レアンドロのプール The Swimming Pool

November 17 [Mon], 2014, 23:00

The Martians were there – in the canal – reflected in the water. Timothy and Michael and Robert and Mom and Dad.The Martians stared back at them for a long, long silent time from the rippling water …
Bradbury, Ray (1946). The martian chronicles, NY :Doubleday


 とけい皿の大きさもある同心円は夥しく天蓋を覆い、一人の男と、その体側に開襟シャツの肩をそばだてた「男の子」が水の石室の一隅へと立ち尽くしていた。数万個に満ち満ちた青薔薇のブリザードが互いを押しやりつつ、水面叩く微かなクリック音の中で一斉に新生しているのである。豪雨の去来。驚愕の眼差。ジェイムズ・タレルの構築物はもはや腰板まで人々の齢を蹂躙していることだろう。
 プラチナ色の虚空。内包を解き続ける新月の形。過剰なモンスーンは驟雨の道筋を揺らし、頭上を蓋ぐ高透過強化ラミネートガラスへと描かれた模様に移ろいを与えている。自然現象が止めども無く天を打つ尋常とは程遠い光景であったが、その頬はすっかりローズヒップの色に輝いて、見開く瞳孔と眼瞼の下、温厚な口唇をたわませた。そうして少年は傍らの男の眼差しに向かい、何か話しかけているように見える。男は機嫌よく応じ、連れはまた賢そうに大人の両目を見据え、答を返していた。

 作り付けられてから10年。小学生男子というのはプールサイドから中を覗き込ませると、どうしてこう揃いも揃って同じ格好をするのだろう?似通った白いシャツ。こちら側へ突き出た暗紺の半ズボンの尻に、建物外縁の芝生からくっつけてきたものらしい千切れた数片の平行葉脈。架線に羅列した雀の尾羽が揃ってこちらを指すように、男の子たちの履くシューズのゴム底は消炭色に沈んで、逆「ハ」の字がリズミカルな小富士の連続を描いている。プールサイドのライムストーンの縁の上。白の標準服をまとった見るからに夏休み前後の小学生男子たちと、ランスロット少年のような合唱団員を見分けるには起立をさせて服の詳細を確かめてやる必要があった。襟の丸まった鹿の子ポロシャツや風変わりなニット地の開襟を着て、学年カラーやホワイトのアクリルのネームを胸ポケットのストラップに安全ピンを通しぶる下げていればそれは市内の小学生たちで、関西の人々が執拗に「カッターシャツ」と呼びたがるポリエステル混紡の半袖白開襟を汚れないようにパリッとまとっていれば間違いなく少年合唱団員ということになる。
「ランスロット!行くぞ。立ちなさい。」
メンバシップ関数を援用したファジーの回路が働いているらしく、こちら側へツルツル・テカテカとアタった半ズボンの尻は一つも動かない。かく言ううち、ブラウスに車ひだの紺スカート女子4−5名が適当に横列駐輪の少年たちの間へ割り込んで、結局同じ恰好で水面をかき回しはじめたが、数瞬で大騒ぎになった。
「あー!誰かのキップが流れちょる!」
「あぁ!」
「誰や!誰や!」
横2メートル80センチ、縦4メートル2センチ…那智の紅葉の宴さながらに、白い漂泊の短冊が一葉、フラッシュを受けた水流に乗り、水色の水面上、きらきらと陽を受けて舞い巡っている。

 どちらにせよ小学生のポケットへ収まったチケットに料金はかかっていなかった。施設のメインゲストである彼らは全くもって卵や金を撒かないが、再来館には付き添いの大人・家族を要し、15年も過ぎれば彼ら自身が自身の子どもを引き連れて幾度も戻ってくる。最強の集客システム…「金の卵」たちなのである。悲しいことに残照のような客席動員を支え、「永久機関」にくべるべき次の熱源を得ることが出来ずにいる現在の日本の少年合唱と明暗を分つものはそこだった。第4学年の10歳児を中心に、国公私立を問わず年間4000名を優に超える市内の小学生が無料のチケット1枚と、プールに零落し無くしたりしなければ後日再入場可能な半券を刷った館内マップをポケットに詰め込んで、ここへ動員されてくる。プールサイドから説諭の声をかける大人たちに促され、ポロシャツの腹の脇で手の甲についたプールの水をふきふき子どもたちが行ってしまうと、さすがにメラニンを持っているとは言いがたい浅い肌の少年がぽつりと一人、水中を見据え、ぺたりと縁石に座し、居残っていた。だが、よく見ると火星年代記の終節文のごとく、ひたひたとさざ波立つ水の面を通じ水底から、いつまでもいつまでも黙ったままこちらを見上げている地球人の子どもの影が見えるのである。白い服の上半身からはウォルナット色の頭や腕、濃紺の腰部。日焼けた高学年の男の子の面影が、陽光の作るまだらの中で全てちろちろと揺れていた。ランスロットは相手が誰というあても無く、水中の少年の網膜パターンを読み取ろうと暫く試みているようだった。男もまたその背中に向け再度声をかけようとして言葉を飲みこんだ。水底の少年の図像の蕩揺は彼にとっても見覚えのあるものだったのである。


 アンブロのミルトン3。JRトレーニングシューズ。ソニック、Fイエロー、メタリックブルー。umbroロゴのサイドキックパネル。甲幅をキュッと絞ってあって精悍。スマートでテクニシャンの少年シャドーストライカーご用達しというイメージの子ども用トレーニングシューズである。指揮者はこの運動靴をかなりの強いインパクトを伴い、かつてどこかで海馬の中に刷り込んだという記憶があった。週に三日、彼の前に並ぶ数十名の少年たちの面影が足下の図像と共に呼び起こされたが、その中にこのキラキラ光る空色の靴を履き慣らしている者は居なかった。ケアホルムの純白のPK80の縁に尻を落とし、今にも寝転がりそうな風情の下級生たちの横で豆腐のようなソファの座面にぴっちり直立した上半身。ステージに立って歌いだしのタクトを待つ少年合唱団員の上背がまさにこのスタイルだった。一見して手入れのよく行き届いたブルーハワイ・ソーダの色の靴を履きこなしているのは、その少年なのである。彼らの一行は、傍らに中腰の姿勢で立つ原色のストラップをかけたボランティアから、今まさに出発の前の何かのインストラクションを受け終わりそうになっている。

美杉太一の自由時間の過ごし方の計画は、プールの底で横になり、聞こえてくる音を確かめながら目をつむり惰眠をむさぼることと、深呼吸をして胸いっぱいに石室の匂いを嗅ぐことと頭上をめぐる水流の出どころでもあるフラッシュの音を聞き取ること、…晴天であればプールの壁いっぱいにさざめく銀輪のようなきらめきを暫く放心の中で眺めることだった。5年生たちと、あとは1学期にクルーズを終えたばかりの4年生らも携えて、少年はオルフェウスのごとく第6展示室とばくちの暗い階段を駆け下り、プールの底へと至る道を通り抜けてきた。禁止されているのは館内の他の部屋のルールと大差ない。走らないこと。叫ばないこと。ステンレスはしごを登らぬこと。それだけだった。班内で初めてここへ来たというのは転校生6年男子が一人だけ。その彼が名ばかりのリーダーで、その他の子どもたちは皆、場の定めをよく知っており、体得もしていた。美杉太一は湖底の最奥に肌深くこんがりと日焼けした黒タイツのような脚をスッとプリエで伸ばすと、尻を落としてあぐらをかき、何を考えるともなくプールの延伸方向とは垂直に身体を伸ばし横たわった。子どもらがそれに倣い、アールのとれたライトブルーの水底に竹串のメザシのごとく寝そべる。彼らを看守する黄色いストラップの女性が、
「わたしも晴れた日にここで寝たことがあるよー!気持ちかったぁ。」
と言う。きらめく陽光のゆらぎに幻惑した4年生が、両の瞼へかかるよう茶色い腕を当てて遮光の努力をしている。
「こんプールの底、傾いとれんて?」
「気持ち悪い。斜めや。」
「僕は気持ちいい!」「わたしも!転がって遊ぶ!」
プールの底が斜面になっているというのである。実際、その通り、4年生たちは寝そべるのに飽きたのか、太一の身体の横転に合わせ、傾斜をごろごろと転がっていった。

 少年がプールへと至るカルキ臭の無い暗い通路から水色の水底に踏み出した右脚の内側に、何かモノトーンを伴った錯綜した結ぼれが一体、サッカーボールのごとくすとんと打ち止まった。目だけがあさってを見ている。男の子の右足が履く黒いマットなコインローファの靴側に体温のある球形に近いものが在って押し返しているように思える。ランスロットは白黒に認識される柔和な磊塊をインステップキックの踏み込んだ状態の動作で蹴り出すべきかをナノセカンド単位で演算し思いとどまった。ボールの向こうに側に外向きで丸まった白い鹿の子ポロシャツの襟と小学校高学年ぐらいの男の子の身体と、カシドスネイビーの半ズボンから突き出た黒い二脚が認められる。と、思う間もなく、その身体に似通った身なりの小学生が左から3人も4人も充填されるように転がり下りてきた。なぜ、こちらを目がけて?
「傾いちょる!傾いちょる!」
最初の米俵がランスロット少年の股の下で愉快げに叫んだ。
「坂になってるからよ。」
と、次の米俵。
「なんもせんどいても転がりよるのよ!」
またその次の子か、次の次の子。こらえきれぬ笑いが彼らの横隔膜を震わせている。
 ボーイアルトは今度は本当に留意して足下を精査した。ライトブルーのペイントに塗りたくられたプールの底。空色に刷毛をふるわれた水抜きの鉄格子。だが、その下には在るはずの暗い排水構への縦函が無い。同じ色で塗られた学校の水回りに良くありがちな小さなステンレス目皿が床に嵌っているだけだった。鉄格子はフェイクなのである。
「この作品の芸術として…意味と言いますか、作者の訴えたかったことというのは、何なんでしょうな?」
水を湛えたガラスの天井が頭上に迫る、プールの最奥の監視カメラの見下ろす直下。古臭いチャコールの背広、壺柄のネクタイをしめた60代半ばぐらいの男に指揮者は尋ねられた。貴重な合唱団員をエリア内で撮影する許可が下り、カメラのマークのついた腕章を胸ポケットに安全ピンでとめていた。東西文化圏の分水嶺にあたるこの土地ではこういうこともまま起きるのである。
「さあ、何でしょう?」
男は最低限五線譜さえ読めれば仕事のおおかたは務まる「少年合唱団の指揮者兼指導者」であって、インスタレーションアートの解説員ではない。腕章のせいで美術館の関係者と誤認されているのだ。
「…さあ、何でしょう?私はそもそも芸術っていうのが何だか、良く分かってないもので。…来てくださった人たちを喜ばせてナンボ…ってな分野をナリワイにしてるもんですから。全く未熟者で、すみません。」
指揮者があっさりとタオルを投げたもので、尋ねた団塊男は怪訝そうにプール下の空間から排水されるがごとく、すっと吸い出され消えて行ってしまった。
およそ5分間の後、プールへの階段を擁する第6展示室のとば口に近いチケットもぎの白テーブルの傍で、あの初老の男が「千円もカネをとって、地面に埋まったガランドウの何もないコンクリの部屋を見せるだけとはあくどい商売だ」と言った類のイチャモンを関西弁で係員へ投げているのに出くわした。70年代のブラニフ・インターナショナル航空のキャビン・アテンダント風情のユニフォーム…見るからにパートタイマーらしい監視員は、この苦情にどう対処するのだろうか。東京ではあり得ないクレームだが、こういうケツの穴の小さい苦情を一応聞いておかねばならないこの人たちは、なんと気の休まる暇もない精神をすり減らすばかりの損な役回りなのであろう。
 
 在京の少年合唱団の主な観客層は60歳代以上の団塊老人と、次はもう彼ら団員自身の保護者たちだ。兄姉にあたるミドルティーンから上の若い人たちはまず幼獣の匂いを放つ自分の弟たちのような一重まぶたで黒いごわごわとした髪の、体型も殆どこなれていない彼ら日本人小学生中高学年男子を観にやってくることは無いし、同年齢の小学生の殆どはコンサートホールの座席に腰を下ろし45分間以上も黙って静かに児童合唱を聴き続けるほどの集中力が無い。
「きみたち、自分たちはいっちょまえの小学生のくせに、一体全体何でこんなにも小学生のお客さんを呼び込めないんだ?」
指揮者がたちの悪い冗談で少年らを揶揄すると、練習場の彼らは一斉に大声で抗議と憤慨の声をあげた。
 この合唱団では今、比較的児童数の潤沢な地方の都市で小学生向けに特化されたコンサートをサミダレ式に打ちながら子どもの観客を動員しようとしている。実質的には「学校まるごと」や「高学年」などの「団体さま」単位で利潤なしにホールへ大人数の児童を「ご招待」する学校行事・サマースクール的位置付けの演奏会だ。聴きに来てくれる子どもたちのうち1学年ぐらいを「合同演奏」などの口実で抜き出して指定し、90分早めに「楽屋入り」をさせる。使用するのは地方公共団体が運営しているような割安の音楽用のホールで、「リハーサル」と称し、バックステージのツアーを合同演奏の対象学年について 声部(パート)別・学級別の小グループに分割しローテーションを組んで実施する。5年生全員が合同演奏の対象だとすると(合同演奏の相手は高学年の指定であることが多く、たいていは5年生がそのツアー付き大役を買って出てくれる)、5年1組のアルトが合唱団の楽屋で「団員おやつ」代わりの紙パックのお茶をズルズルと飲んでいる間に同学級のソプラノ・パートは練習室で今日の演目をパート練習のごとく少年合唱団員の担当メンバーたちとさらい、同じクラスのメゾソプラノ・チームは緞帳の巻き上げやパーライトの調整やオルガンバルコニーの見学といったツアーに出ているといった具合。5年2組全体がステージ上でゲネプロもどきの最終リハーサルを終えると、ツアーに出ていた1組のグループ群が呼び戻されて今度は彼らにステージリハーサルの順番がまわり、代わりに2組のパート別グループがツアーへと出かけて行くという仕掛けになっている。それぞれの小グループに合唱団の団員たちが縦割り構成で数名付けられており、定められたルーチンに従って担当するグループを誘導しガイダンスまでを施す。練習室ではパート練習にも参加し、ステージのリハーサルでも共に心を一つ寄り添って歌う。少年合唱団のメイン指揮者はステージ上に留まり、次から次へ入れ替わりやってくる子どもたちにリハーサルの棒を振り続けているのである。
 当初、小学生の団員数名だけで10人ほどもいる一般の子どもを入り組んで暗い場所も少なくない危険も無視できない劇場の舞台裏で歩かせるというのはいかがなものか…という危惧が子どもを委ねる学校側にも、責任をとる合唱団側にもあった。
だが、ホール内には当日本番まであまり仕事の無いドアスタッフや、現役連中にびしっとひとことダメ出しをかけて先輩風を吹かせてやろうと手ぐすね引いて待っているOBたちも目を光らせているため、大きな混乱は起こらない。どこかで転んだ、漏らした、吐いた等々の日常的トラブルはもちろんあるが、概して子どもだけで催行するバックステージ・ツアーは、彼ら自身もまた注意力 ・思考力・好奇心ともに旺盛で、先生方が引率してガヤガヤ・ワイワイと道行を遂げるような見学会に比べ、はるかにスムーズで上手くいっていた。
 予想とは違って素晴らしい誤算をしていたことも分かってきた。企画の始動しはじめた頃、団員らは自分たちが「インストラクター」や「水先案内人」として先頭に立ち、招待客である子どもたちに接していた。しかし、巡業の地方都市のコンサートホールなど、しょせん小学生ボーイソプラノの団員にとっても初めての場所であることが圧倒的に多く、また少年合唱団の招聘に応ずるような小学校の殆どはもともと学校全体で音楽教育に熱心に取り組んできたような学校であるためどの子も歌い慣れていてソツがない。地元のホールということもあり、招待された子どもたちの方が何度もそのステージにのって歌ってきていたりもした。結局、当初の予想に反し、少年合唱団の団員たちは地元の小学生のグループに混じって毎回巨大なソース・フォーに触らせてもらったり、LEDムービングヘッドを動かしてもらってクラクラしてしまったりするごく普通の小学生の一人としてツアーを迎えるようになる。楽屋廊下をそぞろ歩きする団員らと地元の子どもたちとの僅かな大したことのない違いは、ワイシャツの胸に合唱団エンブレムの刺繍を付けた男の子であるか、校章の穿たれたプラスチックのネームを白いポロシャツの胸に付けているかの違いだけだった。

 美杉太一はキンモクセイの甘く明るいにおいの流れるその日、フォックス色の絨毯の敷き詰められたツアー出発地点となるホールロビーのバラのアクリル彫刻の台座の側で3年生の女の子に優しくふんわりとだきしめられているところだった。周囲を取り囲む子どもらや付き添いの先生がたは、皆ニコニコとその一部始終を眺めて楽しい1日の幕切れを想い、胸いっぱい辺りの空気を吸い込み、満ち足りている。
「来てくれてありがと。うれしいや。いっぱい冒険して、歌ったり遊んだりしようネ。!」
太一少年のかけた言葉に、にこやかなその女の子の返事はまるで無かった。
「ぎゅぎゅってしてくれて、ありがとナ!」
それでも彼女の口元はこぼれるほどの笑みを浮かべているだけだった。
「じゃあ、行こうよ!班長さん!オレらを連れて行ってよ!」
班長というのがどの子なのか判らず、視線だけを振って仁王立ちしていると、ほんのわずかな間があって、長めJr.カットの男の子が一人、先頭に出てきて歩き始めた。合唱団では先生方から「長めでもある程度は良いかもしれないけど、ちょっとバサバサすぎやしないかな?それにこの茶色い色は陽にヤケてるのか、染めたのか…?」とヒトコトありそうな髪だった。さらに秋口にもなって、まだインド人のようなココア色の肌をしている。東京ではこんな色の黒い男の子は一人も出会ったことが無い。ツアーの間じゅう、寡黙で殆ど無駄なことは喋らない。だが、当日、一団を引き連れてすばらしい旅を作り上げたのは、およそ児童合唱とは無縁そうなこの子どもであった。
 手渡されたA4半裁の案内図兼ルートマップには「(1)ここから→」と班の第一巡回路が示されている。ソースフォー・スポットライトの操作体験らしかった。「出発!」と小さな声で叫んだのは、同じアルト班に太一とともに組み込まれたランスロット少年だけだった。
「僕は合唱団のアルトの美杉太一です。がんばりますので、よろしくお願いします!いっしょに行くのは同じアルトのランスロット君です…」
自己紹介の間じゅう、一人だけ手前に押し出されて空ろに団員の言葉を聞き送る子どもがいる。ソプラノの金子先輩を3年生ぐらいに戻して顔と首とふともものアトピーをふき取った感じのスマートな男の子だった。太一少年はまだ数回もこなしていない僅かなツアー体験であったが、スタート・ミーティングの最中にこうして他の子の前方に押し出されて話を聞く子というのが、必ずや何か問題のようなものを抱えていることを経験として知っていた。団員は気にはなったが、無理に覚悟を決めたり留意して腫物を触るように扱うことをしなかった。 
 彼らがホール図面を片手に階梯を駆け上がり至ったのは、バルコンのような一隅。肩に手を添えるようにニコニコ少女の手を柔和に握った女教師が一人、存在感をあまり出さぬよう気を付けながら一行に混じって付いてきたことが判った。
子どもたちはまずステージに向けて砲撃をしかけるがごとく狙いを定めたグレーの巨大な砲身を眺めた。ツアーの最初に「(1)決して『危険』と書かれた場所には入らない」「(2)きょ可があるまでホールのものにはぜったいさわらない」と厳しく注意を受けていたので、皆は機械を取り囲み遠巻きにそれを眺めたのである。だが、その中の一人は全員の自粛と留意をものともせず、スポットライトの筒先の激しく焼けた部分に小さなピンク色の両手を伸ばしかけた。太一を抱きしめてくれたあの女の子である。間髪入れず全身紺づくめのラフな格好をした男が機械との間に自分の身体をこじ入れた。子どもたちが揃ってその場でハッと身をかわしたのは、行為の突発よりもむしろ劇場スタッフの激高の厳しい口調のためだった。
「こんなコトぐらい事前にキチンと教えといてください!!」
明らかに付添い教師に向けて投げられたきつい酷烈な言葉である。
危険防止は判る。だが、ようやく9歳になったばかりのダウン症の少女に誠心誠意子どもらしい幸せな思いをさせてやろうと付き添っている一人の教師にとって、正論で緊急性もあるがこの言葉はどんなにか心無く深く胸をえぐるものだったろう。美杉太一は寄る辺なき視線を落とすチームの子どもたちの様子を目撃し、次いでランスロットと困惑の目配せを交わした。彼は部屋を後に「熱いから、大ヤケドをするよ。…って言えばそれで済むのに。」とつぶやき、付添の助教師は謝罪の言葉の後、「どこでも、どんどん行って触りたがるから、ここからは先生が連れていくね。合唱団のお友達、みんなを仲良く安全に時間を守って連れて行ってあげてね。」と声をかけ、ニコニコ少女の手を引いていった。本人はいたってご機嫌である。自分を仲間の一人として置いてくれる子どもたちと、好きな場所の好きな場面だからこそ、おそらく自然と焼けたスポットライトに手が伸びたのだ。
「あぶないヨって、言ってくれればオレたちは判るのに。あれじゃ、先生が一番可哀そう。」
ランスロットはそれ以後もいくつかの場面で周囲の子どもたちにそう漏らしたが、残念ながら聞きなれた話題なのか、一行の子どもたちは黙っていて何も言わなかった。

それから、高はし君のぐあいがますます悪くなりました。バスよいだったのです。

太一少年は学校に提出する日記ノートに書いていた。日記は小学1年生の夏休みから現在まで、ほぼ毎日のペース。高学年になった現在は、かなりの文書量を手書きで短時間に書けるようになってきた。1年間に書き溜めた12行縦リーダのその学習帳を積み重ねると、百科事典の「さくいん」の巻の厚さよりももっと厚かった。

ぼくたちは高はし君が、
「気持ち悪い。がまんができない。」
と言ったから、手伝いに来ているOBの先ぱいやつきそいの先生方におねがいして、トイレに連れて行っていただいたり、ロビーのソファに寝かせてあげたりしました。みんなはその間、そばで待っていようとするので、ぼくが
「トイレの前でゲロとかするのまってるなんて、またれている高橋君もイヤなんじゃないかな。」
と言ったのに、みんな立っていて動きません。困ってしまったので、
「どこで何をするのか全ぶ決まっているから、おくれると、よその班にめいわくをかけるよ。行こう。」
と言うと、みんなだまってぼくとランスロット君についてきました。だから、ゲネプロとパート練のじゅん番におくれずにすみました。


ランスロットの移植LTMは、この部分のエピソードを鮮やかに海馬へと留めていた。
「僕たちの班の班長は、学校のアルト班のリーダー中田くんです。キラキラした水色のかっこいい靴を履いていて、太一くんが何度もそれを指差して『超カッコイイ!まじヤベエ!きみ、似合ってんでしょ!…何かアコガレだし!履いてみたいス!』って言ってるのを聞きました。途中、ずっと言ってました。」
ランスロットは今でもそう言ってこの日の出来事を楽しそうに思い出してくれる。当時4年生だった太一少年の書いた日記の内容は、どうやら信憑性のあるものであったらしい。

 班長の中田くんは黙ってみんなのことを気にしてくれて最後まで行きました。おわりの方になって、高はし君がトイレでげぼをはいた後、ふっ活して元気になったら、みんなだまったままアルトのパート練のへやへもどろうとします。どうしてかというと、ぼくはすぐにピンときました。高はし君だけさっきパート練習をしていないからです。ほかの組のアルト班といっしょにぞろぞろと練習のへやへ行ったぼくたちを、先生は変な顔でみていましたが、ランスロット君がみんなのかわりにせつめいをすると、先生は何も言わなくて、もう一度ぼくたちにいっしょうけんめいパート練習をしてくださいました。うれしかったです。みんなは2回も同じ練習をさせられたのに何も言いません。ニコニコしています。そして高はし君のことを『じょうずだね』っとほめてあげていました。それから、高はしくんは、色々なことをしゃべりました。本当は楽しくておもしろい子だったのです!みんなが気づかなかった発見もいっぱいして、さいごの発表でも気がついたことを言っていました。

 美杉太一はその後の別れ際に「もう太一くんたちとお別れなの?」と一行に幾度も言われたことと、途中から別行動だった女の子が再帰し、またしっかりと太一少年を抱きしめてニコニコしていたことを書いて、その日の日記の記述を終えている。実際、彼らがバックステージ・ツアーで行動を共にしたのは全体練習のゲネプロやパート練習やおやつの時間を加えても1時間半あるか無いかの刹那だった。太一少年は肝心の本番舞台の出来栄えや演奏後の感想を一言も述べていない。また、別の日の記述には回想のようにバックツアーの移動中、班の子らの担任の先生に出会って「そんなにきちんと並んで左側通行をキッチリ守らなくてもいいのよ」と言われた旨、感慨深げに書き記している。少年合唱団の子どもたちにとって、楽屋通路をひたすら黙して左側通行遵守で整列のまま歩くことは最大の努力目標の一つで、彼らプロの児童合唱団としての力量の見せ場でもあるからだった。
 太一少年がそれからしばらくして通団用のシューズを履かなくても良いような、例えば運動会やハイキングなどの行事の際に「キラキラした水色のカッコいい靴」を合唱団に履いてくるようになったことを在籍していた殆どの団員たちは記憶している。学童用スニーカーとしてはかなり高価格帯の部類に入ると思われるサッカーブランドの当時最新のモデルを美杉太一は「多少きつくなっても絶対に大切に履き続けるから」と両親にくりかえし宣して頭を下げ、せがんでせがんで誕生祝いに買ってもらったそうだ。当時、学校の規則のソックスすら全員が同じ丈の同じ白無地のものをはいて劇場に訪れた学校の、太一の班のツアーリーダーだった唯一の「個」の表出を僕は決して忘れることは無い…といった意味合いの文を、彼は小学生なりの記述力で書き結んでいる。
 道行の終わり、美杉少年は班の子達に向かい、思わず「僕も君たちの仲間だったら良かった…」という旨の言葉を漏らした。だが、子どもらは少しだけ怪訝そうな表情を見せたという。太一がさすがに見咎めて訳を尋ねると、リーダーは前髪を揺らすサッカー少年らしい仕草で穏便な声調のまま「君は僕達と会った最初に『仲間に入れて』と言ったんだよ。忘れてしまった?」と沈着に告げた。当日の旅の始まりから、彼らは既に大切な旅の仲間だったのだ。

 少年たちが全国のツアーで出会う小学生のグループはどれも道中行きずりの旅の仲間だ。
彼らは行脚の途中で期せずして出会い、偶然にどこかで持たされたお菓子を差し出して「おひとつ、いかが?」と皆でつまんだり、自分たちのたどった道すがら見聞した情報や実態を教えてやり「あそこは行っちゃだめだ。危ないよ。」「観ておかないとソンをする。」「食べたっていいが、ありゃガッカリするぜ。」等々道行きのインフォメーションをお節介にも教授する。「あそこなら俺たちも通る。一緒に途中までおつきあいするゼ!」と伴走を申し出るかと思うと、「仕方ネェな。遠回りになるがよく知った道だ。不安だったら案内してやってもいい。」と道案内を買って出る江戸時代の人々の旅に似ている。
 毎週最低三日間、みっちりと集団行動の訓練を受けている少年たちにとって、演奏旅行の会場で会った少年少女たちを「ゆきずりの旅の仲間」として迎え入れることはもはや何の抵抗も躊躇も無い「雑作もないこと」だった。旅先で、演奏旅行の先々で「君たちは何て初めて会った子たちをしっかりと見てくれるの?」「今日はじめて会った子どもを分け隔てなく優しく思いやりを持って接し、昔からの友達のように仲間に入れてくれる。大人でもなかなかできないことなのに。」…本心から、感謝と感心の念を込めて褒めてくれる大人たちは多い。「日本にもまだこんな子どもがいるんだ」と、思わず口にして感じ入る人々も少なくない。「まさか通っている学校でも、みんなこんなに友達想いで優しい子なワケないよね?」と褒めているのかどうなのか分からない賞賛も。だが、そう言われて瞠目された方の合唱団員たちの反応は必ず「?!」…であり、「僕たち、何か変わったことでもしてましたか?」とばかり、ニコリともせず無表情のままでいることが多い。彼らにとって、演奏会の会場で出会う少年少女たちと丁寧に誠意を持って接することは至極当たり前で日常的な出来事であり、大人が褒めてやっても「何を喜んでくれているのだろう?」という反応しか返ってこない。自分たちの歌を聞きに来てくれた子どもらを仲間として大切にし、懇ろに、丁重に誠意をもって対等に慈しんで接すること、困っている子・辛いめにあっている子・苦しんでいる子に皆で寄り添ってやることは名誉や礼賛に値するような立派なことだとは微塵も思っていない。彼らはそうして、皆でニコニコして、ワイワイ騒いで、全員が楽しければ、もう「立派な少年合唱団員」という言葉だけの栄誉も、「見ていても、接していても、歌声を聴いても気持ちのよい少年たち」という歯の浮くような絶賛の嵐も何の足しにもならない誇りの類も何も要らないのだった。

 子どもたちの一行は第8展示室の奥に切られた部屋のカーテンをめくり上げて、けたたましいクラッシック音楽の漏洩する室内を覗き込んでいた。中には誰もいないという。靴を脱ぎ、下駄箱の端にひっかけるようにして置き、彼らは皆、うっすらと灰汁色に染まりかけた白いソックスの足先を絨毯の上に並べ、恐る恐る垂れ布を押して進み入った。指揮者とボーイアルトが下駄箱の前で同じように膝をくの字に折って履物をしまつしようとすると、背後で看視員の腕と声が後続の人の列を定員で遮った。内側を見渡して瞬時に場の設定を全て理解した美杉太一がもと少年合唱団のセレクトメンバーらしく指揮者の肘を引く。
「先生…タクトを振ってください。」
男が一瞬の躊躇の後、一行の前に進み出て両腕をあげ、鳴り渡る音楽の途中からメロディーに飛び乗ろうとすると、太一が素っ頓狂な声を挙げてそれを制した。
「先生ーぃ!違いますってば、僕らの後ろに立たなきゃダメでしょう!?」
見え難かったが硝子の面に映った子どもたちは皆、歯を見せて笑った。指揮者が身を反転させ、彼らの背後に両腕をふわりと囲むようにあげると、その鏡映の絵姿がきちんと前方に見え、彼らは身構えた。奥に透過するトムソン椅子と楽器が彼らに寄り添って音楽を奏でようとしている。
「相変わらず、先生へダメ出しをするんだな。」
「相変わらず…って、何ですか?」
男の子はにこにこと抗った。彼がかつてそうしたのは、合唱団同期の4年生一群を守るためだった。
「合唱団にいた頃と変わらないんだな。ボーイアルトだった時にいつもしていた事は今でも変わらず実践垂範しているようだな?」
男は冷やかしにそう言って、指揮を続けた。
「はい!バッチリ守ってます!」
「そうか。歌う前にブレスを落とすとか、寝癖の直し方とか、シャツの下着のしまつの仕方とか…まあ、下着の方だけは相変わらずのようだな。」
「はい!…でも、僕はもう合唱団に行ってないです。」
曲は突如カデンツで途切れ、指揮者はふっと掌を握った両腕を下ろした。
「転校はしても、合唱団で覚えたことはまだ守っているだろう?君はさっきから、教えた通り、必ずちゃんと『はい』と返事をしているぞ。」
「はい。」
無意識に思わず「はい。」と口に出して少年は笑った。
「ほかに例えば平織りの白いハイソックスは、帰ったらきちんと裏返して洗濯機に入れる…ってこと、とか…は、守ってます」
彼は自分の足元を一瞬見やって付け加えた。
ホーンテッドマンションの仕掛けのような「リハーサル」の大ガラスの前、絨毯敷きのフロア。どういうわけかこの作品の入場では土足厳禁が要求される。そして、なぜそうなのか、単に入場人数を制限せねばならぬのか結局鑑賞のあともまだ必然性が感じられずに終わるのだった。
「太一君、合唱団じゃ、ソックスの洗濯の仕方なんか教えてないぞ。」
小学生たちは、楽器の担当を誰に促されるともなく数度交替し、4年生の女子は「ピアノの鍵盤の高低が逆で、流れている音楽と指が合わせにくい」と言い、現役ボーイアルト団員は自分の姿と周囲の子どもたちの姿が1枚のガラスの上に見られるので良いと言った。
「先生、それは僕のお母さんがカヤト先輩のママに教えてもらったことなんです。…必ずそうしなさいって言われて。」
「そんなこと、ここへ来てからもずっと守っているのか?」
男の子は少年合唱団のお返事をやはり繰り返して是認した。残念ながら中小のアトラクションへの出演がかなり頻繁な彼らの合唱団では、真夏の暑い盛りにも「ブレザーに白いハイソックス」といったようなアナクロで拷問に近いステージ衣装の指定がくだることもある。1メゾ・リーダーの塙誠一と弟の功一兄弟。アルト前列の鈴木カヤトらは薄手の野球のソックスを履いている。転校して合唱団をやめる前の美杉太一や、今では各パートに何人かの子が同じようにしてこっそり暑さをしのいでいる。平織りだがワンポイントの刺繍が無く、5本指だったり汚れ防止の切返しが靴の中に隠れるように織り込まれたりもしていて、また、足先までの長さに余裕があるのでいいかげんに引っ張り上げても本番前の服装検査にパスする。団員本人たちも、洗濯を担当をする母親たちも「白のハイソックス」というドレスコードの出現を極端に嫌っていたが、巧妙な逃げ道のヒントを与えたのは、同じ「少年」でもマウンドに立つ団員兄弟姉妹たちだった。少年野球のユニフォームというものはたとえ炎暑の白昼であっても上下ともレイヤーの重ね着で、半袖は可でも下は長ズボン。ソックスでさえ2枚も身につけている。ジュニアの試合なので定められた規則にのっとり服装を略したりくずして着たりなどの例外というものが無い。団員兄弟のパパ・ママを合唱団の出演参観や送迎と取り合う少年スポーツの代表格だが、試合の日に決まりを守りつつなるべく涼しいものを着せるという親心は少年合唱の方にも通じたようだ。
「靴下がケバケバになるから、裏返しになるように脱ぎなさいって言われて、そうしてます。」
男の子は夏のクルー丈だが今日も確かに平織りのソックスを履いている。酸素系のブリーチが効いていて、清潔そうな白い靴下が、真っ黒いボーリングピンのような日焼けた下肢に洗剤かソフナーの「お母さんのにおい」をたてて履かれていた。
室内のパーティーがそうして大騒ぎしながら楽曲のおおかたを演じて外へ出ると、カーテンの向こうには光庭へ向けてプーさんのハニーハントを待つ人の群れが作るような陽気な順番待ちの列がごしゃごしゃと形成されていた。並んでいる者は第8展示室に飾られた写真版の「家のインスタレーション」を眺めたりして笑っている。美杉太一が毛羽立ちを防いで洗濯されたソックスのつま先を今まさにセイシェル・ブルーのスニーカーの中に突っ込んでつま先で歩き始めようとした刹那、「それから、お話はもう少し小さい声か、無料の交流ゾーンでなさってください」と、監視員女の言葉が背後から突き刺さった。男の子はそれに感応して尻を突き出したまま振り返ると、何かが目にとまったのか暫くの間、動作を止めた。

 無料スペースだけが「会話も可能なエリア」というわけではない。
手ぶらでふらふらと「元・少年合唱団員」のボーイアルトにくっついてくる合唱団指揮者に少年は尋ねた。
「先生、何しに来たんですか?」
太一はツクバネ色の太ももをラ・マリーの透けた座面の前でぴっちり閉じた。
「太一君。ここは1960年代から21世紀初頭にいたるまで、日本の少年合唱団の所在地の北限にあたる場所だったんだ。ここより北に在るボーイズ・コーラスは今では1つあるが、15年ぐらい前までは、ここにあったものが最北だった。」
男の子はマメ芝のように黒い顔の真ん中をくちゅんと小さく突き出して、鼻の頭の痒さを凌ごうとした。
「この建物の隣へ行ったことがあるだろう?」
たわんだガラス壁をへだて、ローンの向こうの盛土になった道路へ朱とゴールドの塗装をなびかせた路線バスが通り過ぎる。低層のビルや郵便局のガラス窓が静かに此方の街路樹の影を受け止めていたが、その背後には県立美術館の森がつづら折に広がっていた。男の指さす南の方角は、この施設の茶室群の切妻に遮られ、見通すことができない。
「観光会館で歌ったことはあるか?」
「ありません。」
「ここのすぐ隣の建物だよ。」
男の子はやはり口を閉じて一瞬考えを巡らせた。
「先生…となりの建物は観光会館とかじゃありません。歌劇座です。」
「歌劇座を知っているんじゃないか。」
座したまま下半身を前後へ振ってクリア・ポリカーボネートの椅子を慣性の法則で前方へと歩かせようとした。
「『オーケストラと少年少女』で乗ったんです。ぼくは歌。お姉ちゃんも転校してきてすぐに。」
ミルトン3の脚をきれいに振って前後の揺れを確かめようとしている。
「今でも2階の奥とかにアップライトピアノの置いてある会議室みたいな部屋があるだろう?」
男の子は知らないので、かぶりを1つだけふったきりだった。
「この歌劇座が、日本で一番北に残った少年合唱団の練習場だった。…合唱団があったとき、建物の名前は未だ市観光会館だった。子どもたちが毎週ここへ来て歌っていた。」
指揮者は当地へ降り立つと、何かを確かめようと必ずそこへ足を運ぶ。地下の「ほんだの森」でカレーライスやナポリタンといった手作りらしいがありきたりの70年代ふうの腹ごしらえをし、出来あいのアイスコーヒーやココアを飲む。そうしてホール棟階段室地階奥の茶色い水の出るトイレで用を足し、戻れば階上で練習を終えた少年たちが何かかさこそと言葉を抑えながらロビーを通り抜けてゆく気配が感じられるのだった。
「先生、じゃあ、なんでそんなことのためにランスロットを連れて来たんでしょう?」
美杉少年は、今度は子どもの黒い脚をガラスの壁の前のガラスのような椅子の上で組んだ。
「先生は、もう歳だから物忘れがひどい。ランスロットは先生の記録メモリの代わりに連れてまわってるんだよ。」
「先生、『メモリ』…って、ボーイアルトは機械じゃないんですから。しかも、なんか、もうとっくに無くなっちゃって誰も歌声を聴いたことが無いような少年合唱団の練習場を見に…」
館内には太一のグループだった子どもたちの他にも、まだ回遊中の小学生の群れがいくつも散開していた。マップのようなものを見ながらあちこちを指さす高学年男子たちの集団が、座している太一の姿を見つけてイイカゲンに手を振っている。
「美杉君、君がもし今だ私の合唱団の団員で、毎日つらい目に遭いながら方々のステージに出かけて歌っているとしたら、もう15年以上も前に無くなってしまって何も残っていない少年合唱団の歌声をもう一度だけ聞いてみたいとは思わなかっただろうか?」
男の子は一瞬、左の腕を裏返しにし、湿潤なオレンジバーミリオンの唇で肘に近い二の腕をぺろりと舐めた。微かな塩気を感じた味蕾がすべった後に唾液の滑走がヴォールト状に光沢を放つ。
「思いません。…だって、もう無くなっちゃった昔の少年合唱団でしょう?」
「いや。だから先生はランスロットを連れてきたんだ。こいつにだけはそれを聞かせたくて、連れて来たんだ。」
美杉太一は静かなオレオ色の頬を振り、ランスロットの方を凝視しながら尋ねた。男の子は何が気になるのか、再び瞳孔の動きを止めて「合唱団員」を注視してしまう。
「…それで、聞けたんですか、先生? この町に在った少年合唱団の歌声…、ランスロットと聞けたんですか?」
「さあ、それはランスロット本人に聞いてくれ。先生は歌劇座の練習室でタンホイザーの『歌の殿堂』と『春の日の花と輝く』を歌っている少女のようなリボンタイをしめた団員たちの面影を見たよ。」
だが、現役ボーイアルトの方は歌うときと同じ弛緩した重心の低い姿勢のまま、憐憫をそこはかとなく感じさせる視線を2人に投げ返しただけだった。美杉太一はここで赤いストラップをぶる下げたボランティアの男に見つかり、金コテ仕上げのコンクリート床の中央から声をかけられた。
「キミ、何時何分に集合か知ってる?スタルクのイスはキミの家の近所のお金持ちの家でも見れるでしょ?限られた時間なんだから、ここで一番好きな場所へこれからすぐ行くといいよ。」
太一は絞まりの良い男の子の尻を大ざっぱに覆った半ズボンのすそをぎしぎしとよじって、温めていた熱可塑プラスチックの透明な座面を見ながら起立した。それから、どういうわけかランスロットの頭をさらさらと撫で、しっかりと握手をしてその手を引いた。
 
 歌劇座を臨む敷地の南に沿って石垣が切られ、県知事公舎との間に西外惣構堀の澄んだせせらぎが、涼しげな水音をたてて流れている。流れはやがて柿木畠へと至るのだが、春夏秋冬の最も清楚で秀麗な四季折々の自然物が水面を飾っていた。よい匂いのする温かい風と涼を運ぶ河岸の名も無き夏草。紅葉の木々の面影と水面と色づいた樹葉の邂逅。雫の中で瓦解した水と氷の変態の入れ子。施設を見にやってくる人々は、美しくりりしいキラキラと輝くコンテンポラリーアートの林立だけに目を奪われがちだ。ここに在る、最も清新で安らぐ美の世界に気付くことが無い。合唱団員は市役所側の橋詰から川べりの柵の内側の石垣の上へと忍び入ったが、美杉太一だけは芝生の中へ並び立つ多種多様の桜の木々を伝い、地下通路の入口の際から強引に柵を乗り越え、合流しようと試みた。
「ランスロット!ちょっとオレのこと支えてて!」
少年はさして大柄でもない小学生の開襟シャツの肩にべったりと左手を置き、そこから下支えに延びてきた左手をしっかりと握りとった。小さな瀟洒な掌は男の子の指の節くれを微かに感じさせてはいたが、隅々にいたるまで大らかで心が通い、何よりも温かだった。
「お母さんの手、みたいなんだね。」
「何が?」
「ランスロットの手。」
高学年元ボーイアルトは多毛で脂ぎり始めたこめかみの奥で心底そう思いはじめた。理解はできたが不信である。彼がそう念じつつ緑青色に塗装されたアイアンフェンスのポストの首に足がかりを見つけてよじ登り、半ズボンの股をにじってシンプルなアールのついた柵をまたぎ天面の上へ跳び降りるため足を伸ばそうとした途端、彼の体重を支えてやっていたランスロット少年の夏服のシャツの胸へ、太一のソーダ色のミルトン3の蹴り出すトゥキックがずばり勢いよくめり込んだ。
「あっ!」
声をあげたのは蹴飛ばした少年の方だった。
「ランスロット!大丈夫?先生、どうしよう?ランスロット!」
注意書きこそ無かったが立ち入るべきではないであろう場所へ踏み込んでしまったのと、仲間の生身の子どもの胸椎に至近からの強力なキックを蹴り入れてしまったのとですっかり動転してしまった。一瞬にして血の気の引いた少年の顔は万年筆のインクのような色。傍のフェンスに寄りかかった指導者はニコニコしている。
「息、できる?大丈夫?」
太一は立っている男の子の胸部を何度も見やりながら同じ言葉ばかりを繰り返している。
「平気だよ。なんともない。イタさは感じるんだけど、それだけだよ。息ができているかは少し微妙だけど、それより早く降りておいでよ。」
男の子の臀部は10ミリ幅ほどの鉄柵の上、太腿の奥のスチール棒が体の重みにべったり食い込んでいる。動転していて痛さを感じないのだ。一方、上級生アルトは今度は太一少年のミルトン3のソールを手のひらでがっしり鷲掴みにして体重を受け止めていた。これが彼の大切な仕事で、天職なのだ。
「ヘイチャラだから、降りてきて。倍返しなんかしないから。だいいち、キミの体勢は今、とっても危ない…。
二脚を伸ばし、腹を出して反り返ったまますとんと着地した子どもの身体を、石垣の奈落の底へ落下させぬよう、確実に抱きとめた。相手の殆ど無臭の息と、突然上気した子どもの腹から体熱を感じたが、何も言わなかった。彼らはそれから市役所駐車場入り口階段室の陰に有る石垣の上へ腰を下ろし、川面のたてるせせらぎの音に耳を傾けながら、しばらく何も言わずぼんやりと時間をつぶしていた。太一少年は渇きかけた喉をきちきちな水気で潤す情景を頭に描きつつ傍にいる者のことを思った。水飲み場も冷水機も殆ど見当たらない施設だったからである。

「あんなプールの底で同じ格好をした小学生がごしゃごしゃいたのに、どうしてキミは僕だと気付いたの?」
太一らのパーティーは再び第6展示室の脇を抜けて水底へと至る階段を向かい合わせのような体勢で話しながら降りている。
「それより、君もプールサイドから僕のことをじっと見上げていたよ。まるで昔から知ってる子だと分かって眺めているみたいに…。」
「だって、制服の着方がバッチリきまっていて違うもの。水を通して見るからぼんやりしていて、そういうのが余計に目立つ。他の子と違う。」
「違わないよ。シャツはちゃんとみんなズボンの中に入れてる…」
「シャツをズボンの中に入れなきゃいけないのは、学校の決まりだからだよ。出してもいい学校もあるんだよ。関係ない!」
「ともかく、合唱団の子だってわかったんだもの。」
「学校の制服と合唱団のユニフォームじゃ、全然ちがうでしょ?違うところがいっぱいある。」
降りたところを左に曲がると、右側通行を遵守しない他の班の子たちが目前に立ちふさがっていて、彼らはお互いに進路を探して立ち止まった。
「まず、学校では胸にネームを付ける。…どこの学校でも、これと同じ形と大きさのもので、色はそれぞれの学校の学年カラーか全学年が同じ色かな。」
「合唱団では名札は付けないよね。」
「帽子は、たいてい東京の小学校だと1年生だけがかぶっているみたいな黄色い野球帽か、女子は黄色いリボンのついたメトロ帽をかぶらなきゃいけない。」
「太一くんもかぶってる?」
「1年生じゃないけどね。」
「あとは、ポロシャツの中に必ず下着を着なきゃいけない学校が殆どだと思う!Tシャツは禁止。」
「それは合唱団と同んなじだ!」
「それから、ソックスは無地で白か黒だけだね。冬は長ズボンがはけるから、アオケンみたいに制服に黒いタイツをはく男子はいないな。レギンスは女子も男子も禁止だしね。」
「…合唱団と同じだ。」
「ただ、規則の厳しい学校は白以外のソックスが禁止なんだ。俺の行ってる学校の隣の校下の子はそうだね。」
「まじ、シビアだぁー。」
「あとは、白くてもスニーカーソックスとかはダメなんだ。けっこうウルサいよ。靴もクロックスはいけないことになってる。」
「どこも少年合唱団なみに服装に厳しいんだネ。」
「ただね、クロックスじゃなかったら靴だけはかなり何でもありだよ。野球やってる子はたいていトレー二ングシューズをはいてくるし、ありきたりの俊足とかの子もいっぱいいるけど、サッカーとかの子たちの靴もそうかな。靴の色はぜんぜん自由なんだ。」
美杉太一はミルトン3のソーダ色の左足をアウトサイドキックの形にふんわりと上げてアンブロのロゴのパッドを薬指の腹ですっと拭った。
お揃いのユニフォームを着て人々に歌っている姿を「見せ」て幸せを届ける少年合唱団の子どもたち。皆、服装の自己管理に早晩慣れてくる。また、着こなしの如何ががわりとシビアにチェックされ、歌声同様に評価されることも経験済みだった。ランスロットはこうして転校生の腕に触れ、温かい外皮を認識し、満足した。転校生は少しだけ驚いて身をよじったが頭の中の光は朧げだった。
一行は再度プールの水面下へ到達する。敷居を跨ぐと同時に、4年生たちがまた再びあの質問を太一にふっかけてくるのだった。
「…やっぱり気持ちが悪い。どうして床がこんな斜めになっちょるの?!」
太一は笑った。
「来年、きみたち4年も5年生になるやろ。そしたら夏になる少し前、水着の上に体操服を着て、茶色い刷毛のデッキブラシで6年生と水を抜いたプールの掃除をする。水の底だったところは去年の秋からそのまんまや。ミズゴケ、死んだ虫、土や砂、どこからか飛んできたプラスチックのごみ…ホースで水を流したりしながら、ブラシでゴシゴシすると少しずつプールの底が水色に見えて来はじめる。デッキブラシがフラミンゴの休憩時間みたいな角度のまま止まると、水抜きの穴の鉄格子が見えて、白いタイルのコースラインがちらちら見えて、去年の夏のカルキ臭いプールの底が見えてくる。その時に、きっと分かるよ。…どうして底が斜めになっているのか。斜めになっていないとなんで不便なのか。」
「どんながや!何か変!ここでは水着を着てプールの掃除はせんよ。」
「変だと思うだろ?」
「変だと思う。ほやほや、へなちこりん!」
「へなちこりんだろ?」
「へなちこりんや。」
「太一さんの顔もブラシにこすれて白うなったみたいやし!」
後はもう子どもたちの質疑も物問いも言葉もなかった。彼らは針山のような襟足をゆさゆさと赤くなった肌に揺らしながらどうしようもない衝動に突かれて笑い転げた。

 中村さんはプールの中で丸い白い窓を見ていました。

背中にサージ紺の×印のサスペンダーを背負った5年女子が、プール腰部の小さなハッチ窓をうっとりと眺めていたことを美杉太一は思い出して日記に記した。

 夜になると、ここに白いぼんやりとしたあかりがともります。日の短い冬の夕方なんかにここへ来るとそれが見られるんです。でも、この子はそのときのようすを今、心にえがいて一人で楽しんでいます。あかりは、ここと、そこと、あそこと、あそこ。4つしかありません。あんまり明るくはないんです。レアンドロさんはそれを楽しんでいるみたいです。だって、夜のプールの水の底が、昼間みたいに明るかったらぜんぜんロマンチックじゃないし、つまんないでしょう?さすがゲイジュツ家。
 それから3年男子の吉田さんは、さっきから大声でさけんでいました。上のプールサイドに同じ4組の田中くんがいるんです。メガネをかけたちょっとかっこいい子が水を通して見えました。相手ががっこいい子だからここでいろんなワケわからんことをさけぶんです。でも、上では自分に何か言われていることはわかっても、なんと言われているのか、水の波紋がたくさんたっていて分からない。プールの上はジュージューとパイプからふきでる水の音でもわからない。レアンドロさんはわざと上の子にも下の子にも気づかれないように、…でも面白がって音を消している。「こんなことしたら、やってきたお客さんたちがイタズラしたくなって、イタズラして大よろこびをするんだろうな…と想像して実行しちゃうのが芸術家のお仕事なんだなと思いました。


4年生の永田君は手をおでこにかざして窟内を見渡し、目をしばたかせている。
「ねえ、キレイでしょ?」
声をかけられた下級生はプールの中一杯に広がる波紋の投影…大きいのや小さいのや白いの、水色の(プールの内壁は「水色」のペイントで塗られているからだ)、青いの…様々なゆらぎの形を両の掌でふわふわと撫ぜて「きれいや!」と言葉を発した。

 プールの中いっぱいに水のゆらゆらがうつるように、ガラスの上に流れている水のかさや流れ方がくふうしてある感じでした。レアンドロさんが考えたんだと思います。
それから、松本君が泳ぐマネをしています。リクさんはマルモリダンスをおどっています。青束さんはここへ来てすぐ床に大の字になってあおむけに寝た。さっきから上でのぞいている人に手をふっているだけの6年生もいます。でも、プールサイドにいる人に見てもらって楽しんでいるんです。それは、だれも上から見てくれなくなったとたん、みんなで手をふるのをやめてしまったからです。


 美杉太一はここで日記ノートの間にHB鉛筆を挟んで一呼吸置き、上から携帯のファインダーを向けている客たちに手をふって応じたことを思い出し、こう書き添えた。

レアンドロさんのプールは面白いです。大人の人はどうなのかわからないけれど、子どもがここで何をどうやって楽しむかはみんな一人ひとりちがいます。ちがうのに、みんなここに来ると楽しいんです。学校の4年生の子から6年生までの人で、「楽しくなかった」と言っている子をぼくは一人も知りません。レアンドロさんは、そのための準備をいっしょうけんめいしてくれている。プールに仕かけをしといてくれている。どうやってみんなを楽しませようかなぁーとげいじゅつ家は思ってるみたいです。

20世紀初頭に至るまで、芸術家の主要任務は限られた特定の職階・階層の人々に品格や快楽や価値や過去を与えることだった。聖職者や王侯貴族やお金持ちやプロレタリアートやお役人のために芸術家は絵を描き、石を削り、土をこね、木や銅板を彫り、糸を紡いだ。21世紀をやがて四分の一が過ぎる日々に暮らす現在、芸術家のミッションはいったいどこにあるのだろう。レアンドロ ・エルリッヒはインタビューに応え「アートは人を喜ばせるためのものではない」と言っている。だが「観客は作品における役者であり参加者であって、さらに彼らの存在が、その様子を観る第三者を観客として招き入れる。」とも言っている(Erlich, Leandro “The ordinary? exhibition”68 p. Kanazawa : 21st century museum of contemporary art, 2014)。人力による永久機関であるアートが「楽しい」という演目の芝居を打ち続けていると美杉太一もまた思った。このミュージカルの舞台装置は実に精巧に、演じやすく作られていると彼は評価しているのである。

 プールのゆかにねている4年生は、下がななめになって気持ち悪いと言っていました。プールのそこでねるなんて、ぞっとします。ねながら空を見ていると、おぼれてしまった気分です。たしかに気持ちが悪いのです。プールはそういう気分になるように作ってあるのです。すごいでしょう?!ぼくがそう思って4年生の子たちを笑っていたら、東京から来ていたランスロット君(昔、ぼくのなかよしだった子)が、
「太一くん、多分そうじゃない。ちがうと思う。」
と言いました。
「プールのそこにケイシャがついているのは、ぼくたちの声のせいなんだ。」
と言いました。


「ぼくたちの声?!」
美杉少年はかつて合唱団員だった経歴から、うつけたように声をあげた。光庭で、この声量は誰も制止の対象として感知しない。
「こんな閉鎖された部屋で床が天井と平行で、ガラスのようなツルツルのものが壁面に使われていれば、必ず反響が繰り返される。『鳴き竜』って知っている?それがこのプールの下にも起こってしまう。かなりやかましいはずです。…レアンドロのプールの床に通路側へと傾斜が付けられているのは、反響をプールの入り口に逃がすためなんだよ。いつか、どこかの小学生のぼくらのようなたくさんの子どもが、ここで叫んだりするのをレアンドロさんは判ってたんじゃないかな?」
太一少年はようやくこれで踏ん切りがついた。

 アリーナのためのクランクフェルト・ナンバー3。同心のグリルだけが地底の導管によって繋がっているのだと言われている。ボーイアルトたちは指導者を広阪側に残し、連れ立って建物の逆サイドへと達した。最後に結局ラッパの一つへランスロットを宛てがって静かににこやかにそこを離れた。銀の朝顔がいつまでも光を受けている。「ここで聞いていてね。」と、チョコ色の掌をボーイアルトの右腕に添えて押し当てる。「熱いよ。」と焼けたアルミニウムの花弁に触れている子が言った。
「建物の地下を通って管が建物の向こう側とつながってるってウワサなんだ。向こうへ行って歌ってどれとつながってるのか確かめるから、ここから動かないでいてくれる?」
白シャツの襟足が一度だけ揺れて肯首する。
「『気球に乗ってどこまでも』、僕の歌が聞こえたらアルトを歌ってくれる?」
太一少年は念を押した。
「じゃあ、絶対に動かないでここにいてよ。」
歌劇場側のペーヴメントを抜けて、一人きりで指揮者の元へ戻ってきた美杉太一は到着の直前、しっかりと一度だけもと来た道を振り返った。
「先生、あれはランスロット君じゃないような気がする。…っていうか、ランスロットじゃないですよね?」
「そうか、ランスロットじゃないか。」
男はカラーアクティビティハウスのシアン側の中にいる。傍らには肩をすぼめた少年。天光を受けた真っ白い鹿の子ポロシャツが男の子の黒い体をCYMKの墨色に沈めていた。その姿が水底の出来事のごとく外縁へと透過していた。
「なんか、とっても似てる。でも、ランスロットじゃない。」
男の子の身体は今、パヴィリオンの凹面へ反映し、大げさに横幅を足していた。
「ランスロットと、同期なんです。…一度、二人一緒にアルトへまわされたときも、僕がこっちへ転校することになったときも、あいつは僕よりずっと大きかった。合唱団をやめるちょっと前、映画の宣伝か何かで、何人か本科だけでシネコンのステージに上がって歌ったでしょう?」
「ユーリがヨロヨロして、挙げ句の果てにVアコーディオンを肩から滑り落としそうになった。」
男の肢体はフランシス・ベーコンの肖像画のようにPVBのガラス面へと散逸し、瓦解していた。ボールランプの白っぽい図像の痕跡だけが世界に残っている。
「ランスロットくんの制服を間違えて着ちゃったんです。映画館の狭い会議室みたいな、なんかホワイトボードとかホールディングテーブルとかがごしゃごしゃしてるところで慌てて着替えたから。それで、ステージに出てみると、ランスロットのブレザーの腕がつんつるてんで、ワイシャツの袖が白くて、長くて、目立つのなんのって…。記念にもらった写真もリビングの飾り棚に無印良品のフォトフレームに入れてずっと飾ってある。ランスロットはアルトの中でも背が高くて大きい子だったんです。あの日、ユーリ君が落としそうになったVアコーディオンを片手でひょいって持って助けてやったのも、あいつだった。もし、僕と同じに背が伸びていたら、ランスロットの身長はもうとっくに160pあるはず。でも、この建物の向こう側に今いるランスロットは僕よりもビミョーに小さい…。」
少年は自分の頭上に掌をかざし、それを20cmはリフトアップしてみせた。
「先生、あいつのソックスを脱がしてください!こっち側の右の足です。くるぶしのところまで下げるだけでいい。」
指揮者は男の子の腕をとり、シアンとマゼンダの壁間のたわんだ回廊に引き込んだ。暑苦しい吸気が立方のブーメラン型の立体で淀んでいる。2人の姿は凸面に鏡映していた。
「ランスロットの右脚のココに…」
「フクラハギ…だろう?」
「フクラハギに大きな黒いのがある。おはぎのアンコを1個分まるまるくっつけて平らく伸ばしたみたいな…」
「ああ。メラノーマだ。」
「だから、あいつは真夏で猛暑日でも必ずハイソックスをはいていた。長ズボンにするとかえって注目浴びるし、さすがに暑いから…って。ドライリハが終わってゲネプロのギリギリまで、ユニフォームは着替えても、靴下だけは長いのから絶対はきかえないの、先生、知ってますよね。」
「ああ。メラノーマだ。取りきれないくらい大きかった。いつも隠して、気にしていた。最後は速くて、もうどうしようもなかったそうだ。」
「あれは弟とかじゃないですよね。一人っ子なんです。だからお父さんが少年合唱団に入れた。皆で心を一つにすることを覚えるように…と。」
「知っているよ。先生が面接して、それを聞いてランスロットを合格にした。あれは、弟なんかじゃない。制服を交換して着たランスロットでもない。きみがここへ転校してくれて、運良く先生はとてもつらい役目を一つだけやらずに済んだ。すぐだったんだ。プールの底のきみをプールサイドから静かに見下ろしていたのも、川へ落ちそうになったきみを支えて腹を蹴られたのも、あのランスロットじゃない。」
美杉太一は指導者の予想に反して口を閉じていた。ローティーン男子独特のあまり整理されていないがみずみずしい機能の働く思考回路で事態の概要をとらえてみようと試みた。そうして長いこと押し黙ったまま、浅紺色の凸ガラスに映る自分たちの肥大した姿を眺め、結局一言だけ指導者に問うた。
「スイッチとかは、あるんですか?…初期化ボタンとかは?」
「…あるよ。押してみるか?お父様、お母様に許可はもらってあるが、先生は押したことがない。きみに教える勇気が無かった…。先生は狡くて嫌な大人だ。ゆるしてくれ。」
「先生、なんであやまるんですか?」
「お家の方もお前がリセットしたと聞いたらお赦しになるだろう。好きなように消してしまったらいい。場所を教えてくれたら後で先生があれを拾いにいく。」
太一はそのセンサ位置とリセット・シークエンスを指導者に教えてもらった。柿木畠側のエントランスの方角へ戻っていくあいだじゅう、一人押し黙ったまま、ポロシャツの胸に両手の掌と甲を執拗になすりつけていた。汗を拭いていたつもりなのだろうか?彼の左手がポケットにピン止めされたプラスチックの校名入りネームに触れ、「美杉」とステンシルされた学年色の名札が裏返ってふるふると揺れた。

 美杉太一は4年生2学期の背格好のままのランスロットを半ズボンの黒いベルトの背中にのせるようにおぶって指揮者のもとへ帰ってきた。背負われた子は夏の終わりの少年のきつく澄み渡った快活な顔つきで、男の額の先から1メートル75センチ手前のRC造の床面にするりと腹部を付けて滑り降りた。
「先生、もう一度だけプールの下に行っていいですか?」
足が地面に着くかつかないかのうちにポケットから白いチケットの半券を取り出して上下に振り、ランスロットは伺いをたてた。
「一人で行ってこい。先生と太一が上から手を振ってやるよ。」
「…いえ、僕が『11ぴきのねこが旅に出た』を踊るから、上で歌ってください。」
「わかったよ。1番だけ踊ったら帰って来なさい。」
男の子が踵を返し、光庭の中ほどからガラスの外壁を通し、ワイシャツ半ズボンの男の子がチケットもぎの前を通り過ぎてくるりと第6展示室のキレットで右下方に方向転換をして消えていったのを確かめて指揮者は太一少年に尋ねた。
「リセット ・シークエンスの暗証番号は時々変更されるぞ。いいのか?」
「はい。どうせ使いません。」
「あれは、きみの言う通り、ランスロットじゃない。いいのか?」
「いいんです。僕といつも一緒にいて歌っていたランスロットはここにはいません。でも、最初にプールの下であの子の腕に触れたとき、とっても温かかった。川の上で僕が柵をまたげなくて支えたもらったときも、お母さんみたいに優しい、僕を守ってくれる人の手だった。レアンドロの「階段」の一番奥の部屋で、僕があいつの4年生くらいの体を横に抱えて壁へ歩かせた時、担ぎ上げた身体は全部が人間の男の子で、息の臭いもボーイアルトの声もした。最後に、ここに戻ってくるまであのランスロットが僕に『太一くん、僕をおんぶしてくれる?』ってたのんだんです。ぼくを騙そうとする子がそんなこと言って人に頼みますか?僕の背中に誰が負ぶさってるのか。かえりがけずっと建物のどこにもあるガラスの壁に映っていたのは誰の姿だったと思いますか?…先生、あの子は僕の知っている大好きだったランスロットにすごく似ている。リセットなんかしちゃだめです。消したら僕が許さない。そんなことするのは指揮者じゃありません!人間の皮をかぶった悪魔です!」
美杉太一は少しだけ額に浮き出た汗を腕の内側で拭いとった。プールの水の表面積は狭く、水面を渡る風は彼らの立ち位置に届くまでにならなかったからだった。
「でも、僕は先生に質問があります。先生は、本当はなんであの子を連れて歩いてるんですか?ランスロットを楽しませてあげようと思っているんですか?」
「あのランスロットには『楽しい』という感情認識機能は無いよ。」
「一緒にいる先生の楽しみのためじゃないですよね?…まさか思い出のため?…それとも何かの罪滅ぼしのつもりなんですか?」
「…それもあるかもしれない。…美杉君、きみも先生方やみんなと一緒にいろいろなところへ演奏旅行へ行ったね。」
「はい。」
少年合唱団のお返事の選択肢は、強い現実的な否定の場合以外は全て「はい」なのだ。
「何のための演奏旅行なんだ?歌を歌って聞いてくださる人たちを幸せにするためだけだったら、別に電車やバスに乗って泊まりがけて歌いに行かなくても良いだろう?どこでもできるんだ。そんなこと。」
「合唱団の子でもお客様でも無いかもしれないたくさんのたくさんのすてきな子たちに会うためです。先生、僕の大好きな大切な夢は、その時にあった子たちとまた会う夢なんです。」
「そうか。今度その夢をみたら、彼らに尋ねてみてくれ。『きみたちは、何のために生きているの?』とだけでいいから。」
「先生、そりゃ夢の中だって『わからない』と言われるだけですよ。あいつらは、ただ自分たち自身が『良い子』でいるためだけに生きてるんですから。」
「先生が『きみらは本当に友達想いの何でもがんばる良い子たちなんだなぁ!』と感心すると、あの子たちは揃って『はてな?』という顔をする。」
「良い子になってご褒美をもらおうとか、ほめてもらおうなんて思ったことも一回ぐらいはあるんだろうか?」
「また、楽しい夢が見れるといいな、太一君。」
「はい。」

 冥府からの階段を抜けて、その子がプールサイドへと戻ってきた。当然のことながら、彼は一度も後ろを振り返らない。
「美杉君、僕と一緒にプールの下で何か歌わない?」
底にいて何か会話を交わす陸上の2人を見ているうちに、ここで腹の底を震わせてしっかりと歌いたい…という「衝動に駆られた」そうだ。
「先生、上から棒を振ってくださいますか?」
何がふるえ、いかにもランスロットの骨格を震わせたらしい声になっているのだろうか?地声のアルトである。だが、教師は意外なことに大きく確信をもって頭を横に振り、求めを拒んだ。
「先生のタクトは必要ない。二人で歌っていった方がいい。先生はしっかりと責任もって上から見ていてあげるから。」
それから男の子たちは歩き始めつつ視線を交わした。再びコレクション展のチケットをひらひらさせながら小走りでプールの下へ戻ると、プール縁石の アールからは少し離れたステンレス梯子のプレッツエルのような形の日陰の傍へ並び立ち、どちらから促されるともなく、身体と脚とで拍子をとって歌いはじめた。微かに横へ傾けた顔を合わせ、目で合図を交わし、「いち、に、…いち、に、さん、はい!」の肯首でタイミングを合わせ、

  ♪There is a place where I can go...

コンパクトでビブラートの薄いコーラスを作り始めた。自分が高低どちらのパートで、歌いだしの音がどの高さで、どんなボリュームで歌うのか、何の打ち合わせも長ったらしい目配せも起こらなかった。太一は4年生の頃にランスロットと毎回のコンサート終演の解散後歌っていた曲であったし、その子は優秀な日本製のセンシング・ユニットがとらえた数マイクロセコンド未満の情報を瞬時に解析し音声発振の機構へとフィードバックしていたから。指揮者は少年たちのプールを見据え水面下20センチ下のガラスを通してインディアン音階の土臭い二部重唱を静かな面持ちで見ていた。男はただ、呼吸へと費やす気体の交換がなるべく自らの耳骨に伝わらぬよう注意して見届けることができれば、もうそれだけで良いと思い、少年たちの歌声は小部屋の音響を乱すことなく、すっきりと水はけの良い響きを伴って続いていった。

 明るい、清爽な晴天を押して「雨」が降り出した。SANAAのきのこベンチでフルーツバスケットに興じていた子どもたちはイイカゲンに頭頂を手の甲で覆ってガラスの建物の中へ逃れ、取り残された銀色きのこの座面の凹みに大粒の雨滴が涙の池を作った。夏の標準服姿の小学生たちはキッズスタジオに遁走同然に帰投し、エアコンの冷気を浴びながらそれぞれにうがった視点で切り込んだ感想を皆の前で述べた。じき、帰港の時刻がやってくる。美杉太一は『ログキャビン』の暖炉の火の炎が静止する一瞬を見たとだけ言って、第11展示室の『階段』の1階の床(?)に、人間ではないランスロットを体側から両手で抱え上げ擬似歩行体験をさせたことと、プールの底の傾きの一件については黙っていた。その一件は多分だれかが面白おかしく発表するだろう。下級生の誰かの話題を自分が奪うわけにはいかない。彼はそうして赤いランドリーカートに投げ込まれた大きめの黄色いポリエステルの野球帽をいくつか引っ張り出し、黒いネームペンで「美杉太一」と書かれたネームタグが後頭部についていることを一瞥してかぶった。バスまでの道すがら、前庭の水分を含んだコウライ芝からもらった雨滴が、きつねのよめいりのレモンカード色の陽光を受け、ミルトン3のメタリック ・スカイブルーの足の甲にキラキラと輝いた。バスに乗りこんで引率の先生がたの短いお話があり、車輌が元城下町独特の不規則な交差点を幾つか抜けても彼は建物を振り返らなかった。

 とけい皿の大きさもある同心円は夥しく天蓋を覆い、一人の男と、その体側に開襟シャツの肩をそばだてた「男の子」が水の石室の一隅へと立ち尽くしていた。数万個に満ち満ちた青薔薇のブリザードが互いを押しやりつつ、水面叩く微かなクリック音の中で一斉に新生しているのである。豪雨の去来。驚愕の眼差。ジェイムズ・タレルの構築物はもはや腰板まで人々の齢を蹂躙していることだろう。
「今の太一はお前みたいなのをおんぶしたり、体を抱きかかえてレアンドロの『階段』の 「床マット」の上に「立たせ」たりできるんだな。」
「重かったでしょうか?」
降雨はさらに勢いを増し、明るかったはずの戸外は芝生の上にたった水煙で明度も彩度も欠いている。
「重かったんだろう。あいつは喜んでいるみたいだった。…背中のお前に何か言っていたかい?」
「はい。」
少年はハッカ飴の息で答えた。
「平織りのソックスは、裏返しにして洗濯機に入れなよ…って言ってました。」
「それだけかい?」
「それだけです。」

 プラチナ色の虚空。内包を解き続ける新月の形。過剰なモンスーンは驟雨の道筋を揺らし、頭上を蓋ぐ高透過強化ラミネートガラスへと描かれ続く模様に移ろいを与えている。自然現象が止めども無く天を打つ尋常とは程遠い光景であったが、その頬はすっかりローズヒップの色に輝いて、見開く瞳孔と眼瞼の下、温厚な口唇をたわませた。そうして少年は傍らの男の眼差しに向かい、答えを返して口をつむった。降雨時には即時プールの切られた光庭へのドアを閉鎖する施設の定めによって、水上から彼らを見下ろす何ぴともない。2人は波紋の現れては消える水の裏面から、いつまでもいつまでも黙ったまま、じっと無人のプールサイドを見上げていた。

RoboChor(ロボ・コーア) JAPAN プロジェクト 2050 TOKYO

June 12 [Thu], 2014, 23:39

By 2050, develop a fully autonomous humanoid robots that can sing within the human world famous boy choirs.

(西暦2050年までに、世界の有名な少年合唱団のステージに立ち人間の少年に混じって歌える自律移動型歌唱ロボットを作るプロジェクト)

「先生!…コーキ君が、もうダメみたいです。」
「バイタルは取れるか?」
「だめです。死んでます。」
「バカ言うな!ECGは?振れてないのか?!」
「どこで見るんですか?」
「首の後ろにパルスがあるだろう?」
「無いです!」
「無いってのは、死んでるってことだぞ!見て分らなければ触れて探してみろ!」

15人の少年たちと一人の男(「女」でも良いのですが…)が夏休みの嵐の船旅の果て、絶海の孤島へと流れ着いた場面です。翌朝、砂浜で目覚めた彼らは、コーキ君が動かなくなっていることに気付き、動転している。…私たちのチームがこのプロジェクトの俎上で最終的に提起した緊急事態の一つは、いささか常軌を逸しているようにも見えますが、一生に一度起きるかどうかの極めて稀ではあっても「決してあり得なくもない」状況を考えることでした。少年合唱団の仕事は歌を歌って人々の精神を慰め、同時に少年たち自身も歌を通じて個々を伸ばし、心の施肥を享受することにあります。歌うことを通し得ることが何も無ければ、子どもの歌声は単純に甲高い未成熟な声帯の共鳴振動に過ぎません。つむいだハーモニーが聞く人々を波状に薙ぎ倒してゆきながら、観客を陶然とさせ、慰撫してゆくさまを見たり感じたりすることが無ければ、延々と続く「苦行」とも言える長時間の練習に変声前の日々を投げ与えてゆくことなど、齢10歳前後の小さな肢体の人生経験の浅い彼らにとって到底最後までつとまることとは思えません。シミュレーションの呈示がなされる前、工房のおおかたのスタッフの選択は「簡単な生活防水程度の規格」の搭載というものでした。そもそも、コーキ君の計画段階の時点で、大雑把に言って「少年合唱団員のロボット」というものをイメージした経験のある人は世間一般でも皆無に近かった。声変わりした少年の咽頭にアタッチしてボーイソプラノを維持するようなサイバーパンク趣味で介護用品的意味合いの強い機具。鏡音レンを筐体にインストールした縦型自走式のミュージックボックス。「不気味の谷」ド真ん中の、シリコン製美少年の外皮の上から半ズボンをはかせた自律二足歩行するマネキン。周囲で歌っている少年たちの歌声を数瞬のレスポンスで電気的にトレースしイコライザーを通して単声に収斂、センドバックするヒューマノイド型の拡声器。はたまた、無駄に百万馬力(およそのワット換算で7億5000万ジュール/sです)のスペックを持っている歌も歌えるマルチパーポス型の鉄腕アトムのようなもの。…私たちのチームの中でも、一人一人が「少年合唱団員ロボット」に対して抱くイメージは千差万別で関連性も脈略も無く、それぞれが全くてんでばらばらで散開していました。少年合唱というものはしばしば「天使の歌声」と形容されます。センシングやプログラム制御がキモであるロボティクスからまさに対極に置かれていると考えられる「領域」でもあります。未知で未確定で色も味も匂いも方向性すら決まっていない曖昧模糊とした地平に一歩を踏み出すため、私たちのワークショップでは上記のような「少年合唱団員ロボット」のイメージ型を一通りカンタンに試作し、眺めたり触ったり叩いたり話しかけたりしてみました。そして、ようやくたどりついたスタート地点の道標に書かれていたメッセージは、おそらく、穏当で正しい目的地へと導く絵姿は、当時の私たちの頭の中には存在などしていないということでした。そして、試練や挫折は多いかもしれないが、正しい道をきっちりと指し示すコンパスは研究室や工房の机の上などには決してポンと置かれていない。「事実は会議室で起きてるんじゃない!現場で起きているんだ!」…。私たちは毎週水・土・日曜と遊びたいのを我慢して活動の「現場」である合唱団の練習場や出演のステージへとはせ参じる合唱団の少年たちの隊列の間に正解への道しるべが隠されているのではないかと思い至りました。

 実物(?)の少年たちを前にして、完成品イメージの陳列棚の中から最初に消去された図像は「合唱団の制服姿でステージに投影された鏡音レン」というものでした。
 クリプトン・フューチャー・メディア(株)の大ヒット商品「鏡音レン」は声も姿も時には動きも人間のインプットによって作動する優秀なキャラクターイメージ(ボーカロイド)です。人がプログラムを作り、音楽や歌詞を入力し、プロジェクターで出力を投げない限りは何の働きもしません。自律型のロボットとは言い難いのです。
一方、私たちのRoboChor(ロボ・コーア)プロジェクトは「西暦2050年までに世界の有名な少年合唱団のステージに立ち、人間の少年に混じって歌える自律移動型歌唱ロボットを作る」という人類未踏の計画です。五線記譜法で書かれた楽譜を光学センサで認識することもできますが、チューターが口頭で与えた指示などのアナログ情報を周囲のヒトの歌声やピアノ伴奏など、その場の環境データとともに演繹処理して適切な音量・ピッチで筐体に開いた発振装置から出力する。シモ手舞台袖から人間の団員たちとともに入場して山台に列を揃え、指揮者の指示通り挨拶をしたり手を振って終演のお別れをしたり、簡単な演出の振り付けやセリフをこなしたり、スタンドマイクの前へ進み出て曲紹介をしたりすることも当然、最低限のデフォルトの基本性能として要求されていることになります。小学5年生の男の子の背丈くらいの全高で、二足歩行ができ、当初の計画では生活防水でした。
 ここで、冒頭の「無人島へ流れ着いた少年合唱団」の逸話が生きてきます。浸水して「機能停止」に陥ったロボット団員を少年たちは再起動しようとします。指揮者の先生でしょうか、引率の大人の男がそのための指示をいくつか子どもたちに投げています。私たちのスタッフのうち、知的エージェントを担当するメンバーが特にこの状況に興味を持ちました。ロボット三原則の存在を挙げるまでもなく、本来、ヒューマノイド型の被造物は「人間を守り、サポートし、それゆえに自己防衛をもする」という基本的な役割を担っています。ところが、無人島に流れ着いたロボットは自己防衛ができておらず、それゆえ人間の子どものサポートを受け、人間に守ってもらっている」という逆転状態にあるのです。
 実際の少年合唱団のバックステージを見ていると、年長や経験者の団員たちがごく日常の行為として周囲の子どもたちに気と目を配り、世話を焼いている姿をしばしば目にします。私たちが彼らの負担を軽減してやろうと、こうした団員たちに「今、少年合唱団員のロボットを作っているのだが、きみなら どんなロボットが欲しい?」と尋ねると、彼らはみな異口同音に「こいつみたいなロボットだったら面白いかな?」と、彼の腰に汗をかきかきへチャリとしがみついているような下級生を指さしたり、「休憩時間や楽屋での待ち時間にチビどもと遊んでやるのが楽しい。ロボットと遊んでやりたい。」と言ってみたり、「オレらは出演前に予科生上がり(ステージメンバー1年目の団員たちを彼らはそう呼んでいるようです)をオシッコに行かせて、全員チャックがちゃんと閉まってるか確かめて、ユニフォームのベストがベルトの上にきれいに下りているのを見てからシモ手袖の中に返すんです。ロボットもションベン行きますか?なんだ、トイレとか行かないんだ?つまんないかも…」とぼそりと呟いてみたりしました。また、私たちのうち、一番子どもあしらいの上手い学生にそっとすり寄ってきて、「すっごく手間がかかって面倒っちいし、泣き虫なヤツだけど、おれ、コイツのことが好きだから、ロボットの下級生は要らないです。」と口止めして傍らの巻き毛の男の子を目線で指し示した少年もいました。彼らは自分たちの代わりに団員の面倒をみてくれるような便利なロボットの出現を望んでいません。彼らを舞台裏でサポートし任務代行してしまう機械の存在は、彼らのヒトとしての心の伸びしろや将来への楽しみの機会を大きく奪うことになりはしないか…と私たちは確信しました。彼ら自身もまた、同様に小さい頃は上級生たちから可愛がられたり面倒をみてもらったりしながら少しずつ少年合唱団員になってきたに違いありません。私たちがもし、一人の「少年合唱団員」を真摯に謙虚に作りたいと願っているのならば、「人間に守ってもらい、サポートしてもらい、それゆえに自己防衛もしない」被造物を彼らの日常の隊列に送り込んで「少年合唱団員」にしてもらうしかないという結論に至ったのでした。

 これと関連し次に、テスト運用のマシーンを少年たちの隊列のどこに配していくべきかという受け入れ側の問題が起こりました。工房では既にロボットの機能の基本設計が出来上がりつつありましたので、こちらとしては主旋律を歌うソプラノ声部よりは、カウンターパートのアルトやメゾソプラノ低声などで運用して、プログラムが正しく動くかどうかの検証をしたいという希望がありました。特にセンシングのチームからのリクエストではあったのですが、合唱団の子どもたちの合唱というものは、歌う度に声が違っている。同じ曲を歌っているはずなのですが、彼らはカンタンにUVメーターを振り切る絶唱をすることもあれば、どんよりとくぐもった声しか出ない日もあって、ともかくオンデマンドで対応せざるを得ないわけです。ですから、コーラスのリードをとることが多いソプラノ声部よりも、耳をたよりに他声部に対応してゆくことが求められる下のパートに私たちの食指は動いていたのでした。

 続いて工房は「不気味の谷」の問題を早々に解決しなくてはいけないという必要に迫られました。
試作品を実際の少年合唱団へと送り込み、テスト運用をはじめた段階で、私たちは少年らにロボットの正式な名前を伝えていませんでした。「これからみなさんといっしょに歌を歌うロボットです。」といったような紹介をしたと記憶しています。私たち制作サイドとしては、合唱団で預かっていただいている試験運用のマシーンは何台かある試作ロボットの一台でしかありませんから、「○○班の3号機」ですとか「音声認識テスト用−B2」などと呼んでいました。パーソナルな名前や愛称を付けておくという発想自体がそもそも無かったわけです。ところが実際にロボットを合唱団で試験的に使っていただいて、次週練習場を訪ねていくと、少年たちは何の頓着も抵抗も無く、私たちの作ったテスト用の機械を「ロボちゃん」「ロボっち」「ロボ・ソプラノくん」「ロボロボ」「ロボ太郎」等々、勝手に名前を付け、愛着を持って呼んでいる場面にまま遭遇しました。彼らにとって、それが単なるプロトタイプ群であっても、自分たちと日々厳しい練習を積み、日々ともに声を合わせるものであればそれは大切な大切な「旅の仲間」。たとえ機械的で事務的な「業務上」の名称やプロジェクト番号がついていても、少年たちの温かい心にそっと沿えるような名前をきちんと付けてやる必要があると私たちは考えました。そこで我々の工房の正式な名称の一部から「工機」という単語をもらい、カタカナ書きにしてロボットに与えました。私たちは子どもたちへ正直に事情を説明し、「名前を付けるのを忘れちゃっていてごめんなさい。これからはコーキ君と呼んでやってほしい。」と伝えたところ、その日の練習の終わりにはもう「コーちゃん、またね!」「こーきん、さよなら!」「それじゃあ、あっしは中つ国に帰るぞ、いとしいコーキしと!」(<- もう、意味不明デス)等々、すっかり打ち解けた様子で声をかけられて別れの挨拶を交わしていました。中には「おじさん!コーキ君の苗字って何ですか?もしかして、『ロボ野』だったりして…」などと、私に声をかけて帰ってゆく団員さんもいました(彼はその後、その自説を吹聴してまわったらしく、「コーキ君の本名は、『ろぼ野コーキ』って言うらしい」とのウワサが都市伝説のごとく(笑)団員たちの間でささやかれるようになりました(?!))。

 コーキ君の仕様については、おそらくみなさんが「えっ?まさか!」とお思いになるような作業をいくつも重ねながら作り込んでいるのです。そんなもの、適当でいいじゃない?…というレベルですと、例えば、コーキ君の声は彼の少年合唱団員としての「パーソナリティー」(?!)を形作るものの根幹ですから、時間をかけて慎重につくりこんでいきました。本来、ボーカロイドなどですと実際の人間の声を録音してソフトウエアに貼り込むというサンプリングのような作業をして済ませます。私たちも当初、コーキ君を試験運用していただく合唱団の団員さんのどなたかの声を録って使わせて頂こうと気軽に考えていました。ところがよく考えてみると、これが非常に不自然なのです。コーキ君の声は他の現役団員さんの完全なコピーです。これが実際に運用されますと、何か一曲歌っても、全く同じ声の子が2人もいるわけですからハッキリとではなくても、感覚的にどうしても耳についてしまう。単純に言えば、一人の少年の声量だけ2倍になって聞こえてしまうわけです。昨年卒団の中学生OBで未だ変声していない中学生の声を使おうとしたこともありました。…これが同様に良く無い。周囲の団員に比べて上手すぎたり、声が良過ぎたり、当然ちょっとお兄さんっぽ過ぎたりしてどこか突出するのです。どの団員も等しく合唱団とともに成長し、皆ととともに歳を重ね伸びて行くのだということを思い知らされたエピソードです。私たちのプロジェクトの目標はあくまでも「ロボットを合唱団の一員に!」ですから、こちらの声はあまり目立ってほしくは無い。もちろん、コーキ君の出力を恒常的に絞ってUVを低減させることは簡単にできますけれど、それではロボット本来の目的からはさらに離れていくことになると思ったのです。
 結局、私たちは市販されている音楽CDから、既に変声してしまっているに違いない男の子の声を選ぶという煩雑な作業を自らに課すこととしました。似通った声を排除するということから、最初は1960年代に録音された上高田少年合唱団や西六郷少年合唱団のアナログレコードから、代表的なソリストの声を抽出してサンプリング処理をしました。…ところが、出来上がった歌声を聴くと、なんというか…「カビ臭い」というのか、録音された当時はきっと現代的でキリッとしたカッコいい声だったのでしょうが、どうにもイタダケナイもっそりとした昔の男の子の歌声のようなものが出来上がりました。違和感ありまくりです…!これに懲りた私たちは、次に5年から遅くとも10年前ぐらいの至近に録音されたCD音源を当たることにして、そのうえで「誰かの声のマル写し」というイメージからなるべく離れておくため、「そもそも、コーキ君は本来どんな声であるべきか?」というコンセプトのようなものを皆で考え、それに沿った少年の声を選んで来ようということになりました。上高田少年合唱団や西六郷少年合唱団という選択肢をいったん捨てておきながら、彼らが主題歌を歌っていた「鉄腕アトム」ですとか「ビッグX」(?!?)のキャラクターの声を挙げるスタッフがいて、可笑しかったです。また、抽象的に「こんな感じの声」という説明をしているうちに、どうしてもアニメやドラマの登場人物を例示してしまう自分たちの性分に我ながら苦笑してしまったものです。結局、スタンリー・キューブリックの映画『A.I.』にアンドロイド役で出てくる子役のハーレイ・ジョエル・オスメント君の声が良いというところに話はまとまりました。オスメント君はアメリカの子役で、英語話者なのです。このため、日本人の少年合唱団の団員をつとめるコーキ君の声の設定には、彼の身体やイメージに合った日本人の子どもの声をサンプリングする必要がありました。映画『A.I.』の日本語吹替え版などを観てアテレコ子役さんの声なども聞いてみましたが、どうもしっくりきません。結局、当初の予定通り男の子がソロを歌っていそうなCDのネット配信を手当たり次第に試聴してサンプルとなりそうな子どもの声を手作業で探し出そうということになりました。
 有力な候補はすぐに見つかりました。1本は比較的一般に流通している音源で、「きかんしゃトーマスのテーマ」の中間部に「パーシーもいるよ!」とセリフを挿んでいる少年。もう一本は「心を育てるリサイクル」という環境保育の書籍にバンドルされた範唱CDで「リサイクルレンジャーのうた」という曲のソロをとっている少年。私たちは著作権法等に留意しながらこれらの声を機械分析で解析し、歌っている少年の骨格や表情筋の特徴、体格やだいたいの年齢などをはじき出し、比較的ジョエル・オスメントの表情やイメージに近い少年であると確信しました。調べてみると、この少年は他にも商品録音をしていることがわかり、私たちは入手した音源データをもとにコーキ君の声を抽出・分析のうえ美しく合成する事に成功しました。こうして出来上がった声のデータを合唱団の先生方にお聞かせし、感想をうかがいます。ただ、元になるCDの曲を流したとき、1回だけ歌をお聞きになって「この声の感じだと、実際はアルトの子なんじゃないかな…?」とおっしゃられたのが印象的でした。哀感をまとったキュッとした上品な声質で、スタッフの中には「実質はロボットなのだから、もっとエネルギッシュなイメージの声が良いのでは?」と危惧した者もいたのですが、コンサートで子どもたちを実際に歌わせている先生方からは、「個性にもよりますが男の子の声質は少し陰りがあり、微かに硬め・低めで底力を感じさせる方がお客様には喜ばれるようです。」「軽く、華やかな甲高い歌声が、少女のような可憐なイメージを与えがちだからでしょうか?こちらの声の方がおそらく少年の声としては好まれると思います。」「今、ここの合唱団で歌っている子の中にも『泣きのメゾソプラノ』などと呼ばれ、ファンもいる団員がいますよ。」などと、コーキ君の声質にはとても好意を寄せて頂きました。

 早々に声の方が決まったのに比べて、コーキ君の「肉体」ともいうべき筐体の仕様や意匠については私たちの逡巡が多く、なかなか「このセンで行こう」というアウトラインすら決まらない日々が続きました。
筐体のサイズについては、「中味」を担当するサーボ・アクチュエーション関係のスタッフから、設計段階で「これ以上コンパクトにすることは可能だが、エネルギー効率のすこぶる良い10歳の人間の子どもと一緒に行動することを考えると、あらゆる意味でクオリティーを保証することができないかもしれない」といったことを再三言われていて(…つまり、ある意味での限界ということです…)私たちは当初からマシンをこれ以上小さくするということは考えていませんでした。どんなにタイトに外被をかぶせても、6年生の中のずんぐりとした子どもぐらいのマウントになってしまう。ボーイソプラノとして重要な発声の機構は、実はボディ(胴体)部にメインの高精度電気人工咽頭(発声装置)が格納されていて(頭部に私たちの工房で作った人工咽頭を付けると共鳴の少ないチャチなプラスチック振動版の音しかしません)、現在の技術でもロボットの「頭」にあたる部分(いくつかの大切なセンサを小型サイズにすることは比較的容易にできるのですが、胴体については現状の大きさで手を打とうということになりました。
続いて、私たちはコーキ君を二足歩行する商用ヒューマノイドロボットの仲間たちと同じようにコーティングボディのまま機械人間の外見でずっとお客様に見ていただくか、少年たちと同じようにステージごと衣装替えがあって、ユニフォームが映えるようなソフト・ロボット(誘電エラストマーアクチュエータなどで稼働する柔らかい人工筋肉のロボット)としてステージに乗せるべきか…という決定的な二者択一の場面に差し掛かりました。
 このことについて、私たち工房の全員が慎重にならざるを得ませんでした。子どもたちの練習の成果の殆どがライブ出演というところにあり、そこには少年たちを真剣に見守るたくさんの目があります。彼らはまた通団時(練習時という意味です)・出演時の殆どの時間を決められたユニフォーム着用のまま歌っていて、お客様のみならず、彼ら自身も身支度・身だしなみに合唱団のありかを求めている可能性があります(例えば、帰属意識ですとか、連帯意識とか、そこに由来する安心感やときに闘争心とか…)。科学的根拠とともに、実際の少年合唱団の活動の実態を加味しながら両面で方向性を探ることにしました。

 例えば歌っている子ども自身と服装との関係を知ろうとして、ユニフォームを着ている状態と普段着の状態とで同じ団員さんに歌ってもらい、簡単なfMRIをとって脳活動を比較してみたり、酸素化ヘモグロビンの変化を分析してみたりといったこともやりました。私たちはここで歌唱表現を形成するための強化信号として働くドーパミン(中脳のドーパミン作動性ニューロンという神経で産生され、軸索末端から放出される物質。線条体、報酬系の脳領域へ投射されてはたらきます。)について、ケンブリッジ大学のシュルツ氏らの研究報告の内容などを参照しながら検証しある程度の結果を得たのですが、結局「それでは、ロボットであるコーキ君をどんな外見に仕立てるか」という根本的な命題の解決に結びつくことはありませんでした。
 都内にある少年合唱団は、世紀末から2010年ごろにかけて、ダンディーな大人っぽいイメージを大切にし、Harry Potter調のレジメンタルタイですとか、紺ウールのプルオーバーなどのアイテムをちりばめた長ズボンのスタイルやバーテンダーのようなカマーバンドや側線入りパンツといった背伸びをしたタキシードを制服に採用していました。ただ、21世紀のはじまりから既に10年近く経った今、彼らの歌声を楽しみにやってくるのは既に以前のような同世代の小学生たちではなく、殆どが「団塊」と呼ばれるシルバー世代か、「団塊ジュニア」である保護者たち。レベルの高いプロの混声合唱などではなく、わざわざつたない小学生の男の子の同声2−3部の合唱を聞きに来るのは、その目的が「歌の高いクオリティー」というところにはなく、子どもらしいあどけなさ・男の子特有の飾り気の無さ・質朴さ、まっすぐで純粋な声質の快さ…いわゆる「子どもらしさ」であることは察しがつきます。歌声は軽快に揃いつつもどこか稚拙さを残し、びっしっと揃った男声合唱団顔負けのフォーマル・ウエアのユニフォームよりは昔の子供服の定番であった七五三の記念撮影のような「よそいきのイッチョウラ」。聴衆たちが自らの子ども時代にまとっていたスタイルを想起させる半袖・半ズボンのユニフォームが21世紀初頭の彼らにも求められるようになりました。こんにち、彼らは一定の集客を保持している東京の一般の男の子のみの児童合唱団は各団ともに一時メインだったしっかりとしたフォーマルのスタイルを脱ぎ捨てて、ワイシャツに軽快なベスト、プレーンな半ズボンなど、子どもっぽいシルエットへとメイン・ユニフォームのスタイルを差し戻しました。組み合わせるアイテムもシンプルなサスペンダーやフルバージョンの蝶ネクタイ、ベロアのリボンタイ、紺ベレー、裾丈をさっぱりと短く戻したジャケット、クルーソックス・ハイソックス等々…昭和時代の子供洋品のオンパレードです。そこで、先ほどの選択肢の話に協議は戻ります。私たちはコーキ君の外見を決定するために、彼をどのような擬装でステージに乗せてお客様に見て頂くか、上記の文脈の下に考えることとなりました。団員の一人としてステージに上げようとするのですから、当然、鉄腕アトムの非戦闘時バージョンのような「人間の子どものレプリカ」の外見でまとめるという選択肢が一つ。しかし、そこには絶対的に立ちふさがるあの「不気味の谷」の問題がひかえています。後者に拘泥するスタッフの主張は「二足歩行さえ可能ならば、外見は「フライデー」(SFドラマ『宇宙家族ロビンソン』に登場するロボット)や「ロビー」(映画『禁断の惑星』に登場する有名なロボット)のようなものでかまわないのではないか」…というものでした。私たちの研究はこういう尻込みを続けいてる間にも一部のセクションではどんどんテスト運用と改良が進んでいますから、コーキ君の外見はとりあえず、皆さんが商用の日本製自律二足歩行ロボとしてイメージするようなCFRP樹脂製のコロンとしたソフトなイメージのものと、ちょっと古典的な印象のハーフポリッシュの酸洗仕上げステンレス(オズの魔法使いに出てくるブリキの人形をもっと可愛くしたイメージ)の2タイプのものをサンプルとして試作し、スタートを切りました。改良を重ねたコーキ君の現在の姿はご覧のとおりです。ただ、私たちが試作品を問うた時点でとりあえず至った結論は、童話「ピノキオ」のアレゴリーでした。心のいびつな木彫りの人形ピノキオは燃やされそうになったり、ウソをついて鼻を長くされたり、耳がロバになったり、サメに食われそうになったりとさんざんなめに遭いながら、最後は心からの善行を積み、人間の少年の姿になります。ボーイソプラノとして歌は歌えても心を込めることを当然知らないロボット・コーキ君ですが、合唱団の子どもたちとともに訓練を積み、多くをともに学び、少しずつでも徳を得て、友として、合唱団の一員として育ててくれている団員たちの口から「僕らの大好きなコーキ君をどうか人間の子どもの姿にしてやって欲しい」という真摯なリクエストが出たときに、はじめて人間の外見を与えてやればよいのではと考えました。そして、これは私たちスタッフがコーキ君に対して抱く究極の願いであるとともに、2050年の日々に研究者が描く夢でもあります。

 発達レベルにあるコーキ君は現在、「身体」機能的にも団員たちに比べ非常に見劣りのする段階にあります。こちらも私たちが早急に解決すべき問題の一つです。
最大のものでは、運動技能として、ジャンプすることがあまり得意ではない…というか「できない」ということに近いのです。ジャンプと言っても飛び降りるという意味でのジャンプはまだしも、その場で跳ぶことについては「ラジオ体操第2」のような簡単で小刻みな垂直ジャンプをすることが現段階ではできません。合唱団全員参加で大縄跳びなどというのはどだい無理な注文です。
子どもたちが合宿や演奏旅行などでボール遊びを楽しんでいるときは、ドラクエドッジなどであれば参加することができます。役柄はキング化するスライム群など…。最初、子どもたちが「ドラクエドッジ、やりたい!」と言いだしたとき、ルールがいじってあるにせよ硬いゴムのドッジボールが機構のデリケートな部分に当たれば何らかの機能不全が出ることになりはしないかと気をもみました。結局、彼らが使ったのは近所の小学校の校庭開放で体育倉庫の前に出ていたソフトドッジボールでしかなかったので、ほっと胸をなでおろしました。

 私たちのロボコーア2050プロジェクトには「By 2050, develop a fully autonomous humanoid robots that can sing within the human world famous boy choirs.」という確固としたオフィシャル・ゴールがあります。 このプロジェクトの一般問題が「児童合唱団員」ではなく、あくまで「boy choir」(男の子の合唱)と設定されているのは、おそらく変声(声変わり)や第二次性徴といった避けて通れぬ問題に私たちがどう対処し、解決してゆくか…という点で「乗り越えてゆくべきハードルをもう一つ置いたよ」「カンタンなロボット作りじゃないよ」そして「テクノロジーだけでは決して解決できないよ」という特命を表すものなのだろうということが当初から判っていました。
私たちは合唱団の子どもたちの身の上におそらく起こるであろう様々なあらゆる事態をコーキ君の試練としても与えようと考えました。冒頭に紹介しました少年たちとの漂流の話ですとか、そこから「しっかりとした防浸型7等級程度の防水性能」の必要性を導き出しましたし、小学生の男の子ばかり何十人もいる集団ですから、まず思い浮かんだのは大小のイジメや虐待のようなものでした。私たちはデフォルトの言語活動の機能としては口喧嘩の買い言葉やかわし方といったものは一切コーキ君のプログラムには与えていませんし、手を上げられた場合も「やられたら倍返しでやり返す」といった報復のルーチンをロボット三原則から遮断してありますので、彼の場合何かあっても一方的にヤラれるということになります。緊張を強いられるステージ袖幕の内側で気晴らしに脚部を蹴飛ばされたり、すね毛の生え始めた6年生のお兄ちゃんたちからサンドバック替わりに筐体ボデーを凹まされたり、あるいはもっとインケンに 全方位ユニットのシリンダーに誰かの水筒のお茶が注がれていたり、ギミックの頭部アンテナがカギかっこのカタチにへし折られていたり、PDMSでコーティングされた3軸触覚センサの真上から誰かのシャープペンシルが深く突き刺さっていたりといったありとあらゆる事態を想定してみました。そして一応の対策をコーキ君に施し、彼が一体どんなイタズラをされて帰ってくるか、こまめにチェックを行い、最善と思われる対策をフィードバックすることにしました。
 ところが、この点については全く私たちの予想が全く外れてしまいました。どのタイミングで何度回収して精査しても、コーキ君がいじめられたり、ストレスのはけ口になったりした形跡を見出すことはできませんでした。私たちは当初、これは結局、アンドロイドが気の置けない団員の一人としては少年たちに受け入れられていない証しなのだと考えていました。ロボコーアプロジェクトの険しい道のりを呪ったものです。ところが、詳細に調べていくと休憩時間、彼の筐体にべたべた手垢をつけながらディープな(?!)スキンシップをはかっていた少年たちは、コーキ君のメカニズムや検知に関わるあらゆるデリケートな装置に指一本触れていませんでした。そればかりか、小型のアイスクリームコーンのカタチをしたハリボテの鼻の表面や二の腕にはハッキリそれとわかるソディウム・ポタシウム・Ca・塩化物イオン・炭酸水素イオン・無機リン酸・βアミラーゼ(!)・リゾチーム・ペルオキシターゼの混合分泌液由来の乾いた被膜が認められ、腕の方には、う蝕とマルチブラケットの痕跡の認められる第一生歯の歯列の跡がついていました。団員たちのうち、誰かが(DNA鑑定をしていないので、それが一人のものなのか複数名の仕業によるものなのかは判然としませんが、)コーキ君の鼻をぺろぺろと舐め、二の腕を甘噛みしていることがわかりました。こうして私たちは、「コーキ君が現在置かれている状況は、もしかすると非常に自然な状態なのかもしれない」と思うに至りました。男の子が何十人も揃えば必ず全員がいじめられたり、ケンカに巻き込まれたりするわけではないのです。その中にはどういうわけか皆に大切にしてもらい、全員にかわいがってもらうような少年たちも実際に含まれる。コーキ君の背中にジャンプして抱き着こうとした下級生たちを「やめろ!コーキ君が転ぶだろ?今度やったら俺たちが許さネェ!」と一喝し引き離した6年生たちを休み時間の練習場で見ました。「いじめ」や覇権争いや鬱憤晴らしの暴力とは無縁のまま卒団していく少年もいるのです。私たちのコーキ君は、いったいどの辺が少年たちのお気に召したのか全く想像もつかないのですけれど、そんな団員の一人として子どもたちに受け入れられたのだと。そして少年たちに受容され、楽しいクルーの一人として認められたということは、同時にお客様がたからも一人の少年合唱団員として一目置かれる存在になっているのではないか…と思ったのです。この晴れがましい結論とコーキ君や彼を取り巻く少年たち・大人たちへの信頼が、以後、私たちのプロジェクトの伸展を強力にけん引していくことになりました。私たちの工房のメインファクトリーはソフト・電子工学・メカトロニクス・脳科学などの科学分野の研究者・学生たちの集合体ですが、今回のロボ・コーアの企画自体が「少年合唱」という特異なフィールドをめぐるロボティクス構築なわけですから、音楽などの芸術科学やそれに関わる(例えば著作権・著作隣接権、上演権)等の法務関係の処理ですとか、あとは通常の知財管理等や税務関連の仕事に携わってくれているスタッフもしっかり擁しています。コーキ君の合唱団の中での立ち位置の判明は、こういう「科学・工学のことは実はよくわかりません」という人たちにとって非常に分かりやすい「はげみ」になってくれました。日ごろは工房の中で作業することの無い人たちを含めて全員のモチベーションが一気に高まったわけです。私たちは、コーキ君を完成形で提供することをせず、合唱団にいる6歳から12歳までの男の子たちに育ててもらおうとした。そして、それが一定の成果をもたらしてくれた今、私たちロボット製作者やそれに関わる皆が逆にコーキ君から育ててもらっているというのが実情です。
 もちろん、解決すべき課題やロボテクノロジー的な改善点、再考すべき点はまだまだたくさんあります。2050年までにすべてがうまくまとまるとは私たちの誰も思っていません。プログラムされた反応を返すコーキ君には、「対話能力を持たせる」という基本チャートが作られた時点ですでに「周囲の人々を幸せにする返答になるように」という設計方針が大前提として求められていました。ですから、へそを曲げた団員が彼に対して「おまえなんか死んじまえ!」と舞台裏で悪態をついても、コーキ君は決して感情をあらげることなく(…ロボットなんですから(笑)…)静かに「ボクが死ねば気が済むくらいキミはつらい思いをしているんだね。」と反応します。ここにはたらいているのは、あきらかに「ロボット三原則」的なものです。こういう対応はコーキ君にとってはお手の物なのです。また、皆さんがお好きそうな設定では、声変わりの始まった6年生が「いつまでも声の変わらないおまえなんか、呪ってやりたいほど憎い!俺じゃなくて、機械人間のおメエの方こそ壊れてどっか行っちまえばいいんだ!」と言ったりするとしましょう。コーキ君の対応は、「きみの声が変わって合唱団を卒団しなければいけないなんて、感情チップが壊れるくらいつらいのは僕の方だよ。ぼくはロボットだから泣きたくても涙が出ないから泣けないし、誰かに八つ当たりしたくてもロボット三原則に違反するからできないんだ。」という内容の反応をしたりします。実際のコーキ君には実は「感情チップ」などという胡散臭い名前の集積回路は搭載されていません。テレビの海外SFドラマの筋書きにしか出てこないようなフェイクですが、私たちは彼に自身の心の襞や感情にあたる文言を言わせるとき、子どもたちでも分かりやすいように、こう言って表現するよう覚えさせたのです(コーキ君は実際に「感情チップがピクピクするくらい感動した」とか「感情チップがウイルスに冒されたみたいで、上手く動きません」とか「びっくりして僕の感情チップがプルプルした」とか、「きみが優しくしてくれるから、僕の感情チップはうれしくて容量オーバーになりそう」とか、そういうレトリックをよく使います。どれもみな単なる文書作成ロジックのセッティングで、コーキ君の現実の筐体の中では何も起こっていません)。いずれにせよ、子どもたちが激しい感情をぶつけるような激情場面では、ロボット三原則がむしろ足枷になってしまうのではないかと考える研究者も少なくありませんでした。

 あるいはまた、コーキ君にはもともと日常会話と歌の歌詞とを区別して記憶するようメモリ化のルーチンのようなものを与えているのですが、結局これがある種のコンフリクトを生んでいるように思われます。例えば来客の帰り際にお客様から「あなたと会えて本当に良かった!」と言われて、突然「優しい心ありがとう!優しい心ありがとう!」と応答してみたり、オフのパーティーのとき保護者会のお母様の代表のかたから「みんな!楽しく歌いましょう!」と促されたときも「子羊メエメエ、子猫はニャー、子豚ブースカ、チャッチャッチャ!」と言っていました。本来なら、こうした反応時の瑕疵はレポートの対象で改良すべき点でもあるわけですが、私はその時の周囲の人々の反応を見て、あえてそれを看過することにしました。コーキ君が「優しい心ありがとう!」と言ったときにも「子羊メエメエ…」と唱え出したときも、周囲にいた団員たちは実に愉快そうに愛情たっぷりに笑っていました。彼ら自身も日々歌っている団員たちは、コーキ君が電子頭脳特有の不器用さで、シチュエーションに全くそぐわない『グッデー・グッバイ』の歌詞から応答の文句を援用しているということへ即座に思い至ったのだろうし、『おもちゃのチャチャチャ』のフレーズの通り言葉を返していた朴訥な姿にどこか愛らしい、愛嬌のようなものを感じていたのに違い無いのです。私は、これがロボット・コーキ君の憎みきれないチャームポイントの一つであると思いました。機械人間であるはずの彼がどうして団員たちの人気者になることができたのか判るような気がしたのです。

 コーキ君の周囲で歌い、彼とともに日々一人前のボーイソプラノへと育ち行く少年たちはもちろん次世代のロボット開発に携わるために歌いに来ているわけではありません。私たちの工房にはジュニアサッカーリーグのロボットを扱うような子どもたちも見学に訪れることがままあるのですが、同じ世代の少年たちでもコーキ君を見る目はあきらかに異なっていることがわかります。
合唱以外の現場で実際に自律移動型のロボットを運用している小中学生たちは日ごろマインドストームなんかをいじって使い倒してから実戦に臨んできている。彼らにとってはヒューマノイドのサッカーもレスキューもレゴロゴの応用編でしかない。一方、少年合唱団の子どもたちは同じ自律タイプのロボットとの共同戦線ですが機械への対峙というイメージがあまり感じられません。歌うロボットは、まあボーカロイドの応用ではあるのですが、そうは言っても彼らの殆んどはDTMの打ち込み経験すら無い。団員たちに尋ねると学校のコンピュータ・クラブでヴェーベルン編曲版のバッハの「6声のリチェルカーレ」を作って演奏させたという子が一人と、学校の音楽クラブに所属している子が音楽室のiMacで黛敏郎の「素数の比系列による正弦波の音楽」を耳コピし腕試しをした後、シュトックハウゼンの「少年の歌」(…の電子音楽部分。歌の部分はコンピュータの前で実際に歌って自分のボーイソプラノの声を音声認識用の内蔵マイクで拾い、電子音楽と合成したそうです!)を聞きながらレプリカ…というのでしょうか?模写?したというツワモノが一人いましたが、そのくらいです。彼らはある意味で重要な「共同制作者」ですが、あくまでもソフトな面での実機のメンターでしかないわけです。コーキ君にパフォーマンス以外の音声発振プログラム…つまり、団員ですとか追っかけのファンの皆さんですとか、合唱団交歓会のような場での他の合唱団の団員さんといったニンゲンたちとの日常会話的なコミュニケーション機能を持たせるかどうかの判断は、この局面からもたらされたものです。最初、私たちはコーキ君に最低限の事務的な対話能力があればそれで十分だと思っていました。「話す」ことだけでしたらロボットにとって単純に「移動する」こと同様、造作もないことなのですが、「会話」となると相手の発言というものが存在します。少年合唱団員のコーキ君にとって、実は会話の相手が今は誰なのかでさえ大問題なのです。客席にいる小さい子どもたちがステージで歌う合唱団を見て「コーキ君、かっこいいー!」と思わず口にしたとします。コーキ君はまず、大音量で歌っている周囲の少年たちの歌声の中からそのつぶやきを聞き分けることになります。彼には音声の発生源の距離を比較的正確に把握する測距機構が搭載されているので、自分の名前を呼ぶその声が合唱団の団員のものでないことを音声メモリと照らし合わせたりしながら素早く判定します。私たちは彼らのような合唱団が、例えば野外のイベントであるとか、デパート・ホテルロビーのコンサートで歌う場合の観客の至近さといったものを実測して調べ、データ化していますので、観客が比較的近くで聞いていてもそのつぶやきなり野次(笑)なりをかなり正確に区分して聞かせることができます。彼がそれに対して「今は何も言わない。必要になったときリロードできるようメモリに一定期間入れておくが、最終的に情報はクリアする。」といったようないわゆるフレーム的な問題をある程度クリアするよう仕込まれたルーチンに従って処理します。ですから、演奏中に客席の子どもたちに向かってお礼を言ったり手を振って応じたり、「今の言葉、もう一度言ってみろ!」などと恫喝したりすることはありません。
 ロボットの「進化」によって、いつの日か人類は滅亡し、ロボットたちが私たちにとってかわる…こうしたわかりやすいいかにも起こりそうな未来世界のビジョンは、残念ながらコーキ君の身の上には起こりえないことがこれでハッキリとします。厳しい音楽的・人間的要求を携えて指揮をとる先生がたや、それにこたえて真剣に歌い続ける合唱団の少年たちがいなければ、コーキ君は「二足歩行するシリコンプレーヤー」と何ら変わりのない、「お掃除をしないRoomba」のようなものにすぎません。
 「少年の裏声で周囲の男の子たちに合わせて歌う自律二足歩行ロボット」というおよそ特殊なものづくりの分野にどうして当工房の研究者たちは惹かれ魅せられるのか。ある者は「ロボットビジネスからもエンタテイメントビジネスからも最も遠い場所で制作に打ち込めるから」と言い、ある研究者は「教えられた歌を少年の声で歌う…という目的の特化された単機能ロボットに見えて、実は一緒にいるだけで気分の良くなる一人のごく普通の少年を作ろうとしている自分に気がついたから」と言い、「二足歩行ロボットではあっても肥大してユーザーを卑下するようになった大手家電メーカーや本業のモータービークルをつくらせると単車を横に2台くっつけたような自己中のおっかないクルマのまがいものしか作れない自動車会社には絶対に求められない誠意や熱意が必要だから」と答え、アクチュエータの担当責任者は「私たちの作ったロボットは、少年合唱団の団員たちにとって様々な意味で『僕たちが一番欲しかった楽しいロボット』になれた。相手が子どもで、開発費の一円も負担してくれず、自律二足歩行して歌うだけの機能しか持っていない、およそ市場での商品価値の全く無いものを私たちは作ったが、それは間違いなく、歌う小学生男子たちにとって入団してくれるのをいつの日か心待ちに、出会える日を楽しみにしていた友のようなものだった!」と年度まとめの打ち上げのパーティーの席で挨拶しました。この発言にも感じられるように、私たちは偶然にも『目的地も到達手段も魅力的でハッキリしているのに、旅行商品とは言い難く旅行会社がビジネスの魅力を感じない数年越しのパッケージツアー』のようなものに遭遇し、ひょんなことから参加して今もなお旅を続ける旅客となっていたのです。旅路は長く、旅費はふくらみ、行く手は多難で、目的地の天候もはっきり判りません。ロボットが歌っているのを見にわざわざ少年合唱団のコンサートに足を運ぶお客様はまず皆無。しかし、私たちのコーキ君が団員の少年たち皆から可愛がられ、ともに歌い、固い絆で結ばれていることを客席の人々はすぐに感じとって、ロボットとしてではなく合唱団員として応援してくださいます。団員たちがコーキ君をある意味で頼りにし、コーキ君自身もまた少年らに囲まれてしあわせそうに(!?)歌っていることをお客様がたは心から楽しんで劇場を後にしてくださるようなのです。

 さて、しばしば団員たちから漏れ聞いて保護者の皆様やお客様が話題になさるコーキ君の「裏の機能」 (笑)について、代表的なもので「読み聞かせ」について述べておきましょう。コーキ君に「読み聞かせ」の機能を持たせたのは、少年合唱団特有の事情を拝見して、私たち研究者から先生方へ「こういうこともできますが、いかがですか?」とアクションを起こしたものの一つです。
 少年合唱団の仕事というのは、子ども用のほんの少しの時間の出演のために楽屋のようなところでかなりの長い待ち時間をスタンバイして待つのが普通のようです。私たちも同行しましたので思い知ったのですが、例えば、オペラの児童合唱担当(たいてい、19世紀ふうの西ヨーロッパの下層階級の男の子の扮装で、大人の合唱団の合いの手・中継ぎの役で実質5分間程度の時間を簡単な演技つきで歌うだけといった類のものです。ナイフを握りしめバッタリと倒れたまま、こときれる瞬間まで横になった姿勢でレチタティーヴォを歌ったり、ワインボトルを指にひっかけてバスバリトンと肩を組み、千鳥足で朗々とアリアを聞かせたりするような大変な演技や長時間の演唱は彼らボーイソプラノには全然求められていません!)ですと、本番当日の午後早い時間に劇場の最寄駅で集合。出演キャストとスタンバイのお友達が揃うまでまず、早く到着してしまった団員は、駅の改札の外で30分ほど待ち合わせます。次に楽屋入りして、声出し、最終ゲネプロの大人のキャストさんのキッカケ出し等々におつきあいし、着付け、メイクがあって、あとはホンバンが始まれば、彼ら子どもの役者の出番はたいてい1幕の終わりか2幕以降ですから、それまで延々と続く拷問のような「待ち時間」を衣装やお化粧が崩れないようにただただじっと静かーにして過ごします。排泄物を産出するような「冷たいお水」も「甘いおやつ」も「たのしい夕ご飯」も、出番が終わるまではがまん、がまん!最後の最後にステージに出て行って一声ちょっと歌って引っ込み、あとはまたカーテンコールで呼ばれるまで長いこと待って…これはとっても極端な例ですが、ボーイソプラノの出演するステージは、程度の差こそあれ、殆どがこのような長い時間の「待ち」を伴います。少年合唱団というのは「待つ」のが本業で、「歌を歌う」のが副業…と先生方も冗談まじりにおっしゃっていました。
 それでは彼らはいったい、この地獄のような「待ち時間」に何をして過ごしているかというと、もちろん、歌の最終チェックもあるのですが、歌ってばかりだと肝心のホンバンのときに疲れ切ってしまって出てくるのが声よりもため息ばかりだったりすると困りますから、ずっと練習というわけにはいかないのです。声を出さず、動かないで済み、エネルギーの消費が少なくて済む「読書」が唯一奨励されているようです。おしゃべり、彼らの大好きな手打ち野球やドロケイ、テレビゲームや楽屋のディスプレーにモバイルをつないで皆で楽しい映画鑑賞など、すべてもってのほかです!携帯の囲碁・将棋・オセロ・トランプ…演奏旅行の列車の中でしたら良いのでしょうが「遊び道具は合唱団には持って来ない!」と予科生の入団初日に厳しく教え込まれている彼らには、オイチョカブも坊主めくりも楽屋には存在しません。彼らは長い長い時間のウェイティングの間、ただひたすら、本を黙読して過ごすのです。先生方はおっしゃいます。
「ボキャブラリー力の無い子に、心のこもった良い歌は決して歌えません。語彙の引き出しの無い者にどんな美しい合唱を聞かせても、演奏会の後の食事がどうだとかいう程度の感想ぐらいしか出てこないのに似ていますよね。待ち時間に本を真剣に読んで過ごしている子たちというのは『○○君のソロの音程はイエローダイヤモンドみたいに端がしっかりしている』とか『○○を歌ってるときに、一瞬、プールサイドの静寂が聞こえた』…とか、私たちがビックリ仰天するようなことを恐ろしいほど的確な場面でぼそりとつぶやく団員もいます。たぶん、普通の小学5年生・6年生の子どもではこんなこと、言えないんじゃないかと思うのです。読んだことがすぐに日々の歌につながってゆく…彼らはそういう毎日を送っているにちがいありません。」と。
私たちはコーキ君の運用視察中、合唱団の練習場や劇場の楽屋でそうして真剣に書物と向き合いページを繰る夥しい少年たちの姿を目にしました。一方、私たちのコーキ君には読書をして語彙力を増やすというルーチンや要求は元来ありません(…活字OCRの機能はもちろん搭載しています。彼はシャクルの無いアラビア語やペルシャ語の本もきちんと右から読んで発音することができます!凛々しい少年の声でコーランやルバイヤートを流麗に音読するコーキ君の吟唱は深いラピスラズリに染まりゆくアラブの夕刻を思わせます。一聴の価値がありますよ!)。私たちは本番前の楽屋の壁際に尻を落とし、頭を垂れてログオフ状態のままただひたすら出番を待つコーキ君の姿を思い浮かべました。戦場へ送り込まれる前の束の間の時間、書物の世界に遊ぶ周囲の少年たちとは全く対照的なその姿に私たちが思うところがあったのもお分かりいただけるでしょうか。…私たちは先生方に「コーキ君も団員の一人です。彼にも待ち時間に本を読ませてやるわけにはいかないでしょうか?」と交渉をはじめました。もちろん黙読で読書するということでしたらコーキ君には何のメリットもありません。ただのバッテリーの無駄遣いです。私たちの提案は「コーキ君に本の読み聞かせをやらせたい」ということでした。ご指導の先生方やマネジメントスタッフからの反応は「音読では声が出ます。音の出ることを待ち時間に認めることはできない。」ということでした。ただ、歌を歌うロボットのセンサ技術や発振機能の利点として、その場の環境に合ったボリュームを維持して、最低限の音量でも確実に相手の聴覚に届く音声で朗読を実行し、先生方の指示が下ればたちどころに音読をシャットダウンすることもできます…といったことを誠意をもって繰り返しお伝えし、最終的に承認を頂くことができました。コーキ君はおそらく今日も出演前の楽屋で団員たちに音読をしてきたと思います。団員の誰かが持ってきた本を視覚センサーを使って読んでやることもできますし、直接購入しダウンロードした電子書籍のコンテンツもオープンソースのファイルフォーマットのものでしたら、マンガや絵本・図鑑のようなものを除いてハードウエアを一切介さずに読み上げることができます。コーキ君の音声ボリュームはその部屋で本を読んでいる周囲の団員に迷惑がかからないくらいの大きさにリミッタが切ってありますので、読み聞かせが聞こえる子は多くて6人ほどです。合唱と同じ程度の抑揚が付くように読みますので、極端な感情表現をしません。これは私たちの工房で読み聞かせに特化したヒューマノイドを試作したときに得た「子どもに好まれる読み聞かせの技術」の一つです。適切な読む速さや、小学校中学年の子どもたちの語彙力などの判定は団員の表情や視線、感情反応などをセンサーが読んで瞬時に解析しフィードバックします。コーキ君が車座になった少年たちに囲まれるようにして、昔話の「かたりべ」よろしく物語を朗誦している場面や、本を読んでやっている場面を見るのは本当に良いものです。私たちはお客様に歌声を聞いていただきたくて彼を作りましたが、このときばかりは「製作者の特権」を味わいました!…客席の皆様に実際をご覧頂けないのはちょっと残念ですが…。

 人間のボーイソプラノたちには必ずステージ・デビューの日と、引退の公演の日があります。コーキ君は現役の1代目(1台目?)ですから、まだ退役の日を経験したことは無いのですが、デビューのステージの日はちゃんとありました。彼が一人前のボーイソプラノとして実力を発揮してくれるかどうかということは、所詮プログラムされたサーボ機械ですからアガッたり怖じ気づいたりすることはもともとありませんでしたし、事前のテストやリハーサルの状態を見ていてハッキリとしてはいたのですが、実際にその時が来て、ホールを埋めたお客様を前に彼が少年たちに混じって整然と登壇し、列を整頓し直し、第一声を発した時にはさすがに込み上げるものがありました。
 当日は大学のグリーとの合同演奏会の日でプログラムの前半に團伊玖磨の合唱組曲『筑後川』から「川の祭」と「河口」が選ばれて入っていました。子どもたちはステージに上がる直前まで「川の祭」の途中に出て来る歌詞を「一千匹…一万匹…十万匹…一万匹…十万匹…百万匹」と口の中で呪文のように唱えて歌詞を間違えないようにするので精一杯の様子でした。一方、コーキ君はこういう暗記でしたらお手のものですから、平然としている。本番でこれを事も無げに歌っている彼の姿は実に頼もしかったし、この部分では少年たちの声をリードしてもいたように思えます。かくして私たちスタッフは「ステージママ」の気分すら味わう事もでき、至福のひとときを過ごしました。そして、次第に感情のようなものが芽生えてきたのは実はロボットの方ではなく、他でもない私たち人間たちの方であることに思い至りました。つい先日まで機械部品の集合体だとしか思えなかったコーキ君に、工房の皆は今、本当の親のような深い愛情を注いでいる。また、彼の投入を受けた少年合唱団のメゾソプラノ・パートの少年たちは、私たちが初めて少年合唱団の練習場にうかがった当初は歌うことに「何でも屋」の腰掛け程度の習い事の一つという感覚しか持っていなかった。今は「僕ら、メゾソプラノ」という言葉を子どもたちが良く発します…とご指導の先生が打ち明けてくださるほどに少年たちも一体のアンドロイドの存在をきっかけに胸を張り、絆のようなもので結ばれるようになったそうです。先生方も今、これはアレゴリーなどでは決して無く、コーキ君一人の存在が少年たちの心の在処を大きく変えてきたのだと断言していらっしゃいます。
 こうして考えて来ると、私たち、ロボ・コーア2050プロジェクトが決心を注いでやってきたことというのは、ボーイソプラノで歌う一体のアンドロイドを作りあげることではなく、ロボットを通じて少年たちを一人前のボーイソプラノへと育てるお手伝いをしてきたことではなかったのかとさえ思われてきます。おこがましい、僭越だと自戒しつつも私たちがこれを正直に先生方へお伝えしますと、「いいえ、それで良いのです。結局、人間の彼らは『最初からボーイソプラノである』のではなく、『ボーイソプラノになる』ことしかできないのですから。」とおっしゃいます。そう言ってほほ笑まれた先生の表情には合唱団を卒団する少年たちにむけられるのと同じ慈愛に満ちたものが見てとれました。

安藤伶哉くん

March 06 [Thu], 2014, 0:42
(パクリです。ゴメンなさい…汗)
▲ きょうは、ぼくたちの練習場に来てくださいましたね。ぼくに、いろいろ話しかけてきてくれてありがとうございます。ぼくは、合唱団に入ったのが3年生の3学期なので、まだみんなとよく話せません。先ぱいたちからは「オンチで弱虫のアンドレヤ」とよばれています。

 きのうのコンサートのときは、お花の絵のカレンダーをどうもありがとうございました。きれいな絵ですね。ぼくのつくえの上において、いつもながめています。ぼくは、そんなに歌がとく意じゃないのに、どうしてぼくにだけカレンダーをくれたのかな?大切にするので、これからもぼくたちの少年合唱団を応えんしてください。いっしょに入れたおかあさんからの手紙にこれからのコンサートのよ定が書いてあるので、どれでもいいですから、よかったらまたいつでも来てください。ぼくはこれからもがんばって歌い続けます。さようなら
  仙道さんへ    安藤伶哉より  
                  
拝啓 
伶哉君!お返事をどうもありがとう。プレゼントを気に入ってもらえてとてもうれしいです。本当のお花をあげたかったのですが、花束はコンサートが終わって衣装ケースを抱えた君にはきっと重いだろうし、それにカレンダーなら1年間ずっと毎月新しいお花が見れるでしょう?「どうして僕にだけプレゼントをくれたのですか?」という質問でしたが、私はレイ君の声が大・大好きなんです!なぜ好きか?って、それは、きれいでかっこいい声だからです。日本一きれいなメゾソプラノだと思っています。きみは自分の声が好きですか?ぜひ、教えてください。
それから、お母様から教えて頂いたコンサート予定一覧ですが、なるべく全部行きたいと思います!楽しみにしています!練習もがんばってくださいね。    敬具
 安藤伶哉様    仙道  
 
   
 仙道さん、こんにちわ。きょう、学校の音楽の時間に「スマイルアゲイン」という曲を習いました。全校集会で1年生から6年生まで全員で合唱するそうです。クラスのみんなでせん科の先生のピアノに合わせて音取りをしたのですが、ぼくはこの曲の歌しがすごく気に入りました。仙道さんは、「スマイルアゲイン」を知っていますか?どうしてぼくの声をよく知っているのですか?合唱団のソロのオーディションにもあんまり受からないし、いい声じゃないですよ。ほかの子とまちがえていますね?ぼくは、ときどき、第一メゾソプラノの松田リクくんと人ちがいされます。どうしてだか、よくわかりません。リクくんは「むささびグライダー」のソリストです。ピアノもじょうずです。
明日、朝倉すみ孝先ぱいの結こん式でぼくたちは2曲歌います。「コングラッチュレーションズ」は、はじめて歌う歌です。英語が少しむずかしいです。がんばりますから、よかったら聞きに来てください。

追しん 
 ぼくは自分の声のことがよくわかりません。だから、好きかどうかもよくわかりません。ごめんなさい。どうしてぼくたちの合唱団のことを調べているのですか?もしかして、ぼくたちが、お・か・し・い・から?!先生からは、よく「きみたちは完ぺきにおかしい!」って言われてます。安藤れいや より 

拝啓
 伶哉君。むずかしいことを聞いて、困らせてしまってごめんなさい。
それから、先輩の結婚式にも行けなくてごめんなさい。レイヤ君たちの「コングラッチュレーションズ」が聞きたかったー!みなさんの合唱が「お・か・し・い」ですか?それって、「面白い」という意味ではないでしょうか?それなら、その通りですよ。とっても面白いです。この間のコンサートでレイ君たちが歌っていた「だるまさんがころんだ」の「♪チャンピオンのでかパンツ!」と「アビニオンの坊さん!」のところは大笑いしましたよ。
…どうして皆さんの合唱団のことを調べているか…というと、それはヒミツです!一つは、これがお仕事みたいなことの一つで、お友達と約束したから。調べてレポートを出すと、50万円(!)もらえるんですっ!大金持ちだっ!(?)…もう一つの理由は、将来すばらしいソリストになりそうな、一人の団員のことを調べているからです。先生方は「年々ソリストになるような子が減っている。」なんておっしゃっていますが、その子は突然あらわれたスゴい子なんですよ!レイヤ君もよーく知っているすてきな子です!歌だけじゃなくて、カッコ良くてイケメン!さて、いったい誰でしょう?!(笑)  さようなら   敬具  仙道より 


 仙道さん こんにちわ!
 きょうは、ぼくたちの練習場に来てくださいましたね。ぼくに、いろいろ話しかけてきてくれてありがとうございます。ぼくは、合唱団に入ったのが3年生の3学期なので、まだみんなとよく話せません。先ぱいたちからは「オンチで弱虫のアンドレヤ」とよばれています。ホントなんだけど。だから、仙道さんが、休み時間に遊ぼうって言ってくれてうれしかったですよ。でも、ぼくは弱虫だから遊べなくてごめんなさい。合唱団の研究がんばってください。50万円って、すごいですね。ぼくでわかることがあったら教えてあげます(ぼくは合唱団のことはあんまり知らないんですけど)。仙道さんが調べているゆうしゅうなソリストになりそうな子って、鏡ハリス先ぱいですよね?ソプラノの5年生で、とってもかっこいいです。ぜっ対音感もあるし、オペレッタなんかはぜっ対に主役なんです。オペラの衣しょうも、合唱団のユニフォームもキマってます!でも、ちょっとこわいので、ぼくはちょっとニガテな先ぱいです。おっかないし、子分もいるんです。だから、今日の休み時間のときもにげちゃったのです。急にいなくなってごめんなさい。仙道さんがきらいなわけじゃないんです。お母さんは、「下級生すら大切にしないようなロクデモナイ先ぱいなんか、良い歌なんか歌えるはずが無い!さっさとヤッツケちゃいなさい!」って言います。でも、ハリス先ぱいは歌がじょうずです。オンチで弱虫のアンドレヤより    
 
 伶哉くん!
 君は音痴でも弱虫でもありませんよ!少年合唱団で、本当の勇気のこと、いつも習っているでしょう?自分が取りかえしのつかないことをしたとき、「本当の勇気」を持った少年だけが正直に本当のことが言える。「僕が間違えました」と言えない子。嘘をついたり知らんぷりしたりする子のことを弱虫というんですって。伶哉君は全然違うでしょう?
 この間の練習のとき、先生が鏡先輩に「安藤君がひとりぼっちでさびしそうだから、休み時間に仲間に入れてあげなさい」っておっしゃったから、鏡先輩は仕方無くキミに声をかけに行った。実は、そのテンマツをあのとき私は最初から見て、聞いていたんです。正直言って、ハリス先輩は、全然乗り気そうじゃなかった。品川君から「だって、あすこで先生様が見てるなっしー!」と言われて、ようやく舌打ちして、「先生のいいつけなんかで友達になっても、そりゃ本当の友達とは言えないぜ!」なんてぶつぶつ言いながら…。先輩の言ってたことは正しいかもしれないけれど、仕方なく伶哉君のところへ声をかけに行ったみたい。あんなおっかない顔で「遊ぼう!」なんて言われても、きみじゃなくったって泣いて逃げてしまいたくなるよね。私はそう思いましたよ。 

とり急ぎ、今日の日はサヨウナラ! 仙道より 


安藤伶哉君!
 伶哉君って、クリスマスに聖戒告教会の聖歌隊で歌っているところを合唱団の先生がお聴きになって、気に入られて、もっと本格的に勉強したら必ずすごいボーイソプラノになると思いますって言われて入団したのですね?昨日、合唱団に行ったとき先生からうかがいました!たいていの団員くんが1年生から3年生くらいの低学年の春に入団するのに、君だけ3年生の3学期なんかに入団していたので、どうしてかな?と思ってたんです。先生は本気で「オンチ」なんて思っていないんですよ。もっと歌の勉強をしてほしいから、おっしゃったんじゃないかな?百歩譲ってもし本当に「オンチ」だとしても、先生方は「レイヤ君の場合は練習次第で必ず治る」という強い自信をもっていらっしゃるからこそ、おっしゃっているはず!先生は、なぜ伶哉くんを団員にスカウトしたか…、考えたことがありますか?合唱団が儲かるとか、有名になるとか、そういうことでは無いと思いますよ。君が美しい声でのびのびと歌えば、歌を聞いた人たちが必ず幸せになる。サッカーが上手とか、仲間を集めたりまとめたりするのが上手だったりとか、世の中にはいろいろな子がいるのですけれど、伶哉君の場合は歌声で人を幸せにしたり本当の勇気をあげたり、傷ついた心を慰めてあげたりすることのできる少年なのだと思います。先生はプロでいらっしゃるから、それをしっかりと見抜いている。だから、決して「弱虫でオンチな安藤伶哉」なんて自分で思わないで!だって、悲しんでいる人の心を歌で癒してあげられるはずの子が、自分の意思でそうしないのは本当の弱虫だし、そんな誤った考えを信じているとしたら、それは心の「オンチ」でしかないでしょう?先生がたやみんなが「弱虫でオンチな安藤伶哉」って言っているのはそういう意味ですよ!君の歌声を楽しみにして心の支えにして待っている人たちがあまりにも可哀そうすぎる!悲しすぎる!きみは決してそんな残酷で卑怯な子じゃないでしょう? 
(仙道) 


せんどうさん、ごめんなさい
 
聞いてくれる人をかなしい気もちにさせてごめんなさい。いただいた手紙はちょっとむずかしかったけど、ぼくは、これからはいっしょうけんめい歌います。今までも、いっしょうけんめい歌ってきたつもりなんですけど、そうじゃなかったみたいです。どうして「弱虫でオンチな安藤伶哉」って言われているのかよくわかりました。これからは気おつけます。よかったら、これからもおうえんしてください。 
 きょう、『友〜旅立ちの時〜』の練習のとき先生が「メゾのバランスがおかしい!」と言いました。ここが合わないと、ゆずっぽい感じが出ないってめっちゃしかられました。メゾは、はじから一人ずつ歌わされました。そして、なんと!音ていがまちがっていたのはぼくでした!「オンチはきみだ!安藤伶哉!もう一度、さんはい!」と言われたので、歌ったら「ちがうんだ!メリハリがきかなきゃ、ゆずっぽい感じは出ないっていってるだろう?!」「えんそう会はソロリサイタルじゃないんだ!一人が出来ないと合唱は全部ダメになる!」それから「もう一度!」「もう一度!!」と言われてぼくは、いっぱいなきました。「ボイトレのときはすごくいい声を出すくせに、何でみんなといっしょに歌えないんだ?」「聞いてくださる人が一人もいない中でじょうずにうたえたってしかたない。こんなんじゃあ、合唱団やめるしかないぞ?」とも言われました。ハリス君たちから「おまえは、なき声がうるさいんだよ。合唱団のしき地の中でなくな。」と、どなられました。こんどからは、練習場の外のちゅう車場とかでなこうと思います。安藤伶哉より  

 こんにちわ!
仙道さん、ぼくは、生まれてはじめて雪の中で「こ立」しました!とっても楽しかったですね!!家に帰ってテレビを見たら、雪の中でまだ「こ立」している人がたくさんいることがわかりました。それにくらべたら、ぼくはゆめのようにわくわくして、しあわせいっぱいでした。おまけに、ぼくはジャンソウのいすでモリマユーリ君と松田リクくんと宮崎レオンくんといっしょに、楽しくてきれいで頭が良くて人なつっこいたくさんの小鳥たちと遊んだり歌ったりするゆめをみました。朝おきて、外お見たらまぶしい太陽の光がふりつもった雪の上にきらきらとかがやいて、世界が全部光でいっぱいになったみたいでした。
 仙道さんがぼくに「山おくにあるつぶれかけの遊園地へ遊びに行きましょう!」って合唱団の練習場でさそってくれたとき、「山おくで、つぶれかけなんて、大じょうぶかな?」と思いました。先生から、「きっとガラガラだから、何でもならばないで乗れるよ。それに大声で『ゴリラの目ん玉』をずっと歌っててもしかられない。いいなぁー。」と言われました。家に帰ってからお母さんに「行ってもいい?」と聞こうとしたら、お母さんも、おばあちゃんまでもう知っていました。そして「つぶれかけなんて、イイじゃない?!ラッキーな大チャンス!つぶれちゃったら、もう二度と行けないんだよ!」と言われました。なんだか変てこりんな考えです。
 少し寒かったけれど、よい天気で、いろいろなものに乗って遊べました。先生の言うとおり、1回もならんだり待ったりしないですみました。一番おもしろかったのはゴーカートです!とちゅうから仙道さんがさくを乗りこえてしん入してきて、かっ手にゴーカートに乗ってわざといろんなところにぶつけたり、しょうとつしたりスピンさせようとしたりして、スパイえい画みたいでおもしろかったです。なみだが出るくらいずっと大わらいしてしまいました。そして、小さかったけれどかんらん車に乗ったりしているうちに雪がふってきました。「さっきまでお天気だったのにねー」と言っている間に、またどんどん雪がふってきて、あっという間につもってしまいましたネ!せんどうさんと2人でふなッシーの雪だるまとかまくらを作っているうちに、気がついたらお客さんがだれもいなくなっていて、またびっくりしました。
 あのときも言ったけど、ぼくは生まれてはじめて自動車の運てんをしました。つぶれかけの遊園地でゴーカートにも乗って、大雪がふってきて、こんどは本当の車の運てんをしました。まさか、下の町からふつうの車で町の人がぼくたちを助けに来てくれるなんて、びっくりでした!そして、あの急坂のはじまりでタイヤがから回りして、運てん手の人から「レバーをNのところにしておくから動かさないで。そしてハンドルをしっかりにぎって、あいずをしたら右のペダルを右足でゆっくりふみなさい。」と言われて、みんなが車をおりて後ろから力を合わせておしてくれたらタイヤがじゃりじゃりじゃりって動きました!大せいこうです!「キミはじょうずだから、車の運てんを教えてあげるよ」と言われて、言われた通りにやったら、2回目にからまわりしたところで本当に車を動かす事にせいこうしました!もちろんだっ出もばっちりです。仙道さんもビックリしていましたネ!でも、ぼくたちをたすけにきてくれた車が、まさか5回も雪の中でタイヤがから回りして動かなくなるなんて、びっくりしました。
 下の町(?)でホテルとかにとめてもらえるのかな?と思っていたら、着いたのはジャンソウでしたね。ぼくはマージャンをしたことが無いので、生まれてはじめてジャンソウに入りました。ジャンソウのお姉さんから「何食べる?何でもタダで作ってあげるから言いな」と言われて「ビフテキとおすしとラーメン!」と言ったら本当に全部つくってくれました。ミラクルです。「こんなんだったら、カレーもたのんどきゃよかった。」と言ったら「でも、明日になったらオレイに何かしてもらうよ!」と言われてビックリ!ビフテキはちょっとしゃぶしゃぶのお肉みたいだったけど、ビフテキのあじがしました。おすしとラーメンは食べきれなくて仙道さんやお店でマージャンをしていたおじさんに手つだってもらったけど。おじさんたちは、「このお姉さんは、ダッポウハーブとま薬の売人で、夜はきゃくをとっているんだから、ボク、じゅうぶん気をつけな!」と笑いながらぼくに言ってお姉さんにひっぱたかれていました。でも、いっぱいごはんを食べたら急にねむくなってしまいました。お姉さんはジャンソウのカポックの木の横にある茶色いソファーにおふとんとまくらを運んできてくれて「怜哉くんは、ここでねるといいよ。」
と言ってベッドをつくってくれました。「ほんとはネ、ねーちゃんにも怜哉くんと同いどしの弟がいる。ナマイキなヤツだけど、今ごろ家で何してるかなーって、思ってさ。」と言って、ぼくがねるまで、ずっと手をにぎっていてくれました。うれしかったです。つぎの日のお昼になって、ジャンソウの前につもった雪がふわっと軽くなってから、みんなに歌を歌ってかえりました。電車は止まっていたけれど、いろんな人が車に乗せてくれたり、村えいバスの運てん手さんにおじいちゃんたちがかけあってくれて乗せてもらったりしてさい後に家にたどりつきました。一番すごかったのは、駅から中央病院に行くおじさんおねえさんたちと1台のタクシーに乗せてもらってと中まで行ったことです。ぼくと仙道さんい外の人は全員そのとき初めて会った人たち同しだったのに、全いんすぐになかよしになったのでびっくりしました。ぼくのとなりにすわっていたおじさんが「あした、すぐ手じゅつをうけるから、今日どうしても入院しなきゃいけないんだよ」と教えてくれたのでもっとびっくりです!仙道さん、ぼくの家に何べんも電話をしてくれてありがとう。家に帰ったら、お母さんも「大ぼうけんだったねー!」と言ってよろこんでくれました。「心ぱいかけてごめんなさい」と言ったら「仙道さんが何べんも電話をしてくれていたから心ぱいなんかしていないよ。車が止まっちゃったときはちょっと心ぱいだったけど」とニコニコして言いました。「たすけに来てくれたおじさんたちと仙道さんとぼくの中で、ぼくが一番雪道からのだっ出の運てんがじょうずなんだよ!」と言ったら、しかられるかもしれないと思ったけれど「車の運てんができるようになったの?すごい!あと8年くらいしたらきっとめんきょがもらえる!」と教えてくれました。楽しみ!!です。  伶哉 

 伶哉君!
 わくわくするすてきな一日(…2日間?)をどうもありがとう!あんなに大変な目にあったのに、きみは一言も弱音をはかなかったし、泣いたり怖がったり、家に帰りたいとだだをこねたことも無かった!きみは決して「弱虫のアンドレヤ」なんかじゃないし、逆に強く勇敢な少年だということもよくわかりました!でも、危ない目に遭わせてしまって本当にごめんなさい。お母さんもニコニコして迎えてくださったのですが、伶哉君の姿をご覧になるまでとても心配なさっていたはず。「心配かけてごめんなさい」と心から言えて良かったね。きみは勇気のある少年だから、心から「心配かけてごめんなさい」と言えたのですよ。朝、雀荘のみなさんにきちんと立派にお礼の挨拶をしている姿を見たときも何だか伶哉君がとっても頼もしく大きく見えました。私も良い気持ちになれました。
私は遊園地の中では観覧車が一番楽しかったです。伶哉君ともいっぱい話ができたし、夢のようでした。そして、やっぱりきみの歌がもっともっと聞きたくなりました。一晩とめてくださり、「客なんか来ないから腐っちゃうだけ」と言ってただでごちそうを作って出してくれた麻雀荘の皆さんに、私も心から感謝しています。しゃぶしゃぶみたいなお肉のビフテキ(笑)、たくさんあって世界一おいしかった!伶哉くんといっしょに麻雀卓の上で大笑いしながら食べたことは忘れられません。朝が来て、太陽がぱっと差して降り積もった雪がキラキラと眩く輝く麻雀荘の前で、伶クンが美しい姿勢でお礼に歌ってくれた「花は咲く」は宇宙一きれいでした。あのとき、本当のことを言うと私は寒くて鼻水が出たんじゃなくて、恥ずかしいんだけど伶哉君の声があまりにも美しい声だったので泣いてしまったのでした。だれが一番の泣き虫か、これでわかったでしょう?
私が雪の轍の中に大切なカバンを落としたとき、きみはバサバサッと跳んでいってひろってくれましたね。あれが本当のキミの姿です。突然大雪が降って寒くてへとへとになって大冒険をした2日間でしたが、私は怜哉くんの本当の立派な姿がたくさん見られてとても幸せでした。どうもありがとう!仙道 


  仙道さん 
 きょう、合唱団の練習で大事けんが起きました!ぼくたちは今、夏のえんそう旅行の第2ステージの出し物のオペレッタの練習をしています。その中で歌う「君をのせて」の「♪地球は回るーのソプラノのオブリガートの音ていがはずれているのでメゾとアルトが上手に歌えない」とアルト5年の品川君(弟)が休み時間に言っていたら、鏡ハリス先ぱいが「おれたちはきちんと歌ってる。アルトのはじっこの方のバカどもがオンチで低能だから合わないんだよ!」「オレがどんなに上手にソロを歌っても、おまえらのおかげでオペレッタもぜんぜんきれいにきこえない。」と言いかえして大ゲンカになりました。品川君は鼻血が出て左目の下に大きなアオタンができました。おまえは色黒だからアオタンがこん色に見えると先生から言われていました。ハリス先ぱいはシャツがびりびりになってひじの上に品川君にかまれたあとが「歯科けんしん」の紙にいんさつされている歯の形みたいに赤くついていました。「『君をのせて』のオブリガート部分のピッチが合わないのは、君らがこんなくだらないケンカをするくらいなかが悪いからだ。歌が上手とか下手とかそういうつまんない問だいじゃなくて、心の問だいなんだ!こんなんじゃ、いくら練習しても上手くなるワケが無い!」と全員がえんえんとおせっきょうされました。そのあと、鏡ハリス先ぱいは先生がたのところへ呼ばれてオペレッタの主やくをおりてもらうと言われたそうです。先ぱいはとってもきげんが悪くてこわかったです。ぼくたちメゾの下級生はみんな先ぱいとはなれて帰りました。安藤伶哉    
       
伶哉君!
今日、練習場に行ったら伶哉君が少年パズーの役を歌っていたのでびっくりしました。オペレッタの主役になっていたのですネ!慌てて先生にうかがったら「ソリストにはお客様の拍手が集中します。本人がいい気持ちになるのはあたりまえ。子どもなんですから当然の感情でしょう。美声の団員はいっぱい欲しいのです。ただ、スターやヒーローは要らないんですよ。聞いて欲しいのは合唱ですから。スターの芽はどんどんつみとっていきます。前の主役の子はスターになりはじめていたから、伶哉君の役と交代してもらいました。」とのこと。。ハリス君はすぐに先生のところへ来て尋ねたそうです。「どうして僕じゃいけないんですか?安藤君よりずっと上手なのに、と皆も言っています。先生もよくご存じじゃないですか?」と…。先生は「確かにそうだが、きみはどうして役を交代させられたのか考えてみたかい?一度よーく考えてから、もう一度話し合おう。」とおっしゃって返したそうですよ。さすが先生!でも、伶哉君のソロは大歓迎でーす! from Sendo 


仙道さん 
 このあいだ、ペルゴレージのスタバトマーテルの全体練習が終わったときに、先生が「夏のオペレッタの鏡ハリスの代役はだれだ?」と大きな声で聞きました。ぼくは自分の事じゃないと思っていたので、トイレに水をのみに行こうと思って立ったらみんなが「代役はオンチで弱虫のアンドレヤでーす!」と言って、先生がぼくのほうを向いて「しばらく鏡ハリスと交代して少年パズーの役をやりなさい」と言いました。みんなが「えー?!それってマズいっしょー?」と言って、ぼくも「せ、先生…」と言って、どこからか「あんなのが、バズーかな?」というのが聞こえました。先生は「先生方の会ぎで決まったことなんだ。守りなさい!」とおっしゃった。それからぼくがパズーになりました。今、少しずつ練習をしています。
ぼくのお父さんはイタリアのジュリアノ・イン・カムパニアというところへたんしんふにんで行っています。きのう、お母さんのところへ「伶哉へ 泣いてばかりではだめだよ。でも、夏のオペレッタの主役になったとお母さんからメールをもらった。せめて夏には日本へもどっておまえのステージを見ようと思う。楽しみにしているよ。父より」というメールが来ました。ぼくはプリンターで紙に印さつしてもらって、何度も読みました。今も読んでいます。うれしかったです。
 今日、とてもつらいことがありました。オペレッタの練習が終わって門わき大路くんと「ダンのぼうけん」を読んでいたら、ハリス先ぱいがニヤニヤした顔をしてきて「弱虫レーヤってサ、どうやって先生にスリスリしたわけ?だってサ、鏡ハリスより絶対にオンチでへたくそな安藤伶哉がどうして主役のパズーになれるんだろう?泣いたら同じょうしてくれたんじゃない?楽ふ1だんのソロだって間ちがうくせに、主役なんてできるわけないじゃん。ステージで大しっぱいして大ハジかいて、また泣くんだろ?だったらさいしょから主役なんてやるな!オレが上手にやってやるヨ!」と言いました。ぼくは聞くのがいやだったのでにげようとしたら、「にげるな!」と言ったので、「ニゲルがカチって知らないの?ぼくは弱虫じゃないし、先生がしんせつだから、オンチだって直してもらってんだ。ぼくは主役のソロもきちんと歌えるようになるし、少年パズーだってちゃんと歌える!」ちょっとぼくは泣いちゃったけれど、鏡先ぱいはもう何も言いませんでした。ぼくはもうへい気です。お父さんも聞きにきてくれるし、たくさんの人がおうえんしてくれてるから、ぼくはぜったいにまけません。まけないことがわかったからです。きれいな歌を歌ってぼくはたくさんの人をシアワセな気もちにします!だから、仙道さんも、これからもぼくたちの歌をずっと聞きに来てください。さようなら。安藤伶哉より 

To Mr. Ando Rea
 伶哉君、「深い川は静かに流れる」という外国のことわざを知っていますか?来年5年生になると、理科で「流れる水のはたらき」を勉強します。今日は、私が教えてあげましょう。深くて大きくて立派な川は、まるで動いていないように音をたてず静かに流れるんです。人間も、心が深くて大きくて立派な子ほど、まるで動いていないように静かによけいな事や人の悪口を言わないものなのです。水音がびしゃびしゃ聞こえるような急流は、勢いがあるように見えて実はちっぽけな浅い川にすぎないのです。人の心は見えませんが、身の回りのお友だちに、このたとえをあてはめてごらんなさい。その子の本当の大きさがわかりますよ。yours Sendo 


 仙道さん
 今日、ぼくはエーデルワイスのソロにえらばれました。
ボイトレの先生にエーデルワイスのソロを聞いていただき、たくさんちゅういされました。2小せつ歌うと、もう次のちゅういがありました。また、2小せつ歌うとまたちゅういです。でも、ぼくはうれしいんです。先生からちゅういされたことをなおすと、歌がどんどんきれいで上手になります。自分でもよくわかるのです。ぼくは前はすごく音ちでしたが、今はとてもなおりました。それは、先生にちゅういしていただいたとおりにはっ声を直したからです。ぼくは、前、のどやむねで息をすることが多かったのです。そうすると、息があんまりたくさんすえないから、おなかでささえるのが不あんていになって、それで決められた音がきちんと出なかったのでした。先生が「のどで歌うと、ふたんがかかってのどを悪くするぞ」と言っていたのが、前はわからなかったのですが、今はどういうことなのかよくわかります。ぼくが「これでいいですか?」とはっ声を聞くと、先生はとてもしんせつに教えてくれます。「水戸黄門を閉めるのわすれたね?」とか「おすうもうさんになったつもりで重心をかけて立ってる?」とか。そして、ふつうのときの話すときの声も変わってきました。「はりのある声が出るようになりましたね。まるで物語の登場人物の声を聞いているようです。」と学校の国語の時間の音読で、たんにんの先生からもほめていただきました。ぼくは、ソロ以外の練習のときでも先生からまい日ちゅういされるので、まい日上手になっていくみたいです!もしかすると、鏡ハリス先ぱいが、ぼくのことを「弱虫でオンチのアンドレヤ」と言っていたのは、「弱虫をなおして、音ていもしっかりしたら歌が上手になるよ」と教えてくれていたのに、ぼくが全ぜんきがつかなかったのかもしれません。人のしてくれたちゅういはきちんと聞いてなおさなくちゃいけません。安藤伶哉  

 安藤伶哉sama!
 クリスマスの聖劇のキャストが決まりましたね! 伶くん、2回目の主役の気分はいかがですか?また、たくさん失敗したり、下手だったり、苦労したりして、そのたびに上手になってゆくのですね。なんだか、どんどん立派なきら星のような人になっていって、仙道からは遠く離れたところへ行ってしまうようで…。
 鏡ハリス先輩がメインの共演と聞いて、びっくりしました!「あの2人の関係は、どうなのですか?大丈夫なのでしょうか?」と、心配でたまらず先生にうかがいにいったとき、すばらしいことを教えていただきました!あのオペレッタの練習がすすんで、みんなが「これからも安藤伶哉くんが主役でいっていいんじゃないの?」と思いはじめたとき、先生は鏡先輩をこっそり呼んで、「きみは何で自分が役を交代させられたのか、そろそろわかってきたかい?」とたずねたそうです。先輩は「いいえ、全然。」と。でも、その次の言葉を聞いて、私は鏡君のことが大好きになりました。先生は「それに、きみは安藤君が少年パズーの役をすることに納得していなかったみたいだが、今、伶哉くんが歌っているのはやっぱりおかしいと思うか?」と聞いたそうです。このときの言葉を君にぜひ聞かせたかった!先輩は「いいえ。全然おかしいと思いません。だって、伶哉君の歌の方が僕よりずっと上手くて、聞いていて僕も幸せな気持ちになれたもの。」…この一言の輝きは、アルファ宇宙域とデルタ宇宙域の全ての星々を集めて光らせたとしても、きっとかないません。鏡ハリス先輩の人気の秘密って、こういうところにあったんだと、ようやく気が付きました。
どうか鏡先輩といっしょに心をこめてすてきなクリスマスの聖劇を見せてくださいね!楽しみです!!大好きな、かっこいい伶哉君へ!    from 仙道 
追伸
伶哉君にも大好きな子がいますか? (仙)


仙道さんへ
クリスマスの歌はたくさん教えてもらってたくさんおぼえましたよ!ぜひ、ぜひ、聞きに来てくださいね!鏡先ぱいとのでゅえっともバッチリです!マリアはあゆみぬはアルトで、ときどきオンチになりますが先ぱいの声をよく聞いてふんばっています。ノエルノエルはぼくがカノンで走りすぎてしまうので、先ぱいがときどき目でテンポを送っておさえようとしてくれます。だからホンバンではかならず良い歌を歌って聞かせますから、来てくださいね!
それから、これは書いていいかどうかとっても困ったんですけど、ぼくには今、大好きな子がいます。だれかというと、ぼくより前の4月に入団したソプラノの3年生です。名前はないしょです。ぼくはその子が歌っているのを見ると、かっこいいなーと思います。みんなも、セが高くてかっこいいと言います。でも、「あいつって、なんか女の子みたいじゃない?」という子もいます。それから、その子が歌ったりしゃべったりしているのをずっと見ていたいし、いっしょにいたいと思ってしまいます。ぼくがとても困っていると、6年アルトの中山アンビ先ぱいがぼくにこっそりとコンドームを1コくれて「おまもりだから、おさいふの中に入れておきな」と言いました。それから「小学生の男子が、小学生男子を好きになると、東京都青少年けん全じょう例でたいほされるからだまっていろ」と教えてくれました。でも、いつかなかよくなりたいです。ヘンですよね!ひみつ!ひみつ!ぜったいひみつにしてください! レーヤより 

親愛なる安藤伶哉様
 このお手紙が届いて怜君がこれを読んでいるころ、たぶん私はもう日本にいません。伶哉君、長い間、私にいろいろな話をしてくれてどうもありがとう。君からはたくさんのことを教えてもらいました。本当に勉強になることばかりでしたが、実は怜君から励ましてもらったり、勇気をもらったり、幸せな気分にしてもらったりしたことの方がずっと多かったのです。きみは以前、自分でも「弱虫でオンチなアンドレヤ」と言っていましたが、私はその弱虫な子からたくさんの勇気や力をもらったり、オンチな子から正しい音を教えてもらったりしたのかもしれません。本当にどうもありがとう。(私は50万円をまだもらっていませんが(笑)…)。お別れのとき、きみは「また僕たちの歌を聞きに来てね!」と言ってくれましたね。「演奏旅行でいつかそっちへ行くかもしれない」とも。どうもありがとう!でも、この次に私たちが会うとき、きみのほっそりとした少年の声はもうお兄さんの声に生まれ変わっていることでしょう。とはいえ、君が今、頑張って私たちに歌ってくれていることの目標は、決して「声変わり」などではないはず。きみの一生の宝物を歌いながら自分で作って育てているのです。どうかその宝物を大切に!
 私はまた、パリ木の追っかけ&研究に戻ります。伶哉君たちがクリスマスのときに白いガウンを着て歌うでしょう?そのとき、首に、木でできた十字架をかけて歌うのです。だから「木の十字架少年合唱団」と言うのです。ふだんのときは、ソックスが白い以外は東京少年少女合唱隊と全く同じユニフォームです。合唱団で売っている一番新しいアカペラのCDを一緒に送りますから、聞いてね!フィリピン民謡の「小さい小屋」、スペイン民謡の「門に立つ母」、ロシア民謡の「カリンカ」…それに、伶哉君たちも歌う「上を向いて歩こう」も全部昔からずっと彼らが歌ってきたレパートリーです。カンッ!って響く声がとても楽しい!
私は15区ジャベルの高層アパートの21階に住んでいます。西側の部屋の窓からは下の方にモスグリーンの色をしたセーヌ川も見えます!いつか遊びにきてくださいね!地下鉄10号線のシトロエン駅かシャルル・ミッシェル駅に着いたら電話をしてください。10分で迎えにすっ飛んで行きます!
長い間、どうもありがとう!お母様にどうぞよろしく、仙道が心から、心から、感謝していたとお伝えください。今日の日はさようなら、また会う日まで!

最後の追伸
伶哉君が小学生の男の子を好きになっても東京都青少年の健全な育成に関する条例には違反しませんよ!もし、万一違反しても(…しませんけど)きみのお年玉何年間かぶんの罰金を払わされるだけです。どうか、ソプラノのかっこいい下級生を大切にしてあげてください。きっと、その子はキミといっしょに歌うために伶哉君のそばにやってきたのです。悲しいめにもあって、それでもがんばって歌ってきた怜君への神様からのおくりものなのです!伶哉君が男の子を好きになっても大丈夫!だって、そんな都条例に完全に違反するマンガをいっぱい描いて売っていた人が、今は大学の学長先生(大学の校長先生)になっているくらいなのですから…!
あなたの仙道より 


仙道さん
 どうもありがとう。ぼくはあの大雪の日のつぶれかけの遊園地のかんらん車の中で、仙道さんから「昔、ナイショと言った『しょう来すばらしいソリストになりそうな、一人の団員のことを調べている』というのは、実は怜哉くんのこと」「わたしは送ってもらったデモテープを聞いて、ホンモノの安藤伶哉君に会って、歌っているのを目の前で聞きたくなって、日本にもどってきたのです」と言われて、なんだかとってもうれしかったです。がんばろうと思ったのです。でも、今は仙道さんがいなくなってとてもかなしくて、むねがけずれたみたいにいたくて、たくさんないてしまいました。そしてないてしまってブレスもできなくなって、今はぜんぜん上手に歌えません。カンペキなオンチです。いつかまた、じょうずにうたえるといいです。そして、合唱団のみんなと、仙道さんと、またつぶれかけの遊園地やジャンソウの人たちに歌をうたってあげて、おれいをしに行きたいです。      なきむしでオンチなアンドレヤより  

ムササビ・グライダー

January 16 [Thu], 2014, 23:55
▲寂しい?…そんなこと、考えたこと無いです。いっぱい団員が入ったりしたら、下駄箱の掃除も大変になっちゃう。それに、お掃除したり、ソロの練習に呼ばれたり、みんなといつもの練習で合唱したり…合唱団の中を飛び回って一人でイロイロするのが楽しい!一番好きな曲?…今は『ムササビ・グライダー』かな?

 下駄箱の最下段、ダストモップがけが終わり団員たちの下足が全て元通り揃って置かれたのは練習開始の定刻、午後4時の10分以上も前のことだった。
毎週の水曜日・土曜日、小学生の男の子ばかりの児童合唱団。本練習前、「♪ラララ」「♪マママ…」と正真正銘ボーイソプラノで音階の声出しが届く練習場の1階玄関である。代々の先輩方の引き継ぎを受け、昨年から練習日毎の「下駄箱の整頓」を一人黙々とこなすメゾソプラノの小学4年生、松田リクは今年度最後の仕事を終え、女の子のような甘い溜息をついた。
 最上段の左上から一足ずつ団員の靴を横に避け、ホーキ草の小箒で静かにそこを掃き、出て来た土埃を100円ショップのプラスチックのちりとりに受ける。箒を持ったままの右手で退けた誰かの靴をもとに戻し、次に移る。天候にもよるのだが、首都圏から電車やバスに乗ってやってくる少年たちの靴の裏は、舗装された綺麗な舗道を通って来るため、めったなことでは土塊や砂を運ぶ事が無い。本科団員には「通団服」が指定されていて、出演時のステージ・アイテムに慣れておくため、通団時の履物は「黒の革靴のこと」と「団員のしおり」には書かれていた。たいていの団員はレッスンの行き帰りと出演の最中にしか革靴は履かない。黒いエナメルのサッカーシューズや80年代風の黒いスニーカーを履いて来る子ども、学校から直接練習場にやってくる国立・私立の小学校の在校生はもちろん校庭をさんざん走り回った靴を履いて来るのだが、一塵の砂さえ玄関に零さない。学校のグラウンドは今や芝生とクレイ舗装で覆われているからだ。ユーリ少年の最初の仕事は早く終わり、彼は集めた少しの砂を玄関ポーチの端に置かれたトラノオの大鉢の隅にぱたぱたとはたき込んだ。次に再び靴を退けながら、マイクロファイバーの化学ダストモップで5段の天板をカンタンにぬぐって任務完了だ。慣れた子ならば一人でやっても10分程しかかからない。雑作も無い当番仕事。だが、決してやりがいのある任務ではない。
「へーい!リク君!松田君!(全体レッスンの)始まる前に『ムササビ…』のソロをちょっとだけ練習しましょうか!おいで!」
フローリングのスタジオからご指導の先生が右半身を覗かせて少年を呼ぶ。
「はーい!」
返事を返し、4年生はドア側に設えられた掃除用具入れのノブを引いてハンディーモップを押し込み、「やっほ!」と上機嫌だ。ボーイソプラノたちのおおかたは歌う事が大好き。
「ゲタバコの掃除も少年合唱団の仕事ですから!」
男の子はそう言って笑い、手洗い・水飲みにとトイレの隣にあるステンレスの手洗い場へ白いソックスの足で滑って行った。
 「がんばれ天使のハーモニー!解散?衣替え?ピンチの少年合唱団」「少子化で団員集めに腐心」…1970年代後半、男の子だけしかいない首都圏の「少年合唱団」はどこも100人超もいた団員数の1桁減から始まる団員不足に悩まされ始めた。ステージ要員として歌える少年の数は各団あっという間に50名を割り、70年代に「しごきにめげず天使のハーモニー」と報じた同じ全国紙新聞が今度は同じボーイソプラノの合唱団の窮状を「応援」の筆致で書き記すようになる。
「ムカシは、この下駄箱に団員の靴がぎっしり入ってて、予科生や先生方の靴は下駄箱の前の床に並べてたらしいです。当番は2人組で、1段ずつ一人が靴を出してもう一人の子に渡して床に並べて、それからその段を2人で水拭きして、床に置いた靴をまた元通りにするのを5段全部やってたそうです。今は当番も僕一人だけど、靴を横にずらしながらチャッチャってダスキンモップで掃除すれば、すぐ終わる。全然楽(らく)だし、あんまりイヤだと思った事はないですよ。」
4年生の男の子はカンタンな当番仕事だと笑う。2人で担当していた時期、清掃は、基本的に練習が終わり殆どの団員が帰った後の作業だった。手際の良い子が組んでいた年度には「レッスンの休憩時間にさっさとこんな仕事を終わらせて早く帰ろう」というツワモノたちが時間内に清掃を強行して済ませていたらしい。「最近は帰宅時刻にナーバスな保護者も多く、レッスン終了は毎回必ず時間通り。合唱団に残って追加練習等、何かをさせる場合は必ず家へ連絡を入れることにしている」と、団側では説明する。
 「2年間以上は当番を引き受けてくれるしっかりした頼りになる団員」…と、松田リクが最上級生らのオファーを受けたのは昨年の初春。前任の6年生たちは数年にわたり1年間で交代を繰り返していた。6年生はテキパキと掃除をこなすが、合唱団のメインクルーとなって終始下級生の面倒をみていたり、自身の練習もたてこんできたりと、一刻も早く作業を終えてしまいたい心のうちが掃除の仕上がり具合に顕われてくる。松田少年も、当時卒団を翌々週にひかえたソプラノの最上級生から年度末ギリギリになって「掃除の手順」の実践説明を受けた。大所帯とは言えない児童合唱団の練習場のこと、3年生の彼にも「上級生の誰かが毎回下駄箱の掃除をしてくれている」ことだけは知っていた。上級生の説明を受けながら、9歳の少年の手にはやや余る大きさの小ボウキで、教わった通り靴をずらしながら掃いていると、学校の卒業式の練習や年末行事のリハーサルの影響で時間ギリギリにここへ駆け込んでくる5年生の一団が、自分のきれいにしたばかりの空間へ大きなすり切れかけた革靴をばんばん乱暴に突っ込んで行ってしまおうとする。
「靴をきちんと入れていってください!」
6年生はぴしゃりと注意を与えるが、学校で卒業生を送り出す儀式行事の準備・練習にさんざん神経を使ってきた5年生たちが概して不愉快そうな「やればイイんでしょう?!」的な剣呑さで「やりなおし」をするためにその場の空気は穏やかでない。学年の上下関係さえ無ければ一触即発の状況に、松田少年はミニちりとりの柄を握りしめたまますっかり萎縮してしまった。
「僕はこんなときも黙ってやってやるしかない。」
覚悟したという。
「今ならソッコーで先生に言いつける!…でも、3年の頃はまだ先生の方が怖いと思っていたから。」
松田少年は当番を始めたその4月にメゾソプラノの貴重なソリストになった。出演・独唱という明確な目標に向け師弟双方が身を寄せあうようにして練習に取り組む。絶体絶命と思われていたプロジェクトが成功裏に無事終了し、客席満場の拍手を浴びながら指導者とソロ団員の心の距離が確実に縮まった事を実感として把握する。松田少年は今日の清掃後も、かつて「上級生よりよっぽど怖い」と思っていた先生がたからソロの個別レッスンを受ける。どったんばったんと男の子ばかりが集まる合唱団本科の始業前のスタジオの喧噪の中から、ご担当の先生の弾く簡単なコードに乗せ「♪ポプラ揺れてる、ヘヘイ!ヘイ!」と松田少年の芯のある頭声が響いて来た。先ほどまで話していた声とは全く違う、蜜のような凛々しい濃さげな声だ。
 間借りではあるが、この練習場の建物は合唱団の創立当時から全く変わっていない。聖堂での奉仕を目的とした男子校の小学校の聖歌隊を除けば、企業の運営している都内の男の子の合唱団は、いずれも練習施設のある本社移転を経験しているようだ。1期生から現役団員までが同一の練習場で歌って来たような団体は珍しいということになる。かつての日本人のライフスタイルの常識として「室内では靴を脱ぐ」ということが当たり前だった時代、建物は作られた。玄関には木製5段の下駄箱が当然の什器としてしつらえられ、後年、チョコレート色の薄いプラスチックトレイが木質保護のために棚板へ乗せられた。かつて、子どもたちは団員番号順に自分の靴の投入位置が決まっており、氏名ゴム印の押されたシールの棚へ靴の踵を揃えて入れておくよう指示されていたことが、今でも剥がし損ねて残っている泥汚れしたラベルの痕跡で知られる。現在、団員らはスーパー銭湯の靴箱よろしく背丈に合った自分の好みの場所に靴を置く。自分で判りやすい場所をその日の気分で適宜選ぶ子どももいれば、必ずここに置くと決まっている少年たちもいて、実に好きずきだ。それにもかかわらず21世紀に至ってなお少年合唱団が練習場でのいわゆる「土足」を認めていないのは、指導者たちがレッスン中の足音など、耳障りで合唱に不要な余計なノイズを極端に嫌がるからだ。小学生の男の子は大切な練習中も決してじっとしていてはくれない。通団用の靴を「革靴」と指定しているようなこの合唱団の場合はなおさら。年度によって「上履き」を認める場合もあるのだが、現・在団生は「上履きの使用を禁ず」ということになっている。

 合唱団は戦後の児童合唱ブームのさなか、大がかりな募集広告も華々しい創立イベントも打たず静かにスタートをきった。後発団体の強みで他団の活動の良いところを巧みに取り入れ、団員達を陶冶し聞く人々を楽しませる。真っ白なワイシャツに余所行きの靴を履いて毎週のレッスンに通う近所の団員小学生の姿は幼稚園児にとってあこがれだったと指導者は振り返る。かつて、「少年合唱団の団員である」という属性は一種のステータスとして考えられていたのだ。「声が良いから」「歌うのが好き」「音楽の才がある」…学校の音楽専科の先生方に推され、あるいは知人からの紹介で入団テストを受け、どの子も流麗に歌えたとは思えない歌唱テストの出来に首をかしげながらどういうわけか本人たちも驚くままにパスし、先ず手にするのは合唱団のバッジとデパートブランドのぶかぶかの通団服。…合格後、ほぼ全員が配属される予科。通団服はデイリーの用途の他にもともと「予科生のステージ衣装」へと転用されることを想定し、あつらえられている。だから小さな彼らは通団の最初の日から舞台用に指定された「黒の革靴」を履いてレッスンに通うのだ。やがて毎週のようにやってくる出演やスタジオ入り。イベント・コンサート・客員の聖歌隊、カスタムレコードやCD、ローカルのテレビ・ラジオ番組やCMの吹き込みなどがメインの活動となる。夏休みには合宿練習、秋には運動会。他に入卒団式やクリスマス会、新年会、予科生のお披露目会、バザー、父の日・母の日の感謝演奏会と団員の日々は家族を巻き込んで大賑わいだ。
 時は流れ、少子化社会と言われて久しいご時世だが、様々な事情から首都圏の少年合唱団の団員減少はバブル期前後を境に突如ブレーキがかかり、こんにちどの団体も50-60人台の水準ながら団員数は安定しているという。ただ、団員保護者の誰も決して口に出して言わないが「少年合唱団員」であることは今日もなお「一種のステータスの表出」としてとらえられているのではないか、と団関係者はみる。頻繁に行われる出演・スタジオ入りへの移動費用、親の付き添いでかかるアゴアシの出費と時間、演奏旅行や合宿の出費はスポンサーが「支給します」と言ってくれない限り全て団員家庭の持ち出しとなる。定期演奏会のチケットの割り当てや団員の「おやつ」「軽食」と小道具購入・ステージ衣装のモデルチェンジによる新調・保護者会報発行などの様々な会計に充てられる保護者会費の金額はばかにならない。息子の出演するオペラ・クラッシックコンサート・バレエの良い席をステージママよろしく親戚一同で押さえて観ようとすれば、おじいちゃんおばあちゃんのフトコロでもアテにしない限り一夜の公演一家族につき数万円ものお金が吹き飛ぶ…。先生方への月謝は「無料」としている合唱団も都内にはあるようだが、諸費用だけはしっかりと家族の財布から出ているのではないか?と、合唱団事務室はみている。団員メンバーの中に占める私立校通学児童の割合がこの合唱団の場合、近年比較的高めなのも頷けるというものである。保護者に一定の金銭的・時間的余裕が無いかぎり、子どもを少年合唱団のようなところへポン!と気軽に送り込むことはもはや叶わない夢といった状況でもあるらしい。合唱団の指導者がこのことに気付いたのは、合宿の宿舎の3段ベッドの上下選択で揉めている少年たちを前に「家でも2段ベッドぐらいは使うだろう?!」と尋ねた結果を見て。…男2人兄弟であるのにもかかわらず、縦に重なったベッドで兄弟が実際に床をとる様子をBS有料チャンネルの『コメットさん』の再放送で初めて見た…という子どもをはじめとして、2段ベッドを使ったことがない子どもの数が存外多かったことからだった。
 松田リクは小学1年の入団の段階で、家庭環境から既になんちゃってグレードのマユツバな「ソナチネレベル」でピアノを弾きこなす優秀な少年だった。妹がいるのだが、夜はもちろん別の部屋で寝ていて2段ベッド体験は無い。また、予科生時代から彼の面倒を熱心に見てやっているアルトパートのアオケン少年の究極の趣味は「庭いじり」だそうだが、そう告白したときにクライアントの大人たちから判で押したように返って来る「キミのお家には、たくさんのお花を育てられるような大きな広いお庭があっていいネ」という言葉を極端に嫌がる。アオケン少年が、しばしばホンバンのステージに遅刻するアッ君の代役でソロを取らなければいけなくなるのは、アッ君のママが団員集合場所のターミナル駅の地下駐車場へと急ぐ首都高の出口でママ専用の新車の赤ボルボを「ちんけな青いレガシー」にぶつけてしまったりするからだ。彼らがそうして劇場で最終の非公開のプローベを打っている間、ママさんたちは(そしてときにかなりの頻度でパパさんたちも…)ゴージャスなショコラティエのカフェで、フランジパーヌたっぷりのクレームブリュレやガレットにしばし舌鼓を打ちながら息子たちの本番の開場時間を待っていたりするのである。
 団員数が安定しはじめた頃から合唱団では団員の係を見直す。特定団員の「世襲」だった下駄箱掃除の担当は一時、定員1名で持ち回りの「当番制」に改められた。寒い冬休みの朝練習の期間も係の子がしもやけを作りながら雑巾しぼりをしていた水拭きは、化学雑巾での払拭へ。「仕事は楽になったが団員らはここへ歌の練習をしに来ている。団としての集団行動には興味を持つ子も多いのだが、基本的に個人作業だけの『持ち回り掃除当番』では責任も持ち回りでイイカゲンになった。」と述懐する先生方は、1年も経ずに「下駄箱当番」という名称はそのままで指名を受けた団員が卒団まで美化の責任を持つという制度に戻した。仕事が楽になったぶん、2名だった担当は1名に。病欠や出演などで当番が練習場に来なければ、その期間、清掃は行われない。「それも当たり前のこと。仕方がない」と先生方は諦念するが、「私たち指導者も含め、団員たちには当番の子へのありがたみが感じられてよい」「係の団員にとっては、僕がいなけりゃダメなんだという自己肯定にもつながり、後を任せられるような後輩たちを育てていこうというモチベーションにもつながる」と評価もしている。本来は「歌声が美しく、歌っている姿に魅力が感じ」られれば良く、それによってお客様がたが夢や希望を持ち帰るという当為の少年合唱だが、「歌とは一見関係の無い下駄箱掃除のような使役から団員たちの得ている物は少なくない。ステージでの子どもの歌声や立ち姿にそれらは如実に反映され、生かされる。何がその子の動機づけにつながるかは各自まちまちで一概に言い切れない」とも。

 団員たちにとって貴重な息抜きのための休憩時間、リク少年は当番の仕事を質されたのが気になったのか、わざわざ下駄箱の前へと戻ってきた。「しょーもねェ!」「5年生のくせに!」などとぼやきつつ遅刻した数名の団員たちの靴のかかとを棚板の端に引き付けて整頓してやっている。
「…遅れてくる子たちの靴は、たいていこんなふう。イッパツで遅刻して来たってワカる!」
言葉とは裏腹に、男の子の表情はことのほか世話好きらしく楽しそう。
「誰がどの靴をはいているのか、すぐにわかるようになった。靴を見たら、その子の顔もいっしょに目に浮かぶ。」とも。現在の指導者が同じ4年生団員であった頃、「先輩方の使う下駄箱の上の段は畏れ多く怖く、不用意に眺めることすら躊躇われた。…手の届かない場所だった。」と記憶をたどるのとは対照的だ。「みんなの靴が並んで、きちんと揃って待っている。まるでステージのヒナダンに並んだ僕たちみたい。下駄箱はもう一つの少年合唱団なんです。当番の僕がそれを毎日きれいにしてやってる!めっちゃカッコいいでしょ?エッヘン!」
胸を張る4年生メゾソプラノ。
「うまいことを言うね。」
と褒めると、
「ホントは、前の先輩(前任者)から、やりかた聞いたとき(業務引き継ぎ中)に教えてもらったことなんですけど…」
オレンジバーミリオンのかわいい舌をぴゅっと出しながら照れ笑いする。
「今は何と言う曲のソロを練習しているの?」と話題を先ほどの個人レッスンの方に振ると、突然眼光鋭くなって『ムササビ・グライダー』という独唱曲です…との返事。ピアノの前奏では「モモンガ属」のドラマチックな跳躍と「リス科」小動物の動きを思わせる目まぐるしい動きが華やかに音をまき散らして交錯する。止めきれぬスピードに後脚がもつれかけて最後にドシン!と大木の幹に着艦する低音から主旋律のベースを先取りするため、歌い出しの音が極めて取りにくく、10歳の男の子の歌の技能では正しい音をすぱんと差し出すことが難しいらしい。しかも冒頭の歌詞が「♪へーい!おいらは…」と感情の間投詞ではじまり、不定調な進行をくぐって「♪ムササビー!」でボーイソプラノの換声域を突如貫通するジャンプ力も要求されている。クラッシックの歌唱訓練を一通り何年か受けてきた子でないと、頭の数小節からすでに歌いこなせない曲だという。身体の小さい小学生の男の子がたった一人、広いステージの上で歌う所在の無さを和らげるため、激しくない程度の「振りつけ」が施されていた。
「『へーい!オイラ…』のポーズは右の親指を立てて顔に向け、アキレス腱伸ばしする!」
本当のアキレス腱運動のように男の子は指を立てながら体幹に重心をかけて、カッコよく実演してくれる。
「親指の先が自分の胸じゃなくて、顔に向けなきゃいけないのは、1階席のお客様によく見えて、何のポーズなのか判るように…」
グッジョブのハンドサインのお父さん指の方向を変えながら上手に説明した。
「『♪テイク・オフ!ランディング!』の繰り返しは、広げた両腕を肩から上下させて表す…こうやって飛行機のフラップにします。」
アキレス腱の運動は、今度はラジオ体操第2の最後の深呼吸をセッカチにカクカクとやってみせたという趣の動作に変わった。同時に口ずさむ歌のピッチも「♪テイク・オフ!」は低めの音ではじまり、「♪ランディング!」でピンと上がり、旋律の一対の上下が曲を徹頭徹尾貫いている。凛々しい低い声と甘く絹を裂く高い声が交互に出現するカップル・ゲーム。全体的に軽快なイメージが求められる一方、正しいピッチを保ち続ける力と技術を必要とする本曲のソロに、指導者は比較的声域の広い方のメゾソプラノで身体の柔らかい4年生の松田リクを起用した。曲の最後、お腹でしっかりと支える甲高いボーイソプラノを絶唱する。約5秒間強のロングトーンを鳴きながら両腕を翼に見立て、ステージ前方で滑空のポーズをとり右へ左へと体を傾ける。
「最初はすぐに息が続かなくなって…」先生方からその都度、ご指導を受けたそうだ。万が一のためにカンニングブレスも教えて頂いた。今、息が持たなくなるということは殆ど無い。
「頂いた伴奏譜を家のピアノで弾いて一人で繰り返し練習もした。最初は難しすぎてオンチだったのが、ピッチも合ってきてうれしい。」
苦しかった初発の窮状を自主練習でのりきって、次第に興味もわいてきたようだ。
男の子はこの合唱団に現在数名在籍する「ある程度のピアノ伴奏も任せられる」貴重な団員の一人。伴奏譜を渡せば自宅で「弾き語り」よろしくピアノをつまびきながら歌の練習もしてくる。今回の楽譜は合唱指導のプロ向けに販売されていた数十巻ものの「実践・合唱指導全集」の1曲。国内の有名な少年合唱団のソロ団員が歌う範唱も付録のCDに収録されていた。
録音の歌声はやや豊満なソプラノ。中・低域の「音程」に日本人ボーイソプラノ特有の振れがある。リク少年は音取りの段階で「あまりCDに頼りすぎないでね」とあくまでも舞台でのイメージを掴むためだけに…と念を押され指導者からCDを借りて聞いた。感想は「カッコいいし、めちゃくちゃ楽しい!」。自分もいつかはこんな素敵な歌が歌えるようになりたい…と憧れも感じたようだ。

 松田リクはもともと比較的音楽的センスを持った優秀な子どもの一人として入団テストにパスし、4年生で独唱のレパートリーすら抱える出世頭だが、「下駄箱当番」という煩雑な仕事も同時に抱え、こなしている。「練習場の美化など、歌に関係の無い雑事は清掃業者にアウトソーシングすべきなのでは?」と指導者に尋ねてくる保護者も毎年必ず何人かはいるという。多忙な日々であるはずの子どもに何故一見不要そうな当番をやらせているのか…?リク少年本人に尋ねても、
「わかりません。家や学校での掃除が大好きっていうアオケン先輩みたいなカワリモノも合唱団にはいるし、何でも引き受けてくださるOBの先輩方がしょっちゅう来ている。誰でもいいんだったら本科に上がったばっかしの2年生の子とかにすれば5年間変えずに済むでしょう?…先生方やみんなからは『ありがとう』『ごめんね』ってしょっちゅう言われて、感謝されるから僕はぜんぜん構わないんだけど…。」
下足番のような下らない仕事…という嫌気や卑屈さではなく、「どうして僕みたいな普通の団員に声がかかったのだろう?」という謙虚さを感じさせる口調。歯抜けのがらがらの下駄箱の前で彼はくしゃりと顔を崩しながら首を傾げた。
「少年合唱団なのですから、団員は最後まで歌さえ歌っていければ、それでいいのではないでしょうか?」と、ご担当の先生に尋ねると、倨傲なる不躾には一切お咎め無しの穏やかな口調で、
「いや、逆なんです。少年合唱団では、団員が声変わりまで歌だけを歌っているようではいけません。優秀な子ほど、それではイケナイのです。」
と、たしなめられた。
「下級生たちは、自分らの下駄箱をたった一人でキレイにしてくれている松田先輩が大好きだし、頼りにもしている。この先輩の言う事なら素直に聞こう…この先輩のためにだったら喜んで一肌脱ごうと実感として思っている。一方の上級生たちは、本来は自分たちの誰かがこの仕事をしなけりゃイケナかったはずなのに…という負い目のようなものを大抵の子が引きずっていて、ピアノが上手に弾けてそこそこにきれいな歌も歌える松田君を『ちょっと出来がいいくらいで調子にのっているナマイキな下級生』とは口が裂けても言わない。損得無しに大切にしようとする。…合唱団はチームのようなものだから、こういう人間関係がいざというときにすごい力を発揮するんです。歌だけを歌っているような子はダメ。こういうわけにいかない。」
 少年のみの児童合唱団では安定しない団員数という憂うべき事態を、もはや「逃れられぬ定め」「宿命」「巡り合わせ」として受け入れ、最近はどこも上手に付き合うようになってきているはずだという。中途退団者の数を見込んで募集開始年齢を前倒しにし、前もって大量の団員を採用しておくという団。少人数でも出来る限り長く歌って卒団してくれそうな団員を厳選して受け入れるという方針の団。来る者拒まずのうえ入団後の面倒見が良く、基本的に病欠以外の欠席や途中退団を認めていないという団。さらに支援OBを重用し活躍を現役団員に見せ、「卒団まで歌い切って理想のOBへ!」とリクルートの形で激をとばしたり、皆勤賞を出したり、やめにくい人間関係から団員紹介による応募者を優先して採ったりする団など、対処方法も枚挙に暇が無い。子どもたちが「歌のみにて生きる者ならず」と様々な任務や役職、運動会や合宿など歌以外の活躍の場を潤沢に与えられるのも、少年らを合唱団に引き留めておくための方策の一つであるらしい。また、「歌は確かに上手だけれど、歌っている子どもは高慢で心がない」というような演奏は、聞いているのがたとえいちげんのお客様ばかりであっても簡単に見抜かれてしまう…お客様がたの目の厳しさを決して忘れてはならないという。

 本年度最後の練習日となった今日、下駄箱の前で私からの最後のインタビューを受ける松田少年の前に白いミラーレス一眼を持ったマネジメントスタッフがやってきた。
「一年間、きれいにしてくれてどうもありがとう!」
と彼女が背面モニターの液晶を覗きながら声をかけると、頬を真っ赤にして何かに上気した6年生たち5名が両側から下級生を挟むように画面へと割り込んできた。
「ね!マネージャーさん!下駄箱も一緒に撮ってよ!」
卒団を控えた彼らの「タメグチ」にも慣れっこな女性スタッフはシャッターボタンに触れていない左手の先を「こっち」「そっち」と左右へとひらひら振って彼らの靴と稼働中の下駄箱が見えるよう少年たちの立ち位置を動かした。
「トナミ君…あなたのお美しい巨体の左半分が切れちゃうじゃない。もうちょっとこっちに寄って…!」
窮屈そうな通団服に無理矢理お腹と首回りをつっ込んだメタボ少年の「巨体」のどこが「お美しい」のかよく分からないが、指示を受けた男の子は半歩の半分のストライドを詰めた。松田リクの肩にその「お美しい」を摺り寄せて、ずんぐりカサカサの右手指でピースサインを作り、ポーズをとった。
「オレらの靴とか、バッちし写ってますかー?」
ずらりと並んだ黒光りする靴のどれがその少年のものであるのか、どの履物も似たり寄ったりの子ども用フォーマルシューズ。大きさが微妙に違うだけでにわかに判断がつきづらいが、カメラマンは「写ってマース!」とおどけてシャッターを切った。数日後の卒団式、彼らに手渡される記念写真のプリントアウトには、仕事場を背景にした「下駄箱当番」の姿も、並んだ黒い靴の列も写っていないだろう。松田リクの背後には、もの言わぬ下駄箱の棚板ではなく、真っ赤な頬をしたたくさんの少年合唱団員が並んでいるに違いない。
「リク!当番、一年間ありがとうナ。」
「ホント、ゲタバコ毎回バッチくしちゃって悪かった。」
「4月からはオレらの代わり、アオケン先輩にでも優しくしてもらいな。オレはアオケンから散々ナメられてたけど、とっても良かったよ。」
「そう!口が上手!」
「幸せだった。…あいつはそういうところが上手いんだ。」
先ほど「トナミ君」と声をかけられていた少年は、そんなことも言った。
6年生らは次に、「毎日の休憩時間、ビニールボールで手打ちピンポンをやっていたスタジオの駐車場」へ下りて記念写真をとりたいと言い出した。
「みんな、ちょっと待て!おい!リク坊、『ムササビ・グライダー』の最後のところは『♪ムササビームササビー』って流さないで、一言ずつ、きちんと口をつむって目立たないように鼻でブレスするといいよ。その方がフレーズに締まりが出てカッコ良くなる。♪ムッササビー ♪ムッササビー ♪…グライダァー!」
トナミ少年が範唱したので、6年生たちは成り行きに任せ、全員で曲頭へダカーポし ♪ヘーイおいらはムササビー!と楽し気に歌いはじめた。松田少年の今回の起用はもともと「ソロで何か歌って欲しい」という内容のオファーであったために、「全員で歌って練習して来た曲をオーディションで1人に絞る」という通常の起用プロセスを踏んでいない。ズに乗った6年生たちが皆でこの曲をそらんじて歌い興じる姿を見て、彼は『ムササビ・グライダー』が以前はどの団員でも歌えるよう全員が練習し、然る後、ソロをあてる通常のレパートリーだったらしいことに気付いた。…自分一人だけで歌って来たものだとずっと思い込んでいたし、一人きりの戦いだと信念のように思い描いてもいた。したり顔で自分だけが歌えるのだと信じており、仕事は1度きり、次にこの曲を歌う者はもう後輩に出て来ないだろうと決めつけてもいた。だが、真実はそうでは無かった。皆で歌い、楽しみ、最後に1人の団員が皆を代表してお客様へもそのシアワセをおすそ分けする。松田リクは卒団していく12歳の少年たちと円陣を組み、楽興と至福の渦中に身を投じていつまでも「♪もしもお望みな・ら・ばー」と歌っていた。

 「帰れ―!時間です。全員とっとと帰りなさい。歌の練習中は『もう終わりにしましょうよー』なんて言うくせに、ようやく終わったら今度は全然帰ろうとしない!…まったく!」
先生方は先ずトイレ前の廊下で全クリしたダンジョンの攻略順を得意満面説いている5年メゾソプラノに声をかけた。
「そろそろ帰りなさい。またいつでも来てくれていいんだから…。名残惜しいのは判るが、いつまでもいると、よけい家に足が向かなくなるぞ。」
今度は卒団生たちに告げた。
「…先生、オレたち最後の日なんだから、少しぐらいオマケで目こぼししてくれてイイじゃないですか。」
6年生がやんわりと抗う。
「そういうのを九仞の功を一簣に欠く(きゅうじんのこうをいちにかく)というんだ。習わなかったのか?最後の日の最後の一瞬まで、立派な少年合唱団員らしくしていてくれないと…。」
次に、「合唱団の一番好きな歌は?」と、ごくありふれた質問をリク少年へ差し向けた私の脇で、
「時間通り帰さないと、この子のお家でも心配なさるので…。申し訳ありませんが、今日はこの辺で、勘弁してやっていただけませんか?」
と、丁重に「ご遠慮」のお願いをされた。
 少年たちが玄関の扉から次々吸い出されるように仙草ゼリー色の春宵へと姿を消してゆく。
遠ざかるボーイソプラノの声。枯れかけた嬌声がすぐに辺りへと減じて練習場の室内は花冷えの佇まいへと静かに入れ替わった。リク少年は、再びおしゃべりの続きをし始めたが、私が詫びて制すと口をつぐみ、スッと行ってしまう。練習場のパイプ椅子の間から自分の荷物を引きずってきて背負う。ソックスの足のまま玄関のたたきに飛び降りると、下駄箱の下から2段目の左端…お気に入りの場所に決めてあるらしい棚板の上からチャイルドトラッドを1足抜き取ってエントランスに投げた。嵐の大洋に揉まれる艀よろしく床に転びかけた靴の履き口へ。ふやけた靴下の指先を突っ込み、爪先でトントン、トントンと左右交互に土間を叩く。帰宅の時間、もはや下駄箱を注視するどころか、一瞥をくれる者さえいない。。彼らは皆、前だけを見ている。練習場から次々飛び出て行ってしまう。松田少年でさえ、自らが心を込めて担当しているはずの什器にもはや注意・確認の視線をむすぶことは無かった。
「下駄箱の空所が減らないことに、慣れてしまった…。せめて子ども達の前でだけは、当たり前のことと思ってしまってはいけないのかもしれません。」
と、先生。暖かくなりはじめた宵の闇へと消える少年たちの背中を送り出し、ガラス戸の向こうをしばらく凝視している。4月の募集で採られる新入団員が、今日ここを後にした子どもたちの数や歌声の深さより勝るだろうという「安定成長への約束」のようなものは一切ない。
「以前は、このまま団員が居なくなるのではないかという不安が私たち指導者の心中、常にあった。この春の新入団員がたった1人であるということも十分あり得るのですから…。それも、もう、慣れましたけどね。」
「寂しい?…そんなこと、考えたこと無いです。いっぱい団員が入ったりしたら、下駄箱の掃除も大変になっちゃう。それに、お掃除したり、ソロの練習に呼ばれたり、みんなといつもの練習で合唱したり…合唱団の中を飛び回って一人でイロイロするのが楽しい!一番好きな曲?…今は『ムササビ・グライダー』かな?」
帰宅の指令がかかる直前、インタビューに答え、松田少年は滑空する可愛らしいげっ歯類のポーズをとりながら、白いソックスの足で玄関ホールの床の上を文字通りウキウキと滑りまわっていた。

クリスマスの12日 / The Twelve Days of Christmas

December 25 [Wed], 2013, 19:21

▲クリスマスの贈り物をありがとう!二人の邂逅は今年最高のクリスマスプレゼント!いつまでも、いつまでも、最後までキミを応援し続ける!僕はきみのうたを世界中で一番近くに聞いてきた一人だから。これがアオケン少年のクリスマスの第一日になった。

 午後4時35分。ナツヅタの枯れ落ちた本館外壁の白い窓枠の下で、徴用されたキャンドル点灯担当の子たちがカチカチと2アクションのチャッカマンを繰ってカップの中のキャンドルに炎を入れだした。赤煉瓦の壁に数瞬、四角いものを持つ子どもの影法師が揺れて、物欲しげに図書館側に並んだ参列者の視線の先にあるテーブルの上が、左縁からカスタード色の淡い光に覆われて行った。正門横のフォルディング机でもまた、同じセッティングが展開されている。門扉の間からチラチラと行き過ぎる車のライトに混じり、担当の子たちの暗く沈みはじめた背中ごしに揺動の明かりを漏らしているのが見える。

 ♪クリスマスの第一日
  梨の木の一羽のウズラ
  主、我に賜えり

 アオケン少年は本番前の数秒間に満たない「一人きり」になった瞬間、今日の演目に抱えるソロをたとえ鼻歌程度でもさらう。目前の委員の5年生が、点灯ライターの筒先をマカロニ・ウエスタンのガンマンのごとく極端な下向けに構えたまま、歌声に驚いて顔を上げた。
「聖歌隊の方に…行っておいでよ。リハーサルが始まるよ。」
「…ごめんね。今、始めたばかりだから、いいよ。」
掲げ持ったキャンドルの火は、少年の嗄声が吹きかかって消えている。彼は点火音を急いて連続4つ立てながら、カップの中を再び明くあぶり出した。点灯担当の子たちは火の扱いに慣れた料理部や科学クラブの熱化学チームの5-6年生が今日だけ特別に指名され、動員されている。それでも火の怖さをを再認識し扱いには十分留意するべしと、念書のようなプリントがチャペル名義で本人と保護者に事前配布されていた。欠員ばかりで人手不足なのである。放課後突然指名があって、同じチャペル団体の聖歌隊からアオケン少年がここにかり出されてきた。
「危ないから、マフラーを置いていきなさい!」
動員の指令を聞き、慌てて走り参じようとする彼の背中に指揮者は声をかけた。
「ストールをこっちに貸して!トナミ君に渡しておくから…。」
男の子は体温の匂いのする襟足から聖歌隊のストールをスッと抜き取って2回半折し、きちんと腰を屈めてそれを恭しく前に差し出した。ブレザーと半ズボンだけの普通の5年生に戻った少年は踵をかえし、チャペル会館の裏口の2段の石の蹴込みを駆け下りて跳びでて行ってしまう。黒ローファーのペタンコなソールがカチカチと乾いた音をたてて、彼はそれだけを残し埃っぽい都市の夕陽の風の中へ紛れて行ってしまった。

 ♪クリスマスの第二日
  二羽のキジバト
  梨の木の一羽のウズラ
  主、我に賜えり

 キャンドルのポットは、フランフランでよく売っていそうな白いレース透かしのプラスチック製。ポリストーンなのでもちろん燃えない。底には0.7オンスのクリアカップ・ティーキャンドルがセットされており、着けるとケースの模様の隙間からロウソクの可愛らしい毅然とした明かりが揺れながら周囲を照らした。アオケン少年の脳裏に「クリスマスの第二日」のフレーズが浮かんで消えたとき、彼らは規定本数のロウソクのまだ半分も着け終わっていなかった。受け取りを待つ参列者のラインが古めかしいランプブラケットの照らす図書館のパサージュの下へ入り込むか込まないかというタイミングになって、ようやく着けたまったキャンドルの手渡しが始まった。本館1階中央のコリドー階段に集合していた風紀委員(21世紀になってもこんなものが存在する!)たちが打ち合わせ通りフロントヤードに散って、ここかしこにやってくる。
「そこにはキャンドルを置かないでください。」
傾斜のついた窓枠のアルコーブへ明かりを置いてミニトートから携帯電話を取り出そうとしている保護者に彼らは声をかけた。
「キャンドルは持ち帰らないでください。点灯式終了後、委員が手渡しで回収しますので、下に置いて帰らないようにお願いします。」
キャンドルは家族に渡すものなので、彼らの声かけは大人に対する言葉なのである。

 ♪クリスマスの第三日
  三羽の雌鳥
  二羽のキジバト
  梨の木の一羽のウズラ
  主、我に賜えり

 聖歌隊のアルトで彼の右隣に立つ品川少年の弟はまだ2年生でクワイアーに入っていない。流れはじめた受け取りの家族の5番目、12月の夕刻すでに顔の造作が判らないくらい色黒のその子がフェイクファー・ネックの明るい色のコートを羽織ったお母さんに連れられてキャンドルを1つピックアップしながら彼の目前で「クリスマスの第三日」をイイカゲンに歌った。
「アオケン先輩、今日は歌わないんですか?」
黒い顔の子が尋ねた。
「クリスマスの第一日のリード・ソロだって聞いてたけど…。」
黒い顔の子のお母さんが問うた。
「…今、ちょっと、この係に借り出されちゃってて…。」
彼は答えている間だけ手を休めたかったが、出来なかった。チャッカマンの音は規則的に彼の掌の中から聞こえている。
「でも、リハーサル、あるんでしょう?」
「ありますけど…。」
「だって、あと15分くらいしたら点灯式始まるよ。」
「…それは、そうなんですけど…。」
「キミが行かなかったら、『クリスマスの12日』のリハーサル始まらないんじゃないの?」
「…いや。まあ、それは、他の子でもリハだったらソロは出来るんじゃないか、と…」
「こんなローソク着けの役こそ代役でオーケーなんじゃないの?」
点灯手の右人差し指の動きは止まらない。カチ、カチ、カチ、カチ。
「おばさん、品川君だって今頃テントの下でミキサーに張り付いて動いてないんだと思いますよ。」
品川親子は反射的に校舎右翼の前に設えられた放送テントの方を見やった。
「どうりで聖歌隊のスタンバイの列に居ないと思った…。キミと品川君の二人とも居なかったら、1日・3日が無い『クリスマスの12日』で週休二日になっちゃうじゃない!」

 ♪クリスマスの第4日
  四羽のさえずる小鳥
  三羽の雌鳥
  二羽のキジバト
  梨の木の一羽のウズラ
  主、我に賜えり

 アオケン少年が指示された数のキャンドルカップに全て火を灯し終えたころ、リハーサル前の聖歌隊がヒマラヤ杉の下で「Away in a Manger」を無伴奏のまま「♪飼い葉の桶で…」と歌いだしているのが聞こえた。アオケン少年がたった今灯火を持たせたばかりの参列者の腰部をかき分けかき分け、正門に通じるペーブメントを走ってゆくと、辿り着いた先では「♪リトル・ロード・ジーザス・ア・スリープ・オン・ザ・ヘイ」とイイカゲンな声出しはとうに終わり、緊急指名の後、シャッフルされかけたソリストたちが、『クリスマスの第12日』の歌詞を間違えそうだと指揮者に不平を漏らしているところだった。
「だって、急に言われたって、何日目が何なのかなんて覚えられないですよ!」
「だいたい、意味がわからない。前半は鳥だけど、5日目が貴金属になって、一週間は殆んど鳥で、それからへんちくりんな人間どもだなんて…」
「いっそのこと、全部人間にしてくれりゃ、良かったんですよ!」
曲を作ったらしい16世紀西ヨーロッパの誰かさんに今さら彼らが憤懣をぶつけても何も改まらない。点灯前のこんもりとしたツリーの下の暗がりで、彼らがわいわい騒いでいるのを気後れしたアオケン少年は背後から黙って見ていた。
「おい!おい!聖歌隊の良い子のキミたち…チャプレン先生から歌詞の意味を伺って無いまんま今日まで歌ってきたのかね。」
放送委員会のエンジニアスタッフは暗い中で何か手間取っているのか、一向に最終リハーサルが始まらない。背後のチャペルの中でオーガニストギルドが仕方無くスウェルを閉じて何か試しに弾きはじめている音が伝わって来る。オルガンは回廊側に据え付けられているので、こちらのチュードル窓から漏れて来るのはくぐもった音色でしかない。
「何の鳥なのかは聞きました。」
「何日目に何の鳥をもらったってだけなんだから、意味無いですよ。」
「意味無い!意味無い!」
「クリスマスだから、鳥なんじゃないですかー?チキン!チキン!」
「きゃー!レッドホット・チキン、最高ぉ!」
「オレ、意外とコールスローとか好きなんですよぉ。渋くネ?」
「やっぱカーネルクリスピーだろ?ヤベうめぇし…!」
オーガニストギルドが弾いているのは、どうやら「荒野の果てに」らしかった。
「おい!アオケン!きみと品川君のせいで、オレたち急に担当を変えられるところだったんだぞ!品川(兄)君は?あいつ、真っ黒くろすけで夕闇に紛れちゃうと顔わかんないし…」
存在を感づかれた!アオケン少年は虚を衝かれ、謝罪の言葉も出ず咄嗟に放送テントの方を指さした。
「まったく、しょうもねぇ…5年アルト、フケり2人組。」
「アオケン君。わるいが、ひとっ走りして品川君を連れて来てくれないか?」
「はい。」
指揮者先生の絶妙のタイミングのオーダーを味方に得て、アオケン少年は二つ返事で今来たルートを疾風のように引き返して行った。

♪クリスマスの第5日
  
  五つの金の指輪!

  四羽のさえずる小鳥
  三羽の雌鳥
  二羽のキジバト
  梨の木の一羽のウズラ
  主、我に賜えり

 品川(兄)君は薄暗い放送テントの下で、持ち込んだコンソールに散らばるボタン類や夥しいスライダーの櫛比と格闘しているところだった。スケジュール表や式次第はチンケなニセモノのマグライトの重しの下に広げられ、打ち置かれているが、気に留める余裕のある放送委員は一人もそこにいなかった。アオケン少年は「クリスマスの第3日」の担当ソリストを見つけると、とりあえず彼の右隣のあさっての方を向いているパイプ椅子に浅く腰掛けた。周囲の椅子に座っている子どもは一人もいなかったからである。
「リハーサルが始まるよ。早く戻って来なさいって。」
だが、放送委員はそれには応えず、左後ろから踏み込むようにして彼に指令を飛ばしにきた6年生の方に向き直り、喝破した。
「だから、チャペルのワイヤレスが飛んでないんですってば!」
手の込んだフランドル積みのチャペルのレンガ壁は大正時代の半ばに作られたものらしい。関東大震災で崩れなかったのだから、きっと頑丈で800MHz帯の電波さえ通さないのだろう。
「混信じゃないの?」
「スケルチも感度も下げました。」
「マイク変えてみた?」
「電池ならさっき入れ替えてココでマイクテストしましたよ。」
「じゃ、相互変調だろ?」
「いつもいっしょに使ってるマイクですヨ!」
「チャンネルチェックかけたんじゃないの?」
「周波数なんかいじってないですってば!」
「先生は?」
「ツリー点灯式の夜ですヨ!先生が忙しくて放送出来ないから、オレらがここにいるんでしょう?!」
「じゃ、残る方法は2つ。これから礼拝堂へワイヤーを引くか、タイピンマイクのチャンネルを開くか…。」
「あんなちっちゃなマイクで16フィートパイプのオルガンの音を拾おうっていうんですか?」
「じゃあ、壁を壊すか、オルガンギルドの子たちをおんぶしながら8fストップの3段鍵ロマン派パイプオルガン一式をここまで引きずってくるか、どっちか!」
さすが、昨年の点灯式を無事盛大にやり遂げた6年生放送委員。二の句の継げない下級生に指示をくだし、椅子の両の蹴込みパイプに紺ハイソックスのフクラハギをねめつけながらぼんやりとこのやり取りを聞いていたアオケン少年の左腕をつかんだ。
「オレはこの子といっしょにマイク2種類一式とコードを持って来る。おまえはココでなんとかやり過ごせ!」
「クリスマスの12日」の大切な第1日目のソリストは、ミキサー卓にずらりとならんだツマミを凝視しながらよろよろと立ち上がった。
「先輩!僕が一緒に行きますよ。ココじゃやることが無いんで…。」
6年生はアオケン少年の身体を椅子の間から引っこ抜くと、走り出しながら最後の指令を下した。
「ばーか!生きてるマイクの方からリハーサルして、時間になったら途中でも定刻に本番開始だ!絶対に段取りを押すな。夜が更けるぞ!1年坊主だって来てるんだから!」

 ♪クリスマスの第六日
  六羽の卵産むガチョウ
  五つの金の指輪!

  四羽のさえずる小鳥
  三羽の雌鳥
  二羽のキジバト
  梨の木の一羽のウズラ
  主、我に賜えり

「クリスマスの12日」は第五日の歌い終わりからリピートがかかり、最後の日までが同じメロディーの繰り返しだ。6X2=12の構造で、6日目から曲の趣がたたみかけるように変わる。アオケン少年は東京スカイツリーのてっぺんまで届きそうなほど途方もない長さに感じる重量のマイクコードを両手それぞれ1巻きずつ持たされて、それでも「クリスマスの第六日」を歌いながら6年生放送委員の後を追いかけている。彼らの聖歌隊はこの部分でよく歌い違えるからだ。
「さすが運動会のリレ選の常連!キミってめっちゃ速いなぁ!」
褒めてくれるのだが、額から汗の吹出しはじめたアオケン少年は少しも嬉しくない。
彼らは放送席にとって返すと、ハンドベルリンガースのリハーサルをPAしていたチューナーの空きジャックに構わずコードの端を差し込み、「マイクの線を敷いてますから、つまずかないでくださーい!」と適当に注意喚起の声をあげなら延伸して行った。はたして途中でコード延長は足りなくなり、アオケン少年が左手にぶる下げて走っていた2本目の線を6年生がDINコネクタのメス・オス瞬時に見分けて力任せにドッキングさせながら「抜けるから引っぱるなよ!ここからはキミが上手に線を敷いて走れ!」と聖歌隊員に命令した。

 ♪クリスマスの第七日
  七羽の水面ゆく白鳥
  六羽の卵産むガチョウ
  五つの金の指輪!

  四羽のさえずる小鳥
  三羽の雌鳥
  二羽のキジバト
  梨の木の一羽のウズラ
  主、我に賜えり

 2本目のコードは聖堂の木製の内ドアを入って何mも行かないところで無くなった。チャペルベンチの最後列の後ろ1mといった感じの地点。
「先輩、線が足りなくなりました。」
アオケン少年がわざわざ口に出して報告すると、追いかけて来た6年放送委員はそれに応じもせず、祭壇の方へ小走りに駆け込のぼり、チャンセル左脇へ立っていたマイクスタンドの頭からマイクロホーンを引き抜き、プルピットの上へ静かに置いた。スチールのスタンドを引きずるように持って来る。マイクを外した刹那、スイッチが入っていたのだろうか、堂内のPAがボコッとノイズをたてた。6年生はチッと舌打ちはしたが、持って来たマイクを制服の右ポケットから抜き出してスイッチが下がっているのを2度も指差し確認したあと、しっぽをDINピン終端のメス溝にねじ込んでマイクスタンドのホルダに深く差した。
「キミ、ここをきちんと持って!絶対に放しちゃだめだよ。」
指図を受ける。両手を使って絞り込むようにネジを開放した先輩は、「もういい。」と短く言い、マイクスタンドの高さを最大まで伸長してゆっくりと倒し、ネーブのベンチの端に寄せた。アオケン少年がこの場所から見るチャペルは食堂の感じとよく似ている。ここの天井にはフラッグが下りていて、床はフローリングだが、食堂の床は研ぎだしの石造り。学校の旗は下りていない。ホグワーツのメインダイニングの縮小版だ。彼らの食堂には白フクロウは飛んで来ないし、天井は聖堂と同じ木製のゴシックアーチで電気のペンダント照明がぶる下がっているだけで、燃えるロウソクが浮いていたり青天井だったりすることはない。天井にかかるフラッグの百合文様を食堂を念頭に見ると、彼らが後にして来た本館の建物が三位一体の象徴であったことに気付く。両脇に図書館とチャペルを従え、中央は「子」でありロゴスであるイエス。その真ん中を貫通する扁平尖塔のアーチの下を通り抜けると、さらに奥にまで達することができる。舗路のつきあたりに、ホグワーツのメインダイニングと同じようなその食堂があるのだった(メインエンタランスはホグワーツと違って側面にある)。彼らは秋になると舗道を覆う淡いイエローオーカーの銀杏の落葉やプラタナスの枯大葉をカリカリと踏んでコートを羽織ったまま校舎をスケッチしに来たり、水筒をぶる下げて好みのベンチで本を読みに出て来たりするのだ。誰も落葉掃きをしないでいてくれる校内は秋の香ばしい匂いに満ちている。だが、季節は移り、今、乾いた都市の風だけが夕闇のペーブメントを深く暗い紫黒色に滲ませていた。

♪クリスマスの第八日
  八人の乳絞るメイド
  七羽の水面ゆく白鳥
  六羽の卵産むガチョウ
  五つの金の指輪!

  四羽のさえずる小鳥
  三羽の雌鳥
  二羽のキジバト
  梨の木の一羽のウズラ
  主、我に賜えり

 「クリスマスの12日」の8日目から、どういうわけか鳥ではなく、ヒトが登場して来る。アオケン少年は、6年生放送委員から「決して踏まれないよう見張っていること。」と念を押されたマイクスタンドの傍らで、何らかの指示かキュー出しが来るのを辛抱強くもう30分間近くもオルガンベンチの上で待っているオーガニストギルドの上級生に尋ねてみた。
「美術クラブに入ってる子が夏休みの自由研究でイコンのことを調べてチャペル賞もらってたから聞いてみなよ。」
6年生のギルドと思しき数人が口を揃えて言う。まもなくご指名の主は本番前の緊張からか、トイレに行っていたらしく、ハンカチで手を拭き拭き戻って来てはオルガンベンチの真ん中へスッと制服の尻を滑らせた。
「鳥は、キリスト教では色々なものの象徴なんだ。」
11歳のアオケン少年は未だ「象徴」の意味を測り難かったが、続く説明を聞いていてだいたいの意味を把握した。
「とくによく出て来るのはカラスとか雄のニワトリとか、ペリカンとか、鳩とか…。カラスは一匹狼の異教徒みたいなときに出て来るし、雄鳥は受難。ペリカンは磔になるイエス様の身体。…鳩は精霊かな?あとはクジャクは不死身とか、フクロウは知恵や修行者とか、オウムはバカで従順なヤツとか、雲雀はお祈りとか…」
「梨の木にウズラがいたら…?」
「ウズラは何だったっけ?出エジプトのマンナを降らせてるから、神様からのお恵みとかじゃないの?ユダヤ人たちへの最大のお恵みは、イエス様をこの世に遣わしたことだったんだけどネ。…それから梨は、黙って死を受け入れるという意味だよ。イエス様の絵を子どもの姿で描く時は、必ずおいしそうな梨を隣に描きこむんだ。」
「だからイエス様の誕生日の歌の最初に出て来るってワケなんだぁ。」
「…何の歌?」
「じゃあ、四羽のさえずる小鳥…っていうのは何でしょう?」
「ただの小鳥…という場合はマリア様とセットになっていて、イエス様がハリツケになることを予告してるみたいだよ。」
「白鳥は?」
「一番ストレートなのは、マリア様のことじゃない?」
「がちょうは何でしょう?」
「母性愛だと思うよ。お母さんが赤ちゃんのことをカワイイと思うような…」
「やっぱりこれってクリスマスの歌なんだ。」
「何かわかんないけど、たぶんそうだろうね。もういい?」
「じゃあ、十二人の太鼓打ちとか、十一人の笛吹きとか、十人の侯とか、九人の女とか、八人のメイド…っていうのは?」
「何だろう?よくわからない。」

 ♪クリスマスの第九日
  九人の踊る女
  八人の乳絞るメイド
  七羽の水面ゆく白鳥
  六羽の卵産むガチョウ
  五つの金の指輪!

  四羽のさえずる小鳥
  三羽の雌鳥
  二羽のキジバト
  梨の木の一羽のウズラ
  主、我に賜えり


アオケン少年は端折って九人の女から巻き巻きで歌ったが、質問の意図は理解してもらえたようだった。
「最初、みんな人間でしょ?これもイエス様の誕生に関係があるのかな?」
「誰っていうより、数字に関係してるんじゃないのかな?12人のパーティーは十二使徒みたいだし、10人の王様はモーセの十戒とか、ノアの家族は八人だったけど、あとは判らん!」
オーガニストギルドの6年生がキリスト教美術の講釈をしてくれているうちに、放送委員の6年生は乳香の炊く香のようにふわりとそこへ戻って来た。ワイヤードマイクのスイッチを押し上げるが速いか寝かせておいたマイクスタンドを立てる。チャペルベンチの居列の間を風のごとくすり抜けてやってきて、スタンバイしたレジストチェンジャーの子ども達が見ている前で、垂れたネクタイをかき退け、ワイシャツのポケットから取り出したガラパゴス的なキッズ携帯を開いてオルガンコンソールの隅っこにコトリと置いた。電源はすでに入っている。これら一連の動作の所要時間がほんの数十秒!
「じゃあ、バイブが鳴って僕からのメールだと確認したらすぐに弾きはじめて!!1回目はリハーサルで30秒間だけ弾いて止める。2回目は本番!いいですか?」

 ♪クリスマスの第十日
  十人の踊る侯
  九人の踊る女
  八人の乳絞るメイド
  七羽の水面ゆく白鳥
  六羽の卵産むガチョウ
  五つの金の指輪!

  四羽のさえずる小鳥
  三羽の雌鳥
  二羽のキジバト
  梨の木の一羽のウズラ
  主、我に賜えり

 チャペル入り口の青薔薇の水盆の前で、小さな4年生が黙してくつくつと手を濯いでいた。ぶかぶかになって袖口の緩んだパープル・チェックのネルシャツがソデまくり不要で彼の腕をさらに細く見せている。丁寧に、念入りに、両手を絞るような仕草。時間をかけて漱ぎあげるその後ろ姿が、キャロル本番のスタンバイ位置へと帰投するアオケン少年の目に入った。
 放送委員パートタイマーとしての彼の臨時業務はどうやら突然終わったらしい。
「キミ、どうもありがとう!リハーサルが終われば品川君も聖歌隊に戻すから、先に帰って歌の方、スタンバってて!」
言われてさすがのアオケン少年もはたと考えた。
「…僕って、いったい何をしてたんだったっけ?」
彼がチャペルの内扉を開けてエンタランスホールをぬけようとしたとき、その姿が認められた
。感じは少し違っていたが、見まごうことはない、良く知っている聖歌隊のアルトの4年生だった。
「オキト君。こんにちは!僕が誰だかわかる?もう、忘れちゃった?」
男の子は欠席する前よりも格段に痩せている。人が変わったようだった。しかも、ニコニコしてはいても反応にやや抑制があり、落ち着いた大人の人と応対しているような感じ。
「よく来てくれたね!これからいっしょに歌わない?おいでよ。」
男の子はデニムの尻ポケットから抜き出した地味なハンカチで霜焼け一つ無い白い掌を拭った。
「ううん。今日は見に来ただけなんです。」
「病気だったんでしょう?」
「はい。」
「もういいの?ダイジョウブ?」
「わからない。」
「治ったから学校に来たんだよね?」
「わかりません。」
…聖歌隊で一緒に歌っていたときは、こんなに落ち着いた静かな子だっただろうか?めんどくさい質問ばかりされているといった嫌気も厭わしさももちろん全く感じられない。
「キャロリングの時はムリかな?」
「うーん。」
「イースターの聖劇には出ないの?」
「わからないです。」
悪いノロウイルスだったと聞いた。長い間欠席で、ここ半月のクワイアーには一切参加していない。学校に来ていないのだから、キャロリングもクリスマス礼拝も、イースターの聖劇の話も知らないだろう。
「僕のこと、わかる?聖歌隊の5年生だよ。いっしょに歌ってきたよね?」
「はい。」
「これからも、また頑張ろうね!応援してるから。」
「はい。」
「さようなら。」
「さようなら。」
男の子はすっと踵をかえして行ってしまった。大人っぽい穏やかなゆっくりとした所作だった。お母さんは寒空の校内のどこで彼を待っているのだろう?
手を引いてでも聖歌隊に連れて行って一緒に歌えば良かったのだろうか?あの子のためにキャンドルを特別に一本持たせてやるべきだったのだろうか?握手ぐらいしてやれば励ましになったろうに…。すぐにホールのテーブルの上へ積まれた聖書カードを一枚手繰って、裏に何か書いて渡せば良かったのか。…いずれにせよクリスマスおめでとう!僕にとって日本で一番大切なボーイアルト君へ…だってキミは聖歌隊のアルトで初めて僕に出来た大切な後輩だから!
「本当に良い子なんだなぁ。こんなにしっかりとした大人しい子だとはずっと思っていなかった。」
 アオケン少年は男の子に何もしてやらなかったし、してもらってもいなかったが、ただずいぶんとしばらくぶりに偶然出会って言葉を交わし、長年の憧れの人に始めて逢えたような心底幸せな気分になることができた。オキト君、クリスマスの贈り物をありがとう!二人の邂逅は今年最高のクリスマスプレゼント!逢わせてくれたのは品川親子と放送委員の6年の先輩とオーガニストギルドの人たち!いつまでも、いつまでも、最後までオキト君を応援し続ける!僕はきみのうたを世界で一番近くに聞いてきた一人だから。これがアオケン少年のクリスマスの第一日になった。
 こうして諸々の仕事をやり終え、制服と半ズボン姿の普通の小学生にもどったアオケン少年は、チャペル玄関の2段の石の蹴込みを駆け下りて、古めかしいランプブラケットのぼんやりと灯る回廊へきらきらと跳びでて行った。

 ♪クリスマスの第十一日
  十一人の笛吹く笛吹き
  十人の踊る侯
  九人の踊る女
  八人の乳絞るメイド
  七羽の水面ゆく白鳥
  六羽の卵産むガチョウ
  五つの金の指輪!

  四羽のさえずる小鳥
  三羽の雌鳥
  二羽のキジバト
  梨の木の一羽のウズラ
  主、我に賜えり

 クリスマスツリー点灯式は今年も定刻に始まった。微かな北西の風があり、微かな曇天で星明かりは最後まで見えなかった。本館とチャペルの室内照明は落とされ、ハンドベルリンガーズの「神の御子はこよいしも」と「ジングルベル」の演奏の後、チャプレン先生がお話をくださった。それからクリスマス実行委員会が指名した各学年の代表の児童が点灯式に寄せるスピーチや作文の朗読をし、6人で掌を重ねてイルミネーションのスイッチに体重をかけると、カウントダウンの後に一対に立ち上がった二本の20mのヒマラヤ杉にぼんやりとした明かりが灯った。最近主流の、目を射るようなLEDの強い明滅したりする明かりでは無い。ベツレヘムの星はそれぞれひと際明く輝いていたが、バランス良く均等に枝々へとかけられた七色の丸い白熱電球は鈍い光を放ってまたたきもしなかった。子ども達は先生方からずっと話を聞いていたので、どの子も皆、この慎み深く品の良いイルミネーションを心から誇りに思っている。
 それから、放送委員が苦労して結線したマイクコードを伝い、チャペルからオーガニストギルドの弾くグノーのアヴェマリアと「天には栄え」の演奏が流れてきた。参会者は皆、パイプオルガンがもしや暗い野外へと運ばれてきているのではないかと辺りを見回した。続いて聖堂側のツリーのこちら側に陣取った聖歌隊が「もろびとこぞりて」と「飼い葉の桶で」と「クリスマスの12日」を歌った。そろいのストールが、イルミネーションの穏やかな明かりを受けてしっとりと細やかに輝いている。短い前奏の後、アオケン少年のソロが第一日をフルリードし、図書館側の生け垣のすぐ後ろにはりついて夜景モードでビデオを構えていた品川少年のお母さんと品川(弟)君は、第三日担当のかっこいいボーイアルトが5秒間だけ学校の前庭にソロを響かせる様子を全てしっかりと録画した。
 点灯式の最後、ハンドベルとオルガンの伴奏で、全員が「きよしこの夜」を歌う。アオケン少年は、2番の歌詞の最初の4小節目を歌い終えるころになって、ようやく頬のこけた病み上がりの少年が彼の母の右側へ寄り添ってほの暗いあちら側のヒマラヤ杉の下で声を押す姿をようやく見つける事ができた。だが、彼はいったい、チャペルの青薔薇の水盆の前で病気の快癒を尋ねたとき、なぜ「もう治った」とは言わなかったのだろう?


 校門の守衛室でセキュリティのトランシーバーが鳴り響いている。
「点灯式の保護者は殆どはけました。引き続き、横断歩道の子どもたちを見ます。どぞ…」
アオケン少年は、人もまばらになったその正門に、用済みのストールをひらひらさせながら走って行った。親子は寒さに背中を丸め道路の対岸の舗道を帰途についてしまっている。夜目にもネズミ色と判るダウンジャンパーを羽織ったデニムレギンスの4年生。病み上がりのやつれた少年に後ろ姿へはみ出した笑みは見られない。何かを背負った二人。きらびやかで神々しいクリスマスツリー・イルミネーション点灯式に列席した母子の華やいだ後ろ姿ではない。追う事も、ましてや声をかける事も躊躇われた。

 ♪クリスマスの第十二日
  十二人の太鼓打つ太鼓打ち
  十一人の笛吹く笛吹き
  十人の踊る侯
  九人の踊る女
  八人の乳絞るメイド
  七羽の水面ゆく白鳥
  六羽の卵産むガチョウ
  五つの金の指輪!
  四羽のさえずる小鳥
  三羽の雌鳥
  二羽のキジバト
  梨の木の一羽のウズラ
  主、我に賜えり

クリスマスを祝う12日間。経ればすなわち顕現の日となり、新しい祝いを迎える。アオケン少年は正門の門柱の前に立ち尽くし歌の第12日を唱えるように歌ってみた。それから冷えきって乾いた両目を陶然と開いたまま少しく表情を崩し、道の向こう側をいつまでもいつまでも眺めていた。

The Twelve Days of Christmas (English Christmas carol)著作権消滅

場所の記憶 / place neuron

October 31 [Thu], 2013, 22:13
▲そのダンジョンの中で2人が出会ったエリアソンの3色パヴィリオンは、この建物のほぼ10分の一の大きさの縮図だったのかもしれない。入り口がいくつもあって、どこから出てもよい。外のどこからでも中が見える。日没を過ぎれば都市の灯台となり、たくさんの人々が先ほどまで全く存在すら知らなかった誠意の子どもたちとアートやアーティストの前で出会う。内外に溢れる光。しかし、白や無色に見えるはずの光は、この円形の敷地の中で様々な色に染まる。イエロー・シアン・マゼンダ…彼らの黒髪さえそこに添えば、もはや地球上に存在する色でここに得られぬ色は無い。そしてそれら自体、限りなく自己の存在を消し、不可視になろうとしている。彼らは相似のあのハウスの中で、出会うべくして出会ったのかもしれない。

初の部屋に、当然、松田リクの姿は無かった。
縦も横も学校の教室よりわずかに小さい薄明の打ち放しの部屋である。ただ、天井高だけが他の部屋と同尺で、人の登坂を拒絶する蹴込みを立てて、コンクリートの斜面が直方体の短い方の一辺へ伸びている。斜面の中程に永遠の漆黒が縦長のオーバル形でぽっかりと口を開けていた。少年たちがその「開口部」の存在に相対して立つと、彼らの背後の床面からは換気を兼ねたエアが吹出してはいたが、部屋の中にはそこはかとないじめじめとした雰囲気が漂っている。間接照明らしい蛍光色的な色の光が背面の壁の頂上から室内をぼんやりと浮かび上がらせ、室内に見る唯一の「記号」とも言うべき一つの巨大な「穴」の存在を全く明るく照らしていなかった。入室の誰もがそう疑問するように、彼らも低い小さな声で囁きあった。
「これって黒く塗ってあるのかな?」
「穴があいているんでしょう?」
「穴だとしたら、底も、向こう側も、何も見えない。」
「じゃあ、黒く塗ってあるんでしょう?」
「どちらにしても、もはやそこは完全な闇だ…」
彼らの立つ場所の中央に、タッパの無いRCの方形の構造物がつくりつけられている。腰を下ろしても何も言われなかったが、不慣れな者が無意識に土足でそこへ登ろうとすると、すぐさま注意を受けた。誰もがわずかなその段へ登り漆黒の楕円の真相を確かめようと試みるが、それもごく自然な欲求からくる理にかなった行為であるように思われた。
「まるで棺桶のようだ…」
モリマ・ユーリがダークグレーの四角い突起物を見ながら鈍色のボーイアルトで言った。
「棺桶に足をかけて穴覗きに使おうとする者は、結局何も見ないで人生を終えてしまう。」
中山アンビが静かな警鐘のように答えを携えて漆黒を凝視し続けた。
「触ればすぐにわかるのにネ。」
前江トーヤが言った。
「お前なんか未だ小さいんだから、あそこまで手が届くわけないよ。だいいち、そんなことするのは、いけない。」
「僕たちって、みんな穴の向こうにある部屋からついさっき来たはずなのに、何で解んないんだろう?」
アオケン少年は、日頃喉とともに耳を鍛えている合唱団員らしく、『青ひげ公の城』第5扉のユディットの嘆息を1節だけ、「穴」の奥へ向けて嘆声のように歌いかけた。

♪Szep es nagy a te orszagod…(スィープ イシュ ノウヤ テ オルサーゴト…)
 美しく偉大なりし貴方の国土…

彼は外の喧噪の切れたその場所に、この調べが小さい声でも冷たくしっかり響く事を知っているのだ。彼らは声の反響を聞いて、それが本当の「四次元の穴」ではないことにうすうす感づき始めた。
「ここから『探す旅』をはじめよう…。」
松田リクの姿はまだどこにも見えない。
「『探す人』は、ここで生まれることになる。」
彼らははたして尋ね人に行き会えるのだろうか?合唱組曲『筑後川』初曲コーダのような高揚には程遠い。大切な歌の仲間に会えぬまま終わる旅の末期を彼らの誰一人として思い描くことは無かった。

の部屋の扉は羽二重に折られた闇の迷路だった。
少年たちは当初、行き当たりばったり、カミカゼ特攻のごとく暗黒のダンジョンに踏み込んで行ったが、幸運なことに何処の壁にもぶち当たらず、敵戦艦にも善良な見学者の一人にも鉢合わせしたり蹴倒されたりしなかった。彼らの冒険心はそこまでで、ホールに到達すると側面の壁にしっかりはりついてどの子も動けなくなった。彼方のスクリーンでは、色味の押さえた生活音だけの聞こえる映画が動いている。映っているのは年老いた男一人だけだった。こうして彼らの目が一通り闇に慣れると、部屋の奥はフラットな絨毯張り床のシアターになっており、彼らの前には腰を下ろすだけの什器が簡単に並べられているのがわかった。彼らが背中の汗を感じながらただ黙として映像を見ているのは、映画の中の男の単純で殆どなんの起伏もない、繰り返されるだけの日常の鏡映展開であるように思われた。銀幕に朽ちかけた海上の楼閣が映し出され、パヴィリオンの寒々とした一日が終わる。物語はそこから始まっていた。19世紀風のかつてのけばけばしいオリエンタル趣味のインテリアの中で、日々を繰り返すのは明らかに21世紀初頭にも生きる男である。シーンの時間の流れは切れ切れで、見ている彼らが「海上の楼閣」と思念したのは登場人物がかつてはつながっていた外界と今は全く接していないからに違いなかった。初老の男の名前は「ヘンリー」というらしく、彼がかつての日々に獲得した日常の儀式のような習慣を丹念に偏執症的に反復していくのを男の子らは微動だにせず見続けた。
「この男はこうすることによって、かつての何かの日々を取り戻そうとしているのかもしれない。」何の根拠も確証も無しに少年たちは思った。人類最後の男の何も変わらぬ毎日のごとく、彼らはその挙動を若い少年の目で追い続けているのだった。
やがて彼らの背後の空隙を通って白っぽいシャツのいかにも4年生男子らしい体格の男の子が暗がりをつっきってやってきてするりと足を伸ばし、一団が腰を下ろしたベンチソファの右方の床に尻をおとした。ヘンリーが長い歩廊にイカ釣りランプの連なりを配して夜の訪れに備えはじめたとき、彼らはやってきたその少年が松田リクなのかもしれないとそわそわしはじめたが、冷涼な板の間に傘をさしかけて床をとる男がやがて目覚めて体のあちこちを叩く段になり、偽チャイナ趣味のえげつない壁紙の部屋に白い光が満ち、視聴鑑賞の彼らの居場所もまた薄明に照らし出されると、どこからかべっちゃりとした何色か分からない花柄らしい切り替えワンピの母らしき女ががしゃがしゃと入室してきて床に座る男の子の肩を上から目線でぽんぽんと叩いて撤収を促すのが見えた。映像の中のヘンリーが現実の世界との接点を持ったのはそれが最初で最後だったように思える。彼らは主人公が4度目の朝をシームレスに迎えて目覚めるまでを不動のまま見続けたが、やがて新しい事態がこの1日にも明日の朝にも永遠に起こらないと確証した彼らは隣の子の肘に触れたりエアコンに冷えかけたむき出しのふとももにべっとりと汗ばんだ掌を押し当てたり顔を振って小声で呼ばったり、それぞれの合図で連れ立って部屋を後にしていった。彼らがいなくなってもう誰も見ている者のいなくなった暗い室内でさえ、ヘンリーの何の相違もない毎日が折り重なるように幾重にもループされ続いていったことは間違い無い。少年たちは先ほどの短い時間、暗室に入って彼らと画面を見続けた4年生の男の子をアートライブラリーのとば口に立つ入館管理システムのゲートの傍で見た。最近の髪型に相似はあるように思えたが、それ以外は表情も生き方も違う、似ても似つかない男の子のように見えた。

ら少年合唱団員の仕事は歌を歌うことだった。
よく寝て、よく食べて、胸いっぱいに大気を吸入し、これらをボーイソプラノと歌唱の最中に起立する筋のエネルギーと呼気と排泄物とに分配変換する。
彼らは、およそ建物の中心に近く出入り口からアクセスし難い個室男子トイレへと4年メゾソプラノを探索に行った。障害者用トイレのような白いスチールのドアを引くとそこには多少コケティッシュにすぎる気だるい音楽が流れ、プレキシグラスで散光されたパープルピンクのきらめきが、独特のクロラミン臭とともに辺りへ散開した。
「いない!」
だが、120秒後、彼らはこのハバカリに留まって、祭壇のスピーカーから流れる単音の調子っぱずれの電子音と歌声に合わせて意味をなさないフレーズを何やらふにゃふにゃと歌っていた。ドアはさっくりとストッパーがかかって開け放たれ、閉じられたままの便座に5年団員が両側から二人尻をかけて脚を組んだり「主の祈り」とばかり両手を組んで胸元に引き寄せたりしながら式に参加しているのだった。
「糞よ、ご苦労様!」
米かんむりに異なる…と書かれた漢字を上級生の一人が雑作も奥面もなく司祭のように大声で読み上げた。
「サンキュー!サライヴァ!サンキュー!ブラッド!」
シリコンバレー帰りの6年メゾがアングリカンチャーチの聖餐式のごとくおごそかな声で映し出された英文を唱えた。
子ども達の妙チクリンな朗唱に引き寄せられてきた人々は、小部屋を覗くなり、便器の周囲へすし詰めになって紫色で照らし出された顔を一瞬こちらに振る小学生の男の子らの姿を一瞥するなりぎょっとして足早に立ち去ってしまう。
「入っていいんですよ!」
ドアの一番そばに立つアオケン少年が、やってきた人々に声をかけて少年一人分のスペースを詰めようとしたが、誰も儀式に参加しようとはしなかった。
「I'm grateful to you SHIT」(ウンコよ、心より感謝いたします)
シリコンバレー帰りが再び叫ぶ。彼は直径約30センチメートルのアクリルグラスに投影された太ゴチックの白い文字を正確に読み出しているのである。
「黒ミサじゃん!」
「トイレの神様!」
上級生たちは言った。

「…どうぞ!!」
アオケン少年はご不浄作品目当てにやってきた十数組目になろうかという小太りの男に声をかけて一歩内側へ入ろうとしたが、瞬時に表情を読んだのかすっとんきょうな声をあげた。
「ホントにするんですかぁ?!」
少年達はホントにトイレの外へと全員追い出され、その男が放尿だか脱糞だかに手間取る間、音楽の漏れ聞こえて来る「個室」のドアの前でボンヤリと待った。迷子になったままの4年メゾのことを誰かがまだ覚えているとは言い難かったが、一方彼らはこのイイカゲンなウンコだかオシッコだかツバだか膿(ウミ)だかの歌を何だか真剣に真似して歌っていたのだった。
「ここって、ホントのトイレにも使えるんだね。」
中井宗太郎がナチュラルピュアなボーイソプラノで言った。
「祀ってあるのはトイレの神様なのに、どうしてご神体が3つあるんだろう?」
彼が心象として思い描いたのは二見浦の夫婦岩や神棚の榊立や立派な門松といったものである。
「松田リクは、ここに来てないような気がする…」
いっこうに開闢しようとはしないオフホワイトの便所の引き戸を見つめながら、こちらでは6年アルトが言った。
「あいつなら、オレたちのように、しばらくここにいるだろう。でも、いないってコトは、他に行ったか…」
「そもそも、トイレ来てないか…」
「かなりしばらくしてから来るか…」
「脱走したってコトさ。」
子どもたちはくれぐれも敷地から出ないように指揮者から言われている。男子ばかりの合唱団…5年に一度ほどの稀な頻度でとんでもないヤンキーor破天荒な性格の団員が混じり、なびいた周囲の子どもを従えて放埓な合唱団生活を送ったりもするのだが、今日ここに来た年度チームの子たちはそうではなかった。
「いや。脱走も逃げも隠れもしない。」
彼らが誰何して有力情報を握る団員の存在を考えているうちにするするとオフホワイトのドアが右に滑り開く。排泄物の窒素化合物やその他もろもろのなれのはてが空気に触れたとたん無色の臭気となって体積およそ20立方メートルほどの閉塞した空間からしなだれた音楽とともにあふれ出た。それから個室を占拠していた張本人が、少年たちの目前へ風の谷のナウシカの巨神兵のごとく現れて、むっつりとどこかへ歩み去っていった。ぽっかりと開いたトイレ・ドアの脇柱にあたる部分の上部に白い札がかかっている。新ゴ体めいた黒いロゴでご神体の名前や作者が示されていることに、アオケン少年はようやく気が付いた。
  <あなたは自分を再生する>
「これは三位一体だ。」
「サンミ…イッタイ?」
「ピピロッティ・リストは名前はイタリア人かもしれないし、住んでいるところはスイスで、お給料はカリフォルニアでもらっているかもしれないけれど、いずれにせよイエス様を信じ、父と子と聖霊の皆(みな)を信じている。だからご神体が3つもある。」
「なんじゃ、そりゃ?」
「公立の学校じゃないから、習うんだよ。お礼拝や聖書の時間に習うんだよ。1学期の終業礼拝に僕たちの班はレポートを書いて発表もした。父と子と精霊は三つで一つ。『父』は僕たちを作った人。『子』はロゴスで革命家イエスのこと。聖霊はユダヤ教の『風』や『息(いき)』を表す。」
全員がそれぞれ言いたいことを言ったり、デタラメなヒップホップを踊ったり「パイレーツオブ・カリビアン」のテーマを適当なメゾソプラノで口ずさんだりしている中へ、先ほどまで部屋を占拠していた大きな男が再び飛び込んできて立ちふさがった。言葉を失い立ち尽くす少年たちには目もくれず、男は置き忘れたミュージアムショップの袋を腰板のタイルの上棚からひったくるようにして抱えながら嘯いた。
「三位一体ってのは…世界で一番最初に爆発した原子爆弾のコマンドネームじゃねえの?」
東京でも買えそうな青いカップmenが一体、銀色のVM−PETフィルムのチャック袋パッケージに封入され、突っ込まれているのが透けて見えた。

らはてっとり早く公共エリアに抜けるバイパスを見つけ、市役所に面した扉からから出て行こうとする客をかたっぱしから捕まえては、「僕たちと似た感じの4年生の男の子を見ませんでしたか?」と声をかけた。
「そんな感じの子なら、泣いてたね。」
「芝生でしばらくうろうろして、それから中へ入って来た…」
重要な証言は2つだけだった。よくしゃべる団塊の紳士と、黒っぽいスクエア・タイプのフルリム眼鏡をかけたお父さんの2人が情報源。お父さんの方は、やかましいデザインのひらふわボーダー・ワンピを着た1年生ぐらいの女の子を引っ張って歩いていた。「建物の前の芝生」というのは、出口を抜けてすぐ左側へ大きく展開したベントグリーン。白金色の巨大なキノコが一面のライム緑のターフを突き破り、とんでもないところから顔を出した永久歯のようににょきにょきとあちこちへシルバーの菌蓋を広げていた。
 彼らが松田リクの「迷子」の理由を考えているうちに、もりま・ユーリの背後で何の前触れも無く突然ドアが開いて、アルトパートでヘマをやらかした下級生に「合唱団控え室」でケリを入れるときの中山アンビのごとくばしっと飛び出て来たマクラーレンの青いベビーカーにユーリは轢かれてしまった。
「うわ!これって、ドアだったんだ!」
「…何の扉?」
少年達はドアの存在にもエレベータの到着にもまるで気がつかなかった。乳母車のブラックなフットレスト(?)に向こうずねをしこたま強打された5年アルトは脚を引きずってヒーヒー言いながら照明の落ちたガラス張りのホールを跳ね回った。エレベータの呼び出しボタンは金属棒の先に目立たぬように付いている。迷子なのかもしれない仲間の行方に心を砕いているような団員達の背丈では認識し難かった。
「このエレベーターって、いったいどこへ行くんだろう?」
建物の中、奥田ユーセーが指差したドアの上部には壁面はおろかエレベーターシャフトさえ存在せず、天井高のあるシルバーグレーのがらんどうの空間がシーリングまで広がっているだけだった。…ということは、たった今、ドアの閉まりかけているこのエレベーターの行く先は…?彼らは皆、自分たちがった今立っているこの空間に茫漠とした不条理と不自然さを覚えた。
サピエンス種オスの幼生にしては珍しく学習もする能力を備えた彼らは再び開闢する期を待ってドアの前に立ち、突然飛び出て来るベビーカーの 類に轢かれるようなまねだけは避けた。周囲に張り巡らされたガラス張りのギャップを覗くと、下階へと降りる白い階段が見える。男の子達がカチカチと様々な音をたてながらそこを巡り下ると、シースルーになった「かご」が1本の頑丈なライトグレーの油圧ジャッキによって支持・運用されている様子が目に入った。昇降機の目的地は開放的な「地下」空間だったのである。何となく感じていた「茫漠とした不自然さ」の原因はこの大口径の棒の仕業だった。シャフト構造があり、電力モータで籠を巻き上げて昇降させるエレベーターの運用を日常頻々に見てきている彼らは、プランジャが直接に床を乗せ、「せり舞台」や「すっぽん」のように装置が円滑で頼もしい駆動を繰り返す様子をコンテンポラリー・アートのひとつのようにうっとりとしばらく眺めていた。
「このエレベーターって、1階がそのまま降りてくる感じになっている。」
彼らの到達したベースメント・フロアの間取りが1階部分のユークリッド運動群的な転写であることに気付いたのは、今回もクミン色の顔をした6年アルト、トナミ・カツノリだった。床面がふわりと落ちる外見のエレベーターはこの相似構造のメタファーであり、彼のうそぶき通り、1階市民ギャラリーの真下には同じ大きさと天井高を持つ地階市民ギャラリーがあり、シアター21は両階層に貫通している。小会議室の直下には同じメディアラボが在り、自動ドアを隔てて西に抜けると1階部では敷地のターフ面が広がり、下階では地下駐車場の薄暗い潜函が広がるという仕組みだった。彼らはフォンダン色の地階の什器に固く締まりの良さそうなお尻をぺこぺこと載せて興じたり、汗染みた肩を落として寝そべったりしながらそれぞれ勝手に語ったり歌ったりしていた。
「ここには何も無い。在るのは部屋と空気と、いるのは何か普通の人だけだ。リクはいない。」
「どうしてわかるの?」
「どっちに行っても僕らにはどん詰まりだ。それに、リクのにおいがしない。」
「トナミ先輩って、何でも良く知ってるけど、何でですか?」
トナミかつのりは非常に優秀な少年だ。大学生の姉が4月に入学したのは東大だったはずなのだが、今はアメリカ東海岸の、日本人の誰でもその名を知る大学の学生になっていた。レンガ造りのドミトリで、ルームメイトも無く、キッチンにぽつりと置かれているのはマレーシア製のコーヒーメーカー1つ。ひまわりフィルターで朝夕コーヒーを淹れ、リビング兼勉強部屋のソファーサイドでマグカップを傾け、昼間は広大な学園のコルビジュが作った校舎の付近で学んでいた。トナミかつのりは姉の出国・帰国の見送りに行ったこともなければ、電話で話したことも個人的にメールを交換したことも無かった。夏休みの終わりにJFK経由の便で学生寮を尋ねて行ったのは弟の彼ではなく、訓練漬けの合唱団の毎日に心底辟易として、知人宅に寄せてもらうことを言い訳に日本を飛び出ていった中山アンビの方だった。
「合唱や塾の他に、何をやっているんですか?…それとも、単なる天才?」
「ちげーよ!習い事じゃないけど、消防少年団で防災の発表するぐらいだよ。そもそも、前江トーヤ!おまえの方は何を習ってんだよ?土曜も日曜も祝日も全部合唱団があるんだから、オレらは習い事なんかできるワケ無いじゃんよ。」
4年生は怖いもの無しだ。6年生の左腕をしっかり自分のかいた胡坐の腿の上に乗せてぴしゃぴしゃとしっぺで打っている。
「でも僕はスイミング。奥田ユーセーはソロバンとフラッシュ暗算で、リオはスイミングとタップと公文で…」
「リクとかは?」
「…松田リクは、ピアノに決まってる。…でも、なんか片手間にスポーツやったりしてるらしい。」
「スポーツ?…どうりで足がめっさ速いと思ったゼ。追っかけても、もうどこにも居ない。」
前江トーヤはそれから『歌よありがとう』のサビを一人で歌いはじめた。門脇大路がスキャットで口ずさむのは『コッペリア』のマズルカ。彼はこのバレエの村の子どもの役でボーイズダンサーとして出演した経験が1度だけあった。
「アオケンは、何を習ってるの?」
中山アンビが5年アルトに尋ねた。
「お習字と陸上。」
「陸上?…って、何をやるんだ?」
「ラダーとか…ラテラルとか…」
「何じゃそりゃ?」
「ちびっちゃいハードルとか、バトンパスの練習もするし、あとは、ジャンプとか…」
5年ソプラノの中井宗太郎が一際音圧のある声で『マイバラード』を歌い出したために、団員らの私語はグシャリと内部崩壊して、全員がてんでのパートで♪悲しいときも…と声を揃えることになった。『白い蝶のサンバ』を2番までシナを付けて歌っていたモリマ・ユーリでさえ即座にピッチを変えて歌に合流した。

階から黄泉の国がえりの要領で件のせり上がりエレベーターに乗り現世の世界につながったフロアへと戻ってきた少年たちは、地上の眩しさに目を瞬かせながら、ふらふらとガラス壁の囲む光の庭へとやってきた。天空は高く、パティオになったまばゆく照り輝く四角い白昼の庭の中央には、ごく小型のスイミングプール。水面には人懐っこい水色の無数のさざ波が気持ちよさそうに幾重にも揺れていた。UNの旗をつけたアメリカ軍が現代のレコンキスタよろしくイスラム勢力から奪還してカスタマイズしてしまったアルハンブラ宮殿のアラジャネスのパティオさながらに、アーチ頭のステンレス製梯子の付いた温暖なプールサイドが、レモネードのピッチャとグラスのよく似合う爽やかで冷たそうな水を湛えた水盤を囲んで静かに照り返していた。
「あ!…居た!」
子どもたちはライム石のプールサイドの縁に21世紀の男の子らしい脆弱な向こうずねと対称に広げた掌を当てて底を覗き込んだ。可愛らしい靴底を背後に並べ、尻を突き出してさざめく水面から真下へ視線を投げた。水中に深く着衣のまま腕を前後にかいて浮遊する少年の人影が認められる。松田リクの姿だった。波紋のたてる爽やかな音が一瞬かき消され、どうしようもない焦燥の中で水底を指さす彼らの視線の先には、屈折し、乱反射した少年の肢体が足元のとりわけ深くなった場所で消失点のように収束していた。子どもたちが応答を返そうと咄嗟に両手を千切れるほど振ると、水の中の子どもも嬉しそうに合図を返した。詳細に判別はし難いのだが、その目は喜びに見開き、顔は笑っているように見えた。
「リクー!リクー!上がってこい!」
彼らが声をかけると、松田少年はぴょんぴょんと水床の中でアナゴの稚魚よろしく立ったまま飛び跳ねる。様々な声をかけてみて、彼らは自分たちの発する音声メッセージがそのまま伝わっているとは言えないように思えてきて欲情するにひとしく速やかに全員がぱっと邪悪な表情になった。
「おーい!リク!パンツクッテ!」
中の少年は、手を組んだまま頭の上下に動かしてそろえた両足をぐりぐり…ショベルカーの腕でダバドゥア…。お尻を左右に突き出している様子が湖上からも見える。これは『マル・マル・モリ・モリ!』の鈴木福君のポーズだ。子ども達は調子に乗って、さらにジェスチャ付きで次のリクエストを出した。
「リクー!そこでオケツカッテ!」
こちらでは大ウケである。少年は、今度はラジオ体操第二の腕と脚を曲げ伸ばす運動のポーズをとった。
「リクー!おまえねーちゃんと風呂はいれよー!」
4年生ボーイソプラノは水の中でウサイン・ボルトの勝利の弓矢ポーズと「ジャマイカ最高!」のガッツポーズを得意げにやって見せつけている。少年達は拍手しながら笑い転げた。だが、次の一瞬、中山アンビが茶色いヘアダイの髪の毛をふわっとなびかせると、ステージ上と同じ獰猛な表情で振り返り、第6室の方へ立ち上がりざまにダッシュするのを見て、彼らのよじれた体側はバネのごとく跳ね上がった。
「ブエノスアイレスの地下鉄だ!」
アオケン少年は走りながら叫んだ。
「ブエノスアイレスの地下には営団地下鉄丸ノ内線が走っている!」
男の子は地下の邂逅に至る経験があった。ベンソン&ヘッジスの赤い塗装にBA不銹鋼のサインカーブ。ファンデリアの煌めき、給電軌条を擦る電靴の涼やかな音色。そもそも、この場所にスイミングプールが在ること自体のデペーズマン。ブエノスアイレスの地下とプールへの「地下」は、ダブルミーニングなのである。
 彼らは6室のとば口に切られた階段室からチャコールグレーの地階へと激しい跫音をたてて駆け下った。
途中、涼しい湖底の景色や深く湛えられた水の容積と悦楽をたっぷりと吸収し楽しんで来たらしい人々が、公共プールの更衣室から今しがた出て来た者たちのように楽し気にプールへの通路を戻って来るのに出会った。少年らは急いでおり、確信もあったため「この先に4年生くらいの男の子が一人いませんでしたか?」と道々尋ねたりするようなことは一切無かった。
やがて彼らがスカイブルーの水盤の空ろへと到達し、頭上を統べるコロコロとした水音を聞きながらシンクの中で辺りを見回したとき、お尻をひょこひょこ突き出しながら『マル・マル・モリ・モリ!』を踊っていた松田リクの小学4年生の剽軽な姿はどこにも存在しなかった。全てを支配するのは、壁面をきらきらと揺らめかせ、足元までもブルーオパールの輝きで満たす新橋色の光の襞。在るのは、ただ、平面を覆い尽くす光…光…光。

「東京駅の13番線ホームからは、15番線ホームが4分間しか見えないってことなんです。」
近郊形&東京の私鉄急行マニアの門脇大路が階梯をたどりつつ6年アルトに注進した。
「そもそも、東京駅に13番線ホームなんて無いだろ?こいつ、おノボリさん丸出し!」
少年合唱団は低学年から卒団生に至るまで厳格な縦社会。下克上を成し遂げる大立者もときたま現れるが、彼らの予後はすこぶる居心地が悪い。「途中入団」の地歩しか持たない門脇は人生経験今だ11年目ではあったが自らの立場を良く推知して冷静に立ち回っていた。
「作った人は、今の22番線ホームに横須賀線が入線する13番線を想定して書いているらしいですよ。もちろん、今の横須賀線の下りは地下4番ホームあたりから出てるんですけどね。大昔の話らしいです。だって、15番線から寝台特急『あさかぜ』が出るっていうんですから…。もう、動態保存じゃなく、まじ、ナハフ10系とかスハニ32系とかですよ。ブルトレですよぉ。ダセぇー!オマエは昭和時代かっ?!ってなもんで。」
個人的に盛り上がる鉄道おたくの与太話にそろそろ愛想も尽きかけて相づちすら打たなくなりはじめた中山アンビだったが、一団がてっぽう階段の1階の踊り場に達しようとするまさにその時、皆は目の前にある特殊な形状のスチールドアを見て呆然自失した。
「これって…松田リクは『点』で移動した。僕たちは『線』で歩いている。…点と線ってコトです。」
門脇大路が筋金入り「子鉄」そのものの口調で大きくひとりごちた。エレベータのドアが開き、大阪のおばちゃんふうの2-3人がほお袋に詰まっていた大きな餌肉のようにぐにゃりと押し出てくる。
「ここにもエレベーターがあったんだ?!」
「俺らが階段を下りてるってのに…」
「あいつ、プールサイドの俺たちに追いつこうとしてコレで上がりやんのよ!」
彼らが雷に打たれた小田急線のごとく燃え尽きた惰性で先ほどの光庭に歩みをすすめると、4年メゾの姿は既にそこに無く、水中からの光景そのままに寒天状の光が直方体のパティオを満たしているだけだった。

田リクが初めてこの巨大な曲面モニュメントに足を踏み入れたとき、トランスルーセントな曲面ガラスの壁は対岸の景色を控えめに映し出してはいたのだが、入れ子でミルフィーユ状につくられた内部最深の空間を考えると、蝸牛迷路は中へ行くにしたがって度し難く奥深い永遠へと圧縮されていくかのように思えた。中核には重力が忍び寄るブラックホール…囚われの光すら脱出不可能な暗黒の世界が幾重もの高い壁によって閉じ込められている。
少年が濃いイエローの曲面ガラスのおわりまで辿り着こうとしていたとき、彼の目前に白黒20面体のサッカーボールが1つ転がり出た。彼の学校では体育倉庫のグリーンの方の檻籠に突っ込まれているのと同じ大きさの4号球。ただ、紛れも無くスピンがかかり、RCの床をこするコソコソという音さえ聴き取れた。
「ごめん。ぶッかったか?」
アディダスの真っ白いPシャツに黒いプーマのパンツ。男の子が一人シアン色のガラスの切れ目からサッと出て来て、自身の右脚の内側をシャモジのように使いボールをすくいあげた。
「ぶッかってない?ごめん。」
松田リクが二の句を継げずにいるとサッカー少年は注意深くリフティングしながら、
「人にこっつんこは一切いかん!これが練習。」
真剣な顔で言った。ここにはブラックホール同様、看視員も警備員もいない。入場ゲートもチケットもぎも順路案内も、禁止事項をずらりと縦に並べた警告ボードも。環境光の照度に合わせて街灯が失念無く灯り、利用時間を指示する表示も見当たらない。松田リクが気付いて驚いたのは、ここには雨露をしのげる屋根も天蓋もかかっていないことだった。邂逅した少年の最大の訓練課題は、この入り組んだダンジョンを床以外の何にも誰にも触れず、足技だけでボールを送ることらしい。
「ぶつかってしまったら、どうするの?」
「ぶつからない。」
プラレールのような径でたわんだ狭いアイルの中で、サッカー小僧はヒールとトゥーとでボールを繰って話している。
「謝らないの?」
「ごめんはゆうよ。だけど決してぶつからん。」
「どうして?」
「ぶつからない練習だから、ぶつからん。ぶつかったら、もうそれで終いだから、ヒトには絶対にぶつけない。」
一度でもコレをやったら団員人生終わりだというミスやトラブルだけは各自堅実に避けるステージ上の少年合唱団員と同じだ。松田リクは慣れてきた目でモニュメントの中心核に据えられた白い天体が柔和に光を受けて輝くのを見た。シアンの壁と隔てられたイエローの壁。重なったそのはるか向こうで、可愛らしいボンネットバスがグリーンに染まって走りぬけてゆく。リフティングの子の白い肩に触れながら少し行くと青の壁が切れ、マゼンダのパネルとイエロー・ウォールの重なった場所に出来た懐かしいオレンジ色の夕光の額をつっきってゆく自転車が気持ちよい。4年メゾはさらに回り込んでボールを蹴る子の姿をシアンの壁越しに眺めた。空色のシャツにスタートレックのボリア人のような少年の肌。少しずつ動いてゆく子の背後にはワイン色の景色が見えている。湾曲の壁に添って歩みを進めると、やがて松田少年が最初に見た、3つの色の壁が重なる墨色の世界に相手が隠れていった。男の子は可視に留まったその姿を見て、身も心も震わせて叫び声を喚げた。
「でも、キミは見えるよ!お洋服やソックスの脚は灰色で白黒の世界かもしれないけれど、キミの大切なボールとキミの全部は暗黒の中でもしっかりと見える!」
リク少年が「キミの全部」という属性から抜き出して、持ち物の中でボールを「大切なもの」と推断したことは、彼自身にも驚きだった。
「競争しない?」
サッカー小僧が言った。一目見たとき会ったとき、同じ小学4年生であることを直感し、確信した。
「競争しよう!」
4年メゾは答えた。白いシャツの子は道路側のシアンの口からボールを蹴り始めた。松田リクは建物側のイエローの口から走り始めた。中心部からマゼンダの内法を経てシアンの外縁を走り、ボールコントロールの少年の背中を追った。ドリブルの子は回廊の中を何物にも触れぬよう集中して蹴り続けた。彼らはそうして幾度も幾度も同じ道をたどり、ちびくろサンボのトラのように身も心も体熱と情熱にとろけた。赤と青の壁に挟まれた出口でボールを抱えて待つ少年の白い汗ばんだシャツの胸に彼が飛び込んだとたん、二人は零れ落ちる享楽と福禄に地面へと横たわり笑い転げた。芝生にまみれた彼らの体側が、ひんやりと気持ちの良い湿った地面の土の感触をとらえたとき、松田リクは横転した両の目が、敷地の彼方、銀色の網を忽然と貼りめぐらして立つ、次の大きなモニュメントの存在をとらえた。彼は笑みをかすかに残す決然とした表情で立ちあがり、芝屑をぽとぽとと落としながら
「僕、あそこに行ってくる!」ときっぱり言った。
短い髪の地を陽光にきらめかせながら、胡坐に折った脚の中に4号ボールを置いた少年は、暖かい目で黙として見送った。今度は逃げるような速やかさは無く、4年メゾは前方へと芝地を踏みしめて静かに歩いていったのだが、決然とした足取りがふと止まったのは、一つだけ言いたい言葉があることに気付いたからだった。
見返りの彼の目にはいったのはエクスクラメーションマークのピリオドのごとく座してこちらへ手を振ってくる少年。だが、その周囲に満ちて強く目を射たのは影絵のステンドグラス!傾きかけた陽を受けた壁の影だった。自らの3原色を芝生とベーヴメントの地面に延ばしたマゼンダ。襟を合わせる曲面の明るい舌と、涼しげで美しく軽快そのものの青い足。CYMKの重なりにサインカーブをつくる垂れた健康そうなイエローの臀部。松田リクは言おうとしていた言葉を確信して呑み、代わりに景色を胸いっぱい吸いこんで、中心に向けて大きくのびやかに手を振りかえした。

「ヨッチャの名前って何か古めかしい。」
「将軍様みたい。」
合唱団の子どもたちは、先輩づてに得た伝統のような習わしで、団員の名前の由来を誰彼かまわず尋ねてみることがあった。これは、先週の大田区の某センターホール合唱団控室での話である。
「お母さんが時代劇で将軍様の吉宗のテレビのドラマに出てるときにお腹の中で僕が出来たんだよ。だから僕も徳川吉宗みたいにいろんなことに興味をもって、アイディアマンになって、贅沢をしない心の豊かな人になって欲しいからヨシムネって名前にしたんだってさ。」
「なれたんだ?徳川吉宗。」
こういうときの中井宗太郎の何気ない一言である。
「さあ?わからない。それから、大岡越前みたいな優秀な部下に恵まれて助けてもらえるようにって。」
「ヨッチャに優秀な部下って、いるの?松田リクは、確かにピアノは優秀かもしれないけど…」
中井宗太郎は結局戦友の値踏みをして話を終えようとした。
「お母さんが出ていた回の台本は、全部家に取ってあるの。大切な宝物なんだってさ−。僕が生まれるとき、俳優やめちゃったから。」
現在、彼女の息子は何を宝物にして舞台へと立っているのだろう。来年の春、合唱団は『ゴールデン・バニティ号』を演じることに決まり、すでにかなりの練習が進んでいた。元・女優の息子はルックス的にステージ映えするものの、名前負けしてしまうのか、縞模様のシャツを着てバケツやモヤイのロープを持った船員の役にありつけた程度だった。
 中井少年は今、メッシュ遊具のスタチューの中へと中山アンビの尻にくっついて踏み入ったところだった。6センチ径のステンレスパイプが怪しげな平行を保って外殻の骨子を作り、鬱陶しくない程度の目の大きさで白銀に輝く格子が構築物全体を覆っている。説明板の1枚すらないのだが、作品のタイトルを知る者にとってはそれだけで十分だった。彼らは最初、網が「格子」ではなく、縦線が走るだけの単なる飾りのように見えた。陽光の反射がそう見せていたからである。左側の開口部から入ろうと先ほど腰をかがめて横からメッシュを見ると、少年たちの視線の方向に沿って横均等に渡されたステンレス針金が走っていることに気が付いた。
「皆さん!今日は僕たちのコンサートにおいでいただき、本当にありがとうございます。今、歌った曲は、セルジュ・ゲンズブール作曲の『夢見るシャンソン人形』でした!次に、林光作曲の『みんなの科学」を歌います。それでは、最後までどうぞ楽しみください。」
上級生から肩をつつかれて、もりまユーリが集まって来た人々に即席のオープニングMCを発した。本来発声すべきステータスにいる中山アンビは自分のつたないナレーションの声がその場に響くことを極度に恐れていたし、トナミ少年は非公式に行うライブパフォーマンスで何かの責を担うような面倒はなるべく避けたいと思っていた。ソプラノ側に6年生はおらず、低声部にいる5年のうち、抜き打ちのMCをアドリブで切り抜けることのできる団員はアオケンともりま少年の2人だけだった。仕事は近くにいた方のもりまに振られたのである。構築物には開口部が6カ所あり、いずれもステンレスパイプに区切られた不規則な5角形のもの。地面近くに開いた口のうち2つから、遠近感を多少乱しがちな5段のミニ階段と、中央にはちょっと嫌な形の黒緑色のデッキが作られているのだった。彼らは少年合唱団員や少年合唱指揮者独特の悲しい「性(さが)」によって、階段状の構造物を見ると必ずそこへ隊列を作って歌ってみたくなったり、ウィーン少年合唱団のポスターさながらに写真を撮ってもらいたくなったりしてしまうというわけである。縦割り班行動の彼らは反射的に外側を向いて誰からも促されること無くおおまかなパートと背の順で歌う列を入れ換えて整え、これまたかなりイイカゲンで適当に選曲した『夢見るシャンソン人形』を歌い終えたところであった。伴奏は無く、どういうわけか4年パトリの前江トーヤが肌身離さず持ち歩いているスヌーピー柄の青いチューナーでテンポと音を聴いて(電子チューナーにはオート・オフというアリガタイ機能が搭載されているために、電池は大変長持ちしていた…)ぶっつけホンバンのアカペラコンサートと相成った。通りがかりの人々が2−3人足を止めると、街路からも、ミュージアムショップの外側のブースからも呼び水に吸い寄せられた聴衆がすぐに集まってきて簡単な人垣を作った。もりまユーリは半ズボンのスソに立ったアイロンの折り目を左手中指の爪の先でグリグリと親指の腹に押しあてながらアドリブのナレーションを閉じた。彼が意外なことに非常に流麗で美しい所作の挨拶をし、階段の下段に立つ団員の体側を押しのけるようにして3段目に復帰しようとしている間に、4年パートリーダーがマシンのスイッチを押し込んでアカペラが始まってしまった。
 聴衆は彼らが無伴奏の上にスキャットだけで少しくポストモダニズム的な古風な物腰の歌を歌っているのを聴いているうちに、少年達があたかも金属の鳥篭に籠められた「小鳥たち」のように見えてきた。陽光は金網を輝線に変え、ラッピングはその意味合いを遷移させた。檻に開く子ども一人が占拠するほどの大きさの開口部は、彼らの給餌穴で、空に対して穿たれた窓は伝書鳩の帰巣の扉。少年合唱団は罠の籠に嵌って歌っている。トラップだった。眼鏡使用者もいる団員たちの目は演奏中、恐ろしくよく見えており、視線は常に指揮者の方を向いているように見えて実は両親・親戚・知人の類を客席から瞬時に見分ける高精度レンズ機構なのだった。彼らは今日も外側の客たちの様子を沈着に観察し、聴衆が何を感じているかを瞬時に把握した。
「松田リクは判っているがここには来ない。こちらから追わなくては…」
アオケン少年にとって、スキャットの通奏低音はややローピッチすぎて難儀ではあったが表情を崩すことはなかった。この曲で演奏会を打ち止めにしなくては、逃げ回るメゾソプラノ4年を追うことはできない…と、上級生同様、彼もそう考えてMCの構成を繋ぎなおそうとしたのだが…
やがて、プロジェクト工房の前庭のたたきで大量のコレールの食器をコンクリートの地面に投げて割るパフォーマンスアートが始まると、人々は先を争うようにしてそちらへ歩き去ってしまった。少年たちはタイムジャンプを終えてほんの15分間弱の時の流れをさかのぼり、マシンから吐き出されて来た一行のように、辺りを窺いながらペーブメント側の穴から出て来て黒い玉砂利の着地点を踏んだ。

禿げかけた芝生を貫穿して立つ導管。陽光を受けて輝くプラチナホワイトの花弁がアルミニウムの真円に喇叭を広げている。触れれば直截な熱伝導のため寒い日は氷の蓋のよう。晴天の刻限には手指を刺す炎熱が私たちを射ることになる。松田リクは一見してそれが伝声管の出入り口であることを認識したのだが、ビクターのニッパー犬のごとく耳を傾ける仕草で何かを待つことはしなかった。4年生の男の子は最初にその深黒を黙として見つめ、それから小さな声で囁くように穴の奥へと歌いはじめた。

 ♪Down by the salley gardens my love and I did meet.
  She passed the salley gardens with little snow-white feet.
  She bid me take love easy, as the leaves grow on the tree.
  But I, being…

そこまで歌って彼は後をつなぐことができなくなった。男の子は雪解けた涙を軽銀のフリルに数滴落とし、下の眼瞼の縁に溢れんばかりの雫を溜めながら喉へ落ちた体液を呑み込むようにして吸気した。わが世の春を謳歌する「マネジメントシステム」群は今や行政罰を引き連れて、様々な自治体で「犯罪要件」をもたらす罪刑法定主義の根拠へとなりあがり、ふくれあがり続けていた。男の子は嗚咽に曇った目で自分の胸元を見やったが、そこには当然何の札もかけられていない。小さな胸に去来するのは薄ぼけた冷たい灰色の表紙の冊子の図像だった。太いゴシック体で黒々とJISの文字が刷り抜かれ、JIS Q 14001と付記されている。表紙にはまだ他に様々な文字が印刷されていたが、かつて漢字の読み書きが好きだった少年の目にさえ、意味在るものとしては焦点を結ばなかった。

 合唱団の子どもたちは皆、微か上方へと傾けられた真鍮のスーザフォンの朝顔を両手で掌握し、白や黒やペールオレンジの乳臭い頭を突っ込んで息を殺し、何かが聞こえて来るのを待っていた。巨人症の男の風呂場にある排水口の目皿といった趣の穴の大きなストレーナーを通じ、見えているのかも判然としない漆黒の彼方から、うっすらと誰かしらの歌うDown by the sally gardenのメロディーが聞こえて来る。線の細いメゾソプラノは霧に閉ざされたアイルランド西南海上の曖昧模糊とした波音を思わせて静かに愛らしく続いていた。もうじきに二分の一成人式を迎える齢10歳の男の子の聲に違いない。少年たちがようやく敷地の向こうを見渡すと、菌糸の狂れた不思議の国のアリスのキノコたちのように、あちらこちらへ高低の違う幾つかの銀の傘が2つずつまとめて地面から突き出ている様子が認められた。歌う者の姿、いずこに。低声部の団員たちはサバンナの家族性巣穴動物のごとく首をもたげ、ゲーム近視になりかけたやぶにらみの目で彼方をしばらくの間、眺めやった。それからまた、すぐ、唾液臭い口腔を開けっ放したまま汗ばんだ首筋を擦り寄せ、何人かが無理矢理一カ所に顔を側だてたりしながら伝声管を吹いてやってくるその詠唱に聴き入った。穴の深淵を凝視しつつ、彼らがそれでも歌が地底の奥深くからやってくるのではなく、遥かうながみから聞こえて来ているように錯覚しているのは驚きだった。

 いずれ、かさのある者、ちいさき者、幾許の倦怠と疼きを忘れ…

リネンの残り香を今だ肩口にたてながら、まとったワイシャツのカラーをもはやボタンではなく臙脂色のボウタイで止めて、6年アルトは呟くように嘯いた。

 これらはすべてこの島嶼の安楽を舐めたことによる

夏休みを過ぎ、彼の声は僅かに嗄れ、低くなりはじめた。そのクミン色の顔色と蝶ネクタイを真東に振って少年たちの背後を見据えると、そこには直径120mほどの人工の島が揚陸され、干上げられ、打ち置かれていた。
「有明沖の石炭採掘の島なんだ。面積は1400平方メートル。最後は3キロ沖合の人工島から入れた空気をここから吸い出して排気していた。石炭はもう採っていない。コンクリートでできた島なのに、今では中に植物さえ茂っている。」
父の書棚の端に昔の小学校の地図帳が突っ込まれ、立っている。大人の匂いが染み付いた書斎の蔵書から彼は人差し指の側面を薄い黄緑色の冊子の背表紙の天に引きかけて抜き取ると、時々開いては古ぼけた色刷りの地理写真を眺めていた。
「海の下の石炭を採っていたの?」
アオケン少年が尋ねる。
「三池炭坑というところで石炭を掘り進めていったら、石炭の層が海の下に続いていたって話さ。」
学習指導要領上、6年生にならないと「地層」という言葉が出て来ない。下級の子どもたちは黙って会話を聞いているだけだった。
「海底がもし透明だったら、石炭を掘る人たちには昼の間ずっと海が見えたのかな?」
「見えるわけないじゃん。下にいるんだから!海を見ることができるのは海岸とか、飛行機で空とかにいる人たちだけだよ。」
「じゃあ、いったい何が見えるんですか?」
「5年坊主じゃ理科でまだ『人のからだ』を勉強しないんだよ。「目」でオレたちが見ることができるのは、光の波動だけってことなのさ。」

田リクの曳航を一時的に留保した少年たちは、曲面壁になった三原色のインスタレーションの見えるガラス張りの融合カフェで、白い什器の肌をなでたりテーブルについた肘を揺らしたりしながらぼんやりと外界の空気の流れを凝視して待っていた。スタチューの中では白い半袖Pシャツの男の子がボールを猛スピードでドリブルしながら幾度も繰り返し歩廊を巡回している。どこからか走る子どもの姿を認めて進入してきた小さな子たちや制服姿のミュージアムクルーズの4年生が変わりゆく空の色や光景のグラデーションを鑑賞している。その中を少年は文字通り真剣な顔つきでボールを繰ってすり抜けてゆくのだった。
「あの子のお父さんやお母さんって、どんな人たちなのかなー。」
同じくらいの体格をした4年メゾがせり上がる芝生の斜面を眺めやりながらひとりごちた。
「お母さんたちが子どもの頃って、女子がサッカーするなんて、無かったんじゃないの…?」
ユーリ少年が隣り合った白いソファの座面で静かに諭すのだった。
「お父さんが助けてくれるんだよね?」
「ありがとう、だね。」
「ありがとうございます!…だよね。」
カフェの外壁には例外的にドアフレームのようなものが4-5枚も付けられている。気持ちの良い季節にはオープンカフェのようなものを狙って開放するのかもしれないと一見の人々は考えていた。
「松田リクはどうして脱走してるんだと思う?」
「合唱団が嫌になったんじゃないですか?」
「もともと、自分で合唱団に入りたいって言って来たんだよ。」
「気持ちが変わったんじゃないんですか?あのアンビ先輩だって、合唱団の服に憧れて入団したんでしょ。でも、だんだん嫌になってアメリカへ逃げた。」
「でも、アンビ先輩は自分でもう一回変わったんだよ。お父さん、お母さんが感動して、嬉しくて泣いていたもの。」
「ユニフォームが変わってないのに?」
彼らの前に、めいめい四角い白い皿が置かれた。4センチメートル四方ほどの深いキュービックな凹みが2×3で6つ穿たれている。フォークとスプーンが添えられ、パーテーションからは色とりどりの小さなデザートがころりと頭を出し、細くてチョコ地のラングドシャ・シガレットが1本さり気なく置かれ、パウダーシュガーがシガー灰のように皿の窓枠からまぶされている。
「僕はそのとき、確かにそのステージにいたんだ。終演MCの担当の先輩が急に欠席で言う事になった。アンビ先輩はコンプレックスから死ぬ程恐れていたMC担当だったのに、ついに、とうとう挑戦しなければならない日がやって来た。でも、あんなにカッコいい喋り方なのに、それまで何が怖かったんだろう?」
デザートプレートの脇に、トランスルーセントの赤いプラスチック・ソーサーに乗ったミルクティーの白いカップがコツコツと配られた。プレートのセットで735円也らしい。自由時間の合唱団の少年たちには前もってこの手の手配が行われており、次回来館用の無料「もう1回券」2枚とこれらが本日の彼らへの「出演料」がわりなのだった。だが、子どもたちは習慣から給仕に対しめいめい丁寧にお礼の言葉を口にし、手を合わせて拝んでからフォークをつまみ上げたり、6種を超えるミニミニ・デザートたち1品1品の匂いをニコニコと幸せそうな面持ちで前後左右に嗅いでいったりした。
「キミだったら開演と終演のMCなんて、急に原稿の紙を渡されて言えるかい?でも、モンノすごくカッコ良かった!僕のお母さんなんか、シビレた…って言ってたもの。オレ、それで本当にアンビ君のことが好きになった。」
「何で平気になったんでしょう。」
「舞台がハネて、いつものように僕たちみんなが集められた。先生が感動して、見違えるようだ、という意味で『ここに立っているきみは誰だ!?』って先輩に尋ねたとき、目の据わったアンビ君が胸をはって「中山アンビです!」ってハッキリ答えたんだ。ミーティングを参観していたアンビ君のお父さんとお母さんがもう、その言葉を聞いて泣いて、泣いて。あんな新宿文化センターのロビーの真ん中で、父ちゃん母ちゃんたちが大号泣したんだよ。」
「お父さんとお母さんが聞いててくれたから…ってコトですか?」
ユーリ少年は手っ取り早く、上の段の左端にスクーパーで丸められた黒いアイスクリームの端っこにスプーンを立てた。
「お父さん、お母さんじゃないよ。客席の後ろの方の隅に、僕のことを黙って応援してくれている人が必ず来ているんだ…」
「それって誰ですか?」
「僕のことじゃあないよ。アンビ先輩がそう言っているの。…先輩は、それを見ちゃったんじゃないのかな?」
黒いアイスの正体は黒ゴマの冷菓だった。
「その人は、アンビ先輩に再チャレンジのチャンスをくれたんだネ?」
4年メゾ。黒アイスの下の窓に盛られた大学いものスイーツをこちこちと食べはじめた。クリームと粒アズキがぴかぴか光った峡谷を乗り越える氷河のようにたっぷりとかかっている。
「コンサート、黙って見ているだけなのに?」
対角線上の端の場所にミントの新しい葉をあしらった半裁のダックワーズが載っている。ユーリ少年は指でつまみながら問い返した。
「だって、見ていてくれたんでしょ?それでいいじゃん。アンビ先輩は、だからもう一度頑張れたんじゃないかな?だから、ねぇ、もうこの話をするのは止さない?」
彼らは結局、松田少年の話題には戻らず黙ってスプーンを動かした。
 窓際のフリッツハンセン的な白い丸尻のチェアに尻を押し込みながら、もう一人の5年アルトはリク少年の行方を占った。
「食べたのかな?」
「これ、1コ、余っちゃってるよね。たぶん。」
中央の赤いソルベはどうやらスグリ属のほろ苦いシロップによって満たされ、マゼンダ色の愛らしいドームがラングドシャの腹をふんわりと支えていた。その上のパーテーションにはマスクメロンの上に敷かれたルビーグレープフルーツの1きれ。アオケン少年は、これらを松田リクのために残しておいてはどうかと思い至り、最後まで手を付けずにいた。マンゴーアイスのスクープをスプーンの角で削りながら、ガラスの壁越しに見えるカラー・アクティヴィティ・ハウスの三原色が、6つ仕切皿の上に逆三角の位置で再現されていることに気が付いた。右上のマンゴーアイスのイエロー。自分の体に最も近い中央下にカシスソースのマゼンダ。鮮やかさは無いが、左上の黒ゴマジェラートに見えるシアン。東エントランス前のポリエポキシ樹脂の銀の床の広場、一隅の白い7005Aダイニングチェアー。カシドス・ネイビーのイートンを白いポロシャツの上に羽織った4年生ぐらいの男の子が「このまえ、ここのカフェでアニッシュ・カプーアのスイーツを食べた。」とハイバックの背もたれに寄りかかり、足を組んで座しながら言っているのを聞いた。この黒いジェラートのマルは、彼の言う「カプーアのスイーツ」でもあるのかもしれない。アイスは繰りぬかれているようにも見えるし、描かれているようにも、皿の凹面にかかって浮かんでいるようにも見える。いずれも真なりに見えるよう、パティシエは腐心しているのかもしれない。門脇大路はズボンの尻ポケットから「鉄研ミステリー事件簿・地下鉄ラビリンスの巻」の新書本を引っ張り出し、ぱらぱらとめくってお目当てのページを探し出し、尋ねた。
「Quizです。松田リク君は、どこにいるのでしょう?」
「…知らない。」
「どうしてわからないのでしょう?」
「…リク君が何を考えているのか、わからないからじゃない?」
「でも、プールの中と外だったけど、会ったよ。」
「じゃあ、わからない。」
「…違うな。僕たちが何でリク君のことを探して追っかけているのか分かってないからじゃないかナ。」
「何のために追いかけて探しているの?」
アオケン少年は結局マンゴーアイスを食べ終わりかけた。
「デザートプレートをまだ食べてないからだし、ミュージアムショップの場所を教えてあげていないからじゃない?」
鉄研ミステリーの本の角で門脇大路は長い髪の頭頂をこりこりと掻いた。
「はやいところとっつかまえて、はっきりさせよう。」

エロー グリーン ブルー バーガンディ パープル ライトブルー レッド…。ヤコブセンのスワンチェアが7色で7脚。団員のチームは人気(ひとけ)の無いアートライブラリの前室に散りばめられ、思い思いの方に包容力のある座面を向けたデザイナーズチェアに尻を押し込んだ。彼らは気持ちが良くなって、何か1曲レパートリーを歌ってみたくなったのだが、互いの顔を見合って抑制した。建物の一番隅の最も目立たない場所を探してやってきたはずの一行は、ここが思いのほか居心地の良い部屋で、静かに画集やスタイルブックを繰って眺めたり、3基の白いフロアスタンドの淡い明かりをぼんやり見たりして時間をつぶすのに恰好の場所であるために少し困惑した。カラー・アクティヴィティの中央に閃く光源と同じミルク色の球状をなす目前のフロアランプが、ジャスパー・モリソンのフロス・グローボールだと画廊の息子は一人で言うのだが、団員たちの中でその真偽を判ずる知識を持つような子は一人もいないのだった。白いアントチェアを引っぱり出して座り、彼らは書架の端で子ども向けの本をぱらぱらとめくりながら半分だけホワイトシェードの下りた窓外のターフにときどき目をやった。図書館の外見をなす室内にどの少年も経験から殆んど言葉を交わさなかったが、やがてガラス壁を左から右に猛スピードで横切る2人の子どもの姿を認めて立ち上がろうとし、一斉に叫び声を上げた。
「リクー!…何でサッカー?」
「一緒にいたのって、誰!?」
サッカーボールをぴったり足元に吸い付けてドリブルしていく中学年ぐらいの短髪の男の子が、ウエンディの手を引いてフック船長のもとを逃遁するピーターパンさながらに松田リクの腕を頼もしく牽引して走り抜ける。彼らには今たしかに影法師があり、黒ラシャのような2少年の残像がフラッシュバックしながら目前のガラス面に繰り返し現れて薄らいでいった。
「あいつ、何してんだよ?!」
ライブラリの開口部には建物外壁にある全ての部屋同様、出入り口の形状を示すサッシ枠が数カ所在ったが、どれもギミックよろしく固く閉ざされていて解錠システムの視認性すらまるで無い。彼らは数瞬で後追いに走ることをあきらめ、平綴ののどの音をばりばりとたてながら美術書を閉じて静かに書架へ戻した。とりあえずケーキを切り分けたような形の部屋の頂角部にある南側の建物出入り口から彼らが眩しそうな目で松田リクの去った方角を見晴るかしながら歩み出たとき、彼らのいる側面周囲に子どもはおろか道行く人の姿は全くもって存在しなかった。

誰に追いかけられているの?」
「…知らない。」
「何で追いかけられているの?」
ドリブル小僧はトイレットペーパーを手に巻きながら引っぱり出して千切り、松田リクの玉の汗のこめかみに当てた。
「本当は知らない。でも、僕は犯罪者だから。」
「捕まえられる?」
「わからない。」
ここまで話したところでレストルームのドアが内側にどしんと開き、足音が1つ、隣のブースに入って施錠と開蓋の音も聞こえた。薄明るいLEDの琥珀色の光量の下、少年の引き締まった目線が松田リクの両の瞳を口止めるように見つめている。リクが何かを尋ねようと口を開きかけたとき、彼は静かに首を横に振って制した。男の子は両脇に黒い掌を滑らぬようしっかり当ててサッカーボールをドライシステムの床に置き、蓋の閉じた洋便器にかけたリク少年をかばうように立て膝から中腰になって陰を作った。個室のスライドラッチは当然かかっている。大男が上から覗かない限り、アドレナリンの吹き出る2人の4年生の男の子が抱き合うように中へ潜んでいるとは誰も思わないだろう。彼らは祈るようにどこかの男の脱糞と放屁と排尿の音を聴き、身体を固くしていた。やがて、籠った音をたててハンドドライヤーが作動し、おそらく壊れているにちがいない大仰な音とともにドアが閉まると、今度は入れ替わりにもっと軽い足音が入ってきて、放尿とカランの気配がしばらくあった後、今度こそ部屋の使用者は2人の小学4年生だけに戻った。ブロアの快音はほんの一瞬の数秒間しか聞こえなかった。丸刈りの子はもう一度ペーパーフォルダから紙を引き出して4年メゾの顎の下に充てた。
「…どうして僕を連れて逃げてくれたの?」
「逃げなかったら捕まっただろう?」
サッカー少年は黒いプーマの尻を便器の蓋の上に寄せ、リク少年の横に向こうを向いて座った。
「僕が捕まっても、きみとは関係無いよね?」
「イヤだった?」
「ちがうよ。ごめんね。イヤじゃないよ。ありがとう。」
少年は誰か追う者が静かに便所のドアを開けて忍び入り、聞き耳をたてていたりはしないか感覚を研ぎ澄まし、話を続けた。
「毎日、こんなところでドリブルやリフティングをしていると追いかけられる時があるよ。誰にも、何にも絶対ボールをぶつけない…絶対にお客さんへ迷惑をかけないのが俺の練習のモットーだけど。」
「だから、こんなところに誰でも使えるトイレがあるの、知ってるんだね。」
「逃げるしか無いからね。…夜になっても、朝早く来ても、誰が入ってもかまわない芝生の広場なのに、たぶんボールはダメなんだな。晩になると、この建物の中から明かりが出て、ボールもちゃんと見えたりするんだ。雪のある頃は夜がもっとキレイになる!君にも見せてあげたいよ。天国みたいにきれいだよ。」
そのダンジョンの中で2人が出会ったエリアソンの3色パヴィリオンは、この建物のほぼ10分の一の大きさの縮図だったのかもしれない。入り口がいくつもあって、どこから出てもよい。外のどこからでも中が見える。日没を過ぎれば都市の灯台となり、たくさんの人々が先ほどまで全く存在すら知らなかった誠意の子どもたちとアートやアーティストの前で出会う。内外に溢れる光。しかし、白や無色に見えるはずの光は、この円形の敷地の中で様々な色に染まる。イエロー・シアン・マゼンダ…彼らの黒髪さえそこに添えば、もはや地球上に存在する色でここに得られぬ色は無い。そしてそれら自体、限りなく自己の存在を消し、不可視になろうとしている。彼らは相似のあのハウスの中で、出会うべくして出会ったのかもしれない。
 リク少年の汗は止まりきってはいなかったが、サッカー小僧が拇指球を4年メゾのもみあげの横に当て両の親指をこめかみの上で一度ワイパーのようにぬぐうと、4年メゾは小さな溜息をフッと吐いて気持ち良さそうににっこりとした。部屋の外に人の気配がなるべくしなくなる頃合いを見計らって、二人は静かにゆっくりと開け閉めすることを忘れず個室のドアを抜けて律儀に水栓の前へ立った。握り取ったトイレの紙は松田リクの汗で湿気って融けかけていたので、くず箱へ捨てた。自動水栓が穏やかに水を吐き、彼らがそれぞれのシンクの中で手を擦りあわせると、じきに吐水は止み、間もなく「流し」の中へ手前からハンドドライヤーの熱風が勢い良く吹き込まれて齢10歳のそれぞれの小さな両手を乾かした。

跡に疲れた団員たち。季節はずれの厳しい陽光に苛まれつつも光の第4パティオのこちら側。…わずかな日陰のガラス張りの回廊の片側にもたれながら、いたずらっ子そうな目になった公称「天使」たち。彼らは静かなサウンドインスタレーションの一部始終を「ご高覧」しているところだった。光の庭を挿んで対面する歩廊から、「出島」や能舞台のように橋掛けの廊下を伝って突き出た部屋が1枚ガラスの温室のごとくしつらえられている。逃げ回る松田少年を除いてもこちら側の団員が1名足りないのは、そのガラスの部屋の突端で、アオケン少年が一人ヘッドホンをかけたまま放心の表情でスタルクの透明椅子に座しているからだ。少年たちの見世物の主人公となり、ショーケースの中の動きの少ないパペット人形や金魚鉢の中で佇む飼育中の「ヒト」の幼生のように見える彼が只今聴いているのは、6分52秒の6世紀の修道士の旅の物語。固い発音の英語の詩編だが、平易な文章で親戚の半分が「ガイジン」という来歴のアオケン少年にもそこそこ理解が出来た。彼の耳介から頭蓋に広がるのは15世紀も前の航海の旅の物語。子どもの匂いがあまり強くない彼の身体を包むのは、光庭を挿んだ部屋の向かい側の廊下からサラシモノを眺めるがごとく無音のショウを楽しむ21世紀の旅の少年たちの視線である。彼らがここへやってきたのは当然のことながら呼ばれたからだ。呼ばれればスケジュールの許す限りどこへでも行って歌い、「聴いている人々、観ている人々を幸せにすること」さえできるのならば何にでもチャレンジする。少年たちは今、英語の詩編に耳を傾けるアオケン少年の姿を見つめ興じながら、自分たちの立ち位置と、光景の意味することの何であるかを見失いかけていた。
「ねえ、僕たちまだ、1枚も絵を見ていないよ。せっかくこういうところへ来たんだからさ、やっぱり絵を見にいかなきゃ!早く行こう!」
混乱と曖昧模糊とした三次元の足許に三半規管さえくらくらとしかけていた少年たちの前に、ヘッドホンを外しパティオの回廊をまわって来たらしいアオケン少年が現れて促した。
「どうせなら、ここで一番大きな絵を見ない?!」
彼らはもうここに数時間も滞在していたし、次に起こりうることは予測不可能の事態であることを思い知っていたので、先導の少年の言う「一番大きな絵」がキャンバスにアクリル絵の具や油彩で描かれた「2次元」のごくありふれた平面作品であるはずも無いことを一応わきまえて、黙ったまま歩いて行った。

2人はレストルームを出て右に直進し、歩いてすぐの3号光庭の脇に進み出た。この建物の中で一番大きな絵の前に彼らは立とうとしている。庭にはこちら側のガラス張りの壁に向けて、この歩廊と同じ長さの幅を持つばかりの大作が庭のこちら側に立てかけられている。幅15mを両側1mずつ欠くくらい。高さは5mの前後で、社教のこども映画教室に通っている松田リクは、この2.39:1の比率が21世紀の映画の画面アスペクト比であることにすぐ気がついた。目前に広がる巨大なリアルタイム・ムービーの画面上に動いているのは、陸上で進化し、高度な多細胞体制を持つ陸上の棲物たち。葉緑体がクロロフィル a/b をもつ2重膜。シアノバクテリアを細胞内に共生させた生物を共通祖先とする単系統群。…コケ植物、シダ植物、種子植物。つまり何十種類もあろうかという今まさに光合成を遂行中の植物群だった。とりわけ元気に繁茂して、南京玉簾のごとく枝を振っているのは萩たち。チョウチョが一匹、ビリジアン色に塗り籠められた現実の巨大絵画を渡っていった。
「ここにはあまり絵は無いけれど、僕はこの絵が一番好きかもしれない。」
舞台芸術について少しく知識はあるかもしれないが、圧倒的に通念や先入観に欠けた4年メゾは、サッカー少年がこれを「壁」とは思わず「絵画」だと言い切っていることに少しも疑問を持たなかった。2人は誰の指図も受けず至極当たり前にガラスの廊下を脇にまわり作品の厚さを確かめた。10センチかそれより僅かに厚みのあるパッドが植物たちに拠って立つ住処を与え、奔放でいて秩序ある抽象表現主義絵画の巨大キャンバスになっている。咲き遅れて終えたシャガの単葉が千々に垂れ、ジャクソン・ポロックのアクション・ペイントの様相。下を幾枚も重ねたシダは、盛り込まれたジャン・フォートリエの油彩。既に枯れ尾花のススキの突出は酒井抱一の巨大な屏風や襖絵を思わせる。日々刻々と変化する大判の絵画を眺めながら、ボールを抱えた白いPシャツの少年は静かに生き物のにおいのする息を吐いた。
「きみは何でここに来てサッカーをするの?」
松田リクは裏面に回りしな、ヤマブキのように見えるマラカイトグリーンの葉列へガラス越しに触れようとした。サッカーをするのではなく、サッカーの練習に…と彼は自身の心の中で言い直した。
「ここには1年生のときに、サッカーをしに来たの。真剣勝負!たくさんのお兄さんお姉さんたちに助けてもらった。」
「どこで?」
「だから、ココだって。」
「何をしに?」
「だから、サッカーをしに来たんだよ。今は他の展示に変わっちゃったけど、この絵の向こう側の広い部屋。無料。テレビ中継もされていて、審判も4人いる。でも、後ろから言われるんだよね。ファウル!とか。」
「それ、フットサルでしょ。」
「ちがうよ。サッカーだったの。クルーズに来ていた4年のお兄さんたちとやって、僕のチームが競り合って勝った。気持ちかったー!めっちゃ疲れたけど。」
「小さい頃から上手だったんだね。」
「ちがうよ。生まれて初めてサッカーをやったのはその時なの。学校じゃ、『たいれつぼーるけり』しかやったことなかったし。それで、面白い!と思ったのさ。それからサッカー大好きになって、チームにも入ったし、試合もして勝ったら最高のキブンだけど、僕のサッカーの聖地はココなの!だから、僕は今でもここにサッカーの練習をしに来る。」
彼はマイ・ボールをキラキラと頭上にかかげて目をしばたかせた。
「キミの方は何で、ここに来たの?」
「僕は歌って人を幸せにするために来たんだよ。」
「…歌ってもらってないけど、僕はキミと逢って幸せな気持ちだよ。」
「だって、先生や先輩たちから、そう言われてるんだよね。いっつも。」
「そうなんだ…?」
「キミらは歌の上手い小学生になるために歌ってるわけじゃない。有名人になるために歌ってるワケもない。そうして卒団して、声変わりして、大人になって、歌の上手かったオッサンになって、どこが素晴らしいんだ?…って。少年合唱は、聞いてくださる人たちに勇気と元気と幸せを差し上げる大切な仕事なんだ!たくさんの人にキミの心の宝物を差しあげるんだゾ…って。キミたちみたいな子どもでも、人に勇気と元気と幸せを届けることはできるだろう?!…って、先生から練習中に毎回言われるよ。」
4年メゾは目じりに悲哀の皺を浮かばせて笑った。
「…出来るのは全員じゃないみたいだけどね。一生懸命練習して、たくさんつらい目にあって、本番の前にお腹がキューって痛くなって、口や息が臭くなるほど緊張して、先輩たちや出来のいい後輩どもからいじめられたり…大変な大変なめにあって泣きながら練習してがんばってステージに立っている少年たちだけが、人を幸せにして上げられるんだってさ。」
「大変だね。…だから君はここで逃げまわってるんだ??」
サッカー少年は白いTシャツをめくって目尻を拭きながら大笑いする。植生を繋ぎとめるパッドにはとめどなく水流が補給されるらしく、緑の絵画の下には細長い雨どいのような水受けが伸びていた。
「キミは何で犯罪者になったの?子どもは逮捕されないんじゃないの?」
「逮捕されるんだよ。環境マネジメントシステムにいくつも違反したの。学校のサーベイランスの日に校舎の3階の窓から紙飛行機を飛ばしたら、それが風で道路に落ちて…」
行政罰は厳密には刑事罰ではないために、厳罰化の奔流の中で少年法の庇護の傘は無情にも差し掛けられないでいる。齢10歳、身長142cmの代表的な体格の小学4年の男の子。執行猶予は付いていても、完全な「犯罪者」。きたるべき処罰の対象となったまま小学校へ通い、罪びととしての日々を送っている少年たちもここには確実に存在する。もはやこれはパワーハラスメントに近い、と糾弾してやまない人々。「子どもたちを幸せにしない環境保護」と非は非で直言する正義の人もなかにはいる。だがおおかたの国民はJIS Q 14001マネジメントシステム文書をありがたい環境行政の味方とばかり昨年まで祭り上げていた張本人たちであるに違いなかった。
「それだけで?」
「…じゃないのさ。その紙飛行機の紙って、教室で裏紙の両面使用ボックスに入っていた紙なの。しかもそれが学校でグリーン調達された紙じゃなくて…。他には第二音楽室の窓を開けてピアノを弾いたし、図工の『 いい場所見つけてかこんでみたら』の時に給食室の裏のクワの木に最初、キラキラテープとかマジックで模様を描いたスズランテープとかで飾り付けしてたんだけど、何となくパワー足り無いかなーと思って、他のクラスから借りた大縄とかぐるぐる巻いて、面白いからブランコとかにしてたら、木が折れて、僕が落ちちゃって…その後、クワが枯れちゃったりして…。」
「いっぱいヤッちゃったね。」
「それ、全部、学校の教育マネジメントプログラムに書いてあったことだったわけ。『植生・樹木の保護』とか『用紙使用のゼロエミッション化』とか…。だから、サーベイランスで重大不適合を受けて…」
「逮捕?…でも、されなかったんでしょう?」
「逮捕されないはずなのは、執行猶予中なのね。仕方ないじゃん。でも、今日は追いかけられた。」
サッカー小僧はヤマゴボウらしき長いハート形の葉のもとに、毛を逆立てたまっくろくろすけの赤ちゃんのごとく花茎の先にくっついて揺れている花をみつけてニヤリとした。
「ねぇ!今日だけ代わってあげる!僕、走るの早いんだ。たぶん、学校の4年の中では一番!えへへ。僕も人を幸せにできるかもしれないでしょ。今度、誰かが来たら、途中まで一緒に逃げて!合図するから隠れるんだよ!その後は僕がワザと目立ってオトリになってひきつけてみるから!何か、わくわくしない?」
「僕、そんなことされてもちっとも幸せじゃないよ。」
「そんなことないよ。キミには関係ないもの。そうすりゃ僕が楽しいし、幸せになれるんだから、いいじゃない!」
「そんなのいやだよ。今日はいつまでも、いっしょに居ない?歌も歌ってあげるし、合唱団の話も好きなだけしてあげる。」
「僕はもう、きみのカッコいい声はいっぱい聴いたよ。だから、僕にもやらせてよ!ね?」
「僕、キミを辛いめにあわせるのはいやだな。」
「いやじゃないよ!今日、キミは僕たちを幸せにするために、嫌な気持ちになって、辛い思いをしに来たんじゃなかったの?」
彼らはまだ4年生で、この絵画自体に炭酸同化作用が働き、酸素と糖類を合成していることまでは看取していなかった。ガラス一枚隔てたカンバス上では、青野菜ばかりのキャラ弁のように様々な種の地を埋め尽くす植物たちが賑やかで喧しくお喋りを続けている。画面の右下には、ガラス張りの通路が絵の中へ真っ直ぐ貫通していた。設置の位置は黄金比によっているのかもしれないと、松田リクは感づいているのだろう。2人の話は静かに止み、少年は自身のボールを優しく抱きしめた。彼らは「メトロポリタン美術館」の歌の歌詞のように、巨大な絵の中を通り抜けて、いずこへと歩いていった。

団はもともと、当施設最大の絵画が伝統的な数千号のキャンバスや平面に乗っているとは思っていなかった。また、絵の題材が印象派展の息の根を止めた「グランドジャット島の日曜日の午後」やジョセフ・アルバースの油彩や「LHOOQ」や駒井哲郎の銅版画のように、人物や幾何模様やありふれた風景や静物では無いであろうことをあらかじめ承服してもいた。ただ、少年たちは緑の溢れる壁の横側からこの回廊に進み出た刹那、次の絵画が壁面いっぱいに拡張され、モチーフは廊下のあちこちに散りばめられた快適なロッキングチェアの座面・背面にすら溢れ、絵の中にメンテナンス用途らしいスチールドアさえ幾扉も切られていることに気付かなかった。図柄はある意味で具象な草花を表す記号。色面の区切りは明確。使われている色目は現代の私たちにとっても簡潔で暖かく、生活感すら抱かせる穏当なものだった。「最大の絵画」がマンハッタンの摩天楼のグランドフロア・ロビーに飾られているようなマーク・ロスコの巨大な抽象表現絵画のようなものだと思っていた彼らは、目前へ楽し気に広がる気さくな加賀友禅の撩乱に、何も言うことが出来なかった。少年たちはここへやって来る前に長期インスタレーションルームで《ヘペンチスタのペネイラ・エ・ソンニャドールにタコの作品のリミックスをお願いした》を最初から最後まで観て、親戚の半分がブラジル人のアオケン少年だけはポルトガル語とテレコテコのリズムに興じ、広く薄明になった映写スペースの半ばまで出て行って胸や太股の前・側を平手で叩きながら踊っていたし、他の子どもたちはミュージアムショップの卑近をうろついて、エキスパンドメタルの網になったクロワッサン形のパーティションから中を覗き興味を惹きそうな品物を物色して楽しんできた。彼らのコンパクトな腰から下には滴下できるほどかと思える旋光性の乳酸が浸出して少しく静かに穏やかになった。学校の25メートル・プールほどの平方を縦にしたくらいの大きさの花々の絵画の目前へと散りばめられたロッキングチェア。ぼかしのこらされていない蘇芳色や丹、福木の色、薄水色…に施されるぺったりとした友禅柄の上に彼らは尻を落とし、それぞれの方向を平行にして揺られていた。金ゴテ仕上げになったコンクリートの床がチェアのクロワッサン形の弧台を押し上げて、少年たちの35キログラムほどの座した重心を前後に断続的に振り分けていた。
 もりまユーリはたくさんの少年たちのスイングの動作の喧騒の中で、自分の名前が近しい人の口から呼ばわれたかのようにわくわくと反応して立ち上がった。
「あ!」
「…あ!」
窓外のパティオの彼岸。円筒の建物のてっぺんに見覚えのある図像を視認し、アオケン少年もまた叫喚した。
「イエス様だ…!」
子どもらは身をよじったり、目を見開いたり、腰を上げたり、硝子壁に鼻先をぺちょりと付けたりして、純白クリームのミニシフォンという形態の塔上を仰ぎ見た。一面の青空に涼やかな綿雲。ケーキの縁の乳脂がリムになって、その突端とも言える場所に脚立の段梯子が伸び、ブロンズの男がその壇上で一人両腕を天に広げ立っている。袖まくりのネルシャツの胸をはだけ丸首の下着がのぞいている。胸ポケットに収まる白っぽいメモパッドとペンクリップ。シングル・ストレートのパンツはおよそアメリカ人風情だ。それでもなおかつアオケン少年がこれを磔刑の像と見違えたのは、男が一尋に伸ばした両手の間に、何かスケール(洋ものさし)状のさおのようなものを高く大きく据え、天を振り仰いでいるからだった。下界を黒く映した広い顎、突き出た鼻…だがしかしかすかに見えるその閉じた瞼の丸みは今まさに「エリ・エリ・レマ・サバクタニ!」と祈りの中で唱えているかのようだ。

は入団半年後の予科生デビューの季節だ。いずこの「少年」合唱団でも、定期演奏会・ファミリーコンサート・バザー・スポーツ大会など様々な形で春季入団生のお披露目が行われる。
「じょうずに、楽しそうに歌っていたね。」
予科生デビューのステージをシモ手袖幕の間から覗っていたアオケン少年は次のミーティングのスタンバイで新入生の一人に声をかけた。デビューの子たちと言っても全体の列はきちんとカーブを描いて団員全員が指揮者の方に向いている。ウイング幕の中のたまりからはソプラノ側端の中学年入団の背丈の大きな予科生たちの背中ばかりで表情は見えない。当時、本科生アルトになったばかりのアオケン少年の目を射たのは、ねぶるように声を打ち、可憐な少女のようなブレスを繰り返す一人のメゾ系予科1年生の姿だった。
「僕、きみの歌うのを見たら元気が出たよ。本当だよ!きれいだったし、カッコよかった。ね、ね、一緒に歌いたいからさ、早く本科生になって、こっちに来なよ!」
下級生はやっぱりステージを下りてもキラキラとしてこちらを見つめている。
「うん!…じゃなくて、ハーイ!」
合唱団のお返事はただ一つ。定型句は「はい!」のみだ。彼のなりたいものはブレも雑念も無くハッキリしている。「歌の大好きな、少年合唱団の本科団員」になるのだ。
「ねえ、お母さーん。予科生お披露目会のDVD買ってよ。」
「いやだ。あなた、もう予科生じゃないでしょ?ほとんど予科生ばっかりのDVDなんだから、あなたあんまり映ってないのよ。」
「だって、好きな子が歌ってるの、映ってるはずなんだもん。」
「チッ君のパパがスマホで動画とってたんだから、チッ君に頼んだらいいじゃない?転送させてとか、ダウンロードさせてとか…」
「だって、チッ君パパの撮ったのって、チッ君っきゃ映ってないじゃん。そんなの要らないよー!」
「一緒に歌ってたんだから、端の方に映ってるよ、きっと。」
「映ってないよ。だって、その子、メゾの1年生なんだもん。」
アオケン少年はその団員の名前を実は未だ知らなかった。1年生らしくないしっかりとしたのびやかな肢体で、髪を伸ばしたら似合いそうなハッキリした顔立ちで、実際いい匂いのしそうな亜麻色の髪がベレーの襟足から零れはじめていた。予科生の殆どがずるずるべったりのいかにも「お兄さんたちのお下がり」という着こなししかできない合唱団のユニフォームをぴっちりスマートに身に着けて、気持ちよさそうに歌っている。自分も日々同一のいでたちで歌っているはずな上級生アルトは、信じられないことにその子の半ズボンの裾から同じ径を保って下りているきれいな2本の太ももに一度でいいから触れてみたいと全く邪念無く思った。そして彼はクリスマスコンサートの幕間に実際にそうしてみて(予科生にはケープの配当が無いのだ)、下級生の体が発酵したパン生地のように暖かく吸い付くように柔和でなめらかで白いことを知った。「こんなにきれいな男の子もいるんだ…」と驚愕しながらつぶやいたことを彼は今も覚えている。息はいつも必ず大蒜臭く、何かにおびえたりひるんだり萎縮したり憤悶したりすることを決してしない子だった。常におおらかで、予科のはらからを思ってニコニコとし、争えば負けてやって、組んでは勝ってやり、その一部始終を幸せそうに清らかな目で見ている。必要なときと歌っているとき以外はきわめて穏やかな子どもだった。
「DVDなんか買わなくっても、練習に行けば毎回会うんだから、いいじゃない?実物と会って話をしたり遊んだりすれば。」
母は未だ折れることをしない。
「だって、予科なんだから、部屋が違うでしょ?休憩時間に僕が予科のところへ入ったりしたら、恥ずかしいし、ヘンだよ。」
「あと半年もすれば、どうせ本科に来る子なんでしょ?上手な子だったら、落第するなんてこと無いわけだし…、そうすりゃ、もうイヤってほど毎週会って歌えるわけだから、いいと思うけどな。」
あまり頻繁ではない息子の所望に母は結局望みのものを買ってやるのかなと自己客観視して観念しはじめた。
「いつまでも、いつまでも、一緒に歌わない?きっと。…約束だよ。僕、キミといたら元気になれるし、最後まで歌えそうな気がとってもするんだ。」
アオケン少年は練習場のトイレの前の廊下で鉢合わせた1年メゾに、母の言っていたことと同じような文句をまくしたてた。
「いいだろう?」
「はい!」
1年メゾの返事は、秋の終わり、すでに明るく朗らかで頼もしい少年合唱団の団員規定通りの「お返事」になっていた。
「つらいことや苦しいことがあったら、全部僕に言うんだよ。絶対に、必ず助けるから。そうしたら、僕と一緒にいつまでも歌い続けられるだろう?」
今度、男の子は融解の笑顔でこちらを見つめ、上弦の潤んだ目はしっかりと肯首した。なんだか楽しそうで、愉快で仕方ないという風だった。
「松田くーん!松田リク君!…なーんだ、逃げ回ってるのかと思った。アオケン先輩とお話していたんですね?アオケン君、ありがとう。…リク君は、練習の続きをするから戻っていらっしゃい。来ないと逮捕しちゃいますよー!なんて…うふふ。」
予科生担当のボイトレの先生がドアの金具を握ったまま扉から上半身を付き出してニコニコと少年の名を呼び、声をかけた。「これが松田リク君っていう子だったんだ」…アオケン少年は、入団式の呼名で微かに聞いたはずの名前の記憶をたぐり寄せ、予科生の美しい絵姿にしっかりと繋ぎ止めた。

エスは、「形だけの聖典の条文を厳密に守ることは正しく無い」と考えた西暦30年頃のガリラヤの革命家である。大切なのは日々戒律や掟を守ることではなく、周囲の人を大切にすることだと言いきり、律法的に不可触だった脳血管障害の後遺症の人々やハンセン病患者、視覚障害者や発話障害の人の身体に自らすすんで触れてみせた。「休みの日は人のために作られたのであって、人が休みの日のために作られたわけではない」と述べ、それらの言行の当然の帰結として、戒律や掟を守ろうとする人々の思構に落ち、磔刑に処せられた。聖典には当時「休みの日には決して仕事をしてはならない」と厳しく定められていたからである。イエスは30歳代の半ばくらいまでしか生きなかったが、彼のごく簡潔で崇高な革命思想は2000年を経た現在もなお生き続けている。コパカバーナ海岸のホテル街のキレットから遠望に仰ぎ見るコルコバードのキリスト像さながらに、アオケン少年は白い円塔の上に立つ両腕を広げたブロンズ像を緘黙のまま眺めあげた。
「何をしてるんだろう?」
少年たちは男の両腕の間にかざされた定規を観てさえ、それを問うた。
「空を測ってるみたいだ…。」
私たちの認識する「空」は、宇宙空間が最も人間の生活に張り出した境目の場所である。
「自然への挑戦だね!宇宙…それは、最後のフロンティア…。」
トレッキーおたくの吉宗君がすぐにマゼカエした。
宇宙艦隊の探査船が計測し、調査すべき最後のフロンティアの大きさはどんなに小さく見積もっても半径470億光年を数回繰り返す広範囲に及び、この男の持つ長さ5フィートたらずの定規で測っていこうとすれば、彼の一生が無限に輪廻しても足りることはない。
「こんなことさせるなんて、一種のイジメってヤツだね。」
「…いや、あっぱれなチャレンジ精神である!褒めてツカワス!」
「一応、暇つぶしにはなるだろう?」
「囚人やマドギワじゃない限り、ずばり!こんなことしてつぶせるほどいっぱいヒマなんか無いんじゃネ?」
「♪空を飛ぶ鳥のように、自由に生きるー!今日の日はさようならぁー」
「ちげーよ!空を測ってんじゃなくて、バードウォッチング中なの!?」
「この鳥は羽を広げると、1m50cmありまーす!」
視線だけはスタチューを臨みながら、少年たちは戯れ言に口々そう言ってロッキングチェアに尻をつっこみなおした。膝小僧から下、爪先だけを使い、揺り椅子を起動させる。
「何かさぁ、松田リクがあそこのハシゴを登ってきて、あのオジサンの真似しそうな気がしてこない?」
「まさかね。」
「リク坊って、高所恐怖症だったりして…。」
「どうやって、あんな空の上まで行くんだよっ!って。」
「だから、空を飛んでいくんだよっ!って!!♪空を飛ぶ鳥のように、自由に生きるー!」
「写真で撮って、それ跨いで『はい!行った!』ってのは?!…くっだらねぇー。」
「スケッチじゃぁー!絵に描く…なんちゃって。」
アオケン少年は、先ほど第5ギャラリーからの戻りで用足しに行き、帰りにブロワで拭ききれなかった濡れた手を体側になすりつけながら覗いた一室のことを思い起こして跳ね起きた。
「あ!リク君のいる場所がホントにわかった!今度こそ絶対にいる!」
5年アルトは半分B型♂の血が流れる男子らしく、叫びながらもう走り出している。外見からはなかなか想像できない意外な彼の一面である。
「またかよー。」
「どうせガセでしょ?」
取り残された少年合唱団員たちは加賀友禅の絵と同化してしまうぐらい、体温の高い身体をクンニャリと椅子の背もたれに投げ出して言った。
「ねえ、これから何をして過ごす?」
「…ま、オレたちはここで雲でも測って過ごすさ。」

明けに滑り行くゆりかもめのような減速音がして、ドアエンジンがアオケン少年の背後で動作を伝え終え自動扉のプーリーが休止した。一瞬にして驚くべき静寂が室内へと充ちたのが判った。館内には子どもの声が間断なく発っており、2m30cmの高さに1mちょっとの幅ほどのほんの1枚のガラス戸の遮蔽によってそれらの全てが押しとどめられ、消え去ったのは実に予想外の出来事で驚きだった。
つや消し黒御影の床。かすかな水はけのこう配と、周囲の壁に添って巡らされた安山岩のベンチとその下端の側溝が、室内外というこの部屋の微妙な属性をそこはかとなく示していた。輝石の混じったジェットバーナー仕上げの背高な石の背もたれ。側板のようになったその上に伸びているのは、マット仕上げされた白い何の変哲も無いラスモルタルの壁である。室内にある物と言えば、それがほぼ全てであり、あとは8m超の高い天井中央に5m半四方もあろうかという巨大な青空の絵が1枚、張り付けられて下を向いていた。男の子はちらりとそれを見やり、部屋に誰もいないという気配を感じてフッと溜息をもらした。空の絵はそれ自体の発光によるものなのか尊く明るく、窓の無い巨大な空間独特の閉塞感がまるで無い。少年の声質の気性はボーイアルトだったが、天井を覆う伸びやかな青空に、ファルセットに傾けた澄んだ発声で、

 ♪雲が流れて 光がさして 見上げてみれば…

と歌ってみた。室内にはいつまでいても咎められずに済む免罪の空気の動きのようなものが流れていたし、だからこそ、彼は歌い出そうとしたのだった。壁と天井は意外にも自然な残響を返し、それは果たしてモルタルの白や天井の絵に塗られたプラネットブルー・スカイブルーの色彩によるものではないかと男の子は仮説をたてた。

 ♪ラー ラー ラー …

ヴォカリーズの部分になると、鼻歌程度のボーイアルトには出難い音高のフレーズにさしかかる。アオケン少年が厄介に思い、嗄声に任せて歌いきってしまおうとしかけたとき、左の背後から、訓練された佳麗で美しい少年の声が♪ラ、ラ、ラと寄り添うように聞こえて来た。

 ♪にじが、にじが 空にかかって
  きみの きみの 気分も晴れて

驚いて振り返ったアオケン少年を歓喜の視線でとらえ、煤竹色の石のベンチの端にちょこりと腰を下ろした4年生の男の子が続きをひきとって歌っている。初めて歌声を聞いたときと同じ、その目は何かにおびえたりひるんだり萎縮したり憤悶したりしてはいなかった。おおらかで、ついにニコニコと微笑み、見つめあう2人は幸せそうに清らかな穏やかな瞳に変わった。はじかれたようにその歌声へ添い返すアオケン少年の5年アルトの目は、座している子の絵姿を幸せそうに眺めながら「こんなにきれいな男の子もいるんだなぁ…」と改めて想到した。

方体の部屋なのだった。アオケン少年の空間把持の力がいかばかりのものかはなはだ疑問ではあるのだが、小学5年生の2学期の男の子にとって、部屋は少なくとも正六面体に見えるよう意匠を凝らされ、図面を引かれたかのように見えた。
「あのね。アオケン先輩…僕が♪ラララ、にじが、にじが…って歌うと、お客さんが泣くのは何でだろうね?」
「何でだろうね?先輩にも判らない。」
「悲しくて泣いてるわけじゃないよね?」
「悲しくて泣いてるわけじゃないよ。何で泣くんだろうね?」
「僕たちが歌わなくても、泣くのかな?」
「わからない。」
「嬉しくて泣くのかな?」
「わからないよ。でも、雨で遠足に行けなかった子は、きっと、きっと、気分が晴れたんだと思う。」
「虹が出たからね。…だからお客さまは、その子のことを思って泣くのかな?」
「きっと明日はいい天気なんだよ。これって、歌詞に書いてある通りのことを2人で言っているヨ!でも、みんなも、きっと嬉しいんだ。」
天井の青空の絵画の心部を白い和やかな雲が向こうからこちらへ上がるように登ってゆく。同じくして、寄り添うかのごとく褐色に白まだらの猛禽類が滑空して消えて行った。高彩度ビデオインスタレーションではない。絵の縁は確実に空の中に消えていたが、2人が見ていたのは現実の空の光だった。風が出て来たのだった。
「男の子が、『ここに隠れていろ!』って、僕をここに入れたの。ドアから1メートル50センチ離れたところに座っていたら、外からは決して見えないし、誰も居ない部屋だと思われるから…って。」
ステージ上を30センチ単位で動き、しばしばバミりの無いスタンバイ位置に板付きする少年合唱団員たちにとって、1メートル50センチは慣れ親しんだ距離感覚。
「隠れていたの?」
「…つかまると思って。」
「誰に?」
「おまわりさん?黒い服を着て、しょっちゅうケータイで話す男の人と女の人。」
「私服警官?何でつかまるの?」
「…知ってるでしょ?執行猶予なんだよ。」
「おまわりさんも、男の子も、もう近くにはいないよ。それに、黒い服を着て、きみをずっと追いかけていたのは、おまわりさんなんかじゃない。東京から来た取材のおじさんとおねえさん。リク君が逃げ回るから、とってもかわいそうだったよ。」
「何の取材?…ところで、シュザイって何?」
「合唱団の子を一人だけインタビューして、文を書いて写真を撮って雑誌に出すんだってさー。」
「アオケン先輩じゃなくて?」
「ピアノの得意な子で、来年からパートリーダーになりそうな子を記事にしたかったみたいだよ。」
だがインタビュアーの人選の基準は、基本的に少年の外目だ。「こんなにきれいな男の子もいるんだなぁ…」と思われるような子どもの写真が紙面を飾り光っていれば、目を通してくれる読者も増えるのかもしれない。
「じゃあ、僕、謝りに行ってくる!」
「もう、いないよ。電車の時間があるから帰ります…って、さっき先生のところで言ってたよ。」
松田リクは前を向いたまま、何も言わなかった。疲労は一時のプラトーに達していたし、少しく安堵もしたのだ。
「大変だったね。みんなが待ってる。」
5年アルトは下級生の腕をとり、母が少し嫌がる「靴の爪先で床をトントン」の癖を右脚で2回だけやった。
「あの子、今、セロハン紙の迷路にいるでしょ?ドリブルしてた?」
アオケン少年は反射的に天井を見上げた。西北西の角の辺りに、測地衛星の微かな南中が見える。数百枚にも及ぶ「光・レーザー反射鏡」を全身にまとった現代の伊能忠敬だ。
「セロハン紙って、ゼラチン紙のこと?」
上級生はそれがカラー・アクティヴィティ・ハウスの直截な形容表現と即断した。
「これから、ミュージアムショップに行くから、一緒においでよ。そこからなら、少し上にあがったところによく見える。」
松田リクはもう返事をかえさなかった。広げても蛤煎餅ほどの径しかない垢染みた汗ばんだ手を5年アルトの左手と腰回りにからめ、タレルの部屋の開扉センサーの照射域へと上級生の少年らしい硬い暖かい腰を押して行った。

き通ったコップ。白いクリームだけのシンプルなホールケーキ・ミュージアム。径8センチ高さ8センチのグラスタンブラーは、男の子があの日の記念に自分の小遣いで買い求めたものである。小学生の掌にあまる大きさと重さのコップではあったが、底面に館内構造を示すロゴマークがブラストされ、いつでも彼が喉を潤せるよう家の食卓に備え置かれている。
掌中に息づく夥しい数の邂逅と別れを思い破顔する。松田リクはコップの縁からはおよそ足りないところまで冷たいおいしそうな水を注ぎ、半ば口で息をしながら中を覗き込んだ。容器の底からは、瞬時、フロストになった小さな幾何模様がシルバーの空間へと瀟洒に浮かび上がり、円や矩形や真四角を分つ通路がメタリックに走り抜けた。今、彼はこの中で様々な世界と会い、耳を傾け、造り、踊り、獲得し、くちかけた腹をなでている。どれを考えても、未だ心躍る。少年の取材は結局キャンセルになり、他所の男の子だけの児童合唱団員にふれた記事がローカル電子版のタウン誌にひっそりと載った。父はクリムゾン色のタブレット・カバーをパツンと閉じて記事をスリープの雑誌架に返し、傍らでは息子が宝物になった大きなガラスコップを両手で包んで中を見つめていた。
「お父さん、僕、ここのプールの底で『マル・マル・モリ・モリ!』を踊ったんだよ!」
注がれた水の中で、光庭を表す四角が斜めにゆらゆらと煌めいている。
「ここがカプーアの部屋。こっちの端っこのタレルの部屋で、アオケン先輩と『にじ』を歌ったんだ。こんなとこで歌うなんて、何か、面白いと思わない?」
一番大きな正方形は国内最大規模と言われる天井高も床面積も巨大な市民ギャラリー。中央の円形の塔上には雲を測る男がいる。この丸い図形を中心に、左へ市民ギャラリーの大方形を持ってくると、マルの右側に描かれた正方形は、スイミングプールのある第1光庭ということになる。最後に彼は右上へ鉤形に開けた空間を陳じ、ミュージアムショップの場所を父に教えた。このコップを買い求めた場所。だが、タレルの部屋へ彼を導いた、駿足の優しいサッカー少年の話を息子はしなかった。彼の流汗をぬぐい、白い柔らかなトイレの中で彼をかばって立っていてくれた白いトレーニング・シャツの男の子。ドリブルをしに、人に触れず当たらず3原色の円弧の衝立の迷路の中を静かに疾駆する少年のことを彼は半ば忘れかけていた。コップの中にミュージアムショップの陰は存在したが、そこからガラス越しに見えていたシアン・マゼンダ・イエローのクレセント壁の屋外モニュメントの存在を示すスペースは建物の外としてここに描かれてはいない。コップを見つめている限り、サッカーをする少年の面影は、松田リクの大脳辺縁系海馬に走るニューロンの中から、場所の記憶とともに跡形も無く消え去ってしまっていたのだった。


引用:“A Kékszakállú herceg vára” Balázs Béla, 1910.
    ”Down by the salley gardens” William Butler Yeats, 1889.
   「にじ」新沢としひこ・中川ひろたか クレヨンハウス総合文化研究所, 1987年
 

Got My Mind Set on You

August 01 [Thu], 2013, 22:57
▲かくして長久の孤独な歌唱の帰結。僕はこの舞台へと辿り着き、僕の体験入団の日々は終わる。アルト側袖からのステージスポットは、こちら半分の皆のカメオを上弦の月のごとく明く照らし、人々は全席の背面に両手を置いて演奏の開始を待っている。

 団員たちは練習場で生まれて初めて「首ったけ」という形容動詞を知って口にした。
「君に首ったけ」
「恋人に首ったけ!」
「中井宗太郎に首ったけ?!ありえねぇ!ぎゃはは!」
「お楽しみ給食に首ったけ!逆タニタまっしぐら!」
「キハ52に首ったけ!マジ、鉄おたなんです、ゴメンなさい!」
「合唱団に首ったけ!特にもりまユーリに!」
発言を聞いた中山アンビのコメカミの血管はぷちんと音をたてて断裂し、彼は反射的にソプラノ側へ走っていった。握った拳をかざし、練習場の右端から隊列をすり抜け、大ウケしている1メゾの集団まで。5秒もたたぬうちに爆笑の中心にいた伊藤亮の頭蓋が「ごん」と鈍い音をたてた。真っ赤に上気する2人の少年の顔が互いのシャツの首根っこを引き合って、発せられるのはボーイソプラノならぬ意味不詳の奇声。彼らはしばらくそうしていたが、中山アンビが前置きなく体毛の目立ち始めた頑丈な右脚の膝で相手の下腹部を蹴り上げたところで指揮者の一喝が入った。

 木々の葉がきらきらと陽光にさざめく梅雨明けの水曜日、練習場に「ほぼ入団確定」と推される体験入団の5年生が1人やってきて、真新しい白い三角胛ゴムの上履きの足でパイプ椅子の蹴込みを踏んだ。練習中は騒音防止のために決して開けてはいけないと念押しされている重いガラス窓。団員たちは指揮者の指示でキリキリと左右にそれらを押し広げ、隊列の空いた間隙に汗ばんだ7月の明るい風を呼び込んで気持ちよさそうに咽を慣らした。

「先生。『新入り』君のが足りません。」
もりまユーリは、再勘することも無く、4枚ずつ袋とじになってホチキス止めされた10組程度のA3半裁楽譜を人差し指の向こう側へ振って指揮者にうったえた。
「足りないこと無いだろう?アルト、何人?!」
ボーイアルトは彼の記憶しているパートメンバーの員数を教師に告げた。
「今日、休みの子のも入ってんだぞ。余るはずだろう?」
アルト声部はこの少年合唱団の花形パートだ。西風が吹いたら飛んでいってしまいそうな優秀な2年生から決して優秀とは言えないがあちこち産毛の濃くなり始めた6年生まで、経験も声量も統御力もある5年生たちが病欠以外「皆勤」のコンディションでここに声を揃えている。
「キミの楽譜、無くていい?」
マクサンス・ペラン似の新5年アルトは『パートリーダー代理』の業務を早く終えてしまいたい。いとわしげな無表情のままこちらに結論を投げた。
「キミのを見せてくれたら、僕は要らないよ。」
「…そうよな。どうせ体験入団なんだし。要らないべナ。」
体験目的の子どもの残留率は、かなり低いらしい。男子小学生ばかりの児童合唱団は他にもいくつかあり、募集はいずこも混乱の2011年春でさえきちんと行われていた。「少年合唱団員」を志望してやってくる「歌の大好きな男の子」たちは、「僕たちといっしょに歌おうよ!」とラジオCMをうっているような大御所の合唱団へと早晩流れてしまうのだろう。
「キミってさ、どんなボーイアルトになりたいわけ?…ま、体験入団にそんなコト聞いても仕方無いってかんじ?」
「…うん。僕、入らないかもしれないし…。」

 先生が団員の視線を集め、「仕切り直し」の形相で合唱団を統べる。『パートリーダー代理』の5年生に約束通り楽譜を見せてもらう。「表紙」「標題紙」にあたる白味の多い紙は無く、三段譜がキレイに並んで冒頭をセットバックした最初のページの横に5年アルトの細く短いごつごつとしたカラメル色の指は絡んで、此方に印面を突き出したまま顔はあさっての方を向いていた。
「佐とう君。佐とうたくみ君!題名を読んで。」
「え”?…ゴッ マイ マイン、セロォンニュゥ?」
「続けて。」
「ワーズ アン ミュズィック バイ ルディ・クラァク?」
シリコンバレー帰りの6年生は言われてもいないのに引き続き楽譜のフッターまでをまくしたてた。
「コゥピ ゥライト、 ナインティ セヴティエイト, エイティセヴン バイ カァーブゥート ミュズィックインク…」
暴走の端緒に指揮者は彼のリーディング・レシテーションへとストップをかけた。
「わかった。わかった。次は、歌詞も読んで!」

 ♪アイ ゴッ マ マイン、セロォンニュゥ
  バリツゴナ テイクマニ、 ア ホール ロッタスペンディン マニ
  トゥ ドゥイ、 ライッ …チャィル

「訳して!」
英語の授業のようだ。
「キミにラブラブ?…メッチャ金つかってもやっちまうぜ、ベイビー…?…ですか?」
シリコンバレー帰りの6年生は言われてもいないのに大柄な意訳をかまして済ませた。公立の小学校でも英語を習う今、高学年の子達は黙ってそれを聞いている。合唱編曲される前のもと歌のさらに原曲が、1960年代の冴えないR&Bシンガーの手になる尻軽ラテン風味のナンバーであることに練習場の誰も想い至らなかった。


「佐藤先輩って、何年生のときに日本に戻ってきたの?」
「去年の夏。…何で?」
柳川(弟)は真っ黒い顔に苺ハイチュウ色の唇の端をピカピカ光らせて応じた。
「だって、もと団員だったって知らなかったから。」
「低学年のころは、あんまり歌が上手じゃなかったみたいだよ。」
「じゃあ、何で合唱団に戻って来たんだろう?」
「…知らねェ。歌が好きだからなんじゃないの?どんなボーイソプラノになろうって思って戻ってきたんだか。」
弟アルト団員は、投げやりな口調でそう言うと、隊列の後方に走って行き、重そうな三本足のマイクスタンドを引っ掴んで前方へ運ぶマネゴトをした。引きずるような重量感がよく出ている。
「コッれがまたヘビーでやんのよ。何でかね?…しかも、最初から舞台カミ手のエプロンに出しといてくれってんだヨ。」
今度はマイクホルダの直下を両手で絞るように握り、体重をかけて引き下げてマイクの高さを調整する仕草になった。ソロデビューは2年生の頃の『アイアイ』。おさるさんだねー。登用が早かったのは兄のナナヒカリである。声帯や容姿の形質を伝える遺伝子がほぼ同じなのだから、先生方はそれなりの信頼を弟にも与える。
「よいしょと。…それでは皆さん、次はアメリカ時代のジョージの曲で『セット・オン・ユー』を歌います。どうぞお聞きください!…と、一応こんな感じ??」
彼は深みのある落ち着いた声でナレーション練習第一声を発した。
「お兄ちゃんがまたこの曲でパーカッション担当になったから、自動的にオレがMCに昇格なんだよ。」
先生は譜面台の前でこちらの私語をちらちらと意識し、説諭直前という視線を送りはじめた。
「きみのMC、かっこいいじゃん。」
「兄ちゃんのMCは王子声でカッコいいって言われるし、コルグも叩けるし…オレは結局『太鼓の達人くんの弟』って扱いなわけよ。…多分、兄ちゃんが卒団してから後もネ。」
「でも、キミはソリストでもある。」
指揮者の叱責の視線を柳川(弟)も、ようやく感じはじめたようだった。
「兄ちゃんもソリストなんだよ。オレは声質はメゾなんだけど、兄ちゃんがアルトだからココにブッこまれてるの…。いつもアルトの楽譜を歌ってるから、急にソプラノのソロとかやらされても、ねぇ。オレは柳川(弟)じゃなくて、オレ様でいたいんだ!!」
「僕はキミの方がスキだけどな。」
「いや、あいつってけっこう合唱団では優しいんだぜ。アンビ先輩がアメリカに逃げちゃったとき、アオケン先輩といっしょに『戻って来い』って写真同封で手紙書いてたの、兄ちゃんなんだ。」
「キミだって優しいよ。入団しないかもしれない体験入団の僕と話してくれてる。…それに、ステージではいつもユーリ君のこと、守ってきたじゃん。」
「守ったんじゃないよ。ユーリは同期なの。ただそれだけっすよ。」
ついに先生の怒声が一点集中で飛んで来た。
「おい!柳川(弟)!いつまでくっちゃべってんだ!お客さんから『あのバンビみたいな子、カッワいいー!』って言われてるんだろう?…お客さんを泣かすな!」
バンビみたいな5年生はモロに煎じたセンブリ飲用の表情で宙を睨みつけた。合唱団の先生は、好みから弱点まで団員たちひとりひとりのことを本当に良く知っている。
「もう2度とオレに『可愛い』って言うな!ぶっ殺す!」
ただ、つぶやき程度に低く毒づいた5年アルトの声だけは聞こえていなかったらしい。先生はニヤリとして譜面台に落とした赤ボールペンを拾い上げ、何かをちょろりと書き付けて指導に戻った。

 大太鼓は、色黒美声のボーイアルトの担当の下、3世代も変遷していた。
夏休み明け、4年生の半ズボンの腰にバスドラムのマレットが突っ込まれ、白いフェルトのヘッドだけがベルト穴の上にずんぐりと顔を出していたあの頃、ステージ上に楽器を持ち上げるのはまだスタッフか先生方の仕事だった。学校の音楽室に置いてあるような重厚な大太鼓では、営業の度に運搬の費用がかかって仕方が無い。合唱団の備品費で購入したのは10歳の小学生でも何とか動かせるマーチングバンド用の軽量の大太鼓だったが、30分レギュラーのステージ中のわずか1−2曲のために、柳川(兄)がズボンの尻を突き出してドラムスタンドのパイプ脚を握り、キャスターを引きながら舞台カミ手へと据え付けるという手間や時間は誰もが省いてやりたいと思っていた。
 担当者が5年生の秋になると、小山のようなバスドラムは合唱団の練習場の大鏡の裏にある用具入れの隅にカバーをかけて押し込まれ、代わりにKORGのウェーブドラムがステージの中太鼓用スタンドの上に乗っかって姿を現した。5年アルトの腰部には嵩張るフエルトのヘッドに代わり、巨大な「マイ箸」のようなスネアドラムのスティックが突っ込まれた。楽器はまだ5万円を切るか切らないかの高価なシンセ打楽器で、大きなミネラルウォーターのペットボトル程の重量があり、しかも舞台上の少年合唱団員というのは揃いも揃ってスタンバイの足さばきにイージーさがあるために、電源コードをしょっちゅう蹴り抜かれてしまう。彼は半年くらいプロ用の電子打楽器をずっしりとしたキャリーケースに入れて営業の度に持ち運んでいたが、この春、小型軽量の電池式のバージョンが1万円ちょっとの価格で売られはじめたという情報を仕入れた保護者会がWAVEDRUM mini を寄贈してくれてから、新6年になった王子声のアルトは入場の際、小脇に抱えた楽器を足元に転がしておき、必要なタイミングで電源を入れて音色指定すればそれで良くなった。あとは用意されていたミーティングチェアや、それがなければ山台の上に直接腰を降ろし、ストラップのバックルを太股のうらでカチリと止めて楽器のパッドに強く掌指を打ち付ければドラムセットと同じ音が得られる。彼は指導された通り、「セット・オン・ユー」ではダンスドラムのキットやダンスジャムのキットを暗記したサウンド番号で呼び出して使っていた。あとは楽器にかまされた車載用の小さなトランスミッターがミニプラグから電源の配給を受ける代わり、山台の陰に仕込まれたレシーバーへと音を飛ばす。少年の汗ばんだふとももが楽器の間にしっかりとした摩擦を作り、1キログラムほどの楽器が脱落したりズレたり回ってしまったりするのを抑えていた。
「おまえの弟がMCを終わってクルッと向いたら、すぐにバスドラを鳴らせ。すぐにナ。」
「はい。」
「タイミングを逃がすと間延びしてみっともないぞ。」
「はい。…弟はオレのドラム・イントロが鳴ってる間に歩いて戻るんですか?」
当の弟は脇で二人の話を聞きながら、鼻腔を膨らませている。
「そうです。歌が始まるまでキミのリズム感なら6−7秒かせげるでしょう?こいつは十分戻れると思うが?何かマズいことでもあるか?」
「いえ、ありません。ただ、何かカッコいいなと思って。」
指揮者は親指と小指に渡していた赤いペンを譜面台にことりと置いた。
「そんなコトより、自分だろう?ドラム・フィーチャーしてる曲が終わったら必ずキミに拍手を振ってるんだから、オ辞儀をしなさいよ。いいかげん、もう、覚えてくれ。お客さんは喜んでくれてるんだから。キミはいったい、どんなボーイアルトになりたいんだ?言ってみろ。」
「…できるだけたくさんの人を幸せな気持ちにするボーイアルトです。」
「じゃあ、指示待ちじゃなくて、お客様のために頭を下げるぐらいできるだろう?」
「何か、ドラムが終わるとホッとして忘れちゃうんですよ。」
新しくなった電子楽器は弱く叩いてもボリューム調整でそこそこに大きな音は出るが、バーモントカレーの箱ぐらいの広さのパッドを平手で力任せに叩かなければダイナミックでシャープな音は出ない。演奏が終わってすぐに彼が意識するのは左の掌全体を覆う痺れと疼痛だった。
「そんなこたぁ、わかってる。あの超特急のオ辞儀も何とかしなさい。せっかくお客さんから『王子の声』って呼ばれてるのに…。弟まで同じ『超特急』だ。いつまでも出来なきゃOBに特訓してもらわないといけない!」
僕は柳川兄弟の挨拶の仕草は好きだ。先生がOBに何も頼まないでくれるといい。
「歌が終わりました。お客さんが拍手をしてくれてます。…さあ。柳川(兄)君、先生が左腕を上げてキミに拍手を振ってます…その前に楽器のベルトを外して、ドラムを両手で持ち上げて、…ちんちんの前あたりで持って、はい、あ・い・さ・つぅ…」
6年アルトはやっぱり背筋を超特急の速さで手折って頭を下げた。

 もりま君の見せてくれた楽譜はきちんとした同声三部の合唱スコアだった。伴奏の方がむしろ簡潔に見える。柳川先輩の叩くパーカッションは線分図の上下に◆形の音符を仔細に散りばめて3段譜の下へ手書きで指示されていた。
「柳川君はめっさやさしい人なんだよ。やさしいっていうか、どんな子にもふつうにして、差別しない。でも、自分よか先輩には、ちゃんと敬語で話すし、逆らわない。それに…」
「王子さまの声だから、上級生からも可愛がってもらってたんだよね?」
21世紀の今、少年合唱団員のステータスは実力本位でもあるらしい。
「おい!もりまユーリ!アルトはマネージャーさんのところで音取りだって言ってるだろう。誰が新入り君を連れてってあげなきゃいけない?」
先生の叱責はどうも僕の周辺にいる団員に向くらしい。腰の前にごそごそと集まってきたソプラノのメンバーたちが楽譜をぱたぱたさせながら一斉にこちらへ振り向いた。
「パートリーダー代理が連れて行くんです。」
「今年のお前じゃないか!インター・ボーイアルト・ジャパンのリーダー代理様じゃないのか?そんなとこでくっ喋べってるから先生の指示が聞こえないんだろう!?」
「先生…違います。」
「どこが違う?聞こえてるっていうのか?!」
「…そうじゃなくて!」
「そうじゃマスカット?…好きです♡v
「先生!『新入り君』じゃなくて、体験入団くんです!」
「すみません…僕、正式入団しないかもしれないんです…。」

 ボーカル譜の最初の1段目からシンコペーション主導の進行。
「マネージャーさん。これって、いわゆる『サビ』なんでしょうかね?」
音取りの最初の1分が終わるか終わらないうちにウメちゃんが尋ねた。アップライトの鍵盤側へとつめかけた男の子たちの体側は間違いなく全員がボーイアルトらしいアーシーで骨太な匂いを放っている。
「ウメ君。サビは普通、曲の最後に出てくるもんでしょう?」
そこそこに楽譜の読めるメンバーたちはページを繰ってモチーフの流れを俯瞰している。
「ホントだ。サビばっかし。」「最初から最後までサビ!」「ビーデのあともセーニョの中もサビばっか!」「♪へぇーい!おいらはムッササビー!」「サビ抜き、かっぱ一丁!いいトロも入ってますぜ、旦那ぁ!」「大将ぉ!あがり熱いの頼むわ。」「身から出たサビってねぇ…団員人生甘くみちゃイカン!お若い者。」「ギャハハ!」「サビ…まじヤバっ!」
アルトの皆が戯言に大騒ぎしている間、冒頭フレーズを唱えながら『サビ』の個数を勘定した。唐突にサビで始まり、突然サビに終わる構成だが、皆の言う事はやや大げさに過ぎる。タイトルになっている「♪I got my mind set on you」は2回の繰り返しでワンセット。それが曲中4箇所に出現し、計8回のリフレインと再現。それで全部だった。団員が「Bメロ」と呼ぶフレーズが8個の「サビ」のフレームに差し込まれて鳴るという構造上の印象を受ける。
「♪アイ ゴッ マ マイン…」
マネージャーさんがソプラノの部分を歌ってくれてリードする。
「♪セーロォーンニュゥ」
アルトの皆が、ラ・ラ・ラと応ずる。
「♪アイ ゴッ マ マイン…」
再びマネージャーさんがソプラノの部分をひっぱる。
「♪セーロォーンニュゥ」
アルトの皆の2回目は、シ・ラ・ラ。
「♪アイ ゴッ マ マイン…」
マネージャーさんの声。
「♪セーロォーンニュゥ」
アルト・メンバーの声。
「♪アイ ゴッ マ マイン…」
最後のセット。
「♪セーロォーンニュゥ」
ここはド・シ・ラで結んで休符無しに次のフレーズ。シンコペーションで出来た曲なのである。アルトの担当は、この「♪Set on you」のリズムと音価を最後まで保つだけ。ブラス伴奏のフィルインの部分につけられた短いボカリーズを他のパートとともにぱたぱたと片付けるが、それ以外には目立った動きも見せ場も無い地味な仕事らしかった。
 パート別の音取りが終わると隊列復旧のコマンドが出て、練習時間に余裕が無ければ「急いで集合し、全体を揃えろ!」と、パートリーダーによる緊急招集警報の発報がある。今、誰からも何も言われないということは、他のグループを担当する先生方に「問題発生」ということか、音取りが先生方の予想よりも早く終わりそうだということらしい。ウメちゃん先輩は習ったばかりのアルトのメロディーをマネージャーさんがフタを閉めて放置したアップライトで勝手におさらいし始めた。
「合唱団でピアノをよく弾けるのは、今のところオレと、メゾの松田リクの2人だけなんだ。」
「イタズラ大好き少年」の風貌の上級生は、トムソン椅子に浅く腰かけてこちらを見あげ、四角い顎を膨らませてニヤリとした。周囲では整列待ちの団員がくんずほぐれつでドッタンばったんと格闘中。男の子ばかりの教室はやりたい放題、暴れたい放題。
「何か、ピアノのことで困った事があったらオレに何でも言っとくれ。松田リクと違って、オレはたいていのピアノ伴奏がココに入ってるから、他のパートの音も何となくわかるんだ。」
上級生は通団服の青虫色の胸をぽんぽんと掌底で叩く。頭を指差さなかった。
「たいてい、キミの斜め後ろに立ってる。ピッチが危なくなりそうになったら、オレの声を聞いて歌ってごらん。」
発声練習の段階から既にハスキー&コケティッシュな声質で歌う。アゴのカタチが甘くカフェモカ色の音色をもたらす。チェシャ猫のような表情。年に1度だけ知らないお客様からファンレターと花束が届くという。ネットやソーシャルにもファンの書き込みが載るらしい。一緒に歌っていても楽しい。泰然自若な印象は受けても、低学年の頃から何年も何年も合唱団のアルトを受け持って来たひと。合唱団のユニフォームがキッチリと身頃にフィットしてキマる。おそろしいほど頭のカタチや大きさに合った阿弥陀冠りのベレー。首元に咲く花のような蝶タイ。ぴっちり折り目の入ったワイシャツの腕がジャストサイズの半ズボンのスソへ浄げに垂れて、キャメル色のアクリル絵の具で塗りつぶしたようなカタチの良いふとももが、清潔そのものという感じの紺ハイソックスの上でぱつぱつと揺れていた。
「何でソプラノじゃないんだ?」
両手の指をカッと立てて、F>C7>Fのコードをピアニッシモで押さえた。ステージの上のいじめっ子でナマイキそうなこの子の印象は、ここにはまるで無い。こちらを見てニヤッと楽しそうな顔をする。
「…知りません。」
僕は答えた。
「体験入団の子って、たいていソプラノなんだ。…オレが4年くらいの頃に、学校の合唱クラブとかでアルトを歌ってるって子が来て少しだけ低声で歌っていったよ。結局、入団しなかったけど。」
F>C7>Fのコードを押さえて今度は小さな声で「♪Set on you」と口ずさんでいる。
「F>C7>F>Dm>A7>Dmのコード進行が、この曲のキモだろうね?」
「合唱クラブじゃないけど、ずっと歌を習ってるのです。」
「独唱ってこと?へぇー。」
ウメちゃん先輩は「セット・オン・ユー」のアルトパートはどうでもよくなったのか、両側が踏まれてネズミ色になった上履きの足先でピアノのマフラーペダルをガシンと横に蹴り、おどろおどろしい感じの古めかしい曲を小さい音で弾き始めた。
「一人で歌ってて面白いの?」
「つまらなくなったから合唱団に来たんです。」
「なるへそ…」
「へそ、じゃないです。」
突如!突然!…はめを外し暴れ回っている子どもの声の中から、ひときわ怒気に満ちた大人の声がアップライトピアノの両のヒンジへ突き刺さった。
「こらぁ!ウメ!何度言ったらわかるんだぁ!ピアノでこちょこちょ何をしてる?!!!」
大騒ぎしていた男子小学生たちは、急な落雷に口を開けたまま黙してこっそりとその場を緊急退避しようとした。
「…ヘンリー・パーセルの『我が身、地の底に横たえられしとき』をピアノで弾いてます。」
仮面歌劇『ディドとエネアス』第三幕の終焉のアリアは17世紀の終わり頃に作られたものらしい。『ディド』も『エネアス』もドリンクやホッカホカの灯油会社の名前と綴りが少しだけ違っていた。
「先生のピアノを勝手に使うな!今年になって何回調律してもらってると思ってんだ?!平気で合唱団のものを私物化するようなコンジョーだから松竹梅トリオの中でお前だけが相も変わらず万年アルトのままなんだよ!」
6年生は半分苦笑いをしながら左下を睥睨している。
「わかったか!
「はい。」
「さっさと部屋に戻れ!」
「はい。」
わかってもわからなくても、少年合唱団では「はい。」とだけ返事をするのだった。


 ♪...can do it
   ...can do it

曲中に3箇所のトリプレットが施されている。2つはplenty ofとpatience andに付けられた歌詞の読みに合う三連符。残りの一カ所は前の小節からタイで送り込まれ、スラーのかかった連桁の後の音がタイで二分音符を引き連れている。先生は歌い損じたメゾソプラノの奥田ユーセー君とタケちゃん先輩に注意を与えた。松竹梅トリオのタケちゃんというのはこの人で、途中入団以来ずっと食事と更衣の時間がかかり、マッちゃん先輩は完全に他声部に吊られて歌ってしまうような人であるために多分卒団までソプラノのままだ。要は松竹梅トリオで最も優秀なウメちゃん先輩がハードルの高いアルトの屋台骨を支えている。
「だから!ココはクラッシックならロングトーンのところをファンキーに引っ張ってる…ってことを表してるんですよ!だから、主センリツを歌うソプラノだけこういう音符になっているの!奥田ユーセー君、お判りですか?!キミらメゾソプラノがお隣さんに釣られてどうする?ユー・アンダスタンド?」
「アイ・アンダスタンド…」
ユーセー君の返事の声は低学年の頃のMCの声とあまり変わらない。憂いがあって、秀才くんの聡明さと真面目さを感じさせて、でもほんのりスイートで甘えん坊チックでステキだ。合唱のメゾソプラノはジェフ・リンの担当していたエレキベースのパターンをアルト声部と一緒にハモって支える。
「…奥田ユーセー先輩って、最初はアルトにいたんだゼィ。」
ユーリ君と僕はアルトの旋律をすぐに覚えてしまった。6年メゾに先生の説諭の矛先が向いている間、寄りかかりあって暇つぶしに話をしている。
「…知ってるよ。すっごく本番中も厳しい先輩だったみたいに見えた。キミも小さい頃、ステージの上で小声でしょっちゅう叱られてたでしょ?」
「げッ!何で客席からそんなことまで見てんだよ…」
ユーリ君は表情を崩さぬまま毒づく。
「今はあんまり厳しい先輩に見えないし。本当に寂しそうな目をして戦いながら歌っているって感じ。ユー・アンダスタンド?」
「判ってるけど…アイ・アンダスタンド。…強制的にメゾにいかされたからじゃネ?先生に頭下げられて、リーダーの居なくなったソプラノにメタゴン先輩がメゾから横滑りで行って、その空いたとこにアルトの奥田ユーセー先輩と丸刈りのオードリー君がアトガマとして引っこ抜かれて行ったってハナシだよ。ユーセー先輩の方はやっぱし先生から頭下げられて、でも丸刈りオードリー君の方は気がついたら或る日なんとなくメゾにされてたっていうウワサ。…オレなんか完ぺきにアウェーだったけどね。」
「良かっタニ!」
「良くないでしょ?!」
「だって、少年合唱って、やっぱりアルトの方がかっこいいでしょう?良かったじゃん。」
「よその合唱団ではネ。オレたちの合唱団ではデキの悪いのがアルトに飛ばされんだよ。」
遊園地のコンサートの後に物販のテーブルが出て、定演ライブのDVD版やカスタムのCDを何枚か取り混ぜて売っている。興味を持ってくださったお客さんが買ってセロファンを剥がし差し出すと、ステージユニフォームの膝小僧を折畳みテーブルの下に突き出した6年生が黒マッキーを器用に繰って合唱団の名前入りでサインをしてくれるのだった。僕の持っているCDには奥田ユーセー先輩のサインが入っている。容姿端麗、かつ、メゾの暫定パートリーダーであるから…らしい。吹き込まれている曲を聴くと、全体の合唱を実質的に引っぱっているのはメタゴン先輩の声だった。
「ユーセー先輩って今はメゾ6年チームの一番頼りがいある団員になってる。けど、ときどきしか、下級生に厳しいことを言ったりはしないんだよねー。」
先生のご指導はじき終わろうとしている。3年ソプラノたちがごそごそとじゃれあいはじめているためにそれと知られる。
「…それって、オレたちアルトがメゾに比べて激ヤバにヒドかったってコトじゃネ?アッちゃっチャー、マジかよ!何だ、このオチは…」
5年アルトは自分で自分に突っ込みをいれた。
「…ユーセー先輩が一番怖いのは、オレら下級生アルトが本番中にイイカゲンやったときだけなの。先輩の夢はこの合唱団のアルトがまじめ一筋に真剣・本気で歌う世界一のアルトになることだったんだけどさ。先輩はそれをホコリにしてたんだよ。お客様はオレたちが真剣に歌う姿を見るために高い入場料を払っているんだから当然だって、いつも言ってたよ。」
「何で、今は言わないのかな?」
「だから、メゾの連中はマトモなんじゃないの?…代わりに先輩自身が世界一まじめで真剣で本気に歌うメゾソプラノになった。そうじゃない出演の演奏は1回も無い。あの人は、今も昔も練習でフザケたり、規則を破ったり、病気で休んだりしたことは1度もない。少なくとも出演には全出席。たとえば学校公開とかが出演と重なってりゃ、学校の方を休んじゃったりするわけだ。OBからステージの服装でチェックを入れられたこともオレが覚えてる限り一度も無いネ。ピシッ!バチッ!スラッ!キリリ!…髪の毛に七三で櫛入れてベレーかぶってたの、何度も見ちゃったし…。オレたちといっしょに、そんな立派なアルトになりたかったんだろうけど、結局実現しなくて自分だけがそれを実践し続けているってカンジじゃねぇの?」
「だから、この前のチャリティーコンサートのとき、嬉しそうだったよネー?」
睨みつけられているのかも知れないが、先生の怒声はこちらには一切聞こえて来なかった。
「あの時は、出られる団員が15人っていうキマリがあって、二部合唱で選抜されてたから、先輩は当然アルトだったわけよ。」
「でも、キミも15人の一人に選ばれて出てたじゃん。ねえ、そろそろおしゃべり止めない?」
「いいの。いいの。…まあ、オレはこう見えても一応5年選手だからネ。優先的に選抜されんだよ。」
「アルト、6人ぐらいで頑張ってたよね。カッコ良かったぁー。」
「あのときって、オレの右が柳川(弟)で、左が奥田ユーセー先輩とウメちゃん先輩で、4人が何か正比例のグラフみたく背の高さが並んでて、お母さんたちに大受けだったばい!」
突然、首筋にきつい引き連れを感じて身体が椅子から浮きあがり、自動的に突き出た臀部に平たく硬いものの打ち当たる痺れんばかりの感触が走った。バスッ!バスッ!!
「痛ってぇー。」「あ痛ちちち…」
思わず叫んだ自分の息が届く範囲の目前に、コワい顔をした先生の大きな上半身があった。
「先生ぃ!何もこっちの体験入団の子のお尻まで叩くこたぁ無いじゃないですか?体罰で学校名公表しますよ!」
「してくれて結構!ここは学校じゃないし。体験だろうが正団員だろうが、練習中に好き勝手くっちゃべっててオーケーのケジメの無い合唱団だって名前公表されるくらいなら、そっちの方がずっといいってもんだ!…しかも『体験入団』ってことは、たぶん入団しないかもしれないんだろう?」


 ステージメンバーの全団員がレパートリーをきちんと暗譜して歌いこなせるようになってしまう少し前、夏休みの合宿のプリントが配られ、学校のプールの授業が水温不達で屋内体育の授業と国語の授業に1時間ずつ振り分けられてしまわなくなった頃、「セット・オン・ユー」のステージにはいきなりアクロバットのような突飛な演出が付与されることになった。
「K君、緊急時にはキミを支える役をする2人なんだぞ。体格がしっかりしていて、機転が効いて、キミのイノチを預けても構わないような子をどうか選んでくれ。」
大げさだが、K君先輩の選んだ2人の補助者を指揮者先生が見て可否を最終判断する。先輩は2番と3番の間のインターミッションにあたるセーニョ2の前で、派手に「バク転」をすることに決まった。
「先生。だから、中井宗太郎君と前江トーヤ君でお願いします。」
「4年生と5年生だぞ?いいのか?キミの体重を支えられるか?」
「先生、でんじろう先生のダイラタント流体の実験っていうの知らないんですか?この4年も5年もカタクリコを水に溶いたみたいなべちゃべちゃなヤツらですが、急激に力がかかるとカッチカチの体に変わるんです。これは、レイノルズの粉体媒質の原理の応用というべきものなんですね。…私たちの肉体というものは、過食やダイエットなどのせいでゆっくりと体積変化をしていくことはありますが、急激な体積変化を強いると大きな内圧がかかって瞬間的に固化してしまうというわけなのです。当然、これは粒子クラスタと『ズリ』粘化の因果的な関係とともにデータ的なシミュレーションによって…」
「わかった!わかった!じゃあ、メモするからもう一度ご指名を頼む。」
指揮者先生は赤サインペンのキャップをパチリと折るように抜いて薬指の腹に挟み、指名を待った。かつて合唱団員にも顕著だった『子どもの理科離れ』も隔世の感が在る。
「中井君…と前江君…で、お願いします。2人ともいざというときにいつも力になってくれている頼もしい下級生たちですよ。信用してください!…でも何で曲の途中、オレがトートツにバク転なんか?!?」
楽譜の下欄に赤ペンで2人の団員名を書き付けていた先生は億劫そうに返事を返そうとし、振り向いたメゾ左翼の最前列でニヤニヤとこちらに目配せをしている少年の気配に気がついた。
「一家揃ってビートルマニア。名前も育ちもファブ4な、この譲二様に全てお任せください!わたくしが後ほど、無知蒙昧なこの者によーく説明しておいてやりますから。つきましては、iTunesラジオのビートルズ・チャンネル・ドットコムを目覚まし代わりに、一家揃ってShe loves youを歌わずには夕食すら始まらない…というワタクシめでして…。この曲に将来、ソロが入ることがありましたら、ぜひ、その大役をお引き受けしたいのですが…。」
「譲二君、悪いが「セット・オン・ユー」にソロ・パートを作る予定は今後も無いよ。」
「いや、そういうことでもあれば…という仮定のハナシでして。」
妹の名前はカタカナ書きでヨーコというらしい。どうしても漢字で書きたい場合は「洋子」だそうだ。吉本隆明の娘ばりに「リンゴ」などというドキュン・ネームがつかなくて良かったと他人事ながら安堵する。
「じゃあ、次、エア・ギターを弾きまくる役の五十嵐君と、ゴーゴーダンスを踊るメタゴン君。キミたちは危険業務従事者ではないから、一人ずつご指名を頼む。」
「五十嵐です。えーと…、それじゃぁ3番テーブル、譲二君をご指名します。」
「良かったな。譲二君!フルーツやポッキーも付けてもらいたまえ。…じゃあ、最後にゴーゴーダンスのメタゴン君?」
ガッツポーズをとっているビートルマニアのメゾソプラノの向こうで、隊列の奥から歩み出て来た6年生が団員全体を鳥瞰し、一瞬だけ衡量のために肩を下ろした。
「うーん。じゃあ、体験入団くん!」
団員たちは少しだけざわついた。
「なんだヨ!?…先生、体験入団の子はマズいですか?何も無いんだったら、僕のペアには体験入団君をお願いします。体験が終わったらどうせキミは『必ず入団』するんだよね?」
返事もせず、無言のまま、僕は重合モノマーのように隊列中央付近へと吸い寄せられて行って頭を下げた。マネージャーさんが、メタゴン君にがっちり握手をしてもらっている部外者丸出しの僕の姿を丁寧な手さばき(?)で、デジカメに納めた。


 ♪あばれはっちゃく鼻づまりー!おいらは、鼻の落ちこぼれ!

トイレ休憩の最中、窓際のAVラックの隣でソプラノの4年生がヘンな歌詞の『タンゴむりすんな』を執拗に歌っている。
「なんか、ようつべで鏡音レンが歌ってる動画が流れてんだってさー。」
メタゴン先輩は将来入団するかどうかも判らない僕を引き連れて、皆の休憩時間中も念入りにゴーゴーダンスの「振り」をさらっていた。タイミングはぴったり10秒間。本番の舞台では僕らの前で2人の補助者をつけたK君が派手に1回バク転を演じ、シモ手側では五十嵐君たちがエア・ギターをかきならすことになっている。

 ♪あばれはっちゃく鼻づまりー!

メタゴン先輩は無条件に制止してしかるべき統帥権を持っているはずだが、こちらの練習の方を優先させていた。
「じゃ、もう一度…。」
「はい。」
「ピストル売ってバンバンバン!…両足、揃えろってば!」
「ごめんなさい。」
「次、クルリと後ろ向いて…キミ、ヘンだよ!左から回れって言ってんじゃん!」
「また間違っちゃいました。」
「両手を広げて『おお!神よ!』のポーズで右脚高く上げてー! …両腕をぐるんって上から広げたまま振り下ろさないから足が上がんないんだってば!」
「すみません。」
技術的な難易度としてはバク転に遠く及ばないゴーゴーダンスだが、エア・ギターの有って無き程の振り付けのことを考えれば、これが最も大変なパフォーマンスであると言える。
「体験入団でもイイカゲンは許さないからな。」
「はい。」
「怖いか?ホンバン怖いか?」
「いいえ。…いや。わかんないです。初めてだから。それに、入団なんかしないかもしれません。」
「そうか。じゃ、今日だけでもがんばっていこう!最後、左からくるっとその場で一周回って、左耳の上で指パッチン!」
「はい。」
「コレは出来るじゃない?…難しいはずなのに。」
「メタゴン先輩…難しいのに、なんで門脇大地くんとかじゃなくて体験入団の僕をダンスに選んだんですか?」
「…門脇君?キミは合唱団のこと、よく知ってるね。何で詳しいの?さっきは初めてだって言ってたくせに。」
「あばれはっちゃく」のテーマはまだ練習場内に幾度も響いていた。これが終わったら、他の団員と同じようにお水を好きなだけ飲もう。
「つっ君からのプレゼントなんです。」
「え?つっ君はずいぶん前に亡くなったよ。」
「だから、お礼にもらったんです。客席にいた小さい頃の僕に頭を下げてつっ君が『あと一人足りないから、後生だから一緒に来て』って言って…。」
「つっ君が生きてた頃、客上げのときに出てくれたんだね?ホントの『後生のため』になっちゃったんだ…」
「僕はそのとき、もう歌を習っていたし、だからこの合唱団のコンサートを聴きに来たんだけど、お客さんの出るコーナーが終わって僕が戻ろうとしたら、サッと飛んで来て僕の手を握って客席の暗い階段を下ろしてくれたんです。それで、歩きながら何度も何度も『ありがとう。このお礼はいつか必ずするよ。本当に助かったんだから。』って言われて…」
「あいつは、もともとそういうボーイソプラノなんだよ。今でもそういうヤツなんだけどさ。下級生とかは全然あいつのことを知らないし、気付いてもいない。それでもいいんじゃないの?『僕は合唱団が好きだから、お礼をするんだ』って、今頃あっちで楽しそうに言ってるに違いないけど…。」
「僕はそのときから、この合唱団が大好きになって、演奏も面白くて、面白くて、…ずっと聴きに来ているの。僕を舞台に上げてくれた子は、それからすぐにステージに出なくなってしまったけれど、それが僕へのお返しのプレゼントだったんだ。だから、団員のことはよく見て知っている。門脇君は、去年の夏休みが終わってから入った子でしょう?体験入団して1日でカンタンに全員の名前が覚えられたよ。」
団員の人となりをステージで繰り返し見て熟知しているために、名前と顔を一致させることなど造作無い。また、ソリストにあたる子たちは本番中のMCで呼名されることもあり、客席前方に座れば、
「ユーセー君、次、ナレーションをお願いします。」
「五十嵐君、客席のプレゼント配りの応援に行ってください。」
等々の指示が先生から矢継ぎ早に飛んでいるのを耳にすることもある。

 それからメタゴン先輩はいよいよ4年メゾの一団の戯れ歌が癇に障りはじめた。
「門脇大地は、いま、少年ダンサーから少年合唱団員に生まれ変わろうと一生懸命がんばっているんだ。あいつは今でもバレエやダンスが嫌いじゃないし、本当は踊っていたかったのかもしれない。でも、オレたちといっしょにボーイソプラノになろうと毎日歯を食いしばって頑張っているところなんだ。心の綺麗なヤツだから、苦しみながら歌ってるようには見えないだろう?そんなあいつにキミはダンスをさせられるかい?」
結局、メタゴン先輩はおっかない顔のまま静かな物腰で、4年生たちの『あばれはっちゃく鼻づまり』を止めさせ、注意するために向こうへ行ってしまった。去り際に僕は実りのある返答を期待しないよう留意しながら先輩にたずねた。
「メタゴン先輩って、将来どんなボーイソプラノになるんですか?」
「それはつっ君にでも聞いてくれ。あいつなら俺の未来をすごくよく知ってるはずだよ。でも、ちょっと待て!俺は今からバカ4年の『あばれはっちゃく』を注意しに行く。あの替え歌がすっごくカチンとくるんだ!」

 「長袖のワイシャツとハイソックスなの?!」
片手には、僕が生まれて初めてもらってきた「出演のお知らせ」のプリント。母はすっとんきょうな声をあげた。
「この連日猛暑日に?!」
ワイシャツは長袖。ブレザーに無帽で長い方のネクタイ。長いネクタイを持っていないクラスの子や入団するかも疑わしい体験入団の僕には合唱団の予備の配布が早々に行き渡った。襟とカフスのボタンが閉まるかどうかわからない僕のワイシャツは子ども部屋の引き出しの奥に突っ込まれている。無地でワンポイント無しの長い靴下は幼稚園や低学年の頃はいていたが、もう持っていない。
「何でキミが出演するときだけこんな堅苦しい格好なんだろうね?」
小さい頃から僕をコンサートに引率し続けてきた経験から、母は「はて?」と首をひねった。
「何でだろうね?野外音楽祭って書いてあるじゃない?集合は夕方。場所は『森の劇場』だって。」
母がプリントから引き出せた情報はそこまでだった。
「僕らが歌うのは『チケット・トゥー・ライド』と『オンリー・ア・ノーザンソング』と『セット・オン・ユー』と…」
リークした僕の演目情報に母は全く興味を示さなかった。
「5曲だから20分ぐらいのステージなのかね?パッと歌ってパッと引っ込んじゃえば暑くないかしらね?」
母は結局O型女らしい「終わりよければ…」的な結論で話を切り上げはじめた。
「やったね!大好きな少年たちとはじめてステージで共演するんだからネ!頑張って歌わなきゃ!ついにキミが世界一のボーイアルトになる朝がやって来たー!」


 出演の日が近づいて、練習場では他のレパートリーとともに「セット・オン・ユー」のブラッシュアップが始まった。団員は一人一人指名されて、自分のパートを一人で歌う。僕はメゾの前江トーヤ君と組み、ソプラノパートは先生のピアノがガイドする。要は一人でも確実に担当パートが歌えるかの「テスト」なのだ。これならば最初から合唱団に入っても、知らずに先生に付いて個人レッスンを受けていても同じことだった。
「じゃあ、キミらはボーカルの9小節目から行こう。サビはスキップ。」
指揮者先生の下知に下級生団員たちは「え”ー!えこひいきじゃん!!」「まじ、ズっケぇ!」と一斉にブーイングの声をもらした。脇に立って咳払いをし、居ずまいを正した前江君は2年くらい前の入団。最初は低学年の定石通りソプラノで歌っていたが、じきに低声に下りてメゾとアルトの間を短いインターバルで行ったり来たりしている。左腕の裏にやたらめったら大きな黒い母斑がある。
「あの子、めっちゃイケメン…というか色白美少年だよねー。」
僕と客席でステージ鑑賞の母にとって、合唱団の美少年はユーセー先輩ではなく、前江君のようだった。
「色白だから固まって色素沈着するんだよねー。」
そのお見立ては巨大な色素性母斑をかくも説明する。

 ♪バリツゴナ テイクマニ、 
  ア ホール ロッタスペンディン マニ

シリコンバレー帰りの佐とう先輩が「メッチャ金使ってもヤッちまうぜ!」と意訳したその部分を僕たちは歌いはじめている。モチーフが一旦まとまって例のシンコペートで流れる三連符の部分にさしかかると、アルトには譜面上一番低い音がポツポツと顔を出してくる。
「声を上手に切り替えたねー!発声、とても良かった。」
テスト中であるにもかかわらず先生は僕の方を見て褒める。マネージャーさんがすかさずデジカメを取り出し、アルト側から僕たちの二重唱(?)の姿をメモリに収めた。
「僕、やだ。アガっちゃって声がふわふわするんだもん。」
4年メゾは一人、歌い終わってそう白状した。
「僕、いつか体験入団先輩みたいな、グニャグニャしないボーイアルトになりたい…。」
彼は歌い終わって今だに震える抑制された声でそう言ってきた。意味しようとするところがよく判らない。
「僕は前江君の声の方がいいと思うけどな。劇的?ヒーロー…?ヒロイックな感じがして…。敵にこてんぱんにやられても顔を歪めながら再度立ち上がってきて歌うヒーローって感じがする。お客さんたちは、みんなとっても喜んでるんだゼィ!」
「ホントは喜んでなんかいないんじゃないかな?」
「喜んでないのは、前江くんが自分で勝手にそういうふうに考えて、あんまり活躍してくれてないからじゃないのかな?」
「僕みたいのが、ホントに大活躍しちゃってもいいの?」

 席に戻ると先に合格していたユーリ君が驚いて、「すっごく上手なんじゃん!」と目を剥いている。
「体験入団だから楽譜をあげないなんて言ってゴメン。体験の記念に僕の楽譜をあげるよ。僕が持ってるよか、上手に歌えるキミの持ってた方がずっといい。つーか、普通の子に戻ったら、コレ眺めて歌いながら合唱団のことも思い出してくれ。」
初夏から盛夏にかけての日々、アルト団員のカバンの中に突っ込まれ放しだった楽譜はさすがに鉛筆の芯の粉あたりのせいで黒っぽくなっていた。楽譜の1枚目にHBの鉛筆書きで「もりまユーリ」としっかり記名されている。
「キミの名前が入っているヨ!ホントにいいの?」
「いいわけ無いじゃん。でも、これしか無いんだから許せ、体験君。」
「世界中で、たった1冊!」
「だから、これっきゃ無いって言ってるじゃん!新しいのは無いの!」
「キミがいつも使って来た楽譜だよね?!」
「キタナイからイヤだっていうのなら謝る。」
「やったぁ!ラッキー!世界一アルトのモリマ君の自筆サイン入り楽譜をもらったァ。シアワセ!…信じられない!夢みたい!宝物にする!」
曲は暗譜で歌える。これは正真正銘の記念品で、キレイに額に入れて飾っておきたいくらいだ。
「まだ言ってる!しつけぇ!オレは世界一のアルトじゃないってば!このもりまユーリ様は、そんじょそこらの、フツーの、つまんねえ、先生からしかられてばっかの、目障りな、つまんねえボーイアルトでしかねぇんだよ。」
「今、『つまんねえ』って2回言ったよ。」
「そういうおめえは、どんなボーイアルトになりたいのさ?」
「…この合唱団の普通のボーイアルトになりたいのさ!」
「普通?…『ただのつまんねえボーイアルト』ってこと?」
「ちがう!」
『その他おおぜい』ってこと?」
「まあ、そんなとこ。」
「バカじゃん。」
「うん。『その他おおぜい』じゃダメ?」
「だって、キミって歌のレッスンをずっと一人で受けてきて、ボーイアルトのソロだったんじゃないの?」
「ソロじゃないけど、一人で歌うことは得意だし、ずっとやってきたことでもあるんだよ。」
「普通、逆でしょ?」
努力してがんばってソリストとして活躍するようになった団員はいるが、努力してがんばって合唱団の「その他おおぜい」になり下がったソリストはいない。
「じゃ、何で最初から合唱団に入らなかったのでしょう?」
「最初は歌が上手になりたかったから。別に合唱団じゃなくても良かったし。…ウィーン少年合唱団にも、日本人の団員はいっぱいいるでしょ?『歌が上手くなりたい』と思ってる男の子は、目立たないかもしれないけど実はたくさんいるんだ。…僕は外国まで行くのはイヤだから、最初は近所の先生のところへ習いに行って、それから大学の先生に少しだけレッスンを受けて…。」
「上手なソロが歌えるようになったんだから、いいじゃない?何で最後に合唱団に入ろうとしてるの?」
この合唱団の場合、上手なソロを歌える子で、家がお金持ちの子は、両親やおじいちゃんおばあちゃんからお金を出してもらって録音スタジオでカスタムCDを録音したり、貸しホールでソロリサイタルを開いたりする。
「君たちといっしょにどうしても歌いたかったから…。」
「何で?」
「駅前の商店街のコンサートで歌っていたでしょ?」
「時々、歌うね。記念品のおミヤも駄菓子とかでパッとしないし、お客さんも買い物の途中で何かやってるみたいだから見に来た…ってかんじのおばちゃんとかばっかしだよ。」
「それを小さい頃に見て、最初は追っかけのファンになった。楽屋口で外国の少年合唱団の出待ちをしてるおばちゃんたちみたいに…。そのうちに、いつかどうしても一緒に歌ってみたいと思うようになったの。」
「なぜ?!…オレら、キミよか歌、下手くそでしょ?」
五十嵐君のアルトのミスでテストは膠着している。何度歌っても同じ箇所のピッチが総崩れするので、先生は次第に苛々し始めている。
「だって、キミらって、全員もッの凄くかっこいいじゃん。」
「どこが?!」
「全体的に…」
「バッカじゃないの?イガちゃんとかメタボりっくスグ君とかの前で今の言葉、言ってみな?」
「言えるよ。僕は今日、世界一かっこいい少年合唱団員の皆といっしょに歌っているんだ!」
「おまえ、ローカルテレビのCMとか、合唱団で出てみな?スタジオに入ると最初、背の順で並ばされて、それからカメラのテストとかがあって、最後は唐突に並び順の入れ替えがあるの。…何でだと思う?」
「知らない…」
「テレビ映りのいい子が画面の真ん中に来るようにロコツに入れ換えられんだよ。ユーセー先輩とか、美少年ハルカ先輩とか。現実はそんなもんなのさ。オレらの合唱団のアルトがイケメン揃いだなんて言ってるのは、オレらのお母さんたちだけ。わかった?」
「わかんない!…でも、ただ今これからココで僕もロコツにアルトの入れ換えをするよ。」
ユーリ君を立たせ、右肩をひっつかんで引き、練習場のバレエバーの前に張られた大鏡の方へ、身体をくるりと回して見せる。イタズラっ子で聞かん坊そうなマクサンス・ペラン似の5年生の男の子…。吃驚の中、きつい眼差しで鏡の中のこちらを見ている。こざっぱりと着こなすアイロンのきいたマスカット色の通団シャツ。竹串のような折り目の入ったすっきりすずしげなトロマット地の半ズボン。
「…世界で一番かっこいいボーイアルトを真ん中にして映してみたよ!」
「ヤーダ!」
「映ってるのは、世界一のボーイアルトってことになるでしょ?」
「おい!体験入団!オレらにお世辞なんか言うの10年早いゼ!」
「10年も待ったら21歳になってしまうでしょう?!その頃、僕はたぶん少年合唱団員なんかやっていない。…でも今、音程があんまり合ってないこと以外は、アルトのみんなは全部カッコいいんだよ!」
「え"ー!…それって、ぜんぜん褒め言葉になってないじゃん?!!」
黒い大きなサマーパンツの下半身がデジャブのように近づき、歪みかけた男性の声が僕らの頭上からふりかかった。
「おい!おい!おしゃべりの大好きなキミたち!自分らのテストが無事終わっておくつろぎのところ大変申しわけないが、同じフレーズを15回歌って毎回音程が違っている世界一出来の悪い五十嵐君の気持ちにもなってやって欲しいんだがな…。」
先生は僕の掌から楽譜を引き抜くと、開いたまま2人の頭をぱんぱんと打ち据えた。
「おい!これはキミの楽譜じゃなくてユーリのだ。名前が書いてある…。」
団員のすかすかの頭など、誰の楽譜で叩こうが、知ったことではない…。
「先生。だから、体験君の楽譜がもともと足りなかったんですってば!」
「足りなかったはず無いだろう?休みの子のも入れてんだから、余るはずなんだ。」
もりまユーリはこの話題に辟易として、指揮者から楽譜を奪い返し、毛の生えた大人の薬指と中指をこじ開けて握られていた赤いサインペンを引き抜いた。
「だから2人で使ってるんですYO!」
天頂へと乱暴にキャップを引き抜いて、自分の名前の横に何かの一文を書き添えた。


 連続し、殴打する猛暑日の結ぼれは一転、曇りがちの蒸し暑い日になった。駅前の涼しい駅舎のペーヴメントで慌ただしく集合。補助椅子を出したマイクロバスがそこからゆさゆさと僕たちを会場に運んだ。
『 カブトムシたちの音楽祭』…セキュリティ・ゲートの中をそぞろ歩く人群れに、グレーのロゴ入りビプスをかぶったボランティアの小学生が子どもの来場者を見つけると駆け寄ってくる。小さな穴の開いたダンボール箱の中に垢じみた腕を突っ込んで黒光りする甲虫を1匹つかみ出し、開いた掌や胸元に載せてくれるのである。「お家では、齧って出ちゃうからダンボールに入れないでね。」と、わざわざ丁寧に教えてくれる。「このメス、ちっちゃくてもいいからオスに替えて」と頼むと交換してくれたが、カッチ君が「もう1匹ちょうだい。」と懇願すると今度は「ごめんね」と、あっさりかわされた。林間には付随対象著作物のように軽音楽が流れ、ギターの形状を模したアルミ風船や大きな青林檎の載ったストーブ・ハット。ALL YOU NEED IS LOVEと1語ずつ書き抜かれたプラカードがあちこちに立てかけられてある。クランベリーソースのたっぷりかかったハニーパイ。さくらんぼクリーム、アップルタルト、ココナツファッジ。トリュフチョコ。冷たい七面鳥サンド。たこ焼き。畑イチゴとエバーミルクのクレープ。甘く煮て透き通った玉ねぎ…脈略もご当地性も何も全て感じられない雑多な屋台の群れが木の下で朽ちかけたピアノのディスプレイの周囲に並び、「私は海象です」と日本語でプリントされた黄色いTシャツがてんごうそうに売られ、何人かの人がさっそく袖を通し歩いていた。一行は屋台村の奥のゲストハウス、インドア・バルコニーのようなところに上げられ、そこが今日の合唱団の荷物置き場・兼控え室になった。間着のブレザーの入ったスーツケースを下ろし、下級生たちが先生の引率でトイレを済ませている間、五十嵐君が柳川(兄)君に相手をしてもらって緊張の面持ちで「セット・オン・ユー」のアルトをさらいはじめる。レッスンスタジオで再テストの指示を受けたのは伊藤亮君はじめ何人かの団員だが、結局彼はただ1人最後まで合格にならなかったのだ。他意も無く、初めて見るその光景にじっと目をこらしていると、突然、僕に向かって、

 ♪ファーソラシドレミファー!!

と、元気いっぱいな階名唱をボーイアルトで繰り出す。ジーメンス社製VVVFインバータの磁励音である。アルトはアルトでも、オリジナルはアルトサックスの音色に似た機械の音。

 ♪ファーソラシドレミファー!!フイーン!フイーン!フイーン!

ステージでの彼は、最近このネタを披露して人気者なのだ。
「泉岳寺まで行く?」
「行きませーん!」
「西六郷少年合唱団は?!」
「種別、快特ぉーく!六郷、通過ぁー!♪ファーソラシドレミファー!」
僕は今日ついに、この五十嵐君と同じステージに立つ。歌のおさらいは全くすすんでいなくても、先生から叱られても、彼は団員の誰からの紛糾も痛罵も受けない。
「PiTaPa使えますかぁ?」
「まだ使えませーン!!アウェー感満載!ダセぇ!ギャハハ!!」
横では稽古をつけるはずの柳川(兄)君が、この先輩らしくいっしょに大笑いして興じている。すると、彼らの「セット・オン・ユー」の復習がダルセーニョまで行かないうちにマネージャーさんが紙切れをガサガサとさせながらやってきた。ペンキャップの先でボーイアルトの方を真っ直ぐ指しながら、
「五十嵐君!アンケートにきちんと答えてないでしょう?困りますねぇ。」
ピンストライプの黒のパンツスーツ。ストレッチのブーツカットはノビも良いのか、小太りの小学生の目前でパッとしゃがんで用紙を差し出した。
「だって、先週、すぐに出しましたヨ。名前も確かめて出しましたって。…あ!コレです。」
マネージャーさんの緩く握った拳が男の子の二の腕をパンチで突いた。
「五十嵐君、キミらしくないなぁ!好きな食べものの欄だけが書いてないじゃない!」
記名されたプリントの中盤にぱっくりと口をあけて空欄になった(  )が、裏返った白いPSPのように見えた。
「ああ。何かいっぱいあって、迷って、楽しみは後回しにしようとしてたら忘れちゃったんですね。あはは…」
「いずれにせよ、イガちゃんの場合、空欄というのはウソよね?今、私が書いてあげるから、好きな食べ物をここで言いなさい。」
たくさんあって迷ったというのもウソなのかもしれない。5年アルトは今回、即答した。
「そりゃぁ、普通のカツ丼でしょう!…なんかキャベツとか余計なもんが乗っかってたりしないような、本当にフツーのあたりまえのカツ丼が喰いてぇですよ!茶色くて酸っぱいソースがジャバジャバかかってたりするのなんざ、トンかつ定食の残飯をどんぶりにぶっ込んだみてェで、見るだけでもオエッ!ってカンジしません?全くあり得ねぇ!!最近、何かやたらとソースカツ丼とかいう貧乏くさいのがどこ行ってもうじゃうじゃ増殖してて…こないだなんか給食でも平然と出くさったりすんですよぉ、全く世も末ってカンジでやすよね?何であんなもんが増えて来ちまったんでしょう?」
「そうねぇ。マネージャーさんも、どっちかっていうとタマゴでとじた普通のカツ丼の方が、お肉ジューシーで好きだな…」
「そうでやしょ?ウマいでやしょ?タマゴふっわふわで、ブタさん肉汁がちゅるるぅー!って効いてて、タマネギしゃきシナで!ごはんがまたトッピングのエキス全部吸っちゃってて…あー!」
「でも、それって単に五十嵐君が今、非常に食べたいものを言ってない?!」
「今、食べたいものが俺の一番好きなモノなんすよ!」
「わかった。わかった。

 好きなもの=カツ丼(ソースカツ丼はNG!)  ね?

良かったー。…コレで後援会報の団員紹介がFax入稿できるわV」
「それは良かったですねぇ!」
「ホントだねぇ。でも、ブレザーは大人のを流用するとしても、もうこれよか『ふくよかサイズ』の半ズボンはこの合唱団には存在しないんだから、カツ丼もほどほどにしといてくれないと…」
 下級生が全員トイレから戻ってそろそろ声出しも始まろうとする刻限、五十嵐君は今日の出演とは全く関係の無い『少年真室川音頭』を濃さげなメリスマをつけて気持ち良さそうに一人で歌っていた。

「シツガイの上の真ん中に靴下の口のゴムが来るように履くんだってサ!」
「シツガイって?」
「膝っ小僧のお皿のコトだよ。」
「決まりなんですか?」
「知らねえ。オレみたいな『ややポチャ男子』でも、こうやってきちんと上げて、後ろが上がっているように見せて履くと足が長くカッコ良く見えるだろ?」
中山アンビ先輩はいい匂いのするシャツの胸のボタンをきしきしととめながら、靴下の履き方を僕に教えた。
「あ、ああ…ホントみたいです…。」
ラウンジ入り口の鏡面仕上げになったクローゼットドアに、おろしたての靴下をはいた僕がワイシャツにネクタイ姿で映り込んでいる。下半身を縒って横に向けると、確かにソックスは背面へ斜めに上がってシャープそうに見えていた。
「あんまり後ろを上げすぎると、折れてかっこ悪いから気をつけろってサ。」
「誰が気をつけろって?」
「テコイエ先輩が…。そうなんだってサ。」
「へぇー。」
だからアンビ君はステージの最中も臀部を引き、自分の膝の裏を幾度も確認していたのだ。
正式入団も怪しい体験入団員にさえユニフォーム着用のコツを伝授するこのガチムチの6年生が、かつて、2年生の頃のユーリ君を周囲の皆といっしょに執拗にいじめぬいていたというのはにわかに信じ難い。今や、大好きなその下級生の名前をあげつらわれ、揶揄され、練習場の先生の見ている前でさえ言った相手を完膚無きまでに打擲し叩きのめす。然程にこの6年生は一人の後輩をしっかりと大事にし、体を張って守ってやっているのだ。…何故?!
「ユーリ、おまえ、もうこんなに汗かいてるじゃないか?」
体験団員の着付け指導もそこそこに、下級生の紅い頬へ掌を充てて中指・薬指と他の四指でコメカミの静かな汗を拭った。
「うん。」
2人の会話はそれでもう十分だった。
メタゴン先輩から「5分で更衣完了!」の絶対的なコマンドが下り、低学年気分まっただ中の2−3年ソプラノ団員以外、皆は早々とユニフォームへ着替え終わっている。
「体験入団くん!もし、ユーリから嫌なことを言われたり、困るぐらい放っておかれたりしたら、すぐ俺に言えよ。俺はこいつをちんけでバカで意気地なしのツマンネェ団員にしたくないんだ。」
中山先輩は今日はかぶっていないはずのベレーの傾きを確かめようとごつごつした自身の右手を後頭に差し掛けたが、すぐに気付いて体側で手の汗をぬぐった。
「中山アンビー!ぶっつけで場当たり無いから、入場の停止位置目標を教えるぞ!ただちにこちらへ出頭せよ!」
「はーい!」
6年アルトは遅滞無く出頭命令に返事を返すと、ユーリ君の左腕を微弱に引き落とし、床を蹴って先生のところへ行ってしまった。
低声の子たちは誰から促されるということもなく、練習場での並び順の通りラウンジの廊下へと整列しはじめた。ウメちゃんは、ピアノの先生が抱えたままのリハーサル用キーボードのスイッチを勝手に入れ、中腰、下からぶる下がるようなかっこうで『トランシルヴァニアの夕べ(村の夜)』を弾いている。ステージ用の半ズボンから出たフトモモには、日焼けを免れた水着の跡が白いスパッツのようにくっきりと付いていた。
「先生…この曲ってオレが1年生くらいの頃弾いてたら、どっかの男の先生から『ピアノの音ではあるんだけど、君の身体が鳴っている感じがする』って、やけに感動された覚えがあるんでーす!」
ウメちゃんは言っている。…まんざらでもなかったらしい。僕とユーリ君は誰かから促され、アルト側の定位置についた
「中山先輩って、キミが僕のお世話をしてくれているのをどう思っているのかな?」
「嬉しいってサ。」
「…じゃあ、何でさっきあんなこと言ったんだろ?キミが嫌な事を言うわけ無いのに…。」
「オレが、誰かをいじめて自分の場所を作っていかなきゃいけないような、ごく普通のアルト団員になるのをとても恐れてるのさ。」
「普通の団員?」
「覚えておきなよ。俺たちアルトなんかは、みんなそうなんだ。…先輩とか同級生から徹底的にいじめられて、意地悪をされて、…それで、かわしぬいたり、頑張りぬいたりしたやつらだけが今、ここに残っている。吹きだまりってことよ。そうじゃないのは、兄ちゃんとかが大人気トップソリスト兼ドラマーみたいなナナヒカリの柳川(弟)ぐらいのもんで…。他の普通のヤツは自分がヤられたから、下級生には同じことをするの。中山先輩は、オレも早晩そうなるのを人類最後の日のように恐れている。」
「…なんで?」
「中山先輩自身がそうだったからだってさ。」
「そういう意味じゃない。何でユーリ君なのさ…?」
「オレのことが好きなんだってさー。何で好きなのかは知らないよ。かわいそうだとか思ったんじゃねぇの?」
それから男の子は指揮者先生の前で見取り図のようなものを突きつけられ説明を受けている6年アルトの背後へと、抜きあし差しあしで近づいて行った。穏やかに、黙ったまま栗色の頭頂を上級生のワイシャツの背中に押しつけ、それから頬、肩、胸と当てていった。最後に黒いベルトの回ったズボンの腹へ両手を宛がって引くと、しばらくそのまま目をつぶり、6年生の背中の鼓動を深く嗅ぐように聞いていた。

「『イエスタディ』の出来は厳しく問わんようにしよう。ただ、水曜日にボカリーズをちょっと変えてるんですからね。くれぐれも前みたいに歌って間違えないように!諸君各自の健闘を祈る。じゃ、メタゴン君、お願いします。」
「はいっ!集中ぅー!…黙祷ぉ!… … … やめっ!」
皆は開花するしののめのツユクサのように小さな瞼を開いた。部分修正箇所のダメ押しのおさらいがあり、最後にブレザーの着用指示がぱっと出て、ブリティッシュ・パブリックスクールのボーイズ・ピューピルという風采の皆は歩き始めた。本番開始の通牒にすっかり目の据わった僕たちは、ネイビーブルーのハイソックスの脚を未だ白い四肢の下に振りながら、ゲストハウスのエントランスを抜け、林間のペーヴメントを経て出ていった。

「中山くんが一生懸命に歌っているのはネ、オレのための場所を作っているからんなんだってよ。」
アルトパートの先頭がすでに結界の線を踏んでいる。右に並んで歩いていた中山君が目視で「位置決め」された地点に達したことを確認すると、緘黙のまま両足を揃え、一度身体を静止させ、右向け右を始めた。皆は目前の団員の挙動を見極めながら自分たちもまた同様に客席側に向きなおる。集団行動の定石通り、学校で教わっていれば右の爪先を後ろに送り、左右の爪先以外を浮かせたまま身体を四分の一右に振り、踵を下ろす。中には適当な動作で右へ身体を振って済ます子もいるが、合唱団では不問のようだった。入場列の前の方からオセロ駒のごとく団員の肩が次々にくるりくるりと転じて行き、ブレザーのV字ゾーンに下りたネクタイがワイシャツの白とキツいコントラストをなした。野外ステージのアルミ・トラスにジョイントされたライトがそれを際立たせている。背後についてきたもりま・ユーリ君…右向け右に生じた微かな空気の流れが男の子の匂いを静かにふり起こしている。中山先輩はすぐ後ろ。ウメちゃん先輩は右後ろ。気配がユニフォームの色味の隅で分る程、ユーリ君は今日の僕のステージ・メンターとしてスタンバイしてくれているのである。彼はホンバンに向けて発つまでの刹那、ブレザー着用をちょこまかと済ませ、静かな口調で中山先輩とのかかわりを説明してくれた。
「アンビ先輩って…ちょっと声量が無いかもしれないし、音程もMCもふわふわかもしれないけど、オレはそれでいいんだ。この合唱団のアルトはずっとそうだったわけだし…。変わる事はと言っちゃぁ何も無い。」
音楽祭の専用シャトルバスが、出発のアナウンスを拡声して流しているのがここからも聞こえる。
「よってラッシャーい、見てらっしゃーい!さぁーさ、これぞ大魔術神秘の旅ぃー!ご乗車口はこちらぁー!」
6年生で頑張って最後まで歌い抜けば、来年3月末の卒団までに合唱団の中へ自分の歌う場所が必ず出来る。中山アンビは最後の日、そこにもりまユーリの清らかな美しい身体を移し入れてやりたいのだという。来場者の期待に反し、シャトルバスのアナウンスからは、ツアーが「大魔術神秘の旅」になりそうな兆しがほぼ感じとれなかった。合唱団の入場のおおかたは終わり、センター位置で松田リクが客席にも聞こえそうな野放図な声で、
「真ん中から行き過ぎ!戻れ!戻れ!」と、アルト側・最前列の誰かの勇み足をたしなめている。彼は野外ライブのステージ向こう正面にかかった配電線のケーブル(?)へ、黒い頭のオタマジャクシが♪レ、ファー、ドー、レドファレーと音符に並んでいるのを見て、「上のレの場所より行き過ぎていたら戻れ!」と指示を受けていたのだった。彼のセンター位置が決まれば少なくとも指揮者先生が開幕の次点で僕たちに発する隊列修正のコマンドは半分以下で済むことになる。
「知らないふりで他の子の立場が悪くなるように仕向けて憂さを晴らしたり、下級生たちを嫌な目に遭わせて姑息に自分の居場所を作ったり…そんなことしなくても、きちんと歌い続けられる場所をオレが作ってやりたいって…。先輩は卒団の日、自分が春の木枯らしみたいにここからフッと跡形もなく消え去って、ユーリが代わりにその凹みへ入って何もなかったみたいにニコニコ楽しそうに歌い続けてくれれば、もうそれで構わないっんだってサ。…オレのことは永久に忘れてくれって先輩は言うのさ。オレはそのくらいおまえのコトがスキなんだんだ…って。でも、こっちのことがそんなに好きなんだったら、先輩が大活躍してくれたらこのユーリ様は世界一嬉しいのに…って思うんだけど。」
5年アルトのこの言葉を思い出し、横に並んだ団員のカメオを一望する。中でもずば抜けてかっこいい少年は常時適度に顎を引いている。引きすぎず、かといって目と顎の間に渡した線が重力垂線より自分の方へ傾くことは決してない。だから、ユーセー君とユーリ君のベレーのかぶり方が野球帽とは正反対に、後ろからキャップを当てて頭頂から前へ引いている動作を僕は見た事があったのだった。
「阿弥陀に浅くかぶれ…チョボを絶対に持つな、できることなら凹ませろってOBの先輩たちに言われるんだよ。でも、凹ませろって言ったって、いったいどこを凹ませるのかわかんないと思わない?ツムジのところを凹ませて先輩たちに見せても『よしっ!』って言われるし、全体をペッタンコに凹ませてかぶって見せても『よしっ!』だし、こめかみの上の方を両側凹ませてもOB先輩たちは『よしっ!』なんだ。」
「どこを凹ませてもいいってことなんじゃないの?」
柳川(兄)先輩がアンビ先輩と同期・同学年・同パートであるのと同様、柳川(弟)君とユーリ君は同期入団の5年生で2人ともボーイアルト。だが、2人の5年生のうち柳川(弟)君の肌細胞の方が俄然メラニン生成に熱心であるらしい。
「前を向け!」
後段で、したい放題の3-4年生に目を配っていたユーセー先輩が声を殺し、注意の声を飛ばす。予科上がり…この春ステージメンバーに動員されたばかりの3年アルトが、ウメちゃん先輩に向き直り、ニコニコと目配せをしている。客席に知った人の顔?お父さん、お母さん?おじいちゃん、おばあちゃん?担任の先生、校長先生?近所の友達?ピアノ教室の先生?二人の共通の知人がシートにいることは間違いない。
「前を向け!バカ!」
ユーセー先輩は特命を繰り返し、初年度生を上段から睨み付けているようだった。眉間にはあからさまな縦横の皺。
「さっさとそこをどけ!一人分、場所を空けろ!」
今度は違う角度から指令の声が飛んでいる。指揮者先生が人差し指の先をアルト後方に向けて、ポジション変更のコマンドを発しているのだ。指している先は中山先輩。指先はさらにカミ手の外側へ振られていた。
「今日のステージには体験入団君が入っているのを忘れるな、中山アンビ!おまえがそこを退いてくれたら、下級生たちがきちんと全員はいれる。ステージ続行だ!まったく!」
今度は僕の胸に向かって先生の指先が振れ、中山先輩が先ほどまで立っていた場所に入るよう急かされた。
「お前みたいな体験の子がいきなりアルトの一番外側になるわけ無いと思ったゼ。暫定の背の順だったんだってばさ…」
「暫定」でも「体験」でも、何でも良い…僕はうれしい。失念を指摘されたのが中山先輩だったことはユーリ君には納得できなかったようだ。上級生は先ほど僕に突きつけていたカプチーノ色のしっかりした下肢をハサミのように振って外側へ一つずれ、間隙を作りつつ客席をにらみつけた。アルト声部…常にソプラノ側の主旋律に添って合わせて歌ってやらなければいけない。完全独り立ちのソロ以外のスタンドプレーは一切厳禁。よって、ソプラノ・メゾの団員よりはマシな歌を正確に歌えなければ。隊列の内側に僕を入れた先輩の険しい表情はそう言っているようにも見えた。自身でも不達成な低声団員の第一義。誰かがふざけて今度は『セット・オン・ユー』のメロディーを小さくハミングで歌っている。ランスロット先輩の声に聞こえるが、ランスロット先輩はたくさんの録音を残して卒団し、今年はもうここにいない。五十嵐君ならば、こんなおフザケをしでかしそうだが、明らかに彼の声ではない。だれのざれ歌なのかわからない。アルトのパートリーダー代理をつとめるユーリ君には注意の声を投げるだけの余裕は無い。ただ黙として指揮者の方をきつく見据える。困惑の中、スタンバイ完了のインカムがステマネの頭蓋に流れ、舞台は一瞬にして全暗転の後、パッとカミ手袖のぎりぎりの場所から皆の顔にライトが当たる演出に切り変わった。仄暗い野外ステージ…ハーフ・シャドーになった男子小学生たちの顔の半分しか客席には見えていないに違いない。
「お待たせいたしました!ソー!メイ・アイ・イントロデュース、トゥ・ユー!The act you've known for all these years!ザ・かっこいい少年合唱団ぁーン!」
キャー!
開演前、傷だらけのチーク化粧板のフォールディングテーブル上に投げ置かれた仕込み図に、照明のねらいが極端なシモ手方向の矢印で書き込まれているのを見た。やや大げさかと思われる悲鳴と歓声と拍手が客席から押し寄せて、ジョーク好きなステージMCは正しい名前で僕らを呼ばず、チャメっけたっぷり冗談めいたコールでしか合唱団を紹介しなかった。たとえ「かわいい」と呼ばれても、パロディー半分、冗談半分に合唱団の名前を叫ばれても、僕はちっとも構わない。体験入団だ。再来週にはもう合唱団がどんなふざけた名前で呼ばれていても、呼ばれていること自体に思い至らないのかもしれない。

 かくして長久の孤独な歌唱の帰結。僕はこの舞台へと辿り着き、僕の体験入団の日々は終わる。アルト側袖からのステージスポットは、こちら半分の皆のカメオを上弦の月のごとく明く照らし、人々は全席の背面に両手を置いて演奏の開始を待っている。先ほどまで僕の二脚が在った位置の隣で、もりまユーリがいいにおいのするシャンソン・ボタンアコーディオンのような声質を繰り、視線を動かさず、至近に並びあう柳川(弟)君へとローカル側の指令を飛ばした。
「電子打楽器位置スタンバイ!チューニング完了符丁確認!『セット・オン・ユー』MC、開始定位置へ!」
隊列の中、その声に反応し「回生ブレーキよぉーし!VVVF音程よぉーし!!京急新子安を過ぎる直前に東海道線東京行きを、軽ーく追い越しまっす!」…誰かが小声の奇矯なコワイロでそう言い返している。だが、彼はカミ手マイクの前。無言のまま、補食する小型の差羽のように突然飛び出て行った。ブームやスタンドをひな壇の裏から一人で引きずって来る必要は既に無い。つる首は適切な角度で手折られ、修正の必要も、背伸びしたり首を曲げたりするする必要もなかった。
「…それでは皆さん、まず、アメリカ時代のジョージの曲で『セット・オン・ユー』を歌います。どうぞお聞きください!」
皆のネクタイのポリエステル・ノットがチャイナ・シルクの吊るし飾りのようにさらさらと輝いている。僕は5年生で、今は中山先輩の隣にいる。2人はこれからボーイアルトの同じ運命をたどる。目前に開けるのはライブ会場。夥しい聴衆の視線が収束するこちら側。小学生の打楽器奏者が弟の声の切れる瞬間を見計らい、大きなスナップでイントロを叩き始めた。

 ♪I've got my mind set on you!

肩を張った彼らしいブレス。声を前に出してゆくユーリ君の後姿。フットライトのハレーション。ブロッケン山の後光のごとく少年のシルエットの輪郭が光りさざめく。右隣にウメちゃん先輩のガイドメロディ。その声が支えているのはピッチではなく、アルト全体の音色だった!先生の左手の指先から僕の視線が反れる刹那、メタゴン先輩の面影と厳しい目くばせが視界に飛び込んできた。狭隘なステージの上で隊列は僅かな馬蹄形を描き、相対声部とは直角を作って向き合っているからなのだ。「大きな振りでオレと踊ってくれ!あと120秒の後!くれぐれも!頼んだぞ!」…その目は驚くほどの信頼の中に立つ一つの大切な誓いを占っている。この子は近い将来、必ずそういうボーイソプラノになるのだと、誰かが教えてくれているのだった。カミ手舞台袖で僕らの歌い姿を撮影しようと銀線色の焼き付くようなフラッシュが1つ発光した。


 マネージャーさんから体験入団の記念に頂いたプリントアウトの中の僕は、自覚していたほどの大きさで口腔を開けてはいなかった。『カブトムシたちの音楽祭』の夜以来、この歌い姿は然程変化を遂げてはいないだろう。
写真の中、僕の手前には大きな太いおっかない姿体のアンビ先輩。向こう側にウメちゃん先輩が頬を緩め写っている。
 伊藤亮君がメゾの高声側から再テストのときに借りて行った「セット・オン・ユー」の楽譜をわざわざ返しにやって来て、ついでに写真を覗き込んでニヤリとした。
「あのときの鉄っちゃんの声はオレなの!バレてた?!イガっちの真似をして、ちょっくらもりまユーリをからかってみたのさ!だって、中山アンビはあいつの顔や声が良くって首ったけしたんじゃないんだぜ。今のあいつが『世界一のボーイアルト』だからだってさー。バッカみたい!」
写真の中…僕のほんの少し前のポジションで写っている黒糖色の髪の5年アルトを指差しながら回生ブレーキの声の主は笑った。
「ごめん体験君!楽譜によると、キミも、もう既に『世界一のボーイアルト』だったのであった!…てか、世界一ってこの世に何人か存在していていいわけ?…あ、もう体験君じゃないんだったっけ…。バイバイ!じゃあネ!」

 ♪And this time I know it's for real
  The feelings that I feel
  I know if I put my mind to it
  I know that I really can do it

世界一がこの世に何人も存在して良いのかという言葉に虚を衝かれ、僕はとっさに身をよじり後ろを見た。背後にいる者の存在を確かめる!今、まさにそこで僕を凝視していたのは…。
思い思いのひとときを過ごす休憩時間の沢山の少年達の姿。その前に、紙束をかざし、大きく目を見開いた小学5年生の男の子が一人。練習場のレッスン・ミラーに大きくハッキリと映り込んでいる。握りしめた楽譜の下欄には、鉛筆書きされたもりまユーリの名前の後、もう一つの名字と「この楽ふは、『世界一のボーイアルト』二人の物!」の一文が赤いサインペンの筆跡で書き添えられていた。
「おーい!世界最悪のボーイアルト!クリスマスコンサートのソロオーディションやるから先生がとっとと来いってサ!」
呼びかけに来たメタゴン先輩の声に、待ってましたとばかり返事を返したのは僕一人だけではなかった。ユーリ君は先に跳ね起きてすっとんで行く。僕は大切なはずの楽譜を縦折にして半ズボンの腰へ突っ込み、ネズミ色になりかけた上履きのゴムのトゥをとんとんと2回フローリングに打ち付けた。かくして僕はそそくさとピアノの傍へ走って行った。

" I've Got My Mind Set on You " by Rudy Clark
(C) 1962 CARLIN AMERICA INC, New York.

讓我們盪起雙漿(ボートを漕ごう)Rang women dangqi shuangjiang

July 01 [Mon], 2013, 0:00
▲北海公園。充ちて溢るるがごとく湖岸を飛び出してゆくボートの群。首回りに紅領巾が揺れる少年らは小舟に美しく櫂を繰った。「祖国の花」たち。ソロを歌い繋ぐ可憐な少女らはこざっぱりとした愛らしいブラウスにスカートばき。小さな人民服の子どもなど一人もいない。おおらかで甘い春の風が湖面を渡り、あか抜けた意匠の質素なシャツをまとった少年たちは対岸を見つめながら篠笛を吹いている。「僕たちにボートのオールを任せ」と。

 10時のステージが終わると、僕らはまた隊列をなし、川辺へとくだっていった。
岸に夥しい葦。段丘にオレンジのセンボンヤリ。野辺の花々の群生。暖かい川風に多彩が揺れている。河川敷は忘却の公園計画のごとく野放図のままだった。今にも巣をかけそうな鳥たちは低層の灌木の枝上で一声一声を念入りに鳴き交わし、一行はその間に伸びる乾いた道へ佇立して船旅を待った。レンゲの花のいがらっぽい芳香。5年アルトの名札がぶる下がる僕の背中を押しているのか引き止めているのかわからないくらい、はっきりとにおっていた。
 春香る日々の野辺に立つと、僕たちは合唱団の制服が、歌を歌うときの男の子の体温を勘案し極限まで薄着へ設計されていることに感謝する。心地よい川風。けもの道を横に伸した程度の「アスファルトの帯」といったおもむきの小径。だが、僕たちの隊列はそれを跨がず、二藍の道に脚をもかけず。シャーベットグリーンの柔らかい半そでシャツと紺ズボンだけが覆うコンパクトにできた身体を、ささやかな路側の曝露した地面に留め置いた。乗り合う客は皆無。貸し切りらしかった。

 入団1週目に緘黙のまま上級生に教えられた通り、誰も見ていないというのに「待ち」のステータスであれば、どの団員もきっちりと口をつぐむ。
移動の駅のホームで、電車の中で、イベントの控え室からイントレの組まれたステージへの道行きで、僕らは無言のままたおやかに立ち連ね、待ち続けられることを皆、団員終生の誇りにしていた。
「どこの学校の子?誰も乗って居ないみたいに静かなのね。お行儀がいいですね。」
電車の中で年配の人から声をかけられることがある。下級生が、息を呑むような可愛いらしい密やかな囁き声で、尋ぬる人に合唱団の名前を告げるとき、僕たちの自尊心の潮位はゆるやかに逸する。誰も「静かにしよう」と言わない。誰からも注意を受けない。身をゆだね、清貧な快楽とともに僕らは静寂を保つ。「今年はたまたまこういう静かに待てる子どもが集まったんだなぁ。きみたちは優秀だ。」繰り返し先生から言われる。だが、その言葉は入団以来、毎年毎春に聞いた。おそらく何年経っても団員たちは「たまたま集まった」と顕彰され続けるのだろう。

茂みに伸びた船待ちの小径で「船乗りの夢」を2度歌った。
木々に枝々に立ち上がった音は吸われ、かさかさとした枯葉のようなボーイソプラノが辺りに澱もうとしていた。ゆえに僕らはなおさら声のボリュームをあげようとした。

 こんな船に合唱団全員が乗れるのかと思うくらい、ウォーターシャトルはコンパクトに出来ていた。船首寄りは透過グリーンのポリカーボンのサンルームになっていて、船尾は天蓋とテーブルのついたリゾートデッキという感じ。全員通団カバンに衣裳ケース、各自に手渡されたお弁当の白いポリバックをぶる下げて。デッキの上には晴天をつくように陽光が差し込んでいる。だてに羽織ったスクールセーターをアルトの6年生は袖まくりしはじめる。背中には、まだ汗をかいたまま。イッちゃんはいつものくせで、パンツを半ズボンのベルトといっしょにつかんでズリッと引き上げた。
 船はバタバタと船べりの係留を解き、ディズニーランドのトムソーヤ筏がたてるのより少しだけ大きな音をあげて滑り出した。対岸は見えていたが、同じような芦原。間もなく頭上に高速道路が2車線。続いて新幹線の跨橋の腹が見えて僕たちものけぞって腹を見せあった。乗っている時間は50分間。その間に昼食をとるようにとの指示。めいめいのスーツケースや通団カバンを適当なシートにうち置くと、皆は弁当の包みを人差し指と中指にぶるさげながら船尾のデッキに集まってくる。
 先生のごく軽い右手の振りに導かれ「ごはんだごはんだ」を歌うのだった。
歌は、水面へと茶漬けのように流れ出していく。ディーゼルの気動音に腹を突きあげられつつ、足元は揺動にさいなまれ安定とは程遠い。白いペンキにこってりと塗りあげられた欄干の縁へと鈴なりになりながら、チョコミント色の制服を着た少年たちが「さあ食べよう」とロングトーンを滑らかに統御するさまは岸堤の道からも容易に認められたにちがいない。やっていることは全てボーイスカウトのレーションそのものの行為なのだが、頭声であり、映えそろっており、天使のハーモニーで「少年合唱」で、そのちぐはぐさは爽快だった。僕たちはこの「おあずけ」の30秒間ちょっとを可笑しがり、愉快に楽しんでいるのだ。ポリバックの中から出てきたのは紙の箱に入ったオニギリ弁当とお茶のブリックパックとバナナ。紙のダイアカップにサーターアンタギー1つ。最初はカラアゲだと思った。これが合唱団で大人気。デッキの上でそれをかじってほおばると、甘く香ばしく、ひなびた油がジワッ。痛快だった。

 ヒロ君が、デッキのベンチにあぐらをかき、紙箱を広げておにぎりを食んでいる。
戻ってきた2つのくるぶしとズボンの股の間、丸めた白いポリバッグを押し込んで。船は河岸の暗渠から繰り出されてくるうねりを越えてエンジンを切りなおした。
「あれの奥には水路があるんだ。」
むすんだだけの粒飯だが、全体の形を少しも壊さず5年生はそれをほおばる。
「俺には水の色でわかる。あの奥でコメを作ってるんだ。田んぼになっていて、そこに川の水を引いている。何てキレイで肥えた土なんだろう!」
少年は確信を持って言う。
つやつやした黒い髪がアクリルのようなせまい額に流れ、眉は太く明らかにそこにあり、睫毛は瞬きの度に音を立てるほど張ってきらきらと巻いていた。薄い唇の中から見え隠れするミルクガラスの小さな歯列は、いったい何を甘噛みするのだろう。だが、首から下はどうだろう。ブハンカのような黒い腕。校舎の2階から飛び降りても無事着地できそうな足首。合唱団のフォーマル衣装から突き出た2本の脚は、白いソックスをはいて飛び跳ねているフランスパンの外見に近い。
「だって、もう恥ずかしいから、日常生活の話は外ではさせないんです。」
ヒロ君のママが言う。
「いったい、あなたのお子さんはどんだけ田舎から歌いに来てんですか…って、思われそうで…。あなたはイイのかもしれないけど、ママは恥ずかしいのヨ!こないだも、テレビ局のお仕事のとき、ディレクターさん相手にプロパンガスのボンベを指差して『これで爆音機を作動させるとスズメやヒヨドリにはテキメンに効くんですよー』って言い出して、青くなった…」
「爆音機…って?」
「田んぼに来る鳥を、轟音で追い払う…」
「鳴子や引き板じゃないだけいいじゃない…」
「いや、実はその話もあってね…」
合唱団の練習や出演の無い日、夏ならばTシャツ1枚に海水パンツ一丁の姿で過ごす。家の裏に自然公園。人工の里山だが沢が在り、畦に田んぼ。男の子は「田植え体験」からはじまり「収穫フェスティバル」の後始末まで、通年のへヴィーな常連参加者である。むしろ運営企画の常任ボランティアと言うのにふさわしい。かくして稲作のことなら何でも知っている。ザリガニ、沢ガニ、どこにいつ頃何匹ぐらい生息しているか、どの木にどの草に今は何の虫が巣食ってタマゴを置いているか、この降雨ではどこがどの程度水没しているか、自然の摂理は当然のこと、全てを掌握し、全てを理解している。僕たちが遊びに行ったら最後、日没を過ぎて真っ暗になるまで、山や田んぼの中を引きずりまわされ、草いきれと泥のニオイに漬け込まれる。若枝の皮を剥き、鉄砲を作ってくれてやり、断崖としか思えないような場所で皆を道連れにダイブ!出所不明の植物の蜜を嘗めてみろということになり、そこでようやく僕たちはヒロ君の目を見る。
「おいしいよ。ほら。この山にある花は蜂や蝶のためだけにあるわけじゃないんだ。全部みんなのもの!」
船上の少年はクリークの排水を見てさえも沃田を想う。だが、彼は自らつむぐ歌を「みんなのもの」とは言わない。男の子には明らかな構音の瑕疵があり、サ行の音を殆ど正確に結べない。ソリストになることは今後もおそらく永遠に無いだろう。
「なんか、オレの舌がジャマしてるらしい。舌切りスズメの気分。でもいいんだ。スズメ、好き。田んぼでイネを食っちゃう余計な虫を捕まえてくれる。面白いのは、あいつらって虫の全部は追わないの。だって、虫もやっぱりイネの役にたってるから。米を作るためにスズメも虫も殺してしまった中国の革命のハナシは有名。中国人って農業は大寨に学んでも、自然から学んだり尊敬したりは絶対にしないんだ。ハッキリ言ってバカ。全部はやらないけど、あいつら生き物にも少しは米をわけてやらなくちゃぁ。先輩なんだし、お礼ってモノだろう。」
 少年合唱団と中学受験は両立できる。少年合唱団とピアノのレッスンの両方も可。少年合唱と少年サッカー、少年合唱と少年野球になるとややあぶなくなる。土日祝日の試合には出られない。少年合唱と子役の両立も怪しい。「どちらもたいした仕事はもらえない」という覚悟が必要…合唱団にいればオペラ子役のオーディションの口もあったりするのだから。一方、たいがいの家業と少年合唱の両立は可能。大きな酒屋の息子はビール瓶運びをする。ダイナーのオーナー息子はスペシャルセットのオーダーのクリップボードを片手にお客さんの前でアカペラ1曲を熱唱サービス。陶芸家の息子は土をコネつつその快感に悶絶し、ミニ画廊の息子はシロウト客相手にいっぱしアクリル・メディウムの特性をぶつ。あとは週三日、歌とステージの時間を分けてキープしておけばよい。さて、おしまいに少年合唱と「野生児」。少年合唱と「稲作」。…ヒロ君が今まさに楽しみつつ挑戦し続けている「両立」はそれ。兼業農家ならぬ兼業少年音楽家。按配は難しくない。ブレザーに蝶ネクタイをしめ、ぴっちり折り目の入ったズボンを身につければ「少年合唱」のシフトということになり、くちゃくちゃのTシャツに水着や膝の抜けそうなズボンをはいて、土色の運動靴をつっかけてふわふわと出かけていけば「稲作もやる野生児」のシフトに転ずる。着替えるように2つの少年期を同時進行させているヒロ君のボーイソプラノは、リスプの不全はあれど、他の誰にも出せない浸透圧がかかり、健康なアドバンスのベクトルすら備わって魅力的なのだった。

 午餐が済むと、僕らは風の抜けるデッキの船尾側へ列を作って並び、「川で歌おう」と「讓我們盪起雙漿(ボートを漕ごう)」を歌った。
「日本で一番長い川を知っている人?」
歌の前、先生の急な質問に10人ほどの団員の手がぱらぱらと挙がった。
「じゃあ、キミたちが今、船に乗って下っている川の名前を知っている人。」
ニヤりとする6年生もいる。
「日本一長い川って、もっと広くて大きいのかと思ってたよね。」
アッちゃんが耳元でささやいた。

 雨の六本木。けやき坂ちかく。サントリーホールの出番の引けた後。わざわざタクシーに乗りサンドイッチを食べに行く。アッちゃん、アッちゃんのお父さん、僕。ルートビールとピンクレモネード、山盛りのフレンチフライにケチャップ。ピクルスにラリッシュ。オニオンリング食べ放題。デザートに真っ赤なゼリー。アメリカだ。そぼ降る雨の中、野ざらしのパブリックアートの椅子たちが街路でずぶ濡れの室内のごとく水に打たれ光っている。大きなスモーク窓の向こう。ガラスを伝うあまたの水の玉。静かに。ストロベリー・ジェローの匂いを口からぷんぷんさせながら、アッちゃんがぼくの耳元で今日の歌の出来を語る。

「アッちゃんのお父さん。アッちゃんね、今度のソロ、中国の昔の歌やるんですよ。」
「また歌うのか。中国が多いなあ。」
お父さん、お皿に残ったオニオンリングをパクリ!続いて息子。口の中にカーウボーイの輪投げ。
「なんか、先生って自分が団員だったときの合唱団、中国に演奏旅行に行ったんだって。で、僕たちのレパートリー集になんか中国の昔の歌がたくさん入ってる…らしい…てか、そうなんだってさ。」
「今度おまえは何、歌うんだ?」
「何だっけ?船の歌…白い塔が水に写って、波をかきわけるって…」
「アッちゃん、『ボートを漕ごう』でしょ?」
「『ボートを漕ごう』か。」
それからお父さんは紙ナプキンで指の先をガザガザと拭き、ヴィトンのレポーターの中からシリコンプレーヤーを取り出した。サファリでひいてくれたのは何と中国共産党の広報紙のページ。表示がある。


北海公園。充ちて溢るるがごとく湖岸を飛び出してゆくボートの群。首回りに紅領巾が揺れる少年らは小舟に美しく櫂を繰った。「祖国の花」たち。ソロを歌い繋ぐ可憐な少女らはこざっぱりとした愛らしいブラウスにスカートばき。小さな人民服の子どもなど一人もいない。おおらかで甘い春の風が湖面を渡り、あか抜けた意匠の質素なシャツをまとった少年たちは対岸を見つめながら篠笛を吹いている。「僕たちにボートのオールを任せ」と。
続く北京語は穏やかなのどかな舟歌。清楚で明るい中国の最も幸福な時代。祖国の花に「百花運動」はまだ始まっていなかった。「大躍進」は数年の後に起きるだろう。文化大革命の始動まで、あと10年の月日。下放はさらにまたその4〜5年の後だった。

♪讓我們盪起雙漿
 小船児推開波浪
 水面倒映著美麗的白塔
 四周環繞著緑樹紅牆

「アッちゃん、ずーっとソロなんだよね。最初から最後まで。途中で合唱がそばから声を合わせるだけ。」
「お〜、スゴイなぁ。我が息子。」
「やだよ、なんか緊張するもん。」
器を叩くがごとき甲高い発声。抑制され統御された叫びにもとれる合唱。現実の窓の向こうには黒っぽいレクサスが右ウィンカーを出して通り過ぎる。雨の六本木。中国児童歌曲のソロをとる団員に、考えることはいくつも残されていない。メインになる旋律を明快に歌い通すのみ。南モンゴルや東トルキスタンの二重まぶたの子どもたちにも歌わせるがため、溌剌とした惹句のごとき運びやすい簡易なメロディーがコーダまで累々と敷かれているのである。だから音階は徹底して感動的なほど中国的。歌詞に並んだ簡体字をなおしてさえもらえさえすれば、漢字を見ただけで歌のあらすじがわかった。
「でも、この曲だけ違う。特別の歌なんだ。」
遠い霧の中の壊れた自動販売機のように、歌はソリストの心の片隅へ「よくわからない何か」を据え置いた。『我、北京天安門を愛す』(1970)『大慶の花、地を紅に満ちて』(1972)『紅い星きらきら』(1974)『向陽院物語』(1974)『鉄腎亜童木』(1980)…どの歌にも注入され、巧みに仕組まれ、あふれ出す感化力。だがしかし、少年らのレパートリーの中で唯一、最も古い「ボートを漕ごう」にだけはそれが欠けていた。陽気が味方するかのようにうっとりとした至福の数分間、名状し難いその曖昧模糊とした気分を団員たちは「ほのかな憂い」とだけしか認識しえなかった。
「陰音階の曲なんです。ボートを漕いでさわやかで、愉快で、楽しいっていう歌のはずなのに。でも、それだけじゃないんです。メロディーが上に行こうとするときにちょっとだけ明るくなろうとする。そしてコーダは伴奏のおしまいの1つの音がホワッと明るくピカルディ終止して。なんだかたくさんの決意と想いと茨の道のメロディーなのに、最後にたくさんの花が咲いたみたいに幸せな気持ちになれる。」
だから彼に自分でどう歌おうとしているのか尋ねても、それはむなしい努力。先生からは踏み込んだ説明も心すくようなアドバイスも無かった。押し流されるがごとく歌っている。
「仕方ない。オレは歌うだけ。こんなイイカゲンだから、いつかソロはクビになるかも。中国の歌なんで、ブレスだけ落として、あとはオシリの穴と喉と、両方閉めるんです。ムズカシい。先生から言われたのは、自分のソロが部屋中に響くのをよく聞きながら歌っていきましょうというコトだけ。でもさぁ、外で歌うときはどうすりゃイイんだ?!」

 今、僕らの所在は休日の正午にほど近い。暖かな明るい船べり。ソリストはそれでも半袖の開襟シャツにサージ紺のブレザーを羽織り、キュンとすまして歌っている。左の方だけ上着から出ているシャツの襟。ぺたんと巻いた腰の弱い髪。それでも両掌をつぼみのごとく優雅に閉じて、きちんと美しく合唱団標準の姿勢を保つ。柔らかく波打つ歌いだしのフレーズがもう一度膨らみながら花と咲いて。アクリル容器のフタをキュッと鳴らしたようなストレートな声質が、デッキに居並ぶ僕らの声を制していたのだった。やがて曲はソロの運びを受けて明るめの合唱へと受け継がれてゆく。纏足がちょこちょこと踏むような中国的な間奏の後、再び分別顔の賢い少年が一人、何事もなかったかのように2番の歌詞をひょいと受け取って歌ってゆき、曲は終わるのだった。甲板のバルコニーテーブルに広げられたカシオトーンがジランと最後の和音をアレペジオ気味に弾いて。その歌は慈愛に満ちた僕たちの幸せな航路を願っている。

 船上に潮解途上の粘度ある川風が流れ、腹のくちた9歳から12歳までのデコボコの男の子の集団がカラッと余興を歌い収める。シャトルは面舵をきって西方からの水路を後ろに従えた。
右岸にガラス張りの望楼。コンベンションセンターを擁した30階超の望楼。建物の切羽は一度崩落して今は無い。今まさに絶滅しようとする生き物の名前をいただいたそのタワーは白亜の側面にガラスのカーテンウォールを被せた現代の宝塔のようだった。航路の帰結が近づき、皆はうすいグリーンや濃紺や白黒の衣類をまとった小ぶりできしきしとした身体をデッキにそろえて立った。イッちゃんは結局再び、河口の行く末に果てた消失点を眺めながらパンツを半ズボンのベルトといっしょにつかんでズリッと引き上げなおした。ヒロ君は飴細工でできた二つの目をしばたかせながら、航路に見た耕田の気配を思い起こし、うっとりと肩を溶かして今日前半の一日を思った。頭の中に未だ午後の出演の備えは無く、妨げのある彼の発音をそこに聞く者は誰もいなかった。水上バスは着岸を期して川幅を横切り、すべからくグレーの方形に組まれた歴史博物館や古風な石造りの銀行が射程に認められた。スーツケースのもち手を小さな湿ったオニギリ臭いたくさんの指が握り、人工の皮革を押しいだくいくつかの音が浅い欄干に放散している。イッちゃんは「ワカンネェ!」を繰り返した。僕はボートに乗った中国の子どもたちの日々を考えようとしたが、胸から下を震わす原動機の咆哮に思考は途切れがちだった。しかる後、下船した自らの黒い革靴の2脚が、こつこつとボードウォークにたてる快い音を想起しながら、僕はささやかな至福の一瞬を味わった。