山田あかねの一喜一憂日記

小説
(記事数:77)

小説「オトナの片思い」増刷!

2013年05月21日(火) 12:28
久しぶりに(?)朗報。

前に角川春樹事務所から出した短編集「オトナの片思い」がまた、増刷された。




「増刷」

いつ聞いても嬉しい響きだ。

これは、石田衣良さんとか角田光代さんとかの著名作家も書いていらっしゃるので、その恩恵もある。

元の企画は担当の編集者(女性)と飲んでいる時に生まれたモノだ。

「大人になってからする、片思いはつらい…」みたいな話から。

自分は正直、「片思い」が苦手であった。

片思いでずっといる。静かに見守る…みたないことができない。

なんとかして両思いにもちこむか、ダメならさっさと諦める…。そういう風にやってきた。

日頃のだらだらぶりからは想定されにくいかもしれないが、じっとしていることができない。

だから、「マジソン郡の橋」(古すぎ?)みたいな、秘めた思いを抱いたまま死に、遺骨を蒔いてくれ…みたいなことに共感できない。

…なことしてるぐらいなら、家族を捨てて会いに行けばいいじゃないか…と思ってしまう。

思いを秘められない。面倒くさい。結果がほしい。ダメなら忘れる。

が。

だんだん年をとってきたら、片思いのままでいる…こともアリなんだ、とやっとわかった。

まず、コトを起こすには体力がいる。いろんなトラブルを乗り越える気力も財力も必要だったりする。

あと、たぶん、ひとさまに迷惑をかけ、傷つけることも多かろう。

ならば、そのような欲は胸に秘め、日常を乗り切っていく…というのもありかもしれない。

…そんな境地にたどり着いたのは、でも、数年前ですが…。

というわけで、自分なりの片思いを描いた小説です。

他の作家の方たちもそれぞれの「片思いのかたち」を書いていて面白いです。

自分のは、割と評判よくで、ラジオドラマになったりもした。
(作品、聞いてないけど…)

というわけで、新緑の季節にいかがでしょう。

小説「ミレニアム1,2,3」

2012年09月07日(金) 23:51
映画「ドラゴン・タトゥーの女」の原作であるところの、「ミレニアム」1,2,3を通して読んでました。

原作はスウェーデンの小説です。

さっき、テレビで「世界の女性」をテーマにしたバラエティ番組を偶然見て、それによれば、スウェーデンは、世界有数の「女性が生きやすい国」であることが紹介されてました。

シングルマザーでも子育てしやすいとか、結婚しても家事は夫と分担するのが当たり前だし、育児休暇は3年間とれるし、給与の70%も保証される。

今、話題になっているベビーカーだって、パパ(男性)が押してるのが当たり前。ベビーカー=女性、ってわけではない。

そんな女性が生きるのに理想的な国で、この「ミレニアム」という小説が生まれた…ということが不思議でした。

ミレニアムの主人公は、ジャーナリストのミカエル(男)と天才ハッカーでいろいろ困難に巻き込まれるリスベット(女)のふたり。

この二人が大富豪一族の少女行方不明事件や元ソ連のスパイの事件やらを解決していくわけですが、その根底にあるのは、女性差別やドメスティックバイオレンスやレイプなどへの強烈な批判。

事件解決の手助けをするのも、常に女性。警察でも公安でもマスコミでも大企業でも、必ず、「優秀で魅力的な女性」がいて、この女性の活躍と手助けによって、ミカエルもリスベットも救われるわけです。

だいたい、ふたりの主人公、ミカエルとリスベットを比べても、圧倒的にリスベットが魅力的に描かれている。リスベットのファンのが多いだろうと思う。

作者はこの作品を書き上げたあと、急死したスティーグ・ラーセンという男性です。

ちょっと不思議。これだけ女性が活躍しているスウェーデンなのに、それでもまだ足りない、というか、こんなに悪いやつがいるんだ、って感じで、告発するようなお話だから。

この作者が日本の現状をしったら、憤死してたんだじゃないかしら。

日本なんて、ベビーカーで電車乗ったら、白い目で見られる国でございますよ。

先日、子育て経験のあるキャリア女性とこの「ベビーカー問題」について話したら、彼女も子育てママだったのに、「最近の母親はマナーがなってない」と怒っていた。

え?

とてもびっくりした。彼女は、男性社会で認められるために頑張ってきて、いわゆる「名誉男性」になっている。男性と同じ目線で、ものをみて、批判していかないと仲間扱いされないから。だから、一緒になって、
「ベビーカー、邪魔!」という。

こんな国だよ、日本は。

「ミレニアム」はすぐれたミステリー小説だけど、根っこに女性差別というテーマがあることに言及する日本の批評家はいないよね。解説にもひとことも出てこない。まるで、そんな視点はないかのように。

これが日本だよね−、と思ったのでちょっと書いておきました。

小説「ミレニアム1」

2012年08月28日(火) 10:58
今更ですが、「ミレニアム」を読んでおります。

すでにハリウッド版もスウェーデン版も映画を見てしまっているので、ストーリーも犯人もわかっているというのに、読み出したらはまってしまう作品です。

さすが、世界的ベストセラー。

映画を見て原作を読みたかった部分もありますが、正直、世界的ベストセラーになる理由を知りたかったというのもあります。

最近の日本のミステリー分野では、犯人捜しやトリックではなく、最初から犯人がわかっていてその理由を延々説明するタイプのほうが受ける……とその分野のプロから聞いたのですが、そういう意味でいうと、「ミレニアム」は伝統的なミステリーかも。

ミステリーの世界にあまり精通していないので、適当なこと書くと、「それは本格ミステリーじゃない」とかいろいろつっこまれそうなので、ミステリー界における立ち位置についてはあまり触れないことにしよう。

それにそういう種分けにあまり興味ないしね。

ミレニアムは聖書からの引用とかナチの残党とか、いろいろ出てくるので、キリスト教と戦争という、ヨーロッパ的な大テーマを踏襲しているようでいて、実はそれは結構、意匠にすぎない気がする。

犯人が初めは聖書になぞられて犯罪を犯したけれども、時がたち、引き継がれるうちに、「聖書」的なるものは単なる強引な結びつけに過ぎなくなり、犯罪だけが合理的に行われていくように、この小説も初めは、聖書的なもの、ナチ的なものの印象を強めていたのに、秘密が解けるにしたがって、それはひとつのかたちに過ぎないとわかってくるように。

そして、もう一方のテーマは、いわゆる、ウーマン・ヘイティングですね。女嫌い。

女を憎んでいる男たちによる犯罪で、聖書やナチズムはその衣を借りているようにも思える。

一番意外だったのは、舞台がスウェーデンだってこと。

だってあの、スウェーデンですよ。

この広い世界で、かなり女性が自由に生きることのできる国ではありませんか。

それは、私が勝手に思いこんでいるだけでなく、2000年に取材に行ったときに、法的にも世論的にも、女性に対しての平等っぷりはかなり成し遂げられていると知りましたから。

が、そんな国にこういう犯罪が…言ってみれば、女なんて殺してなんぼ…という犯罪が……フィクションとはいえ、存在するとは。

フィクションといっても、全くあり得ないなら成立しなかっただろうし。

主人公のミカエルは、離婚しているけど、既婚者の女性とその夫公認の愛人関係にあり、しかも共同経営者だったり、調査対象者とすぐ肉体関係もってしまったりと、日本の倫理観だとなかなかゆるされないようなキャラクター設定だし、ここらへんは、すごくスウェーデンぽい。

日本なら大スキャンダルになるようなことも、わりと日常としてスルーできる世界。

大人の、あるいは、成熟した関係の世界、とも言えるわけです。

でも、一方で、スウェーデンでは、女性の18%が男に脅迫された経験を持つ…って言葉で小説が始まるように、目に見えている平等感と現実はちがうのかもしれない。

ま、そんなことは実は頭のなかからふっとんで、物語の面白さにはまっていくのですがね。

このような濃い内容の物語を読んでいると、ほんと救われるわけです。内容は救われない話でもあるけど、人間の残酷さ、弱さ、汚さ、絶望的な欲望について読んでいると、本から顔を上げて、日常に戻ったとき、

あ、とりあえず、まだ、自分は生きてる。殺されていない。

それだけでもずいぶん、ラッキーなんじゃないかって思えてくるんですよね。

ミレニアム1のラストのほうで、ミカエルが殺されかけるシーンを思って、こんな目にあったら、当分立ちあがれないだろうに。強いトラウマになるだろうに。などと考えると、まだ、閉じ込められて、拷問されていない自分がなにを恐れるのは甘っちょろい話だと思えてくるのです。

あ、ヘンな方向に話言ってるかな。

先日の大人計画の「ふくすけ」にしても同じなんだなー。恐ろしい世界を描くことで人がそれに癒されるというへんな現象はあるのだ。

というわけで、このままミレニアムを読み続けることにします。

スウェーデン大好きな国なんだけどなー。また、ゆきたいし。

「すれちがうとき 聴いた歌」

2011年11月02日(水) 02:24


今日は、枡野浩一さんから献本していただいた、「すれちがうとき聴いた歌」を読んだ。

枡野さんは短歌の歌人だけど、小説もお書きになるのである。短編がいくつか並んでいて、最初にその小説を象徴するような短歌が歌われている。

「毎日のようにメールは来るけれど あなた以外の人からである」

とか、いう風に。

なかで気に入った短歌は、

「だれにも愛されないということの 自由気ままを誇りつつ咲け」



「気づくとは傷つくことだ 刺青のごとく 言葉を胸に刻んで」

などです。

短歌を読んだだけでわかる通り、孤高の…ちがう言い方をすると、ひとりぼっちの…もっというと……あんまりモテない、傷つきやすいひとたちの物語である。

そういうひとたちの、ささやかな日常にちょっと苦い経験やちょっと甘い経験の瞬間を切り取っている。

ひとつの小説の脇役だった人が、別の小説では主人公になっていたりする。

ドラマや映画だと、主人公はずっと主人公のままで、脇役は脇役のままだけど、現実はそうじゃないよね。

どんな人も、そのひとの人生のなかでは主人公でしかない。どんなに冴えない人生であったとしても。

枡野さんの小説の登場人物たちは、いつも、なんだか居心地が悪そうにしているひとたちである。

結婚していても、恋人がいても、なんだか、足りないような、足りすぎるような感じで生きている。

それから、ゲイのひともよくでてくる。いや、ゲイと限定すべきじゃないな。同性愛者なんだけど、女性ともつきあえるし、そもそも、その時々で変わるかもしれない欲望を限定されることにすんなりこないひとたちかもしれない。

ゲイとは、普通の恋愛(へてろ)から見たら少数派だけど、中身はいたって、普通の恋愛をするひとと同じなのに、ことさら、変わった部分だけを目立たせてしまうところがむずかしい…のかな。

さらりと読めて、でも、ちょっと苦い味の残る小説集です。

時々、ふっと笑えたりね。

それは、枡野さんご自身にも似て、おもしろ苦いとでもいっておこうかしら。

先日、東京国際映画祭で上映された「ひとつの歌」(杉田協士監督)で、俳優としてもデビューされた。

不思議な方である。そして、時々、びっくりするくらい正しいことをおっしゃる方でもある。

多くのひとが、「くじけないで!』と声援するときに、「くじけな」と言い切るような。

強いもの、早いもの、大きなものが、すごいとされるのが当然の世界に、「なんで?」と首を傾げてみせる。

世界にずれを感じている方にはおすすめの一冊。

でも、読んだからって、世界からのずれがなおったりはしません、たぶん…笑。

丸山正樹著「デフ・ヴォイス」

2011年07月19日(火) 18:37


今日は、友だちの本の紹介です。

丸山正樹さんの「デフ・ヴォイス」

7月23日、文藝春秋より刊行です。

今期の「松本清張賞」の最終候補作。惜しくも受賞は逃したけれど、このままにしておくのはもったいないと…編集部が考えて、出版されたのだと思う。

(そういうことって、これまでにも何度か聞いているし)。

手話通訳が主人公の物語。松本清張賞だから、事件ものかな。

実はまだ、読んでおりません。

著者の丸山さんとは、アルゴピクチャーズという映画会社で知りあった。今を去ること15年近く前。

当時、自分は、テレビの仕事をしながらも、「このままでいいのか」という思いで、シナリオを書いたり、小説を書いたりしていました。

その頃、アルゴで若手のシナリオライターを集めて、毎月1度、企画会議があって、そのメンバーとして、丸山さんと知りあった。

他には、シナリオライターになった、江良至氏、安倍徹男氏がいた。

あれから、長い年月が流れ、丸山さんもまた、小説家になりました。

丸山さんとは大学もいっしょで、同じく映画好きだったので、いろんな話をいっぱいしました。不良な自分とちがって、丸山さんは、一途でまじめな人柄。そのまじめさで、この業界を生きていくのは、きっとたいへんだったと思う。

でも、初志を貫いて、本を出した。

本当によかったと思う。

自分も苦労しているから、本を出せたときの喜びが、ものすごーくわかるのだ。

本屋にいけば、新刊書があふれているけど、でも、一冊の本を出すことは、本当に、本当にたいへんなことなんだ。そこにたどり着くまでの気の遠くなるような努力の日々。

そして、努力したからといって、報われる保証なんて全然ないってこと…。

だから、素直に祝福したい。

おめでとう、丸山さん。

これから、作家人生の始まりですね。

そういう意味ではライバルかもしれないけど、そんな風にはやっぱり思えない。

友だちが…頑張ってきたひとが、なにかになるのを見るのは、いつもうれしいことだからだ。

明日で仕事が一段落つくので、これからゆっくり読みたいと思う。

みなさまもぜひ、一冊!

(手話通訳という設定は、なかなか珍しい。しかも、事件もの。映像原作を探している方はオススメなんじゃないかな…)


「八日目の蝉」

2011年05月24日(火) 23:37
先日、「八日目の蝉」の映画を見まして、小説との差について、考えたことを書きます。

小説「八日目の蝉」については、「不倫がテーマ」とか「母性」がテーマとかいろいろ言われていますが、自分は、か弱きものを助ける者もまた、か弱き者である…というふうに読みました。

不倫についての小説とも思えないし、母性が重要なテーマとも思えなかったのでした。

小説の主人公は、不倫相手の男の子供(乳児)をさらって逃げます。この逃避行がメインになっていますが、そこで彼女を助けてくれるのは、友だちでも男でも家族でもなく、見ず知らずの、どこか怪しいひとたちです。

最初は、女友達の家に逃げ込むわけですが、主人公は、そこに長居できない…と判断します。友だちに迷惑をかけたくないからです。主人公は誘拐犯という犯罪者ですが、良心はあるのです。

次に彼女がたどり着くのは、見ず知らずの、一人暮らしのおばあさんです。訳も聞かずに、赤ん坊をつれた怪しい女であるところの主人公に、住むところを提供してくれます。

主人公もまた、このおばあさんが、おかしなひとであるからこそ、多大な罪悪感を持つことなく、この家で暮らすことができます。このおばあさんもまた、秘密を持ち、それゆえ、孤立しているわけです。

このおばあさんの秘密が明らかになる頃、主人公は自分が犯罪者であることがばれるのを恐れて、老女の家を出ます。それまでには、お互い干渉しあわない、はぐれ者同士の連帯のようなものがありました。

次に主人公が流れつくのは、女性だけで暮らす、宗教団体のような施設です。ここもまた、世間の常識から逃れてきた者ばかりの場所ゆえ、犯罪者かもしれない主人公を受け入れます。

ここもまた、世間の善悪の彼岸のかなたに存在している場所なのです。それゆえ、主人公はここで、数年、穏やかに暮らすことができます。

しかし、そこもまた、世間と対立しているがゆえ、安住の地にはなりません。再び、逃げることになります。

次にやってきたのが、小豆島です。女性団体の施設で知りあった友人の故郷です。ここは、世間と隔絶された、怪しい場所ではありません。普通のひとが暮らす、普通の島です。

それでも、最初に主人公の住み処になるのは、ラブホテルの従業員用のアパートです。アパートの住民たちも、犯罪者ではないにしろ、世間から抜け落ちたようなひとばかりです。でも、そこで、主人公は平和に暮らすことができる。

次にやっと、非常にまともな環境に暮らすことになる。それは友人の故郷である、製麺所であり、友人の母親からあたたかく迎え入れられます。そこで働くうちに、信頼もされ、幸せな暮らしを手に入れることができます。

しかし、そこはごく普通の暮らしであるがゆえ、警察なども近く、結局、主人公は警察の手に落ちることになるのです。

というわけで、私はこの小説を、日本で犯罪者となったものが、どのようにして生き延びるのか、しかもそれが、幼い子供を連れた女だった場合はどうなのか?…という考察だと思いました。

ふと、思い出したのは、シングルマザーのキャバクラ嬢が幼い子供を放置して死なせてしまった事件です。確か大阪で起こった…。(母親は非常にバッシングされ、母親に同情し、擁護する者までバッシングされました)

あの事件の主人公もまた、幼い子供を抱えた母親でした。彼女が子供を死なせるほど、ひとりで追い詰められていった…誰にも助けを求めることができなかった…という部分が、この小説と重なったのです。

つまり、幼い子供を抱えた、ワケありの女は、公の陽の当たる場所やシステムやまともな家族には殆ど助けてもらえないのだろう…ということです。

いえ、犯罪を犯した者を匿う必要はないと思いますが、困っている者を、善悪の彼岸を越えて、常識を越えて、助ける…というのは、同じように傷やマイナスを背負ったものたちである…ということをこの小説はあぶり出してみせていると思ったのでした。そして、そこが優れていると。

なので、映画を見たとき、少々違和感がありました。母と娘の物語に収れんしていたので。小説は逃げている主人公を描きながらも、匿ってくれる側もまた、描いていたからです。そうすることで、見えてくるものがあるように思いました。

映画では、逃亡劇よりも、誘拐された娘のその後を描くことが中心となっていて、それはそれでまったく別の物語でよいのですが、ほんの4歳までの記憶だけで、母と娘の関係を描くのは少々ムリがあるように思えました。

むしろ、その後一緒に暮らした母親との関係のほうが大きいのではないかしら。だとしたら、そのための物語をいちから作らなくてはならず、それを描くことは原作から大きく離れていくかもしれないけれど、それが真摯な態度ではないかと思いました。

……映画と小説は別ものだし、1度テレビドラマになっているから、アレンジしないといけなくて、大変だったんだろうなーなどと余計なことも考えてしまいました。

とりとめのない感想でした。

岡本かの子

2011年02月27日(日) 03:08
松尾スズキさんが出ているので、NHKドラマ「TAROの塔」を見ました。

画家の岡本太郎さんの自伝ドラマですが、全体的に再現ドラマっぽかったです。もちろん、事実とその人物像に迫る演出方法だから、ドキュメンタリー&ドラマのテイストになるのは仕方ないのかな。

松尾スズキさん目当てで見たのですが、おーすっかり、忘れていたことがありました。

岡本太郎といえば、その母は小説家の岡本かの子ではありませんか。自分が、10代〜20代にかけて、熱心に読んだ作家です。

岡本太郎には正直あまり関心なかったんですけど、岡本太郎の語るかの子には関心があって、太郎の本まで読んだりしました。

かの子は、小説の邪魔になるといって、幼い太郎を柱に縛り付けて、書き物をするんですね。太郎は、そんなかの子を恨むことなく、自分を縛ってまで、小説に熱中する母親を美しいと思うんですね。

覚えているのは、長い黒髪が乱れた、母の後ろ姿…って書いていた記憶がある。

その岡本かの子を寺島しのぶさんが、迫真の演技で演じていました。ものすごく、かの子っぽいと思いました。狂気じみていて、どこか切ない…というか、今風に言えば、イタイひとです。

かの子は、村上春樹風に言えば、本人の内面に見合うほどの美人ではなかったんですね。内面は類まれな才能の持ち主であったけど、外見は、普通か、もしかしたら、ちょっと下だったのかもしれない。

けど、そんなこと気にせず、派手な服を着たり、濃い化粧をしたり、若い男にうつつを抜かしたりと、世間の決めた約束ごとなんか無視して生きていくんですよね。まだ、あの、厳しい時代に。

確か、谷崎潤一郎とかを結構気に入って近づいたらしいけど、(谷崎ってイケメンで売れっ子だったから)、谷崎から「気持ち悪い」とか言われて、嫌煙されていた…なんてことを読んだ記憶もある。

岡本かの子の小説のなかでは、「生々流転」というのが好きだったなー。

けっこう、めちゃくちゃな主人公(かの子に近い)が、家出したり、いろいろする波乱の人生のお話。

なかで記憶に残っている部分がふたつ。

ひとつは、「ひとは40歳を過ぎると根に戻る」って言葉。

40歳ともなると、若い頃、振り回されたり、信じたふりをしていたことから離れて、持って生まれた性格が出る…みたいなことを書いてました。

10代後半から40歳までの30年近くって、「恋愛」とか「仕事」とか「子育て」とか、いろいろあって、自分本来の志向より、いろんな雑念(あるいは、欲望?あるいは理想?)が混じって、いろんなことするけど、40歳を区切りにそういう「見かけのもの」がそげ落ちてくるということ。

自分も40歳を過ぎて、しみじみ、そう感じた。

「根に戻る」っていうか、子供のころの自分が戻ってくる感じ。だんだん、好きなことしかしなくなるし。ひととのつきあいでやっていたようなことはどんどんやらなくなった。

たとえば、スポーツとかね。興味ないことには近づかなくなる。

そして、もうひとつ覚えているのは、主人公が家出してきて、駅の近くをひとりで線路をつたって歩くシーン。残してきた家族にひどいことをしていると自覚しているのに、足を止めることができない。

それで、ふと立ち止まって、振り返って、自分が捨ててきたものたちがいる方向を見る。そして、申し訳ないと思いつつ、自分はこうやって、これからも大事なひとたちを、自分の欲望のために捨て続けるのだ…と観念する。

(自分の記憶によるものなので、間違っていたらごめんなさい)。

なんか、このシーンが、頭に強く焼き付いている。映像で見たわけではないのに、髪を振り乱した、あまり若くない、あまりきれいでもない女が、夜の線路にひとりたち、遠くの明かりを振り返るシーン。

その底抜けの孤独と、でも、それを背負って生きるしかできない女のどうしようもなさ。

読んだ時は、自分は10代でありましたが、即刻「わかる!」としびれるように思い、自分も真夜中の線路に立ったように記憶している。

そして、何十年も過ぎた後、実際、自分も真夜中の線路を逃げるようなマネをして、ふと、あの小説の一節が蘇ってきたのと覚えているのでした。

こうして、自分のなかにあの小説が生き続けているのね。

そんな岡本かの子にドラマのなかで会えてうれしかった。それに、今回は岡本太郎の話っていうより、圧倒的にかの子の話だったと思う。

それくらい強烈。

このあとも、かの子が出るみたいだから、見ようっと。

本の感想などもたまには。

2011年01月18日(火) 03:51
仕事も一段落し、年度末の決算もだいたいできたので、2冊ほど本を読んだ。

(これでも、自分は小さな会社をやっているので、年度末決算という、経理事務があるのだ。とってもたいへんなのであった)。

普段はあまり読んだ本のことをここに書かない。映画や舞台やテレビについてだと気軽に書けるんだけど、小説となると、身構えてしまう。

どんな本を読んでいるか知られるのも恥ずかしいし、日本の作家について、自分が語るのは、なんだか、おこがましいしので、するするとは書けないのであった。なぜなら自分も小説を書くので…。

友達の噂話は気軽にできても、片思いしているひとのことは、照れて話せない…みたいなことかしら。

…という前置きはともかく、昨日、今日で読んだのは、そういう方向の本じゃなかったので、気軽に感想を書こう。

一冊は、堀江貴文氏の「拝金」という小説。ツイッターで、「日本のマスコミ暗部を描いているから、映画化は不可能…」みたいなことが書いてあって、マスコミの暗部って?映画化不可能ってそんなにシュールなの?という興味が湧いてしまい、ついに買ってしまった。

(ツイッターの影響を、ホント、受け取ります…)

で、読後感でいえば、小説というより、小説の形を借りた、告白ものに近かった。堀江さんが起業し、会社がどんどん大きくなり、ヒルズ族と呼ばれ、プロ野球球団を買おうとしたり、テレビ局を買おうとしたりした経緯がフィクションの形を借りて、描かれていた。

どこまでが本当のことで、どこまでがフィクションなのかわからないけど、そして、そういう興味はあまりないんだけど、一番生き生きと描かれていたのは、起業にいたる部分の、携帯電話用のゲームを思いつき、それをプログラミングして製品化していく過程について書かれた部分だった。

文章に血が通っているというか、起業へ向けてのストレートな情熱が素直に書かれていた。意識しているかどうかわからないけど、文章って、書いているひとの本音がしみ出てしまうというか、本当に心血を注いだ出来事を書くときは、知らずと文章が正直になるのだ。

いや、もしかしてプロだったら、そういう差を感じさせないのかもしれない。実際にあった出来事と架空の出来事を上手に織り交ぜて、どこまでが真実でどこからが虚なのかをわからせないのかもしれない。特にプロのフィクションライターはそういうものだろう。あるいは、虚だからこそ、より生き生きと描ける場合もあるかもしれない。

でも、この本はそういう完成度の高いフィクションを目指したのではないだろう。フィクションの形を借りた一連の事件についての告白というか暴露というか。なので、より作者の思い入れが文章にあらわになってしまうように思った。

文章って正直なんだと。具体的な内容ではなく、文章そのものが、なにかを伝えてしまうんだ…ってことを今さら学んだ気がした。自戒もこめて。

そして、もうひとつ思ったことは、時代の移り変わりの速さである。この小説の主人公は、テレビ局を買い取ろうとしたことがきっかけで、失墜しはじめる。インサイダー取引などの容疑で逮捕され、あげく全財産を失うことになる。だけど、今だったら、どうだろうか。

そんな危険な賭に出てまで、テレビ局を手に入れたいだろうか。もちろん、今だって、テレビの影響は甚大だし、大企業だし、手に入れることができたら、莫大な資産が入るんだろうけど、でも、元々お金はたくさん持っていたひとなのである。

今だったら、スタジオを作り、スタッフを募り、インターネットテレビ局を作ればいい。それができる環境は整っている。いろんなひと(政界?経済界?)を敵にまわして、局を手に入れるより、自分で作ればいいのだ。かつては、電波はテレビ局した持っていなかったから、どうしようもなかったけど、今ならネットがあるじゃないか。

せっかく、ITの会社でスタートしたのだから、既存のメディアであるテレビ局などほしがらずに、インターネットテレビ局を作ればよかったのになーと思いました。小説の内容とは関係ないかもしれないけどね。

そして、もう一冊。これは題名を書きませんが、小説の参考資料で読みました。芸能界を舞台にした小説でした。
う〜ん、なんだか不思議な小説だったなー。いや、いわゆるエンタメ小説ってこういうものなんだろうか。

日頃、全然、読まないタイプの本だったので、ある意味新鮮だったけど。

そして、「書く」っていったい、どういう行為なんだろう…?という基本的な疑問にぶちあたりました。

自分に向けてね。

今日ははからずも芥川賞と直木賞の発表の日で、ニコニコ動画で中継をしていたので、思わず見てしまった。受賞者の記者会見が面白かったです。

それぞれが、いろんな理由で書いている。私小説しか読まず、自分を題材にしかしないという芥川賞の西村賢太さん。自分が読みたい本を書くと行った道尾秀介さん…。書く動機はひとそれぞれなんだなーと。当たり前か…。

そんなわけで、とりとめないですが、今夜はこんなところでした。

「終着駅 トルストイ最後の旅」

2010年08月26日(木) 01:37
ジェイ・パリーニ著「終着駅 トルストイ最後の旅」(新潮文庫)を読んでいる。

文豪と言われたトルストイは、晩年、鉄道に飛び込んで、自殺した。

地位も名声もあり、人格者として誉れの高かったトルストイは、なぜ、自殺したんだろうか。それも、見知らぬ駅で、走ってきた電車に飛び込むなんて……。

その謎に迫るノンフィクションである。

自分は大学でロシア文学を専攻し、卒論は、トルストイの「アンナ・カレーニナ」であった。ご存知の方も多いと思うけれども、アンナ・カレーニナは、物語の最後で鉄道自殺する。なにも死ぬほどのもこともないのに…という状況のなかであっけなく死んでしまうのだ。

ざっくり、「アンナ・カレーニナ」のあらすじを説明しておくと、アンナは賢く、美しい女性で、カレーニンという立派な男と結婚する。一男をもうけて幸せに暮らしていたけど、ウロンスキー伯爵というイケメンの年下の男と出会い、恋をしてしまう。

今風にいうと、不倫である。

ウロンスキーによろめいたり、やっぱりダメだと夫とやり直そうとしたり、そうこうするうちにウロンスキーを他の女にとられそうになったり……

いろいろメロドラマのような展開があり、その間に、他の女性たちの恋や結婚についても語られる、マコトに読み応えのある小説です。

非常に面白いと思ったけど、どうしても不可解なのは、最後のアンナの自殺だった。

だって、ウロンスキーからはちゃんと愛され、やる気があれば、離婚して、新しい人生を送ることができたはずなのに。

なぜ、死んじゃうの?

それが、私の疑問でした。

不倫したという罪の意識につぶされたのだろうか…とも考えたけど、小説として、とても唐突な感じで自殺するんだよね。不可解なり…と思っていたところで、トルストイのある言葉にぶち当たったのだった。それは…

 復讐するは我にあり 我、これを報いん

…というもの。トルストイがのちに語ったとされているんだけど、なぜ、アンナ・カレーニナは自殺するのかと問われて、

「結婚生活を破壊するようなものは、死すべきである。しかし、手を下す必要はない。なぜなら、そのものは、おのれのしたことによって復讐され、自ら滅んでいくだろうから」

(だいたいこのような主旨であったと記憶します。文章は今、私が書いたものです)

このトルストイの考え方に出会って、すごいびっくりして、なおかつ、文学ってそういうものなんだーと理解したのを昨日のことのように覚えている。

(その頃、自分は二十歳であった)。

つまり、こうあってほしい未来を描いているってこと。

作者(=作家)が、登場人物に罰を与えているってこと。それが作者の言いたいことであった…。

それについて、卒論を書いたわけです。で、時が流れて…。

「アンナ・カレーニナ」を書いたトルストイは、まるでアンナみたいに、電車に飛び込んで自殺して、この世を去ります。何不自由ないはずだったのに…。

アンナを小説のなかで死なせたのが、巡りめぐって自分にやって来た…?

それとも、「アンナ・カレーニナ」を書いた時点で、どこかに自分の未来を想像していたのか。そこらへんはわからないけれども、非常に興味深いでしょ。

作り手は自ら作ったストーリーのなかに、取り込まれていくのか?

死ばかり語る作家の死に方について、ちょっと興味をひかれる。

そんなわけで、「トルストイ 最後の旅」を読んでいます。

まだ、読み始めたばかりだけど。しかも、この作家、アメリカ人なんです。ドキュメンタリーの手法で、トルストイの妻や秘書たちの日記やエッセイをまるで、インタビューするみたいに並べてみせる。

果たして、トルストイ 死の謎に迫れるのか?

楽しみでしょ?

訂正;
トルストイは、鉄道自殺ではなかったです。自分の勝手な思い込みでした。名もなき、小さな駅でなくなったことは事実だけど、自殺じゃないし、鉄道に飛び込んだわけではなかったです。

すみません。勝手に間違って、記憶していました。この本を読み終わり、確認しました。でも、鉄道自殺じゃなかったけど、充分面白い本でした(9月11日)

小説「シューマンの指」

2010年08月08日(日) 01:06
奥泉光さんの新刊「シューマンの指」を読んでいる。

シューマンは、クラシック音楽の作曲家である。で、シューマンの作曲した曲にまつわる逸話と、その曲に魅了された人物たちの織りなす、ミステリー仕立ての小説です。

自分は、クラシック音楽をちっとも聴いてこなかったし、まったく詳しくなかったのだけど、ここ2年くらい、「名曲探偵アマデウス」を作るようになって、その世界に魅了されつつある。

まず、楽理が面白い。クラシック音楽には、文法みたいなものがあって、ただ単に美しいとか、心地良いとかだけで作られているわけでないってこと。基本の文法があって、それに則してみたり、あえて、はずすことで効果を期狙ったりできるのだ。

たとえば、「ヨナ抜き音階」というのは、民謡などに使われる音階で、この音階で作曲すると、「なんだか、懐かしい感じ」「田舎などを連想する」…曲調を作ることができる。

また、教会旋法というのがあって、古くから教会音楽で使われてきた旋法で、この旋法に則ると、「神聖な感じ」「清らかな感じ」を出すことができるのだ。

すっごいなー、すっごいと思いません?

つまり、インスピレーションだけで作られているわけじゃないってこと。

そして、クラシック音楽を学んで面白かったのは、やっぱり、音楽家の人生。人生と作品の関係性を知るのが、また、興味深いのだ。

ムソルグスキーの「展覧会の絵」という曲は、親友だった画家が、夭折し、彼の死を悼んだ遺作展をきっかけに作曲したものである…とか、

バレエというのは、当初は、お金持ちのおじさんたちが、その愛人を踊らせたり、愛人を発掘するものであったとか、だから、バレエ音楽とは一段低いものと見なされていたけど、それを芸術にまで高めたのか、チャイコフスキーだったとか…。「白鳥の湖」とか「くるみ割り人形」とかね。

こういうクラシック秘話みたいなことを知る度に「へー」とか「ほー」とか唸っていたわけだが、同時に「これって、小説になるなー」とも思っていた。

で、「シューマンの指」。

まさに、クラシック音楽の知識とそこからインスパイアされるものを作家がうまく熟成させて書き上げた小説だと思う。(まだ、途中だし、ミステリー仕立てなので、結末がわかるとよくないので、詳しい内容は書かない)。

友人の監督が、いい映画に出会うと、自分もがんばろーと思うって言ってたけど、わたしも「シューマンの指」を読んで、わーやっぱり、小説っていいなあ、読む快感ってこうだよなあと思い、小説、書きたくなりました。

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