーブラジル人の住所と職場が日本国内へと収まり、バリギやバスピが日本に来なくなり、日本中のシュラスカリアから新奇で明るい笑い声が絶えるとアオケン少年は合唱団の本科へと上進し、似て非なる日本製まがいもの「サンバ」の存在を不快と感じるようになった。
「日本じゃ、ラテン系音楽の全てを『サンバ』と呼ぶ。日本じゃパンデイロのことをタンバリンと呼び、ジーニョのことを『トルココーヒー』と呼び、ジョゼのことを『おまえ!』と呼ぶんだ。あきらめろ、アオケン!」
彼は言葉を返さなかった。ここは生き馬の目を抜く少年合唱団で、今は1日2回の30分レギュラーステージの間のスタンバイ時間だ。自身はこの男から丁寧に根気強く歌を教えてもらっている11歳の小学生に過ぎないことをよくわきまえている。だが、彼らがここでのんびりと公演の間の暇をつぶしはじめているもの事実だった。
「先生、わかりました。あきらめます。」
5年アルトはドーナツ臭い息を吐きながらせいいっぱい悪びれつつも帰順した。もちろん教師の心境は決して晴れ晴れとはしなかった。

「名前を呼ばれた者、前に出て来い!前江トーヤ君。」
「はいっ!」
先生は、つまみあげた封筒の宛名側を読んでいる。
「中井宗太郎!」
「ハイ!」
「アオケン!」
「はい!」
少年たちは、すでに呼び出しの理由のあらかたを察している。
「キミたちにはファンレターが来てる。真面目に歌ってるとイイこともあるもんだな。…先生には、未だ一通も来たためしが無い。」
子どもたちは笑った。
「…先生、余計なことかも知れませんが、その花束は?」
アルトの後列から、しゃがれた声で指揮者の左手を指差す団員がいる。
「おぉ!誰の分だっけ?」
男はセロファンの腰にぴったりセロテープでとめられたミニカードの宛名を読んだ。
「松田リクぅ?…松田くん宛だ。」
「エ"ーっ!?ありえナイっしょー!」「マジ、しんまいぺーぺーの2年坊主ぅ?」「ヤバすぎて、ウケるー!」
少年たちはどうしようもないほどの疑念と嫉妬からそれぞれ驚嘆の声をあげた。
「何かのマチガイでゃー!」「そりゃたぶん親戚のオバサンでんがな?」「こんなリクの名前なんか、どこで判ったんだろ?」
少年合唱団で5親等以内の親戚縁者や学校・習い事の友人・教師以外の観客からファンレターをもらうなどという選ばれし子どもは2種類しかいない。「こいつなら絶対にもらうだろうナ」と団員総意で認める子と、「こんなヤツには間違ってもファンレターなんか来ない」と思われる少年たち。その中間の子らには申し訳無いのだが、他人様からレターの届いたためしは無かった。本科デビュー3ヶ月で身長123センチそこそこの小さなメゾの「その他大勢」がいずこかの見知らぬ観客から花束をもらう。場所は劇場の花束受付デスクでも出待ちの楽屋口でも無く、たかだかショッピングセンターのイベントの物販用折り畳み机の天板越しだ。指揮者がカードの差出人の名前を2年生メゾソプラノに読んでやると「?知らない人…。女の人ですかぁ??」と、遠足で日焼けた垢臭そうな小さな首をかしげていた。デパートやモールの催事ステージで、最前列の団員たちの何人かがMCのお姉さんからインタビューマイクを突きつけられることがある。「お名前は?」「合唱団は、楽しいかな?」「先生は、キビシい?」「緊張するでしょう?」「歌うのと、ゲームするのと、どっちが好き?」…客ウケをねらってどこの会場でも代わり映えのない質問が矢継ぎ早に団員へと差し向けられる。メゾソプラノ最前列中央に立つ松田リクは前回のショッピングプラザの30分2本のミニコンサートで「キミのお名前は?」から始まるインタビューにハキハキと屈託なく応えたばかりだった。
「先生、だって、最近リクって何かホンバンで目立ち過ぎてません?!?2年のちびメゾのくせに!」
ぱりぱりとセロファンの音をたてながら、松田リクはテープ止めされたカードを苦心して剥がしとり、歯肉の匂いを吹きかけつつレターの文面を一文字ずつ丁寧に読んだ。

 お兄ちゃんたちからいじめられても、
 くじけないでがんばって歌ってくださいね。
 いつもおうえんしています

「先生ぃっ!この花束って、2年ちびメゾじゃなくて、2年アルトに届いたんもんなんじゃないですかぁ??お兄ちゃんたちにいじめられてもあきらめないで歌えってバッチリ書いてありますヨ!!リクなんかを好き好んでいじめてるヤツなんか誰もいないっしょー??」
背後から信書を盗み読みしていた5年アルトが突然大声で指揮者に告げた。話題の2年アルトは頭一つ分背嵩のいった4年生新入団員の肩を優しく押し、スタンバイ位置の差し替えを穏やかに教えている。
「ほぉ…!その発言は、キミたち5年生が、かわいい低声2年アルトを先生の目の届かないところでボッコボコにいじめてる…って内部告発と考えて構わんのだな?!」
「…い、いえ。いえいえいえ…。その、何ですね、そういうフンイキのお手紙なのかナ…って…。」
ピンク、赤、白、レモン色…花束の包みの中、色とりどりのガーベラが腰のある花弁をカスミソウのプチプチした発泡の間からしっかり広げて咲いている。2年メゾは花束を掲げつつ、つくづくと眺め見て考えた。
「僕の大好きな花、どうして知ってるのかなぁ?」

     
 子どもたちは頭蓋の上に乗せた掌をふわりと解き、やがてゆるゆると立ち上がった。指揮者は団員の大方が起立してもなお「全員起立」のハンドサインを乱暴に繰り出し続けている。客席は大小の余震にもはやうんざりとしていたが、いたって真剣だった。子どもらの方がむしろ慣れっこでぞんざいになってしまい、まるで頓着の無い面白みの無い様子でたたんだ膝をがくりと伸ばした。彼らは表情一つ変えず指揮者の次の指示を待っている。
「えー、皆さん。周囲のかたで、お怪我をなさっているかたはいらっしゃいませんか?…よろしいですか?」
彼が再び大声で客席に問うと、駆け寄ってきたモールのスタッフに目配せをしながらコンサート再開の具申を立てた。
「『てんとう虫…』はハショって次のMCから行きます。『花嫁』のソロのスタンバイいいですか?」
教師が少年たちにぱらぱらと指示を出すと、隊列の前に出ていたハーモニカ担当が半分踵を返しながらもあからさまにいやな顔をして不満を訴えた。
「どんなコンサートにも、会場で決まった時間があるんだ。始まってからもう10分近く経っている。1曲つまんでも最後に5分はオーバーするだろう。」
「先生、地震があったんですヨ!僕たちのせいで時間が押したワケじゃない。」
「君たちの歌の後には戦隊ショーやマジックのショーが夕方までケツカッチンに入っている。その人たちにも同じ事を言うのか?」
「先生、僕のハーモニカは7月のコンサートには無いんです!今日が僕の吹くハーモニカの最後の日なんです。」
「知ってるさ。来年の今日のキミは中学の制服を着て、客席で誰か後輩の吹くハーモニカを聞いてるだろう。」
「…じゃぁ、何で??」
「演奏中に地震があって、ここは少年合唱団のステージで、キミは6年生だ。仕方ないだろ。あきらめろ!」
銀色の角棒を握った少年は引きつった笑みを浮かべてくるりと踵を返した。おびただしい不条理も少年合唱団の上級生には慣れっこだ。これらがごく日常の出来事でしかないことを彼はよく心得ている。

 『花嫁』のソロ担当の少年たちがソプラノ側シモ手とセンターのスタンドマイクの前に陣取ってスタンバイを終えると、指揮者は客席に向け大きな肉声でコンサート再開のインフォメーションを告げた。
「揺れも収まったようで…。お集まりの皆様、演奏の中断をお許しください。少年たちは、イヤな気分も吹き飛ばす元気できれいな歌声をお聞かせしようと、ここで待ち構えています。地震のあった関係で短い時間になってしまうかとも思いますが、コンサートの続きを始めさせていただいてよろしいでしょうか?」
ぱらぱらの拍手を背にして男は向き直り、少年たちへ敬体で最後の指示を振った。
「それじゃぁ、行きましょう!段取り通りMCからお願いします!」
だが次の一瞬、隊列最前からプチリと飛び出て来た覚束ない2年生の姿を見て、ステージ上の団員のおおかたと指揮者とミニマムキーボード奏者の各自がずしりとした後悔の念を感じた。
本来、構成台本上の曲紹介を担当する6年メゾは学校の移動教室で軽井沢へ行っていて、今頃は飯ごう炊さんの後片付けで真っ黒になっている。合唱団の誰も失念からそのことに頓着しなかった。名前だけ「代役」の位置づけの2年生男子は、しかし小さな黒革靴の脚をぺたぺた繰りながら、自分用にセットされているはずのマイクロフォンをしばし探して彷徨った。シモ手とセンターのマイクの前には先ほどから小山のような上級生たちが『花嫁』のオープニングのソロに備え張りつめた緊張の中で停留している。指揮者はじきに臨時MCの身長123センチの細かい姿を合唱団の中に見失った。喫驚した合唱団の子どもたちが次の一閃でさらに飛び上がって面食らったのは、浅い息継ぎと低学年独特のあどけない話し声が、マイク拡声とともに彼らの真後ろから聞こえて来たということだった!
「本日は、僕たちの歌を聞いてくださり、ありがとうございます。それでは次に懐かしい昭和時代の曲で『花嫁』を歌います!ご存知のかたは、どうぞ一緒に歌って21世紀生まれの僕たちを助けてくださいっ!」
客席が笑ったのは構成台本のオチではなく、小さな身体の少年が合唱団の背後につっこまれたマイクスタンドの前で平然としゃべっているという図像の可笑しさからだった。指揮者が地震発生時、反射的にマイクを差したままのスタンドを隊列背後に撤去し避難経路を確保したその場面を、ちび団員は地面に這いつくばりながら冷静に観察していたのだ。ステージ再開とともに先ず撤収されたマイクの前に立ち、男の子はスチールパイプをアルト前方まで引きずって来てしゃべろうとしたが3キログラム超もあるフロアスタンドはビクともしなかった。次に彼は指揮者が演奏会のインタビュー時にしているように、スタンドのマイク・グリップからワイヤレスマイクを引き抜いて運んで来ようとした。だが、ゴロゴロとイヤなノイズが拡声されるだけで、きつく固くピンチされたマイクは背伸びして作業する彼の手にあまり容易に外れようとしなかった。松田リクは一瞬、マイク無しで原稿を怒鳴っている自身の姿を脳裏に思い描いたが、あきらめることなく結局、影アナのような位置で彼の初めての大役を最後まで全うすることにした。指揮者は拍手を受けてピアニストに目配せを送り、『花嫁』の前奏を鳴らしたが、正直なところ心ここに在らずの状態だった。男は最前列の定位置に戻ったリクの薄く甘い白桃色の唇の動きを無意識のまま凝視した。担当団員に配られるMC原稿にはどこのマイクをいつ使用するかという指示ははっきり述べられてはいたが、どの位置でしゃべるかについての説明は全く書かれていなかったのだ。


 1メゾ5〜6年の少年たちの奏でるレガートで涼しいボカリーズのリフレインと彼らの突き放すようなブレス。旋律の外殻はアルトの子どもたちがしっかり固めて鳴らしている。じわっと会場のセンターコートにたったこだまが、低声のエッジにあったためにそれと知られる。

 ♪lalala 赤 青 黄色の衣裳をつけた…

子どもたちは譜読みの段階が終わると「衣裳をつけた」を「いーしょーをつけった」と帳尻を合わせて読み替えたり「♪まあるい、まあるい お月様」を「まーるい、まーるい おっつきぃさまー」と勝手に音符を組み直したりして、楽譜通りにどうしても歌わせようとする指揮者を心底困らせた。だが、彼らは今、サビの旋律が四分の四拍子から二拍子に触れて巡り来る自然な経由や、キーボードの左手が間断なく刻み続けている「♪タッタタァー、タッタタァー」のベースパターンの意味を柔和に温かく聞きわけて歌っている。何よりも先ず、首の据わらぬ2年生から鼻の下の産毛が目立つ6年生まで、どの男の子も間違いなく心から楽しげにひたすらな表情のまま歌っているのだった。

 ♪lalala サンバにあわせて 踊り出す…

6年生の男の子はこの場面で小学生最後の商売道具を銀色に掲げ持ち、居並ぶ小窓にせわしなく16分音符のアクセントを吹き吸いして中を継いだ。アトラクションや客寄せのミニコンサートの少年合唱団に、アンコール!の声が客席から執拗にかかることはごく稀だ。短くなってしまった演奏会のお詫びに、指揮者は思いついて『てんとう虫のサンバ』をアンコールナンバーに据えた。左前歯が抜け楽器の吹口窓のように口中が覗く男の子…松田リクのはにかんだ笑顔が照れくさい小学2年生の体側のわずか50センチ前方カミ手寄りには、真剣な面持ちで息のある限りベース音を奏で続けようとするハモニカ6年生の大きな背中があった。

Across The Road アクロス・ザ・ロード

June 03 [Fri], 2011, 23:16

 午後のゲネプロは半透明セロファンに包まれたステージライトのまどろみ。舞台上には先ほどから「Across The Road」のコード進行が1/fゆらぎのように間断なく響いていた。セブンス系オンパレードの和音の投げ売りを踏みつつアルペジオで散らすピアノ伴奏。第一メゾから下のパートの少年たちは曲が始まって60秒以来、楽譜通り全音符で歌詞が「♪Ah〜」以外全く出て来ない人間バグパイプの吹管の一本になり下がっている。
「先生っ!オレたちも、最後の8小節で歌詞が♪la〜に変わりますー!」
練習場でアルトの6年生たちは抗ってみせたが、所詮トーンクラスター合唱のような楽譜の構成は変わらない。彼らの2/3は、Love & Peace調の歌詞を担当するアマちゃんのソプラノパートをボカリーズと部分ユニゾンで下支えする最強通奏低音だ。
「ソプラノの諸君、もう本番2時間前だぞ。何とかなりませんか?!キミたちだけでメゾ・アルトと互角に戦うんだ。わかっとるのか?」
「先生、そりゃ所詮ムリってもんですよ。メゾとアルトにゃ、先輩仕込みでやたらケンカっぱやい6年とか、先生が厄介払いで低声送りにしたもんだから団員人生を投げちゃってるヤツとか…」
「おまえみたいに通団距離が長くてキレやすいのとか??」
「ウっ…それは。まあ、そういうワケで血の気の多いヤクザなヤンキー連中がワンサカいるんスから。こんなヨワ弱っちい4年生メインのお坊ちゃんソプラノ・チームなんか、ゼッタイに勝てるワケないでやんすよ。」
指揮者はお調子者の団員に具申され、改めて隊列の左翼を見渡した。高出力高安定性の5〜6年ソプラノが揃って欠場してしまっている。
「おーい!じゃあ、そこの見た目ヤンキーで金髪の中山アンビ!低声の口減らしのために今からテッポー玉の仕事をしてもらうからこっちに出て来い!」
名前を呼ばれた5年アルトは、事情が呑み込めず目を白黒させていたが、周囲に急かされてまだらヘアダイの茶髪の頭をかきかき、ひな壇エッジを蹴って指揮台の端にのしのしと参上した。彼がやって来るまでの信じられないような長い間を使い、指揮者は赤のぺんてるサインペンで自分の楽譜のボカリーズ箇所に乱暴なカコミの丸をうった。
「赤いシルシのところだけ、お客さんに…お〜い!聞いとんのか?アンビ君!」
用足しを頼みかけた指導者は広げたままの楽譜で団員の前髪をピシャリと叩き、注意を促した。メゾの3〜4年生たちが笑い声をあげた。
「赤いシルシのところはお客さんに分かんないように、ソプラノの声だけ拾うか持ち上げるかしてPAでやんわり客席に戻せるかどうか聞いて来い。」
「?はイ?」
「だから、使いっぱしりだ。楽譜を置きに行って、ついでに少しだけアシスタントして戻って来いよ。」
「どこでですか?」
「調整室のPAさんに決まってるだろう?おまえ、学校の放送委員会のPAアシストだって自慢してたじゃないか?」
「…いいえ、テクニカル・アシスト・エンジニアです。」
少年合唱団の団員にはどういうわけか学校の放送委員会に所属する5〜6年生が多い。たいていの子が、ローカルケーブルテレビ局員なみに一通りの仕事をこなすナンデモ屋だが、品川(兄)は「お昼の放送」の人気パーソナリティーであり、アルトのアオケンは10分間もあれば選曲込みで高学年向きの放送台本を勢いよく書き上げるひっぱりだこの「構成作家」で、児玉大貴はフルハイビジョンのSANYOザクティーを構えたパートナーを従え校長室から横断歩道で旗を振る学童擁護主事さんまで、ダミーのマイクを片手に突撃インタビューを強行する敏腕レポーターだと聞いている。一方、中山アンビは全校朝会で使ったマイクケーブルを雑巾で拭いてから8の字巻きにしたり、音割れしたワイヤレスマイクの単三電池を+/−間違えないように交換して古いものを職員室前の「リサイクルでんちボックス」に投げ入れたり、下校放送で手動送出テープの頭出しをかけポーズしておいたりといったようなパッとしない仕事ばかりやっている。それでもビデオ朝会の完パケに流れるスタッフロールのクレジット上の表示は、「テクニカル・アシスト・エンジニア…5年2組 中山アンビ」なのだった。
「おい!ちょっと待て!先生からの命令だ。『PAアシスタント』のそのまたアシスタント役に松田リクを連れて行ってやれ!」
茶髪の5年アルトは反射的に1メゾの前列を見澄ました。助手に指名された2年生メゾは定位置に入っていなかった。
「ギェッ?!マジかよ」
団規違反のその返事に彼は即刻言い直しを命ぜられた。
すると、第一メゾの最前列中央から普段着姿の2年生男子が緘黙のままぴょこりと飛び出てきた。脱「ゆとり教育」の今、低学年児童にも当たり前のように6時間目の授業はある。平日ソワレのステージのため、彼はランドセルを背負ったまま学校から直接母に連れられてホール楽屋口に駆け込んできたのだった。通団服をまとっていないチビ団員の姿を中山アンビは容易に看過した。
「何だ、おまえココに居たのかよ。」
楽譜をわしづかみにした即席PAアシスタントは、「PAアシスタントの下請け助手」をそそくさと睥睨したかと思うと、音響調整室の所在も階層も尋ねず指揮台の角を蹴り、シモ手側客席ドアをこじ開けて行ってしまった。2年生が空色のソニックブレードをパタパタさせて出し抜けにその背中を追う。指揮者はせいせいした顔で4分の4拍子を続行し、少年たちは鎖状に展開されたリフレインを行きつ戻りつしながら再び眠たい属七の和音を重ねはじめた


 「ブレス直前の音を早く切り上げるようなDQNなヤツがイッパイいるんでスよ。」
少年はDQNを字句通り「ディー・キュー・エヌ」と発音した。ガラスのはまった小部屋にたくさんの機材とPAさん2人と少年合唱団員2名。中山アンビはデッキラックの前にスタックされたパイプ椅子に尻を落とし、グレープ味ペコちゃんキャンディーの白い棒をピッチリ摘まんでいる。
「音を早く切るから次の音のタイミングが狂う。狂うと、どうなると思いますか。」
飴の菓子容器を差し出したPA担当が首をひねって不案内の表情を返した。
「タイミングが狂うと、きちんと半拍早くブッ込んでSlowRockで歌おうとしているオレたちとビミョーにノリのズレるヤツらが出て来るんですよ。」
「ふぅーん。そうなんだ。」
「そうすると、2拍・4拍にストレスがかからないから、どんよーりとした歌になっちゃう。こいつらみたいなチビ団員以外は、みんなそんなことよ〜く分かってる。分かってても、ブレス前は声を早く切っテマう。分かってても、歌おうとするとできない。歌うには繰り返し繰り返しの練習が必要。…僕たち少年合唱の悲しい宿命です。」
客室上方のモニター画面とともに合唱団の紡ぎだすセブンス・サスフォーのハーモニーが解決先を求めて次々とあてどもなくさまよっていくのが聞こえる。和音の遷移だけで作られているように見える作品を10歳前後の少年たちがソウルフルなリズム感重視で搦め手に歌っているというのは正直言って驚きだった。
「ところで南国少年アシスタントくん。キミの持ってきたこの楽譜、本当に正確?」
「…と、言いますと?」
「『はてしない そらの かなたに…』からずっと赤が入ってて、次のページで一時中断があって、また赤になって…ほら、Bメロのリフのところ、キミたちはもう一度部分的にメロディーに戻るんだよ。ここもシモ手側持ち上げちゃってイイのかい?」
持ってきたばかりの楽譜を逆に示されて中山アンビは少したじろいだ。赤線の走る部分には確かに歌うべき歌詞が印刷されている。
「ココは、キミたちアルトがたった3小節ぶんソプラノとユニゾンするフレーズじゃないの?」
「いや…まあ…確かに…」
「どうする?」
「…聞いてきます。」
5年生が慌しくきびすを返し調整室の重いドアレバーをガッチャンと押し下げると、背後から呼び止められた。
「アシスタント君!忘れ物だよ!楽譜を忘れてる。」
それから1分も経たぬうち、彼はわしづかみにした楽譜をくしゃくしゃと振ってじゅうたん張りのホールロビーを駆けぬけ、階段の下で一心地つきつつもう一つの決定的な失念に気づいた。
「あ!松田リクをあすこに置いてきちゃった!」

 2年メゾが下りて来るのを待つ間、ロビー・ビュッフェ横の大ソファーに頑丈な両脚を投げ出し大の字で転がっていると、ぼそぼそと言葉を交わす男女の声がする。首を起こして確認すれば、ホール・ドアのニッチの中に動く人影があった。手前が黒いスーツの女性の後ろ姿で、もう一人はペンシルストライプの背広の男。
「モンドラぐらいだったら、男の子で年契なんてノドから手が出るくらい欲しいでしょう?」
「一応、即席食品ですから、年契も馬鹿にできないよね。」
「実際会って話してみると、インパクトが在りそうで無いって感じの子なんだなー。」
「汎用性があって、とっても使いやすいんじゃないかな。彼、契約の度にヘアスタイル変えてるし。」
「あそこ所属の男の子、サニタリー系に強いって印象が在る。何でかな?」
「彼、あんまり滑舌良く無いんだよ。ニコっと笑ってキャッチ言わせて、はい!オワリ…っていうぐらいかな。」
「何か1フレーズ歌って、はい!オワリ…の方がキツいでしょうかね?」
「でも、歌専門で来た子は、しょせん歌専門…とは言わせないよ。」
「オール媒体ですよ。ホントに大丈夫なんでしょうか?」
上階から階段手すりを拳で叩きつつ下りて来る2年メゾの生活音がする。中山アンビがそれを感知して、用事の続行のため飛び起きざま、すり足でロビー絨毯の上を駆け始めた。途端、背後から2人組に呼び止めたれた。
「キミ!合唱団のキミ!…カウチの上に書類を置き忘れてるヨ!大切なモノなんじゃないの??」
彼は小動物独特のカンで、自らが何らかの観察対象へと一瞬にして成り替わったことに気づいた。
「これから合唱団の先生のところに行くんだよネ?悪いんだけど、この名刺をお渡しして、リハーサルを見ていいですか…って、聞いてもらってくれないかな?」
「うーん。たぶん、見学自由だと思いますよ。」
「少年合唱団って歌でお客さんに夢を与える仕事なんでしょう?その子たちが怒鳴られたり走り回ったりして練習してるところなんか見せちゃっていいんでしょうかねェ?…ともかく、イイから、聞いてきて!」
「はあ、いや、まあ…」
「そうだ!お駄賃あげる!ここにお姉さんたちのお昼ご飯のピザの残りがあるんだけど、食べてくれないかな?…もしかして、チーズとかトマトとかって嫌い?!」
「先輩ぃ!ドサクサにまぎれて何もここでオーディションすること無いじゃないですか?」
「イイの、イイの。寝姿も走り姿も良かったし、お顔も設定に合ってるし、脚のカタチもキレイだから、後は食べっぷりだけ見ましょうよ!…さ、茶髪小学生男子のキミ、ガブッとワイルドに食べてみてちょうだい!」
男の子の耳殻は「脚のカタチがキレイ」という部分にだけ鋭く反応した。ステージでの姿を見る限り、これは全く想定内の出来事である。
「い、いいですけど、ソファーの上から楽譜持ってきて…そいでもってオレの後輩の2年生メゾがピザを食べるってのは、イカガですかぁ?」


 ♪I can go across the road tomorrow...

「おぉ!英語だ。すごい!すごい!小学生でも英語の歌詞なんだなぁ。」
調整室の音響担当者が瞠目すると、5年アルトは仕方なさそうに苦笑して応じた。舞台袖から帰還したばかりで、未だわずかに息があがっている。
「今の小学生に英語はデフォなんですヨ。学校で習うし…」
「小学校の先生も大変だなぁ。英語まで教えなきゃならないなんて…」
菓子容器を差し出すと、「アシスタントのそのまた付き人」はかっぱえびせんのような2年生の人差し指で棒付きキャンディーの混交をかき回し、ムラサキ色の飴板をつまみ出した。
「担任の先生が英語なんか教えませんよー。インタヴュウだけ。…アクティビティーはAETの先生の担当です。」
「AETって??」
松田リクはキャンディーの包装紙を左手にくしゃくしゃと丸めて握った。グレープ色のカメオに赤紫の舌先を絡め、黙ってそれを舐めている。
2人目のPA担当がドラフティングテープの尻を紙箱のギザにかけて切りながら、
「AET … アンプ・エフェクト・チューナー??」
冗談めかして言った。
「♪I can go across the road まではカタカナのまんま歌えばイイんですけど、最後のtomorrow…だけは、toとmorとroとwを分けて歌うんです。『トゥ』と『モゥー』と『ロ』と『ウ』…。『トゥ』に比べて『モゥー』を歌うのにほんのり時間がかかる。だからココのシンコペーションが自然なアクセントになる。それが大切なポイントなんです。たったこれだけ皆で揃えれば、めっちゃカッコよ〜く聴こえる。オレたちは、カッコいいところを見せて、聴かせて、ナンボの仕事だから…。」
小学生といっしょにペロペロ飴の棒を唇から突き立てていた男が、静かにその説明を聞き、何かを思い立ったのか突然調整卓のボタンを押し込んで喋りだした。
「先生!先生!よろしいですか?」
大ホールの客席にPAさんの身近な声が大音量で反響している。
「はーい!」
どこで拾っているのか、ステージ上の指揮者の返事が室内モニターからドンと入って来た。
「客室音量の確認のために、アシスタントを客席に下ろします。よろしいですか?」
眼下のステージからはなかなかレスポンスが戻って来ない。
「ファンタムがご機嫌ナナメなので、上の予備と切り替えながらテストします。先生、トークバックで彼らに指示かけますので、アシスタントさんの使用許可をお願いします。」
「それは…あの連中は…ご自由にお使いください。もし、お役に立つのでしたら、大きい方の、髪の毛の茶色い方のは会社に連れて帰ってくださっても全然構いませんよ。」


「僕は、まだ歩ける…。僕は、今すぐあいつを助けに行く…。退けっ!どうしても行かせたくなかったら、先にオレを倒せっ!仕方ないことなんて、無いんだ。仕方ないなんて言うの、イヤなんだっ!だからオレがあいつを助けるんだ!止めるなら、オレを倒してからにしろッ!僕の事が世界で一番好きだって言うんなら、僕の命を奪ってでも止めてみろ!なにぉー。離せっ!離せ!くそぉー!ウーッ!ウーッ!」
中山アンビはヘアダイの髪を逆立てて、カーペットの上に勢い良く一人で七転八倒した。奇声をあげつつ、陶酔の面差しのまま、薙ぎ倒されたかのようにあちこちへ転がった。倒れても、倒れても、際限なく起きあがってはホール側方の人工大理石の円柱につかみかかっていく。
「ウアァァーッ!ウぁーッ???オレを行かせろーっ!!」
「何やってんだ、おまえ?…こんなとこで?」
5年アルトの表情が、数瞬にして「普通の男の子」へと回帰した。

「それ『マリと子犬の物語』の山小屋シーンだろう?確かに感動的だった。シネコンで10回以上は見てるよ。船越英一郎がまた、心に瑕のある父親のイイ演技してんだよなぁ。でも、ちょっと今のセリフ、何カ所か派手に違ってると思うぞ?」
楽譜のコピーを握ったPA担当が、痺れを切らし、ここにいる。
「アシスタント君。キミのかわいい小さな後輩が、こっちに下りて来たっきり見当たらないんだが。」
「オレほどじゃないけど髪が茶色で2年生のメゾソプラノのことですか?」
「…?」
「リクなら、さっきどこかのお姉さんたちの引き抜きのオーディション受けてましたよ。ワイルドな食べっぷりで、歌が歌えて、寝てるカッコウと走りっぷりが良くて、脚のカタチのキレイなカワイイ少年が欲しいらしい。」
「アシスタントのキミはいったい何であんなチビっちゃい、何にもしない子を連れて歩いてるんだ?」
「そりゃ、先生の言いつけですから。」
「大切なホンバン前なんだから歌の練習もあるだろうに。」
「お兄さん、これが僕たち少年合唱団員の仕事なんです。」
「補助にもならない使い走りのそのまた補助をすることが?」
「新学期のステージで、松田リクは…あの2年生は本番中に自分を犠牲にして合唱団のコンサートの進行を守ろうとした。あの日、それを僕たち5〜6年生は全部しっかり見ていた。だから先生はまだ小さいあいつを僕につけてくれたんです。リクの仕事は、オレの姿をよく見ておくこと。」
「…よくわからんが。それって歌の練習より大切なこと?」
「さあ、どうでしょう?合唱団が無ければ、オレらは歌の練習なんかしてもどうしようもない。…じゃ、調整室に戻りましょう。あいつはしばらく来ません。」
「いや、悪いけど、客席中央に行って音のバランスを聞いてくれ。お客さんにバレないぎりぎりまで絞るから。普通の小学生にこの仕事は無理だと思うけど、合唱団でがんばってやってきたキミだからセンスを信じて頼もう!指示は放送で出すからジェスチャーで返してくれ。ハンドサインはわかるか?」
「…はい。」
「『ダメ』は?」
×「…これ?」
「『OK』は?」
○「…マルっしょ?」
「『音量もっと小さく』?」
「…こんなかんじ?」
「『もっと大きく』は?」
「…こう?」
「じゃあ、逆に聞く。普段はPAさんがあんまし使わないヤツだ…これは?」
「…ま、巻きですかぁ??」
「意味は?」
「知ってますヨ…いつも放送朝会で6年からめいっぱい巻かれてます。『さっさとしろ』でしょ?」


♪はてしない そらの かなたに 
 よみがえれ ゆめよ あこがれ

合唱団の歌声が、♪≒98でユルユルと不思議ちゃん系コードの漸進を再開した。
 D > Am7 > Gmaj7 > C7 > Bm7 > Am7 > D7sus4 > Gmaj7 > C7 …
中山アンビは客室中央部の不燃素材のシートに腰を沈め、暗がりの中でそれを聞いていた。
 ♯ド > ド > レ > レ > レ > ド > ド > レ > ド …
ハーモニーを辿りつつ、彼はアルトパートの自分のメロディーを脳裏へと導いた。
ソプラノの出力不足はセンド側で上手にカバーされていた。歌いながら客席音響を拾う習慣のついている少年たちは、自分たちの歌声に納得しつつも走りがちなテンポを上手にキープし続けた。ソプラノ側から、中井宗太郎のアタックの強い歌声がちゃんと聞こえて来る。これは良い兆候だと思った。バラードの道行きがつつがなく運び、座席のバックレストが微笑むがごとく柔和に彼の肩を包むと、中山アンビは突然強烈な睡魔に蹴倒された。彼はその場から立ち上がり、上空の調整室のガラス窓へ向け5年生の両腕を頭上でマルのカタチに作って掲げようと奮闘してみたが、しょせん無駄な抵抗に過ぎなかった。合唱団の歌声に乗せ、数瞬がストンとタイムマシンのように過ぎ越し、時間の跳躍と夢心地のまどろみの中で、彼の脳幹は香ばしいチーズクラストとトマトソースの強い匂いを感じた。
「…先輩…中山せんぱい?…PAさんがマイクで、音の大きさを聞いてきてますよ。」
「おまえ、出せ…」
「何を??」
「腕で大きくマル、ってやって出せ。」
「…こぉ??」
5年生は半睡の中でその試技を全く見ていなかった。
「うん…。上の窓からPAのお兄さんがこっちを見てるはずだから、マル!ってやってみな。」
彼の視床下部はもはや弛緩状態だ。若くて太い声が、かすかなハウリングを伴ってトークバックからホール全体に落ちて来た。
「はい。お疲れさまです。先生、音量調整終わりましたのでお返しします。」
コウモリのような小さなごつごつした指が中山アンビの萎れた肩を掴んで言う。
「せんぱい…せんぱい…ぼく、さっきのピザのオーディション、合格しましたヨ。ぼく、たぶん初めて何かに出演するみたい!」
「ふ〜ん。ガンバレよ。どうせVシネマか卒業制作映画の主人公の子ども時代の役だ…」
合唱団の少年たちは指揮者の合図でほとほととステージを下り、制服に着替えるため楽屋へと引き揚げはじめた。ビデオ制作スタッフがカメラのピントをふわりと放り投げ、4年メゾの低声たちがニャーゴ!と猫のポーズのおさらいを仕納めた。『ジャングルブックのうた』のソリストがエプロン際で立ち位置を再確認し、昨年入団の5年生が静かにアクビをかみ殺した。ぴょんぴょん飛び跳ねながらシモ手袖に抜けようとする最前列の2〜3年生の尻をパッパと叩いて急かしながら、指揮者は客席中央に向けてよく通る大きめの声で呼びかけた。
「メゾの松田くん!松田リク君!今すぐ上がってらっしゃい。折り入ってキミに話がある!」

ピオニールは木を植える Пионеры сажают леса

May 18 [Wed], 2011, 0:11
И „Радецки“ пак ще плува с пионерски екипаж…
(Народна република България, 1966.)
2стотинки


 少年たちの不毛な植林工作の始業は、つねに砂塵の吹きすぎる昼過ぎ、炎暑の刻限に限って起こるのだった。
彼らの白い肌から放たれる人工的な臭気が何よりもまず辺りを広範に席巻し、続いて吹手の掲げ持つ信号ラッパが部隊の到着を♪ペ・ペ・ポ・ペ・ペ・ペ・ペ…と一帯に告げる。
希薄な大気を透過した波長の短い陽光に炙り上げられ、ここにある運河の末端は既に砂の舌先に埋もれ、飲みこまれようとしている。ダウル橋の橋脚の鼻柱に嵌って横転し、ワジと化した河床に放り出される蒸気船「ラデツキー号」の優美な死骸。その時刻、左舷の作り出す僅かな日陰が私をたぐり寄せた。放心からそこにもたれかかり、砂塵がオモカジへと吹き回る気配をぼんやりと眺めながら、私は少年のホルンの虚ろな合図を聞くことになるのだった。運河の北岸…遺棄された荒漠なコルホーズの延伸や社会主義のための見せかけの街区の痕跡はもはやためらいも無く砂塵へと取り代わり、覆い尽くされようとしている。子どもらは到着するやいなや、働きアリのごとくごちゃごちゃと隊形を組みなおし、棒切れやブリキのバケツ、乾燥した樫の柄のシャベルや何に使うのかよく分からない布切れを差し渡し、散開した。どの子のワイシャツの胸にも薄汚れた赤いチーフが垂れ、バナーをオリガミに折って被せたような、ヘタった赤茶色のピロートカ帽が、ブロンドや薄いブラウン、漆黒や赤紫の髪の上にちょこんと乗っているだけだった。流砂との攻防や灼熱の時刻は果てしなく続き、陽光の照射は無策の人々を戦慄の大植林への挙動へと駆り立てている。私たちは人打ち棒に似た枝葉の無いのっぺりとしたその苗を希望へのバトンへと見立て、あの荒唐無稽な大自然改造計画がもしや人民と国土に結局勝利をもたらすことになるかもしれないと朦朧とした暑気と脱水の中で信じかけてしまうようにまでなっていたのだった。

♪Тополи, тополи,
 Скорей идите во поле!
 Пионер - Всем пример,
 Там уже с рассвета!

 ポプラ ポプラ 早く伸びてくれ
 ピオニールが行く…手本となり、朝まだき 先頭きって!

四囲の漠とした空気にまるでそぐわない澄みわたったボーイソプラノの頭声を響かせつつ、彼らは繰り返し歌っていった。歌詞の通り(…「ピオニール」という団体名の通り)少年たちは後続の無気力な大人たちの小隊の植林の先鋒を担っているらしかった。彼らが砂をはむような行軍を演じ植えつけるポプラの苗木のあらかたが乾涸び、偶然にもうっかり根付いて貧弱な枝葉を垂れる若木がほんの少し生き残っているだけの頃になるとようやく本隊が到着し、絶望的で雑多な木の実や種子をばらまいた後、なけなしの運河の水をポンプで吸い尽くし散水していった。子どもたちの作業は殆ど人海戦術の手作業だが、大人の植林隊の中心はあちこち錆びてへこんだユーゴスラビア製のトラックやポンコツのわずかな重機のみ。彼らはピオニールの事業に仕方なく先導され漫然と仕事をやらされているのに過ぎなかった。
 
 たそがれ時、山際から続く「人工の」砂丘が内陸の暮色からペルシャブルーのヴェールに覆われ、かすかな宵闇が胸に胸を足し、尻に尻を足す頃、灼熱の陽気は乾いて冷涼な夜気へと一瞬のうちに入れ替わった。午睡の時刻は飛ぶように過ぎ、陽光が僅かに傾いてしばらくすると少年たちは再び隊列を組んで運河の南方に横たわる山岳の方面へと退却していった。当座、彼らの本拠は麓に沿って伸びる鉄路上に係留された客車であるらしく、宵闇にまぎれた夜目の明かりが破線に滲みつつ山麓を水平に分断する光景を河畔の低い土手からも眺めることができた。山脈の向こうは西側の部族国家群の領域であり、急峻な峰を越えさえすれば潤沢とは言えないまでもそこそこの物質文明を享受することができるという噂を聞いたことがある。数ヶ月前、私が運河伝いにこの土地へとたどり着いたとき、住人は区々やサボタージュし尽くされた集団農場に見切りを付け四散してしまっていた後だった。ダウル橋の200メートルほど南西には有名な寺院があり、かつてあきらかにいにしえの人々の巡礼を受けていたはずだが、夜半の明かりは私の見るかぎり再び灯ることは無かった。むしろ月影を受けてキラキラと輝くミナレットのタイルはついぞ美しく、すがれた物悲しい光を放っているようにも見えた。


Димитровска пионерска организация „Септемврийче“
(Народна република България, 1965.)
13стотинки


「カールズバード通りの東の端と西の端はどこでしょう?」
モンゴロイドにもコーカソイドにも見えないブロンドの小柄な少年、ユーリが道を尋ねるふうを装って私のもとへやって来たのは航宙艦の降った日のふた月ほど前のことだった。スカスカのレンガが面倒くさそうに積み上がった住宅の白い窓枠をコチコチと叩く少年の柔らかな拳骨の音が聞こえて来る。私は絨毯の上に尻を落とし、腐りかけた油で今朝方揚げたマッシュポテトのビョレックをラマダン明けの男のようにムシャムシャと手づかみで食べているところだった。
 生来の砂漠を無理矢理灌漑して作られたコルホーズ群の南にはブロックを積んだだけの住居が幾重にも並んで放置されている。殆どのなけなしの家財道具と生活物資が遺棄されたままの官舎は貧弱な錠前を潰し、扉前の砂の吹きだまりを板などで削ぎ除きさえすればどこも容易に侵入可能だった。台所や倉庫を物色しては食料を調達し、新しめでなるべく清潔そうな寝床を探して毎日点々と行き当たりばったりの放浪を続けながら僅かな東進を繰り返していた。
「カールズバード通りの東の端と西の端はどこでしょう?」
東西両方の外れを尋ねているのだから、「ここはどこですか?」というたぐいの質問ではない。男の子は絨毯の上の私を見下ろして尋ねた。
「カールズバードの西の外れは先ず砂漠を弓なりに南下しながら、こちらへ帰るようにゴルブィブリリ通りにぶつかっておしまいだ。ただ、その先が真っ直ぐガソリンスタンドの左へ伸びていて、名前がウィギワニスカヤ通りに変わる。通りは結局ループ状になり、最後にはゴルブィ通りに戻るから同じだけどね。」
子どもが付近の地理を尋ねてきたのは、私がこの家の前に羊乳工場の駐車場からくすねてきた木蔦色のウリアノスクを乱暴に停めているからに違いない。小さな乾いた鼻腔からすうすうと息を漏らしながら少年は説明を聞いている。私は食べかけのビョレックをギュル文様の絨毯に投げ置いて、胸ポケットから萎びたイチジクの実を出して歯を立てようとした。
「東の外れは?運河沿いなのですか?」
「通りをずっと東に行くと、最後は山脈の麓の荒れ地に『道路閉鎖中』の柵が立っていて、そこが終点だ。柵の向こうにはもう道の痕跡も何も無い。あんなに広くて長大なカールズバード通りの東の端が、こんな寂れた場所かと思うと、キミたちもきっとびっくりするよ。運河なんかは無い。水の調達かい?たぶんお湿り程度の水でさえ残っちゃいない。塩と砂の道が続くだけさ。」
彼の質問の意図がついぞよく分からず、疑念の眼差とともに男の子を玄関の木戸から押し出そうとすると、どこに隠し持っていたのか連邦郵便の1マナト切手を1枚小さな指でつまんで差し出し、「これはお礼です。」と切手の印字面にあるアラビア文字の細かな加刷に視線を落としながら私が取るのを待った。

 一週間ほどして、ノバヤ橋の手前、河畔に朽ちかけた宿屋「チェルノグラス・イムペラトール」のロビーでグラフ誌『自然』の写真ページをぱらぱらとめくっていたとき、少年は再び数人の仲間を引き連れてやってきた。質問は依頼へと変わり、
「誰でも良いのです。人物の写真を一枚分けて頂けませんか?」
と、ついに調達部隊の馬脚をあらわしたかのように思えた。しかし、発言の内容は輪をかけて要領を得ない。周囲を見回すと、ロビーの西壁面の埋め込み時計の上方に、口髭をたくわえた鋼鉄の男の肖像がかかっている。
「反ユダヤのグルジア男の肖像だけど、いいかい?」
ピオニールはある種の諜報機関だ。リークを覚悟で申し開きのできるギリギリの物言いをして肖像を取り外そうとすると、「スパシーバ!」と礼を言いながらぺこりと会釈して私を制した。彼は身軽なまま、背後に連れて来ていた首回りに赤いチーフの角が覗く痩せぎすの少年の背中にぴょんと飛び乗り、バランスを上手に保ちつつ肩の上に立ち上がってポートレートをフックから引き抜いた。額の裏に溜まったわずかな砂粒がサラサラと絨毯の上に落ち、傾けた額の天板からも小規模な白い砂塵が舞った。少年が飛び降りると一行は腕を平仮名の「く」の字の形に作ってピオニール独特の敬礼をし、立ち去ろうとするので、
「肖像を何に?」
と尋ねると、植林のため掘った穴から人柱が出てきてしまったので埋葬したいのだが、葬る人のペルソナが確定しないと手続きできないのだそうだ。この国のお役所仕事にあたるものはかなり前から既に大きく歪んで空転していたのだが、全ての公的機関の仕事ぶりは日々閉塞し、最早常人が理解できないほどがんじがらめの「何でもあり」の奇妙な状況を呈したまま終わっていた。全ての権力は、今や鋼鉄の男の絵姿がミイラ男(女?)や髑髏の復顔に使い回される世の中へと陥没している。御真影を抱えた少年たちはこうして駆け足でノバヤ橋のたもとに向かいかけたが、エントランスに立つ私の視線を感じたらしい彼は仲間に小声で何か叫んだかと思うと慌てて引き返して来た。
「タバリッシュ!これは、お礼です!」
寸足らずの少年の指がつまんでいるものは、1枚の13ストティンキ切手だった。陣営内で13カペーク切手として使える。タンクトップに半ズボン姿の駆け足の男の子の図案がワイン色にグラビア印刷されていた。13Kは切手にしては比較的高額のものだ。
身体を斜めにした仲間たちが橋詰から男の子の名前を呼んでいる。
「Юрий!Юрий!Возвращаться!」
日射が彼のワイシャツの肩口を斜めに炙りあげている。
「ありがとう、ユーリ。」
男の子は私の謝辞もろくに聞かず、砂を蹴り走り去ってしまう。私はようやく少年の名前を知った。名前が何であるにせよ、数週の後、私のもとへ新たにムスリムの少年が立ち現れ、その体側の匂いをかぐ頃になると、ピオニール・ラーゲリの活動が動物を含む自然体系にもたらした絶望的本質…私たちの日々の何であるかを諦念の中で意識せざるを得なくなっていくのである。

 ノバヤ橋の南のたもとにはかつてインド料理店が店を広げ人々を楽しませていた。運河の水質は既に完成の時からシルトのせいでかなり混濁しており、周囲の環境の複合汚染や飢渇が進んだ後、両耳の千切れた野犬が飛び込んだり、腐ったユルタの残骸が投げ込まれたりしたまま朽ちて無惨な姿を曝していた。2世代にわたってコルホーズのこきたない区画へ強制定住させられていた遊牧の人々は、大植林計画が暴走して国土が砂塵に帰すと、そそくさと農地を捨て、再度忘れかけた牧畜を求めていずこへと旅だっていってしまった。常に羊肉とカレーの匂いを自由に立ち上らせていたインド料理屋は汚臭のする運河の眺望を楽しもうとする客を最後まで集めていたが、結局見限られ古びたビルだけがその場所にとり残っていた。炎暑が引き、砂の匂いが干からびた植物の末期の芳香に取り替わる黄昏時、思い出したように空腹を覚えた私は暗い中、料理店を家捜しして何か腹の足しになりそうなものがないかあさりはじめた。煮えて気の抜けたイスタークが2本、まかない部屋の入り口に転がり、破裂したヨーグルトの紙パックが厨房の隅に見つかった。過醗酵で腐敗した後に干からびて、中身は出来の悪い固化した造影バリウムのようにころころと音をたてている。緩んだイスタークの栓をはじいて橋の欄干に立ち、夕景を臨みながら口をつけると、信じられないようなきつい臭気がたち上ってきて、私は嘔吐する前に飲み物をビンごと橋げたに投げつけた。しばらくして河床のあったところからガラスが砂に噛む音が静かに聞こえてくる。メタルカラーの群青のとばりに焼却場の煙突が立ち上がり、川向こうの人民会堂の夕暮れが閑寂の澱みの中に沈んでいた。


Димитровска пионерска организация „Септемврийче“
(Народна република България, 1965.)
5стотинки


 視聴覚室には夥しいレコード盤が全く手付かずのまま残されていた。
人民会堂の社会主義リアリズム調の階段アプローチにはチャコールグレーのタイルで区切られた人工の小川が縦横無尽に張り巡らされており、近づく者を罠にかけようと涸れた浅い溝の縁をぽっかりと開けてあちこちで待ち構えているのだった。そうして私がまんまと策謀にはまり、暮合いの闇を転んだり擦りむいたりしながら向こう脛をしこたまステップの角に当ててエンタランスへとたどりつくと、眼下には質の悪い誰かの冗談なのか、押し手を失った乳母車が一台、水無しの暗い小川の凹みに車輪を落として止まっているのが見えた。こうして翌日の日中いっぱい会堂の奥をあてどもなく彷徨ったすえ、空腹の中にそのレコード室は在った。砂上の大楼閣のがらんどうの回廊をめぐり議長室の裏に自家発電機を見つけた私はいきあたりばったりの結線で電蓄を無理矢理作動させ、ホールの壁面からスピーカーを力任せに剥ぎ取ってきてつないだ。こうしてしばしの夜毎、荒野に面した窓辺に野放図で狂気な大音量の音楽がとどろきわたった。
 当夜のスターライトBIGコンサートの演目は歌劇「カルメン」全曲版。開演は誰もが知る前奏曲の後、威勢の良い信号ラッパが鳴って、場面が「衛兵の交代」の前置きに転換した。ЛСОТの担当する珍しい録音で、少年合唱団の吹手は「気をつけっ!敬礼っ!直れっ!」などとしれっとした日本語でセリフを叫んでいる。ただちにピッコロふうの木管がお茶目で可愛らしいモチーフを引き連れて、子どもたちの行進が始まった。

「椎も楓も白樺も、森林帯の柔らかな樹木が、乾燥したステップ地帯や鉱物塩をどっさり含んだ半砂漠でもタネから育てりゃ成長できるなんていうのはとんでもない幻想に過ぎないんだ!」
部屋の隅々を物色しながらサーシャは「ハバネラ」に合わせて鼻歌を歌っている。ベージュに近い生成りのシャツに、ムスリム帽子で短く刈った少年の髪を覆っている。東京の街角でごく当たり前に歩いていそうな子どもの顔つき。肩に吊ったカバンの中からビョレックのような油っぽい匂いとギョズレメのような粉臭い匂いが濃いチーズ臭と一緒に漏れている。
「研究や実験を重ねて導いた結論じゃないんだ!『革命とはこうなるべき!』という、党発表の聞こえの良いテーゼの応用編でしかない。」
「そうでしょうか?ルイセンコ学説がそれを裏づけ、ヤロビ農法がそれを実践しています。」
少年は教科書通りに反駁した。
「いいだろう。…だが、その結果をきみに見せよう。」
ポルタメントで搖動するカルメンのアリアに促され、私たちは宵のピロティーに歩み出た。星明りにも判る悲しい光景が展開し、眼下には舐めかけのトフィー飴を延ばしたような不毛の砂原がどこまでも続いていた。視野を水平に分かつ運河の稜線は、座礁した運搬船や転落して放置されたままの車輌の影でいびつな鋸歯形を描いている。乾燥の中で少しずつ水を滅して種子を育てれば、全ての植物は最終的に全ての環境へと対応しうるという狂気の学説は、国中の大河川や湿地帯から大量の水を無計画に運河へと導いて奪取することになり、拡散し嵩を減らした水の流れはやがて河床の塩分を吸い出した後、一斉に蒸散して消えていた。殆どの水は塩害を誘致したが灌漑には与しなかった。広大な規模で祖国を覆い尽くしたのは、緑深き森でも豊かな川の流れでも垂る穂に満ちた一面の田畑でも花咲き乱れる大草原でもなく、朝夕は厳しく凍てつき、白昼は灼熱に達する莫大な荒野や失意の沙漠地帯でしかなかった。
「自然改造計画の結末は、決して祖国の大緑化なんかじゃなかったんだ。」
「植林が緑ふかき国土をつくる…という説明を信じない子どもなど、この国には一人もいませんよ!」
「だが、ピオニールが木を植えれば植えるほど、全ての水脈は細り、土中の塩は吹き、国土は痩せる…」
今、電蓄のスピーカーの合唱が「♪気を〜つけろッ!」と、ハバネラの合いの手を叫んでいる。彼らのつけた先鞭…大植林がこの国の豊かな自然体系を大きく乱し、破壊し尽くしたのだ!
レコードの少年たちの歌う「衛兵の交代」のイメージが、「ピオニールは木を植える」のメロディーと混交する。前奏のフルートは少年吹手のホルンへと重なり、高みで食いつく彼らの歌いだしはボーイソプラノらしいピッチの粗雑さで共通していた。作曲者がジョルジュ・ビゼーの『カルメン』を援用し、表向き社会主義リアリズムの表層をまとわせた楽曲で鋼鉄の男の所業や党の政策を揶揄し続けてきたのはもはや明白である。訪れた夜気の中で恐怖の前衛たちを乗せた列車が今日も山麓の一帯に弱い白熱色の光点をちろちろとまたたかせたまま停まっているのが見えた。
「ところで、君の目当ての物は見つかった?」
彼は壁にかかっている「Сталинградцы выходят вперёд」(スターリングラード市民は前進する)と碑銘のかかったブロンズレリーフを欲しがったが、壁面にしっかり埋め込まれていて下ろすことができない。視聴室の前室の書庫の影に丸めたポスターが一枚突っ込まれていたのを引きだして見せてやると、大変気に入って、冷たくなりかけた半割れのエクメクを何本か分けてくれた。ポスターには戦闘機の飛ぶ大空をバックに模型飛行機を飛ばす白人の少年たちがロシア絵画のタッチで描かれ、「И мы будем летчиками! 」(そして、ぼくらもパイロット)とちゃちな赤いキリル文字でこれ見よがしに印刷されている。小さな男の子のシャツはサックスで、水色のズボンがあどけない。彼の肩を抱く白いブラウスに紺半ズボン姿の少年の胸には深紅のタイが結ばれていた。彼はピオニールなのだ。
「他のポスターも欲しいか?」
と尋ねると、音楽も聴けたし、話もできたから今日はこれで良いという。他にまだ何か持っていないだろうかと、ポケットの中に突っ込んであった融けかけのハルヴァをひとかけ、子どのも目前に突きつけると、彼はニコリとしながら真っ赤な唇を開けた。
「ビゼーはスペイン音楽をイメージしてハバネラのアリアを作った。スペインは、コロンブスがアメリカを発見する年まで公用語はアラビア語で日に五回アザーンの流れるムスリムの国だった。だから、ビゼーはマカームの微細分された音程の感じを出すためにポルタメントでアリアを書いた。きみは、さっき、それをとても上手に歌っていたよ。」
サーシャは起き抜けのチェブラーシカだ。目鼻口も耳も、ここでは幼い。
「小さな同志、料理が食べたい。…今度来るときは、何か肉をたのむ。」
所望すると頷くので、いとけない唇の間に固くて甘い煉菓を無理矢理押し込んだ。直方体の食べ物がカチカチと可愛い歯列に当たって音をたてる。
「『同志』じゃない。ヤー『サーシャ』だ。」
少年は三日月を倒したような両の目で笑い、もぐもぐしながら自分を愛称で呼ぶと、カバンの中からザクロジュースの真紅のペットボトルを出して飲ませてくれた。

 近隣のオアシスに取り残った人々が菓子や果物を持ってここに来るのは、「交換を通じて入手したもの」が法律上は略奪品としては扱われないからだ。自分が手を出して直接にモノをかすめ取ったり食ったりすれば窃盗だが、物々交換を経たものについては、相手が空き巣でもこちらは罪に問われない。遺棄された建物には夥しい物品が残されていて盗り放題とは言え、一帯には交換に応じてくれる相手がいないので、彼らは合法的にそれを入手できないでいる。少年は数日前から夜の人民会堂で大音響の音楽が響くのに気付いて人が居ることを知り、家人の食事の余りモノや自宅に生えている果物をカバンに携え、意を決してとぼとぼやってきたらしい。毎朝定時に侵攻してくるピオニールの植林部隊に引き換え、ムスリム帽のサーシャはいつも揚げ物や羊肉やメロンの匂いをふわりとさせながら気まぐれにやってきては雑多なガラクタ同然の品物を食べ物と交換していった。そうして最初の邂逅から1〜2週が過ぎ、私たちが互いの気性に慣れると、二人は連れ立って会堂へと舞い戻り大地を揺るがす大音量でカバレフスキーの『大祖国カンタータ』や『30の子供のためのピアノ小曲集』を聞いたり、少年宮殿の楽器室からくすねてきたクラベスや小さなグジャクをカチカチ、ギーギー、ポコポコ、ニャアニャアとデタラメに奏でながらアゼルバイジャン音楽のレコードに合わせて踊ったりがなったりした。ザクロ、葡萄。桃、メロン、スイカ、リンゴにアンズ…すっかり温まった甘い果物が、彼のカバンの中から次々と飛び出してきて私を喜ばせた。この頃になると、半砂漠の気候はさらに偏執狂的で非合理なものとなり、乾いた上空の象限には地鳴りとともに様々な構造物が浮かび上がって消去されたり、崩落してきたりして私たちを脅かした。


Димитровска пионерска организация „Септемврийче“
(Народна република България, 1965.)
1стотинка


 午睡につく僅少な昼過ぎの刻限、男の子は串焼肉の削ぎ落としにヨーグルトをかけ、チュリョクに挟んだ豪勢な食事2人前と生温いアイランの容器とを携えてやってきた。運河沿いに東進すれば煤けた清掃工場が砂山の陥没の中に横たわっており、この時刻には天井の高い涼しい貯留ピットと再生を待ちながら放棄されたガラクタ類や什器の間隙に遥かな風が渡り気持ちよく流れ眠ることができるのだった。男の子が砂まみれの白いステージに柔和な足跡を記しながらやってくると、私は赤軍防空隊通信基地の壁面から剥がして持ってきた窓枠大のプロパガンダを少年に見せた。施策の書き込まれた地図を背景に鋼鉄の男が幾千という多民族の群集を引き連れて天を指している。地図のおおよその部分には区画整理された見事なクリークが濃い緑の辺縁によって書き込まれていた。よく見ると図像の右下の隅に、私たちの目前に枯れて横たわるこの運河が豊かな水をたたえ満水状態で描かれている。

Под предводительством великого Сталина вперед к коммунизму!
(偉大なハガネの男の指導の下、共産主義に向かって!)
 
彼はその文句がたいそう気に入ったらしく、「ハガネの男」のポーズをさんざん真似しながら何度も唱えてみせた。すると、その子の野太い声に被るように今度は屋外からかまびすしいロシア語の混声合唱がキンキンと割り込んで来る。ピット入り口の流砂で斜めに埋まった搬入口から、はるかモスクの屋根が水色に覗く。アザーンの朗謡は禁じられていたので、ズフルの時刻に自動再生され、スピーカーが日ごと一帯に拡声しているのは赤軍の「インターナショナル」のテープでしかなかった。男の子が食べ物をひさいで朽ちゆくプロパガンダを集める理由を私は知らない。尋ねてもただ「楽しいから」と言いつつ赤土色の口の周りを柔和にたるませて微笑むのみだ。小さなサーシャは虚ろを凝視しながら轟音の中でコーランの大権の章末をチューリップの開花のように美しい口形でそらんじてみせた。

 告げるがよい。汝ら考えぬものか。あした汝らの水が地下に沈み去りしなば,涌き出す水を届く者は誰ぞ。

だが、ムスリム帽の少年は最早サラートの呼びかけに応じ礼拝に赴くこともその場に跪くことも無かった。

 音楽が静まると、冷たく黒く広がる貯留場のプラットフォームにぺたりと座り、私たちはようやく蒸れた午餐にありついた。薄い粗末なポリバッグの中に、ドュリュトクチュで花模様を穿った具入りのパンがたたみ込まれて2枚。少年が取り出して片方を私に分けると、それが日本で言う「いただきます」の合図になった。周囲にはたちどころに羊の肉の匂いに充ち、パス回しの要領で最初にサーシャの口のついたアイランの水筒を私は受ける。ラッパ飲みで傾けると口腔は酸味と適度な塩気の中、乳酸カルシウムの美しい席巻があり、水筒の胴をめぐる傷だらけの赤いタータンチェックのプラスチックを近目に凝視しながら私はそれを吸うように飲んだ。直射日光の入らない側辺の深海色の影の中、子どもは次に腕を伸ばして付け合わせのキュウリをくれようとする。乾涸びているものと思って齧った野菜が存外みずみずしく冷たく、逆光を背に傍らでグズグズとそれを食む少年の端正な面影が静謐なひとときを作った。すると次には一人に一つずつの小振りなトマト。赤い風船爆弾のよう。いよいよこれで副菜の最後かと、彼の目を読もうとすると、男の子はそれはそれは幸せそうな表情をしながら私たちの持っているパンと自分の顔を交互に右手で指差し、「これはボクだよ!僕はコレなんだ!」と大げさに目配せして笑った。ドネル・ケバブのスライスが弱い脂で黒翡翠のごとく光を放ち、肉の間に押し込まれた青唐辛子のピクルスがささやかに舌を刺した。ありふれたヨーグルトがトマトソースと混濁し、ケバブの塩気とともにワッと脳幹に押し寄せた。「遊牧の人々」は彼らの草原に留まり住まい続けようとする異邦人を無条件に敵と見なす。だが、一方で安寧に通過する流転の者たちを「客人」と呼び心から歓迎し手厚くもてなす。数百年の月日の先人の知恵が、こうして彼らを守ってきたのだ。かくして私は少年が「遊牧の人々」の子孫であることにようやく思いが至るのである。トマトの赤、凝乳の白、肉汁の黒に苛まれてずくずくとしたチュリョクを頬張りながら、私はついに思い至ってはたと膝をたたいた。「サーシャ」というのは「アレキサンダー」の愛称だったのである。そうして「アレキサンダー」をアラビア文字で書くと…
「サーシャ!キミの名前はイスカンダル君だね?!」
少年は大笑いだ。
「それじゃあ、僕たちが今食べたイスカンダル・ケバブは、共食いだったんだ!?」
男の子は齧って小さな歯型のついているキュウリと食べかけのケバブサンドを握り締め、ピットの床を転げまわって笑っている。笑って砂にまみれた少年の頬を摩ると柔らかそうなアンズの芳香が弱く私の鼻を衝いた。二人が食べ物を頬張りながら癲狂していると、全く突然、これを凌駕する巨大な轟音とともに付近一帯を揺るがす激震が起こった。まず、反射的に何が起こっているのかを確かめようと視線を上げ建家内を凝視し、次に砂塵をあげ床を蹴り屋外に走り出ると、不可視光線の強い屋外の陽光が東の方角からかすかに遮られていることが分かった。背後で少年が辺りの空を見回している。搬入口の鉄扉の前へおざなりに停めたガス欠気味なウリアノスクの凹んだドアの中に彼を肩口から押し込むと、ほぼ偶然で幸運なことに手動クランクの操作無しにイグニション・キーが一発で作動し(!)、私は口中の塩っぱいものを飲み下しながら車を発進させた。深緑の四角い鉄函はノッキングしながらゆるゆると処分場の前に出来た砂丘を縫い、見晴らしの良い運河の河畔に抜けた時点で落下物の座礁ポイントの見当がついた。カールスバード通りの消失点付近から膨大な砂煙が上がっている。苦しい大味なシャフト音は私たちの車輌を前方へと運んではいたが、当てにならないフュエルメーターの示針は左側に倒れており、始動前の状態と何ら変わっていなかった。


Димитровска пионерска организация „Септемврийче“
(Народна република България, 1965.)
3стотинки


 土中から吸い上げられた塩化ナトリウムの結晶が涸れた運河の両岸にプラチナ色の帯を描いて残っている。「終点!」と書かれた赤い鉄札が砂漠と荒野の境目で朽ちかけ、支持棒から脱落して立てかけられ熱風に叩かれて揺れていた。私たちが干上がった運河からさらに1キロ北上して放置されたコルホーズと元来の砂漠地帯との境目までくると、焼けた砂のオゾンの匂いはますます強くなり、船尾をいびつな形に砂地へとめり込ませ座礁したソユーズ級ほどもある巨大な航宙戦艦の黒い船影を認めることができた。昼間の月が破れかけたオブラートのごとく車窓にあがり、少年は灼熱の助手席でしばしの午睡を貪っている。砂漠の彼方にスルタンのモスクの遺跡が折れたミナレットを引き連れ、シュルレアリスム絵画のごとく突然黄土色に立ち上がっていた。散乱した複数の小さな靴跡がまだ新しく遍在する丘陵のほとりで乱暴に車を乗り捨て、サーシャを叩き起こして遺棄された用水槽の傍らを抜けると、座礁艦の船べりはますます大きく私たちのもとへと張り出してくるように感じた。そこから200メートルほど手前に三々五々の歩みを進めると、ワイシャツの背中のカラーから赤いチーフの端を除かせた夥しい数の少年たちの背中がが目に入った。散開し、難破船の近くへにじり寄ろうとする一群の中に、角のつぶれたピロトカ帽をかぶった見覚えのある年恰好の子がいる。どうやらこの小隊はユーリ少年の引き連れる植林隊であるらしかった。

 私たちが埋没したフォーラムの回廊にさしかかると、

   Оденем Родину в Леса!(祖国を緑化しよう!)

と、書かれた森林のモニュメントがつくる大小さまざまな斜めの影の間をスコップやバケツや棒切れのようなポプラの苗木を携えた少年たちが、人魚の村の住人たちのように左右へと歩みを振りながら参集しているところだった。朧げな混乱の姿を眺め、傍らの少年の体側に淡い思慕のようなものを感じていると、私はこの時間の流れが何者かによる長の侵略の物語の一断章であり、悪夢のごとき無差別攻撃の間隙に開いたひとときの心象風景であるかのような胸懐に取り憑かれた。私と可愛いサーシャの日々に現出する虚ろな壁画群と、目前に佇立するスターブレイザーの残骸との間にはもはや何の境界も認められず、私たちの目撃しているこの胸騒ぎのする幻想が2本の大判動画フィルムが投射する立体的な残像であるように思われた。あたかも二人が人民会堂のレコード室で聞いたDDR製の電子音楽の音場ように。
 記念建造物の一角で休息を兼ねた作戦会議が招集され、しかる後に木々を模した造形の立ち並ぶ回廊を抜けて少年たちの一団がこちらへとやってきた。労働者の群像彫刻の落とす若干の日陰の中で石段に腰を下ろしながらその一部始終を傍観していた私たちは、袖口でぴっちりと貝ボタンを止めたうえに二の腕の辺りを右手でしっかりと押さえつつ歩いてくるユーリ少年が、私の傍らに立つサーシャの目を意識しつつ噛み締めてきた真っ赤な唇を開き何かを依願しかけているのに気がついた。旗印のラッパは背中に回されたまま動かない。彼は跳躍の幅もあるほどの距離をとって立ち止まり、きちんと頭を垂れて
「革命と植林前衛の円滑な推進のため、シャツを交換してもらえませんか?」
と言う。
「今日は、戦闘開始のラッパが吹けそうにないようだな。」
彼は腕をまさぐって、さらにそこを隠す。腰をあげ、具合を確かめに近づこうとすると仲間の少年らが立ちふさがって目隠しした。見られたく無いほどの創痍らしい。
「キミはいったい、どんなひどい怪我をしたの?」
「僕は大丈夫です。訓練を受けています。だが、あなたがたは安全確認が済むまで、近寄らないように。」
芳しい答は返って来ない。振り返れば、既にサーシャは小さな黒い釦をボタンホールに押し込んでベージュのシャツを袖まくりをしたまま脱ぎ捨てようとしていた。

 人垣の中で更衣を済ませ、少年吹手は統率する隊員たちの意見を聞いている。簡潔な状況判断の後に即座の結論が出て、聚合の輪はふわりと融けた。中から出て来たユーリ少年が、紅領巾の端を胸元に下ろしながら辺りを見渡す白い透き通った頬で、
「船の放射線量を測定します。」
と教えてくれる。袖口は支給されたばかりのときと同じようにきれいに戻され、傷口の容態を知る由も無い。
補色調和からすっかりマルーン色の肌になったサーシャのあてがわれた白いシャツの左腕には何かで斬りつけたような切裂がぱっくりと口を開けていたが、体液の染みや汚れにあたるものは全く認められなかった。
 召還された男の子はハンガリーピオニールからの派遣隊員らしかった。胸には見慣れたキリル表記ではなく「Kodaly」とラテン文字で名前の書き抜かれたネームプレートとエムブレムが光っている。マジャル語で「前衛」と縦書きされたトリコロールのペナントの上に赤い篝火が刺繍されている。ユーリたちがゆっくりと一言二言何かを命じると、少年はバッグの中から結線マイクのようなものと「鉄人28号」も動かせそうなほど巨大なグリーンのプラスチックの筐体を取り出してゴム膜で覆われたスイッチをコツリと向こう側へ倒した。作動不良かと思われる程の長い間があって、中央に切られたカマボコ形のレベルメーターに、フッと弱く短い触れで針が動いた。測定器に記された「ゲー・ペー・5・ヴェー」という型番に白い左中指を這わすと、少年は覗き込んでいた私たちにサッと目配せするやいなや、座礁艦の方へと一目散で走り出した。
「タバリッシャ、これはルバシカのお礼です。」
ハンガリー少年の小さくなってゆく背中をながめながら吹手は腰のバッグのポケットから切手を一枚つまみ出し、サーシャの赤い掌を押し開いて乗せた。隊員の手は日盛りの時刻に在ってことのほかさらさらと冷たく、交換したシャツをしどけなく羽織ったままの少年の肩をビクリとさせた。
「ユーリ!…ここに描かれているのは、キミじゃないか?!」
深い森とラーゲリのテントをバックに、グリーンブロンドでショート・ヘアのピオニールが高らかにラッパを吹いている。3ストティンキの額面が天使の輪のように彼の頭頂にかかっていた。半ズボンの裾の高さで打ち広げ、放った掌の表情が実に美しい。ユーリは肩にかけた下げ緒をシュッと引いてラッパを前に回しマウスピースに唇をあてると、右脚を引いて切手の少年と同じポーズをとりながら笑った。彼方を行く切り込み隊員が取り舵側の船縁をのけぞるように見上げ、ガイガーカウンターを背負いなおしている。
「切手をもらっても、この国にもう手紙を出す相手なんかいないよ。」
ムスリムの少年が背後でおかしがりながら言い放った。いずこかでまた、巨大な構築物の降る深く鈍い地響きがする。少年たちは座礁船転倒の注意喚起のためか測定員に向かって大声で叫んだ。
サーシャはまだラッパを股間にぶらぶらとさせながら、カバンの中から今度は絵はがきの束をつかみ出し紐解きながら私たちの前に突き出した。一番上のカードにはモンゴロイドの少年たちが5人、写っている。私たちの感覚から言って、4人は栄養状態に鑑みて11歳の男の子たちだった。右端の子はチベット仏教系の赤い袈裟を着て頭をきれいに丸めた少年。彼は微笑んでいるが仏門なのかポーズをとっていない。その右隣へぴったり寄り添って嵌るように立っているのは8歳ぐらいのまだ幼さの残る男の子で、残りはやはりチベット系のキモノ姿で肩を組む3人の少年たちだった。どの子も驚く程安寧で幸せそうな表情をしている。彼らの境遇は僅かに違っているようにも見えたが邪気や不安とは全く無縁の相貌だった。裏返すと赤軍の大きな回送スタンプが押印されており、宛名はユーリのものらしかったが、ここではない全く知らない場所が宛先になっていた。もう一つのスタンプはАвиапочта(航空便)と赤いインクで刻印されている。繰ってみると、Abиa normaと手書きされているものやPar Avionというシールの貼られているものもたくさん混じっている。写真ハガキの被写体は、コーカソイド、ネグロイド、モンゴロイドの様々な顔かたちと年格好の少年少女たち。図案はそれを中心に、港湾や船舶、スターリン様式の建造物や公共交通、宇宙開発からサンタクロース、花や動物のぬいぐるみ、日焼けたイラストまであり、はては「すべての権力をソビエトへ!」といった写真ものも混じっていた。宛名は「ピオニール 植林部隊 ユーリくん」ということ以外はてんでばらばらで統一性を持たないように見える。一方、差出人に至っては、西から東までの社会主義共和国の数々から、周辺の条約機構加盟国に至るまで、ローマ字、アラビア文字、意味の全く解せないキリル文字の翻字文など、ありとあらゆる原語で本文とともに書き連ねられている。
「徴発で知り合った子どもたちに切手をあげて代わりにハガキを送ってもらうんだ。」
「どこに?」
「僕たちのところに。」
木を植えながら国内外を渡り歩く少年たちに、もはや固定した住所は無いのだった。遊牧民の子孫であるらしいサーシャは子どもながらにそれをよく理解しているらしい。
「『植林しているピオニールのユーリ』と書けば間違いなく僕のところに届く。パチトヴリ・インデクスも要らない。」
座礁船の麓に立つ少年が、ふわふわとネッカチーフや帽子を両手で振って、焦燥に満ちた手旗信号を送っている。送信文はマジャル語らしく、内容は支離滅裂で誰にもわからなかった。
「どうして?」
ユーリは先ず先遣隊員の様子が気になり、両手をあげてぱらぱらと勢い良く振った。左腕に鈎裂きが出来るほどの災難があったとはにわかに信じがたい。
「タバリッシュ!キミの宝物は何?」 向き直った吹手が逆に尋ねた。
「僕の宝物は何だろう?」 ムスリム帽の少年は考えあぐねた。
「サーシャの宝物はたくさんの大きな『絵』!」 私が反射的に口をはさんだ。
「たくさんの、たくさんの『絵』…大きな、大きな『絵』。ハガネの男。小さなパイロットたち。キミら植林部隊を描いた絵もある!」
「…じゃあ、僕の宝物は、こっちだ!キミの手の上に乗っかっている。小さな絵で、小さな写真かもしれないけれど。」
男の子は私の掌中のカード束を指差して言った。彼方で何かの光がチカチカと明滅している。放射能測定の少年が、今度は陽光を腕時計のガラスに反射させ、掌で遮蔽しながら作ったモールス信号を送ってよこしているのだ。隊員たちは俄かに色めき立ったが、こちらの符号もマジャル語らしく、周囲の誰も全く意味が分からない。
「キミたちがこうして絵ハガキをくれる。みんな、みんな僕の大切な記憶になっていく。僕の体の中に一生涯残る。これは、大切な大切な心の宝物なんだ。だから、キミも必ず絵ハガキを書いて送っておくれよネ。」
サーシャはすっかりしおらしくなってしまい、黙ってうなずくと自分の本名を告げ、約束を誓った。
「キミたちには、絵ハガキ以外に何も素晴らしい思い出は無いの?行進をして、ホルンを吹いて、歌を歌って、たくさんの木を植えて。国土を緑化して…」
「ピオニールが木を植えるのは、プログラムに書かれた通りの行動だ。たとえ、僕らの植林が自然体系の荒廃を招き、国土を疲弊させ、衰亡の轍を踏もうとも。たとえ片腕がもげ、高エネルギーの粒子線にさらされ、この身が滅ぼうとも。ピオニールは今日、木を植える。」
しかし、彼が言うが早いか、彼方の船舶の麓に明滅する光線の方を見ていた子どもたちがついに大声を上げて走り始めた。カウンターをかざしていた少年がふわふわと左右に肩を振ったかと思うと、機器を抱えたまま静かに砂丘の中へと沈み転倒したからだった。私はその光景にたちまち動転して総毛立ち、様子を見に行こうとダッシュしかけたサーシャの腕を掴んで握りとめると、モニュメントの回廊を駆け抜けてその場を少しでも離れようとした。
「この船は放射能除去装置を積載していない!もしくは、積んである装置はおそらく殆ど正常に作動してはいない!」
「あの子たちは?」
「心配無い!」
「サーシャたちは?」
「いいんだ!」
「良くないよ!」
「心配無いと、あの子も自分で言っていたろう?」
事態の起因を確かめもせず、私たちはウリヤノスクを乱暴な手動クランクで動かすと僅かな風下と思われる沙漠側に大きく迂回して逃走しはじめた。軋みはじめたタイヤが熱砂にかたく融け、禿頭の残り毛のように生えそぼった砂丘の束根にガタガタと乗り上げながら、遁走は続いた。退路の運行は遅々として進まず、しばらく走って「当座の危険地帯を脱出できたかもしれない…」という頃合であるにもかかわらず助手席の少年がフロントグラスごしに船の名前を読んだ。私たちを9時方向から静かにそびやかし威圧していた難破船の面舵に、船首の艦名が見える。

 Ямаmо

キリル文字でハッキリと、そう書かれていた。

 結局、私たちは砂漠地帯の南の縁を辿り涸れた内海の塩の渚へと達した。途中、よくありの「社会主義の勝利!」というアラビア語の大看板の脚で激しく車輪を擦り、ガス欠を見越して缶詰工場脇の路地からグレーのモスクヴィッチを失敬して乗り換えた。しかる後、家畜を運ぶトラックが何台も大破して道を塞ぐ、カールスバード道と運河の西の消失点の付近で私たちは再びあの植林隊の少年たちの行軍に遭遇したのだった。背中にラッパを担ぐ吹手の男の子の姿は走る車内からも容易に見いだす事はできたが、ユーリは不思議なことにイスカンダル少年と交換して羽織ったはずのベージュのシャツを着てはいなかった。助手席で光景を眺めていた男の子は、喉の奥を刺す塩化ナトリウムの結晶の匂いと海抜の高い陽光の光芒に曝されながら、浜に停めた車のシートを机代わりに絵ハガキをしたためた。3ストティンキの表示を上からカペイキに書き直し、彼はざらざらなえび茶色の舌で切手を舐めてカードの隅へ貼る。

♪С клёнами, клёнами,
 Стройными, зелёными -
 Нам расти
 И цвести,
 Землю украшая!

 楓、楓は
 美しい緑
 僕ら 伸びて咲き
 地を覆う!

 最後に私がペンをとり、漫々と水を湛えた広大な湖の写真の上へぼんやりと歌詞を書き込んだ。撮影地の説明文に「Зловещая долина(不気味の谷)」と写植されている。蒙昧な逃避行はこうして突然、静かに幕を閉じたのだった。

だれにだっておたんじょうび

March 12 [Sat], 2011, 23:37



 午後2時28分。男の子は低学年用の小さな紺ベレーをちょこんと頭にのせ、吹き抜けの球体ディスプレーをバックに設えられたタラップへと導かれた。ずらりと肩を並べた隊列最前中央左寄りの定位置に収まっている。こぢんまりしたブレスを整えつつジャケットの両脇を掌で扱き下ろして、手にかいた汗を拭ったようにも見えた。そうして彼が指揮者の投げる視線をとらえて数瞬すると、何事かが突発し、少年の顔面はくしゃくしゃと崩れて笑んだ。部隊の少年たちもクスクスと鼻息を漏らして笑いをこらえ、最後に指揮の先生の頬が横にたわんで張り出したことが背中越しにも見て取れた。「いったい、この男は子どもたちに何をしたのだろう?」と不審がっているうちに彼の両手がキーボードの方を撫でて前奏が振り出され、リクたちはいつものように颯爽とオープニング・ナンバーを歌い出す。ステージを下りた息子にこの笑いの由来を聞きただすと、彼らが開演後あまりにも厳しいオッカナい表情で歌い出そうとするときに指揮者は「ヘンガオ」をして子どもらの面持ちを解くのだという。今日はどういうわけかリクの目を見据えた集中攻撃だったため、彼は目をつむって破顔し、周囲の団員たちもその様相に釣られたらしい。私たちの客席の背後で「かわいいー!」とどよもす一団がいて、小学2年生の親としてはニンマリとおもはゆい気持ちにならなくもない。プログラムが数曲すすむとソロや演出楽器の構成で隊列は解かれ、リクは背丈の小ささから組み替わるフォーメーションの位置決めのマーカーとして最後までそこに立ち通した。全国の男の子だけの児童合唱団の多くに2年生の団員が存在し、また「小学2年生のアルト」という希有の立場が決められていることも承知している。そこそこの活躍をしている2年生アルト。華々しいスポットを浴びる2年生アルト。お兄ちゃんがアルトだから弟も…というイージーな配属でまわった2年アルト。そして、本人も周囲の者も「これは先生方の厄介払いでしょう?!」と思わず判官びいきもしたくなる2年生アルト。リクの合唱団の同期の2年アルトは「先生がたからの厄介払い」の気配を感じさせつつも、赴任10ヶ月目でディジタル・アコーディオンのボタンを華奢な指で繰ってはじいていた。ロシア民謡のレパートリーでバヤン(バイヤン)を入れる都合から、彼にオファーが来たのだという。指名理由はフランス映画に出て来るアコーディオン弾きの子役に相貌が似ているからだそうだ。営利で運営されているリクの通う少年合唱団では、子役モデル家業よろしく「身と芸」でかかるご指名や挙用はざらだ。ほどほどに歌える6年生よりはバツグンに歌える1年生へと仕事が舞い込み、ジャガイモみたいな丸刈りの5年生よりは濱田龍臣クンみたいなふわふわパーマのイケメン5年生に圧倒的なご指名はやってくる。キーボードを弾くのならそこそこの上級生団員にも引けを取らないと変な自負をもって配役を待ち構えていたリクは、バヤンというロシア楽器がキーボードの無い「ボタン・アコーディオン」であり、ボタンの配列はピアノとは全く違っているということをもちろん知らなかった。プロも使うVアコーディオンのボタンにドレミが印刷されているなんていうのも無しだ。だがしかし、ちょっとした失意の中で年度後半を過ごしたはずの息子の行動は実に意外なものだった。「アコーディオンの少年」と無二の親友になってしまったのだ。もともと予科時代を同じ部屋で過ごした彼らだが、この選抜があってから二人は急接近。どこへ行くにも、楽屋のカバン置き場さえも一緒(…らしい)。26音72ベースのプラスチックでできた電子アコーディオンが小学校低学年の彼らにとって途方もない重量になることも、ボタンアコーディオンの殆どの音には鍵釦が2つずつあっていずれを弾いても同じ音が出ることも、2年生アルトがどちらかというと諦観の中で目立たぬようにこの役をつとめていることもリクは知るようになった。舞台がハネてステージを下りてもなお、
「今日は、『ストドラ・パンパ』のところで、アルトの方からずっとキミの声が聞こえていたヨ!」
などともはや互いの健闘を讃えあう仲になっているのだ。


 曲は観客にとって突然、鮮烈に行進曲調の「あおいそらにえをかこう」へと転じ、少年たちが後背に担った巨大球形ディスプレイには紺碧の地球が浮かんだ。天体をかい巻く白い雲の渦がリアルタイム転送され流動している。彼らは足拍子をとりながらひな壇代わりの階梯のステップを踏み、指揮者の投げるサインを確認して少しずつ隊伍を組み替えて行った。訓練を受けているのか足踏みらしい足踏みの靴音はしない。小さな軽い彼らがひたひたとつま先から禁欲的なロンリウムの床を躙り、互いにぶつからぬよう留意して腕を前後に振っているのみである。役らしい役も無いはずのリクがそうして先輩方に押されるように動き、カミ手隣の少年と背中合わせのポジションで歌いはじめたので、息子の情報管理官をつとめる私は彼らの蠕動を固唾をのんで見守った。

 ♪あしたは…

「エイ!ヤァー!」

 ♪あしたは

「エイ!ヤァー!」

最初は向かって左腕。2回目に右腕。2年生はその場足踏みをしながらサルスベリの支枝のような上肢を突き上げて呼号の声を発した。全員のボリュームでは過大に響くのか、最初の2回はリクたち第1メゾ系のソプラノとアルトの子どもたち。続く2回の発声を最左翼の大きなソプラノ団員と第2メゾの子どもたちが音圧を差し引いて叫んでいる。セミプロの児童合唱団らしく、演出がシンメトリーに見えるよう留意しているのだ。リクのパートの最後列に並んだ大きな団員軍団は、最前列に生暖かい頼り無さげな肩を配した2〜3年生の動きを細かく捕捉しているにちがいない。この少年たちの任務はシンマイ団員らの後部からぶっつけ本番の指示を繰り出すため、指揮者に向けて隊列の俯瞰データを送って指令を受け取ることであり、緊急の場合は様々な手段を講じて後輩たちへ危険回避の行動を仕掛けることだと聞いている。リクは入団テストの朝にソプラノ系の6年生たちから迫真の言葉をかけてもらい、数日後、内定通知をものにした。彼らは昨春卒団してしまい、今現在団員らを従え、同じ役柄を引き継いでいるのは今年の最上級生である。顔ぶれの中で我が家のボーイソプラノ現場研修生がご執心なのは小沢シオン先輩と伊藤ミツキ先輩。シオン先輩はオー!マイキー顔で、ぴしっとアイロンのかかった紺半ズボンから真っ白いプラスチック箸のような長い脚をのぞかせてスキの無い歌を歌っている。リクの「将来の夢」はこの先輩の血のつながった弟になることらしいのだが、(『義理の弟』でオケ?…まさか!?)周囲の誰も「それは無理」と言って忠告してやることもできず、6年生は数ヶ月後に確実に卒団して彼の前から居なくなってしまう。「…お兄ちゃん。」「…リク。」と優しく名を呼び交わすような甘美な日はついぞ訪れてはくれないだろう。一方のミツキ先輩は、客席から見ても常にシオン先輩よりおよそ1メートル低い位置にスタンバイしており、事あらば下級生に直接手を伸ばし指示する役を担っていた。普段楽屋口で見る彼はゲーム近眼で眼鏡をかけているのだが、ステージの姿は裸眼以外の顔を見ない。きっと、隊列もなるべく前の方が指揮棒も見えて都合が良いのだろう。RPGゲーム経験の極めて浅い小2のリクが、DSドラクエのダンジョン攻略法を小さい子にも判りやすい口伝のマップとともにそっと耳打ちして教えてくれるミッキー先輩のことが痺れるほど好きなのも得心がゆくというものだ。

 
 彼らにとってステージは常に薄明だ。偵察衛星からサーチした朝まだき北朝鮮のごとく輪郭を持った影がそこにスカイラインを持って沈み、照りつける仮設照明の明度は子どもらの心の動きを殆ど浮かび上がらせてはくれないのだった。低学年団員の過半は指揮者とのナビゲーションのやり取りや周囲・背後に感ずる仲間の気配で「オートパイロット」にたよって飛んでいる。目的地までの彼らは目だけが冴えて蒙昧で、それなのに驚くほど目立つひな壇の最前列を占めていた。心の輝度は落とされ、絞られた音量の中でオンエア中の自分たちの歌声が籠った音のスピーカーからモニターされている。
 すると、突然、リクの背後の団員たちの視線にあからさまなアラート伝達の動きがあった。その場足踏みで身体の角度を変える度に上級生の何人かがチラチラと目で警告の意を伝えはじめている。華奢な胸郭の内側で警報音がピーピーと細く鋭利に異常を伝え、飯粒大の赤ランプが明滅を繰り返した。
「横向きのまま話をする。こちら側にブレーク!」
「身体を回すなんて余剰パワーは無いよ。失速する。」
「コリジョン・コース!コリジョン・コース!お前ら、ぶつかるぞ!」
「何だよ?!下向いてコトバで言えよ。」
「お客さんの前じゃムリ!ミッキーが囮になって集中砲火を受けろや!」
「だから、無理だってば!」
「話せないだろ!何かやれって!」
「え”〜っ?」
その時、リクの2人置いて右隣のメゾの3年生が不意にくしゃみをした。客席の目立った反応は無かったが、視線は一瞬そちらに集まった。少年たちが正面を向き小声で緊急事態を伝え終わる頃には射程圏外へ出ることができる。
「11月生まれ!誰?!」
「チャンピン君とクリちゃん」
「チャンピン君、クリちゃん、休みッ!」
彼らが歌うふりをしながら素知らぬ顔で交換できた情報はそこまでだった。品川(弟)が話し声に気付き、あからさまに後ろを振り返って見てしまう。
「前向け!前向け!」
昨秋、アルトのフロントラインから1メゾの3列目に引っぱり上げられたスーパー美少年ハルカが眉間に皺を寄せつつ小声で注意の声をかけた。初めてのお客様には何と集中力に欠けた少年合唱団だと思われた事だろう。
念入りでケナゲな短いオブリガートの後、1メゾとソプラノの切れ目にあたる最前列から、前触れも無く真っ赤な唇をピカピカ光らせた小さな団員が一人飛び出してマイクスタンドの際に立った。ピンチされた黄色いシールのワイヤレス・マイクのヘッドに向け、顎をさしあげて歌い始める。

 ♪ほしの ランプに ひがともるー
  ちいさな ちいさな ゆめー

曲中の最も可憐な愛くるしい部分を優しい嗄声で歌っていく。
「ポイント通過!あと3分以内で降下エリアに到達!」
「先生!指示をください。このままではレパートリー全体が倒潰します。」
6年生団員たちの無言のコールがついに指揮者の視線をとらえはじめる。ワンツー・どんメドレーの「あおいそらにえをかこう」はそのまま休み無く「だれにだっておたんじょうび」へと流れることになっていた。「…おたんじょうび」の演出で、サンバのリズムに乗った誕生月のコールの後、自分の生まれ月に各自が「♪ハーイ!」と元気に手を挙げて立ち上がり、思い思いのポーズをとることになっている。5月生まれのリクはウルトラマンの映画で見た「ジャンファイト!」のトレース・アクションをして見せていた。ただ、11月に生まれた団員は、夥しい少年たちが群れているはずの今年の本科生の中に実際たった2人しか居なかったのである。

 ♪あしたは

「エイ!ヤァー!」

いよいよ最後の勝どきが上がり、曲は勢いを増してコーダへの追い込みが始まった。団員らは跫音をたてぬようさらに注意しながらふとももを高くあげて腕を振り、息子は今度は低声側に向き直って声を出した。わずかに撓んで弓状になった隊列のアルト側最前線の子どもらと目が合う。リクは大好きな「アコーディオン少年」君を直視するなり、口の形で必死に何かを告げようとしている相手の形相を見て驚愕した。
「なに??」
「・・・!!」
「なに??」
「・・・!!」
2年生アルトは2回、同じメッセージを繰り返した。ピアノ伴奏がついに勢い余った後奏を奏ではじめたとたん、彼は『2001年宇宙の旅』の船載コンピュータのように戦友のメッセージを一瞬で読唇した。

「キミが11月生まれをやるんだヨ!」

楽屋代わりに減圧されたカーゴデッキの様子を息子は思い出した。入時間の関係から団員スタンバイの出足は鈍く、乾ききった冬の薄曇りの昼の博物館で落ち着く間もなく彼らは荷物収納の指示を受けた。
「クリちゃん、いるかぁ?カバンが無いぞー。」
指揮者の質問にマネージャー嬢が介入する。
「先生。欠席です。」
「そうかぁ。クリちゃんが欠席とは珍しいな。…次は、チャンピン君。どこ行ったぁ?黙ってどっかへ遊びに行くなよー!」
「先生。チャンピン君はお家から欠席のメールが来ています。」
再びスタッフが口を挟んで告げた。慌ただしい集合時間に団員の誰もこの事実を質さなかった。だが、指揮者の目前にくっついて行動することの多いリクは2人の出席者の名前を拘泥無くすぽんと記憶した。

「キミが11月生まれをやるんだヨ!」

友人のメッセージを受けるなり、ミリタリーな味付けに満ちた「あおいそらにえをかこう」は終止線を超える。最後の八分音符に合わせて少年たちは前方へと向き直り、胸を張ってバチッと敬礼をしてキメた。幼・小低学年向けの歌が少年合唱団のキリリと引き締った舞台へと華麗に変容する瞬間。教えられていることを守ってリクは「1…2…3…」と頭の中で数えて0.5秒で腕を下ろす。右目尻に当てた右手指の爪を反らせた指関節の先に感じながら、彼は指揮者に

「『だれにだっておたんじょうび』の11月の『ハーイ!』は、ボクにやらせてください!」

と目で訴えかけた。役らしい役もソロの配当もMCも無く、歌って家に帰ればクラビノーバでソナチネをさらうだけの2年生の男の子。彼は本科生としての自分の度胸をここで試してみたいと思ったらしい。だだ、指揮者は「♪11月生まれ〜」の演出担当が全員欠席であることに全く気付いていないらしかった。上級生が浮ついて何やら目配せしあいつつ伝えるメッセージや、一方で目をキラキラさせヤル気まんまん視線で何事かを訴えかけてくる眼前の2年生ソプラノを彼は無視しようとした。高声の最左翼に立つキャプテンが次の曲へ移る寸前に最優先の有事信号として繰り出した「次の曲を取りやめますか?…次の曲を取りやめませんか?」の注進を意味不明のものとして却下した。
「ウナ、アボートの判断を請う…」
「アボートの指示を請う!」
敬礼のポーズを解いたひな壇の少年たちは、ぴりぴりしながら指揮者のハンドサインを待った。次曲の落下傘部隊は開いたハッチからステージ面へ飛び降りようとしている。
「プログラム中止(アボート)の指示が下りないっ!」
彼らがステージ本番中に指揮者のアボート指令を受けるのは天変地異や事故等、類い稀なる危機的状況のときだけだ。1年に1回あるか無いかという頻度でしかない。リクが前回この指令に遭遇したのはゲリラ豪雨の野外コンサート。ただし息子はそのとき未だ団員ではなく、「来春入団テストを受ける」客席の幼稚園生の立場だった。突然降り出した土砂降りの雨に観客は全員深い屋根のある場所へと命からがら脱出し、指揮者が果たして本当にアボートのオーダーを繰り出したのかは誰も見ていない。

「コンティニュー!コンティニュー!中止が出せるのは、ステージでは先生たけだ。Goだぞ!Goだ!」
ゼロ地点を示すフラッシュライトの明滅がパチパチと極限に達し、入れ替わりにグリーンのゴーサインが点灯した。彼らはエイッ!とばかりハッチを蹴り出して、ステージ範囲ぎりぎりのフロアへと散開した。
「『♪11月生まれー!』のコールを振るのはオレたちなんだゾ!」
「声が消えたところでフッと間隙のときが来るのさ。」
「そこで確実に全てが終わる…。」
視線で合図しあっているソプラノ6年生とメゾの5年生は現在、小学生デュオの『葵と楓』にハマっている。紀尾井ホールの楽屋口から吐き出されてきた彼らが、リクたち下級生の好奇の目そっちのけで「恋のフーガ」や「カナダからの手紙」をフルコーラス延々とソレっぽくノリノリでハモっていた姿が忘れられない。つたなさも残る男の子独特の低めの声でここぞとばかりこぶしをきかせ、自慢のノドを一意専心、昭和歌謡へと献じている。見てはいけないモノを見てしまったような悪夢のごとき光景だった。彼ら、自称『葵クンと楓くん』ユニットはすなわち同級生と変わらぬ年齢の少女たちが手がけたCDの歌謡ナンバーを今、血道を上げて耳コピーで歌いまくっているらしいのだ。ショタ属性ド真ん中の歌の道がロリコン趣味で昭和オタクなんて、いやはや屈折しすぎた少年時代である。
「…一応、みんなに伝えるぞ。最前列の連中には、どうやって教えよう?」
「あいつらはいい。放っておけ。どうせ2年坊主なんかに緊急事態が判るはずも無い。」
気色ばんだ上級生たちはホンバン中、絶対触れてはいけない紺ベレーの正面クラウンをぴたりと頭頂に押しつけて帽子の中の湿気を抜き、ポージングに備えた。黒目を下に寄せ、周囲の団員へさかんに何か言おうとする者もいる。短いズボンに薄っぺらなソックスの冷たそうな下半身だが、歌い通しで動き詰めの彼らは十分に上気して頬をまだら赤に染める者さえいた。汗ばんだ下着のシャツやブレザーや革靴など、リクの普段着姿から推し測るに団員の身につけるコスチュームの総重量は決して軽微なものとは言い難い。

  
 彼らが心ここにあらずの数瞬を過ごしている間にピアニストは前触れも無くパルティードアルトのサンバのリズムをにぎやかに刻みはじめ、メゾ後列に陣取った「小林翼」似の6年が慌てて口にくわえたアピート・ホイッスルを♪ピーーーペーペペッペピーッ!と大きく吹き鳴らす。呆気なく「だれにだっておたんじょうび」の前奏が始まってしまう。楽の音がステージに満ちると、リクたち少年合唱団員は反射的に臨戦態勢へと導かれ、高い歌い出しのピッチを小さな脳幹へインプットしなおしたように見えた。

 ♪だれにだって やってくる!イェイ!

わずか3分間の曲の中に9回も登場する「イェイ!」のコールは『ワンツー・どん』の主人公どん君の決まり文句だ。15年も前に使命を終え、退役した教育番組。げっ歯類の血筋らしき愛くるしいクリーチャーが「イェーイ!どん・くん・でぇーす!」と毎週のオープニングで叫び続けた。1974年から1996年までの22年間、全国の小学校に在籍した延べ4千万人にのぼる1年生が、音楽の時間のブランウン管テレビの前で、闊達な「イェーイ!」を聞いた。1989年、番組から発表された「だれにだっておたんじょうび」全体へ符丁のようにちりばめられ、今日の子どもたちに歌われる夥しい回数の「イェーイ!」は、『ワンツー・どん』のどん君が21世紀の私たちへと残したかつてのにぎやかな小学1年生たちの蒸れるような体温の遺贈を思わせる。アンゴルモアの恐怖の大王さえ避けて通った西暦2010年代の今を生きるリクたち合唱団員の誰も既にそれを知らず、客席で聞く我々の多くも事実を穏当に失念している。彼らの「イェイ!」が何故「イェイ!」で、歌の中に頻出するイメージがなぜ「誰にだって」へ拘泥しているのか。楽譜の歌詞カードのデフォルトが、なぜ「どん君」や「おねえさん」のお誕生日と記されているのか。団員らはこの瞬間に「♪ロウソクふきけしハピバスデ〜♪イェ〜」と連桁の目の詰まった十六分音符を細かい音素で発しつつ、倍音の中で韻を踏む。彼らは歌詞の来歴にまるで不案内のまま「今」の歌を一心不乱に果敢に合唱するのみだ。帰宅後に小さなミケンに皺を寄せつつ自ら「本日の出演のダメ出し」をぶつぶつ言っているリクに「いったいこの曲のどこが難しいんだ?」と尋ねると、通団服を脱いでごく普通の小学2年生の男の子の姿に戻った息子は「…そんなの当然じゃん」的な表情でカバンのナカミをごそごそ引っ掻き回し、後片付けを続けながら、
「同じ『♪おたんじょうびー』っていうフレーズなのに、『びー』で伸ばす長さが四分音符のところと付点二分音符のところとタダの二分音符のところと、全音符プラス四分音符の5拍のところがごちゃごちゃにあって、間違えちゃイケナイから大変!」
なのだという。
「そんなの、まわりの皆に合わせて歌っとけばイイんじゃないか?」
と悪い大人の処世術を教示しようとすると、
「だからー!それじゃダメなんだよ。少年合唱っていうモノは!一人一人が1曲1曲をカンペキに歌えるようじゃないと、全員で歌った時に、結局デタラメな歌の集まりにしかならないの!まったく、コレだから最近のお父さんたちってのは…!」
ものすごい慳貪な舌打ちとともに手荒な攻撃を受ける。息子らは畢竟、合唱団のレッスン場で毎週ビシビシと先生方からご指導を受け続け、ホヤホヤの1年生団員相手に全く同じ文句を吐いてカテゴリー5級ハリケーン並みの先輩風を吹かせているに違いない。歌が1番カッコから引き返して2番になると、×音符に充てられていた「イェーイ!」は「おめでとう!」という5音節もある連写モードの言葉に差し変わり、練習場でこちらも「一拍の長さの時間で5文字の言葉を叫ぶのだから、発音はハッキリ・クッキリ・首尾よく・正しく・美しく!」などと聞き及ぶように口酸っぱく指南の声がかかっているにちがいない。普段、もにゃもにゃと話すのがデフォルトになっている今日の子どもたちにとって、曲は格好の訓練材料でもあるらしいのだ。

 ♪きょうは〜、宗ちゃんの〜 おたんじょうび〜 (おめでとう!)

色のある伴奏とともに彼らが明らかなトリオ部へのブリッジへ声をつなぎ、ソプラノ中段の端からほっそりしたアトピー気味の少年が滑り降りてきた。スタンドマイクの30センチ至近に馳せて待ち設ける。彼はマイクロホンの金属グリルに口元を寄せ、間奏のタイミングぴったりに収まる長さでセリフをまくしたてた。

「会場のお友だちは、何月生まれ?お誕生日の月が来たらボクらといっしょに、大〜きな声でお返事してネ!いくよッ!」

「おかあさんといっしょ」のひなたおさむお兄さんよろしく「会場のお友だち」に声かけしている合唱団員は、5年高声の中井宗太郎先輩だ。直前に「♪今日は、宗ちゃんの お誕生日」という歌詞が出て来たのははなはだ楽屋落ちのネタだったのだ。趣向を知っているのは団員と私たち団員保護者だけ。

 ♪さあ、1月生まれー!

心ここに在らずの上級生らを後背に封じつつ数人の団員とともに彼は「♪ハーイ!」と澄んだ声をあげ、腕を耳に付けてピンと挙手をした。ただちに合唱団が♪タ・タ・タン と、合の手に手拍子を3つ入れ、1月生まれの団員らはそれぞれ思い思いのポーズをとる。ラッパーのポーズを2つも繰り出して見せている子がアルト最前に居る。

 ♪2月生まれー!

「♪ハーイ!」と返事をしたのは4人ほど。隊列は奇数月と偶数月の進行をさり気なく明確に歌い分けている。少年たちは再び拍子を3つ手打ってときを待った。観念してしまっているらしい上級生。一点を見つめて顎の上がりかけた2年生のリク。

 ♪5月生まれー!

応じる呼号の中に男の子は含まれていなかった。心の周囲の荒野にレッドフレアが次々と打ち上がりはじめ、私たちのグラスコクピットの上部にふわんと作戦決行のシグナルが灯った。体重わずか25.2キログラム、胸の薄い小さな未成熟の身体の中のいったいどこに張り裂けんばかりの膨大な勇気を隠し持っていたのだろう!5月生まれのリクは、自分の誕生月のコールを上気した目で鋭利にパスしたのだった。周囲の誰もおそらくはそれに思い至らない。団員の多くは締念の中で歌の放棄される瞬間を思い、なげやりな演唱を続けるのみだった。
「来るぞ!」
「…知らねーよ。」
「しょせん、万年最下位の弱小少年合唱団。」
「オレのせいじゃ無いし。」
「マジ、ヤバくね?」
「こんなののどこが『天使の歌声』だよ。アホらし。」
「あぁあ〜。あんなに練習したのに、ヤッちまった…」
5〜6年団員たちの顔にそれぞれの自堕落が見て取れた。だがしかし…

 ♪11月生まれー!

 ♪はぁーい!!

これは、どういうことなのだろう?瞬間、4人の人声が高らかに響いた!…2人の6年生。見習いの2年生。大人の男声。ソプラノ上段のオー!マイキー顔の少年は、叫ぶと同時にぴしっとアイロンのかかった紺半ズボンからのびた長い脚を桃色のプラスチック箸のように染めている。彼の前方1メートルの位置にひかえたゲーム近眼のヤブニラミの団員は、右腕をピンと耳に当てながら気持ちの良い返事を発した。声をあげた男は指揮台の前で客席に振り返り、ニンマリ笑みながら軽くガッツポーズを作ってみせた。…そして、男の体格に隠れるように立つ2年生の男の子は脚を大きく踏み出して腰を落とし、ジャーンファイト!と迫真の見得を切った。団員たちは一瞬ギョッとして目を剥き、3つの拍手をしながら黒目を回して声の出所を確認しようとした。あからさまに表情を崩し、何かを言いかけようとした団員たちも。こうして演出が危急の局面を跨ぎ超えると、曲はごくありふれた幼児向けのナンバーに帰参してしまう。

 ♪きょうは おねえさんの おたんじょうび

それから80年代ふうのきっぱりとしたビーデ・コーダからリフを返し、

 ♪だれにだって おたんじょうびー …イェイ!!

と、曲を閉じる。皆は最後のシャウトに乗せ、ポン!とその場で軽くジャンプすると、足を下ろした場所で再び自分のポーズをとって3秒間のホールドをかけた。このステージに遭遇した科学館の子ども連れは大変喜んで、一緒に「イェイ!」と叫んでいる小さな女の子もいる。満ち潮のような拍手が展示ホールの仮設舞台にたった。2年生のソプラノ団員は柔和な黒曜石の目でキラキラと指揮者の顔を見ている。アコーディオンの少年は隊列のアルト側で注意深く団員側を見ないよう、客席の遥かを望景しニコニコしている。臨時の「11月生まれ」を演じた2人の上級生は、顔を伏せつつ客席に判らないようホッと胸をなで下ろす仕草をした。

   
 ステージを下りて来たリクは体中からもうもうと汗ばんだ体熱を放射しつつも肩を落とし、うつむきながら一言、
「ごめんなさい…」
と、私に頭を垂れた。小さな体が、くしゃくしゃに丸めたポリ袋のようにしなだれた。
 終演後、指揮者からはスタンドプレーのお咎めが無かった代わりに、グッジョブ的な持ち上げられ方も何も無かった。解散前、手短なミーティングで少年たちがただ一つ新知識として受け知ったのは、先生が本当に11月23日生まれということだけだったようだ。うかがい知れるいじましさに負け、我知らず私の口から慰撫の声が出た。
「リク…本当に、おめでとう!」
団員はちょっと哀れな表情をして春待ちの一歩を踏み出した。
「何が、おめでとう?嘘をついたのに、おめでとう??」
「お誕生日、おめでとう!」
「忘れたの?僕の誕生日は、5月でしょ。ごめんなさい。ステージでみんなに嘘をついたの。」
世界中の誰にだってきちんとお誕生日がやってくるとは限らない。
「違うよ。今日はステージでついに少年合唱団員、松田リクが生まれた日だよ!リクにだって、お誕生日…だよ!」
周囲の何ぴともこの会話に頓着無く、団員らはそそくさと帰途に就く。膨大な息と声とを歌唱のため吐き出した代わり、かえって身重で鈍重になった身体。汗でこってり湿ったユニフォームを収め、持ち重りのする衣装ケース。リクは結局、何を言われているのか、よくわからない。入団テストが終わり、予科の内定通知の届いた2年前の春、下校するなり母の表情を見て察した息子は玄関先で「初めまして!僕は少年合唱団の松田リクです!」と大声で叫んだそうだ。
 衣装カバンをひったくる。持ってやって、肩越しにヘンガオをしてみせる。団員はしばらく私を凝視していたが、数瞬、素敵なえくぼを浮かべ茜色の顔をくしゃくしゃ崩して笑んだ。少年合唱というモノは、一人一人が1曲1曲をカンペキに歌えるようでないと、全員で歌った時に結局デタラメな歌の集まりにしかならないのだそうだ。

Passepied  パスピエ

February 24 [Thu], 2011, 21:56


 リビングにふんわり満ちた白い光を通し、愛嬌たっぷり軽いタッチの左手のオスティナートが聞こえてくる。ポコポコ、ポコポコ、ポコポコ…柔らかい小さな指がおもちゃのゴムハンマーのようにスタッカートのついた鍵盤をたたいている。2年生の終わりの男の子の3つの指先がクラビノーバのキーボードの表層を自動織機よろしく跳ねまわる様子が伺い知れた。窓の外には冬枯れの花壇。冷え切って火星人のミイラのように痩果の蝕肢を広げたキバナコスモスを立ち枯れたままにしているのは、若いピアニストの仕業だ。「あちこちにたねをちらして、新しいなかまをふやしていく」様子が見たいのだという。彼が雑草種族の子孫繁栄に興味を持っているのは、国語の教科書の上巻でタンポポの種子散布について勉強していたからだった。夏未だき日々、合唱団の本科にパスしたばかりのボーイソプラノには日曜祭日の出演呼び出しとて今だ無く、カウチで雑誌をめくりながらコーヒーと日曜午後のWOWWOW海外ドラマをごた混ぜに楽しんでいた私の対面へと割り込んで来て、
「オンドクのシュクダイを聞いて読みチガエが3つより少なかったらサインかハンコをください。」
という。依頼の文尾がなぜ「丁寧文」なのかというと、どうやら学級担任が「こう言ってお願いするんですヨ。」とあらかじめ示したヒナガタの文言通りに毎日家族誰かの前で復唱しているということらしい。
「はい。わかりました。それでは、ゆっくり、はっきり、聞いている人の気もちを考えて音読しましょう。せつ明文は、わかりやすく。もの語文は、とう場人ぶつの気もちになって読みましょう。く読点に気をつけて読めるといいですね。」
私は『音読カード』の最下段にリソグラフで印刷された「保護者向けのヒナガタ」の文を聞く息子の気持ちを考えてゆっくり、はっきり、読んだ。句読点には、とりわけよく気をつけて…。読点は、「ウ」で、句点は「ウン」と心の中で唱える。
「それでは、読みます。」
男の子はクラスの黒板の横に掲示されている「よいしせい(よむときのしせい)」の掛図の少年の写真と同じモノゴシで、ソファーとイサム・ノグチの間隙の純白のシャギーラグの間に「バーニング・ストリート」(!)とカリグラフィー体の英語でプリントされたソックスのつま先をつっこんで立った。
「『たんぽぽのちえ』うえむら としお!」
著作権者の氏名にストレスをかけ、明快に聞かせようとするクセは、合唱団のMC指導の影響なのだろうか?
 いずれにせよ、今日現在のキバナコスモスの痩果種子の全ての先端には対になったカギ状の突起がキッチンの窓からも認視できる。我が家の花壇管理担当の幼生ホモサピエンスさまがその傍を不用意に歩いてくださらない限り、彼らの子孫繁栄の道筋は、底冷えの東京の空の下、チルド保存状態のままペンディング中であるといえた。彼は今、少年合唱団で2年生なりのそこそこのポストを拝領した<「ボーイソプラノ」現場研修生>というステータスと、<なんちゃってグレードのマユツバな「ソナチネレベル」のピアニスト>という二束のわらじをはいていて、自宅の花壇に向ける熱意も視線も足も時間もこの程度ということらしい。


 リビングのクラビノーバの永久運動にいかにもドビュッシーらしい風変わりでクールな主旋律が飛び乗って、世紀末のテクノミュージックや北欧映画のサウンドトラックの趣きだ。彼が弾きたいスピードはせいぜい「アレグレット・マ・ノン・トロッポ」ぐらいであろうと予想はつくのだが、聞こえて来る演奏のテンポは未だそれに追いついていなかった。ただ、タッチには冒頭からスタッカートとテヌートとスラーとクレッシェンドの表出がハッキリと聞き取れる。左手の執拗な音形の繰り返しは終止線のこちら側…、右手に移るものから単純なアルペジオのパターンに移行するものまで(小学2年生のカウントによれば)合計252回にものぼり、そのうちスラーのかかっているものを除くと152回、…のべ608個もの八分音符のスタッカートを指先ではじくことになるらしい。
 先週末のチャリティーコンサートの出演の帰り、男の子が通団かばんの側に突っ込んで最近肌身離さず持ち歩いている『ベルガマスク組曲』の楽譜を私たちはマックのテーブルに広げてながめた。下唇をテコの支点にしてフレンチフライを折りながら、…ページの端を食用油で汚さぬよう私は留意してそれを捲った。左手には旗のつながった連桁音符のほんの冒頭16個だけにスタッカートの記号が芥子粒のごとく打たれ、ピアノの先生が記した赤鉛筆の下線の上にフランス語らしきものが小さく印刷されている。和訳=「以下同様」…。「IV. Passepied」というタイトルのついた冒頭ページに引かれた赤線はそれ一本きりだった。ハッピーセットのガンバライドカード&シールはトレイの端に恭しく立てかけられている。息子はカードのパラメータに視線を落とし、スキャニングのときを夢想しているようだった。
 この曲のどこが面白いか?と問うと、
「ホーンテッドマンションとかに出て来そうなセンリツのところ。」
小学2年生の口をついて出た「センリツ」が、「旋律」より「戦慄」のイメージに近かったので私は笑った。十字架のくっついている黒塗りの古風な棺桶のフタがギギィーと音をたてて開こうとしている。クモの巣張った幽霊屋敷のサロンで朽ちかけたアップライト・ピアノがぼろんぼろんと奏でているおどろおどろしい動機は楽譜3ページの1段目から現れている。冨田勲ならゴシック趣味なチェンバロと夜中の口笛おじさんの響宴といった類いのアレンジだ。男の子は身の毛もよだつおぞましきその場面をニヤニヤと楽しみながら弾きまくっているのだった。だが、質問を転じて「どうしてこの曲が好きなの?」と尋ねると、
「三連符が全部カッコいいから!」
と即座に応えが返る。サンレンプの下に付いている殆どのアルペジオが「属7の和音」なのだとも教えてくれる。お化け話の大好きなごく普通の小学校低学年の子どもが、見習いピアニスト兼少年合唱団員へと華麗に転成する瞬間だった。小さい彼は初代印象派コンポーザー代表クロード・アッシル・ドビュッシーがこれ見よがしに私たちへと投げた三連符の課題を殆どセンスというか感覚で弾ききっている。「曲の中でお客さんが一番聞きたい、楽しみたい部分」を練習段階から感知してたっぷり聞かせようとする独特のスタンスは、合唱団の毎週の練習と出演を通じ手堅く身に付けられているのである。彼らはそれを楽しみにステージへと上っているらしいのだ。こういうとき、わたしたちは「いったいこの子は誰に似たのだろう?」という独特の感慨をもって息子の温かい呼気を感じてしまうのだった。


 昨年の年が明けた3学期。生活科のお正月と節分の単元を終えると、1年生の学校での日々は一挙に学年末の「6年生をおくる会」と新年度4月の「1年生をむかえる会」の出し物練習へと流れはじめたようだった。1年生の「…おくる会」の担当は「思い出のアルバム」の歌のプレゼントと全員で叫ぶカンタンな「呼びかけ」だけで、ピアノ伴奏は低学年音楽専科の先生が弾くのだという。出番らしい出番も無い少年は帰宅してから、耳コピーで覚えたらしい「いつのことだか、おもいだしてごらん…」のピラピラした前奏をクラビノーバで適当に再現して何度か歌っていたという記憶がある。3月に入ってから、兄弟学級の6年生を教室に呼んで食べる「さよなら給食」の出し物に、彼は歌やピアノではなく手品を選んだようだった。練習のウェイトは「…おくる会」から早速こちらへと移ってしまい、日曜日の午後の私のWOWWOW鑑賞タイムには、「音読カード」のチェックに合わせてデパートのオモチャ売り場で買って来たらしいハンカチロープやフラワーマジック、「不思議な新聞紙」とメインの「シルクセレナーデ」の予行演習の闖入を受けるようになった。ドーナツ盤のレコードの穴に様々な色のシルクハンカチを突っ込んで袋から引くと黒いEP盤がカラーレコードに変わる。ステージ経験がわずかにあるとは言え、小さい手の小学1年生がこんな見た目に手の込んだマジックができてしまうというのは驚きだった。どうやら団員保護者(母)が丁寧に説明書を読んで仕込んだらしい。ソファーとイサム・ノグチの狭間で試技を終えたチビ・マジシャンは、どこかの少年合唱団のようにスッと右脚を折り出してボウイングし、お辞儀をかけた。
「リク坊の持っているドーナツみたいのは何だ?」
「何か、うーん…ディスク??ですかぁー?」
数年後にはおそらく歌を歌いレコーディングなどさせてもらってナンボの生活を送る事になる(…親としては少なくともそのぐらいになってもらうよう祈っている)我が家のボーイソプラノ予科生は、それが「レコード」だということを知らなかった。「さよなら給食」で持てなされる側の6年生の知識も似たり寄ったりのものだろう。正体の判らないブツのメタモルフォーズを見せて卒業生を送り出そうというのだから小学生らしいやや乱暴な企画である。それでも彼らが学校で使う視聴覚器機はEPレコードに負けず劣らずローテクなものであることが息子の話から判明していた。児童会幹部から「6年生をおくる会」の練習用に各クラスへ配布されたカセットテープ(!?)を学級の朝の会と帰りの会で「ラジカセ」に突っ込んで再生し皆で歌うという。学校公開でリクのクラスを覗いたとき、生活科の時間にプレイボタンを押して子どもたちにタンポポの歌を歌わせていたのは、「ラジカセ係」の小太りの男の子だった。フィリップス式コンパクトカセットの需要が21世紀を10年も過ぎた今、首都圏の教育現場になおも確固として存在し続けているのは仰天である。それでも、学級の音楽活動の趨勢が「1年生をむかえる会」の練習にシフトすると、カセットテープの出番は突如として終わってしまうらしい。


 「…むかえる会」というのは、体育館で入学式が終わり新入生が教室に入る前に行われるコンパクトな歓迎アトラクション。リクの入学式のときも、前年の新2年生が「小学校って、こんなに楽しいところだよ!」というコンセプトの出し物をピッカピカの1年生全員&新入生保護者の前で披露していた。今回のメインキャストもその春に2年生へと進級するリクたち当時現役の1年坊主であり、歌ったり踊ったり演奏したりするのはカセットテープの代役ではなく他ならぬ彼ら自身であるというわけだ。学校の節分集会の日の翌日の学級の時間に早速綿密なキャスト割があって、ピアノ伴奏もボーイソプラノ独唱(?)も出来るリクは、担任の先生から事前に「どっちをやりたい?…先生は、リク君にピアノを弾いて欲しいんだけどなー」と、かなり誘導的な打診を受けていたが、結局、最終的には両方をつとめることになった。学年末の午前授業の日、下校前に体育館でひな壇を組んで公開リハーサルを行いますので、保護者の皆様もぜひおいでください!というプリントが配られ、チャックの壊れかけた「れんらくちょうぶくろ」からそれを引っぱり出して私たちに手渡しながら、リクは「『1年生をむかえる会』でボクたちが新入生に見せるのは、『小学校で1年間勉強すると、こんなに歌も合奏も呼びかけも立派に上手にできるようになります』ってことなの。でも、ホントはみんな、最初からできるんだけどネ。」と、苦笑いするような表情を見せた。子役、子供モデル、キッズ・ダンサー、バレリーナ&バレリーノ、そしてバイオリニストやピアニストやドラマーやリクのような児童合唱団員などの子どもミュージシャン…と、学区の地域がら、芸能関係の様々な仕事に携わる少年少女たちを大量に抱える学年の子どもたちは、入学してから半年も経ないうちに妖しげな頭角を現し、秋の学習発表会のステージでは、音楽発表と劇発表の両方で5〜6年生のそこそこの出来のステージを完全に食ってしまった。生活科の単元関連でご招待した地域の老人会のお年寄りたちを感動のあまり号泣させてしまったり、合奏に客席の手拍子がついてしまったりと、目立ちまくること限りない。
 「1年生をむかえる会」の保護者向け公開リハーサル。冒頭のMCは、

「1年生のみなさん!ご入学、おめでとうございます!」

という文言。最初から最後までホンバン通りの進行であるらしい。マイクスタンドの前に立つMC児童の姿がいかにも手慣れていてプロっぽい。彼女はけっこう名の知れた児童劇団に所属している子役さんだと後から聞いて知った。絶妙のタイミングで1年生用の帽子をかぶり、黄色いカバーのついたランドセルを背負う新入生役の子どもが数名現れ、
「これから、学校の1年間を紹介するヨッ!」
と叫ぶのをきっかけに、バックの合奏チームが「1ねんせいになったら」を演奏開始だ。新入生に扮していたのは新2年生ダンサーたちで、ランドセルのCMばりにそれぞれが得意とするダンシングやパ・ド・ドゥをフロア上で所狭しと展開する意味不明のオープニングに私たちはいささか度肝を抜かれた。その後、ペープサートやスタンツで年間の行事を紹介するミニマムな流れがあって、ラストに「宇宙戦艦ヤマト」のテーマをガーッと波動砲のごとく合奏しておしまい。リクはスタンツで「夏休み」紹介のチームに入り、ダイソーの造花をからませたアサガオの植木鉢(担任の先生が教材屋さんからもらったサンプルの残り…だそうです)を抱え、アカペラで「♪海はひろいな、おおきいな つきはのぼるし ひがしずむ」と1番のみソロで歌うという役。当方で用意した衣装は前ボタンのタンクトップシャツにヨット柄の5分丈パンツにストロー・ハット(これじゃ、まるでONE PIECEのルフィーである!?)。構成台本の企画としては、海の日が来ると夏休みが始まるからという発想の選曲とのこと。当時、未だ合唱団の予科課程にいた彼が、それでもソレっぽいファルセットで歌うのを聞いて私たちは「ピアノだけじゃなくて、歌もやらせておいて良カッタ」と自分らの判断を疑いも無く納得させてしまう超・親バカのこんこんちきぶりなのであった。
「ソロなんだから、あすこはもうちょっと声量出さなきゃイカんでしょう??」
「…うん。何か、キンチョー。お父さんたち来てんだもん。ビビっちゃって…。」
「来月には合唱団の本科に上進するんだから、ビビってる場合じゃないっショ??」
「…うん。それは、ワカってんですけどぉ。」
ヨワイ満6歳の男の子にそんな要求をするのは、いくら何でも私の方が間違っている。ただひたすら「緊張してたの?皆には判らなかったよ。上手に良く歌えていたよ。」と褒めてやるべきだ。合奏「宇宙戦艦ヤマト」には、オリジナルでお姉さんが鳴くボカリーズの類いのフレーズなどは最初から当然付与されているわけもなく、ボーイソプラノの出番は皆無。某Y音楽教室に通っている子たちがステージア・ミニとデュアル・キーボードの担当にまわると、リクには一番指名でピアニストの役がまわってきた。学年にはピアノの弾ける子どもは何人もいるはずなのだが、新入生の親向けには「黒光りのするグランドピアノの前でカッコよく演奏するには、男の子の方がインパクトがあるにちがいない」という先生方の姑息な読みがあるらしい。かくして我が息子は「ファルセットで歌う男の子」プラス「グランドピアノを弾きこなす男の子」と、ほとんどハッタリじみた見せ駒チックな要素からキャスティング動員され、ちょっぴり危なっかしい鍵盤ハーモニカのパートの子どもたちの様子を見い見い、子ども指揮者のタクトをそれっぽく注視しながら演奏を終えた。合唱団で予科生なりに「客席の反応」というものを理解しはじめていたリクは、4月頭の「1年生をむかえる会」本番を終えて帰宅し、「何か、けっこう楽しかった。」と感想をもらしていた。


 あれから1年が過ぎようとする日々。リクたち小学2年生主体の本科1年は、善意のお客様がたやお茶目で手強い先生方や硬軟双方の様々な攻勢を仕掛けてくる先輩ボーイソプラノたちに支えられながら、ステージメンバーとしての地位を確実に築き上げて来た。七五三の記念撮影のようだった合唱団のステージ衣装は、仕事着として着たおざれ、見た目は小さいながら十分サマになってすっきりした印象を受ける。ヤングOBらは新参者のリクたちを頭の先から踵の先まで徹頭徹尾さし固め、コンサート開幕直前まで徹底的に面倒をみてくれるという。
 科学館の午後のアトラクションに出演するため、のんびりと出かけて行くリクは、朝食を食べて歯を磨き、電子ピアノの前に座って結局30分近くもパスピエの練習をした。母に言われている通り、マスターボリュームをわずかに絞り、ヘッドホンをかけていないために、リビングやキッチンに練習音が届く。中間部の後半に出て来る、彼が「兵隊さん人形の行進」と呼んでいる部分を何度もやり直ししてさらっている。スタッカートとテヌートとスフォルツァンドとマルカートが交互に錯綜して右手に配される全ての音符を飾り、フレーズの中で調が変わるらしく、夥しい数のナチュラル記号を眼力トレーニングのように注意深く見分けながら彼はその部分を繰り返しているのだった。目の詰まったあまり弾きやすいとは思えない位置に鳴る近代的な和声を矮小な指は押さえ、ナチュラルの見落としや黒鍵の混同で男の子は未だに欠缺を払拭できないでいる。やがてしばらくして彼は母の出したリンゴジュースを舐めるようにわずかにすすって飲み、用意されてあった重そうな衣装カバンをぶる提げて出かけて行った。
「お父さん、行ってまいります。」「お母さん、行ってまいります。」
いつの間に着替えた通団服のシャツの襟をもう体温で湿らせて、出がけ、私たちに頭を下げ少年は勝負への一歩を踏み出す。「音読カード」のチェック依頼同様、挨拶は合唱団の指導によるものらしい。「子どもが仕事で外出したかどうかを保護者はきちんと認識しておいてもらいたい」というところなのだとは思うのだが、「通団服を着て玄関を出た後のことは全てこちらで責任を持ちます」というこの少年合唱団の指導方針がよく感じられる頼もしさでもある。リクは私が平日休で家にいても、学校やピアノに行くときは母にだけカンタンに「行ってきまーす」と声をかけるのみで、父親には何も言っていかないのである。
 母はさすがに時代劇のごとく火打石を打って切り火で息子を送り出すことまではしなくとも、出演内容に合った言葉をかけてやっている。「先生方のおっしゃることをよく聞いて」「先輩方について歌えば大丈夫だからね」「緊張するって、素晴らしい事!」「昨日と同じプログラムだと思ってテキトーに歌ったら必ず失敗する!」「楽屋に着いたらこっそりカバンの中の蒸しパンとジュースを飲みなさい。欠食ボーイソプラノの歌を聞かされるお客様がかわいそう。」「おじいちゃんが必ず守ってくれてる。あなたのこと、大好きだったんだから。そのかわり、終わったら忘れずにきちんと天国にお礼を言うのよ。」「君子危うきに近寄らず!」「玄関の鏡よ鏡!まだまだ練習はたくさん必要かもしれないけれど、日本で一番かっこいいボーイソプラノの少年の名前を教えなさい!…はい。それは、こちらにおいでの松田リク様です!…というワケだから!車に気をつけて!行ってらっしゃーい!」
「白雪姫」の悪いママハハの自作自演まで繰り広げる団員「母」のオダテにリクは顔を赤らめて踵を返す。そうして玄関のたたきに踵から揃えられていた通団用の黒い小さなHARUTAのローファーがそこから消えてしまうと、家の中の温度が明らかに1〜2度も沈降したように感じた。


 日曜日の窓の外には冬枯れの花壇。冷え切って火星人のミイラのように痩果の蝕肢を広げたキバナコスモスが立ち枯れたまま冷たい風に吹かれ揺れている。電子ピアノのスイッチを入れ、再生ボタンを押してオートプレーをかけると、ポコポコ、ポコポコ、ポコポコ…柔らかな小さい指が鍵盤をたたく真面目な顔して愛嬌たっぷりのオスティナートが聞こえてきた。2年生の終わりの男の子の3つの指先がキーボードの表層を自動織機よろしく跳ねまわる様子がリビングの音場へと鮮やかに再現されてきた。曲目を告げる品物はもはや室内に無く、男の子は合唱団の通団バッグに今日も楽譜を押し込んで出かけていったに違いない。

「リク坊…。パスピエって、何だ?」
「パスピエ…って、何か…昔の踊りだって。」
「踊りって、どんな踊り?」
「知らない。」
「じゃあ、ベルガマスク組曲のベルガマスクって、何だ?」
「花粉症によく効くマスク。…じゃなくて、曲つくった人もよくわかってなかったみたい...って、先生が言ってたよ。」
「…ベルガ・マスク?」
「何か、読んでた詩の中に出てくるベルガマスクって言葉のフンイキがカッコ良かったんで自分の組曲の題名に付けたらしい。」
「へぇ〜。」
男の子は今日も「終演のお迎え」の母にハッピーセットをねだるのだろうか。タイトルは「思いつき」かもしれないがベルガマスク組曲もパスピエも折り詰め弁当のようにぴっちりとひなびた教会旋法や東洋の音階が箱いっぱい収まっている。くつくつと煮込んだお醤油色のおかずを息子はお箸で上手につまみあげて私たちに見せびらかし、結局最後はパクッ!と乳歯ばかりの口の中に放り込んでおいしそうに食べてしまう。ドリア旋法、ミクソリディア旋法、エオリア旋法、ガムラン、全三音、アラビアの音楽に梵鐘。演奏家の居ないリビングのピアノから流れてくるのはチャーミングな分散和音をペダルでゴーンとサスティンさせたダンパー音。リクが特に注意深く、美しく響かせようと腐心しながら弾いているのは頻出する長2度で鳴る全音符たち。曲はやがて「沈める寺」の冥海を思わせる神秘的なカデンツァから浮上して、ピアニッシモでオクターブ・ワンセットの上をまたぐ(小さい手の彼はそれを素早いアルペジオで弾いている)八分音符を3つ、吐息のようについて終える。この子はいったい私たちの誰に似たのだろう?合唱団のほこる「日本一のボーイアルト:パート2」のアオケン先輩のご両親は、こんな真面目で優秀な子が私たちから生まれるはずは無い…「お前は神様からお預かりして育てている大切な子」と家族全員本気で信じアオケン少年に言い聞かせているらしい。リクにそれを言っても「ボク、お母さんの顔にソックリじゃん。子どもだましのギャグ言わないでよ。」と遺伝生物学じみていて素っ気も無い。楽器は再びグリーンのユーザーランプを点したまま沈黙し、2年生の<なんちゃってソナチネレベル>のピアニストの気配はいよいよ我が家から遠ざかった。合唱団のステージ…「あおいそらにえをかこう」でエイ!ヤァー!と右の拳を振り上げ、「だれにだっておたんじょうび」の5月生まれのコールでハーイ!と立ち上がるなり心許ない「ジャンファイト!」ポーズをキメる少年合唱団員の嗅ぎ慣れた体臭が、碧落からシャギーラグとイサムノグチのテーブルの間に還流してたった。注視すると、ほわほわ真っ白な絨毯の毛足を押し、薄っぺらなホチキス製本のブックレットが1冊投げ出されヘタッている。エンピツ黒鉛に汚れたページの角がばらけ、拾い上げてみると「ぶんけい*くりかえし漢字ドリル 2年3学期(光)」と撫子色の表紙にある。折りぐせのついたページの末尾に、パステルカラーの筆順の上をなぞって書いた「家」という漢字が、途中まで楽しげに練習され、持ち主の帰宅を静かに待っていた。

涙の乗車券 Ticket to ride

January 04 [Tue], 2011, 22:28


 制服を着ていない少年合唱団員は、ボーイソプラノやボーイアルトが他人より少しだけキレイに出せるというだけの普通の小学生男子に過ぎない。ところが、彼らがベレーとタイをつけ、半ズボンから剥き出しの膝小僧へ向けてソックスをズリズリと引きあげた途端、前触れも無くチームへと一閃で止揚されてしまう。この記号論的大転回のからくりは本人たちにも指揮者にも、ましてや団員保護者たちにも皆目見当がつかない。そして恐ろしいことに歌っているあいだ中、一人一人は間違いなく暗いクレバスの深淵で孤独にさらされているというのに、揃いの衣装に袖を通した瞬間、彼らの「チーム」が強固に厳然と立ちあがるさまはきわめてアイロニカルな現象ともとれる。5年生アルトがこうして、ブレザーのパッチポケットにお守り代わりのMC原稿のメモを静かに差し入れ、ビスケットのまじないのように右の掌でそこをぱんぱんと叩くと襟元の隙間からワイシャツに染みたダウニー・アーモンドクリームの匂いがフンとたった。11月は「クリスマスツリー点灯式」の季節。夕刻の野外・半屋外・ショッピングセンターやデパート、ホテルのロビー…いずれにせよ彼らの立ち位置がまばゆいボーダーライトに照らされた心地良いコンサートホールのステージになることは今後も決して無いだろう。
「本日は、素晴らしいツリー・イルミネーションにぴったりな曲をお届け致します!ひとあし早いクリスマスの夕べ…。どうぞ最後まで、僕たちの歌をごゆっくりとお聞きください!」
ポケットにしのばせた彼の原稿メモには大人の字でそうしたためられている。マチネの回のアナウンスで「夕べ」という語彙を抜かすよう、青い蛍光ペンの傍線が引かれていた。仰臥した送迎デッキを乗り越えてやってくる海陸風に汐の匂いは無く、ここが貨客船の乗り場であることを示すものは大仰な表示とモニュメントを除いて何も見いだせなかった。速度制限のため、湾内に進入してもうじりじりと数時間の航行を続けるフラッグシップがデッキの下部構造や貨物トラックの隙から垣間見える。純白のAデッキの手すりに閑を持て余した船客が鈴なりになって流れ行く都市の景観を眺めていた。
「アオケン君。『チケット』の用意は出来たか?」
「いいえ。揃ってないです。」
「誰だ?」
「品川(兄)君がバチ探してます。」
「何だかんだ理由をつけて引き延ばそうとするよなぁ…ソロの連中は。そんなに難しいか?」
「難しいことは無いんですけど…」
「合唱編曲したところで、しょせんシャウトはシャウトだから。児童合唱曲や文部省唱歌とは勝手が違う。尻込みってヤツだ。」
「先生、ボクたちがカウンターカルチャーを歌うなんて、どだいムリなのかもしれません。しょせん小学生男子なんですから。」
「…な、なにぃ?!」
少年合唱団の11月。出演の半分は「クリスマスツリー点灯式」のタグイだが、12月26日以降、冬休みから翌春までの演目の練習が、バックグランドで静かに潜航している。リハーサル前後の空隙の「待ち時間」を使い、鬼さえ笑う来年のコンサートのレパートリーがコマギレにされ執拗にさらわれていた。
「そろそろ『チケット』と『スカボロー』を仕上げておかないと大変だぞ。そもそも去年に比べてメンツが足りないんだから。」
…『チケット』はレノン&マッカートニーの『涙の乗車券』のことで、『スカボロー』はサイモン&ガーファンクルの『スカボロー・フェア』。昨春の団員募集に思ったほどの応募者は集まらず、合唱団は途中入団はおろか夏休み前に比較的まとまった人数で中途退団を出した。
「先生、途中で合唱団をやめるのは団規違反じゃないんですか?」
「違反なんだよ。でも、どうする?退団処分にでもするか?」
90年代の失われた10年とそれ以後、日本中に展開する女人禁制の児童合唱団はどこも慢性的な団員不足にあえぎ続けた。辛酸を舐め、苦闘を強いられ続けてきた合唱団はザラにある。成長期の研鑽に誘惑の多い小学生の男の子を一定数以上確保し続けるということは、もはや21世紀の日本に生きる私たちにとって困難の極みと言わざるを得ない。上級生は自分の抜けてきたアルトの隊列最前で早くも集中を失い、ズボンのオシリで控室の床を拭き始めた2年生の姿をチラリと盗み見た。
「アレをトイレに連れてってやれ。必ずアルト5人以上で行けよ。場所は判るか?」
「切符売り場の奥のコインロッカーの前?…ですよね。」
「やけに記憶力がイイなぁ。どうりで英語の歌詞もよく覚えてるワケだ。」


 客船の切符売り場は21世紀の今も窓口の手売りなのだった。たくさんの人が郵便局にあるような記入台に白や黄色や橙色や空色の申請書類を広げ、ちびたエンピツを走らせて何かを書きつけていた。
「何であんなに怖い顔して歌ってるんだよ。お客さん悲しむよ。」
トイレへの道行き、歩きながら2年アルトに言った。誰が使うというのだろう。記入台の中にはローカウンターのように低い、赤いチェックのテーブルクロスのかかった机もあった。
「キミが歌うのを見にくるお客さんがいっぱいいるんだよ。」…つまらなそうな表情で歌う下級生を何故守ろうというのだろう。
「おまえはいつか歌もカオも日本一のボーイアルトになるんだ。僕たちの自慢の後輩サ。キミがお客さんに好かれて人気者になるのは、僕たちも嬉しい。」
 低学年で低声部配属というのは実力と才能の「証し」だが、本人も卑近の団員も誰もそう思っていない。生意気な口をきく態度の悪い2年生は、「集中力に欠ける」という理由からアルトに落とされたというのがおおかたの見解だ。「僕は先生から懲らしめのために意地悪でアルトにされたんだ。」と本人も思っている。もともとボーイアルトにあこがれて少年合唱を志したアオケン少年にはその気持ちが殆ど全く理解できなかった。
「ソプラノなんてアルトの上にのっかって歌ってるだけのショボいパートなんだよ。普通のシロートの子だってカンタンになれる。」
「それで僕に優しくしてくれんですか?」
2年生は、くちくちとフォーマル革靴のつま先で周囲の低声の団員の靴のかかとを突き始めた。
「あと3年経ったら、俺たち合唱団のアルトを率いるのは君なんだよ。」
「…ぼく?」
「他に誰がいるの?」
「…リク君とか?」
「リク君、1メゾでしょ?3年ぐらいたったら、キミがこの少年合唱団のアルトのキャプテンになるんだヨ。何てったって、2年生のアルトっていうのは今はキミ一人しかいないんだから。」
「何で、ほかの2年はみんなソプラノか1メゾなのに、僕だけアルトなんでしょう?」
「キミは自分の声を聞いたこと無いでしょ?」
「ありますよ。オバチャンみたく、イヤーな声ぇ。大嫌い!ハズかしいから、あんまり聞きたくない。」
「イヤな声?!そんなこと、誰が言ったの?言った奴、僕がぶん殴ってやる!耳も心もねじくれててオカしい!キミみたいな声を『生まれつきの純正ボーイアルト』って言うんだ。この先輩がもし先生でも、たぶん100%キミをアルトにする。先生は意地悪してるわけじゃないよ。」
増長を警戒したのか、彼は下級生の耳の確かさや声の統御力について褒めるのをやめておいた。
「本科に入ってから、どんどん声が小さくなって、注意散漫な歌い方になってきてる。残念。」
「だって、先生が絶対にガナるなって言うんですよ。」
「ガナるのと、声量豊かに歌うっていうのは全然違うよ?出せるんだからきちんとした発声で歌わなきゃ!水戸黄門閉めて、お相撲さんの姿勢を守って歌わないからガナりもするし、声量も出ない。声量も出ないからつまらないし気が散ってばっかり。後ろから見たらバレバレだよ。」
「バレバレだぁ?」
「バレバレさ!キミは4年後には間違いなく日本一のボーイアルトになるんだ。そんな子が、今、ツマラなそうな顔して歌う2年坊主なんてアリエナい。」
「…そんなコト、♪マイ・ベイビー、知ったこっちゃないサ!…ですよ。」

便器の前に立ちながら、アルトの少年たちは雑談を交わしている。
「お父さんが小学生の頃って、半ズボンのときはココから出してシャーってやってたんだってさ。」
カシドス・ズボンのごわりとしたスソを少しだけまくり上げて彼は下着を見せた。
「えー?どうやってココから出すのー?まじわかんねぇ。」
「うー。なんかエッチ…っぽくなぃ?」
いずれにせよ大人に比べ、少年たちの「男のリラックスタイム」は瞬時にして終わることになる。彼らの直近のタイル壁に貼られた白いアクリルのプレートには、

 便器洗浄水に
 つき止めない
 でください。

という文言がエンボスされていた。5年アルトは「トイレの水を、つき止める?」というのは、どういう行為を指すのだろうと、ズボンのチャックを上げる刹那、考えた。


 合唱団の『涙の乗車券』には演出代わりに2つの団員パーカッションが用いられている。品川兄弟の弟がタンブリンを叩き、高価で若干の演奏テクニックを要するコルグのウェーブ・ドラムを美声の兄が担当していた。実の兄弟同士を「MC」や「ソロのかけあい」「演出のチーム」のキャスティングへ動員することを指導者たちは好む。保護者の監督下で律儀に自宅練習してくる兄弟団員は予想以上に多く、観客は息の合った彼らの演技や歌声を楽しむことができた。また、兄が変声・卒団してしまうときにも簡単な引継ぎで弟が役を継承してくれたりもする。男の子の合唱団員の場合、殆どの確率でお兄ちゃんは「しっかり者」で、弟くんは「ちゃっかり者」というのが通り相場だが、ステージに上がれる年限が最長5年ぽっちという短命集団の中で、その利便性はとりわけ魅力だった。品川(兄)がごちゃごちゃした自身の通団バッグの中から無撚糸タオルに巻かれた一対のスティックを抜き出すと、ズボンの腰に天地逆さにぎゅっと突っ込んだまま、いびつな形に凹んだひかがみの膝を寄せてしゃがみ、スネアスタンドの高さを革靴のソールの分だけ少しだけあげて微調整をかけた。マネージャー嬢が台の安定を両手で押し下げて確かめ、キャリーバッグの中から直径30センチ強の白っぽい「お掃除ロボット」そっくりの機械を恭しく取り出してピンチした。シンプルで無駄の無い意匠の電子楽器だが、重量はコンビニに並んでいるミネラルウォーターの一番大きなペットボトル1本分とのことだった。血液型B型の弟がACアダプターのコードを引っぱってきて慣れた手つきでドラムの脇のへそに突っ込むと、スイッチボタンを押し込んでプログラム表示の赤いLEDを静かに点灯させる。兄が腰のスティックを大工の曲尺のように慣れた手つきで引き抜くと、フレンチグリップで握ってリムの近くを弱くロールで試し打ちした、…が、乾いた音しか出なかった。彼らは習慣から楽器をわらうときにボリュームを絞って収納するようにしていたし、だいいち機械は未だアンプに接続されていなかったのである。
「アオケン君。ムリを承知でアンコールの『未知という名の船に乗り』を『涙の乗車券』に差し替えるぞ!ここまで追い込んでやりゃぁ、さすがの君たちもエンジンかかるってもんだろう?1回だけビシっとキメてホンバンに行こう!」
半野外に開いた少年たちのスタンバイスペースから、後期ポストモダニズムふうな方形屋根の展望塔が見える。少年たちはこの齢で舞台経験から既に「むちゃ振り」というボキャブラリーを知っていて、カンネンした。品川(弟)がタンブリンのフレームを握って傾け、簡単に叩いて試し打ちを終える。白木でシングルのモンキータンブリン。律儀に母指球へと打ち付けて鳴らしているのは、児童合唱団らしい質朴さを狙ったスタイルだが、皮が張られていないないために小さなシンバルの音だけが金属的に響いていた。

 アオケン少年は2度目のトイレ休憩の指示が下りるなり意を決して通団バッグからアンブロのサイフを抜き出してズボンの左ポケットに素早く忍ばせた。
「必ず5人以上で行きなさい。トイレの場所は判っているか?」
デジャブのような指揮者の注意もそこそこに、少年たちは濃紺のイイカゲンでバラバラな列の呈も無い一団を連ねて男女マークのサインの下へと吸い込まれて行った。微かに生臭い滑り止めのフロアタイルの部屋に待合室独特の天井高のアールが広がって、窓口が明るくカウンターテーブルを繰り出して並んでいた。前を行くメゾの5年生が先ず立ち止まり、わざわざそこで言葉を切りながら、
「おみやげに、島唐辛子を買うから、先に行っちゃってて。」
と悪びれもせず振り返りざまに言った。集団行動に反する。トイレ休憩はトイレに行くための休憩で、お買い物タイムではない。だが高学年の団員たちは「他人に迷惑をかけないなら」の逸脱行動をはばかりなく頻繁に強行した。『特産コーナー』のドアに吸い込まれて行く団員の後ろ姿を見届けた少年が、先ずはじめに記入台のポケットから抜き出したのは「島嶼在住者・島嶼出身学生割引申込書」というタイトルの白いA6大の用紙だった。漢字検定3級の腕前を持つ小学生は「与」の旧字体までは知らなかったが「島嶼」という熟語の読み方も意味もきちんと理解していた。住所氏名を書き、学生証番号を記入する段になって「確認書類:在島証明書・学生証・その他」というチェック欄の存在に気付いた。公立の小学校の子どもたちに「学生証」というものが発行されているのかを彼は知らなかった。合唱団の出演時に携行しているのはパウチされた団員証の方だけだった。団員証番号の最初の二桁は入団年度の西暦で、次の三桁は「入団テストで合格したグループの五十音順」だと聞いている。近年の合格者数を見るかぎり三桁も必要なのか、疑問だと保護者OGたちもOBたちも苦笑しながら現役団員のIDをながめた。いずれにせよ男の子は諦め、用紙を横半裁に折って胸ポケットの底へと無造作に押し込みつつ、窓口の周囲にかかげられた目的地の地図と料金表を眺めた。動物的な直感から目的地を最遠の航路から2番目に位置する島に定めてアクリルパネルの写真を見る。ゆるい抹茶プリンを皿に伏せたような、建造物一つ見いだせない深緑の島影が緘黙のまま彼にゴーサインを送っていた。案内所の電光掲示板にも発券窓口のLED表示にも「条件付」のサインがひっそりと点灯してはいたのだが、東京生まれの11歳の男の子に「条件付」という字面の意味は理解できても、これが彼の航海にいかな困難をもたらすことになるのかということまでは思い至らなかった。


 客船ターミナルは瑠璃色の世界だ。コンサートの客上げで友だちになった海洋少年団員に教えてもらった手旗信号を、デッキの上で貨物船に向けて振り出すメゾソプラノの子どもたちがいる。右手には紺ベレー。左手には何も持っていない。左右の運動機能の統合がまるでとれていない貧弱なラジオ体操にしか見えなかった。
「何ていうコトバを送っているの?」
「…英語で、『助けて!』」
これでは誰も救援に来ないだろう。真剣な表情ではあったが、合唱団の通団服を来た縦寸140センチメートル前後の4人の木偶の坊だ。彼らのてんで出鱈目な細い腕に声をかけたのはマネージャー嬢だった。
「戻りなさい!先生が、1回流してさらいましょう…って。ねえ、キミたち…帽子のツバを握って振り回すのは、あんまり良く無いんじゃないかな?」

 出演のために都内各所へ一人で出かけてゆく物怖じ皆無の態度で5年アルトが乗船券の出札を受けようとすると、さすがに窓口係から宿泊場所の質問を受けた。
「従兄弟の家にお泊まりするんです。」
夏休みのシーズンでもない不自然さと遊び着には見えない身なりのまま、彼は一人旅の少年を装った。往復にかかる運賃は、所持金額のほとんどぎりぎりにあたるほど高額なものになる。料金表のボードに「こども(小学生)は半額となります」という但し書きが添えられていて、明記されている片道大人料金が今回の旅の往復運賃になることを聡明な彼は得心した。Suicaのチャージ額が底をつきそうになって持たされていた高額紙幣が一枚と、コインケースの重量を少しだけ重くしている硬貨が数枚。最下のすし詰めの2等船室…真夜中に機関室直上のEデッキ。選択の余地は無かった。

 切符の端にミシン目で繋がったオレンジ色の乗船票へ住所氏名と電話番号は正直に書き込み、乗船目的は意味ありげな「その他」「宿泊」に印を打った。船客たちが記入台で何かを書いていたのはこれだった。記入した乗船票は乗り場で改札され、残った切符も下船時に回収されることを子ども相手の窓口職員は丁寧にゆっくりと説明した。彼がそうして大切なチケットを旅立ちまでの数時間の保管のために二つ折りにしてアンブロのサイフに差し入れていると、2年アルトが一人、目前を横切った。
「一人で行動するなよ!みんなと一緒に帰って来いってば!」
注意する上級生の左掌にエナメルの黒い子ども用サイフが握られているのを一瞥して下級生が言葉を返した。
「一人で行動するなよ!先輩だって、みんなと一緒に帰えれってば!」
映画『幸せはシャンソニア劇場から』に出て来る男の子に似てない?!…と団員ママたちは出演終了後の2年アルトを前に先週のマチネの楽屋口から大盛り上がりだった。「似てない?」「出てない?(出演しているのではないか?)」「見た事あるよ!」は保護者たちの格好の話題なのである。
「アンビ君が少年野球のブログに載ってたよー!野球やってんのかね?」
「えー?アンビ君、体育会系に見えないんだけどなー。ボーイアルトひとすじの草食系ややポチャ男子というカンジなんですけどねぇ。」
「ウチのメゾ2号機が、学校のパソコンでブログ発見してきたんだー…写真だけなんだけどね」
「どんな?」
「だから、ややポチャよ。色の飛んだオレンジ色のツバのキナリの野球帽かぶってて、ツバがこう、前で上にパキって折れちゃってんだよね。いかにもって感じで。」
「オシャレなアンビちゃんらしくないなぁ。」
「でも、顔は確かにアンビちゃんなんだよ。イイ感じに日焼けしちゃってて、肩口にミズノのシールがついてる白い半袖の練習用Tシャツをちょうどいい感じに着ていて、グローブはめて、膝に両手を当てて、首に青筋立てて声出ししてる。」
「そのイメージはアンビちゃんらしいわ。他に情報源は?」
「…他に?練習パンツの膝のところがすり切れて抜けちゃってるんだわ。膝の穴からアンダーソックスが見えてたりする。」
「ストッキングはいてないんだ?」
「練習着だもの。いきなりアンダーソックスなんだよ。あれは膝にパッド付けてやんなきゃ。でもグローブもシューズもしっかり使って手入れがしてあるって感じだったなー。グラブはビューリーグ・プロフェッショナルの上野モデルってのだわ。」
「えー?何、その詳しさ?」
「ウチのメゾ2号機が同じのの色違いの黒を持ってんだ。ココのこう、ウエブってのの先に逆三角の切れ目があるんだわ。置いてあるだけでわかる。グローブって少年用でもマンサツ飛ぶからねー、買う時さんざん吟味したんだよ、いっしょに。それはめてんだもん!すてきだぁ〜」
「2号機君が?」
「まさか!アンビ君がよ!」
「ホントにアンビ君?…髪の毛、ちゃんとブラウンに染まってるの??」
「あ…そうか!髪が帽子の中に入ってて見えないってコトは、ベリーショートなんだ。」
「ホラァ、やっぱりガセじゃない。だいたい、この時期に日焼けしてるアンビ君なんて不自然だよ。」
「だって、グローブのベルトの窓から小さなずんぐりした人差し指がぴゅって出てるのめっさ可愛いかったんだよー!」
わざわざここで検証しなくても楽屋口から出て来る本人に聞いて確かめればいいのに!
 2年アルトはブログ写真の野球少年ではなく、フランス映画の子役の方だった。こうして団員ママさんたちの待ち時間の慰めに、「映画『幸せはシャンソニア劇場から』に出て来る男の子に似てない?!」と言われ、本人の存在とはおよそかけ離れた次元でナイスな話題を提供している。
「あー!似てる!似てる!アコーディオン弾いてる少年でしょ?」
「あんな、ずんぐりハゲのひげ親父と年増の娼婦みたいな母親から美少年が生まれるワケないよね。」
「あの子、『コーラス』にも出てた子?」
「だから、監督さん同じなのよ。オヤジ役の人が『コーラス』で音楽の先生だった人じゃん。」
「えー、どこに出てた子?」
「息子を少年合唱団通いさせてるんだから『コーラス』ぐらい親子で鑑賞しときなさいよ!一番小っちゃくて可愛い色々と目立つ役の子なんだから!」
「あの子って、プー太郎のオヤジと一緒に住んでるときは頬とかがコケてて、お金持ちのお母さんの家に引き取られた後のシーンでは顔とか腕とかが全体にふっくらしてるんだよー!」
「役作りしてるんだー。偉い!」
「メイクじゃないの?あと、CGとか??」
「『アバター』じゃないんだから、子役の顔にCGとかアリエナイでしょう?!」
団員の引き渡しで楽屋口に出ている指導者が新しいレパートリーの演出を勘案中。背中越しにこのやり取りを聞いていて、チェブラーシカのテーマと「青い汽車」で団員のアコーディオンを起用することを思いついた。怪婆シャパックリャクに切符を盗られ、ワニのゲーナが小さなチェブラーシカに客車の天蓋の上で歌って聞かせている。

♪人の心を傷つけつつ、なおもカレンダーはめくられ日は明日へと進む
 鉄路は伸び、地平を突き、誰もがそこに良い事があると信じてしまう
 進む 進むよ 青い汽車
 鉄路は伸び、地平を突く
 進む 進む… 青い汽車

公務員として「檻」に入ることを日々の仕事にしている動物園のワニが保養地ヤルタへの道行き、盗られた楽器を返してもらい、この曲を歌って映画は幕切れを迎える。小さな子ども向けの人形劇のラストシーンにはあり得ない、ほろ苦く、諦めと哀感をたたえた歌だった。ワニの抱えているのはバイヤンで、パリ1936年の少年が弾いているのはボタンアコーディオン。見終わって心の中に暖かいものだけが残る映画『幸せはシャンソニア劇場から』と衰退の始まったブレジネフ統治下のソビエト社会主義共和国連邦で作られたうら寂しい児童映画の間に連接するものは楽器の発鳴機構以外何も無いのだが、指揮者はチェブラーシカのアコーディオン伴奏をマクサンス・ペラン似の2年生アルトに仕込んでみようと即決した。

「そんなことより、チェブラーシカのアコーディオンは、一人で弾けるようになった?」
記入台の鉛筆立てに黒いクリップのゴルフ鉛筆を投げ込むと、彼は2年アルトに逆攻めの質問を投げた。
「…アコーディオンねー…めっさ重いんです。」
日頃、彼の持たされているのは時価15万円もするローランド最軽量26鍵電子アコーディオンで、ヤマハ学童用より数グラム軽いだけ。合奏用のソプラノしか出ないベースレスまるごしの鼓笛隊向けより、大きな牛乳パック1本分も重かった。練習を始めた頃の2年生の脊柱はこの楽器をとても支えきれなかったので、2年アルトはずっとパイプイスに腰掛けて演奏していた。
「まぁ、好き嫌いしないで何でもいっぱい食べて、筋肉ムキムキになって、がんばってアコーディオンを抱っこしないとネ。」
5年アルトが下級生を揶揄して面白がっていると、話しかけてくる者がある。
「じゃぁ、トビとムロのどっちがいい?」
…2年アルトよりは幼い感じのする、しかしどう見ても小学生の風体をした男の子が両手に何か持って差し出してくる。
「こっちがトビで、こっちがムロ!…どっち?!」
合唱団員が突き出された銀紙の「トビ」にあたる片方を指先で開いてみると、冷えかけたハンバーガーが顔を覗かせた。「トビ」の正体が判らないまま、男の子がハンバーガーのバンズをめくれば、映画『スター・ウォーズ』の惑星タトウィーンで見たような緑色のパンに、むしった魚の干物がぎっしり詰め込まれたフィッシュバーガーの類いだった。ダースベイダーが好みそうなネズミ色のソースがからんでいる。
「こっちもだいたい同んなじ?」
「同じだよ。ナカミはムロだけどね。」
「ムロっていうのは何?」
2年アルトが尋ねた。
「ムロはムロアジでしょう!?」
「じゃあ、こっちのは?」
「トビウオでしょう!」
男の子はトビウオの形態と生態に興味を惹かれ、即答した。
「じゃ、トビ!…ゼッタイにトビ!」
知らない男の子は2年アルトにトビ・バーガーの銀紙を持たせ、5年アルトの掌にムロ・バーガーの包みを押し込んだ。どちらも同じような銀紙で見分けがつかない。
「トビを選ぶたぁ、かなりのツウだね。そうこなくっちゃ!食べてみなよ。オイシイよ!」
それから彼らは少しだけ気になる臭気を無視してバンズの上に歯を立てた。
口中に魚肉独特の繊維の裁断が広がり、そのそれぞれから歯茎が痛くなるほどの旨味成分が塩味とともに染み出してバーガーのフィリングに混ざり、少年たちの脳幹を襲った。
「わぁ!すっごくおいしいね!」
銀紙からロメインレタスの切れ端をぶる下げながら2年生は言った。
「向こうに着いたら、もっと食べたらいいヨ。こっちの兄ィ兄ィはトビの方。キミは2個目。」
両手の空いた小学生はパーカーのポケットからシマヘビの幼生を引っぱり出し、頬ずりしたりキスをしたりしながら上機嫌で歩いて行きかけた。そうして、突然振り返って口をもぐもぐさせている2人に告げた。
「今日は条件付らしいよ。」
あらゆる意味で、彼らが甲板に涙をこぼさぬようにと小さな彼は念じた。それでも5年生は旅の目的を得たのか、晴れ晴れとした気分になった。



 区切られた送迎テラスの内腕のような場所に、リゾート特急の鼓吹する警笛のようなオスティナートがこだましはじめる。キーボードの繰り出す倍音を含んだラン・デ・バシェに遅れること2小節、電子打楽器のリムのノッチをこすって出したスネアドラムのロールが待ち構えていたかのように飛び乗って、シモテ側に控えた2人の少年の前膊が賑やかに振れだした。
彼らに配られた楽譜のドラムパートの前半は二拍三連の繰り返しだが、担当を任せるにあたり指揮者は最初に拘って質問を出した。
「品川君、キミの叩いているコルグのプログラムはリムがスネアでヘッドがタムとバスドラだが、いったい何の音を表していると思う?」
「バスドラムとタムタムとスネアドラムじゃないですか?」
「いや。そういう意味じゃ無いんだ。キミの叩いてるゴトンゴトンって、いったい何を真似して作曲したリズムだろう?」
「…電車ですか?」
「電車の音を口で言ってみてごらん。」
「ガタンゴトーン!ガタンゴトーン!」
「…なんか、それじゃあ昭和時代の路面電車みたいだ。山手線でやってみてくれよ。」
「先生、山手線はスーパーロングレールだから、がたがたなんて音しません。」
「だからさぁ、イメージでいいんだよ。トトッ、トト!トトッ、トト!…みたいなサ。」
「じゃあ、トトッ、トト!トトッ、トト!」
「その、”トトッ”っていうのと、次の”トト!”っていうのの間に、微妙なタメがあるだろう?」
「後の”ットト!”がほんのキモチ遅れるってコトですか?」
「それを叩く時に出してくれないかなぁ?音色はプログラムのプリセットだが、叩くのはキミだ。出来るか?品川くん?」
昨年夏までの半年間、「ノーノーボーイ」の伴奏補助で重たい大太鼓にンドンド、ンドドド…とマレットを間断なく当て続けていた品川(兄)はこの過酷なミッションを持ち前のセンスで叩きこなした。長男よりはほんの少しだけ苦みばしったハンサム顔の弟がタンブリンのリムを「ン・チッ!ン・チッ!」と規則正しくタンジーにスナップして乗せる。

 そこそこに練習の進んだ彼らが曲をスローテンポで丁寧に歌うと、メロディーが高貴で可憐なブリティッシュな美しさに満ちている事が判った。だが、実際の作品にはレノン+マッカートニー調のフラジオレットを伴う平行進行的なシャウトするコーラスが鳴っており、リンゴの叩き出すアルチザンなドラミングが楽曲全体をカチッと引き締めている。高学年の男の子たちはこの「フラジオレット」がなかなか響かないどころか、楽譜通りに歌ってもアンデス民謡かせいぜいイタリア製西部劇のテーマソング程度にしか聞こえないことに早晩気付きはじめた。子どもながらに深慮して暮らしていたのである。ドラムス担当の兄弟に周囲を見渡す余裕はついぞ無く、アンサンブルを担当するソリストの少年たちは、指揮者が完成を早めに断念してくれることを小さな胸の中で密かに願っていた。

 海側に開けたデッキの上屋を抜けて、前奏の奏でる沖縄民謡のようなヒナびた音階がアルペジオで流れていった。12弦ギターのリフレインは電子キーボードのごく当たり前の音色が奏でる。
パーカッション担当の兄弟はステージのシモ手に日焼けの抜けた少年の黒い4本の脚を直立させ、ベレーの前髪の下に光る眼差しを楽器と指揮者の指先へと交互に振り向けはじめていた。彼らの立ち位置は舞台に向かって左側だが、キーボード・アンプとのバランスなのかスピーカーが隊列の向こうの右端に置かれている。品川(兄)が実際に楽器を叩く音像定位のズレによって疑似ステレオのようなクロスフィードが客席に鳴り渡った。男の子のスティックが直径30センチのドラム(?)ヘッドの中心を打つと腹に響くバスドラが、縁の近くではスネアが、リムを叩くとタムタムの音が出力するようプリセット・プログラムが呼び出され、保存されていた。電車の運行音を模した特徴的なリズムパターンに乗って、アルトと2メゾの少年たちがドスンと低いフレーズを唸ると、2小節遅れて高声の団員が叫ぶようにワイルドなハーモニーを積んで来る。ボーイアルトがオリジナル通りの「キー」より低い歌い出しなのは、ソプラノの子どもたちのシャウトが高すぎて合唱にハリが出ないからだった。メインボーカルのパートが練習の当初、まったくもってお経のような無表情さとぶっきらぼうさだったので、指揮者は殆ど思春期にありがちなありきたりな歌詞の内容を説明してみせた。
「おい!おい!あいつ、平気な顔して行っちゃうよ。おまえ、ホントにそれでイイのかぁー?!おーい!オレを置いて行かないでくれー!…ってな歌なんだよ。歌ってる本人が勝手に自分だけ気が狂いそうになっちゃってるんだから、その気持ちをよく表すような歌を歌ってくれ!」
…この例えが団員らの歌の統御力にはたしてどの程度有効なのか、言っている本人も殆ど確信のようなものを持ちえないままの指導だった。彼がオリジナルのアゴーギクを真似て歌うと、高学年の少年たちはすぐにツボを押さえ声を揃えて来た。
「合唱だが、みんなで一緒にそろってハジケよう!」
指揮者はこれを言って、さらに自分でも戸惑った。子どもたちがそれでも何のプロテストも抗弁も試みて来ないことに猜疑心を抱きはじめ、付け加えた。
「いくら難いからって、歌の登場人物みたいに勝手に何処かへ行ったりしないでくれヨ。…退団したり、長期休団したりナ。」
通団服の半ズボンから出た太股をパチパチ叩きながら団員たちは笑ってそれを否定した。
「うんニャ。君らオモテ向きはノーって言ってくれるが、実際、裏面は『イエス・イット・イズ』だったりするんだろう?!」

 オリジナルと同じテンポで、という指揮者のタクトで歌うと、ドラム・ロールのブレイクがちょうど曲の開始から30秒後にやってくる。ロールと言っても寝かせたスティックを小学生が楽器のフチに並んだエンボスに当てて1秒間弱、横に引きずるだけの操作。だが、弟のタンブリンにははじめての微細な動きがあり、ハーモニーを積み上げて来たコーラス隊のダイナミクスは規定レベルに達する。小節線の繰り返し記号で戻るAメロを歌うため、ソロ・チームのメンバー4名が5秒間の刹那で隊列をすり抜け、バミリにも見えない仮設ステージのタイルの染みを目がけて進み出て来る。衣装ケースのコンパートメントポケットに旅立ちの切符を忍ばせたサイフをはさむ5年アルトも45年前のリバプール出身のファブ4たちの乗船に備えてチームの右端に陣取った。彼らはリフレインの後もそこに留まり、ハーモニーの輪郭が明瞭になるよう歌い続けるのである。2回目の最終のビーデ・コーダ以降の慌ただしいハンドクラップを担当するのも彼らだけであることを知っている観客はソリスト保護者以外に未だ誰もいない。低声の少年たちは自分たちの合唱を支えるコード進行の妙を良く知っているので、出だしのエキセントリックなAの和音が、Bマイナー…E…F♯マイナー…D7…F♯マイナー…Dメジャー7と心地良く遷移するたびに小脳の髄が感応して彼らの小さな身体に不思議なドライブをかけた。

 プレストなBメロは、品川(弟)のタンブリンが手首を捻って16分音符を鳴らし続け、最後にロール打ちで切り上げる賑やかなくだり。少年たちは3度並進行で連なる土俗的なハーモニーを苦労して作ろうとしていたが、ぶっつけ本番の最中に他パートの声を判じる心の余裕は殆ど無いといって良かった。耳コピで書き上げたらしい楽譜には、ソリストたちに向け、Hand Clapというカッコ入りの×音符の指示が配されていたが、規則的に鳴る訳ではなくおよそイイカゲン気まぐれな場所に記入されているために小学生の誰も正確に覚えてはいなかった。殆どの団員にはHand Clapという英語が読めないし、そもそも自分たちのパート以外の楽譜を念入りに読むような習慣を持っていない。指揮者はオリジナルの演奏を知っていたので、子どもらが一意専心に明解な手拍子を入れてしまっては困ると思い、成り行き任せにしていた。ドラムは大人し目にハイハットを叩き、フィルインをかけた。

「それではアンコールの1曲目、歌って頂きましょう。最初の曲は…皆さんよくご存知なんじゃないですか?有名なナンバーですよね!『涙の乗車券』!チケット・トゥ・ライド!少年たちー、宜しくお願いしまーす!」
演奏直前に施されたMCお姉さんの脳天気な振りに指揮者は一抹の不安を覚えた。品川兄弟の楽器スタンバイは中間MCの最中に終わってはいたが、アンプの出力が入らない。くったりしたネルシャツにインカムを付けたPAさんがステージの端を走り回って、品川(兄)の困惑した視線の先でコードをたぐっていた。
「あー、ちょっと機材のトラブルがあったみたいで。皆様、音が出るまでもう少しお待ちくださいネ。」
MCさんは場をおしゃべりでつなぐことができる。しかし、演奏のためにここに立ち並んだ小学生らには何もすることができない。2年アルトのベレーのツバは既に左右に振れて、きょろきょろしてしまっている。
「ねー。皆さん、この、少年の声の澄んだ美しさ…っていうんでしょうか、楽しんで頂いてますでしょうかぁ?男の子の声ってホント、きれいですよねー。さぁ、準備ができるまで、もう少しお待ちくださーい。」
お姉さんの、この意味も無い「場つなぎ」の口説を聞いて、上段の5年メゾが客席に判らぬようモロに嫌そうな舌打ちをした。
「少年の声よ、それは何と儚く美しく繊細なものか!」と気安く言い放つ一般人は多い。6年アルトの気晴らしのような下級生いじめや、泣こうが造反しようがきちんと歌えるまで延々と続く立ちっぱなしの練習。待っても待ってもお呼びのかからない出演前の絶望的な「待ち」時間…現実世界でボーイソプラノの辛酸をさんざん舐め尽くしてきている彼らにとって、こうしたタグイの発言は、もはや「ファンタジー映画に出て来る白馬の王子様のりりしさ」程度の陳腐な虚像を論じているとしか聞こえない。
「少年の声が美しいんじゃなくて、発声とか発音とかブレスがキレイなんですヨ。ンなのは、オレ達みたくいっぱい練習しなくちゃ。学校の男子で声がキレイなの、学年に2人ぐらいっきゃいないすよー。おチンチン付いてる小学生がみんなオレたちみたいに澄んだ声で歌えるワケじゃないんで…。ムナシーっしょ?あはは…。」
結局5年メゾは正論をふりかざしてそう諭してやりたい気持ちを押さえ、いつ来るかもしれないキューの為に指揮者の挙動を注視して待った。やがてネルシャツの目配せを読んだ指揮者が品川(兄)に「音出し」のサインを与え、色黒の少年がフレンチグリップで楽器の中央を軽く叩くと間の抜けたバスドラムの音がボインとアンプから飛び出てきた。MCお姉さんの名司会はこうして突然終わりを告げた。


 ボールマッカートニーの通常贅を尽くした低音進行は、奏者がコーラスに徹しているせいか中学音楽の教科書のような大人しさ。ピアノ伴奏に転写されたそのベースパターンは、バグパイプの鳴動にも似ているが、じきにボディーブローのごとく効いてくる。合唱がもんどりうったまま再びセーニョに戻ると、品川(兄)は、突然、鼓笛隊用の小太鼓バチをパラリと「スティック回し」し(愕!)て、ウェーブドラムにAメロのドラムを叩き込みはじめた。今度のリズムパターンはエイトビートに先祖帰りしている。起こしてみた楽譜へ八重山民謡のようなベーシックなリズムパターンが入っていなければ、指導者は決してライブパフォーマンスに子どものパーカッションを入れてみようとは思わなかったろう。ドラマーはそうして指揮者の横顔をちらりと見て、何らかのサインが出てはいないか確かめたが、実際に彼の両目が焦点を結んだのはソロ・チームの最遠で歌う5年アルトの姿だった。彼らは同期入団で同じサイズの衣装を身にまとい、練習場のピアノの脇でさんざん落涙しつつ歌わされ今日この日まで何とか「団員」であり続けることができてきた「戦友」のようなものだったが、少年の視線がソリストをとらえたのは偶然だった。合唱団は、ハーモニーでは苦しく喘ぎながら、涼しい顔で「♪That's driving me mad is going away…yeah」と歌っている。彼らは高学年になって、合唱団を取り巻く様々な大人たちから「自分の歌を歌え!」「てめえの歌を歌い出せ!」と執拗に言われていた。ソリストはソリストらしく、合唱団で教わった通りの表現でしか歌えなかった。打楽器担当の少年は「そんなこと、どうでもいい。」と思っていた。ささやいた大人たちは、そのテーゼがおよそ普遍的なものであり、子どもらが成長してもなおまた、あらゆる世代で彼の人生ににあてはまる哲学であろうと思っていた。やがて、少年が電子打楽器の鼓面を16分音符で「タタタタ」と言えるほどハッキリと4つ叩いてフィルインする。ここで曲がようやく半分以上終わるのだと、彼らは教わって知っていた。

〜 〜 〜 〜   〜 〜 〜 〜

 日暮れて彼らの興行がはねると更衣室代わりのドライエリアに並べて置かれた衣装ケースの上に、ホックを解いたモスグリーンの上品なインスタント・ボウタイがぱらぱらと投げ置かれた。冬場の少年たちはユニフォームを適当に脱ぎ着したままダッフルコートを羽織ってペグを留めてしまったり、長めのキルト・ジャケットのジッパーを上げて帰ってしまったりするので着替えの時間はさほどかからない。アバウトな設定で解散前のミーティングの時間が切られ、男の子らは十年一日のごとくフウフウと息を吐きながら帰りの支度を整えた。「こらっ!土曜日も来て歌うんだぞ!ちゃんと畳んでしまいなさい!」…指導者の言葉も日常的な決まり文句で、次回の出演衣装がレパートリーの差し替えから実はもう白ガウンに変わる事を知っている5〜6年生もいた。最後に解散の号令をかけた5年アルトが埠頭事務所側の陰になった通用口から島民休息所の前の出船ロビーに吐き出されると、2年生はすでに同級のメゾと額を寄せあいながらイナズマイレブンの爆エン!DXセット豪炎寺バージョンのキラ1本を交換しあっているところだった。
「まさか、アタック系のバトエン同士をチェンジしてるの?」と、彼らに声をかけると、
「先輩、これってパワーの×の数がビミョーに違うんです。攻守交替で相手チームのディフェンスをよく見て出さないと…。」
とのことだった。本当だろうか?
「あんましオ小遣いをムダ使いするなよ。」といさめると、
「先輩もオ金を大切にね!」
と、トンデモない返事が返って来た。本番中、ソロに立つ彼の背後で下級生は、ぶきっちょなドライブをかけながら、やたらに低い「涙の乗車券」のアルトを歌っていたようだった。ステージ直前まで実にあやふやで危なっかしかったピッチはようやく許容範囲内に入っていたが、上級生が指摘していた声量はまるで出ていなかった。
「ナマイキ言うな!今くらいの声の大きさでホンバンも歌ってみろ!」
バトエンでビッグなXを作って眉をひそめている2年アルトの頭を彼は少年のごつごつした平手ではたいたが、4年後の合唱団のアルトにイケメンで高出力、経験も舞台度胸もあるリーダーがいなくなってしまっては困るな…と怖じ気づいてきびすを返した。

 引き取りの保護者たちが指揮者を囲む。
「『涙の乗車券』の伴奏譜は、たしかに私のCD起こしですヨ。『デー・トリッパー』のイントロ?…Bメロに入れてます。こっそり入れたんですよぉ。分かっちゃいましたか?お母様がた!けっこうマニアックですねぇ。」
お母さんたちは笑っている。だが、5年アルトを引き取る大人はいない。毎週末に必ず出演のあるこの合唱団。…団員の交通費もピックアップの親の交通費も全額、団員家庭の持ち出しになる。4年以上の本科生の親が「引き取り」に来るのは終演が夜8時を超えるときと、息子のこなす大役を客席で鑑賞するときと、卒団近くなり愛息の晴れ姿を出来る限り多く心に焼き付けておきたいと念じているときと、ボーイソプラノご本人が体調不良のときぐらいだ。一人帰りが遅くなりそうな時はキッズケータイと内蔵GPSで自宅に連絡を入れれば全て事足りる。
 団員らが「…乗車券」の練習の段階で足場の悪いフレーズエンドの音長をハーモニーを保ったままではなかなかキープできなかったことを指揮者は回顧しながら母親らに贖罪していた。訓練された男の子たちは協和音程を保つことに雑作は無いのだが、ワイルドな鳴りの音程を一定長ひっぱったのち開放する技術は習慣として持っていないのだ。

♪マイ・ベイビー、知ったこっちゃないサ!
 マイ・ベイビー、知ったこっちゃないサ!

彼はエンディングで7回も執拗に繰り返され、フツリと切れるコーダのリフレインのソプラノ・パートを微かで細い頭声で歌いつつ素知らぬ顔で客船ターミナルの改札ゲートに「集合」した人々の列に紛れ込んだ。曲の終わりに連なるリピートの中、ピアノ伴奏が器用にラドミとレファラの和音をスイッチさせながらベースラインへと折り込み、品川兄弟がともに担当バーカッションを伝統的なエイトビートで打ち鳴らし、ソロ・チームの彼らは後拍でハンドクラップを叩いた。新レパートリーの初演は終わり、「ぶっつけ本番に強い児童合唱団」などと褒め言葉なのかどうかよく分からない称号を頂く彼らにふさわしいたくさんの拍手や歓声がステージに飛んだ。少年アルトは、背後から誰かに声をかけられはしないかと臆しながら列の中でサイフにしのばせておいたチケットを抜き出して乗船票を凝視した。

 ○本票は乗船時に回収いたします。
 ☆ご記入頂きましたお客様の情報は、他の目的に利用することはございません
 ◎条件付出航で下船できずお帰りになった場合も本票の返却はいたしません


男の子は乗船票にある「他の目的」以外の目的の何であるかを知らなかったが、突然、ヨドバシカメラの包装紙でキャップした段ボール箱をぶる下げた男が隣からぶつかってきて切符印面の目的地を覗き込みざま、
「うーん。ヘリの方が良かったんじゃないのかなぁー。こっちは条件付も条件付だからねぇ。多分上陸不能なんじゃない?でも…まあ、毛布は2枚借りといた方がいいよ。」
と、口を横に曲げて言った。たちまち、件のハンバーガーの少年が「条件付」という形容動詞を口にしていたことを想起する。客船スタッフらしい男たちがゲートの向こうで、
「貸し毛布は1枚100円で乗船後、案内所にて貸し出します!船内放送のご案内をお待ちください!」
と、メガホンのグリルごしに怒鳴っていた。

♪ought to think twice
 ought to do right by me

Bメロにコードネームのごとく鳴るその英語詞を彼は反芻したが、小学5年生の男の子の後ろ姿を見送る者は誰もいなかった。
疑念の眼差しも咎めの声かけも無く、チケットの半券はもがれ、港湾コンクリートのプラットフォームの端に浮揚する、4000屯級客船の左舷ポートサイドがサーチライトの中で白く浮かび上がり、可変ピッチプロペラをアイドリングさせた巨大なディーゼル機関が轟音を漏らしつつ微かにローリングを繰り返していた。未だ行った事も見た事も名前の読み方すらも知らない目的地へ向けて、彼は衣装カバンをぶる下げたまま船出のための一歩を軽やかに踏み出した。

どんぐり と たいやき

October 26 [Tue], 2010, 22:56

 第1メゾ、メタルフレーム眼鏡のパートリーダーが半分上気しかけた顔を広げて指揮者に告げた。
「先生!ユーリ君、来ました!」
ゲネプロの開始はとうに押し、ケイタイを肩の高さに掲げたまま緊急召集に応じて報告を交わしたマネージャー嬢が彼の姿を認め、がくりと緊張を解いた。
「ユーリ君!今、お母さんに電話したところだったんだぞ!」
何回目の電話だったかを指揮者は言わない。楽屋口のセキュリティーさんに連れられて、男の子は秋の地面に引きずって汚れた合皮のスーツケースを重そうに抱えている。背後の子どもたちは控え室に充てられたホールのリハーサル室で今まさに整列し、ステージに繰り込まれようとしていた。めざとい5〜6年生がモカシン靴をカパカパつっかけて出てくると、それを追って20人近くの少年たちが真っ白なソックスの足裏が汚れるのもかまわず、出迎えとばかり戸口からあふれて男の子を取り囲んだ。ユーリ少年のシンナリした泥臭いかさかさの腕に、何か重量のあるものが抱えられているのを誰もが見てとった。はじめ、それは柔和な凹凸のある塊であることから小さな子どもの頭のように思われた。楽屋通路の抑えたダウンライトが、外椀にとめられた合唱団のバッジをほんのりと光らせ、彼らは少しだけ驚かされた。膨らんだ紺色厚手の袋の正体が何であるか、ぎりぎりいっぱいまで押し込まれたナカミを見た少年たちは「わぁー!」とたちどころに嬌声をあげつつ納得した。
「先生!ドングリだぁ!ドングリ!」
暖かい鉛筆の先を取って据えたようなシイ、公園の地球儀を小さくして染めたようなクヌギ。夏の少年の美しいきらきらした指爪か、色ツヤとかすかな縦筋が、どの実にも健康そうに入っている。男の子はそれをステージ用のベレー帽の中いっぱいに詰め込んできたのだった。
「ココの前の公園で拾ったのか?」
「はい。」
「ユーリ君…。しかし、ずいぶんたくさん拾ったなぁ。」
「先生!感心してないでちゃんと叱ってくんなきゃダメですよ。リハーサル押してます!」
1メゾのパートリーダーがナマイキな口をきいた。
「あのね…なんか知らない子がいっしょに拾ってくれたの。助けてくれたよ。一人じゃこんなに拾えないもん。『みんなに分けてあげな』ってその子に言われたよ。」
中堅の高声の3〜4年生たちがわあわあ言いながら逆さになったベレーの中身をぐりぐりと触って木の実の感触と重さを確かめつつ物色している中、ほんの数名の上級生が何を感じたか一瞬真顔に戻った。子どもの人いきれを押し戻し、指示を振りかけつつ入場隊形の先頭に立つ指揮者のところにパートリーダーが舞い戻ってそっと肩を寄せ、小声でささやいた。
「守ってくれたんでしょうか?」
「うん。多分な。コンサートホールの前の公園と言っても、天パーで可愛い3年生の男の子をつけ狙う不審者が何人かうろちょろしててもおかしくないだろう。たぶん、守ってもらったな。それとも、本当にキミたちへドングリのプレゼントをくれたかの、どっちかだ。」
「…お守り…でしょうか?」
「うーん。どうだろう。いずれにせよ、もらったら大切にするんだな。」
団員らのリハーサルの声をモニターで聞きながら、ドングリは控え室のフローリングにぽしゃりと置かれたベレーからこぼれ落ちそうになって光っていた。


 ♪たいやき たいやき こわいぞ!
  こわいぞ こわいぞ ほらほらほら
  でっかい ギョロ目を カッとむいて…

少年たちがどの子も当たり前のように両腕を体側に放ち、しかめっ面のまま斉唱でそこまで歌うと、仕込みを終えてなお座りの悪い譜面台の前で指揮者がストップをかけた。
「優秀な少年合唱団の諸君、最後の警告だ!『たいやき』の前奏のピアノは何回?」
「・・・」
頭不揃いの感覚はあったが伴奏についての質問が来るとは思っていなかった子どもたちは一瞬答えに窮して口ごもった。
「5回…ぐらい?」
前方の3〜4年生の何人かが先ずもごもごと自信なさげな答えを返した。
「5回ィ?…『5回ぐらい』の『ぐらい』ってのは何だ!」
彼らは照れ隠しに小さな声で笑った。すると今度は上級生のうち、厚顔のやかましい連中が隊列の後方からぴしゃりと億劫そうに声を投げた。
「先生、4回でーす。」
変声の始まりかけたしゃがれ声の団員も混じっている。
「4回でしょう?!きちんと心の中で数えてから歌い出してくれよ。先生の指揮をそんなに頼りきりにされちゃ困るな。タクトが上がってはじめてスタートに気付くなんてのは団員失格だ!」
ステージ・ゲネプロの段階になっても未だ歌い出しに日和見を生じる。日によってスパンと始まるときもあれば「こんな事が今になって何故?」と思う問題噴出の一日もある。中学年の彼らが何故前奏のリフレインを直感で『5回』と唱えたのか、歌い出しを知る指揮者には十分理解できるのだが、不可解なこの出来映えのムラこそが小学生男子の合唱だと彼は観念した。

「インディアンのかばやき!」
「・・・」「・・・」
「だるまさんがころんだっ!…はい、ソータ君!」
「え゛ー!動いてないだろ?!」
「今、口が動いた。」
「何だよ!ズッけえ!くそアルト即ぶっ殺す!」
 かまびすしく、いつも必ず団員のうち最低誰かしら一人がソワソワいらいらメソメソつんつん尖んがっている少年合唱団にも秋が訪れた。コンサートホールのパティオの床面に貼られたにびいろの瓦のようなタイルが、確実に傾き始めた午後の光を受けて子どもたちの細長い影法師を動かしている。直線的に切られた中庭の空の外縁から、キンモクセイの匂いが舞い下りて来て、遊び時間の少年らの肩を焚き染めた。遅刻した団員の報告を聞き、指揮者は胸騒ぎを感じて隣接の市民公園に合唱団を放つことをやめた。並んでいる野外彫刻や水盤に決して触れたり近寄ったりよじ登ったりしてはいけないと念を押した上で中庭にて10分間の期限を切る。だるまさんがころんだ。ドン・ジャン。適当なSケン。おんぶ騎馬戦。ミニ泥警。ものまね歌合戦?しっぺ。ケン相撲。…多様な階層の男の子が人工的空間の中、所狭しと入り乱れて遊んでいる。
「先生、ボールしてもいいですか?」
男の子だけの合唱団だ。最低でも3名の子が常にビニールボールを通団カバンに忍ばせて持ち歩いていると考えてみたら良い。直径8センチほどの蛍光イエローのボールが、まあるく刈り込まれた植栽の上をすうーっと飛び交って、突然「手打ち野球」が始まった。10分休憩のルールではチームは組まれない。打者をやって出塁が終われば内野手兼務のライト・ピッチャー・レフト・その他大勢の順番で守備をやり、運が良ければ2回目の打席に入ることができる。捕手は無し。集まっているメンツは4年生と5年生が中心だが、所属はソプラノ・メゾ・アルト入り乱れ、ごた混ぜの様相。与えられた600秒の間に自分がロールを最低一巡できれば彼らは満足してリハーサルに戻る。
「先生。ユーリ君の拾って来たドングリ、配らないんですか?」
メタルフレームの眼鏡のレンズをリンドウ色に光らせて、第一メゾのパートリーダーが聞いた。
「ナカっち!それから、山崎!…伊藤君といっしょにユーリのドングリを今すぐ配ってくれ!」
団員歴の長い2人の少年。彼らは先ず顔をきちんとこちらに向けて何の未練も感じさせず「はい」と応じ、「3塁ベース」ということになっている床埋めライトとファウルライン代わりの花壇の縁石の上から離脱して駆け参じる。ライトアップ照明の上に出来た秋色の空地に、4年生のソプラノがふわりと滑り込んで数秒もかからず野手の欠員充填は完了した。

「予科の頃はずっとガナってた。声は大きいし、ノドはギチギチに閉めてるし、ともかくスゴいんだ。でも、イケメン予科生で、なんかお母さんたちからは『キリっと系の美少年deプチ・カッコカワイイ!』とか言われてたよ。」
「ウソ〜。本科になってからは?」
「やっぱりプチ・カッコカワイイって呼ばれてた。」

 ♪食ってみやがれ チビッコめ!

トップする頭の「食って」のピッチがどうにも揃わない。「チビッコ」という語彙は西暦2000年を過ぎた今、既に「放送するのにふさわしくない用語」の一つに成り下がっている。正確な「音程」で上がりきれない子どもたちが低声を中心に1ダースちかくもいて、ユニゾンの箇所におぞましき短三度のゆらめきが起こっていた。全くもっていただけない。指揮者の手で犯人探しがはじまる。同じフレーズを何度も歌わせながら、きちんと歌えているグループだけをしゃがませていって休ませた。ピッチを崩した子どもたちが立ち残り、あぶり出され、次第に絞り込まれてゆく。アルトの最右翼に組まれた平台の縁で、すでに体操座りになった2人の6年生の片方が通団服のソックスの膝を抱え、カタワレがズボンのポケットに手を突っ込んだまま小声で話している。
「…やっぱりプチ・カッコカワイイって呼ばれてたけど、本科でもしばらくガナってたな。」
「2年生になってもまだ?」
「アルトの先輩たちが先生がたに、『こんな大声でガーガー歌うヤツがいると、僕たちは合唱できない。しかもデカいつらしててナマイキです。団員失格だから、コイツを即刻クビにしてください!』って、トイレ休憩のときにいっつも食って掛かってたよ。」
「クビにしたの?」
「まさか!『ガナり声は、この子のせいじゃない。全部、先生の責任だ。こういう怒鳴りガナりを綺麗で艶のある声に変えるのが先生方の大切な仕事なんだ。ただ、本科に上がったばかりだから、もう少し時間をくれないか?秋までには何とかするよ。』って、本人の前で最後までかばって期限付きで約束したんだよ。」
「その子、全部聞いていたんだなぁ?」
「先生が守ってくれた…ってわかってたんだろうね。夏休みが終わったら、もう文句を言う5〜6年生は一人もいなくなっていた。代わりに僕らの前列に立って歌っていたのは、低学年のくせに声量のある、キュッと締まったいい声質のプチ・カッコカワイい2年生アルトだったけどね。」
「やっぱ、先生たちって、スゴいね!いい仕事してます。」
「だから、あんなにオニできびしくておっかない先生なんだけど、あいつは大好きだったみたいだよ。合唱団で友だちがたくさんできた後も練習時間以外はいつも先生に抱きついてハグハグしてたもん。怖くなかったのかな?」
「うわぁ。そりゃ出来ないわ。ふつう…。」
途端、低声エッジに強大な雷鳴が轟いた!
「おらッ!そこのアルト6年二人!さっきから何、くっちゃべってんだ!うるさいっ!今すぐ立って先生のところへ出て来いっ!歌が聞こえんだろう!ばかたれッ!」
新旧のボーイアルトは顔色無くビリリとその場にすくみ立ち、ペナルティーを受けるためにそそくさとひな壇を下りて行った。

 ゲネプロ後のレーションは、小さな団員たちにとってホンバン前の大切な憩いのひとときだ。以後最長2時間近くを立ち通し、歌いっぱなしの10歳前後の男の子たちのために、後援会のお母さんたちがそこそこに腹持ちの良い高カロリーのオヤツを上手に見繕って差し入れる。事前に息子たちから「今日はステージで初めて『たいやき』の歌を歌うよ」とのプレミア情報を得ているママさん連が<冷めてもおいしい>たいやき計5種類を後援会費で調達し、楽屋代わりのリハーサル室のフォールディング・テーブルの上に箱ごとぽくりと置いた。
「…何だっけ?あんこ、カスタード、チョコ、ジャム…あと、何でしたっけ?」
「先生、マロンです。」
「はい、栗…栗餡ね?…それに、マロンの栗のアンコがあるから、各班、リーダーがわけてやること。…一人、いくつでしたっけ?」
「先生、1つです。」
差し入れ担当保護者の傍で指揮者が説明を聞き聞き簡潔な指令をくだす。
「全員着席でお祈りの済んだ班からリーダーがとりに来い。各班で『いただきます』をしたら食べて良し!食べ終わったら座ったまま食休み。立ち歩き禁止。説明終わりッ!」
体操座りや正座の子どもたちがぴかぴかの膝頭を揃え、青い瞼を閉じて黙祷している。子どもの温かいかすれた鼻息だけが辺りにたっている。やがてリハーサル室一隅のあちらこちらで「お祈り、やめ!」の声が上がり、ごとごとくぐもった音をフローリング床にたてながら、年長の少年たちが出頭してきた。
「最初はグー!じゃんけんぽん!」
「やった!勝ったぁー!」
5種類のフレーバーをあえて混交して供するのは団員をとりまく大人たちの密かな楽しみのためだ。「ジャンケンで勝った順」という最終的手段で配分をする班は少ない。毎回必ず「下級生優先で好きなものを選ばせる」班。前回「下級生優先」だったから、今日は「高学年優先」という公平を重んじる班。1匹を人数分に千切り分けて一人が全種類食べられるようにしてやる班。一人一人食べたいものを言わせ、希望が重なれば半分こなどで調整という班。選抜を受けてこの仕事についた少年たちの、仲間や下級生を思いやる采配の良さと心豊かな日々を目撃できるのが、毎回、母親らと指導陣の楽しみの一つだった。最後まで黙祷の継続を怠らなかったソプラノ・リーダー兼班長が最後に馳せ参じ、差し入れ担当の自分の母から班員のたいやきをもらう。伸べた両手の中にふやけた紙袋を入れてもらい、ぺこりと無頼な表情で頭を下げたわが息子の面影は、傍に感じた体温こそよく知るものだったが、ワイシャツ、半ズボン姿で仕事に来たどこぞやの分別ある頼もしき少年に見えた。
「いただきます!」
「いただきます!」
人々と構造物とそれらの生活を絶えず灼熱に炙り続けた終末的な東京の夏は幾何級数的に私たちの側から遠ざかり、気が付くと大気は青い青い秋のきらめきで揺れていた。人工的な光に満ちた控え室代わりのその部屋に、レーションを食む少年たちのいきみ声と焼いた重曹と卵と小麦粉の静かな匂いがたった。
「では、こちらは先生方とマネージャーさんで、どうぞ。」
余剰のたいやきがテーブルトップにしゃなりと置かれ、それを見た指揮者が「お母様がたも、どうぞ。」と応酬し、毎回のルーチン通り「…いえ。わたくしたちは、お毒味で前もって頂いております。」と言葉を返す。丁重に謝礼したマネージャー嬢がナカミの個数を確かめもせず、うちの一つを素手でつまみ出し、取り置こうとして小さな紙袋の存在に気付いた。明らかにたいやきが既に一つだけ分けられ、そなえられている。小学生男子の集団行動に「予備の品」は不可欠であろう。だが、母親たちは「こちらで用意してありますから、お取りになったものは先生方にどうぞ。」と上手に誘導する。おいしそうな匂いの充満した筋入りクラフト紙の麦穂色の袋の中で、たいやきが一匹、誰かに食べてもらうのを心待ちに目を開けたまま眠っていた。
「山崎君、出て来なさい。このたいやきは、今日はキミが貰うんだ。『小さい秋みつけた』と『赤鬼と青鬼のタンゴ』のソロもあるし、アンコールMCでお客さんを煽る仕事も控えている。大役にタイヤキだ!」
口をもぐもぐさせながら小走りでやってきた6年生は、まず口中のものを飲みくだし、ニコリともせず話を聞いていた。テーブルの上、彼はボディバッグにくるまれた魚体にフッと頭を垂れて一礼し、静かに目を閉じて深く合掌した。それから子どもの人いきれのする原隊に戻って腰を下ろし、神妙な顔つきのままキツネ色の「オカシラ付き」に白い四角い歯をたてた。周囲の少年たちの誰も決して物欲しそうな目をしなかった。


 ゲネプロの時間が極度に押しはじめ、児童合唱のコンサートにはおよそ似つかわしくないバリライトがひな壇の箱馬を炙って独特の匂いを放つと、さすがの彼らも観念して器用な歌を歌い始めた。楽譜の配られた当初、曲調の転換部とコーダ近く、シュプレッヒシュティンメの抑揚で殆どニュアンスが揃わぬ皆は大変苦労していた。淵江少年少女のOGだという保護者の一人がVBCの歌う「たいやき」のレコードを持っており、それを他の親が自宅のコンパチブル電蓄でカセットテープにおとし、さらに他の後援会員がカセットから自宅のパソコンでMP3に変換してUSBメモリへ収めた。ぎりぎりソフトモヒカンでニンニク臭い息のメゾソプラノ4年生がそのデータを指導者に差し出すと、打ち込み参照のために持ち歩いているミニ・ノートへ読み込んで、練習スタジオのアンプにつないだ。21世紀の団員たちは、30年以上も前の少年らの歌声を神妙な顔つきで2回聞いた。彼らの正直な感想は、「古臭い」と「昔の子の話し方に聞こえる」だった。だが、新ウィーン学派もウィンナワルツもウィーン古典派の音楽も、必要とあらばジョスカン・デ・プレもパレストリーナも歌ってみせる…「古臭い歌」「大昔に作られた歌」のご披露をナリワイの大切な一部にしている彼らはVBCのその「昔の子の話し方」を忠実に受け入れて歌を纏めた。「おさるのかごや」にソックリなピアノ前奏。「♪カッと剥いて」「♪さぁさぁさぁ、食ってみろぃ!」「♪とがった背びれをピンッと立ててぃ」…クリアでパンチの効いた江戸弁の子音とべらんめえの母音が音圧のあるユニゾンで繰り出され叩き付けられる。男の子らしい威勢の良さと宵越しの銭は持たない潔い生活感が、前半を彩るモチーフに満ちあふれ、少年たちは祭り囃子のように歌っていた。指導者を睥睨し、ねめつけつつタクトを見抜くのだが、同時に彼らの耳はホール残響から得る自らの声のフォルマントを注意深く聞いていた。ブレスの前に唇をきつく閉じて唾を飲む者。深く長く目を閉じて瞬きを終える者。下唇を咬んでいたかと思えば、太いベロで口のまわりをべろりと舐め回す者。ズボンと太腿の境目に掌をきつくなすりつけ、手にかいた汗を今さら拭おうとする者。頷くようにして小さくリズムをとり、納得する者。

 ♪だけどサ…

 彼らが確定の逆説条件を脇へポンと押しやり語調を変えた瞬間、曲は一転飛躍してギャロップの場面に突入する。祭りはやぶれかぶれの狂乱へと流れ、神輿は激しく暴れまわり、子どもらは甘くねっとりしてアツアツのたいやきと大乱闘を繰り広げる。彼らがガラスを弾いたような不協和のハーモニーを奏でるのは、この部分の中核のごく刹那だ。齢十歳前後の身体を使った強弱と高低の鮮烈なコントラスト。無窮動で馬車馬のようなピアノ伴奏のばく進。そのとき、彼らは過去の少年たちから受け取ったニュアンスでシュプレッヒコールを唸るように叫ぶのである。

 ♪美味ぁいーぞぉー たいやき!
  甘ぁいーぞぉー たいやきッ…
  あれれれ? とうとう 食べちゃった!

 少年らが畳み込むようにそそくさと曲を終えると、ゲネプロの進行中であるにもかかわらず指揮者はステージの仕込みの位置がどうしても気になるのか、子どもたちをいったんその場にしゃがませてスタッフに声をかけた。

「どうせたいやきみたいな少年合唱人生。アンコは所詮しっぽの先まで入っちゃいないし、冷めたら皮が硬くなって美味しく無いし。」
ソプラノ6年のグループは大概にそういうことを言う。
「熱けりゃ熱いで口の中を大ヤケド!」
「ちょっと指で押しただけで破裂してナカミが飛び出しちゃう弱っちょろさ。」
「型はあるけど、焼き上がればボツボツの穴だらけ。」
「外国行ったら、もう売られてない。」
「チョコたいやき、ちびたいやき、たいやきアイス、ふなパン…と、マガイモノは世間にゴマンと増殖、蔓延中!」
「でも、逃げ出したり世間を泳いだりして歌にすりゃオリコン・シングルチャート史上類をみない日本記録にもなるね。」
「その曲を送り出した番組は、今はBSに追い出されて十年一日なBeポンキッキになり果ててんじゃん。記録の末路なんて概してそんなモンよ。」
彼らが増長しきった口調で減らずぐちをたたいている間、指揮者はリハーサルの再開のためメゾ最前列の3〜4年生を立たせようとしたが、そのうち一人の右手の握った拳骨の先っちょから、ナッツ入りチョコボールのような小さなカタマリが跳ねて落ちたのを決して見逃しはしなかった。
「おい!ハルカ、そりゃ何だ??」
「・・・」
「何だ?」
男の子はスカスカの消え入るような嗄声を発し、口をぱくぱくさせている。
「…ポケットに手をつっこんでる少年たち!全員立ちなさい!それから君らが今、ポケットの中で触っているものを正直に出して見せてごらん。ほら!見せなさいっ!」
少年らは習慣から先ず跳ね起きるようにして二脚を重力方向に伸ばし、躊躇しつつ身体をひねってパートリーダーたちの表情を伺う。ナカっち!それから、山崎。…伊藤君。パトリの顔色は、赤や青や黄色に豹変した。一群が地獄イスのように両手を前に突き出して拳固を解くと、偏光するステージのサスペンションライトを浴び、各人一対の大小のどんぐりがダイヤモンド色に濡れて輝いている。
「他にもまだ、ドングリをポケットに入れて持ってるタワケ者はいないか?いたら、すぐに立て。」
指揮者は怒声のボルテージをあげ、全てのパートからあまねく少年たちが一人、また一人、さらに連れ立って3人、4人と腰をあげはじめた。シモ手ピアノ際最前の小さいソプラノから隊列最右翼の端っこ上段の6年アルトまで…結果的に全員が立ち上がり、指導者らがあんぐりと言葉を失って腕を下ろしたとき、座敷童チックなメゾソプラノで栄五郎がぼそりと言った。
「…伊藤先輩たちが、大切な<お守り>だから全員必ずポケットに入れておけ…って言ったんです!」


 東京とその近郊に根付いたクヌギやナラ、シイ、カシたちにとって、彼らの種子が運良く生き残り、子孫繁栄につながるようなことは残念ながら殆ど起こらない。秋の爽やかな降雨と鉛色の空から吹き下りる風とが木立をゆする日々、趣向をこらしたそろいの帽子をまとうどんぐりたちが、あるときはいつの間に、またあるときは弾薬のようにぽとぽとと落ちて来る。最初に彼らを一網打尽に集めて処分するのはシルバー人材センターに結集するグリーンの作業着を着た老人たちだ。その後、彼らと先を争うかのようにして緑道沿いの小学校から生活科の授業の2年生がやってきて、「<1000までの数>の勉強に使う」というもっともらしい口実でおびただしい数のどんぐりをかすめとる。おこぼれは五色のおでかけキャップをさっくりかぶったお散歩の保育園の子どもたちがキャーキャー言いながらつまみとったり、徒党を組んで放課後校庭開放に送り込まれてきた学童保育の2〜3年生が憂さ晴らしに踏みつけて粉々にしてみたりと、結実は殆ど種子散布に貢献しない。
 中山アンビは通団カバンのジップポケットに投げ込もうとした2つの木の実を掌にのせ、しみじみと眺めた。曖昧な茶髪のアルトに配当されたのは丸々太ったアベマキのドングリが2つ。先輩カゼを吹かせるおっかない顔の5年生だからこそ、彼はこの見事な出来のキズ一つない2粒を得た。小さなみぐるみを飾るあたたかく繊細な縦の線を見て、年輪のようだと彼は思った。殻斗とは逆側の子葉のへそのように尖った部分に親指の腹を這わせればチクリと鈍い感触がある。男の子はそこで未だ何も言われてもいないのに、衣装カバンの中から紺ベレーを抜き出すと、合唱団のバッジの位置と頭頂のネームタグの傾きを瞬時に目測して一番かっこ良く見えるよう後頭部に載せた。彼らがそうして半ズボンの脇ポケットから小さな茶色い<お守り>を握り出し、カバンの中に投げ、ゲネプロ再開のため急かされてリハーサル室の前に隊列を作っていると、上階から大人たちの発する怒号や乱れた跫音、東奔西走する大混乱の気配が聞こえて来る。合唱団には突如「その場にしゃがんで待機」の緊急指令がかかり、指揮者は状況把握を待つ間、子どもらのきしきしした髪を上から眺め下ろしつつ情報収集のためにマネージャー嬢を走らせた。
「ステージのド真ん中、メゾの立ち位置の真上から不要機材の落下事故だそうだ。ブリッジの確認と落とし物の撤収に20分以上かかるが、数分押しで緞帳が上がる。リハ室でゲネプロ続行。…以降の仕込み関係の擦り合わせはほぼぶっつけということになる。今日のコンサートもキミたちお得意の『その場しのぎ』ってヤツだ。がんばろう。」

 ホールロビーに追い出され、通団服の革靴のソールをブリリアントな絨毯の毛足にコポコポ言わせながら合唱団は集合しバラしのミーティングを終えた。出迎えの保護者らは既に招待した学校のお友だちやファンから息子に贈られた花束をかさかさと抱いている。後援会のケータリング当番で「冷めてもおいしいたいやき」を差し入れた母親も、すっかりナマイキな普通の6年男子に戻ってしまった我が子の横に連れ添って今日のMCのダメ出しをしている。ゲネプロ中に低声エッジでおしゃべりを続けていた2人は合皮の衣装カバンをくにゅくにゅと8の字に振りながら、メインエンタランスの右はじのガラス扉を押してテラゾーのピロティに吐き出された。ホールの前の公園は青色防犯灯とグレアのきついランプにところどころ照らされてはいたが漆黒の林であることには違いなかった。
「どうして助けてくれるのかな?」
「…あいつ、合唱団好きだったもん。楽しそうに歌ってたし…。今だって家や学校に行くより、僕たちの歌を聞いてる方が幸せなんじゃないかな。」
「立派な少年合唱団員ってのは、そうやってきちんと自分の仲間だった子を守るものなんだなぁ。」
「僕も少年合唱団員なんだけどできそうにないな。」
「俺も少年合唱団員だけど、絶対に出来ない。」

 本科に上がりたて、ぽちゃかわウチナンチュー顔の3年生団員親子が彼らの行く手を斜め半分に塞ぐ。キャラメルケース大で白金色のオリンパスμを携えたママさんが言った。
「この4月から本科に入れて頂いた前江です。トーヤが先輩方のこと大好きなんですけど、いっしょに写真に写ってくださいませんか?」
実の子はどうやらダシに近い存在らしく、「ミーハー母ちゃんに付き合わされちゃった」とばかり表情を歪め、子ども同士目配せをしている。上級生アルトの保護者らが本人たちの頭越しに依頼へと応じ、即、交渉成立だ。先々週のステージまで息子が着ていた開衿シャツをそろそろクリーニングに出し、クローゼットに仕舞うことにしようと母は勘案した。どうせ来年の5月のステージでそれをまとうのは本人ではなく、母親が制服交換会であこがれの先輩の「おさがり」をゲットするココにいるような後輩オチビさんたちに違いない。襟の織タグにつけた息子のアイロンネームはきれいに剥がれるだろうか?
 写真には妙に撮られ慣れている今年の6年生たちは子役臭い厭味を感じさせない程度の自然なポージングで、歯を見せて笑いjpegデータに収まった。彼らは休憩時間に遭遇した「あんこのはみ出したたいやき」をめぐり、しばらくの間うんちくじみた閑談に興じていたが、じき、透き通った秋の夜気と快い一日の疲労に苛まれ、最寄り駅までのしばらくの間、感謝をこめて上下の唇をつぐんだ。

横須賀線citronomachy

October 06 [Wed], 2010, 7:00


一 午后の練習

 「先生…先生…トーヤ君が居ません。」
熱沙の叫びはもはやとどまるところを知らず、夏休みの盛りの練習場のドアの前には濃密な湿気を帯びた温柱が蒸気圧のまま居座っているようでした。炙り上げられた生き物たちのかつてのたましいの痕跡をひしゃげたガラス窓の向こう側に認めることは出来ません。スタジオの有孔壁にかかった天文時計の液晶ディスプレイが強烈なエアコンの中でひんやりと「ペルセウス座ガンマ流星群の日」と明滅を繰り返すその日の午後、休憩時間の終わりから既に10分近くも過ぎようという頃になって、4年生ソプラノがひとり自らの「楽譜ファイル」を抱きしめながら申し訳無さそうに出て来て言うのです。
「先生…トーヤ君が居ません。」
「…」
「トーヤ君が帰ってきてません。」
「おい!前江トーヤ君、居るかー?先生に黙ってどこかへ行くなー!」
小さいお尻には似つかわしくないパイプ椅子の座面が一つ空いています。
「先生。トーヤ君はトイレです。泣きに行ってます。」
少年たちは誰もその復命に応じようとしませんでした。小さな80年代ふうのつくりのトイレは団員たちの感情のシェルターになっていましたし、彼らは皆、同じ経験を通過儀礼のように共有していたのですが、このときばかりは言葉につまってしまいました。2年生のイケメン・アルトだけが本当に小声で「トーヤ君は、トイレじゃアリマセん…人間です。」と、指揮者の口調を真似てひとりごちたのですが、誰にも聞こえてはいませんでした。

「たぶん、さっき出て来た巨大クモのせいだと思います。」
真っ黒い顔のカネゴン君が言っているのはスタジオで彼らが背にしている壁面に張り付いていた1匹のアシダカ蜘蛛のことです。蛛形節足動物が内装に落とすビュイック・スカイラークほどの大きさのムラサキ色の影を見て、少年たちは飛び上がる程驚いていました。こうして指名され、男の子はトイレのドアの前でつとめて優しい声を投げたのでした。昼光色の蛍光灯を節電のために落とした薄暗い廊下にも容赦なく暑さは充満していました。
「トーヤ君、クモはもういないよ。出ておいでよ。今度またアイツがココに出て来たら、先生が追っ払ってくれるって。」
前江トーヤは、嗚咽をこらえ、聞き耳をたてていた様子でしたが、ドアごしに話が伝わると火がついたように激しく泣き出すのです。合唱団は「烏瓜って真っ赤だな…」と『まっかな秋』の練習の続きに入ってしまっていました。今まさに午餐のため絞められようとする家禽の断末魔のように下級生が酷い声を出して泣くのでカネゴン君はすっかり困窮してしまいました。少年合唱団でこの声は拙速です。ブレスが整うかどうかの問題よりも、咽をきつく閉めて声をあげるので声帯を痛めてしまいます。先生は常日頃、練習中うつむいてトイレに逃げ込もうとする団員たちに小さい声で「泣くときは声をあげるなよ。」と言い、ヒゲの生えそうな上級生にはもっと小さな声で「自分でやるときは、咽を痛めるから決して善がり声を出すなよ。」と個々に忠告します。
「♪冷やしカーレーうーどぉん!冷やしカレーうどん!」
カネゴン少年は策も無く成り行き任せの歌を歌いました。『Walking in the air』のオーディションで戦友に学んだ巻き舌をルルルレーと器用に使いながら、俄にわいた食欲で潤った舌を上唇に乗せ、自分の静かな鼻息を聞き、反応を待って声をかけました。
「トーヤ君。練習が終わったら、お星様を食べに行こうナ。帰りは僕が守ってあげるから、心配しなくってもいいよ。」
号泣は止み、4年メゾの息みは止んでいます。
「僕、練習に戻るから、気が済んだらいつでも出ておいで。キミは知らんぷりで席に戻ったらいいさ。」
「…カネゴン君。お星様のお店で、オレンジ食べてもいいの?」
「いいよ。トーヤはトーヤの好きなものを食べたらいいさ。でも、金星は丸くて身が詰まってる。質量が大きいよ。重いから、必ず切ってもらおうな。」
トイレのドアノブに記された鍵表示は最初からブルーのままでした。


二 ミルキーウエー

 トーヤ君が路傍のアド・ロボットにもらった巨大なハッカ・パイプのリップを噛み噛みミルキーウエーのガラス扉を押すと、彼の頭上ではクイックシルバーとアルゴンのネオンサインが不機嫌そうにバチバチと音をたてていました。星々の散りばめられたソーダ・ガラスにしつらえられたホールを見渡すと、先に来ていたのはカネゴン君ではなく、バレリーノのような美しい脚を交わしたアオケン君。上級生は、三日月形のテーブルの上、バイオレット・カラーの液体に満ちたキラキラ光る8オンスタンブラーをコトリと打ち置いたまま姿勢を正し、首だけを曲尺のように折って、何かを一心不乱に刻みつけているのでした。
「アオケン先輩は、何を飲んでいるの?」
先輩は顔を上げるなりトーヤ君の皮蛋色の瞳を見つめ、問い返します。
「トーヤ君は、僕に『何を書いているの?』とは聞かないの?」
聞いても仕方ないのです。ここにはお星様を食べたり飲んだりしに来たのであって、何かを書いたり読んだりしに来たわけではないのです。
「ドライポイント?」
「はずれ!」
「じゃあ、メゾチント?」
「書いているのは、文字だよ。」
「わかった!ビュラン彫り?」
「そんな難しいのじゃない。」
「うーん…クレパス・スクラッチ?!」
「そんなので字が書けるかい?」
最後にトーヤ君の背中から、柔らかい頼もしげな3人目の少年の声がしました。
「アオケンちゃんの切っているのはステンシルだよ!」
カネゴン君がいつの間にやってきていました。

 アオケン君がぱりぱりと湿った音をたてるロウ原紙の前に座りなおすと、本格的なカクテル・アワーの到来です。おろしたてのボタンダウンにエンジの蝶ネクタイ。土星のワッペンのついたブレザーにチェックの半ズボン。チョコレート色に肌の透けた黒いタイツとアーガイルのソックスをはいています。靴はもちろん1枚タッセルのローファーです。彼がこの時刻にこのスタイルなのは、ここで筆耕の仕事をしながらレプス君の遊びの誘いを待っているから…。ポケットに忍ばせた光子電池やミント・パイプ。ちょっぴりかさばる携帯用サイクロトロンや石英ガラスのビー玉やらをトビ道具に、夜中じゅうそこいらをうろつき回って遊ぼうという算段です。
「このクネッケ、少し湿気ってるね。」
そんなことを言いながら、ラベンダー・リッキーを舌先で舐めていたりします。それでも右手はきれいに鉄筆を握り、カリカリカリカリと鉱石粉の削りかすを振りまきながら何やらガリを切り続けています。 ミルキーウエーのラウンジエリアには、床一面に大マゼラン雲の構星図が埋め込まれています。マイスナー転送されてきた遥かな象限の光が少年たちの小さな硬い脚の下にちろちろとかすかにまたたいています。トーヤ君がお望みの宵の明星を柔らかな両手で挟んで持つと、ずっしりとした質量が日焼けした腕にかかってきます。焚き染めるようなネロリとベルガモットの香り。2人の上級生が抱くようにして彼と惑星を眺めています。
 カネゴン君が尋ねます。
「瑠音君の家の天文台は?」
「行ったよ。こぐま座の測光に2度も失敗して、その間に瑠音っちのおじいちゃんがお料理を焦がしちゃって火事になるところだった。」
アオケン君は、途中になった原紙の文字を原稿と見比べながらざっと校正をかけると、傍らに転がすようにしてうち置かれた修正液の小壜に左手を伸ばします。
「結局、瑠音君たちと途中まで行ったんだけどね。」
「帰って来ちゃったの?」
「だって、途中でビル人間とかが破壊されてるのに遭遇しちゃったり、鳥人間が『危ないから引き返せ』って叫びながら飛んでたりするんだもの。」
男の子はマニキュア壜のキャップをカリリと小さな音をたてて少し回して外すと、慣れた手つきでミニ刷毛をビン口でしごいて余分な薬液を落とします。周囲にパッとマーブル飴の甘い匂いがたちます。
「わあ!きれいな色だね!いい匂いもする!」
「これは修正液だよ。普通は茶色いべっ甲色のイヤな匂いのやつ。たいていはアジア修正液なんだ。でも、これは萬古が作っている特別製さ!」
言っている間に蛍光桃色で濡れた刷毛を原紙の上に持っていき、11歳の左手人差し指で「HORII」と印刷されたロウ紙をつまみあげるとツッとそこに鮮やかなピンクのマークを落とします。カネゴン君がその刷毛をつまんで受け取り、ビンの口に戻します。戻しながら、小壜のエンボスを「マンコ?」と読んでいます。
「マンコじゃなくて、バンコ。キャップが割れない程度にきつく回して締めておいてよ。原紙は前はHEIWAを使ってたんだけどね。色付きコンドームみたいなブルーで、雁皮紙が薄くって僕は書きやすかった。」
言いながら、修正したところをフゥーと一定の風量で吹いて乾かします。
「今は、堀井トーホー・ホースなんだー。切っていて、クニュって厚さがある。何だかなぁ。イイ品なんだけど。原紙のメーカーを指定して来るお客さんなんていないから。ホントはどうでもイイんだけどさ。」
「それで、瑠音君と戻って来てどうしたの?」
アオケン君は修正液が乾いているのを慎重に確かめながら原稿の上に堀井ホースを置きます。
「瑠音君と戻って来たりなんかしてないよ。帰って来たのは僕だけなんだもの。」
男の子はインクのタップリつまった新品の細書き油性フエルトペンで、ロウ紙の上に何かの図を引きはじめます。
「瑠音君たちは?」
「こぐま座の三重連星の方にアタリをつけて行ったよ。観測の失敗は、どうも巨大魚の悪さのせいらしい…。」
「瑠音君たちだけで行ったの?」
「だから、そう言ってるじゃない。」
「…帰ってこれたのかな?ねえ、アオケン君は、今度は何をしているの?」
「これは、原稿の図を原紙に写しているのさ。こうやってマッキーで書いた上からヤスリでガリ切りするってことよ。ロウが融けないように描くのがコツ。だから溶剤入りの油性ペンじゃない方がいいね。別れるとき、瑠音君から、観測に失敗したガラスの偏光板を1枚もらったよ、これ…」
アオケン君がボタンダウンの胸口から馬上のナポレオンのように彼の右手を差し入れると、胸隠しの中からガラス板を1枚、中指と人差し指ではさんで抜き出して振って見せます。多孔質ガラスの板にはたくさんの空孔が閉じこめられてキラキラと輝いていました。ガラスの裏面から施された簡易レーザーの彫り込みで「Ursa Minor」とブルーの文字が読めます。日付とともにそれがスッキリと穿たれて読めます。


三 アクエリアス

 入場の指令がくだり、最初に気をつけることは前を歩く子の靴のかかとを踏まないことです。「前へならえをしたときと同じ間隔のまま歩きなさい。」と本科に入ったとたん教え込まれます。本当に前へならえをしたまま歩き始めると、シンマイ本科生は袖幕の前で待ち構えている中高生の先輩方や先生に半袖シャツの腕をピシャリと叩かれます。スリルを冒して先生方の目を盗み、その瞬間に自分の好きな子とベレー帽を互いにサッとすげ替えてしまう上級生もいます。見つかっても小声で怒鳴られるだけで、誰にももう手が出せません。ヤッタ者勝ちのたちの悪いイタズラです。5〜6年生はどうせベレーも「頭に乗せている」程度のイイカゲンなかぶり方の子がもともと多いですから帽子が本人のものかどうかはお客様にはわかりません。トーヤ君はヒロヲ君や品川君に帽子をひったくられたことがありますが、カネゴン君や亮平君にされたことはありません。無骨な彼らは着替えの時間に最初から「ベレーを交換してかぶろう」と目を潤ませつつ申し出て好きな後輩の持ち物をかぶって歌うことはあっても、イタズラで手を出すことは無いのです。等間隔の行進がひな壇上でストップすると、班長以上のソプラノの誰か(カミ手から入場の場合はアルトの誰か)が短く「右向け右!」と小さい声で鋭く号令をかけます。ベネチアンブラインドのスラットがパシャリと開くように、皆の体が揃って客席側を向きます。メカニカルなその動作は団員たち自身が『少年合唱ってカッコイイな』と思えるものの一つです。どのタイミングで言うかは全くの当て推量か気配や空間認知力といった団員独特の「カン」に頼ることになります。誰が言うのかは決められていませんが、最上段ならH君、上から2段目ならユーリ君、前の方の列ならレオン君で、毎回同じような子だったりします。たいてい、どの子の「カン」も的中します。予科生や低学年団員ばかりの列が入場してくる場合は、場当たりやリハーサルで自分の目前に下級生の最右翼の子を抱えたアルト団員が「ストップ!」の声をかけ、いっしょに「右向け右!」の呼号を発してしまいます。
 「輝く星座」の最初の注意点は音取りです。今日のステージのようにこれがオープニング・ナンバーになっている場合、音の感覚がまだリセットされたままの状態でのスタートですから警戒しておく必要があります。ピアノ伴奏の最初の和音を聞いて前奏のボカリーズを組み立てていかなくてはなりません。オフ・ブロードウエー・ミュージカルです。サイケでヒッピーな反戦ミュージカルの開幕の曲。「♪レソドラー♪♭レ♭ソシ♭ラー」半音ずつ3階層下りてゆく神秘的でエキセントリックな進行のために、その音が合っているのかは、殆どの団員には最初自信がありません。ですからカネゴン君は卑怯だとは思いつつも小さな声で「♪ルルルルー」と歌いはじめます。楽譜なら1段歌いきる頃になって、ようやくソプラノ声部の子でも霧が晴れるように自分の音程を感じとることができるようになりはじめます。突き出した唇を収めるのはピアノがロック・ミュージカルふうのベース音を奏ではじめた刹那ということになります。ピアノはエンディングまでベース音のフィンガーピックに徹し続け、最初の歌詞が出るまでの3小節半の間にトーヤ君は唇を舐め、カネゴン君は握ったままの指で掌のくぼみの汗を拭い、アオケン君は胸ポケットに黙って忍ばせておいたガラスの測光板の形を服の上から触って確かめます。

 ♪夜のそらに咲いた 星座はささやく ただ、愛だけを…

ユニゾンで繰り出された発句をアルトの少年たちがじんわりと下で受けていきます。訓練を受けたアルトでも、小学生では低い声へ届かずなかなかピッチが安定しません。ソリストクラスのアルトの子が黒目をぐるりとまわして指揮者の評価を表情から読み伺おうとします。メタルフレームのメガネの上からシーリングライトの煌めきを盗み見る団員。乱暴な口の開き方で気持ちをぶつけようと試みる子もいます。次の注意はロングトーンです。フレーズの終わりはモデラート四分の四拍子の全音符が少なくとも一つ分から、最長で3つ半のタイで正確に伸ばしておく必要があります。カネゴン君の声部にはオクターブ上の音、トーヤ君のパートにはト音記号の楽譜に一本加線の入った下の音が配当されています。練習場でそれを合わせようとどんなにもがいてみても小学生の男の子には難しい芸当でなかなかうまくいきません。前に控えた部分が四分音符ばかり比較的目のつまった歌詞で埋まっているために、カンニングブレスのタイミングがはかれません。本当の歌の実力だけがモノを言うシビアな曲なのです。小学2年生からいる男の子らが果敢にそれと闘う姿が「輝く星座」の見どころのひとつということになります。ところが伴奏の指定がノンコードへ解放されて曲がブレイクすると子どもたちが突然攻勢へと転じます。

 ♪アクエリアース!
 ♪アクエリアース!!

メインのメロディーを力強くキープするアルト。対峙のためシモ手側へトップしたまま減衰してゆくソプラノ。カノンするメゾソプラノ。再叫のソプラノ。受けるアルト。追ってゆくメゾ。高音圧のまま3つのパートが右左中央右左中央と激しく飛び交いつつ攻防を繰り広げ、合唱団のステージはもはや空中戦の様相を呈し始めます。次に曲がインテンポのままダルセーニョに押し戻されると、ラジエーター・キャップを飛ばすほど高潮した気分を少年合唱団は一瞬で鎮めます。リセットのうえ、冷静に冒頭へと帰投し、演奏が継続してゆくのです。指揮者に向いたメゾ団員の肩が、トーヤ君の胸に当たるばかりになっています。彼はフガートの途中で半歩前へ動いてしまったのかもしれません。ストレスをかけて歌っている時に身体の重心が水平に動くという事は普段ありえないことなのですが、今日はどういうわけかそれが起こったのです。男の子は前頭葉の片鱗で事態を忘れようとしながら小脳虫部を使って立ち位置の微調整をかけます。すると、間髪入れず背後にあたるカミ手がわの位置から合唱に紛れるよう斟酌したアンビ君の声がコツンと彼の後頭に当たります。
「前!前!」
《僕に当たらないように前へ出ろ!下がるな!》…でしょうか?それとも《演奏中に動いたのは前の子だから、きみは動くな!》…でしょうか?いずれにせよ自分が制止されたと判じたトーヤ君は歌いつつ行動を慰留してしまいます。

「♪かがやく…かがやく…」と訳詞の末尾が繰り返し叫び上げられ、先生が左手で叩くきついピアノのベース音が鼓動のように時を刻みます。カネゴン君と品川(兄)君が、もう手遅れでしょう?と心急くほど「溜め」きった(もどかしいくらい遅い?)タイミングの後に隊列上段からダダダダ…と少年たちの肩口をかすめ馳せ下りて来ます。2サスのライトに照射された暑気の中、2人のソリストが走り抜けた後には微小で寒暖を感じさせない一陣の風が起きます。パートも背丈も違う2人がそれぞれのタイミングで離脱しているはずなのに、エキスポランドのジェットコースターのようにソロのバミ線の上で彼らはピタリと同時に邂逅して気を付けをかけます。誰が見ても凛々しいと感じる肩の線を見せながら、2人の上級生の声が揃って射出されます。前江トーヤ君が少年合唱団にいて再び「かっこいいなー!」と焦がれる一瞬です。4年生がもし「その他大勢」の団員だったらそうは思わなかったでしょう。けれどどの団員も厳しい練習をくぐり抜け、どの子も何らかのソロの出番を受け持たされているこの合唱団では、自分よりも実力のあるメンバーの独唱は常にときめきと思慕と憧憬を与えてくれるものなのです。

 ♪When the moon is in the seventh house...

「月が天の第七室に在り、ジュピターが戦の神に並ぶとき…」。ソリストたちが隊列の前で客席側へと拡声した音場は、団員の方には直接響いてきません。グースネックマイクが拾って客室へ還流した適度なリバーブのついた独唱の声を聞いて、少年たちは仲間の行程を感知するのです。さらに伴奏を聞いていればソロの終わるリピート指示の部分が判ります。「輝く星座」の英語歌詞は1番も2番も全く同じ。全隊の子どもたちが引き取って続きを歌って行きます。ウインチで巻き取られた重機のごとく今度はソリストたちが突然弾かれたように回れ右でもといた隊列の場所に還流して来ます。勝ち誇った表情もニッコリも無く、2人の少年は踵をかえします。

♪This is the dawning of the age of Aquarius.... the age of Aquarius

英語の歌詞の方が、言葉の間が空いていて、アルトの少年たちには音を比較的乗せやすいということがあります。楽譜を見なくとも低声のポジショニングや流れが「勘」としてたぐり寄せられるほど歌を叩き込まれ鍛錬された2メゾ以下の子どもたちにとって、ありがたいことなのです。それでもトーヤ君の前に並んだアルトの小さな本科団員たちはメゾに釣られてしまって肝心のロングトーンを正しいピッチで引きつけておくことができません。フィーネまでの楽譜にしておよそ3段にわたり、ふんわりふわふわと音にワウフラッターが生じます。先生が指揮の右手を差し向けて「ピッチ・ホールドしろ!」と緊急指令を送るときもあれば、大げさな目配せで済ますときもあり、そもそも十分想定内の事態なのか聞こえていないふりで曲をつづけることも多いようです。ミュージカルナンバーはアタッカのまま、ピアノソロの Let the sunshine in にスイッチします。男の子らは後はアフタービートでハンドクラップしながら身体を左右に振りつつロックミュージカルらしさを演出するだけです。歌うことはありません。(たとえ歌ったとしても、ただ「♪Let the sunshine in」と繰り返し唱えることしかありません)後奏として付随するその30秒間に団員の考えることは何でしょう?「輝く星座」についてはもう殆どの子が終わってしまったとの見なしで意識にありません。次の曲を考えている者は、出番のあるソロ担当の子だけです。アオケン君は出演の引けた後のナイショの夜遊びの謀略が頭をかすめます。赤いタータンのボウタイに合わせるシャツの色はパステル・パープルでいいかしら?レプス君はスクーターのガスタンクを満タンで誘いに来てくれるのでしょうか?カネゴン君の頭の中にあるのは歌い終えてしまったソロの出来ではなく、バナナフレーバーのホイップクリームがたっぷりと乗ったパンケーキの香ばしい匂い。そして今日はペルセウス座大流星群の日です。手を叩きながら、ダンスの振りの記憶をたくぐっていきます。出演が終わり楽屋口で出待ちのお姉さんやおばさんたちと写真に写った後、躍ってみせてあげたらどんなにか喜ばれるでしょう。♪ホップ!ステップ!ミロ☆ジャンプ!でVサインのキメのポーズをとりながらはにかみつつ着地する自分の姿が見えるようです。前江トーヤ君はしかし、昼に見た巨大グモの様子だけが心象の中によみがえってきます。壁を伝い何を見に来たのでしょう?そのときまた、トーヤ君自身は何をしていたのでしょう?僕の事を大切にしてくれる優しいカネゴン君は、何を思って蜘蛛を見ていたのかな?Let the sunshine inのメロディーが繰り返されてゆきます。身振りには簡単な足さばきが加わります。お客様がいっしょにハンドクラッピングをしてくださっています。ペルセウス座大流星群の日。Let the sunshine in…Let the sunshine in…。


四 夜汽車 Nachttrein

「間もなく、武蔵小杉…武蔵小杉。お出口は右側です。武蔵小杉駅は、カーブのためやや傾いて停車いたします。電車とホームが一部開いているところがございますので、お足元にご注意ください。」
夜の横須賀線。アオケン君が飛び上がるほどびっくりしているのは、車内アナウンスが女の人の声だったからだけではありません!
「え?!!」
武蔵小杉は南武線と東急東横線にしか存在しない駅です。渋谷から各駅停車に乗ったら新丸子の次、急行は多摩川園駅も止まらないので田園調布の次ということになります。アオケン君たちが乗り込んだのは海紺色のソリッド・モケットが張られたセミクロスシートの千マリ近郊電車で、これははたして横須賀線に間違いありません。窓々に灯る池雪のあかり。品川駅を出てしばらく新幹線と並走してきたのですから、新川崎までの延長12.5キロの区間に人の乗り降りできる駅のホームは一つも無いはずなのです。それをどう切り出そうか逡巡しているうちに、トーヤ君が頬を赤らめて言います。
「夜のムサシコ駅のホームの天井は冷たくって澄んでいてキレイですてきなんだよネ!」
「星がキラキラまたたいているんだ。」
カネゴン君も言います。
「横須賀線なのに、どうして南武線の駅に停まるの?」
「キミは何も知らないんだな。武蔵小杉は、横須賀線の駅の名前じゃないか!」
アオケン君はもう一度、考えてみます。でも、いくら頭をひねってみても1982年のアオケン君にとって、横須賀線にそういう駅は無いのです。東京駅の地下1番ホームから久里浜駅までを往復し、総武快速線に乗り入れるだけの15両編成の高速電車。停車する駅の名前はすべて順番にソラで言うことができます。
「ま、東急は目黒線も停まるんだけどね。」
「目黒線?…目蒲線のことをキミはわざわざ目黒線と蒲田線って言うの?」
「メカマ線って何?」
「アオケンの言っているのは、多摩川線のことじゃないの?」
「タマガワ線なんてもう無いんだよ。今は地下鉄になって新玉川線っていうんだよ。」
「なんじゃ?新タマガワ線って?そんな電車、聞いたことも無いよ。」
子どもたちの話は全く噛み合いません。
「この電車は、海老名行きです。The next station is Musashi Kosugi. The doors on the right side will open. This train for Ebina, via the Sotestu Line. 」車内放送が言います。「えいごであそぼ」のおねえさんの声が累々とそう告げて行きます。男の子は聞き耳をたて、さらに混乱していきます。
「横須賀線の終点が、海老名なの?海老名は小田急線の駅じゃぁないの?」
「そうとも!海老名は小田急小田原線の快速急行停車駅さ!だが、同時に相鉄本線の下り終点で、われらが夜の横須賀線の終着駅の一つでもある!僕たちは今晩、いったいどこで降りようか?」
アオケン君はもう一度考えてみます。ゴリーウォークのケークウォークをメリハリつけずに弾いたようなもどかしさを感じます。4年メゾソプラノがカッシーニ坂のバールで買った恒星ラムネを通団カバンの底から引っぱり出し、6年生ソプラノが壜をひったくって玉開けを飲み口に押し込んでやるとシュッと音がして忍び込んでいたレモン色の帚星が一つ逃げていきました。トーヤ君が唐辛子色の唇をカチンとそこにあて、ビー玉の音をカリカリたてながらソーダ水をジュウッと吸いはじめます。ビン口をくわえたまま、上目遣いでトーヤ君が思いついたように切り出します。
「見せてあげる!夜の武蔵小杉駅ホームの透明天蓋。さあ!荷物をまとめて電車を降りるよ!通団バッグを忘れずに!」

 上下線まとめて入線していた電車が行ってしまうと、ホームの俎上は無言の茫漠とした世界です。「透明天蓋」と子どもたちは言っても、上屋は細い樹脂サッシの格子がはりめぐらされたムーンルーフになっています。その間から、板のまま銀紙を剥くビターチョコを敷き詰めた夜空が静かに降りているのです。一見して散りばめられた星の界が、プラットフォームの照明の代わりを引き受けてあたりを照らしています。不均衡な位置にどうやら赤い絨毯の帯が伸び、華奢な手すりの付いた階段を上ってホーム上に立ち上がった高床の駅務室のドアの下に消えていました。シックなカーテンをタッセルでとめたその窓を背景にしながら、右腕に脱いだウエディング・ドレスをかけた全裸の女性が裸足のまま無言で燭台を掲げ、前を見据えて歩いています。星明かりが女の影を絨毯の上につくります。2人が平然とそれを看過しているのを見て、アオケン君は何も言いませんでした。線路の向こう側からは古びたスラブのレール上に色灯信号が懐かしい光を落としています。駅の周辺に林立する高層ビル群が、住宅棟の家々のランプの灯をぼんやり浮かべて佇んでいます。ホームの端でアンモナイトの化石をわしづかみにした考古学者が老眼に合わないメガネをおでこに外し、星明かりの下で細部を観察しているのを見つけて子どもたちはまた話しはじめます。
「涼しいのね。いつか、また、秋が来ていたんだね。」
「雑草の間に首を傾げたりんどうのかわいらしい花が、食堂の前の空き地に咲いている。」
「そうかな。僕は今日の練習もノドばっかり渇いてトイレのお水を飲んでばかりいたよ。」
ペルセウス座ガンマ流星群はプラットフォーム上のどの位置に降るのでしょう。ジョバンニ・スキアパッレッリが捻出した放出点の彗星は、アンドロメダ座の近傍を通るとカネゴン君は教えられていました。
「僕の水筒はスタジオに着いてから1秒で空ッポになった。」
「きみは汗ふきタオルを絞ったらジャーって出るぐらい汗をかいていたよ。」
「暑かったよね。」
「暑かった…。」
少年らの体温を超える気温がもう何日も駅前の掲示板に示されたきりになり、合唱団の子どもたちは通団のため本能からなるべく日陰のルートを選びつつ歩く炎夏の日々でした。でも、今、この場所だけは違います。フランドル・ベルギーの浄夜の涼やかな風がホームの端々をわたり、逞しい胸板のギリシャ彫刻の立像の兵士の肌には恒星の重力圏を抜け長の年月を通じてやってきた淡い光が薄いラベンダー色の階調を重ねているのでした。トーヤ君がそれを見るなりとうとうカネゴン君の前へ馳せてあたたかい身頃へとしゃぶりつき、首を左右に振れて顔を拭くように尋ねます。
「ボクの大好きな大好きな世界一かっこいいカネゴン先輩は、どうやって日本一のボーイソプラノになれたの?」
「日本一?何の日本一?」
「どうすれば僕もカネゴン君みたいな日本一のボーイソプラノになれるの?」
「知らないよ…僕は声も発音も変。口も、鼻も、舌も、きっと胸もお腹も変!…きれいに声が出ないし響かない。そんな僕に日本一のボーイソプラノのなり方なんか判るはず無いじゃないか。」
「でも、カネゴンはソリストになったじゃない?!」
と、アオケン君も口をはさみます。
「ボク、日本一のボーイ・メゾソプラノの作り方なら知ってるよ!。教えてあげようか?難しいんだぁー。」
前江トーヤ君が息継ぎのように身体を爆ぜて話し始めます。
「難しいんじゃムリだな。だいいち、そんなのになったって、あと1〜2年で5〜6年の団員生活は終わる。…まあ、餞別代わりに聞いてやらぁ!」
ホーム頭端、タブ受けの螺旋の傍らに黒いトルソのマネキンがヴェールをかぶって立っています。
「星明かりの晩にテラスへコンロを持ち出して、もぎ取った宵の明星を時間をたっぷりかけて煮込むのさ。金星ジャムの出来上がり!」
「そんなもの、作ってどうするんだい?食べるのかい?食べたらノドにいいのかい?」
「歌うのさ!ごろごろごろごろ、たっぷりの重くて甘い明けの明星を!好きなだけ。欲しいだけ。洗って、皮を剥いて、袋もとって、きれいなきれいなさらさらの砂嚢だけにして…」
「皮は入れないのかい?」
「これはママレードじゃないから、入れないよ。苦くなる。」
いずこでか瞬くルビー色のテールランプひとつ。ふたつ。レンガづくりの検車場の建物から、白熱灯のあかりが三角定規のように斜めに差し出ているのが見えます。
「星々の理論的下限質量の発生原理をもとにばらばらになったお星様の重さを算出する。」
「どうやって?」
「全部の星のエネルギーを光速の二乗で割ったら出て来る。光速は、毎秒<肉食うな、国稚児は(299792458)>万キロメートル。」
「金星1コの質量はざっと4.869×10の24乗kgとして計算したら?!」
「だから、皮と薄皮と小袋を丁寧に全部取り除くって言ったじゃない?」
「量ってどうするの?」
「この質量の合計がフィボナッチ数列を導くようにグリコシド結合した果糖とデキストロースを大量添加する。注意するのは、アシッドに強い鍋を使う事。当たり前だけど、かき混ぜるために木べらを用意するといいよ。」
「メゾ・ソプラノと全然関係無いじゃん?!」
「ここからが大切!鍋に入れたスクロースが恒星に触れてクスクスとウェヌスの溜息を千々に漏らすのさ。」
「かき混ぜる?」
「いいや。まだまだ。ここは儚く淡い化学反応に過ぎないの。」
「メゾ・ソプラノは出て来ないよ?!」
「うるさいなぁ。まだ、ブレスをきれいに整えておくところ。お習字で筆の先を揃えておくのと同んなじさぁ!」
「溜息をどのくらい聞くの?」
「およそ、一千一秒間…」
「約16分40秒間ってところだね。長い…。」
「違うよ、16分41秒だよ。」
「何だよ!トーヤ君は『およそ』って言ったんだぞ!黙ってろよ。」
「そしてここからが大切!ムダにコトコト煮ないんだ。中火で、お鍋のナカミを見ながらしめやかに加熱する。」
「夜のテラスなのに、お鍋の中が見えるのかい?」
「もちろん、目では見えないさ。だからクツクツと地殻が融けるお鍋の近くに立って夜目で歌うんだ。」
「…何を?」
「何でもいいけど、静かな感じの曲の方がいいかな?」
「そうだなぁ。」
「夜のしじまに紛れ、あたらしい豊穣の詩が歌われる。人知れずたっぷりと。お鍋の中から歌声が聞こえるんだ!押し殺したような声で、漏れ垂らすように。」
「きみ自身の声は闇の中でどうなる?」
「やがてエクスタシーに満ちた酸い蜜の香りや妖しい甘美な熱気の波が幾重にもやってきて、暮夜の闇ごと僕たちの身体をふんわりと包みこんでしまう。すると、待ち構えていたかのようにすばらしい絶頂のときが訪れる…星々がグズリと糊化するんだ!お鍋のナカミがもはや天体で無くなる錬金術的瞬間が閃光のきらめきのようにやってくる。身も心も痺れるようなとろりとした糖度の中で、僕らは天体とともにああぁと陶然の恍惚の刻をむかえるのさ。最後はバッカスの神のお礼に上からコアントローをひとふり垂らすのを忘れずにね。」
「それで終わり?」
「まさか?!翌朝、お鍋の中にひたひたとした黄金色に輝くエルドラドが現出している!すごいヨ!金星のエネルギーが全部煮溶けてる。星の質量かける光速の二乗!そいつが朝日の中でキラキラと光っている。夕べのあの悦楽と忘我の刻限が、もう幾星霜も前の出来事だったと思えるほどのしとやかな臥所の底で。…スプーンですくって1口。割いたベーグルやマフィンの角に盛って二口。お塩の粒がぴちぴち跳ねているクラッカーの上に落として三口。それから、チーズの間に溢れるほどはさんで四口…。強烈な甘さと麻痺しそうな爽やかな酸味と、降り注ぐ陽光をエネルギー変換させて閉じ込めたきらびやかな香りが幾重もの波動になって僕たちの口腔を制圧する!これぞ暁の星のジュレ!名前は『日本一のメゾ・ソプラノ』!パクッ!」
「え…?」
星々は一面の天蓋にはりついて気持ちが悪くなるほど鮮やかに瞬きます。
「『日本一のメゾ・ソプラノ』って、オレンジ・ジャムの名前?!」
「カンッ!としたボーイソプラノの味でもなければ、ゴツン!ボーンとしたボーイアルトのコクでもない。キリっとした頼もしい声質と骨太の旨味と甘い粘りけのある舌触りの絶妙のハーモニー!皮の渋み苦みの無い澄みわたった正真正銘ヒノモトイチのオレンジ・ジャム!コレぞ日本一のメゾソプラノたるゆえん!」
「じゃあ、きっとトーヤ君…キミの歌と同んなじだネ!」
「うん!ほっぺたが落ちるほど、おいしいヨ!」


五 横須賀線citoronomachy

 飛び乗った113系のグレーの車床は未だ光らず、ペール・オリーブのデコラがクロスシートを遮ってドア毎に広がっています。扉の脇の小さなロングシートに小学生3人分のお尻は入ります。最初、彼らはそうやって肩を寄せ、話の続きをしていました。サファイア色のモケットの背にいい匂いのする通団服のベントを押し付けながらカネゴン君が言います。
「…きっと、先生の気まぐれなんだろう?」
「気まぐれなんかでソプラノのソロにしてもらえるかい?だいたい、先生の口癖って『キミたちは、お客さんをアナドってないか?!』なんだよ。」
「ボイトレの先生だったら絶対に『カネゴン君っ!日本一のボーイソプラノかどうかは、お客さまがお決めになることでしょう?』って言うね。」
「お客さんは僕のいったいどんなところがイイのかな?トーヤ君はわかるのかい?」
4年生はそれでもカネゴン君の肩に鬢をすりつけながらクスクス笑います。
「僕なんか、ちっともイイ声じゃないよ…。カキクケコの発音もサシスセソの発音もキレイに出来ない。口笛が吹けないし、指パッチンもできない。初見で楽譜が読めない。毎週練習だけは仕方なくやって来て、高学年だから一応毎回ステージに出してもらって…。あのときだって僕は辞めるのが怖くて、今もここにいる。」
5年生の終わりの春。たくさんの団員たちが入団の誓いを反故にして、進学を目指し辞めて行きました。彼が新ソプラノのパートリーダーになったのは、多くの新6年の団員がいなくなってしまったから。スタンバイのタイミングが苛々するほど遅く、歪んだ発音の、キツい発声のボーイソプラノ…。電車は新川崎を抜けると次第にモートルの音をあげていきます。男の子らの頭上でまん丸なボーンチャイナ色のカーバイトのつり革が小刻みに揺れていくのがわかります。VVVFインバータは未だ線区に存在しません。直流の抵抗制御が強靭なトルクを絞り込みながらすさまじいうなりを伴って電車を駆り立てて行きます。トーヤ君が6年生の肩に振り返った顎をあずけ、鼻腔から静謐な精気を漏らして窓外を眺めているうちに、あまたのナトリウムライトに弱々しく照らし出された数千輛とも思われるおびただしい貨車の静止した群棲が眼下へと広がっていることに気づき、息をのみます。
「わあ!すごい!すごい!たくさんの貨車が集まっている!
彼らの眼下には、きれいに敷き詰めたビター味のチョコベビー様のものが漆黒のベルベットの中に幾十百と列をつくり、並列していました。
「…これは、貨車の墓場だ。何年も何十年も、重い荷物を積んで雨風の中で働いてきた貨車たちが、ここで終のときを静かに待ってるんだ。」
「貨車の墓場?」
「本当に役目を終えたのかどうかは知らない。…ただ、もうここにいる貨車の仕事は無いという意味なんだ。」
カネゴン君が太い唇を結んで言葉を切ると、ビッグバンド調のスローバラードにのせてアオケン君が甘酸っぱい笑みをたたえハスキーに歌い出すのでした…

♪ブルームーン
 独りの私を見ていた
 夢もはや叶わず
 強がることも無く

 ブルームーン
 私を見ていた
 祈りを聞いていた
 思い人のため

 前ぶれなく ここに懸り
 月のかいなに ひとり囚われ
 月影の囁きを聞き、仰ぎ見れば幸多かれと瞬く

 ブルームーン
 もはや独りではない 今宵
 夢うつつにあらず
 強がることも無く

ドア際のロングシートの窓は戸袋の二重サッシで開ける事ができません。自分たちの頭蓋で暗がりになった内側のテンパーガラスを通して、外ガラスを支持するねずみ色のガスケットのシーリングが見えます。リューウウウウーと電車が終末の貨物機関区の上を滑るように上って行きます。

♪Blue moon
 You saw me standing alone
 Without a dream in my heart
 Without a love of my own

 Blue moon
 You know just what I was there for
 You heard me saying a prayer for
 Someone I really could care for

 And then there suddenly appeared before me
 The only one my arms will hold
 I heard somebody whisper please adore me
 And when I looked to the moon it turned to gold

 Blue moon
 Now I'm no longer alone
 Without a dream in my heart
 Without a love of my own

 written by Lorenz Hart : public domain(著作権消滅)

 ナトリウム灯の狭い波長が眼下に広がって過ぎてゆきます。昼間の暑さにあぶられ続け蓄積されていた倦怠が、視覚信号に含まれたオレンジ色のライトを引き金に呼び覚まされていきます。アオケン君のメランコリックな声がその演色性を鼓舞し、子どもたちは速やかにまどろみの側へと誘引されていきそうになります。ところが…
「あ!球だ!びっしりの赤い球が川みたいに飛びだした!」
トーヤ君が叫んだガラス窓の眼下に、貨車の目地から打ち出されたかのように見える大量のボールのひしめく流れが見えます。夥しいモル濃度で横須賀線の下から並走するように迫ってきます。見いだされたのはそれぞれの表面に吹き出たつやつやとした微小なクレーターでした。赤色に見えたのは、灯火の周波が混濁しているからで、男の子の見下ろす先に電車と等速で群舞する球体群はどうやらもともとオレンジ色だったようでした。電車に触れないよう距離を置いて、果実は大挙して高速で流れてゆきます。土星の輪のように磁気や旅客車の重力の平衡によって平板な形に収束し、ところどころにカッシーニの間隙も認められます。113系は今、電子の励起光をまばゆくふりまきながら、量子収率いっぱいに辺りを輝かせて疾走します。向かいの戸袋窓を通して広がっているのは矢向の夜半。川の出合うところおびただしく散開した家々の明かりが清冷なままちつちつと瞬いて、視界を静かなスライドショーに見せています。かたや此方の窓には数千万の序列集合を描くオレンジが星の光と車輛の客室灯と方向幕を小さく反射して膨大な基数と濃度のままサーッと流れを偏向させようと挙動しはじめました。トラジ色の蒼白な霧氷が球体をのたくって煽るように、オレンジは南西へと流れを振って行きます。少年たちが黙として見守る中、光り輝くまま、ルミネッセンスの果実たちは星空高く打ち上がるのでした。電車の中にローズオイルの芳香を伴った透過性の無菌の風がカラカラと流れ、消毒に残ったクレゾールの匂いを駆逐していきました。
「ホラ!どぉ?すごいでしょ?」
弟分が両手を添えて差し出す手に載っていたものは、車窓を流れていたはずのオレンジ!
「1コだけだケドね。」
アオケン君とカネゴン君がビックリまなこで見つめるその先では、下級生の小さな指を折らんばかりに果汁を充たして重そうな、実のつまった橙色のボールが掌から溢れ落ちそうになっていました。
「オハツにお目にかかります!」
黒い男の子が言います。
「凛々しくて、カッコ良くて、たくましくて、セクシー!」
ボーイアルトも言いました。
「オレンジ・ジャムに煮たら、きっと日本一のメゾ・ソプラノになりそう!」
前江トーヤ君も唾っぽい声で叫びます。
「トーヤ君、電車の中からどうやって採ったの?」
アオケン君がそう尋ねると、彼の土星のブレザーは突然、濡れたような濃い紺の美しい天鵞絨に変わっていました。タータンチェックのボウタイの代わりに胸元を優しいベルベット・ムラサキのリボンタイでちょこんと飾って、肩の線だけが懐かしい男の子の体躯をしるしています。車内は近くの何人かを除いてまるでがら空きで、切妻のミストグリーンのデコラ壁には、消火器を収めたステンレスのニッチと貫通扉から剥き出しになった暗がりの幌枠が見えていました。今までずっと身体をくっつけて窓外を眺めたりおしゃべりしたりしてきたのに、アオケン君の上半身が着ているものといっしょにすぅぅと涼しくなったような気がして、何だかとても恋しい気持ちになりました。黒ボタンでたくさんとめられた天鵞絨の上着の腹の下に真っ黒な半ズボンをつけているようなのですが、男の子は股の上に黒いしっかりしたつくりの星座早見盤を落とさないようにのせて手を添えているのでよく見えません。両のズボンの裾から群青色のガーターの帯ゴムや薄いバックルが覗きます。学校の制服の黒タイツをはき、生地に透けた膝頭や向こう脛がぴかぴかとマルン色に光っています。穴飾りのたくさん開いた先の丸い真っ黒なおかめの短靴のかかとをきれいにそろえて静かに座ってる様子を見ると、普段からもう大好きで大好きでたまらないという気持ちがいっときに昂揚して子どもの体温を上げました。トーヤ君が「星座早見盤は、iPodの『Star Walk-5つ星の天体観測ガイド』の方が本当に早く見られて便利なんじゃないの?(…しかもソフトの値段は350円)(でも、iPodは星座早見盤にくらべたらちょっと…かなり重いかな?充電もしなくちゃイケナイし…)」と思ったとき、たおやかに座っていたはずのアオケン君自身が口をききました。
「ねえ、カネゴン君のところに最近、あの6年生っぽい女の子たち2人とも来てないネ。」
「来てるよ。6年生じゃなくて、中学2年だってさー。最近、デパートとかの出演が多いからステージ中に花束渡し難いらしい。」
「他の少年合唱団にも、団員の追っかけ女子っているのかな?」
「ツト君の親戚のおばちゃんって、<厨>とかJKのころ、ビクター少年合唱隊の隊員さんの追っかけやってたんだってさー。」
「うそー!どんだけ昔のハナシなんだよ?!カネゴン君みたく、プレゼントとかもらってたのかな、VBCの子?」
「何か、好きなもん聞きだしたりして誕生日プレゼント贈ってたらしいよ。カードとか付けて。あと、バレンタインのチョコとか。」
「あー、オレと同じだ。どっちも、もらってる…。」
「いいなぁ〜。」
「いいもんかよ。マジ恥ズい。トーヤの方が可愛くて、歌うまいのにネ。ワケわからん。」
「カネゴン君は、やっぱカネゴン君だからカッコイイでしょ。」
「全然知らない中学生から『ファンです』ってチョコとか差し出されて、何て言やイイんだよ?」
「『ボクは声変わりするまでがんばるので、応援してくださいね』ってのは?」
「うっ!バッカみたい!」
「カネゴンって、合唱団のお母さんたちにもファン多いよねー。」
「ボクのお母さんなんか、カネゴン君の息子の追っかけもやりたいから、先輩が大人になって結婚したら『男の子だけを確実にさずかる方法』ってのをお嫁さんにしっかりレクチャーするんだって、今から言ってるよ。男の子を産みわけるクスリってのもあるんだってさー。」
「おまえ、そんなんで産まれて少年合唱団に入れられちゃったのかよ?」
「違うよー。ボクはたまたま成功した例なんだよー。」
「僕のお母さんも毎年カネゴン君にバレンタインの本命チョコもどきあげてるよ。なんか、苦労人で合唱団の皆の幸せのために泣いてもらってる子だからだって。」
「ンな、ナニワブシみたいなこと、言われても…」
「カネゴン君がステージを欠席した日は、お母さんたち『今日のコンサートはハズレだった』とか、『カネゴン君が出演してなかったわりにはみんなけっこう頑張ってた』とか、内輪でこっそり言ってんだよ。自分たちの息子に失礼だよね。」
「うふふ。」
「そんな子、他の少年合唱団には絶対に一人もいないよネ。」

 このとき、113系はゴム敷きスラブの鉄路を疾走し、星空の中を進むようになりました。日吉の対岸もまた墨色の宅地の陰に沈んで降下していきます。団員たちの座るセミロングの座席の向かいには、週末のお休みのお父さんに連れられた丁度4年生ぐらいの男の子が本当に安楽な表情をしてこちらを見ていました。トーヤ君よりも1〜2ヶ月だけ小さいというほどの背格好で、食べ物の好き嫌いのあまり無い子なのだなということが分かります。さっぱりした短いもみ上げの切りそろえた髪型をして、胸にapと組文字ロゴが入ったアーノルドパーマーの白いポロシャツと切れ上がった流行のチノパンの半ズボンをはいています。かたちのよい柔和な下腿をチャンピオンプロダクツのワンポイントのプレーン・ハイソックスが静かに覆っていました。カネゴン君は先ほどから男の子の足の甲をキュッと絞めているベロアブラックのアシックス・タイゴンが気になって仕方ありません。21世紀初頭の男の子が校庭で履いている鬱陶しいくらいコマギレな反射材がゴテゴテと縫い付けられているゴチャゴチャした色づかいの靴とは全く違うのです。クラスの皆はスプリントや瞬足やスーパースター…。カネゴン君も普段、大人しめなダークネイビーのadidasスピードフットや黒いイノヴァのトレーニングシューズなどを選んでつっかけているのですが、その子の足元はもっとプレーンでシンプルでフォーマルな子どもの足のカタチや温もりを感じるスニーカーがスマートかつ精悍に引き締めているのでした。その気配を視線の片隅に感じつつ、トーヤ君は男の子とお父さんにニコニコと笑みを送ります。ニッコリされた知らない男の子が反射的に頬を緩めます。天井に並んだ冷酷で薄汚れた蛍光灯の白光の下、彼らがお日様の顔を山吹色にキラキラさせているのが車窓の外からも明瞭に見てとれます。
「あの子にあげていい?」
お腹の前に果実を抱いて尋ねるトーヤ君の声に、2人の上級生は顔をほころばせて頷きます。カネゴン先輩が前を向いて言います。
「お前が採ったオレンジだろ。トーヤの好きにしたらいいさ。」
アオケン先輩も気持ち良い答えを返します。
「僕たちにくれるつもりだったのかい?♪ぼッ、ぼッ、僕らは少年合唱団…おいしいメゾソプラノは全部お客様にさしあげるものサ。」

 微細動の静まった灰色ロンリウム床。進み出ていったトーヤ君が、男の子のむき出しの股の上にオレンジをそっと置きます。
「あげるよ。おいしいヨ。」
明るいはちきれんばかりのオレンジをぽつんとその子の茶色いふとももに押し付けて言います。外気の中を滑空し、十分に冷たい球になった果実が肌に触れ、ポロシャツの男の子は一瞬びっくりとします。それでも、やっぱりニコニコとしてトーヤ君を上目遣いに仰視します。
「ありがとう…いいの?」
「いいさ!キミが食べたらイイよ!それに、このオレンジを煮てジャムを作って食べたら、日本一のメゾソプラノになれるよ。少しずつだけど、きれいな声で、集中して、まわりの皆のためにカッコいい発声で歌えるようになる!よかったら、お家でやってごらん。」
お父さんも笑ってそれを見ています。精一杯低くない小さな明るい声で「どうもありがとう」と言ってくれます。ところが、トーヤ君が踵を返し上級生の情味に向き合ったとたん、彼らの肩越しの車窓の景色がすぅっと5〜6度の傾斜に傾き、誰にでもわかる滑らかな加速が器機の強烈な周波音とともに旅客車を襲ったのです!リウゥゥゥゥー!リウゥゥゥゥー!
男の子がふらつきながらモケットに尻を落とし、二人の上級生の温かい肩に挟まれて逆側の車窓に目を移したとたん、電車はすうっと浮き上がりゴロゴロいう軌条の音が下方へと落ちたのです。
「あっ!浮いた!」
「…飛んでいる。横須賀線が、すごいスピードで飛んでいる!」
トーヤ君は、加速と上昇にしたがって足元で移動し偏向する重力を感じながら、外気の吹きすぎる音や圧を聴き取って叫びました。
「見てごらん。横須賀線は、夜空を飛ぶのだよ。」
カネゴン君が言います。何と言う事でしょう!!列車は鉄路の上をモートルの音を軽く静かに響かせ、筐体を左右に振って、振り零された川崎の幾万の小さな明かりを車窓に見せて飛んでいます。リウゥゥゥゥー!リウゥゥゥゥー!
「飛んでなんかいないよ。これはスーパーロングレールがきれいで新しいバラストのPC枕木に斜め継ぎで留まっているから、そう感じるんだ。」
と、アオケン君は言うのですが、
「スーパーロングレールって?」
「1キロメートルの半分ぐらいある長いレール。」
「PC枕木は?」
「コンクリートの枕木。」
「じゃあ、斜め継ぎっていうのは?」
「膨張しても曲がらないように線路を斜めに継いであるから、ガタンゴトーンってジョイントの音がほとんどしないんだ。」
「…??」
どの電車に乗ってもそこそこに線路の音など聞かない21世紀の東京の子どもたちにとって、それは古くなり黄変した戦争中の理科の教科書を読むような内容のハナシです。彼らの時代の鉄道は、どれも何百メートルという長さのレールをコンクリートのスラブの上で斜めに継いで電車を走らせているのが当たり前で普通だからです。話題にならないのです。
「じゃあ、何でこんなに街の明かりがきれいなんだ?」
「今日はペルセウス座ガンマ流星群の日だから?」
「じゃあ、何でこんなに静かなんだ?」
「星々の風が鉄路をキンと冷やしているから?」
そう言っている間にも、窓外の夜景は静かに高速で流れて行きます。軌道の上空を抑制された高度で滑空していくのでした。


六 カネゴン君のグリーン券

 さあ、ここでお話を私たちの静かな京浜の夜の物語へと戻しましょう。
3人の少年たちは列車の5号車…増結されている先頭から数えて9輌目中央のリクライニングシートを力ずくでガッチャンと回転させると、深呼吸するようにしてそこに座りました。
「こっちのグリーン車がいいんだよ。見てごらん、鶴見川が見えてきた…。」
黒雲母の窓からは、オレンジ・フレーバーのスペース・ダストを振り撒いたと思しき外界の中、揺らめく川面のほとりに黒く沈んだ処理場の夜が孔版となってとり残っていました。
「どうしてわざわざこっちの古いグリーン車を選んだの?」
ビロードのジャケットから突き出たアオケン君のワイシャツの袖をトーヤ君が小幅に引きます。するとボーイアルトが柔らかい指でさし示した2等車の切妻の上部に、「サロ113」と古めかしい表示が読めます。
「こっちの方がシートが広くて柔らかいし、台車の空気バネがいいんだ。」
リネンの枕カバーがかかったエンジ色ビロードのリクライニング。カチャリと四角いレバーを引いて座席を滑らせると薄ネズミの肘掛けを握って彼らは脚を投げます。
「リクライニングをいっぱいにかけるのは、田舎者のやることだ。」
と、アオケン君が言いかけたとき、
「グリーン券を拝見いたします。」席の横に、帽子をかぶった背の高い客室乗務員が、いつか直立して言いました。アオケン君は、黙として半ズボンのウォッチポケットから小さなかわいい桃色の紙片をにじり出し、つまんで差し出します。マジシャンのように乗務員がどこからか改札ハサミを実体化させ縦に振ると、鈍色のハンドルでサクリと閉じた切符を返してくれます。子どもたちが覗き込むと、表面には可憐な花形のエンボスがきれいに穿たれているのがわかりました。続いて「きみたちの切符は?」という目つきで見下ろす乗務員にかざしたのは、トーヤ君が薄い銀色のプラスチックカードと、カネゴン君はプーマのストラップのついた携帯電話でした。カードにはウォームグリーンの台形とペンギンのイラスト。カードのデザインの他に、「マエエ トーヤ」と青地のカタカナで小さく名前が印字されています。
「キミたち、此れは一体何だね?」
「天井のリーダに、これをかざすんです。」
「??」
皆は揃ってメラミン板の白い天井を見上げました。ミルク色の天蓋がアールを作ってつやつやと光っています。カードのセンサーらしき造作は見当たりそうにありませんでした。だいいち、男のグリーン・アテンダントが改札にやってくるのを2人は見た事がありません。まったく変わった電車です。
「いったいキミの持っている定期券には『小』と印刷されているだけで、期間も区間も等級も何も書かれていないじゃないか?…それから、こっちのキミの持っている分厚いエチケット鏡みたいのは何だ?」
「電話です。」
「こんな、ガラス板みたいのが電話なものか?相手の声が出て来るスピーカーも無いし、それにどこに口をつけて話したら良いんだ?…本当にキミたちは四次元から引っぱり出したようなシュールレアリズムなモノを持っているんだね。」
汽車の制服の人は子どもの手から電話をすっと抜き取ると、電源をおとしたディスプレイの黒い鏡面をつつうと人差し指の腹でなでました。男の子は彼の制服の胸ポケットにいつも収めているこぐま座の測光ガラスの板を見透かされたようで少しだけばつの悪さを感じました。
「これが切符の代わりになるんだな?」
「そうです。これにグリーン券情報が記憶されていて、電車の天井が無線でそれを読むんです。」
「プッシュホンの電話予約やみどりの窓口の「マルス」端末と同じことをこの機械がやるんだな?…それから、キミの持っているのはキャッシュカードだ!そうだろう?グリーン定期つきのキャッシュカードといったところだな?」
「…よくわかんないけど、たぶんそんなところです。」
ダイアル式電話機を学校の社会科資料室でしか見た事の無いカネゴン君はそもそも「プッシュホン」という言葉をよく知りません。


七 アデノシン海岸

「昭和時代、人々がかつて鉄道の旅をすればおやつに食べるものはペストリーやフィナンシェ、煎餅ではなく、みかんだった。かさばらず、携行に便利。指で皮を剥けば手づかみで簡易に食べる事ができ、食べがらはじきに乾涸びて軽く始末が容易。車内に匂いがこもることも少なく、慣れれば指を汚す事も無い。皮のままで十分に衛生的でそこそこ新鮮なまま保存ができるという便もある。包装の手間もコストもほとんどかからず、こぼしたり気が飛んだりの心配無く水分がとれる。冷凍して供すれば暑い夏場を通じても時期を選ばす供給が可能。酸味と甘みのバランスが良く、たくさん食べる事も、一塊でそこそこの満足を得る事もできる。起き抜けの夜行列車で朝食代わりに食べて良し、駅弁のデザートにも、おやつにもなり、食べる時間を問わない。飲料として摂りたいときには小円筒形のスチール缶のトップに小さな専用の穴開け(オープナー)で縦長カマボコ形の穴を点対称の位置にきちんと2つ穿ち、ブリキ臭い果汁を飲んでいた。いずれにせよ、それは『オレンジ・ジュース』。みかんこそが鉄道旅客の友であり、旅情の担い手だった。」
 ハスノハカシパンの残骸が一面に散乱する、ここは顕生代第三紀の海岸です。トーヤ君はお望みの通りクレセントの薄いお月様を両手に掲げ持ってかぶりついています。甘みでべたべたした男の子の指の間からメタン酸、ブタン酸、プロパン酸…酢酸メチルの強烈な芳香がうち溢れています。アオケン君がお月様を見ると、薄いグリーンの弓形の内法に、トーヤ君の小さな可愛い歯形がついていました。なんて、なんて、可愛らしいのだろうと5年アルトは焦がれました。ところで先ほどから3人の前に立ち、彼らの興味の有る無しに関わらず間断無くレクチャーを続けているのは学士さんです。考えてもごらんなさい、大学を卒業した人はみんな学士さんと呼ばれるのです。アオケン君の両親も、トーヤ君のご両親とお姉様も、カネゴン君の家族も、間違いなく全員が学士さんです。アオケン君がおずおずとそれを打ち明けると、「学士というのは学位の称号のことではない。かつて、『学者』のことを『学士』と言い習わしていたのだ。」と教えてくれました。少年たちがあまりにも退屈してしまい、浜の入り口、朽ちたコンクリートのトチカの端に目をやりますと、セラミックのつや消しの門標がしっかり星空を向いて立ち、「A」「G」「C」「T」という4つのアルファベットの意匠の上にフルティガー調のミディアム・フォントで、

『アデノシン海岸』
…われら生きとし生けるもの凡て、
ここより編まれいずるものなり


と、くっきり書き抜かれているのが読めました。
「ですからキミが物質・反物質反応フィールドただ中で、柑橘体の飛翔ストリームに遭遇しただけでなく、並走までやり遂げたということは、至極蓋然性に溢れ、また精度の高い現象であったということができるだろう。」
「…お話の途中で、ごめんなさい。もしかすると、学士さんは僕たち少年合唱についてもそういう説明の仕方をなさるのですか?」
「そういう説明の仕方…というと?」
「まず、日本の少年合唱の来歴を西ヨーロッパのキリスト教会クワイアの沿革と比較考察し、最後にボーイソプラノの美学なんたらかたらというタイトルががりでハナシを近世日本の文化思想とかに無理やり摺り寄せて、結局最後は<失われるものの儚い精華である>とか決めつけて言い放ってしまうような…。」
「なるほど。その通りだ。」
「その通りじゃないでしょう?!歌っているのは、飲んだり食ったり遊んだり先生に叱られたりするココにいる僕たちで、歌うのは『気球に乗ってどこまでも』とか『手のひらを太陽に』とか『怪獣のバラード』とかなんですヨ!」
「メサイアだって歌うだろう?」
「そりゃぁ歌えるのはハレルヤコーラスがいいとこ。しかもお客さん誰も立ってくれないし!」
「そうだろうか?!King of Kings and Lord of Lords!ハレルヤ!ハレルヤ!それははまさにブリタニアの心だろう?!キミたち!」
「僕たちがアングリカンチャーチのヤンキーな聖歌隊員みたいに見えますか?」
「英国教会にアメリカ人はいないだろう?」
「それ、語法が基本的にかなり違ってますよ。そんなことより、今日は大流星群の日なんだから、大宇宙のハナシをしてくださいヨ。」
「ラジャー!マハラジャ!何の話をしてやろうか?」
「せっかくだから、銀河系なんていうのはどうでしょう?」
トーヤ君は三日月の食べがらをぽいと海に投げ捨て、べたべたした指をきつく舐めた後、ついに波打ち際にしゃがみこんでしまいました。そうして冷たい引き波の下でモザイクのように細かく敷き詰められた礫をほじくり出し、右手の母指球と対向する指できしきしともみしだいています。
「こちらのキミの言う『銀河系』の実体とは、いったい何なのだろう?知っているかね?」
「星や塵やガスの集まり…ただ、質量の占めるほとんどの割合はダークマターです。」
「よろしい。キミたちの立つ地球は、太陽系の第三惑星で、銀河系オリオン腕の内縁近くに位置している。さらに、我々の銀河系は近傍のおおいぬ座矮小銀河、さらにM33やアンドロメダ銀河などととともにローカル・グループの銀河群を形成する。そして、これらの銀河群100個ほどが集まり、おとめ座スーパークラスタをつくっている。」
「おとめ座スーパークラスタは、さらにどこのグループの中に入っていますか?」
「残念ながら、じょうぎ座銀河団付近のグレート・アトラクタやその背後に存在すると思われる超巨大な重力に吸い寄せられ、引き込まれているらしい。」
「・・・」
「・・・」
「終わりですか?」
「終わりだ。」
「じゃあ、次に銀河系そのもののハナシをしてください。」
「よろしい。それでは、はじめにまずキミたちの立つ地球は、銀河系を四分した場合、どの宇宙域に含まれているか…知っている人?」
「はい!…ガンマ宇宙域??です。」
「ちょっと違うな。正解はアルファ宇宙域だ。もしガンマ宇宙域に最短で行こうとしたら、ディープスペースのベイジョー星系からワームホールを抜けなくてはならない。」
「ガンマ宇宙域の危険情報は?」
「ガンマはドミニオンの支配領域だ。アラートのレベルは『航宙の延期をお勧めします。』の状態が続いている。」
「ガンマ宇宙域が銀河系の中で一番遠いんですか?」
「いや。一番遠いのは、デルタ宇宙域ということになる。通常巡航なら亜光速で飛んでも、一番近いセクターまで約3万年かかる。」
「デルタ宇宙域は、どんなところなのか分かっていないんですか?」
「ごく不安定なワームホールやボーグのトランスワープハブが通じている箇所がある。それに、ボイジャーが通過帰還したときの詳細な記録があって、どんなところなのか比較的よく分かっているよ。我々のアルファ領域や隣のベータ域とそんなに違いは無い。」
「危険情報は?」
「今も言ったが、ボーグが頻繁に出没する。アラートは、『航宙の是非を検討してください。』で、危険度ランクはそこそこ中位だ。」
「ボーグに出会っちゃったら、どうしますか?」
「出会っちゃったら、もうどうしようもないよ。ナノプローブを打ち込まれ、同化され、名前の代わりにアラビア数字で生命体番号振られてドローンにされ、以後、キミはボーグ共同体の一部として生きるだけだ。」
「えー?逃げたりできないんですか?」
「ボーグキューブから?…そりゃ無理だろ。もう、見つかっちゃったら、抵抗は無意味だよ。」


八 夜の横浜駅

 夜の横浜駅9・10番線ホームです。白い樹脂で覆われた上屋が高く続く新しくなったプラットホームは、アリーナのように広大無辺で遠く長く、蛍光ランプの中庸な色温度の光が慎ましげに満ちています。
電車が行ってしまうと閑散としたプラットホームの虚ろに快い平安が静かにやってきます。「静寂」ではないのです。人とモノが居ないだけなのです。南東の方角から、港の音が低くしてきます。汐の匂いが吐息のように暮れています。西口のバス、タクシーや車両の喧噪。遠くの歩道をゆく雑踏のざわめき。けれども、ここではそれが遠い昔の鼓動のように響くのです。アオケン君がアキュア自販機のボタンを後輩たちに勝手に触らせて電話のフェリカ・マークをかざすと、ゴソゴソと籠った音の後に夜目のフロムアクアが落ちて黒いポケットの中でキラキラと光っていました。気をつけながらペットボトルの胴を両掌で圧して、立てたまま水を吸い出して飲むと何だか里心がついてしまうようで、ホームの全長を使って皆で大股無しの「グリコ・チヨコレイト・パイナツプル」を1回だけやりました。プラットホームの間口は存外に長く、まずグー勝ちばかりのトーヤ君の声が先に進んだ2人のところまで届きにくいという場面があり、ゲームの終わりはなかなかに訪れてはくれませんでした。

「ボーグにされちゃうのって、どんな気持ちなんだろう?」
保土ヶ谷側のホーム突端から戻るとトーヤ君が思い出してポツンと尋ねました。
「ボーグは人間を支配してやろうとか、滅ぼしてウサを晴らそうなんて思ってないらしいよ。」
「じゃあ、なんで人間を同化するの?」
「それが大切なお仕事だからさ。同化して、ボーグをもっと良い生命体にしてゆくんだ。」
「そうかぁ…ボーグも僕たち少年合唱と似ているね。」
「少年合唱団とボーグが似ているのかい?」
「だって、僕たちだって、団員集めのために歌ってるようなものだろう?」
「そんなことないさ。たしかに僕は合唱団のクリスマスコンサートを聞いて応募したけど、先輩の胸とかから出た針で身体にナノマシンを注入されてボーイアルトに改造…なんてことは、されなかったよ。」
「ボクは憧れのトナミ先輩に、きれいで張りのある声のボーイソプラノになる注射をブッスリと刺してもらうんだったら、痛くてもその方がいいかなぁ。」
「バカ言え。針で相手にクスリを注入して、結局自分のモノにされちゃうんだぞ!巨大クモと全く同じじゃないか。」
「巨大クモが注入するのは消化液だよ。」
「クモの消化液もボーグのナノプローブも、ボーイソプラノになるクスリも、結果は全くいっしょだろ?」
クモが消化液を入れておびただしい虫を食べてくれているおかげで、虫の数が整い、私たち人間は快適な生活をおくる事が出来ます
トーヤ君はそこで少しの間黙ってお昼の練習場にいたアシダカグモのことを思い出して考えました。団員たちは常日頃、練習場に飛び込んで来るミツバチを大切にするように言われています。どうやら、近くのビルで屋上養蜂が行われているらしく、トイレ休憩や練習の前後に窓を開けておくと大小のミツバチが彼らの歌声に引きつけられるようにしてやって来るのです。
「ミツバチは大切なミツ集めの仕事をしに来ているのだから、無碍に追い払ったりしてはいけないよ。」
譜面台の前で先生が話すと、キャーキャー大騒ぎしていた予科上がりの下級生たちは少しびっくりして真偽を確かめようとします。
「日本のミツバチはもともととっても大人しいんだ。働き蜂はふだんはせっせと飛び回ってミツを集めているが、自分たちの仲間が危ないと思っただけ自分の命を投げ出して相手を刺す。君たちだって、一生懸命に練習をしているときに誰かに追い払われたりつつかれたりしたら困るだろう?」
ミツバチが益虫であること。針に返しがついていることが、何を意味するのかということ。蜂球のこと。雄蜂のこと。働き蜂の短い寿命。
「先生…なんか、ミツバチって、僕らと同んなじですね。」
ミツバチの真摯な短い一生に自分たちの境遇が重なって見える高学年の団員の中には、2年生たちが漏らす邪心の無いそのひとことに涙ぐむ少年もいます。男の子らは、こうしてミツバチを邪険に扱わなくなります。羽音をたててやってきて、楽譜の間をふわふわと旋回する訪問者にやさしい声をかけてやったり、頭の上に乗せたまましばらく羽を休ませてやったり、どうしても鬱陶しければ「ここにはお花は無いし、俺たちも、今、一生懸命歌っているんだから、外へ行きな。」と言うだけで放っておくようになったりします。トーヤ君がアシダカグモを見て思い出したのは、そのことです。
「お昼に出て来たあのクモも、やっぱり僕たちと同んなじなんだよ。困った虫をいっぱい食べてくれて、一生懸命に仕事をしている。それなのに、5年生が皆で『潰しちゃえ!』って言ったでしょう?」
「おまえは、本当に優しい子なんだなぁ。そんなことで泣いたのかい?誰も潰したり、叩いたりなんかしてないよ。」
誰も他に何も言いませんでした。クモはミツバチたち同様に、静かに壁にはりついていた後、どこかへ行ってしまったからでした。

 ホームの端に白いラムネのような粒が散乱し、蹂躙されて粉になってしぶいています。土偶の目の形は割線で、ベージュ色の半グラム程度のタブレットは、おそらく酒石酸ゾルピデムであるということが判ります。浜風にそよいで霧のように粉が男の子たちの身長に舞い上がり、彼らが一瞬の後にそれらを吸引するとオメガ1受容体が鎮静側にはたらくのです。すると10番線側のLED表示が突然明滅し、暫くを経て列車が入線してくるという表示になりました。アオケン君は「小金井行き」という明るいオレンジ色のサインを一瞥し再び驚愕して声を上げました。
「小金井だって!」
「そうさ。」
「小金井は、遠いよなぁ。」
「遠いよねぇ。」
「僕は中野に着いたらもう疲れちゃってだめだよ。」
男の子は中央線快速の車内で立ったまま眠ってしまった話をしました。中野や荻窪や三鷹だったら、地下鉄で行った方がいいのに。武蔵境に着いた頃、大学生の降りていった空席にへたりこんでしまい、あとはぐったりして動けなかったと言うのです。
「アオケン君、これはキミの言っている中央線の小金井じゃないんだ。東北本線の小金井だよ。」
「今は小金井に東北線が通っているの?」
「そうじゃなくて、小金井というのは栃木県のウツノミヤに行く途中にある駅だよ?」
「うそつけ!関東平野の北のはずれに小金井なんかあるかい?」
「あるんだよ!これは僕たちが野外イベントに歌いに行った武蔵小金井のことじゃないんだ。」
「じゃぁ、21世紀の横須賀線はとうとう宇都宮の近くまでつながっているの?」
「まあ、そんなもんだよ。これで寝過ごしたらきっと相当大変だと思うよ。気をつけなよ。」
「快速電車で寝過ごしても大変だったけどね。…ボクはあのとき八王子をちょっと過ぎて目が覚めた。」

 横須賀線ホームの東の以遠は、既に鉄路もホームも砕石の軌道も上屋も何も無くなっていました。開けたコンクリの平地が夜の光を受け、桟橋へと伸びています。途中には星降る空のもと、青い星明かりをうけて発光し、桐箱のように置かれたジャパニーズ・ゴシックの駅舎がぽつりと建っていました。小さな方形の窓から鈍い白熱灯の明かりを薄橙に漏らしつつ海を迎えて佇んでいます。遠目にでしたが、埠頭の向こうには穏やかな丸いキラキラ輝く波頭があまたに光っていました。
 3人はじっと海を見ていました。黙として、誰も口を開こうとする子どもはいませんでした。トーヤ君は、横浜駅前の突堤から覗き込む海が怖かったのです。そこには自分の上半身が写っているはずです。けれども疲れきった4年生の男の子には、ちりちりとした新しい自分の姿を見る勇気も野心も既にありませんでした。彼方にはMM21のプラネタリュームのような白い夥しい明かりがそれぞれ野方図に明滅を繰り返しています。鉄塔の形をした、内側におれた莫大な構築物がガーネット色の航空障害灯を半キロ間隔で輝かせながら970フィートの高みへと強烈に立ち上がっているのも見えました。清涼で心地のよい京浜の海端の夜。それでも、皆は明日のお昼にはまた糊のきいた開衿シャツの制服を着てどこかのステージで歌っているはずなのです。カネゴン君が「こぐま座観測」とレーザー刻印されたガラス板を胸ポケットの上からポンと軽く叩いて所在を確かめ、皺ひとつ無い瑠璃色の半ズボンの裾に中指の腹を押しあてながら、灼熱のベロマイクの前で「今日は僕たち少年合唱団のコンサートにおいでくださいまして、ありがとうございました!」と元気よく叫ぶ声も聞こえてきそうでした。
「今日はどうもありがとう。」
ついにトーヤ君も言いました。
「僕は、これからどこへ遊びに行こうかな?」
アオケン君がおどけて皆はまた静かに笑いました。
「明日、出演が終わったら、僕の家においでよ。おやつを食べたらいっしょに区民プールへ行こう!」
カネゴン君が言って、港湾の方に少しだけ視線を投げました。
 トーヤ君はそれから、アシダカグモが安心のできる暗い臥所で小さな脚を伸ばし、今日一日の労を癒す静穏な眠りにつけるようにと願い、どこかの男の子へあげてしまったみずみずしい汁気たっぷりのオレンジが、どうぞ甘く優しく熟れてくれていますようにと念じて目を閉じました。けれども天蓋の星々や桟橋の岸壁に打ち寄せる波間に写った灯火たちは、細い優しい睫毛をしばたかせつつ、様々な波長の歌をひたひたとやむことなく嘯き続けていました。