それは夏休みも半分ほど過ぎた、8月初頭の出来事だった。
俺は自室のベッドで、ぐっすりと眠っていた。
時刻は夜の9時半頃。
健全な男子校性が眠るにはやや早い時刻だろうが、朝が早いのだから仕方がない。
剣道の朝練、及びそれに伴う自主練のため、起床は毎朝3時と決めている。
6時間は睡眠をとりたいから、逆算すると夜の9時には眠っていなければならない計算になるのだ。
ただ、こんな計算は昨日から意味が無くなってしまっていた。
俺は夏の大会で、足の筋を痛めてしまったのだ。
不覚だった。とはいえ言うほどの怪我ではないと自分では思っている。
生活には支障はないし、無理をすれば練習も充分にいけるはずなんだが、顧問はじめ、周りは皆で結束して俺を止めた。
怪我をこじらせてはもったいない、ゆっくり休んで秋の大会でまた活躍して欲しいと、口裏を合わせてくる。
練習を見学することすら、禁じられてしまった。
見るだけではすまなくなる俺の性格を、みな俺以上に熟知しているらしい。
とにかく休めの台詞ばかりだ。
溜息しか出ない。……まあこの夏だけは大人しくしているということで、片が付いた。
そんなこんなで、いきなり「夏」が暇になってしまった。
部活をしない夏休みなど経験がないので、宿題を片づける以外に、やることなど思いつかない。
いっそ、眠れるだけ寝てやろうと思い、昨夜はベッドに潜り込んだところだった。
ショワショワとうるさい蝉の声を浴びながら、しぶとく惰眠をむさぼったら、夏を満喫している気分になるかもしれない。というか、剣道が出来ないなら寝ていた方がずっとマシだ。
そんな時に、電話は掛かってきたのだ。
俺はもちろんぐっすり眠っていたが、枕元の電話の着信音をアラームと聞き違えて、慌てて飛び起きた。
わたわたと手探りでアラームを解除しようと試み、光る小窓に見慣れない番号が浮かんでいることに気づく。
……こんな時間に誰だろう。
一瞬迷ったが、俺は通話ボタンを押し、携帯を耳に押し当てた。
「あ、あの、ロロノア先輩ですか」
とりあえず、間違い電話ではないようだった。
「夜分にすみません、俺……2コ下の、ウソップといいます……」
上ずって、震えた挙げ句にひっくり返った声が、名を名乗った。印象的で妙に可愛いと思う。
ウソップ……ちょっと待て、どこかで聞いた名だ。誰だっただろうか。
「いきなり電話、すみません。あの、ケータイ番号は先輩のクラスのサンジって人に聞きました」
ああ、思い出した。
たまにサンジんとこに訪ねて来る1年生か。鼻が長くて髪の毛がチリチリの、細っこい子だ。
「こんな時に、失礼だなって思ったんですけど」
いや、そんなことはないぜ。どのみち暇だったんだ。
「あの。……いま、お話しても、よかったですか?」
「あ? ……ああ」
ずっと脳内で返事していて、実際は黙ったままだったことに気づいた俺は、慌てて返事をした。
だが人をビビらせる類の発声しか出来ない俺の喉は、寝起きの所為で究極に不機嫌そうな返事しか絞り出してはくれない。
このままでは電話の主を、怖がらせてしまう。
俺は寝起きであることを告げた。ついでに、声は嗄れているが怒っているわけではないことを説明した。
「……寝てたんですね、ごめんなさい……かけ直します」
「いや。全然迷惑なんかじゃない」
「ホントに?」
「もちろんだ、むしろ暇だったからありがたい」
明らかにほっとした様子が、電話の向こうから伝わってきた。
そのまま十分ほどウソップと会話をした。俺にしては驚異的な長電話だと思う。
殆どウソップが話をした「内容」を要約すると、このようなことになる。
1.俺が痛めた右足への見舞いの言葉
2.俺の夏休みの予定
3.映画への誘い
いくら俺が鈍くても、これだけ要因が揃えば、告白されてるんだということくらい想像がつく。
純粋に嬉しいと思った。ウソップの性別は男だったが、俺はあまり気に止めなかった。
どのみち、夏休みをどう過ごしたらいいのか、迷っていた俺だ。
足に不必要な負荷さえ書けなければ、ウソップと遊ぶことになんの問題もないだろう。
そんなわけで俺は二つ返事で快諾し、さっそく翌日に駅前で待ち合わせることにした。
寝過ごすのが恐ろしくなり、きっちりとアラームをセットし直した自分に、少し笑った。
翌日。遅刻が毎度の俺なのだが、約束の時間より五分前に駅前に着いた。
ウソップはもう駅前広場で所在なげに立ち尽くしていて、あの様子ではずいぶん前から待ちあわせ場所に来ていたのではないかと思われる。
声を掛けようと歩を進め、ふと、前にもこんな風に立ち尽くしているウソップを見たことがあるような気がした。
既視感……デジャヴという奴だと思う。
だって、そんなはずはないのだ。
私服姿のウソップに会うのは、今日がはじめてなのだから。
映画はB級ホラーだった。
怖がってヒィヒィと俺にしがみつくウソップにばかり視線が行き、ちっとも筋はわからなかったが構うものか。
むしろ、ウソップの反応はありがたかった。
俺は、暗がりになると高確率で眠ってしまうタチなのだ。
ウソップのリアクションが楽しすぎるおかげで、幕が上がるまでずっと、興味深い時間を過ごすことが出来たと思う。
映画ってのもいいものだなと思ったのは、生まれてはじめてかも知れない。
映画のあとは、貰ったチケットの礼に喫茶店に入った。
当然俺の奢りだが、ウソップは終始恐縮していて、そんなところも初々しくて気に入った。
つまり俺は、今日一日ですっかりウソップに心を奪われてしまったのだ。
「楽しかったです、ホントに楽しかった……」
アイスコーヒーを飲み干したあと、もう帰ろうかと伝票を掴んで立ち上がりかけた俺の腕をぎゅっと掴み。
真っ赤になったウソップが、ぱくぱくと口を開いては閉じて、何か言おうとした。
この時、俺はまたデジャヴに襲われた。
不思議なことに、俺はウソップが何を言い出すか、わかっていた気がしたのだ。
「楽しかった。許されるならもっと、色々なところに行きたいです」
「……お祭りとか、花火大会とか、プールとか……。色んなところに。先輩と」
「駄目ですか? だって今年しかないんでしょ、その……自由に遊べる夏は」
ぽつぽつと、絞り出されるように続けられた、それなりに長い台詞を、一語一句違わずに、全部知っていたように思ってしまう。
頷きながらも、妙な気分は消えない。
不思議な感覚だった。
翌日から、ウソップとのデート三昧の日々が始まった。
どちらも告白のようなものはしていないが、これはもうデートという括りでいいのではないかと思う俺だ。
なにしろ、手を繋げば真っ赤になって戸惑いながらも嬉しそうにしているし、声を掛けるだけでもぱあっと表情を明るくして笑うのだ。
俺もウソップが笑うと嬉しかった。
部活ばかりですっかり忘れていた、「夏を楽しむ方法」というものを、ウソップから色々と教わっていると思う。
かき氷を食べた。
花火大会は浴衣を着たし、公園で線香花火なんてのもやった。
祭りにももちろん行った。地元の神社での祭りだが思った以上に盛況で、迷子にならないよう手を繋いだ。
ここでも、いわゆるデジャヴと思われる感覚に襲われた。
「射撃をやりたいな」
ウソップが、いかにものテキ屋がやってる射的の屋台に飛びついたのだ。
「祭りの射撃なんか、金を溝に捨てるようなものだから、やめとけよ」
俺は一般常識をそのまま口に出し、ウソップを止めた。
……止めながらも、ウソップの返事を俺は知っている……と、強く思ったのだ。
ウソップは、にいっと自信ありげに笑って、こう言うのだ。
「任せてよ、ゾロ」
予想できない物事を体験するのも、デジャヴにあたるのだろうか。
そうでなければ説明がつかない。
なにしろ、ウソップが不敵に笑う姿など、想像できる要因すら俺の中にはないのだから。
射的の結果はすごいもので、ウソップは見事に軒並み商品を倒した挙げ句、「これだけでいい」と、緑色の丸い塊のぬいぐるみ一つを受け取って、テキ屋のオヤジをほっとさせていた。
俺は細かいことを考えるのをやめ、ぬいぐるみを抱いたウソップの肩を、そっと引き寄せた。
キスしたいと焼け付くように思ったが、半端ない人混みに、断念せざるを得なかった。
祭りの翌日から三日間は、ウソップに会えなかった。盆に差し掛かったためだ。
俺の家では盆の期間に来客が多く、連日忙しい。
ウソップの家庭は父子家庭で親戚との交流も耐えているそうだが、俺は長男としてのつとめを果たさねばならない。
……不本意だがな。そりゃあウソップとデートしてる方が楽しいさ。
だが、まあ仕方ないものは仕方ない。盆明けにまた会う約束を取り付け、俺は三日間限定で下男と化した。
とはいえ、もともと盆自体は嫌いではない。
盆は亡くなった人たちのことを思い出す大切な時期だ。
……とりわけ、くいなのことを。
くいなは俺の幼馴染みで、十代のはじめに亡くなった隣家の娘だ。
剣道のライバルでもあったが、いつまで経っても彼女の記憶が褪せないのは、毎年盆に会っているからだろうと思う。
……会ってることは、誰にも言えない。彼女の母にも打ち明けられない。
言えるものか、盆にだけ「夢の中で」いつまでも年を取らない彼女と再会してるなどと。
そんな戯言を聞かれた日には、俺は過去の恋愛を反芻する乙女か、やばいロリコン扱い、もしくはオカルト大好き人間のカテゴリに入れられてしまう。
どれも本意ではないし、誓ってくいなに恋愛感情などは持っていない。
ただ、この世の不思議には目をつぶるとして、幼馴染みと会話できるのは懐かしいものだ。それに世話好きの彼女はいつも、俺の未整理の心に的確な助言を与えてくれる。
……多少説教臭いけどな。
しかし今年は楽しみだった。恋人が出来、しかも性別が男だと知ったら彼女はどんな顔をするだろう。
盆の15日、その晩にくいなは現れる。俺は早くから床についた。
「全部知ってるわ。それより聞いて、大変なことになってるの」
くいなはあっさりと話を流し、密かに俺をがっかりさせた。畜生、誰かにウソップの可愛らしさについて語ってみたい気分だったのに。
「そのウソップの話なんだけど、それでも聞きたくない?」
いや、あいつの話ならば話は別だ。
「どういう意味だ」
俺は居住まいを正して(夢の中だが)くいなの話を聞くことにした。
「……夏を、繰り返してる?」
「そう。ゾロはウソップとのデート三昧の夏休みを、もう百回繰り返してる。正確には8月の第2週から、始業式前日まで約3週間の繰り返し」
「まさか。あり得ない」
「でも、デジャヴがあったはずよ。前にもこんなことがあった……似たような経験をした。どうかしら」
「それは確かに」
「ともかく私がこの説明をするのも百回め。あなたはだんだんデジャヴを認めるまでの時間が短くなってる」
「そう……なのか?」
以前の自分の回答は知らないが、確かに今の俺は強烈なデジャヴに心当たりがある。
ウソップとも初めてつきあったような気がしないし、だからこそくいなの荒唐無稽な話を飲み込むことも可能だ。
それにしても、夏が終わらないとは。何の魔法か呪いだろう。
「くいな、理由はなんだ。なにが時間を止めている」
「……ウソップの想い」
くいなの返事は、思いがけないものだった。
「私は亡きものだから、現世を生きるあなたに未来に起きるすべてを語る資格を持たない」
なんということだろう、爆弾発言をぶつけておいて、くいなはその後の助言をしないという。
「……意地悪じゃないのよ。これ以上死者が現世に荷担したら、時の流れのバランスが修復不可能に壊れてしまう」
「たったあれだけの忠告でか。脆いな、時のバランスとやらは」
「違う。他に要因があるの。……これ以上は説明できないけれど」
「ヒントくらい無いのか」
「それは無理。でも考えてゾロ、どうしてウソップは夏を繰り返したいと思うのかしらね」
「自惚れていいなら、俺とつき合いたいから……?」
「ゾロと”また”つき合いたいからよ。言えるのはここまで。もう帰るわ」
「待て、くいな。どういう意味だ。まだ話がある」
「……また来年、会えるといいわね。来年がくればの話だけど」
「ちょっと待て、それはつまり……」
「ヒントをあげすぎたわ、ゾロ」
「……それは……なあ、くいな。お前は何度も……」
「任せたからね、ゾロ」
ほほえみながらくいなは消えた。
夢の中で取り残されてしまった俺は、呆然と彼女の言葉の意味を考えていた。
くいなは嘘は言わない。そのくいなが時を止めたのはウソップの想いだという。
なぜだろう、理由がわからなかった。
俺はウソップとはいい付き合いが出来ていると思っているし、これからも大切に付き合うつもりなのだから。
翌朝一番に鳴り響いた電話は、ウソップからではなく、部の顧問からだった。
俺を取り巻く環境が急展開することを告げる電話だ。
「新学期から、お前をリハビリがてら、おれの母校にあたる高校に武者修行に行かせようと思っている」
寝耳に水とはまさにこのことだが、俺の頭の上を飛び越し、話は既に決まっているのだという。
「突然すぎるが、とりあえず期間は?」
「短かったら意味がないだろう。最低一年は頑張ってきてもらうつもりだが」
「相談もなしに横暴だろう」
「今更なにを言う、強くなるためにはすべてを俺に一任すると、お前は俺に約束したはずだ」
確かにその通りだった。
ウソップに会う前の俺だったら、顧問の話をありがたいと喜んだに違いないのだ。
故障を治す目的もあるが、その前に先方の高校には、素晴らしい剣の達人がいる。
ミホークといえば剣道を知らない人の中にも名を知るものがいる程の達人だ。彼の元で少なくとも一年を過ごすことが出来るなら。
これは俺にとって朗報以外の何ものでもなく、スキップして町内を駆け回りたいくらいのニュースに値する。
……ウソップのことさえなければ、の話だ。
はっ、と俺は気がついた。
今までの俺は、この知らせをウソップに伝えるに当たって、何か間違いを起こしたに違いない。
現地に赴き、結果としてウソップに振られたと勘違いさせたのか。
……いや、その間違いは起こすはずがない。今の俺は、剣の達人の元に行くよりもウソップの側にいることを願っているからだ。
剣は一人でも強くなれる。
良い師匠は宝だが、それよりも側に居てくれる存在の方が大切ではないのかと、今の俺は思っている。
とはいえ、夏は現に百度繰り返されているのだ。
つまりは百度もウソップを勘違いをさせたに違いない俺なのだ。
とりあえず、上手い言葉が見つかるまでは、このことはウソップに黙っておくことにしようと思った。
密かに裏で断って、話自体をなかったことにするのが一番良いだろう。
そして盆が開け、俺はまたウソップと楽しい日々を過ごし始めた。
市民プール、カラオケ、駅前ビルの散策、どう過ごしていても楽しすぎて、うっかり悩み事など思い出せなくなりそうなほどだ。
「夏休みってのは、楽しいものだったんだな」
思わず呟いた俺だったが、ウソップはほんの少しだけ眉を曇らせた。
「でも、これは先輩の正しい夏休みの姿じゃない」
「今年は正しいんだから、いいじゃないか」
「よかった、と思うべきですよね。他の夏ではあり得ない、先輩との夏休みを独り占めできただけで」
「寂しいことを言う。まるで来年の夏は無いみたいないい方だ」
「そんなこと、思ってないけど」
この時、またもや焼け付くような既視感に、俺は襲われた。
必死で笑顔を作ろうとしているが、どこか泣き出しそうなウソップの表情。
間違いなく、俺はこの顔を見たことがある。
……今だけではない。
今、わかったのだ。
この先の。……数日後の夏の終わりにも、ウソップのこの表情を、俺はまた見ることになる。
既に間違った道に分け入りだしたのだと気づいたけれど、どう修正して良いのかがわからない。
何かを伝えたい気持ちを込めて、ウソップの手をぎゅっと握りしめてみた。
何度も力を籠めて手を握る。
しばらく沈黙が流れた。
「今が楽しいから、それで俺は幸せです」
ウソップが小さく呟いた。
そんな毎日が積み重なって、夏休みが終わろうとしていた。
「だから、断ると言ったでしょう」
「そうかな、だが俺は納得していない」
明日は始業式になるという、夏休み最後の日の昼過ぎ。
俺はかなりマシになった脚の状況を報告がてら、剣道部に顔を出していた。
すぐに帰れるわけもなく、何度目になるのか考えるのも億劫なやりとりを、顧問とぶつけ合うことになる。
「お前は強くなれる器だ。自覚しろ」
「わかっています、怪我は治す。そして俺は自分でちゃんと強くなる、強くなれる。……二言はないです」
「ウソをつけ。お前はフラフラと遊んでる。知ってるぞ、よくわからん後輩のジャリを引き回してるそうじゃないか」
「よくわからんとはどういう意味でしょう。 彼は同校の生徒です」
「お前の害毒になることにも気づかない、鈍い後輩ということには変わらないだろうが」
「……先生、まさかとは思うが、ウソップに……」
「説明したぞ。お前のために引いてくれると言っている。話せばわかる奴だった」
「……畜生!!」
目の前が暗くなるのを感じた。
同時に、寂しげだったウソップの様子にも思い至り、思わず青ざめる。
ウソップは知っていた。
知って、その上で身を引くつもりになっている。俺のためにだ。
けれどどこかに割り切れない気持ちが残っていて。もっと俺と一緒にいたいと願ってくれていて。それで。
……そう、ウソップの想いは強い。
時の流れを押し戻し、夏を繰り返させてしまうほどに。
「ゾロ、どこへ行く、まだ話は終わってないぞ!!」
「それどころじゃない、先生!! 失礼します」
走りながら、俺は必死で考えていた。
なにがあっても俺の気持ちは一つだけだ。ウソップが信じるに至らないから、時の流れが歪んでしまうだけのこと。
何をどう伝えたら、俺の本気が伝わるんだろう。
身をひかれるのが何よりも辛いと言うことと、あともう一つ。
……夏休みのウソップは例えようもなく可愛かったが、この先のウソップのことも、ずっと見守っていきたいのだと言うことを。
己がどう動いて良いかわからないときは、目を閉じて精神を集中するに限ると思う。
……目を閉じたら、ウソップの姿ばかりが浮かんできてしまい、そんな脳内映像より本物の方が何百倍もいいので、とりあえず会おうと思った。
携帯に手を伸ばす。
駄目だ、電話口で泣き声が聞こえるデジャヴに襲われた。
直接会おう、俺は自転車に跨って、ウソップの家を探してペダルを漕ぐことにした。
方向にはあまり自信のない俺が、一度しか訪ねたことがないウソップの家に辿り着くなど、不可能に近い離れ業かもしれない。
いや、そんなはずはない。
自転車で会いに行くことを選択した過去も、両手の数では足りないくらいにあるだろう。
会話は出来ないが、くいなも側で見守っているような気配がある。
……きっとなんとかなる。
結局夜になってしまったが、ウソップの家に着くことが出来た。
さて、ここからどうするか。
ブザーを押す?……駄目だ、居留守を使われるはずだ。
このあたりになると、俺のデジャヴは殆ど先読みの出来る超能力並みに磨きが掛かってきていて、どう行動すればどういう結果に転ぶのか、手に取るようにわかってしまう。
こんなに先がわかるのなら。……いいや、それでも俺は、間違い続けたのだ。
ウソップのためにも、あらためて慎重にならねばと、唾を飲み込む。
家の前で携帯を取りだし、ウソップに電話を掛けた。
当然のように、溜まりまくっている顧問からの着信は、完全スルーだ。
「……ゾロ? どしたの?」
「あのな、ちょっとカーテン開けて、外を見てくれないか」
「外? いいけど」
素直なウソップが開けるカーテンの軽い音が、耳元から聞こえてくる。
「……ゾロ、どうしてここに」
「これで居留守は無しだ。頼むから上げてくれ、話をさせてくれ」
「……うん……」
たっぷり一分後の返事はもの凄く小さい。
この返事にも微かなデジャヴを感じて、俺は気を引き締めた。
ウソップの未来を手に入れるには、まだまだ困難と試練がありそうだ。
時刻は夜の8時を過ぎていた。
早寝が普通の俺にしては、かなり遅い時間だ。
俺の生活リズムを知るウソップは、怪訝な顔をしながら俺を部屋に上げ、座布団を勧めて来た。
礼を言って、胡座で座る。
『ゾロ、最後の手助けだからね』
くいなの声が聞こえた気がした。
同時に、何かがどっと脳の中になだれ込んできた。
『ここまで辿り着いた時の、今までのゾロのイメージ』
『考えて。何が足りなかったのか考えて』
『そして先に進んで。ゾロには未来しか似合わないわ、ウソップ君にも』
……涼やかな声と共に、脳内を四分割して流れるほとんどは、覚えがある事柄ばかりだ。
一つめは、……顧問の言うことは気にするな、俺はずっとお前の側にいると力説する自分の姿。
(そうだ、ウソップは、自分が俺の枷になっていると、悩んで泣くのだ。そしてその夜、時は戻る)
二つめは、……一年出かけてくるから、どうか待っててくれと頼み込む自分の姿。
(ウソップは、すごく不安そうな表情をしている。確かに待っていて貰うには、俺たちの絆はまだ弱すぎる)
三つめは、……話にもならない。俺は掛かってきた顧問からの電話に出て、興奮した上にウソップに諭されて、いつの間にか眠っている。
(ウソップが愛しそうに俺の髪を撫でているのだけが救いか)
四つめは、……これだけがわからない。見知らぬ年かさの女性が、そっと俺とウソップの手を掴むイメージだけが、そこにある。
(亡くなったというウソップの母だろうか。俺にくいながついてるように、ウソップの側には母親が。……時を止めたのは、ウソップを癒そうとする母の力だったのか)
万事は窮したのではないかと、俺は挫けそうになった。
側にいることを選んでも、出かけることを選んでも、どちらにしても時の流れは変わらなかったのか。
……違う。俺がまだ「足りない」だけだ。
ウソップが単なる夏の反芻だけではなく、俺ともっと未来を歩みたいと願ったら。その時にこそ、時は動く。
恐らくだが、俺が間違えば、日付が変わるのを待たずして、9時半頃に時は戻る。
はじめてウソップから電話が掛かってきた時の時刻が、確かその位だった。
ちらりと時計を眺めた。
9時20分、そろそろもうギリギリだ。
『ゾロ……!!』
くいなの声が、また耳に飛び込んできた。殆ど悲鳴だ。
俺は、まだなにもウソップに語ってはいなかったのだ。
正直、言葉でウソップに敵うなどとは思っていない。その意味では、俺は大いに役不足だ。
ただ、一つだけ、どうしても伝えておきたいことがあった。
俺がウソップのことをこよなく愛しているのだと言うことを。
それさえわかってもらえたら、時が戻るにしろ、進むにしろ、この際どちらでも良いではないか。
……また出会いからはじめるのは、正直言って悲しいけれど。それでも、なにがあろうとも、愛しているのだから。
「ウソップ、俺がお前のことを愛してるって、言ったことあったっけ?」
驚いて固まっているところを掴まえる。
「柄じゃないが、言わせて貰う。愛してる」
「お、お、俺も……!!」
「同じだな、良かった」
必死な声で返事するのを、胸に抱き込んだ。
目一杯顔を傾けて、近づける。
柔らかな唇に、食らいつく。
ウソップの喉が、ひゅっ、と苦しげな音を立てた。
解放してやらねばと思いながら、愛しさから離してやることが出来なかった。
長い長いキスが終わって、我に返って時計を見たら。
時計の針は、9時半を回っていた。
「先輩おはよう……あの、お弁当の差し入れです」
「ああ、ありがとう」
あれからのことを語ろう。
このまま時が戻るなら、ウソップを押し倒して、いっそ身体にまでキスしてやろうかと目論んだ、ちょうどその時。
俺の携帯がしつこい鳴り方をした。
顧問からなのでシカトしようかと思ったが、ウソップに促され、渋々出た。
これが驚いたことに朗報だった。
剣の達人ミホークのほうから直々に、この学校を訪ねてくるのだと言う知らせだったのだ。
もちろんすぐに嬉しい知らせをすぐにウソップに伝え、その後は嬉しくなって、俺は馬鹿みたいにキスを繰り返した。
数えては居ないが、多分百回は確実にしたと思う。
嬉しそうにウソップが笑う度に、悲しんで時を戻した過去のウソップが気の毒で、愛おしくて。
とてもじゃないがやめられなかったのだ。
くすぐったくも愛しい、大切な夏の終わりの1日。
あの日のことは、恐らく生涯忘れることはないだろう。
「それから、その……そちらの先生にも、お弁当を。よかったらどうぞ……」
「うむ、かたじけない。馳走になろう」
もちろん時はきちんと流れを取り戻し、新学期から少しずつ部活に復帰しだした俺を、ウソップは影で支えてくれている。
あとは俺が、リハビリしつつ、強さを取り戻していけばいいだけの話だ。
「おお。実に美味そうではないか」
「……って、俺より先に食ってるんじゃねえっ!!」
「心狭きは、強さを退けるぞ、ロロノアよ」
「うるせぇっ!!」
ただ、たまに考える。
もし、もし仮に、このカイゼル髭のやたら強い剣の達人先生が、俺の大切なウソップにちょっかいを出そうというのなら。
なんとか時を止め、反撃の方法を模索出来たりしないだろうかと。
「ゾロ、ゾロには俺が食べさせてあげるから!!」
「……ちっ……。まあそういうことならいいか」
とはいえ目下のところ、差し障りなく時は流れている。
そして俺は、突き詰めれば十二分に幸せな男なのだろうと思うのだ。