山田あかねの一喜一憂日記

色恋
(記事数:27)

イメクラで求められるもの

2011年10月30日(日) 03:01
ちょっと時間に余裕ができまして、2日続けて、来客があり、昨日の人々は朝の4時までいらしたので、ブログをサボっておりました。

さて、その小宴会にて、話題を集めたのが、「イメクラ」でした。

イメクラというのは、イメージクラブの略かと思われますが、いわゆる風俗産業のひとつです。

男性が自分の好みの物語を作成し、そのストーリーにそって、イメクラ嬢がその相手役を演じる…というものです。

単純に性行為を行うのではなく、物語の設定にそって、行う…というものですね。

なんだか、面白いですよねー。

で、さんざん、その話を聞いていたわけです。

まず、お客さんである男性は、来店すると、「やりたいこと」を紙に書くそうです。設定を書き、女性の衣装を選ぶ。

話してくれた方は、わりと細かくシナリオを書くほうで、たとえば、「上司と部下が残業中につい…」みたいなものがお好みとのことでした。

女性のほうもかなりの演技力が必要かと思いますが、話者いわく、演技力のある女性が多いとのこと、そのような設定のある風俗を楽しむタイプの女性が働いている…とのことでした。

なんか、ひっかかるでしょう、面白いでしょう。

で、話者は「これまでに頼まれた設定で、変わっていたものにはなにがあるか?」と尋ねたそうです。

いい質問ですよねー、知りたい、知りたい。

すると、「あと30分で墜落する飛行機のなかの、機長とスチュワーデス」というリクエストがあったそうです。

「負けた!と思いますね」と話者。

なるほど。確かに、ほほう…というような設定です。そんな、まさか、命が危険なときにそんなことするのかしら…と思ったり、生命の危機を感じる時こそ、燃える…ということもあるのか…とかいろいろ考察しました。

で、思ったのは、ぜひ、イメクラで、リクエストの多い設定ランキングとか出してほしいなあと。同時に、「これは驚いた」という設定も発表してほしいなあと思いました。

すべての男性がイメクラに通うわけではないと思いますけど、そこでリクエストされる設定を見たら、日本の男性が抱いている幻想がはっきりわかっておもしろいんじゃないかと。

いや、しかし、案外、想像の域を超えないのかな。

上司と部下とか、社長と社長秘書とか、先生と生徒とかね…。なんか、想像つきそう。

思っても見ない設定あったら、知りたいけどね。

そんなわけで、バカ話(いや、案外、奥の深い話)をしているうちに、夜が更け、朝が来てしまったのでした。

おかげで、今日は眠くて、使い物になりませんでしたよーって自業自得ですが。

てなわけで、休息しております。

オタクとやりまんのパラダイムシフト

2011年10月07日(金) 02:44
アメリカのテレビドラマ「ビッグバンセオリー」を見て、決定的な感じ、時代が動いていると感じたのでそのことを書きます。

「ビッグバンセオリー」について、説明しておきましょう。

ロサンゼルスのアパートに二人のオタクが住んでいます。オタクといっても、ふたりのIQを足すと300はゆうに超えるという天才的な頭脳を持つ、物理学者です。(20代半ばくらい?)

で、この二人、確かに頭はいいんだけど、常識に欠け、もちろん、女にもてない。

オタク仲間と対戦ゲームで闘ったり、シューティングゲームで中学生のグループと実戦したりしています。

つまり、オトナのくせにやっていることはほとんど、中学生。

そんなふたりのアパートの隣のへやに、女優志望だったけど、いろいろあって、今は、ウエイトレスをしている、巨乳で美人で、ちょっとバカの女性が引っ越してきます。

オタクのうちひとりは、すぐに彼女に一目惚れ。なんとか気をひこうとするけど、全然かなわず、もう一人はそもそも女性に関心がない。ゲイでもないのに。

隣の女子は、オタクたちをデートの相手とは全く考えない代わりに安心して遊びにきたりします。

この関係を30分のコメディ(シットコム)で描いてます。雰囲気は、ジェニファー・アニストン(ブラピの前の奥さん)が出ていた「フレンズ」に似ています。

で、このドラマ見ていると、男女の恋愛におけるパラダイムシフトが完全に、もしくは、かなりのスピードでかわりつつあるってことです。

まず、このオタクたち、女性に関心はありつつも、自意識のほうが強すぎて、うまく恋愛ができない。当然その先にあるはずのSEXもできない。でも、オタク友達がいて、ゲームがあれば、それなりに幸せ。

無理して傷つくより、ゲームやってよう…って感じです。

一方、オハイオの田舎から女優目指してできた女子は、男の途切れないタイプ。バカだけど強引なマッチョと次々関係をしてしまう。彼女の友人は、もはや、オタクたちから見ると、「娼婦」以外の何者でもないくらい。

要するに、やりまん。

性に対する倫理感が薄れた今、やりまんってもしかして急増しているんじゃないか、しかも世界的に。(先進国限定)ってことを思った。

それも、罪悪感なきやりまん、批難されなくなったやりまん。

これ、美人だった場合、最強なんじゃないか。

だって、自分の欲望をほぼ全開できるでしょう。美人で巨乳なら。向かうところ敵なしだよね。

で、一方、自意識過剰のオタクたちは、妙にかたくなになって、「傷つくくらいなら、ひきこもる」ってことになってる。

もしかして、これが、今の男女関係の世界地図なのだろうか。

思えば、「モテキ」のフジくんだって、サブカルオタクだし、自意識過剰でセカンド童貞だったし、彼のまわりにいる女子はやりまんとまでいかなくても、「ビッチ」くらいは言われている。わりと自由にセックスを謳歌してる。

この構図。

これで得をしているのは、女好きの中年オヤジ。「モテキ」で言うと、リリーフランキーさん演じるひと。とんびが油揚げを持って行くように、同世代の男子が、自意識にさいなまれて、女子に手を出せないでいるすきをぬって、強引に女子を押し倒して行く。

もしかして、今ってこういう時代。

前に20代の女子(美人)が、「セックスにもちこむ」と言い方をしたとき、「あれ?」と思った。

「セックスにもちこむ」って発想は男のものだったでしょう。うまく、「持ち込まれてやる」っていうのが女子の選択肢ではなかったか。

彼女は言った。「私は安全よ、やれるよ」というアピールをさりげなくしないと、相手が乗ってこないので、そのさじ加減が難しいと。

その点、オヤジは楽でいいと言っておった。オヤジはたいてい、そんな面倒な手を使わなくても最初からよだれをたらしているからと。

でも、彼女がとりたいのは、同世代のイケメン。となると、テクニックがいると言っていた。

そうなんだー。

果たして、今の女子は幸せになったのか。

男はみんなオオカミと言われた時代ははるか遠く。

男女が、一晩一緒に過ごしただけで、「お泊まり愛」なんて週刊誌は書くけど、別に一晩一緒に過ごしたって、必ずしもそういう関係になるもんじゃないし。

けれども、やっぱり、よい時代になったんじゃないでしょうか。女性の罪悪感が減っただけでもよかったし、やりまんが市民権を得たのが何よりよかったよ。

「ビッグバンセオリー」に出てきた、『ほとんど娼婦」と言われた彼女だって、ごく普通の女の子だったし、「ほとんど娼婦」であっても、オタクたちは普通に対処していたよ。

娼婦=悪という感じ方もうすくなっているように思うのは希望的すぎるかしら。

先日、北原みのりさんの「アンアンのセックスできれいになれた?」を一気読みした。

「セックスできれいになろう」とうたっていたアンアンがものすごく保守的になって、男の喜ばせ方を伝授しているって書いてあった。それもひとつの側面かもしれない。

男子の性欲低下…と自意識の異常な強さ。

本能と言われていたはずの性欲よりも、「自分」のほうがどれほど大事か…ってことになっている。

いろいろ難しいけど、でも、興味のつきない楽しい時代のようにも思える。

自殺者3万人だし、そのほとんどが男性なので、安易に「楽しい」なんて言ってられないのですけれどもね。

今夜はここまでです。




「便所からの解放」とヤリマン再び。

2011年09月10日(土) 02:37
「ヤリマンとフェミニズム」…すごいアクセス数です。たぶん、ツイッターのまとめからいらしてくださっているのかもしれません。

まあ、「ヤリマン」とはかなり過激な言葉ですから、こちらの意図とは全然関係ない、エロを求めてやってくる方も多いのだろうと想像します。

そういう人にとって、私が書いているようなことって、どうなんだろう。伝わる部分ってあるのかなあ。

ということはともかく、後日談です。

引き続き、戦後のフェミニズムについて、調べておりまして、すると、1970年代のウーマンリブの代表的存在、田中美津さんの言葉にぶちあたりました。

「便所からの解放」

おお。便所ってわかりますか?

トイレのことですよ。えっと、「トイレからの解放」って何?って思いますよね。

1970年代ころまで、女性ってもしかして、便所(=トイレ)に住んでいたの?

女、三界に家なし…と言われてましたけど、トイレくらいしか逃げ場がなかったってこと?

いえいえ、ちがいますよー。

「便所からの解放」の便所とは、女性の「性的役割」をさしていたんですねー。

というのも、この頃(…今もまだまだそうですけどね…)、男にとって、女性とは、母的なものか、性的なもの、二つの存在であった…というわけです。

あるいは、母(主婦)か娼婦。

便所というのは、男性が性的処理をする場所…という意味から来ています。

たとえば、「公衆便所」という言い方がありまして、これは、どんな男の相手もする女性の蔑称でした。

このような扱いに対して、田中美津さんは、「便所からの解放」と訴え、女性が男から一方的につきつけられる「性的役割」から自由になることを求めたんですね。

だって、母である前に、性的役割である前に、ひとりの人間ですよね、女のひとだって。

…あ、今でも、ひとりの人間である前に、私は母なんですうーとか、女なんですーってひともいらっしゃるかもしれませんけど、そういうひとに説明するパワーもないので、そういう方はどうぞスルーしてくださいね。

で、先を急ぎます。

なにが言いたいかっていうと、ヤリマンって、かつては公衆便所という蔑称に近かったのではないか…と思いいたったわけです。このような書き方はとても苦渋ですが、でも、たぶん、そう。

女とは、男の性欲処理を担う存在であり、多くの男の処理を担うのは公衆便所となるわけです。うげっ。

40年近く前、ひとりの女性が「便所からの解放」と叫んだわけですが、時は流れ、今や、「便所上等じゃないか」と啖呵を切ることができるようになったと。

そのことについて、深い感慨を覚えたのでした。

ホントにね、歴史を知らないとね、だめだと思うんですよ。

やりまん総選挙に来ていた女性で、「私は彼女たちとはちがうわ」って、上から目線のひともいたんですけど、あるいは、近年、とみに多くなっている、「フェミニズム?私、関係ないんで…」という存在も知っているんですけど、いつも、「ホントに?」って思います。

ホントに関係ないの?

ホントに自分が女性という性別に生まれてきたことについて、深く考えたことないの?違和感や痛みはなかったの?

と思います。

もちろん、「フェミニズム、ださい」という空気があることは十分しってます。もう、終わったこと…みたいな言い方があることも。

自分だって、その視点だけですべてを解釈しているわけではありませんけど、100年前には選挙権もなかった時代があり、結婚だけが女の生きる道であった時代があることを忘れてはいけないように思うのです。

そして、今でも一方的に女性に押し付けられたり、過剰に期待されたりしている部分については、「ホントに?」って疑問を投げかけていかないとだめだと思っています。

自分は学者でも研究者でもなく、小説を書いたり、映像を作ったりする仕事ですけど、だから、そういった作品のなかの「女性の扱い」「女性のスタンス」については、ついつい厳しくなります。

女は車の運転が下手…ホントに?

女は地図が読めない…ホントに?

って具合です。「女って、こう。男ってこう」ってロボットみたいに決めつける言葉遣いには、いつも慎重でありたいと思ってます。

「女って○○だよねー」という会話が楽しいのは知ってます。でも、うかつに信じないように、常に、「ホントに?」って思いたいです。

そこらへんのことがきちんと描けてないものはどうにも乗り切れないです。面白くできていてもね。

まあ、そんなふうだとなにかと生きにくいんですけど、しょうがないです。

…ということで、この話題は今日でいったん終了です。

明日は、数日前に試写でみた、「東京オアシス」(小林聡美主演)の話を書こうと思いますわん。

このシリーズは、何度も書いてますけど、それまでの日本映画では描かれてこなかった、「女性」を描いているんですね。

つまり、誰の恋人でも愛人でも母でも妹でも姉でも娘でもない存在の女性たち。

女性である前に、ひとりの人間であるひとたちの物語なんです。

日本映画って、まっちょのひとが作ってきたので、母か性的役割を担った女性しか、描いてこなかったんですよー。傑作だとしてもね。

ということで、また、明日。

ヤリマンとフェミニズム

2011年09月07日(水) 02:35
9月4日、日曜日、新宿のロフトプラスワンで行われた、「ヤリマン総選挙」というイベントに行って来た。

なかなかすごいネーミングである。ストレートに書くのは勇気がいる。これまでは、「ヤリ○ン」などとごまかしてきた。

が、それじゃあ、これから書こうとすることの主旨と違ってくるし、自分だけ安全な場所にいて、何かを語るというのもなんなんで、このままいかしていただく。

なので、以下、結構過激な言葉が出てくると思いますが、ご容赦を。

「ヤリマン総選挙」とは、6人の女子が登場して、そのなかで誰が一番「ヤリマン」かを競うイベントである。

これは昨年も開かれていて、その時は、「やりわんグランプリ」だった。去年はツイッターでこのイベントを知り、「ひやー何をやるんだろう」と興味をひかれて出かけて行った。

とはいえ、歌舞伎町のど真ん中にあるロフトプラスワンに行くのも初めてだったし、なにやら怪しい雰囲気もするので怖かった。いわゆる、風俗的なイベントだったら、どうしよう…。つまり、ストリップなどの男性向けのショーだった場合、困るな…と心配だった。

もちろん、長い人生、ストリップ嬢、AV嬢のドキュメンタリーも作ったことのある身である。それだけでびびって帰るほどやわではない。

けどさ、普通の男性向け、エロだったら、今更とりたてて見なくてもいい…と思っていたのであった。

ところがさー、このイベント、登場する女子自らが、「ヤリマン」と名乗りを上げ、それぞれの性体験を告白し、どころか男を落とすテクニックまで披露するという、誠に、女子主体のイベントだった。(お客さんは男が圧倒的に多かったけどね)

あーここまで、今のコたちは自由に明るく性を語れるようになったんだなーあっぱれ!というのが昨年の感想であった。

その後、当時の出演者たちとも親交を持つようになり、今年も晴れて出かけて行った。

今年も主旨は同じで、6人の女子が「ヤリマン」ぶりを競うのである。

今年のメンバーは、大泉りか(作家)、ドルショック竹下(漫画家)、神無月ひろ(アイドル?)、はるうらら(自称11歳?)、りえ坊(主婦?)、真咲南朋(AV監督)。こう書いても、どんな人々かわからないかもしれないけど、20代から40代までの、明るく面白くエロく、正直な人たちである。

彼女たちが、男をその気にさせるテクを実際やって見せたり、エロい特技を披露したり、これまでで一番過激な体験を告白したり…まあ、ショーマンシップにあふれる、楽しいものであった。

で、最後に誰が一番のヤリマンかを客席からの投票で決めるのであるが、自分がこのイベントに惹かれたのは、「やらされている感」がないからであった。

ながらく、この手のものは、男が企画し、そのシナリオに従って、女子がエロを演じるものだった。そして、もちろん、お客さんは男だ。男を喜ばせるためのもの。まあ、風俗と変わらない。

そこにあるのは、男の望むエロをやってみせる女の姿だ。彼女たちが望んだものではない。

けどさ、このイベントはね、その「やらされ感」がないのだ。(プロデュースしているのは、登壇者のひとり大泉さん)

登壇する女子たちが、自分のエロス体験を堂々と語る。それは男目線じゃない。男に受けるために語るのではなく、正直に自分の欲望を語るのだ。

だから、時にそれは、『男からひかれる」こともある。でも、そこにあるのは、「彼女自身の欲望」なのだ。

もしかしたら、ヤリマンとは、自分の欲望に正直に行動する女のことかもしれない。

これまで、「ヤリマン」とは、蔑称であった。(というか、今でもかなりそうだ)。男の場合、たくさんの女性と関係しても、『自慢」や「誇り」になるけれど、女性の場合は、急激に価値を落とすものだった。

「ヤリマン」という烙印を押されることは、女という市場のなかではその価値を著しく暴落させるものだった。

でもさ。

おかしいよね。なんで、男ならokで、女だったらダメなのか。

それを説明する言説は山ほどあるだろう。妊娠でも母親でも倫理でもなんでもいいけど、今更聞きたくない。

そんな風説をはねのけるように、舞台の上で自分のエロさをどんどん告白する彼女たちに、あっぱれ!と思った。その正直さ、明るさに本当にしびれたのだ。

しかし、話はこれで終わらない。

実は、私は、7月9日に東京大学で行われた、上野千鶴子さんの講義のDVDを作っている。講義を収録したものに解説を加えたDVDブックである。(講談社より今秋発売予定!)

上野千鶴子さんと言えば、いわずとしれた、大フェミニストである。テーマは「生き延びるための思想」であるが、その大半が、フェミニズムとはなにか…なんだったか…を問いかけるものである。

その講義を深夜、じっくり聴いていた。なかに、ひざを打つような言葉がいろいろ出てくる。

「フェミニズムとは、弱者(=女)が強者(=男)になろうとした思想ではありません。弱者が弱者のまま、尊重される社会を作ろうとした思想のことです」

パチン!(ひざを打つ音)

…つまり、女が男並みに強くなるのを目指すのではなく、女のまま、生きやすい場所を作ることを目指したのだ。

もうひとつ。

「私が過去40年に渡ってやってきたフェミニズムというのは、社会的弱者の自己定義権の獲得運動だったのだ」

バチン!(ひざを大きく打つ音)

つまり、「ブスは女じゃない」「あがったら女じゃない」「男を欲情させない女は女じゃない」など、これまで「女」とは、外から、つまり、男の側から評価されるものであった、ということ。

たとえば、「やりまん」という言葉も男が女に一方的に名付けるものだった。そして、そう名付けられた女はその評価のなかで生きるしかなかった。

その評価はかなり低いものであって、その刻印を押されたものは、同じ女性からも蔑視され、一生拭うことのできない、強烈なものだった。

自分のことなのに、自分で自分を評価することが許されなかった。

けどさ。このイベントを見てたら、登壇する女子たちが、自らを「ヤリマン」と名乗り、それを卑下したり、否定したりしないのだ。むしろ、楽しんでいる。

ヤリマンの自己肯定である。ここが上野さんの論説とつながる。彼女たちは獲得したのだ、自己定義権を。

自分で自分を定義したのだ。これって、歴史的なことじゃないかしら。

もちろんね、別に、性体験が豊富なことが正しい!とか素晴らしい!とかそれを目指せ!と言ってるわけじゃないんです。男でも女でもゲイでもレズビアンでも、自分の性生活は自分が決める権利があって、それを外から批判されたり、評価される必要はないってこと。

この至ってシンプルなことが、長い歴史のなかでは、叶わなかったんだよね。

かつては結婚するまでバージンじゃないとダメとか、性体験の多いものは「汚れている」とか、さまざまな外からの定義があったわけですよ。

それらからホントに自由になったんだなって。

イベントの打ち上げで、ふと、東電OLのことが話題になった。彼女もまた、ヤリマンだったかもしれない。けどきっと、彼女は、自己肯定できなかったヤリマンなんじゃないか。だからこそ、自分をどんどん追い込んでしまったんじゃないか。

なぜ、自己肯定できないかと言えば、自分が自分を決める前に、まわりが評価を下すからだよね。全否定してくるからだよね。その集中砲火のなかで、自分を肯定するのはものすごくむずかしいことだ。

だけど、少しずつ、女性たちが自分を自分で肯定していったんじゃないかな。その歴史の先に今があると思うのだ。

なので、一見、かなりおバカなイベントなんだけど、その意味するところは、深いんだ。

そのことを書きたかった。うまく伝わっただろうか。











「金曜の夜の楽しみは猫とドラマ」は寂しいか?

2011年08月17日(水) 03:59
ここのところ、映画の感想ばっかりで、なんか、自分、そういうカテゴリーの人みたいで、ちょっといやになってきたので、ちがうことを書いてみよう。

と言った舌の根も乾かぬうちだけど、きっかけは、アメリカのテレビドラマ「glee」のなかのワンシーンです。

「glee」は、高校のグリークラブ=合唱クラブのお話ですが、合唱クラブっていうと、みんなで並んで、「美しき青きドナウ」とか、クラシック名歌を歌うイメージだけど、それはアメリカ、歌って踊る、 エグザイルとAKBがごっちゃになって、ロックありソウルあり、ミュージカルありの、おしゃれなクラブです。

(ドラマのなかでは、アメフト部や、チアリーディング部に比べて、「ダサい」とされておりますが、ちっともダサくないです)

で、これをですね、DVDレンタルで、毎日見ているんですけど、コメディタッチのミュージカルドラマなんですけど、かなり批評性が強いんですよねー。

まず、このクラブのメンバーは、アジア系、アフリカ系、ユダヤ系が所属して、それぞれの人種に関するジョークやら言及が結構あります。

さらに、ゲイもいるし、車椅子の生徒もいて、「差別」問題をユーモアたっぷりに描きます。いや、差別問題そのものを描くことはなくて、ジョークのネタにしています。

ジョークのネタにすることで、見ているひとの心にすくう差別意識を刺激する…って感じでしょうか。

それはそれで、毎回、ヒヤッとしながら見ているんですけど、昨晩見た回に、これらとはちがった、批評性を見出したので書いておきます。

人種や障害については、自分は専門分野ではありませんが、これから書くことはちょっと専門っていうか、ずっと、関心を持ってフォローしてきたことです。

「彼氏のいない人生はさびしい…恋愛こそが一番大切なもの…なのか?」…っていうテーマです。

それはこんなワンシーン。

主人公のひとりの女子が、ライバル高校の男子と恋仲になります。いわゆる、ロミオとジュリエット状態です。

グリークラブをとるか、彼氏をとるか…って迷う女子に対して、とある教師が、彼女を呼び出します。

そこには、目ためのぱっとしない20代後半から中年の女性ばかりが集まっていました。

「彼氏のいない女たち」です。

彼女たちは、言います。

「金曜の夜は、猫とドラマを見るのが一番の楽しみ」

かつて彼氏もいたけど、女同士の友情や義理やしがらみで、手放してしまった。以来、彼氏ができない…。

など、口々に「彼氏のいない不幸せ」を語ります。

そこから見えてくるのは、「彼氏を作ることのできなかった」「結婚できなかった」女たちというのは、みじめでさびしく、醜い…というメッセージです。

この集団を見て、主人公の女子は、決意します。

「大事なのはクラブ活動じゃなくて、彼氏だわ」と…。

もちろん、コメディドラマだし、物語はそんなシビアではないんですが、この作り…うまいなーっていうか、批評性に富んでいるなあと思って。

つまりさー、映画やドラマや小説で繰り返し描かれてきたのは、「彼氏のいる幸せ」であり、「ひとりぼっちの女のみじめさ」であるということ。

それを繰り返し、刷り込むように描くことで、女子は幼いころから、「愛される」ことを目指す。

だって、愛されないと、惨めな末路が待っているんですもの。

醜く太り、金曜の夜を過ごす相手が猫だけになる…という脅し…。

カップル文化の強いアメリカではこの「脅し」はもっと有効でしょう。

自分などもすっかり、この「脅し」にはまって、恋愛こそすべて、愛する男のいない人生はゼロ…と信じて大人になりましたよー。なまじっか、ドラマや映画や小説にはまって大きくなったせいでね。

でもさ。

大人になってやっとわかったことは、恋愛がすべてではないし、「金曜の夜、猫とドラマを見るのが一番の楽しみ」であることはちっとも惨めなことじゃないってことです。

金曜の夜、レストランで彼氏と食事し、朝まで一緒に過ごすこともまた、楽しいことかもしれないけど、それが一番じゃないし、そんな日ばかりじゃなくていいってことです。

しかし、ドラマや映画には、「カップル=最高!」「ひとりは惨め」という、脅しが満ちている…ってことを、このgleeというドラマは、ばらしているんですね。

ここらへんが、すごい。

「ひとりは惨め」と伝える製作者側のやり口を、客観的に描いてみせる。

この視点にあっぱれです。日本のねーテレビや映画じゃ、なかなか、これはできないですよー。

しかし、最近は、作り手よりも受け手のほうが、進んでいますので、「恋愛に興味ない」若者が増えておりますね。

ドラマや感涙小説が、アイこそすべてと繰り返しても、「だから、なに?」って知らんぷりする女子も増えていることでありましょう。

エンタメの影響力不足を嘆く…べきかとも思いますが、いたずらに、カップルじゃなければ死を!みたいな刷り込みが無効になりつつあるのは良かったと思います。

もちろん、いつだって、なんらかの刷り込みはあるのでしょうけれども。刷り込みっていうか、教育…?文化とでも呼ぶのかもしれないけど。

…ということで、ドラマの感想というより、ドラマのシーンに刺激されて、感じたことでありました。


結婚の一番いいところは…

2011年01月24日(月) 23:40
「結婚」テーマにしていると、相変わらず、人気みたい。

「ノルウエイの森」について書いた時より、アクセス数が多い。

おお、そんなにも、結婚について語りたいものなのか。

ちょっと反省だな。以前、「MISS」(世界文化社)という雑誌で、「恋愛と結婚の間」という短編小説を連載してました。しかし、その渦中では、どーも、そんなに「結婚」が一大事と思えなくて、好き勝手に恋愛の話ばかり書いていた。うーもうちょっと、「結婚」に特化したら、本になったのかしらん。

…という、後ろ向きな発言はともかく、「結婚」という制度はすでにその使命を終わりにした…なんて、吐いてしまったけど、もちろん、そんなに簡単なもんじゃないよね。

たとえば、彼氏ができる。ハッピーにつきあう。が、彼氏、浮気、非常に傷つく。捨てられる…という事態に落ちたとしよう。

この場合、彼氏が暴力を振るったとか、借金を踏み倒したとか、具体的な「悪さ」があれば、別ですが、「ただ、ふられた」だけなら、誰も助けてくれない。友達は朝まで話しを聞いてくれるかもしれないけど、それ止まりでしょう。

が。

これが一旦、「結婚」となるとちがう。結婚していたふたりが、別れるとなると、慰謝料もいただけるし、財産も半分もらえるし、浮気された場合は、浮気相手を訴えることだってできる。つまり、法律が味方になって、“お金”をとってくれます。

これが、「結婚」と同棲の一番大きな違いですね。

(結婚すると家同士のつきあいになる…なんてことは小さいことです。同棲してても、親戚とつきあいたければ、つきあえるので。あんまし関係ない。)

同棲していても、結婚と同じ状態であったということが証明できれば、結婚していたのと同じくらいのお金を要求することも(理論上は)できるみたいだけど、成功率はぐっと下がるでしょう。

そういう意味では、結婚の意義はあるとは思う。まだまだ、女性のほうが、収入も少ないし、離婚してリスクを背負う確率は女性のが高いだろう。

けどこれって、「離婚した場合」のことなのよね。つまり、結婚って、離婚した場合に「お得」な制度だってこと。別れないで、仲良くやっていくなら、結婚も同棲もあんまり変わらないのよね。

へんでしょ、これ。

つまり、結婚のいいところは、離婚するとき、一番発揮されるのよ。別れる運命にあるなら、結婚したほうが得ってことです。

つまり、長く一緒にいる自信のない相手とは積極的に結婚しましょう。でも、このひととは安心…と思えるなら、結婚しなくても大丈夫です…。

とはいえ、まだまだ、女性のが弱い世界ですから(賃金も低いし、社会的地位も低いです)、そういう意味では、結婚とは、女性を守る制度とも言える。

2000年にスウェーデンに結婚について、取材しに行きました。(年中、結婚や恋愛やSEXについて、海外に取材に行ってます。面白いから)。

スウェーデンでは、「結婚」するひとは全体の半分くらいで、(2000年当時)、半分くらいは同棲のままでした。結婚してても、同棲でも、法律的には同じ扱いなので、あえて「結婚」するひとは、宗教的な理由が多いそうでした。敬虔なクリスチャンとかね。今はもっと結婚するひとが減っているんじゃないかな。

スウェーデンだと、18歳になるとたいていは家を出て、友達数名と家をシェアして暮らす。そのあと、好きなひとができれば、同棲する…というのが、一般的なパターンと聞いた。子どもができても、別れて、別の相手と暮らすひとも多いので、血のつながっていない兄弟姉妹が同居するってことも「普通」でした。ステップファミリーといいますね。

このように、ゆるい結婚観、恋愛観だとどんな感じなんだろう…。たとえ、「結婚」というしばりが弱いとしても、恋愛の終わり、関係の終わりが、「キツイ」ことには変わりがないんじゃないだろうか。

どんなに離婚するカップルが多くても、自分のときは、自分なりに傷つくから。

この質問をスウェーデン在住の日本女性に尋ねた。彼女も離婚経験者。

すると、彼女、答えて曰く、「たぶん、ぎしぎしの結婚システムのなかで暮らすより、同じ別れでも、つらさは軽いような気がする」と…。

なんで、そうなるかと言えば、結婚=絶対…、一生に1度の人。運命のひと、って信じていたものが失われるのって、すごく辛いよね。

けど、幼い頃から、くっついたり別れたりを見ていると、

「ひとってそういうもの」

「運命のひとは、数人いるようだ」

「ひとりとダメでも、次もあるし」

というふうに、ゆるゆる考えることができるようになると言う。「絶対、このひとと一緒になる」「このひとじゃないと死んじゃう」と思い詰めるのも美しいけど、壊れたときの痛手は深い。

椎名林檎先生も「ギブス」(この曲、大好き)のなかで、歌っているように、絶対なんて、そう簡単に信じないほうがよい。

…と思うのです。いえ、もちろん、自分も若き頃、「絶対」と信じて、数々の痛い思いをしてきたので。問題は、相手がいい男かどうかではなく、勝手に「絶対」と思ったりする自分なんだってことなんですよねー。

最近の20歳くらいのひとびとは、そんなに恋愛に関心がないという。これ、もっともだと思うんです。小学生くらいから、恋愛めいたことをやってきた世代ですし、親世代の離婚や不倫をたくさん見て来ているから、「恋愛至上主義」なんて、信じられなくなっているんだよね。これ、正しい。

ちゃんと、時代に適応して生きているのだと思います。

でもさ。

そんな時代でも、愚かにも熱心にひとりのひとを思い続けて、破滅して、傷ついて、狂うひとは必ずいて、そういう間抜けな人生を送ってしまうひとが、実は、自分は好きだったりします。

そっからでしょ、本番は…と思ってます。では、

結婚のいいところは、離婚のときに発揮される…というのが今日のまとめでございます。



結婚でしばれるもの。

2011年01月24日(月) 03:20
結婚について書いたら、アクセス数が延びたので、もうちょっと書く。

ホントにみんな関心のあるテーマなんだな。けど。

結婚という制度というか、形式は、すでに不要というか、終わっている…と実は思っている…なんて書くと、批難されそうだし、批判される余地もいっぱいあると思う。

けど、現実に終わっているからこそ、結婚するひとが減ったのだと思う。

(よく経済的理由で結婚できない…という意見も聞くけど、今より日本のGNPが低かった時代でも、結婚するひとはたくさんいたし、独身の男女が別々に暮らすより、一緒に暮らしたほうが、経済的には楽になるはずだから、経済的理由っていうのは、あんまり信用できないなーと思う)。

じゃあ、なんで結婚しないひとが多いかといえば、結婚しなくても困らないからだ。同棲でいいからだ。

ちょっと前は、結婚前に男女が一緒に暮らすと、世間的に批難される気配があった。1970年頃には、「同棲時代」という漫画があって、同棲しているだけで、世間を敵に回す二人…という描かれた方だった。

なんてふしだらな!なんて、ハレンチな!…って言われたのね。

でも、今、同棲してて、とやかく言うひとってほとんどいないでしょう。

それと、今の結婚と、前の結婚は根本的に違っているのだ。「前の結婚」っていうのは、明治時代からつい最近の昭和くらいまでの結婚だ。

前の結婚って、要するに「家」と「家」の結婚だった。家を存続させるために、嫁に行ったのだ。だから、結婚式だって、親戚のみんなに新しいメンバーを見せるために必要な儀式だったのだ。

ケニアに去年行った時、結婚について地元の女子に聞いたら、今でも、お嫁に行く代わりに、牛を20頭もらう…とかあるらしい。嫁は新しい働き手であり、子どもを生むひとだから、立派な資産なんだよね。

これらの結婚は、恋愛に基づくものではなくて、「家」と「家」あるいは、父親同士の取り決めによって行われた。いわゆる見合い結婚。取り決め婚とも言う。

今、多くのひとが想像する結婚て、「愛」によるものでしょう。たとえ、見合いであっても、合コンでも出会い系でもいいけど、結婚する大きな理由は、「好きだから」「一緒にいたいから」だと思う。

自分の家を存続させたいから、牛が必要だから…っていうひとは少数だと思う。

結婚の意味が違ってきてしまったのだ。けど、法律上は同じ扱いになっている。(もちろん、旧民法のような「家」制度はないけど)。

これが、結婚がおかしくなっている理由だと思う。

もし、「好きなひとと一緒にいたい」っていうのが一番の理由なら、結婚という制度は必要ないんじゃないか。

誰の許しも必要なく、一緒にいればいい。国に届ける必要もないし、親戚に知らせる必要もないんじゃないか。

(親とか親しい友達に、ちょっと知らせるってことはあるかもしれないけどさ)。

もちろん、今も、結婚していない男女の間の子どもは、法律的な差別を受けるし、結婚していないと、どっちかが死んだときの遺産相続などでもめることになる。これらも、法律が追いついていない結果だ。

この「追いついていない法律」のために、面倒をさけるために、結婚するってことはあると思うけど、それだけなんじゃないか。

結婚って今や、クリスマスを一緒に過ごそうとか、バレンタインにチョコレートを送ろう…というのと同じような、形式的な愛の確認方法である。「結婚」というかたちをとったほうが、愛が長続きするような錯覚があるだけだ。

クリスマスを一緒に過ごしても、バレンタインにチョコレートを送りあっても、別れる時は別れる。結婚も同じ。

だってさー、ひとの気持ちを保証することはできないよ。制度によってなりたっていた結婚なら、制度によって、しばることができるけど、愛=気持ちによって、成り立っているものを制度によって、しばることはできない。

…と思っている。まちがってる?

とはいえ、結婚式などに行くのも好きだし、幸せに…と素直に思う。それはそれでイベントとしてアリだと思っている。

というか、自分は結構派手な結婚式したし、ウエディングドレスも着たくせに、籍は5年くらい入れなかった。…主張があったのではなく、届け出に行くのが面倒だったのでした。放置していたら、「結婚を条件に住宅ローンを組んだ」銀行から怒られたのでいれました。(その後、リコンしましたけど)。

というわけで、自分は、法律が現実に追いついていないだけ…と思うのです。

けど、今も、「結婚」というのは甘い響きを持っていて、そこには、「一生、君と一緒にいるよ」という覚悟を感じさせるので、うっとりさせるのかもしれないです。

…あ、このような結婚観だから、離婚したんでしょ…と批難されそうだなあ。そうかもしれないけど。

制度によって気持ちはしばれない。しばれるのはお金だ。が、お金が、気持ちを癒すこともあるから、難しいところであります。





結婚したい気持ち。

2011年01月21日(金) 23:57
自分の感覚。これについて、今さら、多少、不安になっている。

いや、なにが不安かっていうと…。

先日、とある女性の悩みを聞いた。同棲中の彼が、結婚してくれるかどうか不安だという。なるべく早く籍を入れたいという。

まわりの友人も次々と結婚するし、親からも「どうするの?」と聞かれるので、早くしたいそうである。

正直、自分にはその悩みがまったくわからなかった。

「一緒に住みたい」というのならわかる。けど、すでに一緒に暮らしているのなら、別に籍など入れなくてもいいのではないか。まわりが結婚しても、自分には関係ないのではないか。

まあ、親がうるさい…というのは、十歩ゆずって、そうかもしれないなーとは思う。けど、ロミオとジュリエットの時代のように、反対されて、殺されるわけでもあるまい。適当にしていれば、なんとかなるのではないか…と思ってしまう。

ところ変わって、今年のお正月、友人のパーティーで知りあった女性。私が自己紹介をしたとき、友人が、「このひとはずっと事実婚なんですよ」と付け加えた。私自身は、事実婚をした覚えはないが、長く一緒に暮らしているひとはいる。自分はふだん、そのひとのことを「同居人」と呼んでいる。

言葉の正しい意味において、同居人だからである。事実婚みたいな、なにか主張あって、籍はいれませんとか、名字は変えませんとか、立派なテーマのものではない。なんとなく一緒に住んでいるうちに時間が過ぎただけである。

まあ、それはともかく。すると、その知りあったばかりの女性が、「日本で事実婚をしていると、なにかと差別を受けませんか?」と聞いてきた。「え?差別?」

短い間、考えた。なにか不利益なことがあっただろうか。えーと、えーと。…ちっとも思い出せない。

なので、「あんまり、ないような気がします」と答えた。

すると、「へえ、日本は、事実婚に差別的だって聞きましたけど…」と仰っていた。(外国暮らしの長い方だったんですね)。

いや、この2例から、考えたのである。自分はもしかしたら、結婚とかそういう部分において、普通の考え方を忘れてしまっているのではないか。同棲が長く続き、結婚できるかどうか不安に思う女子の気持ちや、事実婚みたいなことをして、不都合を感じ、行政と闘っているひとの気持ちがわからなくなっているのではないか。

なんか、そういう結婚とかそういう形式めいたものに、ちっとも関心を払っていなかった。

いや、もちろん、自分は自分なので、わからなくてもいいんだけど、やっぱり、自分は、物語を書くので、そういうとき、「その時代の平均的な考え方をする女子」の気持ちがわかったほうがいい。

主人公は、普通のひとであるほうが、読者を集めやすいのだ。

このズレがなあ…。

でもさ、なんで、「結婚」なの?なんで、籍を入れないといけないの?一緒に住むだけじゃだめなの?

根本的にわからんよ、ここが。

もうひとつの話。

友人(男)が40代後半で会社を辞めて、フリーになった。すると、彼の妻がたいへん心配している…というのである。これも最初は意味がわからなかった。

会社をやめたのは旦那であるから、旦那が不安になるならわかる。初めてのフリーランスとか。でも、妻は関係ないじゃないか。

いや、もちろん、旦那がフリーになって収入が減ったらいやだ…という種類の心配や不安なのかもしれない。それは想像はつく。想像はつくけど、本心を言うと、あんまり理解できない。だって、別の人間じゃん。

収入が減るのが心配なら、その分、自分が働けばいいじゃないか。病気、介護、子育てで自分は働けない…というのなら、旦那以外から収入を得る方法を考えるしかないのではないか。福祉とか実家の親とか、愛人とか、株とか。

いやいや、そういう話じゃなかった。そういう不安になかなか共感できない自分にもうちょっと自覚的になろうと思ったのでした。そういう空気をさ、ちゃんとわかってないと、たくさんのひとに共感してもらいにくいんだよ…ってことを最近、学習したので。

とはいえ、難しいけれどもね。

余談ですが、今日は、劇団「ハイバイ」の「投げられやすい石」を見て来ました。旧作の再演ということでしたが、自分は初めて見たので、ちょっと新鮮だった。これまで見て来たハイバイの舞台と趣がちがっていたから。

時系列にそって事件が起きる、すごくオーソドックスな構成だった。事件そのものは相変わらず、へんてこで面白かった。

これまで見たハイバイの芝居は時間も空間も人物像も瞬時に入れ替わっていくので、初めて見たときは、すごい衝撃を受けたけど、それに慣れた今、時間も空間も人物も入れ替わらないと、「あれ、普通に時間が流れている」とかえって、驚くほどだった。

(余談の余談だけど、芥川賞受賞作「きことわ」も、時間や場所が動いていく物語らしい。それが新鮮で、受賞となったらしいけど、これについて、「演劇界では、普通だし、もっと上手に描いている」とは、知人の演劇通の談話)。

それにしても、主演の岩井秀人さんの、「こわれた芸術家」ぶりはなんとも言えない魅力がありました。

その後、渋谷で、「キック・アス」を見ました。二回目なので、細部を注意して見ることができた。やっぱり好きだわ、この映画。

「キック・アス」がオマージュを捧げている作品、整理して見ないとね。「アメリカン・ビューティー」が出てきてうれしかったす。

とりとめなくてすみません。


正論の限界

2009年01月31日(土) 19:39
昨日は、睡眠時間がめちゃめちゃだったため、あまりまともなことが考えられなかった。が、実はずっと気になっていて、書きたいことがあったのだった。

それは、一昨日に見た芝居自転車キンクリートの「29時」について。というか、これをきっかけに考えたことである。「29時」は、前に書いたように、40代半ばのバージン女性が主人公である。彼女は、それまで、異性とつきあったことがない。ところが、片思いをしていた男が結婚するとわかり、いよいよ気分的に追い詰められる。物語は、そんな状態の彼女にかかわる3人の男たちとの一夜のお話である。

物語の詳細はいろいろあるけど、最後に、彼女は、長年の友達だった男友達に勧められ、まさに結婚式を挙げようとしている男に「告白」しに行くというところで幕を閉じる。これまでできなかった、「告白」をいっそやってみよう…ということである。これは芝居の結末であるし、こういう解決もあると思う。だけど、なんか、ずっとひっかかっていた。

彼女はこれまで男性とつきあったことがない。でも、「好き」になったことはある。が、好きになっても相手にされないだろうと思って、告白もせず、今日まで来てしまった…というのである。もし、自分が彼女の友達だったら、やはり、『好き」と告白するところから始めたら?と言ってしまいそうである。好きになったら、それを伝えてみる。そこからしか始まらない…みたいなことを考えていた。
が。

本当にそうなんだろうか。それはまさしく『正論」なのだ。確かに、好きという気持ちを伝えなければ、なにも始まらないし、なにも変わらない。が、伝えたところで、玉砕する可能性の方が高いのがほとんどの場合の事実だ。だとすると、「告白しなよ」ということは、正論だけど、あんまり意味がないのかもしれない。なぜなら、彼女は40年に渡って、「その方法ではダメだ」ってことを身をもって知っているのだ、多分。それは、よく言われるように、「パンがなければ、ケーキを食べればいいじゃないの」的なアドバイスなのではないかと、気づいたのだ。おめでたいアドバイス。

普通の恋愛→結婚という流れは、一般的に言えば、「パン」である。が、彼女(「29時」の主人公)にとっては、パンではない。普通のひとが普通に食べられるとされている、パンが食べられない!と叫んでいるのだ。その彼女に向かって、これから結婚しようとしている男に告白せよというのは、「じゃ、ケーキ食べれば?」というのに等しい。いきなり映画「卒業」のようなことは起こりっこない。

だから、そっちの解決法じゃダメなんだ。「恋愛」という呪縛を離れないといけない。もっと全然違うやり方。まあ、そのひとつが、20代の売りセンボーイを買うことかもしれないし、養子をもらうとか、ボランティアとして他の国に旅立つとかかもしれない。ようやく、自分の発想の限界に気づいた。どうも、まだまだ、どこかで男女の愛というものに、憧れというか、すべてを解決する力を信じていたのかもしれない。男女の愛こそ(なにも男女でなくても、恋愛的な愛情こそ)、一番のもの、崇高なもの…と実はとことん、信じていたのだ、自分は。

「そんなもん、これまでさんざん求めたけど、ちーとも得られなかったから、騒いでいるんだよ!この寂しさがわかるか!」と言われて(いや、実際、言われたわけじゃないけど、言われるところを想像して)…段々、ようやく、わかってきたのだ。恋愛がほしいのではない、寂しさを埋めたいのだと。

さみしさを埋めるのは、恋愛だけじゃない。他にもいろいろあるはずだ。恋愛がないからおしまい…という考え方こそ、狭いロマンチックラブイデオロギーの呪縛だ。そこから解放されて、もっと別の方法を探る…これこそが解決だったんじゃないだろうか。主人公がやることは、「告白」じゃなくて、別の道を探す方法だったんじゃないか……、そのことをずっと考えていた。

……と熱くなっている暇あったら、自分の小説、書けよ…ということですが、はい。

一夫一婦制と新自由主義

2009年01月15日(木) 00:00
ふと気づいたことがある。一夫一婦制とはなんだったのだろうってことである。

動物の世界では、雄が雌を(雌が雄をでもいいけど)、探すのは命がけであり、すべての雄が雌を獲得できるわけじゃない。弱い雄は雌を獲得できずに遺伝子を残せなかったりする。人間もちょっと前まではそういう時代があり、一人の強い雄(王様だったり、武将だったり)がたくさんの雌を独り占めしたりしていた。大奥なんてそういうもんだった。

が、それは不公平だってことになって(というか、そういう不安定な状態だと戦争が起こりやすく、結局、人類は滅びる方向に進むから、平和を目指して)、一夫一婦制がだんだん確立されてきた。これなら、弱い雄でも雌を獲得できるし、強い雄に独り占めを許さず、ヤリ逃げを許さず、世界が平和になる。近代ってそういう時代だったのかも。(非常に大ざっぱに言ってます)

が、現在たいへん、怒られている新・自由主義と同じで、1980年くらいから、大幅な恋愛市場の自由化が進んだのではないかと思う。つまり、恋愛至上主義(あるいは恋愛原理主義)。これって、実は市場原理主義にとても似ていませんか。それが現れた時期もテーマも、そして、担い手も重なっているように思えてきた。

市場原理主義は、規制を緩和して、「儲けられるひとはとことん儲けてよし!」としたわけですよね。その結果、すさまじい格差社会ができちゃった。恋愛市場も同じで、「恋愛が一番なんだから,モテるひとはどんどんモテてよし。不倫も関係なし。愛人もOK」となり、恋愛における規制を緩和した。結果、恋愛格差社会ができ、結婚できないひとが、どっと増えた。なんか、似てない?

で、現在。かような行き過ぎた「自由主義」つまり、欲望お任せ主義だとやはり、人間も獣と同じで、格差を作ってしまう。ダメじゃん。やっぱり、人間は欲望お任せ主義ではなく、富も女も(男も)分けあおうよってなってきたのではないか。つまり、一夫一婦制の復活。婚活なんて言葉が流行るのも、恋愛はひとまずおいといて、パートナー見つけていいですか?って方向に転換しているのではないだろうか。

SNSのコミュをいろいろ見て行くと、「恋愛体質がキライ」みたいなコミュがあったりする。確かにかつての日本だったら、(70年代くらいまで?)、恋愛が苦手でも、見合いとかによって、相手を見つけることができた。そこに恋愛を持ち込まなくていい風潮があった。それが、恋愛至上主義で一気に破壊された。恋せずに結婚するとはなにごとぞ!というテーゼによって、恋愛の苦手なひとは伴侶を見つけられなくなったのだと思う。

で、今。新・自由主義が立ちゆかなくなったように、恋愛至上主義も限界を迎えているのだろう。「だって、恋愛苦手だもん」と声を上げるひとが出てきたのだ。…と解釈した。これからって、少し時代が逆戻りした感じになるんじゃないかな。そんなことを漠然と感じた。一夫一婦制は強固になるのかもしれない。

…なんか、自分、とことん、時代に逆行してそう。ますます。おお、孤立するぞ。
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