たそがれのデルタ ■ The Delta At Sunset

April 25 [Wed], 2018, 15:50
▲コンサートは始まっていた。深谷少年が足元の転轍機カバーのようなものを黒い平たい靴の左の甲で押しやって立ち、開演の言葉を述べるのが見えた。松田リクが鍵盤ハーモニカで音取りの一音を鼓吹し、前触れもなく曲は立ち上がった。


 日が暮れて、遠く続く高いコンクリートの擁壁が、腐食のはじまった架線柱やジオ燐酸亜鉛の摩擦調整剤にまみれた金気臭い臭気の中で色を失うと、少年たちは決まってその懐かしい姿をあらわした。慢性的でもはや諦念ともつかない空腹は、意識の底へ低く緘黙に広がり、覚醒が苛まれ小さく息をつく頃合いである。零落し、あちこち凹んだまま遺棄された電気機関車の静止インバーターのなるべく平滑なグリルを選び腰を下ろすと、まず私にまどろみが到来し、数瞬、船をこいで我に返る。続いて黒い匂いを放つ2ダースほどの矮小で美しい少年たちの身体が、物々交換の期待を孕んで集まったいくばくかの人々の深い褐色の影法師の背後へと、バラストを踏む音だけをかちかちとたてながら立ち入ってくるのだった。
残り香を思わせる生気を逸した精薄な光の中で、たそがれは薄い毛羽立ったシャンパンレッドのブランケットを纏ったように、荒廃の操車場の瓦礫の上を覆い尽くしていた。
「先生、今日は何を聞きたいですか?」
でたらめに横転したEH500から転がり出てきたと思しき制御箱の上に私が胡坐をかくと、彫りが深く目張りを入れたほど眠たげに瞳を瞬かせる少年がやってきて、睫毛をそば立たせいつもの質問を投げた。彼らの大小の奥二重の縁には明らかな葡萄色がアイライナーのごとく静かに貼付されている。
「大樹君は、今日何を歌いたいの?君の歌いたい歌を私は聞いてみたいよ。」
溶けそうな視線の中で男の子は私を見やり、
「僕の歌いたいのは『いのちの歌』です。」
と頬のはだをたわませて応えた。こんな世の中になってしまった今も聞いている人を幸せにしようという信念で歌う子は多くはないのにちがいない。彼はここへ来るとき常に黒っぽいフライトジャケットを着ていて、歌うときだけ脱いで足元へ丸めて転がしておく。「お家のかたは、キミのことが可愛くて可愛くてしかたないでしょう?」と声をかけてやると、照れながら「はい…」と応えた。
続いて、私のすぐ隣で土ぼこりにまみれたトートバックの中から洋酒の鶴首を握って引き出そうとしていた老婆のような人のところへ少年は歩み寄り、再び「今日は何を聞きたいですか?」と同じ質問を繰り返した。
「どんな歌が歌えるの?おばさん、初めて来たからわからない。」
女は言葉を返しながら私の方をちらりと一瞥して男の子の返答を待った。
「…学校で歌うような歌です。音楽の教科書に出ている歌や、音楽集会とかで歌うような…」
少年は答えた。
「おばさん、お酒しか持ってないよ。ぼくたちにあげられない。先生に渡す?」
「僕たちは物々交換に来たんじゃないんです。ただ練習した歌を聴いてもらいに…。」
感覚的には大休止から気の遠くなるほどの月日が経った今、公立学校というものがどの程度本来の機能を果たしているのか私には全くわからなかったが、彼女は「ふるさと」という題名を口にした。
子供が次の客にオーダーを聞きに歩み去ると、老婆は私へ角ばった25オンスのバランタインボトルを見せ、早速交渉に入った。
「何も持ってない。歌を聴きにきただけなんだ。」
瓶の中身はおそらく安酒を入れ足したものかもしれない。彼女は小さな丈夫そうなショットグラスをフリースのポケットから躙り出し、伸ばした袖を使ってそれを拭った。
「チョコとか飴とか?」
ポケットをまさぐる左手は、融けかけたのど飴が銀紙をねじってつっこまれているのに触れた。
「龍角散の飴。5粒ぐらいしか残ってない。」
「いいよ。出血大サービス。グラス1杯。どう?」
ナカミは飲み残されたサントリーレッドだろう。酒は「高価」なカテゴリの交換品で、口をつけてみるともうしばらく洋酒というものを味わっていなかった私にはとびきり味わい深く芳醇なものに感じられた。家には配給品の「1.7 23 気」という合成酒が長方形の瓶の底に少しだけ残っている。何かの時に飲もうと手をつけられずにいた無色透明、ジン風味の人造アルコールにはすでに黄変が始まっていた。
「ドラえもんのうたと異邦人。」
「はい、みんな、ドラえもんのうた歌で開幕。次が異邦人。」
指揮者先生が次に大樹少年を指名した。
「はい。いのちの歌とふるさととたきびです。」
「鷹居くん、ふるさとは文部省唱歌?それとも…」
男の子の影法師は真っ直ぐに立ってサビを軽く口ずさんだ。
「♪雨降る日があるから虹が出る 苦しみ抜くから強くなる…でお願いします。」
老婆の所望はおそらく文部省唱歌の方だろう。4年生は勘違いをしているのだ。
「わかった。じゃあ、たきび、いのちの歌、ふるさとの順で。最後、大森くん?」
大森少年は左手の中指を鍵形にしてメガネのレンズを少しだけ上へあげたように見えた。
「エーデルワイスと大漁節…かな?」
「はい。エーデルワイスと大漁節。じゃ、予定変更。最後にふるさとを持ってこよう。」
小さい子達が「大漁節」を知るのは驚きだったが、彼らは毎回これを歌っている。私と同じようにコンサートへ日参している無精髭の団塊崩れっぽい男が毎回リクエストしているからだ。
「松田リクくん、始まったら最初にAの音、ください。」
「はい。」


ささやかな焚き火の傍ら、彼らは比較的小さな声で言葉を交わしているが、電気的なものの立てる雑音の無い夕刻の屋外にそれらは輪郭をともなってはっきり聞こえてきていた。松田リクくんとさきほど名指された男の子はさらに図に乗ってゆるいS字を描く鍵盤ハーモニカの黒いマウスピースをぽんとくわえピーターと狼の旋律をひとくされ奏でた。人々は驚いてあたりを見回したがもちろん人物は一人も増えていない。おそらく首都圏のエマネータは大休止で一台たりとも動かなくなっていたからだった。5ー6人の客が立ったり遺棄物に座ったり、思い思いの格好で篝火のオレンジ色を顔に浴び、靴墨を伸したようなきつい影を背負って少年たちの隊列と対峙した。
「みなさん。今日も僕たちの歌を聴きに来てくださって、本当にありがとうございます。一生懸命歌いますから、どうぞ最後まで応援してください。」
柿の実色に白目を光らせたやんちゃな男の子が、指揮者の目配せを受け取り一歩半進み出て開演の声を発する。彼の足元で、踏み潰されたプラスチックのスイッチボックスのようなものがパリパリと音をたてた。うら寂しい数人の乾いた拍手が松明のはぜる音に混じってあちらこちらにたった。担当の少年が、よくありの32鍵ピアニカのベルトへ逆手に刺した掌の上でラの音をぶーと吹いた。

 半時間後、少年たちがインディゴの新しい宵闇をバックに、もはや赤インクで描いた線画のような頭を弱り始めた焚き火の前で垂れると、演奏会は終演となり、残った観客は暇乞いもそこそこに立ち去り始めた。「バランタイン」?のショットグラス1杯弱の酔いはまだ薄く気持ち胸によく通り、体の芯の温もりとして残っていた。口の端を親指と人差し指で挟むようにこすると、ヴァニラの香りが焦げくさい指の匂いとともに甘く回帰した。
撤収の居住まいを整える少年たちの隊列の左側の方から鷹居大樹が私のところへ小走りでやってきて、子供の匂いのする彼の左手で私の手の甲を掴み、握った右掌を添えて何かを持たせようとした。
「これ、あのおばさんがくれたから、先生にあげます。」
団員らが私を何故「先生」と呼ぶのか、かつてリクエストをとりに来た少年たちへ尋ねたことがある。
「…なんか、先生っぽいから。」
地面のある家に住んでいるほとんどの人間がそうしているように、私は庭を耕して野菜を育てたり、自作の霞網で鳥を捕獲したりして暮らしている独り住まいの一人ぼっちの男だった。かっての職場は電車を3本乗り継いで行くほど遠く、大休止の今となってはもはやたどり着くすべもない。
大樹が私にくれようとしたものは、ショットグラスの中味と引き換えに老婆へ託した龍角散のど飴の銀紙に包まれた一つぶだった。
「…何で?」
男の子は暮れてゆく陽の陰に無表情な面持ちを浮かべて
「いつも来てくれるから。…少年合唱団は、お客さんに歌以外のものもあげるんです。」
…この不幸で黄昏れた散々な時代は、よわい10歳の男の子にこんなことも言わせるようになったらしい。ほとんどの子供の室内娯楽は本を読むか絵を描くかだ。書物は明らかに彼らへ豊富な語彙やレトリックを与えている。
「今日も一生懸命僕たちの歌を聴いてくれたから。僕、嬉しいんです。」
音楽は人が歌い、産業革命以前のテクノロジーを使って奏でるものしかもはや存在しない。CDもシリコンプレーヤーもテープもレコードも(小学校の「昔ルーム」や「昭和のくらし博物館」にしか存在しない手回し式蓄音機で聴くEPレコードが唯一の例外だろう…)、今やおよそ電気を使って動くものは何のモーションもノイズも楽音も発しない金属やプラスチックの四角い塊に過ぎなかった。端緒は私がこのデルタ線の操車場でしゃがみこんでいた時、偶然ここで彼らが歌い始めたのに過ぎない。だが、私にとってはおそらく残された生涯唯一の「音楽」であり合唱なのだった。私の生の目的は、荒涼とした夕べの始まりに、黄昏のデルタで稚拙だが明らかに生きている彼らの合唱を聴くことへ帰着してしまったらしい。
「これはきみがもらったものだから、きみが食べなさい。…少年合唱団は、お客さんから拍手以外のものも貰う。大樹だけがいただいたのは、あげる飴が1個しか無いからだろう。」
「…でもー。」
男の子は到来した夜目にもはっきりと判る真っ赤な唇を丸めて逡巡した。
「少年合唱団のお返事は『はい』じゃなかったのか?」
今度は美しいほど流麗に表情が解けた。
「はいっ。ありがとうございました!」
男の子は垢じみた半ズボンの裾からその通り垢臭いにおいを吹いてぺこりとお辞儀をし、来た時と同じ小走りでソプラノ隊列の端の方へ戻っていった。男の子は他の団員も躾けられてそうしているように、頭を下げている間に「1、2、3、4、5…」と口の中で唱えてから姿勢を戻した。

 大休止の訪れたあの不愉快で冗長な午後、滑空の末に操車場へ自由落下のような胴体着陸をこころみたワイドボディ機の残骸がこの付近からデルタ北西部の高層住宅群のふもと一帯へと飛散していた。この旅客機はいずこから飛来し、いずこへ行こうとしていたのだろうか、今やもう知る由もない。少年たちはギャレーから吹き飛ばされてきたらしい使えないコーヒーポットやひしゃげたミールコンテナを跨ぎ超えて今日もやってくる。
「みなさん、こんにちわ。今日はタンゴ特集です。楽しいタンゴの歌をたくさん歌います。どうぞ最後までごゆっくりお聴きください。」
おそらく空きっ腹を抱えひょろりとした少年たちが、今宵も黄昏のデルタに肩を揃えて並ぶ。
瓶田少年が指揮者のシモ手横にセールストークばりの精悍さで引き締まった口調のオープニングMCを発したが、今日、3人しかいない観客は普通のそつのない拍手をしただけだった。やってきた彼らの隊列にリクエストを取る団員の挙動は無く、いつも私のところへやってきてオーダーをとる少年たちが果たして今日も出席しているのかいないのかわからなかった。暮れがたの打ち捨てられた操車場に陽の名残は無く、何か遺棄物を燃やしているらしいシケた焚き火はいつも彼らの姿を明瞭には照らし出しはしなかった。断続的に何かの虫がモールス符号を練習する通信士教室のように鳴き交わしていた。おそらく世界を覆う沈黙と遅滞と空転と湿った冬が続き、我々皆が薄倖に満ちた忘れがたい数年間を過ごすこの<大休止(ザ・リセス)>とも呼べる時代の最中(状況が憶測の域を出ないのは、我々の誰もがそれを確かめるすべを持っていないからだ)にも、夜目となれば蟲は降り注ぐが如く身体を震わせて鳴いている。彼らは次第にわたしたちのタンパク源へと昇格しつつあったが、鳴き声はとどまるところを知らなかった。
「赤鬼と青鬼のタンゴ、黒猫のタンゴ、タンゴむりすんな、だんご3兄弟、魔女のタンゴ、ふたごのタンゴ、虫歯のタンゴを続けて歌います。赤鬼と青鬼のタンゴのソロは岩田大地くん、黒猫のタンゴのソロは鷹居大樹くん、あばれはっちゃくのテーマ=タンゴむりすんなのソロは内田葉月くんです。今日は一番拍手の大きかった曲をアンコールで歌いますから、どうか一生懸命応援してくださいッ!」
少年は流麗に曲紹介を言い切った。彼が自身のメゾ寄りの立ち位置へ帰投する数瞬、油の燃える頭重な匂いが乾いたピーナツの殻を踏みしだくがごとく灯火の音とともにこちらへ漂ってきた。定席になっている横転したコンバータの縁に浅く掛けて(貨物列車の廃棄物は潤滑剤など様々なものがこびりつき、汚濁していることが多いのだ)、私は名を呼び上げられた少年らの存在を隊列に確かめた。合唱団はいつもこうして役の付く子供の名前を紹介するので、観客はすぐに彼らのハーフシャドーになった面影と名前を結びつけて覚えてしまう。
「内田くん、ハヅキって漢字でどう書くの?」
リクエストを取りに来るタイミングで私は彼らの名前の由来を確かめた。
「僕が8月に生まれたから、葉っぱの月って書く『葉月』です。」
少年たちは少しだけ照れたり、無表情で内心『よく言われるんだ』という所作をしてみたり、「ありがとうございます」と形ばかりの例を言ったりして戻っていった。
赤鬼と青鬼のタンゴのコーダには大げさで野放図なボーイソプラノのカデンツァが入っている。5年生ぐらいの団員が派手なビブラートをつけてオペラアリアのごとく泣くように歌い上げるさまは技巧的にも非常に良くできており愉快だった。何もなければ当夜のアンコールで演奏されるのはこの曲だろう。だが、歌い終わってソリストが元の場所へ収まり彼らが撚った制服の裾を下に引き居住まいをただすと、焚火を浴びた隊列の最前列から押し出されるようにしてソロ位置へ一人の少年が飛び出てきた。鷹居大樹。…口中に押し留めながら私はひとりごちた。環境の悪さからか、男の子は白く蒼い瞼を鬱陶しげにしばたかせて指揮者の合図を待った。ポロリと溢れた音取りのピッチに合わせ、少年らはフンと短く最初の音を出してみせる。松田リクが鍵盤ハーモニカの唄口を舐め直し、曲には彼の伴奏が入ることを教えた。

♪ラララ ラララ ララ!

だが、なんということだろう。鷹居大樹はそれに続け、流麗なファルセットでメロディーを泣き始めた。

♪君はかわいい ぼくの黒ネコ赤いリボンがよくにあうよ だけど時々つめを出してぼくの心をなやませる

日が暮れるにつれ、遠方から漂う枝葉のさざめきやムクドリなどの鳥たちの鳴き交わす不穏な声は聞こえにくくなっていた。こんなに甲高く、だが強靭な、しかし無駄な力の入らない美しい波長が10歳の男の子の咽頭から生ずるものなのだろうか?コンチネンタル・タンゴ特有のリズムをしっかりと気持ちよく踏みながら大樹はピンと張った音程で端正に日本語を折り畳んでいった。ブレスの為なのだろうか、茫然自失の面持ちで彼はソロを引き取ると、離れていても明確なほど視線を宙に結んだまま、歌を全隊に戻した。

♪黒ネコのタンゴ タンゴ タンゴ僕の恋人は黒いネコ
 黒ネコの タンゴ タンゴ タンゴ ネコの目のように 気まぐれよ
 ラララ ラララ ララ!

松田少年の弾くピアニカがバンドネオンのようなスナップを効かせて勝手にラ・クンパルシータのメロディーを重ね、間奏を繋いだ。大樹少年が引き続き2番のソロを歌い始めるのがもう待ちきれず、私は落ち着きを失ってきょろきょろと周囲を見渡した。夕日の名残はすでに全く失われており、退色した辺りの光景はそこが元操車場であったことを感じさせないほど距離感を遺失してしまっていた。この私たちのうち誰かがもし、外縁を走る(…かつて走っていた…)近郊型列車の車輌の窓からこちらを見下ろしたとしたら、一団は眠りの速度を計る下降定型階梯に苛まれた何かの儀式を執り行う宗徒に見えたにちがいない。
「こんにちわ!僕は鷹居大樹と言います。」
「こんにちわ。きみ、何歳?何年生?」
「10歳、4年生です。」
初めて声をかけられた日、少年は少しく貧弱で4年生の男の子には見えなかった。広域に強力なEMPが降ってから(…誰にもそれを確かめる術はなかったのだが、私たちの移動手段として唯一残ったかつての傍若無人で無法で嫌われ者だったはずの自転車を使い、そういう情報を伝達しあう人々はいた。彼らの言うことは個人の言説の域を出ないので信憑性に欠けていたが、私たちは自分の生活圏へ動力駆動して動く乗り物が一切やってこない事実を1年以上も突きつけられた後、ようやくそれを確信するようになった)、子供らの体格は目に見えて矮小化し、ささやかなものへと祝着した。食べるものがほとんど無かったからである。だが、衣食足りて礼節を知る最後の時代に礼節を学んだ彼らはたいていひもじいと口に出して言わなかったし、サピエンス種の本能からかほとんどの子供が食べ物はもっと幼くて弱いものへ譲るべきだと習慣として考え、健気にふるまっていた。
「偉いんだね。」
私が思わず彼の生を讃えると、少年は殆どはにかみもせず黙っていた。
「いつか、きみのソロを聴いてみたいけど、頑張れるかな?」
「なんで僕に?」
「きみは良い口と顎の形をしているよ。こういう子はたいていかっこいいソロをとれるものなんだ。」
大樹はそれでも表情を崩さなかった。
「…それに、正直言うと、きみの声が大好きなんだ。…きれいな声だから。」
男の子は今度だけは非常に真剣な面持ちを浮かべた。じっと私の目を見据え、
「はい。頑張ります。」
と一言だけ約して頭を下げた。
鷹居少年は今夕、その誓いを守って歌っている。

♪キラキラ光る黒ネコの目 夜はいつもきみのものさ

彼はそこまで歌うと、道を引き返す小さな仕草で身体を還し、ソプラノ側へ背中を丸め、戻っていった。

 少年たちはみな驚くほど小さな布切れのようなネイビーの半ズボンを履き、ブロードのワイシャツの裾をウエストバンドの中へしっかりとたくしこんでジャケットを羽織っていた。ズボンがどれもハイライズなので、欠食児童の彼らもどうやら小さくなった制服を何年も無理やり履いているらしいことがわかる。ランスロット君が制服のスリーブからワイシャツのカフスをまるまる覗かせて「緑のそよ風」のソロをとった夕刻、彼が私のところへ終演の挨拶をしにやってきたタイミングで(観客はその日、私一人しかいなかったのだ…)尋ねると、
「毎年9月と4月に制服交換会があって、お母さんがそれに来る子は大きい子から順繰りに制服一式をゆずってもらうんです…。でも、僕のサイズより大きいのを着てる上級生はその時は一人も卒団しなかったから…」
彼の着れるサイズの服は、制服交換会に存在しなかったのだ。EMPの降る前はきっと合唱団から新品の支給があっただろう。
「いいよ。丈の短いジャケットはランスロット君が身も心もひとまわり大きくなった証だから、私は好きだ。すばらしいことだと思わないかい?」
男の子は彼らしく夜目の中で薄咲の梅のようにニコリとした。私が揉みしだくがごとく両掌で握手をして隊に戻してやると、帰り際にこちらへスカスカに空いたサイドベントの腰をひねって笑みながら手を振った。ランスロット少年はそれから2ヶ月ほどしてここへ姿を見せなくなった。変声は甚だ急なうえに重篤で、最後の頃にはもう口も開けていないというありさまだった。「喉をこわしたらいけないから、卒団しなさい…先生もみんなも君の声が変わるまでいっしょに歌えて幸せだった…って、先生に言われてみんな全員からハグされて卒団しました。」と深谷くんが教えてくれた。…ランスロット君より1つ下級生の深谷くんが最近、彼らの団をまとめている。団員代表だ。少年合唱団というのはこんな時代になる前から、既に5年生が統率するものだったらしい。夕方のコンサートへ来なくなり、つんつるてんの制服に無理やり腕を通すことが無くなって、当然日々の合唱の練習にも来なくて良くなった変声途上の男の子の日々を私は黙として想った。彼が置いていった制服は今、誰が着ているのだろう。

 黒ねこのタンゴより1ヶ月ほどして、鷹居少年の姿が急に見られなくなった。4年生の男の子だ。声変わりということは文明の後退したこの時代、およそ考えられない。「家族の仕事の都合で転校」ということも発生し得なかった。もう何日にもわたって彼の声が聞けていない。深谷少年が暮れどきにさえ驚くほど真っ白なハイソックスを履いてきていた。サイズオーバーで前の靴下を破くか譲るかして履けなくなったのだろう。滅多に拝めないような新品だ。暗い中でよく見ると、その下に履かれたコインローファの甲皮がパンパンに張って鈍い光を放っていた。リクエストを聞きに来た時機に尋ねてみる。
「深谷くん。鷹居くんは今日もお休み?」
「お休みです。今日のリクエストはなんですか?」
「今日はネ、黒ねこのタンゴが聞きたかったんだ。鷹居くんはどうしていないの?」
深谷寒太郎はベレーをミリタリー被りにしてきていた。まつ毛がぱっちりで美男に似合う。
「怪我しちゃって…。」
「どんな怪我?」
「足が折れちゃって…骨が出ちゃったって…。」
「どっちの脚?」
「…知りません。」
開放骨折で左足だからまだ良かったというのんびりした話ではない。
…病院は機能していないか、ボランティアでトリアージをしているかのどちらかだ。かつて医療がいかに高度な電子機器で維持されていたかを私たちは思い知らされている。テレビのあった時代、私たちがBlurayや配信で見た「JIN-仁-」の江戸時代の光景をときに思い出す。輸液の点滴装置は使い回しを覚悟でかろうじて存在していたが、現代人が自家製の抗生剤を作り出すことは夢物語に近い。
「じゃあ、黒ねこのタンゴでいいですか?」
この曲を他のキャストの声で聞いたら、私はどう思うだろう?一瞬考えた。
「…じゃあ。…じゃあ、今日は『我が去りし祖国 Elindultam szép hazámbul』にしよう。」
「先生…それは独唱曲です。」
「ソロでいいから。独唱がいいんだよ。…大森君が歌うんでしょう?」
ご指名だ。大森少年は隊列のアルトの端で汚れた眼鏡を灯火に赤く光らせて、友人らとお茶目なポーズを取ってじゃれあっている。私はその子の旨味のある嗄声が好きだ。下級生のソロを推挙されたリーダーは不満げだった。新しいソックスが苛立たしげに足許の暗がりで触れた。
「はい。我が去りし祖国を歌います。先生っ、ありがとうございました。」
先生と呼ばれることには慣れていたが、今日は何かが引っかかった。大休止が私たちの日常の何を変えてしまったのか、美しい白い脚に痛みを抱え眠れぬ夜をも過ごしているだろう真摯な少年の生を想いながら私は演奏の始まるのを少し待った。歌が聞こえれば気がまぎれるだろう。何かを作り歌う以外は一つの享楽も無い毎日。私はそうして一人、日々ここへやってきて少年たちの歌を聴いて帰る。たそがれのデルタがやがて闇に暮れ、乱雑な松明がシケた嫌な音をたてて終息へ向かう頃、私はまた冷たい臥所へ一人静かに戻ってゆく。それだけの日々なのだった。いつかある日、この子らと一緒に渇きも癒える冷たいオレンジジュースを喉を鳴らして飲んだり、ゴンドール人が中つ国に建てた塔のような巨大なチョコレートパフェの林立に眉間を閉じながら思いっきりぱくついてみたりしたかった。それが叶う日はおそらく私の一生が続く限り決して訪れることは無いだろう。冷蔵庫の中へ降雪の日に集めた雪や家の庭に置いたポリバケツにはった氷を詰めておくことはできたが、夏が来る前に全てコケ臭い匂いのする水へ変態を遂げてしまうのだった。水を集め、貯めて使うことは大休止の後、私たちが一番最初に身につまされながら覚えた最低限の存命法だが、それができていてなお、少年たちに「アイスクリームの歌」や「君に胸キュン」を歌わせたりしながら精薄な今日と明日を私は無条件に受け入れているのだった。


 夕べの木酢液の色の光の中で、花は淀んだ不明瞭な色で花弁を閉じていた。ヘモグロビン様の汚れた色に滲んだ白い縁が百合咲きの花びらを薄ぼんやりと覆っていた。太い優しい少年の腕のような花茎が1本。注意深く根元に付けてつみ取ってきたはずの2枚の細い葉はもはや取れそうになっていた。傾いて脱落したコンバーターの上へ、毛布を折り返したらしいにわか作りの担架が据えられて、横たわる男の子の体は沿岸地域の夕暮れの風景を縮刷してそこにあった。彼の下半身にかけられたブランケットの端からは饐えて朽ちゆく肉体の匂いがしっかりとたっていた。
「このチューリップの名前を知っている?」
噛み合わせを逸し始めた男の子の口から、それでも言葉が返ると少しだが安堵する。
「チューリップにも名前があるの?」
「あるよ。君たちの合唱団にも名前があるでしょ。」
男の子は今度はわからないという諦念を長い睫毛に浮かべた。
「バラードっていうのさ。大樹くんにあげる。お花を見て元気になろうな。」
少年は無言で、だが強い信念を込めて肯首した。
「元気になって、またみんなと一緒に歌を歌おうな。」
「はい。」
今度は粉を上手に切り混ぜたサクサク・クッキーのような薄い返事の声がした。毛布の横に据えられた制服ジャケットの腕を取って鬱金香の聡い茎を白い手に握らせ、私はもう片方の手の親指で彼の顎にあるしみを撫でた。
「足が軽くなったら、また合唱団のみんなを守ってやってくれ。」
男の子は花茎をワイングラスのように掴み、疼痛に表情を歪めながら匂いを嗅ごうとした。この品種は果実の芳香を花弁の中に閉じ込めている。
「ジュースみたいな匂い…。食べられる?」
「食べられるチューリップが特別にあるらしいよ。きっとでんぷんや糖分の塊だろうね。」
「食べたら僕も元気が出るかな?」
自宅の庭の端。雨どいの吐水口の近くにチューリップが何本かいいかげんに植わっていた。品種の名前が分かるのは大休止の前に札を立てて何年か特別に育て続けていたからだった。大きくして増やし、ユリ根のように食べるつもりでいた。近所の外国人から、普通のチューリップには毒があると聞いて放置してある。
「…1本だけ、僕に?」
声に以前のようなレモンイエローの明瞭さは無い。
「特別だよ。大樹くん、大好きだから。すごくいい声だし、みんなに優しくしてくれてるところが夕日の中に見えるんだ。しあわせになる。」
「僕の次は誰にあげるの?瓶田先輩はいい子だよ。予科生のころ、僕にお菓子をくれた。」
「瓶田先輩が良い子なのは知ってる。そうだよね。チューリップあげたいね。でも…ごめん。家の花壇には学校みたいにたくさんのチューリップは無いんだ。植えっぱなしだし、これ以外のは小さくてまだお花が咲いてない。また一つ咲いたら瓶田くんにもあげるね。約束する。」
瓶田少年の成長もまた彼の寸足らずのソックスを先日新調していた。「なんか、これじゃサイハイソックスみたいじゃない?まったく!長すぎと思いません?まあ、いいですけど…。」夕陽のくれた後、彼はそう毒づいて横目づかいに漏らしていた。
コンサートは始まっていた。深谷少年が足元の転轍機カバーのようなものを黒い平たい靴の左の甲で押しやって立ち、開演の言葉を述べるのが見えた。松田リクが鍵盤ハーモニカで音取りの一音を鼓吹し、前触れもなく曲は立ち上がった。

♪ 友だち 友だち 友だち それは 風 風に似ている

「瓶田先輩が僕を助けてくれた。合唱の帰りにあっちの駅で先輩たちと食べ物を探してて、ホームから落っこちちゃったんです。バカですよね。とっても痛いです。悪い事した罰だと思います。」
鉄道の駅の入り口にはシャッターが下りているはずだが、大人たちは物色のためそれをこじ開けてしまっていた。たいていの無人の公共交通機関は全てものを盗られた後のがらんどうだ。少年たちが忍び込んだあの駅のプラットホームには、もともとキオスクが設置されていないことを私は言わなかった。
「『友だち』…かっこいい。」
鷹居大樹が眩しそうな目で言っている。少年たちが薄明の中で下げたジャケットの腕ぐりからワイシャツのカフスが長方形にぼんやりとした若干の蛍光を放ち、その下には縦じまの手の甲が正方形に見えていた。大樹少年のおっかない、だが真摯で美しい表情とねじれの位置にある鬱金香を私はぼんやりと眺めやった。大きな身体の団員たちが、この不遇の男の子を仮設担架に乗せ、毎夜、黄昏のデルタへと運び入れていた。ユーリ少年と星埜くんと。それから下級生の大森少年とアキヨシ団員が、深谷リーダーや瓶田少年や本来は小柄でシャイな渋谷くんへ日替わりで運搬役の一人を勤めていた。日暮れかけて彼らは儀式のごとく静かに横たわる4年生ソプラノを担架ごと私の隣へ下げ置くと、一言も言わずに隊列へと戻っていき、終えれば自身も怪我をしないよう留意しながら担ぎ棒を握りとる。星埜少年の発する「いち、にっ、さん!」の声かけを合図に担架を腰まで引き上げて運び去った。ユーリ団員が下級生の脚にかかったブランケットを整え、瓶田少年が「帰ろうな。」と声をかけたかと思うと、私にも「お世話になりました。ありがとうございました。」と礼を言って緩く頭を下げ、重そうに担架のサイドバーを揺らし帰途につく。鷹居大樹がいつもどこか有痛に「先生、さようなら。また明日。」と力なく手を振る様子が印象的であった。松明の火が朽ちかける頃、彼は担架の四隅を持つ少年たちに囲まれながら、操車場の廃墟の暗がりの中へ静かに消え去っていくのであった。こうして団員の一人と少年たちの歌声を聞く半刻ほどの時間は音に満ちて美しく素晴らしかった。横たわる子はもともと痛みからか伏しているからか歌うことができなかったし、次第に口数も減って彼の方から何か言うことはほとんどなくなったが、私は明け方のほんの数瞬とも言える時間に男の子と彼を黙して見守る少年たちの夢を見るようになった。
「僕?…僕は夢の中で先生に何って言ってましたか?」
「夢の中の大樹くん?制服を着て、大抵『待ち時間』か、おやすみの日に普段着を着て挨拶に来て、不二家でみんなとオヤツを食べるだけなの。ニコニコして、何も言わない。」
「そうなんだ。ごめんなさい。」
夢の中の自分の有りように彼は謝罪の言葉を述べた。
「何言ってんだい。いいことなんだよ。先生はとても幸せな気持ちで毎日目が覚めるよ。ありがとう。」
男の子は痛そうな面持ちを目の下に少しだけ浮かべて静かに笑った。
「他には?…他にどんな夢をみる?」
「わたし?…前は食べ物を探して何も見つからない夢とか、飲み水をためてそれが『腐っちゃう』夢とか…。でも、そんなのはもう見ないな。きみたちの夢ばかりだよ。」
「そうなんだ…。良かった。」
『腐っちゃう』という連語補助動詞が自分の口から出たことに私は後ろめたさを感じた。男の子はもちろんそれに感応することはない。


 廃校舎の下層階、白っぽく煤けた片廊下に紺ジャケットの制服の少年たちがキッチリ2列縦隊で体操座りをしていた。どの子も背筋がピンと伸びて、阿弥陀かぶりのベレーの盆がこちらへそろって楕円形に傾いている。鷹居大樹は、一番後ろの右側で胸椎を美しく後彎させて前を見ていた。何かのイベントの待ち時間。おそらくスタンバイの直前だろう。起立してこのまま前進し、校舎の側扉から屋外を経由しステージ袖へ至るに違いない。だからソプラノの大樹は一番後ろの右側にいるのだ。私はこれから客席で彼らを見る予科生たちの暖かい挙動に促され、静かにその場を退去しようとしていた…。
「おはよう」
私はひとりごちた。朝がやってきていた。風雨と、数週間前までの午前中の雨と、めっきり多くなった冷涼な気候と(EMPを落としたのは自然保護団体だったのではないかというデマがまことしやかに囁かれていた…)で、窓辺のチューリップが寝覚めの薄明の中に弱々しく揺れていた。花茎を垂れ、どこまでもしなって揺れる花だけが夜来の嵐に耐えてしっかりと厚い花弁を保っていた。昨日まで膨らませた少年の合掌のごとく小さく堅く蕾を閉じたまま立ち上がっていたバラードゴールドの蕾がこぼれるように咲いていた。蜂球を散らしたような4メチル3ヘキセン酸の匂いが吹きすぎる風の中でかすかに旋った。
 夕刻、ベンガラ色から彩度も照度も落ちゆくデルタの遠景を眺めやりつつ私が清々しい気分で少年合唱団の登場を待っていると、先頭に4人の子どもの倦怠の逆手で支持された担架を擁す隊列が、今までになく淀み疲弊した様相でこちらへ進み入ってきた。鷹居大樹はもう自力で上体を起こしてはいなかった。枕か布団のようなものを背中にかまされて、かろうじて合唱が見れるようにしてあるだけだった。枯渇した精気を放ちながら、寝台の上の少年はぼんやりと宙を見つめ、胸から下を覆ったブランケットの凹みには、油が戻って内側からピロー包装を汚している松茸形のちんこすこうが一つと、瓶の蓋でそれとわかるボンヌママンの何か黒っぽいジャムの1オンスがお供物のように揺れている。私たちの定席は電気機関車の装置の筐体から、引き剥がされたボーイングのCFRPのフラップ(のようなもの)へ変わっていた。あたりには油や化学物質を厭わない黒っぽい植生が繁茂し、少女が見た湖の夢のように無機物をとりこもうとしている。揚力翼の端の私の隣に鷹居大樹をフレームごと下ろした少年たちは、こちらを振り返りながらスタンバイ中の隊列へ小走りで戻っていく。ショタ漫画のキャラほどにきっちりスポーツ刈りと脚の線を揃えた渋谷少年が途中で駆けて戻り、友人の様子をもう一度確認した後「よろしくお願いします!」と低い声で私に向かい小さく頭を下げていった。
「大樹は今日は何を歌うんだい?」
立場を責める感じが微塵もしないよう口調を整えて、傍らで放心する子に私は尋ねた。
「…何にしよう…」
少年は掠れた声で自問できた。
「今日は私のために一曲歌っておくれよ。言っていい?」
「うん。」
「少年合唱団のお返事は『はい』でしょ?」
「…はい。」
彼は団員たちの隊列をぼんやりと見ていた。
「じゃあ、『黒猫のタンゴ』がいいな。…ソロ、歌える?」
「うん…、……はい。」
全ての人々が生を試される世の中になって、日々生きた心のこもった歌を歌える少年たちは心底幸せだ。
「そろそろ開演の時間がやってくる。深谷くんたちがそろそろオーダーをとりに来る時間だよ。」
少年は今度は走り来るリーダー団員らの動きを目で追った。これまでに無かったことで、団員が4人、連れ立って私のところへやってくる。彼の兄役をつとめる結城易くん、瓶田少年、同じくソプラノの岩田大地くん、先ほど言葉を交わして戻ったばかりの渋谷君。あまり良い兆候とは思えなかった。
「先生っ。今日もおいでくださってありがとうございます。何を聞いてみたいですか?」
暮れたばかりのインクブルーの留置線を背景に、燃えだした焚き火を曲がった鼻筋に光らせながら瓶田少年が尋ねた。
「今日はね、『黒猫のタンゴ』が聴きたい。」
上級生はちらりと大樹の方を見やって言った。
「ソロは…」
「ソロは大森君と…私の横で大樹に歌わせるから。」
黒い子は合点したように頷いて、背後に広がる隊列のアルト側に大森少年の影法師を確かめた。指定の団員は丸い口唇を尖らせてつまらなそうに前を向き、時が来るのを待っている様子だった。
「わかりました。ありがとうございました。」
子供らは注意深く私の方だけに体を向け、揃って頭を下げて口中で「いち…にぃ…さん…しっ…ご」と唱え、直るなり走り去った。途中でアルトの渋谷がまた立ち止まり、担架の上の少年の姿勢を確かめるように向き直ってから、「大樹、小さい声でいいから、ピッチをしっかりな。」と声をかけ、そのまま倒れた架線柱をぴょんとまたぎ越えて戻っていった。
「大樹、きみなら大丈夫だよね。心配いらないよね。」
私は尋ねようとして、自分の左手に握られたチューリップの存在にようやく気がついた。切り花は瑞々しさを失い落ち際の状態だが、少年が家に持ち帰るまでは持ちこたえるだろう。
「また新しいのが咲いたから、君にあげるよ。…食べられないけどね。きれいで、少し匂いがして、きみが持っていれば合唱団のみんなも先生もお家の人も元気で幸せな気分になる。」
松明が赤く照り渡ったからか、少年の唇がすっかり土色になっているのに気づいた。
「チューリップはたった一度だけ一個のお花を咲かせて一生を終える。冷たい冷たい土の中でずっとずっと眠っていて、寝ながら嫌になっちゃうくらいお水を飲んで、春になるとあっという間に葉っぱを出して花芽を伸ばして、こういうふうにパッと一つ大きなお花を咲かせて散ってしまう。」
男の子が最近、ストラップの付いたサーモスのチェック柄の水筒をあまり持ち込んでいないことに気が行った。水はたっぷりと降雨のある日が続いた後でもない限り貴重品だったし、携帯マグを持ってきていても楽屋のようなものの無いこの演奏会で子供達は足許に転がしておいて歌うのが常だったから、それも当然のことなのだ。
「僕は…僕はもうお水はいらない。のどが…乾かない。」
いいんだよ。きみはちゃんと団員全員を見守りながらいっしょに歌っているだろう?
歌が、合唱が、演奏が始まった。少年はぐったりと首を背側に折って、かました毛布に体を預けた。指揮者がもう既に「帰れソレントへ」の2番のソリストへ「遠くへ届くように歌え」の指示を出していて、インド人のような顔をした茶色い四肢の少年が目配せでそれに応じていた。
「元気をお出し。私には君がソプラノの端で綺麗にブレスを引いている姿が本当に見えるんだよ。脚は良くなるんだ。何日も経たないうちに痛みも足取りも軽くなって、また元どおりあそこに立って歌うんだ。そのためにあげたチューリップなんだから、大切にしてお花のように元気に歌うんだよ。」
男の子はもう頭も動かさずに黄昏過ぎた空の鉄紺を見つめた。
「僕…あそこに行く?」
「行くとも!あそこへ戻るんだよ。」
「怖くない?」
「怖いものか。大きな大きな中山先輩にきみは『立つ場所が狭いからもっとシモ手へ詰めてくれ』とハッキリ頼んでいた勇気のある少年なんだ。そんな子が怖くなんてあるものか!」
「だって、初めてだもん…」
「…脚を折って、客席で私のそばで歌って、またあそこに戻るなんて、誰だって何回も繰り返しやることじゃない。初めてとかは関係無いんじゃないかい?」
頑張って、頑張って少年は上体を起こした。男の子はもう制服にもジャケットにも腕を通していなかった。家族か仲間の誰かが薄汚れたパジャマの肩へかけてやってきたらしいのである。夢の中で美しい楕円を描き被っていたベレーは横たわる10歳の少年の頭の温もりをこの刻限、優しく夜風から守っていたが、それを背もたれの後ろへ落としたまま体を起こしてしまったようだ。「帰れソレントへ」のソロとっていた深谷少年がもう新品とは言えないくらいへたって薄汚れた白ハイソックスの青くぼんやり光る右足を後ろに引き、つま先かかとでピボットをかけて気をつけのまま回れ右をした。防災少年団の訓練礼式のように…。団員はベレーのクラウントップを凛々しくこちらへ向けた。私は鷹居大樹の帽子の内側をかきあげて拾ってやり、かつて天津甘栗のように黒々と光っていた後頭へ被せた。少年は虚ろになりかけた視線をなんとか振ろうとしてあきらめたのか、吐き出すように「ごめんなさい。」と一言発して渡されたチューリップを離被架すらかましていない毛布の患部の横へ右腕とともにぱたりと横たえた。
「大樹くん、『ごめんなさい』なんて言うんじゃない!きみは何も悪いことはしていないだろ?!」
「帰れソレントへ」はフェルマータの後、激しい歌いおさめと伴奏ですでに終止していた。私のあげた声だけがその場に残り、ソプラノ側の少年たちが驚いてこちらへやってこようとして指揮者に制止されていた。私は声を落とし、それでも男の子の遠のく意識へ届くよう語りかけた。
「きみは合唱団の大切な団員なんだ。みんなの歌を助け、みんなといっしょに美しい声で歌い続けるんだ!私にはその様子が見えるぞ。大樹が言うのは『ごめんなさい』じゃなくて、『僕たちの声を聞いてくれてありがとう』とか『僕らはこれからも一生懸命に歌うよ』とかだろう?そうだろう?お返事をしなさい。」
男の子の眼光をどうしても確かめたくて、その小さいしっかりとした頭を正面から見ようと私は腰を浮かせ、体をひねって見かえった。指揮者が新たな挙動をもって次の曲が始まり、少年らは聞き慣れた下降音階をベル・カントのテノール歌手もどきに癖をつけて歌い始めた。だが、少年たちの誰も指揮者を見ていなかった。指揮者がすでにこちらを凝視し「黒猫のタンゴ」は心ここに在らずの状態で、横たわった団員を眺める少年たちが声を発しているだけのパフォーマンスだった。彼らの背後では暮れ切ったデルタ線の遠景が、滅びゆくモニュメントの残骸をオジリスの表象に据えた「魔笛」の書き割りのようにそびえ立って続いていた。
「ソプラノ4年、鷹居くん!少年合唱団のお返事は?」
いたずらっ子そうな笑みでこちらを見上げ、仕方なさげに返事をしてくれたら良いのにという思いだけで、私は彼の表情が変わるのを待った。だが、鷹居大樹は粘度のあるとろりとした両目の奥で、子供達の歌声に合わせ小刻みに視線を振り続けるだけだった。

JASRAC許諾第9009863024Y38200号

まほろ駅近 下多田少年合唱団

January 08 [Mon], 2018, 18:28

いつまで経っても変わらないことは
確かなものなんてないことだ
思い描いた未来のことを夢みて
さあどこまで行けるだろう

君のことも僕らのこともああ何でだろう
忘れ去られ地球が回っても立ち止まらずに
さあ行け行けまた陽は昇る

いつか心に刻んだ愛も
素敵な日々が残したことも
破れたノートに書いた気持ちも
ああいつかは伝えられるよ
ああ今でも思い出せるよ
ああいつかは伝えてあげよう

君のそばで笑顔のままで
出会った頃と同じ気持ちと
夕べのことも明後日のことも
ああ何でだろう
忘れてしまいそうなことでも思い出せるよ

さあ行け行けまた陽は昇る
ああ ああ ああ あああ


1. 少年合唱団のモットー

 「夏休みの終わりに仕事が入った。依頼主のお名前はガーランド煌惺。…メインMCやりたい人?」
北口人工地盤上、モニュメント広場の手すりから30センチ離れてうんざりと汗をかき、カフェモカ色の床面ブロックに数瞬で消える水玉模様を滴らせていた男子小学生の集団が、衝撃の沈黙の後、一斉に男の目を見つめてぴったりと挙手をした。
「え”え”ー!うっそー!」「はいっ!はいっ!」「おねげーしやすヨ!先生ぃ様ぁー!」「先生もオ人が悪い。そういうもんは黙ってワタクシだけに耳打ちするってもんがスジでやしょう?」「俺の身体も純潔も全部捧げるよってに!」
大騒ぎのオスガキどもに一瞥をくれるようなまともな人々は周囲に誰もいなかった。日本のケッペン気候区分は既に冬乾季のある亜熱帯へとシフトし終わっており、今はその高温多雨の夏季のさ中で、広場に佇んでいるのは脳みそがほとんど湯だった下着姿のジジイたちだけときている。僕たちが上屋のある大きな中央改札の前で集合待ち合わせ出来ないのは、箱急との乗り換え客でごったがえす通路では小学生男子などあまりにも邪魔っけという指揮者先生様の判断らしかった。
「担当MCは今日のキミらの仕事ぶりを見て判断させてもらう。以上だ。そろそろ行こう。」
「先生、それって僕たちを集中させるためにわざわざ今、言ったんでしょう?」
「おー。バレてたか。いや、あまりにもキミらがやる気なさそうだったからさ。」
この炎天下にこんな場所へ集合させておいて、やる気も何もあるわけがない。唯一の救いは、本日の指定衣装がウールやキャメルの不織布でできたベレーやぴっちり蝶ネクタイや体に張り付くブロードのワイシャツやハイソックスではなく、完全な普段着であるということだけだ。通団服を着て来た団員は団規にのっとって即刻出演キャンセルで家へ帰されることになる。ただ、「普段の服でも清潔なものにしてください」という連絡があったのに、エル君のTシャツは首周りを使って鼻の頭を拭いた汗で半分伸びてたるんでいたし、外町くんが被っている杢グレーのGAPの帽子は汗が染みて灰色の山脈模様を描いている。
「先生ーぃ、煌惺くん依頼のお仕事があるってのはホントなの?」
「先生は、君のお友達じゃない!言い直しっ!」
「はいッ!…本当ですか?」
「はい、本当です!」
人間、一生懸命に少年合唱団員をやっているとたまに良いことがある。

「こんにちわー!ワカバくん、いますかー?」
ドアを開ければ待ち構えていたという表情を隠しきれていないお母さん。
エプロンぐらいしたらもっと自然に見えるのかな…。ただ、僕たち5年生全員はそれとは全く違った印象を受けた。
職業的な直観というヤツである。
今回の仕事は依頼内容の複雑怪奇さのわりにヤバい感じがしない。
「ワカバくん!お友達だよー!出てらっしゃーい!」
「出てラッシャーい!」はおそらく台本通りのセリフ。
ますますミエミエと驚いている僕たちの前に、玄関の横のおそらくリビングで待機していたらしい小学生の男の子が一人、スッと登場した。このクソ熱いのにこぎれいなソックスを履いてマホガニーのフローリングを半ば滑るようにして出てくる。その様子もテレビドラマ的でかなりウサンクサイ。
「こ、こんにちわ、みんな…。おかあさーん、なんか、ぼく、みんなと遊んでもいい?」
この件の最初の依頼主ワカバくん…黒髪「やや長めショートウルフ」の平べったい顔の男の子は、学校では一応クラスの女子全員から評価されているセンスの持ち主であるか、もしくは広範なイジメを受けているかのどちらかという印象。言い値とは言え、少年合唱団に小芝居の依頼をしてきたということは、前者であるわけがない。
「おばさん!ぼくたち上がっていいですか?」
これも符丁になるセリフ。担当はダイヤ君。言い終わるが早いかみんなは靴を玄関に脱ぎ捨てて、男の子の出てきたリビングへ突入。
「まあ!ワカバくん!9人もお友達が来るんだったら、前もって言っておいてよ。」
ちょこまか動き回る小学生男子の人数を点呼でもとったみたいにずばり「9人」と計数するなんて、まるで前もって知っていたみたいだ!ソプラノから3人、メゾの5年も3人、ぼくたちアルト5年も3人組…各パートの5年生3人ずつの人選なのだから、そりゃ9人で間違いない。多分、キッチンには前もって囲炉裏屋のノリ弁6個とシャケ弁4個…依頼者のワカバくんを含めた10人前が配達されいて、「遊び疲れた」演技の僕たちが帰る前にそれを食べる段取りになっていた。弁当の出所が全国チェーン本家囲炉裏屋なのは全くのバーターで、合唱団の仕出しは今のご主人のお父さん(ダンスの副業で弁当屋を始めた)の代からずっとまほろ駅近の囲炉裏屋ということになっている(僕も、僕のお父さんもハッキリ言ってここのノリ弁は好きだ!夏休みの昼ごはんだったら毎日だってイケる!おいしい!とくに深海魚の白身フライと半分に切った揚げチクワが最高!)。
「おばさん!わかばくんってネ、学校の男子の中では相撲がとっても強いんですよー!まったく、かなわないッスよ。」
「ワカバくん、ホントなの?何でそういうコト、お母さんに黙ってるの?」
「おばさーん、男ってものを全く分かってないなぁ。親に自分の得意なことをペラペラくっ喋るヤツなんて、ろくでもない嫌な性格の息子ですよ。わかばくんがそんな少年に見えますかッテ!な?ワカバ?」
「えー、何か知らないよ、ぼく。」
お母さんの相手をして話をリードしているのは、まほろ少年相撲の関取、巨体ソプラノのカネゴンくんだ。僕たちはリビングのアップライトピアノの脇でカネゴンくんと一人一人わざとらしく八百長相撲をとって全員が黒星をつけ、最後にワカバくんがカネゴンくんとくんずほぐれつの大一番の末、関取のテクニックを駆使してわざとカネゴン山が負け、ピアノの足に派手にぶつかって大騒ぎになるという出来すぎた筋書きなのだ。
「おばさん…ゴメンなさい。今度は怪我をしないように気をつけて遊びます。」
「いいのよ。ワカバくんのお友達が家に遊びに来るなんて、1年生のとき以来初めてのことなんだから。」
…それが僕たちの今日のお仕事の役割設定らしかった。
「ねえ、ワカバくん、このピアノ弾いていい?」
リクくんがボッコボコのカワイのアップライトの蓋を開けながら聞いた。嫌な匂いがする。
「ねえ、学校の休み時間みたくみんなで何か歌わない?」
「イイねぇ!歌うべ!歌うべ!」
これでようやく少年合唱団への依頼内容へと段取りが到達した。前置き長すぎ!である。リクくんは「叙情的に」軽いタッチで弾くべき1曲目『歌よありがとう』の前奏を身体全体を使って打鍵しながら「この鍵盤って、重すぎネえ?何年間放ッポリ放しのピアノなんだよ?」という表情で僕たちにだけ苦痛げな目配せをした。

♪ 歌はぼくたちの
  心の中に
  友だちのように やさしく
  いつでも そばにいるよ

いつもなら職業化した表情で流して終わりの、曲の歌い出しの歌詞も、今日はなんだかちょっとイミシンに響く。依頼主のワカバくんの方をわざとらしい演技で眺めやると、驚いたことに比較的大きな口を開けて上手にブレスしながらバシッと歌っていた。なんというか、日本の少年合唱団員みたいな歌いっぷりで驚愕してしまった。

「マイバラード」「夢の世界を」「フェニックス」「君はペガサス」「BELIEVE」「COSMOS」「小さな勇気」「君とみた海」「レッツ・サーチ・フォー・トゥモロー」「翼をください」「カリブ夢の旅」「Let's go いいことあるさ!」「あおいそらにえをかこう」…
いったい何十曲歌ったのだろう。少年合唱団の通常営業のパッケージはイベントの余興用の15分バージョンから、ショートコンサートの30分バージョン、それより少しだけ盛った45分のバージョン。1時間のフルバージョンでも途中で客上げとナレーション、舞台転換の時間があるので15曲がよいところだ。こういうパーソナルな依頼でクオリティーがそれほど問われないからこそ、つづけさまに歌い切ることができる。ワカバくんは、自分の知らない曲を歌っていないが、それでも10曲以上は付き合って歌ってくれた。キーの硬いピアノを弾いている松田リクくんの指はもうボロボロに違いない。
「すごいねー!ワカバくんの組の男子って歌が大好きな子が多いんだね!ねぇ、一生懸命聞いてたら、おばさん、思いっきりノドが乾いてきちゃった。カルピスがあるんだけど、みんなで作って飲まない?」
おばさんは、あくまでも僕たちを「下手田少年合唱団の選抜メンバー」ではなく息子のクラスメイトという設定で押し通そうとする。最初は「ボーイソプラノって綺麗だねー。」という表情で聞いていたワカバくんママは、途中から美感が麻痺してきたのか、「新しい世界へ」の拍手を大げさに入れた後、無理やりストップをかけ休ませた。カルピスは、カルピス味のついたアサヒおいしい水じゃなくて、白いペットボトルに入ったちゃんと水で割るタイプ。それなのに牛山君はアンパンマン少年合唱団みたく後ろに手を組んでねっちょりとCMソングを歌った。「喜びの歌」は今日の演目(?)にも勿論入っている。それを聴きながら全員分のカルピスを測って上手に水を注いでくれたのは赤川エル君。僕はこの後の段取りを無理やり思い出しながらそれを見ていた。

「HBCみたく東京大空襲の自治体追悼式典とかでも歌うけど、完全なヘイト集会に呼ばれていって『海ゆかば』や『廣瀬中佐』を歌ったりもする…」
外町くんがそれを聞いてすかさず

♪轟くツツオト飛び来る弾丸 

とオペラ歌手のごとく歌い始める。ワカバくんママが囲炉裏屋弁当の準備でキッチンの方へ行ってしまうと、僕たちは声を潜めて第一依頼者とお仕事の内輪話をした。
「こういう、普通の家で歌うだけの小さな仕事もあるし、よその女の子しかいない児童合唱団のアナウメで大きなコンサートにも出たりする。」
「僕たちの合唱団の名前は出ないけどね。」
「ゲイの団体主催で、有名なミュージカル『アニー』なんだけど主人公は赤毛の男の子とか…」
「僕がアニーで、トラちゃんたちが少年孤児院の子の役だったの。」
「引っ張って歩いてるモップみたいな犬の名前が『バート』だって…」
「それってセサミストリート…ってコト?」
『廣瀬中佐』は「♪船内くまなく尋ぬる三度」のところでお終いになった。
「何でも屋さんなんだね。」
「少年合唱団だって、商売でやってるところはいつまでも昔の業態にしがみついてるわけにいかないんだってさ。」
汗で南アルプス天然水のラベルそっくりに山型の塩がふいた外町くんのねずみ色の帽子は、イケアのソファーの肘掛へ乱暴に被せられていた。
「聖歌隊の役も、偉い人のお葬式でラテン語のレクイエムを歌ったかと思うと、ヤバそうな新興宗教の集会所で『ののさま』ナントカっていう歌を歌わされたり…最近では宗教改革なんとかかんとかでまほろのスギナ野教会でバッチを歌った。」
「ドイツ語で。」
「…バッハな。」
「お母さんは、みんなが僕の学校の友達だと思ってるよね?きっとバレてない!」
依頼者についての情報は些細なものでも忠実に守られる。今回のように、別々に依頼してきた2人が親子関係…、子の払った営業料が1000円で、親の払ったお金がそれより一桁うわまわっていても、いずれ業務上の守秘義務は守秘義務だ。「実はお母さんからも、息子と一緒にクラスメイトになりきって家のピアノで歌を歌ってやってほしいという依頼を受けている」とは口が裂けても言わないし、そぶりも見せない。
「言われた歌はなんでも歌う。それがオレら下手田少年合唱団のモットーさ。」
「便利屋、よろずボーイソプラノ業代行、歌う少年レンタル、なんでも歌う課、少年歌声請負業…いろんな呼び方で呼ばれる。」
息子の依頼をどこからか嗅ぎつけた母親が、その10倍のお金を払って二重に仕事を頼んでくる。
「よかっタ。合唱団の看板に《ボーイソプラノに関する仕事、なんでも引き受けます》て書いてあったから…。」
合唱団の練習場兼事務所はまほろ駅の三谷大塚の裏路地にある。塾や予備校の並ぶ一つ表側の道は個室ビデオとか、食べた人が全員火傷する傷害事件スレスレの中華饅頭を真顔で売ってる店とか、「噂の関東マガジン」のやってTOROY!のロケ場所とかがあるような、およそ子供の教育には相応しくない狭っくるしい人のごちゃごちゃいる通りで、そういうところがまたまほろ駅前らしかった。
「子供からの依頼はそこそこに有るんだ。ショコラとかいう陳腐な名前のついたつまんねぇチワワ一匹に聞かせるためだけに小ホール押さえてコンサートしてくれとかいう6年女子やら、おふろの女王っていうスーパー銭湯の男子大浴場の高濃度炭酸泉はエコーがすごいから、いっしょに歌を歌って欲しいっていう小学4年男子3人組やら…」
「俺ら初めての裸営業だった。」
「それ、銭湯の人に叱られたよね。迷惑ですから、ぼくたち、やめてねー…とか言われて。ま、もともと儲けのあまりない仕事だったからイタくはなかったらしいけど。」
「儲けのある仕事もあるの?」
飲み残した誰かのカルピスの澱を松田リクが吸い取るように飲んだ。
「儲けのある仕事っていうのは…だいたいヤバい仕事。」
「カムフラージュが殆どかなー?…『少年合唱団コンサート』っていう会場で普通に歌うんだけど、客席ではハッパとか拳銃の密売とか…。あとはオーディション名目で子供の臓器売買の斡旋とかのサクラだったり。…これは結局先生が『先約が先々バッティングしてますので』とか言って丁重にお断りしたらしいけどね。」
「ふぅーん。」
「利ざやの無いのもあったじゃん!合唱団の由良先輩とか、目能研にいたときは通塾の時にヤクの運び屋だったんだよ!…スティックシュガーに入った麻薬を横中バス(横浜中央交通バス。間引き運転をしているというもっぱらのウワサはガセらしい)の一番後ろの座席に貼り付けてお客さんに斡旋してたんだけど、ノーケンの送り迎えしてた便利屋のおじさんたちに嗅ぎつけられて、キョヒったら乗ってた便利屋の軽トラにおっかないお兄さんたちから銃弾打ち込まれて、松田優作似じゃない方の便利屋のオジさんが『なんじゃこりゃー!』って…」
ワカバくんが屈託無く笑う姿を初めて見た。
「それがぼくたちの合唱団。…由良先輩は、それからノーケンやめて、近くのビルにある僕たちの合唱団に入ってきた。ヤバい仕事から足を洗えなくって、拳銃の運び屋とか新興宗教の農園耕作とかいろんなことをしてて、去年声変わりして卒団しちゃった。」
「稼ぎ頭だったよね。」
「そっかぁ。僕のお願いをみんなが聞いてくれて本当にうれしいよ。…下手田少年合唱団っていうから、クソミソに歌の下手な少年合唱団だと思ってたもん。」
よく言われるんだ。団名のこと。オーナーさんの名字なのだ。なにもスポンサーの名前をつけなくても…でも、「まほろ少年少女合唱団」の方は何十年も前からあって、「まほろ少年合唱団」じゃ紛らわしくかぶりまくり。超有名な上高田少年合唱団と僕らの下手田少年合唱団…名前の雰囲気が似ているというのは悪くない。
それでもワカバくんは本当にスッキリしたという顔で笑っていた。囲炉裏屋のノリ弁が待ち遠しかった。こんなにヤバい仕事の話ばかりしたあとなので誰も言えなかったけれど、僕たちのもう一つのモットーは、「聞いてくれる人の心を幸せにする」なのだ。

2. まほろ、団塊の町

 よろずボーイソプラノ業代行の21世紀の日本の少年合唱団には、とりたてて繁忙期というものはない。
季節物のコンサートは春夏秋冬を問わず依頼があるし(例えば入学祝いコンサートの連チャンの次は「こどもの日」等々ゴールデンウィークの出演とかがあるし、夏休みなんて実は少年少女合唱イベントの集中期だし、秋祭りも数カ所出演、ハロウィン、クリスマス、お正月、節分(ちょっと前まで歌っていた『恋のマイアヒ』はレパートリーから外された)・バレンタイン等ニッパチ暇期の穴埋め商戦とか、ひなまつり、祝卒業演奏会なんかが間断なく控えている)、レギュラーのコンサートも何本か。ヤバい仕事の方も季節を問わずで年中こなしている。レギュラーであるのは、定期演奏会とまほろ駅前の「駅前コンサート」。駅コンは東京にある他所の有名な少年合唱団がどこもやっている、改札の横とか駅前ビルのイベントスペースとかで歌う、偶数月の月末にある30分ものの半野外のコンサート。人通りの多い場所柄お客様は立ち見だが、そこそこに集まる。
「先生ぃ!駅コン程度でしかも1回っぽっきりなんですからぁ。」
「普通の体験入団の子だったら、当たり前のようにソプラノへ入れてるじゃないですか?!」
「なんか、えこひいきの匂いがする!」
指揮者先生は今日も団員たちからサンドバック扱いでブーイングを浴びている。
「煌惺くんが低い声だってのは、きみたちも良く知ってるじゃないか。先生は音楽のプロとしての判断をしたまでだ。」
「音楽のプロがどうして、生まれてはじめて列に入る小学5年生をお経みたいなメロディーしか歌わないアルトにするんですか?」
喧嘩っ早い奴もいないことはないアルトの全員が黙って「お経みたいなメロディーしか歌わない」という侮蔑を聞き流したのは、自分たちの有利を台無しにしたくないずる賢さからだった。
「煌惺くんがどうして下手田少年のファンになってくれたのか、知ってるだろう?」
「知ってますよ!仕事でケーキの山をぐちゃぐちゃにされて泣いてたコーくんをアオケンとその子分たちが助けたからでしょ?」
「それとこれとは別問題です!」
「コーちゃんはアオケンくんのファンでもあるかもしれないけど、その前にオレら下手田少年合唱団全員のファンでもあるんですよ!」
問題の渦中のそのまた銀河核にいる僕は、さらにズル賢くブラックホールのごとく黙っていた。
「はい。はい。…ソプラノの諸君の言いたい事はわかった。ところで高池くん、当団のモットーはなんだ?」
「かならずぼくが そばにいて ささえてあげるよ その肩を?」
「そりゃBELIEVEの歌詞だろう?」
高池君のこの発言は3−4年生にも結構ウケた。
「言われた歌はなんでも歌う下手田少年合唱団。」
「その通りだ。もう一つは何?」
「聞いてくれる人の心を幸せにする。」
「そうです。じゃあ、コーくんは、どのパートに入ったら一番幸せだろうか?ガーランド煌惺くんの気持ちになって、みんなよく考えてみてくれ。以上だ。」
高声の子達は全員やり場のない怒号を「天使の歌声」とは似ても似つかない声でガーッと叫んでいた。

 車の1台もパークされていない立体駐車場の6階。かび臭い階段の鉄枠から遠くに見えた。何か白いものがいっぱい詰まった大きなビニール袋が両脇に抱えられている。ちょっぴりブラウンでベリーショートの無造作ヘアー。赤いほっぺ。ほっとする体格のガチムチの5年生男子。ここからでもしっかりとわかる二重瞼はとても困って歪んでいる。
「ほら!やっぱりタクちゃんの『嫌な予感』がスターウォーズみたいに適中した。」
吐き捨てるように言った金子先輩の視線の先には、お巡りさんに何か言われて口が尖り始めた煌惺くん。
「行くな! 話がややこしくなる。こーちゃんが悪い事するわけがないんだから、ここで様子を見よう。きっと10分かからない。」
駅コンは明日。前日練習はまだ1時間は始まらない。こういうときのカネゴン先輩はジェダイマスターのように冷静だ。
「でも、何だってこんなところに…?」
15分前にも同じ言葉を僕は別の場所で言った。雨が降り出した頃。降雨はやがてゲリラ豪雨になっていく。
「でも、何だってこんなところに…?」
制服を着た誘導員さんが2人、句読点の形に濡れはじめた屋羽タイルのあちらとこちらで歩行者を止めた。東急ハンズまほろ店の入っているビルの1階には地下駐の出口がぽっかりと黒い口を開けて細っこいメルセデスやブタ鼻のベンべを逆再生した食事風景の動画のように吐き出している。モータリゼーションの進み終わったころに整備されたまほろ駅前は殆どの人と車の交通が立体区分されていて、車やバスは地上を、人と電車は高い人工地盤の上を行きかう。煌惺くんのコンフェクショナリーショップがあるアウトレットモールを出発した高速バスは文字通り高速を走り抜け、万年渋滞の溝ケ谷バイパスと接続したまほろ街道を北上し、まほろ駅前のロータリーから東急ハンズの地下駐出口の真向かいのバス停に直結している。僕たちの合唱団が何かあるたびに煌惺くんのところへ行って日帰りで歌えるのは、この便利なバスがあるおかげだった。
「コーちゃんに何て言ったの?」
「だから、東急ハンズの駐車場のところで待っててね…って。」
「それ、ここじゃん!コーちゃんいないし…。」
「10分ぐらい待って誰も来なかったら、合唱団に電話してねって言ったんだけど。」
「電話来てないみたいだよ。」
雨の匂いと一緒に、郵便局のある上階から下りてきた人たち。僕たちを避けながら喋っているのがハッキリと聞こえた。みんな服が水疱瘡になったみたいにぽつぽつと大粒の雨で濡れている。
「小学生の男の子、一人だって…。最近多いよね、子供にヤクを運ばせるの。」
「粉いっぱいの大きなビニール袋が2つらしいよ。大きな子だって。」
「うっわー、時価数十億円?ドリームジャンボでも買えないじゃん!」
「ムリ、ムリ、当たんないから。わははは…」
カネゴン先輩の顔色が豹変し、おしゃべりの人たちの前に割って入った。
「すいません!その子って、どこにいたんですか?!」
「えー。ここの横のまほろターミナルパーキングの6階だって。あそこ、車停める人いないし、ミンナーまほろのウミクロとかから直接入れるから、ヤクの受け渡しにはぴったりだよね?」
タクタク先輩がぼそりとつぶやいた。
「カネゴン…。俺、なんだか嫌な予感がする…」
「僕もだ。すいません…ありがとうございました!みんな、行くぞ!」

 《まほろ、団塊の街》と人は言う。「団塊の絶えた頃がまほろの自治体としての終焉」である、と。市全域が高齢者の生活に淀んでいる。…三流大学がいくつか。少子化で早晩、有名な学校へ合併吸収される運命は目に見えているのに、人々は若かりし頃に固執して「文化都市である」と思っているらしい。東急ハンズは、そういうお年寄りたちの青春の残照。6階まである広大な駐車場はかつての日々、6階Aフロアまで満車だった。
「だって、『東急ハンズの駐車場』って聞いたら、灰色の服を着たおじいちゃんがこっちの方だよって親切に教えてくれたんだもん…。途中でもう一人のおじいちゃんに聞いたの。そしたら、『ボク!2階にケンタッキーあるだろ?寄り道しちゃイケナイよ』って言われた。だから、ここに来たんだよ。」
「ここは『まほろターミナルパーキング』!こーちゃん、東急ハンズの駐車場と違うから!」
ゲリラ豪雨は徹底的な水流落下の真っ最中。立体駐車場のすべての車止めがウォータースライダーの終点近くの光景とあまり変わらない。階下の僕はパンツまでびしょ濡れの状態で、煌惺くんと抱き合って再会の感動にひたっているはずだった。
「10年くらい前まで、このビル全体が東急ハンズだったんだ。」
「えー?先生、地下から屋上まで全部?…もしかして、このまほろ最大の立体駐車場も?」
「年寄りにモノを尋ねたら、東急ハンズの駐車場はここと誰もが言うだろう。」
駆けつけてきてくれた先生は諦観の中。
「上の方の階へ行ったら見晴らしがよくて、駅前が全部見える…って、アオケンくんがずっと前に教えてくれてたから。」
「だから駐車場の6階まで上がってきたの?僕が言ったのは6階のハンズからの見晴らしがイイってこと。」
「でも、なんでビニール袋になんか…」
「まはろに着く頃にはゲリラ豪雨があるから、紙の袋じゃ濡れてマズいってお父さんに言われて…」
小麦粉はわざわざビニール袋2つに小分けしてきたそうだ。「白い粉を抱えた小学生が立体駐車場のヒト気の無い上階へ上がっていった」と通報を受けたまほろ署のおまわりさんが到着して、補導ギリギリの職質を煌惺くんに手向けたらしい。リュックの中には、たぶんバニラビーンズや業務用レモン果汁や、お菓子の材料一式も詰まっているのだろう。コーちゃんの背中からは良い匂いがした。
「でも何で、白い粉なんか…」
「せっかく呼んでくれたから、合唱団のみんなで小麦粉せんべい作って食べようと思って…。水と砂糖と塩があれば10分ぐらいでできるんだけど。…ごめんね。」
「クライアント」に大量のブツを運ばせるわけにはいかない。カネゴンくんとエルくんが白い粉のいっぱい詰まったビニール袋を一つずつ抱くように持った。

3. このバス停で、また会おう

 ベッドの中の煌惺くんは大きな大きな背中の同い歳のお兄さんだ。どうやって寝床にたどり着いたのか僕は覚えていない。布団の中でコーくんの背中にしがみついたら、やっぱり甘いクッキーの匂いがした。
「…コーちゃんの背中、お菓子の匂いがする。」
「なんか、お風呂で体をきちんと洗わないんだ。ごめん。」
違うよ、煌惺くん。だって、今日、君の大きな背中に目一杯石鹸をなすりつけ、タオルを当ててゴシゴシ洗ったのは僕なんだもの。…お湯をかけて、シャボン泡の幕の中からキラキラ輝いて戻って来たのは赤まだらに染まったコーちゃんの広い背中。やっぱりしがみついて、きしきしいう僕の身体が左右に滑ると、湯気がたっていて、暖かくて、頑丈で頼もしく、ほっとして気持ちが良かった。
「あおけんちゃん、おちんちん勃ってるでしょ?ごりごりする…」
お菓子屋さんの男の子の硬い臀部の上で、僕の棒が左右へ扇状に触れていた。二人で笑い、濡れてびしょびしょの重いタオルを二人ぶん、ハンガーフックのようにその根元へかけても落ちなかった。お風呂の中で僕たちは大笑い!ボーイアルトと明日のボーイアルト。ヨーグルト・ガナッシュのような笑い声が、湯気の中にたった。
 にわか仕込みの歌の練習のあと、煌惺くんは僕の家の玄関でケーキのジビッツをつけたクロックスを脱いだ。部活のブラバンをサボった茉奈姉と、お母さんと僕と一緒に4人でプラリン・ルージュのブリオッシュ作り。お巡りさんに職質で開けられそうになったリュックの底から、合唱団の皆に見つからぬようこっそり忍ばせてあった赤いアーモンドプラリネを引っ張り出しながら、
「うちのパティスリーで作ってるリヨンの名物お菓子!ナッティ甘ぁーくて、おいしいヨ!」
パッケージにかかった赤いリボンを僕に解かせようとする。
プラチナ色に光るセロファンの袋の中で、プラリネの粒は割れてルージュの粉砕になりかけていた。きらきら光るブロンドのラベルにフランス語が中身の物語を気取って印刷されている。コーくんの筆跡らしい「9€」の正札がお茶目で楽しい。
「いいんだ。だって、これは適当に潰して使うお菓子の素だから。…もちろん、そのまま食べてもおいしいよ。」
つまんで皆んなの掌の上へ載せてくれた崩れていない粒を口の中で転がして溶かし、アーモンドを嚼み分けながら、僕たちは静かに星斗の囁きを漏らした。
 前もってお母さんが存在を伝えてあった我が家のMKのHBが大活躍!
「夏場の一次発酵はほんの少しだけ気を遣います。温度計、ありますか?」
お菓子屋の男の子は念入りに、でも、素早く生地の温度を測って僕たちを急かしたり待たせたりした。
「アオケンくん家でブリオッシュ・ア・ラ・プラリンを作るって決まってから、お父さんが僕に猛特訓!失敗するわけにはいかないのは、僕もお父さんもよくわかってるから…。だから、僕に全部任せてください!必ず幸せの赤いブリオッシュを成功させてあげます!」
「讓我們盪起雙漿(ボートを漕ごう)」の歌詞のようだ。コーちゃんの胸には鮮やかなプラリネ色の紅領巾も透けて見える。合唱団の予備の制服一式1日貸与…紺ベレーにボウタイにワイシャツ、裾の詰まった半ズボンに紺ハイソを膝の裏まで引き上げ、ローファーをつっかけたガーランド煌惺のぴっちりタイトにハマった晴れの姿をひと目見て、一番昂奮を抑えきれなかったのは、他でもない、いつもその格好をしてステージに上がっている僕たち団員自身だった。「煌ちゃんカッコいいー!」「ゾクゾクするネ!」…思わず声をあげた3年メゾたちを睥睨した6年生が「なんか、初めて着たって感じがしないくらいだ。」と感銘直裁な思いを口にした。…「まるで、王子様みたい…。」と言った辻本くんの独白をあげつらう団員は一人もいなかった。
 ピンクルージュの菓子パンにチェダーチーズを吹きかけた丸いほくほくの出来立てお菓子を家中でわいわい言いながら食べた。こーちゃんはそういう僕らを満足そうに眺めわたし、さも幸せそうに切り分けたブリオッシュを端から噛んで味わっていた。「また、何か作りに来てもいい?」という暖かい頼もしいたっぷりとした少年の申し出に、お母さんは僕にするのと同じように長くきつく心を込めて抱擁し応えた。
 お布団の中で、煌惺くんは僕の唇に自分の真っ赤な唇をかたく当てて長い間目を閉じた。気絶しそうになりながら、一生懸命に鼻で息をしたのに、小さい小さい息み声が二人の喉の奥から出てしまった。
「僕のことを助けてくれたね。ありがとう。」
コーくんの掠れた謝礼の言葉がもれた。
「助けてないよ。なんの話?」
「アオケンくんは僕の世界一のヒーロだ。」
「バカ言うな。人のいっぱい通るショッピングモールで、箱のケーキをいくつも床中に踏みつけられて大泣きしてる小学生がいたら、僕じゃなくたって守る。」
あの日、あの昼のあのとき、僕は煌惺くんに出会った。
「ありがとう。」
「うれしかったんだ。いいんだよ。」
「僕、アオケンちゃんや合唱団のみんなが大好き。」
男の子の暖かい唇の間から、ハッカのような息が漏れた。
「僕たちも君のことが大好き。遠いところを歌いに来てくれてありがとう。僕たちみんな感謝してる。」
暖かい息だ。エアコンが気持ち良くかかった僕の部屋にまた甘いいい匂いの体熱がたった。
「あこがれの少年合唱団の団員に1日だけなれるんだ。かっこいい制服を着て、大好きなみんなと舞台に並んで…歌を歌える。」
「それは僕たちが言うことだよ。」
今度は少しだけ汗ばんだかっこいい二の腕を柔らかく掴んだ。
「いいんだ。毎日ケーキ屋でお手伝いをしてるだけの僕が、こんなすてきな目にあってもいいのかな?」
 即席で仕上げた駅ナカ・コンサートのレパートリー。みんなの集中の度合いはバカみたいな屋外の炎熱ものともせず、日頃の傾注をはるかに超えていた。ただ、紛れもない事実は練習場で一緒に声を揃える煌惺くんの存在が、本当にかっこよくて頼もしかったということ。男の子のたとえじゃないかもしれないけれど、シブい色の大輪の花が咲いたようだった。
「僕たちは知ってるよ。コーちゃん以外にも、日本中にお店の手伝いをしてから夕ご飯を食べて眠る小学生男子はいっぱいいるんだってこと。」
「僕、以外にも?」
「僕たちはお仕事で色んなところへ行くんだ。たくさんの子に会うんだよ。」
「どんな子たち?」
「なんか全員かっこいい子たちだった。」
「何でだろう?」
「コーちゃんならわかるでしょ?お店の手伝いをしっかりやっている小学生男子は全員、毎日言う言葉があるんだ。」
「いらっしゃませ?…かな?」
「朝、早くても?」
「わかった!『ありがとうございました』だ!」
「ほかの少年合唱団とかも、ステージを終えるときには『ありがとうございました』って言うでしょ?カッコいい小学生男子は必ずお客様にそう言うんだ。びっくりした?」
僕たちは間違いなく、明日のコンサートで「ありがとうございました」の気持ちになる。
「毎日ケーキ屋でお手伝いをしてるコーちゃんだから、僕たちに会えてすてきな目にあえるんじゃないの?」
「そうかもしれないけど…。でも、今日、僕を呼んでくれたの、もしかして、アオケンくん?先生?それともみんなで決めたの?ありがとう。」
「……?」
「どうしたの?」
「…呼んでないよ。依頼してくれたのは、コーくんでしょ?」
「依頼って??」
「僕たちのために合唱団に頼んでくれた…」
「僕が?…アオケンくんたちの迷惑になるのよくわかってるから、絶対にそんなこと頼まないよ。」

 星埜サルビオ君は隊列の2段目で、胸元のピンマイクから客席PAに音が入らないよう用心し、ゆっくりと鈍い咳払いをした。かっこいい、少年のエロスを感じさせる主役級の声だが、顔はメガネをかけたお笑い芸人の子供版といったところだ。いつも最後列のアルト右端にいる待田先輩が、今日だけ臨時配置転換でサルビ君の前の最前列に入っている。もともと合唱団の中で一番背が高くがっしりしている先輩は、身体全体をさらに大きく伸ばし、客席から星埜君の全身がほとんど見えないように立ちはだかっている。苦みばしったメゾの超イケメン湯河くんが、「フニクリフニクラ」のMCを始めたタイミングを見計らい、先生は指揮台(正確に言うと、駅前デッキの天蓋の下に組まれた低いステージなので、バミリが無く、薄っぺらな正方形のグレーのパンチカーペットが置かれているだけ)の上から、上半身を斜め45度に傾けて待田先輩の裏に立つ団員とアイコンタクトをとろうとした。
「星埜サルビオ、うまくやってくれ。頼むぞ!」
その目は言っている。一発逆転…勝負のチャンスは1回だ。
湯河くんの美少年チックな曲紹介が終わり、彼がすじばった子供の両手を半ズボンから伸びた綺麗なカプチーノ色の前ふとももにぴっちり当てて挨拶をし終わると(この挨拶は幼稚園の子みたいで、あまりカッコよくないため、先生方からたびたびダメ出しを受けている…)、それを合図に隊列の左右から2人の団員が抜けて前へ出て行った。ソロ・スタンバイ位置。ソプラノ側からはこの曲のいつものソリスト…赤川くん。だが、アルトソリストは僕の左隣から…1日貸与された合唱団の予備の制服一式をかっしりと智い頼もしいばかりの身にまとった少年…。客席になった炎熱のペデストリアンデッキの日陰からパタパタと湿気た拍手が起こった。下目づかいに見たその清潔真率な背中が今日は僕の前でどんどん降りてゆく。阿弥陀かぶりにしたベレーの真円が溢れた後れ毛をきらきら揺らし、ボウタイのゴムを回したワイシャツの眩しいほど白いカラーが弓なりに男の子の真摯な襟足を包みあげていた。淡麗に糊のかかったシャツの肩と袖口。男の子は腕の振り方さえさりげなく、ソツがなく、胴まわりにはたわんだブロードのシワの一つ見られない。彼はやがて指定されたアルトソリストの立ち位置へと進みしな、艶々としたタッセルローファーのかかとを揃えて立った。マイクスタンドのシャフトが、両の群青色のソックスに包まれたふくらはぎの向こうへ隠れて見えなくなる。シャフトのてっぺんへクリップで止められたワイヤレスマイクのスライドスイッチは、「ひとりぼっちの羊飼い」のヨーデルの出番が終わったときに中山アンビ先輩が切ってある。先生はスライドがきちんとoff側に下りているか、その次のMCの間にさりげなく手を伸ばし触手点検で確かめた。今再び、溶岩ドームのキレットように屹立した待田先輩の両肩のこちら側、サルビオ君はゴリゴリと空咳を押し出そうとしていたが、マイクコンソールはソロの直前までソリストのチャンネルを絞ってあって、何の音も拾っていなかった。「夏の思い出」と「静かな湖畔」と「月下の営火」を歌い終えるまで徹底的に欠伸をかみ殺していた下級生団員たちも、今は事態の進捗だけが気になって誰も眠そうな目をしていないように思える。まほろ駅前は、液体酸素でケロシンを空ぶかししたようなロケットの夏だった。8分の6拍子…8分休符が間に1つ置きに入るタッタタッタタッタタのリズム…先生のキーボードが楽しげなカンツォーネの前奏をかなで、居住まいを正したソリストが、咽頭のどこに声を当てれば良いか経験で探りながら10秒後にツェーから突然跳躍して歌は始まる。ボーイソプラノ然とした独特の息を繰りながら、ただし歌詞は日本語なので口型も舌の置き方もお腹のコントロールも重心もそれなりの進行だ。「♪あかい火を吹くあの山へ登ろう!」…赤川くんのナチュラルピュアなハイトーンが、灼熱のまほろ駅頭をコールドスプレーのひと吹きのように数瞬アイシングし、クールダウンさせてゆく。合いの手の合唱が「♪登ろう!」と歌っている間、アルト側2段目の最右翼で王子声の星埜くんは3度目の咳払いを途中までで鎮めた。入れ違いに彼の胸元のピンマイクへ入力が戻り、曲は流麗に25秒間を歌いきるタイミング…ガーランド煌惺くんは入念な打ち合わせ通りに素早くブレスをかまし、

♪登山電車が出来たので 誰でも登れる

と歌う真似をした。体側を前後に揺らし、見事な口パクは疑う者の一人とてない。ソロのPAは最初からマイクの声を拾っているために、観客の誰もが聞こえてくる「煌惺くんの歌声」を堪能していた。彼の両の手は半ズボンの裾で柔和に宙を掴み、ベレーのクラウンは穏やかで温暖なナポリの陽光に揺れている。

♪流れる煙は招くよ みんなを みんなを

実際に歌っている星埜くんはここで体を大きく降って声を前に出そうとしたが、踏みとどまった。依頼を受けた替え玉を誠意をもって全うしようとしているのだ。替え玉だろうが本玉だろうが、当たって砕けろ!忍たま、ビーだま何でもござれ!下手田少年合唱団の極意はそこに宿っている。

♪行こう 行こう 火の山へ
 行こう 行こう 山の上

合唱団がリトルネルロで回向したパッセージを引き継ぎ、フェイクの技を隠蔽しようと一斉に声を挙げた。2番はこのまま突っ走るだけ。♪フニクリ フニクラ フニクリ フニクラ だれも乗る フニクリ フニクラ! 喫茶店の名前ではない。このナポリ民謡では過去には戻れないからだ。…煌惺くんなら、ソロを歌っている星埜くんの二の腕をつかみ、待田先輩の影から引っ張り出してお客様に本当の王子を見せることも可能だったろう。それをしなかったのは、僕らのうちの誰かが「コーちゃんを呼び、1日少年合唱団員にしてステージでソロを取らせたい」と切望し、お小遣いをはたいて先生に依頼した…らしい(?)のかもしれないと彼が思っていたから。彼は今日、夕方5時23分のバスで家に帰る。夜の7時5分にはお店の勝手口の前に立っていることだろう。でも、今はこんなに蒸し暑いのに幸せで鼻血が出そうだ。

 「アオケンちゃん、下手田少年合唱団のモットーってあるでしょ?」
横中高速バスのポールは、バブルの頃に東急ハンズだったビルを上目づかいで睥睨する場所に立っている。
「かならずぼくが そばにいて ささえてあげるよ その肩を?」
「それ、BELIEVEの歌詞じゃん!」
ギャグは煌惺くんにも結構ウケた。
「言われた歌はなんでも歌う下手田少年合唱団。」
「うん。その通りだった。ありがとう。僕にも歌える曲ばかりにしてくれて。」
「実は、もう一つあるんだ。知ってる?」
夏休みの終わりの午後5時はまだまほろの駅前のビルの谷のようになったバスターミナルを明るいままにしている。
「実は知ってるよ。『聞いてくれる人の心を幸せにする』…でしょ?」
「コーちゃんも、そう思った?」
中古車センターにも並んでいないような丸みを帯びたアオコ色のユーノスが不機嫌そうに目前へ駐車した。ハザードランプすら点けていない。誰も降りてこなかった。乗っているのは十中八九無精髭を生やした団塊のジジイだろう。
「うん。…でも僕が一番思ったのは、『歌っている皆んなの心が幸せになる』だった。」
僕らが野外ミニライブで行くような都内のスポットを行く歩行者は大抵東アジアのいずれかの国の外国人たちだが、まほろの歩道を歩く人々はまだ日本人ばかりだ。
僕は煌惺くんのネクタイを順逆手で真っ直ぐに直した。手の甲にコーくんの胸元の体温がかかり、僕の口にはいい匂いのする男の子の息がかかった。
「そんなこと考えながらさっきは歌っていたの?」
「歌ってないよ!口パクだもん。」
「もしかしてきみ以外の僕たちだけ、幸せな気持ちになってたの?」
1日貸与された合唱団の予備の制服一式は、終演直後、5年生の少年の頼もしい身を包んだまま「団員の総意で合唱団から贈与された制服一式」に名称変更された。それをまとったまま彼は高速バスのシートについて家に帰る。お店の勝手口でその姿をみとめる午後7時5分のコーちゃんママとパパとおじいちゃん、おねえちゃんは何といって驚くだろう!家からつっかけてきたケーキジビッツのクロックスはコンフェクショナリの紙袋の中に突っ込まれ、入れ替わり自前のピカピカ黒ローファーが薄い紺ハイソックスを伸ばした形の良い二脚にかっこよく履かれている。
 ゆるゆると不規則な減速を繰り返すプリウスに行く手を阻まれながら高速バスがやってきた。最後に、バス停で違法停車していた濃いアオコ色のユーノスに警笛を鳴らして退かすと、「後払い」のサインが今日1日の時間の流れに反し、ゆっくり、ゆっくりと真横に来て停まった。
…依頼でコーくんを呼んでくれたのは、いったい誰なんだろう?
僕たちの誰一人、今もその真相を知らない。
「バカ言え!声は確かに星埜くんの王子さま声だったカモしれないけど、僕だってちゃんと歌ってたんだよ!」
男の子はリュックのショルダーストラップをわたした胸を張り、エッヘンとポーズをとってみせた。
「?…うふふ。わかってたヨ!スリルがあって、楽しかった!」
出来事は全て前方1メートル以遠のところで起こっていたから、それが煌惺くんの隠喩なのか、実際に小声で歌っていたのかを知らない。でも、僕は嘘をついた。嬉しかったし、ほっとしたから。僕たち全員の今日の報酬は、『歌っている皆んなの心が幸せになる』だったのかもしれない。少年合唱団の性分は、案外そんなものなのかもしれない。
お風呂で濡れタオルをかけたまま大笑いしたときと同じように、僕たちは声をあげて破顔した。
「必ずまた来てね。指切りしよう!」
まほろ駅前のバスターミナルは景勝地にもならない乱雑なビル群のV字谷だ。峡谷は永の月日を経、やがて段丘に姿を変える。
「来れるかな?僕は来てまたみんなと歌いたいけど、お金もちの誰かがもう一度合唱団に依頼してくれるかどうか、わからない。みんなが夏休みとクリスマスにぼくのところへ歌いに来てくれたら、それでいいよ。」
方向幕の横に付いたスピーカーグリルから、運転手さんのアナウンスが始まっている。録音された女の人の声ではなく、ハンドルを握った運転手さんのナマ声だ。
「もちろん、今年も史上初の大雪が降って高速道路が閉鎖される前にそっちに着いて歌うよ。でも…下手田少年合唱団はただ今、王子様の歌声にピッタリな5年生ボーイアルトを大募集中さ!」
「そんなこと、なんでわかるの?」
「だって、コーちゃんが今、着てる制服を返してもらったら1着余っちゃうじゃん。」
今度はこのバス停を降りた途端、小麦粉の詰まったビニール袋2つも抱えてターミナルパーキングの6階になんか行ったりしないだろう。あそこには車を停める人がいないし、ミンナーまほろのウミクロから直接入れるので、ヤクの受け渡し場所には多分ぴったりだ。だから今の僕の仕事は、ガーランド煌惺くんを開闢したバスのステップに押し上げること。少年合唱団の皆んなのあこがれのいい匂いのするガッチリした団員さんは、しばらくケーキ屋さんの大切な少年パティシエに戻る。それでもハッキリといえることがあった。少年合唱団のニセもののモットーと少しだけ似ている。…必ず君がそばにいて、ささえてくれるよこの肩を。コーくんの背中にはリュックのコンパートメントが乗っていて触れることができない。僕は彼の二の腕を引き、男の子の暖かい笑みのこぼれる下で、その、柔らかくて頼もしい、明日にはお菓子の生地をこねる智い美しい掌をすくってしっかり握手をかわした。ありがとう!ありがとう!このバス停で、また会おう。

JASRAC許諾第9009863024Y38200号

Noel des enfants qui n'ont plus de maison / 家のない子のクリスマス

December 17 [Sun], 2017, 21:39
▲2-3曲しか存在しない女声合唱譜はどれもオーケストラに色をつけるための存在でしかなく、先生はどうしても僕たちにドビュッシーをフランス語で歌わせたいと合唱編曲版の独唱曲を選んできたらしかった。

椎太くん
今、何をしていますか?
椎太くんだから、きっと毎日楽しく何かがんばっていますね?
遊びやゲームですか?
何か新しいことにチャレンジしているの?
勉強ですか?受験するの?
ぼくも勉強をがんばってるよ。
でも、大好きな合唱はもっとがんばっています。
きょ年の12月は一しょに歌ってとっても楽しかったね!
椎太くんは、もう合唱をしに来ないの?
それともほかの合唱団に行ってしまったの?
また、クリスマスが来ます。
こ年のぼくたちのクリスマスのテーマは「フランス」ではありません。
でも、フランス語のあの歌は練習しています。
フクちゃんは、「こ年のクリスマスプレゼントは椎太くんと歌を歌うのがいいなー。」
と言っています。
クリスマスが来るよ。
ぼくもきみと歌が歌いたい。
おねがいだから。また12月だけでいいから。
つらいことがあったら、ぼくがきみをまもるから。やくそくするから。
また必ず日本一の少年合唱団員にするから。
椎太くんの言ってることは、ぼくが全ぶしんけんに読んでそのとおりするから。
だから、また、いっしょにクリスマスの歌を歌おう。
ぼくは毎日、イエス様においのりしています。
椎太くんがもどってきてくれますように。

 11月のツリー点灯式に、白いガウンローブではなく紺のセーターに無帽・開襟シャツ着用の指示があった。
霜月夕方5時はもうすっかり日も暮れて、どこの点灯式に呼ばれてもたいていツリーは吹きっさらしの屋外に立っている。
「このバカみたく寒いのに、半ズボンハイソックスだって…。」
「最近、あんまり無かったよねー。白ハイソックス。」
「…カイキンシャツのふつうの半袖のでもいいの?」
洗濯の手間を厭われて、えい!12月いっぱいで履きつぶせとばかりお母さんたちから新しいパンダソックスを充てがわれ穿かされた僕たちは、かなり久しぶりに長袖の開襟シャツを着た(たいていの子が小さくなっていたので、お母さんたちの情報網を駆使して1-2学年下の団員に順繰りでお下がりが譲られた…か、我慢して夏用の半袖をちくちくするセーターの中に着た)。
 駅前のショッピングモールと夜景スポットの2箇所の点灯式の一番前の列の客席に、その子は来ていた。お母さんらしい人の手をしっかりと握ってニコニコと僕たちの歌を聴いている。もう4年生ぐらいなのに、お母さんは最後までその子に右か左か両方の手を差し伸べてしょっちゅう微笑み返している。僕らの目を射るハチミツ色の照明の隙間から、その印象的な2つの影がどちらの点灯式でも、最後までそうして幸せそうに僕たちを見ていた。ときどき片手を「ガオー!」の形にして目の横で振っているのだけが気になったが、その子のココア色の笑顔は世界中にこんな甘くて温かくて気持ちの良いものは無いと言っているようだった。

Nous n'avons plus de maisons!
Les ennemis ont tout pris,tout pris,tout pris,
Jusqu'à notre petit lit!

4段譜の「II」の文字が引き連れるスコア…僕たちの歌うフランス語の歌詞の下に英語が補記されていた(楽譜の一番下にはPrinted in USAと書かれていた)。始まって最初のアルトの歌詞はか弱い合いの手の「♪オーラ!オララ!」。次の合いの手が「♪tout pris」。ふわりと移ろって音程のとりにくい音へ「all gone」と英訳が振られている。
「6年生、all gone ってどういう意味?」
先生は最近、英語の歌詞の意味を平気で僕らに問う。
「行っちゃった…でしょうか?」
帰国子女の佐藤先輩が即答した。
「誰が?」
「敵が俺らの全てを…って書いてあります。って、戦争の歌ですかぁ?」
日本語とポルトガル語しかわからない僕にも意味のわかるフランス語は歌詞の中に在った。Les ennemis(敵国)..papa est à la guerre(パパは戦争へ行った)..maman est morte(ママは死んでしまった)..Punissez les(ヤツらに天罰を)!最後はvictoire aux enfants de France!(フランスの子らに勝利を!)と結ばれている。
「クリスマスの歌じゃないんですか?」
「子供ヒンコンにクリスマスの宅食を…とかいう感じの曲かと思ってた…」
今年のクリスマスシーズンのテーマが「フランス」というのは皆が知っていた。配られた楽譜は、ドビュッシー。2-3曲しか存在しない作曲家の女声合唱曲はどれもオーケストラに色をつけるための存在でしかなく、先生はどうしても僕たちにドビュッシーをフランス語で歌わせたいとの一念から合唱編曲版の独唱曲を選んできたらしかった。
「雪が踊っている」のような鉛色の冬の空を感じさせる前奏に担われて、聞こえてきたのはウメちゃんが練習場のピアノでよく弾いている「月の光」や「雨の庭」で聞いたことのある伴奏。それなのに、「家のない子のクリスマス」はどうやら軍歌にも通じる内容であるらしかった。かわいい感じで「ピュニセ,レ」と発音しながら、♪Punissez-les(ヤツらに罰を与えよ)の大文字で始まるフレーズを、みんなはあれこれ考えず練習し丸暗記した。
「ごちゃごちゃ言わないで、黙って歌を覚えなさいっ!」と、僕たちは先生に常日頃、喧しく言われているからだ。

‥*‥‥‥‥
‥‥‥*‥‥
‥*‥‥‥‥
‥‥▲▲▲‥‥*
*▲▲▲‥‥
‥‥‥‥‥*‥

 最後の客寄せツリー点灯式が先週の土曜日に終わり、僕たちはちょっぴり寒かったりチクチクしたりする紺セーターのステージ衣装にも慣れた。通団への道々の商店がサンクスギビングを終えホッとしてクリスマスの飾り付けに染まっていくのを僕たちは夕刻の通団カバンのかぶせに反射させながら合唱団にたどりつく。
「先生!だって、世界中どこ探しても居ないッスよ、そんな少年合唱団員。…っていうか、いるわけないじゃないですか!」
みんなは先生に「いいからググってみろ!」とあげつらうようなことは言わなかった。たぶん、先生もWeb検索をかけて探そうと試していないだろう。男の子はもう僕たちの前にいて、先生の両手が記念写真のように台形の暖かそうな私服の肩に乗ってにっこりしている。全身の肌色がこんがり焼けたビスケットの色で、その頬がかすかに紅潮しているらしい様子は確信できなかった。発声練習の前、12月に1ヶ月だけ体験入団する一人の男の子の紹介。みんなは怒号に近い声をあげる。大きな3年生。体格がしっかりしていて4年生以上に見える。お母さんたちが見たら「うふふ!これは相当まずいコトになった!σ(*´∀`♪」とか「キャー!」とか言いそうなほど美男で笑顔が可愛い。
「いいじゃないか。たった1ヶ月。1月の最初の練習から、もう来ないという約束だ。君らもお正月からはホッと一息つきたいだろう?」」
「新年会なんか、どうでもいいですよ!コンサートどうするんですか?クリスマスなんですよ?」
「コンサートは全部出てもらう。君らみたいに変な声を出したり、勝手に音程変えたりしないから関係無いだろう?」
身に覚えのある団員一同が一斉にブーイングの声をあげた。
「先生、バッカじゃないの?少年合唱団っていうのは、歌を歌って聞いている人を幸せにする身も心も美しい少年たちのコトを言うんですよッ!」
「そうか。それじゃあこの子は合格!…ただ、残念ながら、キミたちは不適格ってコトになるわなぁ。」
「だからぁ…!そっちに反応したか!そうじゃなくて、俺らは歌を歌うんです!確かに音痴やメンチやメープルフレンチなのかもしんないけど、一応歌は歌えるダしょ?」
「メープルフレンチトーストは先生、好きだなぁ。あの、バターふんわり粉砂糖のマイルドな甘さが、まったりとお口の中で…」
世界で一番幸せそうな顔をして夢想の世界に心を馳せる先生の姿を見て、その男の子は転げまわりそうなくらい楽しそうに笑っている。
だが、2年生の竹下君が、突然大きな声をあげてその場に質した。
「先生ぃ!聾唖って、何ですか?」
意味を知っている団員も知らない団員も終着駅に着く前の人のように口を噤み、練習場はその子の楽しそうな息み声だけが響く清涼な場所に変化した。

 「聾唖」という漢字は漢検準2級以上の団員だったら読んで書けて意味のわかる子もいる。龍の耳と書いて、あとは口へんに亜だ。「龍」が正確に書けたら、あとは何も大変なことはない。耳が聞こえないのか、口がきけないのかはハッキリしないし、竜の耳が何で「聞こえない」のかも解らなかった(多分、大昔の中国語の「聞こえない」の発音がリュウだったから??)。
「手話で歌うんだったらラジオ局の少年合唱団が専門だし、顔がイイんだからアンパンマン少年合唱団だって入れるじゃないですか?なんでわざわざ僕っちの合唱団に…?」
瓶田くんがさらに抗って問うと、先生は真顔になって事の次第を告げた。
「先生もそれは椎太くんとお家のかたに言ったよ。」
シイタ君という名前らしい。
「椎太くんは、君たちの歌がたいそう好きだそうだ。迷惑なのはわかっているからクリスマスの12月の一ヶ月間だけ一緒に過ごさせてもらえないだろうかというご相談だ。手話で歌うわけじゃない。」
男の子が両肩に乗った先生の手とぴったりと寄せた背中から先生の声を聞いているのかもしれないと思ったのは、僕たちが接触した体の振動で他の子の歌を聴いたり伝えたりする訓練を一応受けていたのと、彼が先生の顔をしょっちゅう見上げて微笑んでいる様子が見えたから。
「何でメッチャ忙しいクリスマスなんかに?」
「知ってる歌が多いからじゃないの?」
「それで、先生はOKしちゃったんですか?」
合唱団の本科団員はどの子も学校で本当に最低限の手話を読んで振ることしか学んでいない。
「そもそも、俺らは何をしたらイイんすか?」
「この子、まさかコンサートに出そうってわけじゃないですよね?」
「どのパートのどこへ立たせるんですか?」
「言葉が喋れないのに、歌を歌えるわけないですよね?」
「俺、手話は『わかりました』しかわかりません!」
雨あられと降り注ぐ質問に、先生はいつもの身振りでみんなを制し、逆に問いを僕へ差し向けてきた。
「アオケン!君はどうして正団員として合唱団に来ることができるようになった?」
「入団テストに…合格したから…です。」
飛び級で予科を抜かす子はいても、入団テストを免除される子はいなかった。
「じゃあ、みんな。先生は、椎太くんを一ヶ月間、正団員として少年合唱団に迎えたい。ついてはこれからここで入団テストを行いたい。みんなをテスト演奏助手兼審査員にしたいが、いいか?一曲一緒に歌ってやって合格不合格を決めてくれ。」
言っている意味がよくわからない。みんなが眉間にシワを寄せ藪睨みしている挙動が気配でわかる。先生が腰を曲げ、手のひらに何かを書き付ける仕草をその子に見せると、普段着らしいアディダスのセットアップパンツのポケットからよれたミニ・ノートが1冊躙り出てきた。どこかのページにクリップしてあったペンを引き抜いて先生が空いているところへ何か書き付け、差し出してその子にしっかりと見せ、それから僕たち全員に左右へと振って読ませた。

あらののはてに

ノートに記された先生の筆跡を見て、椎太くんが一瞬、星のバラさんのように息を呑みパッと麗しく目を見張って幾度も頷いた様子を僕たちは見逃さなかった。「せんせい、ありがとう!ぼく、このノート、たからものにするね!」と言っているみたいだった。先生のピアノが前奏から鳴った。

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「毎日一生懸命練習に励んでいる君達だから、椎太くんはみんなのことが心から好きだということがもうわかったと思う。アオケンくん、きみも心から好きな団員はいるね?」
「はい。います。」
聾唖の3年生の男の子が心で歌を歌うのを僕たちは見た。その子は声を出さなかった。ただ、心の底から楽しげで優しい表情のまま見事に胸腔を繰り、美しいブレスを保って僕たちと一曲を揃えた。去年のクリスマスに撮られた動画を毎朝登校する前に熱心に繰り返し見て覚えたのだそうだ。つまり…365回も!! 僕らの誰かが彼の背後で歌ったら、肩の線の上下だけを見て容易にドンピシャで歌声を充てられるだろう。先生が音を消して再生した去年のクリスマスコンサートのビデオの僕たちは、体の動きや胸の広がり、肩の上下やブレスや口形がきちんと揃っている。何の曲を歌っているのか、僕たち本科生の全員と椎太くんはすぐに当てることができた。歌という「演奏」が、実は視覚からも観客に楽しまれていることに僕たちは生まれて初めて気がついた。
「どうして好きなんだ。」
「カッコよくて、やさしくて、強くて、口先だけじゃなく先輩は本当に命をかけて僕を守ってくれました。それにいい声で、歌が上手だから…」
僕がトナミ先輩を大好きなことはみんなが知っている。ただ、演奏旅行で行った海岸のトーチカの中で体を交わしたことは誰にも言っていない。僕は口で受けきれず、先輩の出したものを口の端からぽとぽととこぼした。大きくなったらトナミ先輩のお嫁さんになる。
「どのくらい?」
「日本一…、トナミ先輩は日本一のボーイアルトです。」
日本一のボーイアルトはどうやらどこの少年合唱団にもいるらしい。それもみんなは知っていた。
「12月の間だけ、日本一の少年合唱団員がもう一人この合唱団にいてもかまわないか?日本中、世界中、どんな立派で有名な少年合唱団にもいない、どこをさがしても会うことのできない、掛け値無し、間違い無く日本一のボーイソプラノと一緒に歌ってみないか?先生はきっと誇りに思う。君たちは、どう思う?テストの結果をまだみんなから聞いていなかった。どうする?」
先生は一番小さな石嵜くん、永川くん、馬井田くんたち…予科上がりの団員の目を見据えて尋ねた。みんなの気持ちはもう決まっていたが、先生がその淀みの中で待ちきれず、もう一回同じ文句で尋ねようと口を開きかけたとき、メゾパトリの瓶田先輩が練習時隊列をかきわけて進み出ていき、黒い子へ返されたミニノートとペンをひったくって「おまえらって、本当にまったく!まどろっこしいな!」と、怒鳴りながら何かを大きく書き付けて見せた。椎太くんの明るい表情はさらにぱっと大きく愉悦に光り輝いて、それからぐしゃぐしゃと崩れて泣き出した。
「椎太だが、カッパだかガンマだがイオタだかわかんねぇけど、こいつもかなりメンドっちい奴だぜ!」
瓶田先輩の海老茶色の顔からその文句が漏れると、皆はすわ一大事と聾唖の子の手に握り締められたノートの文面を見に前へ出て行った。誰かがまたその子の手からひったくって差し出した筆談ノートの一面に、カメ先輩らしい勢いのある文字で大きく「テスト、大合かく」と書かれてあった。ただ、その下に急いで小さく書き添えられた「がんばれよ」の文字に気づいて読んだ団員は、椎太くん以外にもまだたくさんいたように思う。

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 椎太くんが一番最初に僕たちの前で紹介されて、小さな黒い手で切ったのが、知っている手話のいくつも無い僕たちにでも解る「ありがとう」だったことをみんなはしばらくして思い出した。12月に入り、少年合唱団員然とした白いハイソックスは、お母さんが「ワイドハイターEXを使う」と物言いをつけながら洗濯するたびに黒ずんで戻ってきて僕の洋服ダンスに収まった。面倒なので出演の日に家から履いて出かけようとすると「向こうに着いてから履いてくれると嬉しい。」と、僕にもやんわり物言いがついた。
 去年のクリスマスに未だ歌われていなかった「家のない子のクリスマス」は、僕と高池くんと外町君が練習場の先生のピアノで歌っているのを椎太君のお母さんがiPhoneで撮って持って帰った。毎朝しっかりそれを観て復習してから学校に行っているという。声の出ない子のおさらいが着実に進んでいるのに対して、僕たちの合唱はなかなかしっくりとは仕上がらなかった。先生がYAMAHAのアップライトに映った本科の皆を見咎めて伴奏の手を止めた。
「外町くん、…何でこの子たちって『家が無い』んでしょう?」
3年生は、練習の最初の日に教えられたことを覚えてはいなかった。
「ヒントはね…、楽譜の最後に曲の書かれた年が印刷されてるから見てごらん。」
終止線の黒々とした階梯の下に「Decembre 1915」と記されている。
「先生…第一次世界大戦?」
と、6年生の中には即答できる先輩方もいる。列車に乗せられ運ばれた超巨大なドイツ軍の大砲が100キログラム近くもある(一番大きなペットボトル入りのお水50本ぶんの重さ?!)大きな球を360発以上もパリ市内に叩き込んでいた。ロリコンじみていて子煩悩だったドビュッシーは、わざわざ疎開先から戻ってきていて、焦土と化した「花の都」で10歳の娘の行く末を案じながら12月、怒り心頭のまま「家のない子のクリスマス」を書き上げる。
「じゃあ、敵というのは?」
「トルコやブルガリアのわけ無いよね!ドイツですよ、先生ぃ!」
曲の内容はドイツへの心からの復讐を誓ったもので、およそクリスマスにふさわしくない内容。
「アルトの子達が歌っている低くて難しいフレーズは、憎っくきドイツへの恨み節なのですよ。良い姿勢でしっかりピッチを保って正確に歌ってくれないと、ドビュッシーがスピーディーに繰り出す独特の味が出ないから、しっかり頼むわね。」
4年メゾのだれかがカッコいい声でくしゃみをした。…多分辻本くん?
「先生、独特の変な味がわけわかんなくて、ソプラノに合わせにくいんですよ。もろに出しにくい音だし…。」
アルトのみんなは「そうだ、そうだ」と肯首した。
「せっかくドビュッシーを歌うんだから、慣れて味わってよ。…ちなみに、君たちがブーたれてるこの変な『音』って、どうしてこんな音なのか知っていますか?ソプラノが出だしで歌うこのメロディーも、なんとなくそういう感じがするんですけど…。」
先生はYAMAHAのアップライトで♪ララソソミミミーと単音でメロディーを打った。
「なんだ?ヨナ抜き音階?」
ぼそり、大森君が答えた。
「あたり!最近のオーモリっちってスゴイね。この頃のおフランスは超日本ブームだったんだな。ドビュッシーのこの曲も、日本風のメロディーに仕立ててある。」
日本は連合国軍として参戦し、ドイツからマリアナ諸島を奪うなどフランスと同じ陣営。
「ああ、そういうコトか。」
呟いたレオン君は、言うが早いかクリスマス・ソロの持ち歌『Walking In The Air』を頭から歌っていた。
「なんか、メイワクだよ。」
ちくり、大森君が漏らした。


Noël! écoutez-nous,
Nous n'avons plus de petits sabots..

♪ドド! ドドドドー ドドミミドド ドミー

日本風のメロディーは、お経やベベベン!とお三味の音のような部分だ。それがNoël! …と、メリークリスマスの言葉に振られている。
改装されたホテルのロビーのミニ・クリスマスコンサート。
入場隊形を保ってひな壇のステップへ進入していくアルトの僕の目前で、突然椎太くんが立ち止まった。突き当たった僕の胸と聾唖の3年生の男の子の後頭の間から、嗅いだことのある甘味の匂いが立ちのぼった。
「あっ!」「うぐ」
僕たちは言葉にならない声を発して身体を少しだけ離した。男の子は停止位置を見誤っていた。すぐに本人も気づいて振り返る。仰ぎ見た黒い顔に素敵な笑みが輝いた。
「もうちょっと前だよ。」
毛玉一つ無い紺セーターの肩を押し、僕は前を見据えたまま小さな声で言って笑った。僕たちが椎太くんに何かを伝えようとするとき、必ず体のどこかが男の子に触れている。口のきけない子はニコニコのまま一つちょこりと頷いた。
 「家のない子のクリスマス」の他にも、彼は「ウィンターワンダーランド」が歌えなかった。椎くんのお母さんが動画を撮って帰ったコンサート…その夜僕たちは「ウィンターワンダーランド」を歌わなかったらしい。この曲の呼吸は難しいらしく、椎太くんは僕らのDVDを見てもなかなか覚えられなかった。練習場のモニターにコンサートのビデオを映しながら、男の子の通団服(貴井先輩が4年生の頃に着ていたクタクタの通団服一揃いをお下がりで譲ってあげていた)の背と肩に僕がお腹と胸をあて、体の動きとブレスをサンドイッチで覚えさせた。聾唖の子は最初、「♪ウィンタ、ワンダラーン」と「♪雪だるまのまわりで」の呼吸が弛緩して全く正しく出ていなかった。僕が少し大げさに、喉の奥で歌詞に合わせ息を切って何度か歌うと、振り向いて僕の顔を見上げ、またあの幸せそうな笑みを浮かべ「わかった!」という顔をした。あの時のちょっぴり甘いいい匂いを僕は今また嗅いでいる。そのまま肩を押して30cm先でストップさせ、両手で肩を握って客席を向かせると頬を軽く膨らませ、誇り高い本当に清々しい笑顔になった。ぼくも釣られて笑ってしまう。お客さんがたは、その一部始終をながめ、うっとりとした声で笑って楽しげな様子だ。
 「椎太って、こいつ何でいつもこんなにシアワセそうな顔をしやがるんだろう?」
土曜朝の特訓の休み時間、瓶田くんが予科上がりの子たちの通団シャツの裾をズボンの中へ突っ込みながら言った。
「聞いてみようか?」
僕が応えるなり5年生は椎くんのズボンのポケットから無言で乱暴にミニノートを引き抜き、投げてよこした。あの子は慣れっこで、気づいた瞬間、もうにこにこで僕の背中に頬を寄せている。
「きみはこえが出ないけど、どうしてしあわせそうなかおをするの?」
平仮名ばかりでノートは半ページくらい埋まった。でも、なるべく漢字を使わない方がいい。以前、『合唱版:猫ふんじゃった』の楽譜が配られた時、「嬰へ長調」と書いたら、少し泣き笑いの表情で『嬰』の字を指しながら右手で「わからない」の手話をした。
「ぼくは、まえに、とても おこりんぼー」
と筆談帳に殴り書きされている。「僕はがんばってるのに、何でこんなに嫌なことばかりあるんだ?されるんだ?」と思っていたらしい。その度に怒って、怒って、荒れて、荒れて…。「今の僕は本当の僕じゃない。いつか幸せな男の子になるんだ!」とも思っていたらしい。僕と椎太くんが長々と筆談しているのを見て、瓶田くんは垢臭いモシャモシャ頭を斜めに差し入れて文章を読み始めた。「ぼく ふこうな子なんだ がんばっても みみがきこえるようにならないて きづいた日から おこらない」。
それからも、嫌な目にあって、多分いじめられもして、でも椎太くんはニコニコの素敵な少年になった。僕たちが駅ナカのコンサートで歌っている場面に遭遇したのは、その頃らしい。
瓶田くんが首をひねりながら僕に言う。
「これって、自分の障がいを受け入れたってコト?」
「きっと…。」
「すげえーんだな。俺にゃ出来ん。マジ。」
「でも、おばさんからあんなに優しくしてもらってるのに、なんで前は荒れてたのかな?」
椎太くんのお母さんは、息子の通団を案じてときどき付き添ってきていた。
「アオケンくん、違うんだな。おばさん、正直に言うけど、おばさんが椎くんのこと好きで好きで仕方なくて、可愛くて可愛くて仕方ないから、気づけたんだと思う。おばさんは椎くんパパと結婚したけど、椎くんとも結婚して一生幸せに暮らしたいぐらい!息子の上に飛行機が落っこってきたら、おばさん、ぺしゃんこになって死んじゃってもいいから喜んで椎くんの命を守るわよ!だから、長い長い間、おばさんもパパもそうしてきたから、ついに椎太くんは自分が障がい者だとわかってもちっとも、全然怖くなくなったんだと思う。」
楽しそうに教えてくれた椎太ママの笑顔の下で、胸を抱き寄せられた黒い男の子は蜂蜜のように甘く屈託のない笑みで僕を見ていた。そして最後に、男の子は僕たちの合唱に出会ったのだ。

 ピアノの先生の弾くキーボードの左手は、降りだした雪か、燃え続ける炎の赤か…「家のない子のクリスマス」。スタカートの撞き続ける八分音符で左手が点々と包丁でまな板の上を叩くように曲を開ける。ソプラノが4分の4拍子で主題のメロディーを冷たく歌い出すのに、先生のピアノは曲の最後まで鬱陶しい8分の12拍子のままだ。

Nous n'avons plus de maisons!
oh! la! oh! la la!
Les ennemis ont tout pris,tout pris,tout pris,
Jusqu'à notre petit lit!
(家はもう無い ああ ああ
 鬼畜が全部、全部 剥いでいったから
  僕の小さな臥所も、もう)

覚えてしまった後のフランス語は、お腹を使って出しにくいにもかかわらず流麗に僕らの口を伝い出た。配られた楽譜のタイトルを最初「ノエル デス アンファンツ キ ノン プラス デ メゾン」とフランス語ふうかな?と意識して読んだのに「des enfantsは、リエゾンするから デザ ’ ファンで、終わりのsが黙字だからplus de maisonsも プルデメゾン です。」と、先生に言われ、僕たちはスタッキングチェアの座面の上で楽譜にふりがなをふった。それから皆はようやく曲を覚え、コンサートでは必ず歌っている。椎太くんが僕と同じ段のアルトですぐ左隣にいるのは、先生が僕たちをよく見て立ち位置を勘案したからだ。練習のはじめの頃、僕の前後や左右に立たせてみて、「この子はアオケンくんの歌う様子をよく見てタイミングをはかっているから、君がよく見える場所にしましょう。」との指示だった。そうすれば先生の指揮と僕の体が動く様子を同時に見ることができる。彼は今夜も僕の左肩の後ろ30センチのところで、

Surtout, pas de joujoux,
Tâchez de nous redonner le pain quotidien.
(おもちゃは無くとも
 われらの日用の糧を今日も与え給え)

と、コードバンブルーのセーターの肩をゆっくりと振り、おニューのベルトタイプ・ローファーの黒い脚をきちりと揃え、うるわしく「歌っている」に違いない。

僕たちは歌い続けた。軽く、垂水のように身体を振って「ピュニセ,レ」と発音しながら、♪Punissez-les(ヤツらに罰を与えよ)の大文字で始まるフレーズを、みんなは合唱した。♪ピュニセ,レ…♪ピュニセ,レ…。椎太くんには無縁の言葉を、僕らは丸暗記した通り歌って同じクリスマスコンサートのステージに立っている。
「先生、それで、この後、フランスはドイツに復讐したの?」
おさらいは続き、練習場の隊列からフランス語の振られた楽譜も先生からのダメ出しも殆ど姿を消した頃、午後6時間際の「さあ、あと1回歌って今日の練習は終わりにしましょうか」というタイミングで竹下君が声をあげた。先生は一瞬躊躇し、何かを確信したのか話し始めた。
「みんなには去年、お話もして写真も見せたのだけれど…」
ドビュッシーの国がドイツへ要求した賠償額は1320億金マルク。全てのドイツ人が2年半、何も食べず働き続けてようやく支払える額という厳しいものだった。ドイツの宝の産業だった石炭を3000万トン近く。牛馬などの家畜の物納、消失した家具や暖房機器、建築資材。ルール工業地帯の全部。失われた船の代償に様々な種類の船舶の引き渡し。「これは、無理です。」というドイツ側の懇願に、もはやフランス人民の容赦は、なかった。ドビッシューが書いた通り、フランスは恨みから、正当な理由を根拠にドイツを確実に潰すつもりだったのだ。
「一生懸命働いても、もらったお金は、全部フランスに持っていかれる。奥さんも子どももいてお腹をすかし、家賃や電気水道のお金も払わなくてはいけない。それが30年間以上も続くことになっている。自分の子供も大人になったとき、フランスへ賠償のお金を払い続けている。それで…ドイツの人は、みんなどうしたと思う?」
合唱団の先生が前の年に僕らへ教えてくれたのは、ヒトラーやナチスドイツを選んだのは、実は普通の善良なドイツの人たちだったということ。ヒトラーが政権を握るとべートーベンの喜びの歌が歌われ、レハールのメリーウィドーやワーグナーの楽劇の音楽が至高の「音楽」とされた。だが、そこに名前の出てこないおよそ「ドイツ的」ではない多くの芸術家たちは作曲家を問わず厳しく迫害された。さらに500万人に及ぶ何の罪もない人々が風呂場を模したガス室などで殺され、人体実験の材料として切り刻まれ、僕たちはその死体の山や薄切りにされた標本やホルマリン漬けのピンボケの写真を見た。…僕たちは今、その悲しい復讐のもとになった、あまりにもつらいクリスマスの歌を歌っている。もしも今、聾唖でも合唱団のみんなから愛されている男の子…ことの事情を知らない黒い子が僕のすぐ後ろで暖かい息や開襟シャツの第一ボタンの上から出る体熱を放ち歌っていなかったとしたら、…みんなは今日まで歌い続けられなかったかもしれないと思う。

 先生は立ったまま、霜の付いた大きなグラスに摺り切りなみなみと注がれたヒューガルテンホワイトを殆ど一気にあおり、残った3分の一をもう一口で飲み干した。僕たちは先生と一緒にとぐろを巻いたブラードブルストシュネッケをフォークの弓で切って食べた。クリスマスは終わり、大晦日に残った商店会カウントダウン・フェアウェルステージの第1部への出演を歌いきった。椎太くんは僕の隣でフクちゃんのホッペにペッタリとくっついて「ラデツキー行進曲」と「美しく青きドナウ」のブレスを繰り返している。いつも色々なことに迷惑顔のフクちゃんは3年生の楽しそうな表情でそれを躱している。「椎ちゃん、今度、パパブブレ行かない?キャンディーいいと思わない?」「お父さんがシュラスコ好きなんだ!アオケン先輩さそうからさぁ〜いっしょにお肉食べに行こうよ!」。先生がベルギービールのグラスをあけたときが、僕らの今年の歌いおさめだ。椎太くんは言ったことを必ず守る少年だと皆が知っているから、「僕らとずっと一緒に歌わない?」とはだれも後ろ髪を引いたりしない。それでもみんなは幸せそうに、うっとりと口のきけない男の子の表情を眺めた。…いいんだ。楽しかったから。黒い子はぐるぐるソーセージをくちゃくちゃと音を立てて咀嚼し、眉間にしわを寄せながらまさに「美味しさにヤラれたぜ!」という顔で飲み込んだ。声のない子のクリスマス。来週の夕刻は何をして過ごすのだろう?


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椎太くん
今、何をしていますか?
きっと毎日楽しく何かがんばっていますね?

 手紙を書いて、まだ「年賀」のステッカーが貼られていない駅前のポストに入れたその日。合唱団の練習は12月に差し掛かり、いつものクリスマスソングのいつもの譜面が通団服の半ズボンの太腿の間に切り分けたパネトーネの形で開いていた。先週の土曜まで、テレビ局の番組挿入歌の録音でばたばたと歌っていた僕たちは、ようやく一息ついて、練習場のスタック椅子の奥から尻を浮かし深呼吸もした。…だが、なんとなく和菓子の匂いがする。僕は少年合唱団員だから反射的に周囲の音を冷静に聞き分けようとした。いや、きっと何の匂いもしないようだ。レッスン場の開け放しの合板のドアから辻本くんが白い二脚を踏み出して、たぶん練習の前にトイレへ用足しをすませようと踏み出し、何かの事態にかろうじて踏みとどまった。くるりと踵を返し、「ごめんなさい」とその口形は言っている。
…黒い顔に浮かんだ頬笑にクタクタでパンパンのはち切れそうな通団服。その子は僕が去年と同じ場所に隊列を作っているのを見て「居た!」とアニメのような口を見せた。事務室から付き添ってきたらしい先生が、その子の両の肩に掌を置いて、おっかない顔で何かを僕らに問いかけようとしている。
「これからここで入団テストを行いたい。いいか?一曲一緒に歌ってやって合格不合格を決めてくれ。」
瓶田先輩が黒い顔を赤黒く染め直し、猛然と練習時隊列をかきわけて前へ進み出ていった。黒いその子のはち切れそうなズボンの右ポケットからミニノートとペンを乱暴にぬいてひったくると「本当にまったく!まどろっこしいな!」と、怒鳴りながら何かを大きく書き付けてその子に見せた。椎太くんの明るい表情はさらにぱっと大きく愉悦に光り輝いたが、去年のように泣き出すことは無かった。皆はわーと歓声をあげながら聾唖の子の手に戻されたノートの文面を見に出て行った。カメ先輩らしい勢いのある乱暴な字で大きく「合かくにきまってんだろ!」と書かれてあった。ただ、その下に急いで小さく書き添えられた「おかえり」の文字に気づいて読んだ団員は、椎太くん以外にもまだたくさんいたように思う。

もしアオケンくんが日本の少年合唱団でカップ焼きそばの作り方を書いたら

August 29 [Tue], 2017, 8:14

▲「焼きそばはやっぱり割り箸で食べるものだ」という人もいるけれど、僕はそう思わない。

 ポットからあんなにたくさん注いだお湯は、最後に全部捨てられてしまう。お湯が全部捨てられると焼きそばが出来上がる。どんなにちんちんに沸いたお湯も、ベストマッチの温度でカップに入っていたお湯も、箸でほぐして別添えのソースに絡めたおいしい焼きそばには残っていない。ただ、食べる人が感じるのは、がんばって麺をふやかして下水管の中へ消えたお湯の温かさだけだ。
「一滴も残さずにお湯を捨てようとする人っているよね。たぶん僕たちのお客さんの中にも…。」
フクちゃんは中途半端にずり落ちたJS用の紺ハイソを適当に引き上げながらぷいと唇をとんがらせた。
「カップ焼きそばって、なんか僕たちに似ているね。」
大好きなトナミ先輩の優しい大きな胸やいい匂いを思い出す。ステージを終え、めいめい通団の服に着替えた仲間たち。先生からは「アルトのブレスがずっと詰まっていて歯切れが悪い」「ブレスと一緒に歌のナカミを捨てている愚か者がいる」と歯に衣着せぬ注意を受けた。折り襟の制服の一番上のホックをプチリと止め直す。カップ焼きそばのお湯が食べるときに残っていたら確かに最悪だ。声変わりしてもしなくても、歌が上手くいっても、いかなくても、僕たちの合唱団は中学生になったら全部おしまいになってしまう。
「おいしいおいしい麺を作ってくれるんだから、お湯は全部捨てられてもイイじゃん。」
フクちゃんはむくれたように右足のコインローファーを蹴飛ばして脱ぎ捨てた。あした天気になーれ!
「でも、別添えのソースがそれぞれのブランドの味を出してくれるよね。」
「フクちゃんたちも、そういう立派なボーイアルトになるといい。…必ずなるんだよ!」
大切な大切な後輩たち。フクちゃんはいつもふくれて何か言っているし、アキヨシくんは毎日一生懸命に歌っているのに、先生方はちっとも彼の良さに気がつかない。僕はアキヨシくんの男らしくてカッコいい静かな声が大好きだ。無くてはならない二人。カップ焼きそばに具がついていなかったら、食べた気にもならないし、きっと二度とお湯を注ぐことも無いだろう。
「アオケン先輩の声だって、僕たち4年アルトの歌をヒラダイの上の段から勇気付けてくれてるんですよ。」
「カップ焼きそばのソースみたいにネ。」
アキヨシくんのプチプチ麺みたいに弾力のあるつややかな太腿が僕の前で輝いた。
「ソースをかけた麺が、黒光りしてアオケン先輩みたいにキラキラしているんです。」
体育の日が過ぎ、金木犀の匂いが通学路に立つようになると、僕は制服に黒タイツを履く。学校の男子は式典の日だけしか履かないけれど、僕は面倒くさがりなので次の年の入学式が終わるまでずっとこの格好。…折り襟の制服を着て黒い革靴も履いて、学校からそのまま合唱団に通う僕は半年間ぐらい上から下まで真っ黒だ。
「いい匂いもする。ちょっぴり辛いし、リンゴみたいにおいしくて酸っぱいかな?」
合唱団のアルトのみんなはもちろん焼きそばが大好きだ。カップに入っていてもいなくても。湯通ししてあっても、しなくても。合宿のBBQ大会やクリスマスなんかのお楽しみ会の主食はたいてい焼きそばだったりする。僕は控え室の椅子に座って寄りかかってきたアキヨシくんの頭の匂いを嗅いだ。ちょっぴり垢臭いけど、なんだかホッとする。最初は黒いきしきしする髪を唇で撚っていたのに、みんなが衣装ケースをぶら下げて部屋から出て行ってしまうと、誰もいないことをもう一度確かめて、なりゆきで大きな4年生の頭を掴んでひねったまま真っ赤な唇に僕の口を合わせた。やっぱりリンゴみたいないい匂いがする。
「4年生なのに…6年生よりもかっこいいよ。」
今度はアキヨシくんが僕の胸に顔を埋めて服の冷たい金ボタンを甘噛み。
「声も、心も、普段の話し声も、身体も…きれい。」
日本の少年合唱団員でテストを受けて合格した者は、実は普段の話し声が一番カッコいいのだ。歌う時の声やMCのナレーションよりも、アキヨシくんの普通の話し声は少年らしくきりりと締まって、聞いているだけでぞくぞくする。たいていのカップ焼きそばのかやくが、先に麺へのせてお湯を注いで蒸らす事になっているように、歌とともに普段の話し声が熟れてくる。お客さんは日常の僕らの話し声を知らないから、楽屋口で出会う出待ちのファンの人たちはみんなうっとりと僕らの声を聞いてくれる。お湯を切った後のかやくも美しく輝いている。葉物の野菜類は燃え立つような艶しいぴかぴかの暖かい緑!
「アオケン先輩…、カップ焼きそばの弱点って知ってる?」
真っ赤な光る唇が僕に尋ねた。
「五十嵐くんに60秒で食われちゃう…ってコト?」
4年アルトは渇いた声で笑った。お腹が空いた。お昼にフルーツサンドを半分食べたきり、後はお水しか飲んでいない。
「焼きそばパンに入れられないってこと。」
「カップ焼きそばだって、コッペパンに挟めば焼きそばパンになるでしょ?」
唇をまた近づける。
「なるけど、カップ焼きそばを挟むとパンがべちゃべちゃして溶けるの。妹がイタズラして作ったときに、なんか、そうなった。超マズかった…。」
「そうなんだ。」
「いつもじゃないと思うけど…。」
僕たちはそれから黙ったまま、もつれあって互いのブレスの音を聞いていた。
「やっぱり少年合唱団とカップ焼きそばは、似ている…。」
アキヨシ君は僕の冷たい金ボタンを痺れるように舐めていた。

 ホールのエンタランスから外へ出ると、先に帰ったはずのフクちゃんが、ガラス扉ごしにロビー照明を受けたオレンジ色の顔をつまらなそうにふくらませ、股にカバンを挟んで立っていた。前を向いたまま、隣へ付き添うお母さんに「ねぇ、お母さぁーん…コンビニでカップ焼きそば買ってよ。お腹すいた。」
とせがんでいる。
「アオケンくん、アキヨシくん。駅まで一緒に帰りましょう。」
息子の無心を聞き流し、フクちゃんのお母さんが、声をかけてくださった。
「日本第二位のボーイアルト…アオケンくん、カップ焼きそばで一番大切なことってなんだと思う?」
日本一のボーイアルトは大好きなトナミ先輩。あと何ヶ月かしたら中学生になって卒団する。お別れだ。
「これはおばさんの想像でしかないんだけど、多分『湯切り』だと思うな。…だって湯切りが無かったら普通のカップラーメンと同じでしょ?具やソースを入れる順番も、湯切りの前か後かで決まっているし、麺を捨てないように注意しなきゃいけない特別な瞬間だし…」
「湯切り口って、どの会社のも何かカッコいいですよね。蓋をめくるとシャキって穴やスリットが出現したり、ペヤングとかのは、前はツメを適切な角度で起こすようになっていたりしたよね…」
「ローテクの格好良さよね。おばさん、ペヤングのは好きだった。」
「ねー、お母ぁさーん。買ってー。いいでしょー?」
よほどお腹が空いている。
「湯切りがカップ焼きそばであることを決めているなんて、思わなかった。」
アキヨシくんがぼんやりとつぶやいた。
「捨てることとそのカタチが、一番大切なんですね。おばさん。」
空腹を悟られないようにしながら、僕も言った。
「お母ぁさーん。そんなの、どうでもいいからさー。なんか、みんなどうでもいいことばっかり言ってる!少年合唱団と関係ないじゃん。食べたいの!いいでしょー?」
今日のステージは少し暑くて疲れた。大切な後輩の4年生が、満腹になってゆっくり眠れるといい。

 「焼きそばはやっぱり割り箸で食べるものだ」という人もいるけれど、僕はそう思わない。少年合唱も頭でっかちな聞き方しかできない人が多いのは知っている。「声変わりしたら終わり」だとか「声変わりする直前が最も美しい」とか、「男の子は振り付けをしたら歌がおろそかになる」とか「頭声発声じゃない少年合唱は邪道だ」とか…。「少年合唱は精神的陶冶である」なんていう人もいる。全部間違っているとは思わないけれど、そうじゃない少年合唱はいっぱいあって、結局聞いている人を幸せにするんだ。同じように、カップ焼きそばは、どんな箸で食べても、プラスチックのフォークやコンビニでくれる先割れスプーンで食べても、お腹の中で人を幸せにする。

PANTASMAGORIA 夏のスケート場のテーマ

July 30 [Sun], 2017, 11:44

▲アオケンくんのデータには幸運なことにボレーシュートのポーズをキメた制服姿の写真と浅黒い顔をしたカッコいい男の子が可愛いえくぼを浮かべてニッコリこちらを見て微笑む写真が添付されてる。外見通りの子だなって思った。

 宇宙…は僕たち子供にとって、およそ憧れの繰り広げられる所とは言い難い暗く凍てついた空間だ。空気も重力も無いから、歌も音楽も振り付けも無い。
 合唱団の先生方は、「合唱はとんでもなく孤独な戦い」と言う。ホンバンが始まれば、僕たち団員も、先生方とも、お客様とも、お客様同士も、最早「心でつながっている」という観念だけで成立する孤りぼっちの世界。いったんステージが走り出してしまえば会話はもちろんのこと、独り言さえ厳禁…完全なる「孤独な闘い」。それを全員が強いられる。空気も重力も歌も音楽も振り付けも無い、死んような広い宇宙を僕はたった一人、封入されたポッドの中で息をしながら通り抜けている。行く先は、「まどろみを旅して見つけた小さな惑星」。楽天地PHANTASMAGORIA(ファンタスマゴリア)。低く垂れ込めた東京文化会館の楽屋口からぼんやりと吐き出された二人の子供のうち、自分より辛い役で出番も多い年下のモリマ・ユーリは同じアルトなのに指名されなかった。出演が午後8時にかかることは頻繁に連続してあり、大抵オーケストラを従えた大音響のホールの音場に苛まれ、涅色に汚濁したぬれぞうきんのように帰宅する毎日だった。説明を受けながら、焦点の定まらぬまま頷く僕を眺めやるユーリくんの虚ろな表情を航宙の間、しばらく思い浮かべた。

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 「こちらは連邦航宙艦USSジョルディ・ラ=フォージ、艦長のシッキーナ・バキンです。あなたの搭乗するポッドの護衛を担当しています。アラートによると、ポッドのワープフィールドに重篤なトラブルが発生しています。連絡をとりたいので、デッキ後方のコンソールの明かりのついているボタンに3秒間タッチして手を離してください。繰り返します…こちらは連邦航宙艦…」
たいていの宇宙船のコンソールはデッキ後方に並んでいる。小学校高学年の子どもなら知っていることだ。
「ただし、明かりのついているボタンが2つ以上ある場合は、何もしないで待ってください。15秒間以上待つことで、2つ以上のボタンが点灯していると判断します。繰り返します…」
スライダックの隣でカルピス色の5:8のボタンが一つだけ点灯していた。15秒以内。
「ありがとう。アオケン君ですね?行き先はファンタスマゴリア。射出時の年齢は11歳。職務の内容は…『少年合唱』ぉ??歌を歌っていたのね?…聞こえていますか?返事をして。」
「…は、はい…。」
「君の乗っているポッドが、何かおそらくデブリのようなものをワープフィールドに食い込ませたまま航宙しています。遠隔操作でイジェクトしますけど、運悪くこちらからは何が引っかかっているのか大まかにしかわからない。けっこう大きなものらしいんですが、ポッドの窓から見えるかな?」
「そちらからは、見えないんですか?」
「ワープスピードのままパラレルコースで進んでるのよ!0.5光年も向こうの射出ポッドに引っかかったワープ航宙中のデブリなんかが見えたりするわけないでしょう!?」
デッキには四角い窓が3つしかついていない。どれもかなり変な位置に小さく開けられていて、覗き難かった。右舷側の壁の中央に設えられた船窓からは飛び過ぎる恒星以外何も見えなかった。しゃがみ込んでデッキ前方の右下に開けられた窓を覗いてもやはりワープによる星の流れが生まれては降ってくるだけ。
「天井の上とか、床の下の方にくっついてる…とか。」
言いながら、ベンチに上がって大人の顔の高さに開いた窓から外を覗くと、亜空間フィールドの膜のせいでぼんやりと光を放つ不恰好なケン玉のような構造物が見えた。10時方向に傾いている。
「あった…。」
「何かな?」
「うーん。ねずみ色の…うーん、なんか大きな…」
「どのくらい?」
「よくわからないけど、バトンゾーンぐらいの長さだから、10メートルぐらい?」
「バトンゾーン…って?」
「リレーでバトンをもらって、バシって走り出す場所?!いや、よくわからないですよ。」
「知ってるマークとか国旗のようなものはついてないですか?」
「えー、半分向こう側になってるからよくわかりません。」
「文字とかが何か書かれてないかな?」
「数字みたいのが…まず、Cでしょ。次は01-03 …それで終わりです。数字はすんごくくっ付けて書いてある。」
「C01-03?!え”ー何だろう?調べてみる…」
言葉はそれで1分間以上途切れた。ベンチから降りて腰をかけようとして、そのまま座面に寝そべった。疲れていたのだ。
「…ねえ、C01-03って、無いなぁ。連邦の航宙物でデブリになりそうなものの中には、そんな番号のものは無いんです。他に何か書かれていない?」
靴下の白いつま先をグリーンのベンチクッションに食い込ませながら再び背伸びして窓外を覗く。5年生になってから、急に立ち上がると立ちくらみするようになった。
「小さめの字だけど、数字とローマ字。まず、3です。」
「アラビア数字の3だよね?」
「次がH。」
「3エイチ?」
「E…P…それからカギカッコ。」
「え”ー、それオカシイでしょ?」
「その次が、逆さに書いたN。」
「えー、それもワケわからない。」
「最後がRを逆さに書いた字。」
「キミが言ってるのは、3HЕР「ИЯだよ、最後の2つはキリル文字かな…?」
「知りませんよー。」
「他には?何かない?」
「それだけです。ぶっといケン玉みたいな宇宙船で…、あんまりカッコよくないですよ。」
「けん玉…って?もしかすると、キミの見てるデブリは、ちょっと無骨なかんじ?カザフスタン人のおっちゃんたちが手作りで部品組み立ててるみたいな?」
「カザフスタンって?」
「はっはーわかった!それ、多分、ЭНЕРГИЯ(エネルギヤ)って書いてある。それを打ち上げたのソ連のロケットだよ。連邦は連邦でもソビエト連邦。…宇宙船の名前はC01-03じゃなくてСОЮЗでしょ?ソユーズ!バカみたいに大きなロケットで打ち上げて、モジュールまるごと深宇宙に流れたって、どういうこと?!」
「…知りません。」

 航路計算上の修正の結果、灯油で飛ぶ大昔の宇宙船を押し出したポッドのファンタスマゴリアへの到着は、さらに11日後というとんでもない事態に陥った。亜空間航法は所詮通常航宙のハイスピード版に過ぎないから、何かあって航路が狂うと、軌道修正にうんざりするぐらいの時間を費やすそうだ。食べ物は満席状態で25日分を搭載。ラーメン!カレー!ハンバーガー!お寿司!サンドイッチ!…フルーツアイスクリームのパウチには、グレーのインクでSEMBIKIYA estab.1834とプリントされていた。子供ならば広々と使える簡易トイレ。風呂やシャワーは無いので、護衛艦の艦長さんが、僕の持ち物やレーションのアクセサリーを使って身体をきれいに払拭する方法を教えてくれた。気楽に横になれる、背もたれのないビニールクッションのベンチが数えたら25脚。一応の衣食住。
ただ、もともと長時間労働者への過労緩和政策で行なわれている射出だから、人に暇(ヒマ)を与えること以外、ポッドには微塵の工夫も凝らされていない。問題が無ければ出発の翌日には「まどろみの中に見つけた惑星」に着いているはずなのだ。時計すらついていない。

 「僕は合唱が孤独だなんて思ったこと、無い。」
艦長さんとは航宙の間、頻繁に話をした。「これから寝るんだけど、アオケンくん、艦長さんの話にちょっとだけ付き合わない?」と言われたこともある。
「合唱団が好きなんだね。」
「同じ5年アルトの子達も全員好きだし…。」
「何で好き?」
「だって、つらいのにがんばってる子とか、いつもニコニコしてる子とか、すっごーく声の綺麗な子とか…ビブラートが、こう、末期的beautifulにかかる子とか、…艦長さん、声、聞いたらきっと身体中の毛が逆立ちますよ!」
「えー!聞いてみたい!」
「コンサートのとき、その子のソロを聞いた通路側のおばさん客さんたちが『まぁ!なんて¢£%#&□△◆■!?』とか意味にならない声を出してるのが聞こえるんです。」
「わははは!すごいねぇ。」
学校の教室をちょっとだけ広くしたぐらいの出口の無い直方体の箱。ワープフィールドがそれを覆い、甘いケーキの匂いをたてるリアクターがカタパルトになって射出される。震動も何かの駆動音も閃光も闇も無い。ポッドというのはただそれだけの単純な乗り物。僕はその中に一人いて、半光年向こうからときおり語りかけてくる護衛艦の艦長さんと亜空間通信を通じて少年合唱団の話をしている。
「古川清高くんって、艦長さんも会って歌を聞いてみたいな!」
「本当?!でもね、古川くんって、あんましミダシナミとかイイカゲンな子。まあ、4年アルトの連中はみんなそう!なんて、そんなもんかもしれないけど。」
サンドイッチを食べていた。食べることしかすることがない。塗られたバターが春霞のように香ばしくハムは端正に美味しかった。
「ベレーとか、田舎の子のかぶり方で、ネクタイはたいてい曲がってる。シャツのすそは中途半端にパンツインしてないし、靴下は右と左の長さがぜんぜん違うし…。」
「外見に頓着が無いんだね。男の子なんだものね。」
「でも、食事中にオナラしちゃったり、下級生を睨んで泣かしたりもするんですよ。」
「4年アルト、ヤバいね。」
緊急時の危険防止のために、テーブルがついていないそうだ。サインドイッチを座面に押し置いて、太ももの横に立てておいた杏仁紅茶シェイクを掴み上げて僕はストローを咥えた。
「ベレーはマネージャーさんが分かっていてきちんと阿弥陀かぶりに被せてくれるし、ネクタイは整列のときに中山先輩が見てくれる。でも、本番がはじまったときの古川くんは元どおりの変なベレーのかぶり方だし、ネクタイは曲がって、シャツの襟の中だし…。」
「人がちゃんとしてくれるの、嫌なのかね?」
「いっつも眩しいくらい真っ白なワイシャツを着て、ゴッツく見えないようにかっこいいハイソックスなんかを履かせてもらってるのに、全然ダメ。ベストはトイレに行ったときのまま下がめくれてて…。」
「アオケンくん、あきらめちゃってるね。うふふ。」
ストローの先から口の中へ紅茶杏仁があふれ出た。
「ポッドで打ち上げられる小学生の男の子って、珍しいでしょ?」
「うん。」
「もしかして、僕が初めて?」
口の端から漏れたシロップを手の甲でぬぐう。
「前にたった一人だけ。そこには他の大人の人たちもいっしょに乗ってたけれど。その子はムスリムの少年だった。」
「どこの子?」
「日本人だって。それで、日本人にもムスリムがたくさんいるんだっていうことを知った。」
「トンカツとか、酒饅頭とかは食べられないね。」
「わはは!自分のことをムーサーと呼んでたわ。預言者の名前をもらったんだって。アザーン・アプリの入っているスマホを射出前に没収されて困ってた。宇宙には日の出も日没も無いし、キブラの方角も、<床の斜め左下>とか言ってもね…。」
僕は今、どこを飛んでいるのだろう。
「航宙変更は50回に1度ぐらいあるんです。艦長さんの担当しているなかで一番長かったのは14日間の延誤かな。それ以上だと、地球へUターン。ちょっとツライよね。」
「僕だけじゃないんだ。」
「11日間は、長い方だよ。子供なのに、よく我慢してるね。艦長さん、最初はどうしようかと思ってたんだ。向こうへ着いたら、好きなだけ遊んでいいからね。でも、スノーマンに頼まれて彼らを決して南の国へ連れてったりしないように!」
ポッドに転送されてから、10日と1日の一人ぼっちの宇宙の旅。護衛艦からポッドまで、光速で飛ばして4分間かかる距離だそう。僕らは笑った。

 どこからかPHANTASMAGORIA夏のスケート場のテーマが聴こえてくる。護衛艦からの亜空間通信に乗って流れてくるものなのか、リモートでポッドの中の音源を鳴らしたのかはわからなかった。
「アオケンくん、ごめんね。びっくりした?実は、艦長さん、少年合唱団の歌ってるのを一回もナマで聞いたことが無いんだ。」
「それは、教会とかでも?」
快適な温度で時々、気持ちの良い風が吹きすぎた。いつもの習慣で、通団服のシャツの一番上のボタンをとめた。
「この仕事でずっと生きてきたから。…船に乗ってると、外へ行くことは無いんだぁ。」
「今度、僕たちの歌うのを聞きに来てください!」
結局、リプリケーターで飲み物を調達する。ポッドはほんの少しだけ与圧されていて湿度が低く、いつも喉が渇いた。
「ありがとう。でも、ちょっと無理だな。その代わり、よかったら、私の船にご招待するね。ホンモノのアオケンくんを一目だけでも見てみたいから。それまで、絶対に声変わりしないでね。」
フードパネルの前で逡巡している僕の姿を感じたのか、アドバイスの声が返ってきた。
「日本の射出ポッドだから、農協牛乳が美味しいらしいわよ!落っこってくるのはテトラパックで、あんまり喉の渇きには効かないみたいだけど…。」
牛乳のボタンはすぐにわかった。こんな深宇宙の真っ只中なのに、パネルに表示されたオレンジ色のパッケージに「農ぉ、協ぉ、牛ぅ、乳ぅー!」の派手なキャッチが明滅している。
「僕も、艦長さんの顔を見てみたい!」
「いんや、いいよ。きっと小学生の男の子がビックリしちゃうような顔だから。」
「えー!ファンタスマゴリアのランスロット・ロボットみたいな顔だったりして!」
「あー、それ、近いかもしれない!わははは!」
孤独じゃない。大好きな子もたくさんいる。斜め前で歌っているのはいつも古川くん。外見に頓着は無い。
「おいで。清高くん。いい匂いするね。」
古川くんは4年生なのに大きい。ショートの黒いきしきしいう鬢の髪を押さえながら胸の上に抱いたら、汗ばんだ男の子の頭の感触が僕を圧倒した。
「ねえ、艦長さんってとっても優しい人だったね。」
「笑ってたね。」
「宇宙船でアオケン君を助けてくれた人なの?」
「助けてくれたよ。10日と1日。」
「ずっと一緒にいてくれたの?」
「僕は一人。艦長さんは0.5光年の向こうから、僕に色んなことを教えてくれたり、面白い話をしたりしてくれた。」
「何を歌ってあげたの?」
「いろいろだよ。ブータンのツァンモを歌ってあげたら、とってもウケてた。」
清高くんが話すと、肩に男の子の温かい息がかかる。
「笑ってたでしょ?」
「ううん。笑う声は聞こえるけど、映像は来ないんだ。」
「見えないのに、何でいろいろ分かるの?」
小さな赤い右耳をつまんで揉みしだいた。少しだけ垢臭い。
「わかるよ。僕だって、清高くんの後ろで歌ってるけど、君の声がわかるから顔も分かる。」
先生方は時々、「アルト!もう少し声が前に出せませんかね?」と僕らの歌に注文をつける。
「声はね、前だけじゃなくて、後ろにもちゃんと出てるんだ。古川くんの身体全体が鳴って歌になる。背中も後頭部もシッカリ音で震えてる。だから、その声を聞けばきみがどんな顔をしてどのくらい口を開けているのかも全部わかるよ。僕はそんなキミの声が好き!」
「それじゃあ、歌っているときも僕たち全然孤独な闘いじゃないネ。」
震えるような声。真っ赤な唇を僕は少しだけ塞いだ。
「なんで僕のこと好きなの?体が綺麗だから?声が好きだから?」
僕は首がちぎれるほどかぶりを振って応じた。
「体も綺麗。首筋も唇も頬も脚も綺麗だし、声も大好きだよ。でも、僕が古川清高を好きなのは、一生懸命歌ってるから。ぼく、ふざけて歌ってる清高くんを1回も見たこと無いよ。いつも真剣で、心を込めて歌っていて、一生懸命練習して来るから、大好きなの。だから、僕も元気が出るし、頑張れるの。」
体を引いて下級生の黒いまつげの下に潤む瞳を見た。いつもの眼差しだが、澄んだ心のありかを告げている。
「いつまでも、いつまでも、一緒に歌ってくれるよね。絶対に何処かへ行ったりしないでね!清高くん、大好き。君がそばで歌っていてくれると、僕は世界一心の強い子になれるから。」
「わかった。」
「最後の、最後の日まで、一緒に歌ってくれる?」
「うん。必ず歌うよ。」
「世界一好きなんだ。ひとりぼっちになんか、しないでね。」
「うん。わかってる。僕も好きだから。ひとりぼっちになんか、しないよ。」
汗でよれよれになっているはずの合唱団の制服を着た。入っていないはずの衣装ケースの中にそれはセットされていた。腕まわりを横に貼ってシワを伸ばすはずのワイシャツに袖を通した。僕たちは同じ姿になり、安心して一度だけ深く笑んで、それからきりりと姿勢と表情を正し、歌を唄った。どこを向いて誰に歌っているのか判然としない。
「アオケンくん!アオケンくん!連邦航宙艦USSジョルディ・ラ=フォージ、艦長のシッキーナ・バキンです。お別れの時が来ました。私たちの船はこれから別の戻りのポッドに随伴して取り返し航宙します。…寝ていたのね?地球は今頃まどろみの時間だものね。起こしてちゃってごめんなさい。」
立ち並ぶ寝台のようなベンチの座面の一つで僕は目覚めた。
「え。着いた?…んですか?」
「そのポッドの慣性力行はあと3分で近くの惑星の公転軌道上をインターセプトして減速するわ。ファンタスマゴリアはまだ遠くて見えないけれど、スイングバイを見届けてから早めにお別れするね。」
起床すると必ず訪れた口渇は、感じなくなっていた。爽やかな何かの良い匂いがコンソールの下の方から湧いている。
「帰りのポッドもまた一緒に航宙してくれる?」
「うーん。さっき調べたけれど、そうもいかないみたい。本当にお別れなの。ごめんね。さびしいわ。」
「また、会えますよ!声変わりする前に合唱団のみんなで歌いに行きますね!」
「歌をいっぱい歌ってくれてどうもありがとう。帰りのポッドで歌を歌ってくれる人は時々いるけど、ボーイソプラノは始めてだった。気持ちが良くてさっぱりした。キミはとっても2枚目くんだしね。学校でもさぞかしモテモテでしょう?」
ライムのような気持ちのよい匂いだ。
「…僕は艦長さんの顔を見たことないのに、そっちからはここが見えるの?」
あと、何回、目覚めたら到着するのだろう?
「残念ながらそこは見えないわ。でも、アオケンくんのデータには幸運なことにボレーシュートのポーズをキメた制服姿の写真と浅黒い顔をしたカッコいい男の子が可愛いえくぼを浮かべてニッコリこちらを見て微笑む写真が添付されてる。外見通りの子だなって思った。」
「そうなんですか?アルト6年のトナミ先輩が、心を綺麗にしていると、顔もソトミも綺麗になるって教えてくれた。だから、頑張ってるの。」
「本当?それじゃぁ、艦長さんはその先輩に感謝だね。だって、写真のキミを見て何度も優しい気持ちになれたから!…私はただの艦載AIだから、頑張っても外見なんか全然きれいにできないんだけど…。」

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 まどろみを旅して見つけた小さな惑星…ファンタスマゴリア。国語の教科書のようになんでも四角いキューブになってしまうデジタルゾーンの夜の空をながめながら、僕は崩落したトルソに腰をおろし、キノコ村でもぎ取ってきたマッシュルームをムシャムシャと食べた。人工の月が落ちた次の宵、寂れた絵の具工場の無音の一帯に立ち尽くし、翌晩は密造酒村の赤紫の夕べに生まれて初めて酔っ払った夢を見た。そして旅の終わり、夏のスケート場のクリスタル塔柱の見える湖岸で、白サテン色の豪奢なロータスが花弁を緩める音や星魚の飛翔の波しぶきを聴きながら、僕は気持ちの良い夜半の風に吹かれ、まどろみはじめている。もう長いこと本当にたった一人で旅をしてきたはずなのに、寂しいと思ったことは一度も無いのだった。

とけい(とけいのうた)

July 09 [Sun], 2017, 0:00
▲少年指揮者の仕事に加えて、ヒカルには簡単なソロの仕事が舞い込むようになった。定期演奏会の合唱では「とけい(とけいのうた)」を独唱で引き連れた。

 天道ヒカルは、小学1年生の男の子が多段変速のマウンテンバイクを漕いで自宅から5分の少年合唱団に入団させられた。自分からなかなか「入りたい」と言わなかった息子のために、母親は「お兄ちゃんの行ってる合唱団に入ったら、ヒカルくんの大好きな田舎お汁粉を毎日ご飯の代わりに食べさせてあげる。お汁粉が嫌になったら、元に戻して…って言えばいいだけだよ。」とにこやかに言って説き伏せた。男の子は後味がざらざらする御膳汁粉の方をあまり好まなかったので、母の勧誘に肯首して歌の練習へごそごそと通い始めた。兄の自転車には時々置いてけぼりにされながら、通い始めて2週間と次の水曜日まで、少年は毎晩の夕餉に田舎汁粉をぐずぐずと啜り続けた。


 当時ソプラノのソリストで合唱団のリーダー格だった兄とは、当然同じクラスで同等には歌えなかった。男の子のアルトは独特の癖を持っていたのである。もともと歌いたいという気概も技術も持ちあわせていない低学年の男の子はピッチを外しがちで、指導者たちの口うるさい世話や、その逆の見切りの放任から予科を1回留年し、ステージ要員としてなかなか日の目を見なかった。小学1年生向けのちょっと面倒臭い基礎訓練に付き合わされ続け、入団から2年目の春、男の子は後入りの同学年の男の子たちといっしょに本科アルトの隊列の目立たぬところへ配されてぽつぽつと舞台に立ち始めた。毎週、様々な営業に重用され華やかなステージやスタジオへ次々出演していく兄とは同じ土俵に立つことができない。オーディションでは厳しい選抜があってふるい落とされ、レベルを求められない座興程度のコンサートには電話一本で呼ばれていってそこそこの歌を歌って帰ってきた。ボーイソプラノの賞味期間を感じた両親は兄の出演を最優先にコンサートへ付き添っていたので、ヒカルはローテーションで家にとどまる父親・母親とともに留守番をしたあと、どろんと疲れ果てた通団服から独特の体臭を放つ兄が通団カバンや衣装バッグをぶる下げ、親とともに帰宅する姿を夜半、トイレに起きた玄関の板の間の上で寝間着姿のまま眺めた。母親はしたたかに兄の団員生活を看取っていたので悪い意味での「見通し」というものがあり、ヒカルは出演に是非とも必要な衣装や持ち物、弁当や集合場所の念押しといったものを受けぬまま時々忘れて失敗しかけた。指導者たちやマネジメントの担当者らは、兄弟で所属する団員に起こりがちなこういうことはもう慣れっこだったので、様々な側面から彼をフォローしてやりすごさせた。兄と同じステージに立てたのは定期演奏会のフィナーレといった総出演の場面だけで、男の子はその他大勢の目立たぬ歌いのわりには指導陣からあれやこれやのダメ出しが終演後も浴びせられるという日々を送り続ける。しかし、どんなに反省を促されても、黙々と出演を目指して練習に通いつめる兄の姿を見てきたからだろうか、少年は「ヤメたい。」「行きたくない。」とは1回も言わなかった。


上進して次の春、合唱団の頂点で歌っていた兄が卒団した。地方公演、海外公演と2つの稀有な大役をこなし、変声して裏声で歌い、それでも弟のいるアルトには最後まで降りてこなかった。団員たちは皆、彼がリーダー天道先輩の弟だということを知っていたが、そのために贔屓されたり、逆に妬みをかったりということはなかった。「似ても似つかぬ、出来の悪い弟」と思われているからだろうと、家族も本人も思っていた。様々な栄誉の頂点で、皆に惜しまれつつ古巣を後にした兄は、何が燃え尽きたのだろうか、その後は1度も合唱団に戻ってこなかった。弟の出演やステージの手伝いにも顔を出そうとしない。弟は「僕がいるからなのかなぁ?」と思うのを心から恐れていて話題にするのも嫌がった。だが、結局、兄が卒団して現場からいなくなったその年の夏、男の子には不可逆的で大きな転換がおとづれた。自分より後から入団した同じ学年の子達に交じって頻々に出演の声がかかるようになり、たくさんの観客の目に彼の歌い姿は触れるようになったのだ。歌の出来は相変わらず良くなかったが、団塊以上の年寄りの観客たちは天道ヒカルの歌を決して漫然とは聞いていなかった。兄と同じコクのある声質と一見して判る兄弟の外見とが彼を客席の人気者に少しずつ止揚し始めた。歌っても歌っても評価してもらえない境遇を表情に見とり、「がんばれ!」「負けるな!」「くじけちゃいけないよ。」「きみの良さはお客さんたちが一番わかってるの。」と、楽屋口や出演後の最寄駅で年寄りたちは声をかけた。天道ヒカルはただ黙って、驚きの目でそれらの声援を聞いていた。
 秋口、終演後の彼がくたびれたマウンテンバイクにまたがって不機嫌そうにペダルを蹴飛ばしていると、合唱団の正面玄関のピロティーで客らしい男から声をかけられた。
「小学生の男の子で、心のこもったタクトを振れる子はなかなかいない。」
ソリスト向けの声ではないヒカル少年は、その日は1曲だけ子供コンダクターとして地元の客に向けて指揮棒を振ったのだった。何が男の心を打ったのだろう。褒めそやす口調ではなかったが、信憑性を感じさせる感想だった。男の子は終演後、例によって指導者たちから、リズムにのりきれていないだの、テンポを遵守していないだのといった、「そんなの前もって指導しておけよ」的な小言を散々言われて帰路に着いたのでとても気分が悪かった。いつもよりかなり仏頂面のはなはだしい、半ば腹に据えかねるという態度でいたので、「少年らしくてカッコよかった!」と言われたとき、思わず目を剥いて見返したほどだった。「先生方っていうのは、子供に注意を与えるためだけにお金をもらっているんだから、いろいろなことを言うんだよ。どれも、次にきみがもっと上手に歌ったり、指揮をしたりできるように言うんだから、腹をたてるようなことじゃないとは思わないか?きみが今日も100点満点だったとホンキで思っているお客さんはいっぱいいるんだよ。」天道ヒカルは、それでも嫌なものは嫌だと思ったが、自分を応援してくれている人がたくさんいるのだということは理解できた。男の子は11月に入ってから名指しで単独のオファーを受け、3箇所5ステージのクリスマスコンサートで「少年指揮者」として市民合唱団のステージに立った。コーラス団員である件の男が天道ヒカルの心根をたいそう気に入って、是非にと呼んだのである。男の子はもちろん、指揮に関してはズブの素人だったが、合唱団の大人たちは心を込めて彼に棒の振り方を教えた。おばあちゃん団員たちが特に彼の面倒をみてやり、男の子の可愛らしさを保ちつつ、きりりと締まったタクトの冴えが見えるよう熱心に仕込んでやっていた。「ぜひとも少年合唱団の制服で」と懇願され、彼のにこやかな表情は、おじさんおばさんたちといっしょにポスターやプログラムやチラシの表面をかざった。「こんなに可愛い顔で笑っている天道くんを見るのは初めて」と少年合唱団の関係者は口々に言うか、言葉にはできずとも正直に思った。
 兄はとても「元はバリバリの少年ソプラノ」と言えないくらい、ごく普通の険しい顔をしたふしくれだった中高生になっていた。彼の一家で音楽をたしなんでいるのは、弟が一人だけという毎日になっていた。兄に代わり、自宅の食卓の左端の席に何やら見たこともない作曲家の楽譜を置いて日々を過ごしているのはヒカルだけになった。市民合唱団の年寄りたちがときどきケーキや和菓子を持ってやってくる。合唱団の無い日の天道少年は、必ずニコニコとして実の孫のように彼らを出迎えた。出演のための音楽の話を少しだけ交わし、慣れない目でゲームにつきあってやり、お菓子を食べて、いつも母親に向かい少年と彼らは幸せそうに笑った。天道ヒカルは声を落として「お兄ちゃんは…ときどき咥えさすから、嫌なんだ。」と言った。大人たちが、それはまずいと「お母さんは知っているの?」と静かに尋ねると、「言ったよ。お父さんもお母さんも知っててお兄ちゃんに言ってたけど…」と言葉を濁した。家族は闇を見るように諦念しているらしい。親に何か諭してみようとする客はいなかった。
 ヒカルの最も輝いた5年生の春、彼の兄はひとり、祖母の家に越して受験勉強を始めた。誰もその理由を問わず、誰もがただ「受験のため」と思っていた。親はそれでも不憫に思い、家族が全員揃う休みの日の日中、お兄ちゃんを家に呼んで過ごさせた。食事をしたりゲームに興じたり、遊びに出かけたりと楽しい時間を過ごしたが、祖母の家に戻る頃合いになると兄はかつて自分の席だった窓側の椅子に腰をおろし、弟になんでも良いから本気で歌を歌ってほしいとせがんだ。そして、1曲聴き終えると急に厳しい顔つきになり「お兄ちゃんを拳骨で叩いて家から追い出せ。」と迫った。ヒカル少年は半ば本気で兄の身体を優しい小学生の握りこぶしで殴打し、プーマのスニーカーソックスをつっかけたやわらかな足で蹴飛ばした。玄関のたたきまで追い落とされると、べそをかいた弟の顔を見下ろして、家の前の通りの角までおんぶしてやるから、泣き止みな。怖いことはしないからと、皆に約束をして5年生の男の子をおぶり、親から持たされた僅かな荷物をかかえて出て行った。「悪かったな。ごめんな。かわいそうなことをしたな。」と背中の弟に繰り返しわびていた。「いいよ。僕、なんとも思ってないから。」と弟はそのたびに言っていた。

 少年指揮者の仕事に加えて、ヒカルには簡単なソロの仕事が舞い込むようになった。定期演奏会の合唱では「とけい(とけいのうた)」を独唱で引き連れた。指揮者からは相変わらず雨あられと厳しい指導の言葉が飛び、彼の表情はちっとも晴々としなかったが、客席や楽屋口に詰めた人々からは「偉い子だね。頑張ってるね。小学生の男の子なんかが、なかなかできることじゃないよ。私たちもきみの姿を見て、歌を聴くと、心の底から元気になるよ。」と口々に声をかけられ、励まされた。

カッチンカッチン とけいがうごく
長い針と 短い針が
くみあって おはようとあいさつしてる
ねむそうに ゆっくりうごいている

カッチンカッチン とけいがうごく
長い針と 短い針が
せまいお家の中で なん年もなん年も
けんかもせずに 楽しそうに仕事をしてる

カッチンカッチン とけいがうごく
長い針と 短い針は
にいさんと 弟なのかな
よっぽどなかよしの 兄弟なのかな

カッチンカッチン とけいがうごく
長い針と 短い針と
すれちがって きょうもお休みなさいと
一日(いちにち)の終わりを ボンボンとならせた

 歌の内容を知る保護者たちやごひいきの客たちからは兄の様子を外見にこやかに尋ねられた。彼はその人が既に自宅を離れて暮らしていることを簡単に伝え、ただ「お兄ちゃんは立派なボーイソプラノだ。偉かったし、頑張って努力して歌ってる。」とそのたびに強調した。男の子は上目遣いに「お兄ちゃんは合唱団の中で一番偉いボーイソプラノです。」と繰り返した。「僕は、お家で歌いながら、おにいちゃんにたくさん、いろんなことを教わった。とっても幸せな弟だと思う。お兄ちゃんに感謝してる。」と5年生の男の子の口からボーイアルトのかすれた声が漏れるのを聞いたとき、客たちはとても微妙で複雑な混濁した表情で笑んだ。

 5年後、かつての少年指揮者にタクトを振らせた人々がヒカルの家を訪ねて行ったとき、声も変わり、ごく普通の険しい顔をしたふしくれだった中高生になった男の子は、朝餉に夕餉に再び田舎汁粉をぐずぐずと啜っていた。兄の席だった食卓の窓際の端は、いつでもかつてのボーイソプラノが戻ってくつろいでいいように、自分のテーブルよりも先に毎日、天道ヒカルがふきんをかけていた。

海を見ていた午後

May 14 [Sun], 2017, 18:38
▲二人は第5層、「ユヌス」という名前のフードコートのガラス張りの西端の席にかけ、サワーグラスに注がれた最も安価な発泡する水色の中味を白いストローでかき回しているところだった。

 島の頂きは風の塔と化し、2人の眼下に広がる三脚Bブロックのゆるやかな法面へ群棲するカモメたちのタタミイワシのような簇がかすかな薄い徴となって見えていた。彼らの大小の耳介に、くぐもった波浪のとどろきも、コンクリートのたてる渦流の移送も、海の兆しも一切は届いてこない。人工島の喫水線は遥か数十メートルのおびただしい低距にあり、人々の誰も潮の匂いを感知できない構造になっているのだった。ずんぐりと恰幅の良い小柄な少年の方は西風に足を取られそうになり、ステンレススチールの鏡面400番の手すりへ骨ばった指を立てるように廻し、背後のアオケン少年が、上半身を被覆して彼の飛翔をからくも阻止した。5年生の胸から腹にかけ、フェレンギ人少年の身に着けた真鍮色の大柄な千鳥格子のプルオーバーの背から立つ温暖で柔和な感触がおびただしい悦楽となって香りたった。

 少年合唱団はまたこの人工島の上層へ、海と季節の歌を歌いにやってきた。旅の午後、2人は午睡と休息にあてがわれた半刻いっぱいを展望デッキで海を見ながら過ごしている。ボーイアルトの柔らかな声質と、声帯の短尺から出る高い声までを繰った彼らの小さな体は不断の風に遇らわれ、あっという間に冷えて干からびてしまった。口渇は激しく、揚陸のモニュメントと化したシールドカッターの巨大な切片が切り刻んだ風の通り道を彼らの肩口へ容赦無く叩き付けていた。午前中の二度の演唱に子供達の体幹は未だ汗ばんで水風船のごとく潤って豊満だった。海の見える第4デッキのフローリングのイベントスペースに導かれたアオケン少年の目前で、フェレンギ人はライブが始まってからもポンポンと上半身を揺らし、柔らかい瑞々しい後ろ姿を晒して歌っていた。制服の白いシャツに載った大きな両耳介。彼は幼生なのでまだ黒い濡れた髪をベレーの脇からところどころ出して見せている。むっちりとした二脚にあてがわれたネイビーのソックスが、彼の視線の切れるひかがみのあたりまで上がって脚の形を穏当にカバーしていた。アオケン少年は、この子に触れるようになってから、団員が少しく上品で甘いいい匂いのする肌をしていることに気づいた。
「お金持ちだから、お菓子の香水をつけているのかな?」
「僕に?…まさか、匂いがするの?」
「なんだか、優しくていい匂いだよ。」
「うそ!匂いなんかしないでしょ?富と匂いは関係なんて無いんじゃないかな。それ、アオケンくんの自分の匂いなんじゃないの?」
ソフナーや化粧品の芳香とは違う、有機的な匂いだ。彼らはお互い、自分の匂いを感知しにくいことを知った。開闢した付近のコンビニエンスストアの自動ドアから吹き出た風に乗って、その子のうっすらとした気品のあるバウムクーヘンのような体臭が上がって鼻を掠めた。だが、背後から見る限りモスグリーンのボウタイが曲がっている。衣装チェックが終わってからここへ並ぶまでに彼の尖った指先が触れたのか、冷たい目をして両側の団員の襟元を正していた猪ノ谷君がいい加減に仕事を済ませたのかのいずれかだろう。

♪あなたを思い出す この店に来るたび
 坂を上って 今日も一人来てしまった…

アオケン少年が柔らかで明るく、だがほんのりと遅いボーイアルトを駆使し曲の半分をソロでリードする。変イ長調。気だるいアルベジオの続くイントロ。ボサノバを意識しているのか引きずるような、あまり高低に動かないメロディーを男の子は歌っていく。「♪坂をのぼって」でたった一つ見せる跳躍も1オクターブ届かない。指揮者からは譜読みの段階で「探りで高い音をあててかまわない」と冗談のような指導があった。今日もポルタメントを弱く添えて彼は歌っている。低い音は下の変イ。この音を熟れた女性を思わせる少年の柔和なアルトがしっとりと鳴らす。ソロを担当する彼の正直な感想は、「最初に先生のピアノで弾いてもらった感じより、歌った方が簡単。」…第一印象よりも、ずっと歌いやすい曲だ…ということらしい。その言葉とは裏腹に、伴奏ピアノは気持ちの良い「つまびき」を優しく淡く繰り返してゆく。コーラスの子供達のうち、とりわけ3-4年生の子供達には、一拍、一拍半のぼんやりとしたアウフタクトが徹底的に刷り込まれ、歌よりも先に体の一部として弱起するように訓練されてきた。メゾ前列の小さい2枚目くんたちが、小さく肯首して歌い出しのタイミングを図っているのはその名残だろう。ソリストのリードにコーラスが寄り添うBメロに差し掛かると、トリルのようなアオケン少年の歌い上げを知っている観客たちが、それだけを聞きに耳をすましている様子が手に取るように分かる。歌の部分だけ数えれば、わずか23小節で完結する短い、手の込んだ構成の全く無い単純なゆっくりとしたラフな1曲。ボーイアルト、ボーイソプラノの子供達が歌ってしまうと、ビブラフォンの鳴る気だるい物憂い作品も、なんだかあっさりとした初恋の味だ。

♪恋のように 消えていった

わずか12音で綴られるこの部分を、彼らはとても丁寧に心を込めて歌っている。小さい団員たちが一生懸命、練習場で毎週熱心に勉強して、

♪やっと書いた 遠いあの日

と歌っていることがよくわかる歌い納めの意外な爽快感が素敵だ。

 人工島には子連れの客も少なくは無いが、それよりもはるかに目立つのはこうした類の歌を歌って若い時代を過ごし、あげくに当然のごとく枯れたなれの果てのツアー客たち。日本の少年合唱団には、度を超えて極端な基準で生きる素晴らしい少年が各団に少なくとも何名か存在する。この合唱団で言えばレオン君のような、外見キラキラ、王子の美貌と声と視線と真珠の肌とヒュアキントスの身体を持ち、実態はガサツでいい加減でO型丸出しのごく普通の小学生男子。団塊のジジババたちはそういう団員が大好きだ。だが、このフェレンギ人少年はその対極にいるとみてよい。…冷たく張った杏まだらの前額。哀れで貧弱な頭髪。乱杭歯に受け口に厚い下唇。小さく細く二重瞼の藪睨みの目。だが、鬼っ子の外見の少年が繰り出すのは、彼の生を表す柔軟で優しいきめ細やかな安堵の嗄声。人々は言う…「ぱりぱり、さくさくと張りがあり気持ちの良い爽やかな歌声。」「少年らしい生き様の良さが私の心の中で爽快に砕け、そっと寄り添って癒してくれる…」。老齢に達しようとする日本人たちは押し並べて醜い誠意の少年の存在に判官贔屓だ。星の王子、レオン少年と同じぐらい、高温多湿で団子ッ鼻の人々の住まうフェレンギの星の子を心底愛している。
「僕、シャクルトン=マラペールの公演に行く航宙の時に、フェレンギ船を見たよ。E-Mラグランジェ一近傍点を過ぎたあたりで。すれ違った…」
「うそ?!アオケンくん、それ、クローキングしてなかったの?」
「ちゃんと見えたよ!赤銅色の、カブトガニみたいな形の船で…」
地球に飛来するフェレンギ艦の99パーセントはニューメキシコ州の北アラモゴード(正確にはカピタン連山北部の荒野のド真ん中)にランディングする。
「カッコよかったでしょ?」
「キラキラしてたもん!新品の金貨みたいだった!」
「それに乗って、僕のお父さんとお母さんが地球に来たんだよ。」
「キミは乗ってなかったの?」
「ううん。僕は日本で生まれたから。」
日本の気候風土にあった白い肌をしている。
「ねぇ、僕の名前ってどういう意味か知ってる?」
「フェレンギ人の名前って、日本語になおせるの?」
「『流星』って意味だって。」
「リューセー?!…それってマジ、カッコよくない?!イイじゃん!」
「流れ星…って意味だよ。カッコいいのかなぁ?お父さんとお母さんが地球へ来た時、ランディング中に二人で流れ星を見たんだって。」
「地球では、流れ星が光ってる間に願い事を言うと必ず叶う…って信じられてる。」
「何度かそれ、聴いたことがあるよ。ホントなのかな?」
「お父さんとお母さんの願い通り、きみが生まれたんだから、多分ホントでしょ?」
それからアオケン少年は手すりにしがみついたフェレンギ人の柔らかいズボンと下着を少しずらし、断わりをいれて背後から乾いた温かい股を突いた。長いバス旅でもしっかりとトイレの我慢ができるよう、男の子にはタダラフィルが小児量で処方されていたからである。強風の午後のデッキに人影はなく、薬のためにPDE5の酵素活性を奪われ怒張した男の子の腰部はしっかりと抱き上げた下級生の臀部深く突き刺さるように呑み込まれた。異星人の薄く甘い体臭に揺れながら、アオケン少年は2度、弱い声を引くように殺し、身震いしながらカタカタと行った。声変わりのしていない5年生の心も身体も、少年らしい真摯な愉悦に包まれたまま小刻みに震え続けた。

 二人は第5層、「ユヌス」という名前のフードコートのガラス張りの西端の席にかけ、サワーグラスに注がれた最も安価な発泡する水色の中味を白いストローでかき回しているところだった。彼らの時間感覚では次の出演にまだ随分と間があり、ここから適正なリフトを選べば集合場所へ容易に達することができる。UVガラスを透過した光の注ぐフェレンギ人のソーダ水の中に、貨物船が逆さまになって漂泊している。スターボード側を半分突っ込んだきり、グリセリンの充填されたスノードームの光景のように船はなかなか動かなかった。アオケン少年は、衝動から過去に比較的高速の大型船に乗って海域を渡った経験を持っていたため、付近の船舶が全て航路内対水速力12ノット以下の厳しい航行制限を受けていることをよく知っていて何も言わなかった。
 窓に映るのは、危なげなホバリングで浮遊するチドリ目の海鳥たち。
「フェレンギ人は、何でもラチナムをもらうわけじゃないよ。」
「地球人の中にはもらう人たちもいるんだよ。合唱団では君だけ出演の後にお金をもらってるでしょ?」
「僕はホントは要らないよ。」
少年合唱団員の中で唯一毎回の出演にラチナムの対価を受け取るのは法律上フェレンギ人の子弟のみだ。
「それなのに、なんで君は合唱団に入ろうと思ったわけ?」
グラスの中の貨物船は仁丹のような気泡に包まれてしまった。
「日本では男の子が歌を歌うときは昔からお金を払うものだから…って。お父さんに言われて。」
フェレンギが地球に住むのは、この星に今だ貨幣経済が存在しているからだ。貨幣は定められたレートでラチナムに交換される。
「お父さんに言われて合唱団に入る子って、あんまり聞いたこと無いな。」
「そうでしょ?男子しかいない合唱団をムリやり選んだのもお父さんなんだ。『女がいたら金が取れない』って…」
「へぇー。変わってる。」
「そうでしょ?アオケンくんは何で合唱団に入ったの?」
男の子はテーブルの向こうに少しだけ視線を移し、それから窓に浮かぶ海鳥を眺めて答えた。
「トナミ先輩がいたからだよ。」
「え”?6年生のトナミ先輩?何で?…僕、大嫌いだよ。意地悪するもん。」
「…しないよ。僕にはしないんだ。」
「何で?」
「なんで、って、どうしても。」
「どうしても、って、どういうこと?」
「だから、どうしてもだってば。」

 少年たちが『魔女の宅急便』の通し稽古を終えて一息ついていると、狭い練習室のアップライトの前、新任の指揮者が何かのついでのように大森竜樹の名を呼ばう声が聞こえた。
「大森くん…大森くん、『福の種』の出だしを聞いてあげるから、ちょっといらっしゃい!」
呼ばれた4年アルト本人は辺りに微かな良い匂いをさせてキッズサーモスからまだ十分に暖かいハイビスカス・ティーを吸い取るように飲んでいた。粘度のあるルビーレッドの雫が清潔な口角から漏れている。
「先生っ!大森君の『福の種』の出だしのソロ、すっごく上手になりましたよー!はいっ!ボクが一緒に歌って練習しました!もう、まじヤバい完璧レベルですから!」
YAMAHAの88鍵とねじれの位置にやってきて陽気な声を発したのはアオケン少年。エキスポランドのダイダラザウルスよろしく、ボトルを折りたたみ椅子の下へ乱暴に打ち置いて、呼ばれた本人が回り道をして横並びに立った。
「わかった、ありがとう。でも、先生が聞きたいのは竜樹くんのソロだから。キミは2歩、後ろに下がって静かにしていてくれる?」
「はいっ!」
少年合唱団のお返事は必ず「はい」だ。男の子は大股でもしみったれた小股でもなく、ごく穏当に二歩だけ後退してニヤニヤとしながらスッチャラカ、ちゃらチャラ、チャンチャンとかなり端折った前奏が流れるのを聞いていた。

♪こぼさないで  忘れないで  なくさないで  あわてないで
 動かないで  止まらないで  おくれないで  急がないで

新任指揮者は、対句をいい加減なタッチでぱらっと弾いて切り上げた。5年アルトが「♪福ックのタネを撒こぉー」と歌いかけているのを知っていて、彼女は上気した振りで運指を止めた。
「ホントだ!スゴイ!大森君、ピッチが完全に安定したねー!」
メリスマの効きが曲の面白さだ。大人たちは大森の歌いおさめが安定しないのを十分承知のうえで、この曲を彼のソロに宛てがっていたのだ。
「ねッ!先生、すゴイでしょ?大森君って、めっさ歌うまい!良かったー!竜樹くん、日本一のボーイアルトまで秒読み段階だー!」
「どんな練習したの?先生にも教えてくれないかな?」
「…いや、それは企業秘密ということで。」
アオケン少年が我が事のように大騒ぎで快哉の雄叫びをあげる中、傍の大森竜樹は所在無さげにただ照れて立っている。
「2番のレオンくんのソロ、頑張らないとねー。負けちゃいらんないよ。」
「いらんないでしょー?」
指揮者の放免を聞き流す2人。少年たちがお尻をふりふりアルト団員の集まるところへ戻ろうとする。トイレへ通じる廊下から用足しを終え、この出来事の一部始終に遭遇した6年生が一人。表情は氷結したチューリップの花弁のよう。目は睥睨に彼らを見下ろしている。アオケン少年の肌の暖かさを十分に知るその口は、しっかりと閉ざされ、言葉を発することはなかった。

 フェレンギ人の黄金色を模したハウンドトゥースのセーターは、潮目の上を吹く冷たい風を遮蔽して余りある風除けの役目を微かに果たしていた。アオケン少年はいつのまに彼の掌をすくい取り、優しく握りながら歩いている。彼らは人工島の下階層から突き出た長いティンバー上のデッキを歌いながら徘徊して時間をつぶすことにした。

♪晴れた午後には 遠く三浦岬も見える

晴れた午後だが、ここから三浦岬への遠望は無い。合唱団の子供達がダイブ岬の展望塔や地球の丸く見える展望館のタイルの欄干から見晴った全周で、「日本はなんて小さな地域なのだろう。地図帳の36ページの右下に載っている場所が全部ここから見える。」と口々に言い合った。
頭の大きな方の少年が、デッキに屹立した幾重にも重なるベルタワーのステンレスの梁の輝きを眩しげに眺め、ようやく陽の傾きに気づいて左ポケットの上から中のペン型ハイポスプレーへそっと尖った中指を這わせて確かめた。注意しなくてはいけないのは、人間を先に戻し、それから自分が戻ること。逆にすれば、アオケン少年があの日にかえることは無い。
「大丈夫だよ。」
「うん。」
「さっきのお店でちゃんと紙ナプキン、取ってきた?」
「取ってきた…って、がぶちョしてきたってコトでしょ?」
以前のアオケン少年ならば、こんなことを言っただろうか?だが、今の5年アルトは歯を見せて笑っている。
「フードコートではコップ置き場やカトラリーの台へ自由に持っていけるよう置いてある。キミだけなんだから、1枚でいい。」
団員に携帯が励行されているポケットティッシュではなく「紙ナプキン」なのは、透過させる紙繊維の量が圧倒的に違うからだ。
「ごめんね。」
「関係ないよ。」
カリヨンの股は海と陽の色を受けてにじの色へ染まっている。数多の人々がしがみついて引いたのだろう、ガーターブルーの引き縄は願いのために泥濁していたが、目立たなかった。
「僕、今のキミみたいに『大丈夫だよ』って初めて言われたの、2年生の合宿で夜中、トイレに行こうとしたとき。」
宿舎廊下のアンバー色の常夜灯に包まれて、男の子は寝着の肩をしっかりと上級生に抱かれ、長い長い廊下を裸足のまま厠所へと往復したのだった。
「俺が守ってやるからな。心配するな。」
暗く、恐ろしい、百鬼夜行のあてどもない怯れの道行きの中、美しい嗄声のボーイアルトの「大丈夫だよ」の口跡と温かい上級生の身体が幼い少年を守り続けた。
「予科なのに合宿へ行ったの?」
「僕はクリスマスに3ヶ月前倒しで上進するのが決まっていたから…。隣の部屋の隣にすぐにトイレがあるけど、2年の頃はとってもとっても遠くに感じた。涙をポロポロ流しながら、お布団の上で震えてた僕を先輩が助けてくれた。」
「トナミ先輩だったの?」
優しくて、強くて、勇気のある、話すときも歌うときもすばらしい声をした、温かくて、いいにおいのする少年。
「よく考えたら、先輩ってそのときまだ3年生だったんだよね。自分も初めての合宿だったわけでしょ?でも、僕がトナミ先輩のお嫁さんになるって決心したのは、その時だったのかもしれない。」
「なれるといいね。」
「うーん。どうかな…。」
「大丈夫だよ。きみがカリヨンを鳴らしておいでよ。きっと叶う。」

 聞いて育った世代の人々、聞かせて育てた世代の人々ならば全員が前奏の2小節目までにタイトルも初行の歌詞も想起できる。伴奏が慌ただしいグリサンドを一往復半超だけ奏でている1小節の間に、対面し間隙を作った団員たちの間をにこやかにカタカタと駆け下りてくる少年が一人。ベレーからはみ出た前髪が少し。ごつりと張ったおでこに小さな奥二重のまぶた。豊満なしっかりとした上半身を包む合唱団の制服にネクタイはやっぱり曲がっている。骨太の脚へきちんと膝まで上がったソックス。清潔そうな黒光りするシューズをスタンドマイクのかなり後ろのバミ位置でカチリと揃え、間髪入れず歌い出す。

♪くまの子みていた かくれんぼ
 おしりを出したこ 一とうしょう
 夕やけこやけで またあした
 またあした

サビの歌詞を隊列の子供達が引き取って、厳粛な面持ちで歌い出す。

♪いいな いいな にんげんっていいな

聴衆はとたんに、ニヤリとする。ソロをとっていたのはヒューマノイドではあるが「にんげん」ではないフェレンギの男の子。研ぎ澄まされた硬度のある高い声は出ないが、さらさらとしたハスキー気味のいかにも腕白で陽気で元気な少年というイメージの声をほとんどのフェレンギナーの子供は遺伝形質に持っている。今は2番のソロのために前方でスタンバイしている彼のソロから人々は多くを知り、感じ取り、笑むのである。躊躇なく「かわいいー!」と声をかける前列付近の女性客たち。2番の「♪いいな いいな」から後を一緒に歌う大人らが毎回のように現れるのは、出演後の引き取りのために客席の後方へ紛れ込んだ保護者連の功罪なのか、男性の声もたくさん混じっていて大変賑やかで一体感が楽しい。真摯で硬く清涼な少年たちの声と、マイクに近くやんちゃで朗らかで体温を感じる人懐っこいソリストの声が相乗し混じり合い、コンサート会場をさらに懐かしく香ばしい色目で塗りつぶす。歌いつつアオケン少年は汗ばんだその子がニコニコと安堵の中、自分の腕の中で放心に笑む面影を即座に思い出し、狂わんばかりの愛おしさに身悶えし、心は打ち震える。木は白く、木は、王の令(おきて)。歌えていないわけではないのだが、明らかにソロの少年が声を張れる音域ではなく、無理やり頭声で揃えようとすると極端なミュートがかかってしまう。二度下げて移調の中で歌えば歌全体そのものを崩す危険性さえありそうだ。「男の子の合唱って…」と先生方が嘆息をつくレパートリーの一つ。だが、ソリストの子音の発音は連続して驚くほど明快で小気味好く、日常会話そのものだ。「ごはん」も「にんげん」も「でんぐりがえって」も決して教わった通りの鼻濁音を取り落とさない。息んで出しているように聞こえる掠れた地声が実は安定し、ピッチの取りこぼしもブレも皆無。客席シモ手の通路に小さな体を半分はみ出させた3歳ぐらいの子がゴキゲンで音にならない拍手をしはじめた。


 お菓子の匂いたつへたった前髪をおでこから払いのけてやると、さらにニコニコと甘酸っぱい笑みをもらす。
「おまえ、ホントにかわいいなぁ。」
5年アルトの口から思わず言葉が出ると、
「フェレンギ人だよ。カワイイって、どういうこと?!」
本人は大きな耳を揺らし、両の円らな目を逆さ三日月にしてケラケラと笑った。通団カバンと衣装ケースを並べた控え室のカーテンの陰で冷たいステージ制服の上半身を脇の下から腕を回して抱きしめてやると、アオケン少年の小さく聡い乳腺の間から、砂糖漬け林檎のような、微かな懐かしい香りが漏れて湧き上がった。抱き寄せたカメオの真ん中から、またヒソヒソと、ころした笑い声が漏れてきて、
「アオケンさん!僕が歌うのをちゃんと見てね。」
と、嗄声でもの申す。上級生がここで突然我に帰ると、歌の状況はまだ1番のサビを終えようとしているところだった。編曲は間断なくソロを流し、Bメロで再びコーラスが復帰する。フェレンギの少年アルトにはビブラートがかからないので、客席の人々が彼の声から受ける印象は、近所の公園で野球をしている昭和時代の男の子そのものだった。歌う少年の必定から、非円唇中舌広母音には様々な色がつき、そのどれも活発で心根の優しいガキ大将の面影なのである。

♪ もぐらがみていた うんどうかい

キャビンウインドウがわの席に並んだ団塊ジュニアの家族客たちが「♪もぐら…」と歌い出した彼の、換声域以高を頭声にしない強引な歌いっぷりを聞いて、我慢できずに声を添えはじめた。ゆっくりと着実に穴を掘り続けるモグラが目にする徒競争の様子を、男の子は、

♪ びりっこげんきだ 一等賞

と満面の笑みで歌ってゆく。モグラたちは、一番ゆっくりとゴールラインを踏み越える子供を「にんげんって、いいな」と讃え、見つめているのである。ヒューマノイドだが人間ではない男の子が、それを本意で幸せそうに歌う姿に、人々は何かとめどもなく温かいものを感じて目を潤ませている。フェレンギ人は聴衆にわからないよう「♪みんなでなかよく ポチャポチャ おふろ…」の部分にだけ微かなリタルダンドをかけている。言葉が詰まっていて歌い飛ばさないよう指導を受けているのだが、聞いている人々は「なんだか優しくて温かい」感じを抱き、歌に魅せられる。曲が一瞬のテクノ・フィルインを経てこれを繰り返し、コーダに入れば男の子は曲中ただ一箇所「♪でん!でん!でんぐりがえって…」の頭を怒鳴り気味に入り曲の終わりを知らせた。彼がその歪んだ右手を3回シェイクしながら「♪ばい! ばい! ばい!」と歌い、両足を広げてジャンプすると、伴奏ピアノが「ジャン!」とキメを打って人々は自分がまだ今、幸せな歌の世界にいたことを想起するのだった。間髪入れず「アンコール」の声がいくつもかかり、拍手も揃っていく。…だが、少年たちは指揮者の「右向け右」のハンドサインにしたがって踵を返し、退場動作に入ってしまうのだった。ソリストは「どうしますか?(もう1曲アンコールを歌いますか?)」と一瞬指揮者へ不安げに目配せを送ったが、ソプラノ側の団員らがもう歩き始めているのを見て、自分もバミ位置から一歩を踏み出した。「にんげんっていいな」はもともとラストナンバー「我は海の子」の後に演奏する段取りで仕込まれた「アンコール曲」で、フェレンギ少年はその大トリを務めるキャストなのである。ある者は気取って、ある者はドヤ顔で、ある者はホッと安堵の表情で、ある者は無表情のまま、そしてある者はフェレンギ人ソリストのごとくノッシノシと…少年合唱団員たちの撤収の表情を一見し、全てを知ったような面持ちの客らには彼らの本意は分からない。理解できない。…少年たちは常日頃、心底つらい練習を、ある時は泣きながら、またある時は満身創痍で耐え抜いてステージへ上ってきているが、その分、クライアント様がたや客席からのたくさんの好意や優しい声かけや親切やらが嬉しく、身にしみてよくわかっているのである。驚くべきことに彼らの出演後の正直な感想は、「気持ちが良かった」が3割で、あとの7割は「たくさんの人に優しくしてもらった。よくしてもらった。僕は幸せだ。」というものなのだ。そうでなければ団員たちはもう二度と面倒で終演後には指揮者のダメ出しばかりをくらう舞台へ戻ろうとは思わないだろう。アオケン少年は、第一メゾ前列の子供達と控え室に戻った「にんげんっていいな」のソリストにすぐさま追いつき、彼の明るい小さなにこやかな目を見つめるために頬へ掌を添えた。
「お客様はみんな大喜びだった。すばらしかった。綺麗だったよ。」
「アオケンくんの声もよく聞こえたよ。」
「本当?ありがとう。嬉しい。」
アオケン少年は、だが背後へ6年アルトの凍りつくような視線を感じ、言葉に詰まった。
…上級生は後ろで何も言わなかった。
下級生はただ、黙として顎を引き、胸の前で順逆手に結んだ自らの両手をしっかりと握ったまま動かさなかった。男の子はそれでようやく決心がつき、最後に勇気を振り絞ってトナミカツノリの方を振り返ってみたが、そこには既に誰もいなかった。
「『幸せを売る少年たち』…とか言って、またテレビ局の人が来るかもしれないネ。」
星の子は穏やかに笑んだ。
「僕はみんなと歌えるだけでいいな…いつまでも、いつまでも合唱団で。」
「いったい、これからどんなことがあるんだろう?」
「どんなことが起きるんだろうね?」
少年たちは2人に1回も訪れたことのない、時間線上のまだ見ぬ未来を思い、決然と居ずまいを正した。

 デッキの上は変わらぬ風の通り道だ。風切る音の中に、気怠いビブラフォンの揺動が1/fゆらぎで聞こえる。男の子は飛ばされぬようフードコートのカトラリーから抜いて持ってきた白い紙ナプキンを指先で四ツに折り、自らの前腕に当てがった。「流星」という名の少年は、半ズボンの左ポケットに忍ばせておいた子供用のハイポスプレーを慣れた手つきですっと抜き出し、決して自分の方を先に戻してしまわぬよう、真剣な美しい表情のまま念押ししながら5年アルトの肘を左手で軽く押さえ、たたんだ紙ナプキンに自分の尖った人差し指とずんぐりした親指とを添えて一息ついた。
「なんで僕だけ紙ナプキンを当てるの?」
アオケン少年はその顔色をさっと改めて短く尋ねる。
「地球人の子供は、僕達みたいに皮膚が厚くないからだって。…クスリが紙ナプキンに滲むから…やっと僕達と同じ摂取になる。じゃあ…送るよ。」
男の子は5年アルトの目をちらりと見やり、目くばせした。
「ぼく、もう、これで最後にしようかな…」
「大丈夫。またトナミ先輩と仲良しになれるよ。」
ループについての科学的実証はまだ何処にもない。 彼らの発言は単なる胸騒ぎのようなものだけが前提だ。
「ねえ、ぼく、前にもここで同じことを言ってたのかな?」
「知らないよ。僕だって、前にもここで紙ナプキンを腕に当てたキミにハイポスプレーを打ったのかもしれないし…。」
「また、次もここで同じことを言う?」
鉛細工のような彼方の貨物船は、淡いカナリヤ色の傾いた陽の中を速力12ノット以下でゆっくりと航行している。目視する限り、それは殆ど停まっているかのように見えた。
「言うのかもしれないよ。…誰にも判らないじゃん。僕はアオケン君のコーラスの声を背中で聞きながら、きっとまた『にんげんっていいな』を歌う!多分お客様がたはまた喜んでくれる。振り向くと、みんなも笑ってる。…集合時間に遅れるといやだから、もう打つよ。」
「忘れないで。」
「うん。忘れたりなんか、しないよ。」
乱杭歯にオデコの少年は、オモチャのようなムラサキ色の小児用ハイポの筒先を躊躇なく逆手で握り、ナチス同盟に追い詰められた絶体絶命のビッグX宜しく5年アルトの腕に当てがってトリガーボタンを押した。それから、アイシングのたっぷりかかったバウムクーヘンを思わせる静かな香りを風の中へ散らしながら、自分の白い腕の内側へ同じことをやり、もと来たところへと嫋やかに美しい表情のまま戻って行った。

JASRAC許諾第9009863024Y38200号

クリスマスキャロルの頃には

March 29 [Wed], 2017, 19:00

▲少年はシートを10センチほど煽ると右手のものをスッとプレゼントの山へ押し込み、また至近の軒下の管理スペースの方へ後ずさるように逃げ去ってしまった。

 埃っぽい夜目のミニシアターの土間に、フォールディングテーブルへ投げ置かれた小さなクリスマスプレゼントの小箱ひとつ。貼付のタグに宛名は無く、裏面のコットン紙へ名前ペンで書き記された「サンタより」の筆跡は小学生の子どものものに見えた。

 クリスマスキャロルが流れる頃には、物販スペースの脇に小さな花束やお菓子の箱やキャンディーレイの雑破に並ぶことがある。団員たちのクラスや他のお稽古事の友人・家族や担任が客寄せに呼ばれてここに来た証を残すためのクリスマスプレゼント。大抵は誰から誰への贈り物かを明示するタグが付いて終演後、迎えの保護者や引率のスタッフの手を経て本人へ渡る。だが、その「あて先に尋ねあたりません」とばかりクライアントから放置されたボックスに帰宅直前の指揮者がようやく気づいて手を伸ばした。コートの襟に湧き上がるフェイクファーのブラウンベージュの毛先の耳元で、彼は思わず箱を素早く振ってみたが、中からはセロハンパッキンと内容物が絡まってたてる小さな音がかさこそと聞こえるだけだった。食品ではないだろう?テーブルはこれがあるために撤収完了できていないと見えた。男は外套のポケットにそれをたやすく忍ばせると、はたして普段ほとんど気にならない「諸人こぞりて」の出だしの音が今夜だけ降りきらなかった原因はなんだったのだろうかと突然思い巡らせた。

 誰かの通団カバンからこぼれ落ちた一昨年のブリテンのオペラのプログラムがスタッキングチェアの足元にクリアファイルごと転がっている。先ほどから室内には喧しい小学生男子の立てる物音や奇声が飛び交っていたが、その中で何やら息みながらクスクス、ウフフフ、アハハハと戯れ合う2ー3人の男の子の笑い声がとりわけ耳についた。
「先生ぃ!またアオケン先輩がフクちゃんやアキヨシ君といちゃいちゃしてます!」
「放っておきなさい。トイレ休憩の時間だし、別に誰かに迷惑をかけてるわけじゃないんだ。」
具申の4年生は赤ら顔のふっくらとした頬をふくらませて眉間に縦縞の影を作った。
「だって、アルトの副パトリですよ!ああいうのを黙らせるのがパトリの役目じゃないんですか?」
「うるさくないんだから、黙らせなくてもいいだろう?」
「去年まで、『アルトの下級生をイジメたらオレがカンタンにこの腕をへし折ってやるからな!』ってぼくらの前で両腕をばしっと広げてメゾの6年生にハッキリ言ってたような超マジメな先輩だったんですよ。最近、何で?」
「何でだろうな?」
「♪何でだろー!じゃないですよ!まったく!」
床の埃をソックスの足底の指の付け根やかかとに白くまぶした彼は、団員の誰かが隣室のアップライトで「ジングルベル」を弾き始めたのを聞いてぷいと行ってしまった。彼の靴はどこへ脱ぎ置かれているのだろう?
 3人の男の子たち…学校制服のワイシャツを着た色黒の5年アルトと通団服の2人の4年アルト。一見して黄色い子と博多人形のような子。だが、彼らは上気して小学生サイズの体をクスグリあったりさすりあったり抱き合ったりして笑い声をたてながらじゃれている。座したまま結ぼれのように組み合っているかと思えば、束のままのごぼうを洗うがごとくごりごりと互いの身体をすり寄せたり、練習場の床に転がったり…。顔は上気して紅潮。アオケン少年が破顔して大口を開け、顔の真ん中をくしゃくしゃにしながら白い歯を覗かせ、下級生と一緒にピアノの脇で転がっている姿など昨年まで誰一人として見たことが無かった。
「先生っ!時間です!」
通団カバンの中で古くなり、あちこち角の折れ欠けしたクリスマスオペラのプログラムを拾いに来たソプラノ6年生が声を荒げた。
「何でこんな去年かなんかのオペラのプログラム?!」
教師は応じた。
「モノ持ちがいいだけです。先生が集合かけてくださいよ。アオケンとかがあんな調子だから。」
「いや、どうして練習場へ持ってきてるんだ?」
「クリスマスキャロルの聞こえる頃まで、あのコチョコチョ3人組が結成される前に戻して、もっと自由にトイレ休憩を過ごさせたいじゃないですか。」
だが、アオケン少年をアルトの副パートリーダーへ引き戻すにはさほど手間がかからない。例えば、
「アオケンくん!点呼をお願いします!」と静かに声をかけるだけだ。
途端、彼は「はいっ!」と少年合唱団の「お返事」を一つ発して椅子の上へ脱ぎ捨ててあった学校の折襟の制服のカラーをつまみ上げ、じゃれていた4年生2人に「行くぞ!」とキリリとした声を掛ける動作を同時に片付けるのが早いか、「アルト!集合!点呼!」とその背後から声をかけた。『アルトの下級生をイジメたらオレがカンタンに腕をへし折ってやる!』と常日頃擁護されている低声の少年達は、上進1年目の3年生から(今年の予科上がりのアルト団員には2年生が含まれていないのだ)声変わり真っ最中の6年生までパッとすっ飛んできて副パトリの前へ2列縦隊を作った。列の間で両手を広げたアオケン少年は彼らの肩に手を触れながら口の中で何かを唱え歩いて行く。叩かれるそばから団員らは腰を下ろし、無言のまま体操座りになった。その様子を見たメゾやソプラノのパートリーダーたちが顔色を変え自分のパートへ慌てて集合をかけている。彼らが人数確認をはじめる前、すでに少年は指揮者の前へ立って気をつけをし、しっかりと大人の目を見据えながら、
「アルト、11名、全員揃いました!」
と報告を終え、足早に列の最後尾へ戻った。上着は何事も無かったかのようにまとわれ、金ボタンは綺麗にかかっている。隊列の前に座らないのは、彼のステータスがまだ5年生で「副リーダー」だからだ。先ほどアオケン少年を不真面目だと注進した男の子はソックスの足裏を白く汚したまま、膝の前に両腕を回してつま先を上げ、黙って指揮者の「全員席へ戻りなさい」の指令を待っていた。

 大森竜樹の入団理由は「歌の好きな子どもだと母親が判断した」「通っていた児童合唱団が女の子ばかりなので通いづらくなり、辞めてしまったため」と入団テストの選考書類にあった。ごく普通の歌や合唱の好きな小学生の男の子であり、経験を買って飛び級で本科に進ませるとステージでの姿はやはりしっかりとソツがなく、低声の声は思ったより安定してよい感じのハーモニーに仕上がった。
「やっぱり前の合唱団で揉まれてきたのが良かったんでしょうかね?」
と、マネジメントスタッフからも高評価。だが、暫くすると蛇の道はヘビというもので、前の団の退団理由が人づてに伝わってきて指導者たちを驚かせた。
「大森君が?小学生ですよ?」
「その合唱団の内部情報が全部ネットに流れていたらしい。出演やリリースの告知ぐらいだったらまだ良かれと思っての書き込みだろうが、オフレコの出演情報とか、先生方の間の確執とか、団員にしか知り得ない話が次第にわんさか出てきて判明したそうだ。」
「SNSでカンタンに誰とでも繋がる世の中でしょう?漢字の変換は機械が先回りしてサポートするし、カナのまま放置しても誤変換しても誰も怪しまないどころか、故意と見なされる…。」
「ともかく、そういうことがあって、どうやら本人らしいとつきとめられ、合唱団をやめてもらったそうだ。」
スタッフはすわ一大事と警戒したが、この合唱団に関する情報漏えいは結局何も起こっていなかった。親もうるさく言い聞かせ、マナーを順守させているのだろう。男の子を信頼して良かったと手放しでは無いにせよ大人たちは喜んで彼の歌い姿を見守っていた。
「大森君。きみ、最近、コンサートのたびに、お客さんからプレゼントをもらっているね?うれしいだろう?」
男の子は口を忍者ハットリ君のように撓ませて、ちょこんと一つ肯首した。
「誰からもらっているの?」
「イロイロです。」
「先生は、『サンタより』って書かれたプレゼントを一つ預かってる。大森君への贈り物じゃないのかな?」
「僕へって書いてあるんですか?」
「宛名は書かれていない。」
「じゃあ、僕へのプレゼントじゃありません。」
「いやぁ、誰かがキミの名前を書き忘れたんじゃないかと思って。」
「僕宛とはかぎらないですよね?人気ナレーターの岩井君とか、客席のおばちゃん達のアイドル上町くんとか、スタートレックのフェレンギ人にそっくりな馬井田君とかのじゃないんですか?」
「その子たちは確かにファンレターやプレゼントをたくさんもらうが、必ず贈り主の名前がしっかり書かれている。匿名のプレゼントが来たことなんか一回も無いんだよ。贈る人たちは、『私が聞きに来たよ』って言いたいんだから。」
男の子はシワの入ったクリスマス用のガウンをたくし上げ、中に着けたズボンの股間をがさがさと掻いた。
「僕には、『私が聞きに来たよ』って言いたいようなファンみたいな人はいませんよ。お母さんだってお仕事が忙しいから来てくれない。」
「そうかな?君はきっとお客さんたちにとって、小さな永遠のサンタさんだ。」
唇を突き出した赤ら顔の少年は足元のダークブルーでチェック柄の半分入ったサーモスKidsを引っ張り上げた。子ども用なのでストラップがついている。この時期の中身はハチミツを少し落とした熱い紅茶。もともと0.35Lくらいしか入らない中身がどのくらい減っているのか、少年の掴みあげた力加減の感じでは傍目に判別しづらかった。白いガウンに紅茶がかかるとあまり都合が良くないので、彼は最近「タイガ−の水筒が、飲みやすそうでいいんだけど…。スッゴく軽いんだから。」と母親にせがんでもいる。「冬場は水分を適度に摂らないと風邪をひくし喉にも良くない」と指導者は子どもらに告げていたので、水筒を傾けた大森竜樹に男はもう何も言わなかった。

 クリスマスキャロルを歌う頃には、高学年になった団員たちにもサンタクロースへの無心の品を明かし合うときがある。彼らのあまり大きくない合唱団がクリスマスツリー点灯式で歌った場所へ1ヶ月半ぶりに呼び戻され、歳末商戦のSCの半野外のセンターコートで歌うスタンバイへの道行きに、アオケン少年は尋ねられてそれを友らに告げた。
「JazzのライブのDVD?! あれ、俺も絶対欲しい!アオケンちゃん、もらったら貸してよ!」
「クリスマスまで待たなくてもユーマ君に借りたらいいじゃん。」
ガウンの裾をぱたぱたさせ、エレガードの効いたズボンとソックスを振りながら2人は目前をゆく5年アルトの背中を追う。
「なんか、『貸して!』っていう予約がいっぱい入っててムリなんだって。」
他所の合唱団の出演ライブを少年たちはどうして視聴しようとこうも熱をあげるのだろう?収録場所が彼らの一回も立ったことの無い東京国際フォーラムとういうこともあったのだが、どういうわけか学校の放送委員会に帰属している団員が多い少年たちは画角の中央に必ず立ってメインのJazzシンガーへ重なるように撮られ続けるメゾ系らしき一人の団員に意識がいってしまう。
「肌の色でホワイトバランスとかがめっちゃ取りやすいからなんじゃねーの?」
「ホワイトバランスなんて、一度取りゃ済むでしょ?」
合唱練習の帰りがけ、ユーマ君の家で親公認のDVD上映会に集まった少年たちは、あからさまにセンター・フィックスされているメンバーを圧倒されながら注視している。歌がボーイソプラノのショーアップにさしかかると、スタンドマイクがその団員の声をもろに拾っていた。絶唱のごとく命をかけて歌っている真摯な姿が、音声トラックから聞こえる声とかなりの間シンクロしていた。プロフェッショナルなカメラマンさんとスイッチャーさんの仕事だろう。オイシイ画を狙って編集しているのだ。
「つ…つぇェ!」「かっこよくない?!」「5年かな?」「大きい4年生っしょ?」
明らかに「少年合唱団員」の絵ヅラとして適切だから、その団員が画角中央に撮られていることを学校の後期放送委員と前期放送委員だった彼らも感づいていた。
「オレも一度でいいから東京国際フォーラム・ホールAかCで歌いたいなぁー。」
「ムリムリ!」
「最前列で、しかもショーアップあるなんて…」
「超有名な合唱団でしょ?当たり前じゃん!」
「あーあ。なんで、僕ってこんなショボい合唱団に入っちゃったんだろう?」
場内興奮の坩堝と化したホールA。Jazzライブの大団円に最高音量で歌われる僅か5分間前後の1曲のため、それなりの価格のDVDをポンと買い上げる気前の良さを「大人買い」という。小学生の彼らにとって、親にせがんで買ってもらうクリスマスプレゼントが「何でJazzのDVDなの?」と問われる難関をクリアできる可能性はほぼ皆無に近かった。
「アオケンちゃん!必ず貸してよ!」
「…う、うーん。」
男の子は、年が明けてもその映像を見てから学校や合唱団へ通う日々を送るのだ。友人のもとへディスクが貸し出される日は、まだかなり先のことになるだろう。

「クリスマスキャロルの頃には」は、日頃歌の訓練を受けている小学生男子にとってもやや難易度の高い編曲で、彼らは練習時間の長きにわたって外れたピッチの修正や音価のイイ加減さの自省を促されてばかりいた。曲が全く明るい色調で描かれていないこともあって、結果的に少年らの持つクリスマス・レパートリーの中では「好き」という位置を占めてはいなかった。ハウスいっぱいに育ったポインセチアの畑のとば口で、彼らはブルーバックの前に陣取った聖歌隊の役どころのまま数曲を歌うだけの収録のために、曲を仕上げたのであった。
「クリスマスなのに何で楽しそうな感じじゃないのかな?」
『少年聖歌隊』と『バブル晩期』という趣向のVの収録。
「なんか、最初の1段目と2段目の音が合わないと思わない?」
「難しいよねー。先生に叱られてばっか。」
指導陣から目を付けられているフクちゃんやアキヨシ少年や大森竜樹といった低声系の団員たちには少し辛い練習時間が幾度もあった。録音の前に中年男というイメージのクライアントの挨拶をもらって、彼らは直感的にこの曲がバブル期のミュージックシーンを彩っていたというイメージを抱く。様々な時代の音楽を歌う団員たちにとって、彼らの校長先生たちが丁度バブル期に若い教師であったことを雰囲気としてよく知っていたからである。
「なんでこれがクリスマスの曲なんだろう?」
「肩パットの入った服を着た刈り上げの男と女が夜景の見えるホテルのレストランで食事をしてガラス張りの部屋で一泊する…それが昭和時代の終わり頃のクリスマスだったんだってさー。」
大森竜樹は衣装の上にシャツを出すべきか入れるべきか、まだ迷うことがある。
「プレゼントとかは無かったのかなー?」
ソックスは膝の裏までぴっちり上げるか、それとも普通にふくらはぎまで上げればそれでよいのか、上につける衣装やソックスの色で微妙に違う。移籍入団して1年と経っていない、脛に傷を持つ彼にはその判断も、気軽に尋ねて確認する友人もほとんど出来ないままでいた。
「何か、朝ごはんもそこそこに宝石でできたハートのアクセサリーを送るだけだったらしい。」
「宝石もハートも何も嬉しくないけどね…オレ的には。」
「ばーか!もらうのは女なの。男はそれを買って、女にやるだけ。」
4センチかがんだアオケン少年が大森少年の襟元を広げ、「深緑色のは昭和時代の蝶ネクタイだからブレザーの上に剣先を出さなくていいんだよ。」と小ぶりでバンドのような蝶部分を喉仏に押さえて教えた。昔の子供用フォーマルの蝶ネクタイには広がった剣先が存在しない。上級生の口元からはレッドフルーツ・デライトの甘い香りがした。
「俺はそんなクリスマス、いつまでも来て欲しくないけど…。」
「ケーキとかは無いんだ…?」
バブル期の「クリスマス」の意味を親や親戚の叔父叔母から伝え聞いて知っている団員たちが教えてくれたように、少年たちの「クリスマスキャロルの頃には」はその「世界一金銭的に豊か」であったはずの頃の日本の、全く愛と温もりを欠く不毛なクリスマスの図像として歌われただけだった。

 門脇大路が昨春コッペリアの舞台で着た衣装一式をビニール袋に突っ込んだままのトウシューズに添えて持ってきた。門脇のボレロは広げて肩に宛がうとアオケン少年の身頃へ見るからに寸足らずなサイズ。持ち主は「村の男の子の役だかんネ」と脈略のないことを言った。
「じゃ、アオケン君と仲がいいところで、フクちゃん、試着してみようか?着用イメージ撮ってアオケン君のお母さんに送っとくから。」
「要らないと思いますよ。どうせ奴隷の王子様で、両手引っ張られて、転んで、泣いて、脇で寝てるだけの役なんでしょ。…踊らなくっていいんだし。」
昨年までオケピットの奥で歌うだけだった合唱団は今年、キャスティングの都合で奴隷の王子を一人供与することになった。バレエ『真夏の夜の夢』。昨年までバレエ教室からの供与で出演していたのは赤茶けたボレロを持ってきた門脇大路。彼は今年、教室を辞めて合唱団へ移籍し、「バレエには出たくない」というメンタルな理由でこのプロジェクトから外されている。重要キャストに穴が開いてしまったため、合唱団では普段の姿勢も立ち姿も良く、一番舞台映えのするアオケン少年に白羽の矢が立った。
「ホンバンで先生がたは歌の方にかかりっきりなんだから、お母さんに着付けとメイクをお願いするしかないのよ。お母様が全部わかってないと衣装が着けられないでしょ?」
ここ数年の合唱団の子どもたちはたいてい出演がらみの先生方からのリクエストへ素直に答える傾向があって、マネジメントスタッフのもつ好感度が高い。唯一の例外はマネキン役に推されたアルトのフクちゃん。ただ、彼も優しいところがあって、「ホンバンに門脇君のお母さんが来て着付けとメイクをしてくれればいいじゃん!」とは言わなかった。
「フクちゃん、いい?」
「OKかなー?」
「門脇君や僕じゃ小さくて着れそうも無いからさ。」
「どうしようかなー。」
「大路君、これってパンツ脱ぐのかな?」
「いやーん!」
うだうだ言っているうちに哀れな4年アルトはズボンとソックスを脱がされ、先生が手繰った白タイツの先に小猿のような湿った緑色のつま先を宛がわれた。
「肩のゴムがイイ長さだねー!」
「先生、これってブラウスの襟を出すの?」
「このボレロって、肩幅あってるみたいだけど、めっちゃ短くない?」
マット黒なピエール・マルコリーニの紙袋に入ったビニール袋から、パールホワイトの細長い布が出て来てアキヨシ少年の右手の先にぶる下がった。
「これって、サッシュ・ベルト?うわ、白いのもあるんだー!?」
「キュッキュって、バレエのときはきつく締められるの。腰が締まって見えるようにするんだってさー。」
カマーバンドを標準装備する少年合唱団は、都内では2箇所しかない。
「あと、ベッチンはアイロンをオモテからかけたら絶対にダメだって!それから、キリフキもしないでって、お母さんが言ってました。これ、メモです。」
ショコラトリエの紙袋の脇にリッチなグラシン・ペーパーの便箋が差し込まれていて、元バレエ少年はそれをほっそりとした人差し指と中指で少しだけつまみあげた。
「アオケンくん、ボレロの袖丈は手首の下が基準だから。お母様にそう言って採寸してもらってね。」
純白キラキラのサテン・ブラウスがフクちゃんの胸部で接着芯の型通りに輝いていた。踊り子の少年にふさわしい愛らしさと細やかさで、身体が動かしやすいよう脇が切れ上がり、小さな可愛いホックとスナップボタンがいい匂いをたててシルク色のファブリックに収まっていた。目にも眩しい純白のブラウスとタイツに収まり、サッシュベルトに締め上がった柔和で暖かそうなフクちゃんのお尻がボレロの下にむき出しでちょこんと突き出ている。
「僕の代わりでフクちゃんに出てもらおうかなー。可愛いもん。」
団員たちは明らかに変容していた。ここ数年、こういう場面で下級生に拘わらず仲間を揶揄する輩は極端に少なくなっていた。男の子たちは素直でまっすぐに僚友の姿を褒めた。
「かっこいいしネ。」「僕も、コッペリアのホンバンの髪の毛はペッチャリしたツーブロック分けにしたよ。アブラつけてもらって…。」「フクちゃんも、アオケンくんも絶対に似合う!」「かっこいい!」「僕も、いつかこんなの着てバレエに出てみたいなぁー。」
禁欲的な色味のスペイン刺繍がビロウドのチッポケなボレロの前身頃いっぱいに施され、きりりときつく引き締まった彼の胸面を飾りたてていた。
「ホント?ぼく、アオケンくんみたく、かっこいい??ホントに??」
5年アルトは結局、ニコニコとカフェオレ色のかんばせを弛緩させ、うっとりと下級生への着付けを見守っているだけになった。

 クリスマスキャロルの聞こえる頃には、団員たちは既にもう自分らの正確なスケジュールを把握できない状態に陥る。客寄せのミニコンサートは30分1本で12月の週末ごとに1日2箇所、3-4ステージ。夏の盛りから練習してきたクリスマス・オペラの主演やバレエのコーラスが、平日ソワレの週の後半へ集中し、銃後の母らは、息子たちにも読めるよう、なるべく会場名の漢字や横文字を避け、キッチンのカレンダーにスケジュールを書き込んだ。

 冷たいチャコール・ブルーの空を見あげ、アオケン少年がひとりごちる。
「あ!羽田発小松行き、最終便!」
都会の灯火で白茶けたジェットストリームは都電荒川線と平行に伸びている。機内誌に引かれたルートマップでは、長野の山岳を跳び越し、日本海の沿岸海上まで一直線に続いていた。
男の子は指揮者のお供で幾度もその機上の人となったことがあるため、都内の航路を容易に見分けることができた。スケジュール通りならば現地泊で、翌朝10時からのステージに余裕をもって臨める。両肩に都心の電飾をうけた光を淡く滲ませるエビアンの冷たいペットボトルを通団カバンから引っこ抜くように取り出して、5年アルトは宵の光からオパルセント色に見えるキャップを右に捻って開けた。もう何時間も歌っては休み、休んでは歌った彼は既に庫裏に置かれて干からびたお供物のように渇水しきっていたが、水はさほど減じてはいなかった。クライアントの控え室でウォータークーラーから喉を潤していたからである。半時間ほど前、彼はいつもの遊びの最中に激しい鼻出血の下級生の看護であぐらをかいたまま背後から、同じように乾ききったアキヨシ少年の両の小鼻を親指と人差し指の腹できつくつまんでいるところだった。
「今度は自分の指でやるんだよ。」
合唱団でも学校でも、「自分の血を人触らせては絶対にいけない」と厳しく指導されている。触れて良いのはリスクを負う立場にある教師らだけのはず。
「痛い?」
「アー。」
「痛いくらいきつくつまんで頭の中で300まで数えるんだよ。そうしたら止まるから。」
「アー。」
「もうちょっと上の方をつまむように言う先輩たちもいるけど、血が出てるのはここだから、ここをつまんでね。」
男の子が指示のつもりで指の力を強めると、4年生は痛みを訴えるようにルビー色の唇を歪めて声をあげた。アオケン少年は面白がって白い男の子の動かないかんばせへてんごうに問うた。
「好き?お兄ちゃんのこと、好き?」
「アー。」
「何で好きなの?」
「はっはンーはは。」
「僕なんか、カッコよくないよ。アキヨシくんは、かっこイイけどね。」
「ははがはっかはーは?」
「全部かっこいいよ。歌ってるときの君はスペシャルだもん。お客様もみんなそう思ってる。みんな、君の歌ってるのを見るのを楽しみにコンサートへ来るんだ。僕らの合唱団の王子様だから。僕、お客さんの気持ちがよくわかるよ。幸せだろうなー。…ねえ、あんまし動かないでよ。血が止まんないでしょ。」
ガーネット色に汚れた血染めのティッシュと雨滴のように赤くスポットが入って脱ぎ捨てられた右足の白いソックスが半分丸まったまま控え室のパンチカーペットの上へ転がっていた。
「ねぇ、アキヨシ君って、いったい何処から僕たちのところへ来たの?」
「へんごこのこー。」
「天国の方?」
「んーん。」
「空の方ってこと?」
「んーん!ンガン!」
「だから、空飛んで来たんでしょ?」
「ンガンッへ。」
「ぼくのサンタさん♡♡♡」
「チガンー!!」
「サンタさん♡♡♡」
「ンー!ンー!」
4年生はとうとう少しだけ気分を害してやぶにらみの目で上級生を睨んで見据えた。

 あまり知られていないが、男の子の合唱団員を息子に持つ母親というのは、彼らが出演のため出陣するとき、髪にだけ手短に手を入れてやることがある。いくら丁寧に櫛を入れて送り出してやったところで、ステージへ上がる頃には彼らの髪が垢くさくいい加減に乱れて始末に負えない状態になっていることを銃後の母たちはむろん知っている。安価で目立たない小さなコームを一本持たせてやったところで、小学生男子が一人で控え室や楽屋に髪を整えなおすことはまず無い。母たちが腐心しながらソワレの出演時間キワキワを見計らい、睡眠時間を取らせ、たくさん歌って食べて飲んで出して新陳代謝も万全の彼らは遺伝形質からもらった髪質の違いをものともせず、1mm/1日はあろうかというスピードで髪の毛を量産する。学校のクラスの男子と同じミディアムの髪にしたら次は丸刈りにして、伸びたらナチュラルウェーブでパーマをかけたりツーブロック、キッズアシメ、マッシュ、ぱっつん、センター分け…と制服のベレーに合う許容範囲の髪型を一通りやらされる団員も少なくない。アオケン少年が丸刈りなのは年末にスチームパンクものの自主制作SF映画のキャストに呼ばれているからだ。生成りの開襟シャツから出た腕と顔へたっぷりとヨゴシを入れられ、あとは文部省唱歌か厭戦的な大正期の童謡を歌うといった通り相場のよくありの戦時中の少年の役どころで、晴れていれば4時間という速さの中に彼の出演シーンが撮りあがるらしい(少年合唱団の団員がキャストされているのは、それらを無伴奏で歌ってリアリティを出す必要があるからだった)。
 だが、今夜はショッピングプラザへ露天したイルミネーション・ツリーに冷たい雨が落ちていた。
子どもたちのキャロリングの会場は急遽パフュームショップに面したファザード屋根のついたスペイン・タイルのパティオへ変更となり、12月の透度の高い雨滴が、清涼な霧になって歌っている少年たちの頬や瞼ヘ均一に吹きかかっていた。道行く人々の傘からはネオンカラーを反映したアクリリックな雨滴が静かに伝い落ちている。物販のフォールディングテーブルの端に積み上がった花束やキャンディ・レイや菓子箱を収めた紙バッグの上にビニールシートがかけられ、ルイス・ブニュエルの映画のような冷たい雫がそこへ光っている。どこからかそこに立った品のある男の子の髪はきれいな丸刈り。ウインドウのイルミに頭蓋の地肌が透けて反映している。折り襟、金ボタンの黒い制服に半ズボン。黒タイツにソックスをつっかけて履き慣れたローファー靴へ雨足が跳ねていた。少年はシートを10センチほど煽ると右手のものをスッとプレゼントの山へ押し込み、また至近の軒下の管理スペースの方へ後ずさるように逃げ去ってしまった。品物の回収へ現れた指導者の一人が見咎めてPVCの覆いをめくり、リボンのかかった小箱を引き抜くと、静かな印象のタグにラメペンで「大森竜樹君へ サンタクロースより」とあるのが読めた。大人びた美麗な整った筆跡だったが、明らかに子どもの書いたものという印象を受ける。どこの少年合唱団にもこういう能筆な少年の一人や二人はいるに違いない。だが、この合唱団ではくだんの詰襟の団員の書いたものであるのが、一目瞭然だった。

 クリスマスキャロルが流れる頃には、答えもきっと出ているだろう。「サンタクロースより」の筆とよく似ているのかもしれないが、明らかに大人の女性の筆跡然とした「手紙」が合唱団指導者の元へ届いた。クリスマスの賑やかさからは決して外れてはいないか落ち着いたプレーンの封筒と便箋が選ばれ、いかにもの感じのしない漆黒の低粘の筆致がダブルチップの筆先から美しく書き綴られている。男の子は温かなかすかな気持ちの良い体臭を下半身に立ち上らせながら、それをレッスン前の指揮者へ捧げ持つように託し、丸刈りのコウベを嫌らしくない程度に垂れて「ごめんなさい。僕の言っていたのは嘘で間違っていました。もうしません。」と詫びた。

 いつも厳しいご指導をいただきましてありがとうございます。息子共々心より感謝しております。この子が常にまっすぐな正しい心で歌えますのも、先生方ならびにスタッフの皆様方のおかげとありがたく存じております。ところが、昨日息子は帰ってくるなり「僕は最後まで決して本当のことを言わなかったよ。」とすがすがしい表情でほっとしたように申しましたので、静かに真剣に話して諭しました。真実は先生方のお察しの通りでございます。今年になりましてから、通団を終えた息子が時々大森竜樹くんのことを話すようになりました。「歌も上手で声質も良くて、本当はとってもいい子なのに、なぜか寂しそうにしていて気になる。」と真剣に申しますので、お仕事でお忙しい大森君のお母様と私も夜半にしばしば電話でお話するようになりました。前の合唱団で負い目を持ち辛い思いを抱えながら歌っている竜樹くんにサンタクロースからプレゼントを届けていこうとあざとい算段を考えつきましたのは、賢い息子に不似合いな愚かなこのわたくしです。竜樹くんのお母様に励ましのお手紙を書いていただき、私が手作りする小箱にラッピングをかけ、息子が丁寧に「サンタより」とのタグをくくりつけ、コンサートの度に団員のプレゼントの中へ紛れ込ませてもらっていました。竜くんは今でも母の手紙を届けている者が誰なのかを知りません。息子はプレゼントの包みを開けて読んでいる竜くんの顔色がバラの花のようにパッと明るくなるのを幾度も目にしていつも心底安堵していたようです。ですから、昨日先生に問われたときも口を噤んで真実を言わずに済み、これでお友達の夢を守りきった、竜くんを励まそうとする皆の心を擁護できたと勘違いしきっていたようなのです。先生方の団員たちを思う気持ちや日々の心懸かりのことを諭して、友達を幸せな気持ちにするための嘘などあってはいけないことを問うと、本人は「とんでもないことをした」と身をえぐられる様相で私に申しました。このようなことはもう二度と無いことをお腹を痛めて息子をこの世に呼んだ私が心から断言いたします。先生方もお気付きの通り、この子は最近とても変わりました。「つらいことを頑張るからお客様が聞いてくださる」と自分を責めるように歌い続けてきたあの神様からの預かりものの姿はもうありません。「楽しかった!」「合唱団、大好き!」「毎日合唱団があったらいいのに」「いっぱい色んなことを教えてくださる先生がたが好き!」と、顔の真ん中を大きく開けた口いっぱいにして笑います。家での練習は相変わらず1時間ほど一人で頑張っていますが、浮き浮きしながら楽しそうに幸せそうに歌うようになりました。竜くん、フクくん、あきよし君と大好きな後輩もできて、息子はどういうわけか卒団1年前になり突然ギアチェンジをしてアクセルを踏みなおしたように感じます。ご存知のように、穏やかに話して聞かせれば道理をよく理解する子供です。今回のことはどうか、幼い者の失敗とご放念いただけますよう、親ばかの母より伏してお詫びいたします。そして不束な息子をどうかお見捨てにならず、これからもどうぞよろしくご指導くださいますようお願い申し上げます。母より

 クリスマスキャロルが流れる頃、「真夏の夜の夢」の王子役のアンダーキャストには大森竜樹が決まった。アオケン少年と今日はバレエの通し稽古に呼ばれ、キャロリングのステージに2人の姿は無い。聖歌隊のサテンのスモックに身を包んだフクちゃんの通団カバンの中には、前の借り手であるアキヨシくんからついにまわってきたJazzのライブのDVD。都心の喧騒の中にペンライトを掲げ持ち行脚する少年たちの頭上に、小松行き最終便のジェットストリームが、ナビゲーション灯の遠ざかる星のまたたきとともに混濁し、消えていった。クリスマスキャロルの流れる今宵、雨がちな年の瀬の日々と団員たちの上に、よもや雪の降りかかることはないのだった。

JASRAC許諾第9009863024Y38200号

I’ll be back アイル・ビー・バック

July 20 [Wed], 2016, 22:15
▲彼らはメリルボーン駅脇、ボストンプレイスの舗道を走って躓き、転倒する青年たちさながらにコンクリートのペーヴメントを疾駆していった。ちょっぴり重量感のある折フタのフードパックを3つ重ねて再び店頭に姿を現した彼を取り囲んだ団員たちに、少年が告げた言葉は、「おばあちゃんが作ったの、すっごく美味しいよ。どうぞ。」だけだった。

 山道は続き、少年たちが拠り所にして歩いていた矮小な歩道は対面舗装道路の左右へ遷移しながら切れ切れになる。路肩の野放しな植生からいたずらに伸びた何かの蔓が濃さを増す夕闇の行く手を遮り、上下に揺れている。強くきつい緑の匂い。立ち通しでいることも、休みなく動くことも、飲食を辛抱することも、暗い場所を歩くことも日頃訓練を受け続けている彼らにとっては耐えるのに十分な試練だったが、ただ、「子どもの演者集団は時間にルーズで押し気味」と言われスケジュールにナーバスな団員たちは、今夜の宿への到着が既に100分単位で遅れていることが最大の気がかりだった。   
 道路は整備されているようだったが、行き交う自動車の類は10分間に1台有るか無いかという感じ。
「お店の子がくれたお稲荷さんの三分の一が今夜の夕ご飯になっちゃうのかな?」
昼過ぎまで乗っていたバスのマイクを通して、彼らは「7時30分、夕食。他にもお客様がいるので、時間厳守ですよ。」と念を押されている。念を押した合唱団指揮者は、今、彼らの前方20メートル先で登坂の背中をさらし、少年たちの汗だくの隊列を引率していた。
「あのお稲荷さん、美味しかったよね。」
彩度の低い藍色に染まった目前の坂道の舗道を見据える少年たちの脳裏には、決して大ぶりとは言えないが味のぎっしりしみた1つの稲荷寿司を上級生の垢じみた黒い指が3つに分け、うち一切れを自分の指が摘み取る図像が何度も去来した。引率の大人達の見ているスマートフォンのマップでは、目的地はすぐそこということになっている。だが、宵闇に落ちようとする行く手には暗い山中と岬の森林の気配だけしか感じられない。迷ってしまったと誰もが判断しかけていた。少年たちは、あと何十分、何キロ歩けば今夜の臥所へ辿り着くことができるかまるで知る由も無かったが、汗まみれに張り付いたソックスの両の脛を引きずりながら、皆で分け合って食べた小さな午餐の一かけの食感を幸せそうに思い出しているのだった。

 ゴールデンウィーク中の出演のメインだった「こどもの日」向けのレパートリーは4月初旬の1-2週間のうちに大方が仕上がり、母の日を射程に入れた追加新譜の何曲かも少年たちは難なく丸呑みで覚えてしまった。黄金週間の終わりのオマケのような2日間、彼らは観光ホテルの親子連れをあてこんだ早いソワレのため、前日に遠足を兼ねて現地入りする。連休前に配られた「父の日」向けレパートリーの追加は、どれもパッとしない。そもそも「お父さんの歌」というジャンルの子ども向けの楽曲が彼らの楽譜集のどのぺージにも見当たらないのだった。
「『I’ll be back』って、どこがお父さんの歌?」
「シュワちゃんの歌かと思った。」
「ダダッダッダダ!♪ダダッダッダダ!…I’ll be back!」
彼らに渡された楽譜は冒頭の弱起を引き延ばし、一拍目から始まっている。長3度、完全5度の長調の和音が明るくゴージャスに鳴って、歌い出した途端、それが同主調の短調へクールに色変わる。曲の最後、ピアノの後奏まで、短調と長調のスイッチがおびただしいほど繰返された。少年たちはシラブルごと丹念に顔を出すこのピカルディ終止を聞いて、ほぼ全員が教会音楽であると思いこんでいるのだった。ここ数日、リハーサルを挟んだ本番前のコマ切れの待ち時間の最後に、指揮者は「I’ll be back」を歌わせている。ヨハン・ゼバスティアン・バッハの「イエス、わが喜び」 BWV 358 の高声部ばりで声を揃えた団員たちは、この曲をコラール『君知るや、汝吾が心打ち棄つるとも』とも言うべきイメージで歌っていた。黄金週間最後に残された一泊の演奏旅行へといざなう2時間半のバス旅行の道行き、彼らは先生から「倒してはいけない」と指示された車中のリクライニングシートの上で3回もこの曲を歌ってきたのであった。

「先生のスマホのマップによれば、このすぐ上に展望台の駐車場のようなところがある。港で降りたチャーターのバスをそこまで呼び戻そう。あと少し、みんな頑張れるか?」
先生が少し弱気なのを、疑問形にした言葉尻から少年たちは敏感に感じ取った。本科2年目の春を終えようとするアキヨシ少年の白い掌を引っ張りながらぶんぶん前後に振って元気づけようとしているフクちゃんもサイズ22センチのシューズの足裏を引きずりつつ列の中に収まっている。「ステージ用の革靴を履いてきちゃって…」と今更ながら後悔しているのだ。「先生のスマホのマップって、ホントに信用できるのかね?」と口ではこっそり毒づいている。
 数時間前、港の潮風臭い駐車場に40分遅れで降り立った少年たちは約束通りバスの降り際にステップの下、各自1個手渡された出来たて「磯味コロッケ」を猫舌の口の前歯で削ぎ取るように平らげ、車中から見えた可愛い意匠の浜辺の小学校の波打ち際目指して小走りで駆け出した。彼らはメリルボーン駅脇、ボストンプレイスの舗道を走って躓き、転倒する青年たちさながらにフナムシの群棲を蹴散らしながらコンクリートのペーヴメントを疾駆していった。
「先生!ホテルはどこにあるんですか?」
「何分ぐらい歩くんですか?」
「途中で、どこかに寄る?」
走り疲れ、浜一帯の上空をさかんに旋回する猛禽類がいっこうに採餌らしき降下に出ない生態に飽き飽きした4年生が、何人か指揮者の腰のあたりをつつきながら尋ねた。男が無言で対岸のように見える岬の上端を指差すのを見て、彼らは「聞いてないよー!」ばりの悲鳴をあげた。
「先生!俺ら、逆方向に歩いてるじゃないですか?!」
「夜までに着かないでしょー?!」
「アキヨシくん、ホテルはこっちじゃないんだ。合唱団のステージができるような大きなホテルが建ってるようには見えないだろう?」
「じゃあ、なんで?」
「ハイキングってヤツだ。あそこの奇岩の裏に行ったあたりで引き返そう。」
「え”ー!ダマされたぁー!」
「ブラック指揮者!」
磯味コロッケのあの甘心は何処へやら、少年たちの間にこの話は伝播して、それでも血気盛んな6年男子たちは制限時間いっぱいまで水平線の彼方にうっすらと藍鼠色のカタチをなす陸地が一体どこなのか案内板首っ引きで勘案したり、「中井宗太郎のバカヤロー!オレはお前が好きだぁー!」などと大昔の青春ドラマよろしく身近な団員の名前を勝手に唱えては、無意味な内容を海へ怒鳴っていたりした。
「先生、オレら、こんな店も何んにも無いところで『ああ野麦峠』みたいにソーナンするのゼッタイに嫌ですからね!」
軽ワゴンでコロッケを届けに来ていた肉屋は逃げるように帰って行ってしまい、すでにかなりの時間周囲には観光客はおろか地元の人が犬の夕散歩でふらふらしているのにも、幼児の夕散歩に付き合っているのにも出会わない。『ああ野麦峠』はソーナンの話と違うだろう…という指導者の苦笑を下から睥睨しつつ少年たちはそこはかとない嫌な疑念を感じて、
「先生!明日はちゃんとオレら、イチゴ狩りをして帰れるんですよね?」
と念押した。

「先生、あれって絶対に何か軍事関係の施設の跡ですよね?」
6年生になると、なぜ男の子というものは少しずつ戦さの遺構のようなものに興味を抱くのだろう。トチカや弾薬壕や砲台跡といったたぐいの朽ちかけた構築物だ。
「ユーリ君。あれは小学校の分校かなにかの跡じゃないか?小さな校庭があって、頑丈そうに見える石の門柱には「○○分校」と書いた木の看板がかかっていたんだと思うよ。」
指揮者は応答に面倒を感じ、それでもそう言って話を終わらせようとした。
「先生、ちょっと戻って外をぐるっと回ってきていいですか?」
管理私有地の看板がペロンと一枚、海辺の植生が貧弱に芽吹いた広場の中央に立っている。「中に入りたい」と言わなかった上級生団員だが、それを瞬時に目視したことは間違いなかった。敷地の半分は海岸段丘の岩山に触れており、山にはこれから彼らが通って帰る脱落防止パネルの打たれた戦前からありそうな隧道と歩道トンネルが貫通していた。外周を迂回したところでどうせ行き着く先は同じ。戻ったとしても10分間も浪費しないだろう。6年生たちは、「歩いても海の家の一件も無い」と不満たらたらの4年生団員たちを引き連れて、目を輝かせながら南欧のペーヴメントを思わせるブロックモザイクの上を歩いて行った。
「なぁんだ!空き地の周りに石の壁が残ってるだけじゃん!」
「それもコケかなんかで半分緑色になっちゃってる。ばっちくない?」
本科入りして2年目。フクちゃんとアキヨシ君が聞こえよがしに吹聴する中でモリマ・ユーリは冷静に検分を指揮者に報じた。
「この門柱は、学校の分校の入り口に立ってるようなものじゃないです。」
四面を照らす門灯の嵌っていた跡があり、根本は車輪避けにやんわりと裾を広げていた。後期アールデコ調の擬似標柱と幾何学文様のエンタブレチュアが浅くモダンに彫り込まれている。
「少なくとも国家機関の建てた何かの施設の門でしょう?石垣だって、ほら…」
4年生たちが睥睨した石積みはカミソリの刃の一枚も差し込めぬほどピッタリと組まれていた。
「先生、海に出る裏口の斜面がスロープになってるんです。しかも途中で『く』の字に折れてる。」
先遣の6年生は駆け戻って指揮者へ報告した。
「それは傾斜を殺しながら陸側へ駆け下りられるようなっているからだろう?」
「出動でしょうか?」
潮風にさらされる竹林のベージュの林立をざっと眺めわたして子どもたちは口に出してみた。
「ここに昔、何かの車庫があったんですヨ。」
「水陸両用艇とか…」
「カタパルトとか?」
「カタパルトなら、近くに掩体壕があるでしょ?ここには無いよ。たぶん?」
少年たちはこうした類の話が心底好きならしく、いつまでも辺りを見渡しながら昔の痕跡探しに興じていた。

 バスを降り、磯味コロッケを少しつまんでからいったい何時間経過し、何キロメートル歩いたというのだろう。少年たちは少なくともかなりの喉の渇きといささかの下腿倦怠を覚えて浜道を進んでいた。彼らの通過したローカル駅前の商店街。1軒の薬局と信金を転用した流行らなそうな学習塾を除いてすべてシャッターの下りた「かつての商店街の名残り」でしかなく、それゆえ大破した自動販売機が数台認められるだけだった。子どもたちの言葉を借りれば、一帯は「普通の家が建ってるだけ」の海岸と細やかな河口と畑と殺風景な駐車場だけの町。お稲荷さんへ上る階段の傍には「海抜6m」の標識がある。
「こんなに歩いたのに、お店どころか自販機の一台さえ有りゃしない!」
戦争遺構に目を輝かせていた上級生たちも今は諦め顔でつぶやく。
 ホテルの行き先を告げる大看板の指示通りではなく、彼らが船着場に繋がるであろう砂利で接続する幅員数メートルの道の方を選んだのは、メイン道路には消失点までほとんど人の歩いた痕跡のない舗道がずっと繋がっているだけだったからだ。彼らの行く手、はたして亀甲のごとくひび割れたアスファルトに路面は大きくのたくっている。「止まれ」と逆向きに伸びているはずの道路標示はかすれて判読不能。まず営業時間があるのかどうかさえはなはだ疑わしい暖簾のない寿司屋と、彼らにとっては何の興味もひかないSimanoの看板を掲げた釣具店が雑草の茂る田畑の中に建っているだけで、骨色の軽ワゴンが思い出したかのように時々走ってくる何も無い場所なのだった。
「先生、ホテルって全然無いですね。」
「もう、汗でドロドロっす。」
「やっぱり遭難?そうなんデスぅ!」
「チッチッチ!キミたちぃ、ボクについて来たまえー!そのうち、爺やがボクのロールスロイスで迎えに来てくれるはずだー。」
「嘘つけ!誰も来るわけ無いじゃん!」
「ベイビー!だけど寂しくなんかは無いんだー。どうせボクの人生はいつも一人旅さ。」
色抜けして紫色になり始めた紺ベストの腰に手の甲を当てながら、目を細め、キザな文句を繰り出す長髪の団員は最近アレルギー気味で不案内な語彙に遭遇するとしょっちゅうくしゃみをしている。
「何が『一人旅』だよ。おまえなんか寿恵夫とラブラブじゃん。」
「なんだよ!あいつとは一度キスしただけ。だいいち、ずばり!オレらBLじゃないし!」
「一度で十分だろ!ベイビー、寿恵夫くーん!…とか言われちゃって、いっつも二人一緒にいるのがずばり!BLってもんです!」
一団は開店休業の民宿と海の企業宿舎の前を相変わらずしわぶいた道路に足を取られつつわいわいと進んでいった。すると突然、住宅の密集した一角にさしかかり、海へ出ると思われる小径が交差する地点に達する。と、確かに庇テントのかかる店の前に宅配便ののぼり旗がしなだれつつ立っている光景が遠くに見えた。
「あ!開いているお店だ!」
「自動販売機もある!…お金は無いケド。」
「こういうお店の脇には水道があったりするもんだよ。」
「おー!神よ!我にお水を恵みたまえ!」
「小さなお池いっぱいカモン!」
「シャワー浴びたいっ!」
「この町、唯一のお店なのかもしれないっ!ラッキー!」
引率教師の背後では少年たちが言いたい放題だ。先生の方は息も上がりかけ、言葉も出なかったりする。
「ベイビー!これぞ、ボクの豪邸と見まごうばかりの美しさー!神々しく輝いているよねー!」
長島暉実くん似のメゾソプラノは寿恵夫くんの両手を握って掲げ、二人でBLふうの歓喜を数秒間だけ交わし合った。

 団員たちは演奏旅行のハイキング中で、自分の自由になるお金を持っていなかったために、店の脇に束ねてかかっていたグリーンのホースから水を飲もうと算段しているところだった。大騒ぎの輪にもれて、赤い自動販売機の陳列品を覗き込むように見ている子どもらもいる。ダコタ・ゴヨもドン引きするほどドクターペッパーに目がない中山アンビは、何とかそれを手に入れようとこだわっていた。
「誰か、『お水飲んでいいですか?』って、聞きに行けよ!」
「ほら、パートリーダーの仕事ですよ。」
「え”ー、こういうのは先生、やってください。」
「キミたち、先生はお水は要らないんだ。」
「そりゃ、ビール飲みたいってコトですよね?」
大騒ぎである。かくして意を決したソプラノパートリーダー兼、当ツアーのコンマスが5年メゾを引き連れひしゃげて退色したオーニングテントの軒下、建てつけの緩んだアルミサッシの出入り口の中へ消えると、人体交換イリュージョンのように見覚えの無い小学生が一人ぴゅっと同じ戸口から出てきて一団を見回した。
「お店の麦茶だけど、飲む?」
 2割がた減っている六条麦茶の2Lペットボトルを1本右腕に抱えているのは、パーマの取れかかった4年生ぐらいの頃の濱田龍臣くんといった風情の真っ赤な頬のポチャカワ少年だった。背後に交渉役だったはずの2名の団員が立ち淀んでいる。コーラの自販機へ抱きつかんばかりに群れていた子どもたちは、「これで喉の渇きが癒される」という欲求充足よりも、目前にあっけなく顕われた一人の小学生が自分たちの帰属の中にあまりにも自然な形で溶け込んでしまっているという状況に、安堵のような日常感覚を覚えているのだった。
「港祭りで使ったプラスチックのコップの残りがあるから待ってて。」
店頭に放置された山崎パンのオックスフォード・グレーの空ケースの上へ、少年は麦茶のボトルを投げるように置いて暗い店内へ引っ込んでいってしまう。
「これ、みんなで飲めるほど残っちゃいないな。」
「歩いても歩いても全くムダ口の減らない3-4年生から飲ませよう。先生、パートごとに並ばせていいですか?」
「危ないから、お店の建物に沿って並ばせなさい。」
少年たちは、それから全員がもう十分というほど飲み物で喉を潤した。真っ赤なほっぺをした少年が、店の奥からパッケージの開いた使い捨てコップの重なりと、見るからに冷えた六条麦茶をもう2本、重そうに抱えて戻って来たからだった。少年たちは日頃、整然としたレーションの実地訓練を徹底的に受けていたので、店頭の邪魔にならない場所に小さく一列で座り込んで静かにささやかな水分摂取をした。指揮者も逆さまになったアサヒビールのケースに腰を下ろし、これからの行脚を考えながらコップの底を小指で支えて飲んでいる。パーマの取れかかった濱田龍臣くんは、少年たちの様子を静かに眺めていたが、例によってフクちゃんがアキヨシ君と「疲れたー!」を連発しながら話し始めたのを聞いて、彼らのたどってきた道を尋ねた。
「電車?電車で来たの?」
「東京から、バスで。そしてあっちの小学校の近くでバスを降りて、大きな岩のところまで歩いて、それから、昔、何かの軍隊の施設みたいなところで、今、空き地になっているところなんかを通って、ずーっとここまで歩いてきた。あれ、何の基地か知ってる?」
モリマ・ユーリは地元の子ならばと、一番知りたいことを聞いてみた。
「…特別な戦車の訓練所だったらしいよ。砂浜とかを走ったりする戦車。…まさか、歩いて来たの?」
「うん。」
「お腹、すいたでしょ?」
「オレらは平気だけど、3-4年生は、結構コタえてるなー。これからあっちの方にあるホテルまでまた歩いて登るから、ハッパかけなきゃいけない。」
「ふぅーん。ロヤルホテル?」
「…知らない。あした、そこで俺らの仕事があるんだ。」
お店の子は、くるりと身を翻し、奥に入ると、ややハスキーな声で誰かにものを尋ねているようだった。
「和彦くん!お稲荷さん、あるでしょ?3つ全部残ってると思うよ。」
「お母さーん。全部あげちゃっていい?」
「だって、お父さんが2つお昼に持ってっちゃってるから3つしか無いでしょ?」
声の主の姿は見えない。彼がいつもこういうシチュエーションで母親からさりげなくアドバイスされているのは「『売り物なんだけど…』って言っちゃダメよ」ということだけだった。ちょっぴり重量感のある折フタのフードパックを3つ重ねて再び店頭に姿を現した彼を取り囲んだ団員たちに、少年が告げた言葉は、
「おばあちゃんが作ったの、すっごく美味しいよ。どうぞ。」
だけだった。夏には海水浴や、浜のバーベキューで炭水化物をワゴン車に積み忘れてきた家族連れや、なんとなく昼飯につまみたくなった近所の人に、彼はそう言って醤油のタレビンもバランや紅しょうがの切れ端も入っていない稲荷寿司弁当を奨めて買わせているのだった。
「ホントにいいの?タダでくれるの?」
「少ししか無いんだけどね。」
「ありがとう!先生に言いに行ってくる!」
パッションベリーのリネンの匂いをふわりとたてて背の高い少年が踵をかえし、ビールケースへ腰を下ろした男のところへ走って行った。彼らはタオルとちり紙とビニール袋を収めたポーチや手提げ以外持ち物らしいものを携行していなかったし、半数の子は黒い革靴をはいて、サイズ以外は全く同じ服装をしていたから、匂いや声や髪型といった見えにくいもの以外、全く見分けというものがつかなかったのだ。何人かが紺色のベレーを頭にのせているほかは帽子すらかぶっていない。彼らのうち最上級生と思しき2人が、慣れた手つきのままパン箱の上で稲荷寿司の1個を残して全て三等分にした。先ほど「先生に言いに行ってくる」と走った少年が戻ってきて、千切られていない稲荷寿司が端に乗った透明のフードパックを携え、再び男のところへそれを届けた。ベッサイダへ発つ前のイエスの一行のように、子どもたちは千切り分けられ、個数の増えた稲荷寿司を一つずつ全員が礼を言いながら垢じみた人差し指でつまみとり、もぐもぐ、くつくつと美味そうに咀嚼し名残惜しそうに嚥下して、満ち足りた。

 12分後、少年たちは硫黄地味て磯臭いコンクリートの建物から、タオル一本以外の素っ裸のままぞろぞろと溢れ出てきたところだった。今日はチョイ悪オヤジ系の出で立ちのままの指揮者が、黒褐色に染みた流木の上に腰を下ろして彼らの様子を看守っている。海とは文字通り岩場だけで区切られたナトリウム泉そのものの露天風呂は混浴らしく、「水着着用可」の消えかけたペンキの文字が看板に読めた。少年たち以外、ここに沐浴を求めて来るようなもの好きな観光客も効能を信じる地元の住民たちも、いない。
「どうしてここへ連れてきてくれたの?」
「…だって、65秒で来れるし、タダだし、海水浴シーズンじゃないからこんなとこ学校の男子以外、誰も入りになんか来ないし。…温泉って、なんか、元気が出ない?だから」
少年がそう思った真の理由は、彼らの整然とした食事風景を見て思うところがあったのと(麦茶を飲んだ使い捨てコップは元どおり皆で重ねてお店のタバコケースの上へそっと返してあった)、そのうち4-5人がフェイスタオルを出して念入りに汗を拭いる様子を目撃していたからだった。この子たちはほぼ全員が手拭きを携行していて、しかもフェイスタオル一本で入浴も体を拭いて着替えることも済ます訓練を受けていることを瞬時に見抜いたからだった。巻き毛の子は学校の運動会に促成養成される高学年マーチングバンドでテナートロンボーンを吹いていたので、目前にいる男子ばかりの集団の数名が自分と同じフエルトの紺ベレーを阿弥陀かぶりしているのを見ても、直感的に一団が音楽をする子どもたちであることに気づいていた。
「今日はちょっとぬるい。」
湯を浴びた男の子の体をアルトのアオケン少年は少しだけ注視した。パーマの取れかかった濱田龍臣くんのような躯体は背の低い方の5年生のものであり、流れ落ちたスレートブルーのお湯から顔を出した少年の張りついた髪は凛々しくも人懐っこい表情に似合って短めだった。カリカリとした前歯が暖かい笑みの中に2本並んでいる。体操着の形にカフェモカ色へ日焼けした四肢を湯がピカピカと輝かせ、「海の近くに住んでいる子って、こんな肌の色なんだなぁ」とアオケン少年は思った。

 「前の年の夏までキャバーンクラブのランチタイム・セッションにようやく雇ってもらってたチンケな4人の若者たちは、1964年の6月1日にアビーロード・スタジオでI’ll be backを録音した。全部で16テイク録って、その最後のテイクがアルバムに使われている。」
「アルバム…って?」
「バカだな。CDのことだよ。」
小学生である。だが、彼らは16テイクを1日で録ることの大変さも、曲を準備することの大変さも身にしみて経験済みで、何も言わなかった。六条麦茶と稲荷寿司の一カケを食べさせてくれ、自分らをここに連れてきてくれたポチャかわ男子は、脱衣所の入口に近い岩へ濡れた腰を下ろし、アオケン少年と何やら話している。テレビによく出ていそうな印象の男の子。ここから見てもそれと判る湯水を滴らせた真っ赤な両の頬が「紅顔の美少年」といった趣きだった(彼らは書き取りテストに出た「こうがんのびしょうねん」という漢字が「少年」以外書けなかった)。
「テイク2まで、この曲は4分の3拍子で書かれていた。3拍子の曲だったんだ。」
「待って!譲治くん、3拍子って…どういうこと?」
一家揃ってファブ4マニアにして博学の5年メゾが今にもふやけそうな人さし指を突き出し、三角形を描いて宙に指揮しながら上手にシンコペーションをかました重い3拍子で

♪ー ー You know
 if you break ー my heart ー  I'll go.
 But I'll  ー be back ー again.

器用な胸声の歌声で実演した。
「…、それって、譲治くん、ムズカシくない?しかも、ちょっと遅い。ブレスできないでしょう?」
「だから、ジョンが録音中に歌えなくなって、テープがまだ回ってるのにそう言ったんだよ。Too difficult! って。」
「なんでそんなことしたの?」
「いろいろ、理由はあったらしいよ。でも、譲治サマはこの足取りの重さや叩きつけるドラムスのヘビーさはこの曲にとても合っていたと思ってる。」
「よくわからん。」
「わからなくてイイよ。どうせ3テイク目からは俺らが今、歌っているのと同じような4拍子の曲になったんだから。」

 潮風の入浴タイムは予想よりも早く終わった。
品川(弟)の下着のパンツの尻が更衣時にビリっと抜けたからだった。心ここに在らずの本人が騒いでいたので、周囲の団員たちも早く切り上げて上がらざるをえない。パートリーダーたちが通常通り脱衣所への入り口の前へ仁王立ちになり、下級生の体から水滴が全て落ちるか拭き取られていて、タオルが硬く絞られているか一人ずつチェックした。アオケン少年は、髪のぺったり張り付いたリンゴの頬の龍臣くんと話しながらアルト6年の検分を受け、指先で合図されてくるりと二人海の方を向き、背中で「よし!」の声を聞いた。海風に似たものが少年の柔らかなパンケーキ色の臀部を伝い、彼は浴後の爽快を感じた。
「品川(弟)くんって、ああいう子なんだ。騒いじゃってごめんね。」
「いいや。あの子、ズボンを脱いだのを見たら、もうパンツが薄くなっていて破れそうだったから。」
「そんなこと、気づいてたんだ?脱いでる時に破れちゃったんだね。」
「うん。破れると思った。」
「僕たち、ユニフォームの日にだけ履くパンツを持ってるんだ。ユニフォームのズボンの長さに合うパンツって、たいていの子は、身長とか大きくなってもずーっと同じのを履いてる。だって、普通の日には履かないから。きつくなっても、破れるまであんまり気付かない。履いてるところは誰にも見えないからね。」
「だから破れちゃうんだね?」
「そうみたいだね。」
合唱団の男の子は笑った。誰もハイキング時に余分な替えの下着など持ち歩いていない。周辺には麦茶や稲荷寿司の折り詰めをささやかにひさぐ商店しか存在しない。破れたままの半ばノーパンで品川(弟)は引きつった表情の中、ズボンをたくし上げた。


 「先生!今度のお仕事のことで何とかホテルというところから電話がかかってきてます。」
裏面茶色に変色しかけた紙片をひらひらさせて事務室から走り出てきた5年アルトが洗面所の前で指揮者をつかまえて告げた。メモには穏当な大きさの文字で「こんどのしごと」「ロイヤルホテル」とHBの鉛筆で擲り書きされている。翌月のハイキングの翌日マチネで歌う宴会場その他の打ち合わせに違いない。彼がいい加減に返事をすると、団員はメモを持ったまま練習場へ戻って行った。次の曲の音取りが始まろうとしていたからだった。
「ゴメン!アオケン君!」
指揮者は少年の後ろ姿に声をかけて呼び止めた。
「はい!?」
「どうもありがとう。」
「はい。」
男の子の気持ちの良い笑顔はカメオのように半分が見えただけだった。

 5分の後、男が当日の段取り確認を事務スタッフに引き継いで練習場に戻ると、少年たちはアオケン少年を中心に何か切れ端のようなものをつつきあいながら話し込んでいるところだった。
「ワケ分かんネぇ。このコトバ、ヤバくね?」
「でも、事務室のメモ紙入れに入ってたから…」
「しかも、紙がチョー古いときてる。」
「何かネ、エンピツとかが書けないんだよ、こっちの茶色い面の方…」
「でも、このひらがなの字って、ゆとりの子どもの字だよね。アオケンの字の方がキレイで上手い。」
「…うん。古い文書を切ったものだってコトは間違いない。」
「…じぞぷ、わいに、うぽしふ?? って、何?」
「書いたヒトのレベルが低すぎるんじゃ?」
「悪霊か?神か?」
「このコトバ…HPを調べてみたら?」
「ヤだよ!縁起悪い!ヒットしたとたんオレら一団で死んじゃったりして…そもそも、HPも限りなくゼロに近いだろうし…」
品川(弟)が茶色の脚を左ナカ指で掻きながら争うと、辺りが翳で暗くなり男のニヤけた声が背後から突然少年たちを襲った。
「なんか、イオナズンとかヒャダルコとかがバッチリ付いてそうな復活の呪文だな。」
「・・・・?」
「何だ?疑うならコマンドから『じゅもん』でも開いてしらべたらいいだろう?」
少年たちはここでようやく指揮者にパーティーを朴して有り余るバギムーチョのような視線を指し向けた。
「先生っ!…『復活の呪文』って、何ですか?」
「おお、品川(弟)。よくぞ きいてくれた!これは…」
「先生!ドラクエMJぐらい、3DSにもあります!」
「ファミコンには、ゲームをセーブする機能が付いていなかったんだ。だから、ゲームを途中で止めようとしたら特定の場所で『復活の呪文』という無意味な40個ぐらいのひらがなの列を表示してもらって、自分で紙に書いてセーブしておく必要があった。」
「か、…紙ですか?しかも、ファミコンって…。」
「スクリーンショットを撮って、『アルバムに保存する』とかしたらイイじゃないですか?あとは、スマホで撮るってセコい手も…。」
「キミたち、悪いが昭和時代の終わりには3DSもスマホも無かったんだ。かなり記憶力のある人でも意味のない文字列だから覚えられないし、一文字でも違えば『ふっかつのじゅもんがちがいます』と出てゲーム続行は永遠に不可能だ。だから、手許に紙と鉛筆が無いと、ゲームをセーブすることができなかった。」
「セーブ…新宿線?」
「東武東上線!」
「何か、めちゃ不便ですね。」
「そうだろう?これは合唱団のキミらの大先輩たちが、何を考えたか先生の家でドラクエをやってセーブしまくった『復活の呪文』を無理やり感熱紙に書き留めて置いてった残骸の山だ。もったいないからこのあいだ切って裏紙のメモ帳にした。」
「え?先生って、昭和時代はゲームヲタだったんですか」
「キミらのお父さんたちだって、そんなもんだろう?」
「わざわざ先生の家にまで行ってドラクエMJをした先輩たちの気持ちがよくわからない…」
「先生、この、感熱紙って一体何なんですか?」
「なんだ、キミたちは本当に何も知らないんだな。ちなみにドラクエMJじゃなくて、昭和時代の終わり頃は、まだドラクエIIだ。それまでの家庭用プリンターは、普通、熱転写リボンというものを熱で文字のカタチに融かして紙に印刷させていたんだ。でも、このリボンがバカ高ときている。さあ、キミならどうする?世界一の少年MCアキヨシ君?」
「…つ、使いませんっ!」
何も知らない上級生たちは鼻で笑った。
「その通りだ。リボンのカートリッジを外して、代わりに『熱が当たると黒くなる安価で特殊な紙』を使ったんだ。」
「それが『カンネツ紙』?」
「ようやく分かったかい?この紙は先生がそこらへんにほっぽり出しておいたから、先輩たちが『復活の呪文』を書いたんだろうよ。」
「なぁあんだ、本当は『復活の呪文』を書いておくものじゃ無いんだね。」
「本来の用途じゃない。でも感熱紙は、品質が上がって今でもレシートとかに使われているよ。」
「あー!ローソンとかのレジでもらいますよね?確かにあれにも、エンピツが書けない。」
「先生、このメモって古いからこんな茶色に色が変わっちゃってんですか?」
「昭和時代のローソンのレシートって、茶色くなってポイントとか消えちゃうんでしょうか?」
「ばーか!昭和時代になんか日本にローソン無いだろ?これだから4年ってアホ!」
「何だよ、自分だって去年まで4年生だったくせに!そっちこそバーカ!」
「おい、オレら5年生をナメんなよ!『気球に乗ってどこまでも』のピッチもろくに取れねぇくせに、ナマイキ言うな!速攻でオマエを泣かす!」
男の子ばかりの合唱団である。
「はい、はい。…そんなコトより今度の演奏旅行はホテルからさっき正式なオファーがあったぞ。よかったな少年たち。前日の夜6時から豪華なお弁当のご褒美つきだ!」
「豪華って、ローソンの新潟コシヒカリ鉄板焼ハンバーグ弁当550円みたいな?」
「まあ、そんなところだ。」
「やったぁー!」
「喜ぶのは早いぞ。その前に港でバスを降りてホテルまでハイキングだ!歩いて山を登ってもらう!」
「え”ー!僕たち美声でハイレベルなボーイアルトが何で…?」
「きみらが、もっとマシなレベルになるには、まだ何万ポイントものけいけんが、ひつようじゃ。
つらいたびだろうが、くじけぬようにな。」
「は?先生っ!なに言ってるんですか?」
「小学5年のイケメン・ボーイアルト様に何てコトを!」
アオケン少年は戯言の応酬には加わらなかったが、2回目の目的外使用を終えた感熱紙のメモに不思議な敬意を感じ、そっと瞳を閉じて微笑んだ。


 指揮者が「歩くのはあきらめて、乗ってきたバスを呼び戻そう」と少年たちに宣した地点までついにやってきた。展望台の駐車場とは名ばかりで、相変わらずの密生した木々に囲まれ星空だけが見えているパーキングラインの引かれたアスファルト張りの広場といったところである。展望台というのはここからまだしばらく歩いたところへ在るに違いない。照明も無い真っ暗なトイレと飲み物の自動販売機が夾竹桃の植生の脇にあり、きっちりサッシ扉を閉めた案内所らしきものもあったが、少年たちは何も言わなかった。どういう車が往来するのかも判らず警戒した指揮者は少年たちを路側の境界ブロックに座らせず、何人かで詰めて喫煙所や待合コーナーのコンクリート・スツールの方へ掛けさせた。
 指揮者がディスプレイを明るく光らせてスマホでバスを呼び戻す手立てをとっている間、少年たちの塊の間からは話し声が聞こえてきていた。
「お稲荷さん、おいしかったぁ。」
「あの子、とってもいい子だったよね。」
「最初、女の子だと思った。」
「でも、全然オンナっぽく無かった。」
「僕も、去年までよく女の子と間違われたよ。お兄ちゃんが去年卒団して、中学に入ったじゃない?それで、2月ごろ、SEIYUの前の制服屋さんに『二中の制服を買いに来ました』ってお母さんと僕とお兄ちゃんで行ったんだけど、店員さんにセーラー服の売り場へ連れて行かれて『これから伸びますから、今の小さいサイズでお考えにならない方がいいと思いますよ』って言われて…。ぼく、活発そうな小さな6年女子とかと思われたのかな?上から下までキメキメのumbroで行ったのに…。」
「なでしこジュニアとかに見えたんじゃないの?」
「お母さん、大ウケなんだもん。ヒドいと思わない?」
「でもさ、セーラー服の少年合唱団ってあるじゃん!」
「外国でしょ?」
「日本にもあるってば。なんか、懐かしの津山少年合唱団とかもセーラー服だったし。」
「おい!二中の女子の制服ってスカートなんだよ!何言ってるの?!」
「セーラー服って、もともと男が着る軍服みたいなものだったんだってさー。」
「水兵さんでしょ?ドナルドダックとか、着てるよね。」
団員たちの上気と発汗はまだ完全に収まっていなかったが、電話機を胸ポケットにしまいながら丸まった枇杷の落ち葉をまたいできた指揮者が元気のある声で言った。
「良い知らせだ!乗ってきたバスは、隣のインターにある道の駅併設の温泉宿で休憩してたそうだ!もう少しだけここで頑張れ!おいしい夕ご飯が待ってる。おーい!こんなところで寝ちゃダメだ、アキヨシ!」

 アルト5年のアオケンは毎週毎度のレッスンとゲネプロと本番の前、発声練習で音階を上り下りしている間に、アキヨシ少年の4年生らしい張った低い声質と裸ん坊のような白い体臭を嗅ぎ分け、いつもこう思う。
…どうしてこの子は僕のところへ来たのかな?
いずれの団員も気づいていてそれを問わない。5年生は彼がもの寂しげに身を寄せ頬を寄せ、前から後ろから細っこくて締りの良い中学年の子の腕を回して抱かれた時にだけ、声に出して問うた。
「キミはどうして僕のところへ来たの?」
「・・・・。」
大抵の問いに天使のお通りのごとく無言の間が用意されているきりだった。だが、問い直すと稀に言葉の返ることがある。
「この少年合唱団の団員だから?」
「アキヨシくん、…君は僕に綺麗な発音と雪の王子みたいにカッコいいナレーションと、下級生を連れるくるおしい瞬間を聞かせて見せてくれた。…何で、僕にそんなすばらしいことをしにきてくれたの?」
男の子は上級生の右の親指を舐めながらむにゃむにゃと答えた。
「発音も、ナレーションも、下級生を連れることも、アオケン君がいつも気をつけていることでしょ?だから。」
5年生は指の吸われていることを感知した。
「君が舌を繰って綺麗な発音をして、いつも必ず確実なナレーションを最後まで言い切って、予科上がりの2年生の手を最後まで握ってスタンバイをさせているのを見てるから聞いてるの。先輩だって、いつかそんなボーイアルトになりたいって、心の底から思うから…。」
男の子は静かにお白粉色の頬を撓ませて笑った。
「そんなの変だよ。それに、違う。だって、僕は歌が好きなだけ。歌が好きだがらここに来たんだよ。そしたら、ここに大好きなアオケン先輩がいて歌ってたの…。」
男の子のカメオが肋骨の間に沈み、10歳の男の子の暖かい息が彼のまだそこに在る心房中隔の位置上へ浸潤した。上級生はその子の肩を柔和に掌で覆い、ようやく下級生の発言の真意を理解した。日本に「変声期前の男の子が組織の名の下に2声部以上のパートを複数名で歌う」ことを意味する少年合唱団が生まれてじき70年の月日が経とうとしている。2人はその恐るべき確率の中でここに出会い、並んで立ち、今、日々に声を揃えている。
「いつまでも、いつまでも僕と一緒に歌っていてくれるかい?」
顎の前で下級生は再び熱い息をこぼして微笑み肯首したような気がした。

 5年アルトがベトベトに眠りかけた下級生をバスのステップに引きずり上げ、定位置の斜め前の座席に押し込むと、周囲の話題が未だ「セーラー服」からいくらも進捗の無いまま空転しているのを耳にした。
「例えば、イナバ物置とか…!もともと、人を100人乗せるための道具じゃないと思わない?」
バスはアイドリング状態のまま、漆黒に近くなりゆく森林の中で全ての団員の最後尾から指揮者のちょい悪な視線が追い終わるのを待っている。
「マーブルチョコレートは…ってかM&Mってあんじゃん。あれってペリリュー島とかで日本軍と戦ってるアメリカの兵隊さんに栄養を補給するためにアメリカ軍が作った融けないチョコレートだったんだって。」
「だから今でもお口で溶けて手で融けない…」
「今、それ食ってんのは日本人の子どもなんだけどネ。…っていうか、先生いっ!」
指揮者がようやくバスのステップに姿を現し、人数確認のために通路を奥に進んでやってきた。
「元々の用途と違く使われてるものって、どんなのありますか?」
「は、じゅう、じゅうに、じゅうし…何だ?元々の用途と違うもの?」
バスの運転手は一応ブザーを鳴らしてドアを閉めて待った。
「今、人数確認してるんだから、後にしてくれないか?…用途と違う代表格っていったらリアップだろう?」
「『リアップ』って?」
「高血圧の薬だ。キミらみたいなのがアカペラで歌い終わりまでに短3度も音が落ちるのを一年中ガミガミ言ってたらそりゃ高血圧にもなるだろう?」
アキヨシ少年はもう寝息をたてはじめているようだった。
「その高血圧の薬の何が元々と違ってるわけ?」
指揮者が半ば後ずさりながら運転手に声をかけに戻る姿を見ながら、少年たちは話を続けている。
「『リアップ』って、CMで警視庁特命係の杉下さんがやってるじゃん。毛生え薬でしょ?」
「それが、何だってんでしょ?ワケわからない…」
バスは大きく左にカーブを切って「展望台駐車場」の看板を左手にやり過ごした。道の幅員が不足しているのか、後輪を微かに縁石前の水切りに落としている。
「元々は高血圧の薬だったんだよ。」
「うわっ!先生っ!話が続いてたんですか?ビックリさせないでください。」
進路をこの先に向けたバスは予想通り、山を下る行程に入っている。
「実験の最中、この薬を飲んだ人にモジョモジョと毛が生えてくるという恐ろしい副作用の出ることがわかった。」
「多毛症ですね?」
「そう。よく知ってるねぇ。この薬は高血圧の薬としてはさっぱりだったが、副作用は確実だった。」
「本当は高血圧の薬だったのに、今は毛生え薬として使われてるってコトですか。」
「そういうコトだ。ココで『先生には両方とも必要ですよねぇ』とか言ったら速攻でパンチがとぶぞ、品川(弟)!」
黒い男の子は一瞬目を剥いた。本当にそう言おうと思っていたからである。
「先生、いったいあと何十分ぐらい乗るんですか?完全に遅刻だと思うんですが…?」
エンジンブレーキで坂を下りるバスのスピードはさほど早くない。彼らはいずれにせよ座席に深く座りなおした。
「すぐ着くそうだ。多分15分ぐらいだろう?…ところで、君たちは少年合唱団員なんだから、もともとの用途と違うって言ったら、音楽の曲を思い出すのが常識ってもんじゃないか?」
指揮者はそこまで言うと到着後の算段のために携帯をかざして最前の自席に戻って行ってしまった。
「曲?…『ユー・アー・マイ・サンシャイン』が、本当はアメリカの選挙の歌だったとか?」
「『愛のプレリュード』は合唱曲じゃなくて、もとはアメリカのクローカー・ナショナル銀行のCMソングだよね?」
「それ言ったら『春咲小紅』もCMソングじゃん。」
「ラジオ局の合唱団って、もとはVBCだったんだよー!」
「まじ、カッコ良かったよねー…ビクター少年合唱隊!」
「第一、少年合唱っていうのも、もともとは教会の聖歌隊だったんだってよ。カマクラとかにあるじゃん…教会の聖歌隊の少年合唱団!」
彼らを乗せたバスはようやく巡航速度とも言える走行スピードに達しようとしたが、エンジンブレーキの減速は効いたままだった。
「何か、全部、I’ll be backの曲と同んなじだネー!」
「ホント、ホント、100人乗ってもダイジョーブ!!じゃないっての!」
「カノジョにグチる男の心からの叫び…と見せかけて、」
「本当は、プータローで女癖の悪い自分のお父さんを注意する歌だったなんて!」
「英語だと、『アンタ』でも『キミ』でも『おまえ』でも、全部you(ユー)だからね。紛らわしい。」
「しかし、なんでこんなハナシになったんだったっけ?」
彼らは小規模なカンタータばりの宗教的イメージに編曲された「I’ll be back」の音取りの後、この驚愕の歌詞の意味を指揮者から告げられた。「親なんだから、しっかりしてヨ。じゃ、僕はまた来るから(いなくならないでよ!)。」という意味合いの曲だとは団員の誰も思っていなかった。彼らはその時の失笑に回帰し、

 ♪You know if you break my heart I'll go, but I'll be back again

と突然車内で声を揃え出した。だがしかし、バスが最初の直角カーブを曲がり終えた瞬間、フロントグラスいっぱいに燦然と輝く、ライトアップされた巨大な構築物の威容に歌を忘れ息を飲んだ。
「…せ、先生、これって?」
「15分どころか1分も乗ってないじゃないですか?!」
「あんなとこで座って待ってる時間があったら、あきらめないであと50歩だけ先に進んでたらココが見えてたのに!」
「ホテル…ご、豪華すぎる…。」

 「外国のオーケストラの人って、僕たちがロビーでスタンバイしていると”Enjoy!!”って言ってくる。」
これは彼らのごくありふれた劇場楽屋レポートの一つだ。
「4年生ぐらいまで、それって『緊張するなヨ』って意味だと思ってた。でも、違ったんです。ガイジンのおじさん、おばさんたちはホンキで『楽しめや!』って言ってるんだってことが、だんだん…わかってきた。」
都内の児童合唱団の中には指導陣の来歴から海外のオケと組んで仕事をする機会に恵まれる団体も多い。3年生の新学期に学校でペンマンシップとジュニア・ホライズンをピラッと渡され、アクティビティはALTの先生がたに全てオマカセという処遇の子どもらもいるが、そこそこに英語を解する高学年児童になれたというタイプの団員たちは、この”Enjoy!”の意味するところをある日忽然と察知して深く胸を衝かれた。「147小節目から走るな!」「ステージに上がったらケツを見せるんじゃない!」「ほらぁ!アルト!またフィスを外したろう?!」「ホンバン前にガブガブ水分を摂るな!」…日々必ずそうして夥しい機会に叱責され、縛られ、「チケットに何万円も払って来てくださるお客様がたを心からシアワセにする大切な仕事だから」と戒められる彼らにとって、「どうせ子どもなんだろう?幸せな少年時代を送るべきだ。お金をもらってるわけじゃなし、折角の珍しい機会だから歌って楽しんで帰ればいいと思うけどナ!」と喜色満面に声をかける海外のアーティストたちの存在は一種のクーデターに匹敵する稀有なものだった。
「お茶とお稲荷さん、どうもありがとう。美味しかったよ。みんなもとっても喜んでる。でも、キミはどうして僕たちにタダでお茶と食べ物をくれたの?」
合唱団総代の地歩にしては静淑にアオケン少年が謝礼を告げた時、店の奥の雑然とした荷台の上には転がった1本のMONO鉛筆や片磨りのAIR-IN消しゴムとともに2つのものが認められた。パーマのとれかけた濱田龍臣くんのような男の子の傍…古ぼけて柔らかい音をたてそうな、明後日の方を向いて置かれたロール紙付き加算器。それから複合図形の体積を求積する問題の並んだ、途中まで演算済みの問題集のページ。書きつけられているのは普通の5年生らしい鉛筆の文字だった。赤い頬の少年は本当にイタズラっ子そうな二重瞼の不敵な笑みでこちらを見やってから、笑い、真摯にそれを告げた。
「僕の仕事は、ここに来たお客さんを元気にして、幸せな気持ちにして帰してあげること。」
合唱団総代は驚愕に目を見開き、飲んだ息の中にその言葉を反芻した長い沈黙の果て、自分を取り戻し、ようやく口を開いた。
「じゃあ、僕たちと同んなじだね!?」
等しい境遇の少年が目の前にいる!
 彼らは何か思い残すように店先のあちこちを眺めやり、それからソプラノのパートリーダーの恬淡な指示を受けてパート別に2列縦隊の並びを作った。指揮者は最後尾につく前に店の奥で店番の少年と店主らしき母親に礼を述べ、品川(弟)は列の途中からタバコの自販機の前へ寄りざま、黒い節くれだった人差し指でメビウス・プレミアムメンソールのボタンを押してイタズラした。
 アオケン少年は少しだけ店の庇テントのストライプを眩しげに見上げたが、閉まったきりのタバコ売りの小窓の横で紺クロックスのつま先を余らせていた男の子の前へ戻ると、
「明日、山の上の方のホテルで僕たちが演奏会をするんだけど、今日のお礼に来てくれない?」
招待の言葉を述べた。パーマのとれかけた濱田龍臣くんのような男の子は嬉しそうにその言葉尻を聞き終えると、5年アルトの澄んだ明るい目を見ながら、
「お店の番があるから他所には行けないんだ。僕はここにいるよ。」
端然と答えた。5年アルトは瞬時に言葉の意味を理解し、駄目押しをしなかった。
「わかった。キミのことは決して忘れない。僕たち皆んなを助けてくれて、元気にしてくれて、どうもありがとう。今度は、お金を持って来るから、また来てもいい?」
「いいよ。」
「じゃあ、また来るね。」
アオケン少年は右手を差し出し、静かに握手をしてもらった。海の近くの田舎の町のお店をやっている5年生の少年のものとは思えないくらい、優しく温かで清新な、気持ちのよい智い手のひらだった。

期待される人間像

January 15 [Fri], 2016, 0:00
ナチュラルピュアなボーイソプラノ、赤川エル君に心からの感謝と賞賛の気持ちをこめて

▲「大切なのは『声変わりしたら歌えなくなる』というマイナスの予定調和のようなものじゃなくて、日々何を大切に歌うかということだけだ。将来も未来も、なるようにしかならないきみの人生だ。だったらボーイソプラノとして善く生きろ!きみは今、その素晴らしい団員人生の真っ只中にいるんだ。赤川エル!わかったか?」


 以下に述べるところのものは、すべての日本人、とくに教育者その他人間形成の任に携わる人々の参考とするためのものである…

 ディサペアな駅前ロータリー。昭和時代から在るに違いない書店とパン屋のチェーン店がぐしゃりと建て込んで。出演の道すがら、男の子はその紙切れを裏返し、朽ちかけた明朝体の段組を左上から無機質な小声で読んだ。「教育者」というのは「先生」ということだろう?漢検3級の5年生は「携わる」という語彙だけは難なく読んだ。道ゆく人々の流れに乗り、目を上げず、彼はそれを忍び声で音読しつつ練り歩いた。「教育者その他人間形成の任に携わる人々」と紙面には在る。嗅いだことのある大人の匂い。「人間形成」の”人間”というのは戦争を知らない子供たちのことであると彼は思ってもいない。
「おい!危ないじゃないか!前を見て歩きなさい!」
赤川エルは目前に立ちふさがった男に声をかけられた。少年のステージ上のやぶにらみ。客席の表情の機微はぼやけている。必ずや眼鏡の必要な今の彼に、雑踏の町で注意深く前を見て歩くかどうかはあまり問題にならなかった。
「子どものくせに、人や車に進路を譲らせ、避けさせるんじゃない!キミにあるのは怪我をする権利じゃなくて、怪我をしない義務だろう?」
「は…はい。」
少年合唱団の指揮者は「その他人間形成の任」に在る。
形成の相手は都内およびその近郊在住の小学生の男の子たち。
「きみらはいったい誰の何のために歌っている?」
「…たぶん、おじいちゃんおばあちゃんや近所の小さな子たちが楽しい気持ちになるため?」
「そうだろう。そういう大切な仕事をするキミが、ここを通っている人たちを不愉快な気持ちにさしてどうする?」
「…先生。すみませんでした。」
「スミマセンじゃ、すみませんヨ。」
「はい。ごめんなさい。もう二度としません。」
通団カバンの握りを腕に食い込ませ、男の子はビラをたたみもせず左手指でつまんで太腿の後ろに隠した。 以後数時間の彼を督する「教育者」は、それを一瞥して何も言わなかった。毎月出演している寺院のお堂コンサートである。お参りに来ている人々に歌を聞かせるのが彼らの今日の仕事だった。

 「お稲荷さん」の隣に建つ鉄筋2階建てのサッシ扉の前で、彼は同期の団員たちにこの説諭を打ち明けた。
「俺らがコドモだからって避けない大人がやたら多すぎんだよ。スマホしながら歩いてるヤツとか、JKとか、最悪。」
「ケショーしながら歩いてんだぜ。まじぶつかるっショ。」
「何か、音楽聴きながら歩くなヨぉって感じ?」
「スマホやケショーや音楽がイイんだから、広告の紙ぐらい読んでてもイイと思わない?」
だがしかし、彼ら自身もまたイヤパッドを矮小な耳殻にねじ込んで道を歩きながら音楽を聴いているのである。ヘイリー・ウェステンラのアルバムを聞きながら電車通団するのが赤川エルの当たり前の日課だったこともある。…1979年秋の当たり前のある日、殆どの日本人にとって「音楽」は劇的で取り返しのつかない決定的な変容を遂げている。それまでの有史以来の永の時代、歌声は…人が歌い、または録らえたものを鳴らすとき、それはその場にいる全ての者により共有される性質のものであった。だが、この日以降、歌声は人々の耳殻の中にあると言ってよい。製品パッケージを飾った赤い和製英語名の2つの「A」の字には各々スタスタと歩む両の足が生えていた。ロゴの文字は「物理的な進捗」とサピエンス種のホモ属を意味する英単語のデタラメな合成だったが人々はその意味するところをたちどころに理解した。何かの待合室でも良い…四畳半ほどの部屋に座した4-5人の人間が、全く至近な隣同士でジャンルも音高もリズムも波長も全く違う音楽を同時進行に聴いているという状況が人類史上忽然と現れた。「ウォークマン」の誕生である。…だがしかし、日本人の少年合唱(変声前の男の子の歌声)は、今だ圧倒的にライブ演奏で供される機会が多く、イヤホンを通して聞かれにくい音曲の分野の一つなのである。こういうわけで、マルチトラック・レコーディング主流の現在、男の子の歌声を伴奏トラックに乗せて収録することはまだ圧倒的に例外的で「特別」な事態でもあり、ステージ等パフォーマンス時にカラオケ伴奏を使うことへあからさまな抵抗を示す「少年合唱ファン」の観客も少なくない。ステージを終えればボーイソプラノたちも「お迎え」の保護者とカラオケのブースで暫く熱心に歌ったりする。シリコンプレーヤ用のダウンロードコンテンツに「少年合唱」と問いかけても、日本人・男の子の合唱団名で示される検索結果はごく限られたものになるだろう。爬行的な現代文明…機械の中の人間…利己主義と享楽主義…歪んだ人間性…。少年たちは少しくそれらと隔たったところで歌っているようにも思える。
「ビリーブ!」「チェリー!」「アンリミテッド!」「アンパンマンのマーチ!」「ジュピター!」「花は咲く」「僕、この曲、アンコールしてもイイですか?!」
団員たちは練習の休憩時間に自分たちがカラオケボックスで歌う曲目を吹聴している。どれも合唱団の常時レパートリーばかり。ステージ上の彼らも練習場の彼らも「合唱ピアノ」という特殊技能はにはまるで興味も眼中にも無く、<何だか僕たちにハナシを合わせてくれる上手にピアノを弾く先生>とだけしか思っていない。
「エルくん!ピアノの先生が『この道』はいつか来た道のソロを合わせるから来てくださいって言ってたよ!」
賽銭箱のステンレススチールの受け皿に誰かなにがしかの硬貨を投げる音。お稲荷さんの前に賽銭箱はある。声をかけてきた通団服の男の子は黄色い顔に黒飴のような丸い目だ。
「ピアノの先生?」
「マーサくんといっしょに音(オト)、合わせますからねーって、言ってましたよ。」
「マーサ先輩はチョーズヤの横のベンチでまだ本、読んでた。」
下級生は手水屋という単語を知らなかった。彼らは様々な場所で歌い、様々な言語哲学に落ち合った。昭和の住宅博物館に行って「童謡こんさあと」の前に「ご不浄」をお使いなさいと学芸員さんに言われるかと思えば、大使館のイベントの前、「レスト・ルーム」に行くエニバディ、ボーイズ?と大使館職員に挙手させられたりもする。上級生たちはほぼ毎週末、首都圏各所のありとあらゆる特殊な場所で安価なイベントに動員されていたので、ごく当たり前の小学生の男の子が体験する時と場所と匂いと肌触りと味と色よりは、遥かに豊富な見聞をたった今も得続けていた。
「いいよ。僕がマーサ先輩を呼んで一緒に行く。トーヤ君はみんなとお水でも飲んでてよ。」
赤川エルは甲高いボーイソプラノで伝令の下級生に言葉をかけた。

「なんでもかんでも大きな声で歌えばイイってもんじゃないんだよ!今日は都合でソプラノの5-6年生が少ないんだからさ、ちょっとセーブしてバランスを考えて歌ってくれなきゃ!きみたち、ボーカロイドとかがプログラム通り歌ってんじゃ無いんだからさ!」
指揮者はリハーサルの段階で既に上気して低声側に群れた少年たちへ抑制の指示を出している。
「おい!松田リク!聞いとんのか?!耳があるのか、ボンクラ3年メゾ!!合唱で一番大切なコトって何だ?」
精進落とし等に使う部屋なのか、現代仏画のガラスの大額が天井の蛍光灯のグリルを反射して井桁に光っている。
「一番大切なのは…聞くこと?…だと思います。」
「そうでしょう?聞くったって、先生の怒鳴り声じゃ、ありませんよ!じゃ、何だ?リク君?」
「みんなの歌ってるのを聞くことです。」
「『みんな』って、誰だ?」
「パートの他のみんなと…他のパートのみんなです。」
「そうだろう?さっきのキミの歌い方は何だ?聞きながら歌ったのか?」
「いいえ。」
「だから、あんなバカみたいに大きな声になるんだ。キミは聞きながら歌えるのか?」
「…歌えます。」
「本当か?さっきは歌えてなかったぞ。」
「歌えます。」
「アルトのユーリ君!キミはこの松田リク君が、他の子の声を聞きながら歌えると思うか?」
「ちゃんと歌えると思います。」
「ずいぶんと評価が高いな。…人の歌っている声を聞きながら自分でも歌わなきゃいけないんですよ。普通の小学生ではとてもできないとてもとても難しいコトなんですよ!キミたち少年合唱団員じゃなきゃ出来ないコトなんですよ?わかりましたか?」
「はい。」
松田少年は、アルトのモリマ・ユーリとともに返事をした。
「じゃ、その証拠にもう一度最初から歌ってくれ!」
21世紀初頭の彼らのライバルは、もはや過疎化あきらかな少年「少女」合唱団でも日本人入団OKでエスタライヒなアウガルテンのゼンガークナーベンでもなく、サンプリングのボーカロイド・ソフトや人工音声のDTMマシーンの筐体の群れだった。正面から周波数ドメインの集合体に勝負を挑めばナマミの少年たちの方が必ずや敗北するに決まっている。彼らの歌の唯一の拠り所は今や「人間が歌う」というところにしか存在しなかった。

 手水屋の横のベンチに腰をおろし、マーサ先輩は熱心に美少女キャラの描かれた本を読んでいた。開いたページには斜に描かれた萌え系の女たちがフキダシに何やら丸っこい勅命を並べ立てているのが見えた。
「エル君ってサ、何で少年合唱団に入ったの?」
「…兄ちゃんが来てたから。」
「あーそうか。俺はね、『教養』として歌ぐらい歌えた方がいいからだって。」
「キョーヨー…ですか?」
公立の小学校の音楽の授業では十分な歌の指導が行われないから…といった理由や、生活に潤いが出るから…児童合唱はコドモにしか極められない学芸であるから…と、団員家族それぞれに「子どもを合唱団に通わせたい」大切な事由がある。6年生は掌に広げていた本の表紙を左右からぱたんと閉じた。
「先輩、何の本ですか?」
「これ?…だから『憲法』だってばさ。」
「あ…そうでした。」
男の子がなぜ民事訴訟法や宗教法人法や浄化槽法や帝都高速度交通営団法ではなく憲法の本を読んでいるかというと、書店や通販サイトには若年者向けの憲法解説本が溢れているからだ。
学校ではやがて日本國憲法に到達する日本の近代史を習う。だが彼は既にこれらの書物によってちょっとした少年憲法学者然としたふるまい、たたずまいを見せているのだった。赤川エルは同じパートで声を揃えるこの上級生に通団途中の道すがら「憲法って、どんな決まりなんですか?」と尋ねたことがある。
「日本國憲法は押し付けられた決まりだ…って言っている人たちもいる。でも、大切なのは誰が作ったかじゃなくて、どんなナカミか…なんじゃないかな。それから、押し付けられたのであれば、もともとどういう経緯で押し付けられたのかをよくわかってないといけないと僕は思う。」
「合唱団の団規みたく?」
中井宗太郎が、ユニフォームの採寸のために持参の衣装ケースを前後へ振りながら聞いた。
「団規と日本國憲法は似ているところがあるよ。半ズボンには必ずサスペンダーをしなけりゃいけないけど、ワイシャツにはアームバンドを付けてはいけないとか、マンガを持って来てはいけないとか、お返事は「はい」とか…団規にあるでしょ?それ、一見、全然自由が無いように見えるんだけど、これを守ると僕らの中のワガママや弱い心みたいな弱点からは自由になれる!合唱って、みんなの声に合わせなきゃいけないし、テンポもリズムも音程もMC原稿も全部決められているけれど、それを守るのは僕たち一人一人の団員だから、僕らはまだ小学生なのに大人の人と同じ一人の人間として認めてもらうことができる。すばらしいと思わない?」
赤川エルは傍で雨水溝の蓋を蹴とばしながら歩いている中井宗太郎の顔を見たが、彼もまたこの話の内容を理解しているようには思えなかった。
「マーサ先輩は、憲法のどこが好きなんですか?」
下級生が話題を変えたいがために振った次の質問に6年生は目を輝かせて応じた。
「そりゃ、絶対に第十三絛が好き!『すべての国民は、個人として尊重される』でしょ!赤川エルは、赤川エルで良いんだ!キミはキミでいいんだ!最高の子なんだ!…って書いてあるんだよ。エル君は日本國憲法以外でそんなこと誰かに書いてもらったこと、あるかい?日本國憲法はもしかすると押し付けられた憲法かもしれないけど、書いてあることはエル君や僕たちへの最高のラブレターなんだよ。」
三段論法的に考えて憲法に似ているはずの団規が自分へのラブレターに値するものであるとは到底思えなかったが「赤川エルは、赤川エルで良いんだ!」という言葉に5年生のソプラノ団員は少しく心を動かされるところがあった。手水屋の端でそこそこに厚ぼったく活字ポイントの小さい萌え系憲法学入門のペーパーバックに目を通していた上級生を見て彼がそれ以上余計な言葉をかけなかったのは、こういういきさつがあったからだった。
「先輩、ピアノの先生が『この道』のソロを合わせるから来てください…っておっしゃってるそうです。」
少年たちの合唱団は土曜日曜祝日と不休で出演のスケジュールを抱えているために、登板への長大な待ち時間を読書タイムやおやつの時間だけに当てがうわけにいかない。ステージ要員ばかりが楽屋詰めでスタンバイの瞬間を待っていることから、指導者達はまだらな空隙を残して組まれたリハーサルや腹ごしらえの時間をぬって次や次の次や次の次の次の出演のための演目のおさらいをコマギレに差し込み、少年たちの歌の出来栄えをヒットアンドアウェーで励起しようと試み続けていた。男の子たちというのは、当日の演目を出演直前執拗にレッスンしてマシにしてやろうとしても大概上手くいかないのである。
 2人の少年は「♪この道は…いつか来た道…」とボーイソプラノで鼻歌を奏でながら控えの間に戻っていった。大きな男の子の右手には憲法の本がしっかりと握られている。

 互いに不信を抱かなければならない人々からなる社会ほど不幸な社会は無い。少年合唱団という児童と指導者からなる極小な社会ではあっても、この摂理はかなりの妥当性を持って真なりと言えた。かつて団員同士が入団テストで採られてきた雑多な、歌の上手い少年の寄せ集まり以上の何者でもなかった時期に、合唱団にも「互いに不信(に近いもの)を抱かなければならない」一時期はあった。彼らは一見してごく普通の歌を歌う、規律に縛られた男の子の集団のように見えたが、歌声はいびつでハーモニーにはいささかの温もりも感じられなかった。日本語も不明瞭。ボイトレの不断の努力も虚しく美しく響きこそすれ何を歌っているのか分かりづらい時代が続いた。指揮者たちはかくして他の指導者が目をかけてやっている団員を貶め、上手くいっていたソロやアンサンブルや営業を何の前触れもなく突然取り下げさせたり配役を干したり聴衆の楽しみを何かもっともらしい理由をつけてもぎ取っていったりした。ミューズは彼らの合唱にもソロにも微塵たりとも微笑みを返さなかった。指導者らはミューズへの畏敬の念をまるで欠いていたし、それゆえ子どもたちへの尊厳も愛も感謝の念も、彼らが大切に持ち運ぶ真の幸福も何も見出そうとしなかった。
「エル君!この前のきみの『ふるさとは遠きにありて思ふもの』のソロを聴いて、お母さんはロビーの隅でずっと泣いていらしたぞ。」
お堂コンサートまではまだ40分間もある。選抜団員の『この道』のおさらいの後、合唱団は再集合してようやく当日の演目を一通りチェックしはじめていた。
赤川エルは、彼の家族全員が自分のナチュラル・ピュアなボーイソプラノの大ファンであることを知っているので、簡単に「はい」と応えただけだった。歌の出来映えが悪くて親に泣かれるのであればまだ対処の余地もあるのだが、自身の歌声に胸打たれ母親が感無量の涙を零しているという状況を彼は未だ「照れ臭い」混乱としか感じ得なかった。当日終演後、着替えを済ませバラシのミーティングを終えてロビーのヒヨコ色の絨毯の上に放免された彼を引き取ったのは目を赤く腫らし、泣き終えた母とその肘を支えるように掴み、寄り添って立つ父親。元合唱団員で中学生OBの兄は塾通いでそこに居なかったが。男の子は、家族もお客様も概して同じものを自分に要求しているのだとそういうときに気づくのだった。学校が終わり、ユニフォームを纏ってから後の行為は声を揃えることで、彼らは膨大な体積の息を吐きながら声を消費しているように見えて実のところステージは生産の場なのである。少年たちにはこの生産性の向上を目指してひたすら歌っているのであり、達成すれば彼ら自身が幸せな気分にもなり、それゆえ観客たちを幸せな気持ちにさせることもできるのである。彼らは目に見えないものを生産しているのである。
「僕は、合唱団に来るのが大好きです!…そんな通団への帰り道、小さい声でよくこの歌を歌います。みなさま!…つぎの曲は北原白秋作詞、山田耕筰作曲『この道』です。」
このMCを担当しているのは赤川少年の1期上のソプラノで、彼のパートを統率するスラリとした少年だった。実際の彼らは通団の行き帰りに汚れた都市の大気の中で歌を歌うことは無かったが、よく話をするのだった。
「俺、4月にはもういなくなる。」
「知ってるよ。先輩は中学生になるんだ。」
「俺は卒団する。そうしたら、おまえと歌うことはもう二度とない。」
名曲『この道』の文中に製作者の感情を直截述べたフレーズや語彙は0(ゼロ)件だ。上級生は舗道の前後をサッと見渡して赤川エルの左手を優しく握った。通団カバンを持っていない方の手だ。
「俺はとっても辛い。大好きなおまえと歌えなくなるなんて。」
少年は前を見据えたまま。
「僕も辛いよ。でも、とっても幸せなんだ。僕は一生懸命に先輩と一緒に歌っているから。」
「俺も歌っているよ。」
「ううん。大切なのは、先輩が4月から後はここにいないってことじゃなくて、3月まではここにいて一緒に歌っているってこと。僕は今、大好きな大好きな先輩と一緒で、大切にしてもらっていて、世界一幸せな男の子なんだっていうことの方がずっと大事なんだよ。僕は先輩が大好きだから。」
男の子はニコニコした。都会の埃っぽい舗道の上で、胸いっぱいに息を吸って良い表情で目をつむった。上級生がしっかりと手をひいているので、安心して歩くことができる。赤川エルはいつか卒団や声変わりの日が明確に来てしまう少年合唱やボーイソプラノという「仕事」を少なくとも最終的には自身で選択したことに後悔した瞬間が一度もない。自分が何を選んだか(選ばざるをえなかったか)ということよりも、自分が今、何をしていて、どんな少年たちと心を合わせているのかの方がよほど重要な事柄だったからだ。

 赤川エルが実際にこのMCのあと、来週週末のエキナカ・コンサートの目玉の一つになる予定の『この道』のソロパートの部分を予行演習代わりに歌い終え、ユニフォームの尻を客席(御堂のようなところなので、正確にはそういう名前ではないと思った)に向けて隊列へ戻ろうとすると、期せずして拍手が起きた。喝采にはイレギュラーな箇所だったので、拍手と言ってもぱらぱらだ。ここへやってきているのはほぼ全員が檀家さんや団員の保護者たちなので、これを聞いて何らかのモトをとってやろうという人は皆無にちがいない。ただ、寺社関係のコンサートはお客様から個別に定額の入場料を取って聞かせることは殆ど無いので、小学校高学年の団員たちは皆、このパフォーマンスを「ボランティア」のようなものと考えている。社会福祉への寄与とあまり変わらないというスタンスである。彼らには社会連帯という意識は完全に欠如していたが、社会奉仕という理念や精神については身に刷り込まれ日常化していたのである。ステージでの彼の姿を熟知している保護者達や追っかけ同然のヘビーなファンは、その無表情とも言える彼の真摯な歌いぶりに満足し、ボーイソプラノというものを普段あまり聞いてきてはいないという聴衆は、赤川の捻出する高い統御された頭声に「こんなにきれいな声を男の子が出せるものなのだなぁ」と心底感嘆した。自身のピッチに振れがちな部分があって、少年は少しく当惑していたが、客席の誰も彼の心中に気がつかなかった。
「そのために今日は予行をしたんだから…。」
「先輩、練習だからいい加減に歌っていいんでしょうか?」
手伝いに来ていた大学生のOBで、現役時代の最後は現在の赤川の位置に立って歌っていた伊藤だけはその心の機微を知っていて、終演後に彼を呼び言葉をかけた。
「いつもテスト本番のつもりだと本当にダメな日が来たら精神的に潰れるってことだ。優秀すぎる子はだから危ないと言われる。」
「僕は優秀じゃありません。」
「未だな。エルくんはたくさん失敗をして、たくさんダメ出しを体験して、そのぶん勉強をして…それが、真に優秀なボーイゾプラノになるソリストの姿なんじゃないかな?」
男の子はすでに十分優秀なボーイソプラノ・ソリストだった。小学校3年の春には初めてのソロをとり、MCのデビューもアンコールのビス待ちの判断を下すようになったのも同じ頃のことだ。彼はもちろん夥しいステージ経験の中から苦渋の思いも不適切な判断も降雨のような説諭も受けてここまで来ている。OBはそれを十分知っていて心から評価していたが、この場面でそれを言うのは差し控えた。
「俺は、君がこういう音程の振れを自分で気づいて翌日までにリカバリーする場面をたくさん見てきている。2年の頃の定期演奏会の自分の姿をエルくんはDVDとかで見たことがあるか?」
「…あまり…」
「きっと君自身がビックリするほどアマちゃんでいい加減な2年坊主が映っているはずだぞ。きみはあっという間にしっかりとそれを直していったんだ。お父さま、お母さまが客席でご覧になっていて忠告したこともあるだろうし、合唱団やOBの先輩方だってきみに耳打ちしたこともあるだろう。でも、そこに漏れたことも含めて様々なことに気づいて直していったのは、他でもない君自身なんじゃないのか?」
「……」
「行きなさい。お客様はどうせボーイソプラノというのは少年時代のわずかな期間の美で、声変わりを迎えたら消えてしまう魔法使いの呪文のようなものと思っている。でも、大切なのは『声変わりしたら歌えなくなる』というマイナスの予定調和のようなものじゃなくて、日々何を大切に歌うかということだけだ。将来も未来も、なるようにしかならないきみの人生だ。だったらボーイソプラノとして善く生きろ!きみは今、その素晴らしい団員人生の真っ只中にいるんだ。赤川エル!わかったか?」
男の子は、要は「今日の音程のブレは次回の本番もしくはレッスンまでに直してくれば良い」というOBからの猶予宣告と受け取った。彼が自宅でどんなリカバリーをしてくるのかは家族以外誰も知らない。伊藤が一番心配しているのは、彼の兄がそうであったように、6年生の団員になったとき、「受験のための休団」を許さないこの合唱団で中学年の頃に比べ明らかに歌への姿勢が疎かで二の次になることだけだった。都内の公立学校の児童にとって時代背景は「誰でも」というものではさすがに無くなったが、少年合唱団に息子を在籍させているような家族にとって「中学受験」はまだ一般大衆の条件の一つであり、子どもへの投資というよりは重要な消費行動と考えているような場面も見受けられることがある。

 赤川エルがソロを終え、自身のピッチの振れに当惑しながら身を翻し隊列に戻っていく場面を見て、男の子の手袋をはめたような真っ白い手に気づいた観客はソプラノ側の席で観賞していた人々の中に数名見られたと思う。このような上級生は普段ひな壇の上の奥で歌っており、客席からは彼らの胸から下があまり見えないからだ。両手をガウンの中へ隠していたり、手を後ろに組んでいたりして、そもそも団員の手が観客には見えないようにしている合唱団もある。手は男の子の内面を吐露しやすく、無邪気な表情の一部でもあるために、小学生男子のみの在団をうたう合唱団ではボロの出やすい見えやすい部分でもあるのだ。「手の内を明かす」は武道由来の言葉と聞くが、少年たちの合唱にも十分当てはまるように思える。彼が何を思って歌っていたのか、赤川エルの白い手はきちんと物語っていたからだった。
「エルくん、手の中にあるものを先生に見せなさい。」
本番開始の直前、少年は指揮者に見咎められ、そう言われた。
「ごめんなさい。歌に関係の無いものを読んでいました。すぐにポケットにしまいます。」
指揮者はデジャブのように感じたこの光景を頭の中から素早く払拭し、詰問した。
「先生の言ったことをして。だいいち、そのビラはもともとキミの胸ポケットにたたんで入っていたものでしょう?何のチラシか、見せてごらん。」
少年は声出しやゲーペーの合間を縫って、文面の第4章「国民として」の半分までをすでに読んでしまっていた。少年合唱団員のワイシャツの胸ポケットは、ブレザーのチーフポケット同様、ただの飾り物だ。ハンカチやMC原稿の類(ただし、本番中にMC原稿の紙を取り出して読むことは厳禁とされている)はズボンの利き腕側のポケットへ入れるよう指導されている。何かに引っ掛けて破いてしまったり手を突っ込んだりしないよう、そもそもポケット自体を家で縫いつけられてしまっているというような団員もわずかながら存在する。団員がこうした団規に反して何かの紙を突っ込んだままガウンを羽織って控え室を後にする様子を指揮者は決して見逃してはいなかったのだ。
「文体も語彙も構成も平易だが、きみはとても難しい文を読んでいるよ。少なくとも、大学ぐらいの教育を受けている人でないと、この答申の言おうとしていることは理解できないだろう。」
「理解はできます。漢検3級なんです。」
指揮者は差し出されたビラの文面に目を通しながら、現在の少年がとてつもなく新自由主義的な立場でものを言っていることに気付いた。
「いや。そういう意味じゃない。これは非常に巧みに作られ、記された文章だ。だいたい、21世紀になり、少年合唱団に通って高い月謝や毎週の出演のアゴアシやチケットのノルマや衣装の新調代をお家の方に払っていただいている君らだ。しかも、身の回りに外国人の友達や同級生は何人もいるだろう?」
「います。」
「黄色い子も、黒い子も、銅色の子も…ムスリムやプロスビテリアンやヒンドゥーも。」
「わからない。…でも、外国人?の友達はふつうにいます。」
「院とかお茶の小学校に通っている団員も普通にいる。」
「先生、それってソプラノのショショっち君たちのことですよね?」
「ここに書かれていることが、あまりにも日常の光景になってしまったんだ。20世紀の終わり頃、君たちの先輩たちは、パソコンのある学校なら小学校高学年でもコマンドラインのパソコンを動かしていた。当時、小学生たちは学校でLOGOといったプログラミング言語のコマンドを1文字ずつ打ち込んでグラフィクスを操作していたんだ。1文字でも違えば、何も動かない。コロンがセミコロンだったり、ダブルクオートがただのクオートだったり、ブランクをたった1箇所入れ忘れたり、ツノ括弧がうっかり1つだけマル括弧だったりしただけで動かない。『みぎへ』というコマンドを『みぎえ』と打ち間違っても、パソンコンは今の機械のように『”みぎへ”ではありませんか?』とは教えてくはくれないし、ビープ音なんて出るわけもない。正しいコマンドが入力されるまで、結局何も起こらないんだ。先輩方は、だから『動かない』と思ったら、必ず自分の打った膨大なコマンドを徹底的に見直して、間違い直しをした。彼らはよく『バグを直す』と言っていたよ。だが、パーソナルコンピュータは、それを秘匿し掩蔽するようひたむきに発達し、改良され、普及してきたんだ。21世紀の君たちには到底考えられないことだろう?エルくんだったら、学校のコンピュータが途中で動かなかくなったらどうする?」
「リセットします。」
「うーん。そうだろうなぁ。」
「先生…ところで中教審答申の中教審というのが『中央教育審議会』というのは、ここに書いてあるんでわかったんですが、『答申』って何でしょう?」
「漢検3級じゃなかったのか?『答申』というのは、行政機関から頼まれたことについて意見を述べたりすることだよ。つまり、自分の考えを目上の人に申し上げる……」
「…先生?何ですか?」
指揮者は『答申』の文面に目を落としたままコマンドラインを打ち間違った16ビット・パソコンのように動かなくなった。
「え?…」
そこにはエル少年が駅前で練り歩きながら読んでいた冒頭の一文が記されていたのだ。

 以下に述べるところのものは、すべての日本人、とくに教育者その他人間形成の任に携わる人々の参考とするためのものである…


 少年合唱団員のステージ上の姿にはおおよそ2つのタイプが存在する。いずれも本人はきちんと立って歌っているつもりなのだが、表情があり多動な印象を与える少年と、口とブレス以外の身体が全く動かないという印象を与える少年だ。どちらの子どもも妥当な評価を得て今日も歌っている。赤川エルは明らかに後者で、水盤の上へ投影される鏡像のごとく彼のステージ上の立ち姿は静止したままだ。演奏会の開演と終演で、その立ち位置は悉皆1センチメートルも動いていないだろう。下肢が半ば膝を突き出しているのかと思えるほど少年の重心は低く、息継ぎは曲の緩急にかかわらず静謐で的を得ている。贔屓の観客たちは、だから彼のその姿を吸い寄せられるように黙して見つめ、毎回の出演が終わる。赤川エルを知っている周囲の人々の誰もがそれを心得る。だが、彼の視線は他の少年たち同様、演唱中も僅かに振れている。そう見えないのは、彼の睫毛が下垂して確かな丈を持ち、薔薇色の虹彩を左右には決してスイングしないからだ。指揮者の挙動を見据え、ステージの床を舐め(これは、予科の暫くの間、顎を上げて歌う癖があったのを矯正したときの名残りなのだ)、ほんの時たま(1ステージに1・2回程度)劇場の3点吊りや客室照明を見上げる。頭髪は黒くゴワゴワとしていて光艶が無いので2サスを反射する面積が狭く頭蓋の動きを伝えにくい。それゆえ、客席の人々は彼のキャンディー・アップルのような真紅の口唇の開閉に魅せられ、口の動きをひたすらに見つめ続けることとなる。

「先生!この組み立て済みのBB-8が入ってるってくらい大きな箱の山は何ですか?」
仏画の大額に孕んだ蛍光灯の光の線が、控えの間の折り畳み机の上にこんもりと置かれたダンボール箱の陰に遮られている。
「クール便(冷蔵)でさっき届いたそうです。」
マネージャー先生がそう言うが早いか、少年たちはそれがもしや自分たちへの出演料代わりの「ご褒美」であったら良いのにと発生から未だ10年ほどしか経っていない前頭葉の眼窩前頭前野で考えた。今日すべての演唱は終わり、子どもたちは団規に定められた通りのユニフォームと着こなしのまま球形ロボットが格納されていそうなほどオーバーサイズな白い冷たい箱の山を取り囲んで喋っている。
「先生、宅配の方も、驚いていらしたみたいです。慶弔に合わせて引き物や引出物をお寺さんに送られる方は多いみたいですけど、クール(冷蔵)の量が…」
「いや、宅配の人たちは社会生活の様々な場面で総合物流機能がサポートしているということに誇りを持っている。で、ナカミは何でしょう?」
分別も常識もそこそこに有る選抜組の子どもたちは、着荷物に高温超電導の液体窒素に満たされたレジスタンス軍側に付いたアストロメカドロイドを切望しているわけではなかった。
「先生、そうです!運輸の使命に徹して社会の信頼にこたえることが宅配業の人たちのほこりなんです!」
5年生社会科の「工業生産を支える」の調べ学習で陸運業カルタを作ったアルトの五十嵐少年が尊大に話へ割って入った。
「同感、同感、太田道灌!それでこそ皆様の暮らしの寄る辺に…with Your Lifeってわけだよね!」
伽藍鳥マークの付された伝票を眺め徒口をきく6年ソプラノを押しのけて背後から赤川が「品名」の欄を確実に読み取り、素っ頓狂な声をあげた。
「先生!なんか、多分、丸いものであることは合ってますっ!『バタークリーム・ケーキ』35コって書いてあります!」
何故に寺院の御堂コンサートの終演へ臨み、こんなものが?!

 贈答品は伝票の「ご依頼主」カラムと、箱のうちの1個を開けて皆に見せた指揮者から「家に帰るまで箱を開けるな!一緒に送ってもらった紙バッグを配るから、ひっくり返さないよう中に入れて、そっと持って帰るように!」と厳重なお達しがあり解散直前に出席団員たちへ渡された。
「だいすけ君!このケーキの箱はいつ袋から出す?」
「…お家に帰ってから。」
「お返事『はい』は、どうした?」
「はい。…はい、お家に帰ってから開けます。です!」
指導の任にあたる指揮者は念入りに、最も「人の話を聞いていなさそう」な3年アルト団員に声をかけて復唱させた。
「ご依頼主」の筆跡はくにゃくにゃぺったりの小学校中学年の男の子のものだ。
「コーちゃんってば、こんなこと、してくれなくてもイイのに。あれは緊急事態だったんだからサ。俺たち、誰も『タダ働き』させられたなんて思っちゃいない。…少なくともイガちゃん以外は。」
「ウルせぇ!この五十嵐さまはそんな狭い了見のボーイアルトじゃなかとばい!ま、でも、くれるって物は素直に頂きましょう!コーちゃんがせっかくクール便で送ってくれたんだもの…腐らしたり傷ませたりしたらいかんとでしょーが。ね、ユーリくん?」
「緊急事態」というのは、昨年のクリスマスコンサート・ツアー中、前触れ無き極端な豪雪がアウトレットモールに少年合唱団と買い物客を閉じ込め、孤立させた一夜。彼らはそれでも夜半にコンサートをやり、出演料代わりに自分たちがもらうはずだったスイーツのアソートボックスを避難してきた人々に気前よく配ってしまう。バタークリーム・ケーキの送り主「コーちゃん」は当夜のスイーツ詰合せのコーディネータ兼製作者のスイーツショップ一家の息子であり、また、少年たちからその誠意に溢れた「クリスマス・プレゼント」を贈られもした小学4年生の男の子だった。突然声をかけられたモリマ・ユーリはその少年の面影を一瞬想起していて返事を返さなかった。
「今日、練習場に送ったら日持ちしないから、直接ココへ送ったそうだ。これでようやく君たちへクリスマスプレゼントが届けられたと言って喜んでいたよ。しかし、いまどきバタークリームのケーキとはまったく昭和時代チックだな。」
団員たちは指揮者が自分たちに内緒でどこか別の部屋から少年へのお礼の電話を済ませて戻ってきたことを知って憤慨したが、思わず漏らしたバタークリームの件については聞き捨てならぬと食い下がった。
「先生ぃ!今、バタークリームって一番ヤバいスイーツ食材なの、知らないんですか?」
「どうせ、先生なんて金持ちだから『バタークリームが無ければエシレのケーキを食べればいいじゃない?』とか思ってんでしょ?」
「今、とっても流行ってるからコーちゃんがわざわざバタークリームでケーキを作って送ってくれたんですよ!昭和時代だなんて、先生ぃ、解ってないなぁー!」
「そもそも50年も前にバタークリームなんてリッチで『ナウい』もん、あるわけ無いでしょう?」
「バタークリームは現代のものですヨ!先生、50年も前には無かったんですからね!?」
指揮者は1960年代中葉の我が国の洋菓子店店頭ショーケースの中身を知らなかったが、成金化する直前の中国を旅した蛋糕店で買い求めたケーキの味はまさしく未だバタークリーム100%のものでしかなかったことを思い出した。かの国では今や新疆やチベットにでも行かない限りバタークリームのケーキなどお目にかかることは無いだろう。お礼状は合唱団で集めて送ることを少年たちに念押しして、クリームが融けないうちにと彼らは早々に「解散」の指令を受けて都心のコンクリート造の山門をくぐった。

 赤川エルはひとしきり歌い終え、仲間たちと楽しいひと時を過ごしたことと、今日一日自分の声を聞いてくださった人々を思い、心ゆるびて帰途についているところだった。行きがけと同様、彼の使っている私鉄は本日の団員の趨勢とは違うため寺院の最寄駅までも一人きりの行脚である。宗教施設の招聘で歌う演奏会の場合、比較的早い時間にステージのひけることが多く、まだ陽があることもあって上級生たちは各々保護者のお迎え無しで家路につく。だが、男の子は突然自分の小PASMOの所在を失念し、あわててズボンと胸のポケットをまさぐった。しかるのちICカードの代わりにつまみ出したのは、一葉のあのアジびら。右手にぶる下げた紙バッグの中から香り立ってくる甘い匂いを嗅いだ途端、彼はその文を今度は音読してみたくなった。

現代は価値体系の変動があり,価値観の混乱があるといわれる。しかし,人間に期待される諸徳性という観点からすれば,現象形態はさまざまに変化するにしても,その本質的な面においては一貫するものが認められるのである。

赤川エルは美しいそのナチュラル・ピュアなボーイソプラノで淀みなく本文を読み始めた。足元から時折漂い登ってくるスイートなフレーバー。その甘やかな風と声とが男の子の目前に迫る歩行者や暴走自転車や車輌から彼を巧みに遠ざけ、道を開いてゆくかのようにも思えた。舗道上の人々の行き来は交錯している。いずれも帰宅のため、けだし乗車する人、下車した人。団員はそんなことへの頓着はまるで無かった。その紙切れを裏返しながら、朽ちかけた明朝体の段組を左上から楽しげに読んだ。もう、それ以外何も目には入らない。駅は近づき、少年の道行の句点も近づく。文体も語彙も構成も平易で、決して難しい文ではない。少なくとも、漢字検定3級の小学5年生には、この答申の言おうとしていることは理解できるように思えた。
 目前に黒い影が迫ったのは突然だった。今度は知った人の匂いはしない。かろうじて見えたのは、じき暮れようとする陽の中で光る相手のLEDバックライトスクリーン・タッチディスプレイの蒼白い長方形の明り。黒い波は一瞬で少年の肢体をなぎ倒し、街路樹の蓋と彼の左半身が紙バッグの中身を寸時に押しつぶした。頭蓋の芯を打つ衝撃の中で赤川エルの思考はたちどころに麻痺していた。バタークリームの匂いと、彼の持つ通団カバンの合皮の擦れる臭気がふっと辺りに漂った。あとは少年の右手から抜け落ちた洋紙のビラが一枚、いまだ折り目を残したまま都心の乾いた風を受けてからからと路上を舞い、やがて通行人らに蹂躙され何処へと消えた。

(c) "The Image of Ideal Japanese" Ministry of Education, Science and Cultur, Japan. 1966.
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