三大怪獣 地球最大の決戦

September 18 [Sun], 2016, 21:21
映画「シン・ゴジラ」が評判のようだ。わたしのブックマークするページでも複数の人が言及している。わたしも見たいと思うものの、我が置かれた状況はそれを許さない。仕方がないから似たやつで我慢しておこう。



ラドンとゴジラ。
1964年の作品なので近頃の映画と比べると怪獣の動きなどがおもちゃっぽいが、まあ、見てるうちに慣れてくる。



このシーン辺り、セットとの縮尺比率がちょっとビミョーではないか。
ゴジラは体長50mのはずだが、これだとせいぜい15〜20mにしか見えない。



宇宙から参戦のキングギドラ。
八岐大蛇は技術的にも予算的にも首は3つが精いっぱいだった。



侵略者から地球を守るため、共に戦うようゴジラ、ラドンを説得するモスラ(幼虫)。



「俺たちの知ったことか」
利己的なふるまいを見せた怪獣たちも義侠心に駆られ、ついに宇宙超怪獣に戦いを挑む。



戦況を見つめる東宝スターたちと小美人(ザ・ピーナッツ)。



とうとうキングギドラを打ち負かした正義の三大怪獣。
彼方に逃げていく難敵を見届けながらなにを想う。
七人の侍のラスト・シーンみたい。



ボンド・ガール若林映子のサルノ王女



と思ったら金星人。



「そなたは誰じゃ」
「わたしは日本の警察官、そしてあなたのボディ・ガード」



和製グレゴリー・ペックにオードリー・ヘプバーン。
人間たちのラスト・シーンはローマの休日のシチュエーションを拝借。
若林映子は監督からその指示があって知っていたが、夏木陽介はずっと後になって見返すまでそれに気が付かなかったらしい。

(わたしも分からなかった。って原典を見ていないので分かるわけがない)



空飛ぶ円盤の存在を信じない星由里子の想いは「円盤が現れない」という形で現実化する。
「感情が現象に影響を与える」
不二一元を裏付ける量子論。



大橋巨泉似の宇宙円盤クラブ会長。



ディテールにあっても自社作品の宣伝を忘れない。
西の王将東の大将
われ一粒の麦なれど

以上、「旧ゴジラ」観戦記でした。











Atma 転じて Atomic ○○

August 08 [Mon], 2016, 11:08
 皆さんは
 人間として生まれてくることができて、
 本当に幸運です。
 人間としての一生を
 神聖なものにする人々は幸いです。
 人間は、
 肉体意識を放棄して初めて
 アートマ(真我)の原理を
 理解することができます。

(「今日の御言葉」として配信されるサティア・サイババの言説の一部抜粋。2016.8.7の分)

なんと人類を生物の最上位に置こうとするサイババのこの論法にわたしはどうにも納得できないでいる。

サイババによればまた「人類には叡智がある」ということになるが、その持つところの「我執」のために自利と利他のバランスを、その思考の中でうまく量れないでいる人類の、いったいどこをめくったら叡智などというものが出てくるのだろうか。

「人間に生まれて幸運」なんてどう考えてもいやみとしか受け取れない。地球上の他のさまざまな生物と比べて人類を位置づけるなら、その小賢しい判断力を行使し続けたがために、ひとり至福の宇宙胎内からはじき出されようとしている愚かな支配者ということになるだろうか。

 わたしたちは
 人間として生まれてきてしまって、
 本当に大変です。
 (これは幸運なのか不運なのか)
 
 人間としての一生を
 神聖なものにする修行はとても辛いです。
 
 人間は、
 肉体意識を放棄してやっと
 アートマ(不二一元)の原理を
 理解することができますが、
 
 実際にそんな人はわたしの聞く限り
 お釈迦さまと空海以外いません。
 (少なくともさいたまにはひとりもいません)

 対して山川草木犬猫毛虫たちはどうでしょう。
 
 彼らは
 他我の関係性を客観視できません。
 そもそも存在の概念を持ちません。
 肉体意識ももちろんありません。

 故に、
 アートマの原理を理解しています。
 あたりまえに。

宇宙の仕組みに従って発現した個体にわたしたちは過ぎず、宇宙の法則(ブラフマン)に生まれながらに突き抜かれたアートマンとして生きているはずなのである、本来は。

だが、自他の認識を得、我執を心王に育ててしまったわたしたち人類は、不二一元の至福世界におけるただひとりの罹病者となり果て、一方、真理を違えた思考を発現させることのない(つまり脳みそがない)山川草木森羅万象馬羊猿鳥は、依然アートマの至福のうちに生成し続けるというわけなのである。

過分な自他意識によって蓄積されてより久しいこの我執なるものをどうにかしないことには「君たちに明日はない」と神は言う。しかし、神になにを言われようと、かえるくんやみみずくんたちから憐みの視線をどれだけ浴びようと、とんと意に介さず、わたしたちは今この瞬間も無明の銃弾を「明日に向かって撃つ!」のであった。









You say go,T say stop

July 30 [Sat], 2016, 18:00
セスナ機からスーパーなどの宣伝ビラが地上に向けて撒かれる。50年代から60年代にかけて街にそんな光景があったのだった(わたしの記憶にはない。生まれてなかったなどとは言わないが、まあ、たぶん埼玉には来なかったのだろう・涙)。



本日付朝日新聞の記事だが、子供たちが宙に舞うそれを追いかけ、競って拾い集めたという情景が記述されるや、例のポケモンなんとかの騒ぎを連想するわけである。

この空からのビラまきは60年代も後半には急速に件数が減退したが、子供がビラを追いかけて交通事故に遭い、それが大きく報道されたのが要因のひとつとのことだ。

一方のポケモンGOはといえば、そんなことくらいじゃ勢いはとても止みそうにありませんな。

このポケモンGOとやら、やって見ればバーチャルとリアルの混ざった不思議な感覚があるのだろうか、きっと面白かろうが、とはいうものの現代の街なかはそんなポケモン探しなどというのんびりした無防備さを受容してくれるような状況環境にない。

危ないのは車だけじゃない。そしてまた、被害を受ける側とは限らない。いろいろなことで加害者にもなってしまう。今どきの世の中は複雑なのである。

これがしかし、昔の田舎風景の中でのことだったらどうだろうか。原っぱやどぶ川や沼や林の中が遊び場だったころ。でもその時代はデータとか配信とかそういうのはなにもなかったので、やはり神様が登場する。

「なあ君たち。君たちの遊び場のいろんな場所にキャラクター・グッズをたくさん隠しておくから、みんなで探したらどうか」

子供たちは大喜びで探し始める。競って集め、さらに見つけるために行動範囲を広げる。今までの活動半径を越え、遠くまで足を延ばす。時間も忘れ、夢中で探し回る。

子供たちは楽しくて仕方ないが、親は黙っていられない。家になかなか帰って来ず、勉強も手につかなくなった我が子の先行きを憂うのであった。

「神様、余計なことをしてくれよって」

まあ、実際に神様があちこちに隠したキャラクターとは本物のバッタやカマキリやざりがにやかえるやかぶと虫たちであったに過ぎないのだが。




このサザエさんは1953年7月12日新聞掲載作
パラシュートまで降っている上の写真も1953年撮影
わたしは生まれてません(きっぱり)!







大橋巨泉 7.12

July 21 [Thu], 2016, 11:23
わたしにとってスピリチュアルなる単語がジャズ用語に他ならないのと同じく、誰がなんと言おうと大橋巨泉といえばジャズ・コメンテイターなのである。

「野球はヤクルト、司会は巨泉」という標語(←一部、文言を改ざんしております)があるくらい数多の番組を作っては喋りまくっていた大橋巨泉は、わたしにとって「もともとジャズ評論をやっていた人」であった。

だからこそ、あの尊大といわれた態度も気にならなかったし、トップ当選しておきながら半年で議員を辞めてしまっても悪口をわたしは言わなかった。

一緒に仕事をした人の中には「おれがおれが」という性格(だろうか。なにしろ会ったことないもので)を気に入らないという向きも多かったようだが、わたしから見れば親子みたいな年齢差だし、そんなことはなんとも思わない。

むしろその凡庸でない論評の調子に感服するところ大であった。その慧眼はジャズ評論においてまた大きく発揮された。

わたしがジャズ誌「スイング・ジャーナル」を読み始めた頃はすでに新譜レコードの論評執筆者の中に大橋巨泉の名はなかったが、主にラジオでその声を聴くことができた。TBSの夜9時台に20分程度だったが巨泉の名を冠したジャズ番組があった。

いま思ってみれば贅沢な話である。巨泉のMCでジャズの名盤を聴かせてもらう。指定されたスタイルで原稿を棒読みするパーソナリティばかりが目立つ今どきの番組群を見ればなおさらだ(いえ、別に小林克也さんのことを言っているわけではありません。てか、渡辺貞夫マイ・ディア・ライフのナレーターをやっていたこともある小林さんを悪く言うつもりなんかありませんが、巨泉の縦横無尽というか自分勝手過ぎる境地をさらに小林克也も目指すべきではなかろうか・・・余計なお世話・・・)。

クリフォード・ブラウンのジョアドゥ(Jorduですがこの日本語発音だったはず)や発掘されたマイルス・アット・プラザでのキャノンボールとコルトレーンのサックス・バトルについての思い入れたっぷりな解説などは今でもよく覚えている(って、なぜ覚えているかといえばカセットに録音して何度も聴いたからである。ははは)。

中村とうようは巨泉が議員を辞めたとき「ぼくはあのヤローがいいかげんな奴だと知っていたから別に驚かなかった」と言っている。しかし、そんなことを言いながらもジャズ評論の分野では当時、同じ土俵で活躍する巨泉に一目置いていた。

50年代末にジャズ界を席巻したファンキー・ジャズなる用語の定義については、関係者の中にもいろいろな見方があった。ゴスペル起源がどうとかいう油井正一の教科書的な分析に対し、もっと身体感覚的に「うねうねしたリズムに体を揺り動かさずにいられない」というような視点を巨泉は示し、それをとうようさんは「見事にファンキーの本質を言い当てている」と評価した(教材はソニー・ロリンズの54年版ドキシー)。

中村にしろ巨泉にしろ、言うことが普通の人と一味違う。独自の言説はしかし普遍的影響力を持った。

70年代初めにCBSソニーがビリー・ホリディの編集アルバムを出した。そこに油井正一や大和明と共に巨泉も解説文を寄せている。

1939年12月15日録音のザ・マン・アイ・ラヴをご存じだろうか。レスター・ヤングが間奏を受け持つジャズ・ファン周知の有名曲である。大橋巨泉によるその曲目解説を引用したい。

“「私の彼氏 The Man I Love 」  ボクが中学時代に愛聴したSP盤を思い出す。紅顔の少年(?)だったボクはただしびれていたものだが、今聞くとその秘密がよくわかる。この人が歌うと、男をはなすまいという気持ちが ― 例えばサビの「HIM]という言葉の歌い方 ― まだ見ぬうちから燃えているようで、他の人には絶対に出来ない表現になっている。そしてテナー・サックスの間奏。この歌ごころ、この余裕、このフレーズ、そしてこのモダニズム、レスターの最高のソロのひとつだと思う。”

これを読んで感激し、このテイクを何度も聴き、そしてテナー・サックスを手にし、練習を重ね、とうとうわたしはテナー奏者にな・・・れませんでした。とほほ。











永六輔 7.7

July 13 [Wed], 2016, 22:26
放り込まれた労働環境のせいでラジオをいつも聴いていた。おかげで小沢昭一や永六輔に親しみを抱くことになった。

永六輔は放送作家であり、長年ラジオに出て話すことにも慣れていたから、自分の持ちギャグや売り文句に固執してなんとか食っているような、その辺の漫談師顔負けの話術を披露することもあった。そんな面白い話を聞かされたときは、その僥倖に気分が昂ったものだ。

新しい機械についていけない人は往々にしてそれを嫌いだと公言する。永さんも携帯電話を好まなかったようだ。それは端末を扱う人たちのマナーの悪さと共に常々ご本人によって語られた。

そんな永さんがあるとき列車でどこかに出かけることになった。その時のエピソードというかネタというか。

気が重かった。人の多い場所でマナー違反が横行する。永さんは車掌に強く要請する。通話禁止の旨を繰り返し車内放送してくれ。「はい」他でもない永六輔の仰せである。車掌は直立不動で返事をし、踵を返して車掌室に戻るやいつもの文言を読み上げる。

「お客様にお願い申し上げます。車内での携帯電話のご使用は他のお客様のご迷惑と〜」それは何度も執拗に繰り返された。天下の永六輔の機嫌を損ねてはならない。そこには車掌の緊張が滲んでいた。

だが、そんな車掌の気苦労も知らず無情な着信音が鳴る。だって電話をかける方には車内放送は聞こえない。
「もしもし」
その野太い声はあろうことか永さんのすぐ後ろの席から聞こえてきた。永さんは気が短い。よりによって俺のすぐそばで・・・。

話し始めた声の主に向かって
「うるせえ」
思わず声を荒げた。話し声は止まり、少しの間をおいて大柄な中年男が永さんの視界に侵入してくる。
「まずい・・・」その風体は紛う方なき反社会的勢力のそれであった。青くなった。男は鷹揚に声を低める。
「申し訳ない」そう言いながらなんと空いている隣の席にどっかと座り込んだ。永さんは震え上がる。

「いや、申し訳ない」男は繰り返す。手にした端末は通話中のままだ。「いやね、うちの若いもんがね」そこまで言うや端末を耳に当て「ばかやろう」いきなり怒鳴った。周囲にも緊張が走る。永さんは生きた心地がしなかった。

「このがきゃあ、てめえが列車の中なんぞに電話かけてきやがるからお叱りを受けたじゃねえか。どうしてくれるんだ。てめえ、俺の顔に泥を塗るつもりか」電話の向こうの返答に困った様子が伺える。「どう落とし前をつけるんだ、このやろう。いいか。こちらの方に事情をお話しして謝りやがれ」

男は永さんに端末を渡そうとして一旦引っ込め「いいか。これで済んだと思うなよ」と電話の相手に言った。永さんは自分が言われている気がした。

「とまあ、そういうことで」改めて永さんに向かって男は言う。「うちの若いもんがお詫びしたいと言ってます。どうか、話を聞いてやっていただけませんか」永さんの声は震えている。「いいえ、結構です。お詫びだなんて」

「なんだと」
怒号が響く。永さんは飛び上がった。「おい、うちの若いもんはなあ、まじめに仕事をやってるんだ。一生懸命で不器用なそいつがしでかした不始末をお詫びしたいと今、電話の向こうで言ってるんじゃねえか。それを受けられねえたあ一体どういう了見だ」

「は、はい、すみません。分かりました。それじゃあ」仕方がない。永さんは受け取った端末を耳に当てる。
「もしもし」

間の悪いことにその時ちょうど車内の見回りに車掌が出てくるのだった。携帯端末を耳に当てた永六輔を視界に捉えた彼は目を丸くする。「なんと」彼はその場から逃げ出すように自分の城(車掌室)に戻った。

ばたんと扉を閉める音が響くと、一呼吸おいて車内放送が流れる。「お客様にお願い申し上げます。車内での携帯電話のご使用は〜」

このほんとのことかどうか分からない話を永六輔さんご自身がラジオで披露していた。わたしはアウディ RS 5 ガブリオーレの運転席(←うそ)でそれを聞いた。





ぼくはみみずくん その12 新しいもうひとつの宇宙、そしてエピローグ

July 06 [Wed], 2016, 20:20
ふっと想う。ひょっとしたら...。この宇宙の外から思惑を持った何者かがやって来て、人類の心王に我執の種を植え付ける。それは悠久の年月と共に大きく育ち、軋轢ののちに摂理の崩壊を呼んだ。

そう見えたそれは、だが実は、この宇宙の唯一無二の法則に馴染む者にとって想像もつかない未知の、まったく新しい法則への転換に関わる(暗証番号付きの)鍵だったのではあるまいか。

それはもうひとつの宇宙のこちらに対する侵略と言えるのかも知れない。そして、そうだったとしても、それすらもまた神のシナリオのうちにある。


かえるくんも無傷ではなかったようだ。あからさまに顔を歪めることはなかったが、苦しそうなのはよく分かった。

かえるくんは額に脂汗をかきながらケロッと鳴く。かえるくんのそれは勝利宣言だった。大地の内部の方向性を歪めたエネルギーのぶつかり合いは、神通力ともいえるかえるくんの意思により新たな秩序を得たようだった。

勝ち誇る様子もなくかえるくんは踵を返して去っていった。

東京はこのようにして救われた。地表では何事もなかったかのように(実際のところ何事も起こらなかったのだが)、精神性なき経済活動の渦に取り込まれた人々が、相も変わらず不毛な生産と歪んだ消費に勤しんでいた。

その様子を観察するシニカルな名無し猫の眼差しも知らず。



※このみみずくんとかえるくんの偉大なる対峙の顛末については、小説家・村上春樹のレポート(多分に主観的な)に詳しい。






ぼくはみみずくん その11 かえるくんはどこから来たか

July 05 [Tue], 2016, 21:23
突然、かえるくんがにやりと笑う。「それは神の方法ではない」
「なんだって」
「シヴァ(作者注:ヒンドゥ世界における三大神のうちの一柱。創造・維持・破壊によって成り立つ宇宙観のうち破壊を担う)はもういない」
「かえるくん、君は・・・」

かえるくんは人類の利益を代表していたのではなかったのか。違うのか。いや、そんなことはない。どう考えても彼の言い分は人間社会の合理性に基づいている。

「シヴァがいないってどういうことなんだ」
「排除なんてしない。破壊する必要なんてない」
かえるくんは我々の前に立ちはだかった。我々は凍りついた。大地は鼓動を止めたかのようだ。

個我同士のせめぎ合い。その壮大な折り合いの力学から生まれる関係性。人類社会は「我執にまみれた人類のかつてなかった都合」に過ぎない。その本来ならあるはずのない理路に立脚したかえるくんの主張だったはずだ。

人類の我執に彩られて帰着し具体化したこの現代人間社会と、その人類の個我さえなければ寸分の混じりけもなく展開されたはずの至福の大自然世界。その大きな乖離が軋みとなってシヴァの破壊が今、起ころうとしている。

あくまでもその筋道にあっての「そこをなんとか」というかえるくんの人類を代表した哀願だったのではないのか。そうではなかったというのか。

では、この度のかえるくんの行動を裏付ける理路とは実はどんなものなのか。彼の哲学の地平とはいったいどのようなところにあるのか。

もはや我々には分からない。大地もそれを理解し得ない。
もし、我々のあずかり知らない、まったく新しい哲学をかえるくんが提示するなら、今ここにある大地も我々も今までになかった法則の下で働き始めなければならない。

あるひとつの法則を盛り込まれて誕生した宇宙はその生成の働きを一旦すべてやめて、新たな法則を一から受け入れることになる。そんなことが可能だろうか。法則に基づいて生成し続けてきた森羅万象が全く別の法則にそのまま組み込まれる。どうやって。

わたしだったらどうだろう。我が身に照らして考えてみる。そんなことができるだろうか。思いもよらないことだった。しかし、かえるくんはそれを示唆している。本当だろうか。






what is イスラム教(← isって)

July 03 [Sun], 2016, 18:17
アメリカの失速とイスラムの台頭という視点がある。そう見た場合、現在から近未来において強くなり、世界情勢の中で一定の勢力を維持する(した)イスラムにあって、では、イスラム過激派の存在というのは一体どういうことなのか。

それに対して称されるイスラム穏健派は同じイスラムを名乗る一方の「過激」な言動をどう位置付け、どう対処していくつもりなのか。

コーランを唱えられなかった人質に対して「暗唱できる同胞」と違う扱いをしたと伝わっているが、勝手な論理であり、国際社会に認められた国や組織だったら許されない暴挙である。

理趣経を唱えられないイスラム信者の入国を拒否するなんてことを日本政府はたぶん言わない(トランプ似の密教過激派行者の寝言です)。

「いや、あれは一部の過激な連中がやったことで・・・」と言っておけば個別の事件であり、イスラム社会は無関係でいられるのである。

アメリカ(側)に抑圧されたイスラムのある部分は過激化する他なかったのか、もともと排他的独善的な人たちなのか。

世界情勢についてもイスラム教についても全く無知なわたしの脳裏には古の「悪魔の詩」事件の不透明が未だ居座り続けている。



といったわけで、連載中の大河純愛小説は水を差されて一回お休み。






ぼくはみみずくん その10 かえるくんの直球勝負

July 02 [Sat], 2016, 22:11
かえるくんは一途だった。一途であるが故に厄介な存在だった。プロパガンダに見事に引っかかった者どもは始末に負えない。

そして、人間社会の大前提として太古よりすでに人々の血肉に浸透した人間中心主義は、その拡張するにあたって、もはやプロパガンダすら必要とせず、ブッシュやアベの舌っ足らずな能書きを鼻で笑う知性は退けられ、今や風前の灯火だ。

かえるくんがなんの疑いも持たず、その気になるのも無理はないのかも知れない。

「なにしに来たんだ、かえるくん」わたしは繰り返す。「君の出番はないよ」
だが、かえるくんの意志は固い。
「これは理に適った帰結なんだ。そこにあるべきでないなにものかが発生して大きく膨れ上がり、そして浸食を続けた。我々に感情はないが、我々の総意はそれを許さない。それがこれから起きようとしていることだ」

「ふん、交渉の余地はないと?」かえるくんはやっと口を開く。
「なあ、かえるくん。我々は決して傲慢なのではない。君たちが間違っているんだ」
「その決めつけをこそ傲慢というのではないだろうか」

かえるくんは結構ふつうの思考回路を持っている。そのことを確認したわたしは一気に攻め立てようと考える。
「正しいことを傲慢とはいわない」噛んで含めるような言い方を心がける、あえて。「人間社会を基礎づける権利意識は人類の心を覆う我執に拠って形成されている」

わたしはかえるくんの様子をうかがう。「だから、つまり」
「だから、つまり」かえるくんは先を促す。
「そう、それは間違っている」

かえるくんは身を固くして押し黙る。我々の地平は噛み合わないままのようだ。
「たくさんの人が悲しい想いをしてもかい」かえるくんは彼の地平から球を投げてくる(ツーシームとかではない真っ直ぐな球だ)。その愚直ぶりにわたしはうんざりするべきだろうか。あからさまに大きくため息をついて見せるべきか。

「いいかい、かえるくん。よく聞いて欲しい」かえるくんはいよいよわたしを睨みつける。
「我々には人々を攻撃しようなどという意思はない。これは仕方のないことなんだ」
「いったいぜんたい」かえるくんは激昂する。「どう仕方がないっていうんだ」

ひるむわけにはいかない。「そこにあるべきでないものは排除される」沈黙が続く。(それが神の意思だ)わたしはその言葉を飲み込む。





ぼくはみみずくん その9 かえるくん東京に現わる

July 01 [Fri], 2016, 20:29
ここにおいて、しかし、この急激な変化を阻止しようとする者が現れる。それはかえるくんだった。かえるくんは悲壮な決意の表情をたたえて我々の前に姿を見せた。

「なにしに来たんだ、かえるくん」わたしは叫んだ。
「理性で折り合いをつけようと思う」彼は真剣な眼差しをわたしに向ける。「ぼくは東京を救うために来た」

こんなところまでやって来て一体なにを言いだすのだろうか。考察の地平が我々とは異なるのだ。
「理性と言ったね、かえるくん。折り合いとも言ったかい」

わたしの投げかけにかえるくんはどう応えるだろうか。かえるくんはなにも言わない。我々の間を隔てるそもそもの前提の大きく異なることに彼は気づいただろうか。

「理性とは」わたしは言う。「折り合いのことに他ならないのではないのかい」
かえるくんは黙ったままだ。理路を自分の土俵の方へ引き寄せていかなくてはならない。かえるくんはそう考えているのかも知れない。わたしは付け加える。「君たちの世界では。あるいはその常識においては」

たぶん、人間社会を代表してかえるくんはここへやって来た。姿かたちは巨大なかえるだが、彼のものの考え方は人間と同じだった。きっと人間社会に寄り添って暮らしてきたのだろう。

わたしはいくつかの例を思い浮かべる。
踏んづけられてチャーリー・パーカーの胃袋に放り込まれたマーマデューク。わがままな王女によって壁に叩きつけられた名もなきがまがえる。そして、ひろしのTシャツに貼り付いたど根性ガエル。

その辺りを考え合わせると、なぜかえるくんが人間社会の利害の尺度を抱えて我々のところまでやって来たのか分かるような気がした。


※ わざわざ言及するのもなんですが、タイトルの「かえるくん東京に現わる」は1956年度大映映画「宇宙人東京に現わる」のパロディです。







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