山田あかねの一喜一憂日記

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(記事数:6)

ツイッター記念日

2011年05月06日(金) 03:08
…と、特に、ツイッター記念日なんてないんですが、有名な例の短歌にかけて書いてみただけです。

この味がいいねと君がいうから…ってやつ。

なんの話かと言えば、ツイッターで広がった縁について、考えていたわけです。

やり始めて1年くらいたちましたが、ツイッターを通じて知りあったひとが、結構います。

ツイッターでのひとことになんとなく、返事をしたことでつながり、歌人の枡野浩一さんには、自分の映画を見に来てもらったり、映画祭に応援に来てもらったり、映画「ブルーバレンタイン」の上映会に呼んでもらったり。

その上映会では、ツイッターで見つけたイベント「やりわんグランプリ」の出場者、ドルショック竹下さんや、大泉りかさんと知り合えて、女子会トークに呼んでもらったり。

かと思えば、@akame712くんとは、ハンドルネームが似ているから縁を感じてなんとなく、ツイートしあううちに、ブログも読みに行くようになり、ボランティアに一緒に行くようになったり。

他にも、昔、代官山の公園で深夜の犬散歩仲間だった人と犬と再会したり。

他にも映画関係では、遠くニューヨーク在住の映画ライターやサンタフェ在住のプロデューサー、自主映画の監督などとも、オフ会で会ったり。そこでまた縁が広がったり。

復興書店に参加することになったのも、島田雅彦さんをフォローしてたからだし。

すごいいろいろつながって、広がってます。

比較的引きこもり傾向にある自分なので、こういうつながりは大切。もし、こういうツールがなかったら、どんどん孤立してしまったかもしれない。

個人主義が発達して、血縁地縁がうすくなり、無縁社会と呼ばれるようになったけど、ボランティアが発達して、見ず知らずのひとを助けるシステムが生まれたりした。

このように、実生活のつながりが減った分、ネットを通じた縁がひろがったいくんだなーと思う。

あちら立たせればこちらが立たず…というか、ひとつがしおれたら、他が咲くみたいな感じかな。

人見知りの自分にとっては、ツイッター、ブログ、メール、という直接会わなくてもつながりが持てるツールは本当に有難い。今の時代に生きててよかったと思うもの。

もっと、実コミュニケーションが重大だったら、すぐ脱落したかもしれないなー。

話は脱線するけど、自分はテレビの仕事をするようになってから、すごくたくさんお酒を飲むようになりました。弱いのに。

今、思うにあれは、苦手なコミュニケーションをたくさんしないといけないことへのプレッシャーで、それを紛らわすために飲んでいたような気がする。

実コミュニケーションが減ったらね、もう、アルコールの力がいらなくなって、全然飲まなくなりました。今ではほとんど一滴も飲まない。必要ない感じ。

最近の若者もお酒を飲まないと言うけど、案外、これって、人間関係のストレスと関係あるんじゃないかなー。

アルコールで紛らわさないとやってけないコミュニケーションってあったのかもしれないなー。

それほど、コミュニケーションって、ひとにストレスを与えるものだから。

それを和らげるものとして、お酒などがあったのじゃないかしら。

(いや、もちろん、アルコールの効用はそれだけじゃないですよ。知ってます。シャンパンとかマッコリとか美味しいし)

けどね。

…ツイッターで得た縁の話から広がりました。

明日から通常営業で、仕事です。

週末から、ハリウッドだぜ。

ネット社会の怖さ…はだかの毎日

2010年09月04日(土) 03:00
カンニングしたことをツイッターで告白した学生のことが話題になっている。

これはこれで、由々しき問題ではあるけれども、本人は、友達にしゃべった程度、メールに書いた程度のつもりだったんじゃないかと思う。ちょっと考えれば、ツイッターは公の場所ってわかるはずだけど、普段から接して、ツイッターが日常になっていると、そこらへんの緊張感は薄れるのかもしれない。

おそろしいことじゃ。

で、まあ、カンニング問題はともかく。

最近、つらつら思うに、今に、「ツイート」分析などができるだろうと。あるいは、「ブログ」分析でもいい。

(すでにあるかもしれませんが…)

たとえば、ある特定のひとの全つぶやきを分析するソフトが現れる。

このソフトにかかれば、このひとのつぶやきで一番多いワードは、「疲れた」です、なんてことがわかってしまうかもしれない。

あるいは、全ツイートを分析の結果、

「疲れた」「眠い」「もういやだ」など、ネガティブなワードが多い。

真夜中に主につぶやく。

他人のツイートにけんかをふっかける傾向がある。

アイコンがかわいい女子ばかりフォローする。

誤字脱字が多い。

下ネタが多い。

…なんてことが、瞬時に分析されてしまうかもしれない。

そうすると、たとえば、就職の時などに、採用する会社はその学生の全ツイートを分析して、「すぐに会社をやめそうなやつ」かどうか、「恋多きやつ」かどうか、「お金使いが荒い」かどうか、「けんかっぱやいかどうか」などを知ることができるだろう。

ギャンブル好きかどうか、遅刻しやすいのか、などもわかってしまう。

そんなつぶやきだけで、本人の何がわかるのか…という見方もあるけど、案外、全つぶやきを分析したら、そのひと像がざっくりつかめるかもしれないなー。

好きなひとができたら、そのひとの全つぶやきを分析してみたい…と思うのは自然だろう。

たとえば、自分はアマゾンでよく本を買いますが、私好みの本の傾向はすっかり分析されていて、「おすすめ本」の案内が来るわけだけど、結構、ヒットすることが多く、勧められたものを買っている。

このほか、最近だと、家電やキッチン用品もアマゾンで買っているので、自分の生活傾向の何割かをアマゾンに知られているのだ。

今後ますます、ネットとのつながりが強くなると、少なくとも、「わたし」という存在の好むもの、発言、などはネット上では再現可能になるかもしれない。私がいなくなっても、それまでの私の資料の蓄積によって、「わたし」を存在させることもできるかもしれない。

たとえば、誰かが、「わたし」になりすましたとしても、それが「わたし」であることを証明するのが、クレジットカードの番号だったり、ネットにつながる際のパスワードだったりすると、「わたし」の情報を持っているひとが「わたし」ってことになりうる。

架空の他人になりすますことも可能になってくるわけだ。自分の頭の中身のほとんどがネット上に存在するとしたら、「わたし」はネットのなかでは、永遠に生きることができる。それまでのデータを分析して、未来に発言しそうなことを発言していけばいいのだから。

まあ、そこまで、考えるとSFめくけど、「ツイート」分析くらいは、すぐにでも実現する、リアリティのあることだろう。

自分の頭の中身を公にしているってことだ。

が。

小説を書く…なんてことは、自分の頭の中身を披露することであるから、いまさら、なにもうろたえたり、恥ずかしいと思ったりもしませんけれどもね。

すでにバレバレですし。

いやしかし、小説などの場合、世に出るまでに、何度も点検するから、自分が許す自分だけが外に出て行っているわけだけど、ツイッターやブログには、それほどの検閲もしていないので、「思わず、自分が出ちゃう」ってこともあるかもしれない。

とはいえ、このネット社会では、誰もが「バレバレ」の環境のなかで暮らしているので、『自分だけ』守ろうとしても、しょうがないかもしれないけどね。

国民みんなが裸の国なら、裸であることは、恥ずかしいことじゃなくなる…?みたいな…?

保守化するツイッター

2010年07月31日(土) 02:57
ツイッターをやっていると、これまで決して知りあうことのなかったひとの言葉を読むことになる。

考えてみると、自分のいる世界はとても狭い。テレビの世界、出版の世界、映画の世界と、いわゆるマスコミの世界が中心だし、友人のほとんどが同じ業界のひとだ。

自分は血縁関係の人たちとほとんど接触しないので、自分の世界というのは、ある意味、自分と似たようなひとたちばかりが生息している場所なのだった。

どういう人かと言えば、社会がどうなっていくか、とか、今はどんな時代なんだろう、とか、基本的に社会、歴史、文化に興味があり、映画や本やテレビや音楽やいわゆる芸術に強い関心を持つひとたちである。

そこでは、ある程度の共通認識がある。共有している情報というか常識みたいなものがある。というかあった。

けど、ツイッターの世界はまったく別だ。共通点がほとんどないひと。生活習慣にしろ、考え方にしろ、全然重ならない場合もある。なので、それらに接していくのはとても新鮮だ。時に非常に驚く。

自分は、21世紀を生きているつもりだったけど、自分が思うほど、世界は成熟していないのかな、と思う。案外、保守的なひとが多いのだ。もしかして、それこそが日本の縮図であって、自分が日頃接しているひとたちのほうが、少数派なんじゃないか…と今更思う。

あーなんか、まどろっこしい言い方かな?

けれども、そういう意味でもツイッターって有効だよなあ。そんな風に実際のひとのつぶやきを聞く機会なんてそんなにないもの。

取材のとき、いろんな人に会うし、いろんな話を聞くけれど、たいていテーマがあっての取材だから、ツイッターみたいにランダムにいろんな話を読むことってない。勉強になる…とも言えるけど、時に呆然とする。

なんにも変わってないじゃないか……とかね。

この世は実はとても保守的なひとたちによって、構成されているんだって、知りたくなかったことを時々、思い知らされます。がっくし来る。

自分は、そうじゃない面ばかり見ようとしてきたのかも知れないな。理想ばかり追いかけて。実際はさ、ちがうのに。

そんなことをツイッターのタイムラインを見ながら思いましたとさ。

ア、デモ、すっごい共感出来る人にも出会えたことも確かだから、それもツイッターのいいところなんだけどね。が、案外、ツイッター上で知りあい、共感するひとって結局、同じ業界だったり、近い業界だったりするから、それはそれなんですが…笑。

ネットのお作法

2010年05月03日(月) 03:36
今日の朝日新聞に載っていた、タラ・ハントさんのインタビューを読みました。

タラさんは、「ツイッターノミクス」(文藝春秋)の著者である、カナダ生まれの女性。(73年生)

正直、この人のこと、知りませんでした、今日まで。ざっくり経歴を書きますと…

92年、20歳で妊娠し、途方にくれ、若い母親の集まるコミュニティがネット上にあると聞いて、それに参加。それがきっかけで、03年にブログを始め、05年に顔認識機能をつけた写真の共有サイト立ち上げて有名になる。

その後、アメリカでオンラインマーケッティングのコンサルティング会社を立ち上げて、人気を集め、今では、講演や執筆依頼殺到の方だそうです。(以上は、朝日新聞の記事から、ばっすいしていただきました)。

インタビューの内容が面白かったんですけど、なかで、一番、興味をひいたところについて、書きます。

タラさんは、ネット上のビジネスには、いくつかの鍵があると言ってます。以下、そのまま、引用します。

1)コメントをもらったら、それが否定的であっても、必ず返事をする。

2)批判を個人攻撃と受け止めない

3)有益な指摘やアイデアへの感謝は公に。

4)フィードバックを待たず、自分から探す

5)あら探しをするひとは、必ずいると覚悟する

これを読んで、一番、最初に思ったことは、彼女も、ネット上の「否定的なコメント」にかなり苦労してきたんだな…ってことでした。

ネット上のビジネスの鍵…と書いてあったから、もっと、前向きな提案があるのかなと思っていたら、5つのうち、3つが、否定的なコメント(あるいは、ひと)に対する対処法とは、意外でした。

ということは、否定的なコメントにどう対処していくか…ってことが、ネット上では重要になってくるってことでしょう。

確かに、ネットの上では、言動が過激になりやすい。面と向かって話したら言わないはずの言葉を書いてくる可能性は高い。それへの対処法って、なかなか難しい。一番、無難なのは、無視することだと思っていましたが、タラさんは、「否定的であっても必ず、返事をする」と答えていて、驚いたのです。

そうなのか、自分も今後、考えを変えていかないといけないのかな…と思っていた矢先、偶然、ツイッター上で、ものすごい数の読者を抱えるブロガーと会話することになり、タラさんの話をぶつけてみました。

すると、彼からの答えは、「それは企業の場合でしょう。個人の場合は、華麗にスルーしたほうがいい」と。

そうだよなあ、やっぱり。

彼に言わせると、ネガティブなものは、どんどんネガティブなものを引き寄せていくから、避けたほうがいい…とのこと。まったくであります。

と考える一方で、スルーせず、真っ向から、答えていく方もいます。

正々堂々とやってらっしゃるので、名前を書きますが、歌人の枡野浩一さん。ご自身が、違和感を覚えたものについては、正面から、批判の文章を書いている。ただ、枡野さんは、文章に品があるというか、非常に、冷静で、説得力があるので、ネガティブな印象はない。礼を尽くした文章だと思う。

さきほどの、人気ブロガーの彼も、「否定的であっても、礼儀を尽くしたものなら、答える」と言っていたので、ようは、「否定的」であるかどうかよりも、礼儀が尽くされているか、って部分かもしれません。

初対面のひとに、「おう。おまえ!」とは呼びかけないように、ネット上でも、気遣いがあったらいいなと思いました。

そして、一方で、「あら探しをするひとは必ずいる」ってことと、人気ブロガーの彼も、ネガティブ書き込みについては、参っている風だったので、これは、ブログなどをやっている以上、避けて通れない問題なんだなとあらためて、認識しました。

けど、まだ、ちょっと迷っているのは、「否定的なコメントにも返事をする」って部分。人気ブロガーさんは、「それは企業の場合」と言ったけれど、自分は、ひとり株式会社というか、ひとり企業のようなもの。

自分で作った小説や映画という商品を売っている、個人経営者…とも言える。そうだとしたら、その個人事業の運営のなかでは、否定的なコメントにも返事をしていかないといけないのだろうか…とも考えたりして。

実際、歌人である、枡野さんは、そうされているようだし。

が。

実際問題として、自分は、そこまで精神力が強くないので、やっぱり無理だなと思う次第です。非常に傷ついてしまって、なかなか立ち直れないので。これまでの経験でよくわかっている。なにかを発表することは、批判される可能性のある場所に立つことだから、もっと強くないといけないことはわかっているけど、けど、自分で制御できないような弱さがあるので、すみません。

とはいえ、礼を尽くされたら、やっぱり違うかもしれませんでした。

やや混乱しました。

あ、こんなこと書くと、年中批判されているみたいだけど、そんなことないです…笑。例えば、ネット上で、自分の小説や映画の感想を読むんですが、「やばそう」な時は、読まずに閉じてます。怖いので…笑。


ツイッターとは肥大した自画像では…。

2010年05月02日(日) 01:30
「ツイッターは、自分で選べる世間だ!」って1月29日の日記に書いて、数日前には、それをツイッターにも載せた。

ざっくり、復習すると、ツイッターでは、読みたい相手を決めることを、「フォローする」という。Aさんの発言(つぶやき)を読みたい場合は、Aさんをフォローする。こうして、何人でも、好きな相手をフォローすることができる。

フォローする相手の発言が次々流れてくると、「あー今、これ、流行ってるんだ」とか「その映画見たいな」とかって感想を持つ。マスコミが流した(ものもあるけど)ものではなく、いわゆる生の情報が次々流れてくる。

だから、漠然と「あー今、世の中はこんな風になっているんだ」と考えるようになる。なので、それを自分で選んだ世間だ!…と言った。

さて。ここからが本題。

さっき、タイムライン(=いろんなひとの発言が、次々アップされていくところ)を見ていたら、「ツイッターだけみていると、日本映画の未来は明るいように思えてきた」という一文があった。しかし、続けて、「それは自分で選んだ世間だから、安心するのは早い」と結ばれていた。(文章の詳細はちがうけど、主旨はそんな感じ)

そう、そう、そうなんだよなあ。

ツイッターで流れてくる情報を見ていると、世の中がわかったような気持ちになってくる。…少なくとも自分は。

多くのひとが、観光地に出かけた写真をアップしているから、「連休」を実感する。渋滞についてつぶやくひともいるから、「相変わらず、渋滞しているんだな」と確認する。

が、しかし。

それらは、あくまで、自分が「選んだ」ひと(=フォローしているひと)からの情報であって、すでにそこに、バイアスがかかっている。なので、そこで、話題になっているからって、実世界でもそうではない。

(連休や渋滞は、まあ、事実ですが)

例えば、木曜日に、2本の連続ドラマが放送されている。「同窓会」と「素直になれなくて」。放送当日、自分のフォローしているひとで、「同窓会」について、触れているひとはほとんどいなかった。一方、「素直〜」については、放送前、放送中、放送後も、このドラマについて、書き込んでいるひとが、結構いた。

これだけを情報源にしたら、あきらかに、「素直〜」のほうが、流行っている…ことになる。そういう印象を持つ。

ところが。

翌日、視聴率を見ると、「同窓会」は、15.4%で、「素直〜」は、10.8%だった。たくさんのひとが見ていたのは、「同窓会」だったのだ。

自分がフォローしているひとたちと、テレビドラマの視聴者層はずれている、とか、「素直〜」は、ツイッターが出てくるドラマだから、ツイッター上で、話題になるのは当然だから、その分をさし引いて考えないといけない…など、いろいろ分析はできるけれど、それはすべて、あとの祭りだ。

テレビドラマの場合、視聴率というわかりやすい指標があるけれど、ほとんどの出来事には、そんな指標はない。だから、ツイッターで何度も話題になっていることが、世の中の重大ニュースかと、誤解してはいけないな、とちょっと思った。それは、自分の知りたい世界での動向に過ぎないってこと。

いえ、大した発見でも、なんでもなく、そんな風に思っただけです。

例えば、これから先、日本映画の制作環境はどうなっていくのか、監督の著作権問題はどうなるのか、などは、自分にとっては関心のあるテーマである。実際、フォローしているひとに、映画関係者が多いので、必然的にその話題が多くなる。そこだけ見ていると、日本中のひとが(…とまでは思わないにしろ)、たくさんのひとが、日本映画の未来について考えているような気になってくる。

けど。

それは、ごくごく一部のことなのだ。その間で話題になっている映画が、それでは、ヒットしているのかというとそうでもなかったりする。もちろん、メジャーな指標がほしくて、ツイッターをやっているわけじゃないので、それはそれでいいんだけど、「自分が選んだ世界」だから、実は、限りなく自分に似たもの、自己の反復になっているかもしれないってことに気づいたのだ。ふくらんだ自己…とでも呼ぼうかしら。

少なくとも自分は、「うー、このひとのつぶやき、いやだなあ」と思ったら、フォローしないもの。嫌いなひとをわざわざフォローするほど、暇じゃないし、心の余裕もない。

なので、ツイッターは、案外、肥大した自画像ではないか…と思った。あ、これ、否定的な意味ではないつもり。だって、フォローする相手の数って、限界があるもの。ある程度以上になると、読み切れないし。読み切る必要はなく、流れていくのをたまに見るだけでいいとも言うけど、そうだとしたら、そこから得るものってなんだろう。

(いや、必ずしも「得る」ものがないといけない…と言っているのではない)。

ツイッターは新しいメディアで、フラットでフローだ…とよく言われているので、そのようだと思いつつも、どうも、自我の拡大装置に思えなくないなーと思った次第。


twitterとは世間である。

2010年01月29日(金) 22:24
twitterを始めて、2週間くらいたつ。

そんなにはまっているわけでもないけど、時間があるとつい見てしまう。週刊「ダイヤモンド」で特集が組まれたり、NHKでもやっていた。関連本も売れているらしい。にわかにブームっぽい。で、いったい、これってなんだろうなーと漠然と考えた。

基本的には、世界中のひとのつぶやきをオンタイムで聞くことのできるツール(メディア?)だと思うけど、実際は、そんなの無理だ。時間的にも語学的にも…。つぶやきは永遠だから、そればっかり見てたら、それで一日終わっちゃう。で、どうするかというと、結局、自分の興味ある有名人と、自分の知り合いくらいが、メインの「つぶやき」相手になる。

これを何名くらいに設定するか、どれくらいの頻度で見るかというのはひとそれぞれだろう。でね、これって、自分の選んだ「世間」ってことではないかと思った。ツイッターでつぶやかれていると、その本をアマゾンに注文しちゃったり、ケーキやさんなら、次に行こうって思ったり。そこそこ影響されている。それはツイッターのなかでも、自分の限定したひとからの情報発信であるから、なんでもかんでも受け入れているわけではない。自分の場合は、そのほか、「よく知らないけど、なんか、普通のひと」もフォローしている。そういう人の暮らしぶりに興味あるし…。

で、ひとりのひとがフォローする人数って、かつて、ひとが共有していた「世間」のサイズに結局落ち着いていくんじゃないか…と思った次第。つまり、ネット上の自分で選んだ「世間」。

マスメディアが、これほどに大きくなる前は、自分の周囲のひとの情報や倫理観に従って、生きていたんだと思う。自分まわりの常識に照らして、いろんなことを決めたり、選んだりしていたと思う。ところが、ここ数十年で、「世間」というものが消失して(まだ、していない地域に暮らしているひともいるかと思うけど、自分にとっては、消失している。せいぜい、「業界」くらいの感覚しかないけど、それはほとんど実体がない)、物事を決める基準があいまいになった。なくなったとも言える。

なので、ひとつのものが流行ると爆発的に流行ってしまったりもするし、善悪の基準もあいまいになり、わけのわからない犯罪も起こってしまったりする。自由になってよかった分もあるけど、基準を失って、さまようひとも増えてしまった。

だから、飲み水を求めるように、基準求めて、自分の聞きたい声を聞きにいくのではないか。それって、自分で選んだ世間じゃないか。ブログとかhpとかだと、長いし、そうそう読んでられないけど、つぶやきなら聞ける。あーあのひとは、海外に仕事行ってるのね、とか、あそこのプリンはうまそうだとか、シネカノンがつぶれたことについて、みんなはどういう態度だろうとか、じゃ、サリンジャーについてはどうよ?とか、次々と「自分の作った世間」の声を聞くことができる。

で、それらの声に触れながら、なんとなく、心のなかの基準が創造される。時に軌道修正することもあるし、やっぱり、自分、間違ってないよね、と思ったりもする。そういう機能を持つ世間…少なくとも、自分は随分前になくしてしまった。(自分から選んだんだけどね)。

自分はフリーランスだし、テレビの世界、小説の世界、映画の世界、犬の世界と、細かく分段された世界で生きており、普通の会社員のひとより、さらに、「世間」がない。ほとんど、まったく、自由で孤独。誰にも怒られないけど、誰からもいつでもすぐ忘れられる。それって、いいけど、時に怖い。

そういう時にさ、「落ちてます」とつぶやくとすぐに返答がくる場所が、やっぱり必要なんだと思う。昔だったら(「昔」っていつ?そんなあいまいな言葉使うなよ…と言われたら、そうだな、バブル前くらいまで…としておこう…)、気落ちして、道端でうずくまっていたら、近所のおばちゃんが、「どうしたの?お腹痛いの?」と声をかけてくれたり、通りすがりの猫をさわることで、ほっとしたりできたような気がする。(あくまで、想像)。

なんか、そういう路地みたいな世間が、ネット上に生まれているような気がする。時々いって、ちょっとしゃべって、また、逃げたりして。でも、そこでは最低限のルールがあって、あまりの暴言はゆるされないし、なんか、そんなこと。

そういうことを、考えました。ひとは結局、世間を欲しているのではないか。人間は集団でいきる生き物だから。ひとの気配と言葉と気持ちのなかで生きるものなのだ。

じゃ、芸術はどうよ?というのは、また、別の話。

あ…柳楽くんのインタビューがアップされているので、ぜひ。

柳楽優弥インタビュー
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