I’ll be back アイル・ビー・バック

July 20 [Wed], 2016, 22:15
▲彼らはメリルボーン駅脇、ボストンプレイスの舗道を走って躓き、転倒する青年たちさながらにコンクリートのペーヴメントを疾駆していった。ちょっぴり重量感のある折フタのフードパックを3つ重ねて再び店頭に姿を現した彼を取り囲んだ団員たちに、少年が告げた言葉は、「おばあちゃんが作ったの、すっごく美味しいよ。どうぞ。」だけだった。

 山道は続き、少年たちが拠り所にして歩いていた矮小な歩道は対面舗装道路の左右へ遷移しながら切れ切れになる。路肩の野放しな植生からいたずらに伸びた何かの蔓が濃さを増す夕闇の行く手を遮り、上下に揺れている。強くきつい緑の匂い。立ち通しでいることも、休みなく動くことも、飲食を辛抱することも、暗い場所を歩くことも日頃訓練を受け続けている彼らにとっては耐えるのに十分な試練だったが、ただ、「子どもの演者集団は時間にルーズで押し気味」と言われスケジュールにナーバスな団員たちは、今夜の宿への到着が既に100分単位で遅れていることが最大の気がかりだった。   
 道路は整備されているようだったが、行き交う自動車の類は10分間に1台有るか無いかという感じ。
「お店の子がくれたお稲荷さんの三分の一が今夜の夕ご飯になっちゃうのかな?」
昼過ぎまで乗っていたバスのマイクを通して、彼らは「7時30分、夕食。他にもお客様がいるので、時間厳守ですよ。」と念を押されている。念を押した合唱団指揮者は、今、彼らの前方20メートル先で登坂の背中をさらし、少年たちの汗だくの隊列を引率していた。
「あのお稲荷さん、美味しかったよね。」
彩度の低い藍色に染まった目前の坂道の舗道を見据える少年たちの脳裏には、決して大ぶりとは言えないが味のぎっしりしみた1つの稲荷寿司を上級生の垢じみた黒い指が3つに分け、うち一切れを自分の指が摘み取る図像が何度も去来した。引率の大人達の見ているスマートフォンのマップでは、目的地はすぐそこということになっている。だが、宵闇に落ちようとする行く手には暗い山中と岬の森林の気配だけしか感じられない。迷ってしまったと誰もが判断しかけていた。少年たちは、あと何十分、何キロ歩けば今夜の臥所へ辿り着くことができるかまるで知る由も無かったが、汗まみれに張り付いたソックスの両の脛を引きずりながら、皆で分け合って食べた小さな午餐の一かけの食感を幸せそうに思い出しているのだった。

 ゴールデンウィーク中の出演のメインだった「こどもの日」向けのレパートリーは4月初旬の1-2週間のうちに大方が仕上がり、母の日を射程に入れた追加新譜の何曲かも少年たちは難なく丸呑みで覚えてしまった。黄金週間の終わりのオマケのような2日間、彼らは観光ホテルの親子連れをあてこんだ早いソワレのため、前日に遠足を兼ねて現地入りする。連休前に配られた「父の日」向けレパートリーの追加は、どれもパッとしない。そもそも「お父さんの歌」というジャンルの子ども向けの楽曲が彼らの楽譜集のどのぺージにも見当たらないのだった。
「『I’ll be back』って、どこがお父さんの歌?」
「シュワちゃんの歌かと思った。」
「ダダッダッダダ!♪ダダッダッダダ!…I’ll be back!」
彼らに渡された楽譜は冒頭の弱起を引き延ばし、一拍目から始まっている。長3度、完全5度の長調の和音が明るくゴージャスに鳴って、歌い出した途端、それが同主調の短調へクールに色変わる。曲の最後、ピアノの後奏まで、短調と長調のスイッチがおびただしいほど繰返された。少年たちはシラブルごと丹念に顔を出すこのピカルディ終止を聞いて、ほぼ全員が教会音楽であると思いこんでいるのだった。ここ数日、リハーサルを挟んだ本番前のコマ切れの待ち時間の最後に、指揮者は「I’ll be back」を歌わせている。ヨハン・ゼバスティアン・バッハの「イエス、わが喜び」 BWV 358 の高声部ばりで声を揃えた団員たちは、この曲をコラール『君知るや、汝吾が心打ち棄つるとも』とも言うべきイメージで歌っていた。黄金週間最後に残された一泊の演奏旅行へといざなう2時間半のバス旅行の道行き、彼らは先生から「倒してはいけない」と指示された車中のリクライニングシートの上で3回もこの曲を歌ってきたのであった。

「先生のスマホのマップによれば、このすぐ上に展望台の駐車場のようなところがある。港で降りたチャーターのバスをそこまで呼び戻そう。あと少し、みんな頑張れるか?」
先生が少し弱気なのを、疑問形にした言葉尻から少年たちは敏感に感じ取った。本科2年目の春を終えようとするアキヨシ少年の白い掌を引っ張りながらぶんぶん前後に振って元気づけようとしているフクちゃんもサイズ22センチのシューズの足裏を引きずりつつ列の中に収まっている。「ステージ用の革靴を履いてきちゃって…」と今更ながら後悔しているのだ。「先生のスマホのマップって、ホントに信用できるのかね?」と口ではこっそり毒づいている。
 数時間前、港の潮風臭い駐車場に40分遅れで降り立った少年たちは約束通りバスの降り際にステップの下、各自1個手渡された出来たて「磯味コロッケ」を猫舌の口の前歯で削ぎ取るように平らげ、車中から見えた可愛い意匠の浜辺の小学校の波打ち際目指して小走りで駆け出した。彼らはメリルボーン駅脇、ボストンプレイスの舗道を走って躓き、転倒する青年たちさながらにフナムシの群棲を蹴散らしながらコンクリートのペーヴメントを疾駆していった。
「先生!ホテルはどこにあるんですか?」
「何分ぐらい歩くんですか?」
「途中で、どこかに寄る?」
走り疲れ、浜一帯の上空をさかんに旋回する猛禽類がいっこうに採餌らしき降下に出ない生態に飽き飽きした4年生が、何人か指揮者の腰のあたりをつつきながら尋ねた。男が無言で対岸のように見える岬の上端を指差すのを見て、彼らは「聞いてないよー!」ばりの悲鳴をあげた。
「先生!俺ら、逆方向に歩いてるじゃないですか?!」
「夜までに着かないでしょー?!」
「アキヨシくん、ホテルはこっちじゃないんだ。合唱団のステージができるような大きなホテルが建ってるようには見えないだろう?」
「じゃあ、なんで?」
「ハイキングってヤツだ。あそこの奇岩の裏に行ったあたりで引き返そう。」
「え”ー!ダマされたぁー!」
「ブラック指揮者!」
磯味コロッケのあの甘心は何処へやら、少年たちの間にこの話は伝播して、それでも血気盛んな6年男子たちは制限時間いっぱいまで水平線の彼方にうっすらと藍鼠色のカタチをなす陸地が一体どこなのか案内板首っ引きで勘案したり、「中井宗太郎のバカヤロー!オレはお前が好きだぁー!」などと大昔の青春ドラマよろしく身近な団員の名前を勝手に唱えては、無意味な内容を海へ怒鳴っていたりした。
「先生、オレら、こんな店も何んにも無いところで『ああ野麦峠』みたいにソーナンするのゼッタイに嫌ですからね!」
軽ワゴンでコロッケを届けに来ていた肉屋は逃げるように帰って行ってしまい、すでにかなりの時間周囲には観光客はおろか地元の人が犬の夕散歩でふらふらしているのにも、幼児の夕散歩に付き合っているのにも出会わない。『ああ野麦峠』はソーナンの話と違うだろう…という指導者の苦笑を下から睥睨しつつ少年たちはそこはかとない嫌な疑念を感じて、
「先生!明日はちゃんとオレら、イチゴ狩りをして帰れるんですよね?」
と念押した。

「先生、あれって絶対に何か軍事関係の施設の跡ですよね?」
6年生になると、なぜ男の子というものは少しずつ戦さの遺構のようなものに興味を抱くのだろう。トチカや弾薬壕や砲台跡といったたぐいの朽ちかけた構築物だ。
「ユーリ君。あれは小学校の分校かなにかの跡じゃないか?小さな校庭があって、頑丈そうに見える石の門柱には「○○分校」と書いた木の看板がかかっていたんだと思うよ。」
指揮者は応答に面倒を感じ、それでもそう言って話を終わらせようとした。
「先生、ちょっと戻って外をぐるっと回ってきていいですか?」
管理私有地の看板がペロンと一枚、海辺の植生が貧弱に芽吹いた広場の中央に立っている。「中に入りたい」と言わなかった上級生団員だが、それを瞬時に目視したことは間違いなかった。敷地の半分は海岸段丘の岩山に触れており、山にはこれから彼らが通って帰る脱落防止パネルの打たれた戦前からありそうな隧道と歩道トンネルが貫通していた。外周を迂回したところでどうせ行き着く先は同じ。戻ったとしても10分間も浪費しないだろう。6年生たちは、「歩いても海の家の一件も無い」と不満たらたらの4年生団員たちを引き連れて、目を輝かせながら南欧のペーヴメントを思わせるブロックモザイクの上を歩いて行った。
「なぁんだ!空き地の周りに石の壁が残ってるだけじゃん!」
「それもコケかなんかで半分緑色になっちゃってる。ばっちくない?」
本科入りして2年目。フクちゃんとアキヨシ君が聞こえよがしに吹聴する中でモリマ・ユーリは冷静に検分を指揮者に報じた。
「この門柱は、学校の分校の入り口に立ってるようなものじゃないです。」
四面を照らす門灯の嵌っていた跡があり、根本は車輪避けにやんわりと裾を広げていた。後期アールデコ調の擬似標柱と幾何学文様のエンタブレチュアが浅くモダンに彫り込まれている。
「少なくとも国家機関の建てた何かの施設の門でしょう?石垣だって、ほら…」
4年生たちが睥睨した石積みはカミソリの刃の一枚も差し込めぬほどピッタリと組まれていた。
「先生、海に出る裏口の斜面がスロープになってるんです。しかも途中で『く』の字に折れてる。」
先遣の6年生は駆け戻って指揮者へ報告した。
「それは傾斜を殺しながら陸側へ駆け下りられるようなっているからだろう?」
「出動でしょうか?」
潮風にさらされる竹林のベージュの林立をざっと眺めわたして子どもたちは口に出してみた。
「ここに昔、何かの車庫があったんですヨ。」
「水陸両用艇とか…」
「カタパルトとか?」
「カタパルトなら、近くに掩体壕があるでしょ?ここには無いよ。たぶん?」
少年たちはこうした類の話が心底好きならしく、いつまでも辺りを見渡しながら昔の痕跡探しに興じていた。

 バスを降り、磯味コロッケを少しつまんでからいったい何時間経過し、何キロメートル歩いたというのだろう。少年たちは少なくともかなりの喉の渇きといささかの下腿倦怠を覚えて浜道を進んでいた。彼らの通過したローカル駅前の商店街。1軒の薬局と信金を転用した流行らなそうな学習塾を除いてすべてシャッターの下りた「かつての商店街の名残り」でしかなく、それゆえ大破した自動販売機が数台認められるだけだった。子どもたちの言葉を借りれば、一帯は「普通の家が建ってるだけ」の海岸と細やかな河口と畑と殺風景な駐車場だけの町。お稲荷さんへ上る階段の傍には「海抜6m」の標識がある。
「こんなに歩いたのに、お店どころか自販機の一台さえ有りゃしない!」
戦争遺構に目を輝かせていた上級生たちも今は諦め顔でつぶやく。
 ホテルの行き先を告げる大看板の指示通りではなく、彼らが船着場に繋がるであろう砂利で接続する幅員数メートルの道の方を選んだのは、メイン道路には消失点までほとんど人の歩いた痕跡のない舗道がずっと繋がっているだけだったからだ。彼らの行く手、はたして亀甲のごとくひび割れたアスファルトに路面は大きくのたくっている。「止まれ」と逆向きに伸びているはずの道路標示はかすれて判読不能。まず営業時間があるのかどうかさえはなはだ疑わしい暖簾のない寿司屋と、彼らにとっては何の興味もひかないSimanoの看板を掲げた釣具店が雑草の茂る田畑の中に建っているだけで、骨色の軽ワゴンが思い出したかのように時々走ってくる何も無い場所なのだった。
「先生、ホテルって全然無いですね。」
「もう、汗でドロドロっす。」
「やっぱり遭難?そうなんデスぅ!」
「チッチッチ!キミたちぃ、ボクについて来たまえー!そのうち、爺やがボクのロールスロイスで迎えに来てくれるはずだー。」
「嘘つけ!誰も来るわけ無いじゃん!」
「ベイビー!だけど寂しくなんかは無いんだー。どうせボクの人生はいつも一人旅さ。」
色抜けして紫色になり始めた紺ベストの腰に手の甲を当てながら、目を細め、キザな文句を繰り出す長髪の団員は最近アレルギー気味で不案内な語彙に遭遇するとしょっちゅうくしゃみをしている。
「何が『一人旅』だよ。おまえなんか寿恵夫とラブラブじゃん。」
「なんだよ!あいつとは一度キスしただけ。だいいち、ずばり!オレらBLじゃないし!」
「一度で十分だろ!ベイビー、寿恵夫くーん!…とか言われちゃって、いっつも二人一緒にいるのがずばり!BLってもんです!」
一団は開店休業の民宿と海の企業宿舎の前を相変わらずしわぶいた道路に足を取られつつわいわいと進んでいった。すると突然、住宅の密集した一角にさしかかり、海へ出ると思われる小径が交差する地点に達する。と、確かに庇テントのかかる店の前に宅配便ののぼり旗がしなだれつつ立っている光景が遠くに見えた。
「あ!開いているお店だ!」
「自動販売機もある!…お金は無いケド。」
「こういうお店の脇には水道があったりするもんだよ。」
「おー!神よ!我にお水を恵みたまえ!」
「小さなお池いっぱいカモン!」
「シャワー浴びたいっ!」
「この町、唯一のお店なのかもしれないっ!ラッキー!」
引率教師の背後では少年たちが言いたい放題だ。先生の方は息も上がりかけ、言葉も出なかったりする。
「ベイビー!これぞ、ボクの豪邸と見まごうばかりの美しさー!神々しく輝いているよねー!」
長島暉実くん似のメゾソプラノは寿恵夫くんの両手を握って掲げ、二人でBLふうの歓喜を数秒間だけ交わし合った。

 団員たちは演奏旅行のハイキング中で、自分の自由になるお金を持っていなかったために、店の脇に束ねてかかっていたグリーンのホースから水を飲もうと算段しているところだった。大騒ぎの輪にもれて、赤い自動販売機の陳列品を覗き込むように見ている子どもらもいる。ダコタ・ゴヨもドン引きするほどドクターペッパーに目がない中山アンビは、何とかそれを手に入れようとこだわっていた。
「誰か、『お水飲んでいいですか?』って、聞きに行けよ!」
「ほら、パートリーダーの仕事ですよ。」
「え”ー、こういうのは先生、やってください。」
「キミたち、先生はお水は要らないんだ。」
「そりゃ、ビール飲みたいってコトですよね?」
大騒ぎである。かくして意を決したソプラノパートリーダー兼、当ツアーのコンマスが5年メゾを引き連れひしゃげて退色したオーニングテントの軒下、建てつけの緩んだアルミサッシの出入り口の中へ消えると、人体交換イリュージョンのように見覚えの無い小学生が一人ぴゅっと同じ戸口から出てきて一団を見回した。
「お店の麦茶だけど、飲む?」
 2割がた減っている六条麦茶の2Lペットボトルを1本右腕に抱えているのは、パーマの取れかかった4年生ぐらいの頃の濱田龍臣くんといった風情の真っ赤な頬のポチャカワ少年だった。背後に交渉役だったはずの2名の団員が立ち淀んでいる。コーラの自販機へ抱きつかんばかりに群れていた子どもたちは、「これで喉の渇きが癒される」という欲求充足よりも、目前にあっけなく顕われた一人の小学生が自分たちの帰属の中にあまりにも自然な形で溶け込んでしまっているという状況に、安堵のような日常感覚を覚えているのだった。
「港祭りで使ったプラスチックのコップの残りがあるから待ってて。」
店頭に放置された山崎パンのオックスフォード・グレーの空ケースの上へ、少年は麦茶のボトルを投げるように置いて暗い店内へ引っ込んでいってしまう。
「これ、みんなで飲めるほど残っちゃいないな。」
「歩いても歩いても全くムダ口の減らない3-4年生から飲ませよう。先生、パートごとに並ばせていいですか?」
「危ないから、お店の建物に沿って並ばせなさい。」
少年たちは、それから全員がもう十分というほど飲み物で喉を潤した。真っ赤なほっぺをした少年が、店の奥からパッケージの開いた使い捨てコップの重なりと、見るからに冷えた六条麦茶をもう2本、重そうに抱えて戻って来たからだった。少年たちは日頃、整然としたレーションの実地訓練を徹底的に受けていたので、店頭の邪魔にならない場所に小さく一列で座り込んで静かにささやかな水分摂取をした。指揮者も逆さまになったアサヒビールのケースに腰を下ろし、これからの行脚を考えながらコップの底を小指で支えて飲んでいる。パーマの取れかかった濱田龍臣くんは、少年たちの様子を静かに眺めていたが、例によってフクちゃんがアキヨシ君と「疲れたー!」を連発しながら話し始めたのを聞いて、彼らのたどってきた道を尋ねた。
「電車?電車で来たの?」
「東京から、バスで。そしてあっちの小学校の近くでバスを降りて、大きな岩のところまで歩いて、それから、昔、何かの軍隊の施設みたいなところで、今、空き地になっているところなんかを通って、ずーっとここまで歩いてきた。あれ、何の基地か知ってる?」
モリマ・ユーリは地元の子ならばと、一番知りたいことを聞いてみた。
「…特別な戦車の訓練所だったらしいよ。砂浜とかを走ったりする戦車。…まさか、歩いて来たの?」
「うん。」
「お腹、すいたでしょ?」
「オレらは平気だけど、3-4年生は、結構コタえてるなー。これからあっちの方にあるホテルまでまた歩いて登るから、ハッパかけなきゃいけない。」
「ふぅーん。ロヤルホテル?」
「…知らない。あした、そこで俺らの仕事があるんだ。」
お店の子は、くるりと身を翻し、奥に入ると、ややハスキーな声で誰かにものを尋ねているようだった。
「和彦くん!お稲荷さん、あるでしょ?3つ全部残ってると思うよ。」
「お母さーん。全部あげちゃっていい?」
「だって、お父さんが2つお昼に持ってっちゃってるから3つしか無いでしょ?」
声の主の姿は見えない。彼がいつもこういうシチュエーションで母親からさりげなくアドバイスされているのは「『売り物なんだけど…』って言っちゃダメよ」ということだけだった。ちょっぴり重量感のある折フタのフードパックを3つ重ねて再び店頭に姿を現した彼を取り囲んだ団員たちに、少年が告げた言葉は、
「おばあちゃんが作ったの、すっごく美味しいよ。どうぞ。」
だけだった。夏には海水浴や、浜のバーベキューで炭水化物をワゴン車に積み忘れてきた家族連れや、なんとなく昼飯につまみたくなった近所の人に、彼はそう言って醤油のタレビンもバランや紅しょうがの切れ端も入っていない稲荷寿司弁当を奨めて買わせているのだった。
「ホントにいいの?タダでくれるの?」
「少ししか無いんだけどね。」
「ありがとう!先生に言いに行ってくる!」
パッションベリーのリネンの匂いをふわりとたてて背の高い少年が踵をかえし、ビールケースへ腰を下ろした男のところへ走って行った。彼らはタオルとちり紙とビニール袋を収めたポーチや手提げ以外持ち物らしいものを携行していなかったし、半数の子は黒い革靴をはいて、サイズ以外は全く同じ服装をしていたから、匂いや声や髪型といった見えにくいもの以外、全く見分けというものがつかなかったのだ。何人かが紺色のベレーを頭にのせているほかは帽子すらかぶっていない。彼らのうち最上級生と思しき2人が、慣れた手つきのままパン箱の上で稲荷寿司の1個を残して全て三等分にした。先ほど「先生に言いに行ってくる」と走った少年が戻ってきて、千切られていない稲荷寿司が端に乗った透明のフードパックを携え、再び男のところへそれを届けた。ベッサイダへ発つ前のイエスの一行のように、子どもたちは千切り分けられ、個数の増えた稲荷寿司を一つずつ全員が礼を言いながら垢じみた人差し指でつまみとり、もぐもぐ、くつくつと美味そうに咀嚼し名残惜しそうに嚥下して、満ち足りた。

 12分後、少年たちは硫黄地味て磯臭いコンクリートの建物から、タオル一本以外の素っ裸のままぞろぞろと溢れ出てきたところだった。今日はチョイ悪オヤジ系の出で立ちのままの指揮者が、黒褐色に染みた流木の上に腰を下ろして彼らの様子を看守っている。海とは文字通り岩場だけで区切られたナトリウム泉そのものの露天風呂は混浴らしく、「水着着用可」の消えかけたペンキの文字が看板に読めた。少年たち以外、ここに沐浴を求めて来るようなもの好きな観光客も効能を信じる地元の住民たちも、いない。
「どうしてここへ連れてきてくれたの?」
「…だって、65秒で来れるし、タダだし、海水浴シーズンじゃないからこんなとこ学校の男子以外、誰も入りになんか来ないし。…温泉って、なんか、元気が出ない?だから」
少年がそう思った真の理由は、彼らの整然とした食事風景を見て思うところがあったのと(麦茶を飲んだ使い捨てコップは元どおり皆で重ねてお店のタバコケースの上へそっと返してあった)、そのうち4-5人がフェイスタオルを出して念入りに汗を拭いる様子を目撃していたからだった。この子たちはほぼ全員が手拭きを携行していて、しかもフェイスタオル一本で入浴も体を拭いて着替えることも済ます訓練を受けていることを瞬時に見抜いたからだった。巻き毛の子は学校の運動会に促成養成される高学年マーチングバンドでテナートロンボーンを吹いていたので、目前にいる男子ばかりの集団の数名が自分と同じフエルトの紺ベレーを阿弥陀かぶりしているのを見ても、直感的に一団が音楽をする子どもたちであることに気づいていた。
「今日はちょっとぬるい。」
湯を浴びた男の子の体をアルトのアオケン少年は少しだけ注視した。パーマの取れかかった濱田龍臣くんのような躯体は背の低い方の5年生のものであり、流れ落ちたスレートブルーのお湯から顔を出した少年の張りついた髪は凛々しくも人懐っこい表情に似合って短めだった。カリカリとした前歯が暖かい笑みの中に2本並んでいる。体操着の形にカフェモカ色へ日焼けした四肢を湯がピカピカと輝かせ、「海の近くに住んでいる子って、こんな肌の色なんだなぁ」とアオケン少年は思った。

 「前の年の夏までキャバーンクラブのランチタイム・セッションにようやく雇ってもらってたチンケな4人の若者たちは、1964年の6月1日にアビーロード・スタジオでI’ll be backを録音した。全部で16テイク録って、その最後のテイクがアルバムに使われている。」
「アルバム…って?」
「バカだな。CDのことだよ。」
小学生である。だが、彼らは16テイクを1日で録ることの大変さも、曲を準備することの大変さも身にしみて経験済みで、何も言わなかった。六条麦茶と稲荷寿司の一カケを食べさせてくれ、自分らをここに連れてきてくれたポチャかわ男子は、脱衣所の入口に近い岩へ濡れた腰を下ろし、アオケン少年と何やら話している。テレビによく出ていそうな印象の男の子。ここから見てもそれと判る湯水を滴らせた真っ赤な両の頬が「紅顔の美少年」といった趣きだった(彼らは書き取りテストに出た「こうがんのびしょうねん」という漢字が「少年」以外書けなかった)。
「テイク2まで、この曲は4分の3拍子で書かれていた。3拍子の曲だったんだ。」
「待って!譲治くん、3拍子って…どういうこと?」
一家揃ってファブ4マニアにして博学の5年メゾが今にもふやけそうな人さし指を突き出し、三角形を描いて宙に指揮しながら上手にシンコペーションをかました重い3拍子で

♪ー ー You know
 if you break ー my heart ー  I'll go.
 But I'll  ー be back ー again.

器用な胸声の歌声で実演した。
「…、それって、譲治くん、ムズカシくない?しかも、ちょっと遅い。ブレスできないでしょう?」
「だから、ジョンが録音中に歌えなくなって、テープがまだ回ってるのにそう言ったんだよ。Too difficult! って。」
「なんでそんなことしたの?」
「いろいろ、理由はあったらしいよ。でも、譲治サマはこの足取りの重さや叩きつけるドラムスのヘビーさはこの曲にとても合っていたと思ってる。」
「よくわからん。」
「わからなくてイイよ。どうせ3テイク目からは俺らが今、歌っているのと同じような4拍子の曲になったんだから。」

 潮風の入浴タイムは予想よりも早く終わった。
品川(弟)の下着のパンツの尻が更衣時にビリっと抜けたからだった。心ここに在らずの本人が騒いでいたので、周囲の団員たちも早く切り上げて上がらざるをえない。パートリーダーたちが通常通り脱衣所への入り口の前へ仁王立ちになり、下級生の体から水滴が全て落ちるか拭き取られていて、タオルが硬く絞られているか一人ずつチェックした。アオケン少年は、髪のぺったり張り付いたリンゴの頬の龍臣くんと話しながらアルト6年の検分を受け、指先で合図されてくるりと二人海の方を向き、背中で「よし!」の声を聞いた。海風に似たものが少年の柔らかなパンケーキ色の臀部を伝い、彼は浴後の爽快を感じた。
「品川(弟)くんって、ああいう子なんだ。騒いじゃってごめんね。」
「いいや。あの子、ズボンを脱いだのを見たら、もうパンツが薄くなっていて破れそうだったから。」
「そんなこと、気づいてたんだ?脱いでる時に破れちゃったんだね。」
「うん。破れると思った。」
「僕たち、ユニフォームの日にだけ履くパンツを持ってるんだ。ユニフォームのズボンの長さに合うパンツって、たいていの子は、身長とか大きくなってもずーっと同じのを履いてる。だって、普通の日には履かないから。きつくなっても、破れるまであんまり気付かない。履いてるところは誰にも見えないからね。」
「だから破れちゃうんだね?」
「そうみたいだね。」
合唱団の男の子は笑った。誰もハイキング時に余分な替えの下着など持ち歩いていない。周辺には麦茶や稲荷寿司の折り詰めをささやかにひさぐ商店しか存在しない。破れたままの半ばノーパンで品川(弟)は引きつった表情の中、ズボンをたくし上げた。


 「先生!今度のお仕事のことで何とかホテルというところから電話がかかってきてます。」
裏面茶色に変色しかけた紙片をひらひらさせて事務室から走り出てきた5年アルトが洗面所の前で指揮者をつかまえて告げた。メモには穏当な大きさの文字で「こんどのしごと」「ロイヤルホテル」とHBの鉛筆で擲り書きされている。翌月のハイキングの翌日マチネで歌う宴会場その他の打ち合わせに違いない。彼がいい加減に返事をすると、団員はメモを持ったまま練習場へ戻って行った。次の曲の音取りが始まろうとしていたからだった。
「ゴメン!アオケン君!」
指揮者は少年の後ろ姿に声をかけて呼び止めた。
「はい!?」
「どうもありがとう。」
「はい。」
男の子の気持ちの良い笑顔はカメオのように半分が見えただけだった。

 5分の後、男が当日の段取り確認を事務スタッフに引き継いで練習場に戻ると、少年たちはアオケン少年を中心に何か切れ端のようなものをつつきあいながら話し込んでいるところだった。
「ワケ分かんネぇ。このコトバ、ヤバくね?」
「でも、事務室のメモ紙入れに入ってたから…」
「しかも、紙がチョー古いときてる。」
「何かネ、エンピツとかが書けないんだよ、こっちの茶色い面の方…」
「でも、このひらがなの字って、ゆとりの子どもの字だよね。アオケンの字の方がキレイで上手い。」
「…うん。古い文書を切ったものだってコトは間違いない。」
「…じぞぷ、わいに、うぽしふ?? って、何?」
「書いたヒトのレベルが低すぎるんじゃ?」
「悪霊か?神か?」
「このコトバ…HPを調べてみたら?」
「ヤだよ!縁起悪い!ヒットしたとたんオレら一団で死んじゃったりして…そもそも、HPも限りなくゼロに近いだろうし…」
品川(弟)が茶色の脚を左ナカ指で掻きながら争うと、辺りが翳で暗くなり男のニヤけた声が背後から突然少年たちを襲った。
「なんか、イオナズンとかヒャダルコとかがバッチリ付いてそうな復活の呪文だな。」
「・・・・?」
「何だ?疑うならコマンドから『じゅもん』でも開いてしらべたらいいだろう?」
少年たちはここでようやく指揮者にパーティーを朴して有り余るバギムーチョのような視線を指し向けた。
「先生っ!…『復活の呪文』って、何ですか?」
「おお、品川(弟)。よくぞ きいてくれた!これは…」
「先生!ドラクエMJぐらい、3DSにもあります!」
「ファミコンには、ゲームをセーブする機能が付いていなかったんだ。だから、ゲームを途中で止めようとしたら特定の場所で『復活の呪文』という無意味な40個ぐらいのひらがなの列を表示してもらって、自分で紙に書いてセーブしておく必要があった。」
「か、…紙ですか?しかも、ファミコンって…。」
「スクリーンショットを撮って、『アルバムに保存する』とかしたらイイじゃないですか?あとは、スマホで撮るってセコい手も…。」
「キミたち、悪いが昭和時代の終わりには3DSもスマホも無かったんだ。かなり記憶力のある人でも意味のない文字列だから覚えられないし、一文字でも違えば『ふっかつのじゅもんがちがいます』と出てゲーム続行は永遠に不可能だ。だから、手許に紙と鉛筆が無いと、ゲームをセーブすることができなかった。」
「セーブ…新宿線?」
「東武東上線!」
「何か、めちゃ不便ですね。」
「そうだろう?これは合唱団のキミらの大先輩たちが、何を考えたか先生の家でドラクエをやってセーブしまくった『復活の呪文』を無理やり感熱紙に書き留めて置いてった残骸の山だ。もったいないからこのあいだ切って裏紙のメモ帳にした。」
「え?先生って、昭和時代はゲームヲタだったんですか」
「キミらのお父さんたちだって、そんなもんだろう?」
「わざわざ先生の家にまで行ってドラクエMJをした先輩たちの気持ちがよくわからない…」
「先生、この、感熱紙って一体何なんですか?」
「なんだ、キミたちは本当に何も知らないんだな。ちなみにドラクエMJじゃなくて、昭和時代の終わり頃は、まだドラクエIIだ。それまでの家庭用プリンターは、普通、熱転写リボンというものを熱で文字のカタチに融かして紙に印刷させていたんだ。でも、このリボンがバカ高ときている。さあ、キミならどうする?世界一の少年MCアキヨシ君?」
「…つ、使いませんっ!」
何も知らない上級生たちは鼻で笑った。
「その通りだ。リボンのカートリッジを外して、代わりに『熱が当たると黒くなる安価で特殊な紙』を使ったんだ。」
「それが『カンネツ紙』?」
「ようやく分かったかい?この紙は先生がそこらへんにほっぽり出しておいたから、先輩たちが『復活の呪文』を書いたんだろうよ。」
「なぁあんだ、本当は『復活の呪文』を書いておくものじゃ無いんだね。」
「本来の用途じゃない。でも感熱紙は、品質が上がって今でもレシートとかに使われているよ。」
「あー!ローソンとかのレジでもらいますよね?確かにあれにも、エンピツが書けない。」
「先生、このメモって古いからこんな茶色に色が変わっちゃってんですか?」
「昭和時代のローソンのレシートって、茶色くなってポイントとか消えちゃうんでしょうか?」
「ばーか!昭和時代になんか日本にローソン無いだろ?これだから4年ってアホ!」
「何だよ、自分だって去年まで4年生だったくせに!そっちこそバーカ!」
「おい、オレら5年生をナメんなよ!『気球に乗ってどこまでも』のピッチもろくに取れねぇくせに、ナマイキ言うな!速攻でオマエを泣かす!」
男の子ばかりの合唱団である。
「はい、はい。…そんなコトより今度の演奏旅行はホテルからさっき正式なオファーがあったぞ。よかったな少年たち。前日の夜6時から豪華なお弁当のご褒美つきだ!」
「豪華って、ローソンの新潟コシヒカリ鉄板焼ハンバーグ弁当550円みたいな?」
「まあ、そんなところだ。」
「やったぁー!」
「喜ぶのは早いぞ。その前に港でバスを降りてホテルまでハイキングだ!歩いて山を登ってもらう!」
「え”ー!僕たち美声でハイレベルなボーイアルトが何で…?」
「きみらが、もっとマシなレベルになるには、まだ何万ポイントものけいけんが、ひつようじゃ。
つらいたびだろうが、くじけぬようにな。」
「は?先生っ!なに言ってるんですか?」
「小学5年のイケメン・ボーイアルト様に何てコトを!」
アオケン少年は戯言の応酬には加わらなかったが、2回目の目的外使用を終えた感熱紙のメモに不思議な敬意を感じ、そっと瞳を閉じて微笑んだ。


 指揮者が「歩くのはあきらめて、乗ってきたバスを呼び戻そう」と少年たちに宣した地点までついにやってきた。展望台の駐車場とは名ばかりで、相変わらずの密生した木々に囲まれ星空だけが見えているパーキングラインの引かれたアスファルト張りの広場といったところである。展望台というのはここからまだしばらく歩いたところへ在るに違いない。照明も無い真っ暗なトイレと飲み物の自動販売機が夾竹桃の植生の脇にあり、きっちりサッシ扉を閉めた案内所らしきものもあったが、少年たちは何も言わなかった。どういう車が往来するのかも判らず警戒した指揮者は少年たちを路側の境界ブロックに座らせず、何人かで詰めて喫煙所や待合コーナーのコンクリート・スツールの方へ掛けさせた。
 指揮者がディスプレイを明るく光らせてスマホでバスを呼び戻す手立てをとっている間、少年たちの塊の間からは話し声が聞こえてきていた。
「お稲荷さん、おいしかったぁ。」
「あの子、とってもいい子だったよね。」
「最初、女の子だと思った。」
「でも、全然オンナっぽく無かった。」
「僕も、去年までよく女の子と間違われたよ。お兄ちゃんが去年卒団して、中学に入ったじゃない?それで、2月ごろ、SEIYUの前の制服屋さんに『二中の制服を買いに来ました』ってお母さんと僕とお兄ちゃんで行ったんだけど、店員さんにセーラー服の売り場へ連れて行かれて『これから伸びますから、今の小さいサイズでお考えにならない方がいいと思いますよ』って言われて…。ぼく、活発そうな小さな6年女子とかと思われたのかな?上から下までキメキメのumbroで行ったのに…。」
「なでしこジュニアとかに見えたんじゃないの?」
「お母さん、大ウケなんだもん。ヒドいと思わない?」
「でもさ、セーラー服の少年合唱団ってあるじゃん!」
「外国でしょ?」
「日本にもあるってば。なんか、懐かしの津山少年合唱団とかもセーラー服だったし。」
「おい!二中の女子の制服ってスカートなんだよ!何言ってるの?!」
「セーラー服って、もともと男が着る軍服みたいなものだったんだってさー。」
「水兵さんでしょ?ドナルドダックとか、着てるよね。」
団員たちの上気と発汗はまだ完全に収まっていなかったが、電話機を胸ポケットにしまいながら丸まった枇杷の落ち葉をまたいできた指揮者が元気のある声で言った。
「良い知らせだ!乗ってきたバスは、隣のインターにある道の駅併設の温泉宿で休憩してたそうだ!もう少しだけここで頑張れ!おいしい夕ご飯が待ってる。おーい!こんなところで寝ちゃダメだ、アキヨシ!」

 アルト5年のアオケンは毎週毎度のレッスンとゲネプロと本番の前、発声練習で音階を上り下りしている間に、アキヨシ少年の4年生らしい張った低い声質と裸ん坊のような白い体臭を嗅ぎ分け、いつもこう思う。
…どうしてこの子は僕のところへ来たのかな?
いずれの団員も気づいていてそれを問わない。5年生は彼がもの寂しげに身を寄せ頬を寄せ、前から後ろから細っこくて締りの良い中学年の子の腕を回して抱かれた時にだけ、声に出して問うた。
「キミはどうして僕のところへ来たの?」
「・・・・。」
大抵の問いに天使のお通りのごとく無言の間が用意されているきりだった。だが、問い直すと稀に言葉の返ることがある。
「この少年合唱団の団員だから?」
「アキヨシくん、…君は僕に綺麗な発音と雪の王子みたいにカッコいいナレーションと、下級生を連れるくるおしい瞬間を聞かせて見せてくれた。…何で、僕にそんなすばらしいことをしにきてくれたの?」
男の子は上級生の右の親指を舐めながらむにゃむにゃと答えた。
「発音も、ナレーションも、下級生を連れることも、アオケン君がいつも気をつけていることでしょ?だから。」
5年生は指の吸われていることを感知した。
「君が舌を繰って綺麗な発音をして、いつも必ず確実なナレーションを最後まで言い切って、予科上がりの2年生の手を最後まで握ってスタンバイをさせているのを見てるから聞いてるの。先輩だって、いつかそんなボーイアルトになりたいって、心の底から思うから…。」
男の子は静かにお白粉色の頬を撓ませて笑った。
「そんなの変だよ。それに、違う。だって、僕は歌が好きなだけ。歌が好きだがらここに来たんだよ。そしたら、ここに大好きなアオケン先輩がいて歌ってたの…。」
男の子のカメオが肋骨の間に沈み、10歳の男の子の暖かい息が彼のまだそこに在る心房中隔の位置上へ浸潤した。上級生はその子の肩を柔和に掌で覆い、ようやく下級生の発言の真意を理解した。日本に「変声期前の男の子が組織の名の下に2声部以上のパートを複数名で歌う」ことを意味する少年合唱団が生まれてじき70年の月日が経とうとしている。2人はその恐るべき確率の中でここに出会い、並んで立ち、今、日々に声を揃えている。
「いつまでも、いつまでも僕と一緒に歌っていてくれるかい?」
顎の前で下級生は再び熱い息をこぼして微笑み肯首したような気がした。

 5年アルトがベトベトに眠りかけた下級生をバスのステップに引きずり上げ、定位置の斜め前の座席に押し込むと、周囲の話題が未だ「セーラー服」からいくらも進捗の無いまま空転しているのを耳にした。
「例えば、イナバ物置とか…!もともと、人を100人乗せるための道具じゃないと思わない?」
バスはアイドリング状態のまま、漆黒に近くなりゆく森林の中で全ての団員の最後尾から指揮者のちょい悪な視線が追い終わるのを待っている。
「マーブルチョコレートは…ってかM&Mってあんじゃん。あれってペリリュー島とかで日本軍と戦ってるアメリカの兵隊さんに栄養を補給するためにアメリカ軍が作った融けないチョコレートだったんだって。」
「だから今でもお口で溶けて手で融けない…」
「今、それ食ってんのは日本人の子どもなんだけどネ。…っていうか、先生いっ!」
指揮者がようやくバスのステップに姿を現し、人数確認のために通路を奥に進んでやってきた。
「元々の用途と違く使われてるものって、どんなのありますか?」
「は、じゅう、じゅうに、じゅうし…何だ?元々の用途と違うもの?」
バスの運転手は一応ブザーを鳴らしてドアを閉めて待った。
「今、人数確認してるんだから、後にしてくれないか?…用途と違う代表格っていったらリアップだろう?」
「『リアップ』って?」
「高血圧の薬だ。キミらみたいなのがアカペラで歌い終わりまでに短3度も音が落ちるのを一年中ガミガミ言ってたらそりゃ高血圧にもなるだろう?」
アキヨシ少年はもう寝息をたてはじめているようだった。
「その高血圧の薬の何が元々と違ってるわけ?」
指揮者が半ば後ずさりながら運転手に声をかけに戻る姿を見ながら、少年たちは話を続けている。
「『リアップ』って、CMで警視庁特命係の杉下さんがやってるじゃん。毛生え薬でしょ?」
「それが、何だってんでしょ?ワケわからない…」
バスは大きく左にカーブを切って「展望台駐車場」の看板を左手にやり過ごした。道の幅員が不足しているのか、後輪を微かに縁石前の水切りに落としている。
「元々は高血圧の薬だったんだよ。」
「うわっ!先生っ!話が続いてたんですか?ビックリさせないでください。」
進路をこの先に向けたバスは予想通り、山を下る行程に入っている。
「実験の最中、この薬を飲んだ人にモジョモジョと毛が生えてくるという恐ろしい副作用の出ることがわかった。」
「多毛症ですね?」
「そう。よく知ってるねぇ。この薬は高血圧の薬としてはさっぱりだったが、副作用は確実だった。」
「本当は高血圧の薬だったのに、今は毛生え薬として使われてるってコトですか。」
「そういうコトだ。ココで『先生には両方とも必要ですよねぇ』とか言ったら速攻でパンチがとぶぞ、品川(弟)!」
黒い男の子は一瞬目を剥いた。本当にそう言おうと思っていたからである。
「先生、いったいあと何十分ぐらい乗るんですか?完全に遅刻だと思うんですが…?」
エンジンブレーキで坂を下りるバスのスピードはさほど早くない。彼らはいずれにせよ座席に深く座りなおした。
「すぐ着くそうだ。多分15分ぐらいだろう?…ところで、君たちは少年合唱団員なんだから、もともとの用途と違うって言ったら、音楽の曲を思い出すのが常識ってもんじゃないか?」
指揮者はそこまで言うと到着後の算段のために携帯をかざして最前の自席に戻って行ってしまった。
「曲?…『ユー・アー・マイ・サンシャイン』が、本当はアメリカの選挙の歌だったとか?」
「『愛のプレリュード』は合唱曲じゃなくて、もとはアメリカのクローカー・ナショナル銀行のCMソングだよね?」
「それ言ったら『春咲小紅』もCMソングじゃん。」
「ラジオ局の合唱団って、もとはVBCだったんだよー!」
「まじ、カッコ良かったよねー…ビクター少年合唱隊!」
「第一、少年合唱っていうのも、もともとは教会の聖歌隊だったんだってよ。カマクラとかにあるじゃん…教会の聖歌隊の少年合唱団!」
彼らを乗せたバスはようやく巡航速度とも言える走行スピードに達しようとしたが、エンジンブレーキの減速は効いたままだった。
「何か、全部、I’ll be backの曲と同んなじだネー!」
「ホント、ホント、100人乗ってもダイジョーブ!!じゃないっての!」
「カノジョにグチる男の心からの叫び…と見せかけて、」
「本当は、プータローで女癖の悪い自分のお父さんを注意する歌だったなんて!」
「英語だと、『アンタ』でも『キミ』でも『おまえ』でも、全部you(ユー)だからね。紛らわしい。」
「しかし、なんでこんなハナシになったんだったっけ?」
彼らは小規模なカンタータばりの宗教的イメージに編曲された「I’ll be back」の音取りの後、この驚愕の歌詞の意味を指揮者から告げられた。「親なんだから、しっかりしてヨ。じゃ、僕はまた来るから(いなくならないでよ!)。」という意味合いの曲だとは団員の誰も思っていなかった。彼らはその時の失笑に回帰し、

 ♪You know if you break my heart I'll go, but I'll be back again

と突然車内で声を揃え出した。だがしかし、バスが最初の直角カーブを曲がり終えた瞬間、フロントグラスいっぱいに燦然と輝く、ライトアップされた巨大な構築物の威容に歌を忘れ息を飲んだ。
「…せ、先生、これって?」
「15分どころか1分も乗ってないじゃないですか?!」
「あんなとこで座って待ってる時間があったら、あきらめないであと50歩だけ先に進んでたらココが見えてたのに!」
「ホテル…ご、豪華すぎる…。」

 「外国のオーケストラの人って、僕たちがロビーでスタンバイしていると”Enjoy!!”って言ってくる。」
これは彼らのごくありふれた劇場楽屋レポートの一つだ。
「4年生ぐらいまで、それって『緊張するなヨ』って意味だと思ってた。でも、違ったんです。ガイジンのおじさん、おばさんたちはホンキで『楽しめや!』って言ってるんだってことが、だんだん…わかってきた。」
都内の児童合唱団の中には指導陣の来歴から海外のオケと組んで仕事をする機会に恵まれる団体も多い。3年生の新学期に学校でペンマンシップとジュニア・ホライズンをピラッと渡され、アクティビティはALTの先生がたに全てオマカセという処遇の子どもらもいるが、そこそこに英語を解する高学年児童になれたというタイプの団員たちは、この”Enjoy!”の意味するところをある日忽然と察知して深く胸を衝かれた。「147小節目から走るな!」「ステージに上がったらケツを見せるんじゃない!」「ほらぁ!アルト!またフィスを外したろう?!」「ホンバン前にガブガブ水分を摂るな!」…日々必ずそうして夥しい機会に叱責され、縛られ、「チケットに何万円も払って来てくださるお客様がたを心からシアワセにする大切な仕事だから」と戒められる彼らにとって、「どうせ子どもなんだろう?幸せな少年時代を送るべきだ。お金をもらってるわけじゃなし、折角の珍しい機会だから歌って楽しんで帰ればいいと思うけどナ!」と喜色満面に声をかける海外のアーティストたちの存在は一種のクーデターに匹敵する稀有なものだった。
「お茶とお稲荷さん、どうもありがとう。美味しかったよ。みんなもとっても喜んでる。でも、キミはどうして僕たちにタダでお茶と食べ物をくれたの?」
合唱団総代の地歩にしては静淑にアオケン少年が謝礼を告げた時、店の奥の雑然とした荷台の上には転がった1本のMONO鉛筆や片磨りのAIR-IN消しゴムとともに2つのものが認められた。パーマのとれかけた濱田龍臣くんのような男の子の傍…古ぼけて柔らかい音をたてそうな、明後日の方を向いて置かれたロール紙付き加算器。それから複合図形の体積を求積する問題の並んだ、途中まで演算済みの問題集のページ。書きつけられているのは普通の5年生らしい鉛筆の文字だった。赤い頬の少年は本当にイタズラっ子そうな二重瞼の不敵な笑みでこちらを見やってから、笑い、真摯にそれを告げた。
「僕の仕事は、ここに来たお客さんを元気にして、幸せな気持ちにして帰してあげること。」
合唱団総代は驚愕に目を見開き、飲んだ息の中にその言葉を反芻した長い沈黙の果て、自分を取り戻し、ようやく口を開いた。
「じゃあ、僕たちと同んなじだね!?」
等しい境遇の少年が目の前にいる!
 彼らは何か思い残すように店先のあちこちを眺めやり、それからソプラノのパートリーダーの恬淡な指示を受けてパート別に2列縦隊の並びを作った。指揮者は最後尾につく前に店の奥で店番の少年と店主らしき母親に礼を述べ、品川(弟)は列の途中からタバコの自販機の前へ寄りざま、黒い節くれだった人差し指でメビウス・プレミアムメンソールのボタンを押してイタズラした。
 アオケン少年は少しだけ店の庇テントのストライプを眩しげに見上げたが、閉まったきりのタバコ売りの小窓の横で紺クロックスのつま先を余らせていた男の子の前へ戻ると、
「明日、山の上の方のホテルで僕たちが演奏会をするんだけど、今日のお礼に来てくれない?」
招待の言葉を述べた。パーマのとれかけた濱田龍臣くんのような男の子は嬉しそうにその言葉尻を聞き終えると、5年アルトの澄んだ明るい目を見ながら、
「お店の番があるから他所には行けないんだ。僕はここにいるよ。」
端然と答えた。5年アルトは瞬時に言葉の意味を理解し、駄目押しをしなかった。
「わかった。キミのことは決して忘れない。僕たち皆んなを助けてくれて、元気にしてくれて、どうもありがとう。今度は、お金を持って来るから、また来てもいい?」
「いいよ。」
「じゃあ、また来るね。」
アオケン少年は右手を差し出し、静かに握手をしてもらった。海の近くの田舎の町のお店をやっている5年生の少年のものとは思えないくらい、優しく温かで清新な、気持ちのよい智い手のひらだった。

期待される人間像

January 15 [Fri], 2016, 0:00
ナチュラルピュアなボーイソプラノ、赤川エル君に心からの感謝と賞賛の気持ちをこめて

▲「大切なのは『声変わりしたら歌えなくなる』というマイナスの予定調和のようなものじゃなくて、日々何を大切に歌うかということだけだ。将来も未来も、なるようにしかならないきみの人生だ。だったらボーイソプラノとして善く生きろ!きみは今、その素晴らしい団員人生の真っ只中にいるんだ。赤川エル!わかったか?」


 以下に述べるところのものは、すべての日本人、とくに教育者その他人間形成の任に携わる人々の参考とするためのものである…

 ディサペアな駅前ロータリー。昭和時代から在るに違いない書店とパン屋のチェーン店がぐしゃりと建て込んで。出演の道すがら、男の子はその紙切れを裏返し、朽ちかけた明朝体の段組を左上から無機質な小声で読んだ。「教育者」というのは「先生」ということだろう?漢検3級の5年生は「携わる」という語彙だけは難なく読んだ。道ゆく人々の流れに乗り、目を上げず、彼はそれを忍び声で音読しつつ練り歩いた。「教育者その他人間形成の任に携わる人々」と紙面には在る。嗅いだことのある大人の匂い。「人間形成」の”人間”というのは戦争を知らない子供たちのことであると彼は思ってもいない。
「おい!危ないじゃないか!前を見て歩きなさい!」
赤川エルは目前に立ちふさがった男に声をかけられた。少年のステージ上のやぶにらみ。客席の表情の機微はぼやけている。必ずや眼鏡の必要な今の彼に、雑踏の町で注意深く前を見て歩くかどうかはあまり問題にならなかった。
「子どものくせに、人や車に進路を譲らせ、避けさせるんじゃない!キミにあるのは怪我をする権利じゃなくて、怪我をしない義務だろう?」
「は…はい。」
少年合唱団の指揮者は「その他人間形成の任」に在る。
形成の相手は都内およびその近郊在住の小学生の男の子たち。
「きみらはいったい誰の何のために歌っている?」
「…たぶん、おじいちゃんおばあちゃんや近所の小さな子たちが楽しい気持ちになるため?」
「そうだろう。そういう大切な仕事をするキミが、ここを通っている人たちを不愉快な気持ちにさしてどうする?」
「…先生。すみませんでした。」
「スミマセンじゃ、すみませんヨ。」
「はい。ごめんなさい。もう二度としません。」
通団カバンの握りを腕に食い込ませ、男の子はビラをたたみもせず左手指でつまんで太腿の後ろに隠した。 以後数時間の彼を督する「教育者」は、それを一瞥して何も言わなかった。毎月出演している寺院のお堂コンサートである。お参りに来ている人々に歌を聞かせるのが彼らの今日の仕事だった。

 「お稲荷さん」の隣に建つ鉄筋2階建てのサッシ扉の前で、彼は同期の団員たちにこの説諭を打ち明けた。
「俺らがコドモだからって避けない大人がやたら多すぎんだよ。スマホしながら歩いてるヤツとか、JKとか、最悪。」
「ケショーしながら歩いてんだぜ。まじぶつかるっショ。」
「何か、音楽聴きながら歩くなヨぉって感じ?」
「スマホやケショーや音楽がイイんだから、広告の紙ぐらい読んでてもイイと思わない?」
だがしかし、彼ら自身もまたイヤパッドを矮小な耳殻にねじ込んで道を歩きながら音楽を聴いているのである。ヘイリー・ウェステンラのアルバムを聞きながら電車通団するのが赤川エルの当たり前の日課だったこともある。…1979年秋の当たり前のある日、殆どの日本人にとって「音楽」は劇的で取り返しのつかない決定的な変容を遂げている。それまでの有史以来の永の時代、歌声は…人が歌い、または録らえたものを鳴らすとき、それはその場にいる全ての者により共有される性質のものであった。だが、この日以降、歌声は人々の耳殻の中にあると言ってよい。製品パッケージを飾った赤い和製英語名の2つの「A」の字には各々スタスタと歩む両の足が生えていた。ロゴの文字は「物理的な進捗」とサピエンス種のホモ属を意味する英単語のデタラメな合成だったが人々はその意味するところをたちどころに理解した。何かの待合室でも良い…四畳半ほどの部屋に座した4-5人の人間が、全く至近な隣同士でジャンルも音高もリズムも波長も全く違う音楽を同時進行に聴いているという状況が人類史上忽然と現れた。「ウォークマン」の誕生である。…だがしかし、日本人の少年合唱(変声前の男の子の歌声)は、今だ圧倒的にライブ演奏で供される機会が多く、イヤホンを通して聞かれにくい音曲の分野の一つなのである。こういうわけで、マルチトラック・レコーディング主流の現在、男の子の歌声を伴奏トラックに乗せて収録することはまだ圧倒的に例外的で「特別」な事態でもあり、ステージ等パフォーマンス時にカラオケ伴奏を使うことへあからさまな抵抗を示す「少年合唱ファン」の観客も少なくない。ステージを終えればボーイソプラノたちも「お迎え」の保護者とカラオケのブースで暫く熱心に歌ったりする。シリコンプレーヤ用のダウンロードコンテンツに「少年合唱」と問いかけても、日本人・男の子の合唱団名で示される検索結果はごく限られたものになるだろう。爬行的な現代文明…機械の中の人間…利己主義と享楽主義…歪んだ人間性…。少年たちは少しくそれらと隔たったところで歌っているようにも思える。
「ビリーブ!」「チェリー!」「アンリミテッド!」「アンパンマンのマーチ!」「ジュピター!」「花は咲く」「僕、この曲、アンコールしてもイイですか?!」
団員たちは練習の休憩時間に自分たちがカラオケボックスで歌う曲目を吹聴している。どれも合唱団の常時レパートリーばかり。ステージ上の彼らも練習場の彼らも「合唱ピアノ」という特殊技能はにはまるで興味も眼中にも無く、<何だか僕たちにハナシを合わせてくれる上手にピアノを弾く先生>とだけしか思っていない。
「エルくん!ピアノの先生が『この道』はいつか来た道のソロを合わせるから来てくださいって言ってたよ!」
賽銭箱のステンレススチールの受け皿に誰かなにがしかの硬貨を投げる音。お稲荷さんの前に賽銭箱はある。声をかけてきた通団服の男の子は黄色い顔に黒飴のような丸い目だ。
「ピアノの先生?」
「マーサくんといっしょに音(オト)、合わせますからねーって、言ってましたよ。」
「マーサ先輩はチョーズヤの横のベンチでまだ本、読んでた。」
下級生は手水屋という単語を知らなかった。彼らは様々な場所で歌い、様々な言語哲学に落ち合った。昭和の住宅博物館に行って「童謡こんさあと」の前に「ご不浄」をお使いなさいと学芸員さんに言われるかと思えば、大使館のイベントの前、「レスト・ルーム」に行くエニバディ、ボーイズ?と大使館職員に挙手させられたりもする。上級生たちはほぼ毎週末、首都圏各所のありとあらゆる特殊な場所で安価なイベントに動員されていたので、ごく当たり前の小学生の男の子が体験する時と場所と匂いと肌触りと味と色よりは、遥かに豊富な見聞をたった今も得続けていた。
「いいよ。僕がマーサ先輩を呼んで一緒に行く。トーヤ君はみんなとお水でも飲んでてよ。」
赤川エルは甲高いボーイソプラノで伝令の下級生に言葉をかけた。

「なんでもかんでも大きな声で歌えばイイってもんじゃないんだよ!今日は都合でソプラノの5-6年生が少ないんだからさ、ちょっとセーブしてバランスを考えて歌ってくれなきゃ!きみたち、ボーカロイドとかがプログラム通り歌ってんじゃ無いんだからさ!」
指揮者はリハーサルの段階で既に上気して低声側に群れた少年たちへ抑制の指示を出している。
「おい!松田リク!聞いとんのか?!耳があるのか、ボンクラ3年メゾ!!合唱で一番大切なコトって何だ?」
精進落とし等に使う部屋なのか、現代仏画のガラスの大額が天井の蛍光灯のグリルを反射して井桁に光っている。
「一番大切なのは…聞くこと?…だと思います。」
「そうでしょう?聞くったって、先生の怒鳴り声じゃ、ありませんよ!じゃ、何だ?リク君?」
「みんなの歌ってるのを聞くことです。」
「『みんな』って、誰だ?」
「パートの他のみんなと…他のパートのみんなです。」
「そうだろう?さっきのキミの歌い方は何だ?聞きながら歌ったのか?」
「いいえ。」
「だから、あんなバカみたいに大きな声になるんだ。キミは聞きながら歌えるのか?」
「…歌えます。」
「本当か?さっきは歌えてなかったぞ。」
「歌えます。」
「アルトのユーリ君!キミはこの松田リク君が、他の子の声を聞きながら歌えると思うか?」
「ちゃんと歌えると思います。」
「ずいぶんと評価が高いな。…人の歌っている声を聞きながら自分でも歌わなきゃいけないんですよ。普通の小学生ではとてもできないとてもとても難しいコトなんですよ!キミたち少年合唱団員じゃなきゃ出来ないコトなんですよ?わかりましたか?」
「はい。」
松田少年は、アルトのモリマ・ユーリとともに返事をした。
「じゃ、その証拠にもう一度最初から歌ってくれ!」
21世紀初頭の彼らのライバルは、もはや過疎化あきらかな少年「少女」合唱団でも日本人入団OKでエスタライヒなアウガルテンのゼンガークナーベンでもなく、サンプリングのボーカロイド・ソフトや人工音声のDTMマシーンの筐体の群れだった。正面から周波数ドメインの集合体に勝負を挑めばナマミの少年たちの方が必ずや敗北するに決まっている。彼らの歌の唯一の拠り所は今や「人間が歌う」というところにしか存在しなかった。

 手水屋の横のベンチに腰をおろし、マーサ先輩は熱心に美少女キャラの描かれた本を読んでいた。開いたページには斜に描かれた萌え系の女たちがフキダシに何やら丸っこい勅命を並べ立てているのが見えた。
「エル君ってサ、何で少年合唱団に入ったの?」
「…兄ちゃんが来てたから。」
「あーそうか。俺はね、『教養』として歌ぐらい歌えた方がいいからだって。」
「キョーヨー…ですか?」
公立の小学校の音楽の授業では十分な歌の指導が行われないから…といった理由や、生活に潤いが出るから…児童合唱はコドモにしか極められない学芸であるから…と、団員家族それぞれに「子どもを合唱団に通わせたい」大切な事由がある。6年生は掌に広げていた本の表紙を左右からぱたんと閉じた。
「先輩、何の本ですか?」
「これ?…だから『憲法』だってばさ。」
「あ…そうでした。」
男の子がなぜ民事訴訟法や宗教法人法や浄化槽法や帝都高速度交通営団法ではなく憲法の本を読んでいるかというと、書店や通販サイトには若年者向けの憲法解説本が溢れているからだ。
学校ではやがて日本國憲法に到達する日本の近代史を習う。だが彼は既にこれらの書物によってちょっとした少年憲法学者然としたふるまい、たたずまいを見せているのだった。赤川エルは同じパートで声を揃えるこの上級生に通団途中の道すがら「憲法って、どんな決まりなんですか?」と尋ねたことがある。
「日本國憲法は押し付けられた決まりだ…って言っている人たちもいる。でも、大切なのは誰が作ったかじゃなくて、どんなナカミか…なんじゃないかな。それから、押し付けられたのであれば、もともとどういう経緯で押し付けられたのかをよくわかってないといけないと僕は思う。」
「合唱団の団規みたく?」
中井宗太郎が、ユニフォームの採寸のために持参の衣装ケースを前後へ振りながら聞いた。
「団規と日本國憲法は似ているところがあるよ。半ズボンには必ずサスペンダーをしなけりゃいけないけど、ワイシャツにはアームバンドを付けてはいけないとか、マンガを持って来てはいけないとか、お返事は「はい」とか…団規にあるでしょ?それ、一見、全然自由が無いように見えるんだけど、これを守ると僕らの中のワガママや弱い心みたいな弱点からは自由になれる!合唱って、みんなの声に合わせなきゃいけないし、テンポもリズムも音程もMC原稿も全部決められているけれど、それを守るのは僕たち一人一人の団員だから、僕らはまだ小学生なのに大人の人と同じ一人の人間として認めてもらうことができる。すばらしいと思わない?」
赤川エルは傍で雨水溝の蓋を蹴とばしながら歩いている中井宗太郎の顔を見たが、彼もまたこの話の内容を理解しているようには思えなかった。
「マーサ先輩は、憲法のどこが好きなんですか?」
下級生が話題を変えたいがために振った次の質問に6年生は目を輝かせて応じた。
「そりゃ、絶対に第十三絛が好き!『すべての国民は、個人として尊重される』でしょ!赤川エルは、赤川エルで良いんだ!キミはキミでいいんだ!最高の子なんだ!…って書いてあるんだよ。エル君は日本國憲法以外でそんなこと誰かに書いてもらったこと、あるかい?日本國憲法はもしかすると押し付けられた憲法かもしれないけど、書いてあることはエル君や僕たちへの最高のラブレターなんだよ。」
三段論法的に考えて憲法に似ているはずの団規が自分へのラブレターに値するものであるとは到底思えなかったが「赤川エルは、赤川エルで良いんだ!」という言葉に5年生のソプラノ団員は少しく心を動かされるところがあった。手水屋の端でそこそこに厚ぼったく活字ポイントの小さい萌え系憲法学入門のペーパーバックに目を通していた上級生を見て彼がそれ以上余計な言葉をかけなかったのは、こういういきさつがあったからだった。
「先輩、ピアノの先生が『この道』のソロを合わせるから来てください…っておっしゃってるそうです。」
少年たちの合唱団は土曜日曜祝日と不休で出演のスケジュールを抱えているために、登板への長大な待ち時間を読書タイムやおやつの時間だけに当てがうわけにいかない。ステージ要員ばかりが楽屋詰めでスタンバイの瞬間を待っていることから、指導者達はまだらな空隙を残して組まれたリハーサルや腹ごしらえの時間をぬって次や次の次や次の次の次の出演のための演目のおさらいをコマギレに差し込み、少年たちの歌の出来栄えをヒットアンドアウェーで励起しようと試み続けていた。男の子たちというのは、当日の演目を出演直前執拗にレッスンしてマシにしてやろうとしても大概上手くいかないのである。
 2人の少年は「♪この道は…いつか来た道…」とボーイソプラノで鼻歌を奏でながら控えの間に戻っていった。大きな男の子の右手には憲法の本がしっかりと握られている。

 互いに不信を抱かなければならない人々からなる社会ほど不幸な社会は無い。少年合唱団という児童と指導者からなる極小な社会ではあっても、この摂理はかなりの妥当性を持って真なりと言えた。かつて団員同士が入団テストで採られてきた雑多な、歌の上手い少年の寄せ集まり以上の何者でもなかった時期に、合唱団にも「互いに不信(に近いもの)を抱かなければならない」一時期はあった。彼らは一見してごく普通の歌を歌う、規律に縛られた男の子の集団のように見えたが、歌声はいびつでハーモニーにはいささかの温もりも感じられなかった。日本語も不明瞭。ボイトレの不断の努力も虚しく美しく響きこそすれ何を歌っているのか分かりづらい時代が続いた。指揮者たちはかくして他の指導者が目をかけてやっている団員を貶め、上手くいっていたソロやアンサンブルや営業を何の前触れもなく突然取り下げさせたり配役を干したり聴衆の楽しみを何かもっともらしい理由をつけてもぎ取っていったりした。ミューズは彼らの合唱にもソロにも微塵たりとも微笑みを返さなかった。指導者らはミューズへの畏敬の念をまるで欠いていたし、それゆえ子どもたちへの尊厳も愛も感謝の念も、彼らが大切に持ち運ぶ真の幸福も何も見出そうとしなかった。
「エル君!この前のきみの『ふるさとは遠きにありて思ふもの』のソロを聴いて、お母さんはロビーの隅でずっと泣いていらしたぞ。」
お堂コンサートまではまだ40分間もある。選抜団員の『この道』のおさらいの後、合唱団は再集合してようやく当日の演目を一通りチェックしはじめていた。
赤川エルは、彼の家族全員が自分のナチュラル・ピュアなボーイソプラノの大ファンであることを知っているので、簡単に「はい」と応えただけだった。歌の出来映えが悪くて親に泣かれるのであればまだ対処の余地もあるのだが、自身の歌声に胸打たれ母親が感無量の涙を零しているという状況を彼は未だ「照れ臭い」混乱としか感じ得なかった。当日終演後、着替えを済ませバラシのミーティングを終えてロビーのヒヨコ色の絨毯の上に放免された彼を引き取ったのは目を赤く腫らし、泣き終えた母とその肘を支えるように掴み、寄り添って立つ父親。元合唱団員で中学生OBの兄は塾通いでそこに居なかったが。男の子は、家族もお客様も概して同じものを自分に要求しているのだとそういうときに気づくのだった。学校が終わり、ユニフォームを纏ってから後の行為は声を揃えることで、彼らは膨大な体積の息を吐きながら声を消費しているように見えて実のところステージは生産の場なのである。少年たちにはこの生産性の向上を目指してひたすら歌っているのであり、達成すれば彼ら自身が幸せな気分にもなり、それゆえ観客たちを幸せな気持ちにさせることもできるのである。彼らは目に見えないものを生産しているのである。
「僕は、合唱団に来るのが大好きです!…そんな通団への帰り道、小さい声でよくこの歌を歌います。みなさま!…つぎの曲は北原白秋作詞、山田耕筰作曲『この道』です。」
このMCを担当しているのは赤川少年の1期上のソプラノで、彼のパートを統率するスラリとした少年だった。実際の彼らは通団の行き帰りに汚れた都市の大気の中で歌を歌うことは無かったが、よく話をするのだった。
「俺、4月にはもういなくなる。」
「知ってるよ。先輩は中学生になるんだ。」
「俺は卒団する。そうしたら、おまえと歌うことはもう二度とない。」
名曲『この道』の文中に製作者の感情を直截述べたフレーズや語彙は0(ゼロ)件だ。上級生は舗道の前後をサッと見渡して赤川エルの左手を優しく握った。通団カバンを持っていない方の手だ。
「俺はとっても辛い。大好きなおまえと歌えなくなるなんて。」
少年は前を見据えたまま。
「僕も辛いよ。でも、とっても幸せなんだ。僕は一生懸命に先輩と一緒に歌っているから。」
「俺も歌っているよ。」
「ううん。大切なのは、先輩が4月から後はここにいないってことじゃなくて、3月まではここにいて一緒に歌っているってこと。僕は今、大好きな大好きな先輩と一緒で、大切にしてもらっていて、世界一幸せな男の子なんだっていうことの方がずっと大事なんだよ。僕は先輩が大好きだから。」
男の子はニコニコした。都会の埃っぽい舗道の上で、胸いっぱいに息を吸って良い表情で目をつむった。上級生がしっかりと手をひいているので、安心して歩くことができる。赤川エルはいつか卒団や声変わりの日が明確に来てしまう少年合唱やボーイソプラノという「仕事」を少なくとも最終的には自身で選択したことに後悔した瞬間が一度もない。自分が何を選んだか(選ばざるをえなかったか)ということよりも、自分が今、何をしていて、どんな少年たちと心を合わせているのかの方がよほど重要な事柄だったからだ。

 赤川エルが実際にこのMCのあと、来週週末のエキナカ・コンサートの目玉の一つになる予定の『この道』のソロパートの部分を予行演習代わりに歌い終え、ユニフォームの尻を客席(御堂のようなところなので、正確にはそういう名前ではないと思った)に向けて隊列へ戻ろうとすると、期せずして拍手が起きた。喝采にはイレギュラーな箇所だったので、拍手と言ってもぱらぱらだ。ここへやってきているのはほぼ全員が檀家さんや団員の保護者たちなので、これを聞いて何らかのモトをとってやろうという人は皆無にちがいない。ただ、寺社関係のコンサートはお客様から個別に定額の入場料を取って聞かせることは殆ど無いので、小学校高学年の団員たちは皆、このパフォーマンスを「ボランティア」のようなものと考えている。社会福祉への寄与とあまり変わらないというスタンスである。彼らには社会連帯という意識は完全に欠如していたが、社会奉仕という理念や精神については身に刷り込まれ日常化していたのである。ステージでの彼の姿を熟知している保護者達や追っかけ同然のヘビーなファンは、その無表情とも言える彼の真摯な歌いぶりに満足し、ボーイソプラノというものを普段あまり聞いてきてはいないという聴衆は、赤川の捻出する高い統御された頭声に「こんなにきれいな声を男の子が出せるものなのだなぁ」と心底感嘆した。自身のピッチに振れがちな部分があって、少年は少しく当惑していたが、客席の誰も彼の心中に気がつかなかった。
「そのために今日は予行をしたんだから…。」
「先輩、練習だからいい加減に歌っていいんでしょうか?」
手伝いに来ていた大学生のOBで、現役時代の最後は現在の赤川の位置に立って歌っていた伊藤だけはその心の機微を知っていて、終演後に彼を呼び言葉をかけた。
「いつもテスト本番のつもりだと本当にダメな日が来たら精神的に潰れるってことだ。優秀すぎる子はだから危ないと言われる。」
「僕は優秀じゃありません。」
「未だな。エルくんはたくさん失敗をして、たくさんダメ出しを体験して、そのぶん勉強をして…それが、真に優秀なボーイゾプラノになるソリストの姿なんじゃないかな?」
男の子はすでに十分優秀なボーイソプラノ・ソリストだった。小学校3年の春には初めてのソロをとり、MCのデビューもアンコールのビス待ちの判断を下すようになったのも同じ頃のことだ。彼はもちろん夥しいステージ経験の中から苦渋の思いも不適切な判断も降雨のような説諭も受けてここまで来ている。OBはそれを十分知っていて心から評価していたが、この場面でそれを言うのは差し控えた。
「俺は、君がこういう音程の振れを自分で気づいて翌日までにリカバリーする場面をたくさん見てきている。2年の頃の定期演奏会の自分の姿をエルくんはDVDとかで見たことがあるか?」
「…あまり…」
「きっと君自身がビックリするほどアマちゃんでいい加減な2年坊主が映っているはずだぞ。きみはあっという間にしっかりとそれを直していったんだ。お父さま、お母さまが客席でご覧になっていて忠告したこともあるだろうし、合唱団やOBの先輩方だってきみに耳打ちしたこともあるだろう。でも、そこに漏れたことも含めて様々なことに気づいて直していったのは、他でもない君自身なんじゃないのか?」
「……」
「行きなさい。お客様はどうせボーイソプラノというのは少年時代のわずかな期間の美で、声変わりを迎えたら消えてしまう魔法使いの呪文のようなものと思っている。でも、大切なのは『声変わりしたら歌えなくなる』というマイナスの予定調和のようなものじゃなくて、日々何を大切に歌うかということだけだ。将来も未来も、なるようにしかならないきみの人生だ。だったらボーイソプラノとして善く生きろ!きみは今、その素晴らしい団員人生の真っ只中にいるんだ。赤川エル!わかったか?」
男の子は、要は「今日の音程のブレは次回の本番もしくはレッスンまでに直してくれば良い」というOBからの猶予宣告と受け取った。彼が自宅でどんなリカバリーをしてくるのかは家族以外誰も知らない。伊藤が一番心配しているのは、彼の兄がそうであったように、6年生の団員になったとき、「受験のための休団」を許さないこの合唱団で中学年の頃に比べ明らかに歌への姿勢が疎かで二の次になることだけだった。都内の公立学校の児童にとって時代背景は「誰でも」というものではさすがに無くなったが、少年合唱団に息子を在籍させているような家族にとって「中学受験」はまだ一般大衆の条件の一つであり、子どもへの投資というよりは重要な消費行動と考えているような場面も見受けられることがある。

 赤川エルがソロを終え、自身のピッチの振れに当惑しながら身を翻し隊列に戻っていく場面を見て、男の子の手袋をはめたような真っ白い手に気づいた観客はソプラノ側の席で観賞していた人々の中に数名見られたと思う。このような上級生は普段ひな壇の上の奥で歌っており、客席からは彼らの胸から下があまり見えないからだ。両手をガウンの中へ隠していたり、手を後ろに組んでいたりして、そもそも団員の手が観客には見えないようにしている合唱団もある。手は男の子の内面を吐露しやすく、無邪気な表情の一部でもあるために、小学生男子のみの在団をうたう合唱団ではボロの出やすい見えやすい部分でもあるのだ。「手の内を明かす」は武道由来の言葉と聞くが、少年たちの合唱にも十分当てはまるように思える。彼が何を思って歌っていたのか、赤川エルの白い手はきちんと物語っていたからだった。
「エルくん、手の中にあるものを先生に見せなさい。」
本番開始の直前、少年は指揮者に見咎められ、そう言われた。
「ごめんなさい。歌に関係の無いものを読んでいました。すぐにポケットにしまいます。」
指揮者はデジャブのように感じたこの光景を頭の中から素早く払拭し、詰問した。
「先生の言ったことをして。だいいち、そのビラはもともとキミの胸ポケットにたたんで入っていたものでしょう?何のチラシか、見せてごらん。」
少年は声出しやゲーペーの合間を縫って、文面の第4章「国民として」の半分までをすでに読んでしまっていた。少年合唱団員のワイシャツの胸ポケットは、ブレザーのチーフポケット同様、ただの飾り物だ。ハンカチやMC原稿の類(ただし、本番中にMC原稿の紙を取り出して読むことは厳禁とされている)はズボンの利き腕側のポケットへ入れるよう指導されている。何かに引っ掛けて破いてしまったり手を突っ込んだりしないよう、そもそもポケット自体を家で縫いつけられてしまっているというような団員もわずかながら存在する。団員がこうした団規に反して何かの紙を突っ込んだままガウンを羽織って控え室を後にする様子を指揮者は決して見逃してはいなかったのだ。
「文体も語彙も構成も平易だが、きみはとても難しい文を読んでいるよ。少なくとも、大学ぐらいの教育を受けている人でないと、この答申の言おうとしていることは理解できないだろう。」
「理解はできます。漢検3級なんです。」
指揮者は差し出されたビラの文面に目を通しながら、現在の少年がとてつもなく新自由主義的な立場でものを言っていることに気付いた。
「いや。そういう意味じゃない。これは非常に巧みに作られ、記された文章だ。だいたい、21世紀になり、少年合唱団に通って高い月謝や毎週の出演のアゴアシやチケットのノルマや衣装の新調代をお家の方に払っていただいている君らだ。しかも、身の回りに外国人の友達や同級生は何人もいるだろう?」
「います。」
「黄色い子も、黒い子も、銅色の子も…ムスリムやプロスビテリアンやヒンドゥーも。」
「わからない。…でも、外国人?の友達はふつうにいます。」
「院とかお茶の小学校に通っている団員も普通にいる。」
「先生、それってソプラノのショショっち君たちのことですよね?」
「ここに書かれていることが、あまりにも日常の光景になってしまったんだ。20世紀の終わり頃、君たちの先輩たちは、パソコンのある学校なら小学校高学年でもコマンドラインのパソコンを動かしていた。当時、小学生たちは学校でLOGOといったプログラミング言語のコマンドを1文字ずつ打ち込んでグラフィクスを操作していたんだ。1文字でも違えば、何も動かない。コロンがセミコロンだったり、ダブルクオートがただのクオートだったり、ブランクをたった1箇所入れ忘れたり、ツノ括弧がうっかり1つだけマル括弧だったりしただけで動かない。『みぎへ』というコマンドを『みぎえ』と打ち間違っても、パソンコンは今の機械のように『”みぎへ”ではありませんか?』とは教えてくはくれないし、ビープ音なんて出るわけもない。正しいコマンドが入力されるまで、結局何も起こらないんだ。先輩方は、だから『動かない』と思ったら、必ず自分の打った膨大なコマンドを徹底的に見直して、間違い直しをした。彼らはよく『バグを直す』と言っていたよ。だが、パーソナルコンピュータは、それを秘匿し掩蔽するようひたむきに発達し、改良され、普及してきたんだ。21世紀の君たちには到底考えられないことだろう?エルくんだったら、学校のコンピュータが途中で動かなかくなったらどうする?」
「リセットします。」
「うーん。そうだろうなぁ。」
「先生…ところで中教審答申の中教審というのが『中央教育審議会』というのは、ここに書いてあるんでわかったんですが、『答申』って何でしょう?」
「漢検3級じゃなかったのか?『答申』というのは、行政機関から頼まれたことについて意見を述べたりすることだよ。つまり、自分の考えを目上の人に申し上げる……」
「…先生?何ですか?」
指揮者は『答申』の文面に目を落としたままコマンドラインを打ち間違った16ビット・パソコンのように動かなくなった。
「え?…」
そこにはエル少年が駅前で練り歩きながら読んでいた冒頭の一文が記されていたのだ。

 以下に述べるところのものは、すべての日本人、とくに教育者その他人間形成の任に携わる人々の参考とするためのものである…


 少年合唱団員のステージ上の姿にはおおよそ2つのタイプが存在する。いずれも本人はきちんと立って歌っているつもりなのだが、表情があり多動な印象を与える少年と、口とブレス以外の身体が全く動かないという印象を与える少年だ。どちらの子どもも妥当な評価を得て今日も歌っている。赤川エルは明らかに後者で、水盤の上へ投影される鏡像のごとく彼のステージ上の立ち姿は静止したままだ。演奏会の開演と終演で、その立ち位置は悉皆1センチメートルも動いていないだろう。下肢が半ば膝を突き出しているのかと思えるほど少年の重心は低く、息継ぎは曲の緩急にかかわらず静謐で的を得ている。贔屓の観客たちは、だから彼のその姿を吸い寄せられるように黙して見つめ、毎回の出演が終わる。赤川エルを知っている周囲の人々の誰もがそれを心得る。だが、彼の視線は他の少年たち同様、演唱中も僅かに振れている。そう見えないのは、彼の睫毛が下垂して確かな丈を持ち、薔薇色の虹彩を左右には決してスイングしないからだ。指揮者の挙動を見据え、ステージの床を舐め(これは、予科の暫くの間、顎を上げて歌う癖があったのを矯正したときの名残りなのだ)、ほんの時たま(1ステージに1・2回程度)劇場の3点吊りや客室照明を見上げる。頭髪は黒くゴワゴワとしていて光艶が無いので2サスを反射する面積が狭く頭蓋の動きを伝えにくい。それゆえ、客席の人々は彼のキャンディー・アップルのような真紅の口唇の開閉に魅せられ、口の動きをひたすらに見つめ続けることとなる。

「先生!この組み立て済みのBB-8が入ってるってくらい大きな箱の山は何ですか?」
仏画の大額に孕んだ蛍光灯の光の線が、控えの間の折り畳み机の上にこんもりと置かれたダンボール箱の陰に遮られている。
「クール便(冷蔵)でさっき届いたそうです。」
マネージャー先生がそう言うが早いか、少年たちはそれがもしや自分たちへの出演料代わりの「ご褒美」であったら良いのにと発生から未だ10年ほどしか経っていない前頭葉の眼窩前頭前野で考えた。今日すべての演唱は終わり、子どもたちは団規に定められた通りのユニフォームと着こなしのまま球形ロボットが格納されていそうなほどオーバーサイズな白い冷たい箱の山を取り囲んで喋っている。
「先生、宅配の方も、驚いていらしたみたいです。慶弔に合わせて引き物や引出物をお寺さんに送られる方は多いみたいですけど、クール(冷蔵)の量が…」
「いや、宅配の人たちは社会生活の様々な場面で総合物流機能がサポートしているということに誇りを持っている。で、ナカミは何でしょう?」
分別も常識もそこそこに有る選抜組の子どもたちは、着荷物に高温超電導の液体窒素に満たされたレジスタンス軍側に付いたアストロメカドロイドを切望しているわけではなかった。
「先生、そうです!運輸の使命に徹して社会の信頼にこたえることが宅配業の人たちのほこりなんです!」
5年生社会科の「工業生産を支える」の調べ学習で陸運業カルタを作ったアルトの五十嵐少年が尊大に話へ割って入った。
「同感、同感、太田道灌!それでこそ皆様の暮らしの寄る辺に…with Your Lifeってわけだよね!」
伽藍鳥マークの付された伝票を眺め徒口をきく6年ソプラノを押しのけて背後から赤川が「品名」の欄を確実に読み取り、素っ頓狂な声をあげた。
「先生!なんか、多分、丸いものであることは合ってますっ!『バタークリーム・ケーキ』35コって書いてあります!」
何故に寺院の御堂コンサートの終演へ臨み、こんなものが?!

 贈答品は伝票の「ご依頼主」カラムと、箱のうちの1個を開けて皆に見せた指揮者から「家に帰るまで箱を開けるな!一緒に送ってもらった紙バッグを配るから、ひっくり返さないよう中に入れて、そっと持って帰るように!」と厳重なお達しがあり解散直前に出席団員たちへ渡された。
「だいすけ君!このケーキの箱はいつ袋から出す?」
「…お家に帰ってから。」
「お返事『はい』は、どうした?」
「はい。…はい、お家に帰ってから開けます。です!」
指導の任にあたる指揮者は念入りに、最も「人の話を聞いていなさそう」な3年アルト団員に声をかけて復唱させた。
「ご依頼主」の筆跡はくにゃくにゃぺったりの小学校中学年の男の子のものだ。
「コーちゃんってば、こんなこと、してくれなくてもイイのに。あれは緊急事態だったんだからサ。俺たち、誰も『タダ働き』させられたなんて思っちゃいない。…少なくともイガちゃん以外は。」
「ウルせぇ!この五十嵐さまはそんな狭い了見のボーイアルトじゃなかとばい!ま、でも、くれるって物は素直に頂きましょう!コーちゃんがせっかくクール便で送ってくれたんだもの…腐らしたり傷ませたりしたらいかんとでしょーが。ね、ユーリくん?」
「緊急事態」というのは、昨年のクリスマスコンサート・ツアー中、前触れ無き極端な豪雪がアウトレットモールに少年合唱団と買い物客を閉じ込め、孤立させた一夜。彼らはそれでも夜半にコンサートをやり、出演料代わりに自分たちがもらうはずだったスイーツのアソートボックスを避難してきた人々に気前よく配ってしまう。バタークリーム・ケーキの送り主「コーちゃん」は当夜のスイーツ詰合せのコーディネータ兼製作者のスイーツショップ一家の息子であり、また、少年たちからその誠意に溢れた「クリスマス・プレゼント」を贈られもした小学4年生の男の子だった。突然声をかけられたモリマ・ユーリはその少年の面影を一瞬想起していて返事を返さなかった。
「今日、練習場に送ったら日持ちしないから、直接ココへ送ったそうだ。これでようやく君たちへクリスマスプレゼントが届けられたと言って喜んでいたよ。しかし、いまどきバタークリームのケーキとはまったく昭和時代チックだな。」
団員たちは指揮者が自分たちに内緒でどこか別の部屋から少年へのお礼の電話を済ませて戻ってきたことを知って憤慨したが、思わず漏らしたバタークリームの件については聞き捨てならぬと食い下がった。
「先生ぃ!今、バタークリームって一番ヤバいスイーツ食材なの、知らないんですか?」
「どうせ、先生なんて金持ちだから『バタークリームが無ければエシレのケーキを食べればいいじゃない?』とか思ってんでしょ?」
「今、とっても流行ってるからコーちゃんがわざわざバタークリームでケーキを作って送ってくれたんですよ!昭和時代だなんて、先生ぃ、解ってないなぁー!」
「そもそも50年も前にバタークリームなんてリッチで『ナウい』もん、あるわけ無いでしょう?」
「バタークリームは現代のものですヨ!先生、50年も前には無かったんですからね!?」
指揮者は1960年代中葉の我が国の洋菓子店店頭ショーケースの中身を知らなかったが、成金化する直前の中国を旅した蛋糕店で買い求めたケーキの味はまさしく未だバタークリーム100%のものでしかなかったことを思い出した。かの国では今や新疆やチベットにでも行かない限りバタークリームのケーキなどお目にかかることは無いだろう。お礼状は合唱団で集めて送ることを少年たちに念押しして、クリームが融けないうちにと彼らは早々に「解散」の指令を受けて都心のコンクリート造の山門をくぐった。

 赤川エルはひとしきり歌い終え、仲間たちと楽しいひと時を過ごしたことと、今日一日自分の声を聞いてくださった人々を思い、心ゆるびて帰途についているところだった。行きがけと同様、彼の使っている私鉄は本日の団員の趨勢とは違うため寺院の最寄駅までも一人きりの行脚である。宗教施設の招聘で歌う演奏会の場合、比較的早い時間にステージのひけることが多く、まだ陽があることもあって上級生たちは各々保護者のお迎え無しで家路につく。だが、男の子は突然自分の小PASMOの所在を失念し、あわててズボンと胸のポケットをまさぐった。しかるのちICカードの代わりにつまみ出したのは、一葉のあのアジびら。右手にぶる下げた紙バッグの中から香り立ってくる甘い匂いを嗅いだ途端、彼はその文を今度は音読してみたくなった。

現代は価値体系の変動があり,価値観の混乱があるといわれる。しかし,人間に期待される諸徳性という観点からすれば,現象形態はさまざまに変化するにしても,その本質的な面においては一貫するものが認められるのである。

赤川エルは美しいそのナチュラル・ピュアなボーイソプラノで淀みなく本文を読み始めた。足元から時折漂い登ってくるスイートなフレーバー。その甘やかな風と声とが男の子の目前に迫る歩行者や暴走自転車や車輌から彼を巧みに遠ざけ、道を開いてゆくかのようにも思えた。舗道上の人々の行き来は交錯している。いずれも帰宅のため、けだし乗車する人、下車した人。団員はそんなことへの頓着はまるで無かった。その紙切れを裏返しながら、朽ちかけた明朝体の段組を左上から楽しげに読んだ。もう、それ以外何も目には入らない。駅は近づき、少年の道行の句点も近づく。文体も語彙も構成も平易で、決して難しい文ではない。少なくとも、漢字検定3級の小学5年生には、この答申の言おうとしていることは理解できるように思えた。
 目前に黒い影が迫ったのは突然だった。今度は知った人の匂いはしない。かろうじて見えたのは、じき暮れようとする陽の中で光る相手のLEDバックライトスクリーン・タッチディスプレイの蒼白い長方形の明り。黒い波は一瞬で少年の肢体をなぎ倒し、街路樹の蓋と彼の左半身が紙バッグの中身を寸時に押しつぶした。頭蓋の芯を打つ衝撃の中で赤川エルの思考はたちどころに麻痺していた。バタークリームの匂いと、彼の持つ通団カバンの合皮の擦れる臭気がふっと辺りに漂った。あとは少年の右手から抜け落ちた洋紙のビラが一枚、いまだ折り目を残したまま都心の乾いた風を受けてからからと路上を舞い、やがて通行人らに蹂躙され何処へと消えた。

(c) "The Image of Ideal Japanese" Ministry of Education, Science and Cultur, Japan. 1966.

ウィンター・ワンダーランド WINTER WONDERLAND

December 22 [Tue], 2015, 0:28

▲目の前のアオケン君はあぐらに肘をついて、仕方なさそうな振り付けでかっこいいアルトを歌っているんだけど、その目は僕の方を見てニコニコ笑っている。まるで「プレゼント、ここにあるよ。どうもありがとう。」と言っているみたい。

 今にも泣き出しそうな鉛色の空。ふだんは夕焼け雲にカラスといっしょに帰る下校時刻のはずが、夕方から急に夜になったみたいなヘビーな天気だった。
冬休みはもうすぐ。都内の公立の学校は「ゆとり」が終わってどこもクリスマス前に年末の休みが来ることは無くなった。お父さんお母さんに連れられてお店にやってくる子どもはみんな幼稚園や保育園から下の小さい子たち。
「クリスマスプレゼント、何もらうの?」
なんて、僕が聞いても、返ってくるコタエは、ちょっとタルっぽくて「それ、いいネ!楽しみでしょう?」と言うのがせきのやま。「お兄ちゃんがもらうプレゼントはネェ…」何て言ってもたぶん「?」と、小さな首をかしげられてしまうに違いない。
「アオケン君たちのバスは今しがたようやく着いたんだって。師走渋滞で、高速がかなり混んでたみたい。たぶんバスの中にカンヅメで疲れちゃってるだろうからってフルーツ・クラブさんがブドウ・ジュース2カートン担いで走ってったばかり。」
お母さんはクリスマス・ディスプレーの箱入りガトーを手早く積みなおしながら言った。
「ブドウは糖度高いからね。元気が出るよね?おかあさん。」
このジュースはビレッジ限定商品のスペシャル版!通販以外はよそでは売ってないけど、美味しさもびっくりするくらいスペシャルだ。
「元気になってもらわにゃ!これから頑張って歌ってもらわなきゃいけないもの。」
「ねぇねぇ、お母さーん…僕も何か持って挨拶しに行っていい?」
「今から?…そりゃ、止めておいた方がいいかな。だって、さっき着いたばかりで今度は今日のコンサートの練習をしなきゃいけないんじゃないの?」
「お母さん、それ、ゲネプロって言うんだよ。」
お母さんはこういうとき、決まって「あれ?今日のコー君は『僕にはオヤツ無いの?』って聞かないんだね?」とかなんとか皮肉を言う。嫌な感じ。でも、今日は本当に自分のおやつなんか完全にどうでも良かった。赤いワンピース・パーカーのポケット…左のジッパーを下げて手を入れるとお店のレシートぐらいの大きさの画用紙の角が人差し指の腹を刺した。コンサートの整理券!タワーのラウンジで行われるコンサートは、誰でもタダで聞くことができる。でも、前の方のソファーやチェアの並んだ特別席に座るには整理券が必要なんだ。元気な小学生の僕が、べつにわざわざ座って聞きたいってわけじゃない。特別席の子にはクリスマスプレゼントが手渡されるからなんだ!ただ、プレゼントって言っても、ジュエリーとかオモチャとか、そんな高級品でもない。僕のお父さん、お母さんがやってるショップで作ったクリスマス・スイーツを僕が詰め合わせ、おねえちゃんがラッピングをかけてリボンを付けたものなんだもの。…大切なのは、それを誰が渡してくれるか?!僕は券を無くさないようにポケットからは出さず、ジッパーを閉めて「ふしぎなポケット」の歌のように上から手のひらでぽんぽんぽんと3回たたいた。もちろん、券はそんなんじゃ3枚には増えなかったけれど、お店のウインドーから見えるドブネズミ色の景色がまるで雪景色になったみたいに明るい気分になった。
「ねえ、コー君。お向かいのベンチに何だか困った顔したお母さんと男の子がいるでしょ?お母さん、何だかとっても気になるから、声かけてきてくれないかな?」
「うん。うん。」
僕はもうお母さんが何か言った頼みごとをほとんど真剣になんか聞いていなかった。
「じゃぁ、頼むわよ。」
「ハーイ!行ってきマース!」
クッキーを敷き詰めたようなテラコッタの歩道へ甘いスイーツの匂いを引き連れて飛び出した僕の身体を冷たいパッキリとした外の空気がサッと取り巻いた。こんなこと、海岸の近い僕の町では殆ど無い。そのとたん、僕はお母さんの言いつけも、何もかも、すっかり忘れてしまった。そう!今日はクリスマスコンサートの日!今年もまた僕らの街のクリスマスにアオケン君たちの少年合唱団がやってきたんだ!

 テラコッタの歩道は明るいキラキラとしたイルミネーションの中を碁盤目のようにのびている。クリスマスのデコレーションで飾り付けられたたくさんのお店が軒を連ね、植え込みのある外回りの道路を越えると何だかちぐはぐな畑や川や林やビニールハウスの群れや、海岸の間に開けた寂れた漁村が見えた。高速道路に乗ってやってくるお客さんたちは僕らの街を「アウトレットモール」と呼んだり「ちょっとシャレた道の駅」とか「ドライブインの集まり」とか「ラグビーの試合がいっぺんに4つぐらいできそうな広い駐車場のあるショッピングセンター」なんて言ったりするけれど、どれも当たっていない。正式には「コンプレックス・ビレッジ」というんだ。僕の家はその中でスイーツ・ショップをやっている。お母さんはお店で、お父さんは厨房でケーキを焼いてデコレーションしたりチョコをテンパリングしたり、焼き菓子をオーブンに入れたりしている。おじいちゃんは、その両方。おばあちゃんは家で妹のおもりと留守番。そして、僕とおねえちゃんは学校から帰るとお店でお母さんの手伝いをしている。レジを打ったり、お金を払った後にビレッジをウロウロしているお客さんをつかまえ、「お待たせしました」と言いながら包装の済んだ品物を渡したり、「割れたり、落としたりしないようにやさしくお持ち帰りください」と声をかけて駐車場までケーキなんかを運んであげたりする(この運び方は、おじいちゃんにビシビシ仕込まれた…泣)。お店の中のお菓子を詰め合わせにしたいというお客さんには、クッションを敷き詰めたきれいな化粧カートンを抱えて一緒にディスプレーを回り、お客さんが指差したものをその場で見栄えがするようキレイに並べて詰めたり、ときには「小学生の女の子へのプレゼントですか?それじゃあ、こっちのカラフルなマカロンと星のゼリーと、ホワイトチョコのオーナメント、それからブルーのアイシングのかかったクッキーとマーブルチョコ・アラザン・チョコスプレーでデコレーションしたお菓子の家は絶対に外しちゃダメです!僕のクラスの女子なんか、全員これでイチコロでした!」なんて大げさなことを言って僕が見繕ってあげたりもする。今日のコンサートで配られるのも、そんなスイーツの詰め合わせ。ライブの行われるタワー(海の近くなので、津波が来たときにお客さんを全員避難させるために教会大聖堂のようなとんがり屋根の大きな塔がある建物なのだ!)の後ろにあるビレッジの集会所に裏からまわると、庭側のサッシ戸を通じて部屋の端の机をどけたところに、おそろいのグリーンのシャツでセーターやベストを着た小学生が並んでいる様子が見えた。
「やっぱり、カッコいいよなぁ!」
誰も聞いていないのに、思わず言ってしまう。誰かが号令をかけたのか、みんなはサッと気をつけをして、それから同じ角度でスッと頭をたれて挨拶をした。次に頭を上げた瞬間、みんなのマリンブルーのベレー帽にとめられた金色の団バッジがキラリと輝いて僕の目を射る。差し入れのぶどうジュースのカートンを抱え、前に立っているのはフルーツ・クラブの店長さん。今日もニコニコ機嫌がいい。こんな子たちにビシッとそろってお礼をされたら、どんなに上機嫌さレベルアップなことだろう。そのとき、並んだみんなの一番右端から、5年生ぐらいの男の子が一人すっと進み出てきて、店長さんの目を見て何か言った。いた!いた!見間違えるなんて絶対にありえ無い。僕の大好きな、大好きなアコガレのお兄ちゃん!合唱団アルト5年生のアオケン君!僕も背の高さは伸びているみたいだけど、集会室の中のアオケン君は、夏に会ったときよりもまたすらりと背が伸びて見えた。お礼の言葉を言っているのだろうか。僕が店長さんだったら、アコガレのボーイアルトにこんなことされたら感激して泣いちゃってるかもしれない!(…ハズカシいネ。でも、たぶんホント…)
 そのとき、部屋の中の子たちの何人かが、集会所のコンクリート張りの冷たいピロティに一人立っている僕のことに気がついて、ぱらぱらと手を振りはじめた。…でも、それだけじゃ済まないよネ。ちょっとした騒ぎになったんだ。合唱団の皆や先生方、最後にはフルーツ・クラブの店長さんまでが僕に気づいてサッシ戸をバンバンと開け、外に出てきた。
「コーちゃん!」
「アオケン君!」
「夏休みのときより、またカッコよくなったネ!」
「みんなも!…みんなもネ!」
あこがれのみんなと、念願の再会を果たした。また、また、また、また、夢がかなった!あと少したったら、アオケン君たちのキレイでカッコいい声を45分間も聞くことが出来る。…しかも一番前の席で!僕はそうして確実に日本一幸せな小学生の一人になる!
「どうもありがとう、コーちゃん!」
「僕の方こそ、ありがとう。」
フルーツ店長さんは、どうして僕が御礼をいわれているのかわかっているので、僕の頭をくしゃくしゃとなでて、いつもの通りニコニコのご機嫌な顔だ。それから、合唱団のみんなと、先生方と、それからおまけに店長さんと一人ひとり、握手をした。最後に2回目の握手をがっちりかわしたアオケン君が2回目の「どうもありがとう!」を言ってくれたとき、僕の右手は握手攻めでとっくに痛くなっていた。でも、こんな痛い思いなら、大感動で大かんげい!
「あのね、オレら低声には予科から新しい下級生が上進してきたヨ。アキヨシ君とフクちゃん!」
「クリスマスツリーの点灯式のときネ、楽屋でイガちゃんがサシイレの揚げたてコロッケを15コも食べたんだよ!バカでしょ?」
「新町くんが知らないお客さんから超ゴーカな花束もらったんだ!物好きなお客さんだよねぇ。」
「中井宗太郎君がマイコプラズマにかかっちゃったんだゾ!うつされたらヒサンだナッシー!」
「今、流行ってんのは、無印良品の黒いミニ定規を両目に当てて『少年A』!」
「ねえ、コーちゃんって、横浜駅のシウマイ弁当と横川駅の峠の釜飯のどっちが好き?」
一番仲良しなアオケン君の班のみんなが僕を取り囲んでいっぺんに色んなことを聞かせてくれたり聞いてくれたりした。
ピアノが得意で、ステージではいつも冷静…合唱団のない日は写真モデルもやっている、(僕と同じ4年生とは思えないけど)4年生のよしみで僕とは大の仲良し第2メゾの松田リク君。
多分、市内の小学生の中で誰も弾ける子はいないボタンアコーディオンを担当している、辛く悲しいことがあっても絶対くじけない、もりまユーリ君。
今日も前髪にグロスをつけて、靴はピッカピカ、ソックスの長さもキッチリ同じにしなきゃ気が済まないってくらい…一見こわーい兄さんに見えるんだけど困っている子にはめっぽう優しいオシャレでカッコいい6年生、中山アンビ先輩。
民謡教室出身でハンガリー民謡をコロッコロのコブシをつけて歌う食いしん坊のイガちゃんこと五十嵐くん。
兄のナナヒカリでパーカッションを担当することが多い、美声で滑舌ハッキリ、クッキリ…「少年の色気を感じさせるナレーション」ってお客様に言われているらしい日本一のMC少年、柳川君。
去年までバレエ教室一筋にやってきたからめちゃくちゃ姿勢や仕草がスマートで綺麗…でも、実はゲートターンoffサイリスタの磁励音(…って何??!)を聞くだけで電車の種類が分かるっていう、寝台特急あけぼのオハネ24のB個室に一泊するために秋田まで一人旅に行っちゃうほど重症な子鉄(子ども鉄道マニア)の門脇大地君。
そして、ニコニコと握手した手の温かさがまだ僕の右手の中にしっかり残っている…趣味は庭いじり(園芸)とお掃除、…なのに、徒競走とお習字が得意なカッコいい5年生アルト・ソロのアオケン君!
「ねえ、ねえ!コーちゃん、今年のお菓子は何?…クリスマスにはオレら少年合唱団のことをガトー・ボックスにしてくれるって言ってたよね?!」
みんなが共通に聞いてきたのは、それだった。
「モチロンだよ!題して『天使のハーモニー』!みんなへのお礼のプレゼントの中にも混ざってるし、特別席のお客さんへのプレゼントの中にも入ってる!開けてみてのお楽しみ!」
班の子たちはちょっとびっくりして真顔になった。予想してはいたけど、ショックだったな。
「なんで、みんなの分じゃないの?」
やっぱりくいしんぼうのイガちゃんが聞いてきた。
「ごめんね。みんなの分を作るのには材料が足りないんだ。とっても貴重な食材を使っているんだよ。それはね…」
もう、合唱団の他のみんなは、フルーツクラブの店長さんにお礼の「まきびとひつじを」を歌いはじめている。今朝、起きて子供部屋のカーテンを開けると凍りそうな鉄色の空。終業式の学校へ急ぐ僕たちの列に登校当番のお母さんたちが「なんだか雪でも降るのかしら?」といぶかしそうな声をかけた。
「おばさん、ここは暖かい海岸の町だよ。雪なんか降るわけないじゃん。」
雪のたんまり積もった光景をテレビや社会科の教科書でしか知らない僕たちは笑って答え、ランドセルの肩ベルトをポンと浮かせて軽そうなナスカンの音をチャリンと鳴らした。…それからまだ10時間も経っていない。慌てて回れ右をし、歌の隊列へ戻るアオケン君の班のみんなと、そこにぽつんと残った僕の頭の上に白いものがちらちらと落ちはじめた。

 ショップに戻る頃にはポーチのテラコッタ・タイルが生クリームの層の下に敷き詰められたクッキーベースみたいに1枚も見えなくなっていた。お店の中から漏れてくる甘い匂いを嗅ぐと何だか巨大なショートケーキの上を歩いているような気持ち。けど、重いお店のドアを押し開けると、そんなしあわせタイムが吹き飛ぶような子どものすさまじい泣き声がお店の中に響きわたっていた。
「だってぇー、ママもお菓子がほしいから来たんでしょー。ボクもほしいんだよー。車もガマンして乗ったからー。写真じゃなくてホンモノがいいのー!ヤダヤだー!ほかのお菓子、いらないー!」
クリスマスディスプレーの前で押し問答中という感じの二人を見たとたん、それがさっきまで、お店の前で困った顔をしていて、ぼくのお母さんが心配して「声をかけてきて」とお使いを頼まれた坊やとママの親子だということに、鈍感な僕でもさすがに気づいた。たぶん、僕は「やっべぇー。やっちゃったぁ。」ってな顔をしていたんだと思う。大泣きの男の子を真ん中にして、坊やのママと僕のお母さんが両側にしゃがんで困り果てたという顔をしながら僕を見ている。
「お母さん。本当にごめんなさい。お客さんを泣かしちゃって。…お客さん、本当にごめんなさい。さっき、困っているのに声をかけなくて。」
僕はお母さんとお客さんに2回頭を下げた。
僕のお母さんは、僕が悪いことをしたときや失敗をしたときにお店では決して声を荒げて怒らない。お客さんを嫌な気持ちをさせたくないからだ。でも、最近はお店の中じゃなくてもそうなんだ。お父さんやおじいちゃんはびしびし!とーっても恐いんだけどね!でも、お母さんは僕が悪ければ悪いほど、真剣に一生懸命話をしてくれる。「相手の人はどんな気持ちだったと思う?」「コー君は本当はどうしたかったの?」「それで、今はどんな気持ち?」僕の話を聞いてくれたり、「お母さんもコー君ぐらいの頃に同じことがあったの。昔のお母さんはコー君みたいに謝る勇気は無かったな」と褒めてくれたりもする。大人の人や商売のときのマナーや考え方もわかりやすく教えてくれる。だから、僕も自分が悪いと思ったら、お母さんには素直に真剣に謝る。今日のお客さんの「ママ」の方は目をまん丸にして僕を見ていたけれど、小さい男の子は相変わらずだだをこねたままだ。見た感じ、年中さんぐらい。さすがに園児服じゃなかったけれど、ベージュのロンTに涙とヨダレでべとべとのラウンドネックのウールベスト。濃いすみれ色のスキニーパンツの下には赤いソックスと同じ色の切り返しのズックを履いていた。…そして、僕のお母さんは…ん?ん?僕のお母さんの顔は予想していた表情とまったく違う。
「…コー君っ!コー君っ!お願い!お母さんたちを助けて!」
そんな顔をしている。
「コー君!後生だから!お年玉はずむから!コー君特製『天使のハーモニー』ガトー・セット、もう一つだけ作ってよ!…じゃなくて、作ってください!」
えッ?えぇー?!そんなの絶対に無理なの、お母さんが一番知ってるじゃない?!無茶言わないでよ!アオケン君たちからも品薄のクレーム言われたのに、そのうえ本来の製造責任者のお母さんまで!可愛い年端もいかない4年生10歳二分の一成人の息子の僕をつかまえて何てこと言うわけ?!
「だって、ビスキュイはどうするのさ?」
「お父さんにすぐ焼いてもらうから!」
「お母さん!カキイレどきのクリスマスに、そんなこと急に頼めないでしょ?!」
「でも、外は大雪でこのお二人以外、誰もお客様はいないじゃない?」
冷静にお店の中をよく見渡してみると、その通りだった。クリスマスと言えばお客さん同士で肘がぶつかりそうなほど混雑しているはずの場所。
「お母さん!わけありで3Lの格安キボウなんか、12月の今、どうやって4玉も手に入れようっていうの?しかも、これからシロップ付けにしたら出来上がるのは来年でしょ?」
さすがにお母さんは「お客様の前でそれを言ったらダメよ!」という目で僕を見ていた。3Lのキボウというのは、房総産で超高級レアものの細長い大きな種なしビワのこと。お母さんが春の終わりにキズもので売り物にならないわけあり品を頭を下げてまわり譲ってもらってくる。これを丁寧にシロップ漬けにして1つのボックスに4本立てて入れる。金色に明かりを灯すキャンドルの代わり。僕のアイディアで実現したアオケン君たち&クリスマスコンサート特別席のお客様へのプレゼント…食べる少年合唱『天使のハーモニー』ガトーボックスの目玉の一つは、この超レアもののキラキラ・キャンドルふうシロップ漬け。当然、超高級レアものだから、数に限りがある。限定品だったのに、お母さんがネットやチラシに「客寄せ」のつもりで写真を載せたら、「あの『天使のハーモニー』ください」っていう問い合わせがたくさん来てしまって困っている。僕の目の前で大泣きしているこの小さいお客さんも、その犠牲者(?)の一人ってわけ。だいいち、お父さんたちが心を込めて焼き上げたりして作り、僕が「もろびとこぞりて」を歌いながら一箱一箱合唱団の皆の顔を思い浮かべながらアソートし、お姉ちゃんとお母さんがウキウキしながら楽しそうにラッピングしたその詰め合わせは、今ごろ全部タワーの食品保存庫に入って本番開始のベルが鳴るのを刻一刻と待っている。僕がそう思ったのを見透かしたようにお母さんが、
「ねえ。アオケン君たちのを1個だけ、普通のクリスマスガトーと取り替えない?誰にもわからないはず!合唱団のみんなだったら、事情を話せばきっと気持ちよくOKしてくれるんじゃないかな?」
と、悪魔のささやきのように言った。これだから最近の大人っていうのは…
「お母さん!僕、本気で怒るよ!『普通のガトーと見分けがつかないようにラッピングしましょう!』って言ったの、お母さんでしょ?!しかも、僕が『開けなくてもわかるように、色違いのシールを貼っておいたら?』って提案したのに、『それじゃつまんないじゃない!わからないからイイのよ!』って反対したの、どこのどなた様でしょうねぇ?まさか、これからコンサート会場行って、ヤマカンでラッピングを全部やぶいて探すつもり?ビリビリのラッピングを元に戻し終わった頃には、アオケン君たちなんか、とっくにバスに乗って帰っちゃった後でしょうヨ!」
僕が口から泡を飛ばして毒づき、哀れな小さいお客さんがさらに大きな声を張り上げて泣き出したそのとき…、泣き声よりもさらにもっと大音量のビレッジの場内放送が緊急チャイムの前置きももどかしく警報を流し始めた。
「避難命令…避難命令…。ビレッジおよび周辺地域の積雪量がただ今一部一挙に50センチメートルを越えました。コンプレックス各店の正面扉および非常扉で上庇の無い外開けの出入口は、雪の重みで開かなくなる危険性があります。また、脱出はできても上屋の無い場所での歩行がきわめて困難になることが予想されます。各店の防災責任者は、安全に留意して全てのお客様を至急タワーのピロティーに避難誘導してください。くりかえします…」

 少年合唱団のクリスマスコンサートの中止は、僕たちがタワーのラウンジへ避難してすぐに決まった。大ショック!ポケットに入っている特別席のチケットはもう何の役にも立たないね。ビレッジは雪に埋もれ、お客様は殆どいない。ここに通じる道路は渋滞と雪でストップしているんだって。仕方がないけど、泣きたいくらいサ。アオケン君たちの乗ってきたバスは観光バス…日本中を走ることができるから、もちろん雪道を走るためのタイヤを履いているし、合唱団のマネージャーさんの話ではバス用の馬鹿でかいチェーンも積んでいるんだって。でも、それはしょせん雪国や都会の雪の道を走るためのもの。バスの周りどころか、周辺の道に積もった雪がそろそろ1メートル以上になりそうだというときには、何の役にも立たないみたい。たしかに雪かきはタイヤではできないから。せっかく来てくれたアオケン君たちも東京へ帰れない。もう何もかも散々だ。
 僕と、お母さんと、ずっと泣いていたお客様の男の子と、その子のお母さんの4人で、最初はお店の配達用TOPPOに乗って、避難指示の放送を聞いてすぐここへ逃げてこようとした。でも、おじいちゃんが業務車輌パーキングへ必死の形相で出かけて、屋根のない駐車場でエンジンをかけて車を出そうとしたら、50センチも前へ進まなかったんだって。後はタイヤが変な甲高い音をたててスリップするだけ。だって、その時間でさえもう雪が50センチも積もりかけていたんだもの。車をお店に横付けして避難しようなんて、無理に決まっている。僕たちはお店をお父さんとおじいちゃんに任せて(…って、お客さんなんか誰も来なくて閉店したんだけど)、年中さんぐらいの男の子をその子のお母さんがおぶって、僕とお母さんはなるべく手をつなぎながら、ビレッジのショップの庇の下や、屋根のある歩道や、どういうわけか雪の積もり方が少ない場所(お母さんは、地面の下にすぐ水道管とかが通っている場所なんじゃないかって言っていた)なんかを遠回りしてでも選びながらようやくタワーの入り口へたどりついた。いつもは僕が走って1分しかかからない場所なんだけど、今日は何時間も雪の中を歩いてきたような気がする。泣いていた男の子は、すぐに泣き止んで黙って白い息を吐いていた。きっと、泣いて疲れちゃったんだと思う。僕がアンダーアーマー・ロングコートのフードを脱ぎながら勝手知ったる業務通路を抜け、集会室へ入ってゆくと、合唱団のみんなは冷たそうなパイプ椅子の座面にむき出しのふとももを付けて腰かけ、静かに本を読んだり、眉間に皺を寄せながらデュエル・マスターズの山札をドローしたりしているところだった。
「帰れなくなっちゃったね。」
僕が言うと、すかさずアオケン君も
「きみも帰れなくなっちゃったんでしょう?」
と返された。いつもやさしいアオケン兄ちゃんらしいや。ふだん大きな声で歌う少年合唱団が、今はこのビレッジで一番静かだ。
「みんな、静かなんだね。」
と聞くと、今度はカードの手札をぱちぱち言わせながらユーリ君が、
「僕たち少年合唱団っていうのはネ、長い時間静かに待っているのが仕事なんだよ。」
と、ほこらしげに言う。
「でも、家に帰れなくなって、心配じゃないの?」
と言ったら、対戦中(?)の柳川君が、
「だっせ!はい、スリーDぃ!俺らはネ、予科上がりの最初の数年間、夏季合宿でみっちりと『オトコ』に鍛え上げられんだよ。ユーリ君、…今は不ーリくん!」
「『オトコ』…って?」
「『オトコ』ぉー?いたわよぉー。つまんないオトコがサ!新宿ゴールデン街…?!あのね、夏休みにここに来たあと、何日かして、合宿ってあんじゃん。…ってか、あるのね。ヤナちゃん、ズルくネ?」
「♪マナマナ! キター! それで、毎日朝の9時から夜の9時まで立ったまま歌わされる。ドロンゴ、ドロンゴ!はい、ユーリくん!好きよぉー!」
「オエ!♪不っ機嫌、ワーゲン!召喚って、何をほざく?!予科上がりのちっちゃい子たちが泣くんだな。」
「それって、シゴキ?トイレとか、ごはんとかは?」
「そりゃモチロンあるんですけど…。俺、モロに2年の時、泣いたぜ。号泣!」
「俺も泣いた。3年生ぐらいまで毎回泣いてたよな。でもさー、先輩達もそうやって団員になったから、いろんなこと言って下級生を励ます。1曲歌い終わるたんびに、ユーリ!偉いなぁ!ユーリ、声が出てきたぞ!その調子!最後の挨拶はユーリ君が大きい声でかけるんだよ!キミにしか出来ない!って、よってたかって元気付けて、泣いている子を『オトコ』にする。」
「いいの?ユーリ君、オトコなら、一発キメてみな!」
「え”−!何が進化クロスだよ。柳川ばかやろー!」
「そろそろトドメ刺してよかですか?」
「だめです!みんな、合宿のそういう洗礼を受けて、真のオトコになってゆくのです。なぜならば…」

  ♪ぼ!ぼ!僕らは少年合唱団ぁーん!

アカペラ・ユニゾンで声をそろえる5年生アルトたち。調子に乗って歌う声を聞いて、パートリーダーのカヤト君がすっ飛んできて2人に注意をした。
「はい!すみません。」「ごめんなさい…。」
ほかの団員は皆静かに本を読んでいる。カードやトランプ以外のゲームとかは無しだ。なぜ?もちろん、不思議に思って夏のコンサートでやってきたみんなにそれを聞いてみたことがある。
「前は良かったんだよ。でも、『マノン・レスコー』のチョイ役のとき、2メゾのリオくんがWii Uを通団カバンに入れて持ってきて楽屋のモニターにつないで出番の待ち時間にスーパーマリオ・メーカーをやって、みんなに遊ばせてたのをモロに先生がたに見つかって…合唱団では電池とかで動くゲームは全部禁止ってことになった…」
Wii U本体を持ってくる団員はそんなにいないと思うんだけど…
まあ、そこがお茶目でほっぺを真っ赤にして笑う底抜けに楽しい超人気者のリオくんらしいね。
「こうやって静かに長い時間待っているのは、僕たちの大切な仕事の一つなんだ。オペラとかのときは始まったばかりに3分間ぐらいの出番で歌って、楽屋で2時間ぐらいずっと待って、最後にまたちょこっとだけ歌って、カーテンコールに出るっていうのもある。オペラは長いし、途中に休憩時間が30分近くあるのもザラだからね。僕たちが待っている間もオペラは進んでいるし、静かなシーンもたくさんあって、舞台裏では絶対に騒いだりしちゃダメってわけ。しかも、ステージのお化粧をしているから、ぐちゃぐちゃにならないように大人しくしてなきゃいけないんだよ。」
柳川くんたちを注意をしにやってきたカヤト先輩はニコニコしながら、穏やかにそう教えてくれた。
 このことで、ようやく僕はアオケン君たちの合唱団の洋服に目が行った。
アイスグリーンのショートスリーブ・オープンネックシャツ。きっちりネイビーブルーのポリエステル・ユニフォーム・パンツ。帽子はいい加減にかぶった紺ベレーの子がちらほら(ホントは長い待ち時間には脱いで置いておかなきゃいけないらしい…)。あとは長めの紺ハイソにぺったんこで黒いぴっかぴかの革靴。ズボンは長ズボン、半ズボンがそれぞれ半分ずつ。シャツはもちろん全員がパンツインだ。本番以外のときに着る制服をみんなは通団服と言うんだって。全体に夏の服ぐらい薄着で、それで寒い子はベスト、もっと寒い子はセーターを着てるだけって感じがする。「歌い始めると、もう発声練習の終わる頃には冬でも汗をかいているから」とアオケン君やアルトのみんな。合唱団の子は真冬でも寒さに負けずキラキラと汗を飛ばしながら力の限り一生懸命に歌っているんだなぁ。「厚着していると、歌ってる途中で気分が悪くなったり貧血でぶったおれちゃったりするし、だいいち、キレイな声で歌えない。少年合唱のハーモニーは僕たちの身体で鳴るものだから、なるべく身体が出ている服の方がいいんだ」と、ソプラノ6年のカネゴン先輩。カッコいい上級生は、やっぱり言うこともとことんカッコいい!コンサートが無くなって、合唱団はただの何も歌わない男の子の集まりになったはずなのに、みんなは決して「ただの男の子の集り」なんかじゃなかった。僕がアオケン君たちのことを大好きなのは、そういうところ!

 門脇大地くんがみんなの人気者なのは、4年生になって遅く合唱団に入ったからなんだと思う。もちろん、バレエ教室にいたこともあるんだろうけど、去年のクリスマスに僕がそれを聞いたら、
「本当はクリスマスって楽しい思い出無いんだよ。…小さいとき、クリスマスのバレエで『ジゴーニュおばさんと道化たち』に出て、僕たちは道化で小さなピエロの役なんだけど、ジゴーニュおばさんっていうか、実はマツコ・デラックスみたいなおじさんで…僕、踊りながらスカート踏んじゃったんだよね。本番中。だって、その人、馬鹿みたいにデカイんだもん!その前の「葦笛の踊り」がとーっても綺麗だったから、カミ手の袖からずーっと見てたらあっという間に出番になっちゃって…集中してなかったんだなー。僕もステージで派手に転んで…。ほら、マツコとかピエロとかって、服にジャラジャラ色んなもんくっ付けてんじゃん?コスチュームもだからメタメタにして…すっごく叱られたよ。お客さんが大騒ぎしてるのも判ったし…。その役ではもう二度と出してもらえなくなった。クリスマスになると毎年それ思い出しちゃうから…嫌なんだ。」
って言っていた。
 僕が合唱団の様子をお母さんたちに教えようと思ってラウンジに戻ると、スポットライトが消えてちょっと寂しい「少年合唱団クリスマスコンサート」という大看板の下で4年メゾの松田リク君と、その元バレエ少年の門脇大地君が一人の小さな男の子を両側から抱えるように支えて何か大興奮で喋りまくっているところだった。
「ねッ!ねッ!コーちゃん!この子ってサ、すっげ鉄っちゃんなの!ほら!見て!見て!」
口から泡を飛ばし、僕を手招きするリク君が指差す年中さんの男の子の足元には、捲り上げられたすみれ色のスキニーパンツの下から赤い靴下が丸見えになっていた。ただの赤いソックスでしょ?って…ん?窓が付いている?そしてその横にはホワイトの長方形の中、燦然と輝くライトグレーの2本のサインカーブ??もしや、これは、あの有名な?
「地下鉄丸ノ内線500系の鉄下(てつした)じゃ、あーりませんか?!」
3人は思わず声を揃えた。
「鉄下フェチじゃなくても萌えるよね?」
「あー!これ欲しかったんだよねー。地下鉄博物館&Webショップ限定だったヤツ!」
「今は02系のしか売ってないしさー。」
「丸ノ内線カラーのベンソン&ヘッジズ・レッド!鉄下くん!きみは美しい!」
ここでちょっと説明しよう。「鉄下」というのは、電車とかをプリントした子ども用靴下のことだ。鉄道ファンのキミなら知っていると思うけど、たいていE6系量産先行車とかドクターイエローみたいな新幹線図案や大手私鉄のフラッグシップ車輌といった陳腐なデザインのものが主流なんだけど、寝台特急とか鉄でできた地下鉄みたいな廃盤車輌のものはレア品で、マニア心をおおいにくすぐってくれる。…らしい。
「あの、丸ノ内線500系の漆黒のコレクター・シューが第三軌条に小刻みに触れて鳴るカシャカシャっていう音を聞くと、エクスタシーを感じるよねー!」
門脇君は、歌うことにあこがれてバレエ教室をやめてきただけあって、さすがに筋金入りの「音鉄」(鉄道の音に快感を感じる鉄道おたく)だ。
「オラは、地下鉄博物館で本物の丸ノ内線のコレクター・シューにさわったどー!」
年中さん君も、門脇くんに負けず劣らずの相当な鉄ちゃんらしい。
「…いいんだけど、それって静態保存のヤツじゃん。」
「ばーか!あのねぇー自称地下鉄オタのリクくん!直流600ボルトの電気がばしばし流れてるサードレールになんかに生きた人間が普通手で直接触れると思いますか?」
「そっかぁ。門脇せんぱい、ソレ考えると、この子、小さいけどスゴいよねー。」
「…あのぉ、3人とも…その、コレクター・シューって、何?」
と、僕。シューと言うのはお店では薄力粉を練って焼く、シュークリームの外側のことだ。お父さんの焼くキツネ色でまん丸なシューを1日寝かせて絞り入れるクリームって、もう最高!
「集電靴(しゅうでんか)のシューでんねん!」
松田リク君がまさか筋金入りの子鉄だったなんて…。だいいち、「しゅうでんか」って何ですか?
「最近の丸ノ内線ってさぁー、ホームドアがあってサインカーブ見えないんだよねー。」
「そう!そう!それから、デッドセクションあんのに車内灯が消えネェでやんの。ジェネレーターまじムカつく!」
「帝都高速度交通営団のゴシック4550!かっこよかったのに無くなるんじゃねぇ!」
この3人って、どういう子たちなんだろう?発言の内容がマニアすぎてよくわからない。ともかく、クリスマス記念の特製ガトーボックス『天使のハーモニー』が欲しいと言ってさんざん駄々をこねていた男の子は、門脇君・松田君と意気投合してすっかりご機嫌になっていた。
「ねえ、ねえ、この年中さんのお母さんと僕のお母さん、どこへ行ったか知ってる?ここらへんにいてくれるはずなんだけど。」
盛り上がる地下鉄オタ話をようやく遮って尋ねると、ピカピカ元気そうな真っ赤なほっぺにもう涙の跡さえ残っていない小さな男の子がさらりと言ってのけた。
「ぼくのお母さんがねぇ、お兄ちゃんのお店にスマホ忘れて来たから、お兄ちゃんちのおばさんとお店に取りに帰っちゃって戻って来ないよー。」
「オレらがトイレに来て帰ろうとしたら、コーちゃんのおばさんが『ちょっとの間だけ、面倒みててくれないかなー』って。」
とリク君。まったく、僕のお母さんって日本に10団ぐらいしかない貴重な少年合唱団員をいったい何だと思ってるんだ!
「何か、この子、泣きそうになってて、僕の足を蹴飛ばしてるから、おみ足を拝見したら、なんと!」
門脇くんが再び符丁を唱えると、3人そろってまたさっきの第一声…
「地下鉄丸ノ内線500系の鉄下(てつした)じゃ、あーりませんか?!」
間もなくお店からタワーの管理事務所に電話がかかってきて、お母さんたちはこちらへ戻ろうとしたけれど、雪がひどくてたどり着けない。カトラリーのアウトレットの角であきらめてショップに引き返した。男の子のおばさんと二人で雪が終わるまでお父さんたちとお店を守るから、男の子をよろしくとのこと。「年中くんは今、合唱団のリク君たちと営団地下鉄談義で異様に盛り上がってるから心配要らなさそう」と教えてあげると安心して電話が切れた。お母さんによると、このゲリラ豪雪は午後の数時間で大人の人の身長よりも高い2メートルの積雪を一部で観測し、1日の降雪量としては世界一の記録になろうとしているらしい。いったい日本はどうなるのだろう?!
 
 お母さんの言っていた世界一の記録(?)を確かめるため、僕は門脇くんたちといっしょにラウンジのテレビの前に座り、色々なチャンネルのニュースを次から次へと切り替えている大人の人たちと番組を見ていた。しばらくするとテレビは時々、映画マトリクスみたいなガジガジの絵になり、それからNHKに切り替えたとたん画面が止まって「受信していません」のメッセージが出、もう何も映らなくなった。さらに、それからすぐに停電になり、スマホのワンセグも、通信もあまり受信が良くない。ディーゼルエンジンの自家発電は、どうしても必要なものに電気を作るだけで、僕たちはついに閉じ込められたという感じだった。最悪なクリスマス。サンタクロースは雪に慣れているんだろうけど、こんなんじゃどこからも入って来れないに決まっている。そんなことを考えていると、タワーの中はみんなの気持ちまでとっても冷たく暗くなったみたいだった。ビレッジにはこの時期、朝から晩までクリスマスソングが流れている、小さい頃からいつもそんなだから、ウキウキはしないけれど、アオケン君たちがクリスマスに来るようになってから、コンサートで歌ってくれる曲が流れると何だかニヤニヤしちゃう。それが今は全然聞こえない。寂しいのはそのせいでもあるんだな…と思っていた。
 誰かが小さい声で「太鼓をたたけ」を歌っている。
優しい、でも芯のある凛々しい声だ。一人の声かと思っていたら、それは違う。凛々しい声は途中から2声になった。重唱になっても誰かにそっと歌いかけているような気分と誰かがしっかりそれに耳を傾けて聞いている気配は変わらない。外へ行こうとした年中くんをリク君と大地くんが両側からはさむようにして止め、歌を歌ってあげていたのだ。2人ともメゾソプラノでカッコ可愛い系の声だから、フランスの男の子が雪の日のクリスマスの軒下で太鼓をたたきながらお祝いの歌を歌ってあげているって感じ。温かくてきれい。大地くんは男の子の背中に回り両手を持って、太鼓の代わりに拍手をさせている。パン!パン!パパパン!と打つそのリズムが僕達を少しずつ楽しい気分にさせてくれた。
 実は、僕もそうだったんだ。
2年前の夏休みの終わりの日曜日。シンマイ・ペーペーの小学2年生店員だった僕は、まさに今リク君たちが歌っているその場所で、大泣きしているところをアオケン君たちに助けられた。「夏休み子どもフェスティバル」というイベントで、初めて家のショップじゃない場所へ大切なプレゼント用ガトー・ボックスを配達するお手伝いを言いつけられて、僕は「搬入通路を通って届けなさい」というお母さんの言いつけを守らず、いつもの習慣で正面入り口から積み上がったお菓子の箱の山をかかえて入ろうとした。夏休み最後の週末でタワーの入り口はごった返していたのに、僕は前をよく見ていなかった…というか、持った荷物のせいで見えなかったんだ。…どうなったか、わかるよね。大切な大切なイベントのプレゼントは、あっという間に混雑の人にぶつかり、踏みつけられて粉々になっていた。きっと、今の僕でも泣いちゃうだろう。だって、このお菓子を楽しみに来てくれるお客様だっているんだもの。しかも、お店でも通販でも売らない特別限定品!涙が止まるわけなんかない。タワー入り口を入ってすぐの場所の真ん中で、たくさんのお客様にぶつかられて、よろよろしながら大声で泣いていたのは、いったいどのくらいの長い間だったんだろう。でも、僕が気づいてうっすらと目を開けると、人混みは僕をよけて通っている。足元では、粉々になったクッキーや破裂したゼリーのパックや泥まみれになったプチケーキを素手で拾って集めている薄緑の半そでシャツを着たお兄さん。僕の前後に立って両腕を広げ、盾をつくって通行のお客さんを捌いている2人の小学生。びっくりして思わず涙を呑んだ僕の肩にあたたかい大きな手のひらが1枚ふわりと乗った。後ろからニッコリと、しっかりした声で言葉をかけてくれるお兄さんがいた。
「大丈夫だよ。僕達が守る。元気を出して。」
それがアオケン君だったんだ。子どもフェスティバルの「みんなで歌おう」コーナーに出演するため、合唱団のみんなは、その日はじめてビレッジにやってきていたのだ。営業料を受け取らない「児童合唱団」のみんなのために、僕の家のショップはプレゼント用ガトーボックスを余分に作って用意してある。僕がひっくりかえしてダメにしてしまったのは、その一部だったのだ。
「お菓子が欲しくて歌いにきたんじゃないんだ。僕らが一番嬉しいのは、聞いてくれる人がみんな幸せな気持ちになってくれることだけなんだ。君もコンサートを聴きにおいでよ。どんな豪華な美味しいご褒美のお菓子よりも、辛くて悔しくて悲しい今の君が僕らの歌を聴いて楽しい気持ちになってくれる方が、僕らにはずっといいから。」
べそをかきながら謝った僕に、アオケン君はお陽さまのような優しい温かい声で僕に言った。自分たちの出演料代わりのプレゼントを僕にぐちゃぐちゃにされて怒るどころか、「悲しんでいる君を幸せな気持ちにしてあげたい」なんて…!
そして僕は子どもフェスティバルの「みんなで歌おう」コーナーを聴きに行って、本当に幸せな気持ちになったんだ。さっき助けてくれた子たちは合唱団の列の右側に揃って歌っていた。「アルト」というのだと後から教えてもらった。アルトのみんなはすぐにステージの上から僕を見つけ、ニコニコしてくれる。「客席のみなさんも僕達と歌いましょう」のコーナーになると、アオケン君がすっと客席に降りてきて、さっき僕の肩に当ててくれた温かい手で僕の手をがっちり握り、ステージへ引っ張り出した。アルトのみんなはもっともっとニコニコとして僕のそばに寄り、全員で「にんげんっていいな」を歌った。
「上手だなぁ!」「いい声だなぁ!」「ブレスがきれい」「歌う姿勢がいい」「歌のきれいさは、心のきれいさをあらわしているんだよ」…みんなは歌い終わって口々に僕の歌を褒めてくれた。夢のような幸せいっぱいのひとときだった。褒めてくれたことよりも何よりも、アオケン君たちの声は本当に天使みたいに美しく、澄んでいて、気持ち良かったんだ。学校で低学年音楽専科の先生が「歌うということは、心をまる裸にすることです」っていつも言っていて、僕たち(特に男子はみんな)は「変なのー!エッチ!」なんて馬鹿にして真面目に聞いていなかったけど、僕はアオケン君たちが近くで歌ってくれた声を聞いて、その意味がよくわかった。先生が言っていたのは、「着飾ったりプロテクトをしたりして心をゴマかし、見栄を張った子どもが歌っている」のではなく、心の中をそのまま歌にして聞いている人に届けなさいっていうっていうことだったんだ。産まれたばかりの赤ちゃんのように心が裸んぼうで、心に大空へはばたく羽が生えているみんなが歌っているから、アオケンくんたちの歌は「天使の歌声」とか「天使のハーモニー」とか言われているんだってことにも後から気が付いた!そのとき、僕は、「同じ小学生で子どもなのに、心を尽くして人を幸せにする仕事をしている子たちがいっぱいいる…僕は、歌はこんなにうまく歌えないけれど、お菓子づくりでアオケン君たちみたいな立派な子どもになりたい」と真剣に思った。菓子製造技能士や調理師のお菓子作りの免許を持っていない僕は、今はお父さんから絶対にダメと言われて一緒にオーブンの前に立つことができない。けれど、ガトーボックスのアソートやショップの案内でお客さんを幸せにすることだったら今の僕にもできる。その日から、僕は下校して宿題を済ませるとショップのお手伝いを真剣にやるようになった。それから、少年合唱団のことも勉強して、ちょっとだけ詳しくなった。定演を聴きに行って、あとからライブのDVDを貸してもらって観たり、春・夏・冬休みに合唱団がビレッジのライブに来てくれる時は、僕のプロデュースしたガトーボックスを特別席のお客さんへのプレゼントにしたり、合唱団のみんなへ出演料代わりにあげることになったりした。いろいろなことがアオケン君たちの歌声を聞くたびにかなっていって、本当に夢みたいだ。それなのに、今日の僕はいったいどんな夢をみたのだろう?合唱団のみんなは、いった誰を幸せにできたのだろう?クリスマスと雪ボケだった僕の頭の中で、突然火花が散った!火花が引火して大きな金色のロウソクに火がつき、ぼくはひらめいた!
「松田リクくん!門脇大地くん!キミたちの少年合唱団は、今日、いったい何をしにきたの?」
年中くんに「太鼓をたたけ」を歌って手拍子をとらせてやっていた2人に僕は突然問いかけた。2人はすぐに歌をやめ、びっくりした目で僕を見ている。
「ビレッジのクリスマスコンサートのために来たんだよ。きみだって、特別席の子にお菓子を作ったり、僕たちの出演料のお菓子を考えたりしてくれたじゃない?忘れちゃったの?」
と門脇君。
「…でも、大雪が降ってコンサートは中止になっちゃったけどね。ごほうびのお菓子は、ちょっと惜しかったナァ…。」
と、リクくん。
「何言ってんだよ、リク君、門脇くん!特製のガトーボックスだもの。歌のお礼に全員にプレゼントするよ!お菓子をこのまま捨てたりなんかするものか!お母さんが近所の農家に頭を下げてまわって材料を集めてくれて、お父さんたちが心をこめて作った大切な大切なお菓子だから。ゴミにするなんて僕が許さない!みんなにはきっちりコンサートをやってもらうヨ!これを特別席のお客様と合唱団のみんなにあげるために、僕は毎日毎日考えて心をこめてアソートしたんだ。合唱団のみんなも、聞いてくれる人を幸せにしに来たんじゃなかったの?何であきらめちゃうの?僕だって、合唱団のみんなを幸せにしたくてごほうびを作ったんだよ!コンサート、やってよ!」
「できないよ!お客さんいないじゃん。」
「いるよ!避難してきた人たち。…それに僕と、年中くん。みんな、悲しい気持ちで、不安でいっぱいで、悔しい思いもしている人たち。それって少年合唱団が一番幸せにしてあげたい人たちなんじゃない?」
「だって、コーちゃん。中止を決めたのは大人の人たちなんだよ。」
「大人だろうが、子どもだろうが、そんなの関係ぇねぇー!はい、おっぱっぴー!だよ。幸せな気持ちになるのに大人とか、子どもの区別なんて無いじゃん?しかもクリスマスなのにさ!♪子どもの好きなイェスさまの、おうまれなされたこのよき日!なんだから、子どもが決めるべきだよ。」
僕が『うれしいたのしいクリスマス』の節を歌って詰め寄ったら、リク君たちの顔色がサッと変わった。リク君は写真モデル。大地君はもと男の子のバレリーナ。二人ともとっても表情が豊かだから、こういうときは決意や勇気がすぐに顔に出る。
「行こう!」「おっしゃ!行こう再び、旅立とう、さあ!今こそ旅を想うー!」
ビレッジへ高速道路で来ただけなのに、「旅」だなんて、リク君大げさだなー、と思っているうちに、2人はすぐ業務通路を突っ走ってアオケン君のところへすっ飛んでいった。

 アオケンお兄さんは、すぐに僕の手を温かいホッとするような手で優しく包みながら2人の話を聞き、途中からニヤニヤしはじめた。
「少年合唱団は、人を幸せにするのが仕事だったんじゃないのかな?!それでこそ天使のハーモニー!コーちゃん、そのアイディア、なかなかいいぞ!」
4人はそれから集会室の隅で『パーシージャクソン』を太股の上に広げて目を落としているアルト・パートリーダーのカヤト先輩のところへ走っていった。
「それ、イイんじゃない?そもそも、少年合唱団っていうのは外見じゃなくて中身で勝負なんだよ。中身が良ければ、聞いてくださった人がたとえ1人でも世界一しあわせに出来るんだよ!」
真面目一筋が洋服を着て歌っているようなカヤト先輩の言葉らしいや!それからカヤト先輩は太股の上の『パーシージャクソン』の間へ卵を割るように両の親指をしおりがわりに突っ込んでつまみ上げ、そのまま4人を引き連れて2メゾの子達がミレニアムファルコン号(TM)のレゴブロック完成予想図をデジカメで違法撮影しているところへ行った。カヤト先輩にとっては下級生だけど、小さなキャノンを右手にはめ、僕と同じ4年生でもう2メゾのパートリーダー代理をしている前江トーヤくんに事の次第を話すと、
「よかったァー。もう歌が歌えないからハッキリ言ってくさくさしてたところなんですよぉ。先輩!真っ暗な中で、お客さんいなくても何でもいいから、歌って踊って大暴れしちゃいましょうよ!エいッ!やッ!」
と、イタズラ炸裂数秒前のあばれはっちゃくみたいに叫んだ。カヤト先輩は「おまえのバカさかげんにゃ、先輩情けなくて涙出てくりゃ」とは言わず、2メゾパートリーダー代理の背中を押してその隣でノミみたいに小さな活字でびっしりと算数の文章題が印刷された新小学問題集標準編と取っ組み合いをしていた1メゾ・パートリーダーの伊藤君の前へ立った。トーヤ君を取り巻いていたみんなは平行移動して、こんどはトーヤ君もいっしょに伊藤君を取り囲んで尋ねた。
「算数やめますか?それとも合唱やめますか?」
6年生の男の子は(桜蔭中学校)と注記された水槽問題の上に途中の分数式を書きなぐったルーズリーフをサッとかぶせて隠し、「算数やめます!」と慌てて宣言した。
「1メゾのみんなも、歌いたいだろ?!」
ちょこまかと足を組み直しながら読書をしていたみんなにパートリーダーの伊藤君が問うと、全員が「はーい!」と元気よく返事をした。算数の問題を解きながら、隣でトーヤ君たちが話していたのを聞いていたんだ。
こうして、1メゾパートリーダーの伊藤先輩が算数新標準問題集標準編を抱えて2メゾのトーヤ君を引きつれ、2メゾパートリーダー代理のトーヤ君がミレニアムファルコン号(TM)のレゴブロック完成予想図を違法撮影していたデジカメを握りしめながらアルトのカヤト先輩を引き連れ、アルトパートリーダーのカヤト先輩が両の親指をしおりがわりに突っ込んだ『パーシージャクソン』をかかげながらアオケン君を引き連れて、アオケン君は僕の手を楽しそうに握りながら、松田リク君と門脇大地くんを引き連れて集会室の一番窓側までやってきた。サッシ窓の外はムラサキ色の雪の壁がポーチの端で立ち上がり、雪の降っている様子などは全く見えない。ソプラノ・パートリーダー…合唱団員の中で一番偉いはずのカネゴン先輩は頭を抱えながらA3の大きさの楽譜を読んでいた。
「『トランシルヴァニアのたべ』…ですかぁ?」
ホラー系の本が大好きで合唱団一ドラキュラに詳しいトーヤ君が、曲の題名をサッと読んだ。
「『トランシルヴァニアのたべ』じゃなくて、『トランシルヴァニアの夕べ(ゆうべ)』だよ。『タ』じゃなくて『夕』だから!」
「先輩、なんかドラキュラみたいに怖い顔して、どうしたんですか?」
「うーん。あのね、ピアノの先生から宿題出されて…。この曲の主旋律はある決まりにしたがって書かれているんだけど、それが何かわかったら、レッスンタイムを15分短くしてあげるって言われて…」
「先輩、この楽譜、あんまり難しくなさそうですよ。しかも、短い。しかも、ハ長調。」
右手は八分音符ばっかりのメロディー。左手は四分音符ばっかりの和音。でも、合唱団きってのピアニスト、松田リク君は、みんなをかき分けてその譜面を見るなり、
「ここにわざわざ1小節の全休符の上下段、音のない小節があるでしょ。ほら、ココにも。しかも拍子とテンポとアーティキュレーション記号が最初から最後まで音符一つずつにびっしり付いている。ご丁寧にルバート(テンポを自由に揺らして)と書かれてるかと思うと途中からノン・ルバートでテンポ♩=144で弾かなきゃダメっていう部分があったり…これは、一見簡単そうに見えるけど、弾いてみると細かい表情付けが求められる難しい楽譜なんじゃないかな?…と、思います。」
みんなに説明した。
「それで、カネゴン、『ある決まり』って何だよ?」
アルトのカヤト先輩はカネゴン君と同じ6年で、同期の入団だからタメぐちだ。
「わからないから困ってるんだよ。ピアノの先生からのヒントは、『答えの文に一つだけ数字が入ります』だって。そんなこと言われても…」
「弾いてみたの?」
「『弾かないでも、読むだけでわかります』だってさ。」
そこで、合唱団の中で一番初見が上手で絶対音感の持ち主、メゾソプラノ3年新入団員のアキヨシ君が階名で歌うために呼ばれてひょこひょこスラリとやってきた。真珠のように白い肌とりんごのように赤い唇をした男の子。
「♪ミーレシレミレレシー、ミーレシレミレシラー、シーラシミレシソミー、シーラシレシラソミー」
すっごい、キレイなハッキリしたボーイソプラノ!真珠のように美しく、りんごのように甘酸っぱいその声に僕はビックリしてドキドキしちゃったけど、みんなは合唱団で聞き慣れているのか、
「なんか、田舎っぽい曲じゃん。」
とかなんとか言いたいことを言っていた。
「♪レミミミレミシラソレーミー、レミミミレミシラソレーミー、ソラララソラミレシソーラー、シソレーミー、ラソレーミー、ラソレーミー」
ここで一息ついたアキヨシ君の階名唱をみんなは遮った。
「何か、同じ感じのモチーフの繰り返しじゃん。」
楽譜を穴のあくほど見つめていた松田リク君はこれに答えてサッと言ってのけた。
「今、アキヨシ君の歌ったメロディーをあとまるまる1回半繰り返して終わりみたいですよ。」
「なんでぇー。じゃあ、答えは『同じメロディーを2回半繰り返す曲』なんじゃないの?」
「まさか!そんなパッと見てわかるような簡単な問題を先生が出すと思う?」
「じゃあ、何だよ?こんな中国の音楽みたいなのの、どこに決まりがあるってんだ?」
「先輩、トランシルヴァニアは中国じゃありません。ドラキュラ伯爵の出身地で、ルーマニアの地名です。」
トーヤ君が言った。
「ドラキュラにしちゃ、あんまり怖くない感じ。同じ音の繰り返しばっかりで。」
「そう、レとかミとか、シとかラとか、あとはときどきソが出てくるくらい。」
「ドとファは無いの?」
「無いよ!ドとファの音が完全に抜けてる。」
「あっ!そうかー!5つの音しか無い。答えは『5つの音だけで書かれている』じゃない?」
「あー!それ、パーフェクトでしょう?答えが分かったネ!」
「なんか、みんなで考えたら、超カンタンだったよね。」
「違うよ、クリスマスだからだよ!」
「それにしても、アキヨシ君の階名唱、とっても綺麗だったなぁー。」
「ゾクゾクってしたよね?」
言われた本人は、少しだけニコッとしたけど、みんなも僕と同じことを思っていたみたい。
「よかったぁ。これでレッスンの時間が15分間減った。」
ホッとしているカネゴン先輩。
「えー?それって、きっと先生はレッスン中の15分間で、キミにこれを解かせようとしてたんじゃないの?カネゴン、うまくダマされたな!うっふっふ。」
カヤト先輩はそう言って笑ったけど、カネゴン先輩はそんなこと全然気にしてないっていう感じ。答えを忘れないように美ら海水族館のジンベイ鮫mimiペンで、楽譜右下のペダル解放記号の横に『5つの音だけで書かれている』と自信たっぷりに記入した。
「どうもありがとう、みんな!ところで、ぞろぞろと集まって何をしに来たの?」

 タワーの周りから、降り積もった雪がトンガリ屋根を滑って落ちるドシン!という音が時々聞こえてきていた。
「それは先生も考えたんだ。だがね、キーボードはどうする?予備の乾電池は入ってるが、PA無しのあんな小さい内臓スピーカーの音じゃ、君らの四部合唱の声に太刀打ちできないだろう?ちなみに自家発電の非常電源コンセントは事務室と調理スペースと応接にしか無いそうだ。そんなに長い延長コードなんか、ここらへんに転がってるはずが無いだろう?」
算数新標準問題集標準編を抱えた1メゾの伊藤君とミレニアムファルコン号(TM)のレゴブロック完成予想図を違法撮影していたデジカメを握りしめた2メゾの前江トーヤ君と両の親指をしおりがわりに突っ込んだ『パーシージャクソン』をかかげたアルトのカヤト先輩と僕の手を楽しそうに握ったアオケン君と、あとは松田リク君と門脇大地くんを引き連れて、カネゴン先輩が5音の音階で書かれたドラキュラの出てこない「トランシルヴァニアの夕べ」の楽譜を右手でつまんだまま指揮者先生のところへ合唱団の出演交渉をしに行った時、どういうわけか手札の『奇跡の精霊ミルザム』とドローした『龍覇 M・A・S』を握りしめたモリマ・ユーリ君と柳川君が目的不明の様相で最後にくっついてきていた。
「先生、電源ドラム持ってきてないんですか?」
「持ってきてると思うか?」
「…いや、はい、まあ、その…」
「僕、バスの荷台に積んであるの、見ました!電源ドラム!」
「積雪量2メートルもある中、4ブロックも先の駐車場に停めてあるそのバスにはどうやってたどり着いて着氷した荷台のハッチをこじ開けるんだ?」
さすがのカネゴン先輩も言葉に詰まって後が継げない。でも、列の一番後ろからなぜかユーリくんと柳川君がわけのわからない手札をウチワのように振りながら進み出てきて、偉そうに咳払いをし、歌う姿勢で先生の前に立った。
「先生!こんなとき、すぐにあきらめちゃだめです!みんな、こういう洗礼を受けて、真のオトコになってゆくのです。なぜならば…」

 ♪ぼ!ぼ!僕らは少年合唱団ぁーん!

アカペラ・ユニゾンで声をそろえる5年生アルトたち。調子に乗って歌う声を聞いて、パートリーダーのカヤト君がすっ飛んできて先生に進言した。
「キーボードなんて、音取りの小さい音だけ出りゃいいんです。アカペラ無伴奏で讃美歌を歌いましょうよ!雪が深々と降るクリスマスにはアカペラの合唱はピッタリですよね?!ね?先生!」
…それでは、ピアノの先生は音出しの1音だけを担当するのかい?なんていうヤボを指揮者先生は言わなかった。アカペラコンサートの開演にそなえて、発声練習を再開しますというコマンドを飛ばす前に、先生は不思議そうな表情で列の最奧にくっついてきた門脇大地くんと松田リク君に尋ねた。
「…ところで、きみたちがその子のためにコンサート開こうって決めたとかいう、『天使のハーモニー』特製ガトーボックスを買いに来た年中さんくらいの地下鉄オタクの男の子っていうのは、いったいどこにいるんだい?先生には見えないんだが…??」
門脇君たちがハッとして飛び上がった。
「あ!忘れてた!」


▲合唱団のみんなは「きよしこの夜」を歌いながらラウンジに下りて、自分の持っているガトーボックスをそれぞれ一人ずつのお客さまに渡した。不思議なことに、特別席へのプレゼントだったはずのボックスは、コンサートを聞いてくれた人の全員に行き渡った。

 合唱団のみんなの「ジングルベル」を聞くと、僕は思い出すことがある。アオケン君たちは最初、誰でも知っているこの曲を先生から歌わせてもらえなかったんだって。先生が伴奏をして、みんなは口をぱくぱくさせて、歌う真似だけを許される。それをもう嫌になるほどやって、ようやく歌ってもいいよと言われたのはその頃まだ4年生だったカネゴン先輩ただ一人。相変わらず、みんなは口をぱくぱく。それから、ジングルベルの鈴を振る役が柳川君のお兄ちゃんに。低い方の声をアオケン君に。カネゴン君とアオケン君が2人で気持ちよさそうに歌う。最後の最後に、もうこれがみんなの我慢の限界というころ、先生から何の前触れもなく「じゃ、全員で声を出して歌ってみよう。」と言われて歌った「ジングルベル」は、ドシンとパワーがあって、かっこよくて、きれいで、声が揃っていて、ハーモニーも響きもあるステキな少年合唱だったって話。みんなの我慢が美しい歌声になって炸裂したのかな?今日のコンサートで歌う合唱団のみんなにも、それを聞いている僕にも、同じことが言えるのかもしれない。我慢したかいがあって、少年合唱団のアカペラコンサートは無伴奏とは思えないくらいレベルが高くてしかも底抜けに楽しい歌でいっぱいだ。
 大地くんとリク君が置いてきちゃった年中くんはちゃっかりとラウンジの一番前の席(ソファー)で寝ちゃってるのをユーリ君が発見!
「ここって、特別席だよね?どうする?」
「それは、雪の降る前の話!今はここが年中くんの専用席なんじゃないかな?」
「じゃ、そろそろ起こそうか?」
「少年合唱団の仕事は、聞いてくれる人を幸せな気持ちにすることじゃないの?聴いている子が寝ていたって、それは変わらないはずだよ。」
「幸せできれいな夢を見せてあげるんだね!頑張る!まかせとき!」
こういう時のユーリ君は本当に頼もしくてカッコよくでステキだ。アルトの声もステキだけど、それだけじゃない。ユーリ君のお母さんは、こんな子どもがお家にいてどんなにシアワセなんだろう?と思う。
 さあ!それからみんなはトイレを済ませ、慌ただしくクリスマスの衣装に着替えて直前の発声練習を10分間以上もやった。クリスマスに着る聖歌隊の衣装は真っ白くてキラキラしたサテンでできている。立ち襟と胸元を一周するギャザーに首からかけた十字架がときどきキラリ!ガウンだからみんな背の高さでスソの長さが違い、僕たち子どもは身長が1年でどんどん伸びちゃうから毎年11月には家に持って帰ってお母さんに裾上げしてもらうんだって。クリスマスの出演は、いわば、ママさんたちとの共同制作ってわけ!僕はこのスペシャルなかっこいいガウンを去年のクリスマスコンサートの後に着せてもらった!誰のガウンかって?そりゃモチロン同じ学年、同い歳の松田リク君のだよ!キラキラのライトの下で歌ってさんざん汗をかいたリク君のガウン!家から車でかけつけてきたリク君のお父さんが、「こいつの使用後のは、臭いよ!」って楽屋で僕に教えてくれたんだけど、全然そんなんじゃなかった。ふわふわ甘い綿あめのような甘い匂いはお母さんが「おうちクリーニング」してくれた、お洗濯の匂い。キリっとしてカッコいいリク君の少年っぽい匂いもちゃんとした。生まれて初めて聖歌隊のガウンを着た僕は、「僕なんか、田舎の子だから似合わないんだろうなー?」って思っていたんだけど、それも違っていたよ。鏡に映った真っ白いガウンの僕は、集会室のLED蛍光灯の明かりの下でもまばゆく光り輝いていた!そして一番嬉しかったのは、こんな僕が、さっきまでがっちり(でも、チカラを入れないように)頬を赤く染めながら歌ってハーモニーを合わせていた少年合唱団のボーイソプラノ(…リク君だから、メゾソプラノ…?)団員に見えたってコト!信じられないでしょ?でも、僕は客席の一番前でアオケン君たちがただひたすらに声を合わせながら歌っている様子を最初から最後まで真剣勝負で見つめていたんだ。きっと、心の中でみんなと一緒に気持ちと息を合わせて歌っていたから、団員に見えたんじゃないかと思っている。そしてリク君が最後にニコニコしながら僕の首に大きく腕をまわして銀の十字架を下げてくれた瞬間、体の中心に突然ビビッて電気が走ったみたいになって、全身が痺れてしまった。
「コーちゃんって、ずっと前から、何か少年合唱団員だったみたいに見える!」
「ホントだ!リク坊と見間違えちゃいそうだ!」
「合唱団のバスに乗って、一緒に東京へ帰ろうよ!」
「ねぇ、コーちゃんって、絶ぅえっ対にアルトだよね!アルトの声でしか無いじゃない?」
みんなは、キャーキャー言って僕のことを心の底から褒めてくれた。僕は幸せ過ぎてもう少しでぶったおれそうだった。

 クリスマス(アカペラ)コンサートが始まったとき、年中くんはまだ特別席のソファーで静かに寝息をたてていたんだよ。おそろいのキラキラ・ガウンに身を包んだ合唱団のみんなはさくさくと衣摺れの音を静かにたてながら手慣れたしぐさでラウンジのイベントステージに並ぶ。余分な照明は全部消えていて、非常用のダウンライトと淡い誘導ランプの明かりがみんなの姿を浮かび上がらせている。「先生の指揮が見えれば、僕らは歌えるし、たとえ指揮が見えなくても、みんなのブレスのタイミングを聞くだけで歌が歌えるように訓練を受けているんだ」って、アオケン君は言っていた。合唱団の定演に行くと、どこに立てばよいか舞台の床にテープの印が付いているんだけど、今日はそれも無い。でも、みんなは影法師を並べて置くように美しく整列した。本当にブレスをきちんと下げてそろえ、先生の方ではなく僕たちの方へ体を向けて立つ。お気に入りの団員を見に来たお客様にみんなの顔を見ていただくために、合唱団では最初と最後の曲だけそうするんだって。さしずめ僕にとっては、全員の顔が見えるから、ホントの大サービスだね。ピアノの先生が、きちんとオルガンの音色になった最初の音を出してくださり、みんなは先生の指揮の気配だけをたよりに無伴奏で「神の御子は今宵しも」の最初の歌詞の「神の」の「か」を静かに丁寧に歌い出した。小さい、かすかな声なのに、その音はきちんと「か」と言っている。「は」や「あ」にはなっていなかった。こんな当たり前のようなことだけど、アオケン君たちは毎日一生懸命練習するらしいよ。伴奏の先生には申し訳ないけど、オルガンの音が無いと、みんなの一人一人の声がはっきり聞こえる。ニヒルな美少年ぽいユーリ君の声。セクシーでも白馬の王子さまのような柳川君の声。外見とは全く違うガキ大将っぽい中山アンビ先輩の声。そして勉強が大好きなのに弱いものイジメは絶対に許さない、めちゃくちゃ優しい人柄がそのまんま音になっているアオケン君の声。列の一番右の端の方からだって、こんなにハッキリと一人ずつの声が聞こえるのに、全体の音楽の発音もリズムも音の高さ長さもぴしっとそろっている。そして曲が「♪いざや友よ」のところへ差し掛かると、楽譜に応じて綺麗な高い声をポンと出した。僕は自分たちが何メートルの高さもある雪の中に閉じ込められていて、これからどうなるかわからないんだ、なんていうことは完全に忘れてた。わくわくしながらそれを聞いていたんだ。そして、曲は流れ流れて、もみの木/お生まれだイェスさまが/赤鼻のトナカイ…と進み、「ママがサンタにキッスした」になると、みんなはLiberaみたいに体系を崩して思い思いの場所へ(本当は、きちんと決められていて、何十回もリハーサルされている)移動した。横を向いている子、体操座りの子、向き合わせで歌い始めようとしている子たちもいる。そしてなんと僕の目の前にはアオケンくんがあぐらをかき、その手の中に握られているのは…僕が心をこめて作った特別席用プレゼントのうちの1コだった!!えっ!えっ!?なにこれ?どういうこと?!信じられない?!そして、本当ならスポットライトが当たっているはずのセンターに、ひとりすくっと立って先生のタクトを待っているのは、松田リク君。去年のカネゴン先輩の担当からまた、「ママがサンタにキッスした」のソロはリク君に戻っていた。カネゴン先輩の声もかっこいいけど、やっぱりこの曲はリク君じゃなくっちゃね。前奏無しにリク君のソロでポン!と始まった曲の最中、目の前のアオケン君はあぐらに肘をついて、仕方なさそうな振り付けでかっこいいアルトを歌っているんだけど、その目は僕の方を見てニコニコ笑っている。まるで「プレゼント、ここにあるよ。どうもありがとう。」と言っているみたい。僕もたまらなくなって、「ありがとう!うれしいよ!」と口パクで言ったら、アオ君はぼくの隣でスヤスヤと眠っている年中くんの方を目線だけですっすっと目配せして、プレゼントを方をちらりと見た。
「え?なに?プレゼント?そのプレゼントを年中くんにあげようっていうの?アオケン君の持っているガトーボックスを?」
今度は僕も目だけで返事をすると、アオケンくんはニヤリとしながら歌を続けた。
「いいアイディアでしょ?」
「いいアイディアだね!」
歌は、そのサンタは…?というところまで進んでいた。リク君のソロはもう僕たちの耳に届いていない。ドキドキしながら、アオケン君と目で合図を送り合っていた。でも、最後に僕は気がついたんだ。
「でも…でも…ごめんね、アオケン君。せっかくだけど、年中くんが欲しいのは、みんなのためにつくったうちのいくつか、…特製ガトーボックス『天使のハーモニー』なんだよ…だから…ごめん。」
急に悲しくなった僕を見て、アオケンお兄ちゃんはまた目で合図を返した。
「だから、これが『天使のハーモニー』でしょ?」
「ううん。特製ガトーボックスに、わかるような印はついていないんだ。もちろん僕も、この子にあげたいけど、見ただけではわからない。ごめんなさい。」
僕はなんだかとっても辛くなって、ちょっぴり悲しい気分で拍手をするのも忘れて、Liberaの隊形が終わり、みんなが一度退場してからすぐに並び直したのをぼんやりと見ていた。そして最後の曲のMCが、アオケン君の声で紹介されるのをぼんやりと聞いていた。

僕たちのクリスマスコンサートも、とうとう最後に近づきました。「きよしこの夜」を歌います。ご存知のかたは、ごいっしょにどうぞ。そして、大雪の中、ここに避難してこられて、それから帰れなくなって、とっても辛い悲しい思いをしながら今日僕たちの歌を最後まで聞いてくださったみなさんに、合唱団の全員から素晴らしいクリスマスプレゼントがあります!このプレゼントは、こちらのビレッジのコンフェクショナリー・ショップ専属の小学生パティシエ…みんなの人気者のコーちゃんがおうちの方といっしょに心をこめて作ってくれたものです。僕たちの歌の前に、ビレッジの飾り付けで置かれていた大きな金のろうそくへ、お礼の意味で火をつけてもらいます!それでは、僕たちの大好きなコーちゃん、前へ出てきてください!

僕は、何のMCだったのか、まったく意味がわからなかったよ。僕の名前が呼ばれたのは、なんとなく聞こえてきていたけど。がっかりして座っていると、アルトの隊列からユーリ君と柳川君が、真っ白い小さなクリスマスツリーみたいにドッシドッシとやってきて、僕を無理やり立たせてラウンジの真ん中へ引っ張って行った。そこにはタワーのディスプレーで26日の朝まで飾られているはずだった金色の巨大ろうそくが、ひいらぎのテーブルカバーの中央に据えられていた。もっと小さな長いろうそくに火をつけたものを合唱団のマネージャーさんが持って待っていてくれて、
「コーちゃん、お客様と合唱団のみんなに何か一言、お願いしますよ。」
と優しい声で教えてくれる。僕は最初、何が何だかわからなかったけれど、アオケン君たちの方を見たら「僕たちに何か声をかけて!お願い!コーちゃんが何か言うのをどうしても聞きたいんだよ。」という顔をしていたから…
「僕が?うーんと、なんか…。ろうそくに、火をつけます。それで…それで…、避難している人や帰れなくなったみなさんが、はやく戻れますように。それから…」
僕が、そこまで言った瞬間、外ではタワーのとんがり屋根に積もった雪が、また地響きをたてて滑り落ちた。雪崩の音の後には、轟音のような水音。外はいったいどんな様子になっているのだろう?
「メリー!クリスマス!」
僕が言えたのはそれだけだった。合唱団のみんなが「メリー!クリスマス!」と声を合わせた。点火したろうそくを囲んで、合唱団のみんなは「きよしこの夜」を歌いながらラウンジに下りて、自分の持っているガトーボックスをそれぞれ一人ずつのお客さまに渡した。不思議なことに、特別席へのプレゼントだったはずのボックスは、コンサートを聞いてくれた人の全員に行き渡った。そして夢に見たアオケンお兄ちゃんがプレゼントを持ってやってきてニコニコしながら僕に、それを渡してくれたんだ!幸せすぎて、またまた倒れそう!お客様は待ちきれずに包装をとって、箱の中身を確かめ始めた!あちこちで、幸せそうな声があがった!僕はどうしよう?と思った瞬間、アオケン君がちらりと見た特別席のソファーの上で、目を覚ました年中くんが、笑い声や綺麗な歌声にきょろきょろとまわりを見回してるじゃないか!僕は、アオ君の清んだ心の力のこもった目を見た。僕の全部が大好き!という目だった。
「アオケン君!このプレゼント、とっても嬉しいし、幸せだよ。でも、僕は受け取れない。ごめんなさい。僕が一番アオケン君からもらいたいのは、このプレゼントじゃないし…それに年中くんが欲しかったのも、このプレゼントじゃないかもしれないんだ。」
僕が言おうとしたそのとたん、
「プレゼントは特別席の券と引き換えのはずだよ。」
歌うのをやめて、アオケン君が言った。
「え?」
「特別席の券を持ってる子が、このプレゼントをもらえるんでしょ?」
右手のてのひらを差し出した。そういや、もうすっかり忘れてた。そういう特別な券を持っていたのを。赤いワンピース・パーカーのポケット…左のジッパーを下げて手を入れるとお店のレシートぐらいの大きさの画用紙の角が人差し指の腹を刺した。コンサートの整理券!…ぼくはそれを取り出してアオケン君に渡した。お兄ちゃんはそれを見ることもせず、「♪めぐみのみよの あしたのひかり」と歌いながら年中くんの方へ行き、自分の掌を添えて小さい右手にそのキップを握らせた。それからまた僕の前へ戻ってきて、今度はハッキリと言った。
「コーちゃん!あそこに特別席の券を持っている子がいるよ。プレゼントをあげておいでよ。」
僕は希望通り、夢にまで見たアオケン君のプレゼントをもらった。今度は年中くんにプレゼントをもらうチャンスをあげる番だ!びっくりしている男の子の前へ行って券をひったくり、アオケン君のガウンの裾から出ている温かい手のひらに返した。そして、
「特別席の券を持ってる子が、このプレゼントをもらえるんだよ!クリスマスおめでとう!」
とガトーボックスの包みを年中くんの小さな両腕の中へ押し込んだ。


ペンシルバニア、ホーンデールの公園が雪に覆われた日を歌った曲だそうです…。僕たちも、そり滑りや雪だるま作りの楽しさいっぱいに歌います。R・B・スミス作詞、フェリックス・バーナード作曲のウィンター・ワンダーランドを歌ってコンサートを終わりたいと思います!今日は大雪の中、僕たちの歌を最後まで聞いてくださって本当にありがとうございました!メリー!クリスマス!そして、どうぞ良いお年を!

門脇大地くんが、そう言ってMCを盛り上げ、景気づけにバレエのピルエットでクルクルっと回りふわりと着地してお辞儀をした。真っ白いガウンが雪の精のチュチュのように広がり、お客さんは拍手をして面白がった。クリスマスのバレエで失敗をして、それをずっとコンプレックスにしてきた小学生の男の子の面影は、もうどこにも無かった。みんなの歌声が、最後とばかりラウンジに広がった。

 ♪そりにのってゆこう きれいなやまなみも

歌の途中で僕は、たくさんの人から「ありがとう!コーちゃん!今、食べていい?」「豪華!豪華!これ、来年も欲しい!」「コーちゃん天才!すごいよ!ありがとう!」「しあわせだぁー!」なんて口々に言われた。アソートしただけで、材料を揃えて作ってくれたのはお父さん、お母さん、おじいちゃんなの!僕は調子に乗っちゃうから、褒めるのはやめてほしいんですけど(笑)!歌詞を知らないお客様も、「♪ウィンター・ワンダーランド」というところだけは歌える。みんなで手拍子をしたり、キャーキャー言ったり、歌に合わせて踊ったり…これ、本当に全員雪に埋もれて閉じ込められちゃって困ってる人たちなんでしょうか?!歌が終わってからも、みんなずっと拍手し続けているし、ジャニーズのコンサートみたいにアオケン君たちへキャーキャー言って声をかけている人もいる。合唱団のみんなは、拍手が終わるまで、何回もお辞儀をした。でも、その騒ぎの中で一人、ひときわ甲高いキーキー声で小さな箱を両手に抱えて狂ったように走り回っている小さな子がいる。年中くんだ!止めて事情を聞こうったって、もう興奮マックス状態で手がつけられない。「どうしたの?何があったの?」なんて声をかけてやっても完全に無視!ともかく何かに憑かれたみたいになってるので、最後にお客様たちも合唱団のみんなもびっくりしちゃって、大人の人たちが年中くんをとっつかまえ、持っている箱の中味を見た。
「だからぁー!特別席券で『天使のハーモニー』ガトーセットが当たったんだってばぁー!キャー!!」
これにはビックリっていうか、ラウンジの全員がまたまた大笑いしちゃったね。こんなに大喜びしてくれるんなら、来年は一箱タダでキミに進呈するよ!


 どうしてラウンジにいたみんなに特別席限定だったはずのプレゼントが行き渡ったか…そしてなぜアオケン君が箱の中身を正しく『天使のハーモニー』と透視できたかは、年中くんがびりびりにやぶいたままソファーの上に捨ててあったラッピングの紙から、すぐに判明した。紙の端に、鉛筆書きの僕の字で「アオケンくんへ」って書いてあったから。僕はアオケン君にどうしても『天使のハーモニー』ガトーボックスが回るように、宛名を書いてあったのを興奮のあまりすっかり忘れちゃってたらしい(まったく!)。アオケン君はそれを見て、「これは『天使のハーモニー』ガトーボックスにちがいない!」って直感したんだって。なんか、バレバレだよね。そもそも、アカペラ・コンサートの開催が決まったとき、合唱団のみんなは自分たち用のプレゼントをお客さんにあげたい」って、先生へ直談判したらしいんだ。フルーツクラブの店長さんに頼んで、こっそり保管庫から出しておいてもらったものをみんなは「きよしこの夜」の前に一度退場して持ってきたんだな。そのうちの1つに僕の字で「アオケンくんへ」って書いてあったんだから、結果は推して知るべし…いと、はずかしだよ、まったく。
「ご褒美のプレゼント、代わりにあげるみんなの分はここにはもう無いんだよ。ごめんね。」って言ったら、アオケン君が何て答えたか、ここまで読んできたキミなら、もうわかるよね?
「コーちゃん、僕たち少年合唱団員はね、ごほうびをもらうために歌いに来てるんじゃないんだ。聞いてくれる人を幸せにするために来てるんだよ。僕たちは聞いてくださった人たちをアカペラでも幸せにできたみたいだし、コーちゃんや、年中くんのことも幸せにしたかったんだ?もちろん、お菓子は要らないって言ってるわけじゃない。きみの作ってくれたガトーボックスを、聞いてくれる人たちを幸せにするのに全部使わせてもらったんだよ!本当にありがとう!だから、きみは僕たちの合唱団の無くてはならない団員の一人だったんだって、みんなも気がついたんだ!かっこいい声の4年生アルトくん!」
すごい!僕、ついにアオケン君たちと同じ、あこがれの合唱団のボーイアルトになれたみたい!えっへん!

 ウィンターワンダーランドな今年のクリスマスの長い長い一夜のお話はこれで終わり!…でも、何?…雪に閉じ込められたその後の僕たちがどうなったか知りたいって?
 ご存知の通り、この暖かな海岸の町では、コンサートの終わった夜半から、元通りの温かい湿った風が厚い雪雲と突如入れ替わった。天気が元にもどったってこと。ゲリラ豪雪はいきなりホットなゲリラ豪雨に変化し、ふわりとふりつもった2メートルの雪をあっという間に融かし去った。
そして朝、僕が避難所になっていたタワーのラウンジの床で目を覚ましたとき、合唱団のみんなは物音ひとつ立てず、緊急用の毛布を綺麗に畳み、バスに乗って帰ってしまった後だった!日が昇ったとたん、道路は大渋滞になるだろうからって。「少年合唱団って、朝早く起きて、夜は遅くまで頑張るのが仕事のうちなんだ」って、カヤト先輩も言っていた。午前9時開演のイベントでは、遅くとも朝の8時には電車を乗り継いで集合場所に到着していなければいけないし、大人の人の聞くグランドオペラは夜の9時に終演することも珍しくないんだって。アオケン君としっかり手を握って寝た僕の右手は、朝には先輩の温かい手のひらの代わりに昨日の特別席のチケットを1枚握りしめていた。よく見ると、お習字の上手なアオケン君の字で、何か書いてある。
「コーちゃん、特別席の券を貸してくれてどうもありがとう。とっても嬉しかったし、役に立ったよ。大切な券だから、きみに返します。また僕たちの歌をどうしても聴きたくなったら、いつでもこの券を使ってね。ちなみに、何回でも使えるから、無くさないでいつまでも持っていてね。僕も、みんなもコーちゃんが大好きです。メリークリスマス!」
こういうわけで、アオケン君たちは結局、何ももらわずに衣装ケースへガウンをたたみ、詰めこんで帰って行った。それが少年合唱団の仕事だからと。それが僕たちにとって一番幸せなことだからと。
 もし、今度きみの町にアオケン君たちがやってきたら、「欲しいものは無い?」「プレゼントは要らないの?」と一応聞いてみてほしい。たぶん「僕たちが欲しいのは、僕らの歌を聞いている時のきみの幸せそうな顔だよ」って言われるんだろうけどね!

ナオミの夢 אני חולם על נעמי

November 09 [Mon], 2015, 1:48
▲既にアキヨシ君は僕の前列の立ち位置からさらに「2人ぶんカミ手側へスライド」の指令を受けていて、先生方の信頼を日一日と得ていることが並び順からも知られた。

 僕たち少年合唱団の楽しみの一つに、合わせた声の中でしっかりと息づいて聞こえる初年度生アルトの歌声というものがある。あらかた流した曲運びの最中、気が付いてみると自分たち高学年低声のパートの前部から、腰を包み込むように上がってきていた柔らかい温水のようなボーイアルトが、聞くからに2−3年生のまだ小さな水気の多い響きを伴って鳴り続けているのに気づく瞬間がある。先生方から「難パート(ある程度の適性と歌いこなす努力が求められる難しい声部)」…と、事あるごとに名状されるセクション。ステージメンバーへ上進した途端、そこへ据えられることになった8歳、9歳の男の子らが幼くも頼もしく繰り出すあきらかな「頑張り」の歌声なのである。舌足らずな、まだ粘度の強い彼らのトーンが僕らの腰部で一重、二重と身体を締め付けてくる。クラウチ・バインドの順を端折って組まれたスクラムが硬く収斂して結ばれるフロントローさながらに、僕らは彼ら下級生アルトの身体の鳴りとともに響き、発振して熱を持つ。美しいソプラノ・パートや手練のメゾ・ソプラノの集団の中では、僕の知る限りこの現象は起こらない。僕たち上級生のアルトだけがそれを知っている。だが、殆どの素因がわずか身の丈100センチとプラス数インチといった程度の、掛け算九九も覚えたか覚えないかという子達に在るのだ!…とはちょっと言い難い「先輩ヅラ」っぽい立場が邪魔をして、誰もそれを謝したり吹聴したりしない。自分たちの特権としてただ賞味するのみである。僕らもまた2−3年前は同じ立場で只管な道を辿り歌っていただけなのだった。
「変声の始まった大っきい連中は、自分の身体の中に仲間の声が共鳴しているのが身にしみて判ったろう。…というワケで、アルトあたりから今度の取材に応じて『日本一のボーイアルト』に返り咲いてもらう者を一人選ぼうと思っている。覚悟しておけ!」
現状、都内の男子のみの合唱団は団塊のお客様を相手に歌う機会が決して少ないとは言えない。僕たちのおじいちゃん、おばあちゃんぐらいの年齢の人々のことで、用意される主なレパートリーは1970年代前後の「歌謡曲」や「フォークソング」や「グループサウンズ」といったところだ。第1回東京国際歌謡音楽祭のグランプリ曲『ナオミの夢』については、言わずもがな、曲名を聞いてピンと来るような団員は僕たち21世紀生まれの小学生の中には一人も居るわけがない。通し練習の仕上がり始めた「ちょっと一息」のタイミングを見計らって先生が低声の前列に近寄ってそう言った。「覚悟しておけ」の意味するところはどうやら6年生向けの言説らしく殆どの団員が理解し得ないまま、小坂明子の『あなた』の「冒頭フレーズの低い音の切替え」へ、練習は移っていった。メゾ後列の団員たちは、合唱編曲を済ませた先生が「♪もしもーわたしがー」と口ずさみつつ楽譜を繰る束の間、「♪ブンチャチャ、ブンチャチャ」と『ナオミの夢』のキー・リズムを口三味線で唱えて興じている。目前に肩を並べたアルト下級生の一団は「『返り咲いてもらう』って?」「カムバックってコトなんじゃないの?」「カムバックって?」「だからぁー!」「そもそも、シュザイって何ですかぁー」「ダレも知らない…初めてお聞きしヤした」と、先ほどの宣告をめぐりひそひそと短い言葉をかわしていた。ボーイソプラノの好きなお客さんたちに言わせればおそらく「残念な」ことに、合唱団では今、「変声中」「変声後」取り混ぜて3人の6年生が大人の声と頭声と口パクを使い分けながら歌っていた。加藤先輩はいつものように、おやつに食べてきたらしい何かのフィリング・トッピングのオレンジ・ジャムの匂いを口の周りからぷんぷんたてながら黒目をバコバコさせてムック(ガチャピンとセットでbeポンに出てくるムック)のまねをしていた。赤川君は、腰掛けた太股を静かに閉じて顎を引き、伏し目がちに練習の再開を待っていた。リクウン君は、本当に今、自分の周囲の団員の歌声を倍音のように響かせるべく胸を開き、ニコニコと先生の挙動を注視していた。心の声はその人以外の誰にも聞こえないはずだが、指揮者先生の言う「『日本一のボーイアルト』に返り咲いてもらう者」が間違いなく自分のことであると確信しているのは今、リクウン君ただ一人であるように見えた。赤川エル君はそもそも『日本一のボーイアルト』であったことも「ジングル・ベル」の鈴を振る役と『クリスマスキャロルの頃には』のラップを中井宗太郎君と一緒に叫ぶ以外の役はやったことが無く、長い間ずっと「みんなと一緒にアルトのメロディーを歌う」だけの団員だったし、加藤先輩は話を向けても「『日本一のボーイアルト』…オエっ!特別料金くれるんならなってやってもいい!」と普通に言い放ってしまうような6年生だったから。先ほど「カムバックって何?」と言葉を交わしていた下級生らの横からその様子をぽつりと眺めていたアキヨシ君が何かを考えて舌先をぺろぺろと白い前歯の間で振っていた。
 僕が、「合わせた声の中でしっかりと息づいて聞こえる初年度生アルトの歌声のカッコ良さ、気持ちの良さ」に気づいたのは、このアキヨシ君がなんということもない、予科の練習室から追われるように、ごく当たり前の上進でやって来て、先生方から「まだ、仮の並び順だからね」と言葉をかけられ僕の傍らで歌った最初の曲の半ばからなのだった。何という曲を歌っていたのかさえも記憶に無い。体中に満ちる安堵の温もり。穏やかな陽の光にも似た心地の良さ。しかも、僕自身がその同じ曲の同じ音高の同じ回路を歌っている。最初は気にも留めないふりをしていた。
 春の遠足でお弁当&おやつタイムの後に二人三脚大会があった。いい加減に畳まれた黄色いハチマキを一本手渡され、「アオケンくん!アルトDチームだよー!」と保護者会役員のハルカ君のお母さんから指示を受けた。
「アルトのDからFって、相手は予科生上がりの誰かじゃん!しかも第4のコース!うっひゃー。」
トナミ先輩に黄色い声をかけられた。隣にはピンク色のポロシャツを着たパール色の顔の下級生。男の子はアルト配属とは思えぬ甲高い声で「ぼく…Dチームです。」と唱えて顎の下あたりまでのイイ加減な高さに白い左手を掻き取るように挙げ、存在を告げた。走路にも辿り着かない芝生の練習場所で黄色いハチマキをその小さな「カンザス40:エスタブリッシュBBチーム」とプリントされた杢グレーのソックスの右足首に回して自分の脚へ結わえつけると、僕は彼の熟したラ・フランスのような暖かい匂いと予科上がりの団員の名前をようやく「アキヨシ君」と覚えた。男の子はかねてより4年生に見えるほど堂々とした歌で立っていることを知っていたが、3年生の身体と黄色いコットンの帯で結ばれた僕の重心の所在はたちどころに平衡を失った。一瞬、何をすべきか途方に暮れかけた。3年生の男の子の上がった息が黄緑の短い平衡葉脈を押しつぶし膝をついてしまった僕の耳の右上から吹きかかる。だが、凡そ不思議なことにゴールのビジョンがたちどころに湧き上がってきた。2年生から6年生までいる様々な能力と弱みと精神力と経験と背の高さと体力の違う14人の男子が組んで内声のパートをソプラノへぴったり正確に当ててゆく…僕たちは日々そういう仕事をしてきているのだ!背丈が20センチも違う3年アルトときつく結ばれた僕には今、走るための足が2人合わせて3本しか存在しない。いつも僕らの歌っているときにさらされる状況とあまりにも違っていた。足を運ぶタイミングやストライドは僕が看る。音が鳴るのは所詮身体なのだから、同じようにアキヨシ君の太腿を僕の膝の横に当て、あるのかないのかちょっと判らない3年生の腰を僕の足の付け根にぴったり押し付けさせた。
「支えるから、こっちに回した腕で離れないようにしっかり抱いててね。」
僕は自分の左腕で男の子のどこを手繰り寄せるべきかちょっと悩んで、最初はズボンの後ろのベルト穴の辺をしっかり掴んだ。「いち!に!」と唱えて足を前に出すと前へつんのめりそうになり、思わず下級生は左のつま先を進路方向ではなく外側の方に向けて踏みとどまった。再度走り始めて3度目に同じようにして彼が止まりかけたとき、
「つま先を外側に向けたまま走っていいよ!」
と声をかけ、自分もまたそうやって新しい一歩を踏み出した。僕ら低声がチームの声を合わせようとするとき、同じ要領の運びが見られる。
顎を上げたらだめ!それは君の癖だから直すといいよ。…でも、君はいつも先生の方を見て歌っている!とても立派でかっこいいとは思う!背後に立つ僕たちにも、その姿勢は全部見えている。…今の君は未だそれで構わない!どうせ慣れれば他の子の信号も視線の端に見逃さないようになるから。今日もそれで行こう!先生の姿だけを注視だ!
「先生はどこ?」
「二人三脚のときはゴールの向こうでこちらを見て笑っているよ!ゴールに走りこんだ子たちをしっかり受け止めるために!」
ストライドはアキヨシ君の走りを見てプラスアルファの長さに決めた。「競争はスタートダッシュが決め手」であることは、学校の運動会で毎年リレー選手をしている僕が教えた。
「最初にガッカリりしたお客さんたちの目を途中から僕たちに向けさせることは無理だけど、最初の曲で僕たちをしっかり見て聞いてくれたお客さんは、途中でうまくいかないことがあっても最後まで聞いて帰ってくれるの。そのカギを握るのは、実はアルト・チームなのサ!…たぶん、二人三脚でも途中から敵を追い抜くなんてムリだから!」
僅かな練習時間は、ハチマキが配り終えられ、ゴールテープがするすると伸ばされ、どこからかイベント用の等賞旗が用意され、保護者会のお母さんたちがかちゃかちゃとビデオを用意する、ほんの刹那の時間でしかない。もともとこれは春の遠足の余興であって、「二人三脚の大会」ではないのだ。
 3年生はスタートダッシュで左右の足に振った「いち!に!」の数字を愛らしい声で繰り、やがてそのリズムを体で覚えて何も言わなくなり、息を整え前へ前へと進んで行った。二人の体側で二人の吸気が狙った通り共鳴し、フルスピードで飛び出した僕らの左半身の外で彼はホワイトアスパラのような腕をちょうど良い位置で折ってひゅんひゅんと無駄なくリズミカルに振った。慌てて自身の右腕を僕が合わせて振ると、驚くことに強烈な加速度が発生し、僕たちボーイアルトのアンサンブルのテクニックが遺憾なく発揮された…。今はもう、予科生上がりだったはずの白い3年男子が、カッコイイ鳴りと「二人三脚」という作品のナカミをしっかり理解して僕を支えてくれている。もはや足の本数や背丈や修養年限や声帯・体幹の成熟具合の差など、どうでも良いことなのだった。
「楽しかったネ!」「楽しかった!」
最後に二人は萌えた青リンゴ色のターフの上を解き放たれた両脚で滑るように歩きながら汗を飛ばし言いあった。順位・商品・課された条件については勿論些かも僕らの話題にならなかった。一等賞は赤川エルくんたち4年+6年連合チーム。
「脚も手も末も気も息も何でもひょろ長いエルくんだから、体格で勝ったねー、あはは!…さすがのアオケン君チームも勝てなかったかぁ!」
ビデオのスイッチを解除して一人一人いろんなところへデバイスを仕舞い込みながらお母さんたちが口々に話していた。

「歌が上手い」「歌が下手」…僕らの歌を下支えする低学年アルトの響きはそんなありきたりの評価では査定しきれない。コンサートで合唱を全部聞き終えてなんだか満ち足りた気分で帰って行くお客様の「落ち着き」「愉しみ」「豊かさ」の原初が実はこの子たちの歌声にあったのかと気付いたときには正直なところ驚いた。ビックリしたと言ってもいい!その中心にアキヨシくんは今日も居て立っている。歌の巧拙を超越しているのならと、彼がいつもぐだぐだ、無頓着でOBの先輩方から主演の度に注意を受けている身だしなみを頭のてっぺんから足の先まで、丁寧に、マンツーマンで復習していった。そうすること3回。着付けでスタンバイに遅れた事は無いが、ハラハラしたことは2回あった。
「こうしちゃうから阿弥陀カブリにならないでしょ?頭へ載せた後に前や後ろへ引っぱるからおデコなベレーのかぶり方になる。田舎の少年合唱団みたいでおかしいから。」
彼はもともとハチ周りが大きいため、オーバーサイズになる僕のベレー帽を斜めかぶりにさせたらその場でマネージャーさんから「この装着法はあんまり良くないナ。」とご指導を受けた。東京の少年合唱団のステージ・ベレーには各団夫々独特のかぶり方のフォーマットがある。LSOTとVBCは大昔、斜めかぶりで、アンパンマン少年合唱団は今も昔も僕たちのほとんどの子と同じ阿弥陀かぶりだ。前を立てたり、しまっておいたままのぺたんこの形を頭のてっぺんに乗せたりすると少なくともステージ袖で先生方から「なおせ!」と注意を受ける。
「鏡を見て、ベレーから前髪がきちんと出てないとオカシイよ。前髪をピカピカ光らせるために家でグロスを軽くなでつけてもらってくる子もいるくらいなんだから。」
だからと言って彼らだけで組まれたアルトはどこか稚拙で締まりがなく、冗長なつまらない合唱に仕上がる。彼がモリマ・ユーリ君のようにビシッとキマったベレーのかぶり方を会得するのは果たしていつの日になることやら。
「ステージの靴を履いたら、つま先をこんなふうにトントンってやったらダメだよ。ほら、先っぽが汚れて先生から『靴を拭いてこい!』って必ず言われる。目立つんだよ。先生が気づくってコトはお客さんの目にもとまっちゃってるってコト。」
上級生も下級生もいるアルト声部の中で彼ら初年生の声が混じって鳴っているとき、それを注意深く探して聞きに行くのは僕ら5-6年生の役目なのだ。声を出しながらマチ針でピーターパンの影法師のように自分の発声をカリドメする。それから耳を澄まして周囲の声と自分の外に出て戻る声を聞き分ける。分類して、揃えて、バラバラにならないよう掌を添えて、ソプラノやメゾの声に合わせて口の中へと呼び込む。このとき、揃えた声の束の一番下へ飼い葉桶の藁のような低学年アルトの響きが敷き詰められているというわけだ。こうして僕の口の中に入った声だけが合唱のために使われる。カリドメした自分の声と一緒に、僕らの音色が一人一人の団員の口から放たれてゆく。
「蝶タイは、一度とめたら信用できる近くの子に見てもらって、OKだったら終演まで絶対に触っちゃダメ!痒くても掻かない!『なんか、曲がってるかなぁ?』と思っても自分では直さないんだヨ!いいですか?」
「…はい。いいです。」
自力で離陸して、飛行して、客席にぴったり着陸するようなタイプの発声集団ではないのだ。これぞ低学年アルトの声の一番の魅力!僕らが探して、揃えて、再発振させ、リサイクルさせる。ただ、彼らが一緒に歌ってくれないと、こうした素晴らしい経験を僕らがステージ上になすことは無い。

 クリスマスツリー点灯式のシーズンが始まる直前の慌ただしい時期、僕たちは支援シンポジウムのパネルディスカッションの前座としてお客様がたの前で初めて『ナオミの夢』を歌った。楽譜に印刷されている前奏はたったの3小節半しかないはずなのに、ピアノの先生はそれを7小節まで伸ばして弾いている。繰り返し鳴り続けるCマイナー→Fセブン→Gセブンのコード進行がここまでで2度押し寄せて、聞いている人とブレスを切ろうとする壇上の皆の気分を高めていく。歌い起こしは弱起の無声音。だが始めの1ダースのモーラの大半が子音なので、グリップが効きやすく、歯切れが良く、叩き出しやすく、途中でいちいち母音を踏みなおす必要も無い。既にアキヨシ君は僕の前列の立ち位置からさらに「2人ぶんカミ手側へスライド」の指令を受けていて、先生方の信頼を日一日と得ていることが並び順からも知られた。ユニゾンで始まり、4小節ごとにキリっとしたハーモニーを作って3部に分かれる。大丈夫!下声部はふんわりと目立っていないが、仕上がった和声は鋭利で端正。やがて僕らの腰のあたりには、アキヨシ君たちの柔和でジンとするあの響きがハッキリと認められるようになる。
「君たち小学生のレベルじゃ、声というものは口や喉や胸から出ていると心から信じて疑わんのだろうが…哀れな少年たちよ、凡ての人間の声は実は腰から出ているのだよ。後学のためにも覚えておきたまえ。」
何の練習の最中だったろうか、先生にそうあしらわれた皆は一斉に憮然として不機嫌そうな声を挙げた。大人の人というのは、どうして相手が小学生の子どもと見るやこう揃いも揃って悪ふざけで揶揄おうとするのだろう。…僕らは、哀れな人生を真剣に呪った。だが、「人の歌声が実は腰から出ている」という一見子ども騙しにも聞こえるテーゼが、実はきららかで美しい真理だったということに僕は最近気づきはじめている。
「僕の腰の辺りを振るわせる幼いアルトの声がする…」
♪世界中にナオミ!ナオミ!
Cモルの短三和音を唸りながら僕は思った。やがて最初のトリオにあたる先生のピアノの強烈なパッセージに乗せて皆は上半身を振り、両腕を体側からアーチ橋の形に降り出しながらアフタービートのハンドクラップを叩く。大昔のスポーティー・セダンの自動車CMのようなアップテンポな曲の運びと哀感のあるシャープな律動。アラビアン・ナイトの夢という印象のメロディーが流れる。
「先生!ナオミの夢って、どんな夢なんですか?…まさか、ひたすら踊ってる女の人がでてくる夢とか??」
合わせのレッスンが始まった頃、皆は曲そのものの歯切れの良さに興味を持って口々に質問した。「ケンジくん、あそびましょー!」の昭和時代も1970年に歌われた曲。先生のコメントは「ヘブライ語のコーヒーCMのコマソンをいかにも昭和時代っぽい突貫工事で適当にメロディーに合う日本語をくっ付けてごまかしたって感じなんじゃないか?『ヤハウェ』なんて基本単語のアブジャードの読み方でさえ『エホバ』と誤読して誰も疑わなかったような時代だぞ。万博の年にヘブライ語を聞いて理解できた旧約聖書研究家みたいな人が、日本中に何十人ぐらいいたのか?」というもの。要は、「歌詞の意味なんて有って無いようなもの」ということらしい。この話の仔細が殆ど理解できていなかった下級生たちはそれゆえに真剣な面持ちでこの曲のアルトを一意専心に歌おうとしていた。ただ、与えられたアルトの役儀をこなそうと声を張る。
「ああ、それから言い忘れていたが、こないだの声変わり団員の取材の件な、…あれは赤川エル君に受けてもらうことにしますよ。」
僕たちは皆、事前予告も一切無いような突然の話で首をかしげたり眉間に皺を寄せたりした。
「先生、『声変わり団員のシュザイ』って、何ですか?!」
もともと地声の低い品川(弟)くんがあまりもの不案内に野太い質問の声を挙げた。
「『アルトあたりから今度の取材に応じて『日本一のボーイアルト』に返り咲いてもらう者を選ぼうと思っている。覚悟しておけ!』と先生は君らの前でハッキリ公言したゾ。それからアルト前列のフクちゃんあたりが『返り咲いてもらうって?』『カムバックってコトなんじゃないの?』『カムバックって?』とか何とか言ってたじゃないか。『カムバック』解ったか?フクちゃん?」
「…ナオミ、カムバック、トゥ、ミー…ですか?」
僕たちは少しだけ練習場のパイプいすを蹴飛ばして笑った。
「福利厚生のミニコミ誌の1ページ記事だそうだ。カラー写真も載るらしいぞ!良かったな!合唱団6年のときの思い出のひとつになる。エル君!声は自由に出ないかもしれないが、仲間のメロディー・ハーモニーを胸に集めて響かせながら頑張って歌ってると、こういう思わぬご褒美があるってコトさ。」
エル君はやっぱり伏目がちに頬を赤らめ、口元だけをニコリとさせ1回だけ柔和にうなづいた。5年の頃は全然無かった顔のボツボツもすっかり濃くなった腕のうぶ毛も合唱団の中では一番目立つ。「この先輩が一番お兄さんなんだ」と特に下級生は思っていた。きっと先生のおっしゃる通り「声は自由に出ないですが、合唱団の48人の弟たち・仲間たちのメロディー・ハーモニーを胸に集めて響かせながら頑張って歌っています。毎日とっても楽しいです。」とインタビューへ朴訥に応え、それが活字になってカラー写真と一緒にミニコミ誌に載るのだろう。他に変声の始まった2人の6年生たち…加藤先輩はいつものように、おやつに食べてきたらしい何かのフィリング・トッピングのオレンジ・ジャムの匂いを口の周りからぷんぷんたてながら黒目をバコバコさせて相変わらずムック(ガチャピンとセットでbeポンに出てくるムック)のまねをしていた。リクウン君は、自分の周囲の団員の歌声を倍音のように響かせようと胸を開き、練習の再開を待っていた。心の声はその人以外の誰にも聞こえないはずだが、指揮者先生のご指名は全く目にも耳にも入っておらず「『日本一のボーイアルト』に返り咲いてもらう者」がこの自分で、メインは変声中の声で歌う「僕のソロ」だと信じ込んでいるように見えた。
 『ナオミの夢』のトリオの部分のピアノにはパレスチナ風でアラビア的なエキゾチックかつエロティックなメロディーがゆらゆらとたゆとい流れてくる。練習の休み時間にソプラノの3−4年生たちは、おへその出た薄絹のベリーダンス・コスチュームやベールをつけて腰をふっているのだとふざけながら自称「パレスチナ・ダンス」をふわふわと勝手に舞い踊っていた。全然エロスを感じないし(笑)、だいいち、それはやる気のまるで無い『よさこいソーラン』後半の方の振りの悪ふざけにしか見えない。「♪マーイム・マーイム・マーイム・マーイム、マイム・ベッサッソン!」などとヘブライ語の章句を叫びながら輪の中央へ押し寄せるフォーク・ダンスでも踊っていてくれた方がまだ良かった。彼らは「ハーァ!ドッコイショ!ドッコイショ!」と言う代わりに、
♪ パッパー! ルルアー ラフ ナオミ、 コハ イ ハゾッ シェッ、ラ!
と歌っていた。ヘブル語の歌詞の中では唯一巻き舌の発音の入る1行で、5-6年生のソリストたちのように「スノーマン」などの「イギリスのトレブル」系ボーイソプラノの曲を独唱で歌った経験の無い彼らは、先生が起こした歌詞カードのカタカナのまま、ちゃらんぽらんに歌い散らす。「パッパー!」というのは自動車の警笛で、「この街路すべてがキミのものだ」という意味の歌詞の一部らしい。合唱団の編曲では、この後の部分で2声のメゾが加わり、バックコーラスふうの四声になるのだ。マカロニウエスタンのBGMのようなバッキング・ヴォーカルが「♪アーアーアー」とか「♪ウゥー」とか歌っている間に「ソプラノはやんちゃで叫ぶように、アルトはカッコよく主人公のつもりで自由にのびのびと歌いましょう」というご指導のもと、カデンツァのごとく僕らアルト団員は歌っていた。
「なんか、コーンが好きなんだぁー、ボク。唐揚げもフルーツも大好きなんだけど…。お母さんがおかず何でも家でコーンをのせてくれるんです。」
マチネ本番前のお弁当の時間、アキヨシ君の空色のランチボックスの中味を覗くと、ミニハンバーグに添えられたナポリタンの上へ、スパゲティが隠れるくらいヒマワリ色のつやつやぷちぷちのホールコーンが投下され、サーモスの頑丈そうな長四角の縁まで楽しげに足を伸ばしていた。
「アキヨシ君の元気なアルトのヒミツっていうか、材料は甘くて美味しいトウモロコシだったんだネ!」
「缶ヅメですよ。」
「缶ヅメいいじゃん!僕も好きだよ。マルや四角の缶の中に、ふだんはのんびり腕を広げて伸びをしていた食べ物たちが、きっちりお行儀よく頭までかがめてシロップに浸かってキュゥって入ってる。缶を開けると、あーあ!キツかったぁ!って、なんかホッとして顔を上げるみたいでオモシロいし、キュゥってなってたから味もキュゥって。」
「でも、お弁当のとき、なんか唐揚げやフルーツにまでコーンがかかってることもある。好きなんだけど、なんかなぁー。あのね、先輩…ボク、『ナオミの夢』で後の方になってから、先生に『自由にのびのびと』歌いましょうって言われて、自由に好きなように歌えないんです。アルトなのに、自由に好きなように歌え、なんて、おかしいですよね?なんか、アルトとムジュンする…」
ヘブル語のもともとの歌詞の内容はおそらく男の人がナオミという女の人を「心から褒め称えて」いるものだ。3年アルトはソーダ色にプリントされたアナ雪のプラスチック箸の先を器用に使ってコーンを一粒つまみ上げ、パクリと食べた。
「自分が『これでイイかな?このくらいで自由かな?』って思っている通りに歌えば、それでいいんじゃないかな?だって、好きに歌っていいんだから。無理やり辛い思いをしてまで自由に歌わなくったってイイわけでしょ。」
二人三脚で走ったヨシユキ君のあるのかないのかちょっと判らない3年生の腰と僕の足の付け根にぴったり押し付けられて伝わった体温を思い出した。アナ雪カラーのサーモスの弁当箱をかかえ通団服をまとった男の子はエルサの氷の城のような肌色。でも氷河をも融かすほどの温かい微笑みをヨシ君は僕に返した。今のキミがこれで良いと判じた良識が、今のキミのカッコいいアルトを作っているのだと僕は思う。この子が前列アルトと2メゾの結界に居てしっかりと歌を守っていてくれれば、僕たちはテルアビブ郊外の砂丘の風やユダヤの男たちのステップや角笛の奏鳴を感じながら気持ちのい歌を歌うことができる。
 先生の書いた楽譜はそのヘブル語版レコードの編曲を日本語・ヘブライ語の順に歌うもの。コーダ後奏の前20小節ほど前から強い低声のアドリブふうのソロが1番の歌詞の日本語を煽りあげるように歌って場を沸かせ、盛り上がったソロ後半を僕たちコーラスが引き取って絶唱、かくして歌が終わる。
 一緒にレパートリーへ載った小坂明子の『あなた』はうんざりするほど仕上がりが悪く、「アルト下級生たちの頑張りのハーモニー」はおろかソプラノの誰の声も隊列の右翼側へ響いて来なかった。音取り前の歌詞の素読で先生のご指名を受けたカネゴン先輩は「…そして…私は、…レースを編むのよ」という詞を読まされクスクスと団員全員の失笑を浴びた後「俺はこんなバカ女の歌なんか歌うのはイヤですからね!」と言い放って低空飛行だった皆のモチベーションをまた一気に下方へと叩き落とした。ただ、レッスンピアノの先生だけが過剰な身振りで開いた両手の指をバンバンと鍵盤の真上から打ち付けて間奏を弾きまくり、結局ウンザリしたコーラスの方は反比例的に眠たいものへと納まった。先生も練習の途中からはサジを投げて「キミらの合唱じゃあ、デブ女の恋愛妄想の歌にしか聞こえない。」と自分が編曲した楽譜を僕たちに歌わせておきながらあんまりな感想を言い放った。
 こういうわけで、団塊の世代のお客さん向けに新しいレパートリーとして加わった2曲の片方の紛糾で、「ナオミの夢」のラストのソロもなかなかすんなりとは決まらなかった。まず、アルトのソリストが一人一人、通しの練習で仮投入のうえ検証を受け、アドリブで歌う経験や練習を殆ど積んでいない全員が1回でお払い箱になった。次にアタマ数の殆ど居ない2メゾのソロ要員が高学年の方から恐る恐る試されたが最悪の出来だった。仕方なく最後に1メゾの松田リク君がイイカゲンに指名を受け、「まあ、この子が一番マシな方」という先生方の判断で、なんとなくいつの間にかソリストに決まっていた。声を張り上げるのは、せいぜいコーラスの加わる4-5小節といったところである。
 ハンドクラップは会場を巻き込んで高揚に達し、ステージしも手のピアノの先生の普段繊細そうに見えない10本の指がパレスチナ・ダンスふうのザクロ・ジュースの後味を思わせる爽やかな苦味をたたえた美しいメロディーを奏でていた。すぐさま僕たちの側の手拍子が復帰して、ソリストを通そうとメゾソプラノ中央の下級生たちが背後へと聞き耳を立てはじめる。僕の前ではアキヨシ君がオードリー・ヘップバーンの白手袋のような両のカイナをおへその前でつきあてて拍子を合わせているのが見える。コーダの前の一鳴きで、彼は誰の真似でもないアキヨシ君の歌いおさめをするだろう。…だが、四角い肩を張ったカシドスネイビーのユニフォームの右背面を心臓マッサージの要領で重ねた両手かかとで突き押して、僕たちの背後から黒い背中の誰かが突然駆け降りてきた。山台を「降りてくる」というよりは、体格・体重ではずみをつけた何かが突如なだれ落ちてきたという方が分かりやすい。アキヨシ君はその腕押しで首をムチ打ちにしながら50センチも前に突き飛ばされ、二人三脚の最初の一歩よろしくあやうく前のめりに転びかけた。一部始終を冷静な目で洞察していた松田リク君は瞬時の判断で、ソロのスタンバイへ踏み出す自身の右足を杉の平台の上へピタリと膠着し、ステージ経験で得た行動指針に従い出来事を見守っている。皆の視線の先にはすね毛の生えかけた太腿の両足でジルバのベーシック・ステップのようなものを踏みながらリク君用のバミ位置へ進み出て独唱の歌い出しを待っているリクウン君の楽しげな後ろ姿があった!リク君じゃなくてリクウン君?!暫定ソロのようにリク君がおざなりに「ナオミの夢」の配役へ収まったとき、下級生へのそのご指名は6年生の目にも耳にも全く入っておらず…「『日本一のボーイアルト』に返り咲いてもらう者」が紛れも無いこの自分で、メインは変声中の声で歌う「僕のソロ」だと信じ込んでいるように見えたリクウン君の…あのときの姿を僕は思い出した。「これはまずい!」と、作戦遂行中の皆の大脳辺縁系が危機信号を処理するよりもいち早く、ソリストの声はまだらに子どもの声へと裏返っては戻る「壊れちゃったクラリネット」の様相を聞かせて乱れ始めた。ヒュウという呼気だけが聞こえる無音の瞬間さえ在る。先生は動揺を皆に伝えぬようわざとそ知らぬ顔をして指揮を続行していた。会議のウェルカム・ソングにこれを聞かされている聴衆の中にシンポジウムの配布書類をバサバサと団扇代わりにあおぐ人々が何人もいるのは、このソロが聞くに堪えないほど不安定でストレスを感じさせるものだからに違いない。しかし、自身の夢の世界に惑乱し歌い続けるその少年は、各所でご馳走様の憤懣遣る方無い座席の様子を、聴いてくださる人々の熱狂や興奮と誤信してしまっているようだ。こうして彼は一人衆目の中をさらに大きな振りで歌いながらステージ前方へと進み出た。後を受けようと静かにブレスを切るはずだった僕たちが臆して息を呑み、何も歌えず背後で立ち尽くす中、満面の笑みを湛えた声変わり途上の6年生は、欺瞞の仲間のありえざる歌声と世界中の共鳴と空をも燃やし尽くす倍音の幻影とに包まれながら未だ少年の身体の名残を残す薄い胸を開き、彼の夢のひとときを憑かれるがごとく歌っていた。

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夢中的額吉 夢の中のお母さん

September 28 [Mon], 2015, 13:00
▲音程と音域は跳躍も幅も無いのに、身体から沸き立つショホ・リズムにのせ特徴的な歌い回しだけで楽しげに明るくアップテンポのまま聞かせている。カザフ国境の町の歌謡のような深い抒情や流れ行く音節とは無縁だが、実に男の子の身の丈に合ったメロディーである。地元の河の回帰を讃える歌だった。


 正午すぎて砂漠の風がハキユの干岸の方角から流れ来る頃、微かな塩の気配をはらむ乾いた暑気が今日もまたあの牧民の子どもの朗誦を遠く拡散しているように思えるのだった。両親を恋うるその聲は むしろ澄んだつめたい宵の山脈を渡る喉歌を想起させる。私はもともと味わって咀嚼などしていなかったケバブを載せたパンごとテーブルの端に打ち置き、アイランのコップを投げやってワジにかかる大橋の方へよろめきつつ歩いて行った。金刺繍の入った黒いムスリム帽の少年の面影を求め、河岸から一面に枯渇しきって広がる玉石の上をとんでもなく足をとられ転び、腕を丸い石の背ににしこたま打ちつけながら。そうして斜めに立ち上がっては風切り音のやってくると思われる方角へあてもなく彷徨い歩いた。やがて川べりは綿花畑であったと思しき荒れ野へと境界無く取り代わり、畦道の痕跡が私の足元で固く砕けるパリパリという耳障りな音となってまとわりついた。きつい塩分濃度がこの土地をこんなにも堅牢で水気と生気を感じさせない干泥に変えているのだ。空は青空に程遠く砂塵の覆う薄曇りの砂漠の昼過ぎである。だが、私は突如凪いだ熱砂の風上を忘れ、今しがた踏みしだいた足裏を突く乾土のかけらを引き抜いて眺めた。それはまるで泥の河に浸け柔らかくしようとした アクナンを結局口にしないまま置いてきたという風情の光沢の無い塊である。私は欠片をポケットに忍ばせ、持ち帰ってブドウ棚の脇の縁台の足元に転がしておいた。夜半にコップの水をかけると気泡の抜けた微細な穴に潤いが戻りパチパチ、カリカリと甲高い音をたてる。耳をそば立てるまでもなく、あの少年の吟ずる憂いの歌の数々が、いずれいずこへとうつろい消えていったのか、静かに穏やかに示唆しているように聞こえた。
 河の舌先は数瞬で玉石の作る夥しい数の窪みを席巻して砂漠の奥へと達し、ネフライト採りの男らや牧民の引き連れる羊たちの群れをあちこちであっという間に分断していった。クンパーラクルムズの人民貯水池からしばらく西進したところでその少年は逃げ遅れた羊の群れを追い立てて何とか河を渡りきらそうと鋭い声をはり上げ泥水色のクルークをさかんに打ち下ろしていた。小さい締まりの良さそうな左脇へ農夫山泉のペットボトルをはさみ、ペイズリー刺繍の墨色のドッパを丸刈りの頭から右手で乱暴にむしり取ると黒毛の残る一匹の子羊を掬うように駆逐する。齢10歳をようやく過ぎたばかりに見える彼自身の方がむしろ押し寄せてくる水流に足を取られず無事に渡りを収められるか、私の瞬時の判断では十二分に危ぶまれる事態だった。ここは凡そ河岸にあたる場所の辺隣であり、10分も前は一滴の水も見当たらない乾いた地点だったのである。少年は冷静な状況の見定めと、家畜たちへの信頼と気力とによって、流れが最もゆるく、水量に未だ余裕があってなるべく浅瀬に見える川幅の狭い地点を選び出し、群れを左右へと統御しながら渡河に挑み始めていた。先ほどの黒毛斑の子羊が親羊の腹の下から走り出、あやまって彼に蹴飛ばされるや、みるみるうちに下流へ押し流されはじめた。私が慌てて回り道をしに走り込み、小さな仔羊たちは私のふくらはぎに次々とぶつかって一声鳴き、私はそれを無我夢中で掬い取ってまだ乾いた砂利の砂州へと放り投げていった。砂地は既に水流で削り取られ砂岩のような僅かな段丘を見せはじめている。数匹いた子羊たちは毛足の長い羊毛を痩せた頭部や胴へドンドルマのようにぺったりと貼り付けて折れそうな足で河岸へ降り立ち、親の引率のもと再び長征への旅を再開したようだった。一面の砂に描かれた漣のような風紋は、あちこちでアメーバのように伸展する砂色の水の広がりによって打ち消され、やがて実物の漣の連鎖へと取り変わっていった。少年はクルーク棒をさかんに打ち下ろし、帽子を払った干ナツメ色の短い髪をキラキラさせながら群れの一番後ろから鋭い声を投げ続けていた。川の侵食した砂の下からは、ショートケーキのイチゴよろしく隠されていた玉石が波間に顔を出し、土壌の発した白いクレマの泡がとめどもなく濁流の中央を流れていった。羊たちは渡り終えると本能からか緑の見える場所へと一目散に走り出し、牧童は下流に流された羊がいないか、登りきった場所で振り返った。彼は杖の中ほどを天秤ばかりよろしく握りながら、ようやく私の存在に改めて気付き、未だ片足を水につけたままの私のところへ駆け戻ってきた。彼の腕は初夏の砂漠の匂いと熟した甘いハミ瓜の匂いがする。私はそのときようやく、彼が白く汚れた靴の片方を左ポケットにつっこみ、片方を農夫山泉と一緒に抱えて裸足だったことに気づいた。慌ててズボンの裾をまくったらしい両足がすっかり濡れてカボチャの甘煮色に光っている。シャツは子どもらしくなく、一帯のムスリムの男たちが誰でも羽織っているグレーの丈長だった。
「アッラー、マアーコム!アッラー、マアーコム!」
少年は疾駆する羊たちの後を追いながらも、繰り返し振り返っては私に祝福の言葉を投げてくれた。凛々しく心のこもったその声は幼いが敏捷で機知に富んだ勇者からの愛の言葉のようだ。
「きみはいったい、どこから来た?!」
去って行く男の子に言葉を投げると、反射的に真南を仰ぐ金刺繍のドッパのこうべが光る。
「…山脈の方から?」
玉石の擦れる地響きのような水音とともに羊たちを連れてここへ駆け下ってきたというのか?
男の子は走りながら意外にもほっそりとした右手の人差し指をかかげその方角を指差している。雪解けているとは思えぬほどしっかりと白い雪をいただいた夥しい峰々が、眩しい鮫の歯のようにいくえにも重なって、濁流の音と匂いの中に横臥していた。 河の流れる数ヶ月間は婚礼の季節だ。空飛ぶ絨毯に乗った花嫁が頻々流れを越えて町にやってくる。親類の男連中や先の妻や少年たちが、よってたかって美麗で華やかなカーペットの端をお輿代わりに握り持ち、新婦になる金繻子のヴェールの女を担ぎ上げて運んでいるのに町中いたるところで出くわした。皮も破らんばかりに滅多打ちされるナグラの激しいリズムによって煽られた婚礼の列は、鄙びて甲高いヒョロリとしたチャルメラの朗謡に担われて、どれも小金持ちの家の軒先や文化宮のエントランスへとたどり着く迄に薩満の踊りの渦と化してしまうのだった。けばけばしいパーマをかけ、松葉ほどの長さのつけまつげを装着し着飾った女たち。床いっぱいにばらまかれた焼き菓子、赤巾、オアシスの果物、 様々なナン、サムサ、キイクチャやサンザのかけら。西洋のキラキラしたハラール菓子の包み紙。オレンジ色に輝くピラフ。それらが皆、土と化粧と羊肉とありとあらゆる雑多な匂いの渦を伴って、ナグラの鼓奏よろしく私たちの脳天に強烈な殴打を喰らわすのだった。
「披露宴に烏達木が来ているんだそうだ。すぐに歌うらしい!」
緑鼠色のムスリム帽をかぶった男たちがウキウキと吹聴している。
「烏達木はぼくらの英雄だよ!」
噂を聞いて河から上がったらしい裸の子どもたちが、水浸しの乾きかけたあばらの半分をぴかぴかさせながら走ってきて叫んだ。
「本物の魂の歌を聞きに入ろう!」「私はDVDを持っているよ。」「こんな街にも烏達木がやって来たなんて!」「あんなに力強い少年の歌声をナマで聞いたことがあるかい?」
烏達木というのはモンゴル占領地の牧民の少年。CCTVの番組「中国達人秀」で歌った「夢中的額吉」が人々の心を強く揺さぶり涙を誘って人気に火がついた。不遇だが家族の愛に満ちていた人生。母を看護した話や父とのせつない思い出話…それでもしっかり前を向いて明るく正しく生きる少年の姿は漢人たちだけでなくあらゆる民族の人々の共感と感銘を呼んでいる。かくして男の子はあっという間に「草原の王子さま」と呼ばれるボーイアルトの少年歌手に。テレビ出演は勿論のこと、CD、ミュージックDVD、映画にと八面六臂の大活躍。今やこんな辺境の街クンパーラクルムズでさえその少年の歌い姿や境遇を知らない者は一人もいないくらいだ。

 入り口付近は既に薩満の踊りの最高潮で、白い髭の男らの体を左右に押し除けたり、ひらひらと広げて掻払う両腕の下をくぐったりしながら中へ歩みを進める。すると、夥しい量のバラの花びらと牡丹雪の舞い散る中、いよいよメインイベントのゲスト登場というタイミングに運良く滑り込むことができたようだった。客たちは一斉にさざめき、先ほどまでの乱痴気騒ぎは一瞬にして馬頭琴の爽快な音と捲し立てるモンゴル語の男の声に取り変わった。前方の親類縁者の席の前へ誰か背丈の小さい者が颯爽と進み入る瞬間が戸口前にできた間隙からちらりと見えた。舞い上がる花吹雪・紙吹雪と見物の人垣でその姿ははっきり捉えられない。音楽は「吉祥三宝」のカラオケだった。烏達木少年!!夢のような一瞬だった!薄水色に輝くシルクのテルレグを身にまといブーツを履いている。重そうに黒いマイクロフォンを両手で支え持ち、その第一声は野太く郷愁をさそうあの歌声だった。ただ、モンゴロイド独特の直毛のボーイッシュな髪をその少年はしていない。丸刈りの、短い、頭皮の地がぴかぴか光って見える頭は無帽だった。そこはかとない引っかかりを覚えて私は重なった客人らの肩を1枚ずつすり抜けて親類縁者たちの席のすぐ後ろに至ろうとしたがなかなか前へ進めない。たくさんの人々が会場へスシズメになっているのだった。私はすぐに諦めてその少年の快活で朗々とした歌声に耳を傾けた。

 ♪星星出来月亮去哪里啦?

彼は歌っている。牧童特有の豪胆な鄙びた唄声だ。酔いを感じるメリスマと草原に舞う細かい振幅のビブラート。極端な二重母音と側面音が頻出して目立つ。西はハンガリー平原で歌うマジャール少年のビーロー・ゲルギューから東の果ては馬子唄を歌うビクター少年民謡会の男の子に至るまで。おしなべて彼らの音調はどこか類似して悲哀を感じさせ、カタルシスのように極めて清貧だ。羊を追って財を成してきた子どもなど世界中で一人としていないように、その節回しは安寧なる定住や物質的充足や富饒とは絶対無縁のものなのだ。だが、これは婚礼の宴。人々が大好きな、両親を亡くす彼の境遇の話や持ち歌をあえて控え、今日は留意して家族の絆への祝福の歌「吉祥三宝」を選んできたようだった。

 ♪我們三個就是吉祥如意的一家!

原曲モンゴル語版だけでなく、頭出しにカラオケを戻して北京語バージョンでも歌い、合わせて7分間の招聘であったことがわかる。少年は来場のときと同じように、マイクロフォンを捧げ持ち、同じ戸口から草原の王子さまの衣装をキラキラさせながら退場していったらしいことが気配として感じられた。後に残ったのは部屋いっぱい充溢した興奮の人いきれと嬌声。凝乳を滴らした油滴る羊肉のピラフと甘いメロンの匂い。ただ、歌い収められんとする歌に聞き覚えのある誰かの声質が混じっていることだけが感知された。テレビやネットで聞き覚えた王子の音吐とは明らかに異なる現実の歌声の何か。少年の声がカラオケ・マイクとスピーカーを介さず、一瞬こちらにも直接聞こえてきていたため、口パクでなかったことは確かなのだ。山脈のごとく目前に重なった人垣により新郎新婦や親族の顔すら見えない状況。婚礼の主の誰かさえ意識しないまま、前方にいる参列者の顔も、祝いの歌を披露した子どもの顔も歌い姿も判らぬ人垣の中で私は少年の声を静かに舌先で反芻しながら式場を後にした。 出現した河はオアシスの村々のクリークや水路にラベンダー・グレーの水を落とし、若いポプラの育成林に灌水の水盆を作っていった。美しい樹間の所々へ獣道ほど盛り上がった水の仕切りが生き物の背中のように走り、どこからか白い幹へと降りてきたつる草が可愛らしい三角の葉を揺らしている。林の向こうに何かまた広がった土地が小丘や堀の開けた気配を見え隠れさせながら、暑く乾いた夏の到来を告げていた。ポプラ林の奥から少年たちの涼しげな嬌声が一房に熟れた葡萄ほどの夥しい玉のようににすずなって響いてくるのは、そこにしっかりとした堀が割られ、東方紅貯水池の配水に漏れた地域が依存する河水の再来を享受し始めたからであった。みるみるうちに水かさを増す流れに、彼らは足から飛び込んで興じたり川底の泥をすくって相手の顔めがけ投げつけてみたりするのである。暫時水しぶきをたてたあとは、互いの肩や腹を矮小な肘でつなぎとめ一括りの塊りになりながら、チュルク語や崩れた北京語でひしゃげた童歌を次々に歌ってゆくのだった。それも民謡採集の学者たちが目の色を変えるような伝承の歌々などは無い。凡ての古謡は様々な国の共産主義者たちの偏執狂的で高圧な支配を通じ他の文化体系もろとも殲滅の憂き目に遭い、とうに絶えてしまっていたからだった。ひとしきりじゃれあって、歌い疲れて潅木の根元で午睡に落ちる直前の、水びだしになった紅茶色のピカピカした肌の子どもたちをつかまえ、羊飼いの少年の所在をようやく聞き出せた。泥水のせいなのか、はたまた熟れた身体のせいなのか、鼻の下を黒っぽくしたロシア人のやせぎすの男の子が一人、腹をアラビア文字の アインの形に凹ませながら「県道の向こうの綿花畑の切れたところに未だいるよ」と気だるそうに教えてくれたのだった。
 砂丘の稜線が、萌えるような緑の路肩や可憐な花々の向こうに未だなだらかな起伏を繰り返している。河がやってきてからというもの、堆積した砂の山はもはや風塵に帰することは無くなり、空は晴れて太陽が苛烈な紫外線の照射をほしいままにしていた。河岸段丘の上を流れる水音の中で、親羊たちが子等を呼ぶ高い鳴き声がくぐもるようにたっていた。足元にふらりとやってきた仔羊の背中をつまむと、まだかちかちとしたラムラックが少しく私の中指に手応えを残す。生き物は小さく短い 毛束を右へ左へと振って走って行った。

♪わたしの窓、私の窓に月がかかっている
 誰しも恋の二つ三つ、いったい何が世界を変えるというのだろう
 Ablakomba, ablakomba besütött a holdvilág.
 Aki kettőt, hármat szeret, sosincs arra jó világ.

メサになった下の岸辺か、どこかの草叢の中で「私の窓」を真っ直ぐに唸る少年の声がする。ニープダル独特の歌い収めのリズム。少年の叫びとも取れる短音階。カカッと落ちる下行に勢い余った子どものシラブルがいじらしい。呼び出せば歌声の主は口を閉じてしまうだろう。私は息を殺し、瞬きもせず、留意して身動きを止め、耳を傾けた。

♪羊飼いの笛 羊飼いの笛で
 麦の穂色の髪の少女が群れを追う
 麦の穂色の髪の少女は群れを押し
 おまえの所労を減らす
 Juhászlegény a határon furulyál,
 Szőke kislány sétál a nyája után.
 Szőke kislány fordítsd meg a nyájamat,
 Megszolgálom érte fáradságodat

突然歌が止み、少時をへて男の子がずぶぬれの仔羊に声をかけながら、川べりの段丘を登ってきて姿を見せた。「また落ちたら最後、この次、水からあがる場所は後戻りできない砂漠の中なんだよ。お母さんも僕も兄弟たちもいない。日が暮れて三日月と星々がそこから見えるだけ。寂しくて身が千切れそうになるだろうし、二度と川へ落ちないように気をつけるんだよ。」男の子は優しく弟をたしなめる。それから草を食む羊の群れの向こう側に私の姿を認め、立ち止まった。子どもの牧人が一人で世話を焼ける生き物の頭数はたかが知れている。この群れも多くてせいぜい2・30頭どまりといったところだ。白い小川を挟んだ男と少年が互いを見合って屹立した。私を凝視した口の周りは何かに汚れて黒ずみ、それから白い歯が見えて「あなたの上に平安を」と凛々しい少年の声で言葉が漏れた。
「きみの上にも平安を。…だが、今もし君自身が川に落ちたら、次にあがる場所にもお母さんや私や兄弟たちはいないよ。そこもたぶん日暮れて三日月と星々があるだけの砂丘の縁。仔羊たちには君が付いているかもしれないが、君を助け上げられるような人間はここには居ない。ところで、空腹なんだ。カボチャかサモサを食べに行かないか?」
少年からはけんもほろろに「嫌です。」との返事。男の子は急いでまた川べりに降りていき、黒く汚れた小さなオレンジ色のモンゴル・ゴタルの形のものを掴んで戻って来た。朝市で手に入れたと言わんばかりな見てくれの、食べかけの、冷たくなってしおれた季節外れの茹でかぼちゃ。三本指で挟みこちらへ突き出して「あげようか?」とお茶目な寂しい目で言っている。
 シャーシの新しい白木が良い匂いを放っている。ロバ車に揺られて舗装されたばかりの道をゆく。沿道の柳のそよぎを蹴散らすように、バスやトラックのクラクションが苛々と執拗に背後から襲ってくる。車輪が何かを踏むたびに、ヨレた荷台の板がタープ袋に入った根菜かクルミのような唯一の積荷とともに揺れ、驢馬尻に立った筋交いの棒へ左手をかけた少年の肩やムスリム帽の頭蓋が幾度も私の腕に真横からぶつかった。途中、私は香草の浮かんだ生ぬるいラグ麺を両手に一つずつ運んできて、荷台の横で立ったまますすり、小さなスイカを露天で買い上げて彼の両手に抱えさせた。
アラビア文字、簡体字、繁体字、キリル文字、ローマ字にハングルにモンゴル文字にチベット文字、日本語、インド文字…看板や商品や道標や50年も前のプロパガンダを通じ街中には様々な喧しい文字と言葉が溢れ、消えかかり、上書きされていた。辺境のオアシスである。だが、男の子は必要なことも不必要なことも、何も言わなかった。こちらがものを尋ねたときでさえ、うっすらと笑んで首をかしげたり、無言のままうなづいて終えることすらある。寝ても覚めても物言わぬ羊たちが相手の仕事では、仔羊に何かを教えるとき以外は話すことも無いのだろう。
 少年は市場に着くやいなや家畜バザールの囲いの前に立ち尽くし一歩も動かなくなった。柵の内側ではバニラ・アイス色の羊の背中が左右へと静かに厳粛に行き交っている。置き放った群れの安否を気遣う彼の心中だけは、私の袖口に触れる彼の体熱から十分に感じとれた。大丈夫!手掘りの水路の分水は孤立した土手を作ることもある。片側はポプラの幼木の潅水池。2人は羊たちをそこに押し込めて草を歯ませ、少々重い渡し板を2箇所外して押し込めておいたのだった。土手の植生は貧弱だが、午後しばらくの間、草食動物の飢えることはないだろう。改めて少年を誘ってみたが、男の子は有料ブランコにも、ちゃちなウェーブスィンガーにもテーブルホッケーやおはじきやカードゲームにも一切興味を示さなかった。どのみち全ての乗り物やゲームには様々な人種の子どもたちが鈴なりに群れていて、遊具の動くそこかしこで戯れ歌を歌っている。チュルク系、漢人、モンゴル、韓国人や日本人、アーリア系やロシア系、ペルシャ人やパンジャブ人、そしておそらく西蔵人。男の子を近くでよく観察すると至近にコーカソイドが混血したチュルク系の風貌で、特徴的な声以外はどう見ても蒙古占領地からやってきた少年という外見をしていなかった。「きみは烏達木なのかい?」と真剣に尋ねると、何か他の意思のこもった視線がこちらへしっかりと返ってくる。濃いブロンドの毛髪。端に薄い眉。小さく形の良い鼻。かすかに長めの鼻溝と薄い上唇。…キルギスタンの龍湖のような青く深いソラマメの瞼と燃え立つ蟠桃の頬。眉間に透けて見える静脈が葡萄酒を思わせて美しかった。周囲の子どもたちの瞳はスカイブルー、深緑、ダークブルー、ヘーゼルブラウン、メラニン褐色、黄金色、黄褐色、淡褐色と混血も極めたりの様相を見せているが、彼の場合は奥行きのある琥珀色だった。先日は丸めて持ち歩いていたバチもののロットのジャケットを羽織り、胸の前でコニーデ型に開いた紅旗色のパッチが黒く引き締めた彼の腕と首周りで快活に咲いていた。
 私がバザールの民主東路側の入り口で、選りに選った好みの肉片を鉄串でカワブにして焼いてもらっていると(この辺りのシシカバブは大ぶりなのだ)、街路の奥の方から烤羊の匂いに混じって「奔馳的馬」を一人賑やかに歌う少年の声が途切れ途切れに聞こえてきた。絶唱型の高い音のメロディーを上手に繰って、詰まりがちなモンゴル子音や低い音は変拍子のリズムに乗せてはっきりと潰れぬよう処理している。草原を自由奔放に疾駆する白馬というよりは、緻密な車両設計で駆動系を仕立てた走行機械というイメージの歌いぶりだった。感心しているうち、羊肉に火は通り、「熱くてビニールは大丈夫か?」と毎度のごとく心配する私の眼の前で、屋台の青年がフェンネルのたっぷりかかった焼肉の串を2枚のピヤズに挟んで引き抜き、肉汁が浸みた胡椒まみれのオニオン・ナンごと袋の中に突っ込んで差し出してくれた。ビニールの口を閉じれば肉の湯気や塩気がピヤズにまわり、硬いパンも口になじむというものだ。楽しげな蒙古の歌は2回目に入った様子。はやる心を抑えてヒマそうなおばちゃんの屋台で急かして涼粉を買い、こちらのビニール袋の口はしっかりと捻って固結びでとめた。小走りに家畜バザールの方へ戻る私が余程憑かれた様相に見えたのだろう、鯉の唐揚げを切り売りしている薄いグリーンのドッパを被った少年が、包丁を握ったまま屋台の向こう側からひょこりと出てきて、茶色い食べ物の詰まったビニールを両手にぶる下げた私と一瞬目を合わせた後、全てを合点して歌声のする方向へ二人一目散で走り始めた。

 私たちが目的の地点に達する少し前、歌は丁寧で長いリフレインを繰り返し、肺活量を感じさせるリタルダントを経てすでに終わってしまっていた。純白の馬にまたがって馬上からこちらを見下ろしつつ歌う少年の姿を楽しく想像しながら駆け戻った私の前にいたのは、真っ赤な唇をキュッと結んで微笑んだあの子の立ち姿でしかなかった。彼はもはやバザール入り口で営業中の幼児向け「足こぎゴーカート」の柵の外側に立ち位置を移し、遊びに夢中な丸刈りの小さな子どもたちの様子をニコニコと眺めているだけだった。彼らがこいでいるのは白いメルセデスS400ハイブリッドらしい。1台は比較的新品の外見だが、ラジエーター・グリルの横腹へすでに明らかな凹みが穿たれていた。柵の外からそれを眺めているのは父親らしき髭の男が一人と赤いペーズリーのスカーフをアリアーヌ巻きにした女が一人。店主も含めて彼らはどことなく周囲に無関心という感じだった。
「きみにも妹や弟がいるの?」
少年の視線を辿って慎重に確かめてから、尋ねてみた。
「いる。妹が一人だけ。ずっと遠くにいる。」
「烏達木」がもう一節も歌わないのを見て、唐揚魚屋台の鯉臭い少年は包丁の柄を短く振り回しながら所在無さげに帰ってしまった。
「ご両親と一緒にいるの?」
男の子は白いメルセデスに乗ったウイグル人の子どもを見ながら応じたが、その目はもう笑っていなかった。
「…いない。」
カワブの突っ込まれたビニール袋から、羊の肉の匂いがまっすぐにたっている。
「お母さんと一緒に住んでいるんじゃないの?」
「お母さんはいない。」
「じゃあ、どこにいるの?」
「天国にいる。」
「お父さんといるのかな?」
「お父さんは事故で亡くなった。」
「いつ?」
「僕が10歳になる前に。妹はおじさんの家にいる。」
低めの嗄声が優しい。
「そうか…。ところで、きみにカワブと涼粉をごちそうしたいんだ。一緒に食べてくれないか?」
男の子は傍の店に掲げられたアラビア文字を少しだけ目で追って、それから静かに頷いた。
いずこからジャムを塗ったナンとサムサの崩れる匂い。少年が気高さを保ちつつ卒然と矮化したように見えた。 私が羊飼いの少年の話を周囲に吹いてまわっていたもので、仕事から帰った隣の小姐がごろりとしたネフライトの指輪を右手でぎしぎし言わせながら私のところへやってきて教えてくれた。
「やけに良い声の牧人少年が一人、A大隊の近くの河原で歌っていたよ。プロ顔負けの節回しだわね。」
尋ねてみると、聞こえたのは川の帰着を讃えるチュルク語の民間歌曲らしかった。
「小さいのによく喋る歌をさばいていて感心したよ。小夜鳴き鳥も顔負けだ!」
彼女は言っている。当地の歌は捲し立てるような短いフレーズを繰り返すリズミカルなものだ。
「黒いドッパをかぶった牧童だった?」
「帽子まで覚えていないよ。でも、ここらへんの小学に通う子じゃないと思うね。」
「幾つぐらいの子?」
「アリムやエフメト坊と同じぐらいでしょう。11歳ってところかな?」

 増2度音程七音音階。音程と音域は跳躍も幅も無いのに、身体から沸き立つショホ・リズムにのせ特徴的な歌い回しだけで楽しげに明るくアップテンポのまま聞かせている。カザフ国境の町の歌謡のような深い抒情や流れ行く音節とは無縁だが、実に男の子の身の丈に合ったメロディーである。地元の河の回帰を讃える歌だった。
 河岸の大隊の取水口には白木のタボが行儀良く等間隔に顔を出し、水路がひしゃげぬよう渡した横木は夏の陽光に照らされて跳ね上げた泥水をシャンパンシルバーの土化粧に変えていた。黒ひげのハッジの男が水門番らしく、彼は水音を聞きながらスルースの鉄管を握りしめ、男の子の歌を聴いている。白い花帽がアスパラガスの芽を林立させたような防砂林のランドマークに浮いて、空の色に溶け込んでいた。砂漠公路へ急ぐ寝台バスが1台、電信柱の間を気持ちよさそうに過ぎてゆく。夏がやってきたのだ。彼方の青空に抜けた山脈の嶺々には粉糖を降ってしゃもじで引いたような真っ白い残雪の尾根が累々と伸び、魚の中骨のように広がった雪渓の突端が消えるその場所の手前、さらに低層の山々がスレート・グレーのアレートを連ね、背後の連峰を押し上げている。そこからなだらかな角度の傾斜を作る風化した背の丸い岩丘の群落が、成れの果ての砂の大地へと一連の風化のプロセスを一繋がりに見せていた。砂漠の中に引かれたポプラの連接は川の支流沿いに伸び、こちら側では青々と茂った杏の木が優しい遠近法を示している。明らかに年毎の河岸を積み重ねた土手の上下に萌えたつ緑。少しずつ上がる水位に取り残された馬草の群生が川のあちこちに認められる。彼岸でも此岸でも、人々はこれを楽しげに掘り上げていた。キラキラ、カチカチと引き棒をつけたまま輓馬に好きなだけ水を飲ませている男は、その僅かな川上で両手すくいをして自分もまた喉を潤している。牽き馬はそのまま前膝を水に濡らすまで進み入って、虫たちを頬で払いながら涼しげに鼻面を流れへ沈めていた。少年の吟ずるまま、歓びの歌は岸辺に明るく広がっていった。遠目の後ろ姿ではあっても、私は彼の歌う姿を初めて目撃したのだった。その小さな身周を巡って川べりへ下りては返す羊たちの後には蹄のたてる砂埃が静かに降りている。歌声がさらに熱を帯び、さらに大きく、さらには人々を舞い踊らせる瞬間が訪れるに違いないと私はその時を待った。だが、少年は突然歌うのを止め、潰し損ねて皿から転がった1粒のひよこ豆のごとく川の流れの中へ飛び出していった。彼の目前には危なげな泳ぎの羊が一匹、川勢に逆らってなお泳いで行こうとする。ライトグレーのフェルトになりかけた獣毛が川面に浮いたり沈んだり。男の子は何かをさかんに叫びながら玉石の川底を蹴って浮かびつつ後を追う。河岸の人々は何も言わなかった。風向きの加減なのだろうか、どこからか夜鳴きウグイスの啼き声が聞こえたような気がした。


♪遙望山峰
 想念父親
 河水清K見底
 像我父親善良
 
 少年はぼんやりと川下を眺めている。
誰かのロバ車から僅かにはみ出たリヤカー・タイヤの上に尻を引っ掛けて。
タイヤのゴムもスポークにかぶった埃も、まだらに濡れている。
私がずぶ濡れの脇下に両手を差し入れて、川の中から引きずり出してここへかけさせたからだった。
かかとをタイヤのハブにかけて膝を曲げ、両手をふとももの上へ広げて上半身を伸ばしている。
河原に全裸でいるのは同じ年頃の漢人やウイグルの男の子たち。誰に促されるともなく全てを脱ぎ捨てて焼けた玉石の上へ落とし、何も纏わない烏龍色の身体だった。友の腰部に茶色い脚を締め回し、ずり落ちる直前でおぶさった5・6組の少年たちが学校から帰った足でおんぶ鬼をしているのだ。流れの緩い河岸にいるのは、上にいる子らが落ちても危なくないため。牧人の男の子は、彼らの騎馬が最後に崩れ落ちて大はしゃぎするのを細い目と張り付いた短い前髪で眺めている。
流れていった羊の姿はもうどこにもない。
彼は荷台に座り直し、あぐらをかいた。
「テュルク人は服を濡れたまま着てはいけないんだ。家族が不和になるといわれている。干してあげるから脱ぎなさい。」
少年は向こうを向いたまま言葉を発した。
「お父さんは、川で人柱になったんだ。」
この流れも月をまたいでさらに水嵩を増し、やがて大濁流となる。
「増水で大切な道が決壊して、近くのオアシスの人が総出でなおしていた。やったこと、あるかい?」
男の子は体に張り付いたシャツをそのまま頑張って着ていた。
「紅柳も駱駝草も地面に生えているものは全部川へ突っ込んで流れを緩くする。そうしないといくら泥を入れても流れていってしまうから。」
「きみたちの住んでいた村?」
「僕たちは半定住だから…。お父さんは、大切な放牧地を貸してくれるオアシスの人たちの力になりなさいって、いつも言っていた。」
「お父さんが流れをせき止めて時間稼ぎをしたんだね。」
「妹や僕を置いてね…。」
「私は勇敢な立派な方だと思うよ。君もまた勇気のある息子だから、お父さんは勇士になれた。」
「その僕は今日も一匹の羊を助けられなかったんだよ。」
「羊は泳ぎの上手い家畜なんだ。心配要らない。必ずどこかの岸辺に上がって草を食んでいる。」
「生きていて、どこかの岸辺に上がっていても、もう一人ぼっちなんだよ。知らないオアシスで、たった一匹で濡れた体を乾かしている。」

♪我要前往故鄉
 不等流水換氷裝
 渴望叩見父親

男の子は口蓋で共鳴させたような深い声で、歌い始めた。先ほど、河畔の取水路で水門番をしていたハッジの男が、いつの間にか3・4歳くらいの男の子を連れているのが見える。此岸の彼方、男は片手であっさりと川の水をすくい、傍らの幼少年の口元に当ててやっていた。潤って青々と波のごとく揺れる土手の草叢が見えなくなるまで続いている。近くの名もない緑もまた川面の風にそよいでいる。歌いながら少年は川べりに降り、濡れた指で砂地に一本の水平線を引く。沙漠の街で子どもが描くこの図像の意味するところはただ一つ。夏の数ヶ月間にだけ現れる広く遥けき草原。かつて砂の小丘だったところは緑に覆われて、ここに描きこまれたりはしないのだ。彼はその草原の真ん中で一人「♪故郷に帰りたい」と歌う。太陽に顔を向けて、アンバーの瞳をした彼の両の瞼は閉じられているのだろう。歌いながら、何かを胸に押し抱くような身振り。「烏達木がこのオアシスに来て歌っている。」という噂話は小さな街のこと、あっという間に人づてで広まっていた。「CDを流してソックリさんが口パクで歌っているだけ」という漢人プロモーターにありがちな厚顔無恥の話から、「追っかけが酷くて中国から逃げてきたんだって」という尤もらしいゴシップや、「日が落ちてから解放広場でカラオケ流してゲリラコンサートをやっていたよ。『巴特尔舅舅(バッテルおじさん)』のモンゴル語がとっても面白かった。ホーミーもタイトに聞かせてくれたし…。純白シルクの民族服がライトに映えてカッコよくてきれいだったー!」というリアルなコンサートレポートもあった。辺境の町では北京の電視台の映像と明らかに違う人物も「偉大的領袖」と見做されれば祭り上げられる。歌う少年は目をしょぼしょぼとさせながら「献給父親的歌」を重量感を湛えて歌い続けていたが、やがて傍でおんぶ鬼に興じていた裸の少年たちも遊び飽きたのかシャツに袖を通し、川面を眺めたままおもいおもいのブレスで牧人少年の嘯きに声を合わせ始めた。美人でない女性を見るのが困難なほど既婚未婚老若を問わず美しい女性ばかりが住まうオアシスの街、遺伝子のクロスを介して生まれる男の子は大抵が美男・美少年と相場が決まっている。悪戯っ子そうな目で、川から上がりどの子もそこそこに泥水まみれだが、高歌放吟の彼らの頭や膝小僧はきらきらと輝いて清しい。子どもらの様子を笑んだ目で眺めていた女が一人、こちらへやってきて、川に浸して濡れたアク・ナンを少しちぎって口へ運びながら、残りを少年の前へ差し出した。男の子が歌っていたので、私が両手で押し頂き、礼を言って小さい彼のために持っていてやった。
「羊は大丈夫!生きていて、どこかの岸辺に上がっていれば、もう一人ぼっちじゃない。この街で、濡れた体を乾かしている君がちゃんといるだろう?きみの家族のように大切な羊なんだから。」
男の子は私の声を背中に受け流しドッパをロバ車の引棒の先に引っ掛けると、水の匂いをたてて濡れた衣服を1枚ずつとりはじめた。
「これはお父さんに買ってもらった服なんだ。」 少年の歌声を確かめるため、夜半過ぎに私は出かけた。3度まで夜の河原に通っていった。いずれも涼やかな乾いた風の通う刻限に。漆黒の新月の晩は川の水音ばかりの殺伐とした閉じられた闇が辺りを覆い尽くし、河水以外の何も動いていないように思えた。二度目の三日月の晩は川面の音とナイチンゲールの鳴き声だけが河原に近づく者を遠ざけるように聞こえてきていた。3回目に訪れた夏の終わりの川には、夜光杯に浮かぶ山脈の雪を思わせる明るい光が宿っていた。盛りを過ぎた水音と夜鳴きウグイスの押し殺した美しい囀声は相変わらずそこにあったが、少年の物悲しい吟踊は、もっと上流の白い砂丘の見え始める場所から微かに流れ、聞こえてきていた。私は痩せ始めた川幅へ露出した玉石で、幾度も足を取られながらしばらく岸の境目を遡上し、最後にちょうどよい高さの土手へ腰を下ろし、はっきり聞こえはじめた少年の歌声を聞いていた。蒙古占領地の歌、漢人たちのために北京語へ吹き直した歌もあった。羊たちの気配とともに幼い翠玉色の音色が夢見心地に砂漠の空へと巡り、昼間の熱射がまるで嘘のように周辺から引いたのが分かった。それから暫くの間、月影のボーイアルトは川とともにたおやかに流れ続け、激情の中でいつの間にか止んでいった。私が跫や草払う音をたてぬよう注意深く歩みをすすめ、声の主の様子を確かめにゆくと、はたして男の子はバラの芳香を思わせる暖かい寝顔を月の光に沈め、長い睫毛の両目を閉じて小さな華奢な身体を横たえ休んでいた。私は静かに自らのポケットをまさぐり、DVDコピー店の隣の屋台で買って忘れていた干しあおぶどうのビニル袋を引っ張り出すと、少年の 面影の傍にそっと添えるようにして置いて立ち去った。蟲たちが嗅ぎつけぬほど淡く漏れる魅惑の香りが、男の子の今日の夢へ甘美なまま流れ出るだろう。

♪若い花を摘むな
 生え出ずる場所から摘んでいくな
 手を離さないでいてくれる
 願い事を聞いてくれる
 空の遠くにいるお母さん
 夢の中のお母さん

 次の赤い満月の晩、私はまた食べ物を持って少年の歌を聴きにあの河岸へ出かけた。予想通り、歌声の源となる放牧地はさらに川の上流へと移り、夜のあかりにしずんだ低層の草花が、川辺から白砂丘のほとりまでを密生している気持ちの良い場所に変わっていた。羊たちへの子守唄のようにモンゴル語の清らかな調べを繰り出す少年の座す傍には、綿花畑からこぼれ落ちて根付いたコットンフラワーが何株も美麗な瑞々しい花弁を月明かりの下で窄め、赤化しながら眠りについていた。川はいよいよその流量を弱め、細ってなお流れ流れている。彼の歌うのは今夜は亡き母の歌であったが、私のために歌う姿を彼の寝入るその刻限まで身近にこの心の目へ収めておきたいと思ったのだ。私は食べものを利き手に握りしめ歌う少年の臥所へそっと近づいていった。爽快な草叢の中、黄色く丸い花のように輝くラマザンの月を見上げながら、歩いて行き、ようやく彼の柘榴の頬にも触れんばかりの近くに至った時、不意に黒いジャケットの小さな人影が、月の照らすメサの上から私たちを見下ろしつつ駆けてきて何かを叫んだ!飛び起きざまに逃げ去ろうとする瞬間の少年の顔を川面にさざめく明かりが石目ガラスのごとく照らし出した。腫れぼったい蒙古襞の目をしたモンゴル占領地の子どもだった。


 牧人の服の上から羽織った黒っぽいlottoのワッペンパーカー。男の子は黙ったまま、先ほどまでそこにいた少年と同じ場所へパズルを嵌めるがごとく腰を下ろし、立ち尽くす私の膝に腕を回した。どこからか、夜鳴きウグイスの くぐもりがちな囀りが聞こえて来る。砂丘の麓には駱駝草の群落が消し炭色に沈んでいた。
「きみは歌を歌ったりはしないのかい?」
「歌うよ。牧人の子は、皆、歌を歌うでしょ?」
彼は私に腰を下ろすよう促し、自身は月明かりの空を見上げ、砂まみれの草の上へ横たわった。私は少年の撓んだ頬を見下ろした。
「僕のところへ来てくれたんだね。僕といっしょにいて?今日1日だけでいいから。」
少年は私のふくらはぎの横に触れていた手を収めて寝返りをうち、その口元も見えなくなった。
「今の子は誰だい?きみのために来て、歌っていたあの子。…誰なんだい?烏達木ではないのかい?」
「あの子の歌を聞きたかったのは、僕ではなく、あなた。それに、烏達木は、僕が産まれた頃に歌っていた子で、今はもうとっくに大人の声になっている。」
…それでは、果たして。
少年は美しい体側を統べて突然起き上がり、黒い光の中に続くオアシスの街外れを見渡した。次に私の腰へ小さな暖かい顔をうずめ、サリム湖の湖水よりも青く澄んだ穏やかな瞳を閉じながら熱い吸気を漏らした。胴に回し、当てがった華奢な腕がいじらしい。男の子はそれからしばらく幼い声を下唇に殺しながら嗚咽し、肩を小刻みに震わせていた。

♪草原を飛ぶ勇猛な鷲に僕はなるよ
 草原の風にも折れない花にもなってみせる
 しっかりと前を向き、進むとき
 いつも僕の横についていてくれる
 空の遠くにいるお母さん
 夢の中のお母さん

 私がその手を掴んで振りほどき、烏達木の面影を追って走り始めると、腹部に残った真摯な感触がまだ消えかけないうちに、牧人少年の震える、しかし気迫の籠った歌声が背後から追いかけてきた。頭を激しく左右に振っていやいやをしながら歌う姿が感じられる他は、先ほどの少年の歌声と涙声であるこの声との違いが全く認識できない。私は睨めつけるその歌声に耳を塞ぎ、振り払い、走り続けようと幾度も試みた。

 ♪草原を飛ぶ勇猛な鷲に僕はなる。
 ♪草原の風にも折れない花にも…

絶唱し続ける幼い声が私の心の深い傷口を決然と開き、痺れるほど突いた。歌声は畑地の水路の端まで追いかけてきて、そもそも私が何を確かめようとしてここまで走ってきたのかを全く判らなくしてしまった。いったい、どの少年があの麗しく無邪気で一途な心の歌々を歌ってきたのかも。

 「僕が眠ってしまったら、お母さんのところへ帰ってあげなきゃだめだよ。…朝になって、夢が覚めて、僕がこっちに戻って、お母さんが一人ぼっちになっていたら、きっととても寂しがるだろうから。それに、時々は妹のところにも行ってあげて。お願いだよ。」
眠りに落ちる間際、私が蒙古人少年の幻の存在を忘れきってしまっていたのと同様に、この少年には私が誰であるのかも前後不覚となっていたようだった。曲の詞に在る通り、彼はただの11歳の男の子になり果てて私の全てに触れ、二人は飽くことなく戯れあい続けた。唯一、少年はもはや歌おうとはしなかった。これまでに聞かせてくれた歌を列挙して、どれか一つでも歌って聞かせてはくれないかとせがむと、彼は静かに穏やかに首を横へ振りつつ微笑んだ。
「賢い鳥はネ、辛くて追い詰められて、病み患った時にこそ、一等美しい声で鳴くものだって、お父さんは教えてくれたよね。だから今、僕は美しい声で歌ってはいけないんだ。」
男の子は言う。自分が今、危機に瀕していることを周囲の猛禽に知らしめるようその通り辛苦に鳴く愚かな鳥は早晩何者かの餌食になってしまうことだろう。
 私たちは冷えて硬く締まったサムサと腸詰を食べた。私が腸詰を差し出すと、少年は「これはお父さんにいつも食べさせてもらっていたんだ。」と嘯き、両手をあてがった。先の方を「辛いんだよね」と言いながらしばらくぺろぺろとすぼんだ口から吸うように舐めとっていたが、やがてばくりと口に含み、強い味にむせて口いっぱいのものを繁吹きながら「ごめんなさい」と謝る。「いいんだよ。お父さんのことを思い出せたかから良かったね?」と問うと、男の子は顔を少しだけしかめつつ微笑んで下唇を舌でなめとりながら1つ肯首した。此岸では長い夕べを通し、夜鳴きウグイスが一羽だけ、美しい気高い清らな声で囀っていた。 翌朝、羊飼いの少年はクンパーラクルムズのオアシスを発った。
次の満月の晩までの日々、私は日がな家のブドウ棚の縁台で紅柳の酒を煽り、日毎砂塵に濁ってゆく秋のクレンザー色の空を眺めて暮らしていた。或る晩、客運ターミナルの付近で商売をし、帰りざまの少姐から、「歌の上手い牧人の小王子は民族国境の邑で羊を追っているって、バスの運ちゃんが言ってたよ。」と聞かされた。私は砂ぼこりをあげ、クラクションを鳴らしながら砂漠を疾駆する公路バスの混み合った寝台に寝かされ会いに行こうという気にはとてもならず、飲み水を持って川の方へ出かけることにした。
 濁った渦をパイ生地のごとく幾重にも押し重ね、音をたてて先へ先へと流れていた広大な鼠色の大河は、最早どこにも見当たらなかった。かつてロバ車の動力に水を飲ませていたムスリム帽の男たちやコルビジェのモジュロールそっくりのポーズで頭頂までずぶ濡になってはしゃいでいた水遊びの少年たちは、地味なドッパをかぶり玉石だらけの水一滴も流れていない川底だった場所をいかにも誠実そうな顔つきでうろつき回っていた。胡散臭いネフライト売りに逆戻りというわけである。塩が吹き始め、フリーズドライの原理でかちかちに固まった畦道には、漢人に近い身分の順位によって人民貯水池からちんけな量の水が配給されていたが、街全体が凍てついて干からびた冬の様相を纏い始めたのは間違いのないことだった。
 最後に私は少年と最後の一夜をともにした、あの白い砂丘群のふもとの川の痕跡にたどりついた。駱駝草は化石化した線香花火の最後の瞬きを思わせて棘を広げ、だらしない風紋のあちらこちらへ群生し、生き残っている。風は地形を乱雑にえぐり、私たちが床をとったその場所でさえ全く見当もつかず判らなくなってしまっていた。あの夜、私たち2人の身体を取り巻いていた生きとし生けるものの力強い生の気配や臭気や熱は、今はもう行く川の流れとともに一切が全て砂漠のつまらない名もなきワジへと吸い込まれて行ったように思える。少年のあの歌が、何に依って生まれ、紡がれ、私たちの心へと届き続けたのか、この光景を見てさえあなたが気づかないとしたら、それはどんなにかうつろで味気のない泡沫の視力であるかと自覚された方がよいのだろう。そして、私があの蒙古人少年の歌う幻影を暫くの間すっかり失念して日々を過ごしたのと同様に、すべての記憶は都合の良い面影だけを大切に成長し続けている。
 牧人の少年が私と共に食したわずかな食べものだけが彼の血肉の微細な記憶となり、声となったに違いない。だが子どもの旺盛な新陳代謝はそれさえも直ちに新しい肉体へと置き換え、押し出してしまったことだろう。私は冬枯れに消耗されつくした大河のそこかしこを漂泊し、綿花畑の畔を躓きながら、抱えて行った農夫山泉の栓をカリカリと捻じ切って開け、出鱈目な場所で好き勝手に容れ物を傾け液体を打ち溢していった。砂地、生気を絶った田畑、もはや喫水線の区切りもない河原、玉石の間、クルミ市とハミ瓜の行商の引いた閑散のバザールの路面…。少年が歌い、薩満に私の体が思わず踊りだそうとした場所と沁み入るような男の子のボーイアルトが市井の生活音や河川の自然の音を凌駕したその場所では、滴下した水が必ずや干からびた土や砂礫や石に吸い込まれ、カラカラ・パチパチと気泡の抜ける乾いた高い音をたてた。それぞれの微かな閑寂のさざめきからは、少年のうなじの匂いや差し入れた脇の僅かな発汗やものを食らう柔和な穏やかな口の運びや嚥下や夏の蒙古高原の空を思わせる美しい両眼やその下瞼に満ちる湖水のような泪の溢流が次々と蘇り、私の感覚器を麻痺させる。

 日暮れて山脈の方位から凍てついた気配とともに空っ風のおろしが吹きわたった。すると、聞き違うことは無い、烏達木か、あの少年の歌声が風切りの音の中に幽かに、しかし次第にはっきりと聞き取れるようになりはじめた。頬を叩く土砂の粒があちらこちらから蒙古語の子音を思わせる少年の「夢の中のお母さん」の歌詞となって私の耳介で渦を作り、地を微かに揺るがすボーラは少年の低い声質の一節を確かに運んできている。大人になってゆくその子どもの体幹から鳴る頼もしい声は、両親を恋うる歌の切れ切れの聖句を成して風圧へと紛れ混み、私の傍から冬枯れのオアシスの町々へと足早に吹き過ぎていった。歌声を発する山際の方角へ砂地の中を一歩、また一歩と数えるようにしてでも進んでゆきたいという衝動に私は畢竟抗しきれなくなってしまう。風塵に沈んだ高い山々を淡く見晴るかす砂丘の稜線に至るたび、私の体は男の子のあの羊毛のように温暖で弾力のあるメリスマの声と凍沙の混じった大量の風をはらみ、鳥のごとく滑空しそうになるのだった。

♪草原を飛ぶ勇猛な鷲に僕はなるよ
 草原の風にも折れない花にもなってみせる

男の子の歌声が吹き付けるその定位の導きに従って、次から次へと現れる砂丘のサインカーヴを越えながら注視する前方には小さな温かい一人の少年の身体はついぞ見えることは無く、ただ、枯れた駱駝草の群落をわずかに点在させた真砂の丘陵が、かなた山脈の中腹までなだらかに登りつつ砂塵の視野の中を続いてゆくだけだった。

"Ablakomba, ablakomba"(邦題「いとしいあの娘はもう他人のもの」):the words in this text are in the public domain.(マジャル民謡 全著作権・翻訳権消滅)

空にむかって

July 23 [Thu], 2015, 22:24
▲寝床の中の少年の寝苦しさと辛鬱を想いながら、この独唱場面は真の夜の音楽として白熱の中にくりひろげられ成立しているのである。合唱は次第次第に融解する砂糖菓子のごとく匂いを放ちながら優美に崩れはじめていた。

 少年たちがコインローファの靴底をジンバブエ ・ブラックのテラス面へこするようにして歩みをすすめると、宵闇は彼らの背後へと寡黙に回り込み、酸化水素のたてる微かな瑞々しい臭気が立ちのぼっては歌声聞く人々の五感を癒すのだった。ステージの周囲がやがて浅い水面に満たされ、伴奏ピアノはバルトーク調の夜の音楽を奏で始める。暗がりになった団員らの鬢に少年独特の薄い体臭が上りたち、彼らは控え目に1度だけ自らの身支度を触りながら確かめた。ダークなパートカラーのネクタイが本来は桃色で香水瓶の肩ほどにつやつやとした齢10歳前後の首筋を柔和に締め上げて、上気した少年らの温かい内臓くさい息を少しずつ解放してやっているかのようだった。右翼後列の浅黒いコーラルピンクの唇をした少年が嗄声一歩手前の声で目立たぬよう、観客の気を引かぬよう小出しに咳払いをしたとき、隊列の四周をめぐる水盤は快い夕べの光をささやかに揺動させた。少年は先ほどまで、眼下に光粒をちりばめたガラスばりの控え室で、夥しい男の子の人いきれに紛れ、一人「ノーノーボーイ」のドラムプレーをさらい続けていたばかりだった。「ノォノ、ノォノ、ボーイ、いってもいいかぃ」…口に出して歌詞を唱えながらリズムをはかり、右手の拳でバスドラム代わりの音圧ヘッドを弾いては、交互にスネアをかましていた。周囲の子どもらは本番用の革靴を周囲に脱ぎ飛ばしてチェスカチェアの座面に足を投げ、膝を折ってぼんやりとその拍子の呼応を聞いていた。彼らは今晩、待機に備えて持参した書物に目を落とすことは無かった。窓外の麓へと広がる夜景を俯瞰する大人らのため室内は減光され、乾いてはいたが柔らかで冷涼な夜の大気で部屋が満たされていたからだった。少年たちは思い思いの方へ視線を投げて物思いに耽っていた。やがて、第2メゾソプラノのパートリーダーが伝令として当夜の声部を統括するこの少年のもとにやってきて、「品川(弟)先輩!ただちに全隊、廊下へ最終スタバイだそうです。」と静かに告げた。団員らは、声を聞いて何も言わず浅く腰かけた席を蹴り、脱ぎ捨てた靴の履き口をふやけた靴下のつま先で引き起こして足を突っ込み始めたが、黒い少年は股の間に載せていた電子打楽器のスイッチボタンをくつとひと押ししてハーマンミラーのプライウッドの天板の上へ引きずるように打ち置いた。「じゃあ、みんな、廊下に並んで。」と濃いボーイアルトの地声で静謐に言い放ち、最後に赤い髪にマロン色のそらまめの瞼をした4年生に扉の方を指し示しながら「歌いに行くよ。」と肩を押さえた。月のごとく白いその顔、だが頬だけは暁の桃色に染めて男の子は1つだけはっきりと肯首した。黒い少年の練餡色の腕がツブ貝のような掌を引いて煌惺少年を立たせ、彼らはアラブの日没ほどの背丈の差で並び立った。
「緊張している?」
「はい。」
「怖いのかい?」
「……」
下級生は「どうだろう?」という首の角度を作って無言。
「オレたちの声が煌惺のココへいつも響くように、柔らかくブレスをしな。息で胸が硬くならないようにして歌えば、ここの内側からオレらが必ずおまえを守るから。」
品川(弟)は、言いながら4年生の胸骨の凹みを軽くノックし、それから腰をかがめてメタル紺の蝶ネクタイの下のいい匂いのするワイシャツのボタンの間へ鮑色の右耳介を押し当てた。コッコッという美しい音だけが穏やかに下級生の胸の中で生の瞬を刻んでいる。ざあざあ、がさがさという雑音や兆しは全く感じられなかった。大丈夫!…今日から俺の声はここの中でしっかりと鳴るんだ。右のかんばせをそこに埋めたまま一度だけすっきりと目を閉じ、それから再び下級生の胸で深く息を吸った。
 人数確認と号令のわずかな延誤に気づいたアオケン少年が、室内に取り残る2人の団員を見つけて声をかけようとし、確信をもって思いとどまった。新入団員の胸に顔を埋めた品川(弟)の肩がダウンライトの琥珀の光に染まっている。穏やかに初めての夜を迎える2人に気付かれぬよう、彼は静かに部屋を出て、終演まで二度と戻らなかった。

 滑るような歩みのあと、少年らが子どもらしい弾みのついた挙動で二脚を次々と正面向きに揃えながら指定位置に止まる。「二つの動作を一度にやってはいけない!」という指揮者の日々の説諭が毎スタンバイ中、必ず男子小学生らの頭をかすめるのだった。合唱団の行動指針では止まってから、右向け右をするべきなのだ。横列されるのは少年たちのボウタイの結ぶ胸と、蝶の羽に押しやられた純白平滑なカラー、合唱団のツイル ・ワッペンのきらめき。プジン色のふとももがメイラード煉乳の微かな香気に紛れ次々と横へ積み重なり、ダークネイビーのハイソックスが漆黒のコインローファに担われて縦のコルゲーションを波打つように並べていた。嬰変本位の記号が夥しく散りばめられた1階の2段譜を経て、やがて変ハと、本位のニとホと嬰ヘがスラーとタイに結ばれピアノ伴奏にどろんと流し置かれた混濁の中、彼らの大小の光るユニゾンの口唇から、
 ♪ねむれない…
ソの音が苛々と積載された。深黒の夕べのための最初の歌声が振り出されたのだった。
 ♪どうしても ねむれない…
煌惺少年は当初、三連符の「どうしても」のshiの音だけに現れる×の記号が無声音を表す符牒であることに気づいていなかった。
「大垣少年合唱団の委嘱作品だ。先生の記憶が正しければ、この曲が作られた年はもう大垣にも女子が入っていた頃だと思う。ただ、君らみたいな小学生男子ばかりのチームでも歌っていた合唱団だから組曲全体にはそれなりの色が付いている場面があると思ってくれ。それから、先生は大垣は共立銀行とカンガルー便しか知らないし、岐阜羽島に行ったことぐらいしか無いんだが、多分関西弁の地域なんだろう。それが証拠に『どうしても』のshiの音をわざわざ無声音で歌うようバツ音符で書かれている。キミたち東京の子どもには余計なオ世話のごく当たり前の発音でしかないんだけどな。さあー、じゃ1回通してみよう。加藤くん、キミもしかしてもう腹ペコなのか?新しい楽譜の端をかじっても腹の足しにはならないゾ。」
指揮者は煌惺少年の方を一度も見ずに練習室の団員達を前に音とり後の最初の曲説明を終えた。
 オキシダンの供給を止めた舞台面には様々な光の粒子が静かに瞬き始めていた。歌う彼らと客席との間にはこうしたものどもの作る冗長な距離があり、品川(弟)は静粛な視線から目前を見下ろし、気持ちの良い夜気を俯瞰していた。ピアノと彼らの歌う動機のラインに次々と浮かび上がる夥しいトリプレットと息詰まるG音の不定愁訴。指揮者と相対した体の角度が右45度の鈍角にあるため、彼の目前には煌惺少年の真新しい菫色のベストの肩口と美しい襟足と細やかなパーライトに照らされたダージリン色の髪のツヤが見えていた。やがて曲は連符を繰り返しながら何の前触れもなく3部の合唱に転じ、ソの音を堅持するメゾソプラノの中では聞きなれた松田リクのなつかしい声質が響いている。それは曲の牽引パートが彼の声部にあることを教えてくれていた。ここで彼らが唯一のソリストを選ぶとしたら、やはりメゾソプラノということになるのだろう。
 ♪ねむれない…
男の子の合唱につきものの瑕疵の一つがテンポの堅持とフレキシブルなアゴーギクであり、少年たちはこの曲を練習場で幾度もさらいながら、指揮者の指示で様々に動くテンポの微妙な遷移にただならぬものを感じ及び腰になり始めていた。
「リピート2回目だから、倍の速さだったよね。アオケン君、どこでアクセルを踏んでスピードを出す?」
ボーイアルトは通団服のミントグリーンの左脇の下を掻いた。彼は今日すでに2曲の新曲をさらってこめかみに玉の汗をかいている。
「先生、それはどこで歌いだすかという意味ですか?」
「いや。アレグロ・モデラートの位置を聞いてるんだよ。」
「先生、楽譜のリピート記号の終わる2小節前に『1回目…アクセル』って英語で書いてあります。」
指揮者はギョッとして簡易譜面台に乗った練習場の楽譜のその位置に目を落とした。…アッチェレランドと略号が振られている。
「アオケンくん、これはイタリア語だ。イタリア語でaccelの意味は…」
男が齢10歳前後の少年たちを前にたびたび感服してしまうのはこういう場面だった。彼は言葉を失い、それから正直に論及を侘びた。
「ごめん。君の言う通りだ。アクセルと書いてあるよ。みんな、判ったかい?リピートで戻って歌い出してからアレグロ・モデラートにしたら手遅れなんだ。また日本三大ボーイアルトのアオケンくんに教えてもらったな。君らは本当になんでもよく知っている。」
だが、少年たちは男の子特有のファジーさから、全く同じ構造を持つ17小節ほどの音楽を最初はモデラートで歌い、2回目はアレグロ・モデラート…とってかえして最後にアンダンティーノで歌うといったような細やかな緩急の手腕には全く長けていなかった。指揮者が考えていたのは、伴奏ピアノにある程度の統帥権発動を認め、少年たちの挙動の成り行きに任せてコトを運んで済ますというお座なりなプランだったのだ。

 正午過ぎにレクチャーホール裏のパブリックエリアで、1回目の非公式ライブパフォーマンスが行われた。曲面壁ガラスの映す屋外を背景に光景は全くというほどではなかったが、なんらかの日本庭園的なたたずまいを通りがかりの鑑賞客たちに感じさせた。「わりばしいっぽん」とラフマニノフの「ヴォカリーズ」、「みかん色の恋」など、数曲をゲリラ的に歌い、メインエンタランスのチケッティングの列でいずこから流れたゆとう彼らの歌声を耳にした入館者たちは三々五々レクチャーホール脇の間隙をすり抜けて声の主(ぬし)たちの姿を確かめにやってきた。幾度も足を運ぶ訪問者ら。ここが私的使用の写真撮影可能エリアであることを既によく知っていて、起動したのかもよくわからない無音カメラの作動を気にしながら携帯電話の小さなボタンをいくつか押しては小さなディスプレイを眺めていた。遮光ガラスのホールの擁壁の端から、誰かがスタルクのLA MARIEを一脚、引きずってやってきて、客たちのアールのついた人垣の傍らへ重そうな腰を降ろした。コンサート終盤の「吉祥三宝」の演奏中、奥田ユーセーが顔面を唇まで茶封筒の色にして、ボウタイの斜め上から内蔵臭い息を吐きながら貧血気味にその場へとしゃがみこんでしまうと、見かねた客がそのスタルクを再び引きずりこちらへとやってきて4年メゾの腕をとり、宙空の椅子のごとくそこへ座らせた。
「薄着だよ。薄着!」
品川(弟)は体側を客席側へ向け、眼前に立ち、不慣れな当惑の背中を見せて歌う煌惺の襟足の辺りへ言葉を飛ばした。口形は記憶通りの歌詞の形にしてカムフラージュしながら身支度を確認するよう見せかけ俯いて。高学年の団員らが時に使うチーティングの手である。当然、声は前方遥かには届かずに済む。楔ガラスのレクチャー室前庭で、水あめ色のラ・マリーに居心地悪そうに座らされていた男の子は、滑落するようにして椅子から降りて崩れ落ち、カナゴテ仕上げの床にお姉さん座りで伏せてしまった。マネジメントスタッフが少年の片脇に筋張った手を挿し込んで抱き上げようとしたところを横から教職員ビジターのストラップをぶる下げた大学生OBが目配せでバトンタッチを買って出てお姫様抱っこで10歳の少年の肢体を引き上げた。人垣の背後から事情を感知していた施設の職員がその前に飛んで出て、救護室の場所を告げている。道案内に付いて彼らはエントランスをまたいだスタッフエリアの方へ奥田ユーセーの体を運んで行った。団員たちは出演中の緊急事態の際も、決して指揮者の上半身から視線を逸らさぬよう厳しく言われてきている。彼らはまさにこの状況で気もそぞろに歌いつつ、目を動かすことはなかった。だた、煌惺少年だけが首ごと一部始終に目を奪われている。上級生アルトから再び隠れた声が飛んでいた。
「見るな!…前!…薄着じゃないとああなるぞ!」
頬骨の辺りをピカピカと光らせ両の目を三日月の形に撓ませて笑みながら前江トーヤがソロをとっていた。唄は「♪グルルン!グルルン!ベートーベン!」と団員たちが戯れ歌うサビの部分にさしかかっている。烏達木も顔負けの勇ましさでアタックの強い鳴りを響かせるモンゴロイド少年の声に、総攻撃の3部合唱が開放弦の馬頭琴のごとくハーモニーをぶつけていた。
薄着に心がけ日常を過ごさないと本番中にぶっ倒れる…と彼らは言説としてではなく繰り返し指導を受けていた。薄着は代謝を促し、血行の管理にも益があるのだと。脇の下と太ももに風を通し、ベストで胴を保温していれば確実に体幹温度は上がる。年ごとに寒暖の激しさを増す世紀末からこのかた、たくさんの男の子を歌わせつつステージ衣装を管理調整する必要から、指導者達が観察と経験と知識共有によって得た信ぴょう性の高い教訓なのである。都内に居を構える男の子のみの合唱団はどこも21世紀末前後に定めた堅牢なジャケットと長パンツのステージユニフォームへ近年殆ど袖を通さなくなり、衣装をベスト(チョッキ)と半ズボンのスタイルへと戻してしまった。この合唱団の少年たちが皆、早咲きのチューリップのごとくみずみずしい背筋と頭を立ち上げて真冬のステージに薄着で居並ぶ光景は「子どもは風の子」の諫言というよりはむしろ、頬を赤らめ一心に歌う少年らの誠実なる気持ちの発露である。
「歌ってると暑くなっちゃうから、仕方ないんだけど。」
品川(弟)はステージ降り際に煌惺少年の右の揉み上げと前髪にぶる下がった汗を見ながらホッとして言った。
「言うの忘れちゃったんだけど、今度からタオルを持ってきた方がいいな。」
新入団員は初めてのステージに臆せずきちんと歌いきったらしい。額の汗を掌の丘で無理やりコメカミになすりつけた。
「アルトのみんなが、冬の雪の日に練習にやってきました。教室に着いてコートを脱ぐと、下に何を着ているんでしょう?三択です。 1…夏の通団服 2…冬の通団服 3…ヌード」
控え室にたどり着くと、上級生はジップロックのポリバッグに入れて持たされたワンピースのタオルを取り出し、「いい湯だな」とばかり頭頂に押し当て話している。
「3番…ヌード?かな?」
「んなワケ無いじゃん!正解は1番の『夏の通団服』でしたー!予科生のお母さんたちは、みんなビックリするケドね。でも、Tシャツとかネルシャツいっちょで冬の間じゅう過ごしてるようなのもいっぱいいるよ。…アルトにアオケンっているじゃん?」
「練習のとき、なんか、いつも、なんか、学校の制服で来てる人のこと?」
「下校が遅くて家に帰って着替える暇がないとか言ってるケド、本当は通団服が暑いから、一年じゅう学校の制服で来てるってウワサだよ。家でも同じ格好のままらしい。単なる無精なんじゃね?と思うんだがネ。でも、あいつもすっごく汗かきなんだ。シンチンタイシャが良いんだろう?『昭和時代の少年みたいに肌がツヤツヤしてて張りがあってキレイ!』ってお母さんたちから言われている。…母ちゃんたちってサー、何ていうかオレらの外見でモノゴトを判断しがちなんだよな。煌惺もソノくちだから、そのうち『キャー』とか言われるんだろうけど。」
「言われません。」
「言われるだろ…きっと。俺はおまえを絶対そんな外見で判断して欲しくないけどね。」
「じゃ、何で判断して欲しいんですか?」
「ココだろ。ココ。」
品川(弟)は4年生のワイシャツの3番目のボタンの窪みに右手中指の第2関節を尖らせてコツコツと当てた。
「…し、心臓?!」
「チゲーよ!」

品川(弟)は目前でユニフォームの背中を陰に落としブレスを継ぐ入団3ヶ月目の新入団員の面差しをそれとなく思い出そうとした。夜の音楽は3回目のリピートで3拍子から4拍子へ戻った途端、デクレッシェンドしつつピアノへと減衰した。伴奏がやや遅れ、メゾフォルテから引きずるようなつなぎのフレーズへと流れてゆく。
前髪を僅かに残した甘栗色のベリーショート。トップに微かな長さが残っている。夜風になびくその髪の下にはブロウパウダーを淡く押したほどの美しいT字の眉。ふたえのまぶたは冷たい夜気に晒されて、ブルーのラメシャドーと見まごう襞を刻んでいる。可愛らしい鼻の横には夜目にもそれとわかる上気した両の頬とサクランボ色の下唇。時折覗くきれいな前歯は濡れて光っていた。
「ねえ、アオケンくん。アオちゃんって合唱団に入った時、最初先輩たちからどんなこと教えたもらった?」
右脚で落ちかけていたロットの青ストッキングを更衣のため後ろに蹴り上げた爪先から引き抜きつつ5年アルトは尋ねた。
「僕は2年生のとき入団して、それから1年間予科にいたんだよ。合唱団のことは予科で先生方に教えてもらったし、先輩からは何も教えて貰わなかった。第一、僕はきみとかユーリ君と一緒に本科に上がったんだから、そんなこと聞いてもキミと同んなじでムダじゃん。何か、3年入団以上とかで飛び級で即・本科に入る子なんだったら先輩とかに教えてもらうんだろうけど…」
「だからさ、そういうときのことを聞いてるの!どんなことを教えらたいいと思う?」
制服の更衣に手慣れたアオケン少年の身支度はすでに終わっている。男の子は本番までまだかなり時間のあるこのタイミングでボウタイのホックをとめてしまってよいものか逡巡している団員の手から優しくそれを引き抜いて純白のカラーで隠れた黒い首の後ろへゴムをまわした。
「そんなの、たくさんありすぎてわからないよ。」
「だから、特別なことなの。ホンバンのステージで間違えても正しいふりをして続けることとか、汗拭きタオルを必ず持ってくるとか、薄着で生活することとか…」
「誰のためにそんなこと聞くの?煌惺くん?」
アオケン少年は既に汗ばんできつくなり始めた相手のワイシャツのうなじに薬指で蝶ネクタイのゴムを押し込み始めたが、暫くそうやって諦めたのか、甲殻の襟を後ろへ跳ね上げて、子ども用コール帯をねじれぬよう一本当てて引いた。
「ウッセーな!誰かなんて関係ねぇだろ!」
動き出そうとした黒い男の子は、アオケンの両手がしっかり首周りを掴んでいるからか、暖かい良い匂いのする息を吹きかけられるままになっている。
「関係大あり!」
「だから、関係ねぇって!誰のためなんてどうでもいいってば!」
「そうじゃないよ。誰のために歌うのかっていうことを教えてあげなきゃいけないってことだよ。キミは誰のために歌っているのさ?お父さん、お母さん、お兄ちゃん?自分のため?」
「まさか!」
「じゃあ、誰のため?」
少年は問答の間にも蝶ネクタイのホックをパチンと止め終わり、足元に転がしておいたエビアンのペットボトルを年季の入った通団バックのポケットへ仕舞いに行った。

 淡いクレマ色のライトに照らされたステージ上に、涼やかで新鮮な夜 の風が静かに吹いていた。ブレスにより火照った少年らの脇と腿を気化熱で冷ましながら、心地良い空気の流れとサテンの吸気が子ども達をきちんと覚醒させている。風にはまだしっかりと水流の匂いがまとわりつき、人々の渇きを確実に癒していた。トリプレットとタイが入れ子で引き摺るような揺りかごの音型をほのめかせ、「ねむる」音楽は佳境に入りつつある。彼らは耳障りなG音とともに、「い」の口形を特に留意するよう繰り返し指導されてきた。口角を横に張って出す「イー」ではなく、「ひ」や「き」の口形と同じ、口を開ける「い」の音を、この曲では保って丁寧に執拗に発せよと少年らは至上命令を受けていた。リフレイン最後の「♪ねむれないーiー」のピアニシモへのでクレッシェンドも、少年たちは訓練で獲得したこの半広母音の「い」で歌っている。タイで繋がった6泊半の減衰のロングトーンをディビジ・ソプラノ以外のすべての声部の子らがカンニングブレス無しで吐き続ける中、オッターバに触れる伴奏が神経質そうに就眠への欲望を掻きむしっている。ミッドナイトブルーに塗りたくられた宵闇を背後に、文字通り青白く浮かび上がった少年たちの月齢7-8程の面立ち。今は深海色に沈んだ菫のベストの上へ太いスラッシュのごとく振られたワイシャツのぼんやりくすんだ白。グレーの腕と体側の左右で握ったゆるい拳。じりじりとルフランごとにテンポを変動させて、それでもけなげに音量を保ち続けた彼らが今、たどりついた「♪ねむれないーiー」のピアニシモ。そのこときれる間際に突然、第一メゾソプラノ最後列の左の角に近いところから、高速自動搬送システムのように、滑り降り、滑り出てきた一人の少年のすらりとした立ち姿があった。大きく振った 腕。影法師のような美しい胸。安寧の表情と少しだけ顎を上げ歩く姿勢。松田リクだった。彼がバミリ無く幾度も下見して覚えたソロの立ち位置にキュッと立ち止まると、ボラ貝のような両の手が微かに左右へと捻れてふれ、ここへ立つまでのわずか5秒間に見せた生臭い少年のハイソックスの交差が月明かりのようなライティングの盆の上で静まった。彼がソロの直前まで待って、オートメーション機器のごとく滑り出て立つのは指導者のたってのリクエストの一つだった。彼は周囲の団員たち(特に松田の前に立っている1メゾの下級生団員たち)の協力を得てこの高速スタンバイをレッスン場で4回練習し、5回目に会得し、今日のリハーサルでも実地におこなって遂行可能なことを確かめた。柱時計の時打ちの音を模した伴奏ピアノの不協和音が、ソロ出しの符丁にボンと1つ鳴る。松田少年はこれをスタンバイ姿勢のまま余裕を持ち、一息ついて聞けるほどになっていた。
 ♪ねむれないけど ねむりたい
どういうわけかソロの歌い出しもG音のトリプレットだった。高音 ・低音ともに振幅の浅い、波長の短い少年らしいビブラートが出せ、やや金属的で優等生然とした味があり、何よりも極めてドライに表情がかけられる男の子…という条件で安定出力の上級生の中から松田リクはただ一人選ばれてここに立っている。だが、背後には煌惺少年のような新入団員の例外を除き一人一人、みっちりと自分の楽譜と発声と姿勢と表情を叩き込まれ、自分のものとした少年たちがずらりと肩を並べ、客席にはそれとわからぬ巧みなカスケードを作りながら執拗にソの音で「♪Mーーー」とハミングを繰り出し続けている。戦っているのはあくまでも個人個人。これが指揮者のタクトの下に同調し、結果的に合唱として響き続けているという印象を受ける。ソロの始まる1秒前、合唱はド♭/ミ♭/ソ/ シ/レの叩き上げの不協和音をガナっている。だが、続く独唱の開始が苦しいほど甘い夜歌のコーラスの端緒になろうとは、この段階で観客の誰も気がついていない。そうしてソロの続く10小節…時間にして40秒間、彼らは上限のピアニシモを見守りつつ、寝息のようなポコクレッシェンド・デクレッシェンドを静かに交替させながら高音圧ではっきりと歌っていた。鼓動のような伴奏の左手、窓外の雨だれを思わせる右手。ソロの子守唄を押し出しながら決して手加減をしない。寝床の中の少年の寝苦しさと辛鬱を想いながら、この独唱場面は真の夜の音楽として白熱の中にくりひろげられ成立しているのである。合唱は次第次第に融解する砂糖菓子のごとく匂いを放ちながら優美に崩れはじめていた。

 煌惺の胴がかすかに萌えるように美しく震えている。メランコリックなソロ冒頭の4小節。重苦しい重厚な古時計のときの音だった伴奏の左手はメロウな諧調を帯びたものに転じ始めた。独唱はブレスをともなってポン!と変ホの音に跳躍し、ワイングラスを叩いて出したような薄く鈍く共鳴する高音のメゾによって永く息をもつけぬとりかえしのつかない美しい少年の子守唄が歌い続けられていく。ピアノは甘い混濁の度合いを増し、気がつくと彼は歌いつつ微笑みはじめているのだった!!舞台上に決して笑みの歯を見せない日本の少年合唱団の小学生男子たち。歌の仕上がる何日も前から、彼らは「こんな『現代音楽』の怖い歌なのに、途中からニヤッとするなんて、キモワルい!」と指揮者の表情付けの指導に抗って歌っていた。
「眠れないまま何時間も布団の中でもがき苦しんだ末の真夜中、突然眠気が襲ってきてキミらは素晴らしい夢の世界へすとんと引き込まれていくんだぞ。ご当地ラーメンや台湾かき氷やゴージャスなハワイアン・パンケーキがわんさかテーブルに乗っかって『わたしを食べて!』と誘うビューティフル ・ドリームへの道をたどる五十嵐少年はベッドの上でいったいどんな表情をすると思うかね?怒ったり泣いたりということは決してありえ無いと先生は思うんだがな…」
「先生!オレたち全員、揃いも揃ってイガちゃんチックな喰い物の夢ばっか見てるメタボ男子と思ってるんじゃないでしょうね?まったくもう、最近の少年合唱団指揮者ときたら!」
彼らは抵抗しつつもソロの始まった瞬間から、それまできつく結んでいた表情をわずかに解いて、少なくとも訓練通り口角を上げて脱力のままハミングを切り直した。ただ、ソロをとる松田少年だけが高い変ホの音を掴む刹那、ついに頭声に微笑みを持て一瞬薄眼がちになり鳴きはじめたのだった。それはまるで甘美な夜の音楽がC-mollの属音の中へたどるオーガズム寸前の夢路のような快楽のひとときだった。
 すると歌う少年たちの頭上、深いコバルトの天空にはスクラッチ画の釘痕のごとく、客席後方を目指し細く短い光跡が一つ、また一つと不規則に描かれ始めた。厳密な一定方向とは言えない。光の筋は時を置いて交錯することもあったし、平行を描くこともまた無かったが、明らかに歌う子たちの頭上付近に出現し、歌声を送る方角に飛んではふっと消滅するのだった。街の明かりは冷涼に白く微細で、この場所までは登ってこなかったし、月明かりの無い水盤のステージの上、照明はやがて極端に減衰されており、正面に光を浴びる合唱団員らの眼にも天空の光跡は明らかだった。
 小学5年の黒いかっしりとした少年の頭の中にあったのは「恒星」というボキャブラリーだった。恒星は自ら光かがやきを発する美麗な気体の天体であり、大気分子からプラズマを得て光る「流星」とはまるで違う。散りゆく星々の道筋を見て「恒星」という言葉を思い浮かべたのは品川(弟)本人にも唐突で意外だった。団員たちは本番中体調不良でドロップする仲間さえ注視せぬよう習慣づけられ訓練されていた視野の上端で、この夥しい流星群の飛翔を睨みつつ歌い続けた。観客の回す動画撮影のレンズは少年たちのずらりと並んだカメオから群流星の現れる天頂へと振られ、人々はこの夜のコンサートのメインイベントをVP8やMPEGに収めて満ち足りた。

 こうして伴奏は低音記号に落ち、ソ・ド・ファのアルペジオが1回だけ鳴る。すると、実った音楽がやがて熟れて苦みを帯びるように伴奏は陰り、想到の果て、少年たちはソロと声部とおしなべてハ短調のソへ帰結して声を伸ばしている。…空にむかって。目前の煌惺少年の肩はさらに数を増した流星群の去来へと仰角をなし、光跡をひたすら追おうとする誘引に抗しきれていなかった。「この子はこれから誰のために歌うのだろう?」と品川(弟)はハミングを胸郭へ落とし響かせつつ黒糖色の両の蝶形骨で考えた。…両親、家族、おじいちゃん、おばちゃん、学校の友達。「煌惺もまた、合唱団の皆のために歌う一人になるのだろうか?」…だが、新入団員は今は未だ俺のことしか知らないに違いない。ソリストは寝付けぬ床の中でまんじりともせず天井を凝視した少年さながらに、品川(弟)らアルトが濁度の高い5拍間を歌った次の縦線きっかりにふいと踵を返し隊列に消える。スタンバイの瞬間そのままに、団員らの暗い肩の稜線へ吸引されてゆく松田リクの挙動は数秒間にも満たなかった。曲はこの後、とろけそうな夢への誘いと寝床の上へのしかかる不眠の予感とが一定の周期を置いて交替し、やがて就眠の時を迎える。伴奏ピアノはさかんにペダルを踏んでダンパーを抜き差しし、合唱団の子どもたちは前触れもなく間歇の中から突如立ち上がってくる(ソロ部分より短い)この曲のクライマックスへの準備のため、ブレスと気持ちを急速充填していった。「誰に対し、誰のために歌っているのだろう?」と少年らは練習場で様々な場面に際し度々尋ねられた。最初、彼らは歌詞をめぐる発問の意図がよくわからなかった。「誰のためでもありません。だって、一人で寝ていて眠れないだけなんだから。」と奥田ユーセーは指揮者に対し答えていた。だが、練習が進みこの部分で「♪眠ろぉ…眠ろぉ…」というまどろみの歌詞に表情付けをする段階に至って、再三再四繰り出された同じ質問に4年生以上の少年たちが次々と腑に落ちたとばかり正答を返し始めた。「ほら、ユーセーくん!キミのために歌っているんだよ!この曲は。素晴らしい、夢のような時間がキミにも訪れるっていうワケだ。」「先生、なんかイガちゃんみたくユーセー君もハワイアン・パンケーキ100枚以上食べる夢だと思いますヨ?」「やっべぇー!わっはっは」…指揮者は「誰のためでもない」と意固地に言い切っていた少年をおちょくり、周囲の団員たちはかつて自分らもそう言っていたことすら忘れ、愉快そうに言い放った。

 誰の歌ういずれの音楽の夕べにも明らかな終演のときは訪れる。流星群の宵は未だ明けには程遠い。とはいえ、少年たちはファサードへと向き直り、指揮者の引接の身振りを符丁に精悍なショートヘアの頭を垂れた。ワイシャツのうなじに渡った白い帯が蛍光剤の染みた円環のように揃って下方へと滑り、人々はぼんやりとした夜のしじまの中で拍手をし続けた。団員らは、首を折り真下を向いて挨拶しないよう、繰り返し指導を受けていた。だが、品川(弟)は臀部を突き出し、背なを張って、顔面だけはきちんと自分の目前1メートルの位置に向けてお辞儀をしつつ、今日だけは両の瞳で自身の下半身を注視して体の動きを止めた。合唱団では2つのことを一度になしてはいけないのである。先週金曜日放課後、校庭開放のクレー走路へスライディングし、落ちていた岩石園の残骸で作った左膝の挫傷がカーテンコールで立ち上がったフットライトに照らし出され、かさぶたを濃い善哉色に見せている。引力方向へ伸びる紺リブのハイソックスの2脚。ストラップの穴が{}の形に沈んだ上級生団員っぽいマットなコインローファー。だが、流星の気配だけは感じても、ステージになったジンバブエ ・ブラックのテラス面は、磨いた黒ガラスのように底深く光を引き込んで、もはや何も投影していなかった。目の奥で眼前右端に立ち、やはり一礼しているはずの煌惺少年の姿を彼は引き続き思い描き脳裏へ投影しようとした。燃えるように美しく凛々しい後輩の姿がすぐに想起されたが、もはや彼に「この子に何を教えるべきか」という問いかけは浮かんでこなかった。

Another Girl アナザー・ガール

May 15 [Fri], 2015, 0:57
▲ 団員らが揃って疑問を抱いていたのは、前奏無しの曲を何故2つ続けて歌うのかということと、「他の娘ができたんだ」という歌詞を執拗に繰り返す「Another Girl」という曲が何故こんなにも陽気でハッピーでポップなのか…という点の2つだった。

 少年たちがリハーサルのためにシモ手袖から舞台へ流し込まれたとき、タイトな燕尾の男がピーコック・クラウンに黒レースのレオタード・ダンサーたちを引き連れて、軽快なスウィングジャズのハイテンポなピアノ伴奏に乗せタップを踏んでいるところだった。

♪最早邪魔する者は、二人の目に入らない
 この世で一番好きなのは、
 ただすてきなダンスwith you

先頭アルトの上級生たち…モリマ・ユーリはその光景を見るなりシャツの襟に食われた左の蝶タイを直そうと楽屋から付き添ってきた中学生OBの追跡を振り払い、タップダンスの真似事でその場の床地面をカタカタと踏みしだいた。品川(弟)はもう十分に押しているリハーサルに一瞥をあたえつつ兄に持たされたウェーブ・ドラムのバッテリー電源を中指でさくりと押し、音楽に合わせスネア/キックのプログラムを呼び出して叩きはじめる。アオケン少年は地声に近いボーイアルトを絞り、思わず歌い出した。

♪ただダンスwith you
 一番好きなのは、
 きみと共にダンスすること、
 後は何も無い、今

ピアノは軽快なリズムを繰り出している。網タイツの女たちが体幹を左45度に振って少年たちの方へステップを踏むと、尻に開いた背負子の黒いフェザーがふわりと移動を停止した。予行演習であることと、ダンスチームの実年齢によることと、ダンスはあまりユニティが保たれていない。それでもセンターの男は彼の右側の女へにこやかに目配せをしてステップバックしはじめた。背後にはもう何年間も新しくなっていない甲虫類の書き割り。ダンシングチームは左足を軸に右の脚部を90度開いたコンパスのごとく回し、カエルのような肢が背中を向いた場所でいったん地に触れてかちりと音をたてた。カイナはフィンガークラップをちゃらちゃらと撒き散らして振れている。汗と汚れで剥がれかけた絆創膏を品川(弟)の頬から引きちぎった制服姿の中学生OBがまた一人、合唱団の隊列から離れ、指先のものを丸めて楽屋通路のグレーのゴミ箱へ捨てに行った。

♪最早邪魔する者は、二人の目に入らない
 この世で一番好きなのは、
 ただすてきなダンスwith you

タップチームはジョン・レノンの揶揄通り、胸元のモノをジャラジャラ言わせながらクロスした足をたわめている。ハンドクラップの両腕を開き、胸を振っている。ラジオ体操第2の「胸を反らす運動」よろしく両腕を広げて後ろを向き、彼女らが最初のポジションへステップを踏返すと、レオタの大きく開いた背中とネットタイツの後ろに走る黒いシームがあらわになった。終始にこやかに踊ってきたため、ステージエプロンすれすれで待ちぼうけをくらっている男の子たちも紅顔に表情を崩してそれを眺めている。ピアノ伴奏がボサノバ調から終止を叩けば、ダンサーらが身を返し、女という字の形に脚を統べてキメのポーズをとった。両腕はやや広げて…だが、「前へならへ」の形をしてポージング中のセンターの男に対し、手の甲を見せている女、掌を見せる者、グーを握っている者、ストップ!とばかり手を開く女…と、ここでもまるで統一感に欠ける。
「先生、押してます。早いところ歌っちゃいましょう!」
ソプラノ6年のパートリーダーが指揮者の横でアディダスフレームのメガネを光らせながら進言する。と、指揮者はまだ座面の温かいステージグランドの椅子に滑り込んだピアニストへ「音くれ!」のサインを送り様、子どもたちを山台に押し込みながら「ワン・ツー!はい!」と声をかけて、突然歌を立ち上げさせた。少年らのスタンバイに交差しながら撤収してゆくタップ・チームの女たちが汗をぬぐいつつ、上気と疲労の表情に戻っている。
 イントロ無し、ソロのリード無し。アルト団員の持っているウェーブドラムは次の「恋のアドバイス」で叩くためのもので、ここでは用いない。「♪For I have got…」の歌詞でいきなり切り出し、「♪…another girl」とレ・ファ#・ラ・ドのセブンスの四部合唱へ散開する。地域のケーブルテレビがこのチャリティーをCSRでオンエアするため、型落ちの無骨なカメラを会場へ入れている。カラー・コントラストの抑制された液晶モニターの画面に、センター上段でブレスをコントロールしながら次の歌い出しを待っている松田リクと、その右下でニコニコと2ビートのリズムを拾っている中井宗太郎が、指揮者の黒い背中とともに映し出されている。カメラの上面には養生テープを貼った上から几帳面な筆致で「2」と黒マジックの番号が振られていた。少年たちはゴスペルでしか歌わないこのリズムを身体で巧みに刻みながら、心の軸を上下に振り続けている。日本人小学生の体におよそ馴染みのない不用意な拍打ちだが、彼らは数年の歌唱経験からそれでも歌を明るく楽しげに繰り広げているのだ。カメラがカミ手側のドリーに切り替わると、手前で顎を上げて注意されることもなく咽頭を閉めて歌っている前江トーヤのカメオが映し出される。彼は指揮者に向けて「先生!ヤリましたね!」と不意を突くリハーサルの開始にニヤリと悪戯っ子そうな笑みを送っているのだ。だが、カメラマンは計ったように5秒間で同じ方向を抜きながらピントを背後の松田リクの方へ移してしまう。本番のオンエアで、このキッチュなカメラワークは援用されているのかはなはだ疑わしい。彼らの背後を、白いファーのエレガントな衣装を身につけた新たなダンシングチームがロココ美人のごとくコルセットに締め上げられたウエストを立て上げてモニター画面の中をシモ手へと引き上げて行った。
 品川(弟)は足手まといになり始めた電子パーカッションを足元に転がしておき、グレイッシュブルーのボーダーが入ったナイキのスニーカーソックスの右くるぶしでリムに触れ、存在を確かめた。この少年も、手前で起きている指揮者とメゾソプラノとの目配せを見て笑っている。その他のたいていの子は客席シモ手に現れた舞台監督らしい男の挙動に歌いながら目が行っている。アオケン少年はそれから足元を見て自らの衣装の着付けを確かめ、右方の松田リクへ視線を向けて何かの合図を送ってブレスした。曲がGセブンス>CのルフランからEセブン>Aと、教会音楽のような挙動の見せ場へと差しかかったからだ。明らかな長調と跳ねるような2ビートのリズム。少年たちは一見楽しげにウキウキとグルーブに歌っている。それなのに、曲はしばしばブルースの語法を繰って翳り、コードはストイックで真摯な音を聴かせる。すると前触れもなく、隊列右翼最下段の中井宗太郎が、突然表情を曇らせて歌うのを止め指揮者の傍へ進み出てきた。
「…先生。……。」
明らかに言い淀んでいる。
「なんだ?トイレか?さっき行っとかなかったのか?」
指揮者はメゾの子たちのシンコペーションのノリの良すぎるのを気にしながら、タクトを持つ方の手の腕の上から4年生に声をかけた。
「…いえ。MC原稿、とってきていいですか?」
「覚えてないのか?30分後には本番なんだぞ。大丈夫か?」
男の子は改めて指揮者の体側に平行し姿勢を正した。
「大丈夫です。…でも…。」
中井宗太郎のMCの文言は「I dig a pygmy by Charles Haughtry and the deaf aids!Phase one, in which Doris gets her oats!」だった。クイーンズイングリッシュらしいのだが、英検4級の彼にとって厄介で高すぎるハードルという内容の仕事とは言えないだろう。
「お守りみたいなものか?無くても言えるが、無かったら不安…。先生も気持ちがよくわかる。」
中井少年は、その言葉を裁許の意思表示ととった。男の子はまず指揮者の体の前を迂回しようとしてステージをホリゾント側に見て、ぎょっとして足を止めた。
「最後列メゾ!もう一歩後ろ!前に出すぎてるだろう?もっと後ろに下がれ!」
目前の男は二分の二拍子を振りながら怒鳴っている。中井自身への指示はすでに終わったことになっているらしい。怒鳴られた団員たちは抑えられたホリゾンライトの中へ吸い込まれるかのように歌いながら恐る恐る後ずさりしていく。目を見開いて怯懦する少年の目から彼らの中途半端に更衣したユニフォームと鼻から下の図像は既にメゾソプラノの人垣に隠れて見えなくなっていたが、頭の先だけはそこに浮いていた。「あっ!危ない!」と彼は叫びかけて思いとどまった。メゾソプラノにはとりわけ背の高い、変声途上の団員が縦にも横にも伸長し何人も残っている。4年生には恐れ多くて口をきくのも怖い大きな先輩方ばかりだが、下級生を友達の一人や戦友として扱い接してくれる6年生たちも、5-6年生団員と差別なく公平に一人の団員として扱ってくれる人もいる。だが、彼らはそこで一斉に空中浮遊をしたまま歌い続けていた。

 モリマ・ユーリはこの曲の冒頭の音から全く声が出ていない。最初は四分音符の上のEで、次がDで、次が上のドだ。ごまかしながら歌っているつもりだが、嗄声に似た途切れがちの声で、これは「合唱」に与する響きに近づいているとは言えない。昨年まで経験もしなかった出来事だが、周囲で声を重ねている低音の下級生団員たちが急に自分の方を見て何かを確かめようとすることが多くなった。2分間ほどの曲である。そのうち自分はどのくらいの時間、合唱に参加しているというのだろうか?リハーサルの曲はスイートな音色のリードギター・ソロを移植した後奏ピアノを引きずって次のナンバーへと進み、タイムアップで先生方の協議の開始と相成った。
「先生…新町くん、どうなさいますか?」
少年たちは小声でなにやら雑談を始めていたが、最初誰もその頓着に留意していなかった。新町少年のポジションチェンジは公演のたび日常茶飯の出来事なので、指名された本人と入れ替わりを命じられた団員の2人だけがもったりと立ち位置を交換しはじめた。
「またですか?」
「だって新ちゃんの次に背が高くて同じ学年なの、今日はあなただけじゃない?」
新しいマネージャーさんは試用期間を終えていて子どもらへの物言いに遠慮が無い。「新ちゃんの次に背が高くて同じ学年」と目をつけられた少年の身長は新町くんの肩のあたりにも届いていなかった。さすがに彼は抗った。
「だったら、最初から新坊の場所を前にしときゃいいじゃないですか?ソプラノだからって馬鹿でかい3年生のボンクラがわざわざ後ろの列で歌ってる必要なんか無いワケだし。出演のたんびに実力と身長を見られて場所交換させられる者の身にもなってくださいよ!」
「馬鹿でかい3年生のボンクラ」と揶揄された団員は真っ赤な唇をした星の王子さまの成れの果てという風貌の絶世の美少年タイプ。いつもなぶられる愚弄なのか、彼は表情ひとつ変えず、指示された下段のポジションへ収まった。
「どうせオレたちとか、新公の影で客席から顔が見えなくてもどうでもイイんでしょうけど…。コイツの顔めあてに来るモノ好きなお客さんたちが喜びゃ、先生方もさぞかしご満悦ってもんでしょ?はいはい。」
視界を遮断する大柄な3年生の左肩の影から半身を覗かせて、男の子は口角泡を飛ばして意見した。
「新町くんって、もう6年生と同じ身長なんですよ。あと半年したら声変わりするかもしれない。あなたの声変わりは何年後のことなの?このぐらいちょっと我慢しなさいよ。」
「だって、声変わりなんかしてなくったって、コイツの歌声なんかもともと全然聞こえてないでしょ?ズータイが大きいからトコロテンで本科に上進してきてるだけじゃないですか。バカ新なんか、早く声変わりして居なくなっちゃえばいいんだよ!まったく!新撃の巨人野郎!」
主任指揮者が、舞台関係で次々と持ちかけられる決裁事項に応じて忙殺されているため、この悶着は最後までモリマ・ユーリのいるアルト最右翼までハッキリと聞こえてきていた。「声変わりして居なくなっちゃえばいいんだよ!」と毒づいている下級生の一言が彼の心を捉える。…声変わりすれば、もしや卒団できたりするのだろうか?

 中井宗太郎はシモ手袖への退避際、こっそりと列を離れ、ひな壇の最上段裏側の見えるホリゾンへ入り込もうとした。ステージグランドの横から入ろうとすると、そこにはまだピアニストが頑張っていてどこかへちょろちょろ行ってしまおうとする本科初年生たちを看視している。仕方なく彼は下級生の尻を叩くようにして撤収を始めていたモリマ・ユーリに目配せを送りながらアルト側から山台の裏を眺めに行った。一見して、そこには特殊な機構も建て込みも見当たらない。5-6年生の男の子が二歩下がれば、そこから容易に足を踏み外す見慣れた小ホールの普通のコーラルライザーのひな壇だった。彼がそれをしかと見届けてエプロン側に戻ると、そこではまだモリマ・ユーリが低学年の団員たちを「ほら!ほら!わかった。わかったから…!」と急かしながら「羊たちを寝ぐらに戻す牧童」のごとく最後尾に立って歩み出そうとしていた。羊飼いと違うのは、群れを追う杖のようなものを持っていないことぐらいだろう。他のアルトの団員たちは、面倒な下級生の世話を彼に任せて、早々に楽屋の方へ戻っていってしまった後。ユーリ少年が先ほどのアイコンタクトの意味を確かめようと口を開きかけている。
「ねえ…メゾの先輩たちが空中浮遊をするってこと、あると思いますか?」
4年生は真剣な面持ちで自分から問いをもちかけた。

 団員らが揃って疑問を抱いていたのは、前奏無しの曲を何故2つ続けて歌うのかということと、「他の娘ができたんだ」という歌詞を執拗に繰り返す「Another Girl」という曲が何故こんなにも陽気でハッピーでポップなのか…という点の2つだった。最初の疑問は、団員の中にいるビートルマニア一家の長男坊が簡単に答えを出した。
「あの…このアルバムって、UK盤の『HELP!』っていうのと、あ、これ日本で発売されたときには『4人はアイドル』っていうぴゃーっていうか、ナウなヤングのためのダサい名前がつけられちゃってて、いずれにせよブラックディスクのLP33回転で、…もちろんアメリカではキャピトル盤で独自編集の『ヘルプ(四人はアイドル)』ってのが出てるワケなんだけど、今回その話は横に置いといて、UK盤の方ね、パーロフォンの、これの中にこの2曲はこの順番で続けてでてくるってわけなんですよ。で、前奏の無い曲が2曲並んでカッティングされてんのは、多分偶然なんですわ。だって、映画の中で…このアルバムってサウンドトラックアルバムなんですよぉ、実は。それで、この2曲は全然違う場面で演奏されている。アナザーガールはナッソー・シーンで映画の後の方に出てくるし、恋のアドバイスはリンゴがスタジオに開いた穴から下の階に落っこちちゃうっていう前の方のシーンだから、もともと出てくる順番も逆だし、繋がってない。ちなみにキャピトル版ではですね、アナザーガールはB面の冒頭に…」
この少年の家族のつてで、合唱団はここ数年、応援農家のご厚意から出演料代わりの袋いっぱいのサイズ色々、訳ありB級リンゴの現物支給があるだけのこのチャリティーコンサートで歌ってきている。ビートルズナンバーだけという条件がある全くのボランティア出演だが、B級品とはいえお礼の 品の味と歯ごたえと甘酸っぱい匂いは格別で、保護者たちの人気も絶大だった。
「どうして『他の娘ができたんだ』って曲なのに、陽気でハッピーなのかって?…そりゃ、ポールにリードギター持たせりゃどんな曲もウネウネっとしてチョーキング<弦が自由に伸ビマス、伸ビマス!>状態っていうんですか?いや、結論から言うと同じ人だから変わんないってコトが言いたいんだけど、この曲と『涙の乗車券』とか、もうポールのくにゃくにゃリードギターのドクダンジョーっていう感じで…」
周囲の少年たちは2分間ほど彼に喋らせてみたのだが、この曲の「別れ話の陽気さ」が一体どこから来るものなのか、ついに分からずじまいだった。

 モリマ・ユーリは撤収を阻んでいたアルト所属の3-4年生を引き連れて、先程から客席シモ手側中程にかけて歌を聞いている親子に話をしに行った。ワッペンにフィッシャータイガーをあしらった風変わりな紺ベストを着て、きっちり折り目の入ったフォーマルハーフパンツを履いている。襟から覗くネクタイ付きボタンダウンシャツの印象が可愛いのだが、それは中学年の子にしては彼が少しだけ小柄だからなのかもしれない。
「綺麗な声で歌えてた?どうだった?」
ユーリ少年が問うと、入団希望の男の子は「綺麗だった。」としっかりした地声で答えた。ほんの僅か嗄声を感じさせる甘い音色が混じる。
「何で聞いたかって言うと、上で歌ってると、自分たちの声がわかんなくなるの。どうしてだと思う?」
少年は正直にカブリを振った。
「他の子の声が自分の体で鳴るからなんだって。…自分の声じゃないから、そっりゃワカンないでしょ?だから。」
4年アルトが教えられた通りに言った。
「コーセー君の声がこれからアルトのみんなの体で鳴るといいな…。モリマ先輩、そう思わない?」
「アルト…って、わかる?右側にいる僕たちのことなの。」
周囲の子らが男の子に問う。彼は小さく何度か頷いた。真っ赤な頬に唇。チョコレート色のショートヘア。古い講談社絵本の外国童話の挿絵に出てくる美カワイイ少年の3D版といった風貌だった。ここへ来る前にアンパンマン少年合唱団の門を叩いていたのなら十中八九、イケメン・美声以外は決して配属されないという噂の「アルト」送りが決まっていたに違いない。
「コーセー君って、アルトかもしれないって、先生が言ってたよ。低い方の声を歌うんだけど、いい?僕たち、たぶんコーセー君といっしょに歌うんじゃないかなーと思う。」
彼らは口々に言って入団の勧誘をした。彼らはそのために指揮者から言われ、実は「入団後周囲で歌う団員の値踏み」を保護者にしてもらうためここへ送り込まれたことを知らない。
「ねぇ、コーくん…ちょっと質問してもイイかなぁ?あのね…さっき歌ってたアナザーガールって、『他の娘ができたんだ』って曲なのね。でも、何で陽気でハッピーなんだと思う?僕たち誰もわかんないんだよー!」
3年生が3年生らしく唐突に脳裏へひらめいた通りのことを口に出して尋ねた。モリマ・ユーリが質問者を思いっきり睥睨し、一行をなるべく早く合唱団控え室へ押し戻したいと念じた。
「うーん…アルトのみんながみんなの体で鳴らしたらわかるのかもしれないですね。」
男の子の返答に皆が頓悟して目を剥いた。
「煌惺くん!知らないのに、そんな良い加減なこと言わないほうがいいんじゃないかな!?ごめんね、みなさん。」
煌惺ママがぴしゃりと注意を与えた。バニラクリーム色のカラーレス・ツイードスーツから、ゆるゆるとトヴァが香っている。
「でも、お母さん、合唱団の誰も一回も『グッバイ』って歌ってなかったよ。これはホントのことでしょ?」
煌惺少年の下級生らしい素敵な声が自分の体の中でふわりと鳴ったとき、それが果たしてどんな瞬間をもたらすのだろうとモリマ・ユーリは右脳の裏側で考えた。

 ミッション系私立の小学校へ通う者は東京の少年合唱団の中には何人もいる。アオケン少年はモリマ・ユーリに春休みの自由研究で調べた「ガリラヤ湖北部集落の位置関係」論をたれているところだった。
「ベッ・ツァイダという場所もカファナウムという地域もゲネサレトというところも現存している。5千人にパンと魚を配った場所はベッ・ツァイダの丘だということもだいたいわかっている。ジョンは『夕方にそこから下りてガリラヤ湖に行き、カファナウムに船で渡り始めた』と書いている。絶対に…ゼッタイに腑に落ちないんだ。調べたら、2つの場所は「向こう岸」にあたる場所じゃないことがわかった。岸沿いに、湖岸沿いに西に3キロぐらい漕いだら着く場所でしかない。マークとかは着いた場所がゲネサレト(現テル・キンナロト)だと書いているけれど、それでもカファナウムの先で距離は6キロあるかないか。でもお弟子さんたちは船で行き、案の定大風が吹いてガリラヤ湖の真ん中まで流された…みたいなことをマークは書いている。岸沿いに戻ってきたのは多分夜の4時頃みたい。戻って来たことはその後の文でわかる。そうして時間を食って漕ぎ悩んでいるお弟子さんたちの船をイエス様は見た。どこからか?…そこでモリマ君に質問!遅れてベッ・ツァイダを出発したイエス様がもしキミだったとしたら、どうやって湖岸沿いの隣の地域に行こうとする?」
数検6級のモリマ少年は即答した。
「隣村なんだから陸を行くでしょ?直線距離ってヤツだよ。」
「わざわざ船で行こうとしたんだよ?何かわからないけど、問題があったから船にしたんじゃないの?山があるとか、道が悪いとか、山賊が出るとか…」
「じゃあ、飛行機で行くとかはどう?」
「西暦30年ごろのパレスチナには飛行機もLCCも無いよ。」
「わかった!イエス様は湖を歩いて渡ったんじゃないでしょ?!渡る必要が無いんだからさ!岸辺をバシャバシャかチャプチャプがベショベショ歩いて船に追いついたんだよネ!」
「そう考えるのが普通だと思わない?!追いついたイエス様を見て、最初『幽霊だと思ってお弟子さんたちは叫び声をあげた』ってマークは書いている。当たり前だよね、ウシミツドキに湖の岸を誰かが一人でビチャビチャ歩いているなんて…こ、怖ぁー!だから『私だ!恐れることはない』とイエス様は言った…って、聖書に書いてある。」
「真っ暗な夜明け前の岸辺から、船の中で疲労困憊しているお弟子さんたちに『恐れちゃだめだ!私はここにいる』って声をかけてやるイエス様って…!僕、イエス様がまたモーレツに好きになっちゃった!」
「『それで彼らは彼を舟の中に迎えようとした。すぐに舟は彼らが向かっていた土地に着いた。』と書いたのはジョンなの。すっごくドーリにかなっているでしょ?ありそうなことでしょ?」
「じゃぁサ、奇跡でも教えでも無い『ありそうなこと』の話が何で聖書に載ってるの?」
アオケン少年は少しだけ本番用に着付けた蝶ネクタイのきつさが気になったのか首筋に右薬指を入れて左右に掻いた。
「そりゃあ、『冷静に常識や道理をふまえて物事を考えないとビックリしちゃったりするからイケマセンよ』…ってコトじゃないの?」
「えー?!それって学校のお礼拝の時間に聞いた『水上歩行』の教えと全然違ってるよー!…ところで、アオケンくんの言ってる『ジョン』って、いったい誰?」

 パートカラーの蝶ネクタイをぱっちりしめてホール3階の「休憩室」という札のかかった12畳の和室に男の子たちは押し込められ、本を読んでいた。スタンバイまでの時間はあと25分ほど。例によって前に出演するグループの押し引きの具合でそのタイミングは大きく変わってくる。少年合唱団のような「その他大勢」の子どもの演者の宿命なのだった。通団バックを枕代わりに寝転んでジュニア新書を広げている上級生もいれば、近年進出芳しい電子書籍を眺めている団員も出現しはじめた。「読書」という行動に指定があるのは、彼らの「ゆとり世代」ど真ん中の先輩たちが、本番前の息抜きの休憩時間に礫川公園や都の戦没者霊苑やパルテノン多摩の煌めきの池にダイビングしたり水没したりした前科が多々あるからだった。右親指に穴の空いた紺ハイソックスの白茶けた足裏をこちらへ向けて伸ばし品川(弟)がアリスン・マギーの「ちいさなあなたへ」をぼんやりと繰りながら大きなあくびをはじめた。学校で注意されているのだろうか、彼は水色の表紙をこちらに向けたまま本で口を覆った。チョコプリン色の撓んだ頬が濡れたオペラ・カラーの唇の端を引っ張って背表紙の上へ覗かせている。向かいにかけたモリマ・ユーリは囁やかなため息をつきながらその一部始終を見つめていた。
「バカだね。だめだよ。おまえ、日本3大ボーイアルトの一人なんだろ?勿体無ぇ。日本に何人居ると思ってんだよ。ばーか!」
チョコプリン色はプリンの粘性そのままにべっちょりとユーリ少年に暴言を吐いた。ユーリ少年が日本で3本の指に入るのは、マクサンス・ペラン似の男前で、小学生の奏者が殆ど存在しないボタンアコーディオンの弾き手であり、それに至る長い来歴という複雑な事情があるからだった。
「だって、なんやかんやで3人目だよ。別にいなくなってもどうってコト無いじゃん…とか思わねえ?」
『日本一のボーイアルト』というのはラジオ局の少年合唱団やアンパンマン少年合唱団にも一人ずついて、モリマ・ユーリと品川(弟)は物好きなママさんたちと結託し日本庭園のミニ演奏会やクリスマスコンサートをこっそり観に行ってどんなに素敵な少年が歌っているのか真偽のほどを確かめてきた。下調べらしいことを何もしていかなかったにしてはどのアルト団員が「日本一のボーイアルト」であるのかは一見して判別できたというのが一行の最初の開眼だった。
「どっちもメガネかけてんじゃん。」
品川(弟)の後追いの感想は母親たちを見事に意気消沈させたが(どこの合唱団でも眼鏡使用の男の子はごく普通に多人数存在するのだ)どちらの「日本一」もそれぞれの少年合唱団のカラーをきちんと具現して歌い続けていることだけは強烈に看取した。気品と颯然さ、ブレスに姿勢にイケメン度、美声!少年合唱団員たるもの、声が美しくカッコ良くないことには話にすらならないのである。
「オレ、何かさぁ、ちょっと声が変わってきたんだぜ。」
「知ってるよ。ウルサイ!毎日隣で歌ってりゃ分かるわい!先生っ、モリマ君がおしゃべりしてまーす!」
彼らはもう5年間以上も互いの声を聞きあいながら歌ってきたのだ。
「先輩たちって、どうして明らかに声変わりしてんのに楽しそうに歌ってるんだろう?」
「何か、カンケー無いんだってさ。どうせ自分の身体で鳴ってるのは周りのみんなの声だから。でも、それがすっごく楽しいんだってさ。アルトでソリストとかじゃなければ、余計にそうなんだってー。オレは自分の声が一番響いたらいいなぁーとか4年の頃までは思ってたケドね。声変わりが始まらないと、周りの子の声が自分の中でガンガンに響く合唱の醍醐味はわかるようにならないって、ガキ扱いの口調で兄ちゃんも俺に言ってたけどね。」
「ふうん。」
品川(弟)はさらに掠れた声で言葉を次ぎながら右のソックスを引いた。破れたつま先から白く薄汚れた親指の爪が顔をだした。
「でも、歌ってる先輩たち自身は声以外どうせ何も変わらないんだからこっちとしてはどうでもイイんだけど。でも、楽しいってんだから合唱団辞めること無いんじゃないの?」
「そうかねぇ…。」
「そもそも、団規で辞めらんないでしょ?途中退団はお引っ越しと病気だけしか認められない。声変わりは病気じゃないでしょ?ポリープとか心因性吃音症とか、そういうのじゃないと…」
「おい!品川(弟)、いつまでベチャベチャくっちゃべってんだ?!ホンバンでろくな声が出ないゾ!黙れ!」
部屋のとば口から男の説諭の声が飛んだ。チョコプリン色の少年は右ソックスの口ゴムに手の親指を突っ込んだまま固まった。
彼らは卒団するその日まで、今後変声による退団の話をかわすことは無いだろう。

 地域の少年合唱団の場合、小ホールのトイレは客室共用でユニフォームのまま廊下ロビーを走る事も多い。低学年アルトの子たちを先に行かせ、迷子になる子が出ないようモリマ・ユーリは後からゆっくり大股で出演前の用足しに歩き始めた。
「モリマっこり先輩、さっきのあれ、ヤバいんじゃないですか?」
アルト途中入団の五十嵐少年は背後からこっそりと人払のごとく一応周囲を確認して声をかけてきた。
「品川(弟)先輩ってね…」
「なんだよ、トイレじゃないんだったら来るなよ。オレらが戻ったら先頭ですぐ網元に入らなきゃなんないんだぞ。」
言われた男の子の鼻の頭がロビーのダウンライトにテカっている。
「品川(弟)先輩なんですけど、ユーリ君の声変わりが始まってから、加藤先輩とかムッちゃんとか妻鹿先輩たちに一人一人『変声したのに何でいつもそんなに楽しそうなんですか?』ってわざわざ聞いてまわってたんですヨ。」
「ウルセぇな、とっとと元に戻れってばよ。」
「それなのに、さっきは品川(弟)君の方が、先生に『いつまでべちゃべちゃくっちゃべってんだ、黙れ!』とか注意されちゃって、いいんでしょうかぁねぇ?モリマっこり先輩のせいで叱られちゃって…」
「あいつは品川(兄)君のナナヒカリで先輩たちに口がききやすいんだよ。ただそれだけ。オシッコもウンコもしないなら、さあ、帰った帰った!」
今年のアルト声部には2年生の団員が4人、3年生の団員が3人もいる。モリマ・ユーリの本番前最後の仕事はこの7人をトイレから迷うことなくシモ手前室のようなところへ帰還させ、ズボンのチャックと走ってだらけた靴下と縦8の字になったボウタイを直し入場隊形に押し込んで戻すことだ。上級生のアルトたちはこれより少し前にトイレを済ませておくか、水分補給をきちんとコントロールして楽屋入りしているか、そんな心理的余裕など全く無いかのいずれかで、話題の品川(弟)は本番前にはトイレを済ませないタイプだった。
「わかった、イガちゃんありがとう。オレはチビたちの面倒があるから、先に帰ってていいよ。品川(弟)には謝ってお礼を言っておく。」
ユーリ少年は一転別人のごとく口調を柔和に金棒引へ礼を言った。息急き切って走って行った3年生が2人、早々に「コト」を済ませ、ブレザーの腰に手の甲をなすりつけつつこちらへ駆せ戻ってきた。
「コラ!コラ!あんまり急ぐなって!そんな走ったってナンも変わんねぇよ。痛い思いするだけ。だからぁー!」
嗄声の目立つボーイアルトは自分と五十嵐少年の間隙を旋風のように走り抜ける後輩たちに声をかけながら考えた。

 ルフランに聞く「アナザー・ガール」の他パートのメロディーはどれも明るく温かく、良い匂いのする旋律ばかりだった。自分たちの歌うアルトの節回しは「ジョージ・ハリスンの声質にすごく合っていて『青臭さと仄暗さが有り、低めでエキセントリック』なもの」だと第2メゾ所属のビートルマニア一家の長男が嫉妬混じりの口調で言っていた。2メゾはルフランの最後のdivisi記号の振られたほんの2小節を固有に受け持つだけなのだ。だが、これら4声部が組み合わさった途端、途轍もなくほろ苦く甘美で深い音色になる。謎は深まるばかりだった。
歌うときの列は小ホールのライザーに合わせた密集隊形で、左右の団員の肩は微妙に重なって歌っている。ソプラノ側は自らの左肩を左隣の少年の右肩の後ろに、アルト側は自らの右肩を右隣の少年の左肩の後ろに。こうすることで横の法だけは微妙に稼ぎ、隊列の幅をコンパクトに収めることができる。ただ、少年たちは度重なる経験から、「この方が横の子の身体に自分の声が響くから」であるとか「前の子の背中には段差があって声が反射しないけれど、横の子の肩には反射して自分の声が聞こえるから」とか「重なっている場所で声が横一列に繋がるから」ということを繰り返し言っていた。
モリマ・ユーリはピアノ伴奏にゆらゆらと絡み付くリードギターのチョーキングを模した装飾的なフレーズを耳にしながら、それをインタラプションの合図のように利用してブレスのタイミングをはかり、歌い出していた。彼らはグレースノートを知らなかったし、グルーヴという言葉も分からなかったが指導者の教えも原典の演奏も何も聞かないまま伴奏のリードに従って楽しそうに歌っていた。今日の彼の右隣には品川(弟)がいて、重ねたブレザーの肩の向こうでは

♪いついかなるときも彼女は常に僕の友

と歌っている。そして彼は視線の延長線上シモ手側客席に煌惺少年の親子の姿を認めている。入団希望の少年の小さなルビー色の口唇からは「♪アナザー・ガール」という歌詞を歌う口形が繰り返し見えていた。だが、彼の言った最後の一言がモリマ・ユーリの心にループして帰着する。「good byeとは一言も言っていない」と。客席の男の子は笑んでいる。モリマ・ユーリも釣られて笑む。すると煌惺少年はなおさらキラキラと大きな瞳を客調の落とされた暗がりの中で輝かせ、大きな口を撓ませて笑った。「入団希望」のフラグが「少年合唱団へ在団」に付け変わった瞬間だった。そして日本三大ボーイアルトが、客席の少年と繋がって共に歌った一瞬。今までの彼にこんな経験はあったのだろうか?合唱団員の視線は薄明の岸辺から弟子を見やる救い主の慈しみ充溢する眼差しと見事に重なった。「怖がることは無い。僕だ。」と彼は自らに語りかけた。

 小ホールでボランティア出演が次々と繰り出される当夜のような場合、出演者はシモ手から登場し、カミ手側へハケる。元来た袖へ戻ると演者が幕内でバッティングするからだ。中井宗太郎はいつもの公演のいつもの退場と同じ無表情のちょこまかとした歩みでアルト側の団員の背中に追従しステージを後にするところだった。「I dig a pygmy by Charles Haughtry and the deaf aids!Phase one, in which Doris gets her oats!」…少年の今日のMCはズボンの尻ポケットにしのばせておいた原稿のお陰で滞りなく終わった。叫ぶような男の子の通りの良い声で、途中で文脈に気づき笑い声をたてた観客もいた。だが、コンサートがチャリティであることを承知で好んでやってきた観客たちは、そのセリフがリヴァプール出身の4人組のロックバンドの瓦解への最後の道行きの嚆矢であり発端でもあることを知っているので、男の子の流暢な地口を黙って神妙に聞いていた。中井宗太郎はそれでもセリフが言えたことだけに甘心があったので撤収の足取りは軽く平静だった。彼がコンパクトな合唱ライザーのアルト側の端を歩き出した途端、ホリゾン側から背の高い台のようなものが3台ほどに別れ台車に乗って彼らの向かうカミ手側袖幕の中へ飲み込まれはじめた。中井少年は大層驚いて、袖幕の中へ走り込んでから山台を押しているステマネさんらしい若い男のところへ行った。
「台車にストッパーかかってるし、簡単に結束したから動いたりしなかったろ?ガードレール付いてないから怖かった?」
成長した福助遊休の成れの果てというほど唐突に腕組みした姿勢になって男は言った。
「あの…いえ、これ、何なんでしょうか?」
袖幕の中の中井宗太郎はハーフシャドーのそのまた明度の低い顔色で男に尋ねた。
「コーラルライザーの後ろにかますんだよ…本番の時だけ。ホリゾンぴっちぴちにライザー詰めて立てつけると、それより前に出演してる人たちが山台の裏を通れないそうだ。キミらが歌う直前にこれをホリゾンに突っ込んで一番上の段のフミヅラを広げてたんだぞ。分からなかった?上の子たちが浮いてると思ってたの?…小学生ってホント面白いこと言うね。神様かい?」
福助遊休の成れの果ては薄汚れた黒っぽい服の袖口を揺らし笑った。

 ツヤツヤと瑞々しいB級品は高学年用ソフトボール以上の大きさがある。皆の袋の中からはどの品種が立てているのだろう、美麗で禁欲を組み伏せる甘酸っぱい優しい匂いがする。モリマ・ユーリはゴールデンと印度の合いの子の青りんごに今にも歯を立てそうになっていた。輝度の中に吹いた斑点が食欲をそそる。この合唱団の子どもたちはみな出演の後、必ず水分を摂りたがるのだった。
「ほら、サビっちゃってるだろ?とっとと食っちゃってくれってリンゴが言ってるぞ。」
垂涎の表情で果皮を見つめやせ我慢しているユーリ少年を見て、無償で出演料代わりのリンゴを提供し続けている農家のおじさんが言った。変色部分のあるリンゴの味が総じてほとんど劣らないことをもう何年もここに出演してきた少年たちは知っている。
「声変わりして合唱団を辞めるような奴は今後ともリンゴを食う資格はありませーん!」
余程物欲しげな顔に見えたのだろう。品川(弟)が通団服に着替え終わったさっぱりとした体側でモリマ・ユーリの左腕に一撃を加えた。
「黙れ!声変わりしてもオレはオレなの。声変わりした新しいオレもリンゴは食うんだよ。」
ソプラノのグループ周辺では先ほどから何やら悶着が再発生中。
「先生ぇー!新町くんが出演料のリンゴもう食っちゃってまーす!」
「勝手に食うなよ、新町の巨人!」
「最近の3年坊主は我慢ってモンができないのかよ!」
団員たちはおっとりハイパー美少年の新町くんの挙動にどうしても目が行くようだ。
「はい、新ちゃんサヨナラー!カワイソスー!」
「バ・ハ・ハーい!…古ぅ」
モリマ・ユーリははちきれそうなゴールデンと印度のハイブリッドを見ながら果肉の抗う極めて美しい歯ごたえと脳天を突く甘酸っぱい汁気を想起した。カチカチとシンコペーションしグレースノートを引っ掛けながら続いてゆく旋律が心地よく海馬に満ちて、彼はそのまま

♪ I ain't no fool and I don't take what I don't want for…

と歌い出すなり、氷山の大規模な飄落のごとく合点に思い至った。
「ねぇ、『アナザー・ガール』って「他の娘(こ)」ってコトじゃないんだよ。だって、サヨナラとは言っていないし、嫌いな子にする<次の子>の説明にしては丁寧でバラ色で楽しすぎるんだ。次の子は、その子なんだよ。お別れの曲じゃないんだ!大好きなキミは明日はそういうステキな娘なんだって、繰り返し歌ってあげているんだよ!」
第2メゾ所属のビートルマニア一家の長男が、袋から取り出した売り物にならないスターキングデリシャスを通団服の裾でキュッキュと磨きながらいい加減に応じた。
「だからー!『同じ人だから変わんないってコトが言いたいんだ』…って、色んな所で何回も言ってんじゃん!バカにしくさって誰も聞いちゃいない!まったく!」
無理やりあぐらをかいた男の子のソックスのパイル地の底から、ほつれたループが2本、千切れて飛び出ていた。

℗ 2009 EMI Records Ltd
©1965 Sony/ATV Tunes LLC.

Yesterday イエスタデイ

April 15 [Wed], 2015, 23:02
▲今から50年も前に録音されたイギリス人4人組ロックバンドのラブ・バラードを下は7歳からいる半ズボンをはいた男の子たちが「♪昨日まで、愛はゲーム遊びみたいなものだった…」とクイーンズイングリッシュでこまっしゃくれて歌うのも、すべてその年齢層の「聞いてくださる方々」の心に応えんがためのものだ。


「トムくん、楽譜、貸してくれないかな?」
「はい。いいですよ。」
ステージ要員としてみっちり訓練を受けている少年たちは、小学生と言えどもきちんと返事をかえしてくれる。富田君はロビーの壁際に投げ置かれてあったそろいの通団カバンの中からたやすく自分のものを判別してとりに行った。年季が入ってくたびれかけたバッグの中からフラットファイルごと楽譜を引っぱりだしてきてこちらへ差し出す。
「『録音技師さん』がチェックに使うんですって。…すぐ返すから、これコピーさせてもらうね。」
わさび色のファイルから「からす」と「ほたるこい」を抜き出しながら言うと、
「マネージャーさん。楽譜のコピーは著作権法違反ですよ。」
と小学生にたしなめられる。コンソール用の楽譜は、本来私が用意してくるべきものだったのだ。
「じゃあ、トム君、悪いけど、これ、くれないかな?」
レコーディングが膠着状態に陥りテイクが数十本にも重なると、とたんにミキサーさんの楽譜への書き込みが増えてくる。だから、録音現場の楽譜は「日本の少年合唱(男の子どもの合唱)」の収録に関する限り、とても「貸し借り」できるようなしろものではないのだった。
「あげてもイイですけど、この録音のCDとバーターというコトで。」
「…あなた、バーターなんて言葉、いったいどこで覚えて来たの?」
「マネージャーさんがいつも言ってるでしょ。…覚えたのはココです。」
…ああ、私か…
「わかったわよ。楽譜数枚でずいぶんボッたわね。見本品のCDをもらったらあげるから。トム君、お願い。」
「いいですよ。どうぞ。どうせ楽譜はスミからスミまでココにばっちしインプットされてますので。」
トム君は人差し指で自分の側頭をこんこんつつきながら通団服の胸を張って言う。大嘘つき!ホントにそうならここに集まった大人たちの誰も苦労はしないで済むのだが…。ただ、見本品のCDの件は覚えているに違いない。ノートにメモすべき項目がまた一つ増えた。

「アオケン君の音取りを見てやってくれませんか?」
先生方のおっしゃる『みてくれませんか』は、『してください。宜しくお願いします。』の意。マンツーマンの音取りは、彼が『選ばれし者』だから。例によって団員小学生男子たちが『お仕置き部屋』と呼んでいるアップライトの置かれたピアノ練習室に籠ることとなる。ドッタンバッタンと喧しい教室の真ん中で「アオケン君ゥーン!」とターゲットの名前を呼ぶと、3回目で教室隅に固まって手書きの遊戯王A・Vのバーチャル(?)デッキで遊んでいた4年生たちから「先輩は、『お仕置き部屋』でーす!」と返事がかえってきた。先に行って待つ気概は、さすが『選ばれし者』の彼らしい。

 練習室のトムソン椅子の傍に、男の子が2人立っている。シンメトリーに並んだその姿は、11歳頃で成長抑制ホルモンを投与され黄色人種化したギルバート・アンド・ジョージを思わせた。総員第一種戦闘配置態勢の5年アルトは両手に広げた楽譜を下ろし「宜しくお願いします!」と、先生方の依頼を復唱するような頼もしい言葉を発し100点満点のお辞儀をした。だが、もう一人いる団員は不用意の存在。
「譲治くん?君はソロのオーディション通ってないでしょ?そもそも『てんとう虫のサンバ』の音取りも『赤とんぼ』の二重唱も『♪セミ、セミ、蝉ミンミぃー』のソロも合格したこと無いじゃない?」
「マねえちャーん先生、そこを何とかお願いしますよ。」
本名で呼ぶか、せめて「マネージャーさん」ぐらいに留めておいて欲しいのだが、団員たちは近頃、私をそう呼んでいる。
「だめよ-、だめだめ!先生から『アオケン君の音取りをお願いします』って言われてるんだから。」
「でも、アオケン君がインフルとかで本番欠席になっちゃったら、アルトや2メゾでソロの下を歌える子は、誰もいないわけですよね。困りませんか?」
「困らないワイ。先生のことだから、ソプラノのソロ一本立ちか、曲自体を差し替えるかでしょ?心配ご無用。親切なお心遣い心から感謝だわ。」
「でもですねぇ、わたくしのような団員一人ぐらいがここに居ても、別に困らないと思うのですが。…ね?アオケン君?」
試しにと思い、頭から通常ルーチンで2人一緒に歌わせてみると、確かに「おまけ」の団員の方がしっかりと安定したピッチを保って歌いきった。初見の男の子のやりがちな「さぐり」の音がまるで見当たらない。
「すっごい!譲治君の音はカンペキだった。驚いたわー。しっかりと音が取れてる!まるで練習してきたみたいに!アオケン君もそう思わなかった?」
本来のメインゲストの方へ話を振って同意を求めると、「はい。上手でした。でも、なんででしょうか?」と優等生的な質問で返された。まったくである。
「うーん、だって、コレってポールの曲でしょ?」
男の子は審判のレッド・カードへプロテストするアタック・ミッドフィルダーばりの勢いでまくし立てた。
「ポールのベースパターンのコード進行なんか『ゲンダイのコテン』みたいなもんでしょ?アルトの次の音に何が出てくるかなんて、もうカタリツクサレてる。しかも、コーラス代わりの伴奏がゲンガクシジュウソウなんだから、ベースがいくら走ったとしても限度ってもんがあるわけで…」
さすがビートルマニアのファブ4一家長男の貫禄である。三歳上のお姉ちゃんのお名前は「洋子さん」というそうだ。以前、このことに関して「林檎さんという名前なのかと思った!」と揶揄したら「それは、妹が生まれたら付けようと思っている名前で、弟の場合は『蓮音(レノン)』」とのノミネートがほぼ確定しているという。ハリスンの命日(11月何日かだそうで、フーテンの寅さんのお誕生日と同じ日だと譲治君は誇らしげに言っていた…)には一家そろってバングラディシュ料理の「魚のカレー」をいただき、デザートにチョコトリュフをつまんで故人を偲ぶらしい(何故?!)。ポール・マッカートニーの音楽語法を寝言でも言えそうな一点集中博識な譲治くんが何故、ソロのオーディションにパスしなかったのかはご指導の先生お考えがあってのことなのだと思うのだが…。
 いずれにせよ、アオケンくん緊急事態の際のバックアップ要員としてキープしておいてはどうかと先生方の耳に入れておくことにした。…とりあえずこれが終わったらすぐ。

 ソロ低音の音取りが一通り完了し、何故か首をひねりながら出だしのフレーズをモゴモゴとさらっているアルト・トップソリストのアオケン君と、気分爽快、我が世の春とばかり自信満々足取りも軽いアンダースタディ候補(…になるかも未だ分からない)の譲治くんを連れて教室へ戻ると、すでに自分たちのパート練習も終わり、首席指揮者が事務室のソファの上で一服する間「待機」の指令を受けて待っている少年たちは、暇を持て余し、ミュージカル『アニー』のメインテーマを怒鳴るが如く歌っていた。
「♪朝が来ればー!Tomorrow!!」
先の定期演奏会の前、再三注意を受けていたのにもかかわらず、多くの少年たちは歌い出しの音韻を
「♪あっサがクレばぁー」
と、変な癖を付けて歌っている。ほとんど全く女の子だけしか登場しないミュージカルの劇中歌を「少年合唱団」が暇つぶしの座興とはいえ楽しげに歌ってしまうというのもどうなのだろう?アオケンくんたちはもうドア口から室内に走りこんで自席を目指し歩きながら、

♪ Tomorrow! Tomorrow!
..... I love ya! Tomorrow!

とガナりだしている。先ほどまでの一意専心は、もはや何処へやら…。しかも、子どもたち、このサビに来て一気にまさかのハーモニーだ!表情は図に乗っておふざけ100パーセントだが、パワフルなFコードの2部合唱に仕上がっている!普段の出演のステージでも、このくらいの明るい張りのある声で歌ってくれたらいいものを!
…と、手持ち無沙汰の私が思っているまさにその時、いつものように練習室の後方ドアを静かに押して首席指揮者さまが深煎レギュラーコーヒーの匂いをぷんぷんさせながら子どもたちのもとへとご帰還なされた。
「はい!はい!はい!少年達ちぃー!歌いかた止めー!」
いつものごとく彼らは条件反射的に歌うのをやめた。少年合唱団員の悲しい宿命である。
「…黒人で元ムスリムの男が大統領をやってるような国だ。今更モップみたいな大型牧羊犬の首に縄つけて引っ張って歩いてるWASP少女のミュージカル・テーマソングなんか歌ってどうする?!」
個人的には、なんか、あんまりな内容の発言だとは思ったのだが、団員たち、飼いならされたゴールデンとチャウチャウの雑種よろしく口を閉じたまま姿勢を正し、スタッキングチェアの奥に尻を押し込んで聞いていた。
「じゃあ、一回合わせてみましょう。…アルト・ソロの子は、音取り、終わりましたね?ソプラノのソロは主旋律だよね?もっち、バッチ・グーですか?」
冒頭ソロのショーアップはあっけないほどの簡素さとタイミングで終わった。先生方はさすがポストモダニズムの時代を生き抜いて来られただけあって、驚くほど多種多様な時代の流行語を使う。…バッチ・グー、ちょべりぐ、シティーボーイ、がちょーん!、あじゃぱぁ、アタリマエダのクラッカー、だっちゅーの!…そして近年追加の語彙の代表格は「お・も・て・な・し…おもてなし」。お客さまを前に少年らしい気概と爽快さで歌い演じることをナリワイとする合唱団の子どもたちに先生方は「おもてなし」というボキャブラリーをしばしば口にする。日本の少年合唱が、学校の音楽教育や社会的青少年育成の一環であった懐かしき良き時代は終焉のときをむかえて久しく、そうした旧いタイプのクワイアーは21世紀へ到るまでに小学生男子のみで構成される児童合唱団としての役割を早々に終えるか、OBたちの美しく青き思い出だけを残しすっかり消え去ってしまったかのどちらかだ。現在、都内に拠を構える男の子の児童合唱団はどこも情報発信とエンタテイメントの企業をバックグラウンドに据えているか拠って立つかのいずれかで、私たちの合唱団も例に漏れない。かつてのような「少年の健全育成を目ざす社会教育団体」としてのボーイズ合唱の運営であれば、開演時間10分押しで客席を待たせ、幕の内で先生方が直前指導を強行することも許されたのだろうが、時は流れ開演時間ぴったりに緞帳の上がるステージの内側で先生方の発するコトバは「おもてなし」である。たとえ緻密で完成度の高い秀逸な合唱を展開しようとも、お客様の心を置いてきてしまいがちな団体は早晩多局面から手詰まりになっていく。当団の先生方はこのため公演毎アンケートを地道に採り集め、ネットサーフィンでお客様方の反応をサーチしながら「おもてなし」の検証にはげむことに余念がない。今から50年も前に録音されたイギリス人4人組ロックバンドのラブ・バラードを下は7歳からいる半ズボンをはいた男の子たちが「♪昨日まで、愛はゲーム遊びみたいなものだった…」とクイーンズイングリッシュでこまっしゃくれて歌うのも、すべてその年齢層の「聞いてくださる方々」の心に応えんがためのものだ。
「先生!いたいけな僕たちが、『♪何故、彼女は逝かなければいけなかったのか。何も告げず』なんて愛の歌を歌ってもいいんでしょうか?」
あっさりと譜読みを終えて暇を持て余していたいたいけなソプラノソリスト12歳が準備完了のたのもしいお言葉の代わりに問うた。
「この曲は日本では今や文部科学省検定済の中学校の教科書にも載っている。高校の教科書にも。…中学での配当は3学年で、高校では音楽1だということだ。ラブ・バラードどころか、いたいけな少年たちなら全員学校で習って知っているような文部省唱歌みたいなものだ。お客様の半分はこの曲をソラで歌えると思っておいてほしい。…以上!覚悟して練習にはげんでくれ。」

 少年たちの練習は歌い出しの1小節目で早くもストップがかかって中断した。
「トムくん、どのくらいの速さで歌ったらいいんだろう?君ならどうする?」
本来は編曲者の先生が前もって決めておくべきことだが、「スロー・ロック」の味わいを知ってレパートリーに載せてきたその人がわざわざ子どもたちにそれを問うからには、何か言いたいところがあるにちがいない。
「歌詞はもともとの曲に付けられたものだから、もともとの曲のテンポと同じでいいんじゃないかと思います。」
男の子は渡された楽譜をせっかちにレバーファイルへとねじ込みながら片手間に優等生的な提案を返した。
「ビートルズが演奏した『イエスタデイ』のもともとのテンポはどのくらいだ?誰か知っている人?…はい、では、まさかの時の譲治くん。」
質問の展開の速さにやや圧倒され気味な団員たちの中、小学生ファブ4がもう中腰になってダイポールアンテナのような白い腕をピンと突き立てて指名を待っていた。
「先生、あのですねぃ、『大きな栗の木の下で』ぐらいだとちょっと遅くて、『歌えバンバン』ぐらいだとほんの少し速いだろうな…というくらいのスピードです。この曲、静かなバラードだけど、けっこう速いんですよ。」
練習室後方の加藤くんの垢くさいうなじ越しに、私が印刷して配ったはずの楽譜を覗き込んで見た。A3ペラの山おり袋とじの楽譜のどこにも速度記号やBPMを表す表記は無い。ビートルマニア譲治くんの「けっこう速いんですよ」のご注進は団員たちの浮ついた「全体練習」の士気にも、それを取り巻く私たちスタッフの心にもインプレッシブに響いたように思えた。譜面の表記と耳で聞いた曲のイメージがどしんと乖離して在るとき、子ども達はいつも発見の喜びと、それを調和して鳴る自分たちの声に誇りのようなものを感じるらしい。
「なんでもかんでもチャッチャカ歌うのが大好きな少年合唱団の諸君、そういうわけだから、ちんたらモッタリと歌わないように気をつけよう。」
最初のストップはこうして数分で解け、再び旋律が流れ始めるのだった。
 歌い出しの音形は「ト・ヘ・ヘ」。ソ・ファ・ファ…G・F・F…わずか3つの音の連鎖だが少年たちはかつて「虹と雪のバラード」のコーダに添えるこのほんの3音だけ「イエスタデイ」を歌ったことがあった。OBチームを擁する演奏会のクライマックスに少年たちはボカリーズでエンディングを絶唱し、最後に抑え気味にほんのひとくされ「♪イエスタデー」と声を添える。チクりと一言「シャレオツな外見を装ってはいても、しょせん昔(1972年の札幌オリンピックの歌だそうだ)じゃないの?」と最後の最後にナマイキな揶揄をするナンチャッテのためだけのわずか3音。そのとき私は「3音で終わっても、演奏時間4分59秒間でも、JASRACに払う曲の使用料は同じなんですからね?」と先生方にもの申したことがある。今思えば厚顔嵩高で恥ずかしい。

 ♪ Yesterday..

赤川エルくんのナチュラル・ピュアなボーイソプラノが微か短二度の音程で渡り、Fコードのバレーフォームを合唱団の少年たちがハミングで押さえながら支えて行く。スニークするアオケン君のボーイアルトはイーマイナー、エーセブンとちょっぴり宗教的な低音ソロを添えていた。旋律線が山型の峠を一つ越えると、ハーモニーは突然教会旋法的な色彩を帯びてくる。私は彼らのこういう歌唱場面に遭遇するたび、日本人の男の子の中にシルクロードを経て辿りついたDNAのようなものが確かに存在することに感づいてしまう。エルくんのソロは楽譜に記された通り、リピート記号で折り返したところから、小学5年生の終わりの心憎いほど頼もしい統御によって精緻に減衰し、合唱団の子どもたちの3部合唱に引き継がれる。彼はモンゴロイドの少年の桃色の体温とクリアアクリルのような柔らかい2つの目を柔和に滲ませながら、一度だけ指揮者の挙動に集中を引き戻した。アオケン少年は右手に持ったまだファイルされていない楽譜に一度だけ目を落とし、左手は一瞬制服の紺半ズボンの腰を掴んだ。先生は子どもらの初見の出来を「まずまずの想定内」という表情で聴いているように見える。私がビックリしてしまうセミプロの少年たちの合唱の歌声にも、指導者は表情ひとつ変えない。メゾとアルトの上級生が「先生からのストップ」の有無をチラリと確認し、Bメロに入って行くのがわかった。

彼らのチームは基本的に音域の狭窄した女声三部合唱であり、マッカートニーの作ったエレキベースの効くハーモニーを自力では再現することができない。アオケン君のような、<声質が生来のボーイアルトで、そのうえ先生方から「この曲はアルトがきみたちだから小学生の合唱団でもレパートリーにできるんだよ」と繰り返し真剣に説かれ、低い音で安定出力する鍛錬を小学2年生の頃から積んできている>少年たちが選び抜かれ、鍛え上げられて所属している。一人の声の練られ方やコントロールは当然のこととして、数人集まれば互いの身体を借りあって共鳴させることを「合唱の醍醐味」と大人に向かって真顔で能書きたれるような男の子らだ。それを1年間のインターバルも挟まず不断に作り続け積み上げてきた児童合唱団だから、多分、この泣きのBメロが高くアー以上の音で連なりヤマを迎えることができるのだと思う。ソプラノのチームはさえずるがごとくこの部分を歌っている。私が音取りのときから握りしめている右薬指・小指を強くつまみ起こして彼らの端に回ると、子どもたちの表情は本番開始のキューに目視を得た少年合唱団員の相貌そのものだった。松田リク君が下した右手をアルペジオの打鍵に開きながら花粉症のくしゃみをし、奥田ユーセー君は半分歌いながら乾いた声変わり前の咳を1つした。初見を終えたばかりの彼らは「♪wouldn’t say」に振られたカタカナのモーラがまちまちで「饂飩_セー」のように歌っている子もいるし、帰国子女やネイティブの子は「ウー、んン、せィ」とハッキリ発音している子も、また「ウードゥン・セー」と印刷された読み仮名に忠実な歌いの団員もいた。先生がたが今後のご指導で切りそろえてゆく未修正の部分でもある。Bメロの2つのフレーズの間にダルセーニョ1×という指示の振られた5つの音がdiv.アルトにあって、「どうするかな?」と見ていたら彼らはあまり楽譜を詳細に見ていないのか、見ている子もしっかりと意味がわかっているのか、誰も間違えたりはしなかった。合唱団はここで標識地点へとってかえし、冒頭の歌詞を歌い直す。ブリッジの1小節に付されたピアノ伴奏を待つ間、子どもたち隊列の中でただ一人、右手指を4本順繰りに通団服のズボンの裾脇の中空でバンブー材色の腿に引き当てようとする少年のいるのが見えた。彼は伴奏のピアノだけに現れるブリッジのひとくされをを初見できちんと頭に入れている。この練習が終わってから再開される「白いカーネーション」では本番用のピアノ伴奏の一部を担当することになっていた。
 ちょっぴり学術的なニオイのするコピーパターンのB/Wのアニマル・プリントがあしらわれたスタイリッシュなカラーT。もちろん少年たち御用達の鉄っちゃん柄も身にまとうが、カラーコーディネートがどこかシック。ボトムスはジオメトリックなレイヤーパンツ(下に覗いているのはさっぱりした5-6分丈のアースカラーのワッフル・レギンスとか…。極め付けはシブいオークランド・アスレチックスのキャップか、ソリッドのテンガロン、ニット帽。北欧デザインっぽいソックスに穏当なデッキシューズ!ブランドを誇示するやぼったいロゴは一切見当たらない!…ステージ衣装や通団服を着ていない少年たちをまじかに見る機会の殆ど無かった私だが、選別メンバーがスタンバイする楽屋への差し入れや、よその少年合唱団のコンサートへの「おしのび」で時々目の当たりにした松田リク君の全身「100%カンペキ・コーデ」には毎度感服させられた。
「…きみの着ているお洋服…これって、いっつもどこで買ってもらうの?シャレオツじゃない?!すごい。昔ふうの言い方だと『超イケてる』…今のキミたちの言い方だと…??」
「『マジ、ヤベェ?』ですか?」
睥睨されることを覚悟で真剣な興味から尋ねると、
「ツーハンですよ。たぶん、全部?お母さんがカタログとかいっぱい見ながら、何かいつもごしょごしょパソコン打ってます。」
私が恐れ入ったのは、再生紙やWebのカタログから我が息子にこれ以上ありえないほどピッタシなコーデをヒットしてくるリクままさんのセンスと目の確かさ。そして、それをナウなシティーボーイ然とあっさり着こなして普通に男子小学生生活を過ごしているリク君の「この親にこの子あり」的なソツの無さ、親の期待へ十二分に応えて余りある孝行ぶりだった。マックスバリュや東急ストアとかの子ども服売り場の価格帯をはるかに超えるお値段であろうアイテムは全て、息子を少年合唱団に入れるようなご家庭では家計を殆ど圧迫などしないのだろうが、それにしてもハイセンスの一言に尽きる。半ズボン・ハイソックスというお約束のジャパニーズ少年合唱団系ステージ衣装は少年たち普遍のあこがれ…などというのは、かつてモノの本にも説かれたに違いない事実だったのかもしれないが、私たち合唱団関係者にとってそれは過ぎ去りし昭和時代やら20世紀やらの懐かしき日々の懐旧となり果てている。聞いてくださる団塊世代や団塊ジュニアの保護者世代よりに期待される「子ども像」に合わせてしつらえられた合唱団のダサい衣装も、彼らはバツグンの着こなしスキルの力量からそれなりにバッチ・グーな感じで身につけてくれる。スタイリッシュなこと限りない。…普段使いの癖なのだか、ネクタイをゆるーくしめてステージに上がるのだけは例外的にやめておいていただきたいと私は思うのだが。
 松田リクくんはそういうわけで、入団当初から「なんちゃってソナチネ」レベルのピアノ弾きであり、今回も「白いカーネーション」冒頭で稚拙なイメージの前奏を任されているのだった。先生方からの要求は「牛田君みたいなカッコイい凛々しい感じにしちゃダメ」という理不尽なもの。子どもっぽい、つたない感じを出して欲しいのだという。首席指揮者は常に「Yesterday」と「白いカーネーション」をセットにしてプログラムに押し込むため、リク君の条件反射はイエスタデーと歌いながらいつも肩から下はピアニスト・モードへスイッチしているというわけ。
 曲がリフレインから2回目のダルセーニョに跳ねてタイトル通りの歌詞に再起すると、赤川エルくんたちソリスト連が、突如としてhihiGの音を絹割きのごとく6小節に渡ってカンニングブレスで囀り続ける。ビートルズの原曲では弦楽四重奏のストリングスが通奏で鳴り渡る聞き所の一つ。彼らは伴奏と合唱をよく聞いて、過去をほんのりと甘く振り返る若者の悔恨をほとんど気にならないわずかなピッチ漏れに留め、鳴き続ける。いつもは剽軽でお茶目なエルくんが、ここではすでに左心室形成へメスを振るうチームバチスタ・リーダー執刀医の手腕と面持ちだ。ハーモニウムの嘶きのごとく電気的な彼の声質のベストマッチは先生方の人選で成り立っている。一方、この曲の白眉にあたる3つほどのさりげないフレーズは、通奏の鳴り止むBメロのブリッジに出現する。1回目のリフレインでは演奏されない6音にE♭のセブンス和声が負わされている。「♪She wouldn’t say」と合いの手のように歌詞が振られ、ジャジーでセンシティブなニュアンスをこの一つの音が決定づけている。担当するのはアルト・ソロのアオケンくん。最後に3つ目のちょっとときめく素敵なフレーズは、さきほど松田くんが無意識に運指していた「♪day…ay..ay.aye」で、これはdiv.4声部が声を抜き差しして表現している。少年たちが声を合わせるわずか3分間ほどの刹那、お楽しみ満載に詰め込まれたという感じがする。歌っている最中の彼らに先生が投げた注意は「ハヒフヘホが聞こえない!♪here to say が イアトゥセィに聞こえる。♪she had to goも、アド・トゥ・ゴーだったぞ!パリ木かサンなんとかトカいう名前の付いた少年聖歌隊じゃないんだからさ!」というちょっとマニアック目の一言だけだった。彼らは結局♪hide away を殆どアイダウェのままにして歌い終えているので、こちらもこれからご指導を受けて軌道修正することになる。コーダのハミングを唸るように絞って、ラレタンドも編曲譜に記された通りのさりげなさで彼らは揃えた。初めて合わせた練習の後に必ず訪れる、少年たちの沈黙、中学年の子たちの咳払い、6年生団員らの吹き戻しのような極端なブレス。私は動き出したく無くそれらを見ていた。


「トム君、悪いけど、Yesterdayの楽譜、くれないかな?」
振り返った男の子は私をしっかりと見据えながら目を剥いた。
「何かのバーターじゃないけど、いいかな?」
「それって、僕のYesterday?が、欲しい…ということですか?」
「うん。記念にトムくんの名前もどこかに書いといてくれないかな?」
「何で僕の?」
「だって、『楽譜はスミからスミまで頭の中にばっちしインプットされてますので』って、自慢げに言ってたじゃない?もらっても困らないと思ったから。」
「そりゃ、そうではあるんスけど…。」
男の子はそう言いつつも、もう足元に投げ置いた通団カバンの中から、レバーファイルにねじ込んだ楽譜を引っこ抜き、シーショア色のちゅら海水族館のペンケースを引っぱりだして蓋を開けている。
「ま、楽譜が必要になったら、記憶力抜群の松田リッキーとかに借りればいいワケだし…。想定内っスよ。」
やっぱり「楽譜はスミからスミまで頭の中にばっちしインプットされてます」というのは大ウソなのね。
「松田リクくんは暗譜、けっこう速いものね。ごめんね、迷惑かけちゃって。少年合唱団の思い出に、一生大切にするから。」
男の子はそれには応えず、運動会の記念品にもらったご愛用の校章入り鉛筆で(去年もらったのは2本で、片方を通団バッグの筆箱に常備しているとのこと)、楽譜の上段の端…♪I don’t know she wouldn’t say. の歌詞の横へ、無愛想に大きく「マねえちャーん先生へ 富田より」と手のひらの上に乗せ、書きなぐって渡してくれた。彼らは他団と違って、物販のテーブルで求められれば合唱団代表としてCDやミニカレンダーにサインをしてくれる。
「『これでいいですか?』とか、聞いてくれないの?」
「…じゃあ、これでいいですか?」
記念の楽譜なんだから、本当は富田だけじゃなくて、フルネームで書いておいて欲しかったのだけれども、彼らしく、少年合唱団員らしく、小学生の男の子らしい。
「いいよ。良い『Yesterday』になったから、合格にするね。今帰ろうってところに声かけちゃってごめん。」
卒団とお引越し退団以外は別れのシーンを殆ど持たない合唱団の少年たちはグッバイ・フェアウェルにはなはだドライで恬淡だ。去りゆく人に花束を用意して別れの場を設けるのは私の仕事なのだから、今日はそのセッティング自体が存在しない。先生が私の「退職」を簡単に紹介してそれで終わり。
「マねえちャーん先生、さよならー!元気でね!」
「これまでどうもありがとうございました!」
「さらばじゃ!」「バイビー!」
相対したトム君と私の端を、通団服にバッグをしょった団員たちが別れの言葉をふりかけながら帰っていく。背後からの言葉でも、誰の声なのかは全て判別がつく。最初はかわいいハルカ君で、次はアオケンくん…私が音とりを看てやった最後の団員くん。それからトナミ君。奥田ユーセー君。松田りく君。…リク君の気配からは、ちゃんとLAVONSのゴージャスなフレンチマカロンの匂いがした。
「僕、何かアルトソロのアンダースタディ内定みたいです!マねえちャーん先生、ありがとうー!キャー!」
スキップ踏みそうな勢いで通りすぎてゆくのは当然譲治くん。あの調子なら、合唱団の玄関を出るか出ないかのうちに家へ吉報の連絡を入れるに違いない。
「もういいですか?おーきーらーくー、ごーくーらーくー??」
富田くんは楽譜を渡し終えた手で通団カバンのベルトを掴み上げた。
「…ウゴウゴルーガかい…。そんなバブル後期の言葉、いったいどこで覚えて来るんだい?キミたちは?」
「先生たちがいつも言ってるでしょ。…覚えたのはココです。」
私が増し刷りし、トムくんが思い出を記してくれたYesterdayの楽譜が1枚、再び私の右手の中に収まった。…モップみたいな犬を引きずって歩いているWASPの女の子が歌うミュージカルナンバーを日本人ボーイソプラノのガナりで聞くような日々はもう訪れることはない。
「さわりだけでいいから、最後にトム君、景気付けに歌も歌ってよ。」
楽譜をかざすと、いつもはかなりの難色を示すはずの富田くんはあっさりポンッとアカペラを吐き出した。営業じゃないから無駄な力の抜けた、淡泊の軽い美しい声。一陣の涼風が吹き過ぎる感覚。通団服のソックスの脚をかしゃかしゃとふって傍を家路へと行きかけた団員たちが次々に何をしているのかと立ち止まり、ミュージカルのワンシーンかフラッシュモブのごとく突然声を合わせてくる。

♪ Oh I believe in yesterday…

少年たちは渋みの少ない、酸味と爽快な歯ごたえに横溢する青りんごの声と表情で、私の側辺へyesterdayを歌い置いていった。

℗ 2009 EMI Records Ltd
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©2004 Music Theatre International.