シヴァの隠遁 出雲編 その4

November 18 [Fri], 2016, 0:43
「なあ、こんな、空虚なること気の抜けたビールの如き空間にいつまでいたって仕方がない。どこか別の・・・」
「あら、ご挨拶ね、そんな言い方ってあるかしら」
うさこは相手の言葉をさえぎり、食って掛かる。それは消費者と対峙して在る酒場世界の常識に疑うことなく帰属する者の態度であった。

「ふん、分からないわけじゃないだろう。こんな・・・」
うさこは斯波を睨みつける。斯波は続ける。
「こんな、建前言語が脈絡なく散らばり飛び交うような場所に一体なんの意味がある」
いささか挑戦的な言い方をしてみた。

離れたテーブルでは、独断的かつ大胆な物言いで得た人気を頼りに大統領の地位まで勝ち取ってしまった男と、その政権の今後について誰かが語り始めた。だが話は展開せず、栗きんとんとか、Dr.スランプとかいう駄洒落が嬌声にかき消されて終わる。

「それはあなたの勝手な論理だわ」
「ほう」論理と来たか。そうかね、と斯波は両手を広げて見せる。この女はどうも話の進め方が性急だ。
「その、君の言うところの、“こちらの勝手な論理”以外の論理が存在していいとは思わんがね」

まずいな。斯波は思う。会話が離陸を始める。
話がどこに飛んでいくか分からない。自分と相手の発する言葉を捉まえて制御するだけの明晰な頭脳を斯波は持たない。

「それはまあその通りだわ」
うさこの発した言葉はまだその場に留まっている。「論理」とやらに追い付かねばならない。
「でもこっちも商売なのよ」
離陸はしない。なるほど、商売の論理によって客の価値観はないがしろにされるというわけだ。

「うむ、君は正直でよろしい」
どちらかといえば丸顔のふっくらした顔立ちの女に斯波は笑いかける。
「商売の論理はこちらにとって意味がない。そうと分かれば話は簡単だ。場所を変えよう」
「そうはいかないわ。もう少しいてくれないと」

どうして、と口に出さず斯波は相手を見る。言わずもがなのことを始めから説明させる気でしょうかお客様。うさこは斯波を見返す。

「同伴してくれたあなたはわたしにとってなじみの客なの。そのふたりの健全なる関係性にあって、席に着いて5分もしないうちに帰るなんてありえない話よ」分かるでしょ、と首を傾げて隣に座る男の顔を凝視する。

「この国の人間てのはどうにも人が良すぎるんじゃないか」斯波はあきれて見せ、コルドン・ブルーの空いたグラスをうさこに差し出す。それを受け、どこかぎこちない手つきでうさこは酒をつくる。

「ところでどこへ行こうというの」
「温泉を巡ってみたい」
「わあ、最高ね。いいわ。着替えてくるから外で待っていて」
「えっ」
「なにしてんのよ、早くして。こんなところで酒食らってる暇なんかないわ」
「“同伴”じゃなかったのか」
「ふん、使用人搾取の論理なんて真っ平御免の願い下げ、ってか」


こうしてオホナモチ(大穴持=大国主)とスクナビコナ(宿奈毗古那)による温泉発掘の旅が始まった。






髪の毛が長いと許されないなら ♪

October 16 [Sun], 2016, 0:35



ボブ・ディランにノーベル賞というのはそんなに驚くことではないのかも知れない。

歌詞がただあるだけでなく、それを歌うことで初めて音楽という表現として昇華するという考えがあるならば、与えらるべきはノーベル音楽賞でなくてはならないとか、そんな話も出てきそうだが、その選考については担当者が「彼が偉大な詩人ということに尽きる」と言っているらしいのでなにも問題はない。

ボブ・ディランは詩人としてノーベル文学賞に選ばれたのである。

ロック音楽とノーベル賞との毛色の違いから我々がそこに抱くそぐわない感覚はその説明によって解消されるとして、わたしがむしろ「有りかよ」と思うのは一般紙のトップ記事にボブ・ディランなるロック歌手の名と写真が載る奇妙さの方だ。

世のオピニオン・リーダーとしての権威を自任する(その維持のために捏造体質も持ち合わせている)天下の大朝日新聞がなに故に不良少年たちの非生産的所業に過ぎないロックなどというばか騒ぎを為す人物に大事な一面のスペースを差し出すのだろうか。

優秀な彼らの社会分析頭脳の一体どの部分が下品で稚拙な音楽もどきのがらくたなどに関心を寄せるのだろうか。

なあんてことをひねくれ者のわたしは言ってみたくなる。

受賞者は他にいくらでもいるじゃないか。目障りで意味のないそんな名前はどこか隅っこの、そう、誰かの死亡記事の隣にでも置いといてやれ。というのが朝日なるエリート集団の採るべき振り分け基準なのではなかろうか。

朝日新聞みたいなお偉いエリートの方々はゴジラやロックなどに言及してはいけません。品位が下がり、多くの信奉者を落胆させることになる。

いやはや、わたしはひねくれ過ぎである。今どきの若い世代に理解してもらえるもの言いではない。どうしてこうなのか(同じ若者なのに)。

理由はある。
その昔、グループ・サウンズというのが世を席捲していた。PTAが眉をひそめる不良どものエレキ・ギター・バンド達である。人気絶頂の(SMAPよりも!多分)ザ・タイガースはだがしかし、公序良俗に反するという理由で紅白に出してもらえなかった。

ほお、そうですかそうですかNHKさんはそーゆーお考えですかそうですか。それならそれで結構なのだ。それが方針であり哲学ならばはっきり世に示しそうすべきである。だがそれは年月を越えて貫き通されねばならない。

その後NHKのテレビ番組には髪の毛を紫にして逆立てたり、顔に色を塗ったりしながら、まるで世の中の常識に反抗するかのようなポーズを演出するロック・バンドが平気で出演するようになった。

NHK言うところの公序良俗なる概念に照らして、後の時代のパンク・バンドと長い髪のジュリーと一体どっちがそれに反しているだろうか。

公序良俗の意味が変わったのか。それとも世間の規範が移ろったのか。その辺りについて納得のいく説明がない限りNHKとついでにPTAを絶対に許すわけにはいかない。青少年はそう心に誓ったのである。

朝日となんの関係があるのかって?言論や価値観を牛耳っているつもりの守旧的圧力という点でわたしにとっては同じカテゴリーに双方とも属している。

未確認だが、朝日だってグループ・サウンズなどどうせ多分排斥の対象だったに違いないのである。タイガースを認めないような奴がどうしてディランの方は称賛しちゃうんだよ!といったところである。

まあしかし、ビートルズやサイモンとガーファンクルの歌が音楽の教科書に載るようになって久しい今、わたしのこのような頑なな想念はどこにも居場所を得られず化石と化しつつあるわけです。とほほ...。

ところでディランの詩の価値について述べるべきだろうか。正直に言って、どうしてディランの詩がノーベル賞に値するのかわたしにはさっぱり分からない。だってぼく、英語が読めないんだもん。







いると思えば

October 01 [Sat], 2016, 18:35


神さまっているんですか
(小林幸子)



神さまは自分自身の心の中に生まれるんだ
いると思えばいるし、いないと思えばいないんだ
(勝新太郎)
酔いどれ博士(1966大映)より



「神さまはいるの?」
「いると思えばいる。いないと思えばいない」
この往々にして厄介払い用語として活用される表層的な表現はしかし、ときに真の意味を抱いて輝くのである。

      ※         ※         ※

プッタパルティ側※からいんちき呼ばわりされるムッデナハッリ集団※だが、その(いんちきかも知れない)最上層部を除いた少なくとも一般の信徒にあっては、彼ら自身がプッタパルティ側に属していたころとその考えはなにも変わるところはない。

彼らは相変わらず真摯な信仰態度を維持し続けている(はずである)。所属が変わったからといってやることは同じであり、なにが変わるわけでもない。

もちろん、プッタパルティ側にいた頃から信仰足り得ない、祈ったつもりの勘違いをしていたような人はどこに移っても変わらずそれを続けているわけである。

そんな状況においてわたしの思うところを言えば「いわしの頭もなんとやら」である。

仮にムッデナハッリにいるサティア・サイババが実はいんちきな偽ものであったとしよう。だが、その舞台裏を知らず、微細体の神がほんとうにそこにいると信じ込んで祈るなら、その人の想念には正しく神が顕れるに違いない。

「いると思えばいる」のである。

その人の想念がどうあるかにかかっているのであって、信仰の対象が実は神を名乗る詐欺師であろうと、いわしの頭であろうと、神なる想念をそこに抱いて祈るのであれば、顕れるのは神に他ならない。

同じように、では反対に疑い半分の気持ちで祈りの場に身を置くとしたら、そこがどこであろうと疑わしき神がその人の脳裏に顕れるであろう。

また、本物の神がそこにいたのだとしても...いやいや、神などこの世界にいやしない。神なるものが我々に指し示すのはただ真理・実相であり、あるべきは神なる想念なのである。

ここでわたしは神とは自身の想念が創り出すものだと言っているだろうか。いや、そうではない。その想念が正しく神を捉えているかどうかが問われるべきなのである。

この理路は当然のことながらムッデナハッリにだけ当てはまるのではない。プッタパルティにだって神は「いたり」「いなかったり」するのである。それはそこに集う人たちそれぞれの祈りによるし、また、その想念の質次第ということになる。

と、そんなわけで、例によって研究者の書斎から発見された未発表のヴェーダ文献をご紹介しよう。

    ムッデナハッリ・スクタム

ムッデナハッリだろうとプッタパルティだろうとそこに神はいるし、またいない。
正しき信仰の態度がない限り、標榜する神に意味はない。
その想念によって神は顕れもするし、また、顕れるのはまがい物かも知れない。
それはワイド・ショーの扇情的言説に拠らないし、
教団指導者たちの都合ともなんらの関わりはない。
ただ信徒の祈りだけが神である。
それは信徒の脳裏にのみ顕れ得る。
    
そのときこそ大会(だいえ)は真に降臨を目の当たりにする。
作者にあってそれは言わずと知れた
チャーリー曼荼羅の主神、チャーリー・ヤードバード・パーカーに他ならない。
歌って踊れるジャズの神
歌って踊れるジャズの神
皆大いに歓喜して信受し奉行せり。
あーこりゃこりゃ



※正式な名称、また関係性の経緯をよく知らないのですが、便宜的に「プッタパルティ側」、「ムッデナハッリ集団」などと記しています。






三大怪獣 地球最大の決戦

September 18 [Sun], 2016, 21:21
映画「シン・ゴジラ」が評判のようだ。わたしのブックマークするページでも複数の人が言及している。わたしも見たいと思うものの、我が置かれた状況はそれを許さない。仕方がないから似たやつで我慢しておこう。



ラドンとゴジラ。
1964年の作品なので近頃の映画と比べると怪獣の動きなどがおもちゃっぽいが、まあ、見てるうちに慣れてくる。



このシーン辺り、セットとの縮尺比率がちょっとビミョーではないか。
ゴジラは体長50mのはずだが、これだとせいぜい15〜20mにしか見えない。



宇宙から参戦のキングギドラ。
八岐大蛇は技術的にも予算的にも首は3つが精いっぱいだった。



侵略者から地球を守るため、共に戦うようゴジラ、ラドンを説得するモスラ(幼虫)。



「俺たちの知ったことか」
利己的なふるまいを見せた怪獣たちも義侠心に駆られ、ついに宇宙超怪獣に戦いを挑む。



戦況を見つめる東宝スターたちと小美人(ザ・ピーナッツ)。



とうとうキングギドラを打ち負かした正義の三大怪獣。
彼方に逃げていく難敵を見届けながらなにを想う。
七人の侍のラスト・シーンみたい。



ボンド・ガール若林映子のサルノ王女



と思ったら金星人。



「そなたは誰じゃ」
「わたしは日本の警察官、そしてあなたのボディ・ガード」



和製グレゴリー・ペックにオードリー・ヘプバーン。
人間たちのラスト・シーンはローマの休日のシチュエーションを拝借。
若林映子は監督からその指示があって知っていたが、夏木陽介はずっと後になって見返すまでそれに気が付かなかったらしい。

(わたしも分からなかった。って原典を見ていないので分かるわけがない)



空飛ぶ円盤の存在を信じない星由里子の想いは「円盤が現れない」という形で現実化する。
「感情が現象に影響を与える」
不二一元を裏付ける量子論。



大橋巨泉似の宇宙円盤クラブ会長。



ディテールにあっても自社作品の宣伝を忘れない。
西の王将東の大将
われ一粒の麦なれど

以上、「旧ゴジラ」観戦記でした。











Atma 転じて Atomic ○○

August 08 [Mon], 2016, 11:08
 皆さんは
 人間として生まれてくることができて、
 本当に幸運です。
 人間としての一生を
 神聖なものにする人々は幸いです。
 人間は、
 肉体意識を放棄して初めて
 アートマ(真我)の原理を
 理解することができます。

(「今日の御言葉」として配信されるサティア・サイババの言説の一部抜粋。2016.8.7の分)

なんと人類を生物の最上位に置こうとするサイババのこの論法にわたしはどうにも納得できないでいる。

サイババによればまた「人類には叡智がある」ということになるが、その持つところの「我執」のために自利と利他のバランスを、その思考の中でうまく量れないでいる人類の、いったいどこをめくったら叡智などというものが出てくるのだろうか。

「人間に生まれて幸運」なんてどう考えてもいやみとしか受け取れない。地球上の他のさまざまな生物と比べて人類を位置づけるなら、その小賢しい判断力を行使し続けたがために、ひとり至福の宇宙胎内からはじき出されようとしている愚かな支配者ということになるだろうか。

 わたしたちは
 人間として生まれてきてしまって、
 本当に大変です。
 (これは幸運なのか不運なのか)
 
 人間としての一生を
 神聖なものにする修行はとても辛いです。
 
 人間は、
 肉体意識を放棄してやっと
 アートマ(不二一元)の原理を
 理解することができますが、
 
 実際にそんな人はわたしの聞く限り
 お釈迦さまと空海以外いません。
 (少なくともさいたまにはひとりもいません)

 対して山川草木犬猫毛虫たちはどうでしょう。
 
 彼らは
 他我の関係性を客観視できません。
 そもそも存在の概念を持ちません。
 肉体意識ももちろんありません。

 故に、
 アートマの原理を理解しています。
 あたりまえに。

宇宙の仕組みに従って発現した個体にわたしたちは過ぎず、宇宙の法則(ブラフマン)に生まれながらに突き抜かれたアートマンとして生きているはずなのである、本来は。

だが、自他の認識を得、我執を心王に育ててしまったわたしたち人類は、不二一元の至福世界におけるただひとりの罹病者となり果て、一方、真理を違えた思考を発現させることのない(つまり脳みそがない)山川草木森羅万象馬羊猿鳥は、依然アートマの至福のうちに生成し続けるというわけなのである。

過分な自他意識によって蓄積されてより久しいこの我執なるものをどうにかしないことには「君たちに明日はない」と神は言う。しかし、神になにを言われようと、かえるくんやみみずくんたちから憐みの視線をどれだけ浴びようと、とんと意に介さず、わたしたちは今この瞬間も無明の銃弾を「明日に向かって撃つ!」のであった。









You say go,T say stop

July 30 [Sat], 2016, 18:00
セスナ機からスーパーなどの宣伝ビラが地上に向けて撒かれる。50年代から60年代にかけて街にそんな光景があったのだった(わたしの記憶にはない。生まれてなかったなどとは言わないが、まあ、たぶん埼玉には来なかったのだろう・涙)。



本日付朝日新聞の記事だが、子供たちが宙に舞うそれを追いかけ、競って拾い集めたという情景が記述されるや、例のポケモンなんとかの騒ぎを連想するわけである。

この空からのビラまきは60年代も後半には急速に件数が減退したが、子供がビラを追いかけて交通事故に遭い、それが大きく報道されたのが要因のひとつとのことだ。

一方のポケモンGOはといえば、そんなことくらいじゃ勢いはとても止みそうにありませんな。

このポケモンGOとやら、やって見ればバーチャルとリアルの混ざった不思議な感覚があるのだろうか、きっと面白かろうが、とはいうものの現代の街なかはそんなポケモン探しなどというのんびりした無防備さを受容してくれるような状況環境にない。

危ないのは車だけじゃない。そしてまた、被害を受ける側とは限らない。いろいろなことで加害者にもなってしまう。今どきの世の中は複雑なのである。

これがしかし、昔の田舎風景の中でのことだったらどうだろうか。原っぱやどぶ川や沼や林の中が遊び場だったころ。でもその時代はデータとか配信とかそういうのはなにもなかったので、やはり神様が登場する。

「なあ君たち。君たちの遊び場のいろんな場所にキャラクター・グッズをたくさん隠しておくから、みんなで探したらどうか」

子供たちは大喜びで探し始める。競って集め、さらに見つけるために行動範囲を広げる。今までの活動半径を越え、遠くまで足を延ばす。時間も忘れ、夢中で探し回る。

子供たちは楽しくて仕方ないが、親は黙っていられない。家になかなか帰って来ず、勉強も手につかなくなった我が子の先行きを憂うのであった。

「神様、余計なことをしてくれよって」

まあ、実際に神様があちこちに隠したキャラクターとは本物のバッタやカマキリやざりがにやかえるやかぶと虫たちであったに過ぎないのだが。




このサザエさんは1953年7月12日新聞掲載作
パラシュートまで降っている上の写真も1953年撮影
わたしは生まれてません(きっぱり)!







大橋巨泉 7.12

July 21 [Thu], 2016, 11:23
わたしにとってスピリチュアルなる単語がジャズ用語に他ならないのと同じく、誰がなんと言おうと大橋巨泉といえばジャズ・コメンテイターなのである。

「野球はヤクルト、司会は巨泉」という標語(←一部、文言を改ざんしております)があるくらい数多の番組を作っては喋りまくっていた大橋巨泉は、わたしにとって「もともとジャズ評論をやっていた人」であった。

だからこそ、あの尊大といわれた態度も気にならなかったし、トップ当選しておきながら半年で議員を辞めてしまっても悪口をわたしは言わなかった。

一緒に仕事をした人の中には「おれがおれが」という性格(だろうか。なにしろ会ったことないもので)を気に入らないという向きも多かったようだが、わたしから見れば親子みたいな年齢差だし、そんなことはなんとも思わない。

むしろその凡庸でない論評の調子に感服するところ大であった。その慧眼はジャズ評論においてまた大きく発揮された。

わたしがジャズ誌「スイング・ジャーナル」を読み始めた頃はすでに新譜レコードの論評執筆者の中に大橋巨泉の名はなかったが、主にラジオでその声を聴くことができた。TBSの夜9時台に20分程度だったが巨泉の名を冠したジャズ番組があった。

いま思ってみれば贅沢な話である。巨泉のMCでジャズの名盤を聴かせてもらう。指定されたスタイルで原稿を棒読みするパーソナリティばかりが目立つ今どきの番組群を見ればなおさらだ(いえ、別に小林克也さんのことを言っているわけではありません。てか、渡辺貞夫マイ・ディア・ライフのナレーターをやっていたこともある小林さんを悪く言うつもりなんかありませんが、巨泉の縦横無尽というか自分勝手過ぎる境地をさらに小林克也も目指すべきではなかろうか・・・余計なお世話・・・)。

クリフォード・ブラウンのジョアドゥ(Jorduですがこの日本語発音だったはず)や発掘されたマイルス・アット・プラザでのキャノンボールとコルトレーンのサックス・バトルについての思い入れたっぷりな解説などは今でもよく覚えている(って、なぜ覚えているかといえばカセットに録音して何度も聴いたからである。ははは)。

中村とうようは巨泉が議員を辞めたとき「ぼくはあのヤローがいいかげんな奴だと知っていたから別に驚かなかった」と言っている。しかし、そんなことを言いながらもジャズ評論の分野では当時、同じ土俵で活躍する巨泉に一目置いていた。

50年代末にジャズ界を席巻したファンキー・ジャズなる用語の定義については、関係者の中にもいろいろな見方があった。ゴスペル起源がどうとかいう油井正一の教科書的な分析に対し、もっと身体感覚的に「うねうねしたリズムに体を揺り動かさずにいられない」というような視点を巨泉は示し、それをとうようさんは「見事にファンキーの本質を言い当てている」と評価した(教材はソニー・ロリンズの54年版ドキシー)。

中村にしろ巨泉にしろ、言うことが普通の人と一味違う。独自の言説はしかし普遍的影響力を持った。

70年代初めにCBSソニーがビリー・ホリディの編集アルバムを出した。そこに油井正一や大和明と共に巨泉も解説文を寄せている。

1939年12月15日録音のザ・マン・アイ・ラヴをご存じだろうか。レスター・ヤングが間奏を受け持つジャズ・ファン周知の有名曲である。大橋巨泉によるその曲目解説を引用したい。

“「私の彼氏 The Man I Love 」  ボクが中学時代に愛聴したSP盤を思い出す。紅顔の少年(?)だったボクはただしびれていたものだが、今聞くとその秘密がよくわかる。この人が歌うと、男をはなすまいという気持ちが ― 例えばサビの「HIM]という言葉の歌い方 ― まだ見ぬうちから燃えているようで、他の人には絶対に出来ない表現になっている。そしてテナー・サックスの間奏。この歌ごころ、この余裕、このフレーズ、そしてこのモダニズム、レスターの最高のソロのひとつだと思う。”

これを読んで感激し、このテイクを何度も聴き、そしてテナー・サックスを手にし、練習を重ね、とうとうわたしはテナー奏者にな・・・れませんでした。とほほ。











永六輔 7.7

July 13 [Wed], 2016, 22:26
放り込まれた労働環境のせいでラジオをいつも聴いていた。おかげで小沢昭一や永六輔に親しみを抱くことになった。

永六輔は放送作家であり、長年ラジオに出て話すことにも慣れていたから、自分の持ちギャグや売り文句に固執してなんとか食っているような、その辺の漫談師顔負けの話術を披露することもあった。そんな面白い話を聞かされたときは、その僥倖に気分が昂ったものだ。

新しい機械についていけない人は往々にしてそれを嫌いだと公言する。永さんも携帯電話を好まなかったようだ。それは端末を扱う人たちのマナーの悪さと共に常々ご本人によって語られた。

そんな永さんがあるとき列車でどこかに出かけることになった。その時のエピソードというかネタというか。

気が重かった。人の多い場所でマナー違反が横行する。永さんは車掌に強く要請する。通話禁止の旨を繰り返し車内放送してくれ。「はい」他でもない永六輔の仰せである。車掌は直立不動で返事をし、踵を返して車掌室に戻るやいつもの文言を読み上げる。

「お客様にお願い申し上げます。車内での携帯電話のご使用は他のお客様のご迷惑と〜」それは何度も執拗に繰り返された。天下の永六輔の機嫌を損ねてはならない。そこには車掌の緊張が滲んでいた。

だが、そんな車掌の気苦労も知らず無情な着信音が鳴る。だって電話をかける方には車内放送は聞こえない。
「もしもし」
その野太い声はあろうことか永さんのすぐ後ろの席から聞こえてきた。永さんは気が短い。よりによって俺のすぐそばで・・・。

話し始めた声の主に向かって
「うるせえ」
思わず声を荒げた。話し声は止まり、少しの間をおいて大柄な中年男が永さんの視界に侵入してくる。
「まずい・・・」その風体は紛う方なき反社会的勢力のそれであった。青くなった。男は鷹揚に声を低める。
「申し訳ない」そう言いながらなんと空いている隣の席にどっかと座り込んだ。永さんは震え上がる。

「いや、申し訳ない」男は繰り返す。手にした端末は通話中のままだ。「いやね、うちの若いもんがね」そこまで言うや端末を耳に当て「ばかやろう」いきなり怒鳴った。周囲にも緊張が走る。永さんは生きた心地がしなかった。

「このがきゃあ、てめえが列車の中なんぞに電話かけてきやがるからお叱りを受けたじゃねえか。どうしてくれるんだ。てめえ、俺の顔に泥を塗るつもりか」電話の向こうの返答に困った様子が伺える。「どう落とし前をつけるんだ、このやろう。いいか。こちらの方に事情をお話しして謝りやがれ」

男は永さんに端末を渡そうとして一旦引っ込め「いいか。これで済んだと思うなよ」と電話の相手に言った。永さんは自分が言われている気がした。

「とまあ、そういうことで」改めて永さんに向かって男は言う。「うちの若いもんがお詫びしたいと言ってます。どうか、話を聞いてやっていただけませんか」永さんの声は震えている。「いいえ、結構です。お詫びだなんて」

「なんだと」
怒号が響く。永さんは飛び上がった。「おい、うちの若いもんはなあ、まじめに仕事をやってるんだ。一生懸命で不器用なそいつがしでかした不始末をお詫びしたいと今、電話の向こうで言ってるんじゃねえか。それを受けられねえたあ一体どういう了見だ」

「は、はい、すみません。分かりました。それじゃあ」仕方がない。永さんは受け取った端末を耳に当てる。
「もしもし」

間の悪いことにその時ちょうど車内の見回りに車掌が出てくるのだった。携帯端末を耳に当てた永六輔を視界に捉えた彼は目を丸くする。「なんと」彼はその場から逃げ出すように自分の城(車掌室)に戻った。

ばたんと扉を閉める音が響くと、一呼吸おいて車内放送が流れる。「お客様にお願い申し上げます。車内での携帯電話のご使用は〜」

このほんとのことかどうか分からない話を永六輔さんご自身がラジオで披露していた。わたしはアウディ RS 5 ガブリオーレの運転席(←うそ)でそれを聞いた。





ぼくはみみずくん その12 新しいもうひとつの宇宙、そしてエピローグ

July 06 [Wed], 2016, 20:20
ふっと想う。ひょっとしたら...。この宇宙の外から思惑を持った何者かがやって来て、人類の心王に我執の種を植え付ける。それは悠久の年月と共に大きく育ち、軋轢ののちに摂理の崩壊を呼んだ。

そう見えたそれは、だが実は、この宇宙の唯一無二の法則に馴染む者にとって想像もつかない未知の、まったく新しい法則への転換に関わる(暗証番号付きの)鍵だったのではあるまいか。

それはもうひとつの宇宙のこちらに対する侵略と言えるのかも知れない。そして、そうだったとしても、それすらもまた神のシナリオのうちにある。


かえるくんも無傷ではなかったようだ。あからさまに顔を歪めることはなかったが、苦しそうなのはよく分かった。

かえるくんは額に脂汗をかきながらケロッと鳴く。かえるくんのそれは勝利宣言だった。大地の内部の方向性を歪めたエネルギーのぶつかり合いは、神通力ともいえるかえるくんの意思により新たな秩序を得たようだった。

勝ち誇る様子もなくかえるくんは踵を返して去っていった。

東京はこのようにして救われた。地表では何事もなかったかのように(実際のところ何事も起こらなかったのだが)、精神性なき経済活動の渦に取り込まれた人々が、相も変わらず不毛な生産と歪んだ消費に勤しんでいた。

その様子を観察するシニカルな名無し猫の眼差しも知らず。



※このみみずくんとかえるくんの偉大なる対峙の顛末については、小説家・村上春樹のレポート(多分に主観的な)に詳しい。






ぼくはみみずくん その11 かえるくんはどこから来たか

July 05 [Tue], 2016, 21:23
突然、かえるくんがにやりと笑う。「それは神の方法ではない」
「なんだって」
「シヴァ(作者注:ヒンドゥ世界における三大神のうちの一柱。創造・維持・破壊によって成り立つ宇宙観のうち破壊を担う)はもういない」
「かえるくん、君は・・・」

かえるくんは人類の利益を代表していたのではなかったのか。違うのか。いや、そんなことはない。どう考えても彼の言い分は人間社会の合理性に基づいている。

「シヴァがいないってどういうことなんだ」
「排除なんてしない。破壊する必要なんてない」
かえるくんは我々の前に立ちはだかった。我々は凍りついた。大地は鼓動を止めたかのようだ。

個我同士のせめぎ合い。その壮大な折り合いの力学から生まれる関係性。人類社会は「我執にまみれた人類のかつてなかった都合」に過ぎない。その本来ならあるはずのない理路に立脚したかえるくんの主張だったはずだ。

人類の我執に彩られて帰着し具体化したこの現代人間社会と、その人類の個我さえなければ寸分の混じりけもなく展開されたはずの至福の大自然世界。その大きな乖離が軋みとなってシヴァの破壊が今、起ころうとしている。

あくまでもその筋道にあっての「そこをなんとか」というかえるくんの人類を代表した哀願だったのではないのか。そうではなかったというのか。

では、この度のかえるくんの行動を裏付ける理路とは実はどんなものなのか。彼の哲学の地平とはいったいどのようなところにあるのか。

もはや我々には分からない。大地もそれを理解し得ない。
もし、我々のあずかり知らない、まったく新しい哲学をかえるくんが提示するなら、今ここにある大地も我々も今までになかった法則の下で働き始めなければならない。

あるひとつの法則を盛り込まれて誕生した宇宙はその生成の働きを一旦すべてやめて、新たな法則を一から受け入れることになる。そんなことが可能だろうか。法則に基づいて生成し続けてきた森羅万象が全く別の法則にそのまま組み込まれる。どうやって。

わたしだったらどうだろう。我が身に照らして考えてみる。そんなことができるだろうか。思いもよらないことだった。しかし、かえるくんはそれを示唆している。本当だろうか。






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