伊藤敏博のinformation

August 15 [Wed], 2012, 20:48
宗助が電車の終点まで来て、運転手に切符を渡した時には、もう空の色が光を失いかけて、湿った往来に、暗い影が射 し募 る頃であった。降りようとして、鉄の柱を握ったら、急に寒い心持がした。いっしょに降りた人は、皆 な離れ離れになって、事あり気に忙がしく歩いて行く。町のはずれを見ると、左右の家の軒から家根 へかけて、仄白 い煙りが大気の中に動いているように見える。宗助も樹 の多い方角に向いて早足に歩を移した。今日の日曜も、暢 びりした御天気も、もうすでにおしまいだと思うと、少しはかないようなまた淋 しいような一種の気分が起って来た。そうして明日 からまた例によって例のごとく、せっせと働らかなくてはならない身体 だと考えると、今日半日の生活が急に惜しくなって、残る六日半 の非精神的な行動が、いかにもつまらなく感ぜられた。歩いているうちにも、日当の悪い、窓の乏しい、大きな部屋の模様や、隣りに坐 っている同僚の顔や、野中さんちょっとと云う上官の様子ばかりが眼に浮かんだ。
 魚勝と云う肴屋 の前を通り越して、その五六軒先の露次 とも横丁ともつかない所を曲ると、行き当りが高い崖 で、その左右に四五軒同じ構 の貸家が並んでいる。ついこの間までは疎 らな杉垣の奥に、御家人 でも住み古したと思われる、物寂 た家も一つ地所のうちに混 っていたが、崖の上の坂井 という人がここを買ってから、たちまち萱葺 を壊して、杉垣を引き抜いて、今のような新らしい普請 に建て易 えてしまった。宗助の家 は横丁を突き当って、一番奥の左側で、すぐの崖下だから、多少陰気ではあるが、その代り通りからはもっとも隔っているだけに、まあ幾分か閑静だろうと云うので、細君と相談の上、とくにそこを択 んだのである。
 宗助は七日 に一返の日曜ももう暮れかかったので、早く湯にでも入 って、暇があったら髪でも刈って、そうして緩 くり晩食 を食おうと思って、急いで格子 を開けた。台所の方で皿小鉢 の音がする。
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