08.幼稚園の頃 

September 12 [Wed], 2007, 8:54
幼稚園に入ると今までの問題行動はだんだんなくなり、
母からも手のかからない子だったと言われていました。
そして4歳くらいの時、事件が起きました。




両親の店は昔ながらの商店街にありました。
魚屋、お団子屋、大判焼き屋、帽子屋、洋服屋、花屋
飲食店では、私の父の料理屋以外にも焼肉屋や寿司屋がありました。

私が1人で外を歩いていると洋服屋のお兄さんが遊んでくれたり
魚屋さんが自分の家の子と一緒にお風呂に入れてくれたり
本当に優しい人ばかりの商店街でした。

そんな環境に安心していた両親は、
私の姿が見えなくても殆ど心配はしませんでした。

私を探しに母が外に出れば、商店街の誰かが必ず私の居場所を
把握していました。

ある日私は少し遠くに行ってみようと、商店街の外まで出てみました。
しばらく歩いていると、車が近くに停車。
中には男の人が一人だけ乗っていました。
男は車を出ると、私の身体を抱きかかえ車の助手席に乗せました。

私は何事かわからず、しばらく大人しくしていましたが
だんだん不安になり、とうとう泣き出しました。
「おうちにかえる」と私が泣きながら言っても、
「おうちには帰れないよ」と言うのです。

その途端にものすごく怖くなり、
私は気が狂ったように奇声を発して泣きました。

気が付くと車は止まり、男は私をお車から降ろしました。

私がその場でしばらく泣き続けていると、
自転車に乗ったおばさんがこちらに向かってきます。
おばさんと目が合うと「どうしたの?」と声をかけてくれたので
一部始終を話しました。

状況を把握したおばさんは、近くの交番まで
私を連れて行ってくれました。
交番に付くと二人の警察官がいて、
私はフルネームから電話番号、住所、親の職業までしっかりと伝え
両親が休憩時間に迎えに来ることになりました。

私は幼稚園時代、年齢以上にとてもしっかりしていたらしく
交番でも驚かれたらしいです。

自宅からあまりにも離れていて、子供の足では交番付近まで
いけない事からも、私が何者かに車で連れ去られた事は
間違えないだろう、と、交番の人も言っていたらしいです。



 以下、私が現在思うこと 

私が幼い頃は物騒な事件が今ほどなかった為
親もまったく心配していない時に起きた事でした。
今の時代だったら殺されていたかも、とも思います。

その後、親は私に注意を払うようになったかと言うと
そうでもありませんでした。

親はやっぱり仕事が第一だったので、
私がどこにいてもあまり気にならなかったようです。

幼稚園に入り、問題行動がなくなってきたのは
自分の世界が広がったからかな、と思います。
疲れきった母、冷たい父、意地悪な親戚だけでなく
幼稚園で先生や友達と楽しく過ごす時間ができた事は
当時の私にとってはとても良い事だったと思います。

07.2〜3歳の頃 

September 11 [Tue], 2007, 7:43
2〜3歳頃に通っていた【虫切り】のお話。
これは母に聞いた話ではなく、記憶として残っています。




幼稚園に入る前の2〜3歳くらいの頃だと思うのですが【虫切り】に
何度も連れて行かれたのを覚えています。

『疳の虫』(カンノムシ)という言葉ならば
聞いた事のある人が多いかもしれませんね。
その『虫』を切るお払いのようなものが【虫切り】と呼ばれています。

当時父の乗っていた白の車で、どこかのお寺のような場所に
毎週飲食店の休みの日に連れて行かれました。

お寺に着き、次に覚えているのは、お坊さんが数人出てきた事。

そして親となにやらしばらく会話したあと、
お坊さん達がお経を唱え始めました。
私はお坊さんの前に立たされています。

お坊さんは、見たこともないへんてこな棒を持っていました。
棒の先端に歯車のようなものがついていて、
お経が響き渡る中、お坊さんはこのへんてこな棒の
歯車の部分で、私の全身を何かを切り落とすように
何度も何度も、ザッザッと音を立てながら擦り始めました。

歯車がとがっているので少し痛い…。

お坊さんの声が不気味だった
漠然とした不安
せっかくのお休みの日なのに
もうやだ



 以下、私が現在思うこと 

今になって【癇の虫】とは何なのか気になり調べてみた所、
医学的に言えば小児神経症、漢方の世界では五臓
(肝臓、心臓、脾臓、肺臓、腎臓)のバランスが乱れた状態
らしいです。

具体的な症状 以下まとめ

・睡眠が浅い
・夜泣き
・「ぎゃあーぎゃあー」と全身をドタバタさせ暴れる
・なかなか泣き止まず寝ない
・思い通りにできないとヒステリーに怒る
・何を言っても「嫌だ」と受け付けない
・何でも自分でやらないと気がすまない
・夢にうなされる
・白目が青くなる
・髪の毛の逆立ち     など。

当時の私の行動に当てはまるものはかなり多い気がします。
それらが原因でこの虫切りに連れて行かれたのでしょうが
効果はあまりなかったようです。

ちなみに『先端に歯車のついた棒』によく似たものを見つけました。
裁縫道具の『ルレット』という道具ですがこれにそっくりです。


そんな所に連れて行かなくても
ちゃんと子供として愛してくれていたら
こうはなっていなかったんじゃないかと思います。

06.母の目の異常 

September 10 [Mon], 2007, 4:41
私が赤ん坊から幼稚園に入る前くらいまでの間
母の目に一時的に出ていた障害のお話。



1〜2歳くらいから幼稚園に入る前くらいまでの私の写真を見ると
服の裾に【あお】【きいろ】のように色が刺繍されているものが
いくつかありました。
青の服には【あお】、黄色の服には【きいろ】という刺繍です。
母に何かと尋ねて見た所、その当時母は一時的に色彩を
判別できなくなっていたのだそうです。

すべてがグレースケールで見えてしまうらしく
暗い色か明るい色かは分かるものの
何色なのかがまったく分からない状態だったそうです。

私に服を着せる時も、色がわからない為に
おかしな色の組み合わせで着せてしまう事があった為、
母の友達がこっそり私の服を取りに来ては持ち帰り、
服の色を刺繍してくれたのです。

色が識別できなくなってしまった母は
その刺繍に書いてある文字を頼りに
私に着せる服を選んでくれました。



 以下、私が現在思うこと 

目の障害はやはり極度な疲れとストレスのせいかと思います。
そういう症状が出たりする病気があるのかどうか
今まで調べた事がなかったので、今度調べてみようと思います。

そのような極限状態でありながら
服を選んであげようと思えるのはやはり 『 母 』 だからでしょうか。

親になった事がないので分かりません。

05.1生後数ヶ月の頃 

September 09 [Sun], 2007, 3:30
母から聞いた、私が生まれてまだ赤ちゃんだった頃のお話その3。
ハイハイをするようになってからのお話。多分1歳未満くらい?



私がハイハイするようになり、二階の階段から下の店まで
転がり落ちたことがありました。
多分生後数ヶ月〜1歳未満の事だと思うのですが、
私は今でもなんとなくこの時の事を覚えています。

階段には簡単な柵のようなものは付いていたものの
体が小さかったのでその隙間から落ちてしまったのです。


それ以来、私は幼児用の歩行器に乗せられ、
更に紐でそこから落ちないように縛られた状態で
二階の住居で朝から夜までを過ごす事になりました…。

母が2階に用事で上がったついでに私を見ると
縛られたまま歩行器ごと倒れ
体が不自然に曲がったままの状態で
顔は涙と鼻水でぐちゃぐちゃの私が眠っているのです。


昼間誰もいない二階の住居で寝てしまう私は
両親が仕事を終える時間になると決まって目を覚ますようになっていて
夜中の間中、まったく寝付かず泣きっぱなしで母を困らせました。

母は疲れた体に鞭を打って、私をおんぶすると
私が再び眠りにつくまで、町内を歩き回り
そのまま朝になってしまう事もありました。

そしてまた、次の日の仕事が始まり
母は一睡もしないまま仕事をする事もあったそうです。



 以下、私が現在思うこと 

私の母は、父親を3歳で無くし
母が幼い頃はまだ、方親な事がみっともない事であった為
母も子供の頃から相当な苦労をし、
そして結婚後も苦労の連続でした。

母自身の事なのでここには書きませんが
他にも色々あったそうです。

多分、母もアダルトチルドレンだと思います。

04.生後しばらくたった頃 

September 08 [Sat], 2007, 3:38
母から聞いた、私が生まれてまだ赤ちゃんだった頃のお話その2。
生まれてしばらくたった頃のお話。



私はものすごく神経質な赤ん坊でした。
前にも書いたように、水滴のたれる音で目を覚まし泣いたりしては
忙しい母を困らせました。

夜、父と母が仕事を終え、住居である二階にいる時も
私は泣きっぱなしだったそうです。

父は私がひっきりなしに泣くのが気に入りませんでした。
そして父の我慢が限界に来ると
私は押し入れに入れられ、戸を閉められたそうです。

日の陰る夕方から、電気もつけてもらえず
夜、両親の仕事が終わり、やっと明るい部屋で過ごせる時間になると
今度は押し入れに入れられ、戸を閉められる。

母の手の空く深夜遅くまで、
私は押し入れに閉じ込められていたそうです。



 以下、私が現在思うこと 

今でこそ週休二日が常識になっていますが
自営業ともなるとそうはいきません。
父の経営する飲食店は、朝は8時半から仕込みを開始し、
営業終了が夜10時、後片付けが終るのは夜11時過ぎ。
休みは週に一度きり。

父は仕事の文句をいう事もなく、
飲食店の経営者としては立派な人でした。
しかし、父親としてみた時には失格だったと思います。

父は、私と母を愛してはいませんでした。
父が愛していたのは
父を生んだ両親と父の姉達(私の祖父母と叔母達)でした。

本来、人は結婚をすると
自分を生んでくれた親、兄弟とは
親戚付き合いになります。
そして結婚相手とその子供が、新たな 『 家族 』 になるのです。

しかし、父にとっての 『 家族 』 は、私と母ではなく
いつまでたっても、父を生んだ両親と、父の姉達だったのです。

結局、私と母は、父の飾りでしかありませんでした。


夕方の暗い部屋
真っ暗な押し入れの中

私はどんな気持ちで時間を過ごしたのでしょうか。
思い出せません。

03.生まれて間もない頃 

September 07 [Fri], 2007, 1:10
母から聞いた、私が生まれてまだ赤ちゃんだった頃のお話。その1。
長くなるのでいくつかに分けて書く予定です。



結論から言って、私の父とその親兄弟(私から見た祖母、祖父、叔母)達は
私が生まれた事が、ものすごく気に入らなかったようです。

私の母は父が経営する飲食店の仕事と、
父の両親(私の祖母、祖父)の世話で
毎日早朝から夜中まで働き詰めでした。
そんな所に私が生まれ、母親としての仕事も加わりました。

まだ、生まれたばかりで身動きの出来なかった私を
飲食店の二階にある住居で寝かせたまま、朝から夜まで働き
トイレなどの用事で2階に上がってきたついでに
(お店の方にあるトイレはお客専用で、
従業員は2階の住居のトイレを使ってました)
ミルクやおむつの世話をしていたらしいです。
どんなに私が泣き喚いても、祖母たちの許可がないと
私のいる二階の住居にはこれなかったそうです。

早くもその頃の私はとても神経質になっていたらしく
眠っていても水道から水滴が1滴落ちた音で目を覚まし泣いて困ったと
母から聞いています。

ある日の夕方、母がトイレと私のミルクやおしめの面倒を見に二階へあがり
用事を済ませ、薄暗くなりはじめた部屋の電気をつけたまま
下の店に戻りました。
これから真っ暗になる部屋に、生まれたばかりの赤ちゃんである私を
1人置いて行くのだから、せめて電気はつけておいてあげようと
思っての事でした。
するとすぐに父の姉が二階へあがり、今つけたばかりの電気を消して
店に戻り母に怒鳴りつけました。
「電気代がもったいない!」
それから母は私の為に電気をつけることさえ禁じられ、
母が仕事を終え二階に上がると、私は真っ暗な部屋の中で
泣き疲れ眠っていたそうです。

おむつをまめに変えてもらう事もできず、
おしっこやうんちの匂いが充満した真っ暗な部屋の中で
泣く事にも疲れて眠っていた。
これが毎日続いたそうです。



 以下、私が現在思うこと 

こうして母から聞いたことを今現在大人になった私が書いていて
生まれた頃の話だと言うのに涙が出てきます。

信じる方法 

September 06 [Thu], 2007, 9:09
昨日も大事な人と言い合いをしてしまいました。

それは私が人を信じることが出来ないからで、
相手は何も悪くないのですが。

でも信じる方法を知らない私には
信じる方法がわからない。

思い出してみると、20歳くらいまではそれでも
人を信じる方法を覚えていたような気がします。
いつのまにかその方法がわからなくなって、
それは丁度初めて診療内科に駆け込んだ時期と
ぴたりと一致している。

だから厳密には
【信じる方法を知らない】
のではなくて、
【いつのまにか信じる方法を忘れてしまった】
なのかもしれません。

相手を傷つけてしまっているかもしれないけど
私も苦しいです。

体が弱い 

September 05 [Wed], 2007, 15:28
子供の頃から体が弱く、それは今でも続いています。

ここ2週間近く微熱が出ては下がり、を繰り返して
それと同時に気分も滅入りがち。

最近また過食気味になって、
まったく美味しいとも感じないどころか
気持ち悪くて吐きそうなのに食べてしまう。
なぜか食べている時は無心でいられて
落ち着くというかなんというか。

太りたくないと思いつつ食べ
また自己嫌悪で落ち込んで、を繰り返し。

これはアダルトチルドレンだから、ではなくて単なる甘え。
自分をコントロールできるようになる為にも
意識して食べないよう、しばらく心がけよう。

02.結婚後-誕生まで 

September 04 [Tue], 2007, 12:46
母から聞いた、父と母の結婚後から、私を出産するまでのお話。




私を生む前に一度、母は妊娠をしたそうです。
しかし 「店がこんなに忙しいのに」 と祖母に責められ
そして父も店を優先して降ろす事を望み…。
結局、私の兄か姉になるはずだった人はこの世に誕生しませんでした。

その2年後、また母は妊娠。
これが私です。

店の方もある程度落ち着き、祖母・祖父から出産の許可が出て
母は私を出産する事になりました。
しかし「妊娠は病気ではない」との理由で
私を生む前日まで母は店に出て働かされたそうです。

日々の過労で陣痛が酷く、母は出産の途中で気絶し
結局私を生んだ記憶はまったくないと言います。

気が付いてみると、私はもう生まれており、
横に設置された保育器の中で眠っていたのだそうです。


出生時体重、2550グラム。
仮死状態で誕生。
母が23歳の時。


通常なら体力の回復を待ち数日してから退院するらしいですが、
母は出産の翌日、祖母の迎えで無理やり店に戻らされました。

出産間際まで仕事をしボロボロの状態で出産し、
出産した記憶さえない状態の所に、祖母の迎え…。

当然のように担当医は祖母を止めたそうです。
しかし祖母は「私も子供を産んでいる。出産は病気ではない」
と言い張り、結局母はボロボロの体のまま、
家に連れ戻されてしまったそうです。



 以下、私が現在思うこと 

飲食店の仕事に、祖父母の食事の支度、
休みなく朝から夜中まで働いた母は
出産前日まで働いて、出産の翌日家に戻され
本当にボロボロだったんだろうと思います。

先日の日記にも書いた通り、体重は30キロ台にまで
落ちていた事からも想像が付きます。

どうしてそんな思いをしてまで離婚しなかったんだ、と
母に問いただしてみたところ、
母は自分の父親を生後3ヶ月でなくし、父親がいない為に
酷いいじめにあった経験があるので
どうしても片親にする事だけは避けたかったから、と言ってました。

ですが今になって思えば、
母の「離婚しない」という選択は間違えだったと思います。
もちろんそれは、今だから言える事であり、
今更言っても仕方の無いことではありますが。

離婚していた方が、母も私も幸せになれた可能性が
大きかったと思います。

母も20歳で結婚した事もあり、
まだまだ世間知らずで、流されるままになってしまっていた部分も
大きかったのではないかと思います。

それから。
医学が発達し、本来死ぬべき人間が死なずに生きれる世の中です。
私自身も仮死状態で生まれてきたらしいので
本来は死ぬはずだった命なのかもしれません。

本来死ぬはずだった弱い命は
普通の人が普通に乗り切る事ができるハードルを
乗り切る事が困難で、こうして鬱になったり
生きる気力がなくなって消えたい気持ちになったり
するんじゃないかな、と思ったりもします。

01.両親の結婚 

September 03 [Mon], 2007, 3:05
母から聞いた、父と母が結婚した当初のお話のまとめ。




父には姉が3人います。
女・女・女・と生まれ、最後に待望の後継ぎとして生まれたのが父。
末っ子の長男である父は考えられない程に過保護に育ったらしいです。

父は母と交際中、自分の小さな飲食店を持ちました。
そこには父の両親(私からみたおじーさんおばーさん)
それから父の姉二人(私からみたおばさん)が一緒に働いていました。
(もう1人の姉は他界)

そんな所に嫁に入った母。当時まだ20歳。
明け方から深夜まで働き詰めて、休みの日は義姉・義親の面倒と
毎日目が回る程の忙しさだったそうです。

私の父を溺愛していた父の母(おばーちゃん)は私の母に向かって
「あなたから子供を求めないでくれ。(つまり子供作る行為してくれるなと)
 もともと何処の馬の骨とも解からない娘をもらうつもりはなかった。」
そんな事まで言っていたらしいです・・・。

飲食店の休憩時間に食べる食事も母だけ違う場所で取らされ
母が方親であった事を罵倒されたり
(私の母が3歳の時にお父さんを無くしたそうです)
苦しい思いを沢山して、体重が30キロまで減ってしまっていたそうです。



 以下、私が現在思うこと 

私は小学校高学年くらいから、毎日のように、
母からこんな話を聞かされながら育ちました。

今になって、こうして母から聞いた事を思い出してみても
胸が苦しくなるような、なんとも言えない気持ちになり
自分で書いた文章にも関わらず目を背けたくなります…。
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