隠したまま放置してました… 

February 06 [Sat], 2010, 21:59
ログインしたのもいつ振りかわからないくらい前なんですよ。

で、今日アクセス履歴を見たら、一人なのか数人なのか、ずっとお気に入りから確認して下さっている方がいるようで。

すみません。

このblogはもう更新しない率が高いです。

地味に他でまた書き始めましたが、それもリンクはしません。

ずっと確認して下さっている方、知り合いなのかしら?

良かったらメールなりコメントなり下さい。

コメントは承認制で公開しないようにします。

ではでは。

AC・・・・・・はどうでもいいらしい 

February 17 [Sun], 2008, 9:24
古舘伊知郎氏が番組内で『アダルトチルドレン』という言葉を間違った意味で使い、翌日の放送で正しい意味を説明した上で謝罪したそうで。

ネットの記事や書き込みなどから推測するに『中身が子どもな大人』というような意味で使ったようですが、この言葉を古舘氏と同じように解釈していた人も結構多いのではないかと思います。

逆なんですけどね。
アダルト チルドレン だから、『子どもな大人』ではなく『大人な子ども』です。

そもそも、あまり知られている言葉でもないでしょうし、これをキッカケに正しく理解されるようになれば良いなんて前向き(?)な書き込みも見かけました。
が、一部書き込みを見ると、ピーターパン症候群なんて言葉を出してくる人がいたりして余計にわけわからないことになっていたりするような。

以下、以前に書き留めていたもの。



《AC・・・アダルトチャイルド(アダルトチルドレン)

元々は、アルコール依存症の親を持ち、子ども時代に子どもらしく在ることができないまま成長して大人になった人たちの意。
後に、アルコホリックに限らず、虐待や家庭不和、その他幅広い意味で“機能不全家庭”に育った人も含むようになった。
前者をACOA(アダルトチルドレン・オブ・アルコホリック)、後者をACOD(アダルトチルドレン・オブ・ディスファンクショナブルファミリー)と分けることもある。

ACはあくまで概念であって、病名ではない。

以上、大学時代の記憶から書いただけなので、正確ではないかもしれません。

10年程前のACムーブメントな時代に『生きにくさ』『居場所のなさ』などの原因を、この言葉に見出した人も少なくないのではないでしょうか。

家庭内で起こることは外部からも見えにくいと同時に、他の家庭の日常を見る機会というのもないものでしょう。
なので、子どもは、自分の家庭が“フツー”だと思ってしまいます。
親が酔って暴れようと、激しい虐待を受けようと、《親に問題がある》という考えにはそうそうたどり着きません。自分の育つ環境が基準になるのは自然なことかもしれません。

そうして、様々な環境の中で子ども時代に子どもらしく過ごせなかった為に、成熟しきれない部分を残したまま大人になり、生きにくさを抱え続ける、ということらしいです。

しかし、この言葉の解釈の仕方によっては親や育った環境が悪いのだと、自己の問題を全て他者のせいにしてしまうという、極端な方向に向かうケースもあるようです。

そういったこともあり『トラウマ・サバイバー』などという言葉に置き換えるという動きもあったようななかったような。》



ざっくり書いてしまったので分かり難いでしょうけれど、そもそも分かり難い言葉なんですよ。

多分、専門家であるとか、この言葉にどっぷり浸かったことのある人(浸かっている人)以外は理解していない人が大半じゃないかと思うのです。

個人的には懐かしささえ感じる言葉ですもの。

それが今になってネットのニュースになっていることだとか、恐らくはこの言葉はどうでもいいと思っている人たちが

『また古舘か』

『またあの番組か』

『またアサヒったか』

などなどと書いている人が沢山いることの方が気持ち悪いと思えてしまうんですが。

で、結局、この言葉に関しての理解度は今までとは変わらないんだろうな。

Anonymous 

November 10 [Sat], 2007, 18:41
インターネットの問題点として、匿名性が強い為に無責任な書き込みがどうこうなんてことも言われたりしますね。
ま、その辺は線引きも難しいと思いますが。

実際、オンライン/オフラインに関わらず、匿名だから言えるってことはあると思うのです。

自助グループの多くがそのスタンスを取っているのもその為でしょう。

※自助グループ(じじょぐるーぷ、Self Help Group)とは、なんらかの困難や問題、悩みを抱えた人が同様な問題を抱えている個人や家族と共に当事者同士の自発的なつながりで結びついた集団。その問題の専門家の手にグループの運営を委ねず、あくまで当事者たちが独立しているというのが特徴的である。

《フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より》

自助グループのミーティングは“言いっぱなし・聞きっぱなし”が原則です。
話したいことを話し、他の人は批判や評価はしない。
話したくなければ話さなくても構わないし、途中で席を外すのもOKです。

考えようによっては、無責任な集まりかもしれませんね。

昨今、政治家やら立場のある方の公の場での問題発言などが取り沙汰されることしばしばですが、思ったことを思ったまま言えるというのは精神衛生上は良いのでしょうね。

こういう書き方をしたら、知らない方は誤解されるかもしれませんが、実際のミーティングで無責任な発言が飛び交っているわけではありませんよ。

グループと名の付くものですから、それなりのルールはありますし、故意に場の雰囲気を悪くするようなことをしても、当人が一番居心地が悪くなるだけでしょうし。
まぁ、結局、カラーもあるでしょうし、馴染めない人は離れるのでしょうけれど、それはヒトが集
まる場所では仕方がないことかと。

匿名が原則と言っても、個人的な付き合いをしてはいけないというわけではありません。
個人情報を交換するのもグループ外で関わるのも個人の判断で。
その辺もネットの世界と似ていますね。

基準は自分です 

June 15 [Fri], 2007, 4:40
ヒトはそれぞれに悩みなり、問題抱えてるんです。
他人と比較するものではないのです。
あくまで、基準は自分の中にあるのです。
他人の痛みや苦しみは、ある程度まで想像はできても理解しきれるものではありません。

“普通”“当たり前”“常識”などと云うのも、結局は自分の中に設定されているものであって、曖昧なものなのです。

私の常識はアナタの非常識だったりもするのです。

だからと言って、私の非常識なことを云う人を非常識だとは思いません。

いろいろな価値観や考え方を持った人が集まってコミュニティーは形成されているわけです。

自分とリンクする部分がある人とは話し易かったりはするでしょうけれど。
完全に一致することはないのです。
重なる部分が多いか少ないか、はたまた皆無に等しいか。
それだけのことです。

どこで折り合いをつけるのかということだけです。

現状、折り合いをつけるのが難しいのならば、距離をとればいいのです。

ビジネスが絡んだり、組織に属していると、完全に関わりを断つことは難しいこともあるでしょうけれど、そこは片目を瞑るで済まなければ両目瞑って流せるところは流しましょう。

特に、精神的に余裕がない時には、何かとぶつかることは消耗しますから、ぶつかるなら少し余裕がある時にしておかないと、自分が潰れてしまいかねません。

自分が絶対と思うのは違うと思いますが、自分がないと言うのは哀しい気がします。

自分があってこそ、ですよ。
我思う 故に我あり ですよ。
自分だけは疑いようがないのですよ。

自分が絶対的に何事に於いても正しいと云うのとは違いますよ。

って、ややこしいですね。

相変わらず、締まりのないままです。

AC 

April 29 [Sun], 2007, 0:02
AC・・・アダルトチャイルド(アダルトチルドレン)

元々は、アルコール依存症の親を持ち、子ども時代に子どもらしく在ることができないまま成長して大人になった人たちの意。
後に、アルコホリックに限らず、虐待や家庭不和、その他幅広い意味で“機能不全家庭”に育った人も含むようになった。
前者をACOA(アダルトチルドレン・オブ・アルコホリック)、後者をACOD(アダルトチルドレン・オブ・ディスファンクショナブルファミリー)と分けることもある。

ACはあくまで概念であって、病名ではありません。

以上、大学時代の記憶から書いただけなので、正確ではないかもしれません。

私も、十年程前にこの概念に捕らわれていました。
『生きにくさ』『居場所のなさ』などの原因を、この言葉に見出した人も少なくないのではないでしょうか。

“インナーチャイルド”などという言葉もキーワードですね。

ACムーブメントはだいぶ前に終わったと思っていましたが、未だにこの言葉・概念に捕らわれ、執着している人も多いらしいということを感じる今日この頃。

この言葉に出会ったことで『生きにくさ』から解放される方向に向かえることもあるでしょう。
家庭内で起こることは外部からも見えにくいと同時に、他の家庭の日常を見る機会というのもないものでしょう。
なので、子どもは、自分の家庭が“フツー”だと思ってしまいます。
親が酔って暴れようと、激しい虐待を受けようと、《親に問題がある》という考えにはそうそうたどり着きません。自分の育つ環境が基準になるのは自然なことかもしれません。

そうして、様々な環境の中で子ども時代に子どもらしく過ごせなかった為に、成熟しきれない部分を残したまま大人になり、生きにくさを抱え続ける、ということらしいです。

しかし、この言葉の解釈の仕方によっては親や育った環境が悪いのだと、自己の問題を全て他者のせいにしてしまうという、極端な方向に向かうケースもあるようです。

窮地に立たされた時 

March 03 [Sat], 2007, 15:58
《mixiの日記より、少々手直ししただけの転載です。》

人間は追い詰められると思わぬパワーを発揮することもあります。人は弱いようで案外強かったり、強いようで案外脆かったり。

辛いことに直面した時に、踏ん張りきれる人と潰れてしまう人の違いは一体何なのだろうなどと考えます。

例えば、学校で友達ができなくて不登校になり引き篭もりになるのか、太田光になるかみたいなことです。太田さんは奇才とも言えるでしょうし、稀なケースかもしれません。引き篭もりがよくないとも言いませんが、上に記したのは本当は外に出たい気持ちはあるのに出られないといった場合です。

生まれ持ったものや育った環境と言ってしまえば、それまでかもしれません。

全ての生物は、生まれた時には生きる方向へ向かっているものだと思います。人間も例外ではないでしょう。人間以外の動物が自死をするか否かの真実は私にはわかりませんが、私の知る範囲で考えると、人間が自ら死の方向へ向かう率はかなり高いように思えます。

人間はと云う書き出しでしたが『窮鼠猫を噛む』と云う言葉もあります。後がなくなったら思わぬ反撃にあうこともあるでしょう。それでも、弱肉強食の世界、弱いものが強いものに食われるのは自然の摂理です。しかし、ヒトはそれに抵抗するイキモノなのでしょう。

苦しい状況におかれた時に、上手く切り抜けられるかどうかは、既存のツールを如何に利用できるかで決まるのかもしれません。持っているだけではあまり意味はないモノは多々あります。それらの用途を理解し如何に上手く使いこなすことができるかで明暗が分かれるのかとも思います。

では、既存のツールを上手く使いこなすには何が必要なのでしょうか。勿論、先ずはそれらの用途をきちんと把握していることは必要でしょう。

しかし、実際には、自分で持っているツールの存在自体に気付いていない人も多いかもしれません。私も例外ではないのだと思いますが、私自身のことは敢えて棚上げして書いてしまいます。

潜在的な能力と云う表現では漠然としてしまいます。
よく聞く表現では『引き出し』とでも云うのでしょうか。
どれだけ沢山の引き出しを持っているかと云うのは、確かにポイントになると思います。

その『引き出し』は、能力に限ったことではありません。
知識であったり経験であったり、或いは人脈であったりするかもしれません。

『三つ子の魂百まで』『雀百まで踊り忘れず』などと云う言葉があるように、幼少の頃に身についた習慣や性質は身体や感覚で覚えているものだったりします。無意識のレベルで染みついているもので、普段はあまり考えないものだと思います。

そういった、普段は意識していない様な要素は、殊に自分では気付きにくいかもしれません。そんな中にも、意識して有効に利用できることもあるかもしれません。

また、ある時期には理解しきれずに保留のままにしておいた様なことも、時が経てば理解できていることもあるかもしれません。

これらは『引き出し』のほんの一部でしょうけれど、こういったものをどれだけ持っていて、必要となった時にどこの引き出しに何が入っているのかを把握しているかどうかが、困難なことに直面した時に上手く対処できるかどうかに関わってくるのではないかと思います。

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