近未来メジャー・リーグ

May 17 [Wed], 2017, 18:06
マリナーズ岩隈の片目が明かない。もう5月も半ばであり、先発登板は6試合に及んでいるが未だひとつも勝っていない(ヤクルトですら何度かは勝っているというのに)。

えらそうなダルビッシュや自信たっぷりの田中将大、怖いもの知らずの前田健太が、多少出遅れたとはいえそれぞれ軌道に乗り始めたところで、ひとり岩隈だけが置いてきぼりといった図である。

と、そんなこんなで大リーグ中継を見ていると余話が語られる。アメリカ合衆国全土に広がる各チームの本拠地球場を移動して歩かねばならないペナントレースの過酷さである。

年間162試合の半分はビジターとして相手チームの本拠地まで出かけていくわけだが、地図を見たら実感できよう、アメリカの西の端から東の果てまでの距離といったらない。そんな距離を試合して回るのだから選手たちもそりゃ大変だ。

マリナーズ戦の中継ではテレビ画面の地図上に岩隈の顔写真を置いて、てくてく移動させながらその辺りを説明していたが、そう、特にシアトルをホームタウンとするマリナーズなど、近場にまったく相手がいないのでどこへ行くにも皆遠い。すべての移動は飛行機ということになるのだろうか。

日本などとはけた違いに広い国土を舞台に、各地に散らして置いた30球団それぞれに160余試合を組む、その計画の壮大さというようなものを感じるが、こんなとてつもない興行が成り立つのはそもそも交通機関の発達があってのことだ。

飛行機や車を作って飛ばし走らす技術、道路の整備などといった社会インフラの成熟がなければ始まらない話なのである。どんなに野球技術が大きく進歩を遂げ、ベーブ・ルースやイチローが100人出現したとしても、飛行機が飛ばなかったら彼らはその能力を発揮する場を持てない。

我々はそういった文明の利器を当たり前にあることとして誰にも感謝せずに日々利用するばかりだが、便利に使っているそれらが、もしなくなったらなんてことを想像くらいしてみてもいいのかも知れない。

「駕籠に乗る人 担ぐ人 そのまた草鞋(わらじ)を作る人」と言う。
どんなに優れた人もひとりでは生きていけない。
どんなスーパースターがいたとしてもその人がひとり在るだけで世界は成り立たないのである(というよりスーパースターそのものが生成し得ないというべき)。

さて、近代の高速移動手段を使うことができないとしたら。

信濃町から水道橋くらいなら(ヤクルト・巨人戦のことです)自力で走ってもウォーミング・アップにちょうどいい距離といったところだが、アメリカ横断となるとそうはいかない。

シアトル・マリナーズの選手たちは西海岸からロッキー山脈を越えたはるか彼方のファー・イースト、東端はヤンキースの待つニューヨークまで駅馬車を駆り立て馳せ参ぜねばならぬ。

いったい何日かかるのだろう。馬車は車輪も座席も固く、がたがた道では直に骨に響くし、長旅で体はずきずきいう。

それだけではない。途中、五大湖を望むクリーヴランド近辺一帯ではインディアンズの襲撃を受ける恐れもあった。そうなると遠征はまさに命がけである(そもそも、敵対するアメリカ・ヤンキーとインディアンが平和的に野球で決着を着けようと図ったのがMLBメジャー・リーグ・ベースボールの起源であることをご存じだろうか)。

こうしてやっとの思いで敵地に到着してすぐに試合が始まるわけがない。
「何日もかけてやっと来たんだ。ひと休みしようじゃないか」休養はほんとうに必要だったが、もちろん、それでは終わらない。

飲めや歌え「ニューヨーク女のけつはこたえられねえぜ」てなことになるのは必至であり、この辺りは舛添とかああいった連中の「視察」とやらなどとなんら変わるところはない。

当然のことながら、こんなに手間暇がかかったのでは試合数は大幅に減らさざるを得ない。とてもじゃないが現行の採算構造は成り立たないので、ここは野球の試合を含む複合的一大イベントを新たに計画しなくてはならないだろう。

ひとつのアイディアが提示される。広大なアミューズメント・パークを地域に想定し、球場の他にカジノなどを置く。この条件は必須ではないが、いずれにせよ連携するカジノのような施設は要る。

さて試合が始まる。試合経過のありとあらゆる局面は数値化され、変数としてカジノ内ゲームのバックボーンを為す数式に盛り込まれる。試合中のさまざまな状況や変化に応じて賭けゲームの倍率やら確率やらいろいろなものが影響を被るわけだ。

その変動は多岐にわたる。8回にイチローが代打で登場するとオッズが変わり、デッド・ボールを巡って乱闘が起こるとボーナス・ポイントが加算される。応援しているチームによって、それらは有利にも不利にも変わる。

余程のプロ以外、素人にはただ単調な小遣い巻き上げられ装置に過ぎなかったギャンブルが俄然、有機的な人間ゲームに生まれ変わるのである。

このシステムは大ヒットし、試合数は激減したにも関わらず、選手の年棒は跳ね上がった。

ところがどっこい。

そうして一部に超高額所得者を生む一方、しかし、選手間の所得格差が広がった。このような傾向が強まると中堅選手以下の野球そのものの対する意欲や向上心が削がれるようになる。

低年棒の若手が一念発起する動機になにか不純なものが混じるのだろうか。給料の原資は入場料よりギャンブルの分の割合が圧倒的に多くなるが、そのことによる影響がどこかに生ずるのだろうか。

収益を賭博経営に依存する構造とそこに多かれ少なかれ携わる人の、その精神性との関わりについて専門的考察があるといいかも知れない。

自己実現を目指す原動力はなにか。関優勝のような人々の心奥を探らなくてはならない。ただ対象に対する興味や探求心だけがその動機なのだろうか。

少なくともこの近未来駅馬車ギャンブル・ベースボール(EGBってか)にあっては、行き着くところ、自ら持つ我執に操られる人間の本質的性向が、スポーツに取り組む純粋な向上心を凌駕することとなる。

こうして、そこに研究心の証跡を見出すことのできない力任せの大味なゲームは人々の共感を失い、20世紀に隆盛を誇った野球は急激に勢いを衰退させ、その生命を終えるのであった(オリンピックとほほ時期を同じくして)。じゃん、じゃん。

とかなんとか書き始めてしばらく経つうちに、なんということか岩隈選手が故障者リスト入りしてしまった。うーむ、まずい。わたしが変な文章を書くからだろうか。ごめんなさい、岩隈さん。応援しているので是非がんばってください。

青木もな!)








スピリチュアルな100万円

April 08 [Sat], 2017, 20:35
○ベアキエとかいうどこかのお姫さまがスピリチュアルなるものを志向しているといった話が新聞に載っていて、その記事に「スピリチュアル」の概念が説明されている。

スピリチュアルという英単語は辞書を見ると、ただ「精神的な」という意味から「超自然的な」「宗教的な」といった分野についての使い方まで幅があるようだが、これではもちろん、いま流行りのこの概念の包括した説明にはなっていない。

一方、記事の方は大変分かりやすくまとめられているので、ここは是非ご紹介したいと思う(無断で)。

スピリチュアルは、スピリチュアリティという言葉の派生語で「人間を超えた目に見えない大いなる力の中に、自分が存在しているという意識」などと定義される。「大いなる力」は、霊的な存在や神仏、宇宙、大自然、エネルギーなど様々に表現され、必ずしも宗教が介在するとは限らない。(2017.4.6朝日新聞)

ふむ、すっきりすっきり。

ところで、わたしはこのスピリチュアルを標榜する人々の集いが(多分)苦手である。上に引用した定義を正しく認識しているのかどうか、浅い理解で自分に都合のいい解釈をしている人が少なからずそこに含まれている気がするからだ。

わたしに言わせればそもそもスピリチュアルというのはジャズ用語に他ならない。

わたしの持つ英語の語彙は教科書に載っていたI have a bookと荒井注から習ったThis is a pen以外はほとんどすべてスイング・ジャーナルというジャズ雑誌から得たようなものなのである。

「オーガナイズ」はマイルス・デヴィス、「ソフィスティケイト」はデューク・エリントンから習ったし、メインストリームもアヴァンギャルドもウェストコーストも、はたまたマイ・ファニー・ヴァレンタインも、こういったカタカナ語はみんなSJ誌のジャズ記事で覚えたのだった。ついでにチャーリー・パーカーからは酒、麻薬、女を教わった。

スピリチュアルという単語もジャズの世界にはたくさんあって、古くは「フロム・スピリチュアル・トゥ・スイング」という傑作が知られている。

アルバート・アイラーは「スピリチュアル・ユニティ」を創り、富樫雅彦は「スピリチュアル・ネイチャー」を以って世に問うた。いずれも芸術家としての観察力、洞察力、哲学がそれぞれのアルバム・タイトルに込められている。

また後期コルトレーンらの真摯な演奏ぶりはスピリチュアル・ジャズなどと規定された。「ジャズの精神性」についても多く語られたのではなかったか。

そう、「スピリチュアル」とはわたしにとってジャズ以外のなにものでもないのである。

そのようなわが愛すべき珠玉の人間芸術であるジャズが、「わたし解脱しちゃったわ」とかいう我田引水ならびに現実逃避に基づいた寝言の飛び交うすっとこどっこいな世界と一緒にされてはたまらない。

さて、記事に登場したア○アキエなる人物だが、どの程度ものに通じているのだろうか分からない。そういえば大阪の園児たちが「アベ○キエさん、100万円ありがとう」と唱和したとかしなかったとか。







ケイのブルース(勝てない原因は○ポンサー)

April 01 [Sat], 2017, 17:26
錦織圭がまた負けた。

錦織圭はいつも負けている。
(もっとも、トーナメント戦では優勝者以外、必ず全員が負けるわけだけど)

ここというところで負ける。
(もっとも、トーナメント戦では全ての試合が「ここというところ」なのだが)

あろうことか、ノー・シードの下位選手にころっとやられる。
勝ち進んでもマリーやジョコビッチやフェデラーの壁をなかなか超えることができない。
当面のライバルや台頭してきた若手にも分が悪い。

ここで勝たなきゃ、というところで勝てない。

同じように、ここという大事な試合で勝てない浦和レッズや、ここという時もそうでもない時も分け隔てなく勝たないヤクルト・スワローズと比べても、見ている方の悔しさは格別だ。

だって錦織はいつもいつも、ここで勝たねばという大事な試合で負けている。
決勝に行くためにどれも落とせないのだから全てが大事な試合であり、一回戦で下位選手に負けるのも、準々決勝でトップ選手に退けられるのも、それぞれに失望は最大値である。

ああ、錦織はいつも負けている。

トーナメント戦は全部が、ここで勝たなきゃ(次には行けない)という試合なのであり、そこがリーグ戦と違うところだ。

ヤクルトなんて負けても負けても負けても、後の試合がキャンセルされることはない。
まあ、ヤクルトの場合はたまに珍しく勝つところがいいんだという境地を獲得してしまったチームである。

浦和に至ってはリーグ戦を圧倒的に勝っておいて、優勝決定戦だけ負けるという驚天動地の離れ業を演じたのであった。

いずれも応援する者の社会生活における精神の平衡を、空軍機のアクロバット飛行に同乗した時みたいに乱してくれるへっぽこチームである。

世界で戦う錦織選手にあっては是非、そんなお笑い球団みたいな態を我々に見せてほしくない。


錦織はまた怪我が多い。勝ち進めない要因の大きなひとつと言えるだろう。
他のツアー選手たちと比べて多いのかどうか分からないが、見たところ錦織は怪我ばかりしている。
そのせいで多くの勝利をふいにしている。

どうして怪我をするのだろうか。
ひょっとして食い物のせいではないか、などとわたしは密かに考える。

プロのスポーツ選手であれば自分の肉体の維持管理についてはより厳格にこれを行なっているはずである。
当然のことながら栄養摂取についても、その一項目として細心の気遣いが彼らには必要だろう。

だが、食べ盛りの若者たちである。食事管理の辺りでは野放図なスタンスで臨む場合も多いのではないだろうか。

錦織は大丈夫なのだろうか。彼は自身の食生活にどのくらい気を配っているだろうか。

試合を見ていると錦織の着ている服にはNISSINのロゴが貼り付いているのが分かり、スポンサーなのだと知れる。

まさか、よりによってこのインスタント・ラーメンの会社は、自社のカップ麺を大量に錦織の自宅に送り付けたりしていないだろうな。

そして、あろうことか錦織もまたそれを食ったりしていないだろうな。

質の悪い油といかれた調味料や添加物で固めた小麦粉なんか食っていて、テニスのようにシビアでハイソなスポーツが出来るわけないのである。
そりゃあ、怪我だってするだろうさ。

カップ・○ードルなんてビートたけしと小林幸子に任せておけばよい。バカやるのもまた人生である。

日○食品は直ちに錦織から手を引くべきですな。






古代ワインの詩

March 08 [Wed], 2017, 21:23
サイタマ地方に古くから伝わるヘルグ語で書かれた詩を紹介しよう。
尚、作者と思しき者はこの詩を東欧のとある地を歩いたNHKの紀行番組から思いついたとか言っているらしい。


我々は形式的に酔っぱらっているのだ。

我々はアマゾンやアスクルを利用しながら都市に生きる。
土の地面を踏みしめていたころの想いを抱きながらCDやDVDを買い、
そこにはしかし、LPの感触を求める。

草や砂の手触りを含む木と石の普請に体を預け、
(今にして思えば)否応なしにその匂いを嗅いだ。

わたしは今もそれらを実体として手にしたい。
二度と手放したくないその実体を今どこに見出すのか。

放っておけばいつの間にか消え去っていってしまう様々ななにかに強く執着すればするだけ、
それら本やCDはわたし自身によって押し入れに保管され、形骸化する。
文章は形式的に読まれ、音楽も映画も記号的に鑑賞される。

酒は(市井にあって)(和やかに)歌と共に飲まれるべきものだ。
(↑訳者注。ことさらに酒井和歌子との関連付けを意識する必要はなさそうである)

そこで初めて宇宙は有機的に感情の触手を伸ばし始め、
アートマにあっても想念の芽が吹く。

しかし、今や、規範からの逸脱足らんとするかに見える
酒席すら実は精神の自由を失っている。
追従と忖度。

予測範囲内の誘導によって画一的に整理された感情が生み出される。
そういう世の中に我々の生活はある。

マニュアルに則った責任回避言語によって構築される社会。
そしてその精神的背景。


この詩の成立がいつ頃ことなのか、執筆年月日が付されていないので分からないが、奇しくも2017年初頭の極東は日本にあって、アスクルの物流センターはリアルに炎上し、アマゾンの配送部門を担うヤマト宅急便は行き着くとこまで行き着いてパンク寸前の模様である。なにかの象徴であるかのように。







象徴の意味

December 23 [Fri], 2016, 23:58
「天皇は象徴である」ということを知ったのは小学生の時だ。社会科の授業だっただろうか。拙くもその意味を考えたがよく分からなかった。

象徴なる語の持つ意味は分かったとしても「天皇が国民を象徴する」という一文として提示されると、途端になんのこっちゃ分からなくなる。

そして、未だどこからも誰からもわたしに答えは示されないままだ。長い時間が経ってなお、わたしはよく分からない。精神年齢は12歳で止まっている(ちなみに肉体年齢は○○歳。来季も現役として契約を更改しました)。

この8月に「お気持ちの表明」というのがあり、また、ここ数日の朝日新聞に論考が載った。

天皇陛下は「日本国憲法下で象徴と位置づけられた天皇の望ましい在り方を、日々模索しつつ過ごして※1」来た、とのこと。

また、即位時から「天皇としてできるだけ早く全国を回り、国民の生活に触れたい※2」という考えがあり、特に「日本の各地、とりわけ遠隔の地や島々への旅も、私は天皇の象徴的行為として、大切なものと感じて※3」来た。

それは被災地訪問にあって如実に結実していよう。そうして国民に寄り添い、国民のために祈る※4ことを象徴としての仕事・責務と天皇は捉え、実行してきた。

一方で憲法には「国民統合の象徴」とある。支配層の思惑や都合による意味付けがどこかにないだろうか。

精緻に構造付けされている憲法の中で天皇ご自身は象徴としての行為をそこ(上記)に見出した、と言うのは憲法学者の石川健治さん。12/23付BSフジはプライム・ニュースでの発言。

そして、同じ番組の御厨貴さんは象徴の意味は時代に応じて変わると言った。
なんだ、決まってないのかよ。

と、そんなわけで思考停止中の12歳でした。



※1・3 お気持ち表明より
※2   記事中、侍従長の表現
※4   祈りを鎮魂として重視するのは内田樹さん







あと少し歌が下手だったら

December 14 [Wed], 2016, 19:23
スウェーデン・アカデミーは「彼の歌の美しさは、最高位のものだ」とし、「これがボブ・ディランは文学に属するのか、という問いへのはっきりした答えである」と説明した。

この新聞記事(2016.12.13朝日)におけるアカデミーの「説明」は要約されているだろうが、全文がなければこれを解釈するしかない(もしこちらに伝わる意味やニュアンスが本来のものと違っていたらそれは朝日の責任である。じゃんじゃん!)。

「ボブ・ディランが文学に属するのかの問い」というのは受賞に際して寄せられたディラン本人のメッセージに「自分の歌は文学だろうかと自問したことは一度もない」という一節があり、それに応えたものだ。アカデミーはそれを自らに対しての問いと受け止めて上記のように「説明」をした。

さて、果たしてこの要約だが、歌は美しければ文学に帰属することができる、という風に読めるがどうだろうか。もしそうだとしたら、ディランの歌声に品性が欠けていたり、他のど下手な歌手が歌ったりした場合、その作品は文学足り得ず、従って、そもそも賞の選考対象からすでに外れることになる。

さらにまた、ボブ・ディランの詩あるいは歌詞というのはそれ単独では文学として認められず、歌唱なるものとセットになって初めて評価の対象として扱われるというのである。

こんな話があるだろうか。数多の受賞者の中で歌手ボブ・ディランに限ってそのような付帯条件が持ち出されるのだろうか。村上春樹がノーベル賞をもらえないのはその作品を朗読した奴が下手っぴいだったからなんてことになってしまうではないか。

もとより音楽としてだったら歌詞と歌や演奏は不可分である。どんなに高尚な歌詞を持った歌でも音痴が歌えばギャグである(ドンキー・カルテット等を参照のこと)。深い人生の洞察を内包した詩はこれまた独自の価値観を以って社会と対峙せんとする人格(チャーリー・パーカー等を参照のこと)によって歌われるときに作品として昇華する。

それが音楽というものである。この歌詞が素晴らしいとだけ言うなら、レコード吹込みなどせず、歌詞カードを印刷して世界中に配って歩けばよい。言わずもがな音楽であるならばそれは歌や演奏があってこそである。

文学とは違う。現状において詩や小説は言葉や文章で創造され、それが鑑賞されるだけだ。「彼の歌の美しさ」を以って賞を授けるならそれはノーベル文学賞ではなく「音楽賞」でなければならない。ということになると思うが・・・。

ディランの書いた詩にただアカデミーは価値を与えたのではなかったのか。上の要約文章ではどうにも理路が読めない。本当はどう言ったのか。ただの言い回しに過ぎないなら、音楽との関わりなどに言及しない方がよかっただろう。

ふーん、ノーベル賞ねえ・・・。来年はぜひ加護ちゃんにあげて欲しいと思う。







シヴァの隠遁 出雲編 その4

November 18 [Fri], 2016, 0:43
「なあ、こんな、空虚なること気の抜けたビールの如き空間にいつまでいたって仕方がない。どこか別の・・・」
「あら、ご挨拶ね、そんな言い方ってあるかしら」
うさこは相手の言葉をさえぎり、食って掛かる。それは消費者と対峙して在る酒場世界の常識に疑うことなく帰属する者の態度であった。

「ふん、分からないわけじゃないだろう。こんな・・・」
うさこは斯波を睨みつける。斯波は続ける。
「こんな、建前言語が脈絡なく散らばり飛び交うような場所に一体なんの意味がある」
いささか挑戦的な言い方をしてみた。

離れたテーブルでは、独断的かつ大胆な物言いで得た人気を頼りに大統領の地位まで勝ち取ってしまった男と、その政権の今後について誰かが語り始めた。だが話は展開せず、栗きんとんとか、Dr.スランプとかいう駄洒落が嬌声にかき消されて終わる。

「それはあなたの勝手な論理だわ」
「ほう」論理と来たか。そうかね、と斯波は両手を広げて見せる。この女はどうも話の進め方が性急だ。
「その、君の言うところの、“こちらの勝手な論理”以外の論理が存在していいとは思わんがね」

まずいな。斯波は思う。会話が離陸を始める。
話がどこに飛んでいくか分からない。自分と相手の発する言葉を捉まえて制御するだけの明晰な頭脳を斯波は持たない。

「それはまあその通りだわ」
うさこの発した言葉はまだその場に留まっている。「論理」とやらに追い付かねばならない。
「でもこっちも商売なのよ」
離陸はしない。なるほど、商売の論理によって客の価値観はないがしろにされるというわけだ。

「うむ、君は正直でよろしい」
どちらかといえば丸顔のふっくらした顔立ちの女に斯波は笑いかける。
「商売の論理はこちらにとって意味がない。そうと分かれば話は簡単だ。場所を変えよう」
「そうはいかないわ。もう少しいてくれないと」

どうして、と口に出さず斯波は相手を見る。言わずもがなのことを始めから説明させる気でしょうかお客様。うさこは斯波を見返す。

「同伴してくれたあなたはわたしにとってなじみの客なの。そのふたりの健全なる関係性にあって、席に着いて5分もしないうちに帰るなんてありえない話よ」分かるでしょ、と首を傾げて隣に座る男の顔を凝視する。

「この国の人間てのはどうにも人が良すぎるんじゃないか」斯波はあきれて見せ、コルドン・ブルーの空いたグラスをうさこに差し出す。それを受け、どこかぎこちない手つきでうさこは酒をつくる。

「ところでどこへ行こうというの」
「温泉を巡ってみたい」
「わあ、最高ね。いいわ。着替えてくるから外で待っていて」
「えっ」
「なにしてんのよ、早くして。こんなところで酒食らってる暇なんかないわ」
「“同伴”じゃなかったのか」
「ふん、使用人搾取の論理なんて真っ平御免の願い下げ、ってか」


こうしてオホナモチ(大穴持=大国主)とスクナビコナ(宿奈毗古那)による温泉発掘の旅が始まった。






髪の毛が長いと許されないなら ♪

October 16 [Sun], 2016, 0:35



ボブ・ディランにノーベル賞というのはそんなに驚くことではないのかも知れない。

歌詞がただあるだけでなく、それを歌うことで初めて音楽という表現として昇華するという考えがあるならば、与えらるべきはノーベル音楽賞でなくてはならないとか、そんな話も出てきそうだが、その選考については担当者が「彼が偉大な詩人ということに尽きる」と言っているらしいのでなにも問題はない。

ボブ・ディランは詩人としてノーベル文学賞に選ばれたのである。

ロック音楽とノーベル賞との毛色の違いから我々がそこに抱くそぐわない感覚はその説明によって解消されるとして、わたしがむしろ「有りかよ」と思うのは一般紙のトップ記事にボブ・ディランなるロック歌手の名と写真が載る奇妙さの方だ。

世のオピニオン・リーダーとしての権威を自任する(その維持のために捏造体質も持ち合わせている)天下の大朝日新聞がなに故に不良少年たちの非生産的所業に過ぎないロックなどというばか騒ぎを為す人物に大事な一面のスペースを差し出すのだろうか。

優秀な彼らの社会分析頭脳の一体どの部分が下品で稚拙な音楽もどきのがらくたなどに関心を寄せるのだろうか。

なあんてことをひねくれ者のわたしは言ってみたくなる。

受賞者は他にいくらでもいるじゃないか。目障りで意味のないそんな名前はどこか隅っこの、そう、誰かの死亡記事の隣にでも置いといてやれ。というのが朝日なるエリート集団の採るべき振り分け基準なのではなかろうか。

朝日新聞みたいなお偉いエリートの方々はゴジラやロックなどに言及してはいけません。品位が下がり、多くの信奉者を落胆させることになる。

いやはや、わたしはひねくれ過ぎである。今どきの若い世代に理解してもらえるもの言いではない。どうしてこうなのか(同じ若者なのに)。

理由はある。
その昔、グループ・サウンズというのが世を席捲していた。PTAが眉をひそめる不良どものエレキ・ギター・バンド達である。人気絶頂の(SMAPよりも!多分)ザ・タイガースはだがしかし、公序良俗に反するという理由で紅白に出してもらえなかった。

ほお、そうですかそうですかNHKさんはそーゆーお考えですかそうですか。それならそれで結構なのだ。それが方針であり哲学ならばはっきり世に示しそうすべきである。だがそれは年月を越えて貫き通されねばならない。

その後NHKのテレビ番組には髪の毛を紫にして逆立てたり、顔に色を塗ったりしながら、まるで世の中の常識に反抗するかのようなポーズを演出するロック・バンドが平気で出演するようになった。

NHK言うところの公序良俗なる概念に照らして、後の時代のパンク・バンドと長い髪のジュリーと一体どっちがそれに反しているだろうか。

公序良俗の意味が変わったのか。それとも世間の規範が移ろったのか。その辺りについて納得のいく説明がない限りNHKとついでにPTAを絶対に許すわけにはいかない。青少年はそう心に誓ったのである。

朝日となんの関係があるのかって?言論や価値観を牛耳っているつもりの守旧的圧力という点でわたしにとっては同じカテゴリーに双方とも属している。

未確認だが、朝日だってグループ・サウンズなどどうせ多分排斥の対象だったに違いないのである。タイガースを認めないような奴がどうしてディランの方は称賛しちゃうんだよ!といったところである。

まあしかし、ビートルズやサイモンとガーファンクルの歌が音楽の教科書に載るようになって久しい今、わたしのこのような頑なな想念はどこにも居場所を得られず化石と化しつつあるわけです。とほほ...。

ところでディランの詩の価値について述べるべきだろうか。正直に言って、どうしてディランの詩がノーベル賞に値するのかわたしにはさっぱり分からない。だってぼく、英語が読めないんだもん。







いると思えば

October 01 [Sat], 2016, 18:35


神さまっているんですか
(小林幸子)



神さまは自分自身の心の中に生まれるんだ
いると思えばいるし、いないと思えばいないんだ
(勝新太郎)
酔いどれ博士(1966大映)より



「神さまはいるの?」
「いると思えばいる。いないと思えばいない」
この往々にして厄介払い用語として活用される表層的な表現はしかし、ときに真の意味を抱いて輝くのである。

      ※         ※         ※

プッタパルティ側※からいんちき呼ばわりされるムッデナハッリ集団※だが、その(いんちきかも知れない)最上層部を除いた少なくとも一般の信徒にあっては、彼ら自身がプッタパルティ側に属していたころとその考えはなにも変わるところはない。

彼らは相変わらず真摯な信仰態度を維持し続けている(はずである)。所属が変わったからといってやることは同じであり、なにが変わるわけでもない。

もちろん、プッタパルティ側にいた頃から信仰足り得ない、祈ったつもりの勘違いをしていたような人はどこに移っても変わらずそれを続けているわけである。

そんな状況においてわたしの思うところを言えば「いわしの頭もなんとやら」である。

仮にムッデナハッリにいるサティア・サイババが実はいんちきな偽ものであったとしよう。だが、その舞台裏を知らず、微細体の神がほんとうにそこにいると信じ込んで祈るなら、その人の想念には正しく神が顕れるに違いない。

「いると思えばいる」のである。

その人の想念がどうあるかにかかっているのであって、信仰の対象が実は神を名乗る詐欺師であろうと、いわしの頭であろうと、神なる想念をそこに抱いて祈るのであれば、顕れるのは神に他ならない。

同じように、では反対に疑い半分の気持ちで祈りの場に身を置くとしたら、そこがどこであろうと疑わしき神がその人の脳裏に顕れるであろう。

また、本物の神がそこにいたのだとしても...いやいや、神などこの世界にいやしない。神なるものが我々に指し示すのはただ真理・実相であり、あるべきは神なる想念なのである。

ここでわたしは神とは自身の想念が創り出すものだと言っているだろうか。いや、そうではない。その想念が正しく神を捉えているかどうかが問われるべきなのである。

この理路は当然のことながらムッデナハッリにだけ当てはまるのではない。プッタパルティにだって神は「いたり」「いなかったり」するのである。それはそこに集う人たちそれぞれの祈りによるし、また、その想念の質次第ということになる。

と、そんなわけで、例によって研究者の書斎から発見された未発表のヴェーダ文献をご紹介しよう。

    ムッデナハッリ・スクタム

ムッデナハッリだろうとプッタパルティだろうとそこに神はいるし、またいない。
正しき信仰の態度がない限り、標榜する神に意味はない。
その想念によって神は顕れもするし、また、顕れるのはまがい物かも知れない。
それはワイド・ショーの扇情的言説に拠らないし、
教団指導者たちの都合ともなんらの関わりはない。
ただ信徒の祈りだけが神である。
それは信徒の脳裏にのみ顕れ得る。
    
そのときこそ大会(だいえ)は真に降臨を目の当たりにする。
作者にあってそれは言わずと知れた
チャーリー曼荼羅の主神、チャーリー・ヤードバード・パーカーに他ならない。
歌って踊れるジャズの神
歌って踊れるジャズの神
皆大いに歓喜して信受し奉行せり。
あーこりゃこりゃ



※正式な名称、また関係性の経緯をよく知らないのですが、便宜的に「プッタパルティ側」、「ムッデナハッリ集団」などと記しています。






三大怪獣 地球最大の決戦

September 18 [Sun], 2016, 21:21
映画「シン・ゴジラ」が評判のようだ。わたしのブックマークするページでも複数の人が言及している。わたしも見たいと思うものの、我が置かれた状況はそれを許さない。仕方がないから似たやつで我慢しておこう。



ラドンとゴジラ。
1964年の作品なので近頃の映画と比べると怪獣の動きなどがおもちゃっぽいが、まあ、見てるうちに慣れてくる。



このシーン辺り、セットとの縮尺比率がちょっとビミョーではないか。
ゴジラは体長50mのはずだが、これだとせいぜい15〜20mにしか見えない。



宇宙から参戦のキングギドラ。
八岐大蛇は技術的にも予算的にも首は3つが精いっぱいだった。



侵略者から地球を守るため、共に戦うようゴジラ、ラドンを説得するモスラ(幼虫)。



「俺たちの知ったことか」
利己的なふるまいを見せた怪獣たちも義侠心に駆られ、ついに宇宙超怪獣に戦いを挑む。



戦況を見つめる東宝スターたちと小美人(ザ・ピーナッツ)。



とうとうキングギドラを打ち負かした正義の三大怪獣。
彼方に逃げていく難敵を見届けながらなにを想う。
七人の侍のラスト・シーンみたい。



ボンド・ガール若林映子のサルノ王女



と思ったら金星人。



「そなたは誰じゃ」
「わたしは日本の警察官、そしてあなたのボディ・ガード」



和製グレゴリー・ペックにオードリー・ヘプバーン。
人間たちのラスト・シーンはローマの休日のシチュエーションを拝借。
若林映子は監督からその指示があって知っていたが、夏木陽介はずっと後になって見返すまでそれに気が付かなかったらしい。

(わたしも分からなかった。って原典を見ていないので分かるわけがない)



空飛ぶ円盤の存在を信じない星由里子の想いは「円盤が現れない」という形で現実化する。
「感情が現象に影響を与える」
不二一元を裏付ける量子論。



大橋巨泉似の宇宙円盤クラブ会長。



ディテールにあっても自社作品の宣伝を忘れない。
西の王将東の大将
われ一粒の麦なれど

以上、「旧ゴジラ」観戦記でした。











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