山田あかねの一喜一憂日記

ベストセラー作家への道
(記事数:623)

あけまして おめでとうございます。

2015年01月04日(日) 18:26
そんなわけで、2015年になってしまいました。

咲き誇る梅の花と、うちのメンバーです。

ちょっと上を見上げるように、生きていきます。



年末に事務所、引っ越しまして、これまでより広くなりました。

こっちがデスクコーナー。まだ、テーブルがないから、ピクニック用なんだが。

テーブルクロスでごまかしてる。



で、こっちがくつろぎこーなーかな。



このほか、ファイナルカットの編集小部屋もある。

うひゃ。

こんなに事務所広くしてるほど、働いてるわけではないのだが、快適なほうがよかれと思い。

年明けから忙しそうなので、なんとかやってまいります。

今つくってますのは、

猫関連のドキュメンタリー(テレビ)

シングルファーザーとお弁当のドラマ(テレビ)

犬とひとの映画。

その後…、ニートドキュメンタリー映画。サイコキラー劇映画、などもつくる。

さきのことはわからないけど、楽しいなー面白いなーと思える限り、進める所存でございます。

年賀に変えまして。

お節料理もちょっと作ったけど、写真撮り損ないましたので、1月3日の朝ご飯。



またぞろ、焼きリンゴ作りまして。ついでに瀕死の食パンをつかって、パンプディングを焼きました。

そんなこんなの年始め。

今年もよろしくでございます。

また、ブログ、ちゃんと書こうかなあ。

裁判に行って来ました。

2014年03月13日(木) 17:36
昨日は、木嶋佳苗被告の控訴審に行って来ました。

北原みのりさんの「毒婦。」を読んでから、この事件に興味を持ち、昨年は木嶋被告の故郷、北海道・別海町へ行ったり、関係のあった男性に話を聞いたりと、取材を続けてきました。

裁判へ行ったのは控訴審からで、傍聴は3回目です。

今回はかなり前の席に座ることができたので、近くから木嶋被告を見ることができました。

木嶋被告は、赤のタータンチェックのパジャマで入廷されました。

赤のタータンチェックのパジャマ。

ファンシーショップで売っているような、女の子好みのかわいいパジャマです。

女子同士のパジャマパーティーにでも行くようなパジャマ。

ヘアはワカメちゃんたいな、おかっぱというか、短めのボブで、とても殺人犯とは思えない雰囲気でした。

木嶋被告は死刑判決を受けていますが、それを不服として控訴しており、昨日はそれに対する裁判所からの「返答」だったわけです。

棄却でした。

裁判長が最初に「棄却」であると告げて、そのあと、延々、「なぜ、棄却なのか」ってことを述べます。

それが2時間くらいかかりました。

ひとつひとつ、ていねいに答えていくんですね。人の命に関わることだから、当然といえば当然ですが。

本人の木嶋被告は、ゆるぎない、というか、妙に自信にあふれた態度で、傍聴席を見渡したり、裁判長を見据えたりと、あんまり「困った様子」がなかったです。

冷静に考えたら、「死刑」を再び言い渡されたわけですから、もう少し動揺してもよいような気がしますが。

ここ1年くらい、この事件を見ていて、私が感じたことは、彼女は案外、普通の人だ、ということです。

イケメンが好きで、ブランドモノに弱くて、美味しい食事が好きで、キレイになりたくて、でも、ダイエットはできなくて。

高級な車やおしゃれなマンションがほしくて、裕福な男性との結婚を夢見ている。

ほら、どこにでもいる普通の女性ですよね。

でも、彼女はそれを手に入れるために、「普通じゃない」手段をとった…ってことなんだなーと。

そのギャップに興味があるし、どうして、そこまで「飛んで」しまったのか、にも興味がありました。

この1年取材して、自分なりに彼女が飛んだ理由が少しわかったような気がします。

それは、自分もどこか、彼女のようだからです。

そして、それは、突然やってくるものではなくて、彼女の人生のなかで、少しずつ積み上げられていったものだと思いました。

いろんな段階で、その時、別の展開があれば、殺人にまでは発展しなかったのではないか、というターニングポイントがあったような気がします。

そのポイントをひとつひとつ、悪い方向へ踏んでしまった…事件ってそういう結果として起こるのではないか。

ある日突然、ひとは犯罪者になるわけではないと。

すでに上告したようですから、これからも裁判は続くのでしょうけれども、あのゆるぎなさはどこから来るんだろうなとは思います。

今後ともこの事件は見つめていきたいと思っています。

その結果をある形で表現する予定ですが、それはまた、次の機会に。


いのちより大事なもの

2013年10月02日(水) 23:25
相変わらず、編集をしているのですが、私たちテレビ業界では、「素材は命より大事…」と言ったりします。

素材…というのは、撮影したもののことで、昔の映画だったら、フィルム、少し前のテレビ業界だったら、ビデオテープ、そして、現在は、カードだったり、ハードディスクだったりのことです。

そこに、撮影したものが映っているわけです。

それを素材と呼びます。

ですから、素材はとても大事。

この素材をもとに編集して作品に仕上げるわけです。

小説家やライターとちがって、どんなすごいものを取材しても、映像がなければ、私たちはゼロです。

紙媒体なら、あとからいくらでも書けますが、テレビ、映画は映像、映っているものがすべて。

だから、素材は非常に大事。命より大事、という比喩が成立するゆえんです。

でも。

でも。

でも、やっぱり、比喩としても、私は「素材は命より大事」とは言いたくないなーと思います。

そもそも、テレビ番組を作る、映画を作る、というのは、ひとが生きていく楽しみや糧のためにあるわけで、そこで描かれるのは、言ってみれば、生きるってたいへんだけど、いいよね、っていう態度だと思います。

生きるっていいよね、命って大事だよね、ってことが基本であるのだから、それを作るためのものが命より大事であっていいはずがない。

どんなに価値のある芸術作品、ピカソの絵でもミケランジェロの彫刻でも、それよりも、今、生きている命のが大事。絶対大事だと思う。

そうじゃなかったら、芸術の意味なんてない。意味ない。

そんなことをですね、編集しながら、考えました。

ともだち作戦

2013年04月17日(水) 17:45
この年齢になって、本を出すことになった友人が結構いる。

学生の時は、自主映画をやってましたが、その時の友人がまた、ひとり、本を出しました。

週刊ダイヤモンドの副編集長である、大坪亮くん。

編集長に向かって、「くん」もないもんだけど、学生のころのならわしでつい。



ユニクロやセブンアンドアイなどの勝ち組企業のマネジメント術に関するお話です…って、タイトルまんまじゃないか。

自分は、経済的観念からおよそ遠いところで生きていますが、一方で経済学にはとても興味があります。経済学の番組「オイコノミア」(NHKEテレ)までやってくるくらいですから。

だってこの世界は、数字=視聴率、興行成績、発行部数…つまり、お金によって、廻っているから。

いつもそのことで立ち止まる。多少苦い思いでもって。

でも。

立ち止まってばかりいてもしょうがないから、世界に立ち向かうために(おおげさ)、お金や経済を少しでも理解したいって思ってます。

で、友人が本を出しましたよーと仲良しの本屋さん…というか、丸善のKさんにメールしたところ、「ともだちフェア」を開催してくれてます。(プチ友達フェア!)



映画の脚本なかまだった友人の丸山正樹さんの「デフヴォイス」(文藝春秋)やら、

同じく大学の映画サークルの友人、松原耕二さんの著書もいろいろやらも並べてくださってます。

場所は、新橋からゆりかもめにゆられていく「有明」にある丸善です。

丸善有明ワンザ

ここで本を買って、近くの海辺で風に吹かれながら、本を読むのもいいなって思います。

「ともだち作戦」です。

一見、なんのつながりかわからないと思いますけどねー笑。

ご近所に行かれた時はのぞいて見てください。

ドキドキのトークショー。

2013年04月17日(水) 04:10
今日は、高原秀和監督の「セックスの向こう側 AV男優という生き方」のトークショーに行って来た。

試写で見た時、いろんな面から話せる映画だと思ったし、いくらでも語れると思ったので、軽い気持ちで出ることにしたんだけど、トークの前にあらためて映画を見て、ひゃーなんてことを引き受けたのだろう(汗)となった。

初めて見たときは、ドキュメンタリーの構成、どうあるべきって視点で見たりもしたし、そもそも「AVの世界」ってだけで、驚いたり、怖がったりしないもんね、と強がっていたのだ。

上映後はテレビ業界、出版業界で働く女子らと飲み会になり、わーわーきゃーきゃー、非常に盛り上がって話した。だから、余裕だと思ったのだ。

が。

それはやっぱりクローズドの空間のなかでのおしゃべりだ。一方、トークは、小さな映画館とはいえ、お客さんの入った公の空間なのだ。

そういう公の場で性について語るには、勇気と覚悟がいるってことをトークの直前になって気づいた。

だいたい、観客はどんな人たちだろう。AV男優に興味を持ってきたひとたち…たぶん、ほとんどが男性だろう。

そういう観客にとって、自分などもっとも興味のない対象ではないだろうか。(やっぱり年齢的にね)

それに気づいたら、来るべきじゃなかった、できれば帰りたい!と急速に思ったけど、高原さんに迷惑かけるし、今更、びびって何を守ろうとしてるんだよ!と考え直して、登壇した。

で。

話してみたらやっぱり、面白かった。

高原さんとは結構長い間の友人なので、気心が知れていて安心して話せたし、途中で参加した、黒田将稔さんという男優さんもこちらの質問にいつも真摯に答えてくれてて、だんだん、平常心を取り戻し、いつしか、聞きたいことを尋ね、しゃべりたいようにしゃべる…となっていた。

さらに途中で歌人の枡野浩一さんも現れ、またまた面白い展開に。

枡野さんは、ご自身は草食系なのに、やりちん男に興味ある!という考えて見れば、中学生みたい男性で、そこにAV監督とAV男優が同席するというアフリカのサバンナみたいな状態に。

けど、高原さんも黒田さんも優しくて、ちゃんと話してくれるので、盛り上がり、トークの時間がどんどん長くなりました。

楽しかった!刺激的だった。

終了後は、高原さん、枡野さんと近所でご飯を食べて、二人が案外似ているキャラであることを発見しました。

何事も怖がるよりやってみたほうが楽しいね。

そんな夜。

「卒業写真」を久しぶりに聞いて。

2013年03月22日(金) 13:18
卒業式のシーズンだったせいか、最近、よく、荒井由実(松任谷由実)の「卒業写真」がラジオから流れてきた。

しみじみと名曲であるけれども、いまさら、気づいたことがあった。

初めて聞いたのは30年近く前だろうに、これまで1度もそのような視点にたって聞いたことはなかったのだ。

歌詞の内容は、学生時代に友達か恋人であったひとがいたが、その後別れてしまい、なにかあると卒業アルバムをめくってそのひとを思い出す…というものである。

アルバムのなかのそのひとを見て、卒業後、変わってしまった自分にあらためて気づき、そのひとに、遠くからしかってほしい…と願う歌である。

(著作権に触れそうだから、歌詞を引用できないのでじれったいですが…)

学生のころは、あんなに輝いていたのに(何に対してかはひとそれぞれということで)、社会に出てからは、すっかり変わってしまい、ちょっとずつスレていく自分と、その対称にある、かつての友である「あなた」。

この「あなた」は今も変わらないのである。

たとえば、学生運動をやっていたひとが就職するとか、演劇やってたけど、サラリーマンになる…など、学生の頃の理想を追うひとと、違う道を選ぶひとはいつの時代にもいるだろう。

これは、「学生時代の理想を選ばなかったひと」の歌である。

普通のサラリーマンになったり、主婦になったりしたひとが、昔を懐かしむ歌だ。

つづいて、もう一曲。「悲しいほどお天気」というのがある。

こちらは、美大などで絵画をともに学んでいた友への歌である。(たぶん)

友から個展の案内が来る。友は画家になるという理想を貫いているのだ。

一方の自分は、「臆病」だったゆえ、「平凡」に生きていってるらしい。

昔の友達から届いた個展の案内状を見て、友との距離を思い、友の絵画の空が澄み渡っていた(悲しいほどお天気)ことを歌っている。

どちらも痛烈に切ない歌である。

誰もが自分の若い頃の理想を貫かなかった痛みを持っている。そのあたりをビシビシついてくる。

で、これまでは普通に酔いしれて聞いていたのだが、今頃になってはっと気づいた。

この曲を書いている松任谷由実氏は、「描かれる側」の人のはずじゃないのか。

人混みに流されて変わることなく、自分の歌を歌いつづけ、個展ではないが、コンサートの案内状を友人に送ることもできるだろう。

決して、臆病じゃなく、平凡じゃない人生を歩んだ人だ。

けど、描いているのは、「平凡側」の人。平凡側の視点に立って書いている。

平凡側じゃないのに、平凡側の気持ちがわかるのか…。

いや、わかるのだろう。

もし、自分が理想を貫かなかったら、どう感じたかを想像することができるんだろう。

もし、これが、逆の立場に身を置いたひとの歌だったらどうだろう。

卒業写真の友達は、普通の人生を歩んでいる。でも、自分は違う道を行ってます…とか。

個展の案内を普通の主婦やってる友達に出した。もう会うことはないけど…みたいな。

いや、しかし、これはこれでアリなのかもしれない。

が、その場合、普通を選ばなかったから苦労してます…というストーリーにしないと、聞いているひとは納得しないというか、不快なだけだろう。

ともかく。

「卒業写真」にしろ「悲しいほどお天気」にしろ、歌詞で主体となる側の人間のほうが、圧倒的に多数だろうってことだ。

たいていのひとは社会に出て、変わっていき、個展を開いたりするひとは少数派で、平凡な人生を選ぶ。

圧倒的に多数。つまり、共感を呼ぶ。

あー。そうか、そこか、共感。

「わかる〜」みたいに聞いてても、書いてる側はこっちのひとではないということ。

どこまでそういった計算のもとにつくられているかはわからないけど、自分と違う立場に身を置いて、想像してみる…ってことは、創作にはとても大事なんだ、ってことをあらためて気づいたんです。

おせーよって気もしますが。

いやしかし、もちろん、これまでやってきたいくつかの仕事で、自分とは違う立場の主人公を書いたことだってあったのだ。

が。少なくとも自分は、自分まんま方向で描いた方がうまくゆき、想像で書くとあんまりうまくいかなかったんだよなー。

つまり、違う立場になりきっても、共感を呼べるってことが、才ってことかしら。

なんてところに行き着いたり。

いや、とにかく、この歌詞に秘められたものにあらためて気づいたので書き留めておきたかったということでした。

ハリウッドの漁師

2013年03月01日(金) 14:18
ネット上で有名な、「メキシコの漁師」の話を映画監督におきかえて、考えて見よう。

ある地方の小さな村に、暇な時間に、近所の友人たちと小さな映画を作っている人がいた。

普段は別の仕事をして、撮りたいときに撮りたいテーマで、細々と撮っている、自主映画の監督さんだ。

作品は村の公民館で、時々上映していた。

あるとき、大手映画会社のプロデューサーがたまたまその村を訪れ、偶然、彼の映画を見た。

その映画に感動した、大手映画会社のプロデューサーは言った。

「君はどんな風にして映画を撮っているのかね?」

「普段は普通に働き…といっても、そんなに忙しくないので、撮りたいテーマがあるとき、仲間と相談して脚本を作り、土日を利用したり、休みをとったりして、映画を撮ります。カメラは持っていますし、編集は自宅のファイナルカットでやってます。それで、近所の公民館で上映したり、ネットで配信したりしています」

「それは儲かっているのか?」

「いえいえ、全然。チケットは一応販売してますが、とても安いですから、それで儲かったりはしません。ネット配信も無料です。でも、そもそも制作費もほとんどゼロなので、特に損もしていません。でも、映画を撮るのが楽しいのでやっています」

「そうかい。じゃあ、君は今すぐ、その仕事をやめて、私と一緒に次の映画を作ろう。実は、300万部も売れたマンガの原作権をとってあるんだ。それを君が監督して映画化するんだ」

「でも、私はそのマンガを読んだこともないし、それを面白くできるかわかりません」

「大丈夫だよ、実は私もそのマンガは読んでいないし、面白いかどうかも知らない。が、とにかく、すごく売れたマンガだから、必ず映画になるし、有名な俳優も出てくれる。そして、うまく行けば大ヒットする」

「大ヒットするとどうなるんですか?」

「そしたら君は、こんな小さな村を出て、テレビ局や芸能プロやお金を出してくれる人がたくさんいる都会に住むんだ。君が見たこともないようなきれいな女優さんとも仕事できるし、大きなセットを組むこともできるぞ」

「次はどうなるんですか?」

「次も何百万部も売れた小説かマンガを映画化するんだよ。次々とこの原作を撮って下さいという依頼が来るだろう。テレビ局にも入ってもらって、宣伝費ももっとかけよう。君はその原作を映画化するんだ。」

「次はどうなるんですか?」

「そうなったら、君のところには、脚本の印税やら、演出料やら、君がこの村にいたら、一生縁のなかったほどのお金が入ってくる。そして君は大監督と呼ばれて、文化人としても尊敬される」

「次はどうなるんですか?」

「充分に稼ぐことができて、監督として名前を馳せることが出来たら、ここからは本当に君が撮りたいものが撮れるんだ。君の好きな場所で、君の好きなスタッフを集めて映画を撮ることができるよ。世間的には無名の俳優でも使えるし、大したストーリーじゃなくても、映画にすることができるよ」

「それなら、今でもそうですが…」

もしかして、こういうことになっていないのか、エンタメ業界…。

小さな村で自分たちの信じる映画を作っているひとが私は好きです。

レモネードを作ろう…でいいのか?

2012年08月31日(金) 11:56
最近、思考がばらけ気味である。

ばらける…というのは、どっちがいいのかわからないなーって思うことである。

たとえば、だいぶ前に読んだ小説に「レモネードを作ろう」というのがある。

アメリカのティーン向けの小説で、登場人物のひとりに貧しいシングルマザーが出てくる。

充分な教育も受けずに、若くして母親になり、小さな子供を抱えて食べるにも苦労している黒人の女性である。

子供の父親だった男性は働かず、責任もとらず、簡単に彼女を捨ててしまう。

あるとき、このシングルマザーは子供たちになにか食べさせようと買い物に行く。が、手持ちのお金で買えたのは、レモンひとつだった。

こうしてレモンひとつを持って帰って来たシングルマザーは、このレモンを使って、美味しいレモネードを作る。これを子供たちと分けて飲み、「ああ、美味しい」と思うわけだ。

いろいろ不幸だけど、こんなに美味しいレモネードがあるなら、明日からも頑張っていけるよね、とレモネードに希望を見いだすのである。

そんなエピソードが出てくる。

ずっと昔に流行った、「一杯のかけそば」のような話ではある。

(レモネードの方が、もうちょっと上品だけど)

これを読んだ時、私が感じたのは、「一杯のレモネードで満足して、しあわせ」とか言ってる場合なのか?ってこと。

レモン一個しか買えないほどの貧困、子供の養育に責任を取らない父親、教育を充分に受けられないような行政の弱さ、など、怒りや間違えを訴え出て、環境を変える努力をすべきなんじゃないの?って。

それを、「お母さんの作った一杯のレモネードがあれば、しあわせだよね」って納得して、本当の敵、本当に闘わないといけなものをごまかして生きていくのは違うだろう、それをあたかも「良きこと」として物語りにするのはちがうだろう…と思ったのだ。

自分らしい正義感として。

けどさ。

もちろん、今でも、「レモネードで満足してるんじゃねーよ」という気持ちもあるけど、レモネードでとりあえず、満足する……というのも「あり」なんだ、ということを考え始めている。

誰もが世界を変えたり、正しいことを主張して生きていけるわけじゃない。

自分から行政に働きかけたり、責任の所在をはっきりさせたり、そういうことができるひとはそんなに多くない。

弱くて自信がなくて、ひとからつけいられやすいからこそ、レモン一個になってしまうんだよね。

そういう人に向かって、「目を覚ませ、闘え」というのがいいとことなのかって。

そのまま、レモン一個でしあわせ…と言っているひとを揺らす権利なんかないよね。

「ニートの歩き方」を読んでから、だらだらしたいのなら、したままでもいいのではないか…という考えに傾きつつある。

だって、「レモン一個はおかしい」と闘って、すっごいいやな思いして、また、破れて、へとへとになるより、なんとかレモン一個を手に入れる努力くらいで、生きていければ、それも「あり」なんだってこと。

そういうことを最近、考えています。

ホントに、レモン一個でいいのか?

素朴な正義感

2012年08月29日(水) 23:11
今日は、テレビの仕事の打ち合わせで経済学者の方に会った。

いやーすごく面白かった。秋に経済番組を作るのでその取材であるけれども、「経済」というおよそ自分とかけ離れたテーマだけに、知らないことが多くて、だからこそ、興味深かった。

(今後作る番組については、また、具体化したとき、ここでお知らせしたいと思います)

取材のなかで知った言葉で「素朴な正義感」というのがある。

経済学者が法学者をちょっと揶揄して言うときに使うらしい。

はて、「素朴な正義感」とはなんぞや?

たとえば、とても貧しいひとがいた場合、そのひとを助けるために何をしたらいいかってことがある。

もちろん、お腹を空かせて死にそうになっていたら、まずは食べ物を差し出すのは当然のことだろう。

けれども、そのあともずっと食べ物を無償であげ続けることが果たして本当にそのひとのためになるか?という話である。

お腹が空いたひとにまずは食べ物を差し出す!…というのは、アンパンマンの正義である。

戦後の貧しい時代に、お腹を空かせた人にあんパンを差し出すのは正しいと思う。

けれども、その先はどうするのかってことだ。

2000年にバングラデシュに取材に行ったことがあるんだけど、バングラデシュには「グラミン銀行」といいうのがある。別名、貧者の銀行。

グラミン銀行は、貧しいひとに低金利または無担保でお金を貸し出す。借りたお金で、それを資本として仕事を始めることができるのだ。

ただ一方的に施すのではなく、仕事できる機会を差し出すのだ。

これは「素朴な正義感」とはちがう。素朴な正義感だったら、あんパンをプレゼントし続けるだけだ。

それは、結果的に本人のためにならず、状況を悪化させることもある。

善意、正義で始めたことが相手を救わないのである。

…というようなこと(例は私が挙げたもので、経済学の先生は別の例で説明してくださったけど、ここでは書かないでおく…)を、教えてもらって、へえ、経済学って面白いなーと思った。

そして、自分は案外この、「素朴な正義感」を持ったひとであることに気づいた。

昨日も正論について書いたけど、自分は理想を掲げるのが好きである。

斉藤和義が「月光」で歌っているように、

♪ 月に手をのばせ、たとえ、届かなくても…♪

と思っている。

たとえ、届かなくても、ひとは理想を持って生きていくべきだ…と青二才のように考えてきたのだ。

しかしね。

最近、自分のこの正義感によって、自分自身が苦しい目にあうってことに気づき始めた。理想をおろせ、というのともちがうけど、貫こうとすると、うつ状態になることに気づいた。

右の頬を打たれたら、左の頬を差し出せ!…までいかないにしろ、自分にはどっかそういう部分があった。

でもね、そうやって、左の頬を差し出して、また殴られて、キリストみたいに死んでいければいいけど、結局、「殴られた」「痛かった」という記憶は残り、表面的には乗り越えたつもりでも、その時の憎しみは深く内面化して、消えることがなく、自分をいつかむしばむ…ということがわかってきた。

(今日の夕方、ちょっとした本を読んでいてそのことに気づいた。取材で「素朴な正義」について聞いたせいもある)

……ということで、ストレートに「ひとによかれ」と思ってやったことが、他人にも自分にもちっともいい結果を呼ばないことがある…と今更ながら、知ったのだった。

大好きな映画「クラッシュ」にも、素朴な正義感が空回りして、事態を悪化させる例が出てくる。

人種差別をなくそうとしている若い警官は、黒人の少年を信用して車にのせるが、でも結局、信用しきれずに、偶発的に彼を殺してしまう…という苦いエピソードである。

無理していいひとぶったことが、結局、悪い結果を呼ぶのだ。

…ということで今夜はここまで。

もうちょっと、楽に生きることにしようっと。

いい人でいようとすることからおりたいと思いました。

え?

ちっともいいひとじゃないって…?

ほほほ、それはそれは失礼しました。

涙の…オーマイフェア!

2012年07月03日(火) 23:39
私は一応、作家である。…たぶん。

これまでに7冊の本を出している。小説が6つとエッセイが1冊。

作家になるのは、子供のころからの長い間の夢であったので、初めて文学の賞をもらった時、初めて本が出た時は、マジで、生きててよかったーと思ったものである。

しかし、賞をもらった、本が出せた…というのは、なるほど、幸運なことであるけれども、実は作家というのはそこらから本当の勝負で、次々とよいものが書けるか、ベストセラーが出せるか、芥川賞や直木賞などの大きな賞がとれるか、など、いろいろステップというか、難関があるのである。

そういうもの、全然関係ない、自分は自分の好きなものを書き続ける。それでよし!

と言い切れるほど、自分は器が大きくないので、本が出せたあとも、いろいろ煩もんして生きてきたわけである。

前置きが長くなりました。

じゃん!



こちらは、グレート書店、丸善の有明店です。

こちらで、ただいま、「わたしフェア」というか、山田あかねフェアをやってくださっています。

ここのところ、新刊もでてないのに、うーうー涙なくして語れません。

昨年作った、上野千鶴子さんのDVDも並べてもらっています。

感謝、感謝。

このような私の本を、まだ、売ってくれようという本屋さんがいるんです。

(しかも、グレート丸善!)

ありがたいことです。

いろいろ難題はあるにしても、こういうことしてくれる方が一名でもいらっしゃる限り、ちゃんと頑張って、小説書きたいと思います。

(ここのところ、映画と犬にうつつを抜かしておりました)

この世に救いも希望もあるんだよね。…涙!
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作家・TVディレクター・映画監督
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