Another Girl アナザー・ガール

May 15 [Fri], 2015, 0:57
▲ 団員らが揃って疑問を抱いていたのは、前奏無しの曲を何故2つ続けて歌うのかということと、「他の娘ができたんだ」という歌詞を執拗に繰り返す「Another Girl」という曲が何故こんなにも陽気でハッピーでポップなのか…という点の2つだった。

 少年たちがリハーサルのためにシモ手袖から舞台へ流し込まれたとき、タイトな燕尾の男がピーコック・クラウンに黒レースのレオタード・ダンサーたちを引き連れて、軽快なスウィングジャズのハイテンポなピアノ伴奏に乗せタップを踏んでいるところだった。

♪最早邪魔する者は、二人の目に入らない
 この世で一番好きなのは、
 ただすてきなダンスwith you

先頭アルトの上級生たち…モリマ・ユーリはその光景を見るなりシャツの襟に食われた左の蝶タイを直そうと楽屋から付き添ってきた中学生OBの追跡を振り払い、タップダンスの真似事でその場の床地面をカタカタと踏みしだいた。品川(弟)はもう十分に押しているリハーサルに一瞥をあたえつつ兄に持たされたウェーブ・ドラムのバッテリー電源を中指でさくりと押し、音楽に合わせスネア/キックのプログラムを呼び出して叩きはじめる。アオケン少年は地声に近いボーイアルトを絞り、思わず歌い出した。

♪ただダンスwith you
 一番好きなのは、
 きみと共にダンスすること、
 後は何も無い、今

ピアノは軽快なリズムを繰り出している。網タイツの女たちが体幹を左45度に振って少年たちの方へステップを踏むと、尻に開いた背負子の黒いフェザーがふわりと移動を停止した。予行演習であることと、ダンスチームの実年齢によることと、ダンスはあまりユニティが保たれていない。それでもセンターの男は彼の右側の女へにこやかに目配せをしてステップバックしはじめた。背後にはもう何年間も新しくなっていない甲虫類の書き割り。ダンシングチームは左足を軸に右の脚部を90度開いたコンパスのごとく回し、カエルのような肢が背中を向いた場所でいったん地に触れてかちりと音をたてた。カイナはフィンガークラップをちゃらちゃらと撒き散らして振れている。汗と汚れで剥がれかけた絆創膏を品川(弟)の頬から引きちぎった制服姿の中学生OBがまた一人、合唱団の隊列から離れ、指先のものを丸めて楽屋通路のグレーのゴミ箱へ捨てに行った。

♪最早邪魔する者は、二人の目に入らない
 この世で一番好きなのは、
 ただすてきなダンスwith you

タップチームはジョン・レノンの揶揄通り、胸元のモノをジャラジャラ言わせながらクロスした足をたわめている。ハンドクラップの両腕を開き、胸を振っている。ラジオ体操第2の「胸を反らす運動」よろしく両腕を広げて後ろを向き、彼女らが最初のポジションへステップを踏返すと、レオタの大きく開いた背中とネットタイツの後ろに走る黒いシームがあらわになった。終始にこやかに踊ってきたため、ステージエプロンすれすれで待ちぼうけをくらっている男の子たちも紅顔に表情を崩してそれを眺めている。ピアノ伴奏がボサノバ調から終止を叩けば、ダンサーらが身を返し、女という字の形に脚を統べてキメのポーズをとった。両腕はやや広げて…だが、「前へならへ」の形をしてポージング中のセンターの男に対し、手の甲を見せている女、掌を見せる者、グーを握っている者、ストップ!とばかり手を開く女…と、ここでもまるで統一感に欠ける。
「先生、押してます。早いところ歌っちゃいましょう!」
ソプラノ6年のパートリーダーが指揮者の横でアディダスフレームのメガネを光らせながら進言する。と、指揮者はまだ座面の温かいステージグランドの椅子に滑り込んだピアニストへ「音くれ!」のサインを送り様、子どもたちを山台に押し込みながら「ワン・ツー!はい!」と声をかけて、突然歌を立ち上げさせた。少年らのスタンバイに交差しながら撤収してゆくタップ・チームの女たちが汗をぬぐいつつ、上気と疲労の表情に戻っている。
 イントロ無し、ソロのリード無し。アルト団員の持っているウェーブドラムは次の「恋のアドバイス」で叩くためのもので、ここでは用いない。「♪For I have got…」の歌詞でいきなり切り出し、「♪…another girl」とレ・ファ#・ラ・ドのセブンスの四部合唱へ散開する。地域のケーブルテレビがこのチャリティーをCSRでオンエアするため、型落ちの無骨なカメラを会場へ入れている。カラー・コントラストの抑制された液晶モニターの画面に、センター上段でブレスをコントロールしながら次の歌い出しを待っている松田リクと、その右下でニコニコと2ビートのリズムを拾っている中井宗太郎が、指揮者の黒い背中とともに映し出されている。カメラの上面には養生テープを貼った上から几帳面な筆致で「2」と黒マジックの番号が振られていた。少年たちはゴスペルでしか歌わないこのリズムを身体で巧みに刻みながら、心の軸を上下に振り続けている。日本人小学生の体におよそ馴染みのない不用意な拍打ちだが、彼らは数年の歌唱経験からそれでも歌を明るく楽しげに繰り広げているのだ。カメラがカミ手側のドリーに切り替わると、手前で顎を上げて注意されることもなく咽頭を閉めて歌っている前江トーヤのカメオが映し出される。彼は指揮者に向けて「先生!ヤリましたね!」と不意を突くリハーサルの開始にニヤリと悪戯っ子そうな笑みを送っているのだ。だが、カメラマンは計ったように5秒間で同じ方向を抜きながらピントを背後の松田リクの方へ移してしまう。本番のオンエアで、このキッチュなカメラワークは援用されているのかはなはだ疑わしい。彼らの背後を、白いファーのエレガントな衣装を身につけた新たなダンシングチームがロココ美人のごとくコルセットに締め上げられたウエストを立て上げてモニター画面の中をシモ手へと引き上げて行った。
 品川(弟)は足手まといになり始めた電子パーカッションを足元に転がしておき、グレイッシュブルーのボーダーが入ったナイキのスニーカーソックスの右くるぶしでリムに触れ、存在を確かめた。この少年も、手前で起きている指揮者とメゾソプラノとの目配せを見て笑っている。その他のたいていの子は客席シモ手に現れた舞台監督らしい男の挙動に歌いながら目が行っている。アオケン少年はそれから足元を見て自らの衣装の着付けを確かめ、右方の松田リクへ視線を向けて何かの合図を送ってブレスした。曲がGセブンス>CのルフランからEセブン>Aと、教会音楽のような挙動の見せ場へと差しかかったからだ。明らかな長調と跳ねるような2ビートのリズム。少年たちは一見楽しげにウキウキとグルーブに歌っている。それなのに、曲はしばしばブルースの語法を繰って翳り、コードはストイックで真摯な音を聴かせる。すると前触れもなく、隊列右翼最下段の中井宗太郎が、突然表情を曇らせて歌うのを止め指揮者の傍へ進み出てきた。
「…先生。……。」
明らかに言い淀んでいる。
「なんだ?トイレか?さっき行っとかなかったのか?」
指揮者はメゾの子たちのシンコペーションのノリの良すぎるのを気にしながら、タクトを持つ方の手の腕の上から4年生に声をかけた。
「…いえ。MC原稿、とってきていいですか?」
「覚えてないのか?30分後には本番なんだぞ。大丈夫か?」
男の子は改めて指揮者の体側に平行し姿勢を正した。
「大丈夫です。…でも…。」
中井宗太郎のMCの文言は「I dig a pygmy by Charles Haughtry and the deaf aids!Phase one, in which Doris gets her oats!」だった。クイーンズイングリッシュらしいのだが、英検4級の彼にとって厄介で高すぎるハードルという内容の仕事とは言えないだろう。
「お守りみたいなものか?無くても言えるが、無かったら不安…。先生も気持ちがよくわかる。」
中井少年は、その言葉を裁許の意思表示ととった。男の子はまず指揮者の体の前を迂回しようとしてステージをホリゾント側に見て、ぎょっとして足を止めた。
「最後列メゾ!もう一歩後ろ!前に出すぎてるだろう?もっと後ろに下がれ!」
目前の男は二分の二拍子を振りながら怒鳴っている。中井自身への指示はすでに終わったことになっているらしい。怒鳴られた団員たちは抑えられたホリゾンライトの中へ吸い込まれるかのように歌いながら恐る恐る後ずさりしていく。目を見開いて怯懦する少年の目から彼らの中途半端に更衣したユニフォームと鼻から下の図像は既にメゾソプラノの人垣に隠れて見えなくなっていたが、頭の先だけはそこに浮いていた。「あっ!危ない!」と彼は叫びかけて思いとどまった。メゾソプラノにはとりわけ背の高い、変声途上の団員が縦にも横にも伸長し何人も残っている。4年生には恐れ多くて口をきくのも怖い大きな先輩方ばかりだが、下級生を友達の一人や戦友として扱い接してくれる6年生たちも、5-6年生団員と差別なく公平に一人の団員として扱ってくれる人もいる。だが、彼らはそこで一斉に空中浮遊をしたまま歌い続けていた。

 モリマ・ユーリはこの曲の冒頭の音から全く声が出ていない。最初は四分音符の上のEで、次がDで、次が上のドだ。ごまかしながら歌っているつもりだが、嗄声に似た途切れがちの声で、これは「合唱」に与する響きに近づいているとは言えない。昨年まで経験もしなかった出来事だが、周囲で声を重ねている低音の下級生団員たちが急に自分の方を見て何かを確かめようとすることが多くなった。2分間ほどの曲である。そのうち自分はどのくらいの時間、合唱に参加しているというのだろうか?リハーサルの曲はスイートな音色のリードギター・ソロを移植した後奏ピアノを引きずって次のナンバーへと進み、タイムアップで先生方の協議の開始と相成った。
「先生…新町くん、どうなさいますか?」
少年たちは小声でなにやら雑談を始めていたが、最初誰もその頓着に留意していなかった。新町少年のポジションチェンジは公演のたび日常茶飯の出来事なので、指名された本人と入れ替わりを命じられた団員の2人だけがもったりと立ち位置を交換しはじめた。
「またですか?」
「だって新ちゃんの次に背が高くて同じ学年なの、今日はあなただけじゃない?」
新しいマネージャーさんは試用期間を終えていて子どもらへの物言いに遠慮が無い。「新ちゃんの次に背が高くて同じ学年」と目をつけられた少年の身長は新町くんの肩のあたりにも届いていなかった。さすがに彼は抗った。
「だったら、最初から新坊の場所を前にしときゃいいじゃないですか?ソプラノだからって馬鹿でかい3年生のボンクラがわざわざ後ろの列で歌ってる必要なんか無いワケだし。出演のたんびに実力と身長を見られて場所交換させられる者の身にもなってくださいよ!」
「馬鹿でかい3年生のボンクラ」と揶揄された団員は真っ赤な唇をした星の王子さまの成れの果てという風貌の絶世の美少年タイプ。いつもなぶられる愚弄なのか、彼は表情ひとつ変えず、指示された下段のポジションへ収まった。
「どうせオレたちとか、新公の影で客席から顔が見えなくてもどうでもイイんでしょうけど…。コイツの顔めあてに来るモノ好きなお客さんたちが喜びゃ、先生方もさぞかしご満悦ってもんでしょ?はいはい。」
視界を遮断する大柄な3年生の左肩の影から半身を覗かせて、男の子は口角泡を飛ばして意見した。
「新町くんって、もう6年生と同じ身長なんですよ。あと半年したら声変わりするかもしれない。あなたの声変わりは何年後のことなの?このぐらいちょっと我慢しなさいよ。」
「だって、声変わりなんかしてなくったって、コイツの歌声なんかもともと全然聞こえてないでしょ?ズータイが大きいからトコロテンで本科に上進してきてるだけじゃないですか。バカ新なんか、早く声変わりして居なくなっちゃえばいいんだよ!まったく!新撃の巨人野郎!」
主任指揮者が、舞台関係で次々と持ちかけられる決裁事項に応じて忙殺されているため、この悶着は最後までモリマ・ユーリのいるアルト最右翼までハッキリと聞こえてきていた。「声変わりして居なくなっちゃえばいいんだよ!」と毒づいている下級生の一言が彼の心を捉える。…声変わりすれば、もしや卒団できたりするのだろうか?

 中井宗太郎はシモ手袖への退避際、こっそりと列を離れ、ひな壇の最上段裏側の見えるホリゾンへ入り込もうとした。ステージグランドの横から入ろうとすると、そこにはまだピアニストが頑張っていてどこかへちょろちょろ行ってしまおうとする本科初年生たちを看視している。仕方なく彼は下級生の尻を叩くようにして撤収を始めていたモリマ・ユーリに目配せを送りながらアルト側から山台の裏を眺めに行った。一見して、そこには特殊な機構も建て込みも見当たらない。5-6年生の男の子が二歩下がれば、そこから容易に足を踏み外す見慣れた小ホールの普通のコーラルライザーのひな壇だった。彼がそれをしかと見届けてエプロン側に戻ると、そこではまだモリマ・ユーリが低学年の団員たちを「ほら!ほら!わかった。わかったから…!」と急かしながら「羊たちを寝ぐらに戻す牧童」のごとく最後尾に立って歩み出そうとしていた。羊飼いと違うのは、群れを追う杖のようなものを持っていないことぐらいだろう。他のアルトの団員たちは、面倒な下級生の世話を彼に任せて、早々に楽屋の方へ戻っていってしまった後。ユーリ少年が先ほどのアイコンタクトの意味を確かめようと口を開きかけている。
「ねえ…メゾの先輩たちが空中浮遊をするってこと、あると思いますか?」
4年生は真剣な面持ちで自分から問いをもちかけた。

 団員らが揃って疑問を抱いていたのは、前奏無しの曲を何故2つ続けて歌うのかということと、「他の娘ができたんだ」という歌詞を執拗に繰り返す「Another Girl」という曲が何故こんなにも陽気でハッピーでポップなのか…という点の2つだった。最初の疑問は、団員の中にいるビートルマニア一家の長男坊が簡単に答えを出した。
「あの…このアルバムって、UK盤の『HELP!』っていうのと、あ、これ日本で発売されたときには『4人はアイドル』っていうぴゃーっていうか、ナウなヤングのためのダサい名前がつけられちゃってて、いずれにせよブラックディスクのLP33回転で、…もちろんアメリカではキャピトル盤で独自編集の『ヘルプ(四人はアイドル)』ってのが出てるワケなんだけど、今回その話は横に置いといて、UK盤の方ね、パーロフォンの、これの中にこの2曲はこの順番で続けてでてくるってわけなんですよ。で、前奏の無い曲が2曲並んでカッティングされてんのは、多分偶然なんですわ。だって、映画の中で…このアルバムってサウンドトラックアルバムなんですよぉ、実は。それで、この2曲は全然違う場面で演奏されている。アナザーガールはナッソー・シーンで映画の後の方に出てくるし、恋のアドバイスはリンゴがスタジオに開いた穴から下の階に落っこちちゃうっていう前の方のシーンだから、もともと出てくる順番も逆だし、繋がってない。ちなみにキャピトル版ではですね、アナザーガールはB面の冒頭に…」
この少年の家族のつてで、合唱団はここ数年、応援農家のご厚意から出演料代わりの袋いっぱいのサイズ色々、訳ありB級リンゴの現物支給があるだけのこのチャリティーコンサートで歌ってきている。ビートルズナンバーだけという条件がある全くのボランティア出演だが、B級品とはいえお礼の 品の味と歯ごたえと甘酸っぱい匂いは格別で、保護者たちの人気も絶大だった。
「どうして『他の娘ができたんだ』って曲なのに、陽気でハッピーなのかって?…そりゃ、ポールにリードギター持たせりゃどんな曲もウネウネっとしてチョーキング<弦が自由に伸ビマス、伸ビマス!>状態っていうんですか?いや、結論から言うと同じ人だから変わんないってコトが言いたいんだけど、この曲と『涙の乗車券』とか、もうポールのくにゃくにゃリードギターのドクダンジョーっていう感じで…」
周囲の少年たちは2分間ほど彼に喋らせてみたのだが、この曲の「別れ話の陽気さ」が一体どこから来るものなのか、ついに分からずじまいだった。

 モリマ・ユーリは撤収を阻んでいたアルト所属の3-4年生を引き連れて、先程から客席シモ手側中程にかけて歌を聞いている親子に話をしに行った。ワッペンにフィッシャータイガーをあしらった風変わりな紺ベストを着て、きっちり折り目の入ったフォーマルハーフパンツを履いている。襟から覗くネクタイ付きボタンダウンシャツの印象が可愛いのだが、それは中学年の子にしては彼が少しだけ小柄だからなのかもしれない。
「綺麗な声で歌えてた?どうだった?」
ユーリ少年が問うと、入団希望の男の子は「綺麗だった。」としっかりした地声で答えた。ほんの僅か嗄声を感じさせる甘い音色が混じる。
「何で聞いたかって言うと、上で歌ってると、自分たちの声がわかんなくなるの。どうしてだと思う?」
少年は正直にカブリを振った。
「他の子の声が自分の体で鳴るからなんだって。…自分の声じゃないから、そっりゃワカンないでしょ?だから。」
4年アルトが教えられた通りに言った。
「コーセー君の声がこれからアルトのみんなの体で鳴るといいな…。モリマ先輩、そう思わない?」
「アルト…って、わかる?右側にいる僕たちのことなの。」
周囲の子らが男の子に問う。彼は小さく何度か頷いた。真っ赤な頬に唇。チョコレート色のショートヘア。古い講談社絵本の外国童話の挿絵に出てくる美カワイイ少年の3D版といった風貌だった。ここへ来る前にアンパンマン少年合唱団の門を叩いていたのなら十中八九、イケメン・美声以外は決して配属されないという噂の「アルト」送りが決まっていたに違いない。
「コーセー君って、アルトかもしれないって、先生が言ってたよ。低い方の声を歌うんだけど、いい?僕たち、たぶんコーセー君といっしょに歌うんじゃないかなーと思う。」
彼らは口々に言って入団の勧誘をした。彼らはそのために指揮者から言われ、実は「入団後周囲で歌う団員の値踏み」を保護者にしてもらうためここへ送り込まれたことを知らない。
「ねぇ、コーくん…ちょっと質問してもイイかなぁ?あのね…さっき歌ってたアナザーガールって、『他の娘ができたんだ』って曲なのね。でも、何で陽気でハッピーなんだと思う?僕たち誰もわかんないんだよー!」
3年生が3年生らしく唐突に脳裏へひらめいた通りのことを口に出して尋ねた。モリマ・ユーリが質問者を思いっきり睥睨し、一行をなるべく早く合唱団控え室へ押し戻したいと念じた。
「うーん…アルトのみんながみんなの体で鳴らしたらわかるのかもしれないですね。」
男の子の返答に皆が頓悟して目を剥いた。
「煌惺くん!知らないのに、そんな良い加減なこと言わないほうがいいんじゃないかな!?ごめんね、みなさん。」
煌惺ママがぴしゃりと注意を与えた。バニラクリーム色のカラーレス・ツイードスーツから、ゆるゆるとトヴァが香っている。
「でも、お母さん、合唱団の誰も一回も『グッバイ』って歌ってなかったよ。これはホントのことでしょ?」
煌惺少年の下級生らしい素敵な声が自分の体の中でふわりと鳴ったとき、それが果たしてどんな瞬間をもたらすのだろうとモリマ・ユーリは右脳の裏側で考えた。

 ミッション系私立の小学校へ通う者は東京の少年合唱団の中には何人もいる。アオケン少年はモリマ・ユーリに春休みの自由研究で調べた「ガリラヤ湖北部集落の位置関係」論をたれているところだった。
「ベッ・ツァイダという場所もカファナウムという地域もゲネサレトというところも現存している。5千人にパンと魚を配った場所はベッ・ツァイダの丘だということもだいたいわかっている。ジョンは『夕方にそこから下りてガリラヤ湖に行き、カファナウムに船で渡り始めた』と書いている。絶対に…ゼッタイに腑に落ちないんだ。調べたら、2つの場所は「向こう岸」にあたる場所じゃないことがわかった。岸沿いに、湖岸沿いに西に3キロぐらい漕いだら着く場所でしかない。マークとかは着いた場所がゲネサレト(現テル・キンナロト)だと書いているけれど、それでもカファナウムの先で距離は6キロあるかないか。でもお弟子さんたちは船で行き、案の定大風が吹いてガリラヤ湖の真ん中まで流された…みたいなことをマークは書いている。岸沿いに戻ってきたのは多分夜の4時頃みたい。戻って来たことはその後の文でわかる。そうして時間を食って漕ぎ悩んでいるお弟子さんたちの船をイエス様は見た。どこからか?…そこでモリマ君に質問!遅れてベッ・ツァイダを出発したイエス様がもしキミだったとしたら、どうやって湖岸沿いの隣の地域に行こうとする?」
数検6級のモリマ少年は即答した。
「隣村なんだから陸を行くでしょ?直線距離ってヤツだよ。」
「わざわざ船で行こうとしたんだよ?何かわからないけど、問題があったから船にしたんじゃないの?山があるとか、道が悪いとか、山賊が出るとか…」
「じゃあ、飛行機で行くとかはどう?」
「西暦30年ごろのパレスチナには飛行機もLCCも無いよ。」
「わかった!イエス様は湖を歩いて渡ったんじゃないでしょ?!渡る必要が無いんだからさ!岸辺をバシャバシャかチャプチャプがベショベショ歩いて船に追いついたんだよネ!」
「そう考えるのが普通だと思わない?!追いついたイエス様を見て、最初『幽霊だと思ってお弟子さんたちは叫び声をあげた』ってマークは書いている。当たり前だよね、ウシミツドキに湖の岸を誰かが一人でビチャビチャ歩いているなんて…こ、怖ぁー!だから『私だ!恐れることはない』とイエス様は言った…って、聖書に書いてある。」
「真っ暗な夜明け前の岸辺から、船の中で疲労困憊しているお弟子さんたちに『恐れちゃだめだ!私はここにいる』って声をかけてやるイエス様って…!僕、イエス様がまたモーレツに好きになっちゃった!」
「『それで彼らは彼を舟の中に迎えようとした。すぐに舟は彼らが向かっていた土地に着いた。』と書いたのはジョンなの。すっごくドーリにかなっているでしょ?ありそうなことでしょ?」
「じゃぁサ、奇跡でも教えでも無い『ありそうなこと』の話が何で聖書に載ってるの?」
アオケン少年は少しだけ本番用に着付けた蝶ネクタイのきつさが気になったのか首筋に右薬指を入れて左右に掻いた。
「そりゃあ、『冷静に常識や道理をふまえて物事を考えないとビックリしちゃったりするからイケマセンよ』…ってコトじゃないの?」
「えー?!それって学校のお礼拝の時間に聞いた『水上歩行』の教えと全然違ってるよー!…ところで、アオケンくんの言ってる『ジョン』って、いったい誰?」

 パートカラーの蝶ネクタイをぱっちりしめてホール3階の「休憩室」という札のかかった12畳の和室に男の子たちは押し込められ、本を読んでいた。スタンバイまでの時間はあと25分ほど。例によって前に出演するグループの押し引きの具合でそのタイミングは大きく変わってくる。少年合唱団のような「その他大勢」の子どもの演者の宿命なのだった。通団バックを枕代わりに寝転んでジュニア新書を広げている上級生もいれば、近年進出芳しい電子書籍を眺めている団員も出現しはじめた。「読書」という行動に指定があるのは、彼らの「ゆとり世代」ど真ん中の先輩たちが、本番前の息抜きの休憩時間に礫川公園や都の戦没者霊苑やパルテノン多摩の煌めきの池にダイビングしたり水没したりした前科が多々あるからだった。右親指に穴の空いた紺ハイソックスの白茶けた足裏をこちらへ向けて伸ばし品川(弟)がアリスン・マギーの「ちいさなあなたへ」をぼんやりと繰りながら大きなあくびをはじめた。学校で注意されているのだろうか、彼は水色の表紙をこちらに向けたまま本で口を覆った。チョコプリン色の撓んだ頬が濡れたオペラ・カラーの唇の端を引っ張って背表紙の上へ覗かせている。向かいにかけたモリマ・ユーリは囁やかなため息をつきながらその一部始終を見つめていた。
「バカだね。だめだよ。おまえ、日本3大ボーイアルトの一人なんだろ?勿体無ぇ。日本に何人居ると思ってんだよ。ばーか!」
チョコプリン色はプリンの粘性そのままにべっちょりとユーリ少年に暴言を吐いた。ユーリ少年が日本で3本の指に入るのは、マクサンス・ペラン似の男前で、小学生の奏者が殆ど存在しないボタンアコーディオンの弾き手であり、それに至る長い来歴という複雑な事情があるからだった。
「だって、なんやかんやで3人目だよ。別にいなくなってもどうってコト無いじゃん…とか思わねえ?」
『日本一のボーイアルト』というのはラジオ局の少年合唱団やアンパンマン少年合唱団にも一人ずついて、モリマ・ユーリと品川(弟)は物好きなママさんたちと結託し日本庭園のミニ演奏会やクリスマスコンサートをこっそり観に行ってどんなに素敵な少年が歌っているのか真偽のほどを確かめてきた。下調べらしいことを何もしていかなかったにしてはどのアルト団員が「日本一のボーイアルト」であるのかは一見して判別できたというのが一行の最初の開眼だった。
「どっちもメガネかけてんじゃん。」
品川(弟)の後追いの感想は母親たちを見事に意気消沈させたが(どこの合唱団でも眼鏡使用の男の子はごく普通に多人数存在するのだ)どちらの「日本一」もそれぞれの少年合唱団のカラーをきちんと具現して歌い続けていることだけは強烈に看取した。気品と颯然さ、ブレスに姿勢にイケメン度、美声!少年合唱団員たるもの、声が美しくカッコ良くないことには話にすらならないのである。
「オレ、何かさぁ、ちょっと声が変わってきたんだぜ。」
「知ってるよ。ウルサイ!毎日隣で歌ってりゃ分かるわい!先生っ、モリマ君がおしゃべりしてまーす!」
彼らはもう5年間以上も互いの声を聞きあいながら歌ってきたのだ。
「先輩たちって、どうして明らかに声変わりしてんのに楽しそうに歌ってるんだろう?」
「何か、カンケー無いんだってさ。どうせ自分の身体で鳴ってるのは周りのみんなの声だから。でも、それがすっごく楽しいんだってさ。アルトでソリストとかじゃなければ、余計にそうなんだってー。オレは自分の声が一番響いたらいいなぁーとか4年の頃までは思ってたケドね。声変わりが始まらないと、周りの子の声が自分の中でガンガンに響く合唱の醍醐味はわかるようにならないって、ガキ扱いの口調で兄ちゃんも俺に言ってたけどね。」
「ふうん。」
品川(弟)はさらに掠れた声で言葉を次ぎながら右のソックスを引いた。破れたつま先から白く薄汚れた親指の爪が顔をだした。
「でも、歌ってる先輩たち自身は声以外どうせ何も変わらないんだからこっちとしてはどうでもイイんだけど。でも、楽しいってんだから合唱団辞めること無いんじゃないの?」
「そうかねぇ…。」
「そもそも、団規で辞めらんないでしょ?途中退団はお引っ越しと病気だけしか認められない。声変わりは病気じゃないでしょ?ポリープとか心因性吃音症とか、そういうのじゃないと…」
「おい!品川(弟)、いつまでベチャベチャくっちゃべってんだ?!ホンバンでろくな声が出ないゾ!黙れ!」
部屋のとば口から男の説諭の声が飛んだ。チョコプリン色の少年は右ソックスの口ゴムに手の親指を突っ込んだまま固まった。
彼らは卒団するその日まで、今後変声による退団の話をかわすことは無いだろう。

 地域の少年合唱団の場合、小ホールのトイレは客室共用でユニフォームのまま廊下ロビーを走る事も多い。低学年アルトの子たちを先に行かせ、迷子になる子が出ないようモリマ・ユーリは後からゆっくり大股で出演前の用足しに歩き始めた。
「モリマっこり先輩、さっきのあれ、ヤバいんじゃないですか?」
アルト途中入団の五十嵐少年は背後からこっそりと人払のごとく一応周囲を確認して声をかけてきた。
「品川(弟)先輩ってね…」
「なんだよ、トイレじゃないんだったら来るなよ。オレらが戻ったら先頭ですぐ網元に入らなきゃなんないんだぞ。」
言われた男の子の鼻の頭がロビーのダウンライトにテカっている。
「品川(弟)先輩なんですけど、ユーリ君の声変わりが始まってから、加藤先輩とかムッちゃんとか妻鹿先輩たちに一人一人『変声したのに何でいつもそんなに楽しそうなんですか?』ってわざわざ聞いてまわってたんですヨ。」
「ウルセぇな、とっとと元に戻れってばよ。」
「それなのに、さっきは品川(弟)君の方が、先生に『いつまでべちゃべちゃくっちゃべってんだ、黙れ!』とか注意されちゃって、いいんでしょうかぁねぇ?モリマっこり先輩のせいで叱られちゃって…」
「あいつは品川(兄)君のナナヒカリで先輩たちに口がききやすいんだよ。ただそれだけ。オシッコもウンコもしないなら、さあ、帰った帰った!」
今年のアルト声部には2年生の団員が4人、3年生の団員が3人もいる。モリマ・ユーリの本番前最後の仕事はこの7人をトイレから迷うことなくシモ手前室のようなところへ帰還させ、ズボンのチャックと走ってだらけた靴下と縦8の字になったボウタイを直し入場隊形に押し込んで戻すことだ。上級生のアルトたちはこれより少し前にトイレを済ませておくか、水分補給をきちんとコントロールして楽屋入りしているか、そんな心理的余裕など全く無いかのいずれかで、話題の品川(弟)は本番前にはトイレを済ませないタイプだった。
「わかった、イガちゃんありがとう。オレはチビたちの面倒があるから、先に帰ってていいよ。品川(弟)には謝ってお礼を言っておく。」
ユーリ少年は一転別人のごとく口調を柔和に金棒引へ礼を言った。息急き切って走って行った3年生が2人、早々に「コト」を済ませ、ブレザーの腰に手の甲をなすりつけつつこちらへ駆せ戻ってきた。
「コラ!コラ!あんまり急ぐなって!そんな走ったってナンも変わんねぇよ。痛い思いするだけ。だからぁー!」
嗄声の目立つボーイアルトは自分と五十嵐少年の間隙を旋風のように走り抜ける後輩たちに声をかけながら考えた。

 ルフランに聞く「アナザー・ガール」の他パートのメロディーはどれも明るく温かく、良い匂いのする旋律ばかりだった。自分たちの歌うアルトの節回しは「ジョージ・ハリスンの声質にすごく合っていて『青臭さと仄暗さが有り、低めでエキセントリック』なもの」だと第2メゾ所属のビートルマニア一家の長男が嫉妬混じりの口調で言っていた。2メゾはルフランの最後のdivisi記号の振られたほんの2小節を固有に受け持つだけなのだ。だが、これら4声部が組み合わさった途端、途轍もなくほろ苦く甘美で深い音色になる。謎は深まるばかりだった。
歌うときの列は小ホールのライザーに合わせた密集隊形で、左右の団員の肩は微妙に重なって歌っている。ソプラノ側は自らの左肩を左隣の少年の右肩の後ろに、アルト側は自らの右肩を右隣の少年の左肩の後ろに。こうすることで横の法だけは微妙に稼ぎ、隊列の幅をコンパクトに収めることができる。ただ、少年たちは度重なる経験から、「この方が横の子の身体に自分の声が響くから」であるとか「前の子の背中には段差があって声が反射しないけれど、横の子の肩には反射して自分の声が聞こえるから」とか「重なっている場所で声が横一列に繋がるから」ということを繰り返し言っていた。
モリマ・ユーリはピアノ伴奏にゆらゆらと絡み付くリードギターのチョーキングを模した装飾的なフレーズを耳にしながら、それをインタラプションの合図のように利用してブレスのタイミングをはかり、歌い出していた。彼らはグレースノートを知らなかったし、グルーヴという言葉も分からなかったが指導者の教えも原典の演奏も何も聞かないまま伴奏のリードに従って楽しそうに歌っていた。今日の彼の右隣には品川(弟)がいて、重ねたブレザーの肩の向こうでは

♪いついかなるときも彼女は常に僕の友

と歌っている。そして彼は視線の延長線上シモ手側客席に煌惺少年の親子の姿を認めている。入団希望の少年の小さなルビー色の口唇からは「♪アナザー・ガール」という歌詞を歌う口形が繰り返し見えていた。だが、彼の言った最後の一言がモリマ・ユーリの心にループして帰着する。「good byeとは一言も言っていない」と。客席の男の子は笑んでいる。モリマ・ユーリも釣られて笑む。すると煌惺少年はなおさらキラキラと大きな瞳を客調の落とされた暗がりの中で輝かせ、大きな口を撓ませて笑った。「入団希望」のフラグが「少年合唱団へ在団」に付け変わった瞬間だった。そして日本三大ボーイアルトが、客席の少年と繋がって共に歌った一瞬。今までの彼にこんな経験はあったのだろうか?合唱団員の視線は薄明の岸辺から弟子を見やる救い主の慈しみ充溢する眼差しと見事に重なった。「怖がることは無い。僕だ。」と彼は自らに語りかけた。

 小ホールでボランティア出演が次々と繰り出される当夜のような場合、出演者はシモ手から登場し、カミ手側へハケる。元来た袖へ戻ると演者が幕内でバッティングするからだ。中井宗太郎はいつもの公演のいつもの退場と同じ無表情のちょこまかとした歩みでアルト側の団員の背中に追従しステージを後にするところだった。「I dig a pygmy by Charles Haughtry and the deaf aids!Phase one, in which Doris gets her oats!」…少年の今日のMCはズボンの尻ポケットにしのばせておいた原稿のお陰で滞りなく終わった。叫ぶような男の子の通りの良い声で、途中で文脈に気づき笑い声をたてた観客もいた。だが、コンサートがチャリティであることを承知で好んでやってきた観客たちは、そのセリフがリヴァプール出身の4人組のロックバンドの瓦解への最後の道行きの嚆矢であり発端でもあることを知っているので、男の子の流暢な地口を黙って神妙に聞いていた。中井宗太郎はそれでもセリフが言えたことだけに甘心があったので撤収の足取りは軽く平静だった。彼がコンパクトな合唱ライザーのアルト側の端を歩き出した途端、ホリゾン側から背の高い台のようなものが3台ほどに別れ台車に乗って彼らの向かうカミ手側袖幕の中へ飲み込まれはじめた。中井少年は大層驚いて、袖幕の中へ走り込んでから山台を押しているステマネさんらしい若い男のところへ行った。
「台車にストッパーかかってるし、簡単に結束したから動いたりしなかったろ?ガードレール付いてないから怖かった?」
成長した福助遊休の成れの果てというほど唐突に腕組みした姿勢になって男は言った。
「あの…いえ、これ、何なんでしょうか?」
袖幕の中の中井宗太郎はハーフシャドーのそのまた明度の低い顔色で男に尋ねた。
「コーラルライザーの後ろにかますんだよ…本番の時だけ。ホリゾンぴっちぴちにライザー詰めて立てつけると、それより前に出演してる人たちが山台の裏を通れないそうだ。キミらが歌う直前にこれをホリゾンに突っ込んで一番上の段のフミヅラを広げてたんだぞ。分からなかった?上の子たちが浮いてると思ってたの?…小学生ってホント面白いこと言うね。神様かい?」
福助遊休の成れの果ては薄汚れた黒っぽい服の袖口を揺らし笑った。

 ツヤツヤと瑞々しいB級品は高学年用ソフトボール以上の大きさがある。皆の袋の中からはどの品種が立てているのだろう、美麗で禁欲を組み伏せる甘酸っぱい優しい匂いがする。モリマ・ユーリはゴールデンと印度の合いの子の青りんごに今にも歯を立てそうになっていた。輝度の中に吹いた斑点が食欲をそそる。この合唱団の子どもたちはみな出演の後、必ず水分を摂りたがるのだった。
「ほら、サビっちゃってるだろ?とっとと食っちゃってくれってリンゴが言ってるぞ。」
垂涎の表情で果皮を見つめやせ我慢しているユーリ少年を見て、無償で出演料代わりのリンゴを提供し続けている農家のおじさんが言った。変色部分のあるリンゴの味が総じてほとんど劣らないことをもう何年もここに出演してきた少年たちは知っている。
「声変わりして合唱団を辞めるような奴は今後ともリンゴを食う資格はありませーん!」
余程物欲しげな顔に見えたのだろう。品川(弟)が通団服に着替え終わったさっぱりとした体側でモリマ・ユーリの左腕に一撃を加えた。
「黙れ!声変わりしてもオレはオレなの。声変わりした新しいオレもリンゴは食うんだよ。」
ソプラノのグループ周辺では先ほどから何やら悶着が再発生中。
「先生ぇー!新町くんが出演料のリンゴもう食っちゃってまーす!」
「勝手に食うなよ、新町の巨人!」
「最近の3年坊主は我慢ってモンができないのかよ!」
団員たちはおっとりハイパー美少年の新町くんの挙動にどうしても目が行くようだ。
「はい、新ちゃんサヨナラー!カワイソスー!」
「バ・ハ・ハーい!…古ぅ」
モリマ・ユーリははちきれそうなゴールデンと印度のハイブリッドを見ながら果肉の抗う極めて美しい歯ごたえと脳天を突く甘酸っぱい汁気を想起した。カチカチとシンコペーションしグレースノートを引っ掛けながら続いてゆく旋律が心地よく海馬に満ちて、彼はそのまま

♪ I ain't no fool and I don't take what I don't want for…

と歌い出すなり、氷山の大規模な飄落のごとく合点に思い至った。
「ねぇ、『アナザー・ガール』って「他の娘(こ)」ってコトじゃないんだよ。だって、サヨナラとは言っていないし、嫌いな子にする<次の子>の説明にしては丁寧でバラ色で楽しすぎるんだ。次の子は、その子なんだよ。お別れの曲じゃないんだ!大好きなキミは明日はそういうステキな娘なんだって、繰り返し歌ってあげているんだよ!」
第2メゾ所属のビートルマニア一家の長男が、袋から取り出した売り物にならないスターキングデリシャスを通団服の裾でキュッキュと磨きながらいい加減に応じた。
「だからー!『同じ人だから変わんないってコトが言いたいんだ』…って、色んな所で何回も言ってんじゃん!バカにしくさって誰も聞いちゃいない!まったく!」
無理やりあぐらをかいた男の子のソックスのパイル地の底から、ほつれたループが2本、千切れて飛び出ていた。

℗ 2009 EMI Records Ltd
©1965 Sony/ATV Tunes LLC.

Yesterday イエスタデイ

April 15 [Wed], 2015, 23:02
▲今から50年も前に録音されたイギリス人4人組ロックバンドのラブ・バラードを下は7歳からいる半ズボンをはいた男の子たちが「♪昨日まで、愛はゲーム遊びみたいなものだった…」とクイーンズイングリッシュでこまっしゃくれて歌うのも、すべてその年齢層の「聞いてくださる方々」の心に応えんがためのものだ。


「トムくん、楽譜、貸してくれないかな?」
「はい。いいですよ。」
ステージ要員としてみっちり訓練を受けている少年たちは、小学生と言えどもきちんと返事をかえしてくれる。富田君はロビーの壁際に投げ置かれてあったそろいの通団カバンの中からたやすく自分のものを判別してとりに行った。年季が入ってくたびれかけたバッグの中からフラットファイルごと楽譜を引っぱりだしてきてこちらへ差し出す。
「『録音技師さん』がチェックに使うんですって。…すぐ返すから、これコピーさせてもらうね。」
わさび色のファイルから「からす」と「ほたるこい」を抜き出しながら言うと、
「マネージャーさん。楽譜のコピーは著作権法違反ですよ。」
と小学生にたしなめられる。コンソール用の楽譜は、本来私が用意してくるべきものだったのだ。
「じゃあ、トム君、悪いけど、これ、くれないかな?」
レコーディングが膠着状態に陥りテイクが数十本にも重なると、とたんにミキサーさんの楽譜への書き込みが増えてくる。だから、録音現場の楽譜は「日本の少年合唱(男の子どもの合唱)」の収録に関する限り、とても「貸し借り」できるようなしろものではないのだった。
「あげてもイイですけど、この録音のCDとバーターというコトで。」
「…あなた、バーターなんて言葉、いったいどこで覚えて来たの?」
「マネージャーさんがいつも言ってるでしょ。…覚えたのはココです。」
…ああ、私か…
「わかったわよ。楽譜数枚でずいぶんボッたわね。見本品のCDをもらったらあげるから。トム君、お願い。」
「いいですよ。どうぞ。どうせ楽譜はスミからスミまでココにばっちしインプットされてますので。」
トム君は人差し指で自分の側頭をこんこんつつきながら通団服の胸を張って言う。大嘘つき!ホントにそうならここに集まった大人たちの誰も苦労はしないで済むのだが…。ただ、見本品のCDの件は覚えているに違いない。ノートにメモすべき項目がまた一つ増えた。

「アオケン君の音取りを見てやってくれませんか?」
先生方のおっしゃる『みてくれませんか』は、『してください。宜しくお願いします。』の意。マンツーマンの音取りは、彼が『選ばれし者』だから。例によって団員小学生男子たちが『お仕置き部屋』と呼んでいるアップライトの置かれたピアノ練習室に籠ることとなる。ドッタンバッタンと喧しい教室の真ん中で「アオケン君ゥーン!」とターゲットの名前を呼ぶと、3回目で教室隅に固まって手書きの遊戯王A・Vのバーチャル(?)デッキで遊んでいた4年生たちから「先輩は、『お仕置き部屋』でーす!」と返事がかえってきた。先に行って待つ気概は、さすが『選ばれし者』の彼らしい。

 練習室のトムソン椅子の傍に、男の子が2人立っている。シンメトリーに並んだその姿は、11歳頃で成長抑制ホルモンを投与され黄色人種化したギルバート・アンド・ジョージを思わせた。総員第一種戦闘配置態勢の5年アルトは両手に広げた楽譜を下ろし「宜しくお願いします!」と、先生方の依頼を復唱するような頼もしい言葉を発し100点満点のお辞儀をした。だが、もう一人いる団員は不用意の存在。
「譲治くん?君はソロのオーディション通ってないでしょ?そもそも『てんとう虫のサンバ』の音取りも『赤とんぼ』の二重唱も『♪セミ、セミ、蝉ミンミぃー』のソロも合格したこと無いじゃない?」
「マねえちャーん先生、そこを何とかお願いしますよ。」
本名で呼ぶか、せめて「マネージャーさん」ぐらいに留めておいて欲しいのだが、団員たちは近頃、私をそう呼んでいる。
「だめよ-、だめだめ!先生から『アオケン君の音取りをお願いします』って言われてるんだから。」
「でも、アオケン君がインフルとかで本番欠席になっちゃったら、アルトや2メゾでソロの下を歌える子は、誰もいないわけですよね。困りませんか?」
「困らないワイ。先生のことだから、ソプラノのソロ一本立ちか、曲自体を差し替えるかでしょ?心配ご無用。親切なお心遣い心から感謝だわ。」
「でもですねぇ、わたくしのような団員一人ぐらいがここに居ても、別に困らないと思うのですが。…ね?アオケン君?」
試しにと思い、頭から通常ルーチンで2人一緒に歌わせてみると、確かに「おまけ」の団員の方がしっかりと安定したピッチを保って歌いきった。初見の男の子のやりがちな「さぐり」の音がまるで見当たらない。
「すっごい!譲治君の音はカンペキだった。驚いたわー。しっかりと音が取れてる!まるで練習してきたみたいに!アオケン君もそう思わなかった?」
本来のメインゲストの方へ話を振って同意を求めると、「はい。上手でした。でも、なんででしょうか?」と優等生的な質問で返された。まったくである。
「うーん、だって、コレってポールの曲でしょ?」
男の子は審判のレッド・カードへプロテストするアタック・ミッドフィルダーばりの勢いでまくし立てた。
「ポールのベースパターンのコード進行なんか『ゲンダイのコテン』みたいなもんでしょ?アルトの次の音に何が出てくるかなんて、もうカタリツクサレてる。しかも、コーラス代わりの伴奏がゲンガクシジュウソウなんだから、ベースがいくら走ったとしても限度ってもんがあるわけで…」
さすがビートルマニアのファブ4一家長男の貫禄である。三歳上のお姉ちゃんのお名前は「洋子さん」というそうだ。以前、このことに関して「林檎さんという名前なのかと思った!」と揶揄したら「それは、妹が生まれたら付けようと思っている名前で、弟の場合は『蓮音(レノン)』」とのノミネートがほぼ確定しているという。ハリスンの命日(11月何日かだそうで、フーテンの寅さんのお誕生日と同じ日だと譲治君は誇らしげに言っていた…)には一家そろってバングラディシュ料理の「魚のカレー」をいただき、デザートにチョコトリュフをつまんで故人を偲ぶらしい(何故?!)。ポール・マッカートニーの音楽語法を寝言でも言えそうな一点集中博識な譲治くんが何故、ソロのオーディションにパスしなかったのかはご指導の先生お考えがあってのことなのだと思うのだが…。
 いずれにせよ、アオケンくん緊急事態の際のバックアップ要員としてキープしておいてはどうかと先生方の耳に入れておくことにした。…とりあえずこれが終わったらすぐ。

 ソロ低音の音取りが一通り完了し、何故か首をひねりながら出だしのフレーズをモゴモゴとさらっているアルト・トップソリストのアオケン君と、気分爽快、我が世の春とばかり自信満々足取りも軽いアンダースタディ候補(…になるかも未だ分からない)の譲治くんを連れて教室へ戻ると、すでに自分たちのパート練習も終わり、首席指揮者が事務室のソファの上で一服する間「待機」の指令を受けて待っている少年たちは、暇を持て余し、ミュージカル『アニー』のメインテーマを怒鳴るが如く歌っていた。
「♪朝が来ればー!Tomorrow!!」
先の定期演奏会の前、再三注意を受けていたのにもかかわらず、多くの少年たちは歌い出しの音韻を
「♪あっサがクレばぁー」
と、変な癖を付けて歌っている。ほとんど全く女の子だけしか登場しないミュージカルの劇中歌を「少年合唱団」が暇つぶしの座興とはいえ楽しげに歌ってしまうというのもどうなのだろう?アオケンくんたちはもうドア口から室内に走りこんで自席を目指し歩きながら、

♪ Tomorrow! Tomorrow!
..... I love ya! Tomorrow!

とガナりだしている。先ほどまでの一意専心は、もはや何処へやら…。しかも、子どもたち、このサビに来て一気にまさかのハーモニーだ!表情は図に乗っておふざけ100パーセントだが、パワフルなFコードの2部合唱に仕上がっている!普段の出演のステージでも、このくらいの明るい張りのある声で歌ってくれたらいいものを!
…と、手持ち無沙汰の私が思っているまさにその時、いつものように練習室の後方ドアを静かに押して首席指揮者さまが深煎レギュラーコーヒーの匂いをぷんぷんさせながら子どもたちのもとへとご帰還なされた。
「はい!はい!はい!少年達ちぃー!歌いかた止めー!」
いつものごとく彼らは条件反射的に歌うのをやめた。少年合唱団員の悲しい宿命である。
「…黒人で元ムスリムの男が大統領をやってるような国だ。今更モップみたいな大型牧羊犬の首に縄つけて引っ張って歩いてるWASP少女のミュージカル・テーマソングなんか歌ってどうする?!」
個人的には、なんか、あんまりな内容の発言だとは思ったのだが、団員たち、飼いならされたゴールデンとチャウチャウの雑種よろしく口を閉じたまま姿勢を正し、スタッキングチェアの奥に尻を押し込んで聞いていた。
「じゃあ、一回合わせてみましょう。…アルト・ソロの子は、音取り、終わりましたね?ソプラノのソロは主旋律だよね?もっち、バッチ・グーですか?」
冒頭ソロのショーアップはあっけないほどの簡素さとタイミングで終わった。先生方はさすがポストモダニズムの時代を生き抜いて来られただけあって、驚くほど多種多様な時代の流行語を使う。…バッチ・グー、ちょべりぐ、シティーボーイ、がちょーん!、あじゃぱぁ、アタリマエダのクラッカー、だっちゅーの!…そして近年追加の語彙の代表格は「お・も・て・な・し…おもてなし」。お客さまを前に少年らしい気概と爽快さで歌い演じることをナリワイとする合唱団の子どもたちに先生方は「おもてなし」というボキャブラリーをしばしば口にする。日本の少年合唱が、学校の音楽教育や社会的青少年育成の一環であった懐かしき良き時代は終焉のときをむかえて久しく、そうした旧いタイプのクワイアーは21世紀へ到るまでに小学生男子のみで構成される児童合唱団としての役割を早々に終えるか、OBたちの美しく青き思い出だけを残しすっかり消え去ってしまったかのどちらかだ。現在、都内に拠を構える男の子の児童合唱団はどこも情報発信とエンタテイメントの企業をバックグラウンドに据えているか拠って立つかのいずれかで、私たちの合唱団も例に漏れない。かつてのような「少年の健全育成を目ざす社会教育団体」としてのボーイズ合唱の運営であれば、開演時間10分押しで客席を待たせ、幕の内で先生方が直前指導を強行することも許されたのだろうが、時は流れ開演時間ぴったりに緞帳の上がるステージの内側で先生方の発するコトバは「おもてなし」である。たとえ緻密で完成度の高い秀逸な合唱を展開しようとも、お客様の心を置いてきてしまいがちな団体は早晩多局面から手詰まりになっていく。当団の先生方はこのため公演毎アンケートを地道に採り集め、ネットサーフィンでお客様方の反応をサーチしながら「おもてなし」の検証にはげむことに余念がない。今から50年も前に録音されたイギリス人4人組ロックバンドのラブ・バラードを下は7歳からいる半ズボンをはいた男の子たちが「♪昨日まで、愛はゲーム遊びみたいなものだった…」とクイーンズイングリッシュでこまっしゃくれて歌うのも、すべてその年齢層の「聞いてくださる方々」の心に応えんがためのものだ。
「先生!いたいけな僕たちが、『♪何故、彼女は逝かなければいけなかったのか。何も告げず』なんて愛の歌を歌ってもいいんでしょうか?」
あっさりと譜読みを終えて暇を持て余していたいたいけなソプラノソリスト12歳が準備完了のたのもしいお言葉の代わりに問うた。
「この曲は日本では今や文部科学省検定済の中学校の教科書にも載っている。高校の教科書にも。…中学での配当は3学年で、高校では音楽1だということだ。ラブ・バラードどころか、いたいけな少年たちなら全員学校で習って知っているような文部省唱歌みたいなものだ。お客様の半分はこの曲をソラで歌えると思っておいてほしい。…以上!覚悟して練習にはげんでくれ。」

 少年たちの練習は歌い出しの1小節目で早くもストップがかかって中断した。
「トムくん、どのくらいの速さで歌ったらいいんだろう?君ならどうする?」
本来は編曲者の先生が前もって決めておくべきことだが、「スロー・ロック」の味わいを知ってレパートリーに載せてきたその人がわざわざ子どもたちにそれを問うからには、何か言いたいところがあるにちがいない。
「歌詞はもともとの曲に付けられたものだから、もともとの曲のテンポと同じでいいんじゃないかと思います。」
男の子は渡された楽譜をせっかちにレバーファイルへとねじ込みながら片手間に優等生的な提案を返した。
「ビートルズが演奏した『イエスタデイ』のもともとのテンポはどのくらいだ?誰か知っている人?…はい、では、まさかの時の譲治くん。」
質問の展開の速さにやや圧倒され気味な団員たちの中、小学生ファブ4がもう中腰になってダイポールアンテナのような白い腕をピンと突き立てて指名を待っていた。
「先生、あのですねぃ、『大きな栗の木の下で』ぐらいだとちょっと遅くて、『歌えバンバン』ぐらいだとほんの少し速いだろうな…というくらいのスピードです。この曲、静かなバラードだけど、けっこう速いんですよ。」
練習室後方の加藤くんの垢くさいうなじ越しに、私が印刷して配ったはずの楽譜を覗き込んで見た。A3ペラの山おり袋とじの楽譜のどこにも速度記号やBPMを表す表記は無い。ビートルマニア譲治くんの「けっこう速いんですよ」のご注進は団員たちの浮ついた「全体練習」の士気にも、それを取り巻く私たちスタッフの心にもインプレッシブに響いたように思えた。譜面の表記と耳で聞いた曲のイメージがどしんと乖離して在るとき、子ども達はいつも発見の喜びと、それを調和して鳴る自分たちの声に誇りのようなものを感じるらしい。
「なんでもかんでもチャッチャカ歌うのが大好きな少年合唱団の諸君、そういうわけだから、ちんたらモッタリと歌わないように気をつけよう。」
最初のストップはこうして数分で解け、再び旋律が流れ始めるのだった。
 歌い出しの音形は「ト・ヘ・ヘ」。ソ・ファ・ファ…G・F・F…わずか3つの音の連鎖だが少年たちはかつて「虹と雪のバラード」のコーダに添えるこのほんの3音だけ「イエスタデイ」を歌ったことがあった。OBチームを擁する演奏会のクライマックスに少年たちはボカリーズでエンディングを絶唱し、最後に抑え気味にほんのひとくされ「♪イエスタデー」と声を添える。チクりと一言「シャレオツな外見を装ってはいても、しょせん昔(1972年の札幌オリンピックの歌だそうだ)じゃないの?」と最後の最後にナマイキな揶揄をするナンチャッテのためだけのわずか3音。そのとき私は「3音で終わっても、演奏時間4分59秒間でも、JASRACに払う曲の使用料は同じなんですからね?」と先生方にもの申したことがある。今思えば厚顔嵩高で恥ずかしい。

 ♪ Yesterday..

赤川エルくんのナチュラル・ピュアなボーイソプラノが微か短二度の音程で渡り、Fコードのバレーフォームを合唱団の少年たちがハミングで押さえながら支えて行く。スニークするアオケン君のボーイアルトはイーマイナー、エーセブンとちょっぴり宗教的な低音ソロを添えていた。旋律線が山型の峠を一つ越えると、ハーモニーは突然教会旋法的な色彩を帯びてくる。私は彼らのこういう歌唱場面に遭遇するたび、日本人の男の子の中にシルクロードを経て辿りついたDNAのようなものが確かに存在することに感づいてしまう。エルくんのソロは楽譜に記された通り、リピート記号で折り返したところから、小学5年生の終わりの心憎いほど頼もしい統御によって精緻に減衰し、合唱団の子どもたちの3部合唱に引き継がれる。彼はモンゴロイドの少年の桃色の体温とクリアアクリルのような柔らかい2つの目を柔和に滲ませながら、一度だけ指揮者の挙動に集中を引き戻した。アオケン少年は右手に持ったまだファイルされていない楽譜に一度だけ目を落とし、左手は一瞬制服の紺半ズボンの腰を掴んだ。先生は子どもらの初見の出来を「まずまずの想定内」という表情で聴いているように見える。私がビックリしてしまうセミプロの少年たちの合唱の歌声にも、指導者は表情ひとつ変えない。メゾとアルトの上級生が「先生からのストップ」の有無をチラリと確認し、Bメロに入って行くのがわかった。

彼らのチームは基本的に音域の狭窄した女声三部合唱であり、マッカートニーの作ったエレキベースの効くハーモニーを自力では再現することができない。アオケン君のような、<声質が生来のボーイアルトで、そのうえ先生方から「この曲はアルトがきみたちだから小学生の合唱団でもレパートリーにできるんだよ」と繰り返し真剣に説かれ、低い音で安定出力する鍛錬を小学2年生の頃から積んできている>少年たちが選び抜かれ、鍛え上げられて所属している。一人の声の練られ方やコントロールは当然のこととして、数人集まれば互いの身体を借りあって共鳴させることを「合唱の醍醐味」と大人に向かって真顔で能書きたれるような男の子らだ。それを1年間のインターバルも挟まず不断に作り続け積み上げてきた児童合唱団だから、多分、この泣きのBメロが高くアー以上の音で連なりヤマを迎えることができるのだと思う。ソプラノのチームはさえずるがごとくこの部分を歌っている。私が音取りのときから握りしめている右薬指・小指を強くつまみ起こして彼らの端に回ると、子どもたちの表情は本番開始のキューに目視を得た少年合唱団員の相貌そのものだった。松田リク君が下した右手をアルペジオの打鍵に開きながら花粉症のくしゃみをし、奥田ユーセー君は半分歌いながら乾いた声変わり前の咳を1つした。初見を終えたばかりの彼らは「♪wouldn’t say」に振られたカタカナのモーラがまちまちで「饂飩_セー」のように歌っている子もいるし、帰国子女やネイティブの子は「ウー、んン、せィ」とハッキリ発音している子も、また「ウードゥン・セー」と印刷された読み仮名に忠実な歌いの団員もいた。先生がたが今後のご指導で切りそろえてゆく未修正の部分でもある。Bメロの2つのフレーズの間にダルセーニョ1×という指示の振られた5つの音がdiv.アルトにあって、「どうするかな?」と見ていたら彼らはあまり楽譜を詳細に見ていないのか、見ている子もしっかりと意味がわかっているのか、誰も間違えたりはしなかった。合唱団はここで標識地点へとってかえし、冒頭の歌詞を歌い直す。ブリッジの1小節に付されたピアノ伴奏を待つ間、子どもたち隊列の中でただ一人、右手指を4本順繰りに通団服のズボンの裾脇の中空でバンブー材色の腿に引き当てようとする少年のいるのが見えた。彼は伴奏のピアノだけに現れるブリッジのひとくされをを初見できちんと頭に入れている。この練習が終わってから再開される「白いカーネーション」では本番用のピアノ伴奏の一部を担当することになっていた。
 ちょっぴり学術的なニオイのするコピーパターンのB/Wのアニマル・プリントがあしらわれたスタイリッシュなカラーT。もちろん少年たち御用達の鉄っちゃん柄も身にまとうが、カラーコーディネートがどこかシック。ボトムスはジオメトリックなレイヤーパンツ(下に覗いているのはさっぱりした5-6分丈のアースカラーのワッフル・レギンスとか…。極め付けはシブいオークランド・アスレチックスのキャップか、ソリッドのテンガロン、ニット帽。北欧デザインっぽいソックスに穏当なデッキシューズ!ブランドを誇示するやぼったいロゴは一切見当たらない!…ステージ衣装や通団服を着ていない少年たちをまじかに見る機会の殆ど無かった私だが、選別メンバーがスタンバイする楽屋への差し入れや、よその少年合唱団のコンサートへの「おしのび」で時々目の当たりにした松田リク君の全身「100%カンペキ・コーデ」には毎度感服させられた。
「…きみの着ているお洋服…これって、いっつもどこで買ってもらうの?シャレオツじゃない?!すごい。昔ふうの言い方だと『超イケてる』…今のキミたちの言い方だと…??」
「『マジ、ヤベェ?』ですか?」
睥睨されることを覚悟で真剣な興味から尋ねると、
「ツーハンですよ。たぶん、全部?お母さんがカタログとかいっぱい見ながら、何かいつもごしょごしょパソコン打ってます。」
私が恐れ入ったのは、再生紙やWebのカタログから我が息子にこれ以上ありえないほどピッタシなコーデをヒットしてくるリクままさんのセンスと目の確かさ。そして、それをナウなシティーボーイ然とあっさり着こなして普通に男子小学生生活を過ごしているリク君の「この親にこの子あり」的なソツの無さ、親の期待へ十二分に応えて余りある孝行ぶりだった。マックスバリュや東急ストアとかの子ども服売り場の価格帯をはるかに超えるお値段であろうアイテムは全て、息子を少年合唱団に入れるようなご家庭では家計を殆ど圧迫などしないのだろうが、それにしてもハイセンスの一言に尽きる。半ズボン・ハイソックスというお約束のジャパニーズ少年合唱団系ステージ衣装は少年たち普遍のあこがれ…などというのは、かつてモノの本にも説かれたに違いない事実だったのかもしれないが、私たち合唱団関係者にとってそれは過ぎ去りし昭和時代やら20世紀やらの懐かしき日々の懐旧となり果てている。聞いてくださる団塊世代や団塊ジュニアの保護者世代よりに期待される「子ども像」に合わせてしつらえられた合唱団のダサい衣装も、彼らはバツグンの着こなしスキルの力量からそれなりにバッチ・グーな感じで身につけてくれる。スタイリッシュなこと限りない。…普段使いの癖なのだか、ネクタイをゆるーくしめてステージに上がるのだけは例外的にやめておいていただきたいと私は思うのだが。
 松田リクくんはそういうわけで、入団当初から「なんちゃってソナチネ」レベルのピアノ弾きであり、今回も「白いカーネーション」冒頭で稚拙なイメージの前奏を任されているのだった。先生方からの要求は「牛田君みたいなカッコイい凛々しい感じにしちゃダメ」という理不尽なもの。子どもっぽい、つたない感じを出して欲しいのだという。首席指揮者は常に「Yesterday」と「白いカーネーション」をセットにしてプログラムに押し込むため、リク君の条件反射はイエスタデーと歌いながらいつも肩から下はピアニスト・モードへスイッチしているというわけ。
 曲がリフレインから2回目のダルセーニョに跳ねてタイトル通りの歌詞に再起すると、赤川エルくんたちソリスト連が、突如としてhihiGの音を絹割きのごとく6小節に渡ってカンニングブレスで囀り続ける。ビートルズの原曲では弦楽四重奏のストリングスが通奏で鳴り渡る聞き所の一つ。彼らは伴奏と合唱をよく聞いて、過去をほんのりと甘く振り返る若者の悔恨をほとんど気にならないわずかなピッチ漏れに留め、鳴き続ける。いつもは剽軽でお茶目なエルくんが、ここではすでに左心室形成へメスを振るうチームバチスタ・リーダー執刀医の手腕と面持ちだ。ハーモニウムの嘶きのごとく電気的な彼の声質のベストマッチは先生方の人選で成り立っている。一方、この曲の白眉にあたる3つほどのさりげないフレーズは、通奏の鳴り止むBメロのブリッジに出現する。1回目のリフレインでは演奏されない6音にE♭のセブンス和声が負わされている。「♪She wouldn’t say」と合いの手のように歌詞が振られ、ジャジーでセンシティブなニュアンスをこの一つの音が決定づけている。担当するのはアルト・ソロのアオケンくん。最後に3つ目のちょっとときめく素敵なフレーズは、さきほど松田くんが無意識に運指していた「♪day…ay..ay.aye」で、これはdiv.4声部が声を抜き差しして表現している。少年たちが声を合わせるわずか3分間ほどの刹那、お楽しみ満載に詰め込まれたという感じがする。歌っている最中の彼らに先生が投げた注意は「ハヒフヘホが聞こえない!♪here to say が イアトゥセィに聞こえる。♪she had to goも、アド・トゥ・ゴーだったぞ!パリ木かサンなんとかトカいう名前の付いた少年聖歌隊じゃないんだからさ!」というちょっとマニアック目の一言だけだった。彼らは結局♪hide away を殆どアイダウェのままにして歌い終えているので、こちらもこれからご指導を受けて軌道修正することになる。コーダのハミングを唸るように絞って、ラレタンドも編曲譜に記された通りのさりげなさで彼らは揃えた。初めて合わせた練習の後に必ず訪れる、少年たちの沈黙、中学年の子たちの咳払い、6年生団員らの吹き戻しのような極端なブレス。私は動き出したく無くそれらを見ていた。


「トム君、悪いけど、Yesterdayの楽譜、くれないかな?」
振り返った男の子は私をしっかりと見据えながら目を剥いた。
「何かのバーターじゃないけど、いいかな?」
「それって、僕のYesterday?が、欲しい…ということですか?」
「うん。記念にトムくんの名前もどこかに書いといてくれないかな?」
「何で僕の?」
「だって、『楽譜はスミからスミまで頭の中にばっちしインプットされてますので』って、自慢げに言ってたじゃない?もらっても困らないと思ったから。」
「そりゃ、そうではあるんスけど…。」
男の子はそう言いつつも、もう足元に投げ置いた通団カバンの中から、レバーファイルにねじ込んだ楽譜を引っこ抜き、シーショア色のちゅら海水族館のペンケースを引っぱりだして蓋を開けている。
「ま、楽譜が必要になったら、記憶力抜群の松田リッキーとかに借りればいいワケだし…。想定内っスよ。」
やっぱり「楽譜はスミからスミまで頭の中にばっちしインプットされてます」というのは大ウソなのね。
「松田リクくんは暗譜、けっこう速いものね。ごめんね、迷惑かけちゃって。少年合唱団の思い出に、一生大切にするから。」
男の子はそれには応えず、運動会の記念品にもらったご愛用の校章入り鉛筆で(去年もらったのは2本で、片方を通団バッグの筆箱に常備しているとのこと)、楽譜の上段の端…♪I don’t know she wouldn’t say. の歌詞の横へ、無愛想に大きく「マねえちャーん先生へ 富田より」と手のひらの上に乗せ、書きなぐって渡してくれた。彼らは他団と違って、物販のテーブルで求められれば合唱団代表としてCDやミニカレンダーにサインをしてくれる。
「『これでいいですか?』とか、聞いてくれないの?」
「…じゃあ、これでいいですか?」
記念の楽譜なんだから、本当は富田だけじゃなくて、フルネームで書いておいて欲しかったのだけれども、彼らしく、少年合唱団員らしく、小学生の男の子らしい。
「いいよ。良い『Yesterday』になったから、合格にするね。今帰ろうってところに声かけちゃってごめん。」
卒団とお引越し退団以外は別れのシーンを殆ど持たない合唱団の少年たちはグッバイ・フェアウェルにはなはだドライで恬淡だ。去りゆく人に花束を用意して別れの場を設けるのは私の仕事なのだから、今日はそのセッティング自体が存在しない。先生が私の「退職」を簡単に紹介してそれで終わり。
「マねえちャーん先生、さよならー!元気でね!」
「これまでどうもありがとうございました!」
「さらばじゃ!」「バイビー!」
相対したトム君と私の端を、通団服にバッグをしょった団員たちが別れの言葉をふりかけながら帰っていく。背後からの言葉でも、誰の声なのかは全て判別がつく。最初はかわいいハルカ君で、次はアオケンくん…私が音とりを看てやった最後の団員くん。それからトナミ君。奥田ユーセー君。松田りく君。…リク君の気配からは、ちゃんとLAVONSのゴージャスなフレンチマカロンの匂いがした。
「僕、何かアルトソロのアンダースタディ内定みたいです!マねえちャーん先生、ありがとうー!キャー!」
スキップ踏みそうな勢いで通りすぎてゆくのは当然譲治くん。あの調子なら、合唱団の玄関を出るか出ないかのうちに家へ吉報の連絡を入れるに違いない。
「もういいですか?おーきーらーくー、ごーくーらーくー??」
富田くんは楽譜を渡し終えた手で通団カバンのベルトを掴み上げた。
「…ウゴウゴルーガかい…。そんなバブル後期の言葉、いったいどこで覚えて来るんだい?キミたちは?」
「先生たちがいつも言ってるでしょ。…覚えたのはココです。」
私が増し刷りし、トムくんが思い出を記してくれたYesterdayの楽譜が1枚、再び私の右手の中に収まった。…モップみたいな犬を引きずって歩いているWASPの女の子が歌うミュージカルナンバーを日本人ボーイソプラノのガナりで聞くような日々はもう訪れることはない。
「さわりだけでいいから、最後にトム君、景気付けに歌も歌ってよ。」
楽譜をかざすと、いつもはかなりの難色を示すはずの富田くんはあっさりポンッとアカペラを吐き出した。営業じゃないから無駄な力の抜けた、淡泊の軽い美しい声。一陣の涼風が吹き過ぎる感覚。通団服のソックスの脚をかしゃかしゃとふって傍を家路へと行きかけた団員たちが次々に何をしているのかと立ち止まり、ミュージカルのワンシーンかフラッシュモブのごとく突然声を合わせてくる。

♪ Oh I believe in yesterday…

少年たちは渋みの少ない、酸味と爽快な歯ごたえに横溢する青りんごの声と表情で、私の側辺へyesterdayを歌い置いていった。

℗ 2009 EMI Records Ltd
©1965 Sony/ATV Music Publishing LLC.
©2004 Music Theatre International.

For no one フォー・ノー・ワン

February 07 [Sat], 2015, 20:04
▲ 子どもらの持つノーザンソングス譜であればスコア4ページ目の上段。とりたてて何かが起きそうな気配というものがついぞ感じられない曲なかばの箇所。ダカーポとリピート記号で区切られ、反芻される過程のほんのはずみのような場所の下へ看過しそうにひっそりと小さくFine(フィーネ)と刷り込まれ、『For no one』は終わっていた。

空は白み、心疼き
優しことば全ての残滓を噛む
無用の物となった今も

目を覚ます
身支度をなす
時間をかける
急ごうとは思わない

きみは要らない
きみが見えていない
涙の背後、愛の表徴は誰のため
続いていたはずの愛

きみは慕い
きみは必要とする
愛の死滅ということばを
きみは信じない。
必要とされていることを
きみは信じてしまっている。

きみは家に
消息は外に
そういや、ムカシそんなヤツがいたよ。今じゃどうしてるのだか
ま、どうでもいいんだけど…

空は白み、心疼き
その言葉すべてがきみの頭に充満する
忘れない だが
その目にきみは見えていない
涙の背後、愛の表徴は誰のため
続いていたはずの愛…

 ゲネプロの途上、耳のよい団員が下手袖の暗黒の中で次の出はけの指令を待っていると、幕奥のしじまから何か2人の少年の微かな息み声と鼻でする息の音のようなものが聞こえたような気がした。半分に落とした舞台照明の下で先ほどから『花は咲く』の出だしのソロの最終調整が押している。ステージグランドの聞こえ方とソリストたちのコンディションが微妙なピッチのずれを誘発させてしまうらしい。首席指揮者は早々に匙を投げ、作業の全てをボイトレ担当に任せることにした。
「この低い音をキミらアルト以外の誰が出すってんだ?!まったく!いつまでも相手してらんないから、次へ行きます!はい、大変お待たせした!『フォー・ノー・ワン』の頭のソロ、スタンバイしてくれ!おーい!誰だ?『フォー・ノー・ワン』のソロ!」
ソリストのショーアップに飽き飽きとしはじめた『11ぴきのねこが旅に出た』のプラカード先導たちが、下手プロセニアムのエプロンに両の膝から下を落としてぶらぶらさせながら、
「アオケン君でーす!」
と、姿の見えない5年生アルトの名前をイイ加減に呼ばって指揮者に教えた。
「おーい!アオケン!出番だぞ!どこいった?!」
指揮者が良きに計らえともう一度その名を呼ぶと、合唱団ユニフォームをぴったりと身にまとい顔を上気させた少年が、湿った口の辺りを手の甲で拭いながら駆け込んできた。黄色いバミりのテープの上でこそこそと足踏みし、2階席最前のセンター欄干に視線を向けて歌う姿勢でスタンバイを終える。「いったい、どこで油を売っていた?」といったような時間浪費の鞠訊を指揮者は発しない。ピアノのハンマーフェルトが音取りのF#4を押さえるように叩き、彼はタクトのふりあがりを確認してアップビートでビブラートの胸声を振り出した。伴奏は同時にブン・チャッ・チャ・チャとのんびり鄙びた四拍子のリズムを教本のように奏でだし少年の歌を支えている、だが4小節目でポール・マッカートニーばりの洒落っ気をベース音が踏み始めたとたん、暗い袖幕の中が一本の号泣と抗する怒号で騒がしくなり、第2メゾソプラノのパートリーダーがそこからグランドピアノの突端の脚のあたりまでかけてきて何か窮状を叫んだ。ゲネプロは再びあっけなく中断された。
「先生!中山アンビがユーリ君をぶん殴ってます!」

 指揮者が事情聴取もそこそこ、切った張ったの揉め事は無条件に「出演キャンセル」の指令を下すと、リハーサルのソロの残りを歌い終え中山アンビの胸に飛び込んで見事な拳固でその胸郭に殴打を繰り返したのはアオケン少年だった。
「なんであんなことしたんだよ!僕が喜ぶと思ったの?もっと自分を大切にしろよ!悲しいよ!帰れ!二度と来るな!誰かを守ったなんて思うなよ!好きにしろ!!大嫌いだ!」
5年生は声を震わせてそこまでどんどん言うとまた一度鼻をすすり、今度は上級生の脛に両膝を突き当てて崩折れた。中山アンビの腹に顔を埋め、声を上げて泣き出す。
「…アオケンが泣いてるの、初めて見た…」
ソプラノ3段目の誰かが言った。少年はいつもどこかで隠れて泣いてくるから。
泣き疲れ、羞恥でこのままどこへ逃げて行こうかと逡巡していると、氷の入ったビニール袋を二重にして目の下の局所に当てながら戻ってきたユーリ少年が、泣きはらした憐憫の視線をこちらに向けているのに気がついた
「気に食わなかったからユーリ をぶん殴ったんだ。あいつはたしかにおまえの悪口を言ってたが、おまえのことはどうだっていい。」
中山アンビは面倒くさそうに5年アルトを腹から引き剥がすと、そう言い置いたまま恐ろしい勢いで楽屋へ戻っていってしまった。

 ステージモニターのモノラル音声が楽屋通路に大人しく流れている。リミッタのかかった篭った児童合唱の声が、

♪優しことば全ての残滓を噛む
 無用の物となった今も

と歌っている。控室の横に貼り出された「少年合唱団様」の文字を中山アンビはちらりとねめつけた。体熱に湿った紺ベレーを頭蓋からずるり。引き下ろした勢いで、鉢回りに留められた合唱団エムブレムの徽章が、スタッキング・チェアの座面の縁に触れて冷たい小さな金属音をたてた。6年生はものの所在もろくに確かめず、衣装ケースの内ポケットにあたる場所へ被り物を叩き込む。部屋の中では先ほどから4年ソプラノの通団服の背中が、放り出した傍のポケットティシュを肘で押しのけそうになりながら鼻をかんでいた。部屋のドアが開いていたのはこのためである。鼻水で少しく重くなったらしい丸めた塵紙とビニル包装をそそくさと半ズボンのポケットへ突っ込むと、下級生は不機嫌な面持ちの中山アンビには目もくれず退室し、楽屋廊下をステージ方向へ行ってしまった。後は「帰宅命令」の出た6年アルトがただ一人、椅子の背面に衣装カバンを立て掛けて位置しているという光景である。
 母親は迎えに来ないだろう。楽屋口を入れば馬鹿息子の首根っこを掴み、リハーサル進行中の皆の前を通って再奥のユーリ少年の立ち位置へと引き戻され、親子で頭を垂れる最悪の事態は免れ得ない。保護者の引き取りのため、退却はなるべく会場から離れた場所で簡潔に済むよう算段しておきたかった。ズボンを落として後ろに蹴り上げた右足から引き抜き、替わりに腰ゴムの入った通団用の長ズボンを履く。イートン用に仕立てられた生地の厚さが、左のつま先をくぐらせ膝までたぐることだけでも億劫に感じさせた。彼がいつも細心の注意で履きあげているソックスの長さや口ゴムの当たりはこれでもう何も見えない。ステージ用の足回りは、12歳の男の子の皮脂の垢じみた匂いのする「衣服」の一つに過ぎなくなった。緩めたネクタイを首からぶる下げたまま彼は帰宅するのだろう。先ほどまで憤怒で火照っていたワイシャツの上半身へ、グレーのPコートを直に羽織る。出演用のブレザーを彼はまだスーツケースへ入れたままで歌っていたのだ。男の子はそうして帰りの身支度を終えたことにすると、カバンのジッパーをジャッジャッとかなり乱暴に引いて閉じ、スタッキング・チェアの上にあぐらをかき、頬杖をついた。
「アンビ君、今、お家と連絡がついて、お母様、今はどうしても手が離せないから一人で帰してくださいって。『困ります』って申し上げたんだけど日を改めて合唱団とユーリ君のお家には息子を連れてお詫びに伺いますって。じゃあ、気をつけて。…よろしくね。」
立ち上がる気力も無く、マネージャー先生の連絡の声を睥睨の目で聞いていた中山アンビは、チーク材の印刷された向こう側のフォールディングテーブルの上へ誰かの蝶ネクタイが投げ置かれているのに気がついた。
 
 宵に張ったサマルカンドの泉氷のような澄んだ目をした予科生だった。きれいに刈り揃えられた前髪に、いつも天使の輪が光っている。上級生たちが面白半分に名を尋ねると、世界初の宇宙飛行士のファーストネームと、「無理」の反対の「有理」と、アドバンテージという意味と利息が付くという「有利」の3つの意味の入っている「ユーリ」だと、本人がそもそも解っているのかどうかと思うような説明を繰り返ししていた。歌うのがよほど楽しいのか、担当の先生方が丁寧に気長に、ある時は強引に厳しく、ある時は優しく工夫して教え、噛んで含めるようにしても、自分の歌い方を決して変えようとしない。ボイトレの先生がまず匙を投げた。アルトだが、殆ど怒鳴るような地声で、本科に上進して「みんなと一緒に鳴るように歌うのが合唱だ」と言われれば小さい声で歌って済ますような子だ。七色の宝石を鍛造して糸に伸ばし、つま弾いたような甘酸っぱく手に入れ難い地声のみが彼の最高の持ち味だった。
 中山アンビはぼんやりと、掌に残ったユーリ少年の円かな下顎の感触を辿りながら時間をかけて身支度を終えようとしていた。もはや急ぐべき必要など何も無い。傍に立て掛けたカバンから黒く冷たい通団靴をオニツカの靴袋ごと引っ張り出し、楽屋の隅の毛足の短い化繊のカーペットの上へ袋の底を掴んで振り落とすと、片方のつま先すら通さず、デタラメに横倒しのままのモカシンの履き口を自堕落に眺め続けた。

 楽屋通路の床にほぼ5メートル弱毎の間隔で連なる不規則な形の摘下痕。鑑識で化学分析の結果を出すとしたら、おそらくホモサピエンス・サピエンス種の幼生由来、3パーセントNaCl水溶液ということになるのかもしれない。中山アンビは先刻自分の足が踏みつけて長く汚したらしい2箇所の痕跡を注意深く除外して、水滴の作る道をヤマカンで遡上していった。
 ホールロビーの通路から壁一枚隔てられた外縁のシモ手袖至近に、ドア形状が上品で他とは違う広い特別室があり、本公演では合唱団とは一切関わりの無い場所だったが、男の子は所在なさげに先ずその扉の前で佇立した。躊躇以外の何もせず、52秒間そうしていたが、やがて数メートル先に開け放たれた鉄扉を通り抜け、黒い埃っぽい空間へと達した。見落とすまいと見渡した床がホリゾンライトに淡くグラデーションしてゆく間際に、最後の水滴のコロニーが飛び散って見えていた。近づくと指揮者が光の方形の中心で仁王立ちになり、少年たちへ「For no one」のメロディーをたどらせている光景が目にはいった。牧歌的でクラシカルなナンバー。アルト・ソロの牽引で始まり、独唱は間もなく抑制のかかったタンバリンの四拍子に引き継がれる。アルト中段の品川兄弟がいつものように公演毎に交替しながら「しっぺ」の2本指でタンバリンのリムを連打していた。ソプラノの上級生たちは舞台袖に再び姿を現した中山少年の存在など見えないふりをして歌っている。メゾソプラノ3-4年生の子たちの集中力と視線は、丸ごと彼方へ引き寄せられた。指導者の知るところともなったことだろう。だが、誰も歌うのを止められなかった。団員らの意識は数瞬で元通りコンダクターの元へと回帰した。歌はおそらく何回目かの中間部へとさしかかり、1メゾの最後列、塙兄弟の兄の征大が半ズボンの背側の腰回りに挿してねじ込んでおいたアルトリコーダーをブレザーのノーベントの裾を捲り上げ、引き抜いて両の指を立てた。そうして合唱団の声の減衰とスイッチするかのように、ソラマメのような熱く眠い二重瞼のまま美しい口唇を吹き口に被せ、穏当なベンチレートでオブリガート状の間奏を繰りだした。牧童の笛の音もよろしく、旋律はのどかで鄙びていて、不安の片鱗も感じさせなかった。中山アンビが通団カバンを右手の三本指の腹に引っかけたまま隊列の奥を眺めると、二重にしたビニル袋へ製氷機の氷をぶちまけただけの氷嚢を既に疼痛の左手で摘まむように持ち当てるユーリ少年が目をしばたかせながら、アルトのハーモニーを開き切らぬ口で呟いている様子が認められた。彼は6年生の当惑の視線を感じそちらをちらりと見やったが、下級生はそれ以上の関与の気持ちは無いとばかり、皆の向く方向へ向き直ってしまう。誰の眼にも映らなくなった少年は所在無さげに足元を見、それから音を立てずにカバンを左手で引き上げた。団員らはあと一時の後には本番でこの曲を歌っている。アオケン少年の表情はぴくりともしなかった。その面立ちと柔らかさ、温かさ、頬の表面の冷たさと匂いと味は全部知っている。中山アンビは今、隊列のいつもの立ち位置にアオケン少年を見出し注視する必要も、視線を送る必要もまるで無かった。その男の子の声が合唱の中にジーンと融けて響き、聞こえてさえいれば目を閉じたまま表情も体温もうなじの匂いも言い当てることができる。曲のコーダがサドンデスと言えるほど前触れなく、突如現れる。

 子どもらの持つノーザンソングス譜であればスコア4ページ目の上段。とりたてて何かが起きそうな気配というものがついぞ感じられない曲なかばの箇所。ダカーポとリピート記号で区切られ、反芻される過程のほんのはずみのような場所の下へ看過しそうにひっそりと小さくFine(フィーネ)と刷り込まれ、『For no one』は終わっていた。楽譜の次の小節には、何も無かったかのようにリピート後の旋律が続いている。直前に取って付けたような急場のリタルダント。塙兄弟(兄)が尺八のごとく首を振って奏でてきた草を食む長閑なアルトリコーダーのオブリガートは、咽頭のとば口に溜まった息をふーと吐き出して切れる。「打」を止めたタンバリンのロールが2かけ。そして全ての音が無に帰したとき、団員らは次の曲の冒頭を歌いかかる算段とブレスを切り替え始めていたので、動く者は誰もいなかった。
「じゃ。次に『これが私の生きる道』行きましょう。♪イイ感じーのところでアルトが毎回ちょっと雑だぞ。十分気を付けてくれ。それから、確認!拍手はどこで始めるんだったっけ?覚えていますか?赤川くん?赤川エルくん?」
「え…??」
「立ったまま寝てたのか?エルくん、アフタービートの曲だから、どうするんだった?」
「はく手は…『♪近ごーろー、私たーちはー』…の『ごーろー』の『ろ』のところから始めます…??だと思います。」
ナチュラル・ピュアなボーイソプラノが語尾を疑問形に投げて応じた。一方、「毎回、ちょっと雑だ」と刺されているヤンキー・アルトの張本人はここに居ない。通団バッグをべたりとぶる下げて、所在無さげにステージ袖の中途半端な位置へと佇んでいる。彼がひとこと言葉を交わしたい少年は水袋を下顎に押し当て直し、高橋真琴の王子さまキャラクターよろしく潤みの残る瞳を輝かせ、指揮者の挙動を追っている。腫れた患部の疼きの火照りを持て余しながら、黒く湿った大きな掌をそこに打ち込んだ上級生のことは決して目で追おうとしない。慌ただしいファンファーレを導き出すピアノの前奏を聞きながら、その中山アンビは衣装ケースのジッパーを開き直し、サイドポケットの奥に詰め込んだ形の拠れてつぶれたポケット・ティシュを掻きだすと、踵を返した。床面に飛び散った取り忘れの涙滴のような水気を一つずつ摘むようにして拭きなおして行った。ちり紙を当てるそばから吸われて消えてゆく体液やもしれぬ水の粒を横に引くと、ワックスのかかった表面が横筋に濡れて微かな汚れを一筋だけ引いて、乾いていった。
 誰のために流した涙。黒く汚泥の色に染まり始めた紙が吸い込んでいるのは、濃度の低い生理食塩水でしかないのだろうか?少年たちの家のカレンダーに記されているのは、本日の出演の略称と集合場所と時刻だけ。本番開始時刻が書き添えられていて、あとはなんの記載も無い。楽屋口セキュリティー前のスルーパターンのリノリウム床の手前から、水滴は猛烈な勢いで増殖し、サムターンの付いたガラス戸の外側へと消えていた。最後のティッシュを摘んだまま、中山アンビは自身の楽屋入りの時刻の天候とは似ても似つかない屋外の光景を凝視した。向こう側から彩度の低いラピスラズリの混濁した背景が押し当てられ、ストローで一旦吸ってからブッと吹き付けたような水の粒が音をたてておびただしい数でこちらを殴打している。少年はにわかには状況の把握ができず、起立のままそれをぼんやりと見ていた。彼が腰を屈め握りしめたティシュの底で拭き歩いていたのは、いったい遅刻した誰の傘から落ちた雫だったのだろう?
 
 男の子が通団カバンを背負いながら思ったのは、モリマ ・ユーリがアコーディオンの演奏に備える仕草だった。インサイドキックのボールを蹴りだす足のように重心を落とし、担った楽器の上下からパチン!パチン!と手に余る径のニッケル製スナップボタンを革ベルトごと引きちぎるがごとく外して時を終える。あとは彼の習慣から、リリースボタンをプレスしながらベローズの中の空気を押し出し、弾き始めの指示を待つのだった。
「俺はこれで構わない。他の合唱団には、多分、俺と同じ人は居ないんだから。」
アコーディオンを背負うことで彼が「追い出し部屋」の扱いを受けているのではないかと、周囲の人々は心を砕いていた。遠慮がちにそう尋ねると、ユーリ少年は必ずコクのあるアルトの美しい嗄声でにこやかにそう抗していた。中山アンビはただ一つの決して口外出来ない理由から、この少年を欲望のまま虐めていた。山手聖公会聖堂前のジャケット撮影の帰り道、彼は草っぽい垢じみた掌と指挟みで背後から下級生の口を覆い、おそらく失神の直前まで鼻腔をつまみ続け、快楽を味わっていた。涙を浮かべながら下級生は抗言する。
「俺を泣かして面白いだろ?でも、どうせ先輩のために泣いてやってるワケじゃないよ。」
人目皆無の場所や人ごみの只中で、中山アンビは下級生をいじめ続けた。ユーリ少年の上気して潤んだ瞳を吸い込むように見つめながら、横隔膜から上の硬く締まりかけた肉体に6年生はエピネフリンを滲出させていた。

 ゲネプロは後半を巻いて終え、調整を要するナンバーの採り出し練習に彼らは取り組んでいた。『花は咲く』の冒頭は、結局指揮者がダメ押しで話した「作曲者の思い」に少年たちの心へ響くものがあったらしく、キュートな広々とした立ち上がりへと華麗な変容を遂げている。「100年経って、誰がいつ何のために作った曲なのか分からず皆が歌っているような曲にしたかったそうだよ。」…低声のメンバーはこれ迄どうやら最初のフレーズに思いを込め過ぎ、不要に力んでいたに違いない。アオケン少年はそれでも2メゾのおおかたの団員のハーモニーへ耳を傾け、何とか「声部」としてではなく、合唱団の左翼全体が響くようにと声量を抑えつつ声を統御しようと頑張っていた。中山アンビは傘を持ってきているのだろうか?衣装カバンのハンドルの輪に突き刺してきた自分の傘を思い出した。自分の差し出した傘の柄を振りほどいて豪雨の中へと飛び出してゆく上級生の後姿を思い描き「中山アンビらしい」と彼は思った。「大嫌い!帰れ!」と叫んだ自分の言葉が上級生をそうさせることは無いだろう。発言の裏に恒久の感情も真理も何も無い。アンビ先輩の歌が、合唱に響く間も重唱もソロも大好きだ。…もしそれを「ヨイショ」だと言う者がいれば、大人であろうと子どもであろうとジジイであろうと教師なりし者であろうと関係なく、その目は曇っていると喝破するに違いない。少年合唱の何も見えていない上から目線の論調。11歳のひたすらな双眼には慣れっこだった。
 次に少年が歌いながら考えたのはピアノ伴奏の下段に出てくる、別行動の打鍵のようなものだった。自身の歌う「アルトの旋律」とも、ピアノの左手が規則正しく刻み続け、テンポを順守する音とも違っている。ピアノの先生の左手は、ときおり忙しなく左へと振れてその音を蹴り押している。アオケン少年はそれをきちんと聞き分けながら、他の団員たちとハモろうと腐心している。既に履き替えたステージ靴の踵を、『オズの魔法使い』のドロシーよろしく白木の山台の踏面でカチ・カチ ・カチと3回打ち鳴らした。両の甲に乗った皮の房が左右へとカサカサ振れた。
 C#mとG#7を繰り返し、F#からsus4へと暮れるカデンツのコードを「感覚」として脳幹へインプットされ歌っている少年たちの隊列へ指揮者は突然声を荒げて呼ばった。
「ユーリ!歌えるのか?無理しなくていいぞ!顔が痛くてキツけりゃ帰れ!」
名指しの少年はアルトの前方で、配慮か詰問かよく判らない教師の声かけを無視して歌い続けた。
「中山アンビがまだそこら辺を所在無さげにウロウロしてるだろう?どうせなら一緒に帰ったらどうだ?!」
四拍子を箱に入れるような仕草で指揮者はダカーポから子どもらを導きつつ、ユーリ少年へ声を投げ続けた。ボーイアルトは只管聞こえていないふりをして、

 ♪You stay home, she goes out

と、リプレーザの冒頭に歌を返している。「ずっと昔、そんなヤツを知ってたけど、お別れしたゼ。ま、どうでもいい話なんだけどサ。」と詞は続いている。
「ユーリ君!無理に歌わなくてもいいんじゃないか?」
指揮者が3度目の声掛けを怒鳴ったところで、少年はアルト山台のケ込みを固いヒールで突如押しやって、衝かれたように隊列を飛び出していった。何か口走っているように見えたが、ボーイアルトの声は練習の遅滞に紛れ、聴き取れなかった。ただ、アオケン少年だけが顔色を豹変させ口を閉じたかと思うと、10秒間のインターバルの後、雛壇を下りて後追いに走り出した。
「先生!ユーリ君、追っかけます!」
5年生は指揮者に練習からの逸脱を叫びつつ、柔らかい頭部を統べた少年らの隊列の前をリレ選のスピードで去りぬけていった。

 中山アンビの視野はかしいでいる。雨は右斜めの角度を保って楽屋口のガラス扉を叩き続けていた。ダイをあてた茶斑の髪とブルーブラックの衣装ケースとピューターグレーのコートの脇腹。少年の1日は壊れ、心情は何かに焦がれ、疼いている。モリマ・ユーリがアルトの下級生にかけてやっている日々の言葉が忘れられない。「ありがとう。きみと一緒なら、どんな遠いところへ歌いに行っても平気だよ。」「明日のコンサートは休んでいいよ。きみがいなかったら、どんなにツマラない合唱になるか、みんなもそれで判ると思うから。」「みんなでいっしょに今年の合唱団を卒団しよう!負けないよ。」
 雨滴の衝突はその目を射るが、あの少年の掠れた柔和なこくのある声質が胸に溢れ、外の景色と彼を隔てていた。
「♪きみは要らない
   僕のことが見えていない
     涙の背後、愛の表徴は誰のため?
  …さあ、誰のため??」」
6年アルトは背後からいきなり聞き知った子どもの声と左右ステージ 衣装の腕に抱きとめられた。腕は腹に回り、太くも細くもない10本の指が噛んだジッパーのごとくしっかりと組まれ、胴回りを後方へ引かれた。自身の肋骨を伝って聞こえてきたくぐもった質問に答えようと深く吸気する。その子の今日の唇の味を中山アンビは覚えていた。
「知らねえよ。」
「何の歌だ?」
上級生はタイトルを答える。背中の少年は赤い頬を大きなPコートの背筋に埋める。二人は結びついたまま、四角い時計の下がるエントランスホールの柱の陰へ寄りかかるように身を潜めた。だが、激甚の事態がきちんとそこに起こった。前触れも無く2人の横を合唱団員の姿の疾風が一人、統御不能の速さで走り抜けていく。楽屋の開口を蹴り開け、嵐の戸外へ飛び出して行く。標的とする上級生が最早のんびりと歩いていないことを雨足の滴る瞼の下から悟るやいなや、雨水流の渦中、逃げ去った者の背中へ届けと言わんばかり、手当たり次第何かを叫びはじめた。苛烈な大量の水が夕べの水煙を立てて降りしきる中、濁流の喧騒に紛れて何を言っているのか、どんな思いの丈をぶつけているのか皆目判らなかった。子どもは上半身を>の形に折り曲げ、追いかけてきたマネジメントスタッフのさしかけた傘を右腕で乱暴に打ち払い、叫び続けていた。見かねて飛び出してきた守衛さんが彼の腕をがしりと掴み、ドアの内へ引きずり入れるまで、もりま ・ユーリは自棄の滝行の修験者よろしく篠突く雨の中で暫くの間、怒張していた。

 ホール・バトンに吊るされた1-2サスが、その男の子の頭頂の髪を生乾きのまま炙っている。痛みの引き切らぬ面差しへ確かな生気が無い。今日の彼が幾度かにわたって流した涙のいずれにも誰かの心と真実は宿っていない。曲は突然、半終のままローマン書体の終止指示に引っかかり、止んだ。LEDのボーダー照明に冷たく照らされたアオケン少年の襟足が、出だしのソロ位置から帰還した反動に、ユーリ少年の近傍でかすかに揺れている。
 「だめじゃない!全部脱ぎなさい!本番までに乾かなかったら楽屋詰めか出演キャンセルよ!」
エンタランスの床一面に滴る涙の池を作った少年は、まだ両眼に滲みた酸性雨に目を瞬かせて立っている。
「靴も、パンツも、靴下も全部ですよ!あー、ベレーを冠ってなくて良かったわ!」
ブレザーを背中へ脱ぎ落とし屹立する少年がそれ以上何も動かないと見るや、無理やり万歳をさせられた合唱団員の胴周りに伸ばした手がシャツと下着とその他諸々の着衣を、裏返しになるのも構わず引っこ抜こうとした。小学生男子の頭部に引っかかったずぶ濡れの衣類が少年の面差しをいびつに歪め、上方へ引き抜かれていく。早入りの保護者会役員が鷲掴みに持ってきて放り投げておいた45リットルゴミ袋へ彼の衣類一式を突っ込み、丸めた新聞を押し込んだコインローファーのバックステイに薬指・人差指を引っ掛け、2階洗濯室へ走って行ってしまう。事務局さんが楽屋常備のバスタオルを持ってきて頭にかけるまで、緘黙のまま「全部脱ぎなさい!」の指示通り、5年生はそこへ立っていた。もはや柱の陰に隠れてはいなかった者は、少年のゆで卵のようなつるつるの白い尻や、ガンダーラ彫刻のようなミルキーな肩の線や、下着を引き抜かれたまま開きっぱなしになっている濡れてキラキラと輝く2本の足や、鈴のような陰部の下垂を震えるようにして見ていた。開いた目と、それでも今だ背後に感じるアオケン少年の気配と、水たまりを照らすダウンライトに蒸散した下級生の乳臭とが、かろうじて中山アンビの痙攣と衝動とをその場に押し留めていた。
 曲が終わる。指揮者の腕が体側へと格納される。『これが私の生きる道』スタンバイの段取りが微塵の指示も遅滞も無く瞬時に執り行われた。サスペンションライトの白。もりま・ユーリの後ろ姿に張り出した疼痛の頬。彼が雨中に叫んだ言葉の残滓がアオケン少年の頭蓋に次々現れては充るようだった。忘れない。だが、6年生の目にも身体にも、誰が見えていたのかを彼は観取した。涙の背後、その表徴は誰のため。自分の体温だけが、上級生の背中へいつまでも残るはずだったのに。

℗ 2009 EMI Records Ltd
©1963 Sony/ATV Music Publishing LLC.

BELIEVE〜NHK生きもの地球紀行

January 01 [Thu], 2015, 0:01

 ハイバックシートの白いヘッドカバーの下端に、アオケン少年のつやつやした髪が乗っている。バスの車窓の光の方形は、男の子の前髪に次々とうつろうプロジェクション・マッピングのようだ。車内のあちこちで、団員たちの明るい声が邂逅を待つ美しい日々の思いを囁いていた。

「 今、未来の扉を開けるとき、悲しみや苦しみがいつの日か喜びに変わるだろう …」

やがてメゾソプラノの誰かがふんわりと思いつきで歌い始めた『BELIEVE』に団員たちは声を合わせはじめ、座席空間の上へ希薄なトーンクラスタのような音場が浮かび上がった。小学生の男の子の合唱団だが、団員らの本質は「歌の大好きな男の子たち」なのだ。アオケン少年は声を合わせつつ程無い到着までの時間を期してニッコリと表情を崩し、深呼吸をした。少年合唱団員は、聞いてくださる人々を幸せにするために今日も歌っているのである。

 山本少年は、顔色のすぐれない小柄な雨粒のような眼差しをした4年生の男の子だった。合唱団の巡業期間に充てられた始めの数日間、演奏会の休憩時間や終演後、ロビーで客ハケの様子を監視しているスタッフの腕章を巻いた現地職員に、

「合唱団に入って歌うには、どうしたらいいんですか?」

と尋ねていた。東京に本部を置く合唱団のことだ。「断られればすぐ諦めるだろう」と、彼の性格を知っている母親はたかをくくり、スーツ姿の大きな男たちや引っ詰め髪のおネエさんたちをつかまえては上目がちに「合唱団に入りたいんです。」とリクルートを繰り返す息子の様子を少し離れたところからながめていた。最終日開演前、来賓対応のためにロビーを横切ろうとしていた黒のパンツスーツの女性スタッフが山本少年に捕まり、ほんのサービスのつもりで、

「今日は第3ステージの終わりに『少年合唱団おと歌おう』のコーナーがあるよ。誰でもステージにあがって団員の皆と『BELIEVE』を歌えるから楽しみにしていてネ!」

と、にこやかだが営業の口調で明かした。はたしてその第2ステージの終わり、ステージライトの照射にもかかわらず同じ青いスッキリとした顔色のまま、山本少年は舞台へと駆け上がった。白いソックスによくありのタイゴン・ジュニアのスニーカーをはいた足でグレーのステージ前階段をかたかたと言わせ、十何人かの子どもたちと登壇していき、彼らしい、冷たい月夜の泉のような声で『BELIEVE』を歌った。アルト側最外縁の中段でカンニングブレスを巧みにかましながら主旋律を気持ち良く歌っていたアオケン少年は、無意識だがそこはかとない憧れのようなものを感じながら山本少年の4年生らしい歌う後ろ姿を見ていた。…コーナーの終わり、ワイヤレスマイクを手慣れた風情で握った高学年メゾの団員が、ひな壇の団員隊列とは2メートル離れた手前で横隊している「参加してくれたお友達」何人かにマイクヘッドを差し向けて出たとこ勝負で感想を尋ねる。
「楽しかったです。」「きれいな声で歌えました。」「みんなで心を一つにして歌えたと思います。」
ありきたりな言葉のあと、カミテ側4人目に立ってマイクのまわってくるのをじっと待っていた山本少年が、身体つきにはおよそ不釣り合いな野太いしっかりとした声で場内に「ひとこと」を響き渡らせた。

「ぼくもこの少年合唱団に入っていっしょに歌いたいんですけど、どうしたらいいんですか?」

後背のソプラノ上段の隅で団員募集についてのMC原稿を後のステージの準備のため半ズボンのポケットにしのばせていた6年生ソプラノが露骨に嫌な顔をした。だが、そこには全く目の行っていないマイク管理担当のメゾ団員が、言い訳程度に事務的に聞こえるよう機転を効かせて言葉を発した。

「第4ステージの始めに、ぼくたちの合唱団の募集要項を読みますから、それを聞いて応募してください!…それじゃあ、次のお友だち、感想をどうぞ。」

山本少年は次のステージの始め、何か自分のためになる情報が必ずや聴けるのだろうということだけは瞬時に理解できた。それ以上何も言わずステージを降り、客席で母親に付き添われたごく普通の小学生の観客として過ごしながら次の幕が開くのを待った。研ぎ澄まされた彼の心の集配ポストは、メモやレコーダの必要がないほど入団情報の詳細を受け入れる準備を整えていた。何を聞かされても覚えてその通り僕は進んでみせる!…だが、抑えられた客調の鉄錆色の暗がりの中で、小4男子の高揚は何も外目には認められなかった。先ほどあの子らと声を合わせた『BELIEVE』の転調後、新しい歌の出だしがパッと輝いて幾度も彼の小さなポロシャツの胸の内側に去来した。
第4ステージが始まった。

「今年の後期の募集はこの9月で全部終わりましたが、来年の3月からまた新しい小学1年から4年生までの歌の大好きな男の子を募集します!僕たちと一緒に歌ってみたいと思う人は、そのとき、ぜひ応募してください。僕たちみんな心からお待ちしています!」

男の子はペール ・ワインレッドのモケットがざらざらと貼られた客席の上で、静かにそれを聞いていた。そして、彼のいつもの雨滴の眼差しの双眼で、照明が落とされたコンサートホールの暗がりの中をじっと凝視しながら

「ダメってこと?」

と、傍らの母親の方も見ずぼそりと言葉を発した。


 ハイバックシートの白いヘッドカバーの下端に、アオケン少年のつやつやした髪が乗っている。車窓の光の方形がうつろう度に男の子の前髪に描かれるプロジェクション・マッピングはコンテンツをきららかに入れ替えて帰路を急いでいるところだった。高速道路に乗る少し前、歌いきり何かを爆ぜて数日間を舞台に過ごした少年たちは、座席のあちこちで対角線に上半身を傾けたまま、すでに甘栗色の静かな寝息をたてはじめていた。

「必ず僕がそばにいて支えてあげるよその肩を…」

アオケン少年は一人、虚ろな目でぼんやりと前の座席の肩に描かれた不燃布の文様をたどりながら、そう呟いた。網ポケットに挟まれた青色のビニール袋がなぜかしわしわと揺れている。あの少年は今、何を思っているのだろう?合唱団の男の子は、つい数時間前までボータイの平ゴムで締めていた首周りに右の人差し指を鉤型に突っ込んでかりかりと掻いた。少年合唱団員は、聞いてくださる人々を幸せにするために今日も歌っている。

「世界中の希望乗せてこの地球はまわってる 。」

疲弊した曖昧な悲しい笑みを浮かべながら、男の子は歌詞をそこまでかさこそとつぶやくと、バターのように重く溶けだした両の瞼を無意識に閉じた。

ママがサンタにキッスした I Saw Mommy Kissing Santa Claus

December 21 [Sun], 2014, 1:51
▲2人の少年もまた目を見開いて互いの姿に仰天し、「お見合い」の構図で足が止まった。マイケル坊やは2人も要らない。松田リクは自分の錯誤を一瞬で看取し、くるりと客席に尻を見せて元の隊列に収まり足元の位置を確認し直した。

ゆうべ部屋のヤドリギのリースの下で
ママがサンタクロースとキスをしていたよ
サンタの置くプレゼントは何か
階段を降りてきた盗み見の僕に気づかないまま
はやく寝ないとサンタさんは来ませんよと
早々に寝かしつけたつもりだったのだろう
そして僕はママがサンタにこちょこちょするのを見た
雪のように白いお髭のその下を

 人影のない漆黒に近いテラス。親子はぼんやりとランプの灯るテーブルを選び、飛散よけのため重めに作られたカフェチェアの背面に指をかけ、ガラガラと引いた。
アイドリングの轟音は、パドルをかざすマシャラの頭上を突き抜けて、幾重にもこのデッキへと達してきているが、男の子は大小様々なターボエンジンの音に紛れるようにと静かに細く、澄みきった冬の夜目を通じ、クリスマスの歌を歌っている。見えるものはテーブル上のパレスチナ料理のテイクアウト。床一面に広がる青く小さな光の粒とローリング・テイクオフの列に加わろうと漸進する旅客機の窓の明かり。海上に認められる幕張海浜の夜景は今にも夜目に紛れて振り消えそうだった。

 お持ち帰りのパガス紙フードパックの折りをただテーブルの上へ置いただけで、焼けた羊肉の匂いに紛れプレーンヨーグルトの発酵臭が暮夜の中へふわりと立ち上がった。ママと二人のクリスマス。
チェックインカウンターと搭乗デッキ入口を望む中二階の、デザイナーズ・チェアの回廊から退避してきたのである。
「最初はこんな歌い方じゃなかったんだな。何か、みんな練習して、誰か歌いたい人?…って言われてオーディションしたら、あんまり、みんな変わらなかったの。昔っぽい、カビ臭いセンリツだったし…。」
「じゃあ、そのとき『ボクがやります!』って先生に言ったのがリク君だったんだ?念願のクリスマス・ソロデビュー。千載一遇のチャンス!」
「ううん。先生が曲の説明をして、これって狼少年みたいな子で、兄弟とか友だちとかに『ママがサンタクロースにキスしてたの見ちゃったんだってば!』って言っても誰も信じない…って。でも、パパだけは信じて笑ってくれる。そんな曲だから、何かヤンチャって言うか、イタズラばっかししてるような子の感じの子にしたいんだけど、誰にしよう?って、先生から逆に聞かれて…」
最後まで聞かなくても母は解っている。

「ところでお疲れのところ、大変申し訳無いんだけど、メゾソプラノ班長どの…」
クリスマスは少年合唱団の稼ぎどきと人は言う。週末は午前10時過ぎのマチネに始まって、夜半のショーやアトラクションまで日に2カ所の移動、計4ステージを歌う出演はザラ。都内には1日3回のミニライブをこなす少年合唱団もあるそうだ。
「ねえ、このカードって、合唱団の誰かに渡すんじゃなかったの?忘れてったでしょう?」
重い通団カバンを空の席へ下ろし、つめたいピーコートのトグルを3つ目まで輪っかから引き抜いたところで母に声をかけられた。洋封筒のような平坦な白い方形が1枚、カチンコよろしく母の指先で上下に振れている。15メートルの彼方、閉店直前のバーキッチンのドア格子に、ゆっくりと明滅するクリスマスツリーのLEDが無言のまま映し出されていた。
「僕、知らないよ。カードなんか書いて無い。それに、誰くんへ…って書いてあるの?」
「受け取り人不明の手紙なの。宛名は無し。せめて宛名ぐらい、最初に書いておきなさいよ。」
「だって、僕、最近、カードなんか書いてないもん。証拠を見せてよ。」
「年末大掃除の第一弾でイサム ・ノグチの横のスツールをひっくり返してキレイにしてたら出てきたの。これ、絶対にお習字やってる子の字だよね。ウチのリビングから出てきたんだから、リクくん、キミ以外に考えられない。」
誰かのクリスマスカードの代筆なのだろうか?びっしりと文字の記されたカードを少年はテーブルの淡いキャンドルライトにかざして見た。紛れもない、見慣れた自分の字だが。
「寝ている間の自動筆記なのかな?」
よくありの、煤けたラファエロの聖母子がカラー印刷されているだけのまるで飾り気の無いクリスマスカードだった。「I wish you a Merry Christmas, And a Happy New Year.」とクリスマスソングの歌詞同然の至極当たり前の英文がイタリックのカリグラフィー体で墨色に印刷されている。児童合唱団はこの季節、出演のたびにクライアント様たちから飲食物以外にもご褒美を頂く。封筒の付いた未使用のグリーティングカードがポリプロピレンの透明袋に入れられ、配られることもあった。

何でかかわらないけど、ぼくは、君のことが心ぱいです。
アドベントのおれいはいの出えんが終わって、キャンパスプラザのお兄さんたちのつくってくれたココアをのみながら、ぼくはこれを書いています。
読んで、きっと君は変な顔をするでしょう。
クリスマスが終わっても、どうか練習をやめたりしないで。
自分勝手に自分の卒団の日を決めたりしないで!
とくいなパートで、出やすい声で歌えば、きみの声もぼくの声も同じで続くのです。
自分のやってみたいソロも演ぎもまだあるでしょう?
「ママがサンタにキッスした」のソロはどうでしょう?やりたいと思いませんか?
だからまた、来年、キャロリングのごほうびにかわいいブッシュドノエルをいただいて、
それから中学生になっておわりにしよう。
それまで、がんばって練習できたらいいと思う。きっとできるし、その方がぜったいにいい。
ぼくは君の声が合唱の中で聞こえるとなんだかうれしいし、がんばれると思う。
クリスマスが終わったら、また、きっと、練習場であいましょう。
いとたかきところでは、かみにえい光があるように、
地の上では、み心にかなう人々に平和があるように。メリークリスマス!


「ひいらぎかざりて」は有声・無声のどちらの声でも男の子の胸郭を刺戟する小気味良いキャロルだ。アルト側上段の端からも、ソプラノ前列の3年生たちの一群からも「♪ファララ、ファララ」とクリスマス讃美のリフレインが鮮明で温厚に聴こえてくる。ソロと掛け合うようなアレンジのものではない。目前で歌う石田光のガウンの本天の肩へ、演奏会場のパーライトの光が1本、筋状に降りている。
「次はみなさんお馴染みの、楽しいクリスマス・ソングを2曲お届けしましょう!」
キャロルの後はポピュラーナンバーの小コーナー。MCのスタンドマイクの前に出て行った前江トーヤの刈り上げた襟足がマルーン色のソフトモヒカンの下、かすかな汗ばみなのかラメパウダーの輝きを見せていた。
「ペンシルバニア、ホーンデールの公園が雪に覆われた日を歌った曲だそうです…。僕たちも、そり滑りや雪だるま作りの楽しさいっぱいに歌います。R・B・スミス作詞、フェリックス・バーナード作曲のウィンター・ワンダーランド。そして、マイケル ・ジャクソンが12歳のときにカバーしたものも人気です。僕たちもカッコいいマイケルのようにソロを入れて挑戦します。トミー・コーナー作詞作曲「ママがサンタにキッスした」の2曲です!続けてお聞きください!」
踵を返す前江トーヤのガウンの後裾が、MCマイクのブームの端に未だ細長く映っているタイミングであるのにもかかわらず、伴奏はスイングジャズの時代に作られた曲のオリジナル通り、4小節ほどのサビを奏でる。テンポよく直ちに「ウィンター・ワンダーランド」の合唱が始まる。冒頭から付点2分音符のロングトーンが小気味良い八分音符の連桁の中で伸びをして、少年たちの心の中ではチョロっと煽りのあるメロディーラインが胸もすく愉快さだ。合唱団がこの曲をクリスマスステージのエンディング・フィナーレへと据えていた頃、途中まで手拍子で興じていた客たちは、最後のリタルダントがかかり始める頃合いから、ステージへと様々な嬌声を浴びせかけていたものだった。「メリークリスマース!」「さようならー!」といったものから、「ありがとうー!」「また来てねー!」「素敵な 合唱だったよー!」という感情のこもった声もたくさん投げられた。「品川(兄)くーん!」「三ちゃーん!」「チッくん、カワいいー!」「キャー!」…アイドルの追っかけ顔負けのものもあった。後奏をたたくピアノがファンファーレのように場を煽り、揃って一礼をし脇目も振らずシモ手側に退場していく少年たちに、客席の人々は拍手喝采をしたり手を振ったりしてコンサートの余韻を楽しんでいた。「ウィンター・ワンダーランド」は彼らにとって、そういうナンバーだった。
 子どもたちが次の曲の始まるまでの刹那、あがりはじめたブレスを落とし直している間、ある者は山台の床に直置きしているスレーベルやトンチャイムを踏みつけぬよう足元を確認し、サンタ帽をかぶったチームは耳の横にずれて片耳の聴覚を邪魔している白いポンポンを後頭に降って避けた。指揮者がわざと視線を前方に転じてソロの少年のスタンバイの遅延をやり過ごそうとしている間、乾いた冬期のステージでもう何曲も歌い終えた団員たちの中には唇を素早く舐めて前歯でそこを噛む者もいる。間もなくカントリー全盛時代のオリジナルに似せて作られた「ジングルベル」のメロディーを含んだ前奏が、指揮者の見切り発車の目配せと左手の挙動を受けたキーボードの弾き始めでのんびりと聞き取れた。だが、冒頭ソロのスタンバイを受け取りにソプラノ中段左翼からストンとガウンより突き出たつま先を床に落とそうとしてセンターを向いた少年の目前に、メゾソプラノしも手側から同じような挙動でぼんやりと降りてきた団員が一人いる!指揮者の男がギョッとして何か合図を刺そうとしたのと同時に、2人の少年もまた目を見開いて互いの姿に仰天し、「お見合い」の構図で足が止まった。マイケル坊やは2人も要らない。松田リクは自分の錯誤を一瞬で看取し、くるりと客席に尻を見せて元の隊列に収まり足元の位置を確認し直した。入れ代わり、寒冷なステージの上で歌ってきたために頬と鼻の頭を赤く染めたすらりとした少年が、一瞬固まった身を融解しソロ・マイクの前に駆け込んだとき、独唱の冒頭はわずかに欠けてしまっていた。

 「それより、リク君、きみは未だサンタさんにクリスマスプレゼント希望のお手紙を出してないんじゃないの?」
男の子はアイランのシェイクカップにさしたストローの先を咥えるようにように一度舐めとった。
「出してないよ。…サンタさんがプレゼントを持ってきてくれるのは最後まで頑張りぬいた子だけなんだ。僕のところには来ないよ。」
お母さん、ごめんなさい。本当に僕のプレゼントは気にしなくていい。
「そうかなぁ?…リク君は頑張ってない子なのかな?」
母は少年が未だフィン語を話す白い髭のお爺さんをイブの宵待ちに信じていると思い、またそう思いたい。
「もちろん、頑張ってるよ。…でも、少年合唱団ではどんなに頑張っても結果を出さなきゃダメなところなの。曲を聴きに来てくれるお客様がたが見るのは、その日その時、その会場のステージに立っている僕たちでしかないから。いくら頑張って歌っても本番でお客様を幸せに出来ないようなのは、つまらない子どもの鼻歌とあまり変わりがないんだよ。」
黒い34Rの上を滑っては消えてゆく各社の垂直尾翼たち。離陸の順番を待つ機列の静かな黒光りはここからは見ることができない。ターミナルのボーディングブリッジに繋がれた大小の機体が丸い金属の光沢を放って横たわっていた。
「あなたがた少年合唱団員は『頑張っても、頑張らなくても、所詮結果は同じで変わらない』と思っている?…わけは、無いよね?」
「わけは、無いよ。頑張るのは全員が同じ。問題は、それがお客様の目と耳にどう届くかということなの。」
「結果が出せなかったから、リク様はプレゼントを辞退します…というわけなんだね。わかりました。…でも、サンタさんには手紙をお書きなさい。今までずっと書いてきたのだから。」
ごめんね、今年はいいんだ。お母さんもフィン語に翻訳するの、そろそろ面倒くさいと思っているんじゃない?キッチンに置いてある母のIPadには右側を「フィンランド語」に設定したままのgoogle翻訳が入っている。
 男の子は折蓋を開け、ペーパーナプキンの間からプラスチックフォークとナイフの衛生包装を転がして出し、ギザを切ってサイコロ状のケバブのパンを突つきはじめた。モンチッチカットの上に頬の後ろのほくろが一つ。ブリーチしたほどの乳白の顔色に真っ赤な唇。ころりとした体型の下に伸びた白いストローの脚。オーバーサイズの紺ソックスが冬場は必ずひかがみの裏まで伸びていた。大きな頭の少年。少しく背中を丸め、羊肉とトマトピュレとヨーグルトをごたまぜにして口に運ぶ。

 目前のウッドデッキの縁を黒いスクウォール・パーカーの男がぼんやりと歩いて出て行った。
「リク君、寒くない?少し明るいアベック・テントに移りましょうか?」
尋ねた母の視線に交差させ、少年はかぶりを振った。
「ね、お母さん…お母さんにもサンタクロースが来るの?」
男の子は今度はハッキリと闇に紛れかけた母親の顔を見て尋ねた。
「来ないわい!大人だもの。…あとでこっそり教えるけれど、キミの母も、もう結構な歳なんだ。」
「えへへ。プレゼント、欲しくないの?」
「リク君と同じで、今はたくさんは欲しくないな。昔は【欲しいものリスト】を作ったら、広辞苑の厚さぐらいになるような頃もあったけど、今のお母さんは年齢制限にひっかかってるから肝心のサンタさんが来ないんだ。」
「そんなことないよ。年齢制限があるのは少年合唱団の応募要領だけだもの。『ママがサンタにキッスした』って言うじゃない?お母さんにもいつか必ずキッスしたいサンタが来るんじゃないかな?」
「あれは息子どののところへ来たサンタさんだよ。ついでに昔すてきなプレゼントを自分にもいっぱい届けてくださったお礼に倍返しのキッスをしてあげただけなのよ。」
「えー?じゃあ、まさかの義理キス?」
「うーん。まあ、そうとも言い切れないところがあるけれどネ。」

 クリスマス・レパートリーの譜読みとソロの仮決めのタイミングは、毎年夏の暑い盛りだ。文化の日や定演を中心に何かと慌ただしい秋になってからそれをやっていては12月のホンバンに間に合わないし、他の練習の邪魔になる。初見の子たちの音取りのグループからピアノの際を抜けて本科の練習室へ復帰した団員たちの中に、今年はソプラノ途中入団の優秀な子たちが含まれていた。
「いいじゃない。リク君もカネゴン君の歌はいいと思うし、大好きなんだから。」
「でも、3年の時も4年の時も、『ママがサンタにキッスした』のソロは僕だった。」
美しいテールを振って、C滑走路からフラッグシップのダッシュ300が平然とテイクオフしていった。
ターミナルの屋上からは練墨色の夜目を乱すブラストの片鱗すら認められないのだが、何の予兆があるのだろう…都市の真ん中に位置する空港を旅立つキャビンの明かりは静かに消灯されていた。
「新入団員がどんどん入ってくるんだよ。リクくんも最初はピッカピカの新入団員だった…3年生、4年生と2回も『ママ・サン』のソロを務めさせていただいた5年生は何って考えたらいいんだろうね?しかし、よりによってキミが一番好きな後輩がソロを持っていくとは…。」
「お母さん、僕もそんなことはよく分かってる。僕は自分のやっていたソロを今度はカネゴン君が引き受けてくれてとってもうれしいし、好い気持ちなんだよ。最近、男らしくてとってもかっこいいんだ。…でも、お母さんが楽しみにしてたのは、僕のソロだった。だって、歌って人を幸せにするのが僕たちの仕事だからさ。」
デッキの上では順路を誘導する弱いブルーLEDのラインがゆっくりと仄かに明滅を繰り返している。
「リク君がシアワセにしたい人は、このお母さんなの?…それとも客席で真剣に聞いてくださるお客様がたなの?」
息子は淡い冷たい光の道すじを目で辿るのを止めた。
「それに、お母さんが少年合唱団の保護者会の役員を買って出てるのは、自分の息子をソリストに使ってもらおうという下心があるからなんて、まさか思っていないよね?」
「ちがう!僕たちの合唱団みんなの大ファンだから!」
「それに、お母さんは役員をやってから、いろんなお母さん、お父さんがたと友達になれたの!先輩方のママさんたちからはたくさんのことを教わったり、合唱団母のためのお役立ち情報を頂いたりしたし、下級生ママさんたちを大切にすると、いざというときに必ず正義の味方になってくださることも判った。いろんなところへ顔の効くお父さん ・おじいちゃんたち。大変なことをお願いしても絶対にイヤ・出来ないとは言わない縁の下の力もちのパパさんたち。みんな、みんな、役員ママたちと君たちボーイソプラノ&ボーイアルトの強い味方!お母さんはたくさんの味方とお友達になれた。」
「わかってるよ。でも、僕も少年合唱団員の一人なんだ。」
「じゃあ、リク君にできる最善のコトって、何だと思う?」
「サイゼン…って、『一番前の方』ってこと?」
「『一番良いこと』っていう意味よ。合唱団員だから、『ライブの一番前の客席』と勘違いしたね?」
「サイゼンなのは、合唱をしているという立場で全員が自分たちの歌声を聴いてハモることだよ。」
「うーん、もうひと声!」
「みんなの声が一つになって響いているのを聞き取る。そして、少年合唱団のことを好きになる?」
「それは良い考えだねー!ソロを歌っている最中には絶対に出来なかった貴重な体験なんじゃないかな?」
「ほんとだ!カネゴン君にソロを譲ってあげて、本当に良かった!…お母さんは、僕がそんなことを言っちゃってもいい?構わない?」
「もちろんよ。自分の息子が心も体も強くたくましくなって悲しむようなお母さんなんて、世界中探しても一人もいないわ。」
イスカンダル・ケバブは羊肉の赤みから浸潤した血味を含み、赤ぶどう酒色のパンで満たされているはずだった。
「それに、リク君が少年合唱団で一番のもの…他の子には絶対負けないものをお母さんは知ってるよ。」
「一番のものなんて、無いよ…そんなもの。さっき、みんなと一緒にハーモニーを作るのが一番いいって言ったばっかりじゃん。」
「でも、あるの。歌じゃないよ。」
「なぁんだ。合唱団のことじゃないじゃん。」
「まさか!少年合唱団に関係大有り!全員が毎回やることでしか無いんだけれど。」
「ブレス?」
「いや、いや。」
「姿勢?」
「近い!」
「集中力?」
「ちょっと遠くなったかな。正解は終演挨拶のキレイさ。」
「僕の挨拶なんかフツーだよ。誰がやっても同じだし、だいたいそんなものを見てる人なんかいやしないよ。」
「リク君たち本人は頭を下げている最中なんだから、わかるはず無いでしょう?お尻の出し方と頭の下がった場所と、その時間が少年合唱団で一番キレイなの。」
「そんなの、どうせお母さんがさっき勝手に決めたことなんでしょう?」
母は最高のドヤ顔で息子の影法師に微笑みかけた。彼女の情報源は仲良し保護者数名の井戸端会議レベルのものではなく、保護者会広報委員がちらりと見せてくれた先生・保護者・団員対象アンケートの結果。男の子はアイランのカップに突き刺さったストローを真横から眺める仕草をした。和紙を通したような柔和な光がダウンライトの光の線を透かして一本通っていた。
「僕の挨拶なんか、どうでもいいじゃん。偉い人になるために合唱団で歌ってるわけじゃないし。」
今度は母が塩味のヨーグルトドリンクをすすった。
「知っていますよ。歌が好きだから1日も休まず少年合唱団に通っている。お母さんもそれでいいと思っている。将来何かの役に立つから少年合唱団に来てる子なんか、もしかするといるんだと思うけど、そういう子はお母さん、ちょっとかわいそうだと思う。」
「そうでしょ?少年合唱団が将来役に立つなんてわけ、無い!そうじゃなくて、みんなで歌うのが楽しいから来てるんだ。」
一体、何を目的にして息子を少年合唱団の団員にしたのかは各家庭により事情もポリシーも実に様々で千差万別だ。松田リクの入団動機は「ボーイソプラノの声でいつも何か楽しそうに歌っている年長児だったから」。むろん、そうではない子(母親が若いころパリ木の追っかけをしていたり、たらさわみちの愛読者だったりという子や、両親が大学グリーからの友人で、結婚して生まれた息子が女の子ばかりの近所の児童合唱団にどうしても入りたがらなかったからとか、テニス教室のキッズクラスのお友達から「一緒に歌いませんか?」と誘われて…とか)もザラだ。だがもしも自分の息子を礼節のある奥ゆかしい子に育てたいのであるとしたら、「ノーノーボーイ」も「こりこりまりもっこり」も「ママがサンタにキッスした」もレパートリーに据えて歌ってしまうような男子小学生のみ在団の男の子だけの合唱団ではなく、武道や茶の道・華の道といった方面に進ませてやるのがかなり確実で効果も分かりやすいコースだと言えそうだった。
「…でもお母さん、やっぱり僕はサンタクロースのプレゼントはもういいよ。サンタさんがプレゼントを配るのはとっても大変なことなんだ。僕たちもクリスマスコンサートの休憩時間に会場のお友達へプレゼント配りをするでしょ?だから、わかるんだ。とってもきつい仕事なんだよ。」
クリスマスコンサートのインターミッションの冒頭に、上級生団員たちは所属声部の下級生1ー2名をお供に引き連れ、クリスマスの図柄が印刷されたピロー包装のチョコや飴やマシュマロを配る。飲食物が配れるのは半野外や屋外のイベント会場がほとんどであるため、演奏中に保護者会のお母さんがたや合唱団OBたちがベンチに着座している子どもの数を数えて必要数プラスαのお菓子を担当団員に持たせるのだが、助手役の2年坊主がキャンディーのバスケットをひっくり返して飴を踏んでしまったり、手暗がりのある宵のコンサート会場でマシュマロを一人2個も渡して済ませてしまったり、「余りそうだから」と若いお客さんがカゴに手を突っ込んでゴソリと掴み取っていってしまったりと、なかなか上手くいかない。クリスマスコンサートに出演を続ける少年合唱団員にとって、聖衣のガウンの裾や襟の始末の仕方と同じくらい、プレゼント配りは気を使う仕事なのだった。12月に入ってからしばらくして宅配便で届いたプレゼントの包みをクローゼットの奥の上棚に上げてイブの夜更けまでの日々ひたすらに隠匿しておく我が家のサンタクロースの正体を見透かされたようなリク少年の発言ではあったが…
「リク君、どうしてサンタさんがプレゼントを用意するのは大変なんでしょう?」
21世紀初頭、手紙を書いても日本にやってくるサンタクロースは決して子どもの頼んで祈って心待ちにしたものを持ってきてはくれない。所望の 品の類似品であまり高価なものでないおもちゃや、ちょっとトンチンカンな品目や、入手容易な代替品のオンパレード。日本中の子どもたちは物心ついてからこのかた、皆そのことに感づいて気にしていた。
「フィンランド語に訳すとき、お母さんたちが綴りやニュアンスを間違えたりしちゃうからかな?」
男の子は笑った。
「全然ちがう!子どもでも手に入りやすいものをわざわざサンタさんに頼んで買ってもらうなんてシチ面倒くさいことをするような子はいないよ。」
「だから、去年のリク君がサンタさんに頼んだプレゼントみたいに、トイザらスの前で整理券もらったり、一昨年みたいに師走の寒冷な夜明けまで12時間以上も外で並んで待ったあげく結局転売屋のおじさんから高額で買い取ったりしなきゃ手に入らないようなおもちゃばっかりどの子もお願いするわけ?!たしかにサンタさんは大変だ!」
ボーイソプラノと、それより少しだけ野太い女の笑い声がカフェテーブルの上に立った。暗いせいか、折の中のドネルケバブ・ヨーグルトがけ豪華版はあまり減っていない。
「だから、僕はプレゼントはいいんだよ。来年、もっとかっこいいボーイソプラノになって『ママがサンタにキッスした』のソロをカネゴン君と一緒かダブルキャストでまたやるようになったら、考えておいて。」
「『…考えておいて』って、誰が考えておけばいいんでしょう?サンタさんかな?」
「僕は5・6年生になったら、カヤト先輩みたいなマジかっこいいボーイソプラノになろうと思って予科をやっていた。…知ってるよね?それが、今は…どう?」
聖ニコラウスの夢はフィンランドの森の中からそりに乗って空を飛んでくる老人の物語だ。夜と冷気の帳に降りた国内線第2ターミナルの屋上で2人こうして空を眺めていても、降ってくるのはLCCのウイングレットの振れ。炭素樹脂のワイドボディの底から突き出たカラス色のラジアルタイヤの曳行。埃っぽい都会の冷たい夜気でしなかった。井上カヤトは4学年上級のソプラノのソリスト。定演の『美しく青きドナウ』の、ぴったりフィットで身体を覆う体操ジャージ転用のまっ白い側線ズボンに勝栗色のブーツを履いておもちゃのラッパを掲げた姿に、かつてリクたち予科生団員は雄々しくも神々しいお兄さんへの憧れと身を焦がしたものだった。
「予科のときの自分が今の僕に会いに来たら、いったい何って言って帰っただろう?」
自問の男の子。
「例えば『あ〜あ、情けない!』とか?」
「うん。」
「『カヤト先輩とは大違いじゃない?』とか?」
「たぶん。」
「無理!…とか?」
「あはは。」
男の子は埃の粒と小学生男子なりの皮脂で薄紫に汚れたまつ毛を人差し指の背で拭った。
「そうかね?…そんなこと言うかね?」
「言うに決まってる。そういうこったね。」
すっぱい匂いが左手に持ち替えたフォークの串の間から漏れている。
「お母さんは、言わないと思う。予科の頃のきみは、頑張って頑張って失敗もするしソロを落としてまた一つ強くなる先輩を前に『あ〜あ、情けない!』なんて言うような子じゃなかった。だって、きみ自身が一生懸命だったし、何を歌っても誰が歌っても楽しそうだったから。お母さんはいつも一番近くにいて穴の開くほど予科生のきみを見つめていたんだもの、間違いない!予科の頃のリク君は、今のリクをきっと羨望の眼差しでまぶしそうに見上げていたはず。…お兄ちゃん、カッコいいなぁーって。」
「お母さん、僕、そのとき何って言って予科生の僕に答えたらいいんだろう?」
「決まってるじゃない!『キミもすごくカッコイイよ!』って言ってあげなさい!」
だが、男の子の影法師は突然何かに想到して目をむき、暗がりに母の姿をとらえようとした。
「…ねえ、お母さん、僕、ようやく思い出した!名無しのクリスマスカードを書いたのは去年の僕なの。クリスマスの、あそこの大学のクリスマスコンサートが終わって記念のカードをいただいたとき、なんだか書きたくなって、先輩の誰かが心配になってココアを飲みながら書いたんだけど、どの先輩に書いてるのかわからなくなって、結局持って帰ってどこかにやっちゃってたの。」
「そうなんだ。このカード、宛名が無くて、きっとサンタさんがもらって真剣に読んだんでしょうから、もう要らないね?」
「うん。要らないよ。でも、サンタさんには、ちょっと辛い思いをさせちゃったかもしれないな。」
「大丈夫。サンタさんはお母さんの味方でもあるし、強い心の持ち主でもあるんだから、へいちゃらよ。」

ゆうべ部屋のべヤドリギのリースの下で
ママがサンタクロースとキスをしていたよ
サンタの置くプレゼントは何か
階段を降りてきた盗み見の僕に気づかないまま

 人影のない漆黒に近いテラス。親子はぼんやりとランプの灯るテーブル。飛散よけのため重めに作られたカフェチェアの冷たい冷たい背もたれに自分のコートの背中をあてた。
「ねえ、お母さん…、僕、少しだけ一人ぼっちになってきてもいい?」
デッキの出入り口はセキュリティーの都合上1箇所しかない。防御ネットの背は高く、泣いたり呻いたりすることも今のリク少年にはできるはずもない。
「一人になってきたらいいよ。気が済むまででいいから、いってらっしゃい。でも、風邪をひいたりしないでね。」
周囲は相変わらず高低とどよめくジェット音の横溢だった。男の子が去った後、食べかけのパン切れに紛れたマトンの上を12月の都市の夜風が群青色に吹きすぎていった。サンタクロースの到着時刻は、そろそろ国際線arrivalのディスプレー下方に表示され始めているだろうか?

「寒いから戻って来たよ。」
しばらくたってひんやりとしたコートの裾の陰影ををパトリック・ブランふうの有機体の壁をバックに落としながらリク少年は戻って来た。

ゆうべ部屋のべヤドリギのリースの下で
ママがサンタクロースとキスをしていたよ

彼が鼻歌まじりでそこまでを歌うと、母は壁ドンばりの早急さ、蛮骨さとは無縁の母性に満ちた仕草で5年生メゾソプラノに肩を寄せ、銅貨のように冷たい少年の頬にキッスした。
サンタクロースは何も言わなかった。オレオ色のウッド・アプローチのポーチの真ん中で母はキッズ用コートの肩を撓ませて少年を抱き、コニファーのにおいのする彼の頬をいつまでもいつまでも磁石のようにくっ付けて離さなかった。

レアンドロのプール The Swimming Pool

November 17 [Mon], 2014, 23:00

The Martians were there – in the canal – reflected in the water. Timothy and Michael and Robert and Mom and Dad.The Martians stared back at them for a long, long silent time from the rippling water …
Bradbury, Ray (1946). The martian chronicles, NY :Doubleday


 とけい皿の大きさもある同心円は夥しく天蓋を覆い、一人の男と、その体側に開襟シャツの肩をそばだてた「男の子」が水の石室の一隅へと立ち尽くしていた。数万個に満ち満ちた青薔薇のブリザードが互いを押しやりつつ、水面叩く微かなクリック音の中で一斉に新生しているのである。豪雨の去来。驚愕の眼差。ジェイムズ・タレルの構築物はもはや腰板まで人々の齢を蹂躙していることだろう。
 プラチナ色の虚空。内包を解き続ける新月の形。過剰なモンスーンは驟雨の道筋を揺らし、頭上を蓋ぐ高透過強化ラミネートガラスへと描かれた模様に移ろいを与えている。自然現象が止めども無く天を打つ尋常とは程遠い光景であったが、その頬はすっかりローズヒップの色に輝いて、見開く瞳孔と眼瞼の下、温厚な口唇をたわませた。そうして少年は傍らの男の眼差しに向かい、何か話しかけているように見える。男は機嫌よく応じ、連れはまた賢そうに大人の両目を見据え、答を返していた。

 作り付けられてから10年。小学生男子というのはプールサイドから中を覗き込ませると、どうしてこう揃いも揃って同じ格好をするのだろう?似通った白いシャツ。こちら側へ突き出た暗紺の半ズボンの尻に、建物外縁の芝生からくっつけてきたものらしい千切れた数片の平行葉脈。架線に羅列した雀の尾羽が揃ってこちらを指すように、男の子たちの履くシューズのゴム底は消炭色に沈んで、逆「ハ」の字がリズミカルな小富士の連続を描いている。プールサイドのライムストーンの縁の上。白の標準服をまとった見るからに夏休み前後の小学生男子たちと、ランスロット少年のような合唱団員を見分けるには起立をさせて服の詳細を確かめてやる必要があった。襟の丸まった鹿の子ポロシャツや風変わりなニット地の開襟を着て、学年カラーやホワイトのアクリルのネームを胸ポケットのストラップに安全ピンを通しぶる下げていればそれは市内の小学生たちで、関西の人々が執拗に「カッターシャツ」と呼びたがるポリエステル混紡の半袖白開襟を汚れないようにパリッとまとっていれば間違いなく少年合唱団員ということになる。
「ランスロット!行くぞ。立ちなさい。」
メンバシップ関数を援用したファジーの回路が働いているらしく、こちら側へツルツル・テカテカとアタった半ズボンの尻は一つも動かない。かく言ううち、ブラウスに車ひだの紺スカート女子4−5名が適当に横列駐輪の少年たちの間へ割り込んで、結局同じ恰好で水面をかき回しはじめたが、数瞬で大騒ぎになった。
「あー!誰かのキップが流れちょる!」
「あぁ!」
「誰や!誰や!」
横2メートル80センチ、縦4メートル2センチ…那智の紅葉の宴さながらに、白い漂泊の短冊が一葉、フラッシュを受けた水流に乗り、水色の水面上、きらきらと陽を受けて舞い巡っている。

 どちらにせよ小学生のポケットへ収まったチケットに料金はかかっていなかった。施設のメインゲストである彼らは全くもって卵や金を撒かないが、再来館には付き添いの大人・家族を要し、15年も過ぎれば彼ら自身が自身の子どもを引き連れて幾度も戻ってくる。最強の集客システム…「金の卵」たちなのである。悲しいことに残照のような客席動員を支え、「永久機関」にくべるべき次の熱源を得ることが出来ずにいる現在の日本の少年合唱と明暗を分つものはそこだった。第4学年の10歳児を中心に、国公私立を問わず年間4000名を優に超える市内の小学生が無料のチケット1枚と、プールに零落し無くしたりしなければ後日再入場可能な半券を刷った館内マップをポケットに詰め込んで、ここへ動員されてくる。プールサイドから説諭の声をかける大人たちに促され、ポロシャツの腹の脇で手の甲についたプールの水をふきふき子どもたちが行ってしまうと、さすがにメラニンを持っているとは言いがたい浅い肌の少年がぽつりと一人、水中を見据え、ぺたりと縁石に座し、居残っていた。だが、よく見ると火星年代記の終節文のごとく、ひたひたとさざ波立つ水の面を通じ水底から、いつまでもいつまでも黙ったままこちらを見上げている地球人の子どもの影が見えるのである。白い服の上半身からはウォルナット色の頭や腕、濃紺の腰部。日焼けた高学年の男の子の面影が、陽光の作るまだらの中で全てちろちろと揺れていた。ランスロットは相手が誰というあても無く、水中の少年の網膜パターンを読み取ろうと暫く試みているようだった。男もまたその背中に向け再度声をかけようとして言葉を飲みこんだ。水底の少年の図像の蕩揺は彼にとっても見覚えのあるものだったのである。


 アンブロのミルトン3。JRトレーニングシューズ。ソニック、Fイエロー、メタリックブルー。umbroロゴのサイドキックパネル。甲幅をキュッと絞ってあって精悍。スマートでテクニシャンの少年シャドーストライカーご用達しというイメージの子ども用トレーニングシューズである。指揮者はこの運動靴をかなりの強いインパクトを伴い、かつてどこかで海馬の中に刷り込んだという記憶があった。週に三日、彼の前に並ぶ数十名の少年たちの面影が足下の図像と共に呼び起こされたが、その中にこのキラキラ光る空色の靴を履き慣らしている者は居なかった。ケアホルムの純白のPK80の縁に尻を落とし、今にも寝転がりそうな風情の下級生たちの横で豆腐のようなソファの座面にぴっちり直立した上半身。ステージに立って歌いだしのタクトを待つ少年合唱団員の上背がまさにこのスタイルだった。一見して手入れのよく行き届いたブルーハワイ・ソーダの色の靴を履きこなしているのは、その少年なのである。彼らの一行は、傍らに中腰の姿勢で立つ原色のストラップをかけたボランティアから、今まさに出発の前の何かのインストラクションを受け終わりそうになっている。

美杉太一の自由時間の過ごし方の計画は、プールの底で横になり、聞こえてくる音を確かめながら目をつむり惰眠をむさぼることと、深呼吸をして胸いっぱいに石室の匂いを嗅ぐことと頭上をめぐる水流の出どころでもあるフラッシュの音を聞き取ること、…晴天であればプールの壁いっぱいにさざめく銀輪のようなきらめきを暫く放心の中で眺めることだった。5年生たちと、あとは1学期にクルーズを終えたばかりの4年生らも携えて、少年はオルフェウスのごとく第6展示室とばくちの暗い階段を駆け下り、プールの底へと至る道を通り抜けてきた。禁止されているのは館内の他の部屋のルールと大差ない。走らないこと。叫ばないこと。ステンレスはしごを登らぬこと。それだけだった。班内で初めてここへ来たというのは転校生6年男子が一人だけ。その彼が名ばかりのリーダーで、その他の子どもたちは皆、場の定めをよく知っており、体得もしていた。美杉太一は湖底の最奥に肌深くこんがりと日焼けした黒タイツのような脚をスッとプリエで伸ばすと、尻を落としてあぐらをかき、何を考えるともなくプールの延伸方向とは垂直に身体を伸ばし横たわった。子どもらがそれに倣い、アールのとれたライトブルーの水底に竹串のメザシのごとく寝そべる。彼らを看守する黄色いストラップの女性が、
「わたしも晴れた日にここで寝たことがあるよー!気持ちかったぁ。」
と言う。きらめく陽光のゆらぎに幻惑した4年生が、両の瞼へかかるよう茶色い腕を当てて遮光の努力をしている。
「こんプールの底、傾いとれんて?」
「気持ち悪い。斜めや。」
「僕は気持ちいい!」「わたしも!転がって遊ぶ!」
プールの底が斜面になっているというのである。実際、その通り、4年生たちは寝そべるのに飽きたのか、太一の身体の横転に合わせ、傾斜をごろごろと転がっていった。

 少年がプールへと至るカルキ臭の無い暗い通路から水色の水底に踏み出した右脚の内側に、何かモノトーンを伴った錯綜した結ぼれが一体、サッカーボールのごとくすとんと打ち止まった。目だけがあさってを見ている。男の子の右足が履く黒いマットなコインローファの靴側に体温のある球形に近いものが在って押し返しているように思える。ランスロットは白黒に認識される柔和な磊塊をインステップキックの踏み込んだ状態の動作で蹴り出すべきかをナノセカンド単位で演算し思いとどまった。ボールの向こうに側に外向きで丸まった白い鹿の子ポロシャツの襟と小学校高学年ぐらいの男の子の身体と、カシドスネイビーの半ズボンから突き出た黒い二脚が認められる。と、思う間もなく、その身体に似通った身なりの小学生が左から3人も4人も充填されるように転がり下りてきた。なぜ、こちらを目がけて?
「傾いちょる!傾いちょる!」
最初の米俵がランスロット少年の股の下で愉快げに叫んだ。
「坂になってるからよ。」
と、次の米俵。
「なんもせんどいても転がりよるのよ!」
またその次の子か、次の次の子。こらえきれぬ笑いが彼らの横隔膜を震わせている。
 ボーイアルトは今度は本当に留意して足下を精査した。ライトブルーのペイントに塗りたくられたプールの底。空色に刷毛をふるわれた水抜きの鉄格子。だが、その下には在るはずの暗い排水構への縦函が無い。同じ色で塗られた学校の水回りに良くありがちな小さなステンレス目皿が床に嵌っているだけだった。鉄格子はフェイクなのである。
「この作品の芸術として…意味と言いますか、作者の訴えたかったことというのは、何なんでしょうな?」
水を湛えたガラスの天井が頭上に迫る、プールの最奥の監視カメラの見下ろす直下。古臭いチャコールの背広、壺柄のネクタイをしめた60代半ばぐらいの男に指揮者は尋ねられた。貴重な合唱団員をエリア内で撮影する許可が下り、カメラのマークのついた腕章を胸ポケットに安全ピンでとめていた。東西文化圏の分水嶺にあたるこの土地ではこういうこともまま起きるのである。
「さあ、何でしょう?」
男は最低限五線譜さえ読めれば仕事のおおかたは務まる「少年合唱団の指揮者兼指導者」であって、インスタレーションアートの解説員ではない。腕章のせいで美術館の関係者と誤認されているのだ。
「…さあ、何でしょう?私はそもそも芸術っていうのが何だか、良く分かってないもので。…来てくださった人たちを喜ばせてナンボ…ってな分野をナリワイにしてるもんですから。全く未熟者で、すみません。」
指揮者があっさりとタオルを投げたもので、尋ねた団塊男は怪訝そうにプール下の空間から排水されるがごとく、すっと吸い出され消えて行ってしまった。
およそ5分間の後、プールへの階段を擁する第6展示室のとば口に近いチケットもぎの白テーブルの傍で、あの初老の男が「千円もカネをとって、地面に埋まったガランドウの何もないコンクリの部屋を見せるだけとはあくどい商売だ」と言った類のイチャモンを関西弁で係員へ投げているのに出くわした。70年代のブラニフ・インターナショナル航空のキャビン・アテンダント風情のユニフォーム…見るからにパートタイマーらしい監視員は、この苦情にどう対処するのだろうか。東京ではあり得ないクレームだが、こういうケツの穴の小さい苦情を一応聞いておかねばならないこの人たちは、なんと気の休まる暇もない精神をすり減らすばかりの損な役回りなのであろう。
 
 在京の少年合唱団の主な観客層は60歳代以上の団塊老人と、次はもう彼ら団員自身の保護者たちだ。兄姉にあたるミドルティーンから上の若い人たちはまず幼獣の匂いを放つ自分の弟たちのような一重まぶたで黒いごわごわとした髪の、体型も殆どこなれていない彼ら日本人小学生中高学年男子を観にやってくることは無いし、同年齢の小学生の殆どはコンサートホールの座席に腰を下ろし45分間以上も黙って静かに児童合唱を聴き続けるほどの集中力が無い。
「きみたち、自分たちはいっちょまえの小学生のくせに、一体全体何でこんなにも小学生のお客さんを呼び込めないんだ?」
指揮者がたちの悪い冗談で少年らを揶揄すると、練習場の彼らは一斉に大声で抗議と憤慨の声をあげた。
 この合唱団では今、比較的児童数の潤沢な地方の都市で小学生向けに特化されたコンサートをサミダレ式に打ちながら子どもの観客を動員しようとしている。実質的には「学校まるごと」や「高学年」などの「団体さま」単位で利潤なしにホールへ大人数の児童を「ご招待」する学校行事・サマースクール的位置付けの演奏会だ。聴きに来てくれる子どもたちのうち1学年ぐらいを「合同演奏」などの口実で抜き出して指定し、90分早めに「楽屋入り」をさせる。使用するのは地方公共団体が運営しているような割安の音楽用のホールで、「リハーサル」と称し、バックステージのツアーを合同演奏の対象学年について 声部(パート)別・学級別の小グループに分割しローテーションを組んで実施する。5年生全員が合同演奏の対象だとすると(合同演奏の相手は高学年の指定であることが多く、たいていは5年生がそのツアー付き大役を買って出てくれる)、5年1組のアルトが合唱団の楽屋で「団員おやつ」代わりの紙パックのお茶をズルズルと飲んでいる間に同学級のソプラノ・パートは練習室で今日の演目をパート練習のごとく少年合唱団員の担当メンバーたちとさらい、同じクラスのメゾソプラノ・チームは緞帳の巻き上げやパーライトの調整やオルガンバルコニーの見学といったツアーに出ているといった具合。5年2組全体がステージ上でゲネプロもどきの最終リハーサルを終えると、ツアーに出ていた1組のグループ群が呼び戻されて今度は彼らにステージリハーサルの順番がまわり、代わりに2組のパート別グループがツアーへと出かけて行くという仕掛けになっている。それぞれの小グループに合唱団の団員たちが縦割り構成で数名付けられており、定められたルーチンに従って担当するグループを誘導しガイダンスまでを施す。練習室ではパート練習にも参加し、ステージのリハーサルでも共に心を一つ寄り添って歌う。少年合唱団のメイン指揮者はステージ上に留まり、次から次へ入れ替わりやってくる子どもたちにリハーサルの棒を振り続けているのである。
 当初、小学生の団員数名だけで10人ほどもいる一般の子どもを入り組んで暗い場所も少なくない危険も無視できない劇場の舞台裏で歩かせるというのはいかがなものか…という危惧が子どもを委ねる学校側にも、責任をとる合唱団側にもあった。
だが、ホール内には当日本番まであまり仕事の無いドアスタッフや、現役連中にびしっとひとことダメ出しをかけて先輩風を吹かせてやろうと手ぐすね引いて待っているOBたちも目を光らせているため、大きな混乱は起こらない。どこかで転んだ、漏らした、吐いた等々の日常的トラブルはもちろんあるが、概して子どもだけで催行するバックステージ・ツアーは、彼ら自身もまた注意力 ・思考力・好奇心ともに旺盛で、先生方が引率してガヤガヤ・ワイワイと道行を遂げるような見学会に比べ、はるかにスムーズで上手くいっていた。
 予想とは違って素晴らしい誤算をしていたことも分かってきた。企画の始動しはじめた頃、団員らは自分たちが「インストラクター」や「水先案内人」として先頭に立ち、招待客である子どもたちに接していた。しかし、巡業の地方都市のコンサートホールなど、しょせん小学生ボーイソプラノの団員にとっても初めての場所であることが圧倒的に多く、また少年合唱団の招聘に応ずるような小学校の殆どはもともと学校全体で音楽教育に熱心に取り組んできたような学校であるためどの子も歌い慣れていてソツがない。地元のホールということもあり、招待された子どもたちの方が何度もそのステージにのって歌ってきていたりもした。結局、当初の予想に反し、少年合唱団の団員たちは地元の小学生のグループに混じって毎回巨大なソース・フォーに触らせてもらったり、LEDムービングヘッドを動かしてもらってクラクラしてしまったりするごく普通の小学生の一人としてツアーを迎えるようになる。楽屋廊下をそぞろ歩きする団員らと地元の子どもたちとの僅かな大したことのない違いは、ワイシャツの胸に合唱団エンブレムの刺繍を付けた男の子であるか、校章の穿たれたプラスチックのネームを白いポロシャツの胸に付けているかの違いだけだった。

 美杉太一はキンモクセイの甘く明るいにおいの流れるその日、フォックス色の絨毯の敷き詰められたツアー出発地点となるホールロビーのバラのアクリル彫刻の台座の側で3年生の女の子に優しくふんわりとだきしめられているところだった。周囲を取り囲む子どもらや付き添いの先生がたは、皆ニコニコとその一部始終を眺めて楽しい1日の幕切れを想い、胸いっぱい辺りの空気を吸い込み、満ち足りている。
「来てくれてありがと。うれしいや。いっぱい冒険して、歌ったり遊んだりしようネ。!」
太一少年のかけた言葉に、にこやかなその女の子の返事はまるで無かった。
「ぎゅぎゅってしてくれて、ありがとナ!」
それでも彼女の口元はこぼれるほどの笑みを浮かべているだけだった。
「じゃあ、行こうよ!班長さん!オレらを連れて行ってよ!」
班長というのがどの子なのか判らず、視線だけを振って仁王立ちしていると、ほんのわずかな間があって、長めJr.カットの男の子が一人、先頭に出てきて歩き始めた。合唱団では先生方から「長めでもある程度は良いかもしれないけど、ちょっとバサバサすぎやしないかな?それにこの茶色い色は陽にヤケてるのか、染めたのか…?」とヒトコトありそうな髪だった。さらに秋口にもなって、まだインド人のようなココア色の肌をしている。東京ではこんな色の黒い男の子は一人も出会ったことが無い。ツアーの間じゅう、寡黙で殆ど無駄なことは喋らない。だが、当日、一団を引き連れてすばらしい旅を作り上げたのは、およそ児童合唱とは無縁そうなこの子どもであった。
 手渡されたA4半裁の案内図兼ルートマップには「(1)ここから→」と班の第一巡回路が示されている。ソースフォー・スポットライトの操作体験らしかった。「出発!」と小さな声で叫んだのは、同じアルト班に太一とともに組み込まれたランスロット少年だけだった。
「僕は合唱団のアルトの美杉太一です。がんばりますので、よろしくお願いします!いっしょに行くのは同じアルトのランスロット君です…」
自己紹介の間じゅう、一人だけ手前に押し出されて空ろに団員の言葉を聞き送る子どもがいる。ソプラノの金子先輩を3年生ぐらいに戻して顔と首とふともものアトピーをふき取った感じのスマートな男の子だった。太一少年はまだ数回もこなしていない僅かなツアー体験であったが、スタート・ミーティングの最中にこうして他の子の前方に押し出されて話を聞く子というのが、必ずや何か問題のようなものを抱えていることを経験として知っていた。団員は気にはなったが、無理に覚悟を決めたり留意して腫物を触るように扱うことをしなかった。 
 彼らがホール図面を片手に階梯を駆け上がり至ったのは、バルコンのような一隅。肩に手を添えるようにニコニコ少女の手を柔和に握った女教師が一人、存在感をあまり出さぬよう気を付けながら一行に混じって付いてきたことが判った。
子どもたちはまずステージに向けて砲撃をしかけるがごとく狙いを定めたグレーの巨大な砲身を眺めた。ツアーの最初に「(1)決して『危険』と書かれた場所には入らない」「(2)きょ可があるまでホールのものにはぜったいさわらない」と厳しく注意を受けていたので、皆は機械を取り囲み遠巻きにそれを眺めたのである。だが、その中の一人は全員の自粛と留意をものともせず、スポットライトの筒先の激しく焼けた部分に小さなピンク色の両手を伸ばしかけた。太一を抱きしめてくれたあの女の子である。間髪入れず全身紺づくめのラフな格好をした男が機械との間に自分の身体をこじ入れた。子どもたちが揃ってその場でハッと身をかわしたのは、行為の突発よりもむしろ劇場スタッフの激高の厳しい口調のためだった。
「こんなコトぐらい事前にキチンと教えといてください!!」
明らかに付添い教師に向けて投げられたきつい酷烈な言葉である。
危険防止は判る。だが、ようやく9歳になったばかりのダウン症の少女に誠心誠意子どもらしい幸せな思いをさせてやろうと付き添っている一人の教師にとって、正論で緊急性もあるがこの言葉はどんなにか心無く深く胸をえぐるものだったろう。美杉太一は寄る辺なき視線を落とすチームの子どもたちの様子を目撃し、次いでランスロットと困惑の目配せを交わした。彼は部屋を後に「熱いから、大ヤケドをするよ。…って言えばそれで済むのに。」とつぶやき、付添の助教師は謝罪の言葉の後、「どこでも、どんどん行って触りたがるから、ここからは先生が連れていくね。合唱団のお友達、みんなを仲良く安全に時間を守って連れて行ってあげてね。」と声をかけ、ニコニコ少女の手を引いていった。本人はいたってご機嫌である。自分を仲間の一人として置いてくれる子どもたちと、好きな場所の好きな場面だからこそ、おそらく自然と焼けたスポットライトに手が伸びたのだ。
「あぶないヨって、言ってくれればオレたちは判るのに。あれじゃ、先生が一番可哀そう。」
ランスロットはそれ以後もいくつかの場面で周囲の子どもたちにそう漏らしたが、残念ながら聞きなれた話題なのか、一行の子どもたちは黙っていて何も言わなかった。

それから、高はし君のぐあいがますます悪くなりました。バスよいだったのです。

太一少年は学校に提出する日記ノートに書いていた。日記は小学1年生の夏休みから現在まで、ほぼ毎日のペース。高学年になった現在は、かなりの文書量を手書きで短時間に書けるようになってきた。1年間に書き溜めた12行縦リーダのその学習帳を積み重ねると、百科事典の「さくいん」の巻の厚さよりももっと厚かった。

ぼくたちは高はし君が、
「気持ち悪い。がまんができない。」
と言ったから、手伝いに来ているOBの先ぱいやつきそいの先生方におねがいして、トイレに連れて行っていただいたり、ロビーのソファに寝かせてあげたりしました。みんなはその間、そばで待っていようとするので、ぼくが
「トイレの前でゲロとかするのまってるなんて、またれている高橋君もイヤなんじゃないかな。」
と言ったのに、みんな立っていて動きません。困ってしまったので、
「どこで何をするのか全ぶ決まっているから、おくれると、よその班にめいわくをかけるよ。行こう。」
と言うと、みんなだまってぼくとランスロット君についてきました。だから、ゲネプロとパート練のじゅん番におくれずにすみました。


ランスロットの移植LTMは、この部分のエピソードを鮮やかに海馬へと留めていた。
「僕たちの班の班長は、学校のアルト班のリーダー中田くんです。キラキラした水色のかっこいい靴を履いていて、太一くんが何度もそれを指差して『超カッコイイ!まじヤベエ!きみ、似合ってんでしょ!…何かアコガレだし!履いてみたいス!』って言ってるのを聞きました。途中、ずっと言ってました。」
ランスロットは今でもそう言ってこの日の出来事を楽しそうに思い出してくれる。当時4年生だった太一少年の書いた日記の内容は、どうやら信憑性のあるものであったらしい。

 班長の中田くんは黙ってみんなのことを気にしてくれて最後まで行きました。おわりの方になって、高はし君がトイレでげぼをはいた後、ふっ活して元気になったら、みんなだまったままアルトのパート練のへやへもどろうとします。どうしてかというと、ぼくはすぐにピンときました。高はし君だけさっきパート練習をしていないからです。ほかの組のアルト班といっしょにぞろぞろと練習のへやへ行ったぼくたちを、先生は変な顔でみていましたが、ランスロット君がみんなのかわりにせつめいをすると、先生は何も言わなくて、もう一度ぼくたちにいっしょうけんめいパート練習をしてくださいました。うれしかったです。みんなは2回も同じ練習をさせられたのに何も言いません。ニコニコしています。そして高はし君のことを『じょうずだね』っとほめてあげていました。それから、高はしくんは、色々なことをしゃべりました。本当は楽しくておもしろい子だったのです!みんなが気づかなかった発見もいっぱいして、さいごの発表でも気がついたことを言っていました。

 美杉太一はその後の別れ際に「もう太一くんたちとお別れなの?」と一行に幾度も言われたことと、途中から別行動だった女の子が再帰し、またしっかりと太一少年を抱きしめてニコニコしていたことを書いて、その日の日記の記述を終えている。実際、彼らがバックステージ・ツアーで行動を共にしたのは全体練習のゲネプロやパート練習やおやつの時間を加えても1時間半あるか無いかの刹那だった。太一少年は肝心の本番舞台の出来栄えや演奏後の感想を一言も述べていない。また、別の日の記述には回想のようにバックツアーの移動中、班の子らの担任の先生に出会って「そんなにきちんと並んで左側通行をキッチリ守らなくてもいいのよ」と言われた旨、感慨深げに書き記している。少年合唱団の子どもたちにとって、楽屋通路をひたすら黙して左側通行遵守で整列のまま歩くことは最大の努力目標の一つで、彼らプロの児童合唱団としての力量の見せ場でもあるからだった。
 太一少年がそれからしばらくして通団用のシューズを履かなくても良いような、例えば運動会やハイキングなどの行事の際に「キラキラした水色のカッコいい靴」を合唱団に履いてくるようになったことを在籍していた殆どの団員たちは記憶している。学童用スニーカーとしてはかなり高価格帯の部類に入ると思われるサッカーブランドの当時最新のモデルを美杉太一は「多少きつくなっても絶対に大切に履き続けるから」と両親にくりかえし宣して頭を下げ、せがんでせがんで誕生祝いに買ってもらったそうだ。当時、学校の規則のソックスすら全員が同じ丈の同じ白無地のものをはいて劇場に訪れた学校の、太一の班のツアーリーダーだった唯一の「個」の表出を僕は決して忘れることは無い…といった意味合いの文を、彼は小学生なりの記述力で書き結んでいる。
 道行の終わり、美杉少年は班の子達に向かい、思わず「僕も君たちの仲間だったら良かった…」という旨の言葉を漏らした。だが、子どもらは少しだけ怪訝そうな表情を見せたという。太一がさすがに見咎めて訳を尋ねると、リーダーは前髪を揺らすサッカー少年らしい仕草で穏便な声調のまま「君は僕達と会った最初に『仲間に入れて』と言ったんだよ。忘れてしまった?」と沈着に告げた。当日の旅の始まりから、彼らは既に大切な旅の仲間だったのだ。

 少年たちが全国のツアーで出会う小学生のグループはどれも道中行きずりの旅の仲間だ。
彼らは行脚の途中で期せずして出会い、偶然にどこかで持たされたお菓子を差し出して「おひとつ、いかが?」と皆でつまんだり、自分たちのたどった道すがら見聞した情報や実態を教えてやり「あそこは行っちゃだめだ。危ないよ。」「観ておかないとソンをする。」「食べたっていいが、ありゃガッカリするぜ。」等々道行きのインフォメーションをお節介にも教授する。「あそこなら俺たちも通る。一緒に途中までおつきあいするゼ!」と伴走を申し出るかと思うと、「仕方ネェな。遠回りになるがよく知った道だ。不安だったら案内してやってもいい。」と道案内を買って出る江戸時代の人々の旅に似ている。
 毎週最低三日間、みっちりと集団行動の訓練を受けている少年たちにとって、演奏旅行の会場で会った少年少女たちを「ゆきずりの旅の仲間」として迎え入れることはもはや何の抵抗も躊躇も無い「雑作もないこと」だった。旅先で、演奏旅行の先々で「君たちは何て初めて会った子たちをしっかりと見てくれるの?」「今日はじめて会った子どもを分け隔てなく優しく思いやりを持って接し、昔からの友達のように仲間に入れてくれる。大人でもなかなかできないことなのに。」…本心から、感謝と感心の念を込めて褒めてくれる大人たちは多い。「日本にもまだこんな子どもがいるんだ」と、思わず口にして感じ入る人々も少なくない。「まさか通っている学校でも、みんなこんなに友達想いで優しい子なワケないよね?」と褒めているのかどうなのか分からない賞賛も。だが、そう言われて瞠目された方の合唱団員たちの反応は必ず「?!」…であり、「僕たち、何か変わったことでもしてましたか?」とばかり、ニコリともせず無表情のままでいることが多い。彼らにとって、演奏会の会場で出会う少年少女たちと丁寧に誠意を持って接することは至極当たり前で日常的な出来事であり、大人が褒めてやっても「何を喜んでくれているのだろう?」という反応しか返ってこない。自分たちの歌を聞きに来てくれた子どもらを仲間として大切にし、懇ろに、丁重に誠意をもって対等に慈しんで接すること、困っている子・辛いめにあっている子・苦しんでいる子に皆で寄り添ってやることは名誉や礼賛に値するような立派なことだとは微塵も思っていない。彼らはそうして、皆でニコニコして、ワイワイ騒いで、全員が楽しければ、もう「立派な少年合唱団員」という言葉だけの栄誉も、「見ていても、接していても、歌声を聴いても気持ちのよい少年たち」という歯の浮くような絶賛の嵐も何の足しにもならない誇りの類も何も要らないのだった。

 子どもたちの一行は第8展示室の奥に切られた部屋のカーテンをめくり上げて、けたたましいクラッシック音楽の漏洩する室内を覗き込んでいた。中には誰もいないという。靴を脱ぎ、下駄箱の端にひっかけるようにして置き、彼らは皆、うっすらと灰汁色に染まりかけた白いソックスの足先を絨毯の上に並べ、恐る恐る垂れ布を押して進み入った。指揮者とボーイアルトが下駄箱の前で同じように膝をくの字に折って履物をしまつしようとすると、背後で看視員の腕と声が後続の人の列を定員で遮った。内側を見渡して瞬時に場の設定を全て理解した美杉太一がもと少年合唱団のセレクトメンバーらしく指揮者の肘を引く。
「先生…タクトを振ってください。」
男が一瞬の躊躇の後、一行の前に進み出て両腕をあげ、鳴り渡る音楽の途中からメロディーに飛び乗ろうとすると、太一が素っ頓狂な声を挙げてそれを制した。
「先生ーぃ!違いますってば、僕らの後ろに立たなきゃダメでしょう!?」
見え難かったが硝子の面に映った子どもたちは皆、歯を見せて笑った。指揮者が身を反転させ、彼らの背後に両腕をふわりと囲むようにあげると、その鏡映の絵姿がきちんと前方に見え、彼らは身構えた。奥に透過するトムソン椅子と楽器が彼らに寄り添って音楽を奏でようとしている。
「相変わらず、先生へダメ出しをするんだな。」
「相変わらず…って、何ですか?」
男の子はにこにこと抗った。彼がかつてそうしたのは、合唱団同期の4年生一群を守るためだった。
「合唱団にいた頃と変わらないんだな。ボーイアルトだった時にいつもしていた事は今でも変わらず実践垂範しているようだな?」
男は冷やかしにそう言って、指揮を続けた。
「はい!バッチリ守ってます!」
「そうか。歌う前にブレスを落とすとか、寝癖の直し方とか、シャツの下着のしまつの仕方とか…まあ、下着の方だけは相変わらずのようだな。」
「はい!…でも、僕はもう合唱団に行ってないです。」
曲は突如カデンツで途切れ、指揮者はふっと掌を握った両腕を下ろした。
「転校はしても、合唱団で覚えたことはまだ守っているだろう?君はさっきから、教えた通り、必ずちゃんと『はい』と返事をしているぞ。」
「はい。」
無意識に思わず「はい。」と口に出して少年は笑った。
「ほかに例えば平織りの白いハイソックスは、帰ったらきちんと裏返して洗濯機に入れる…ってこと、とか…は、守ってます」
彼は自分の足元を一瞬見やって付け加えた。
ホーンテッドマンションの仕掛けのような「リハーサル」の大ガラスの前、絨毯敷きのフロア。どういうわけかこの作品の入場では土足厳禁が要求される。そして、なぜそうなのか、単に入場人数を制限せねばならぬのか結局鑑賞のあともまだ必然性が感じられずに終わるのだった。
「太一君、合唱団じゃ、ソックスの洗濯の仕方なんか教えてないぞ。」
小学生たちは、楽器の担当を誰に促されるともなく数度交替し、4年生の女子は「ピアノの鍵盤の高低が逆で、流れている音楽と指が合わせにくい」と言い、現役ボーイアルト団員は自分の姿と周囲の子どもたちの姿が1枚のガラスの上に見られるので良いと言った。
「先生、それは僕のお母さんがカヤト先輩のママに教えてもらったことなんです。…必ずそうしなさいって言われて。」
「そんなこと、ここへ来てからもずっと守っているのか?」
男の子は少年合唱団のお返事をやはり繰り返して是認した。残念ながら中小のアトラクションへの出演がかなり頻繁な彼らの合唱団では、真夏の暑い盛りにも「ブレザーに白いハイソックス」といったようなアナクロで拷問に近いステージ衣装の指定がくだることもある。1メゾ・リーダーの塙誠一と弟の功一兄弟。アルト前列の鈴木カヤトらは薄手の野球のソックスを履いている。転校して合唱団をやめる前の美杉太一や、今では各パートに何人かの子が同じようにしてこっそり暑さをしのいでいる。平織りだがワンポイントの刺繍が無く、5本指だったり汚れ防止の切返しが靴の中に隠れるように織り込まれたりもしていて、また、足先までの長さに余裕があるのでいいかげんに引っ張り上げても本番前の服装検査にパスする。団員本人たちも、洗濯を担当をする母親たちも「白のハイソックス」というドレスコードの出現を極端に嫌っていたが、巧妙な逃げ道のヒントを与えたのは、同じ「少年」でもマウンドに立つ団員兄弟姉妹たちだった。少年野球のユニフォームというものはたとえ炎暑の白昼であっても上下ともレイヤーの重ね着で、半袖は可でも下は長ズボン。ソックスでさえ2枚も身につけている。ジュニアの試合なので定められた規則にのっとり服装を略したりくずして着たりなどの例外というものが無い。団員兄弟のパパ・ママを合唱団の出演参観や送迎と取り合う少年スポーツの代表格だが、試合の日に決まりを守りつつなるべく涼しいものを着せるという親心は少年合唱の方にも通じたようだ。
「靴下がケバケバになるから、裏返しになるように脱ぎなさいって言われて、そうしてます。」
男の子は夏のクルー丈だが今日も確かに平織りのソックスを履いている。酸素系のブリーチが効いていて、清潔そうな白い靴下が、真っ黒いボーリングピンのような日焼けた下肢に洗剤かソフナーの「お母さんのにおい」をたてて履かれていた。
室内のパーティーがそうして大騒ぎしながら楽曲のおおかたを演じて外へ出ると、カーテンの向こうには光庭へ向けてプーさんのハニーハントを待つ人の群れが作るような陽気な順番待ちの列がごしゃごしゃと形成されていた。並んでいる者は第8展示室に飾られた写真版の「家のインスタレーション」を眺めたりして笑っている。美杉太一が毛羽立ちを防いで洗濯されたソックスのつま先を今まさにセイシェル・ブルーのスニーカーの中に突っ込んでつま先で歩き始めようとした刹那、「それから、お話はもう少し小さい声か、無料の交流ゾーンでなさってください」と、監視員女の言葉が背後から突き刺さった。男の子はそれに感応して尻を突き出したまま振り返ると、何かが目にとまったのか暫くの間、動作を止めた。

 無料スペースだけが「会話も可能なエリア」というわけではない。
手ぶらでふらふらと「元・少年合唱団員」のボーイアルトにくっついてくる合唱団指揮者に少年は尋ねた。
「先生、何しに来たんですか?」
太一はツクバネ色の太ももをラ・マリーの透けた座面の前でぴっちり閉じた。
「太一君。ここは1960年代から21世紀初頭にいたるまで、日本の少年合唱団の所在地の北限にあたる場所だったんだ。ここより北に在るボーイズ・コーラスは今では1つあるが、15年ぐらい前までは、ここにあったものが最北だった。」
男の子はマメ芝のように黒い顔の真ん中をくちゅんと小さく突き出して、鼻の頭の痒さを凌ごうとした。
「この建物の隣へ行ったことがあるだろう?」
たわんだガラス壁をへだて、ローンの向こうの盛土になった道路へ朱とゴールドの塗装をなびかせた路線バスが通り過ぎる。低層のビルや郵便局のガラス窓が静かに此方の街路樹の影を受け止めていたが、その背後には県立美術館の森がつづら折に広がっていた。男の指さす南の方角は、この施設の茶室群の切妻に遮られ、見通すことができない。
「観光会館で歌ったことはあるか?」
「ありません。」
「ここのすぐ隣の建物だよ。」
男の子はやはり口を閉じて一瞬考えを巡らせた。
「先生…となりの建物は観光会館とかじゃありません。歌劇座です。」
「歌劇座を知っているんじゃないか。」
座したまま下半身を前後へ振ってクリア・ポリカーボネートの椅子を慣性の法則で前方へと歩かせようとした。
「『オーケストラと少年少女』で乗ったんです。ぼくは歌。お姉ちゃんも転校してきてすぐに。」
ミルトン3の脚をきれいに振って前後の揺れを確かめようとしている。
「今でも2階の奥とかにアップライトピアノの置いてある会議室みたいな部屋があるだろう?」
男の子は知らないので、かぶりを1つだけふったきりだった。
「この歌劇座が、日本で一番北に残った少年合唱団の練習場だった。…合唱団があったとき、建物の名前は未だ市観光会館だった。子どもたちが毎週ここへ来て歌っていた。」
指揮者は当地へ降り立つと、何かを確かめようと必ずそこへ足を運ぶ。地下の「ほんだの森」でカレーライスやナポリタンといった手作りらしいがありきたりの70年代ふうの腹ごしらえをし、出来あいのアイスコーヒーやココアを飲む。そうしてホール棟階段室地階奥の茶色い水の出るトイレで用を足し、戻れば階上で練習を終えた少年たちが何かかさこそと言葉を抑えながらロビーを通り抜けてゆく気配が感じられるのだった。
「先生、じゃあ、なんでそんなことのためにランスロットを連れて来たんでしょう?」
美杉少年は、今度は子どもの黒い脚をガラスの壁の前のガラスのような椅子の上で組んだ。
「先生は、もう歳だから物忘れがひどい。ランスロットは先生の記録メモリの代わりに連れてまわってるんだよ。」
「先生、『メモリ』…って、ボーイアルトは機械じゃないんですから。しかも、なんか、もうとっくに無くなっちゃって誰も歌声を聴いたことが無いような少年合唱団の練習場を見に…」
館内には太一のグループだった子どもたちの他にも、まだ回遊中の小学生の群れがいくつも散開していた。マップのようなものを見ながらあちこちを指さす高学年男子たちの集団が、座している太一の姿を見つけてイイカゲンに手を振っている。
「美杉君、君がもし今だ私の合唱団の団員で、毎日つらい目に遭いながら方々のステージに出かけて歌っているとしたら、もう15年以上も前に無くなってしまって何も残っていない少年合唱団の歌声をもう一度だけ聞いてみたいとは思わなかっただろうか?」
男の子は一瞬、左の腕を裏返しにし、湿潤なオレンジバーミリオンの唇で肘に近い二の腕をぺろりと舐めた。微かな塩気を感じた味蕾がすべった後に唾液の滑走がヴォールト状に光沢を放つ。
「思いません。…だって、もう無くなっちゃった昔の少年合唱団でしょう?」
「いや。だから先生はランスロットを連れてきたんだ。こいつにだけはそれを聞かせたくて、連れて来たんだ。」
美杉太一は静かなオレオ色の頬を振り、ランスロットの方を凝視しながら尋ねた。男の子は何が気になるのか、再び瞳孔の動きを止めて「合唱団員」を注視してしまう。
「…それで、聞けたんですか、先生? この町に在った少年合唱団の歌声…、ランスロットと聞けたんですか?」
「さあ、それはランスロット本人に聞いてくれ。先生は歌劇座の練習室でタンホイザーの『歌の殿堂』と『春の日の花と輝く』を歌っている少女のようなリボンタイをしめた団員たちの面影を見たよ。」
だが、現役ボーイアルトの方は歌うときと同じ弛緩した重心の低い姿勢のまま、憐憫をそこはかとなく感じさせる視線を2人に投げ返しただけだった。美杉太一はここで赤いストラップをぶる下げたボランティアの男に見つかり、金コテ仕上げのコンクリート床の中央から声をかけられた。
「キミ、何時何分に集合か知ってる?スタルクのイスはキミの家の近所のお金持ちの家でも見れるでしょ?限られた時間なんだから、ここで一番好きな場所へこれからすぐ行くといいよ。」
太一は絞まりの良い男の子の尻を大ざっぱに覆った半ズボンのすそをぎしぎしとよじって、温めていた熱可塑プラスチックの透明な座面を見ながら起立した。それから、どういうわけかランスロットの頭をさらさらと撫で、しっかりと握手をしてその手を引いた。
 
 歌劇座を臨む敷地の南に沿って石垣が切られ、県知事公舎との間に西外惣構堀の澄んだせせらぎが、涼しげな水音をたてて流れている。流れはやがて柿木畠へと至るのだが、春夏秋冬の最も清楚で秀麗な四季折々の自然物が水面を飾っていた。よい匂いのする温かい風と涼を運ぶ河岸の名も無き夏草。紅葉の木々の面影と水面と色づいた樹葉の邂逅。雫の中で瓦解した水と氷の変態の入れ子。施設を見にやってくる人々は、美しくりりしいキラキラと輝くコンテンポラリーアートの林立だけに目を奪われがちだ。ここに在る、最も清新で安らぐ美の世界に気付くことが無い。合唱団員は市役所側の橋詰から川べりの柵の内側の石垣の上へと忍び入ったが、美杉太一だけは芝生の中へ並び立つ多種多様の桜の木々を伝い、地下通路の入口の際から強引に柵を乗り越え、合流しようと試みた。
「ランスロット!ちょっとオレのこと支えてて!」
少年はさして大柄でもない小学生の開襟シャツの肩にべったりと左手を置き、そこから下支えに延びてきた左手をしっかりと握りとった。小さな瀟洒な掌は男の子の指の節くれを微かに感じさせてはいたが、隅々にいたるまで大らかで心が通い、何よりも温かだった。
「お母さんの手、みたいなんだね。」
「何が?」
「ランスロットの手。」
高学年元ボーイアルトは多毛で脂ぎり始めたこめかみの奥で心底そう思いはじめた。理解はできたが不信である。彼がそう念じつつ緑青色に塗装されたアイアンフェンスのポストの首に足がかりを見つけてよじ登り、半ズボンの股をにじってシンプルなアールのついた柵をまたぎ天面の上へ跳び降りるため足を伸ばそうとした途端、彼の体重を支えてやっていたランスロット少年の夏服のシャツの胸へ、太一のソーダ色のミルトン3の蹴り出すトゥキックがずばり勢いよくめり込んだ。
「あっ!」
声をあげたのは蹴飛ばした少年の方だった。
「ランスロット!大丈夫?先生、どうしよう?ランスロット!」
注意書きこそ無かったが立ち入るべきではないであろう場所へ踏み込んでしまったのと、仲間の生身の子どもの胸椎に至近からの強力なキックを蹴り入れてしまったのとですっかり動転してしまった。一瞬にして血の気の引いた少年の顔は万年筆のインクのような色。傍のフェンスに寄りかかった指導者はニコニコしている。
「息、できる?大丈夫?」
太一は立っている男の子の胸部を何度も見やりながら同じ言葉ばかりを繰り返している。
「平気だよ。なんともない。イタさは感じるんだけど、それだけだよ。息ができているかは少し微妙だけど、それより早く降りておいでよ。」
男の子の臀部は10ミリ幅ほどの鉄柵の上、太腿の奥のスチール棒が体の重みにべったり食い込んでいる。動転していて痛さを感じないのだ。一方、上級生アルトは今度は太一少年のミルトン3のソールを手のひらでがっしり鷲掴みにして体重を受け止めていた。これが彼の大切な仕事で、天職なのだ。
「ヘイチャラだから、降りてきて。倍返しなんかしないから。だいいち、キミの体勢は今、とっても危ない…。
二脚を伸ばし、腹を出して反り返ったまますとんと着地した子どもの身体を、石垣の奈落の底へ落下させぬよう、確実に抱きとめた。相手の殆ど無臭の息と、突然上気した子どもの腹から体熱を感じたが、何も言わなかった。彼らはそれから市役所駐車場入り口階段室の陰に有る石垣の上へ腰を下ろし、川面のたてるせせらぎの音に耳を傾けながら、しばらく何も言わずぼんやりと時間をつぶしていた。太一少年は渇きかけた喉をきちきちな水気で潤す情景を頭に描きつつ傍にいる者のことを思った。水飲み場も冷水機も殆ど見当たらない施設だったからである。

「あんなプールの底で同じ格好をした小学生がごしゃごしゃいたのに、どうしてキミは僕だと気付いたの?」
太一らのパーティーは再び第6展示室の脇を抜けて水底へと至る階段を向かい合わせのような体勢で話しながら降りている。
「それより、君もプールサイドから僕のことをじっと見上げていたよ。まるで昔から知ってる子だと分かって眺めているみたいに…。」
「だって、制服の着方がバッチリきまっていて違うもの。水を通して見るからぼんやりしていて、そういうのが余計に目立つ。他の子と違う。」
「違わないよ。シャツはちゃんとみんなズボンの中に入れてる…」
「シャツをズボンの中に入れなきゃいけないのは、学校の決まりだからだよ。出してもいい学校もあるんだよ。関係ない!」
「ともかく、合唱団の子だってわかったんだもの。」
「学校の制服と合唱団のユニフォームじゃ、全然ちがうでしょ?違うところがいっぱいある。」
降りたところを左に曲がると、右側通行を遵守しない他の班の子たちが目前に立ちふさがっていて、彼らはお互いに進路を探して立ち止まった。
「まず、学校では胸にネームを付ける。…どこの学校でも、これと同じ形と大きさのもので、色はそれぞれの学校の学年カラーか全学年が同じ色かな。」
「合唱団では名札は付けないよね。」
「帽子は、たいてい東京の小学校だと1年生だけがかぶっているみたいな黄色い野球帽か、女子は黄色いリボンのついたメトロ帽をかぶらなきゃいけない。」
「太一くんもかぶってる?」
「1年生じゃないけどね。」
「あとは、ポロシャツの中に必ず下着を着なきゃいけない学校が殆どだと思う!Tシャツは禁止。」
「それは合唱団と同んなじだ!」
「それから、ソックスは無地で白か黒だけだね。冬は長ズボンがはけるから、アオケンみたいに制服に黒いタイツをはく男子はいないな。レギンスは女子も男子も禁止だしね。」
「…合唱団と同じだ。」
「ただ、規則の厳しい学校は白以外のソックスが禁止なんだ。俺の行ってる学校の隣の校下の子はそうだね。」
「まじ、シビアだぁー。」
「あとは、白くてもスニーカーソックスとかはダメなんだ。けっこうウルサいよ。靴もクロックスはいけないことになってる。」
「どこも少年合唱団なみに服装に厳しいんだネ。」
「ただね、クロックスじゃなかったら靴だけはかなり何でもありだよ。野球やってる子はたいていトレー二ングシューズをはいてくるし、ありきたりの俊足とかの子もいっぱいいるけど、サッカーとかの子たちの靴もそうかな。靴の色はぜんぜん自由なんだ。」
美杉太一はミルトン3のソーダ色の左足をアウトサイドキックの形にふんわりと上げてアンブロのロゴのパッドを薬指の腹ですっと拭った。
お揃いのユニフォームを着て人々に歌っている姿を「見せ」て幸せを届ける少年合唱団の子どもたち。皆、服装の自己管理に早晩慣れてくる。また、着こなしの如何ががわりとシビアにチェックされ、歌声同様に評価されることも経験済みだった。ランスロットはこうして転校生の腕に触れ、温かい外皮を認識し、満足した。転校生は少しだけ驚いて身をよじったが頭の中の光は朧げだった。
一行は再度プールの水面下へ到達する。敷居を跨ぐと同時に、4年生たちがまた再びあの質問を太一にふっかけてくるのだった。
「…やっぱり気持ちが悪い。どうして床がこんな斜めになっちょるの?!」
太一は笑った。
「来年、きみたち4年も5年生になるやろ。そしたら夏になる少し前、水着の上に体操服を着て、茶色い刷毛のデッキブラシで6年生と水を抜いたプールの掃除をする。水の底だったところは去年の秋からそのまんまや。ミズゴケ、死んだ虫、土や砂、どこからか飛んできたプラスチックのごみ…ホースで水を流したりしながら、ブラシでゴシゴシすると少しずつプールの底が水色に見えて来はじめる。デッキブラシがフラミンゴの休憩時間みたいな角度のまま止まると、水抜きの穴の鉄格子が見えて、白いタイルのコースラインがちらちら見えて、去年の夏のカルキ臭いプールの底が見えてくる。その時に、きっと分かるよ。…どうして底が斜めになっているのか。斜めになっていないとなんで不便なのか。」
「どんながや!何か変!ここでは水着を着てプールの掃除はせんよ。」
「変だと思うだろ?」
「変だと思う。ほやほや、へなちこりん!」
「へなちこりんだろ?」
「へなちこりんや。」
「太一さんの顔もブラシにこすれて白うなったみたいやし!」
後はもう子どもたちの質疑も物問いも言葉もなかった。彼らは針山のような襟足をゆさゆさと赤くなった肌に揺らしながらどうしようもない衝動に突かれて笑い転げた。

 中村さんはプールの中で丸い白い窓を見ていました。

背中にサージ紺の×印のサスペンダーを背負った5年女子が、プール腰部の小さなハッチ窓をうっとりと眺めていたことを美杉太一は思い出して日記に記した。

 夜になると、ここに白いぼんやりとしたあかりがともります。日の短い冬の夕方なんかにここへ来るとそれが見られるんです。でも、この子はそのときのようすを今、心にえがいて一人で楽しんでいます。あかりは、ここと、そこと、あそこと、あそこ。4つしかありません。あんまり明るくはないんです。レアンドロさんはそれを楽しんでいるみたいです。だって、夜のプールの水の底が、昼間みたいに明るかったらぜんぜんロマンチックじゃないし、つまんないでしょう?さすがゲイジュツ家。
 それから3年男子の吉田さんは、さっきから大声でさけんでいました。上のプールサイドに同じ4組の田中くんがいるんです。メガネをかけたちょっとかっこいい子が水を通して見えました。相手ががっこいい子だからここでいろんなワケわからんことをさけぶんです。でも、上では自分に何か言われていることはわかっても、なんと言われているのか、水の波紋がたくさんたっていて分からない。プールの上はジュージューとパイプからふきでる水の音でもわからない。レアンドロさんはわざと上の子にも下の子にも気づかれないように、…でも面白がって音を消している。「こんなことしたら、やってきたお客さんたちがイタズラしたくなって、イタズラして大よろこびをするんだろうな…と想像して実行しちゃうのが芸術家のお仕事なんだなと思いました。


4年生の永田君は手をおでこにかざして窟内を見渡し、目をしばたかせている。
「ねえ、キレイでしょ?」
声をかけられた下級生はプールの中一杯に広がる波紋の投影…大きいのや小さいのや白いの、水色の(プールの内壁は「水色」のペイントで塗られているからだ)、青いの…様々なゆらぎの形を両の掌でふわふわと撫ぜて「きれいや!」と言葉を発した。

 プールの中いっぱいに水のゆらゆらがうつるように、ガラスの上に流れている水のかさや流れ方がくふうしてある感じでした。レアンドロさんが考えたんだと思います。
それから、松本君が泳ぐマネをしています。リクさんはマルモリダンスをおどっています。青束さんはここへ来てすぐ床に大の字になってあおむけに寝た。さっきから上でのぞいている人に手をふっているだけの6年生もいます。でも、プールサイドにいる人に見てもらって楽しんでいるんです。それは、だれも上から見てくれなくなったとたん、みんなで手をふるのをやめてしまったからです。


 美杉太一はここで日記ノートの間にHB鉛筆を挟んで一呼吸置き、上から携帯のファインダーを向けている客たちに手をふって応じたことを思い出し、こう書き添えた。

レアンドロさんのプールは面白いです。大人の人はどうなのかわからないけれど、子どもがここで何をどうやって楽しむかはみんな一人ひとりちがいます。ちがうのに、みんなここに来ると楽しいんです。学校の4年生の子から6年生までの人で、「楽しくなかった」と言っている子をぼくは一人も知りません。レアンドロさんは、そのための準備をいっしょうけんめいしてくれている。プールに仕かけをしといてくれている。どうやってみんなを楽しませようかなぁーとげいじゅつ家は思ってるみたいです。

20世紀初頭に至るまで、芸術家の主要任務は限られた特定の職階・階層の人々に品格や快楽や価値や過去を与えることだった。聖職者や王侯貴族やお金持ちやプロレタリアートやお役人のために芸術家は絵を描き、石を削り、土をこね、木や銅板を彫り、糸を紡いだ。21世紀をやがて四分の一が過ぎる日々に暮らす現在、芸術家のミッションはいったいどこにあるのだろう。レアンドロ ・エルリッヒはインタビューに応え「アートは人を喜ばせるためのものではない」と言っている。だが「観客は作品における役者であり参加者であって、さらに彼らの存在が、その様子を観る第三者を観客として招き入れる。」とも言っている(Erlich, Leandro “The ordinary? exhibition”68 p. Kanazawa : 21st century museum of contemporary art, 2014)。人力による永久機関であるアートが「楽しい」という演目の芝居を打ち続けていると美杉太一もまた思った。このミュージカルの舞台装置は実に精巧に、演じやすく作られていると彼は評価しているのである。

 プールのゆかにねている4年生は、下がななめになって気持ち悪いと言っていました。プールのそこでねるなんて、ぞっとします。ねながら空を見ていると、おぼれてしまった気分です。たしかに気持ちが悪いのです。プールはそういう気分になるように作ってあるのです。すごいでしょう?!ぼくがそう思って4年生の子たちを笑っていたら、東京から来ていたランスロット君(昔、ぼくのなかよしだった子)が、
「太一くん、多分そうじゃない。ちがうと思う。」
と言いました。
「プールのそこにケイシャがついているのは、ぼくたちの声のせいなんだ。」
と言いました。


「ぼくたちの声?!」
美杉少年はかつて合唱団員だった経歴から、うつけたように声をあげた。光庭で、この声量は誰も制止の対象として感知しない。
「こんな閉鎖された部屋で床が天井と平行で、ガラスのようなツルツルのものが壁面に使われていれば、必ず反響が繰り返される。『鳴き竜』って知っている?それがこのプールの下にも起こってしまう。かなりやかましいはずです。…レアンドロのプールの床に通路側へと傾斜が付けられているのは、反響をプールの入り口に逃がすためなんだよ。いつか、どこかの小学生のぼくらのようなたくさんの子どもが、ここで叫んだりするのをレアンドロさんは判ってたんじゃないかな?」
太一少年はようやくこれで踏ん切りがついた。

 アリーナのためのクランクフェルト・ナンバー3。同心のグリルだけが地底の導管によって繋がっているのだと言われている。ボーイアルトたちは指導者を広阪側に残し、連れ立って建物の逆サイドへと達した。最後に結局ラッパの一つへランスロットを宛てがって静かににこやかにそこを離れた。銀の朝顔がいつまでも光を受けている。「ここで聞いていてね。」と、チョコ色の掌をボーイアルトの右腕に添えて押し当てる。「熱いよ。」と焼けたアルミニウムの花弁に触れている子が言った。
「建物の地下を通って管が建物の向こう側とつながってるってウワサなんだ。向こうへ行って歌ってどれとつながってるのか確かめるから、ここから動かないでいてくれる?」
白シャツの襟足が一度だけ揺れて肯首する。
「『気球に乗ってどこまでも』、僕の歌が聞こえたらアルトを歌ってくれる?」
太一少年は念を押した。
「じゃあ、絶対に動かないでここにいてよ。」
歌劇場側のペーヴメントを抜けて、一人きりで指揮者の元へ戻ってきた美杉太一は到着の直前、しっかりと一度だけもと来た道を振り返った。
「先生、あれはランスロット君じゃないような気がする。…っていうか、ランスロットじゃないですよね?」
「そうか、ランスロットじゃないか。」
男はカラーアクティビティハウスのシアン側の中にいる。傍らには肩をすぼめた少年。天光を受けた真っ白い鹿の子ポロシャツが男の子の黒い体をCYMKの墨色に沈めていた。その姿が水底の出来事のごとく外縁へと透過していた。
「なんか、とっても似てる。でも、ランスロットじゃない。」
男の子の身体は今、パヴィリオンの凹面へ反映し、大げさに横幅を足していた。
「ランスロットと、同期なんです。…一度、二人一緒にアルトへまわされたときも、僕がこっちへ転校することになったときも、あいつは僕よりずっと大きかった。合唱団をやめるちょっと前、映画の宣伝か何かで、何人か本科だけでシネコンのステージに上がって歌ったでしょう?」
「ユーリがヨロヨロして、挙げ句の果てにVアコーディオンを肩から滑り落としそうになった。」
男の肢体はフランシス・ベーコンの肖像画のようにPVBのガラス面へと散逸し、瓦解していた。ボールランプの白っぽい図像の痕跡だけが世界に残っている。
「ランスロットくんの制服を間違えて着ちゃったんです。映画館の狭い会議室みたいな、なんかホワイトボードとかホールディングテーブルとかがごしゃごしゃしてるところで慌てて着替えたから。それで、ステージに出てみると、ランスロットのブレザーの腕がつんつるてんで、ワイシャツの袖が白くて、長くて、目立つのなんのって…。記念にもらった写真もリビングの飾り棚に無印良品のフォトフレームに入れてずっと飾ってある。ランスロットはアルトの中でも背が高くて大きい子だったんです。あの日、ユーリ君が落としそうになったVアコーディオンを片手でひょいって持って助けてやったのも、あいつだった。もし、僕と同じに背が伸びていたら、ランスロットの身長はもうとっくに160pあるはず。でも、この建物の向こう側に今いるランスロットは僕よりもビミョーに小さい…。」
少年は自分の頭上に掌をかざし、それを20cmはリフトアップしてみせた。
「先生、あいつのソックスを脱がしてください!こっち側の右の足です。くるぶしのところまで下げるだけでいい。」
指揮者は男の子の腕をとり、シアンとマゼンダの壁間のたわんだ回廊に引き込んだ。暑苦しい吸気が立方のブーメラン型の立体で淀んでいる。2人の姿は凸面に鏡映していた。
「ランスロットの右脚のココに…」
「フクラハギ…だろう?」
「フクラハギに大きな黒いのがある。おはぎのアンコを1個分まるまるくっつけて平らく伸ばしたみたいな…」
「ああ。メラノーマだ。」
「だから、あいつは真夏で猛暑日でも必ずハイソックスをはいていた。長ズボンにするとかえって注目浴びるし、さすがに暑いから…って。ドライリハが終わってゲネプロのギリギリまで、ユニフォームは着替えても、靴下だけは長いのから絶対はきかえないの、先生、知ってますよね。」
「ああ。メラノーマだ。取りきれないくらい大きかった。いつも隠して、気にしていた。最後は速くて、もうどうしようもなかったそうだ。」
「あれは弟とかじゃないですよね。一人っ子なんです。だからお父さんが少年合唱団に入れた。皆で心を一つにすることを覚えるように…と。」
「知っているよ。先生が面接して、それを聞いてランスロットを合格にした。あれは、弟なんかじゃない。制服を交換して着たランスロットでもない。きみがここへ転校してくれて、運良く先生はとてもつらい役目を一つだけやらずに済んだ。すぐだったんだ。プールの底のきみをプールサイドから静かに見下ろしていたのも、川へ落ちそうになったきみを支えて腹を蹴られたのも、あのランスロットじゃない。」
美杉太一は指導者の予想に反して口を閉じていた。ローティーン男子独特のあまり整理されていないがみずみずしい機能の働く思考回路で事態の概要をとらえてみようと試みた。そうして長いこと押し黙ったまま、浅紺色の凸ガラスに映る自分たちの肥大した姿を眺め、結局一言だけ指導者に問うた。
「スイッチとかは、あるんですか?…初期化ボタンとかは?」
「…あるよ。押してみるか?お父様、お母様に許可はもらってあるが、先生は押したことがない。きみに教える勇気が無かった…。先生は狡くて嫌な大人だ。ゆるしてくれ。」
「先生、なんであやまるんですか?」
「お家の方もお前がリセットしたと聞いたらお赦しになるだろう。好きなように消してしまったらいい。場所を教えてくれたら後で先生があれを拾いにいく。」
太一はそのセンサ位置とリセット・シークエンスを指導者に教えてもらった。柿木畠側のエントランスの方角へ戻っていくあいだじゅう、一人押し黙ったまま、ポロシャツの胸に両手の掌と甲を執拗になすりつけていた。汗を拭いていたつもりなのだろうか?彼の左手がポケットにピン止めされたプラスチックの校名入りネームに触れ、「美杉」とステンシルされた学年色の名札が裏返ってふるふると揺れた。

 美杉太一は4年生2学期の背格好のままのランスロットを半ズボンの黒いベルトの背中にのせるようにおぶって指揮者のもとへ帰ってきた。背負われた子は夏の終わりの少年のきつく澄み渡った快活な顔つきで、男の額の先から1メートル75センチ手前のRC造の床面にするりと腹部を付けて滑り降りた。
「先生、もう一度だけプールの下に行っていいですか?」
足が地面に着くかつかないかのうちにポケットから白いチケットの半券を取り出して上下に振り、ランスロットは伺いをたてた。
「一人で行ってこい。先生と太一が上から手を振ってやるよ。」
「…いえ、僕が『11ぴきのねこが旅に出た』を踊るから、上で歌ってください。」
「わかったよ。1番だけ踊ったら帰って来なさい。」
男の子が踵を返し、光庭の中ほどからガラスの外壁を通し、ワイシャツ半ズボンの男の子がチケットもぎの前を通り過ぎてくるりと第6展示室のキレットで右下方に方向転換をして消えていったのを確かめて指揮者は太一少年に尋ねた。
「リセット ・シークエンスの暗証番号は時々変更されるぞ。いいのか?」
「はい。どうせ使いません。」
「あれは、きみの言う通り、ランスロットじゃない。いいのか?」
「いいんです。僕といつも一緒にいて歌っていたランスロットはここにはいません。でも、最初にプールの下であの子の腕に触れたとき、とっても温かかった。川の上で僕が柵をまたげなくて支えたもらったときも、お母さんみたいに優しい、僕を守ってくれる人の手だった。レアンドロの「階段」の一番奥の部屋で、僕があいつの4年生くらいの体を横に抱えて壁へ歩かせた時、担ぎ上げた身体は全部が人間の男の子で、息の臭いもボーイアルトの声もした。最後に、ここに戻ってくるまであのランスロットが僕に『太一くん、僕をおんぶしてくれる?』ってたのんだんです。ぼくを騙そうとする子がそんなこと言って人に頼みますか?僕の背中に誰が負ぶさってるのか。かえりがけずっと建物のどこにもあるガラスの壁に映っていたのは誰の姿だったと思いますか?…先生、あの子は僕の知っている大好きだったランスロットにすごく似ている。リセットなんかしちゃだめです。消したら僕が許さない。そんなことするのは指揮者じゃありません!人間の皮をかぶった悪魔です!」
美杉太一は少しだけ額に浮き出た汗を腕の内側で拭いとった。プールの水の表面積は狭く、水面を渡る風は彼らの立ち位置に届くまでにならなかったからだった。
「でも、僕は先生に質問があります。先生は、本当はなんであの子を連れて歩いてるんですか?ランスロットを楽しませてあげようと思っているんですか?」
「あのランスロットには『楽しい』という感情認識機能は無いよ。」
「一緒にいる先生の楽しみのためじゃないですよね?…まさか思い出のため?…それとも何かの罪滅ぼしのつもりなんですか?」
「…それもあるかもしれない。…美杉君、きみも先生方やみんなと一緒にいろいろなところへ演奏旅行へ行ったね。」
「はい。」
少年合唱団のお返事の選択肢は、強い現実的な否定の場合以外は全て「はい」なのだ。
「何のための演奏旅行なんだ?歌を歌って聞いてくださる人たちを幸せにするためだけだったら、別に電車やバスに乗って泊まりがけて歌いに行かなくても良いだろう?どこでもできるんだ。そんなこと。」
「合唱団の子でもお客様でも無いかもしれないたくさんのたくさんのすてきな子たちに会うためです。先生、僕の大好きな大切な夢は、その時にあった子たちとまた会う夢なんです。」
「そうか。今度その夢をみたら、彼らに尋ねてみてくれ。『きみたちは、何のために生きているの?』とだけでいいから。」
「先生、そりゃ夢の中だって『わからない』と言われるだけですよ。あいつらは、ただ自分たち自身が『良い子』でいるためだけに生きてるんですから。」
「先生が『きみらは本当に友達想いの何でもがんばる良い子たちなんだなぁ!』と感心すると、あの子たちは揃って『はてな?』という顔をする。」
「良い子になってご褒美をもらおうとか、ほめてもらおうなんて思ったことも一回ぐらいはあるんだろうか?」
「また、楽しい夢が見れるといいな、太一君。」
「はい。」

 冥府からの階段を抜けて、その子がプールサイドへと戻ってきた。当然のことながら、彼は一度も後ろを振り返らない。
「美杉君、僕と一緒にプールの下で何か歌わない?」
底にいて何か会話を交わす陸上の2人を見ているうちに、ここで腹の底を震わせてしっかりと歌いたい…という「衝動に駆られた」そうだ。
「先生、上から棒を振ってくださいますか?」
何がふるえ、いかにもランスロットの骨格を震わせたらしい声になっているのだろうか?地声のアルトである。だが、教師は意外なことに大きく確信をもって頭を横に振り、求めを拒んだ。
「先生のタクトは必要ない。二人で歌っていった方がいい。先生はしっかりと責任もって上から見ていてあげるから。」
それから男の子たちは歩き始めつつ視線を交わした。再びコレクション展のチケットをひらひらさせながら小走りでプールの下へ戻ると、プール縁石の アールからは少し離れたステンレス梯子のプレッツエルのような形の日陰の傍へ並び立ち、どちらから促されるともなく、身体と脚とで拍子をとって歌いはじめた。微かに横へ傾けた顔を合わせ、目で合図を交わし、「いち、に、…いち、に、さん、はい!」の肯首でタイミングを合わせ、

  ♪There is a place where I can go...

コンパクトでビブラートの薄いコーラスを作り始めた。自分が高低どちらのパートで、歌いだしの音がどの高さで、どんなボリュームで歌うのか、何の打ち合わせも長ったらしい目配せも起こらなかった。太一は4年生の頃にランスロットと毎回のコンサート終演の解散後歌っていた曲であったし、その子は優秀な日本製のセンシング・ユニットがとらえた数マイクロセコンド未満の情報を瞬時に解析し音声発振の機構へとフィードバックしていたから。指揮者は少年たちのプールを見据え水面下20センチ下のガラスを通してインディアン音階の土臭い二部重唱を静かな面持ちで見ていた。男はただ、呼吸へと費やす気体の交換がなるべく自らの耳骨に伝わらぬよう注意して見届けることができれば、もうそれだけで良いと思い、少年たちの歌声は小部屋の音響を乱すことなく、すっきりと水はけの良い響きを伴って続いていった。

 明るい、清爽な晴天を押して「雨」が降り出した。SANAAのきのこベンチでフルーツバスケットに興じていた子どもたちはイイカゲンに頭頂を手の甲で覆ってガラスの建物の中へ逃れ、取り残された銀色きのこの座面の凹みに大粒の雨滴が涙の池を作った。夏の標準服姿の小学生たちはキッズスタジオに遁走同然に帰投し、エアコンの冷気を浴びながらそれぞれにうがった視点で切り込んだ感想を皆の前で述べた。じき、帰港の時刻がやってくる。美杉太一は『ログキャビン』の暖炉の火の炎が静止する一瞬を見たとだけ言って、第11展示室の『階段』の1階の床(?)に、人間ではないランスロットを体側から両手で抱え上げ擬似歩行体験をさせたことと、プールの底の傾きの一件については黙っていた。その一件は多分だれかが面白おかしく発表するだろう。下級生の誰かの話題を自分が奪うわけにはいかない。彼はそうして赤いランドリーカートに投げ込まれた大きめの黄色いポリエステルの野球帽をいくつか引っ張り出し、黒いネームペンで「美杉太一」と書かれたネームタグが後頭部についていることを一瞥してかぶった。バスまでの道すがら、前庭の水分を含んだコウライ芝からもらった雨滴が、きつねのよめいりのレモンカード色の陽光を受け、ミルトン3のメタリック ・スカイブルーの足の甲にキラキラと輝いた。バスに乗りこんで引率の先生がたの短いお話があり、車輌が元城下町独特の不規則な交差点を幾つか抜けても彼は建物を振り返らなかった。

 とけい皿の大きさもある同心円は夥しく天蓋を覆い、一人の男と、その体側に開襟シャツの肩をそばだてた「男の子」が水の石室の一隅へと立ち尽くしていた。数万個に満ち満ちた青薔薇のブリザードが互いを押しやりつつ、水面叩く微かなクリック音の中で一斉に新生しているのである。豪雨の去来。驚愕の眼差。ジェイムズ・タレルの構築物はもはや腰板まで人々の齢を蹂躙していることだろう。
「今の太一はお前みたいなのをおんぶしたり、体を抱きかかえてレアンドロの『階段』の 「床マット」の上に「立たせ」たりできるんだな。」
「重かったでしょうか?」
降雨はさらに勢いを増し、明るかったはずの戸外は芝生の上にたった水煙で明度も彩度も欠いている。
「重かったんだろう。あいつは喜んでいるみたいだった。…背中のお前に何か言っていたかい?」
「はい。」
少年はハッカ飴の息で答えた。
「平織りのソックスは、裏返しにして洗濯機に入れなよ…って言ってました。」
「それだけかい?」
「それだけです。」

 プラチナ色の虚空。内包を解き続ける新月の形。過剰なモンスーンは驟雨の道筋を揺らし、頭上を蓋ぐ高透過強化ラミネートガラスへと描かれ続く模様に移ろいを与えている。自然現象が止めども無く天を打つ尋常とは程遠い光景であったが、その頬はすっかりローズヒップの色に輝いて、見開く瞳孔と眼瞼の下、温厚な口唇をたわませた。そうして少年は傍らの男の眼差しに向かい、答えを返して口をつむった。降雨時には即時プールの切られた光庭へのドアを閉鎖する施設の定めによって、水上から彼らを見下ろす何ぴともない。2人は波紋の現れては消える水の裏面から、いつまでもいつまでも黙ったまま、じっと無人のプールサイドを見上げていた。

RoboChor(ロボ・コーア) JAPAN プロジェクト 2050 TOKYO

June 12 [Thu], 2014, 23:39

By 2050, develop a fully autonomous humanoid robots that can sing within the human world famous boy choirs.

(西暦2050年までに、世界の有名な少年合唱団のステージに立ち人間の少年に混じって歌える自律移動型歌唱ロボットを作るプロジェクト)

「先生!…コーキ君が、もうダメみたいです。」
「バイタルは取れるか?」
「だめです。死んでます。」
「バカ言うな!ECGは?振れてないのか?!」
「どこで見るんですか?」
「首の後ろにパルスがあるだろう?」
「無いです!」
「無いってのは、死んでるってことだぞ!見て分らなければ触れて探してみろ!」

15人の少年たちと一人の男(「女」でも良いのですが…)が夏休みの嵐の船旅の果て、絶海の孤島へと流れ着いた場面です。翌朝、砂浜で目覚めた彼らは、コーキ君が動かなくなっていることに気付き、動転している。…私たちのチームがこのプロジェクトの俎上で最終的に提起した緊急事態の一つは、いささか常軌を逸しているようにも見えますが、一生に一度起きるかどうかの極めて稀ではあっても「決してあり得なくもない」状況を考えることでした。少年合唱団の仕事は歌を歌って人々の精神を慰め、同時に少年たち自身も歌を通じて個々を伸ばし、心の施肥を享受することにあります。歌うことを通し得ることが何も無ければ、子どもの歌声は単純に甲高い未成熟な声帯の共鳴振動に過ぎません。つむいだハーモニーが聞く人々を波状に薙ぎ倒してゆきながら、観客を陶然とさせ、慰撫してゆくさまを見たり感じたりすることが無ければ、延々と続く「苦行」とも言える長時間の練習に変声前の日々を投げ与えてゆくことなど、齢10歳前後の小さな肢体の人生経験の浅い彼らにとって到底最後までつとまることとは思えません。シミュレーションの呈示がなされる前、工房のおおかたのスタッフの選択は「簡単な生活防水程度の規格」の搭載というものでした。そもそも、コーキ君の計画段階の時点で、大雑把に言って「少年合唱団員のロボット」というものをイメージした経験のある人は世間一般でも皆無に近かった。声変わりした少年の咽頭にアタッチしてボーイソプラノを維持するようなサイバーパンク趣味で介護用品的意味合いの強い機具。鏡音レンを筐体にインストールした縦型自走式のミュージックボックス。「不気味の谷」ド真ん中の、シリコン製美少年の外皮の上から半ズボンをはかせた自律二足歩行するマネキン。周囲で歌っている少年たちの歌声を数瞬のレスポンスで電気的にトレースしイコライザーを通して単声に収斂、センドバックするヒューマノイド型の拡声器。はたまた、無駄に百万馬力(およそのワット換算で7億5000万ジュール/sです)のスペックを持っている歌も歌えるマルチパーポス型の鉄腕アトムのようなもの。…私たちのチームの中でも、一人一人が「少年合唱団員ロボット」に対して抱くイメージは千差万別で関連性も脈略も無く、それぞれが全くてんでばらばらで散開していました。少年合唱というものはしばしば「天使の歌声」と形容されます。センシングやプログラム制御がキモであるロボティクスからまさに対極に置かれていると考えられる「領域」でもあります。未知で未確定で色も味も匂いも方向性すら決まっていない曖昧模糊とした地平に一歩を踏み出すため、私たちのワークショップでは上記のような「少年合唱団員ロボット」のイメージ型を一通りカンタンに試作し、眺めたり触ったり叩いたり話しかけたりしてみました。そして、ようやくたどりついたスタート地点の道標に書かれていたメッセージは、おそらく、穏当で正しい目的地へと導く絵姿は、当時の私たちの頭の中には存在などしていないということでした。そして、試練や挫折は多いかもしれないが、正しい道をきっちりと指し示すコンパスは研究室や工房の机の上などには決してポンと置かれていない。「事実は会議室で起きてるんじゃない!現場で起きているんだ!」…。私たちは毎週水・土・日曜と遊びたいのを我慢して活動の「現場」である合唱団の練習場や出演のステージへとはせ参じる合唱団の少年たちの隊列の間に正解への道しるべが隠されているのではないかと思い至りました。

 実物(?)の少年たちを前にして、完成品イメージの陳列棚の中から最初に消去された図像は「合唱団の制服姿でステージに投影された鏡音レン」というものでした。
 クリプトン・フューチャー・メディア(株)の大ヒット商品「鏡音レン」は声も姿も時には動きも人間のインプットによって作動する優秀なキャラクターイメージ(ボーカロイド)です。人がプログラムを作り、音楽や歌詞を入力し、プロジェクターで出力を投げない限りは何の働きもしません。自律型のロボットとは言い難いのです。
一方、私たちのRoboChor(ロボ・コーア)プロジェクトは「西暦2050年までに世界の有名な少年合唱団のステージに立ち、人間の少年に混じって歌える自律移動型歌唱ロボットを作る」という人類未踏の計画です。五線記譜法で書かれた楽譜を光学センサで認識することもできますが、チューターが口頭で与えた指示などのアナログ情報を周囲のヒトの歌声やピアノ伴奏など、その場の環境データとともに演繹処理して適切な音量・ピッチで筐体に開いた発振装置から出力する。シモ手舞台袖から人間の団員たちとともに入場して山台に列を揃え、指揮者の指示通り挨拶をしたり手を振って終演のお別れをしたり、簡単な演出の振り付けやセリフをこなしたり、スタンドマイクの前へ進み出て曲紹介をしたりすることも当然、最低限のデフォルトの基本性能として要求されていることになります。小学5年生の男の子の背丈くらいの全高で、二足歩行ができ、当初の計画では生活防水でした。
 ここで、冒頭の「無人島へ流れ着いた少年合唱団」の逸話が生きてきます。浸水して「機能停止」に陥ったロボット団員を少年たちは再起動しようとします。指揮者の先生でしょうか、引率の大人の男がそのための指示をいくつか子どもたちに投げています。私たちのスタッフのうち、知的エージェントを担当するメンバーが特にこの状況に興味を持ちました。ロボット三原則の存在を挙げるまでもなく、本来、ヒューマノイド型の被造物は「人間を守り、サポートし、それゆえに自己防衛をもする」という基本的な役割を担っています。ところが、無人島に流れ着いたロボットは自己防衛ができておらず、それゆえ人間の子どものサポートを受け、人間に守ってもらっている」という逆転状態にあるのです。
 実際の少年合唱団のバックステージを見ていると、年長や経験者の団員たちがごく日常の行為として周囲の子どもたちに気と目を配り、世話を焼いている姿をしばしば目にします。私たちが彼らの負担を軽減してやろうと、こうした団員たちに「今、少年合唱団員のロボットを作っているのだが、きみなら どんなロボットが欲しい?」と尋ねると、彼らはみな異口同音に「こいつみたいなロボットだったら面白いかな?」と、彼の腰に汗をかきかきへチャリとしがみついているような下級生を指さしたり、「休憩時間や楽屋での待ち時間にチビどもと遊んでやるのが楽しい。ロボットと遊んでやりたい。」と言ってみたり、「オレらは出演前に予科生上がり(ステージメンバー1年目の団員たちを彼らはそう呼んでいるようです)をオシッコに行かせて、全員チャックがちゃんと閉まってるか確かめて、ユニフォームのベストがベルトの上にきれいに下りているのを見てからシモ手袖の中に返すんです。ロボットもションベン行きますか?なんだ、トイレとか行かないんだ?つまんないかも…」とぼそりと呟いてみたりしました。また、私たちのうち、一番子どもあしらいの上手い学生にそっとすり寄ってきて、「すっごく手間がかかって面倒っちいし、泣き虫なヤツだけど、おれ、コイツのことが好きだから、ロボットの下級生は要らないです。」と口止めして傍らの巻き毛の男の子を目線で指し示した少年もいました。彼らは自分たちの代わりに団員の面倒をみてくれるような便利なロボットの出現を望んでいません。彼らを舞台裏でサポートし任務代行してしまう機械の存在は、彼らのヒトとしての心の伸びしろや将来への楽しみの機会を大きく奪うことになりはしないか…と私たちは確信しました。彼ら自身もまた、同様に小さい頃は上級生たちから可愛がられたり面倒をみてもらったりしながら少しずつ少年合唱団員になってきたに違いありません。私たちがもし、一人の「少年合唱団員」を真摯に謙虚に作りたいと願っているのならば、「人間に守ってもらい、サポートしてもらい、それゆえに自己防衛もしない」被造物を彼らの日常の隊列に送り込んで「少年合唱団員」にしてもらうしかないという結論に至ったのでした。

 これと関連し次に、テスト運用のマシーンを少年たちの隊列のどこに配していくべきかという受け入れ側の問題が起こりました。工房では既にロボットの機能の基本設計が出来上がりつつありましたので、こちらとしては主旋律を歌うソプラノ声部よりは、カウンターパートのアルトやメゾソプラノ低声などで運用して、プログラムが正しく動くかどうかの検証をしたいという希望がありました。特にセンシングのチームからのリクエストではあったのですが、合唱団の子どもたちの合唱というものは、歌う度に声が違っている。同じ曲を歌っているはずなのですが、彼らはカンタンにUVメーターを振り切る絶唱をすることもあれば、どんよりとくぐもった声しか出ない日もあって、ともかくオンデマンドで対応せざるを得ないわけです。ですから、コーラスのリードをとることが多いソプラノ声部よりも、耳をたよりに他声部に対応してゆくことが求められる下のパートに私たちの食指は動いていたのでした。

 続いて工房は「不気味の谷」の問題を早々に解決しなくてはいけないという必要に迫られました。
試作品を実際の少年合唱団へと送り込み、テスト運用をはじめた段階で、私たちは少年らにロボットの正式な名前を伝えていませんでした。「これからみなさんといっしょに歌を歌うロボットです。」といったような紹介をしたと記憶しています。私たち制作サイドとしては、合唱団で預かっていただいている試験運用のマシーンは何台かある試作ロボットの一台でしかありませんから、「○○班の3号機」ですとか「音声認識テスト用−B2」などと呼んでいました。パーソナルな名前や愛称を付けておくという発想自体がそもそも無かったわけです。ところが実際にロボットを合唱団で試験的に使っていただいて、次週練習場を訪ねていくと、少年たちは何の頓着も抵抗も無く、私たちの作ったテスト用の機械を「ロボちゃん」「ロボっち」「ロボ・ソプラノくん」「ロボロボ」「ロボ太郎」等々、勝手に名前を付け、愛着を持って呼んでいる場面にまま遭遇しました。彼らにとって、それが単なるプロトタイプ群であっても、自分たちと日々厳しい練習を積み、日々ともに声を合わせるものであればそれは大切な大切な「旅の仲間」。たとえ機械的で事務的な「業務上」の名称やプロジェクト番号がついていても、少年たちの温かい心にそっと沿えるような名前をきちんと付けてやる必要があると私たちは考えました。そこで我々の工房の正式な名称の一部から「工機」という単語をもらい、カタカナ書きにしてロボットに与えました。私たちは子どもたちへ正直に事情を説明し、「名前を付けるのを忘れちゃっていてごめんなさい。これからはコーキ君と呼んでやってほしい。」と伝えたところ、その日の練習の終わりにはもう「コーちゃん、またね!」「こーきん、さよなら!」「それじゃあ、あっしは中つ国に帰るぞ、いとしいコーキしと!」(<- もう、意味不明デス)等々、すっかり打ち解けた様子で声をかけられて別れの挨拶を交わしていました。中には「おじさん!コーキ君の苗字って何ですか?もしかして、『ロボ野』だったりして…」などと、私に声をかけて帰ってゆく団員さんもいました(彼はその後、その自説を吹聴してまわったらしく、「コーキ君の本名は、『ろぼ野コーキ』って言うらしい」とのウワサが都市伝説のごとく(笑)団員たちの間でささやかれるようになりました(?!))。

 コーキ君の仕様については、おそらくみなさんが「えっ?まさか!」とお思いになるような作業をいくつも重ねながら作り込んでいるのです。そんなもの、適当でいいじゃない?…というレベルですと、例えば、コーキ君の声は彼の少年合唱団員としての「パーソナリティー」(?!)を形作るものの根幹ですから、時間をかけて慎重につくりこんでいきました。本来、ボーカロイドなどですと実際の人間の声を録音してソフトウエアに貼り込むというサンプリングのような作業をして済ませます。私たちも当初、コーキ君を試験運用していただく合唱団の団員さんのどなたかの声を録って使わせて頂こうと気軽に考えていました。ところがよく考えてみると、これが非常に不自然なのです。コーキ君の声は他の現役団員さんの完全なコピーです。これが実際に運用されますと、何か一曲歌っても、全く同じ声の子が2人もいるわけですからハッキリとではなくても、感覚的にどうしても耳についてしまう。単純に言えば、一人の少年の声量だけ2倍になって聞こえてしまうわけです。昨年卒団の中学生OBで未だ変声していない中学生の声を使おうとしたこともありました。…これが同様に良く無い。周囲の団員に比べて上手すぎたり、声が良過ぎたり、当然ちょっとお兄さんっぽ過ぎたりしてどこか突出するのです。どの団員も等しく合唱団とともに成長し、皆ととともに歳を重ね伸びて行くのだということを思い知らされたエピソードです。私たちのプロジェクトの目標はあくまでも「ロボットを合唱団の一員に!」ですから、こちらの声はあまり目立ってほしくは無い。もちろん、コーキ君の出力を恒常的に絞ってUVを低減させることは簡単にできますけれど、それではロボット本来の目的からはさらに離れていくことになると思ったのです。
 結局、私たちは市販されている音楽CDから、既に変声してしまっているに違いない男の子の声を選ぶという煩雑な作業を自らに課すこととしました。似通った声を排除するということから、最初は1960年代に録音された上高田少年合唱団や西六郷少年合唱団のアナログレコードから、代表的なソリストの声を抽出してサンプリング処理をしました。…ところが、出来上がった歌声を聴くと、なんというか…「カビ臭い」というのか、録音された当時はきっと現代的でキリッとしたカッコいい声だったのでしょうが、どうにもイタダケナイもっそりとした昔の男の子の歌声のようなものが出来上がりました。違和感ありまくりです…!これに懲りた私たちは、次に5年から遅くとも10年前ぐらいの至近に録音されたCD音源を当たることにして、そのうえで「誰かの声のマル写し」というイメージからなるべく離れておくため、「そもそも、コーキ君は本来どんな声であるべきか?」というコンセプトのようなものを皆で考え、それに沿った少年の声を選んで来ようということになりました。上高田少年合唱団や西六郷少年合唱団という選択肢をいったん捨てておきながら、彼らが主題歌を歌っていた「鉄腕アトム」ですとか「ビッグX」(?!?)のキャラクターの声を挙げるスタッフがいて、可笑しかったです。また、抽象的に「こんな感じの声」という説明をしているうちに、どうしてもアニメやドラマの登場人物を例示してしまう自分たちの性分に我ながら苦笑してしまったものです。結局、スタンリー・キューブリックの映画『A.I.』にアンドロイド役で出てくる子役のハーレイ・ジョエル・オスメント君の声が良いというところに話はまとまりました。オスメント君はアメリカの子役で、英語話者なのです。このため、日本人の少年合唱団の団員をつとめるコーキ君の声の設定には、彼の身体やイメージに合った日本人の子どもの声をサンプリングする必要がありました。映画『A.I.』の日本語吹替え版などを観てアテレコ子役さんの声なども聞いてみましたが、どうもしっくりきません。結局、当初の予定通り男の子がソロを歌っていそうなCDのネット配信を手当たり次第に試聴してサンプルとなりそうな子どもの声を手作業で探し出そうということになりました。
 有力な候補はすぐに見つかりました。1本は比較的一般に流通している音源で、「きかんしゃトーマスのテーマ」の中間部に「パーシーもいるよ!」とセリフを挿んでいる少年。もう一本は「心を育てるリサイクル」という環境保育の書籍にバンドルされた範唱CDで「リサイクルレンジャーのうた」という曲のソロをとっている少年。私たちは著作権法等に留意しながらこれらの声を機械分析で解析し、歌っている少年の骨格や表情筋の特徴、体格やだいたいの年齢などをはじき出し、比較的ジョエル・オスメントの表情やイメージに近い少年であると確信しました。調べてみると、この少年は他にも商品録音をしていることがわかり、私たちは入手した音源データをもとにコーキ君の声を抽出・分析のうえ美しく合成する事に成功しました。こうして出来上がった声のデータを合唱団の先生方にお聞かせし、感想をうかがいます。ただ、元になるCDの曲を流したとき、1回だけ歌をお聞きになって「この声の感じだと、実際はアルトの子なんじゃないかな…?」とおっしゃられたのが印象的でした。哀感をまとったキュッとした上品な声質で、スタッフの中には「実質はロボットなのだから、もっとエネルギッシュなイメージの声が良いのでは?」と危惧した者もいたのですが、コンサートで子どもたちを実際に歌わせている先生方からは、「個性にもよりますが男の子の声質は少し陰りがあり、微かに硬め・低めで底力を感じさせる方がお客様には喜ばれるようです。」「軽く、華やかな甲高い歌声が、少女のような可憐なイメージを与えがちだからでしょうか?こちらの声の方がおそらく少年の声としては好まれると思います。」「今、ここの合唱団で歌っている子の中にも『泣きのメゾソプラノ』などと呼ばれ、ファンもいる団員がいますよ。」などと、コーキ君の声質にはとても好意を寄せて頂きました。

 早々に声の方が決まったのに比べて、コーキ君の「肉体」ともいうべき筐体の仕様や意匠については私たちの逡巡が多く、なかなか「このセンで行こう」というアウトラインすら決まらない日々が続きました。
筐体のサイズについては、「中味」を担当するサーボ・アクチュエーション関係のスタッフから、設計段階で「これ以上コンパクトにすることは可能だが、エネルギー効率のすこぶる良い10歳の人間の子どもと一緒に行動することを考えると、あらゆる意味でクオリティーを保証することができないかもしれない」といったことを再三言われていて(…つまり、ある意味での限界ということです…)私たちは当初からマシンをこれ以上小さくするということは考えていませんでした。どんなにタイトに外被をかぶせても、6年生の中のずんぐりとした子どもぐらいのマウントになってしまう。ボーイソプラノとして重要な発声の機構は、実はボディ(胴体)部にメインの高精度電気人工咽頭(発声装置)が格納されていて(頭部に私たちの工房で作った人工咽頭を付けると共鳴の少ないチャチなプラスチック振動版の音しかしません)、現在の技術でもロボットの「頭」にあたる部分(いくつかの大切なセンサを小型サイズにすることは比較的容易にできるのですが、胴体については現状の大きさで手を打とうということになりました。
続いて、私たちはコーキ君を二足歩行する商用ヒューマノイドロボットの仲間たちと同じようにコーティングボディのまま機械人間の外見でずっとお客様に見ていただくか、少年たちと同じようにステージごと衣装替えがあって、ユニフォームが映えるようなソフト・ロボット(誘電エラストマーアクチュエータなどで稼働する柔らかい人工筋肉のロボット)としてステージに乗せるべきか…という決定的な二者択一の場面に差し掛かりました。
 このことについて、私たち工房の全員が慎重にならざるを得ませんでした。子どもたちの練習の成果の殆どがライブ出演というところにあり、そこには少年たちを真剣に見守るたくさんの目があります。彼らはまた通団時(練習時という意味です)・出演時の殆どの時間を決められたユニフォーム着用のまま歌っていて、お客様のみならず、彼ら自身も身支度・身だしなみに合唱団のありかを求めている可能性があります(例えば、帰属意識ですとか、連帯意識とか、そこに由来する安心感やときに闘争心とか…)。科学的根拠とともに、実際の少年合唱団の活動の実態を加味しながら両面で方向性を探ることにしました。

 例えば歌っている子ども自身と服装との関係を知ろうとして、ユニフォームを着ている状態と普段着の状態とで同じ団員さんに歌ってもらい、簡単なfMRIをとって脳活動を比較してみたり、酸素化ヘモグロビンの変化を分析してみたりといったこともやりました。私たちはここで歌唱表現を形成するための強化信号として働くドーパミン(中脳のドーパミン作動性ニューロンという神経で産生され、軸索末端から放出される物質。線条体、報酬系の脳領域へ投射されてはたらきます。)について、ケンブリッジ大学のシュルツ氏らの研究報告の内容などを参照しながら検証しある程度の結果を得たのですが、結局「それでは、ロボットであるコーキ君をどんな外見に仕立てるか」という根本的な命題の解決に結びつくことはありませんでした。
 都内にある少年合唱団は、世紀末から2010年ごろにかけて、ダンディーな大人っぽいイメージを大切にし、Harry Potter調のレジメンタルタイですとか、紺ウールのプルオーバーなどのアイテムをちりばめた長ズボンのスタイルやバーテンダーのようなカマーバンドや側線入りパンツといった背伸びをしたタキシードを制服に採用していました。ただ、21世紀のはじまりから既に10年近く経った今、彼らの歌声を楽しみにやってくるのは既に以前のような同世代の小学生たちではなく、殆どが「団塊」と呼ばれるシルバー世代か、「団塊ジュニア」である保護者たち。レベルの高いプロの混声合唱などではなく、わざわざつたない小学生の男の子の同声2−3部の合唱を聞きに来るのは、その目的が「歌の高いクオリティー」というところにはなく、子どもらしいあどけなさ・男の子特有の飾り気の無さ・質朴さ、まっすぐで純粋な声質の快さ…いわゆる「子どもらしさ」であることは察しがつきます。歌声は軽快に揃いつつもどこか稚拙さを残し、びっしっと揃った男声合唱団顔負けのフォーマル・ウエアのユニフォームよりは昔の子供服の定番であった七五三の記念撮影のような「よそいきのイッチョウラ」。聴衆たちが自らの子ども時代にまとっていたスタイルを想起させる半袖・半ズボンのユニフォームが21世紀初頭の彼らにも求められるようになりました。こんにち、彼らは一定の集客を保持している東京の一般の男の子のみの児童合唱団は各団ともに一時メインだったしっかりとしたフォーマルのスタイルを脱ぎ捨てて、ワイシャツに軽快なベスト、プレーンな半ズボンなど、子どもっぽいシルエットへとメイン・ユニフォームのスタイルを差し戻しました。組み合わせるアイテムもシンプルなサスペンダーやフルバージョンの蝶ネクタイ、ベロアのリボンタイ、紺ベレー、裾丈をさっぱりと短く戻したジャケット、クルーソックス・ハイソックス等々…昭和時代の子供洋品のオンパレードです。そこで、先ほどの選択肢の話に協議は戻ります。私たちはコーキ君の外見を決定するために、彼をどのような擬装でステージに乗せてお客様に見て頂くか、上記の文脈の下に考えることとなりました。団員の一人としてステージに上げようとするのですから、当然、鉄腕アトムの非戦闘時バージョンのような「人間の子どものレプリカ」の外見でまとめるという選択肢が一つ。しかし、そこには絶対的に立ちふさがるあの「不気味の谷」の問題がひかえています。後者に拘泥するスタッフの主張は「二足歩行さえ可能ならば、外見は「フライデー」(SFドラマ『宇宙家族ロビンソン』に登場するロボット)や「ロビー」(映画『禁断の惑星』に登場する有名なロボット)のようなものでかまわないのではないか」…というものでした。私たちの研究はこういう尻込みを続けいてる間にも一部のセクションではどんどんテスト運用と改良が進んでいますから、コーキ君の外見はとりあえず、皆さんが商用の日本製自律二足歩行ロボとしてイメージするようなCFRP樹脂製のコロンとしたソフトなイメージのものと、ちょっと古典的な印象のハーフポリッシュの酸洗仕上げステンレス(オズの魔法使いに出てくるブリキの人形をもっと可愛くしたイメージ)の2タイプのものをサンプルとして試作し、スタートを切りました。改良を重ねたコーキ君の現在の姿はご覧のとおりです。ただ、私たちが試作品を問うた時点でとりあえず至った結論は、童話「ピノキオ」のアレゴリーでした。心のいびつな木彫りの人形ピノキオは燃やされそうになったり、ウソをついて鼻を長くされたり、耳がロバになったり、サメに食われそうになったりとさんざんなめに遭いながら、最後は心からの善行を積み、人間の少年の姿になります。ボーイソプラノとして歌は歌えても心を込めることを当然知らないロボット・コーキ君ですが、合唱団の子どもたちとともに訓練を積み、多くをともに学び、少しずつでも徳を得て、友として、合唱団の一員として育ててくれている団員たちの口から「僕らの大好きなコーキ君をどうか人間の子どもの姿にしてやって欲しい」という真摯なリクエストが出たときに、はじめて人間の外見を与えてやればよいのではと考えました。そして、これは私たちスタッフがコーキ君に対して抱く究極の願いであるとともに、2050年の日々に研究者が描く夢でもあります。

 発達レベルにあるコーキ君は現在、「身体」機能的にも団員たちに比べ非常に見劣りのする段階にあります。こちらも私たちが早急に解決すべき問題の一つです。
最大のものでは、運動技能として、ジャンプすることがあまり得意ではない…というか「できない」ということに近いのです。ジャンプと言っても飛び降りるという意味でのジャンプはまだしも、その場で跳ぶことについては「ラジオ体操第2」のような簡単で小刻みな垂直ジャンプをすることが現段階ではできません。合唱団全員参加で大縄跳びなどというのはどだい無理な注文です。
子どもたちが合宿や演奏旅行などでボール遊びを楽しんでいるときは、ドラクエドッジなどであれば参加することができます。役柄はキング化するスライム群など…。最初、子どもたちが「ドラクエドッジ、やりたい!」と言いだしたとき、ルールがいじってあるにせよ硬いゴムのドッジボールが機構のデリケートな部分に当たれば何らかの機能不全が出ることになりはしないかと気をもみました。結局、彼らが使ったのは近所の小学校の校庭開放で体育倉庫の前に出ていたソフトドッジボールでしかなかったので、ほっと胸をなでおろしました。

 私たちのロボコーア2050プロジェクトには「By 2050, develop a fully autonomous humanoid robots that can sing within the human world famous boy choirs.」という確固としたオフィシャル・ゴールがあります。 このプロジェクトの一般問題が「児童合唱団員」ではなく、あくまで「boy choir」(男の子の合唱)と設定されているのは、おそらく変声(声変わり)や第二次性徴といった避けて通れぬ問題に私たちがどう対処し、解決してゆくか…という点で「乗り越えてゆくべきハードルをもう一つ置いたよ」「カンタンなロボット作りじゃないよ」そして「テクノロジーだけでは決して解決できないよ」という特命を表すものなのだろうということが当初から判っていました。
私たちは合唱団の子どもたちの身の上におそらく起こるであろう様々なあらゆる事態をコーキ君の試練としても与えようと考えました。冒頭に紹介しました少年たちとの漂流の話ですとか、そこから「しっかりとした防浸型7等級程度の防水性能」の必要性を導き出しましたし、小学生の男の子ばかり何十人もいる集団ですから、まず思い浮かんだのは大小のイジメや虐待のようなものでした。私たちはデフォルトの言語活動の機能としては口喧嘩の買い言葉やかわし方といったものは一切コーキ君のプログラムには与えていませんし、手を上げられた場合も「やられたら倍返しでやり返す」といった報復のルーチンをロボット三原則から遮断してありますので、彼の場合何かあっても一方的にヤラれるということになります。緊張を強いられるステージ袖幕の内側で気晴らしに脚部を蹴飛ばされたり、すね毛の生え始めた6年生のお兄ちゃんたちからサンドバック替わりに筐体ボデーを凹まされたり、あるいはもっとインケンに 全方位ユニットのシリンダーに誰かの水筒のお茶が注がれていたり、ギミックの頭部アンテナがカギかっこのカタチにへし折られていたり、PDMSでコーティングされた3軸触覚センサの真上から誰かのシャープペンシルが深く突き刺さっていたりといったありとあらゆる事態を想定してみました。そして一応の対策をコーキ君に施し、彼が一体どんなイタズラをされて帰ってくるか、こまめにチェックを行い、最善と思われる対策をフィードバックすることにしました。
 ところが、この点については全く私たちの予想が全く外れてしまいました。どのタイミングで何度回収して精査しても、コーキ君がいじめられたり、ストレスのはけ口になったりした形跡を見出すことはできませんでした。私たちは当初、これは結局、アンドロイドが気の置けない団員の一人としては少年たちに受け入れられていない証しなのだと考えていました。ロボコーアプロジェクトの険しい道のりを呪ったものです。ところが、詳細に調べていくと休憩時間、彼の筐体にべたべた手垢をつけながらディープな(?!)スキンシップをはかっていた少年たちは、コーキ君のメカニズムや検知に関わるあらゆるデリケートな装置に指一本触れていませんでした。そればかりか、小型のアイスクリームコーンのカタチをしたハリボテの鼻の表面や二の腕にはハッキリそれとわかるソディウム・ポタシウム・Ca・塩化物イオン・炭酸水素イオン・無機リン酸・βアミラーゼ(!)・リゾチーム・ペルオキシターゼの混合分泌液由来の乾いた被膜が認められ、腕の方には、う蝕とマルチブラケットの痕跡の認められる第一生歯の歯列の跡がついていました。団員たちのうち、誰かが(DNA鑑定をしていないので、それが一人のものなのか複数名の仕業によるものなのかは判然としませんが、)コーキ君の鼻をぺろぺろと舐め、二の腕を甘噛みしていることがわかりました。こうして私たちは、「コーキ君が現在置かれている状況は、もしかすると非常に自然な状態なのかもしれない」と思うに至りました。男の子が何十人も揃えば必ず全員がいじめられたり、ケンカに巻き込まれたりするわけではないのです。その中にはどういうわけか皆に大切にしてもらい、全員にかわいがってもらうような少年たちも実際に含まれる。コーキ君の背中にジャンプして抱き着こうとした下級生たちを「やめろ!コーキ君が転ぶだろ?今度やったら俺たちが許さネェ!」と一喝し引き離した6年生たちを休み時間の練習場で見ました。「いじめ」や覇権争いや鬱憤晴らしの暴力とは無縁のまま卒団していく少年もいるのです。私たちのコーキ君は、いったいどの辺が少年たちのお気に召したのか全く想像もつかないのですけれど、そんな団員の一人として子どもたちに受け入れられたのだと。そして少年たちに受容され、楽しいクルーの一人として認められたということは、同時にお客様がたからも一人の少年合唱団員として一目置かれる存在になっているのではないか…と思ったのです。この晴れがましい結論とコーキ君や彼を取り巻く少年たち・大人たちへの信頼が、以後、私たちのプロジェクトの伸展を強力にけん引していくことになりました。私たちの工房のメインファクトリーはソフト・電子工学・メカトロニクス・脳科学などの科学分野の研究者・学生たちの集合体ですが、今回のロボ・コーアの企画自体が「少年合唱」という特異なフィールドをめぐるロボティクス構築なわけですから、音楽などの芸術科学やそれに関わる(例えば著作権・著作隣接権、上演権)等の法務関係の処理ですとか、あとは通常の知財管理等や税務関連の仕事に携わってくれているスタッフもしっかり擁しています。コーキ君の合唱団の中での立ち位置の判明は、こういう「科学・工学のことは実はよくわかりません」という人たちにとって非常に分かりやすい「はげみ」になってくれました。日ごろは工房の中で作業することの無い人たちを含めて全員のモチベーションが一気に高まったわけです。私たちは、コーキ君を完成形で提供することをせず、合唱団にいる6歳から12歳までの男の子たちに育ててもらおうとした。そして、それが一定の成果をもたらしてくれた今、私たちロボット製作者やそれに関わる皆が逆にコーキ君から育ててもらっているというのが実情です。
 もちろん、解決すべき課題やロボテクノロジー的な改善点、再考すべき点はまだまだたくさんあります。2050年までにすべてがうまくまとまるとは私たちの誰も思っていません。プログラムされた反応を返すコーキ君には、「対話能力を持たせる」という基本チャートが作られた時点ですでに「周囲の人々を幸せにする返答になるように」という設計方針が大前提として求められていました。ですから、へそを曲げた団員が彼に対して「おまえなんか死んじまえ!」と舞台裏で悪態をついても、コーキ君は決して感情をあらげることなく(…ロボットなんですから(笑)…)静かに「ボクが死ねば気が済むくらいキミはつらい思いをしているんだね。」と反応します。ここにはたらいているのは、あきらかに「ロボット三原則」的なものです。こういう対応はコーキ君にとってはお手の物なのです。また、皆さんがお好きそうな設定では、声変わりの始まった6年生が「いつまでも声の変わらないおまえなんか、呪ってやりたいほど憎い!俺じゃなくて、機械人間のおメエの方こそ壊れてどっか行っちまえばいいんだ!」と言ったりするとしましょう。コーキ君の対応は、「きみの声が変わって合唱団を卒団しなければいけないなんて、感情チップが壊れるくらいつらいのは僕の方だよ。ぼくはロボットだから泣きたくても涙が出ないから泣けないし、誰かに八つ当たりしたくてもロボット三原則に違反するからできないんだ。」という内容の反応をしたりします。実際のコーキ君には実は「感情チップ」などという胡散臭い名前の集積回路は搭載されていません。テレビの海外SFドラマの筋書きにしか出てこないようなフェイクですが、私たちは彼に自身の心の襞や感情にあたる文言を言わせるとき、子どもたちでも分かりやすいように、こう言って表現するよう覚えさせたのです(コーキ君は実際に「感情チップがピクピクするくらい感動した」とか「感情チップがウイルスに冒されたみたいで、上手く動きません」とか「びっくりして僕の感情チップがプルプルした」とか、「きみが優しくしてくれるから、僕の感情チップはうれしくて容量オーバーになりそう」とか、そういうレトリックをよく使います。どれもみな単なる文書作成ロジックのセッティングで、コーキ君の現実の筐体の中では何も起こっていません)。いずれにせよ、子どもたちが激しい感情をぶつけるような激情場面では、ロボット三原則がむしろ足枷になってしまうのではないかと考える研究者も少なくありませんでした。

 あるいはまた、コーキ君にはもともと日常会話と歌の歌詞とを区別して記憶するようメモリ化のルーチンのようなものを与えているのですが、結局これがある種のコンフリクトを生んでいるように思われます。例えば来客の帰り際にお客様から「あなたと会えて本当に良かった!」と言われて、突然「優しい心ありがとう!優しい心ありがとう!」と応答してみたり、オフのパーティーのとき保護者会のお母様の代表のかたから「みんな!楽しく歌いましょう!」と促されたときも「子羊メエメエ、子猫はニャー、子豚ブースカ、チャッチャッチャ!」と言っていました。本来なら、こうした反応時の瑕疵はレポートの対象で改良すべき点でもあるわけですが、私はその時の周囲の人々の反応を見て、あえてそれを看過することにしました。コーキ君が「優しい心ありがとう!」と言ったときにも「子羊メエメエ…」と唱え出したときも、周囲にいた団員たちは実に愉快そうに愛情たっぷりに笑っていました。彼ら自身も日々歌っている団員たちは、コーキ君が電子頭脳特有の不器用さで、シチュエーションに全くそぐわない『グッデー・グッバイ』の歌詞から応答の文句を援用しているということへ即座に思い至ったのだろうし、『おもちゃのチャチャチャ』のフレーズの通り言葉を返していた朴訥な姿にどこか愛らしい、愛嬌のようなものを感じていたのに違い無いのです。私は、これがロボット・コーキ君の憎みきれないチャームポイントの一つであると思いました。機械人間であるはずの彼がどうして団員たちの人気者になることができたのか判るような気がしたのです。

 コーキ君の周囲で歌い、彼とともに日々一人前のボーイソプラノへと育ち行く少年たちはもちろん次世代のロボット開発に携わるために歌いに来ているわけではありません。私たちの工房にはジュニアサッカーリーグのロボットを扱うような子どもたちも見学に訪れることがままあるのですが、同じ世代の少年たちでもコーキ君を見る目はあきらかに異なっていることがわかります。
合唱以外の現場で実際に自律移動型のロボットを運用している小中学生たちは日ごろマインドストームなんかをいじって使い倒してから実戦に臨んできている。彼らにとってはヒューマノイドのサッカーもレスキューもレゴロゴの応用編でしかない。一方、少年合唱団の子どもたちは同じ自律タイプのロボットとの共同戦線ですが機械への対峙というイメージがあまり感じられません。歌うロボットは、まあボーカロイドの応用ではあるのですが、そうは言っても彼らの殆んどはDTMの打ち込み経験すら無い。団員たちに尋ねると学校のコンピュータ・クラブでヴェーベルン編曲版のバッハの「6声のリチェルカーレ」を作って演奏させたという子が一人と、学校の音楽クラブに所属している子が音楽室のiMacで黛敏郎の「素数の比系列による正弦波の音楽」を耳コピし腕試しをした後、シュトックハウゼンの「少年の歌」(…の電子音楽部分。歌の部分はコンピュータの前で実際に歌って自分のボーイソプラノの声を音声認識用の内蔵マイクで拾い、電子音楽と合成したそうです!)を聞きながらレプリカ…というのでしょうか?模写?したというツワモノが一人いましたが、そのくらいです。彼らはある意味で重要な「共同制作者」ですが、あくまでもソフトな面での実機のメンターでしかないわけです。コーキ君にパフォーマンス以外の音声発振プログラム…つまり、団員ですとか追っかけのファンの皆さんですとか、合唱団交歓会のような場での他の合唱団の団員さんといったニンゲンたちとの日常会話的なコミュニケーション機能を持たせるかどうかの判断は、この局面からもたらされたものです。最初、私たちはコーキ君に最低限の事務的な対話能力があればそれで十分だと思っていました。「話す」ことだけでしたらロボットにとって単純に「移動する」こと同様、造作もないことなのですが、「会話」となると相手の発言というものが存在します。少年合唱団員のコーキ君にとって、実は会話の相手が今は誰なのかでさえ大問題なのです。客席にいる小さい子どもたちがステージで歌う合唱団を見て「コーキ君、かっこいいー!」と思わず口にしたとします。コーキ君はまず、大音量で歌っている周囲の少年たちの歌声の中からそのつぶやきを聞き分けることになります。彼には音声の発生源の距離を比較的正確に把握する測距機構が搭載されているので、自分の名前を呼ぶその声が合唱団の団員のものでないことを音声メモリと照らし合わせたりしながら素早く判定します。私たちは彼らのような合唱団が、例えば野外のイベントであるとか、デパート・ホテルロビーのコンサートで歌う場合の観客の至近さといったものを実測して調べ、データ化していますので、観客が比較的近くで聞いていてもそのつぶやきなり野次(笑)なりをかなり正確に区分して聞かせることができます。彼がそれに対して「今は何も言わない。必要になったときリロードできるようメモリに一定期間入れておくが、最終的に情報はクリアする。」といったようないわゆるフレーム的な問題をある程度クリアするよう仕込まれたルーチンに従って処理します。ですから、演奏中に客席の子どもたちに向かってお礼を言ったり手を振って応じたり、「今の言葉、もう一度言ってみろ!」などと恫喝したりすることはありません。
 ロボットの「進化」によって、いつの日か人類は滅亡し、ロボットたちが私たちにとってかわる…こうしたわかりやすいいかにも起こりそうな未来世界のビジョンは、残念ながらコーキ君の身の上には起こりえないことがこれでハッキリとします。厳しい音楽的・人間的要求を携えて指揮をとる先生がたや、それにこたえて真剣に歌い続ける合唱団の少年たちがいなければ、コーキ君は「二足歩行するシリコンプレーヤー」と何ら変わりのない、「お掃除をしないRoomba」のようなものにすぎません。
 「少年の裏声で周囲の男の子たちに合わせて歌う自律二足歩行ロボット」というおよそ特殊なものづくりの分野にどうして当工房の研究者たちは惹かれ魅せられるのか。ある者は「ロボットビジネスからもエンタテイメントビジネスからも最も遠い場所で制作に打ち込めるから」と言い、ある研究者は「教えられた歌を少年の声で歌う…という目的の特化された単機能ロボットに見えて、実は一緒にいるだけで気分の良くなる一人のごく普通の少年を作ろうとしている自分に気がついたから」と言い、「二足歩行ロボットではあっても肥大してユーザーを卑下するようになった大手家電メーカーや本業のモータービークルをつくらせると単車を横に2台くっつけたような自己中のおっかないクルマのまがいものしか作れない自動車会社には絶対に求められない誠意や熱意が必要だから」と答え、アクチュエータの担当責任者は「私たちの作ったロボットは、少年合唱団の団員たちにとって様々な意味で『僕たちが一番欲しかった楽しいロボット』になれた。相手が子どもで、開発費の一円も負担してくれず、自律二足歩行して歌うだけの機能しか持っていない、およそ市場での商品価値の全く無いものを私たちは作ったが、それは間違いなく、歌う小学生男子たちにとって入団してくれるのをいつの日か心待ちに、出会える日を楽しみにしていた友のようなものだった!」と年度まとめの打ち上げのパーティーの席で挨拶しました。この発言にも感じられるように、私たちは偶然にも『目的地も到達手段も魅力的でハッキリしているのに、旅行商品とは言い難く旅行会社がビジネスの魅力を感じない数年越しのパッケージツアー』のようなものに遭遇し、ひょんなことから参加して今もなお旅を続ける旅客となっていたのです。旅路は長く、旅費はふくらみ、行く手は多難で、目的地の天候もはっきり判りません。ロボットが歌っているのを見にわざわざ少年合唱団のコンサートに足を運ぶお客様はまず皆無。しかし、私たちのコーキ君が団員の少年たち皆から可愛がられ、ともに歌い、固い絆で結ばれていることを客席の人々はすぐに感じとって、ロボットとしてではなく合唱団員として応援してくださいます。団員たちがコーキ君をある意味で頼りにし、コーキ君自身もまた少年らに囲まれてしあわせそうに(!?)歌っていることをお客様がたは心から楽しんで劇場を後にしてくださるようなのです。

 さて、しばしば団員たちから漏れ聞いて保護者の皆様やお客様が話題になさるコーキ君の「裏の機能」 (笑)について、代表的なもので「読み聞かせ」について述べておきましょう。コーキ君に「読み聞かせ」の機能を持たせたのは、少年合唱団特有の事情を拝見して、私たち研究者から先生方へ「こういうこともできますが、いかがですか?」とアクションを起こしたものの一つです。
 少年合唱団の仕事というのは、子ども用のほんの少しの時間の出演のために楽屋のようなところでかなりの長い待ち時間をスタンバイして待つのが普通のようです。私たちも同行しましたので思い知ったのですが、例えば、オペラの児童合唱担当(たいてい、19世紀ふうの西ヨーロッパの下層階級の男の子の扮装で、大人の合唱団の合いの手・中継ぎの役で実質5分間程度の時間を簡単な演技つきで歌うだけといった類のものです。ナイフを握りしめバッタリと倒れたまま、こときれる瞬間まで横になった姿勢でレチタティーヴォを歌ったり、ワインボトルを指にひっかけてバスバリトンと肩を組み、千鳥足で朗々とアリアを聞かせたりするような大変な演技や長時間の演唱は彼らボーイソプラノには全然求められていません!)ですと、本番当日の午後早い時間に劇場の最寄駅で集合。出演キャストとスタンバイのお友達が揃うまでまず、早く到着してしまった団員は、駅の改札の外で30分ほど待ち合わせます。次に楽屋入りして、声出し、最終ゲネプロの大人のキャストさんのキッカケ出し等々におつきあいし、着付け、メイクがあって、あとはホンバンが始まれば、彼ら子どもの役者の出番はたいてい1幕の終わりか2幕以降ですから、それまで延々と続く拷問のような「待ち時間」を衣装やお化粧が崩れないようにただただじっと静かーにして過ごします。排泄物を産出するような「冷たいお水」も「甘いおやつ」も「たのしい夕ご飯」も、出番が終わるまではがまん、がまん!最後の最後にステージに出て行って一声ちょっと歌って引っ込み、あとはまたカーテンコールで呼ばれるまで長いこと待って…これはとっても極端な例ですが、ボーイソプラノの出演するステージは、程度の差こそあれ、殆どがこのような長い時間の「待ち」を伴います。少年合唱団というのは「待つ」のが本業で、「歌を歌う」のが副業…と先生方も冗談まじりにおっしゃっていました。
 それでは彼らはいったい、この地獄のような「待ち時間」に何をして過ごしているかというと、もちろん、歌の最終チェックもあるのですが、歌ってばかりだと肝心のホンバンのときに疲れ切ってしまって出てくるのが声よりもため息ばかりだったりすると困りますから、ずっと練習というわけにはいかないのです。声を出さず、動かないで済み、エネルギーの消費が少なくて済む「読書」が唯一奨励されているようです。おしゃべり、彼らの大好きな手打ち野球やドロケイ、テレビゲームや楽屋のディスプレーにモバイルをつないで皆で楽しい映画鑑賞など、すべてもってのほかです!携帯の囲碁・将棋・オセロ・トランプ…演奏旅行の列車の中でしたら良いのでしょうが「遊び道具は合唱団には持って来ない!」と予科生の入団初日に厳しく教え込まれている彼らには、オイチョカブも坊主めくりも楽屋には存在しません。彼らは長い長い時間のウェイティングの間、ただひたすら、本を黙読して過ごすのです。先生方はおっしゃいます。
「ボキャブラリー力の無い子に、心のこもった良い歌は決して歌えません。語彙の引き出しの無い者にどんな美しい合唱を聞かせても、演奏会の後の食事がどうだとかいう程度の感想ぐらいしか出てこないのに似ていますよね。待ち時間に本を真剣に読んで過ごしている子たちというのは『○○君のソロの音程はイエローダイヤモンドみたいに端がしっかりしている』とか『○○を歌ってるときに、一瞬、プールサイドの静寂が聞こえた』…とか、私たちがビックリ仰天するようなことを恐ろしいほど的確な場面でぼそりとつぶやく団員もいます。たぶん、普通の小学5年生・6年生の子どもではこんなこと、言えないんじゃないかと思うのです。読んだことがすぐに日々の歌につながってゆく…彼らはそういう毎日を送っているにちがいありません。」と。
私たちはコーキ君の運用視察中、合唱団の練習場や劇場の楽屋でそうして真剣に書物と向き合いページを繰る夥しい少年たちの姿を目にしました。一方、私たちのコーキ君には読書をして語彙力を増やすというルーチンや要求は元来ありません(…活字OCRの機能はもちろん搭載しています。彼はシャクルの無いアラビア語やペルシャ語の本もきちんと右から読んで発音することができます!凛々しい少年の声でコーランやルバイヤートを流麗に音読するコーキ君の吟唱は深いラピスラズリに染まりゆくアラブの夕刻を思わせます。一聴の価値がありますよ!)。私たちは本番前の楽屋の壁際に尻を落とし、頭を垂れてログオフ状態のままただひたすら出番を待つコーキ君の姿を思い浮かべました。戦場へ送り込まれる前の束の間の時間、書物の世界に遊ぶ周囲の少年たちとは全く対照的なその姿に私たちが思うところがあったのもお分かりいただけるでしょうか。…私たちは先生方に「コーキ君も団員の一人です。彼にも待ち時間に本を読ませてやるわけにはいかないでしょうか?」と交渉をはじめました。もちろん黙読で読書するということでしたらコーキ君には何のメリットもありません。ただのバッテリーの無駄遣いです。私たちの提案は「コーキ君に本の読み聞かせをやらせたい」ということでした。ご指導の先生方やマネジメントスタッフからの反応は「音読では声が出ます。音の出ることを待ち時間に認めることはできない。」ということでした。ただ、歌を歌うロボットのセンサ技術や発振機能の利点として、その場の環境に合ったボリュームを維持して、最低限の音量でも確実に相手の聴覚に届く音声で朗読を実行し、先生方の指示が下ればたちどころに音読をシャットダウンすることもできます…といったことを誠意をもって繰り返しお伝えし、最終的に承認を頂くことができました。コーキ君はおそらく今日も出演前の楽屋で団員たちに音読をしてきたと思います。団員の誰かが持ってきた本を視覚センサーを使って読んでやることもできますし、直接購入しダウンロードした電子書籍のコンテンツもオープンソースのファイルフォーマットのものでしたら、マンガや絵本・図鑑のようなものを除いてハードウエアを一切介さずに読み上げることができます。コーキ君の音声ボリュームはその部屋で本を読んでいる周囲の団員に迷惑がかからないくらいの大きさにリミッタが切ってありますので、読み聞かせが聞こえる子は多くて6人ほどです。合唱と同じ程度の抑揚が付くように読みますので、極端な感情表現をしません。これは私たちの工房で読み聞かせに特化したヒューマノイドを試作したときに得た「子どもに好まれる読み聞かせの技術」の一つです。適切な読む速さや、小学校中学年の子どもたちの語彙力などの判定は団員の表情や視線、感情反応などをセンサーが読んで瞬時に解析しフィードバックします。コーキ君が車座になった少年たちに囲まれるようにして、昔話の「かたりべ」よろしく物語を朗誦している場面や、本を読んでやっている場面を見るのは本当に良いものです。私たちはお客様に歌声を聞いていただきたくて彼を作りましたが、このときばかりは「製作者の特権」を味わいました!…客席の皆様に実際をご覧頂けないのはちょっと残念ですが…。

 人間のボーイソプラノたちには必ずステージ・デビューの日と、引退の公演の日があります。コーキ君は現役の1代目(1台目?)ですから、まだ退役の日を経験したことは無いのですが、デビューのステージの日はちゃんとありました。彼が一人前のボーイソプラノとして実力を発揮してくれるかどうかということは、所詮プログラムされたサーボ機械ですからアガッたり怖じ気づいたりすることはもともとありませんでしたし、事前のテストやリハーサルの状態を見ていてハッキリとしてはいたのですが、実際にその時が来て、ホールを埋めたお客様を前に彼が少年たちに混じって整然と登壇し、列を整頓し直し、第一声を発した時にはさすがに込み上げるものがありました。
 当日は大学のグリーとの合同演奏会の日でプログラムの前半に團伊玖磨の合唱組曲『筑後川』から「川の祭」と「河口」が選ばれて入っていました。子どもたちはステージに上がる直前まで「川の祭」の途中に出て来る歌詞を「一千匹…一万匹…十万匹…一万匹…十万匹…百万匹」と口の中で呪文のように唱えて歌詞を間違えないようにするので精一杯の様子でした。一方、コーキ君はこういう暗記でしたらお手のものですから、平然としている。本番でこれを事も無げに歌っている彼の姿は実に頼もしかったし、この部分では少年たちの声をリードしてもいたように思えます。かくして私たちスタッフは「ステージママ」の気分すら味わう事もでき、至福のひとときを過ごしました。そして、次第に感情のようなものが芽生えてきたのは実はロボットの方ではなく、他でもない私たち人間たちの方であることに思い至りました。つい先日まで機械部品の集合体だとしか思えなかったコーキ君に、工房の皆は今、本当の親のような深い愛情を注いでいる。また、彼の投入を受けた少年合唱団のメゾソプラノ・パートの少年たちは、私たちが初めて少年合唱団の練習場にうかがった当初は歌うことに「何でも屋」の腰掛け程度の習い事の一つという感覚しか持っていなかった。今は「僕ら、メゾソプラノ」という言葉を子どもたちが良く発します…とご指導の先生が打ち明けてくださるほどに少年たちも一体のアンドロイドの存在をきっかけに胸を張り、絆のようなもので結ばれるようになったそうです。先生方も今、これはアレゴリーなどでは決して無く、コーキ君一人の存在が少年たちの心の在処を大きく変えてきたのだと断言していらっしゃいます。
 こうして考えて来ると、私たち、ロボ・コーア2050プロジェクトが決心を注いでやってきたことというのは、ボーイソプラノで歌う一体のアンドロイドを作りあげることではなく、ロボットを通じて少年たちを一人前のボーイソプラノへと育てるお手伝いをしてきたことではなかったのかとさえ思われてきます。おこがましい、僭越だと自戒しつつも私たちがこれを正直に先生方へお伝えしますと、「いいえ、それで良いのです。結局、人間の彼らは『最初からボーイソプラノである』のではなく、『ボーイソプラノになる』ことしかできないのですから。」とおっしゃいます。そう言ってほほ笑まれた先生の表情には合唱団を卒団する少年たちにむけられるのと同じ慈愛に満ちたものが見てとれました。

安藤伶哉くん

March 06 [Thu], 2014, 0:42
(パクリです。ゴメンなさい…汗)
▲ きょうは、ぼくたちの練習場に来てくださいましたね。ぼくに、いろいろ話しかけてきてくれてありがとうございます。ぼくは、合唱団に入ったのが3年生の3学期なので、まだみんなとよく話せません。先ぱいたちからは「オンチで弱虫のアンドレヤ」とよばれています。

 きのうのコンサートのときは、お花の絵のカレンダーをどうもありがとうございました。きれいな絵ですね。ぼくのつくえの上において、いつもながめています。ぼくは、そんなに歌がとく意じゃないのに、どうしてぼくにだけカレンダーをくれたのかな?大切にするので、これからもぼくたちの少年合唱団を応えんしてください。いっしょに入れたおかあさんからの手紙にこれからのコンサートのよ定が書いてあるので、どれでもいいですから、よかったらまたいつでも来てください。ぼくはこれからもがんばって歌い続けます。さようなら
  仙道さんへ    安藤伶哉より  
                  
拝啓 
伶哉君!お返事をどうもありがとう。プレゼントを気に入ってもらえてとてもうれしいです。本当のお花をあげたかったのですが、花束はコンサートが終わって衣装ケースを抱えた君にはきっと重いだろうし、それにカレンダーなら1年間ずっと毎月新しいお花が見れるでしょう?「どうして僕にだけプレゼントをくれたのですか?」という質問でしたが、私はレイ君の声が大・大好きなんです!なぜ好きか?って、それは、きれいでかっこいい声だからです。日本一きれいなメゾソプラノだと思っています。きみは自分の声が好きですか?ぜひ、教えてください。
それから、お母様から教えて頂いたコンサート予定一覧ですが、なるべく全部行きたいと思います!楽しみにしています!練習もがんばってくださいね。    敬具
 安藤伶哉様    仙道  
 
   
 仙道さん、こんにちわ。きょう、学校の音楽の時間に「スマイルアゲイン」という曲を習いました。全校集会で1年生から6年生まで全員で合唱するそうです。クラスのみんなでせん科の先生のピアノに合わせて音取りをしたのですが、ぼくはこの曲の歌しがすごく気に入りました。仙道さんは、「スマイルアゲイン」を知っていますか?どうしてぼくの声をよく知っているのですか?合唱団のソロのオーディションにもあんまり受からないし、いい声じゃないですよ。ほかの子とまちがえていますね?ぼくは、ときどき、第一メゾソプラノの松田リクくんと人ちがいされます。どうしてだか、よくわかりません。リクくんは「むささびグライダー」のソリストです。ピアノもじょうずです。
明日、朝倉すみ孝先ぱいの結こん式でぼくたちは2曲歌います。「コングラッチュレーションズ」は、はじめて歌う歌です。英語が少しむずかしいです。がんばりますから、よかったら聞きに来てください。

追しん 
 ぼくは自分の声のことがよくわかりません。だから、好きかどうかもよくわかりません。ごめんなさい。どうしてぼくたちの合唱団のことを調べているのですか?もしかして、ぼくたちが、お・か・し・い・から?!先生からは、よく「きみたちは完ぺきにおかしい!」って言われてます。安藤れいや より 

拝啓
 伶哉君。むずかしいことを聞いて、困らせてしまってごめんなさい。
それから、先輩の結婚式にも行けなくてごめんなさい。レイヤ君たちの「コングラッチュレーションズ」が聞きたかったー!みなさんの合唱が「お・か・し・い」ですか?それって、「面白い」という意味ではないでしょうか?それなら、その通りですよ。とっても面白いです。この間のコンサートでレイ君たちが歌っていた「だるまさんがころんだ」の「♪チャンピオンのでかパンツ!」と「アビニオンの坊さん!」のところは大笑いしましたよ。
…どうして皆さんの合唱団のことを調べているか…というと、それはヒミツです!一つは、これがお仕事みたいなことの一つで、お友達と約束したから。調べてレポートを出すと、50万円(!)もらえるんですっ!大金持ちだっ!(?)…もう一つの理由は、将来すばらしいソリストになりそうな、一人の団員のことを調べているからです。先生方は「年々ソリストになるような子が減っている。」なんておっしゃっていますが、その子は突然あらわれたスゴい子なんですよ!レイヤ君もよーく知っているすてきな子です!歌だけじゃなくて、カッコ良くてイケメン!さて、いったい誰でしょう?!(笑)  さようなら   敬具  仙道より 


 仙道さん こんにちわ!
 きょうは、ぼくたちの練習場に来てくださいましたね。ぼくに、いろいろ話しかけてきてくれてありがとうございます。ぼくは、合唱団に入ったのが3年生の3学期なので、まだみんなとよく話せません。先ぱいたちからは「オンチで弱虫のアンドレヤ」とよばれています。ホントなんだけど。だから、仙道さんが、休み時間に遊ぼうって言ってくれてうれしかったですよ。でも、ぼくは弱虫だから遊べなくてごめんなさい。合唱団の研究がんばってください。50万円って、すごいですね。ぼくでわかることがあったら教えてあげます(ぼくは合唱団のことはあんまり知らないんですけど)。仙道さんが調べているゆうしゅうなソリストになりそうな子って、鏡ハリス先ぱいですよね?ソプラノの5年生で、とってもかっこいいです。ぜっ対音感もあるし、オペレッタなんかはぜっ対に主役なんです。オペラの衣しょうも、合唱団のユニフォームもキマってます!でも、ちょっとこわいので、ぼくはちょっとニガテな先ぱいです。おっかないし、子分もいるんです。だから、今日の休み時間のときもにげちゃったのです。急にいなくなってごめんなさい。仙道さんがきらいなわけじゃないんです。お母さんは、「下級生すら大切にしないようなロクデモナイ先ぱいなんか、良い歌なんか歌えるはずが無い!さっさとヤッツケちゃいなさい!」って言います。でも、ハリス先ぱいは歌がじょうずです。オンチで弱虫のアンドレヤより    
 
 伶哉くん!
 君は音痴でも弱虫でもありませんよ!少年合唱団で、本当の勇気のこと、いつも習っているでしょう?自分が取りかえしのつかないことをしたとき、「本当の勇気」を持った少年だけが正直に本当のことが言える。「僕が間違えました」と言えない子。嘘をついたり知らんぷりしたりする子のことを弱虫というんですって。伶哉君は全然違うでしょう?
 この間の練習のとき、先生が鏡先輩に「安藤君がひとりぼっちでさびしそうだから、休み時間に仲間に入れてあげなさい」っておっしゃったから、鏡先輩は仕方無くキミに声をかけに行った。実は、そのテンマツをあのとき私は最初から見て、聞いていたんです。正直言って、ハリス先輩は、全然乗り気そうじゃなかった。品川君から「だって、あすこで先生様が見てるなっしー!」と言われて、ようやく舌打ちして、「先生のいいつけなんかで友達になっても、そりゃ本当の友達とは言えないぜ!」なんてぶつぶつ言いながら…。先輩の言ってたことは正しいかもしれないけれど、仕方なく伶哉君のところへ声をかけに行ったみたい。あんなおっかない顔で「遊ぼう!」なんて言われても、きみじゃなくったって泣いて逃げてしまいたくなるよね。私はそう思いましたよ。 

とり急ぎ、今日の日はサヨウナラ! 仙道より 


安藤伶哉君!
 伶哉君って、クリスマスに聖戒告教会の聖歌隊で歌っているところを合唱団の先生がお聴きになって、気に入られて、もっと本格的に勉強したら必ずすごいボーイソプラノになると思いますって言われて入団したのですね?昨日、合唱団に行ったとき先生からうかがいました!たいていの団員くんが1年生から3年生くらいの低学年の春に入団するのに、君だけ3年生の3学期なんかに入団していたので、どうしてかな?と思ってたんです。先生は本気で「オンチ」なんて思っていないんですよ。もっと歌の勉強をしてほしいから、おっしゃったんじゃないかな?百歩譲ってもし本当に「オンチ」だとしても、先生方は「レイヤ君の場合は練習次第で必ず治る」という強い自信をもっていらっしゃるからこそ、おっしゃっているはず!先生は、なぜ伶哉くんを団員にスカウトしたか…、考えたことがありますか?合唱団が儲かるとか、有名になるとか、そういうことでは無いと思いますよ。君が美しい声でのびのびと歌えば、歌を聞いた人たちが必ず幸せになる。サッカーが上手とか、仲間を集めたりまとめたりするのが上手だったりとか、世の中にはいろいろな子がいるのですけれど、伶哉君の場合は歌声で人を幸せにしたり本当の勇気をあげたり、傷ついた心を慰めてあげたりすることのできる少年なのだと思います。先生はプロでいらっしゃるから、それをしっかりと見抜いている。だから、決して「弱虫でオンチな安藤伶哉」なんて自分で思わないで!だって、悲しんでいる人の心を歌で癒してあげられるはずの子が、自分の意思でそうしないのは本当の弱虫だし、そんな誤った考えを信じているとしたら、それは心の「オンチ」でしかないでしょう?先生がたやみんなが「弱虫でオンチな安藤伶哉」って言っているのはそういう意味ですよ!君の歌声を楽しみにして心の支えにして待っている人たちがあまりにも可哀そうすぎる!悲しすぎる!きみは決してそんな残酷で卑怯な子じゃないでしょう? 
(仙道) 


せんどうさん、ごめんなさい
 
聞いてくれる人をかなしい気もちにさせてごめんなさい。いただいた手紙はちょっとむずかしかったけど、ぼくは、これからはいっしょうけんめい歌います。今までも、いっしょうけんめい歌ってきたつもりなんですけど、そうじゃなかったみたいです。どうして「弱虫でオンチな安藤伶哉」って言われているのかよくわかりました。これからは気おつけます。よかったら、これからもおうえんしてください。 
 きょう、『友〜旅立ちの時〜』の練習のとき先生が「メゾのバランスがおかしい!」と言いました。ここが合わないと、ゆずっぽい感じが出ないってめっちゃしかられました。メゾは、はじから一人ずつ歌わされました。そして、なんと!音ていがまちがっていたのはぼくでした!「オンチはきみだ!安藤伶哉!もう一度、さんはい!」と言われたので、歌ったら「ちがうんだ!メリハリがきかなきゃ、ゆずっぽい感じは出ないっていってるだろう?!」「えんそう会はソロリサイタルじゃないんだ!一人が出来ないと合唱は全部ダメになる!」それから「もう一度!」「もう一度!!」と言われてぼくは、いっぱいなきました。「ボイトレのときはすごくいい声を出すくせに、何でみんなといっしょに歌えないんだ?」「聞いてくださる人が一人もいない中でじょうずにうたえたってしかたない。こんなんじゃあ、合唱団やめるしかないぞ?」とも言われました。ハリス君たちから「おまえは、なき声がうるさいんだよ。合唱団のしき地の中でなくな。」と、どなられました。こんどからは、練習場の外のちゅう車場とかでなこうと思います。安藤伶哉より  

 こんにちわ!
仙道さん、ぼくは、生まれてはじめて雪の中で「こ立」しました!とっても楽しかったですね!!家に帰ってテレビを見たら、雪の中でまだ「こ立」している人がたくさんいることがわかりました。それにくらべたら、ぼくはゆめのようにわくわくして、しあわせいっぱいでした。おまけに、ぼくはジャンソウのいすでモリマユーリ君と松田リクくんと宮崎レオンくんといっしょに、楽しくてきれいで頭が良くて人なつっこいたくさんの小鳥たちと遊んだり歌ったりするゆめをみました。朝おきて、外お見たらまぶしい太陽の光がふりつもった雪の上にきらきらとかがやいて、世界が全部光でいっぱいになったみたいでした。
 仙道さんがぼくに「山おくにあるつぶれかけの遊園地へ遊びに行きましょう!」って合唱団の練習場でさそってくれたとき、「山おくで、つぶれかけなんて、大じょうぶかな?」と思いました。先生から、「きっとガラガラだから、何でもならばないで乗れるよ。それに大声で『ゴリラの目ん玉』をずっと歌っててもしかられない。いいなぁー。」と言われました。家に帰ってからお母さんに「行ってもいい?」と聞こうとしたら、お母さんも、おばあちゃんまでもう知っていました。そして「つぶれかけなんて、イイじゃない?!ラッキーな大チャンス!つぶれちゃったら、もう二度と行けないんだよ!」と言われました。なんだか変てこりんな考えです。
 少し寒かったけれど、よい天気で、いろいろなものに乗って遊べました。先生の言うとおり、1回もならんだり待ったりしないですみました。一番おもしろかったのはゴーカートです!とちゅうから仙道さんがさくを乗りこえてしん入してきて、かっ手にゴーカートに乗ってわざといろんなところにぶつけたり、しょうとつしたりスピンさせようとしたりして、スパイえい画みたいでおもしろかったです。なみだが出るくらいずっと大わらいしてしまいました。そして、小さかったけれどかんらん車に乗ったりしているうちに雪がふってきました。「さっきまでお天気だったのにねー」と言っている間に、またどんどん雪がふってきて、あっという間につもってしまいましたネ!せんどうさんと2人でふなッシーの雪だるまとかまくらを作っているうちに、気がついたらお客さんがだれもいなくなっていて、またびっくりしました。
 あのときも言ったけど、ぼくは生まれてはじめて自動車の運てんをしました。つぶれかけの遊園地でゴーカートにも乗って、大雪がふってきて、こんどは本当の車の運てんをしました。まさか、下の町からふつうの車で町の人がぼくたちを助けに来てくれるなんて、びっくりでした!そして、あの急坂のはじまりでタイヤがから回りして、運てん手の人から「レバーをNのところにしておくから動かさないで。そしてハンドルをしっかりにぎって、あいずをしたら右のペダルを右足でゆっくりふみなさい。」と言われて、みんなが車をおりて後ろから力を合わせておしてくれたらタイヤがじゃりじゃりじゃりって動きました!大せいこうです!「キミはじょうずだから、車の運てんを教えてあげるよ」と言われて、言われた通りにやったら、2回目にからまわりしたところで本当に車を動かす事にせいこうしました!もちろんだっ出もばっちりです。仙道さんもビックリしていましたネ!でも、ぼくたちをたすけにきてくれた車が、まさか5回も雪の中でタイヤがから回りして動かなくなるなんて、びっくりしました。
 下の町(?)でホテルとかにとめてもらえるのかな?と思っていたら、着いたのはジャンソウでしたね。ぼくはマージャンをしたことが無いので、生まれてはじめてジャンソウに入りました。ジャンソウのお姉さんから「何食べる?何でもタダで作ってあげるから言いな」と言われて「ビフテキとおすしとラーメン!」と言ったら本当に全部つくってくれました。ミラクルです。「こんなんだったら、カレーもたのんどきゃよかった。」と言ったら「でも、明日になったらオレイに何かしてもらうよ!」と言われてビックリ!ビフテキはちょっとしゃぶしゃぶのお肉みたいだったけど、ビフテキのあじがしました。おすしとラーメンは食べきれなくて仙道さんやお店でマージャンをしていたおじさんに手つだってもらったけど。おじさんたちは、「このお姉さんは、ダッポウハーブとま薬の売人で、夜はきゃくをとっているんだから、ボク、じゅうぶん気をつけな!」と笑いながらぼくに言ってお姉さんにひっぱたかれていました。でも、いっぱいごはんを食べたら急にねむくなってしまいました。お姉さんはジャンソウのカポックの木の横にある茶色いソファーにおふとんとまくらを運んできてくれて「怜哉くんは、ここでねるといいよ。」
と言ってベッドをつくってくれました。「ほんとはネ、ねーちゃんにも怜哉くんと同いどしの弟がいる。ナマイキなヤツだけど、今ごろ家で何してるかなーって、思ってさ。」と言って、ぼくがねるまで、ずっと手をにぎっていてくれました。うれしかったです。つぎの日のお昼になって、ジャンソウの前につもった雪がふわっと軽くなってから、みんなに歌を歌ってかえりました。電車は止まっていたけれど、いろんな人が車に乗せてくれたり、村えいバスの運てん手さんにおじいちゃんたちがかけあってくれて乗せてもらったりしてさい後に家にたどりつきました。一番すごかったのは、駅から中央病院に行くおじさんおねえさんたちと1台のタクシーに乗せてもらってと中まで行ったことです。ぼくと仙道さんい外の人は全員そのとき初めて会った人たち同しだったのに、全いんすぐになかよしになったのでびっくりしました。ぼくのとなりにすわっていたおじさんが「あした、すぐ手じゅつをうけるから、今日どうしても入院しなきゃいけないんだよ」と教えてくれたのでもっとびっくりです!仙道さん、ぼくの家に何べんも電話をしてくれてありがとう。家に帰ったら、お母さんも「大ぼうけんだったねー!」と言ってよろこんでくれました。「心ぱいかけてごめんなさい」と言ったら「仙道さんが何べんも電話をしてくれていたから心ぱいなんかしていないよ。車が止まっちゃったときはちょっと心ぱいだったけど」とニコニコして言いました。「たすけに来てくれたおじさんたちと仙道さんとぼくの中で、ぼくが一番雪道からのだっ出の運てんがじょうずなんだよ!」と言ったら、しかられるかもしれないと思ったけれど「車の運てんができるようになったの?すごい!あと8年くらいしたらきっとめんきょがもらえる!」と教えてくれました。楽しみ!!です。  伶哉 

 伶哉君!
 わくわくするすてきな一日(…2日間?)をどうもありがとう!あんなに大変な目にあったのに、きみは一言も弱音をはかなかったし、泣いたり怖がったり、家に帰りたいとだだをこねたことも無かった!きみは決して「弱虫のアンドレヤ」なんかじゃないし、逆に強く勇敢な少年だということもよくわかりました!でも、危ない目に遭わせてしまって本当にごめんなさい。お母さんもニコニコして迎えてくださったのですが、伶哉君の姿をご覧になるまでとても心配なさっていたはず。「心配かけてごめんなさい」と心から言えて良かったね。きみは勇気のある少年だから、心から「心配かけてごめんなさい」と言えたのですよ。朝、雀荘のみなさんにきちんと立派にお礼の挨拶をしている姿を見たときも何だか伶哉君がとっても頼もしく大きく見えました。私も良い気持ちになれました。
私は遊園地の中では観覧車が一番楽しかったです。伶哉君ともいっぱい話ができたし、夢のようでした。そして、やっぱりきみの歌がもっともっと聞きたくなりました。一晩とめてくださり、「客なんか来ないから腐っちゃうだけ」と言ってただでごちそうを作って出してくれた麻雀荘の皆さんに、私も心から感謝しています。しゃぶしゃぶみたいなお肉のビフテキ(笑)、たくさんあって世界一おいしかった!伶哉くんといっしょに麻雀卓の上で大笑いしながら食べたことは忘れられません。朝が来て、太陽がぱっと差して降り積もった雪がキラキラと眩く輝く麻雀荘の前で、伶クンが美しい姿勢でお礼に歌ってくれた「花は咲く」は宇宙一きれいでした。あのとき、本当のことを言うと私は寒くて鼻水が出たんじゃなくて、恥ずかしいんだけど伶哉君の声があまりにも美しい声だったので泣いてしまったのでした。だれが一番の泣き虫か、これでわかったでしょう?
私が雪の轍の中に大切なカバンを落としたとき、きみはバサバサッと跳んでいってひろってくれましたね。あれが本当のキミの姿です。突然大雪が降って寒くてへとへとになって大冒険をした2日間でしたが、私は怜哉くんの本当の立派な姿がたくさん見られてとても幸せでした。どうもありがとう!仙道 


  仙道さん 
 きょう、合唱団の練習で大事けんが起きました!ぼくたちは今、夏のえんそう旅行の第2ステージの出し物のオペレッタの練習をしています。その中で歌う「君をのせて」の「♪地球は回るーのソプラノのオブリガートの音ていがはずれているのでメゾとアルトが上手に歌えない」とアルト5年の品川君(弟)が休み時間に言っていたら、鏡ハリス先ぱいが「おれたちはきちんと歌ってる。アルトのはじっこの方のバカどもがオンチで低能だから合わないんだよ!」「オレがどんなに上手にソロを歌っても、おまえらのおかげでオペレッタもぜんぜんきれいにきこえない。」と言いかえして大ゲンカになりました。品川君は鼻血が出て左目の下に大きなアオタンができました。おまえは色黒だからアオタンがこん色に見えると先生から言われていました。ハリス先ぱいはシャツがびりびりになってひじの上に品川君にかまれたあとが「歯科けんしん」の紙にいんさつされている歯の形みたいに赤くついていました。「『君をのせて』のオブリガート部分のピッチが合わないのは、君らがこんなくだらないケンカをするくらいなかが悪いからだ。歌が上手とか下手とかそういうつまんない問だいじゃなくて、心の問だいなんだ!こんなんじゃ、いくら練習しても上手くなるワケが無い!」と全員がえんえんとおせっきょうされました。そのあと、鏡ハリス先ぱいは先生がたのところへ呼ばれてオペレッタの主やくをおりてもらうと言われたそうです。先ぱいはとってもきげんが悪くてこわかったです。ぼくたちメゾの下級生はみんな先ぱいとはなれて帰りました。安藤伶哉    
       
伶哉君!
今日、練習場に行ったら伶哉君が少年パズーの役を歌っていたのでびっくりしました。オペレッタの主役になっていたのですネ!慌てて先生にうかがったら「ソリストにはお客様の拍手が集中します。本人がいい気持ちになるのはあたりまえ。子どもなんですから当然の感情でしょう。美声の団員はいっぱい欲しいのです。ただ、スターやヒーローは要らないんですよ。聞いて欲しいのは合唱ですから。スターの芽はどんどんつみとっていきます。前の主役の子はスターになりはじめていたから、伶哉君の役と交代してもらいました。」とのこと。。ハリス君はすぐに先生のところへ来て尋ねたそうです。「どうして僕じゃいけないんですか?安藤君よりずっと上手なのに、と皆も言っています。先生もよくご存じじゃないですか?」と…。先生は「確かにそうだが、きみはどうして役を交代させられたのか考えてみたかい?一度よーく考えてから、もう一度話し合おう。」とおっしゃって返したそうですよ。さすが先生!でも、伶哉君のソロは大歓迎でーす! from Sendo 


仙道さん 
 このあいだ、ペルゴレージのスタバトマーテルの全体練習が終わったときに、先生が「夏のオペレッタの鏡ハリスの代役はだれだ?」と大きな声で聞きました。ぼくは自分の事じゃないと思っていたので、トイレに水をのみに行こうと思って立ったらみんなが「代役はオンチで弱虫のアンドレヤでーす!」と言って、先生がぼくのほうを向いて「しばらく鏡ハリスと交代して少年パズーの役をやりなさい」と言いました。みんなが「えー?!それってマズいっしょー?」と言って、ぼくも「せ、先生…」と言って、どこからか「あんなのが、バズーかな?」というのが聞こえました。先生は「先生方の会ぎで決まったことなんだ。守りなさい!」とおっしゃった。それからぼくがパズーになりました。今、少しずつ練習をしています。
ぼくのお父さんはイタリアのジュリアノ・イン・カムパニアというところへたんしんふにんで行っています。きのう、お母さんのところへ「伶哉へ 泣いてばかりではだめだよ。でも、夏のオペレッタの主役になったとお母さんからメールをもらった。せめて夏には日本へもどっておまえのステージを見ようと思う。楽しみにしているよ。父より」というメールが来ました。ぼくはプリンターで紙に印さつしてもらって、何度も読みました。今も読んでいます。うれしかったです。
 今日、とてもつらいことがありました。オペレッタの練習が終わって門わき大路くんと「ダンのぼうけん」を読んでいたら、ハリス先ぱいがニヤニヤした顔をしてきて「弱虫レーヤってサ、どうやって先生にスリスリしたわけ?だってサ、鏡ハリスより絶対にオンチでへたくそな安藤伶哉がどうして主役のパズーになれるんだろう?泣いたら同じょうしてくれたんじゃない?楽ふ1だんのソロだって間ちがうくせに、主役なんてできるわけないじゃん。ステージで大しっぱいして大ハジかいて、また泣くんだろ?だったらさいしょから主役なんてやるな!オレが上手にやってやるヨ!」と言いました。ぼくは聞くのがいやだったのでにげようとしたら、「にげるな!」と言ったので、「ニゲルがカチって知らないの?ぼくは弱虫じゃないし、先生がしんせつだから、オンチだって直してもらってんだ。ぼくは主役のソロもきちんと歌えるようになるし、少年パズーだってちゃんと歌える!」ちょっとぼくは泣いちゃったけれど、鏡先ぱいはもう何も言いませんでした。ぼくはもうへい気です。お父さんも聞きにきてくれるし、たくさんの人がおうえんしてくれてるから、ぼくはぜったいにまけません。まけないことがわかったからです。きれいな歌を歌ってぼくはたくさんの人をシアワセな気もちにします!だから、仙道さんも、これからもぼくたちの歌をずっと聞きに来てください。さようなら。安藤伶哉より 

To Mr. Ando Rea
 伶哉君、「深い川は静かに流れる」という外国のことわざを知っていますか?来年5年生になると、理科で「流れる水のはたらき」を勉強します。今日は、私が教えてあげましょう。深くて大きくて立派な川は、まるで動いていないように音をたてず静かに流れるんです。人間も、心が深くて大きくて立派な子ほど、まるで動いていないように静かによけいな事や人の悪口を言わないものなのです。水音がびしゃびしゃ聞こえるような急流は、勢いがあるように見えて実はちっぽけな浅い川にすぎないのです。人の心は見えませんが、身の回りのお友だちに、このたとえをあてはめてごらんなさい。その子の本当の大きさがわかりますよ。yours Sendo 


 仙道さん
 今日、ぼくはエーデルワイスのソロにえらばれました。
ボイトレの先生にエーデルワイスのソロを聞いていただき、たくさんちゅういされました。2小せつ歌うと、もう次のちゅういがありました。また、2小せつ歌うとまたちゅういです。でも、ぼくはうれしいんです。先生からちゅういされたことをなおすと、歌がどんどんきれいで上手になります。自分でもよくわかるのです。ぼくは前はすごく音ちでしたが、今はとてもなおりました。それは、先生にちゅういしていただいたとおりにはっ声を直したからです。ぼくは、前、のどやむねで息をすることが多かったのです。そうすると、息があんまりたくさんすえないから、おなかでささえるのが不あんていになって、それで決められた音がきちんと出なかったのでした。先生が「のどで歌うと、ふたんがかかってのどを悪くするぞ」と言っていたのが、前はわからなかったのですが、今はどういうことなのかよくわかります。ぼくが「これでいいですか?」とはっ声を聞くと、先生はとてもしんせつに教えてくれます。「水戸黄門を閉めるのわすれたね?」とか「おすうもうさんになったつもりで重心をかけて立ってる?」とか。そして、ふつうのときの話すときの声も変わってきました。「はりのある声が出るようになりましたね。まるで物語の登場人物の声を聞いているようです。」と学校の国語の時間の音読で、たんにんの先生からもほめていただきました。ぼくは、ソロ以外の練習のときでも先生からまい日ちゅういされるので、まい日上手になっていくみたいです!もしかすると、鏡ハリス先ぱいが、ぼくのことを「弱虫でオンチのアンドレヤ」と言っていたのは、「弱虫をなおして、音ていもしっかりしたら歌が上手になるよ」と教えてくれていたのに、ぼくが全ぜんきがつかなかったのかもしれません。人のしてくれたちゅういはきちんと聞いてなおさなくちゃいけません。安藤伶哉  

 安藤伶哉sama!
 クリスマスの聖劇のキャストが決まりましたね! 伶くん、2回目の主役の気分はいかがですか?また、たくさん失敗したり、下手だったり、苦労したりして、そのたびに上手になってゆくのですね。なんだか、どんどん立派なきら星のような人になっていって、仙道からは遠く離れたところへ行ってしまうようで…。
 鏡ハリス先輩がメインの共演と聞いて、びっくりしました!「あの2人の関係は、どうなのですか?大丈夫なのでしょうか?」と、心配でたまらず先生にうかがいにいったとき、すばらしいことを教えていただきました!あのオペレッタの練習がすすんで、みんなが「これからも安藤伶哉くんが主役でいっていいんじゃないの?」と思いはじめたとき、先生は鏡先輩をこっそり呼んで、「きみは何で自分が役を交代させられたのか、そろそろわかってきたかい?」とたずねたそうです。先輩は「いいえ、全然。」と。でも、その次の言葉を聞いて、私は鏡君のことが大好きになりました。先生は「それに、きみは安藤君が少年パズーの役をすることに納得していなかったみたいだが、今、伶哉くんが歌っているのはやっぱりおかしいと思うか?」と聞いたそうです。このときの言葉を君にぜひ聞かせたかった!先輩は「いいえ。全然おかしいと思いません。だって、伶哉君の歌の方が僕よりずっと上手くて、聞いていて僕も幸せな気持ちになれたもの。」…この一言の輝きは、アルファ宇宙域とデルタ宇宙域の全ての星々を集めて光らせたとしても、きっとかないません。鏡ハリス先輩の人気の秘密って、こういうところにあったんだと、ようやく気が付きました。
どうか鏡先輩といっしょに心をこめてすてきなクリスマスの聖劇を見せてくださいね!楽しみです!!大好きな、かっこいい伶哉君へ!    from 仙道 
追伸
伶哉君にも大好きな子がいますか? (仙)


仙道さんへ
クリスマスの歌はたくさん教えてもらってたくさんおぼえましたよ!ぜひ、ぜひ、聞きに来てくださいね!鏡先ぱいとのでゅえっともバッチリです!マリアはあゆみぬはアルトで、ときどきオンチになりますが先ぱいの声をよく聞いてふんばっています。ノエルノエルはぼくがカノンで走りすぎてしまうので、先ぱいがときどき目でテンポを送っておさえようとしてくれます。だからホンバンではかならず良い歌を歌って聞かせますから、来てくださいね!
それから、これは書いていいかどうかとっても困ったんですけど、ぼくには今、大好きな子がいます。だれかというと、ぼくより前の4月に入団したソプラノの3年生です。名前はないしょです。ぼくはその子が歌っているのを見ると、かっこいいなーと思います。みんなも、セが高くてかっこいいと言います。でも、「あいつって、なんか女の子みたいじゃない?」という子もいます。それから、その子が歌ったりしゃべったりしているのをずっと見ていたいし、いっしょにいたいと思ってしまいます。ぼくがとても困っていると、6年アルトの中山アンビ先ぱいがぼくにこっそりとコンドームを1コくれて「おまもりだから、おさいふの中に入れておきな」と言いました。それから「小学生の男子が、小学生男子を好きになると、東京都青少年けん全じょう例でたいほされるからだまっていろ」と教えてくれました。でも、いつかなかよくなりたいです。ヘンですよね!ひみつ!ひみつ!ぜったいひみつにしてください! レーヤより 

親愛なる安藤伶哉様
 このお手紙が届いて怜君がこれを読んでいるころ、たぶん私はもう日本にいません。伶哉君、長い間、私にいろいろな話をしてくれてどうもありがとう。君からはたくさんのことを教えてもらいました。本当に勉強になることばかりでしたが、実は怜君から励ましてもらったり、勇気をもらったり、幸せな気分にしてもらったりしたことの方がずっと多かったのです。きみは以前、自分でも「弱虫でオンチなアンドレヤ」と言っていましたが、私はその弱虫な子からたくさんの勇気や力をもらったり、オンチな子から正しい音を教えてもらったりしたのかもしれません。本当にどうもありがとう。(私は50万円をまだもらっていませんが(笑)…)。お別れのとき、きみは「また僕たちの歌を聞きに来てね!」と言ってくれましたね。「演奏旅行でいつかそっちへ行くかもしれない」とも。どうもありがとう!でも、この次に私たちが会うとき、きみのほっそりとした少年の声はもうお兄さんの声に生まれ変わっていることでしょう。とはいえ、君が今、頑張って私たちに歌ってくれていることの目標は、決して「声変わり」などではないはず。きみの一生の宝物を歌いながら自分で作って育てているのです。どうかその宝物を大切に!
 私はまた、パリ木の追っかけ&研究に戻ります。伶哉君たちがクリスマスのときに白いガウンを着て歌うでしょう?そのとき、首に、木でできた十字架をかけて歌うのです。だから「木の十字架少年合唱団」と言うのです。ふだんのときは、ソックスが白い以外は東京少年少女合唱隊と全く同じユニフォームです。合唱団で売っている一番新しいアカペラのCDを一緒に送りますから、聞いてね!フィリピン民謡の「小さい小屋」、スペイン民謡の「門に立つ母」、ロシア民謡の「カリンカ」…それに、伶哉君たちも歌う「上を向いて歩こう」も全部昔からずっと彼らが歌ってきたレパートリーです。カンッ!って響く声がとても楽しい!
私は15区ジャベルの高層アパートの21階に住んでいます。西側の部屋の窓からは下の方にモスグリーンの色をしたセーヌ川も見えます!いつか遊びにきてくださいね!地下鉄10号線のシトロエン駅かシャルル・ミッシェル駅に着いたら電話をしてください。10分で迎えにすっ飛んで行きます!
長い間、どうもありがとう!お母様にどうぞよろしく、仙道が心から、心から、感謝していたとお伝えください。今日の日はさようなら、また会う日まで!

最後の追伸
伶哉君が小学生の男の子を好きになっても東京都青少年の健全な育成に関する条例には違反しませんよ!もし、万一違反しても(…しませんけど)きみのお年玉何年間かぶんの罰金を払わされるだけです。どうか、ソプラノのかっこいい下級生を大切にしてあげてください。きっと、その子はキミといっしょに歌うために伶哉君のそばにやってきたのです。悲しいめにもあって、それでもがんばって歌ってきた怜君への神様からのおくりものなのです!伶哉君が男の子を好きになっても大丈夫!だって、そんな都条例に完全に違反するマンガをいっぱい描いて売っていた人が、今は大学の学長先生(大学の校長先生)になっているくらいなのですから…!
あなたの仙道より 


仙道さん
 どうもありがとう。ぼくはあの大雪の日のつぶれかけの遊園地のかんらん車の中で、仙道さんから「昔、ナイショと言った『しょう来すばらしいソリストになりそうな、一人の団員のことを調べている』というのは、実は怜哉くんのこと」「わたしは送ってもらったデモテープを聞いて、ホンモノの安藤伶哉君に会って、歌っているのを目の前で聞きたくなって、日本にもどってきたのです」と言われて、なんだかとってもうれしかったです。がんばろうと思ったのです。でも、今は仙道さんがいなくなってとてもかなしくて、むねがけずれたみたいにいたくて、たくさんないてしまいました。そしてないてしまってブレスもできなくなって、今はぜんぜん上手に歌えません。カンペキなオンチです。いつかまた、じょうずにうたえるといいです。そして、合唱団のみんなと、仙道さんと、またつぶれかけの遊園地やジャンソウの人たちに歌をうたってあげて、おれいをしに行きたいです。      なきむしでオンチなアンドレヤより