ベストセラー作家への道
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辛らつでも真実な。

2012年04月 21日 (土) 04:08
あまりに忙しくて、ブログ書く時間すらなかった。

いかん、いかん。こういう風になっちゃだめだ。

それもあと2日で終わる。

今日はちょっと余裕があったので、家に帰ってから、ツイッターをやっていた。

そしたら、小説家で評論家の小谷野敦さんのアマゾンのレビューを知り、思わず読んでしまったら、これが面白いのなんのって。

というか、基本、超辛口。

歯に衣着せぬっていうんでしょうか、同じ日本の小説であろうと、映画であろうと、名作と言われているものであろうと、向かうところ敵なし、みたいに、ずばすば斬っていくのである。

その小気味良さ。

いやいや、もちろん、斬られているのが自分じゃないから、そんなことを言ってられる、とも思う。

しかし、一方で、常日頃から私も「これは傑作と言われているけど、ホントにそうなの?」と思っていた作品が俎上にあげられているので、痛快なのであった。

それに、あまり知られてないけど、これこそいい作品なんじゃないの?どうして、みんな評価しないの?という作品が、きっちり褒められているので、そこもまた、嬉しかった。

要するに趣味が似ていた(おそれ多いですが)。

えっと、一例をあげると、芥川賞の候補作になったけれど、受賞は逃し、そして、著者はすでに逝去されている、「蝶のかたみ」。

三島由紀夫の愛人といわれた福島次郎さんの作品。

芥川賞候補とか三島由紀夫うんぬんのゴシップとか、関係なく、切なくなる小説だった。男性を好きになり、ぼろぼろの関係のまま続く物語なんだけど、そのちっとも美しくない姿が恋愛の、性愛の本質を描いているようで好きだった。

福島さんは、生前、新宿のゲイバーで1度、お見かけしたことがあり、勇気を持って、「すばらしい作品でした」といいたかったけど、怖じ気づいて近づけなかった。

その他、映画「息もできない」

日本でも韓国でも世界で認められた作品だけど、私はかなりきらいだった。

暴力礼賛だし、映画好きの多くのひとが、「暴力がリアルに描かれているとすごい映画」と思いがちなんだけど、その心をくすぐる作品だったから。

ぶ男で暴力男のくせに、清純な美少女がついてくるところがまた、映画ファンが好きそうなところだけど、ホントむかつく…できらいだった。

ああいうのが褒められちゃう、映画界ってだからきらいだよ、と思っていたら、小谷野さんの評価も辛らつで、胸のすく思いがした。

…とはいえ、自分はあそこまで、正直に書いてないなーとちと、反省した。フィクションならいくらでも、本気で本心で書いてるけど、特に日本の作家や監督のものについては、評価しない場合はあえて書かないってだけにしてきた。

だって、怖いんだもん。

でもさーなんかさーもっと正直に言ってかなきゃなーとは思った。

けどね。私がそのようにあまり辛らつに作品評を書かないでいることを、「もっと正直に書け」と言ってきたひとがいたんだけど、そのひとの作品について、正直に書いたら、突然、冷たくされることになったので、これだから、器の狭いひとは怖いよと思った経験もあってね。

そんなわけで、今夜は、レビューが読めて楽しかった。それに、読んでないもの、見てない映画で、高評価のものは見て見ようと思った。なにしろ、この方の批評、とても納得できるものだったから。

もちろん、同意できないものもあって、それは、キム・ギドクの映画。キム・ギドクは認めないぞー。

ということでおやすみなさい。

演出を学ぶ

2012年03月 15日 (木) 10:16
ここのところ、ばたばたといろんなところにおります。



昨日は福井県の山の中にいて、夕方、金沢に移動。



ちょっとだけ、観光気分を味わいました。

先週からのおさらいをすると…、日曜日、ディレクターズライブの上映がありました。

短いドラマでしたが、楽しかった。やっぱり作るのは楽しい。

自分にとってはかなり実験的な試みでしたが、上映してみると、「自分っぽさ」というか、これまでやってきたことが如実に画面に表れていて、

わたしってわたしだなーと思いました。

その後、諏訪敦彦監督の作品の上映。

リハーサルのときから見てきたので、どうつながっているか楽しみでした。

自分以外の監督の作品ができていく過程って見たことがないから。

助監督の経験がないので、他のひとがどうやって作っているか、どう演出しているかを知らないんです。

助監督の仕事はハードですから、助監督の経験なしにいきなり監督になったほうが、ラッキーのように思えます。

実際、自分もそう思ってました。

が。

長くやってみると、案外そうでもないと気づきます。

先輩である監督たちがどう作っているかを見ることはやっぱり大切。とてもプラスになる。

その人の真似をしようとか、同じにしょうというのではなく、バリエーションを知ることができるのは、結局自分を豊かにすると思うんですね。

いろんな国の言葉を知っていることが、日本語で文学をすることに、プラスになるように。

多くの小説家、夏目漱石や森鴎外が外国文学に詳しかったことからわかるようにね。

話を戻すと、だから、諏訪監督が作っていく過程を見られたことはすごく勉強になりました。

あまりに勉強になりすぎて、「質問しすぎ!」と一緒にライブにいったカメラマンから注意されましたが……笑。

自分は即興芝居というのをやったことがなく、今回初めてでした。

即興芝居というのは、一応説明すると、シナリオの流れだけ、俳優さんに説明してあとは、セリフも俳優が自由に決めて話していい。そういう方法です。

そんなに俳優に任せてしまって、大丈夫なんだろうか、自分が作りたいストーリーにいけるのだろうかと心配になるわけです。

なので、諏訪さんのやり方にとても興味があった。

諏訪さんは俳優さんたちにほとんどなにも指示しない。

指示しないまま、何度かやってみるんですね。

さあ、どうなったんだろう。

それが…指示しないのに、結局できあがったものは、ひとつの流れを作り出しているんですねー。

あっぱれでした。そうか、そうやるんだーって。学びました。

そして今週は犬関係の取材で、関東近県の愛護センターに行きました。この話はこれからもっと取材し、ドキュメンタリーにするので、おいおい書いていきます。

やっと犬ドキュメンタリー始動です。

テレビは経済番組をちょっとやってます。

前にも書いたと思いますが、尊敬する79歳の監督から言われた、

「死んだら、いくらでも寝られるんだから、生きているうちは、起きて目を覚まして、仕事せよ」

の言葉に従って、働いております。動いております。

…とはいえ、今日は疲れたので、午前中はホテルの部屋で休んでますけれどもね。

午後から取材です。

傷つかない技術。

2012年02月 21日 (火) 04:36
昨晩、ツイッターに書いてしまったことだけど、もう少していねいに書いてみたい。

きっかけは、ツイッターで知った、とあるブログ

webデザインや写真などを扱っているクリエーターの方が書いてらっしゃる。

このなかに、アメリカのアート系の大学の授業のことが書いてあった。

ある授業で課題が出され、学生たちはそれぞれに趣向を凝らして作品を作った。提出の日、担当の教授は作品を見もしないで、「そのまま破り捨てるように。壊すように」と言ったそうだ。

学生は泣いたり、怒ったり、当然の反応をした。

その後で、この教授は、社会に出たらこのような目に何度でも会う。どんなに一生懸命作っても、スポンサーや発注者の気に入らなければ、却下されてしまう。なので、そんなことで傷つかないために、こういう授業をやったのだ…と言ったそうだ。

(正確には、この方のブログを読むのが一番いいと思いますが、だいたいの流れはこんな感じ)。

確かに、仕事をするようになったら、自分の思うままに作ったものが、全くの直しもなくOKをもらえることのほうが少ない。

自分は主にテレビの世界しか知らないけど、テレビで、「直し」は日常である。もちろん、できが悪くての直しもあるけど、そうじゃなくて、完成度が高かったとしても、「直し」をくらうことはいくらでもある。

プロデューサーの趣味に合わなかったり、スポンサーの意向だったり、視聴率を狙うためだったり、出演者の都合だったり。

とにかく、「直し」を出されることは日常だ。それにいちいち傷ついていたら、全然仕事にならない。それはよくわかっている。

だから、こういう「傷つかない技術」の授業はとても貴重だと思う。アメリカはどうか知らないけど、日本の若者は、どんどん傷つきやすくなっているから、「傷つかない技術」を伝授するのは、役に立つと思う。

が。

一方で立ち止まる。

実は先日、ある美術大学の先生と話した。

その時聞いた話しによると、今の大学は、職業訓練校のようになっていて、とにかく、社会に出てすぐに役立つようなことばかり教えたがる。就職率を高めることを目指す大学も多いという。

私は、最近の大学事情を知らなかったので、関心を持った。就職難だという話はよく聞いていたから、大学が就職率を上げようとしたり、すぐに仕事で役立つスキルを身につけさせようとするのは、自然かもしれないと思っていた。

ところ、その美大の方は、「うちの大学では、そのようなすぐに役立つ技術を教えたり、職業訓練校のようなことはしない。というより、「教える」という姿勢ではなく、学生と同じ目線でものをつくる場にしている」というようなことを言った。

ほほう、なるほどと思ったんだ。

就職難だから、一見、すぐに役立つ技術を身につけた方が、就職の時、有利のように見える。

例えば、テレビ、映像業界に就職するには、カメラの知識、編集の知識、撮影全体について把握していた方が、使う側からしたら、使いやすい。

いつでもADの不足しているテレビ制作会社などは、そういう人を積極的に雇うだろう。そういう意味では、「就職率」を上げることができるかもしれない。

しかし、待てよ、と思う。

ちょっとしたカメラの知識、編集のテクニック、現場の仕切り方を知っていることは大切だし、すぐ働けて役に立つかもしれない。だとしても、本当にそれだけで、ひとを選ぶだろうか。

テレビの仕事であっても、制作する側に求められるのは、「ちょっとした業務を難なくこなす」ひとだけではなく、新しい企画、面白いことを考えつき、実行に移すことができ、それを楽しむことができるひとだ。

目先の技術より、そういう基本を持ったひとのほうが、結局、長くこの業界で働くし、伸びていく。

で、そのような人たちが学生時代、何をやっていたかというと、ちっとも業界で働くための準備などせずに、自分の好きなものを追求していた場合が多いと思う。

だからね、傷つかない技術も必要だと思うんだけど、前述の美大の先生がおっしゃるように、大学は自由にものを作れる環境であったほうがいいと思う。

そこで、自分の「好き」を追求し、誰の顔色もうかがわず、好きなだけ、試して、楽しんで、失敗して、でもまた、作り始めて…

そういうことをした人の方が、結局は長いこと、「つくる」ことを生業にすることができるような気がする。

すぐに現場で役立つノウハウなどは、就職してからいくらでも身につけることができる。そして、そのような作法は、現場によって微妙に異なるから、準備しててもかえって邪魔になることだってある。(もちろん、役立つこともあるけど)

けど、「なにが面白いか」「なにを美しいと思うか」「なにに価値をおくか」といったような、ものづくりの基本みたいなことは、時間がたくさんあって、好き勝手にできる学生のころにしか、追求できない。

自分の望みをとことん、掘り下げておくことは、巡りめぐって、そのひとの人生を、といって大げさなら、仕事人生を支えることになると思う。そのひとを支える基本、倫理、理想、みたいなものが形づくられるからだ。

自分を鑑みても、学生の時に考えたこと、追求したこと、やりたいと思ったことは、結局、生涯かけてやることになっている。その基底の部分はこれだけ長く生きてもあんまり変わらない。

というか、困った時、迷った時に、いつもそこへもどっていくような気がする。自分の基準みたいなものへ。

だからね、大学は職業訓練校みたいにならないで、好きなモノを追求できる場であったほうがいいと思う。

ただ、これらは美術、文学、映像などの芸術分野において、そう思うけれど、経済学部や法学部、工学部などはどうなのかはわからない。

でも、ちょっと考えても、法学部でも、法律とはなにか…みたいな基本や哲学をおさえておくのは大切そうに思うけれども。(このあたりは、知識が乏しいので、自信もって言えませんが…)

というわけで、「大学で何を教えるか」について、考えてみました。

あ…でも、「傷つかない技術」というのは、傷つきやすいひとが多いので、どこかで、マニュアル化して、教えてもいいような気がする。

というか、今からでも、私も身につけたいわ、「傷つかない技術」があるのなら…。

嘘が生む本当

2012年02月 02日 (木) 05:35
ここ最近、ずっと考えていること。

それは、「虚構の自由度」についてであります。

自分はどちらかというと、リアリティあふれる作品が好きです。

ファンタジーとかSFよりも、日常が日常的に描かれているものが好きです。

自分が書く場合も、なるべく、リアリティを獲得できるように気をつけています。

それって、本当にありえるか、人間はそのように考え、振舞うのか…と突き詰めて考えます。

が。

時にそれがしばりとなり、結果的に、確かにリアルだけど、リアルだからって、真実かってなるとどうなんだろう…と思うことがあります。

そこで、「虚構の自由度」ってやつですね。

ある種の虚構…つまり、ありえないこと、ありえない前提を作ることで、かえって、自由に創作できて、その結果、そこで描かれている「なにか」がリアリティを獲得するということです。

たとえば、「ムーミン」。

森に暮らす妖精のような、架空の生き物たちが主人公です。

実際にそんな生き物は存在しないけれど、だからこそ、その架空の物語のなかで、「真実らしさ」「本当に思えること」が描ける場合がある。

ムーミンはアニメーションですが、実写でも充分ありえる。

たとえば、人間には翼があって、空が飛べると仮定して、それを基盤としてドラマを作る。あるいは、同じ人類のなかに、「翼のある種類」がいると設定する。

実際、翼があって空を飛べる人間はいませんが、そのような人間たちを描くことで、飛行機との接触やら、ちがう種にたいする差別意識やら、「空を飛ぶ」=自由という短絡的なイメージの破壊やら、通常の設定では描くことが難しいことが、さらりと言えてしまったりする。

なので、「虚構」とは、自由を広げるものなんですね、表現においては。

でも、一方で、自由を広げるからこそ、物語を作りやすくするというマイナスもあると思う。

たとえば、そのままではつまらない設定や物語であっても、「ありえない事件」を起こさせたり、「ありえない人物」を登場させることで、にわかに、ドラマチックに盛り上げることができる。

よく使われる手としては、「突然、誰かが事故で死ぬ」とか「幽霊が現れる」とか、「超能力を身につける」とか「宇宙人にさらわれる」などいろいろあるわけです。

ごく普通の家庭であっても、そこで誰かが突然死んだり、宇宙人が現れたりすれば、それでドラマは動きますからね。

盛り上げやすい。

なので、安易に「虚構」を使うことは、よくないとは思うのです。

使うなら本気で使わないとね。

…いえ、だからどうだって話なんですが、今後のテーマのひとつとして、この「虚構」を使うことによって、自由度を広げてみたい…というのがあります。

安易にならないように気をつけながらね。

…ということで、なんとなく感じたことでありました。

昨日は、東京工芸大の公開講座で作ったドラマのミニ打ち上げを自宅でやりまして、各俳優人たちからいろんな話を聞けて楽しかったです。

ここまで含めて勉強になったな。

自分のなかで、「リアリティ至上主義」みたないところがあったんだけど、最近、そうじゃない方法に興味を持ち始めまして、先日の講座はリアリティにこだわりすぎたので、そこらへんについても考えていたのでした。

そんなわけで、2月。

最近、買ったもの

2011年11月 09日 (水) 04:20
もう、なんていうか、出費がかさんでおります。

canon XF100 というカメラ

CFカード ×2

カードリーダー

Thunderboltでつながるハードディスクとそのケーブル

ガンマイク

どどーんと、お金なくなったよ。

これだけじゃない!

渡英費用、学校費用、シェアハウス家賃、とかさむ、かさむ。

そんなにお金使って、何をしようとしているのか。

果たして、それは仕事なのか、儲かるのか。

いやー、儲かる可能性はないっす。

でもさー、ひとにはやらないと行けないとき、行かないと行けないときっていうもんがあるよねー。

その時には、お金とかいってられないでしょう。

……というふうなので、生涯にわたって、ノー貯金で生きている。

ほんの2週間前は、グリーンカーペット歩くために、衣装、買っちゃって、散在したその舌の根も乾かぬうちに。

でも、いいんです。

そうしたいから。

というわけで、週末からロンドンです。

午前中は英語の学校に通いながら、ロンドンにある、某、犬猫施設に潜入取材します!

っていうのは、大げさで、とりあえず、ボランティアで働かしてもらいながら、随時、取材(撮影こみ)をしたいと思っております。

昨年の秋に、ミニ(愛犬)を失いまして、鎮魂プロジェクトであり、自分トライアルであり、なんだかわからないけど、どうしてもやってみたいから、やるという無謀な試みであります。

ずっとやってみたかったこと。

海外ひとり暮らし。

犬猫シェルターで働く。

普通に英語が話せるようになる。

この3つを同時にかなえるプロジェクトなのでした。

で、旅のお供に、小さくて高性能のHDカメラを買ったのさ。

かなり、懐痛いですけどね…。とほほ。

ネタについて。

2011年11月 05日 (土) 23:17
ちょっと風邪ひきちゅうなので、間違ったことを書くかもしれない。

…とあらかじめ、言い訳をしておいて、最近、考えたことを少々。

数日前、同じ業界のひとと話していたら、「自分の大事なひとの話は絶対にネタにしない」というひとがいた。

例えば、そのひととの大切なエピソードを仕事に使わない…という話だ。

私のまわりは、テレビや映画を作ったり、書いたり、本を書いたりするひとが多い。っていうか、ほとんどがそんな仕事のひとたちである。友達もみんな、そんな仕事。

で、このとき、出て来るのが、「ネタ」問題。

私もいくつか小説を書いているけど、事実をそのまんま書いたり、登場人物がまんま実在する場合は少ない。

(よく誤解を受ける。小説の主人公=わたしと思われること多々だけど、そんなはずはない)

が。

もちろん、これまでの人生で出会ったエピソードに触発されたり、エピソードのなかのエキスだけ取り出して使ったりはしている。そのことに、罪悪感があるかというと、う〜ん、とことん考えた末、あんまりない。

人に迷惑をかけないようにしよう…とは思うけど、そのこと自体にそれほどの罪悪感はない。

が、その友人は言うのである。自分はしない…と。まあ、彼は、作家系の仕事ではないので、ちょっとレベルがちがうけれども。

しかし、そんな私であるけれどもハリウッドの演劇学校に行ったとき、ちょっと違和感を覚えたこともある。

それは、先日オンエアになった、柳楽優弥くんのハリウッド修行を取材したものだけど、その学校では、かの有名な「メソッド」という演技法を教えている。

メソッドのなかに「センスメモリー」というのがある。直訳すると「感情記憶」ということになる。

なにをするかというと、センスメモリーの授業では、ある特定のシチュエーションを演じるとき、それに近い、記憶をたよりにする。

例えば、こういうことだ。

自分の家で、好きなひとのために料理をしているシーンを演じろ、と言われる。この場合、「好きなひと」とは誰でもいい。恋人でも親でも子供でもいい。自分の大切なひとのために、料理をしていることを想像し、演じてみせる。

そこへ、その「好きなひと」から電話がくる。一生懸命料理を作ったのに、そのひとは来られなくなったという。その時、どんな気持ちになって、どんな行動をするか。

それを演じてみせるのである。

このような訓練を通じて、あらゆるシーンに対応できる演技力を身につけて行く。

とても合理的で整理された演技法だと思う。

演技のあと、車座になって教師を囲んで話し合う。「誰を想像して演じたか」「もうすぐ会えると思ったとき、どんな気分だったか」「突然、電話で、来ないとわかったとき、どんな気持ちになったか」

このような質問に答えていく。

別れた恋人を想像したひともいたし、離婚した親を思い出したひともいた。なかには泣き出すひともいた。

そのように、大切なひとに「冷たい目に合わされる」シーンをリアルに演じるために、過去の記憶を呼び覚まし、その時の感情をよみがえらせるのだ。

恋人に裏切られた瞬間を思い出せば、なるほど、リアルな芝居ができるかもしれない。

が、しかし、その時、ちょっとひっかかった。

それが「恋人との別れ」くらいならいいような気がするが、たとえば、大事なひとが亡くなるシーンだったらどうだろう。

大事なひとを亡くした芝居をリアルにするために、実際に誰かが亡くなったときのことを思い出し、そのひとのことを思って泣いたとしよう。

それはリアルな悲しみを演じられるだろう。

けど。

それでは、そのひとの死を、演技に利用していることにならないか。その悲しみを利用しているような気がして、悲しみが汚れてしまうような気がする。

このとき初めて、過去の経験をネタにすることの罪悪感を感じた。

いや、小説に書いたり、脚本に書くのはOKで、演じるのはダメだなんて、おかしい。小説に使っていいなら、演技に使ってたっていいはずだ。

そこでさらに考えがすすむ。

なにかを表現するってことは、結局は自分の経験のある部分をネタにすることである。悲しい体験、強烈な体験をしたひとが、繰り返しそれを描かずにはいられないように、創作活動にはそういう側面があるんじゃないかな。

そこまで考えて、同じく、リーストラスバーグ(ハリウッドの演劇学校)の教師、サシャがいっていたことを思い出した。

俳優とは、痛みを経験し、その痛みをさらけだす勇気のあるものだ…。

その時、毎回、「痛み」を感じながら演じること。

それは、書いたり、撮ったりもきっと同じなんだよね。

それを「ネタ」にするのはいやだ…というなら、仕方ない。ネタ…という言葉があまり適切じゃないけど、ひとから見ると「ネタ」かもしれないから、ネタのままでいうと、創作とは、ネタにし続けるような作業のことだ。

そういう深い業をもったものなのではないかと思った次第。

といいつつ、最近、そんなふうに向き合うような創作をしておりませんけれどもね。

でも、自分は、自分の犬を失った悲しみをそのままにしておくことができない。その悲しみをこれから先も何年にわたっても掘り下げていくような気がする。

来週から、ロンドンです。これも、ミニを亡くした悲しみのひとつ。

父のムスメ、母のムスメ。

2011年10月 09日 (日) 05:40
先日、上野千鶴子さんと島崎今日子さんのトークショーに行ってきた。

このとき、ちょっと話題になったのが、「父のムスメ」「母のムスメ」というもの。

なんのこと?…と思うかもしれないけど、たとえば、女性で成功するひとは、「父のムスメ」である場合が多いという。

「父のムスメ」とはなにか?

つまり、父との関係が良好で、父から愛され、期待され、まるで息子のように育てられたムスメのことを言う。

一方、「母のムスメ」とは、母との関係が強かったムスメを指す。友達のように強烈に仲のよい母娘もいれば、お互い憎しみあうような、犬猿の仲の母娘もいる。

たいていのひとは、どっちともそこそこ仲良しだったりするだろうけど、中には、「あー私は母のムスメであった」あるいは、「父のムスメっていう実感ある」っていうひとがいるだろう。


「父のムスメ」が成功しやすい…というのは、なんとなく、わかる。

父とは、家族における、外部…というか、社会との接点であるから、その外部の者から期待され、ほめられて育てば、「外の世界は私を待っている」という認識を持つだろう。

また、父=年上の男、であるから、社会を形成している「年上の男」にかわいがられる術を早くから身につけることができる。

よって、「父のムスメ」はすいすいと社会を泳ぐことができ、結果、成功を手にする。

果たして「母のムスメ」はどうなのか。これはなかなか難しい。

作家系のひとで、母との強烈な関係を書くひとは多い。たいていは愛憎半ばした、対立構造。これがテーマの女性作家って多いような気がする。成功するかどうかはわからないけど。

さて、自分であるが、私は、「父のムスメ」でも「母のムスメ」でもない。両親ともに、割と縁が薄い。

「家族」という概念にあまり興味がないのもそのせいかもしれない。特別の憎しみもこだわりもないかわりに、強い愛着もないのだ。

そして、強いていえば、自分は「祖父の孫」であった。

子供時代を思い起こせば、もっとも、濃密な関係を築いた家族とは、祖父であった。私は祖父に育てられ、多くのことを祖父から学んだ。祖父のように生きようと思った。

「祖父の孫」というカテゴリーのムスメは、どういう人生を送るのだろうか。

あまりサンプル数が多くなさそうだけど、ちょっとへんてこになるのかもしれない。

祖父は男であるけれども、すでに社会から離れた世代である。そのようなひとに取り入るのはうまいかもしれない。けど、現役ばりばりの男とは折り合いが悪い。

よって、疲れたひと、おりたひと、欲望が減ったひと…とはうまくやっていけるのだった。

…なんてね。科学的根拠はないけれども。でも、そんな感じです。

わたしは、「祖父の孫」キャラでございます。


エキストラ体験

2011年09月 03日 (土) 23:32
思うところあって…というか、一度やってみたくて、「エキストラ募集」に応募してみた。

なんというか、ひとの現場に行ってみたい…というのがひとつ。

ほかの監督が作って行く様子を見たい…というか。

そして、もうひとつは、「演じる」ってことをちょっとやってみたかった。

もちろん、これまでもいろんな現場に行ったことはある。

知り合いの撮影現場や、メイキングを撮りに行ったこともあった。

あるいは、自分が脚本、書いた現場とかね。

けど、知り合いの場合だと、あんまりジロジロみているのは気が引けるし、だいたい、たいへんなシーンのときは邪魔なのはわかっているし、メイキングだと、こっちも仕事しないといけないので、見てばかりもいられないのだ。

だから見ているようでいて、じっくり見ていない。

というのも、ハリウッドの演劇学校に行って以来、「ひとの演出法を見たい」という思いにかられていたのだ。

よほど、この時期、撮影している知り合いを訪ねようかと思った。

けれども、そういうのって迷惑でしょう。

逆の立場になって考えてみる。

あんまり同業者に見られたくないよね。って思いはある。

それに、誰かくるってことになったら、助監督さんとか制作部さんと連絡とらないといけないから、ただでさえ、忙しいひとたちに余計な仕事を増やすことになる。

そういうのもどうかと思って、ネットで募集していたエキストラ募集に応募してみた。

連絡がなかなかこなかったから、「やっぱり、落選か…」と思っていたら、撮影2日前くらいにメールが来た。

わー結構、ギリギリなんだなーとまず驚く。

そして、同時に怖くなる。ホントに私なんかが行っていいのかしら…。大丈夫かしら。できるかしら…などなど。

しかし、申し込んでおきながら、前日キャンセルされたら、スタッフも困るだろうし、第一、せっかくのチャンスだ、勇気を振り絞って行ってみた。

ここで注釈を書いておきますと、たいていのエキストラは、その作品に対する守秘義務みたいなものがあって、現場で知り得たことを発表してはいけないことになっている。なので、もちろん、具体的な作品名、監督名は書きません。

あくまで、私個人の心象風景と体験記としてお読みください。

…というわけで、早起きして…というか、2時間くらいしか寝れずに出発。朝ご飯はでないと知らされていたので、電車のなかで、バナナなどを食べる。

撮影現場は、在来線で行くと軽く2時間半くらいかかる。一時は現場近くに泊まろうとかと思ったけど、特急などに乗れば、1時間ちょっとで行けることがわかり、そっちにした。

電車のなか、寝てないこともあって、緊張、緊張。

ある意味、自分が演出に行くより緊張する。どっか、「なにやってんだ?自分」という思いがある。

そんなこんなで、ビビりながら、集合場所に到着。

これが意外だった。自分の予想ではもっとわんさかエキストラのひとがいると思っていたのだが、思ったよりずっと少ない。

これで、緊張がさらに高まる。

「おおぜいのなかのひとり」なら大丈夫だろうと思っていたら、こんなに少人数なんて、やばくないか…?

すると、助監督さん(もしくはエキストラ担当)がやってきて、移動となる。どうやら、ほかにもエキストラはいるようだ。

撮影現場につくと、ほっとした。たくさんのエキストラさん…100人弱が集まっている。

おー安心。これなら、数にまぎれることができる。

と思いつつも、万が一、スタッフに知り合いがいたらどうしようと、初めて気づく。

が、まあ、その時はその時だ、正直に「見たかったから」と言えばよい。そう覚悟を決めるが、伏し目がちで歩いたことは告白しておく。

監督やカメラマンを遠巻きにちらちら見ながら、エキストラの控え室に入る。

そこで、助監督(もしくはエキストラ担当者)の説明を聞く。

ここで初めて、自分が演じる役の内容を知る。といっても、非常にざっくりした説明なので、「へーこれくらいの説明でやるもんなんだ」と驚く。

脚本ももらえないし…まあ、当然なのか…、作品全体の流れもわからない。

そんなんで、「演じる」ことなんてできるのだろうか…とちと不安になる。

が、まわりを見渡すと、ベテランエキストラさんたちがたくさんいて、余裕な感じである。

こういうときは先輩方に従おうと、おとなしくしている。

それからは、「待ち」。

そうか、そうだよなあ、俳優さんたちって「待つ」んだよなーとしみじみ思う。

自分は撮る側だから、「待ち」なんてない。いつも追いかけられるような気持ちでやってる。

けど、待つ側にしてみたら、「なに、やってんだよー」と思うのかもしれないなーと思う。

とにかく、暇。まわりのおしゃべりに耳を傾けつつ、途中からは寝てしまった。

爆睡してたら、出番が来た。半睡状態のまま、現場へ。

うー眠いし、頭、ぼーっとしてたら、メイクさんに髪を直された。

そうか、寝てたまま、来ちゃったから、ボサボサだったのね、失礼。

髪をきりっと結んでもらって、少し目が覚める。

で、助監督さんの説明。そうか、エキストラに芝居つけるのって、監督じゃないもんね。そうかー。

監督が芝居つけるところ、見たかったなーと思って、監督を探すけど、見当たらない。

エキストラの大群のなかからは、遠すぎて見えない。おう、残念。

で、肝心の自分の役柄(…といっても、群衆のなかの人なので、役柄というほどのものでもない)に徹してみようと考える。

が、思ったほど、説明がないので、細かい部分がわからない。周りを見ると、みなさん、それぞれの芝居をする意気込みである。

そうか、これくらいの説明で、これくらいの準備時間でなにかしないといけないんだな、そうか、かなり即興性の求められる仕事なんだなーなどと思う。

でも、自分なりにやってみようと、目をつぶり、そういう役柄を想像し、やり過ぎない範囲でトライする。すぐにテスト、で、直して本番…とにかく、テンポが早い。

うー、自分の芝居、これでいいのかしら…とか思ってるけど、とりたてて注意もされないから、セーフだろうと思って、トライ。

そんなふうにして、炎天下のもと、撮影。

待ちの間、役者さんには日傘と飲み物が配られるけど、エキストラにはなし。その場を動いてもいけない。

あー過酷なんだと思う。

勝手に飲み物とりにいこうかと思ったけど、そんなことをするひとはひとりもいないので、やめておく。

そうだ、エキストラのひとがどんどん勝手に動いたら、スタッフは困るだろう。このように、ちゃんとじっと待っててくれる方がいるから現場がスムースに進むのだ。

それを自ら壊してはいけない。

エキストラさんはいろんなひとがいる。定年退職後に趣味でやっているひと、芝居が好きなヒト、エキストラ常連のひと、などなどとても興味深い。

だんだんなじんできて、撮影を楽しむ余裕も出てくる。

一応、自分も演出をやってきたので、撮りたいカットはだいたいわかる。

こっちから撮ったら、次はあっちだな…、なるほど、アップを入れて、逆打ち行くのね…などと思う。

そうだ、監督を見なくっちゃ…と思い、目で探す。

この現場は監督補らしきひとと、助監督がほとんど仕切っていて、監督はあんまり全面に出てこない。カメラマンとは全く話さない。

モニターを見たり、時々、様子を見に来るくらい。

そうか、そういう感じなんだー、と思う。

それでも、途中、ちょっとした芝居の説明をしに、監督がやってきた。非常に短い言葉でわかりやすく意図を説明して戻って行った。

なるほど。

逆の立場からはこのように見えているんだなーと思えて、面白い。

でも、こちらにも仕事があるんだから、いい気になって観察してたら失礼だから、群衆の役をがんばる。で、しみじみ、演じるって難しいなーと思う。

よくも偉そうに、「次はこうして…」とか「全然ちがう」とか言ってきたもんだと思う。

監督でも、芝居のうまい人もいる。そういうひとはやってみせるけど、自分は苦手です。歌も踊りもできません。うー。

でも、今回エキストラ参加した監督さんも、そっちタイプ。自分で演じてみせたりしなかった。

そんな感じで2シーンくらいに出演して、控え室に戻ってきた。

またまた、待ち時間。

この待ち時間を利用してこそ、遠巻きに見学に行くべきであった。そうしているひともいた。

が。

何しろ、眠くて眠くて、ずっと寝てたよー。

バカか、おまえは。

2時間くらい熟睡して、やっと目が覚めて、夕方からちらちらと見に行く。

ここでも監督補もしくは助監督さん大活躍で、監督さんはどっしり構えている感じ。

ふうむ。

勝手な印象では、「ものすごく怖い感じのひと」だと思っていて、もっと怒鳴り散らしたりするのかと思っていたら、そんなことは一度もなかった。

エキストラが入るときに、ひとりひとりに「おはようございます」とちゃんと挨拶していたし、終わったあとは、深々と「ありがとうございました」と頭を下げていた。

わーなんか、いいひと。自分の作品にまじめなひと…と思い、好印象にかわる。

やっぱり挨拶は大事だ。…っていうか、心がこもっているかどうかが通じてしまうような気がした。

そんなわけで、帰りは疲労でヨレヨレになりましたが、とても勉強になった。行ってよかったと思った。

そして、もうひとつ知ったことは、どれほど集団行動が苦手かってこと。

一カ所に集められたり、席を決められたりするのがとてもしんどい。自分勝手に動けないことが、こんなに苦痛だとは。

以前、ヨーロッパにツアーで行ったことがあって、その時と同じ苦しみを感じた。ご飯とかなにからなにまで決められると、とても苦しい。

一カ所にじっとしていられない。

(これは小学校の頃からだし、よく授業中に歩き回って、先生に怒られた。)

そういう意味でも勉強になった。そして、エキストラのひとたちにどれだけ助けられているかも知った。

次に自分がやるときには、もう少し、詳しく説明などできたらいいな…と思った。

ちがう場所に身を置いてみること……これはほんと、とてもよい経験だと思いました。

芝居に自信があったら、もっとやってみたいなーと思いました。

(ちなみにエキストラに行ったのは、この夏のある一日であり、今日ではありません。)



復興書店でエッセイを。

2011年06月 01日 (水) 23:17
作家や漫画家や画家のひとたちが、自分の書物を持ち寄って売り、その売り上げを被災地に寄付する…という、復興書店のいとなみに参加しております。

作家の島田雅彦さんの呼びかけではじまり、たくさんの本が販売されています。

ホームページにいくと、Words&Bondsという、ページがあって、ここはいしいしんじさんが、代表となってつくっている、読み物(無料)のページです。

ここに、「犬と猫の眠る場所」というエッセイを書きました。

震災があって、わりとすぐの3月に、四国の高松市にでかけて、「猫塚」と「白い犬の墓」を見つけたてんまつを書いたモノです。

このブログでも一部書きましたが、その、正式版というか、ブログは普段着の文章ですが、こちらはちょっとしたお出かけ着の文章です。(あ、そんなに変わらないかな…)

これが、本日よりアップされました。

復興書店のトップページは、まだ変更されていないのですが、すでに10号はアップされているので、コレをクリックしていただければ、お読みいただけます。

このページ、すべていしいしんじさんがやっておられます。

原稿の募集、送られて来た原稿の管理、誤字脱字の確認、アップまで。

編集のひとはいないので、いしいさんがなにからなにまで担当しているんですね。

で、それはとても美しいことなんですが、直接、原稿を送ることになりますら、最初はちょっと緊張しました。

だって、いしいさんは現役の作家です。一応、自分も作家のようなものですが、原稿を同業者の、しかもたいへん能力の高い方に読まれるのですから、緊張するわけですね。

編集者は仕事だし、原稿をやりとりしている時点で、こちらの趣味趣向を知っているわけですが、この場合は、そうはいきません。

自分のような作風はお嫌いかも知れない。

ひとくちに作家といっても、いろんなタイプのひとがいますから、嫌いな作品だってあるのは当然です。

だから、少し心配でした。自分は特に汎用性のある作品じゃないですから…。

しかし、杞憂でした。

楽しかった…。復興支援なんですから、「楽しかった」もないものかもしれませんが、実際、楽しかったので、すみません。

原稿を送ると、いしいしんじさんから、とてもていねいな感想が送られて来て、それだけで感激しました。作家としての視点と一読者としての視点から、やさしくおもしろく、感想が書いてありました。とてもうれしかった。

いしいさん、ありがとうございました。

そのような経緯を経て、今日から、自分の文章もWords&Bondsにアップされました。

同じサイトで拙著も売っているようですので、よろしかったら…。

☆「すべては海になる」の文庫版はすでに売り切れてました。コレ、上野千鶴子さんに解説を書いてもらったので、(その解説読むと、私は、毎度泣いてしまうのですが…)、お得感があったのかもしれません。

まだ、きれいな表紙の単行本が売ってますので、よろしくです。楽しんでもらえるように、表紙をひらくといろいろ書いたりはったりしました。

そんなわけで、復興書店、よろしく、です。

「自分」が流行っておる。

2011年05月 30日 (月) 03:09
星野智幸著の小説「俺俺」を読んで、おもしろいなーと思いつつ、奇妙な符合を感じたので書きます。

「俺俺」は、ささいな気持ちから俺俺詐欺をはたらこうとした主人公が、自分と同じ「俺」と出会い、その「俺」が増え、「俺山」まででき、「俺」がどんどん増殖していく…という、喜びと恐怖を描いた…とてもストーリーを説明しにくい小説です。

俺が増殖していくというシュールな展開が、マック(マクドナルド)とか、家電量販店とか、出世願望とか、社内イジメの恐怖とか、ごく日常的なベタな設定のなかで、描かれていくのが面白い。

でも、強く感じるのは、あーこの「俺俺」言っているひとが増えている感じ、とてもよくわかる…ということ。俺にしか関心がなく、それゆえ、相手の必要となる恋愛が苦手で、会社などの組織で働くことも苦手。

できれば、自分ひとりで完結して生きていきたい…って気持ちは、案外、誰もが共有しているものではないかしら。

主人公の俺が、ひとりになって、俺でもなんでもなくなる瞬間を愛しているのはよくわかる。

自分もひとりでいるのが好きですもの。

今の若い人の、ファーストプライオリティが、恋愛ではなくなった…っていうのもよくわかる。恋愛には相手が必要で、相手の機嫌をとらないといけないし、傷つけられる可能性もある。

そんなんだったら、部屋にいて、ネットでエロい画像でも見てればそっちのが楽なのではないか…というのもわかる。

自分の時代は恋愛第一だったから、想像しにくいけど、もはや、恋愛に興味のなくなった今、気持ちは「俺俺」のひとたちに近いからね。偶然だけど。

で、この「自分にしか興味がない」傾向って世界的なものかもね…と思いました。ネットのおかげかもしれない。

まったく毛色はちがうけど、映画「ブラックスワン」もまた、俺俺の世界です。俺俺というより、バレリーナですから、「わたしわたし」の世界。

こちらは、バレリーナの遅れてきた「自分探しの物語」とも読めるわけです。彼女が求めているのは、すべて自分であって、敵も自分なら、味方も自分なんですね。他者が不在。

この、「他者不在」こそ、「俺俺」に共通すること。

じゃあ、それほど、自分にこだわった自分たちは、どこへ行くのか…っていうと、それが、自分そのものが、どこまでが自分だかわからなくなる…という、ねじれを生じるんですね。

強烈に執着しているはずの「自分」なのに、いつのまにか、「自分」でなくなっている。その不安。

これって、現代的だなと思う。

あなたは唯一無二の存在です。オンリーワンです。と言われて育っても、同時に、あらゆる面から評価を受け、それが数値化されることに幼いころからならされている。

社会に出たら、オンリーワンなんかじゃないことは誰でも一緒。総理大臣だって、ころころ変わりますから。

自分は唯一無為であると同時に簡単に取り替え可能な存在であるということ。このアンビバレンツな感じが、今なんですね。

もう、それを受け入れるしかない…という諦めに似た思い。

一方で、ブラックスワンのように、真剣に自分探しをしてしまうと、そこにはかなりの危険が待ち受けている…とうことです。

自分探しは極めると、自己破綻を招きます。

それで、時代は、「自分ばなれ」になりつつある。自分だと思っていたものがいつのまにか、自分じゃないものになっている…最近の小劇場の舞台ではよく見かける手法。

とはいえ、当分、テーマは「自分」なのだなーと思いました。

少し前の時代は、「恋愛」が流行り、テーマは他者との関わりであったけど、今、「自分」が最大のハヤリです。

自分がはやる日が来るとは…。





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