野盗は風の中を走るが・・・

May 11 [Fri], 2018, 21:54
夏木陽介、風の中を走る」というブログ・タイトルは彼の代表作「野盗風の中を走る」をもじったもの。

夏木陽介が1月14日に亡くなり、山川健一が友人代表として夏木のブログでそれを報告している。

そして2月になってからだが、横浜のシネマノヴェチェントにて「野盗風の中を走る」の追悼上映が決まった。


   
夏木陽介は50年代末にデビューし、所属した東宝の戦略で佐藤允や加山雄三とのトリオになんとかいう名前を付けられて(シブがき隊とかじゃありません)売り出した。

60年代はまだまだ映画量産時代だったので、夏木もたくさんのタイトルに名を連ねたが、筆者のような若年(←ここ強調)世代はテレビ時代になってから「青春とはなんだ」などで初めてその名に接したのだった。

だから、未だソフト化されていない(多分)彼の代表作といわれるこの作品もこの度初めて見るのである。

徒党を組んで悪事を働く野盗たちが行きがかり上、村を助けることになるが、その台頭を怖れた権力によって討ち果たされるという話。





佐藤允、中丸忠雄などの他(当方、11人いる野盗のうち8人までは判別可能。てか8人しか・・・)、松本幸四郎、市川染五郎ら、そっちの世界の人が4人も出ている。

また、村の娘として雪村いづみ、若林映子、田村奈己が配され、それぞれ夏木、佐藤、染五郎と関係を展開する。
田村奈己さんはこの上映会初日にゲストとして呼ばれている。

東宝オールスター忠臣蔵でそれぞれ大石内蔵助、吉良上野介を演じた松本幸四郎と市川中車がここでも対立する関係で顔を突き合わせているのが面白かった。



夏木扮する太郎は隻眼である。夏木さん、片目を閉じたまま表情の演技をするんじゃ大変だよなあと思うのだが、まさか接着剤でくっつけてないよなあ。セロテープも貼ってないし。

どうして殊更にそのような設定を採ったのだろうか。原作にそうあったのか。だとしても愚直に従う必要はないだろう。

思うに、無法の荒くれ男たちを束ねる頭目としては夏木の風貌はいささか端正に過ぎ、だから粗野な雰囲気を醸し出す手段のひとつとしてそれはとても都合がよかったのである。髪の毛をぼさぼさにするくらいではとても追っ付かないってわけだ。

本来は身勝手であるだろうはずのはみ出し者集団の中のそれぞれが、小競り合いはありながらも、だが決定的な対立には至らない。その関係性のさじ加減は悪くない。

敵に追い詰められ、ついに夏木は自らの大望を断念するが、その弁を聞く多々良純の表情には身内を思う心情が見て取れる。



併映は赤木圭一郎主演の日活作品「打倒 ノック・ダウン」。夏木と赤木は世代も近く、六本木辺りでよく遊び、話したそうだ。なによりも、あのゴーカートには赤木に先んじて夏木が乗るところだったという。
       
件のゴーカートは東宝の撮影所に持ち込まれ、試乗するつもりでいた夏木はだが、撮影が始まってしまったので乗れず、それは日活の撮影所に運ばれたのである。



野盗は風の中を走るが、夏木陽介はパジェロをドライブしてアフリカの砂漠を疾走した。今、兜率天に昇った彼はお釈迦さまの掌を觔斗雲に乗って飛び回っている(←成仏の気配まるでなし)。







宇宙根本原理の社会学

April 10 [Tue], 2018, 13:58
とある女性市長が土俵に上げてもらえず、相撲協会に抗議し、協会は「伝統」を拠り所にこれを受け付けない。

市長側主張の論旨は「男女同権の原則に則った場合、女人禁制は差別に当たる」といったところだろう。この理屈は単純で分かりやすい。法律的にも国民の意識としても差別はよくないので女人禁制の伝統は撤廃すべきだ、と。

過去に何度も似たような事態は起こり、その度に女人禁制懐疑派から提示されてきた論拠というのはいつもこの程度の単純な理屈だった(と思う)。

単純だから悪いと言っているわけではありませんよ。分かりやすいということです。

一方で「伝統」となるとこれは一筋縄ではいかないのではないか。ただ大昔から続いているということだけを以って「伝統」を標榜しているわけではないはずである。

この女人禁制なる伝統が定着してきた経緯の背景にどのような哲学が隠されているか。そして、そんなものがそこにあるとしたら、それは我々凡夫が一朝一夕に掴み取ることのできるものではないように思う。

女人禁制に内在する精神性とはなにか。

・ひょっとしたら人間存在の根源的意味にコミットする営為的ななにものかをそこに見い出すことができるのかも知れない(←?)。

・ひょっとしたら宇宙真理の発露としての人間精神にまつわるなんらかの伏流がそこにはあるのかも知れない(←?)。

・ひょっとしたら大日如来曼荼羅の表現するところの五智から導き出される論理的帰結なのかもそれは知れない(←?)。

・などというよりそれは生物学的な性向分担の本質を指し示した概念であるのだろうか(←ほんとかよ)。

・もちろん、そんな人間と社会の本質に根差した意味合いなどまるでなく、その伝統の相承は男権論者の「女子供は引っ込んでいろ」という怒声に起因しただけのものだったのかも知れない。

・また、しかしながら、むしろそのひと言にこそ本来あるべき生成発展の本質を見るべきなのかも知れない。

実のところ、我々は女人禁制の持つ哲学的社会学的意味を深く正しく理解しているだろうか。現代の規範の中でしかものを考えない我々には俄かに考察の至らない命題だろうと思うがどうか。

先ずは情緒に陥らない研究や検証を広く為すことが必須なのである。

少なくとも、女性が発言力を増してきた社会の推移の中で結実した、たかだかひとつの価値観に過ぎない男女同権なる概念に思慮浅く寄り掛かるべきではない。

未だ我々は分かっていないのである。くれぐれも性急な判断はこれを控えるべきであろう。相撲協会にあっては「頑迷に」女人禁制を護り通さなくてはならない。






グローバル社会と花粉症

March 14 [Wed], 2018, 18:15
国民国家とは国民なる存在を主体として成り立つ国家である。

辞書によってはその条件に国民が主権を持つことが挙げられているが、筆者の直感的な考えによれば、この場合の主体は主権者と必ずしも一致しない。

国民に決定権はなくても、その発想や生産力などのエネルギーは国家の運営にとっての大きな動力源であり、それによって国家というひとつの方向性が発動し得るのである。総体的な価値観の下に、国民という存在があって初めて成り立つのが国家というものである。

ここではイデオロギーについて話していない。主権在民という視点で見るなら独裁国家に対して民主国家という呼び名がある。

国民国家と特に言うのは国民の集合が国家であるというひとつの感覚的な思いからであり、そんな当たり前のことをあえて思い起こさねばならないのは、ここにグローバル多国籍企業という厄介な連中が現れてきたからである。

長く続いてきた国民国家という運営形態もグローバル資本主義経済の台頭によって今、困ったことになりつつある。

社会のグローバル化に伴って企業はその軸足の移動が容易になった。自社の利潤追求に不都合があれば、すぐにでもより条件の整った国や地域に出て行くことができるのである。

自国の有力企業が軒並み歯の抜けるようにいなくなったのでは国が立ち行かないので、政権はこれを引き留めにかかる。そしてそのために企業側から突き付けられる条件はこれを呑まねばならない。税金を安くしろとか。

野党が声高に叫ぶ「政府は福祉や教育をないがしろにして、大企業を優遇している」という事実のこれがひとつの背景である。だが、そうして大企業の言いなりになっていれば、今度は相対的に国民国家の主体たる納税者を護持するコストはその分だけ減っていく。

国家を構成する人員の扶育に瑕疵が生じれば国は衰える。かといって政府としては大企業の要求を無視するわけにはいかない。頭の痛いところではある。

「ほう、そうかい、結構だ。出て行く先はいくらでもあるんだぜ」こう脅されてもなお、国家と国民における真の豊かさについて考えようとする政治家が果たしてどれだけいるだろうか。

で、現状のところ、政権は企業の圧力に屈し、立場の弱い個人の声は無視されている。

企業の立場からすれば国際社会での競争の最中に日本の国に忠誠を誓って様々な負担を請けていたのではとても生き残れないというわけだが、その一方で我々の労働条件はどんどん悪くなり、とうとうネオ貧困層なる階層まで登場するに至った(ブラック企業というのはその呼び名がなかっただけで昔からたくさんあった)。

政府は女性が安心して働ける社会だとかお為ごかしを言っているが、夫婦のどちらかは働かなくても安心して暮らせる収入はもう無理という宣言に等しいのであって、「日本死ね」とはその意味として捉えるべきキーワードなのであり、保育園落ちた問題にすり替えてはならないのである。ああ脱線。

理路の要諦は大企業と生活民のどちらを取るかということなのだが、いくらでもごまかしておける市井の労働者より経団連の言うことをきくというのは、これはあたりまえの帰結なのだろう。

だがしかし、こっちにだって、「だから仕方がない」などと悠然と構えてはいられない事情というものがある。ここまで状況が悪化してくるとこれはもう死活問題であって、特に活動的でないわたしのような者でも、今すぐなにかの方策を実行せずにいられない思いを抱くのである。

こんなところでは暮らせない。それはもう日本のどこへ移ったとしても解決できる話ではない。こうなったらグローバル企業に倣って日本の外に出て行かなくてはならないのである。

もう毎日毎夜が辛くてたまらない。
あべちゃんに告ぐ。脅すわけじゃないがわたしはもう日本から出て行くぞ。ただでさえ少子高齢化とかで困っているところにわたしのような生きのいい働き手がいなくなるのは痛手だろう。だけど、もう一日たりとも我慢のできるような状況ではないんだ。

脅すわけじゃないがあべちゃん、わたしに出て行ってほしくないのなら方法がないわけではない。

少なくとも3月から5月までの3ヶ月は日本全土に毎日たっぷりと雨を降らすんだ。ちょっと大変かも知れないが政府の力でなんとかしてほしい。なに、世界一安全な原発を作ってしまうあべちゃんならどうにかなるだろう。

これを約束してくれるなら考えないでもない。ではよろしく。
ああ目が痒い。
ずるずる(←鼻水)



※グローバル社会についての能書きは内田樹さんの受け売りとその曲解によるものです。









下流成仏法・疏

November 10 [Fri], 2017, 18:25
「雨ニモマケズ」は法華経に親しんだ宮沢賢治がその教示するところに従って記したという説が有力のようですが、まあ、おおざっぱに言って、人間の心に必ず在って諸悪をもたらす「我執」なるものの、その浄化を目論む修行者としてのスタンスが表されているのだと思います。この考えに従えば、

雨ニモマケズ
風ニモマケズ

の「マケズ」は負けない=勝つ、克服するということではありません。むしろ、気にしない、それらに対して心を砕かない、それらによって気持ちが左右されることがないといった方向の意味を持っています。自分の周りに起こるあらゆる事象にたいして執着を持たないということです。

雨も風もあらゆる事物は、ただそれであるに過ぎません。それはそれでしかない。それ以上の意味は持たない。自分がそれに対して抱いた想い(つまりそれこそが我執)をそこにその意味として付与してはならないのです。


酒は酒でしかない。
とある植物の化学反応を経て生成するアルコール分を含んだ液体に過ぎない。
それにはその意味しかない。
我々はそれを口にするとき、ただそれを素直に味わえばよい。
(サイタマ語の古い詩より)


自然の摂理に基づいて出来上がった酒なる物質はたぶん相応に美味なものと思われます(どこかのいんちきな会社がなにかを混ぜて酒と言い張っているような代物でない限り)。

同じ宇宙大霊のうちに生きる我々がそれを舌にのせれば、アートマとしての受用作用がそこに生起します。宇宙一大生命体の突端にアートマとして個性ある精神性を育む我々は、ひとつの味としてそれを感得し、そして得も言われぬ感覚に覆われるのであります。

それは単なる舌の感触を超えて脳髄中のあらゆる分野(精神の領域)に届きます。感覚は広がり、やがていつも同じ場所に収斂していきます。

そのときそのことを遊戯神変の境地と呼ぶのでしょうか。宇宙本体と自身との間に合一の起こる瞬間であり、そこに至福が湧起します。

これが神に等しき「酒」と対峙するときに求めるべき道筋であり、また、正しい心構えもそこから導き出されなくてはなりません。チャーリー・パーカーのアドリブや海原雄山の冷やし中華に神の至高を観るように、誠実に造られた酒から神の恩寵を受け取るべきです。

我執に基づかず、心を平安に保って事物と接することが肝要です。間違っても酒処に入り浸る素浪人(三船敏郎もしくは近衛十四郎)みたいに「おやじ、もう一杯。さっさとしろ」などと飲むことへの執着を断ち切れない個我を顕わにした言動を弄してはいけません。そのような我執の発露に任せた生活習慣が呼ぶのはせいぜい二日酔いによる頭痛と嘔吐くらいのところでしょう。

ところで雨でしたね。雨も酒と同じです。雨はただ雨という現象であるに過ぎない。成分は水。そしてどこかで発生しては上空から降ってくる、という特徴を持った自然現象であり、それ以上でも以下でもない。雨はただ雨でしかない。

「いやあ、雨が続くと滅入るねえ」などという我々の感想は期待されていません。
雨が降ってくれないと困る人、反対に止んでもらいたい人。それらはそれぞれの事情や都合であり、そこに惹起する感情というのはそれぞれの様々な理由から生ずるそのことに対する執着の発露に他なりません。

現実的な事情は分かりますが、感情は要りません。
瞋りや不安や悲しみの感情は人の心の層に染み付き、我々が本来持っている仏性を覆い塞いでいきます。

「我執が諸悪の根源である」とはこの仕組みに論拠を求めることができます。本当は誰もが持っているはずの仏性が著しく発現し辛い心の構造がそこにはあるのです。

雨を五感に感じながらさまざまに想いを馳せるのも歌謡曲の歌詞の世界であれば悪くないのかも知れません。一つひとつの情緒に耽ることもまたその人の精神の視野を大きく広げてくれるだろうからです。

でも、例えば農耕において現実の事態(雨が降るにしろ降らないにしろ)を前に、先のことを思って不安に駆られたりしてもいいことはなにも起こりません。悶々とした負の感情に心が支配され、そのような暮らしの中に埋没していくだけです。

個我の感情を発生させることはそのまま執着なのです。「ああ、困っちゃったなあ、どうしよう」と考えるときに同時に湧き起こっている暗い想念は、その事象から遠ざかろうとするという形でのそのことへの執着なのであります。

執着というとそれを強く欲してしがみつくことだと考えがちですが、反対にそれを嫌うという感情も、その想いを以ってそれに執着しているということに他ならないわけです。いずれにせよ執着心は本来抱くべき想念を汚します。

宮沢賢治がどのように考えたのかわたしには分かりませんが、少なくとも在家の信仰者に成仏=解脱まで誰も求めはしないでしょう。では、市井の人々は実生活の中でさまざまな出来事とどう対峙するのでしょうか。

まあ、なんといっても実際のところ、能天気が一番だと思います。同じ事象を前にしてマイナス想念に捉われる人とそうでない人。不安や瞋りからはその事柄への対策もかえって生まれ難いのではないでしょうか。


        ※        ※        ※


さて、我欲を浄化して平安を得るという仏道修行があるならば、一方で、人の向上心に基づく欲望を絶望的に諦めざるを得ない状況に陥ったときにやはり、心の表層にこびりついた欲というものが、いやいやながらも必然的に剥がれ落ちていくのではないかという論法を前の記事で考えてみたわけです。

絶望的な未来への展望を前に、もうどうだっていいやという気持ちに誰だってなってしまうかも知れません。日々の生活における欲なんてものはそこにあって大きく減退していくように思います。

となると、どちらも我執調伏の方法としてそれぞれ有効な道筋といえるではないですか。いやむしろ後者の方が具体性ゆえに実践的なのではないか、とすら主張できるのです。

執着心の特定とその浄化は仏道修行の根幹です。一方に私説「心を浄化する方法・下流層編」をご紹介した次第です。

まあ、ブラックな労働に就いて考えることを放棄し、麦を薄めたビールのでき損ないをあてがわれて不都合なことを全て忘れる生活に、解脱なんてものが訪れるとはとても思えませんがね。

じゃんじゃん!


雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラッテヰル
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノ蔭ノ
小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ
東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ朿ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ
行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクヮヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒドリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ





下流世界の成仏法(ニモマケズ)

November 04 [Sat], 2017, 17:23
雨にも負けて
風にも負けて
アストロズにも負けて

巧妙に編まれた責任回避言語を前になす術なく
いいように騙され
静かに笑っている他はない

そのうちどうでもよくなって
一日にショートニングを大量に混ぜ込んだ
○マザキの食パンを4枚食って
血管をぼろぼろにし
90パーセント混ぜ物で作られた
○ントリーのウィスキーもどきをしこたま飲んで
脳細胞を破壊する

それでいよいよ本当にどうでもよくなって
東に恫喝同盟国があれば
へらへら笑って言うことをきき
西の言いがかり友好国がなにか言ってくれば
聞こえないふりをして(その間に好き勝手に荒らされる)
南にもりかけ疑惑が持ち上がれば
気にするな、なかったことにしてやると恩を売り
北に豊田議員が「禿げ」と叫べば
こればかりは面白いので話を聞いてやる

NCISギブス捜査官に後頭部を叩かれて
涙を流し
ラードを練り込んでいない餃子を探し求めて
おろおろ歩く

ここに至って全くもうどうでもよくなって
なにを見ても聞いても分からず
そして忘れる

そういうものにわたしがなったとき
初めて解脱への道が啓けるのですよお釈迦さま


      ※        ※        ※


いやあ、投票日の雨風には閉口しました。荒天にめげず出かける決心をしたわたしの思いは果たしてどこにどのように反映されるのでしょうか。

ドジャースの日本人投手ふたりは
スプリンガーにも打たれ
アルトゥーベにも打たれ
散々でしたね。

さて、これから日本の国はどうなっていくのでしょうね。まあ、どうでもいいってことになるわけですが。









近未来メジャー・リーグ

May 17 [Wed], 2017, 18:06
マリナーズ岩隈の片目が明かない。もう5月も半ばであり、先発登板は6試合に及んでいるが未だひとつも勝っていない(ヤクルトですら何度かは勝っているというのに)。

えらそうなダルビッシュや自信たっぷりの田中将大、怖いもの知らずの前田健太が、多少出遅れたとはいえそれぞれ軌道に乗り始めたところで、ひとり岩隈だけが置いてきぼりといった図である。

と、そんなこんなで大リーグ中継を見ていると余話が語られる。アメリカ合衆国全土に広がる各チームの本拠地球場を移動して歩かねばならないペナントレースの過酷さである。

年間162試合の半分はビジターとして相手チームの本拠地まで出かけていくわけだが、地図を見たら実感できよう、アメリカの西の端から東の果てまでの距離といったらない。そんな距離を試合して回るのだから選手たちもそりゃ大変だ。

マリナーズ戦の中継ではテレビ画面の地図上に岩隈の顔写真を置いて、てくてく移動させながらその辺りを説明していたが、そう、特にシアトルをホームタウンとするマリナーズなど、近場にまったく相手がいないのでどこへ行くにも皆遠い。すべての移動は飛行機ということになるのだろうか。

日本などとはけた違いに広い国土を舞台に、各地に散らして置いた30球団それぞれに160余試合を組む、その計画の壮大さというようなものを感じるが、こんなとてつもない興行が成り立つのはそもそも交通機関の発達があってのことだ。

飛行機や車を作って飛ばし走らす技術、道路の整備などといった社会インフラの成熟がなければ始まらない話なのである。どんなに野球技術が大きく進歩を遂げ、ベーブ・ルースやイチローが100人出現したとしても、飛行機が飛ばなかったら彼らはその能力を発揮する場を持てない。

我々はそういった文明の利器を当たり前にあることとして誰にも感謝せずに日々利用するばかりだが、便利に使っているそれらが、もしなくなったらなんてことを想像くらいしてみてもいいのかも知れない。

「駕籠に乗る人 担ぐ人 そのまた草鞋(わらじ)を作る人」と言う。
どんなに優れた人もひとりでは生きていけない。
どんなスーパースターがいたとしてもその人がひとり在るだけで世界は成り立たないのである(というよりスーパースターそのものが生成し得ないというべき)。

さて、近代の高速移動手段を使うことができないとしたら。

信濃町から水道橋くらいなら(ヤクルト・巨人戦のことです)自力で走ってもウォーミング・アップにちょうどいい距離といったところだが、アメリカ横断となるとそうはいかない。

シアトル・マリナーズの選手たちは西海岸からロッキー山脈を越えたはるか彼方のファー・イースト、東端はヤンキースの待つニューヨークまで駅馬車を駆り立て馳せ参ぜねばならぬ。

いったい何日かかるのだろう。馬車は車輪も座席も固く、がたがた道では直に骨に響くし、長旅で体はずきずきいう。

それだけではない。途中、五大湖を望むクリーヴランド近辺一帯ではインディアンズの襲撃を受ける恐れもあった。そうなると遠征はまさに命がけである(そもそも、敵対するアメリカ・ヤンキーとインディアンが平和的に野球で決着を着けようと図ったのがMLBメジャー・リーグ・ベースボールの起源であることをご存じだろうか)。

こうしてやっとの思いで敵地に到着してすぐに試合が始まるわけがない。
「何日もかけてやっと来たんだ。ひと休みしようじゃないか」休養はほんとうに必要だったが、もちろん、それでは終わらない。

飲めや歌え「ニューヨーク女のけつはこたえられねえぜ」てなことになるのは必至であり、この辺りは舛添とかああいった連中の「視察」とやらなどとなんら変わるところはない。

当然のことながら、こんなに手間暇がかかったのでは試合数は大幅に減らさざるを得ない。とてもじゃないが現行の採算構造は成り立たないので、ここは野球の試合を含む複合的一大イベントを新たに計画しなくてはならないだろう。

ひとつのアイディアが提示される。広大なアミューズメント・パークを地域に想定し、球場の他にカジノなどを置く。この条件は必須ではないが、いずれにせよ連携するカジノのような施設は要る。

さて試合が始まる。試合経過のありとあらゆる局面は数値化され、変数としてカジノ内ゲームのバックボーンを為す数式に盛り込まれる。試合中のさまざまな状況や変化に応じて賭けゲームの倍率やら確率やらいろいろなものが影響を被るわけだ。

その変動は多岐にわたる。8回にイチローが代打で登場するとオッズが変わり、デッド・ボールを巡って乱闘が起こるとボーナス・ポイントが加算される。応援しているチームによって、それらは有利にも不利にも変わる。

余程のプロ以外、素人にはただ単調な小遣い巻き上げられ装置に過ぎなかったギャンブルが俄然、有機的な人間ゲームに生まれ変わるのである。

このシステムは大ヒットし、試合数は激減したにも関わらず、選手の年棒は跳ね上がった。

ところがどっこい。

そうして一部に超高額所得者を生む一方、しかし、選手間の所得格差が広がった。このような傾向が強まると中堅選手以下の野球そのものの対する意欲や向上心が削がれるようになる。

低年棒の若手が一念発起する動機になにか不純なものが混じるのだろうか。給料の原資は入場料よりギャンブルの分の割合が圧倒的に多くなるが、そのことによる影響がどこかに生ずるのだろうか。

収益を賭博経営に依存する構造とそこに多かれ少なかれ携わる人の、その精神性との関わりについて専門的考察があるといいかも知れない。

自己実現を目指す原動力はなにか。関優勝のような人々の心奥を探らなくてはならない。ただ対象に対する興味や探求心だけがその動機なのだろうか。

少なくともこの近未来駅馬車ギャンブル・ベースボール(EGBってか)にあっては、行き着くところ、自ら持つ我執に操られる人間の本質的性向が、スポーツに取り組む純粋な向上心を凌駕することとなる。

こうして、そこに研究心の証跡を見出すことのできない力任せの大味なゲームは人々の共感を失い、20世紀に隆盛を誇った野球は急激に勢いを衰退させ、その生命を終えるのであった(オリンピックとほほ時期を同じくして)。じゃん、じゃん。

とかなんとか書き始めてしばらく経つうちに、なんということか岩隈選手が故障者リスト入りしてしまった。うーむ、まずい。わたしが変な文章を書くからだろうか。ごめんなさい、岩隈さん。応援しているので是非がんばってください。

青木もな!)








スピリチュアルな100万円

April 08 [Sat], 2017, 20:35
○ベアキエとかいうどこかのお姫さまがスピリチュアルなるものを志向しているといった話が新聞に載っていて、その記事に「スピリチュアル」の概念が説明されている。

スピリチュアルという英単語は辞書を見ると、ただ「精神的な」という意味から「超自然的な」「宗教的な」といった分野についての使い方まで幅があるようだが、これではもちろん、いま流行りのこの概念の包括した説明にはなっていない。

一方、記事の方は大変分かりやすくまとめられているので、ここは是非ご紹介したいと思う(無断で)。

スピリチュアルは、スピリチュアリティという言葉の派生語で「人間を超えた目に見えない大いなる力の中に、自分が存在しているという意識」などと定義される。「大いなる力」は、霊的な存在や神仏、宇宙、大自然、エネルギーなど様々に表現され、必ずしも宗教が介在するとは限らない。(2017.4.6朝日新聞)

ふむ、すっきりすっきり。

ところで、わたしはこのスピリチュアルを標榜する人々の集いが(多分)苦手である。上に引用した定義を正しく認識しているのかどうか、浅い理解で自分に都合のいい解釈をしている人が少なからずそこに含まれている気がするからだ。

わたしに言わせればそもそもスピリチュアルというのはジャズ用語に他ならない。

わたしの持つ英語の語彙は教科書に載っていたI have a bookと荒井注から習ったThis is a pen以外はほとんどすべてスイング・ジャーナルというジャズ雑誌から得たようなものなのである。

「オーガナイズ」はマイルス・デヴィス、「ソフィスティケイト」はデューク・エリントンから習ったし、メインストリームもアヴァンギャルドもウェストコーストも、はたまたマイ・ファニー・ヴァレンタインも、こういったカタカナ語はみんなSJ誌のジャズ記事で覚えたのだった。ついでにチャーリー・パーカーからは酒、麻薬、女を教わった。

スピリチュアルという単語もジャズの世界にはたくさんあって、古くは「フロム・スピリチュアル・トゥ・スイング」という傑作が知られている。

アルバート・アイラーは「スピリチュアル・ユニティ」を創り、富樫雅彦は「スピリチュアル・ネイチャー」を以って世に問うた。いずれも芸術家としての観察力、洞察力、哲学がそれぞれのアルバム・タイトルに込められている。

また後期コルトレーンらの真摯な演奏ぶりはスピリチュアル・ジャズなどと規定された。「ジャズの精神性」についても多く語られたのではなかったか。

そう、「スピリチュアル」とはわたしにとってジャズ以外のなにものでもないのである。

そのようなわが愛すべき珠玉の人間芸術であるジャズが、「わたし解脱しちゃったわ」とかいう我田引水ならびに現実逃避に基づいた寝言の飛び交うすっとこどっこいな世界と一緒にされてはたまらない。

さて、記事に登場したア○アキエなる人物だが、どの程度ものに通じているのだろうか分からない。そういえば大阪の園児たちが「アベ○キエさん、100万円ありがとう」と唱和したとかしなかったとか。







ケイのブルース(勝てない原因は○ポンサー)

April 01 [Sat], 2017, 17:26
錦織圭がまた負けた。

錦織圭はいつも負けている。
(もっとも、トーナメント戦では優勝者以外、必ず全員が負けるわけだけど)

ここというところで負ける。
(もっとも、トーナメント戦では全ての試合が「ここというところ」なのだが)

あろうことか、ノー・シードの下位選手にころっとやられる。
勝ち進んでもマリーやジョコビッチやフェデラーの壁をなかなか超えることができない。
当面のライバルや台頭してきた若手にも分が悪い。

ここで勝たなきゃ、というところで勝てない。

同じように、ここという大事な試合で勝てない浦和レッズや、ここという時もそうでもない時も分け隔てなく勝たないヤクルト・スワローズと比べても、見ている方の悔しさは格別だ。

だって錦織はいつもいつも、ここで勝たねばという大事な試合で負けている。
決勝に行くためにどれも落とせないのだから全てが大事な試合であり、一回戦で下位選手に負けるのも、準々決勝でトップ選手に退けられるのも、それぞれに失望は最大値である。

ああ、錦織はいつも負けている。

トーナメント戦は全部が、ここで勝たなきゃ(次には行けない)という試合なのであり、そこがリーグ戦と違うところだ。

ヤクルトなんて負けても負けても負けても、後の試合がキャンセルされることはない。
まあ、ヤクルトの場合はたまに珍しく勝つところがいいんだという境地を獲得してしまったチームである。

浦和に至ってはリーグ戦を圧倒的に勝っておいて、優勝決定戦だけ負けるという驚天動地の離れ業を演じたのであった。

いずれも応援する者の社会生活における精神の平衡を、空軍機のアクロバット飛行に同乗した時みたいに乱してくれるへっぽこチームである。

世界で戦う錦織選手にあっては是非、そんなお笑い球団みたいな態を我々に見せてほしくない。


錦織はまた怪我が多い。勝ち進めない要因の大きなひとつと言えるだろう。
他のツアー選手たちと比べて多いのかどうか分からないが、見たところ錦織は怪我ばかりしている。
そのせいで多くの勝利をふいにしている。

どうして怪我をするのだろうか。
ひょっとして食い物のせいではないか、などとわたしは密かに考える。

プロのスポーツ選手であれば自分の肉体の維持管理についてはより厳格にこれを行なっているはずである。
当然のことながら栄養摂取についても、その一項目として細心の気遣いが彼らには必要だろう。

だが、食べ盛りの若者たちである。食事管理の辺りでは野放図なスタンスで臨む場合も多いのではないだろうか。

錦織は大丈夫なのだろうか。彼は自身の食生活にどのくらい気を配っているだろうか。

試合を見ていると錦織の着ている服にはNISSINのロゴが貼り付いているのが分かり、スポンサーなのだと知れる。

まさか、よりによってこのインスタント・ラーメンの会社は、自社のカップ麺を大量に錦織の自宅に送り付けたりしていないだろうな。

そして、あろうことか錦織もまたそれを食ったりしていないだろうな。

質の悪い油といかれた調味料や添加物で固めた小麦粉なんか食っていて、テニスのようにシビアでハイソなスポーツが出来るわけないのである。
そりゃあ、怪我だってするだろうさ。

カップ・○ードルなんてビートたけしと小林幸子に任せておけばよい。バカやるのもまた人生である。

日○食品は直ちに錦織から手を引くべきですな。






古代ワインの詩

March 08 [Wed], 2017, 21:23
サイタマ地方に古くから伝わるヘルグ語で書かれた詩を紹介しよう。
尚、作者と思しき者はこの詩を東欧のとある地を歩いたNHKの紀行番組から思いついたとか言っているらしい。


我々は形式的に酔っぱらっているのだ。

我々はアマゾンやアスクルを利用しながら都市に生きる。
土の地面を踏みしめていたころの想いを抱きながらCDやDVDを買い、
そこにはしかし、LPの感触を求める。

草や砂の手触りを含む木と石の普請に体を預け、
(今にして思えば)否応なしにその匂いを嗅いだ。

わたしは今もそれらを実体として手にしたい。
二度と手放したくないその実体を今どこに見出すのか。

放っておけばいつの間にか消え去っていってしまう様々ななにかに強く執着すればするだけ、
それら本やCDはわたし自身によって押し入れに保管され、形骸化する。
文章は形式的に読まれ、音楽も映画も記号的に鑑賞される。

酒は(市井にあって)(和やかに)歌と共に飲まれるべきものだ。
(↑訳者注。ことさらに酒井和歌子との関連付けを意識する必要はなさそうである)

そこで初めて宇宙は有機的に感情の触手を伸ばし始め、
アートマにあっても想念の芽が吹く。

しかし、今や、規範からの逸脱足らんとするかに見える
酒席すら実は精神の自由を失っている。
追従と忖度。

予測範囲内の誘導によって画一的に整理された感情が生み出される。
そういう世の中に我々の生活はある。

マニュアルに則った責任回避言語によって構築される社会。
そしてその精神的背景。


この詩の成立がいつ頃ことなのか、執筆年月日が付されていないので分からないが、奇しくも2017年初頭の極東は日本にあって、アスクルの物流センターはリアルに炎上し、アマゾンの配送部門を担うヤマト宅急便は行き着くとこまで行き着いてパンク寸前の模様である。なにかの象徴であるかのように。







象徴の意味

December 23 [Fri], 2016, 23:58
「天皇は象徴である」ということを知ったのは小学生の時だ。社会科の授業だっただろうか。拙くもその意味を考えたがよく分からなかった。

象徴なる語の持つ意味は分かったとしても「天皇が国民を象徴する」という一文として提示されると、途端になんのこっちゃ分からなくなる。

そして、未だどこからも誰からもわたしに答えは示されないままだ。長い時間が経ってなお、わたしはよく分からない。精神年齢は12歳で止まっている(ちなみに肉体年齢は○○歳。来季も現役として契約を更改しました)。

この8月に「お気持ちの表明」というのがあり、また、ここ数日の朝日新聞に論考が載った。

天皇陛下は「日本国憲法下で象徴と位置づけられた天皇の望ましい在り方を、日々模索しつつ過ごして※1」来た、とのこと。

また、即位時から「天皇としてできるだけ早く全国を回り、国民の生活に触れたい※2」という考えがあり、特に「日本の各地、とりわけ遠隔の地や島々への旅も、私は天皇の象徴的行為として、大切なものと感じて※3」来た。

それは被災地訪問にあって如実に結実していよう。そうして国民に寄り添い、国民のために祈る※4ことを象徴としての仕事・責務と天皇は捉え、実行してきた。

一方で憲法には「国民統合の象徴」とある。支配層の思惑や都合による意味付けがどこかにないだろうか。

精緻に構造付けされている憲法の中で天皇ご自身は象徴としての行為をそこ(上記)に見出した、と言うのは憲法学者の石川健治さん。12/23付BSフジはプライム・ニュースでの発言。

そして、同じ番組の御厨貴さんは象徴の意味は時代に応じて変わると言った。
なんだ、決まってないのかよ。

と、そんなわけで思考停止中の12歳でした。



※1・3 お気持ち表明より
※2   記事中、侍従長の表現
※4   祈りを鎮魂として重視するのは内田樹さん







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