日々のうつろい
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心ゆれる日々。

2012年05月 17日 (木) 02:46
日記は毎日更新!と銘打っておきながら、日数があいてしまった。

毎度のことですが、じっくりした内容を書こうとすると、やや及び腰になっていた。

なかなか、毎日、忙しいのである。いや、どんなに忙しくても、文章を書くことに疲れを知らないタイプであるけれども、「いいこと」書こうとすると身構えてしまってダメね。

急にちょっと怪談のようなdvdを作ることになったり、いよいよ、犬の映画を撮り始めたので、日々、充実というか、あっという間に一日が終わる。

昨日は撮影のため、某所の動物愛護センターに行きまして、犬にたくさん会えるのは嬉しいけれども、しかし、彼らは明日をも知れぬ命であるので、非常に精神的に参ってしまって、帰って来るとずんと疲れが襲うのであった。

しかし、なんとしても、彼らの命が救われるようにしたいのだ。

一ボランティアとなって、救う活動をするのもアリだと思いつつ、人生半分以上を映像演出の世界で生きてきたので、もし、自分に少しでも力になれるとしたら、この力を使って、映画を作ることであり、それによって、一頭でも多くの犬(+猫)が救われることを願っているのだ。

そして、その作品のなかで、「動物の命」とはなにかを問いかけたい。

生きるものは生きるために、命を食べるしかない。牛や馬や豚は食べるために殺されているのを知っていて、犬猫だけを特別扱いするのはどういうことなんだ…という視点も常に忘れずにいる。

でも、やっぱり、犬猫は、人間の「楽しみ」のために生きるしかない現状で、「楽しみ」のために処分されてはいけないのだ。「楽しみ」で始めた以上、最後まで責任をとるべき。そうでなかったら、楽しんではいけない…とやっぱり思うのだ。

そういう気持ちを確認しながら、撮っていきたい。これはもう、今まで自分にたくさんのたくさんの愛情とかけがえいのない時間をくれた、犬への恩返しである。亡くした犬への鎮魂でもある。

この件については、非常にマジだぜ。

本日は、夜、尊敬する先輩、80歳になられた女性監督を囲む会。

女性監督ばかり4名で、ヘルシーなおばんざい屋さんで食事。いい年した女性ばかりであるけれども、ひとりもまともな(まともっていうか、普通っていうか)家庭を営んでいるひとはいないのであった。

で、いろいろ映画について盛り上がって話した。

パワーをもらい、勇気をもらって帰って来た次第。



「時代と寝る」メディアみたいな…

2012年04月 14日 (土) 02:13
久しぶりにテレビを見たら、テンションが高くて、ちょっとひいた。

最近はなかなか、オンエアをそのまま見ることがなくなっていたんだけど、疲れて帰って来て、なにげなく深夜の番組を見たら、疲れた。

テレビより、ネットにつながっている時間のほうがどんどん長くなり、主たるメディアがネットになってしまった今、久しぶりに見たテレビは、ハイテンション、情報過多、展開早すぎ…と、ついていくのがたいへんになっていた。

年をとったせい?…ともいえるけど、そればかりじゃないと思う。

インターネットは、中身は広大で無限大とも言えるけど、どこへ行くか、何をするか、どれだけそこにいるかは、全部、自分で「選ぶ」ことができる。

読みたいニュースをゆっくり読んでもいいし、関心のないテーマはさわりもせずに、スルーできる。

じっくり読んで立ち止まることも、途中まで見て、保存して、別の機会にあらためて見ることもできる。

感じたことを書くことができるし、もっと詳しく調べることもできるのだ。

思えば、いつも、自分が主体になれるのだ。

ところがテレビはそうじゃない。完成度が高く、親切で、視聴者思いだけど、一方で、とても独善的でもある。

こっちが選べるのはせいぜいチャンネルだけで、それ以外は、すべて、テレビのお任せだ。その流れを変えることも止めることも、意見することもできない。気に入らなければ、スイッチをオフにするしかない。

いや、自分もテレビを作っているし、そのおかげでご飯を食べてこられたのだけど、ネット慣れした今になると、テレビの過剰さに結構、驚くのだ。

ネットのほうが、メディアとしては最先端なんだけど、そのありようは、案外、古典的な気がする。

ネットは本に似ているし、いくら無限大にサイトがあってもつながれる数が限られていて、それが、「好み」と「一時の好奇心」「仕事上の必要」などに支えられているという意味でも、現実の人間関係に案外近い。

テレビは、こちらが準備してなくても、好きじゃなくても、調べる気がなくても、一方的にだーっと情報を流してくるのだ。しかもその密度が濃い。

自分も作っていてわかるけど、テレビってそれなりに完成度が高いんだよね。ネットだとそうでもないものが結構あるけど、テレビは、プロフェッショナルが集まって、必死に作っているからどの番組も「濃い」のだ。

それともうひとつ。

たまたま自分が見てしまった番組がその感を強くさせたんだけど、テレビに出ているひとというのは、特権的な人なのだ。

普通のひとはなかなか出ることができない。いや、昔に比べたら、テレビに出るなんて、ハードルの低いことになったし、特別な人でなくても、出る場合も多い。けど、お笑い芸人や俳優さんなど、やっぱり、「特別なひと」が出ている場合が多い。

そんな当たり前のことを久しぶりに見せつけられた気がした。

たまたま見てしまった番組に、ものすごーく「権威」の匂いをまき散らしている人が出ていて、その威張りぶりにびっくりしてしまったのだ。わー見たくないもの見てしまった…という感じ。

しかもその番組では、その権威を振りかざすひとを、あえて奉るような作りになっていて、それもイヤだった。その威張りっぷりさえも番組にしようとしている意図はわかったけど、そこまでして、作らなくていいじゃないか…と思った。

その姿勢にある種のテレビの現場の意地汚さを見てしまった。

権威をふりかざす振る舞いも、それからですら、なにかをいただこうとする姿勢もとてもイヤだった。

番組名もその時出ていたひとも書かないけどね。

というわけで、テレビというメディアが担ってきたものが、確実に終わりに近づいているのを実感してしまった。

ブランドものより、ユニクロやギャップなどの、手頃な価格で、着やすくて、日常的なものが主流になっているのと似て、「特権的なひと」だけが、発言するテレビより、誰でも言いたいことが簡単に言えるネットメディアの方が、より、時代にマッチしているんだと思う。

好きな言葉じゃないけど、「時代と寝る」みたいな言い方すると、テレビが時代と寝ていたときは終わったんだな。

そんなことを思ってしまいました。

自分もつくっていていうのは、なんですけれどもね。

それを自覚してやってゆこうと思います。

なにも時代からはずれたからって、それをやめるということではないのでね。

当然、映画も本も時代の先端じゃないけど、好きな分野は好きですもの。



成熟するツイッター

2012年04月 13日 (金) 03:41
ツイッターもやってるし、facebookもやってるし、未だにmixiも一応やってる…笑。

どれだけ、sns好きなんだ、ってことですが、基本、好きだし、自分にはとても向いているメディアだと思ってる。

そこで、最近、気づいたことを。

ツイッターも、最初の頃は、悪意のあるツイートをされることがあった。

こちらが何気ない気持ちで書いたことを、ねちねち突っ込まれたり、「作家としてどうよ」と言われたり、とあるアーティストのファンと称するひとから、「勝手に書くな」と言われたり。

かつてmixiに日記を書いていたときなんて、一日に何十件も、悪意あるコメントを書かれ続けたことがあった。

このブログにしても、コメント欄を設けていたときは、いや〜な感じの書き込みをされることもあった。

で、コメントできないシステムにしたし、ツイッターでもイヤな感じの場合はブロックするなど、対応には務めてきた。

そのせいかと思っていたけど、ふと、気づくと、いやなツイートを返されることがほとんどなくなった。

ツイッターを始めた頃より、圧倒的にフォロワーは増えているんだし、利用者も増えているんだから、悪意のあるツイートが増えてもいいようなものである。

でも、来なくなった。

これは何を意味するんだろうか。

あきれ果てて、嫌味を書き込む気がなくなった?

「ツイッターで論争はしません」と時々、申し開きをしているせい?

いいえ、どっちも違うと思う。

なんか、みんな成熟したんじゃないでしょうか。

というか、ツイッター上の、WEB上のマナーが向上したんじゃないかな。

もちろん、相変わらず、悪意全開で、悪口を書いているひとは時々見かけるけど、それでも、著名なひとで言論好きなひとのツイートを見ても、一時より、圧倒的に、「言い合い」は減っているように思える。

なんか、そういうの、無意味だよねーって共通の認識が生まれたんじゃないかな。

さっきも書いたけど、利用者が成熟したというか。

マナーが育つ…には普通時間がかかるものだけど、そこは、ネット社会は、早いのかもしれない。

これまでなかった世界だけに、少しでも住み心地をよくしたいと、結局のところ、みんな思っているから、痛いツイートをした後に、自分も傷つくことがあったんじゃないかな。

そんなわけで、意地悪されることもなくなり、自由にのびのびと、好きなこと書いてる。

これは楽しーことだ、いいことだ。

いろいろたいへんなことはわるけど、インターネットという世界の出現は、限りなく、自分にとっては、「よきこと」だった。

電話でつながる世界より、ずっといい。

そして、ひさしぶりに今夜テレビみたら、ちょっと不快な気分になり、つくづく、自分はこっちのネットの世界のが好きだなー気楽だなーと思えた。

このことについては、ツイッターにも少し書いたけど、また、別の機会にあらためて書くことにする。

今日、1本テレビ番組を作り終わり、そして、明日から次の1本の編集が始まる。

うー忙しいけど、とにかく、4月23日のソウル行きまで、頑張る。

ソウルでは、自分の小説の韓国の翻訳者を会える予定。うれし。

世界はフラットへ。

2012年04月 12日 (木) 03:16
小さなことだけど、最近、気になったことなど…。

昨晩は久しぶりに、六本木のシシリアに行った。老舗のイタリアンレストランである。

イタリアン…といっても、今、都心にあまたある、おしゃれで本格的なレストランではなく、「昔のイタリア料理」的な店である。

ピザやスパゲッティが一皿800円くらいで、何より、深夜2時くらいまでやっているのが魅力だった。

かつては、夜ご飯を食べ損なって深夜になってしまった時、よくお世話になった。それに普通の時間帯に行くと並んでいたりするほどの人気店だったのだ。

それが。

昨晩、久しぶりにいったら、「24時閉店」になっていた。早じまいになったなーと店のひとに聞いたら、深夜の客が激減したそうである。週末でも夜中に客は来なくなった…と。

そうなんだ−と、ビルの改築とともに随分キレイになった店内を見回し、しみじみした。24時までいた、私たちが最後の客だった。

店から出ると、六本木には、牛丼250円の看板の光る店がたくさんある。安くすませようと思えば、いくらでもできる。

もちろん、昔だってファストフードはあったけど、なんだか様相が変わってきた。

これをひとことで、「不況だから」とまとめるのはちがうような気もする。

人々の気分が変わったんだろうなーと思う。洋服も車もブランドモノを持つひとが減り、自分の身の丈にあった、そこそこのもので、満足するひとが増えたのだと思う。

夜通し遊ぶひとも減り、用もないのに繁華街をぶらついたりしないのだ。

家族のもとに帰って行く。

こういうのを、市民的成熟っていうのかな。落ち着いた、平和で静かな暮らし。それを望むひとが増えたんだろう。

ADさんを見ても、穏和なひとが多いし。自己主張が強いひとが益々減り、男子も女子もさほど差がないくらい、フラットになっている。男らしさも女らしさも、同時にゆっくり失われた。

思えば、この「男らしさ」とか「女らしさ」という根拠のない決めつけに双方の性が困らされてきたのだ。

そう思うと、いい時代になったのだ。服もユニセックスになったし、いろんなことが平板になった。

先日、ロケにいった時、カメラマンだけが男で、VE,AD、そして私の3人が女子だった。この四人で地方都市でロケをしていたのだけど、夜になり、食事をしていたとき、「女に囲まれているってことに、まったく気づかなかった」とカメラマンがふと口にした。

そう。そうなんだ。あまりに自然なことなので、「女のなかに男がひとり」という違和感が生まれなかったんだと思う。

男女という性別の個性より、それぞれの個性が際だち、性別など、小さな差異にしか感じられなかったんだと思う。

私もそう感じた。

世界はフラットに向かっている…そう信じたい。

もちろん、その陰で、すごい勢いで、格差が拡大しているのかもしれないけど…

民のかまどは にぎわいにけり…で

真実は私には見えていないのかもしれないけど…。



業界用語と仕事の慣れ。

2012年04月 09日 (月) 02:18
ツイッターで、「ご飯」とは炊きたてのお米のことをさし、冷めたものは、「飯(メシ)」と言うと知った。

だから、朝ご飯、昼めし、夕めしとなるって。

へえ、なるほどなー。

ところで、自分がいるテレビ業界では、ご飯のことをよく「めし」と言う。

さらに、業界用語も加わって、「シーメ」とか言ったりもする。

けど、言葉の正しい意味でいうと結構合っていることになる。

だって、スタジオ収録やロケの時はお弁当を食べることが多いから、ご飯はたいてい冷えて「めし」となる。

けど、女性としては、どうかと思う、語感でもある。

「さ、めしにしよう」とか「メシ、喰った?」なんて言葉を習慣で日常的に言ってしまったりするのだ。

よくないわね。

最近、自分が習慣と思っていることに、光を当てようというか、顧みようという気持ちになっている。

というのは、先日、とある新聞記者の方とロケに行き、話を聞いて、はっとしたからである。

この方は、取材などで世界中を飛び回っている。飛行機のマイルがじゃかじゃか貯まっているそうである。

そういう場合、飛行機のなかですることと言ったら、「寝ること」、せいぜい、映画見まくるくらいになるはずだ。少なくとも自分はそう。

でも、好きな映画を機上の小さなモニターで、見るのはあまりいただけず、よって、飛行機に乗るのはいつも面倒くさいし、あんまり好きじゃなかった。

ところが、この記者の方は「飛行機に乗るのが大好き」と仰るのである。

なぜなら、「この飛行機は何型かな」とか、「どんな航路を飛ぶのかな」「今日は窓から富士山が見えるかな」とか、とにかく楽しむことがたくさんあるから…という。

飛行機のタイプについても詳しいし、航路も調べたりしている。窓からの景色を熱心に見るそうである。

それをまた、生き生きと語られた。

ああ、すばらしいなーと思った。

人生を重ねて、いろんな経験を積んでも、(ちなみに、その方は私より年上)、身近なものを何度でも楽しみ、新しい魅力を見つけていく。

それって、とても豊かなことだなあと思った。

自分など、すっかり、飛行機はじめ、車移動、電車移動、すべてこれ、睡眠時間と考え、その道中を楽しもうなんて、これっぽっちも思わなくなっていた。

飛行機はいつも通路側で、出入りのしやすい場所を選び、よく眠れることがもっとも目指すべきことになってしまった。

思えば、自分だって、窓から空を見ることを楽しんでいた時代もあったのに。

すっかり、いろんなものから受けるはずの感動から遠ざかってしまった。

ご飯を「めし」と呼び、仕事中は、メシならなんでもよく、さっさと食べられればいいと思うようになっていた。

移動は早くて楽が一番…とか。

もちろん、仕事人としてはそれでもいいけど、ちょっとさみしくないか。

すさまないか、心よ。

……自分の言葉づかいもはじめ、もう少し、丁寧に生きてもいいんじゃないか、と思い直したのでした。

とはいえ、ここ数週間、とても忙しいので、なかなか、優雅なこともゆってられないんですけれどもね。

やっとこ、明日は、ちょっと休み〜。うれし〜。

才能は隠れていない。

2012年04月 08日 (日) 01:01
忙しい上に、風邪もひいたようで、弱り目に祟り目というやつである。

ふー。

でも、喜ばしいこともあって、劇団ハイバイの岩井秀人氏が、向田邦子賞を受賞されたそうだ。

めでたい。

岩井秀人氏は、数年前に、舞台を見に行って、「すごい面白い!なんで、今まで知らなかったんだ」とおのれを悔やんだほどだった。

以来、欠かさず舞台を見ているけど、劇作家としても俳優としても特出して面白いと思っていた。

が、私のまわりではまだまだ知らないひとも多かった。

しかし、やはり、才能というものは必ず外に出て行くものだなあーと思う。

ここ数年、メジャーになりつつあったけど、今回の受賞でさらにその名をとどろかすだろう。

自分が「これ!」と思ったひと、作品が世界に伸びていくのを見るのは楽しい。

自分の審美眼に自信が持てるからね。

もちろん、自分がいいと思っても、世の中でさほど受けないもの、当たらない作品もあったりする。

それがなぜなのかはわからないけど、しょうがないよね。

ひとことだけ言わしてもらうと、自分はいつも少し早い。

時代に先んじてしまうの…自慢かよ。

でも、だって、そーなんだもの。

いつも少し早い。

生まれるのも早すぎた気がするし。

なんなら、まだ、10代で良かったわ。

……な暢気なことを思いながら、これからも好きなものを見つけて、めでていこうと思ふ。

自分マネジメント力、ゼロデシベル

2012年04月 07日 (土) 01:23
最近、日記をさぼっておりまして、それほど忙しいのかと言われると、まあ、忙しいんですけど、前は忙しくても日記を書くのが楽しみで、どんなに疲れても眠くても何か書いていたのですが、最近はそうでもなくなっておりました。

単に飽きたのか…と問われるとそうではありません。

以前は思いついたことをだらだらと書いていたのですが、昨今、かなり密度の濃いブログを書くひとも多くなり、(Chikirinさんとか内田樹さんとか)、そういうのを読むにつけ、

「単なる身辺雑記じゃなだめなんじゃないの。もっと、ためになること、興味をひくこと」を書くべきじゃないの?

と思い始め、そうすると、なんだか日記を書くにも仕事めいてきて、「この程度のネタじゃ書けないよ」と思い始め、遠ざかっていったのでした。

が。

そうすると、どんどんアクセス数が減ってしまって、さみしくなり、(数字に弱い)、やっぱり、マメに書いていこう。他人さまのブログがどんなに充実していようとも、自分は自分なのだ、社会を語る能力がなくても、博識がなくても、いいじゃないか。

背伸びしたところでたかが知れている。

そう思い直して、今日、書いてるわけですねー。

先日、石角友愛さんという女性から、本をお恵みいただきまして、そのタイトルは、「私が、「白熱教室」でまなんだこと」。

日本の高校を中退して、アメリカに渡り、ハーバードでMBAを取得し、現在、グーグル本社にお勤め、という、まことに優秀な女性であります。

その方がこの本を映像化なさりたいということで、おくってもらったのだけど、その表紙にね、3つのポイントが書いてある。

「考え尽くす思考力」

「言葉で勝つ議論力」

「自分を管理するマネジメント力」

はー、すごい。

わたし、自分マネジメント力、ほとんどゼロですから。

仕事の選択から、恋愛相手の選択まで、いつでも思いつきと運命だけで流されてる。

ホントにマネジメント力がほしいです。今更おそいかもしれないけど。

かろうじて、このなかであるのは、「考え尽くす」ですね。

でも、考え尽くす思考力、というより、とことん、迷い、悩む、くよくよ力です。

言葉で勝つ議論力。

う〜ん。

言葉は好きですが、議論はどうだろ。勝負はあまり好きではない。

そんな私がこのような方の本を映像化できるのかなあ。しかし、自分が持っていないものだからこそ、憧れをもって、できるかもしれませんね。

本来なら、ここで表紙をスキャンした映像を載せるのですが、すみません、疲労困憊でここまで。

ということで、そんなこんなで生きてます。

これから、毎日書くようにやっぱり戻ってきます。

ゆるく、甘くね。

感情にも流行がある。

2012年03月 31日 (土) 04:24
福井、金沢へロケに出ておりまして、日記をさぼっておりました。

ロケの内容とはあまり関係のないですが、最近感じたことについて書きます。

いまの若い人々はあまり恋愛に関心がなく、実際、恋人がいる人が少ないといいます。

自分の若かりし頃は、それはもう、青春といえば、恋愛とこたえるほど、恋愛がファーストプライオリティでした。

自分もその流行にならって生きてきました。

で。

今はそうじゃないらしい。

とにかく、今のひとびとは、「自分が一番大事」で「自分が一番大切」なので、たとえ恋人でも自分以外のひとのために、なにかを賭けるとか、身を挺することに抵抗があるようでございます。

20代の女子がですね、「絶対、遊ばれたくない」と言っているのを聞いて、なんだか、「はっ!」としたわけです。

かけがえのない自分が傷ついたり、損したり、痛い目に合うのだけは、絶対避けたい。そのためには、リスクの大きい恋愛などに近づかなくてもいい…と思っているようでした。

そうか、そうかもしれない。

実際、恋愛は自分以外のひとと、それまで誰にも侵入させなかった領域までかかわることです。気持ち的にも肉体的にも。

相手は他人だから考えていることもわからないし、何をしてくるかもわからない。楽しいこともあるだろうけど、痛い目に合う確率も高い。

だったら、一時の感情に流されて、恋愛なんかするより、ひとりでゲームしたり、アニメ見たり、時々友だちと盛り上がったりしているほうがいいかもしれない。

アニメのヒロイン、ヒーローやアイドルを好きでいる限り、絶対傷つかない。アイドルを好きになったのは自分であり、つまり、それは自分の選択の結果なので、アイドルからフラれることはない。

自分がやめない限り、アイドルや二次元のヒロインとの恋愛は終わらない。

これほど、安全な恋はないでしょう。

昔のSF映画では未来のSEXマシーンみたいなものが登場した。それは、チューブ型になっていて、中に入ると、快感を得られるとか、脳に直接刺激を与えて、理想の相手と脳内で恋愛するとか、そういうのがあったけど、案外、それが実現しているようでもある。

ゲームとアニメとかのおかげで。

そういう架空の恋というか、生身の人間以外との恋、「萌え」とか言ってもいいけど、それを「よし」とする感情が結構、メジャーになりつつある。

それもありじゃないか、って感じで。

だから、感情にも流行があるんだなーとしみじみ思う。

「娘を嫁に出すとき、父親は泣く」というひとつのスタイルも戦後のあるドラマのワンシーンの流行によって生まれたらしい。それまでは、「花嫁の父」は特別の一定の感情をもつものとされていなかった。

これなど、メディアが生んだ感情ということになる。

もちろん、流行する…ということは、それが多くのひとに、なぜかわからないけど、受け入れられる、賛同されるという側面があるからだ。

その流れでいくと、今は、恋愛しない…という空気が世界を覆っているのかもしれない。

いえ、感情の流行について、考えてみたかったのでした。

だから、どーってわけでもないのですが。

このまま、4月末まで忙しいので、ブログが飛び飛びになりそうで、心配です。

では、また。

心理テストから浮かび上がるもの

2012年03月 21日 (水) 02:41
ほとんどメールだけでつながっている、心理学とドイツ語を教えている大学の先生から、心理学のテストを受けました。

というか、雑談メールのなかで、出てきた他愛のない質問でした。

それは、

「白雪姫と7人の小人の物語で、なぜか、小人が一人足りません。この小人はどうしたのでしょう?」

というもの。

ひとり足りない小人、どうしたと思いますか。

私の答えは、「めんどくさいから来なかった」でした。

これから何がわかるかっていうと、その人が何にコンプレックスを持っているかがわかるのだそうです。

その説によると、「めんどくさいから来なかった」と答えた私は、特別、なにかに強いコンプレックスを持っているわけではないそうです。

コンプレックスを持っていたら、それに関連したことを答えるそう。

…でも、ホントに?

例えば、デートに出かけて来なかった…と答えると、「デート」や「恋愛」にコンプレックスを持っていることになるのでしょうか。

ホントに?

「ぶさいくだから来なかった」と答えたら、容姿にコンプレックスがあることになるのかもしれませんが、そんなに単純だろうかと。

逆から考えると、例えば、「背が低い」ことをコンプレックスに思っているひとがいるとして、その人は、
小人が来なかった理由を、「背が低いから」と答えるでしょうか。…そんなバカな。

もともと、小人は背が低いですから。

…だから、このテスト、あまり信頼できない…とその先生に書いたところ、「普通の人は、来なかったひとが、「小人」である部分にこだわらない。「小人」は記号に過ぎない」といわれました。

そうかなー。テストに「小人」ってでてきただけで、特別の感情が生まれるのではないか、と私は、思いました。

テレビの仕事をしているとせいか、「小人」という言葉には、立ち止まります。

テレビで「小人」という言葉を使う時は、かなり注意を払います。使えないわけではないですが、局のひとからはなんらかのアナウンスを受けることになります。

そういう世界で長く仕事をしてきたので、「単なる心理テスト」とはいえ、「小人」という言葉に反応してしまうんですね。とても記号だなんて思えない。

そんなことをメールに書いていたら、結局、ひとつのテストをきっかけに、その人が何かを語り出す…ことで、そのひとの問題が浮かび上がる…とのことでした。

確かに。

「なぜ、来なかったのか」と考え、その答えを話し、そういう風に考える道筋を説明しているうちに、おのずと「そのひとらしさ」が浮かび上がるのかもしれません。

ある種のカウンセリングみたいなものですね。

私は、心理テストの類は結構好きでよく試みるのですが、あんまり芳しい結果が得られないのです。

なぜなら、「小人」問題と同じで、問題そのものに表れる細かい部分に反応してしまうからです。

何色かの色を想像させて、その色で思い浮かぶひとを答えるテストもやったことがあります。

例えば「黄色」という色でイメージするひとは誰ですか?のようなテストです。

ところが私は、何色を提示されても、「同居人」くらいしか思い浮かばないんですね。それは、友人が少なく、仕事以外でかかわるひとが殆どいないからです。

だから、色によって、人に対する思いを判断する…と言われても、「好きなひと」も「避けたいひと」も全部同じひとになってしまう。テストとしては失敗のように思う。

けれども、その結果について、あれこれ話すことで、「この人は、同居人以外の人とは関わりのないひと、人間的つながりを感じることのできないひと」と診断されるのかもしれません。

…あら、あまりよい傾向ではないですね。ばれちゃまずいかな…笑。

ということで心理テストで浮かび上がるものは、答えそのものより、奇妙な質問によって、いろいろなことを考え直すこと、整理することにあるんだな、と思った次第です。

7人の小人のはずが、6人しかいなかった時、その理由はなんだと思いますか?

…これで、コンプレックスがわかりましたか?

では。

「千羽鶴」への感傷

2012年01月 20日 (金) 23:27
ブログを書くのを、ざっくりさぼっておりました。

ここのところ、明日からやる、実験的なドラマの準備に忙しく…いや、それほどでもないんだけど、最大の難関として、『超時差ボケ』にやられておりまして、生活時間がめちゃくちゃでした。

…と終わったことのように書いてますが、昨日も全然眠れなくて、夜中、仕事のようなことをして、えっと今、30時間くらい起き続けてます。

さすがに、今は眠いので、今夜こそ眠れそうです。

時差ボケのないのが自慢の、普段から昼夜逆転の身だったんですが、寄る年波に勝てなかったのか、本人が治す意欲がなかったせいか、とにかく、治らず…というか、帰国後より悪化しておりました。

明日からやるドラマが「千羽鶴」にまつわるものでして、私はそういえば、千羽鶴ってよく知らないなーと思って調べ始めたんですね。

すると、千羽鶴セットも売っているし、あらかじめ、折りあがったものも売っているんですねー。そして、「病気が早く治りますように」という切なる願いのこもった、エピソードがあることを知りました。

しかし、いろいろなエピソードのうち、私がひっかかりましたのは、川端康成さんの「千羽鶴」という長編小説でした。

川端康成さん…などと「さん」呼ばわりしていいものかわかりませんが、実は、それほど魅力がわからず、「伊豆の踊り子」は読んだ記憶はあるのですが、ほとんどおぼえていませんでした。

が。

この「千羽鶴」は面白かったー。

やっとこういう物語が理解できる年齢に達したということなんでしょうか。

非常に奇妙な物語なんですねー。戦前から戦後にかけての物語ですが、あの、大戦争が、登場人物たちにほとんどなんの影響も与えていない。

「ものが手に入りにくくなった」くらいの感想しかもたず、もっと身近なことに熱中しているんですね。

主人公は、30代前半くらいの、お金持ちのひとり息子で、都内の会社に勤めている。仕事の話はほとんどでてきませんから、会社に勤めている…くらいしかわかりません。

で、物語はこの主人公が、北鎌倉の円覚寺で開かれたお茶会に行くところから始まります。

この茶会で、主人公は「千羽鶴」が描かれた風呂敷を持った女性と知り合う。この女性と惹かれ合い…というのなら、「千羽鶴」というタイトルもわかりますが、どーもそうじゃないんですね。

「千羽鶴」の女性は見合いの相手であり、彼女のあしからず思っていたというのに、この主人公、お茶会で出会った、45歳の、自分の父の愛人であった女性と一夜をともにしてしまうんですねー。

以来、ふたりは、熱愛するわけですが、「父の愛人」であったことに対する罪悪感と、この女性の娘の妨害でなかなかうまくゆきません。

このようにして、奇妙ーな恋愛、というより、色恋が続いて行く物語です。そして、その色恋の小道具として、美しく描かれるのが、茶道具です。父は茶人だったようで、父の残した茶道具が、気の利いた小道具として、いろんな場面で活躍します。

ちょっと昼メロ的展開なんですけど、さすがノーベル賞作家、うまいです。読ませます。

志野焼という、白っぽい茶碗がその女性を象徴するものとして出て来るのですが、茶道具というのは、数百年に渡って、いろんな人の…口を経て、受け継がれてくるもので、それがまた、じわーっと効いてくるんですねー。

そのようなわけで、すっかりはまって、読んでおりました。夜眠れないのでね。

で、明日はその、「千羽鶴」のまつわるミニドラマを、お気に入り俳優さんたちと作って参ります。

実験的な試みなので、すごーい楽しみな一方、どうなるんだろうってドキドキしてます。

「千羽鶴」って元気になってほしいと思っておるものだけど、どこか、はかない、というか、死の匂いがあらかじめするような気がしてなりません。

鶴は千年、生きるっていうのに、自分には、「白鳥」のイメージが重なってしまうのかもしれません。

川端康成の「千羽鶴」も、ちょっと、「白鳥の湖」に似ているかもしれません。

では。がんばってきまする。
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