山田あかねの一喜一憂日記

事件
(記事数:22)

気持ちが入ってなければいいじゃないか。

2013年02月05日(火) 05:12
アイドルの女性が、恋愛禁止を破ったことを反省して、頭を丸刈りにした。

ずいぶんと騒がれていて、謝罪として丸刈りにするのは日本の伝統としてよしとする意見もあれば、「人権侵害ではないか」と異議申し立てをする人もいれば、よくやった、とかファンは許すとかいろいろだった。

特に思い入れもなく、いろんな意見が流れていくのをツイッターやWEBのニュースなどで見ていた。

ただ、漠然と感じたことは、恋愛禁止のルールもそれを破って見せるのも、丸刈りにして謝るのも、結局のところすべては、ひとつの「芸」のなかに収まっている…ように思える。

なので、「芸」としてはどんな風がよかったか…という視点で考えてみた。

私がゴーストライターだったら、このような筋書きを考える。

丸刈りになってみせるより、

「恋愛禁止のルールは破ってません。だって、恋愛してませんもの。あれはただのセックスでした。一晩泊まって、やっただけです。大丈夫、気持ちは入れてません!」

というのがいいなと思いました。

永井荷風先生の書いた「墨東忌憚」には、遊女の恋愛が出てくる。

遊女は身をひさぐことが仕事だから、愛をかわした男がいたとしても、別の男とも寝なくてはいけない。

だから、約束をするのだ。例え、別の男と寝たとしても気持ちはあなたのところにあります…って。

これでどうでしょうか。

「あれはただのセックスでした。相手の男に気持ちなどみじんもありません。心はいつもファンのみんなと一緒です。いくときもみんなのことを考えたよ、だから、心配しないで!」

こうだったら、かっこいいのになーって思いました。

ダメですか。乗り越えられませんか。

もちろん、相手の男性がかわいそうでありますが、自分と一晩過ごしたことを、丸刈りにされて謝られるのだって、充分、男としてはつらかろう。それよりは、一夜の過ちでした…ってほうがよくありませんか。

そんなことを考えてました。

「母親的ふるまい」という戦略。

2012年07月14日(土) 11:44
先日の木嶋佳苗ナイトで感じたことの補足など。

木嶋佳苗なる女性は、婚活サイトで知りあった男性に対して、「母親」的スタンスでのぞんでいたフシがある。

ここは案外ポイント。

「つきあう」なら、セクシー系だったり、かわいいなどの一時的お楽しみが重視されるけど、結構、今でも、結婚となると、「長くつきあう」から、料理がうまいとか世話をしてくれるとか、「母親的」な要素が肝心だと思われるのかもしれない。

で、そういう女性を望んでいるひとを対象にしたようだ。

女が男をだます…お金を巻き上げる…という事件だと、たいてい、その女は「性的魅力」でもって、男を籠絡することになっていた…なっていたと思われてたけど、今でもそういうタイプの方が多いのかもしれないけど、案外、「母親」作戦も有効なのかもしれないと気づいたのだった。

しかし、前に50代なのにイケメンの年下彼氏(35歳)とつきあっている女性(美人)が言ってたのは、
「一番、気をつけているのは、彼の母親にならないことなんだ」ってゆってた。

「母親みたいで楽」って思われたら、別れるとゆうてた。

だから、母親的スタンスっていうのは、性的スタンスと同じくらい、男性にとっては「効く」ということで、それを木嶋佳苗さんはよくわかっていたのだなあと思った次第。

久しぶりにゆっくり家にいられたので、午前中から書いてしまった。

さわやかな土曜の朝にあまり似合わない内容だけどね。

昨晩は、ツイッターに、「ブスとフェミニズム」「恋愛至上主義とフェミニズム」について、思いつくまま書いたら、結構反響あったので、おって、これについても、ここでちゃんとまとめて書きたいと思ってます。

イタイことばかり書いたから、優しい写真をつけておこう。



 子なくても ふたつの命 我を待つ 
       
            (詠み人知らず)



木嶋佳苗ナイト行ってきた。

2012年07月10日(火) 01:59
今日は、新宿のロフトプラスワンで行われた、「木嶋佳苗ナイト」に行ってきた。

「毒婦」の著者の北原みのりさん、「別海から来た女」の佐野眞一さん、「木嶋佳苗劇場」の神林広恵さん、高橋ユキさんらが登壇し、木嶋佳苗について語る、というトークショーである。

諸事情により、1時間くらい遅れて行ったのだけど、とても面白かった。(前半聞けなくて残念!)

殺人事件をめぐる話に「面白かった」という感想もないかもしれないけど、それぞれの話を聞いている間、頭のなかがフル回転して、いろんなことを考えて、刺激的だった。

今日の出演者たちの著作はすべて読んでいるけれど、本には載らなかったこと、書かなかったこと、などが聞けるんじゃないかという期待もあった。

トークは一部が前述した方たちによるトーク、2部が佳苗ギャルと言われるひとたちに関するトーク、3部が佳苗容疑者が死刑判決を受けたことについてのトークだった。

どれもそれぞれ興味深かったけど、気になったことのひとつは、3部での話。

青木理さんという作家が登壇し、木嶋佳苗容疑者と上田美由紀容疑者という人を比較した。この時、私は「うえだみゆき」という女性がどんな人でどんな事件を起こしたか、まったくピンと来なかった。

青木さんが説明し、事件を報道する新聞記事と上田容疑者の写真が出て初めて、「あーそういえばそんな事件あったな」と思い出した程度だった。

上田美由紀容疑者もまた、太っていて、あまり美しくないのに、6名もの男性を色香に迷わせた挙げ句に殺害していた。

そういう意味では、ある種似たような事件かもしれないけれど、自分にとっては、こちらの事件にほとんど興味を惹かれなかった。

しかし、青木さんという作家はこの事件により興味を持ち、事件のあった鳥取まで行って、ルポを書いたらしい。

そこで、なぜ、自分はこっちの事件に興味を持たなかったかについて、考えた。

それは割と簡単で、どこかで既視感のある事件だったからだ。容疑者はデブ専といわれる、風俗嬢で、そこで知りあった客を殺害していたようだ。

青木さんは、この被害者の男性のなかには、大手新聞社の記者や警察関係者もいたといい、「そんな、人を見抜く目をもった男をだますなんて、すごい女だ」みたいなことを語っていた。

しかし、私はこの言葉にもピンと来なかった。というか、その視点こそに既視感があった。

知的(?)と言われる職業の男性が、何一つ秀でたところを持たない風俗嬢に入れあげてしまう…!なんて話はよくある話である。

美女と野獣の反対というか、「異界の女に恋するフツウの男」というテーマである。

その女が「異界の女」だからこそ、強く惹かれる…という仕掛けがある。

そして、その「異界」とは、男のいる世界から見ると、圧倒的に下位にある世界である。

男は、上の世界から、女のいる世界に降りていって、女とかかわる。

底辺の女を愛する、底辺の女に手を差し伸べる…ところに、きっとたぶん、ある種のヒロイズムというか、男を満足させるものがあるんだと思う。

風俗を好む男、買春する男のなかには共通して、このヒロイズムがある。

下位の女じゃないと萌えないタイプ…とでも呼んでおこう。

現実にもよくある話だろうし、日本の小説などでも好んで描かれてきたテーマである。

知的な男が、「ちょっとおかしい女」に夢中になる…というのは、(小説のなかでは、この手の女は美女ってことになってるけどね)、文学の王道ではないでしょうか。(映画でもよくある)

高橋和巳の小説などにも、立派な妻がいながら、中年のお手伝いさんに溺れてしまう男がいたような気がする。男はその女を軽蔑しながらも離れることができないんだよね。

なので、私は、「またか…」と思って、割りとスルーである。

一方、木嶋佳苗容疑者に興味を持ったのは、やっぱり、彼女がこれまでの女性の犯罪者と一線を画していたから…というか、新しいタイプの犯罪者だからだ。

新しいとはいえ、理解できないシリアルキラーというのではなく、彼女のなかに、理解できる部分、想像できる部分があるからだと思う。

男が求める女性像をしれっと演じてみせる姿……。

これは、最近の女性なら、理解できるんじゃないだろうか。

自分も女性だけど、時々、「女装する」と言ったりする。男性の望む女性の姿に変身することで、物事を運びやすくしたり、自分も女装を楽しんだりするのだ。

そういう、もはや、現実にはいない女像を生きる…という虚構性を私たちはもう知っているのだ。

なので、この事件に対する男女間での温度差というか、視点の違いがあらためて浮き彫りになった気がして面白かった。

もうひとつのここでしか聞けないエピソードは、北原さんが、この会場に来る前に、千疋屋にて、佳苗容疑者のお気に入りだった「フルーツパフェ」を食べて来たという話。

2100円もするというパフェを木嶋容疑者は頻繁に食べていたらしい。

そこで実際にパフェを食べた北原さんは泣きそうになった…と言った。なぜ、泣きそうになったか…その理由も語っていらっしゃったが、ここには書かないことにする。

けれども、「千疋屋のフルーツパフェを食べる私」という自己像に酔う木嶋佳苗という女性にある種の悲しみを感じるのはよくわかる。

ブランドものに身を包むこと、ブランドものを手にすること、それでしか自分を保つことのできない女性を私はたくさん知っている。

自分が自分であることに自信がもてずに、ブランドに託すのだ。

佳苗容疑者が託したものは、千疋屋のパフェだとしたら…。

確かに千疋屋は老舗であるし、2100円のパフェは美味しいと思う。

けどさ。

フルーツパフェに支えてもらう自己像…というのに、悲しみを禁じ得ない。

いや、もちろん、自分だってそんなに自己像が安定して生きているわけではないんだけど。

2100円のパフェを食べ続けるために、(パフェはひとつの象徴であって、ベンツでも代官山の料理教室でもいいんだけど)、そのために人を殺めてしまうという…痛み。

そういうことをいろいろ考えながら、3部までしっかり見て帰ってきたのであった。

やっぱりこの事件、今の日本の男と女の関係性を浮き彫りにして見せてくれるんだよな。



ミスコン覚え書き

2011年10月19日(水) 05:18
ICU(国際キリスト教大学)で、ミスコンを行うかどうかで、もめているようです。

反対声明を出す方たちがいて、ツイッター上でもかなりの盛り上がりをみせています。

それに対して、「ミスコンに反対なんて、うぜえ」って態度の方も多いようです。

「女性を容姿で判断するのは差別だ!っていうけど、学力やら運動能力やら、あらゆる基準で判断されているのが、この社会なんだから、今更、文句言うな!」みたいな意見も読みました。

また、「能力(=容姿の美しさ)のあるものが、褒め称えられるのは、当然だろ」という意見も。

こういうのを読んでいると、漠然と不愉快になります。

理論的にどうであるか…客観的にどうか…ってちょっと、どうでもよく思う瞬間です。

なんかね、そういう理論的な話じゃなくて、「ミスコン…って聞いたときに、漠然とちょっとやな感じがする」ってことだと思うんですね。

今はもう、じゅうぶん、オトナですから、いちいち傷つきませんけど、例えば、自分が高校生や大学生で、その中でミスコンが行われていたら、「ちょっとヤナ気持ち」になるわけです。

それはもう、明らかに自分は入ることのできない序列が進行して、それを間近で見ることになるからです。

もちろん、スポーツに優れたひと、学力が抜きん出たひと、いろいろいるわけだから、容姿による選抜に過剰に反応するのは、おかしいだろう…ってことになります。

でも、それは「理屈」に過ぎない。

ひとがなにかを漠然と不愉快だ…と思うとき、その根拠はなんなのか…突き詰めて考えることは必要だと思うんですよね。

運動や学力は、努力すれば得られるものだから…という解釈もありますけど、それだけじゃないような気がする。

容姿だって努力すれば、かなり改善されますからね。

けど、「女性を容姿のいい順に並べる」ことに関する、「やな感じ」は、努力すれば得られるかどうか…ではなくて、人生でかなり大事とされている「愛情」というものと強く関わっているんじゃないか…ってことをうすうす感じさせるからではないかしら。

容姿に優れた女性のがもてる……っていう、黄金の真実をあらためて、つきつけられるからではないかと。

(ここで、いろんな反論を予測できます。美人でもモテないひとはいる。ブスでも愛されることはある。まあ、そうでしょうけどね)

いや、なにが言いたいかというと、「漠然としたやな感じ」っていうのが、案外、大事なんじゃないかってことです。

世の中のルールがどうであれ、現実がどうであれ、ほとんどのひとがそれを受容しているようであれ、「なんか、やな感じ」と思ったことを「なぜ、やな感じなんだろう?」って考え直してみるのは大事なことだと思うんです。

「なんとなくいや」なんてことで、ひとさまがやろうとしていることに反対するなんて、できねーよ、日本は自由の国なんだからなー、そっちのほうこそ、言論統制みたいで、恐ろしいよ…と言われるなら、それまでですけど。

もちろん、「なんとなくいや」をつきつめたところ、「いやじゃなくなる」「どうでもよくなる」ということもあるんですけど、今のところ、女性をあからさまに容姿で順番つけるのを大学などでやるのはあんまり好きじゃないなーってだけですね。

外の世界でたっくさん、やっているんだから、わざわざやらんでもいいでしょう…って思う。

自分は大学で自主映画を撮ってましたが、それを「不愉快」と思うひとがいて、「大学の外に映画はあるんだから、大学でやらんでいいだろ」って言われたら、同じなのか…と考えこみましたが。

「いやだ!」っていう自由もあるはずだ。

うまくまとまらないなー。

ほんとは大学生の頃のミスコンに関するちょっとしたエピソードを書くつもりだったけど、やめておきます。

たとえば…

ひとを殺すのがいやなのは、法律で決まっているからでも、それが悪いことだからでもなく、「いやだから」だと思うんです。ひとがひとを殺す様子を見て、「いやだ」と思う。自分が殺されそうになって、「いやだ!」って思う。

理論や善悪の基準はあとから生まれてきたものにすぎない。

人殺しはいやだね…って思うひとが多いから、法律で禁止され、「悪」に認定されたんですよね。あとから解釈はついてくる。

だから、女性を美しい順番にならべて喜ぶひとたちをみるのは、いやだってひとが多くなったら、それは「いやなこと」に認定されるのではないかしら。そして、認定されるかどうなんて、本質的にはどうでもいいような気がする。

私は、たくさんの犬が殺されることがいやなんですけど、それは、いやだからです。牛や豚は殺して平気で食べているのだから、恣意的なことはわかってます。でも、いやなんです。

そういうことじゃ、ダメですか。

でもいつか牛や豚も殺さないでいられるようになるかもしれないし。




ボランティア今昔

2011年05月03日(火) 03:10
震災後、各地でボランティアが活動している。

かくいう、自分も一日だけ、福島に犬猫の世話に出かけた。

ツイッターでもボランティアにでかけた人の話は多いし、芸能人もいっているし、今でもたくさんのひとが働いている。

なんか、すごく変わったな…と思う。

自分が子供の頃は、ボランティアという概念さえ、あまりなかったんじゃないかな。

見ず知らずのひとを助けるために働くってことは、そんなに一般的じゃなかったはず。

その代わりに、村とか地元とか、親戚とかってネットワークがもっと強固で、村で困ったことがあれば、村中で助け合うとか、親戚が被災したら、助けに行くとか、そういうものだったのではないかと思う。

それはとてもいいことである一方で、なにをしてもすぐ村中に知れ渡るとか、なにかするのに親戚じゅうの暗黙の同意がいるとかってことがあって、面倒なことだったんだろう。

だから、みんな、そういう狭い社会を嫌って、個人で生きていける社会を望んだのだと思う。

その結果、無縁社会なんて言われてしまったけど、そうなったら、ちゃんと、ボランティアというものが自然発生的に生まれ、発達してきたのだと思う。

見ず知らずのひとでも、親戚でも友だちでもなく、地元でもなくても、困った時は助けよう、という考え方が広まったのだ。

なんだか、社会というか、人間というのは、案外よくできているように思う。

地縁や血縁がうすくなった分、それをカバーするものが生まれて来てるんだよね。

地縁や血縁もいいけれども、こういう、なんのゆかりもなくても、助ける、力になる…というのは、随分、レベルの高い、感情だと思う。

地縁や血縁だと、助けてもらったら、こっちも助ける、という狭い円のなかで循環している関係だけど、それをもっと広い範囲でとらえたのが、ボランティアだよね。

小さな村、町、家族…という集団ではなく、地球レベルで考える、国も人種も越えて、困った時は助ける…そういう考え方だ。

これはすごくいいと思うのだ。だから、ボランティアとして、たくさんのひとが、東北に出かけているのを見るとなんか、いいなーと思う。

(いえ、もちろん、現場はそんなこと言ってられないくらい、たいへんなのはわかっているんですが…)。

そこに希望を感じるのでした。

自分も、また犬猫救済に行きたいのですが、来週から、ロサンゼルスにロケハンに出かけるため、当分、行けそうにない。

困っている犬を助けたいよね。自分の犬じゃなくても。

動物のいのち、その後

2011年04月24日(日) 20:23
昨日の日記に書いた、犬猫救済プロジェクトですが、40頭の犬のうち、ほとんどに里親が見つかったみたいです。

よかった〜。

犬猫救済プロジェクト


ひとまず、この件のみ。

動物のいのち。

2011年04月23日(土) 02:56
昨日は、福島に、動物救済ボランティアに行ってきた。

原発から20キロ圏内に残された犬、猫のことがずっと気がかりで、自分でもなにかできないか、ニュースやネットの情報を見て、ジリジリする日々でした。

で、東京で気に病んでいても、なんにもならない。できることをやりにいこうと思いました。被災してきた犬を一時預かりしてもいいし、里親として生涯、世話をするのもいいじゃないかと思って。

で、ネット上で、動物救済をしている団体を調べ、そのなかのひとつと連絡をとり、行く事になった。

でも…ひとりでいきなり行くのは不安だった。何しろ、福島まで車で4時間かかる…往復運転できる体力はないし、

そもそも、どんな状態になっているかもわからない。

それに、今までボランティアをやったことがない。ロケは肉体労働と言えるかもしれないけど、でも、本当の肉体労働ではない。あとは、日がな、机に座って、好き勝手に何かを書くことしか、やってこなかった。

こんな自分が役に立てるのか…

数々の不安を胸に、まずは移動手段を確保した。ドラマの制作部で日頃からお世話になっているひとに、運転を手伝ってほしいといったら、ふたつ返事で引き受けてくれた。

さあ、これで出発できる。が。

せっかく行くのだから、もう少し、役に立つような人材を集めたほうがいいのではないか。自分など、体力のない、ただの犬好きだ。

ということで、30代の男子2名に声をかけたところ、「行く」という返事をもらい、四人組が成立した。

朝四時、新宿を出発。ドラマ、映画関係者なら誰でも知っている集合場所から。

「ロケに行く」と思えば、どんなことも大丈夫に思えるから不思議だ。参加してくれた2名も映像の仕事を生業としている。

真っ暗な新宿を出て、東北自動車道をひたすら走る。福島に近づくに従って、地震で破壊されたと思われる箇所が時々出てくる。もちろん、今はすみやかに走れるんだけど、つい最近補修されたばかり…のところがたくさんあった。

補修箇所を通るたびに、車ががつんと揺れる。

緊張がたかまってくる。

だいたい、原発は大丈夫なのか。放射能は…。考え出すときりがない。もう、決めたことだ、根性をすえる。

そして、午前7時半頃、現地に到着した。(原発からは80キロ離れている)。

うかがったのは、被災した犬と猫を救出し、世話をしている団体である。広い畑のなかに、テントが並んでいた。

これは夕方に撮影したので、ちょっと日が陰っているけど、こんな感じです。



ボランティア登録をして、スタッフから説明を聞く。

ムリをしないこと。ダメだと思ったら他のひとの力を借りること。ガムテープに名前を書き、体の前後に貼る。

すぐにどこの誰かわかるように。いろいろシステム化されていて感心する。

最初の仕事は、テントのなかのケージにいる犬たちを一頭、一頭外に出し、つなぐこと。

こんな感じ。



その後、水をやり、ご飯を食べさせ、散歩に連れて行く。

一見、のどかで楽しい仕事のようだけど、いや、もちろん、犬の世話をするのは楽しいので、楽しいんだけど、それが、何十頭にもなると、体力的にはけっこう、たいへんだった。

これが、犬たちが、外に繋がれている様子。



すてきな風景でしょう。こうなった背景は決して、すてきなんて言えない事態だけど。

あくまでボランティアとして働くことがテーマだったので、写真はあまり撮らなかった。撮っている暇もなかったし。

けど、何頭か撮ったので、紹介します。



「すわれ」といったら、すわってくれた柴系のミックスくん。



このコも柴系。これくらいのサイズの柴系ミックスが一番多かった。



ビーグルのおじいちゃん。いつも寝ていた。




一番なついてくれたキャバリア系の女の子。里親になろうかとかなり心惹かれた。

全部で40頭くらいいたでしょうか。どの子もやせていて、疲れている様子だった。

こんなかわいい犬たちをおいたまま、家をあとにした飼い主だって、つらかったと思う。いきなり、制限区域にされて。

残された動物は本当にかわいそうだ。つながれたまま、命がつきた者たちもたくさんいると聞いた。

あんまりだ…。彼らにはなんの罪もないのに…。

しかし、一方で、動物を助ける、というのがどれほどたいへんなことかもよくわかった。野性に戻さない限り、世話をする人間が絶対に必要だからだ。

「かわいそう」という軽い気持ちだけでできるものではない。

一日、くたくたになるまで働いた。今でも足や腰に筋肉痛が走る。

でもね、行ってよかったと思った。自分たちの仕事量などどれほど役に立ったかわからないけど、一日でいろんな経験ができたような気がする。

それは同行した2名も同じ気持ちだったようで、夕食を食べに立ち寄ったサービスエリアで、いろいろ話した。

その夜、原発から20キロ圏内は、立ち入り禁止になった…。

まだ、残っている動物もいるというのに…。

まだまだなにひとつ解決されていないのだ。闘いは続く。











神様のいない世界で。

2011年01月30日(日) 17:05
エジプトで大規模なデモが起こり、国内が混乱状態になっている。デモが広がったのが、facebookやツイッターを通じてだった…ということも関心を集めているようだ。

facebookやツイッターで広まった…っていうと、デモをしているひとたちの目的が、一瞬、アメリカ的な民主主義を求めているように、誤解されがち。

デモ=民主化 っていう風に、私など、短絡的に想像してしまうから。

韓国だって、90年代の民主化運動のすえ、軍事政権を倒したという歴史がある。

けど。

エジプトで、今の時点で、デモをするひとたちが求めているのは、ムバラク大統領の退陣であって、そのあとの世界がどうなるのかは誰にもわからない。(いえ、わかっている方もいらっしゃるのかもしれませんが、)自分はわからない。

だいたい、ムバラク大統領は、親米の大統領なのであるから、「親アメリカ的」なものを求めてのデモじゃないよね。

facebookやツイッター(=アメリカ的なもの)をきっかけに、デモが広まり、結果、親米政権が倒されそうになっている…という皮肉を面白がることもできるけど、まあ、それはそれだけの話。

デモが広がったツールではあったけど、その運動を支えたこととは別のお話だろうと思う。

2009年の夏にカイロに行った。目的は、イスラム世界の結婚、恋愛、セックスについて調べるためでした。

アラビア語の堪能なコーディーを雇って、20名の男女に個別インタビューして、話を聞いた。

自分が知りたかったのは、「インターネットによって、西側の(…イスラム社会ではない)世界の、結婚や恋愛の情報が入ってきて、普通の若者はどう影響を受けたのか…」ってことだった。

あさはかな自分が想像したのは、「西側みたいに自由な恋愛がしたい」ってきっとみんな思っているだろうと。

だって、ネットを通じたら、アメリカのテレビドラマも見られるし、日本のロリコンエロ漫画も読めるし、婚前交渉ができる世界があることを知る…その自由さはうらやましがられるものに違いないと。

けど、ちがっていた。

予想に反して、そういう自由な…と自分で書いていて、本当にこれが自由なんだろうかと疑問に思えてきたけど…自由な恋愛、結婚、セックス環境に憧れているひとがほとんどいなかった。20人のうち18名はノー!と答えた。

イスラムの世界では、妻を四人まで持つことができるので、もしかしたら、男性にとっては、居心地のいいものなのかな…とは思っていたけど、女性も同じ意見だったので、驚いた。

アメリカの大学に留学し、IT企業で重要なポストについている女性(20代)でも、「西側的自由な恋愛世界」について否定的だった。

イスラムの世界では、婚前交渉は禁止であり、デートだって、そんなに自由にできないし、人前で手を繋いだり、キスしたりなんてもっての他である。厳しい家庭だと、デートに相手のお姉さんがついてきたりする。

女性が布で髪を隠しているのも、夫以外の男性に髪を見せないためである。

そんな不自由な…と思う私に、彼女は言うのである。

そっちのほうがかわいそうに見える。幼いころから、恋愛に振り回され、傷つき、へとへとになってませんか?結婚しても簡単に離婚し、浮気は日常で、エロ情報が町中にあふれて、うんざりしませんか…女は男の性的対象でしかなく、消費され続けてるでしょ…と。

いや、ごもっとも…であった。

(すぐさま、いろんな反論の方法を思いつくけど、しなかった。ちょっと惹かれる部分があったからだ)

イスラムの世界では、恋愛より以前に神(アラー)がいるのである。

ここではまだ、神は死んでいない。

神様のいる世界では、すべての出来事は神様に照らして考えることになる。

ある男性は言った。ネットでエロ画像を見て、マスターベーションしちゃって、そのあと、すごく怖くなったって。神様が見ていたはずだって。

(いや、男子はみんなそういうもんだよ…と笑うかもしれないけど、笑えなかったよ。もちろん。…震えて告白してくれたそのひとの罪悪感の深さを思うと…)

カップルの場合、日本で浮気したら、怒るのは相手(=人間)だ。だけど、イスラムの世界で浮気したら、神に怒られるんだよ。

神様に怒られるのと、相手に怒られるのと、どっちが怖いかしら。

神様のいる世界って、すごく安定しているんだなってことを感じた。いろいろあるかもしれないけど、神様を信じることにして、そのルールに則って生きると決めることは、たぶん、ずっと楽なんだろうと。

いやいや、困難でも自由を!…と言うかも知れない。(自分は、言ってきたし、割と実践してるけど)。

でもさー、神様のいる世界の安定を否定することなんてできないと思いました。だって、その神様に変わる存在って、作れないもの。哲学者はそれを考え続けることができるけど、普通のひとにとってはきついよね。

今のところ、西側では、神にかわるものは、「数」のような気がする。お金…というより、「数」のような。たくさんのひとが信じるものが、信じるにあたいするものである…というような。

いえ、こんな広大な哲学論を書く予定ではなく、エジプトの今後が気になる…ということを書きたかった。facebookがきっかけで始まったデモでも、その後の世界は、よりイスラムに忠実な世界になるかもしれないなあと。

あの頃、インタビューした若者たちの横顔を思い出しながら、神様のいる世界の幸せについて、思った。

まとまりきらなくて、失礼しました。



カリスマ主婦のゆくえ

2010年08月31日(火) 00:09
ちょっとワイドショーネタです。

雑誌「STORY」などで知られるモデルの冨田リカさん(48歳)が、ショーケンこと萩原健一さん(60歳)と交際中とのことで、それが結構話題になっている。

自分も興味をひかれた者のひとりです。

まず、前から、「カリスマ主婦」ってなんじゃろ…って思っていました。ファッションを中心とする女性雑誌には、さまざまなカリスマ読者って方たちが登場して、普段の暮らしやきれいな服やファッションアイテムを紹介していたんだけど、大学生やOLだった場合はともかく、「主婦」だった場合、その着地点はどこなんだろうって思っていたわけです。

主婦って、結婚して、仕事を持っていない女性のこと…と理解して、考えております。

たとえば、学生やOL…ようするにシングルであった場合、その美貌や暮らしぶりを生かした仕事なり、恋愛なりが控えているので、「美しい外見と暮らし」を実践することは未来があるように思えるけど、それが主婦だった場合、その情熱はどこへむけられ、どこへ着地するのだろうかと不思議だったのだ。

主婦であっても、毎日すてきな服を着て、メイクもして、インテリアを自分好みにしつらえる。時間のあるときは、女友達とランチしたり、時に男友達とのみに行ったりするのは、普通にアリだとは思うけれども、その「美しい暮らし」は、どこかに限界があるのではないか…と。

だって、主婦である以上、男友達と真剣交際するわけにはいかないだろうし(一応、建前上は)、さらに、お金だって、夫が稼いだものだから、そうそう、好き勝手に使えないのではないか…と思うわけです。

もちろん、大富豪の夫人であれば、話は別でしょうけれども、そんなひとはめったに存在しないし…。

一般的、あるいは、中流よりはやや裕福な家庭の主婦を想像すると、「主婦」というある枠組みのなかでの、おしゃれや友達つきあい…ということになり、それを楽しむのはすばらしいこととはいえ、限界あるでしょう。

たとえば、ブランドものの服だって、中村うさぎさんみたいに、好き勝手に買えないだろうし、買ったところで、普通の主婦がブランド物を着てでかける機会ってそんなにあるのだろうか。また、男友達とつきあうにしろ、表面的には一線は越えられないだろうし、いや、超えてないふりをしないといけないだろうから、どっかこう、不自由な感じがしていた。

自由に楽しんでいるようでいて、ちょっとうそっぽいというか、ごまかしている部分があるんじゃないかなーって。

カリスマ主婦モデルが、エステで体に磨きをかけ、きれいな服を着て、どこへ行くかというと、「夫とデート」なんて記事があったりする。夫婦でもいつまでも、恋人みたいでいたいから…的なコメントがついていたりして…。

正直、「うそくせー」と思っていた。もちろん、そのような恋人のような夫婦が存在することは知っているし、それは美しいことだとは思いつつ、20代、30代のカップルならともかく、20年近く一緒に暮らした男女だと、形としてはデートできるけど、そんなにすごくわくわく、緊張したりはしないだろう。

で、冨田リカさんなわけである。彼女くらい美しいと、結局のところ、主婦として、夫=ひとりの男の元に収まっているのに飽きてくるのは仕方ないのではないか。せっかくの美貌をもっと新鮮な相手からほめてもらいたくなるのではないか。まあ、それを恋と呼ぶのかもしれない。

今週号の「女性セブン」によると、冨田さんは離婚は二回目で、一度目の結婚のときに、お子さんもいらしたようだが、親権は父親が持っているそう。再婚後も、夫のほかに、交際していた男性もいたそうで、主婦といっても、結構、恋多き女性だったらしい。

そこらへんは、「主婦モデル」としてファッション誌に登場していたときは、(当然かもしれないけど)、あまり語られてはいなかった。あくまで、普通の主婦のように描かれていた。

で、わたしの関心は、冨田リカさんご本人というより、冨田さんのような「カリスマ主婦」にあこがれている女性に対してである。主婦だけど、おしゃれもして、男友達とデートもする…みたいな生き方に憧れ、実践していた女性たちは、今回の離婚→ショーケン=芸能人との恋愛をどう見るんだろう。

だって、「カリスマ主婦」の上がりとは、「キレイになって、主婦ならではの仕事を見つけ、自立して、離婚して、芸能人(もしくは憧れの男性)との恋愛!!」に見えるから。

確か、黒田チエコ(漢字、忘却)さんというモデルさんも離婚したよなー。

そうだとすると、ひとりの男と婚姻関係にあることで得られていた「主婦」という立場が、その頂点では、いらなくなる…つまり離婚…という矛盾をはらんでしまわないだろうか。

最高の主婦になることは、主婦でなくなることを目指してしまう…ってことにならないのかしら。

その場合、読者の女性たちは、「できれば、わたしも!」って思うのかなあ。それとも、「そこまでは、だめ」って思うのか。あるいは、「あこがれるけど、自分には無理」って思うのか。あるいは、「ああなったら、主婦じゃないから、嫌い」って思うのか。

そのときに、自分のなかにすくっていた、「美しい主婦」という幻が、試練に立たされるように思う。家庭という限定された箱庭にのなかで、小さな喜びを実現する限界。そこにつきまとってしまう嘘。

それとも、みんな、結構、結婚してても愛人を持って、それなりに遊んでしまっているのかしら。離婚して、別のひと…ってところまではいかないけど、ばれない程度にやっとこう…って感じなのか?

よくわからないなりに、非常に興味深く、面白いなーと思った次第です。

前から、主婦なのに、きれいになりたがる人を見ると、「なんのために?」って正直、不思議だったんですよー。

きれいになるのは、よき男を捕まえるための武器なんだと思っていたから。ところが、最近は、そうでもなくて、きれいでいることそのもののほうが、恋愛より大事らしいとも聞き、共感できなかった。

でも、結局、キレイになったカリスマ主婦は離婚するのだーこれなら、理解できる。

自分、昔の人間なんでしょうか…笑。

シングルマザーと介護保険。

2010年08月06日(金) 04:09
今日は、家族のようなひとが病に倒れて、いろいろ大変だった。でも、夜になったら治ってほっとしました。

ところで、シングルマザーのことを考えていて、介護のことを思い出した。

というより、シングルマザーの問題は介護問題と似ている…とフト、思った次第です。

連日報道された、大阪の幼児遺棄事件。いろんな意見があると思うけれども、自分は、シングルマザーへの公的支援が必要!と強く思うほうです。

公的な支援がもっとあったら、こんな不幸な事件は防げたのではないか…と思うからです。

で、介護とシングルマザー。

(注:シングルマザー問題は、同時にシングルファーザー問題も含むけれど、親権を持つのは母親の場合が多いし、収入は女性のほうが少ないので、主に「マザー」の問題だと思いますが、ファーザーも含むとお考え下さい。)

結婚するひとが減ったとはいえ、離婚するひとは増えている…ということは、自動的に、「シングルマザー(ファーザーも含めて)」が増えることを意味する。

離婚するなら、結婚するな!とか、子供が生まれたら離婚するな!という考え方もあるでしょうけれども、そんなもの、してみないとわからないし、子供のために嫌々結婚を続けることが幸せとは決して思えないし、誰にもそんなこと、決められないし、止められないだろう。

なので、これからも離婚は増えるだろうし、だとしたら、離婚を「いい悪い」の問題で議論しているより、「別れたあとも、幸せに生きられるにはどうしたらいいか」と考えた方が、前向きだと思う。

で、シングルマザーになった場合、女性がひとりで子供を育てるのは経済的にかなり厳しい。親に手伝ってもらうとか、子供の父からしっかり養育費をもらうとか以外で、なかなか生き延びるのは難しい。その両方を得られない場合もあるだろうし(今回の事件のように)、だからこそ、公的支援があったらいいと思うのだ。

個人でできないことを助けるのが、国のシステムのはず。

老人介護のことを思い出してみる。

かつて、お年寄りの世話というのは、その子供が面倒を見るものと決まっていた。金銭面は息子が、具体的な世話は娘か嫁が担うものであった。

しかし、時代を経て、介護を担う子供の数が減り、同時に、日本人は長生きになった。すると、老人の面倒を個人で(娘か嫁…家族のなかの女たち)まかなうのは厳しくなってきた。親の面倒を見るだけで、自分の時間やお金が失われてしまったり、個人の手には負えないような、認知症などの病気も出てきた。

そういう空気のなかで、2000年に、介護保険法というのが生まれて、お年寄りの世話をプロに任せることができるようになった。もちろん、介護してもらうには、それなりの「認定」がいるけれども、娘や嫁だけが、その責任をかぶらなくてもすむようになったのだ。

「老いた親の世話を他人に任せるなんて、あり得ない」とか、「親の世話をするのは、子供つとめだ」「それをさぼりたいとか、遊びにいく時間がなくなる、なんてもってのほかだ」という意見も、かつてはあったかもしれない。

いや、今もあるかもしれないけど、今なら、介護に疲れたら、悲鳴を上げることもできるし、駆け込む組織も助けてくれる施設もたくさんある。

ひとりで老いた親を抱えて、どうしようもなくなる…ってことは減っていると思う。(もちろん、今でも介護に疲れて無理心中する例もなくはないけど)。

シングルマザーの問題も同じだと思う。親とか元夫とか友人以外に助けてくれる機関、システムがあればいいんだ。それで、全部の問題が解決するとは思わないけど、「少しはよくなる」と思う。

そして、そういうシステムがあること、困ったらひとりで抱え込まずに、誰かに相談できること、弱音を吐けること…これらが、広く知られるようになれば、また、「子供は母親だけが育てるわけじゃない」という考え方が広まれば、精神的にも楽になるし、実際、子供を預けて、仕事したり、遊んだりできるようになるだろう。

そんなシステムが生まれたら、気軽に離婚するひとが増えて、シングルマザーが増えるじゃないか…いいのか、それで?…という意見もあると思う。

わたしは、それでもいいじゃないか…と思う。気軽に離婚するのがいいかどうかは別として、子供のために離婚しない…という選択もあっていいだろうし、いろんなかたちを選べるほうがいいと思うのだ。

両親そろっての子育て…というモデルは別に絶対じゃないし、いろんな家庭でいろんな形の子育てがあっていい。

老いた親の世話をするのは、子供の義務…という考え方がすでに、絶対ではなくなったように、子供の世話をするのは、絶対母親じゃなきゃだめ…という考え方が、ゆるむ未来が来てほしい。

ちなみに、自分の小説デビュー作「ベイビーシャワー」は、39歳でゲイの男性の子供を産み、女友達と育てる女性のお話です。いろんな形の家族があったらいいな…という思いを込めて、自分は子供を持たない人生を選択したけど、自分なりの「子供問題」に取り組んだ足跡みたいな小説でした。


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