「釣魚島、中国的! 不容侵犯」(釣魚島は中国のもの! 侵犯許

April 03 [Wed], 2013, 9:18
「釣魚島、中国的! 不容侵犯」(釣魚島は中国のもの! 侵犯許すまじ)

 首都・北京を中心に、中国大陸を襲う殺人大気汚染北京市民の中には、どう見てもニセモノにしか見えない有名ブランドのロゴやキャラクターがデザインされたマスクを着ける人も多いようだが、案の定というべきか、今度は“反日マスク”とでもいうべきシロモノが出現した

? 上海から南に300kmほど離れた義烏市の問屋街の一角で、中国国旗とともに冒頭のスローガンをあしらったマスクが販売されていた店員が嬉しそうに話す

「いいデザインでしょう大気汚染のニュースが増えるおかげで、もう600枚は売ったね全土からネット注文が相次いでいて、儲かってますわ」

? この業者以外にも、インターネット通販などでは日章旗をバツ印で汚したデザインや、「打倒日本帝国主義」というスローガンを印字したものなど、さまざまな“反日マスク”が売られている

 日本にも影響を及ぼしつつある大気汚染の科はもちろん中国政府にあるのだが、そんなストレスさえも反日感情へと転化し、ビジネスにまでしてしまう中国って、やっぱりヘンだろう……
 新島八重 − 旧姓・山本八重は、幕末の弘化2年(1845)に会津藩の砲術(銃術)師範の家に生まれ、会津戦争では当時最新鋭の7連発式スペンサー銃を手に活躍明治以後は京都に移ってキリスト者となり、同志社大学を設立する新島襄と結ばれ、共に理想の教育実現に努めますさらに日清・日露戦争では従軍看護婦として働くなど、その一生を「公」のために尽くした人物でした

 彼女を表現するのに、「幕末のジャンヌ・ダルク」「ハンサム・ウーマン」「日本のナイチンゲール」などという言葉が使われるのは、このような八重の生き方を反映してのものです(ちなみに、「ハンサム・ウーマン」とは、新島襄が八重を「生き方がハンサム」と評したことに由来します)

 その八重が明治44年(1911)に、男装して腰に刀を差し、銃を持って掲影した写真があります八重は会津若松城に籠城する際、鳥羽伏見の戦いで斃れた弟・三郎の形見の衣服をまとい、断髪して戦い抜いていますから、これは往時を偲んで撮った1枚にほかなりません

 この写真で注目すべきは刀の差し方です普通、刀は鍔が帯に当たるまで深く差し込み、鐺(刀の鞘の末端)が下に下がる差し方が多いでしょうしかし八重は、刀の柄をかなり前に出しています帯から鍔までにゆとりがなければ、すぐに鯉口を切る(刀を抜くために鍔を左手親指で押し出す)ことができないからですしかも、刀身をほぼ水平に横たえていますこれは刀を抜いて即座に斬る「抜即斬」の構えですつまりこの写真は、女性がたまたま刀を差したものではなく、八重が実戦を知る「戦う女」だったことを如実に示す1枚なのです

 膂力がなければ刀を存分に扱うことも、重たい銃を射撃することもできませんが、八重はすでに13歳の時、四斗俵(重さ60キロ)を肩まで4回も上げ下げできたほどの腕力の持ち主でした後年の写真を見ても、腕は太く、胸に厚みがあり、どっしりした臼のような腰をしています晩年に「今の世なら運動選手になったかもしれない」と述べるほど、運動神経も優れていました

 日本には「女武者」の伝統があります『平家物語』に登場する、木曾義仲に従った巴御前強弓を引いて鎌倉幕府軍と戦った越後の板額御前戦国時代、立花道雪の一人娘で女城主となった立花ぎん千代……江戸時代の各藩にも、常日頃から腰に大小を差して奥殿に仕え、いざというときは戦う「別式女」「帯剣女」「刀腰婦」と呼ばれる女性たちがいましたこの系譜を見れば、「鉄砲」を扱う女性が出てきても不思議ではありません八重は、父も兄も砲術師範ですから習うより慣れろで銃術を習得していったのでしょう

 八重は、会津若松城の籠城戦で大活躍しますことに西軍(新政府軍)が城下に侵攻してきた慶応4年(1868)8月23日には、多くの藩士たちがまだ国境で戦っており、城内は老兵や婦人、子供ばかりでしたしかも会津藩の装備はゲベール銃など旧式銃中心でしたから、八重が7連発式のスペンサー銃を手に獅子奮迅の働きをしなければ、城の北出丸は突破され、たった一日で落城の憂き目にあったかもしれません

 その日、攻め込んで来たのは土佐藩と薩摩藩の砲隊でしたが、土佐藩兵の死傷率はかなり高く、また、薩摩藩の砲隊を率いていた大山厳も足を撃たれています土佐藩兵や大山を撃ったのも、銃の性能から考えると八重であった可能性が高いのです

◆会津藩の「教育」の凄み◆

 ところで会津藩には、八重のように銃で戦わずとも、中野竹子をはじめ薙刀などを手に敢然と戦った女性たちが数多くいました会津戦争の大きな特徴は、男性藩士はもちろん、女性たちや子供たちも極めて勇敢に身を処したことにありますなぜでしょうかその大きな理由は教育にありました

 会津藩の教育は、有名な「什の掟」から始まります6歳から9歳までの藩士の子供(男子)が同じ町内で10人前後の集まり(什)を作り、次のような掟を唱えるのです

一、年長者の言ふことに背いてはなりませぬ
一、年長者には御辞儀をしなければなりませぬ
一、虚言を言ふことはなりませぬ
一、卑怯な振舞をしてはなりませぬ
一、弱い者をいぢめてはなりませぬ
一、戸外で物を食べてはなりませぬ
一、戸外で夫人と言葉を交へてはなりませぬ

 ならぬことはならぬものです

 「什」に入らない女子も、同じ雰囲気の中で成長したことはいうまでもありません

 さらに藩士の男子は10歳になると藩校・日新館に入学しますここで最初に学ぶのが『日新館童子訓』という教科書です5代藩主・松平容頌が編纂したもので、人として大切な倫理を、その具体例となる古今の逸話を通して学べる構成になっていました

 たとえばその第34話では、戦国時代の筑前の武将・高橋紹運が島津の大軍に城を攻められ降伏を勧告された折に、「人生は朝露が日差しに消えるようにはかないもので、ただ長く世に残るのは義名だけと存ずるにより、降参つかまつらず」と答えて最期まで戦い抜き、城の士卒1800人も1人も逃げずに運命を共にした故事が書かれています

 この他にも忠義については、南北朝時代に大塔宮の身代わりに切腹した村上義光や、節義を全うした楠木正成・正行父子などが紹介されていますもちろん書かれているのは「忠義」ばかりではありません親孝行の具体例として、会津藩内の実話も数多く収録されています「それぞれのシチュエーションで、武家としていかに行動すべきか」がしっかりと教育されていたのです

 会津藩の凄みは、この教科書を木版刷りにして、藩士の全戸に配布していたことでしょうそのため女性たちの多くも、この本を暗誦できるほどに読み込んでいました八重も晩年に至るまで『童子訓』を暗誦し、籠城の苦労を乗り越えられたのは教育のおかげだと語っています会津戦争で女性や子供が義を貫き通したのは、まさにこの教科書があればこそだったのです

 ちなみに会津藩祖・保科正之が家訓に「婦人女子の言一切聞くべからず」と書いたことから、会津藩では女性を蔑視したように思われる向きもありますが、それは大きな誤解です

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